要求定義


人々は、経済に何を求めるのか



一体全体我々はこれから何をしようとしているのか。それを明らかにする必要がある。それが要求定義の目的でもある。我々は、経済の何を測ろうとしているのか。何を知ろうとしているのか。それは経済に何を求めているのかによって定まる。
故に、まず第一に、経済に対してどの様な要求を持っているのか。第二に、経済について何が知りたいのか。それを明らかにし、定義する必要がある。それが、経済における要求定義である。

前提が違うのである。前提を間違えば、当然、答えは違ってしまう。経済でいえば、経済は歪む。経済状態が歪んでも前提に間違えがあれば検証の仕様もない。検証の仕様がなければ正しようもない。誤診をしていたら正しい処方箋はかけないのである。
世の中を豊かにする事が経済の目的だとしたら、世の中は、本当に豊かになってきたであろうか。
一体豊かさとは何なのか。それすら明確に定義されているわけではない。現代の生活水準は、食事一つ見ても、近代以前の食生活からすれば大名の食生活以上である。確かに、お城のような邸宅に住んでいるわけではない。それでも、単純に食生活や住宅環境だけ比較しても、格段に快適になっている。食べる物がなくて餓死する者もいない。住む家のない路上生活者も昔から比べれば少ない。家だってお城に比べて狭いかもしれないが、気密性は高く、隙間風に凍える事はない。娘が売られる事もない。
しかし、現代人は、それを豊かだと感じているであろうか。心はかえって貧しくなっているのではないのか。足らざるは貧なり。豊であるかないかは、単に物質的な問題だけでなく。心の問題でもある。
今は、生活のために体を売るのではなく。遊ぶ金、欲しさの為に体を売るのである。

産業革命以前の経済は、物不足であった。故に、経済は即物的な問題であった。いくら「お金」があっても食べる物がなければ飢えたのである。江戸時代、大飢饉の時、大金を抱いて餓死した者の記録が残っている。
産業革命は、生産革命であり、商業革命であり、農業革命であり、医療革命であり、エネルギー革命であり、交通革命であり、通信革命であった。そして、現在は、これに情報革命が加わる。
その根源に科学技術の発達があった。多くの人々は、神が解決して下さらなかった事を科学技術が解決したと錯覚した。それは人間の驕りである。自然科学も所詮は神の摂理を解き明かしたに過ぎない。人間は、生病老死の本源的な苦しみからは、解放されていないのである。経済の本源は生きる事である。
科学技術の発達は神の恵みである。神に対する感謝を忘れたら人間は神の恵みを活かす事は出来なくなる。神の力を手にしても神になれるわけではない。驕り高ぶれば、手に入れた神の力によって滅びる事になるであろう
誰のための科学技術なのか。人を活かすための科学技術なのか。人を破滅させるための科学技術なのか。それを決めるのは神ではなく、人である
産業革命以前は、物が常に不足していた。故に、豊かさと言えば、即物的で物質的な豊かさを指した。
産業革命以前は物が不足すれば死活問題となった。飢饉になれば、即、餓死者が出た。だからこそ生存するのに欠く事のできないものが不足したら戦争にもなったのである。戦争の根源的原因は物不足である。
また、疫病が流行れば壊滅的な被害が出た。十四世紀には、ペストによって欧州では人口の三分の一から三分の二程度が減少したとさえ言われる。人口の減少は、即、経済問題となる。なぜならば経済の基盤は人だからである。
産業革命以前の経済の問題は、人と物の問題だったのである。
産業革命によって慢性的な物不足から解放され、その結果、人口は爆発的に増えた。増産された資源を増加した人々にいかに公平に分配するか。分配の手段が「お金」である。現在の豊かさは、「お金」の問題である。
食べる物が豊富にあっても「お金」がなければ手に入らないのである。いくら、価格を下げても失業者ばかりでは売り上げは増えない。欲しくないのではなく。「お金」がないのである。
「お金」は、分配の手段である。故に、今日の豊かさの問題は、分配の手段の問題である。

人々は、経済に何を求めているのか。
これは本源的な問いである。しかし、この本源的な問いを多くの人は忘れている。そして、目先の利益ばかりを追いかけている。だから、真実が見えてこないのである。
人々が経済に何を求めているのか。成長なのか、安定なのか、競争なのか、助け合いなのか。争いなのか、平穏なのか。効率なのか、余裕なのか。その辺をはき違えたら、経済の在り方や最終目的そのものを取り違えてしまう事になる。
現代人は、経済の本質を成長や競争に求めている。しかし、それは正しい事であろうか。なぜ、経済は、成長と競争を前提としなければならないのか。
そこからして私は間違っていると思う。前提条件が明確とされていないのである。
成長は、状態である。成長も競争も不変的な原理ではない。相対的な事である。
前提を明確とせずに結果ばかりを追い求めている。それでは対策の立てようがない。対策どころか検証のしようもないないのである。
なぜならば、結果に対する検証は人々が何を経済に求めているかに基づかなければならないからである。経済は、合目的的行為の結果である
経済は、生きる為の活動である。
だから、経済の目的は、生きる事だと言って差し支えない。
生きる為に必要なのは、食料や、住む場所、そして、寒さを防ぐ為の衣服等である。「お金」は、食べ物や住む家、衣服を手に入れる為の手段であって目的ではない。手段である「お金」を目的化してしまった事に現代社会の病巣はある。現代人は、「お金」の幻想に囚われ、「お金」に振り回され、「お金」に使われ、挙句、「お金」に支配され、呪われ、報復されている。
現代社会では、食料や住宅、衣服を手に入れる為に「お金」は、必須である。だから、「お金」が全てであるように錯覚している。しかし、生きていくために必要なのは、食料であり、住宅であり、衣服である。「お金」は、それを手に入れる為の手段に過ぎない。
ではなぜ、人々は、「お金」を全てであるかのように錯覚しているのか。それは、市場制度の仕組みが予め、「お金」を配分し、その「お金」を使って、生きていくために必要な資源を、市場から調達しなければならないようにできているからである。だから、分配の仕組み、即、「お金」を獲得する仕組みになっているのである。
しかし、「お金」は、手段である。手段である「お金」を目的化してしまったら「お金」の真の効用を発揮する事が出来なくなる。

人々が求めているのは、自分や自分の家族が生きていくために必要な資源、即ち、食べ物や家や衣服である
これこそが経済の原点である。
「お金」は、生きていくために必要とする食べ物や衣服、家を手に入れる為の道具、手段であって、最終的に求めているのは、「お金」ではない。
では人々が経済に求めるのは、何か。第一に、持続性である。第二に、安定。第三に、生産性。第四に、公平性。第五に充足度、第六に流動性、第七に、伸縮性である。
先ず人々は、生きる事を求め、次に、豊かさを求める。多くの人々が求めているのは、変化より安定である。

経済で求められるのは密度である
豊かさも密度によって測られる。密度は、質と量からなる。即ち、豊かさは、質と量によって測られるのである。

採算性や成長性は、「お金」を市場に循環させるための指標である。時間価値に係る指標である。
つまり、「お金」を基準とした指標である。成長や競争が求められるのは、「お金」の都合なのである。その点を理解しないと成長や競争の働きの意味を理解する事はできない。
「お金」の指標としては、「お金」に求められることを考えた場合、成長性とか、採算性よりも回転率とか、循環性、流動性の方がより本質的である。

戦争や内乱といった社会問題、地震や台風、温暖化等の問題、少子高齢化と言った人口問題、これらの問題の根本は経済問題である。戦争や内乱は何によって引き起こされるのか。かつては、生きていくために必要な資源が不足する事が争いの原因だった。
しかし、今日の戦争や内乱は、「お金」が原因である事が多い。生活に必要な物は、過剰なほど生産されている。それなのに現代の戦争は大規模なものになる。複数の国が入り乱れて戦う、全面戦争である。戦争は悲惨である。物で溢れているというのに、戦争や内乱は絶えない。それは、経済が本来の目的を見失っているからである。
一方で大量な食料が廃棄されているというのに、他方で飢餓に苦しむ人がいる。それは分配の仕組みが正常に機能していないからである。経済は、生産だけの問題ではなく分配の問題でもあるのである。

人々は、経済に何を求めるのか。この点が肝心なのである。
多くの経済指標が経済成長とか、物価とか、景気とかに偏りがちだが、経済を計る指標としては、人々が経済に何を求めるかそれが一番の指標なのである。この点を明確にしておかないと経済を測る基準として何が核となるかを見誤る事となる。

もう一つ注意しておかなければならないのは、人々が求めている事と顧客第一主義は違うと言う事である。
顧客と言うのは、特定の企業が販売相手、販売見込み相手を指す。それ自体が国民すべてから見ると一部に過ぎない。また、顧客と言うのは、経済全体の過程の一断面に過ぎない。顧客は、消費者である。しかし、消費者は、労働者であり、給与所得者でもある。顧客本位とひたすら低価格を追求すれば雇用や所得を圧迫する。雇用や所得が減れば結局顧客が失われるのである。

人々が経済に求めるのは、安定した生活がおくれて、それが長続きし、豊かで、公平な世界である。そして、市場はいつも満たされている必要がある。充足している必要がある。また、欲しい物が常に手に入らなければならない(流動性)。誰も、憎しみ合い、争い合い、盗み合い、騙し合い、裏切り合い、殺し合う社会なんて望みはしない。信じあい、助け合い、愛し合い、感謝する事のできる社会こそ望んでいる。
しかし、信じあい、愛し合う社会なんてありえない、嘘だという。ならば、憎しみしかない社会だって同様にあり得ない。だとしたら、我々が目指すべき社会は、信じあう事のできる社会ではないのか。少なくとも、求めるべきは、成功と引き換えに「お金」で友を売るような、そんな裏切り行為のない社会である。

豊かさの基準は、相対的な基準である。今日の豊かさの基準は、「お金」の問題である。なぜならば、現代は、「お金」が経済を支配している上に、「お金」は分配の手段だからである。分配は、全体と部分の関係、即ち、全体に部分が占める割合によって決まる。故に、今日の豊かさの基準は相対的なのである。
市場は、経済の需要や供給、人口などによって伸縮する事が求められる。市場は、経済の成長に従って拡大し、経済の成熟に従って収縮する必要がある。そうしないと需要と供給の均衡が保てなくなる。

そして、人々が経済に対して何を要求しているかと言う問いに対する答えの上に、経済の仕組みは、成り立っている事を忘れてはならない。

ともすると現代の経済分析は、「お金」ありきの傾向がある。しかし、経済の本質は、「お金」ではない。人々の生活である。経済は生きる為の活動なのである。
「お金」は、現在の経済を成り立たせるための手段に過ぎない。

では経済とは何か人々が経済に求めている事は何か。この点を明らかにする必要がある。
経済は、生きる為の活動である。生きることそのものが経済の目的だと言ってもおかしくない。
故に、経済は、生きる為に必要な資源を調達、あるいは生産して人々に分け与える事だと言える。
つまり、いかにして、生きる為に必要な資源を調達、あるいは、生産して、どの様にして人々に分け与えるかが経済の最大の課題だと言える。

市場経済では、働きに応じて「お金」を組織的に配分し、配分した「お金」で市場から財を購入する事で分配は完結する。
「お金」は分配の手段である。経済の目的は、人々の生活に必要な資源を調達、あるいは、生産し、人々に分かち与える事である。

即ち、市場経済における経済の問題は、いかに「お金」を分配するかと言う問題と、いかに、生産と消費とを結び付けるかの問題の二つがあるのである。ところが、この二つの問題は、明確に意識されているとは思えないのである。

「お金」が生まれるずっと以前から経済は営まれてきた。貨幣制度の歴史は、人類の歴史から見ればほんの一瞬に過ぎない。「お金」が生まれる以前の経済は、人と物との関係の上に成り立ってきた。
現在は、全ての経済的価値を「お金」に還元しようとしている。しかし、経済的価値の中には、「お金」に換算できない事が多く含まれている。「お金」が経済的価値の全てではない。
現代は、全ての経済価値を「お金」に還元しようとしている。「お金」がなければ生きる事さえできなくなる。
そうなると全ての国民に「お金」を供給し続けなければならない。「お金」を全ての国民に供給し続ける事が国家の責務となる。
「お金」を供給する手段は費用である。利益は、収益と費用の均衡を計る指標である。利益のみを追求して、費用は、無駄だ邪魔だと削減したら、「お金」を供給する事が出来なくなり、市場経済は成り立たなくなる。費用の働きを見ずに費用は悪だとするのは暴論である。収益と費用こそ分配の要なのである。
私は、「お金」に価値を認めない。真の価値は、「お金」が指し示す対象、人と物にある。貨幣価値は、交換価値を表象しているのに過ぎない。交換価値を表象しているだけだから「お金」は、中立的な働きができる。また、「お金」には、匿性がある。「お金」の本質は、働きにあるのである。
「お金」が上手く機能しなくなったら原点である人と物の関係に立ち返ればいいのである。

成長は、経済の一局面を表しているのに過ぎない。飛行機が離陸し、上昇している時のような。しかし、飛行機も何時までも上昇を続けることはできない。一定の高度に達したら水平飛行に切り替え、その後は、巡航飛行をし、目的地に着いたら下降して着陸する必要がある。飛行時間や飛行距離の中では、巡航飛行の時間や距離の方が長いのである。
同じ様に経済も上昇し続ける事はできない。成長は、経済の一断面に過ぎない。経済が成熟したら安定した経済に切り替えなければならない。成長は、変化の一つに過ぎないのである。
人間の身長も一定の年齢になったら止まる。それが悪いと言って無理やり身長を伸ばそうというのは愚かである。自分の身長に合わせて服を作ればいいのであり、衣服に合わせて身長を伸ばしたり縮めようとするのは馬鹿げている。

スポーツ選手でプロになれるのは一握りである。更にプロで成功するのは、限られている。プロスポーツの成功者のためにスポーツがあるわけではない。テッペンを極める事だけがスポーツの目的ではない。プロと言っても学校の先生もプロだし、トレーナーやコーチもプロである。
スタープレイヤーだけでは、スポーツの世界は成り立たない。広い裾野にスポーツは支えられている。
経済は、限られた成功者の為にあるわけではない。経済は、万人を生かす為にある。
豊かになる権利は、成功者だけに与えられるものではない。全ての人民に与えられるものである。
ならば豊かさとは何か。豊かさの基準が問題なのである。問題ではあるが正解があるわけではない。だから経済学が求められるのである。
前提を間違ったら、後は無意味である


「お金」儲けや成長は目的ではない。「お金」儲けは生きる為の手段であり、成長は、経済過程の一断面に過ぎない。成長は状態を意味しているのに過ぎない。飛行機が上昇している時は、それに合わせた操縦をすべきなのである。水平飛行に移ったら操縦の仕方も変える必要がある。水平飛行すべき時に、上昇する為の操縦をすればすれば飛行機は制御不能に陥る。着陸する時は、降下する操縦をすべきであって上昇する為の操縦をすべきではない。
成長している時と成熟している時とでは、前提が違うのである。何を問題とすべきかが間違っているのである。
変えられない事は、変えられないのである。それは前提条件である。満腹の時と飢えている時とでは状態が違う。満腹な時に強引に食事をさせようとすること自体無理なのである。未成熟な市場と飽和状態の市場とでは、市場の振る舞いは違ってくる。自分たちの都合では、市場の状態は変えられない。
変えられない前提条件に従って何を問題とするのか、それを考えるべきである。
「お金」儲けや成長を問題とするのではなく。
人々が今何を求めているのか。何を必要としているのかを問題とすべきなのである。

そして、人間として望むのならば、自分の価値観、道徳観に反したことが強要される事のない社会である。魂を「お金」で売ったと言われることほど自尊心を傷つけられることはない。
人として望むのは、「お金」のために、自分の生き方を変えないで済むような経済である。

経済は、生産だけでなく、分配や消費からもなる。


経済とは、生きる為に必要な資源を調達、あるいは、生産して、全ての人々に分け与える事である。
生きる為に必要な資源が調達、あるいは、生産できなければ、武力をもって他者や他国から奪い取る事も経済行為とみなされる時代があった。戦争や略奪、海賊などの行為さえ経済としてみなしていた時代がある。しかし、今日では、基本的に平和的手段を経済と言う
豊かな国は、防衛的となり。貧しい国は、攻撃的になる。
「お金」は、手段である。目的は、あくまでも、人々が、生きる為に必要な資源を調達し、あるいは、全ての人々に分け与える事である。故に、経済の目的は、人々を生かす事と言える。
幼児や、老人の様に一人では生きていけない人達がいる。その為に、人類は、集団を形成していた。集団は、組織へと発達し、人間は、社会を形成して生きるようになった。つまり、経済は社会的行為である。人は、社会的動物である。
かつては、「お金」が全てではなかった。経済は、貨幣取引のみで成り立っていたわけではない。「お金」が活用されるのは、経済全般から見れば一部であった。元来は、「お金」のない世界、生きる為に必要な資源は、自給自足されていた。
今日では、高度に貨幣経済が発達し、「お金」が全ての経済行為を動かしようになってきた。それによって経済は、「お金」に支配され、経済は貨幣的現象として捉えられるようにはなってきている。しかし、経済の本質は、人々が生きていくために必要な資源を調達、生産し、全ての人々に分け与える事に違いはない。
「お金」が経済行為の全てを支配するようになると経済は、貨幣的現象に振り回される事になる。インフレーションもデフレーションも貨幣的現象であり、経済的要求の多くが「お金」に起因するようになる。なぜならば、国や社会が、「お金」なしでは生きられない仕組みになってしまったからである。
「お金」は仕組みによって効用を発揮する。「お金」は、仕組みに従属した手段なのである。「お金」は、貨幣制度という仕組みがあって機能するのである。
「お金」は、分配の手段であり、いかに、どの様な手段、何を根拠として、どの様な基準で、「お金」を配分するか、その仕組みによって「お金」の働きは制約される。

現代人は、経済の生産と言う側面ばかりに捉われて分け与えるという事を忘れているように思える。いくら大量に生産しても分配という仕組みが機能していなければ経済は成り立たないのである。
「お金」は、「お金」である。食べる事も、着る事も、住む事もできない。楽しむ事も、鑑賞する事もできない。「お金」だけでは、生きていく事はできない。つまり、経済は成り立たないのである。

社会的分業を前提とした市場経済では分け与える、即ち、分配と言う働きが根幹となる。つまり、いかに「お金」を公平に分配するかが、経済が円滑に機能するか否かの鍵を握る。そうなると費用が肝心となる。

生産部門で分配と言う働きを担うのは、収益と費用である。利益は、収益と費用の均衡を測る指標である。利益ばかりを追求すると収益と費用の均衡が破れる。
現在の市場で問題なのは、収益力の低下なのである。収益が低下すると適正な費用を負担する事が出来なくなる。
製造業の弱体化は、生産部門が、価格破壊によって価格の決定権を失った事にある。生産部門が価格の維持が困難になれば、量産によって補う以外なくなる。そして、経費の徹底的な削減であり、その時、真っ先に俎上に乗せられるが人件費なのである。

費用を単純に無駄とか、悪だとするのは間違いであり、費用こそ、経済の要なのである。問題は、適正な費用であるかないかである。

費用で一番重要なのは、人件費である。人件費こそ分配の働きの枢軸だからである。必然的に雇用が鍵となる。雇用がなくなれば分配は正常に機能しなくなるからである。
極端な効率化は、市場経済の息の根を止める。経済を生産と言う局面からのみ見ていたら本質を見失ってしまう。むしろ重要なのは分配である。
分配と言う局面から見ると全ての国民が生活する為に必要な所得をどの様にして提供するかが肝となるのである。

現在問題とされているのは、むしろ過剰生産、供給過多である。食べきれないほどの食料を生産し、大量の廃棄物を出している。その反面、資源問題や環境問題、温暖化問題、健康問題などを引き起こしている。肥満対策に多くの国は頭を悩ましているのに、一方で漁業資源の枯渇が心配されている。人口爆発が叫ばれたかと思うと少子化が問題となる。
人口の増加がいいか、悪いか、または、人口の減少がいいか、悪いかではなく、その前提や状況によるのである。一概にいいとか、悪いとか決めつける事はできない。言い換えれば、やりようによっては、良くも、悪くもできる。

経済は、本来、調達した、あるいは、生産した資源をいかに最適的に分配するかの問題なのである。
「お金」は、その為の手段であって目的ではない。ところが「お金」が目的化したところに今日の経済の歪みがあるのである。いつの間にか「お金」が主となり、物や人は、従になってしまった。経済は、本来、人や物が主であり、「お金」は、従なのである。
「お金」は、分配の手段である。ところが「お金」儲けが優先されて分配と言う機能が蔑ろにされている。その為に、一部の人間が利益を独占し、「お金」が人々に行渡らなくなってきた。
市場経済の鍵は、「お金」を何らかの対価、報酬として予め分配する事にある。「お金」の分配が滞ったら市場は機能しなくなるのである。だからこそ雇用は経済の重要な指標とされるのである。
企業や公的機関は、生産的機関であると同時に、「お金」を分配する為の機関でもある。企業は、収益と費用との関係によって「お金」を分配する。
利益は、分配の効率を表す指標の一つである。利益そのものは目的とはならない。
利益を求めて効率化を計り、無人化を推進すればするほど、雇用は失われ、分配の機能が働かなくなるのである。

人工知能が将来人間を脅かすと怖れている人々がいる。しかし、人間が恐れなければならないのは、人工知能よりも無人化である。なぜならば、無人化は、経済から、人を排除するからである。
費用で一番「お金」がかかるのは、人である。なぜならば、経済は、人の為にあるからである。
無人化する意義と目的を明確にし、無人化する事によって経済にどのような影響があるかを明らかにする必要がある。
経済とは、「お金」がかかるものなのである。「お金」がかかるから経済は成り立っている。それを忘れてしまえば、市場経済は衰退するしかないのである。

経済の根本は、生活である。


経済の状態を計る指標として成長性とか、収益性とか、採算性とか、効率性と言った指標がよく取り上げられる。しかし、本当に人々は、成長性とか、収益性とか、採算性とかを重視しているだろうか。
多くの人は、生活が安定していることを望むであろう。どちらかと言えば多くの人は保守的なのである。
今の生活が成り立っていない、食べていけないほど困窮している場合は、別だが、そこそこの生活が出来ていたら今の生活が持続する事の方を望むであろう。ついでに、生活に余裕が出来たら、老後や病気など将来のリスクに対していくばくかの貯蓄をしたいと考えるのが一般的である。
多くの人は、慎ましくて堅実な生活を求めるものである。大体、多くの宗教は、贅沢を戒めているくらいである。

多くの人々は、変化より安定を求めている。成長や競争は、変化を基とした思想である。多くの人々は、成長や変化を求めてはいない。
人々にとって波乱万丈より平穏無事が望ましいのである。生活は日常的な事である。日常生活は、波風が立たない方がいい。お祭り騒ぎは非日常的な出来事なのである。毎日、ご馳走を食べたら、それが日常的な事になる。不健全である。

現代社会は、成功者やスター、天才ばかりに脚光を当てる。人々を競わせ、優劣をつける。成功者は善で敗残者は悪であるように。世の中は、スターや天才になれない人間の方が圧倒的に多いのである。
何万にいるような大企業で社長になれるものなんて限られている。しかし、社長だけのために企業はあるわけではない。そこで働く何万人もの社員、全員のために会社はある。また、そこで働くすべての人達の生活を成り立たせるのが会社の役割なのである。トップたるものは、その責任を自覚していなければならない。
我々の世の中は、一握りの天才やエリートのためだけあるわけではない。欠点だらけで、変わっていて、平凡か、平凡以下の人間に仕事を作り、まっとうな人生を送らせ、普通な人たちに必要な物やサービスを提供する。そうする事によって自分たちの生活も成り立っている。
天才やスターだけに幸せになる権利があるわけではない。何の変哲も取り柄もない人間にだって幸せになる権利はある。無能な人間だって幸せになる権利はある。それが経済である。

天才やスター、成功者は、幸せかと言えば、全ての天才やスター、成功者が幸せと言うわけではない。「お金」があれば幸せになれるとは限らない。幸せになることを目標とできない経済なんて何なのだろう。やはり、生きるの目的で一番なのは、幸せになる事である。だからこそ、経済の目的は、「お金」儲けにあるわけではない。ただ、「お金」は、ないよりもあるに越したことはない。しかし、「お金」のために幸せな生活を犠牲にするのは本末転倒である。
目的は、幸せになる事であって「お金」儲けはその手段なのである。
大豪邸を、いくつも、もっていたとしても、自分の使える部屋は限られているのである。
起きて半畳、寝て一畳、それだけあれば生きるためには充分である。

人々にとって大切なのは自分の生活である。

多くの人は、日和見主義であり、事なかれ主義である。競争や争い事は、なるべく避けたいと考えている。
ところが、多くの経済学者は競争が全てだという。競争のない社会は堕落するという。敗残者には生きる権利がないようなことを言い。事実、仕事も奪っていく。年寄りは働く権利まで奪われる。競争原理主義者にとって役立たずは、この世にいらないのである。生きる価値もないと言いたいみたいだ。しかし、経済の本質は、全ての人が生きられる環境を作り、そして、維持する事なのである。

人々を競わせること自体悪い事ではない。人々は競いながら成長する。だから、競わせること自体を悪いというのではない。人や産業、技術が成長発展する為に競争は必要である。しかし、競争は絶対的原理でも法則でもない。単なる手段である。手段である競争には弊害もある。弊害を理解した上で競わせる事は悪い事ではない。しかし、弊害を無視してただ競わせるというのは、危険な思想である。大体、ルールなき競争は、競争でなく闘争である。仕舞いには殺し合いにまでなる。だから、競争を絶対的原理、法則としてしまうのは危険なのである。

この世の中の圧倒的大多数は、平凡な人間で、平凡な夢しか持てない。多くの人は平凡な生活に甘んじている。だからと言って真面目に働いていないわけではない。自分ができる範囲で精一杯生きているのである。
ところが、現代の経済学は、人間の本性は欲で、誰しもが贅沢な生活や地位や名誉のために働いていると決めつけている。そのような発想が、今の世の中をおかしくしているのである。平凡な生活を望む事さえ敗残者のように見なしてしまう。全ての人間が抜きんでた才能を持っているわけではない。
一握り天才やスター、金持ちののためにだけ、この世界はあるわけではない。天才やスターに憧れても、天才やスターに、なりたくてもなれない人の方が圧倒的に多いのである。大体、天才やスターは希少だから天才であり、スターなのである。誰でもなれるのならそれは天才でもスターでもない。
十年に一人、百年に一人出るか出ないかの人のためにだけある経済は、万人を不幸にするだけである。
何の取り柄もない欠点だらけの人間だって人並みの生活、人生を送る権利はある。その為の経済の仕組みでなければならないのに、いつの間にか利益優先になってしまった。だから、無人化してまで利益の最大化を狙う。安売りが最善になる。馬鹿げている。その結果、多くの人から仕事を奪い、「お金」を配分する手段を失っている。
どんなに取り柄のない人間にだって仕事を作るそれがまっとうな社会です。
高齢化社会になればなおさらのこと。一定の年齢に達したら退職させて「お金」をやればいいというのは短絡的である。だから財政も金融も成り立たなくなる。人々から生き甲斐をも奪ってしまう。考え方がおかしいのです。そんな社会が成り立つはずがない。

経済の根本は、人々の生活にある。故に、経済への要求は、人々の生活から生じる。この点を理解していないと経済の本質を見落としてしまう。
つまり、経済的要求は、生きるとは何かによって成立するのである。

経済の役割は、まず第一に、生きていくために必要な資源を生産、あるいは調達する事である。
第二に、必要とするところに必要なだけ分配する。さらに言えば、公正な分配である。
第三に、生活の安定である。生きる事を満喫する事。生活の充実である。生活水準の向上。生活水準を向上させると言っても生活水準の向上は、豊かさの追求でもあるから生活の質を求める事になる。それは、量から質への転換を意味する。
第四に、自己実現、つまり、自分は何によって生きるかである。誰よりも必要とされていないという状態は、ある意味で死ぬよりも辛い状態である。

経済問題は、本来、必要な資源をいかに調達するか、生産するか、そして、生産した資源の最適な分配をいかに実現するかの問題なのである。ところが貨幣が絡む事で、経済本来の目的が薄れ、経済成長とか、物価とか、為替、景気、インフレーションやデフレーションと言った問題が浮上してきたのである。

先ず経済問題において取り上げられるのは、人々が生きていくために必要な資源をいかに調達しも生産するかである。人々が全て生きる事が出来る量が確保できなくなった時、経済は破綻する。だからこそ近代以前は、飢饉や飢餓が最大の問題であった。生きる為に、必要な資源を必要なだけ確保できなくなれば武力すら行使した。戦争は、経済の延長線上にある。

戦争は、経済政策が破綻した結果である。戦争は、政治問題と言うより、経済問題の延長線上で考えた方がわかりやすい。戦争の原因は、生活苦や貧困であり、資源の争奪である。

経済とは、生きる為の活動である。生きるという事は、何か他に、例えば、真理を極めるとか、世界を征服するとか、目的や志がある者にとっては、生きる事は手段となるかもしれない。しかし、生きる為の活動を経済だと定義するなら、経済では、生きる事自体が目的と言える。そうなると経済の仕組みは、人を生かすための仕組みだと言える。
故に、経済的要求の第一は、生きる為に必要なものである。ただ人は、満たされているとこの欲求を第一に感じる事はない。経済的欲求の第二は自己実現である。つまり、自己を自己として実現できる対象である。それが、地位や名誉や富といったものに凝縮される。自分は、他の人とは違うと認識できるようになる事である。

経済の目的の第一義は、人々の生活を成り立たせることにあり、「お金」儲けではない。「お金」は、手段に過ぎない。

経済の目的は、人々を豊かにする事である。豊かと言うのは、物質的にも、精神的にも、ゆとりある生活である。金銭的に豊かになることを意味しているわけではない。お金は、豊かになるための道具であるが、逆に、貧しさを招く原因ともなる。貧しさは、単に物質的だけでなく、心の問題でもある。


経済の最終的目的は、自己実現にある。


経済の目的は、単に生存する事から自己実現へと発展していく。
生活が安定すると、人は、夢を追いかけるようになる。
夢を実現する事、それは自己実現である。

人は、パンのみに生きるにあらずである。

老いは残酷である。人としての希望も、可能性も、仕事も全てを奪い去っていく。
それを象徴しているのが定年退職である。我々は、人として生きるという意味を捨て去ろうとしている。
働く権利まで奪っておきながら、働けなくなった者は、この世の中から不要な存在だと言わんばかりである。定年退職は、かつての隠居引退とは違う。働く意志や能力に関わらず強制的に退職させられるのである。
年寄りの晩年は、ただ生きて死を待つだけになる。そして、介護が厄介な問題となる。悠々自適の生活を夢見て。むしろ、歳を取ってからの方が豊かな人生が送れるはずだっのにである。歳を取ったらどうにもならない孤独に襲われ、自分の人生を呪うかのように生きていく事を望んでいたのか。余生は生きて棺桶に入る事ではない。
晩年にこそ生き甲斐が求められるのである。そして、歳を取ればそれを各人が自分で見出す事が求められる。
晩年は、収穫の秋であり、人生の余禄、滓ではない。
人々にいかに有意義な人生を送らせるか、それこそが経済の最大の課題なのである。

現代人は、働くという事は、神の与えた罰だと思っている様にすら思える。しかし、仕事を取り上げておいてその後どう生きればいいというのか。
かつては、農家でも、職人でも、商人でも、働けるうちは働いた。それはそれで問題はある。しかし、多くの人が仕事に生きがいを感じているのは、否定しがたい事実であり。それまで否定したら経済本来の意義が見えてこなくなる。
人はただ生きているわけではない。この世の中から不必要だと言われることが、どれ程苦痛なのか。それまでの人生全てが消去されまったく歳を取ってから全くゼロから新しい人生を始めろと言う事が何を意味するのか。
なぜ、定年が違づくと鬱になるのか。定年退職後に引きこもりになるのか。それまでの人生は何だったのか。
人の一生とは何か。生れて、学び、仕事をし、恋をして、結婚をし、家庭を持ち、子供産んで、育て、そして、病み、年取り、やがて死んでいく。どの様に生き、何を為し、そして、いかに死んでいくか。
本来、それを考えるのが経済学なのである。
所得は、単なる人件費、費用ではない。その人の働きに対する評価でもあり、成果でもある。更に生活費でもある。
経済が生きる為の活動だというならば、経済学は、生きるとは何かを考える学問なのである。経済学は人生を考える学問である。
人に生き甲斐を与える事こそ、経済学の本旨なのである。経済学は、間違っても「お金」のための学問ではない。
働くのは、生きる為に働くのであり、「お金」のために働くのではない。
機械化や、効率化、合理化は、人々を過酷な重労働から解放し、その人その人の意志や能力を引き出すためにあるのであって生き甲斐を奪う事ではない。経済とは生きる為の活動である。
労働は、神の人に与えた恵みであって罰ではない。老いた者は、生活のために働くのではなく。自分のために、そして、自分の技術や知識を後進の者に伝える為に働くことが許されるはずである。
世のため、人の為に役に立つ、ひいては、世の中から必要とされているんだと実感できる。幸不幸は、晩年で決まると父に言われたが、実際、歳を取れば実感として迫られる。今の時代は、年寄りから生き甲斐を奪っても平然としている。
ただ年金を与え、介護制度をつくり、介護施設を考える事が高齢化社会の経済の問題であるかのごとく錯覚しているが、高齢社会の問題の本質は、倫理観の問題であり、人生観の問題であり、家族の問題なのである。「お金」で解決できないところに、経済の本質が隠されている。
定年退職後の余生が二十年、三十年あると言われる現代。生きるとは何かを突き詰める事こそ経済学に求められている事なのである。それが経済である。
経済は、「お金」の問題ではなく。生きるとは何か問題なのである

日本人は、第二次世界大戦で敗戦国となった。戦後焼け跡の中から奇跡の復活を果たしたと言われる。それこそ、戦後直後は、生きる事さえままならなかった。人々は、生活のために必死に働いたのである。しかし、希望はあった。生活にゆとりができてから日本人は、自分たちの未来について少し考えるようになった。それが生活を豊かにした。高度成長が終焉し経済成長の速度が鈍化した時に、ニクソンショック、二度の石油危機、狂乱物価、プラザ合意後の円高不況と日本は翻弄された。そして、バブルと言う現象が起きた。日本人は「お金」に狂った。そして、宴の後、バブルが崩壊すると二十年、三十年と言われる空白の時代に嵌りこんでいったのである。それは経済のブラックホールに吸い寄せられるがごとくである。

何かを極めたい。認められたい。世の中の役に立ちたい。誰かに必要とされる人になりたい。偉くなりたい。有名になりたい。成功したい。そう言った欲求が経済を成長させ、発展させる。
それは、一人ひとりの向上心にもなり、経済を動かす原動力でもある。
ただ何の感情もなく、感動もなければ、生きる事の意義が人は見いだせなくなるのである。だからこそ、自分が自分らしくありたい、自分の夢を持ちたいという欲求を否定してしまったら経済は活力を失ってしまうのである。
市場経済が自由経済と密接に結びつくのは、人々の欲求や向上心が経済の原動力だと認識しているからである。

その意味で差はなくならない。差は、先天的な事によるからである。差の原因は、生まれつき持っている。
差が悪いのではない。人種とか、性別とか、宗教と言った合理的根拠なき差が悪いのである。また、極端な格差は、自己否定を招くから悪いのである。
経済を動かしているのは、そこに何らかの差が生じるからである。差がなければ「お金」は、動かないのである。
差は個性であり、自己実現の根拠なのである。個人差があるからこそ自己実現は可能となるのである
差を差として受け止め、差を構成に取り扱う事が、正常な経済を成り立たせる。平等と同等とは違う。
平等は、存在に基づいた概念であり、同等は認識の問題である。存在は絶対であるが、認識は相対的である。人として存在するという事は平等でも、何を同等に扱うかは、認識によって違ってくるのである。

人は、まず生きる事を考える。生活にゆとりが出来たら、自分らしい生き方を求めるようになる。
経済への欲求は、まず生きる事。そして、次に自分らしい生き方をする事である。
その時、「お金」に狂ったらすべてが終わりである。悪魔のささやきに過ぎない。「お金」は、麻薬である。「お金」には、中毒性がある。
経済の根本的問題は、「お金」ではない。人生である。自分らしく生きる事である。だから自由が必要となるのである。自由は、経済的自立によって実現する。さもなければ人は「お金」の奴隷になるしかない。

人々の経済に対する要求は、第一に、全ての人々が生きていく事の出来る資源が調達、生産されているか。
第二に、調達、あるいは、生産された資源が人々に必要なだけ配分されているか。
第三に、人々は、生きていく上に必要な資源を手に入れられるだけの「お金」が全ての人に配分されているか。
第四は、人々は、生きていくために必要な資源を手に入れる為の「お金」を配分されるための手段を持っているかである。

そして、これらの欲求を満たすための仕組みが市場であり、貨幣制度である。

経済の目的は、人々の生活を豊かにする事である。しかも、豊かさが安定的に持続する事である。経済の目的は、成長でも、収益でも、利益でもない。成長や、収益、利益は、経済の状態を示す指標に過ぎず。その役割、働きにおいて重要なのである。

そして、豊かさは、物質的な意味だけでなく、精神的な意味においてでもある。

現代社会は、人間らしくとか、自分らしく生きるという事に価値を見出そうとしない。どんなに家族を犠牲にしても、理想や意志も無意味な戯言と片付けてしまう。どう生きたかではなくて、いくら儲けたかで人の一生を測ろうとしている。
だから一人の人間の生き方なんて統計的現象としてしかとらえようとしない。だから、どう生きたかではなくて、何年生きて、何年働いて、どれくらい稼いだかしか関心がないのである。しかし、それが経済の本質だというのなら、少し待ってくれと言いたい。少し前には、何を信じ、何を求め、何のために、どう生きかこそ生きる価値を表していたのである。そして、生きる価値こそ経済的価値の本源なのである。
人を生かす事を忘れた経済は、虚しい。経済の最終目的は、自己実現である。自分らしさの追求である。

天才や成功者しか夢を持つ事は許されないというのだろうか。
ささやかでも、その人なりの夢をもってそれで幸せになれるのなら、それを誰が否定する事が出来るであろうか。

一流大学を出なくとも、一流企業に勤めなくとも幸せになる事は可能なのであるし、それを信じられる社会だからこそ社会は成り立つのである。
歳を取っても働く権利は守られなければならない。さもなければ、年寄りに自由は与えられない。これも一つの差別である。

必要性


経済に求められるのは必要性である。
誰かが、何らかの理由で必要だと感じるから経済的価値は生れる。
経済的価値は、必要性によって生じる。故に、経済的は価値は合目的的なのである。

必要な物を、必要な時に、必要とする人に、必要なだけ手に入れられるようにするのが、経済の仕組みの目的である
それを可能とする為には、支払準備としての「お金」を、消費者にあらかじめ配っておく必要がある。問題は、どの様な手段、どの様な機関によって「お金」を消費者に配るかである。

世の中には、不必要だと思えるのに、経済的な価値があるものがある。しかし、そのように思える物でもそれを必要だとする者がいるから経済的価値は生じるのである。故に、経済的価値を考える時、誰が、どの様な目的で、その財を必要としているかを明らかにする事である。

世の中には、不必要と思えるものが価値を持つ事がある。非合法とはいえ、麻薬だって莫大な利益を得る事が出来る。市場は合法的なものばかりではない。闇の市場もある。
反対に価値があるものが評価されない事もある。例えば、空気や家事の様に経済的価値があるのに、市場価値のない財もある。
現在、経済的価値を貨幣価値に換算して測るのが一般である。その為に、市場価値がない財は、経済的に無価値だとする傾向があるが、それは間違いである。例えは、市場価値がなくても必要だとされる財には、経済的価値がある。その一例が、環境である。

市場価値がなくても経済的価値がある者は沢山ある。しかも、生きるために不可欠な物も沢山あるのである。大切な物の多くが市場価値がないという理由で、無価値な存在とされるのは大いに問題である。それは、差別を生む原因の一つでもある。その典型が消費労働である。

家事労働や介護の外注化が進んでいる。それが、経済を混乱させる要因の一つである。
家計や企業、政府と言った経済主体には、内的空間と外的空間があり、内的空間は、非市場的空間(共同体的空間)であり、外的空間は、市場的空間である。
非市場的経済価値が市場化される事は、市場の拡大を意味する。市場の拡大は、量の内在的拡大を促し、市場の質を変化させる。
家事の外注化は、家計の市場化を促し、家族が形成する空間を狭め、共同体を解体するからである。企業にせよ、家計にせよ、政府にせよ、内的空間は、非市場的空間なのである。故に、内的分配は、本来市場取引に依らず、組織的に行われる。
また、内的空間は、倫理的空間であり、外的空間は、非倫理的、法的空間である。

先ず経済的価値を考える場合、誰が、何、どの様な理由で、いつ、どれくらい必要としているかを明らかにする必要がある。そして、市場価値を換算する必要がある場合は、いくらくらいの貨幣価値があるかを考える。
ただ、基本は、必要性である。貨幣価値を前面に出すと本当の意味の経済的価値が見失われる危険性がある。
経済的価値の本質は、必要性である。

先ず、生きる為に、毎日必要とする財が社会の基盤、骨格を構成する。生きるために不可欠な財は、経済の仕組みの根幹となる。

市場経済で不可欠なのは、「お金」である。「お金」は、毎日必要とされる。しかも、使えばなくなる。ただ、「お金」は、他の財と交換されるのであって「お金」その物が消費されるわけではない。消費を目的として使用されるのではないという性格は、「お金」固有の性格である。つまり、「お金」の価値は交換価値であって、使用価値ではない。

使用されても消費されないという「お金」の性格は、「お金」が市場に供給されたら、回収されない限り、市場に蓄積させる事を意味する。通貨量の増加は、相対的に貨幣価値を上昇させる。

必需品と言うのは、常に、必要とされ、なおかつ、消費される事を前提とした財である。それは、値段の多寡によらずに必要な財であり、不足すると経済が成り立たなくなる。例えば空気である。水中に潜れば空気にも市場価値が生じる。

経済の仕組みに求められるのは、必要な物を、必要とする時に、必要な人に、必要なだけ提供できる事である。必要性は、過不足によって測る事が出来る。
どれくらいの財が不足し、あるいは、余っているか、それを測る事で、経済がどのような状態にあるかを明らかにするのである。故に、経済指標の基本は、差である。
また、経済は、分配の問題でもある。故に、経済指標は、差の次に重要となるのが比である。

注意しなければならないのは、不足するのも困るが、余るのも問題だという事である。なぜならば、余りは無駄を生じさせるからである。無駄なものは邪魔になるのである。置き場所や保存場所に困るし、結局捨てる、廃棄するとなる。捨てる廃棄すればゴミ問題や環境問題にもなる。無駄に作って捨てる事は、資源の枯渇を招く。
ただ、大量に生産すればいいというのではない。かつて水道理論と言うのがあったが、蛇口をひねれば水の様に消費が提供されるようになると財の市場価値が失われてしまう。大漁貧乏と言う現象が起こるのである。
また、過剰設備は乱獲、乱開発の問題を引き起こし、資源の枯渇や環境破壊も起こす。ただ作ればいいというのではない。過剰生産は、時として物不足よりも深刻な問題を引き起こす。
故に、経済の状態は、何が不足していて、何が過剰なのかを測る事で明らかにする事が出来る。

市場は、需要と供給に応じて伸縮する事が求められる。一意的に拡大や成長がいいとは言えないのである。市場は、人口、消費量、市場規模、市場の成熟度に従って伸縮する必要がある。故に、経済の仕組みには、伸縮性が求められる。

何が不足か、何が過剰かは、基本的に人と物の関係から求める事が出来る。そして、市場経済では、これに「お金」の過不足が関係してくる。そして、過不足の単位は、全体と部分からなる。
一国の過不足の状態は、国全体の過不足と一人当たりの過不足に還元される。

物の過不足は、人を基準にすれば明らかになる。人の要求に対して多いか少ないかを明らかにすればいいからである。しかし、これに「お金」の過不足が加わるとややこしくなる。

第一に、物が余っていて、「お金」も余っている状態。第二に、物が余っていて、「お金」が不足している場合。第三に、物が不足して、「お金」が余っている場合、第四に、物が不足して、「お金」も不足している場合の四つの場合が想定されるからである。
更に、個々の物や用役によっても差が出る。財の組み合わせは無限に近い。しかも、新しい財が出現し、いくつかの財が淘汰されている。市場は、不可思議なのである。

かつては、慢性的に物不足であった。また、収穫や獲物は、安定的に確保する事が難しく、季節や、天候などによって収穫量は左右された。旱魃や飢饉になれば忽ち餓死者が出たのである。故に、生産や保存の技術が重視された。生きる為に必要な資源が不足したら、暴力的な行為によっても調達しようとした。それが戦争や内乱の主たる原因である。物不足の時代は争いが絶えなかったのである。貧困は、争いを正当化する。
産業革命によって物不足はある程度解消された。しかし、今度は過剰設備、過剰生産が問題となるようになってきたのである。

一国の経済を考える場合、その国に何が必要としていて、その必要度合いは、どの程度であり、何が国内で生産でき、国内で生産、調達できない場合は、どこから、それを調達するか、そして。それをどの様に国民に分け与えるか、それが基本となるのである。
つまり、国家が生存する為に必要な資源、(国家の生存とは、即ち、国民が最低限の生活を営むために必要な資源である。)をいかにして調達するかが経済の基本である。

人は、自分が必要とされてないと感じた時、自分は無価値な人間だと思い込みやすいのである。なぜならは、必要とされるか否かは、相手がある事だからである。しかし、生きるという事は、自分が何を必要としているかを見極める事なのである。必要性は、自分の心にある。価値は、自らが生み出すものである。だからこそ、経済に最終的に求められるのが自己実現なのである。

人の一生でできるものなんて限りありますよ。多いか少ないかは、見方しだいで変わる。しかし、人が一生にできる事には限りがあるし、消費できる物には限りがある。
大体、寿命だっと限りがある。栄耀栄華を極めても死ぬ時には死ぬ。強大な富や権力を得たとしても不老不死にはなれない。どんなに医学が進歩しても人間は四苦八苦から逃れられ事はできない。
人は、生き生きて死んでいく。一人の人を愛し続ける人生もあれば沢山の人と関係する人生もある。しかし、人間が付き合える相手なんて限りがある。人類すべてを相手にできるわけではない。結局どんな人間だって狭い世界でお決まりの愛憎劇を繰り返しているに過ぎない。
そして、それが経済の源なのである。人が必要とする事や物は限られている。無尽蔵にあるわけではない。いくら欲深の人間だって世界中の水を飲み尽くす事なんてできないのである。全ての土地を所有してしまえば、それは所有していないのと同じ事である。イギリスの土地はすべて女王陛下のものだと言っても女王陛下が自由にできるわけではない。
人にとって経済的な価値があるのは、その人が必要としている部分だけなのである。

人と物には限りがある。しかし、「お金」は違う。人と物は安定を望み、「お金」は、変化を求める。
人と物はアナログであるが「お金」は、デジタルである。


「お金」に求められる働き


「お金」は、手段である「お金」は、何のための手段かと言うと、生産を促し、生産された財を分配する為の手段である
では「お金」は、どの様にして生産を促すのかと言うと、生産とは、設備や労働力と言った生産手段を使って原材料によって加工し、組み立てる事によって財を製造する行為である。そして、設備や労働手段、原材料を調達する際の交換手段として「お金」は、用いられる。これが、「お金」が、生産を促す働きである。
そして、この時、労働力の対価として支払われた「お金」が分配の手段となるのである。

「お金」は、「お金」の働き性格によって規制される。

「お金」は、水の様に市場に広がり、満ちる性格がある。それは、「お金」が分配の手段だからである。
仮想通貨になろうと、「お金」が分配の手段には変わりなく。仮想通貨であろうと、キャッシュレスになろうと、「お金」の働きは、市場に流通する「お金」の総量に強く影響を受ける事は変わらない。
だから、「お金」の働きは、水位のような物価の水準所得の水準、そして、分散が重要な指標となるのである。

市場経済において「お金」の働きに求められるのは、生産調整適正な分配決済手段支払準備物流である。
生産調整は、価格の働き需要と供給の関係に、適正な分配は、所得の水準と分散物価の水準、決済手段は、フローとストックの関係、物流は、流動性に現れる。
市場価格によって需給を調節する事で生産と消費の均衡を保つ。需給の調整をするのは価格の働きである。
需給の調整と同時に、生産過程において労働者の働きに応じて「お金」を家計に供給する。それが「お金」に求められる役割である。
「お金」の働きの中で重要なのは分配である。本質的に「お金」は、分配の手段である。社会的に生産、あるいは、調達された財を分配するのが「お金」の最も重要な役割である。故に、「お金」の価値は、絶対的なものではなく相対的なのである。
生産量と消費量とを市場によって結び付け分配するのが「お金」の役割である。経済の実体は、生産量と消費量である。生産と消費を仲介して分配を実現するのが「お金」であり、消費量や生産量が人口や設備等の生産手段によって制約されているのに対して「お金」の量は無制限なのである。

「お金」は、交換価値を表している。交換価値は、交換する相手と交換する物との関係の上に成り立っている。必然的に交換する人の総数と交換する物の総量の制約を受ける。「お金」は、交換価値を測る尺度なのである。

一人の人間が消費する量は、一定であるのに対して生産量は、生産手段による制約を受ける。それに対して貨幣価値は、通貨の流通量によって変化する。生産量も、消費量も有限であるのに対して「お金」の価値は、上に開いている。だからこそ、通貨の量は何らかの制約を必要としているのである。

市場では、経済的価値は、「お金」によって一元化される貨幣価値に全ての経済価値が一元化されることによって経済的価値の演算が可能となる
労働力と自動車、リンゴの値段といった異次元の対象の経済的価値を貨幣価値に還元する事で足したり引いたり、賭けたり、割ったりする事が可能となるのである。
また、「お金」によって経済的価値を一元化する事によって経済的価値を比較する事が可能となる。これは市場取引、交換を成立させる前提となる。

「お金」は、分配の手段である。分配の手段と言うのは、全体に占める割合を忠実に反映する事が求められる。故に、「お金」は、市場に満たされ、張り詰めている事が前提となる。故に、「お金」には、水のような性格があり、一度流れ出すと市場全体に水のように広がり、満ちる。また、市場の形状に合わせて姿を変える。ダムの様に流れを堰き止め貯める事が出来る。また、水位と言った全体の水準が重要な指標となる。高低差によって流れが起きる。高低差は、過不足の偏りによって作られる。
市場全体に「お金」が満ちて、張り詰めているが故に、三面等価が成り立つ。即ち、生産と所得と支出が等しくなるのである。

重要な事は、「お金」は、決定的な働きをしているとはいえ、「お金」が全てではなく、また、最終的な働きをしているわけでもないという点である。「お金」は、媒体に過ぎない。仲介的な働きをしているのに過ぎないのである。

天保の飢饉の時、沢山の小判を持ちながら餓死した者がいると言われる。本当に、食べる物がなくなれば貨幣価値などなくなるのである。小判を食べる事も、着る事もできない。小判は小判でしかない。「お金」は、「お金」でしかない。

市場経済と言っても市場は部分であって全てではない。また、市場そのものが複数の独立した市場が組み合わさり、重なり合って全体が構成されている。更に、個々の市場は、個々の市場で自律的に動いている場合が多い。
問題は、「お金」の分配の仕組みであり、何を根拠として、どの様な基準で、「お金」がどの様な機関、仕組みによって、どの様に分配されているかなのである。

「お金」の働きで重要なのは、「お金」の効用が交換であるため、常に、「お金」が消費者に供給され続ける必要があるという点である。つまり、「お金」は、使えばなくなるのである。ただ、「お金」その物は、使用されても消費はされないで、再利用される。その為に支払準備として「お金」は蓄える事が可能なのである。

また、「お金」の価値は一定せずに常に変動している。「お金」の価値は相対的なのである。

人や物は実体的であるのに対して、「お金」は、名目的価値を形成する

人や物には、物理的な制約がある。それに対して「お金」には制約がない。「お金」は、数値なのである。「お金」の価値は、人と物と「お金」の関係によって決まる相対的価値なのである。そして、「お金」の流れが経済の仕組みを動かしている。「お金」の流れは、変化、即ち、人と物と「お金」の関係に時間軸が加わる事によって起こる。時間軸が加わる事で、「お金」の価値は、指数関数的、複利的、幾何級数的なものになった。更に、かつての貨幣は、物としての制約があったが、表象貨幣である不換紙幣には物としての制約を受けない。つまり、歯止めを失えば、今、一円なものが、一万円にも、一億円にも、一兆円にも、一京円にもなりうることを意味している。
いかに、貨幣価値を制御するかが、今日の経済の仕組みの一番の課題なのである。

「お金」によって経済の仕組みを動かすためには、「お金」が市場を還流する必要がある。市場は、「お金」が回る事で成り立っている。「お金」が回らなくなると市場は機能しなくなる。そして、「お金」を還流させるために、時間の働きが重要な役割を果たす事となる。
時間価値が加味される事で「お金」は、市場を循環するのである。

「お金」に求められるのは、第一に、「お金」としての信認である。第二に、流動性である。市場に「お金」が流れる事である。第三に、分配である。第四に物流を作る事である。物流を起こす事で、消費者に財を送り届ける働きである。

「お金」は、社会一般に「お金」として信認されている必要がある。交換を前提とした「お金」は、「お金」を「お金」として認めない人がいると「お金」は、「お金」としての効用を発揮する事が出来ないからである。

また、「お金」は、常に、市場を流れている必要がある。さもないと「お金」が詰まって流れなくなる。「お金」が詰まって経済の仕組みが機能不全に陥るからである。電気製品が電気が流れなくなったら機能しなくなるのと同じように、市場に「お金」が流れなくなったら市場は機能しなくなるのである。
「お金」を市場に流す原動力は、差である。空間的、時間的な「お金」の高低差が「お金」を市場に流すのである。その為に、市場に「お金」を流すためには、差をつける必要が生じる。利益にせよ、金利にせよ、為替にせよ、差が決定的な働きをする。

また、「お金」は、支払準備として、予め消費者に配られておく必要がある。「お金」は、物と交換する事によって物の流れを起こし、消費者に財を手渡す事が基本的な働きの一つである。「お金」の流れる方向と逆向きに物の流れができる。

現代社会では、「お金」の決済と言う働きばかり重視し、支払準備や分配と言う働きが軽視される傾向がある。それが利益ばかりを追求し、借金や費用を罪悪視する風潮を生み出している。ひたすら、利益を追求し、借金や費用をなくせば景気は改善するという思想である。
借金によって「お金」を循環させ、費用によって「お金」を分配させている事を忘れてはならない。
利益は、結果であって原因ではない。利益は、本来、適正な収益と適正な費用との均衡の上に成り立っている指標である。重要なのは、適正な収益と適正な費用である。なぜならば、収益と費用の関係が分配の基軸だからである。
いくら利益が上がっても適正な収益と適正な費用が維持されなければ適正な分配は実現されない。

いい例が無人化である。無人化は、生産の現場から人を排除してしまう。費用を罪悪視しているかぎり、経済は良くならない。無人化の是非を問うているのではなく、無人化によって起こる経済の変動に対してどの様に対処するかを前もって用意しておく必要があると言いたいのである。
生産者は、消費者の大多数が給与所得者である事を忘れてはならない。消費者が給与所得を得られなくなれば購買力は失われるのである。

決済は、「お金」の流れの出口である。「お金」の働きは本来、分配である。「お金」が分け与えられた時、収入を得た時、使われた時、「お金」の価値が定まるのである。
決済と言う働きは重要であり、決済と言う働きが「お金」の基本的働きである事は間違いない。しかし、決済とと言う働きばかりに注目して「お金」を際限なく発行し続ければ、分配と言う機能に偏りが生じる。これは仮想通貨でも同じである。

基本的に「お金」に求められる働きは、決済と支払準備、そして、分配である。しかし、「お金」が流通すると「お金」は、貸借や投資の様な副次的な働きを持つようになる。
「お金」は、時として、人や物の制約から解放されて独自の働きを発揮する事がある。それは、日常的な「お金」の流れによる働き以上の効用、投資や金融等の効用をもたらす事がある。それは、新たな産業を興したり、社会資本を形成してきた。しかし、反面においてインフレーションやデフレーション、恐慌等の原因ともなったのである。

経済本来の目的と手段である「お金」の働きが乖離し、「お金」の働きが制御できなくなっているのが今日の経済の一番の問題である。

なぜ、「お金」が本来の目的から乖離してしまうのか。それは、「お金」の働きの目的を儲ける事と錯覚して分配と言う働きを疎かにしてしまうからだ。利益は、「お金」を動かす動機にはなる。しかし、「お金」本来の目的ではない。儲ける事ばかりを追求すると公平に分配するという働きが失われてしまうのである。
分配という基準からみるとどれだけ利益を上げたかと言うより、どれだけ雇用を増やしたかと言う方が重要になる場合がある。ただ利益を上げればいいという考え方では、経済本来の目的を実現できない。
経済の仕組みを動かすためには、「お金」を市場に循環させる必要がある。しかし、それは、「お金」を遍く配分する事が目的なのである。利益を求める事で「お金」は動くが、利益を上げる意味を忘れると「お金」を遍く分配する事が出来なくなる。
また、市場の規模の変化に応じて通貨の量も増減すべきなのだが、市場規模に合わせて通貨の流通量を調節するが仕組みがなく、調節する事が難しいのである。
更に、「お金」は蓄積する傾向があり、蓄積された「お金」がストックを形成し、フローがストックの影響を受けるようになる事である。
また、時間価値は成長期には、フローを増加させるように働くが成熟期になるストックを蓄積するように働く。この変化をうまく調節できないのである。
この様な「お金」の性格をよく理解した上で経済の仕組みを構築し、運用していく必要がある。

実物貨幣、即ち、「お金」が物、金貨、銀貨、銅貨等であった時代は、「お金」には、物理的な制約があった。しかし、「お金」が表象貨幣、即ち、紙幣になると物理的制約から解放されていく。兌換紙幣の事態は、それでも、物に結び付けられていたが、不換紙幣になると原則的には、物理的な制約をうけなくなった。
実物貨幣の時代「お金」の流通量は、「お金」の素材の総量に制約された。金貨は、金の産出量以上には流通しない。故に、「お金」は、常に不足気味で補完的な役割しか果たしておらず。実物貨幣の時代は、物中心の時代だった。その為に、物価も比較的落ち着いていた。物価が変動するのは、物不足に陥った時か、金とか、銀などの貨幣の素材が大量に出回った時である。
紙幣が出回るようになる市場は、物中心から「お金」中心へと変化していく。現代は、「お金」中心の時代である。
実物市場の規模は、人と物との関係によって決まる。「お金」ではない。実物市場は、人口と生産財の生産量とで決まる。「お金」は、値付けをするのが役割である。しかし、「お金」の流通量が実物市場以上に拡大すると「お金」は、独自の市場を形成するようになる。それが実物市場に反映されるようになる。
現在の経済は、貨幣的現象と言っても過言ではない。
表象貨幣の流通量は、人口の増加や生産財の生産量の拡大に伴って増加する。それが経済の発展や成長な寄与してきた。しかし、市場が成熟し、飽和状態になると成長や発展が鈍くなる。そうなると今度は「お金」の流通量が過剰になる。過剰となった「お金」がいろいろなところで問題を起こすようになる。インフレーションやバブル、「お金」が淀んで市場に流れなくなればデフレーションにもなる。恐慌、通貨危機、金融危機等も余剰な「お金」によって振り回され、引き起こされていると言っていい。
要するに、余剰な「お金」をどの様に処理するかが、成熟期の市場の最大の課題なのである。
「お金」は、あくまでも分配の手段である。全体と部分の関係によって成り立っている。「お金」の本質は数値である

現在貨幣制度は過渡期にある。実物貨幣から、表象貨幣、表象貨幣も兌換紙幣から不換紙幣へと発展変化し、今や仮想通貨、電子信号やデータへと変質しつつある。
要は、貨幣の本質は数値なのである。それも、自然数の離散数(デジタル)なのである。物をとしての属性、紙幣でも紙による印刷物と言う物としての属性を捨てきっていないが、ただ、仮想通貨、暗号通貨になれば完全に物としての属性がなくなる。それがキャッシュレス化である。そうなると貨幣は、数値と言う核心だけが残るのである。
貨幣が物としての属性をなくし、数値と言う核心だけになるとかえって貨幣の性格、純粋価値だけが働くようになる。それは、貨幣の本質的な価値は、交換価値である。現在の表象貨幣から仮想通貨がとって代わったとしても分配の手段としての働きは残るのである。決済の手段ばかりに目が奪われると分配の手段としての働きが見落とされる危険性がある。この点を見落とすと仮想通貨の持つ問題点を正しく理解する事はできない。
つまり、インフレーションやデフレーション、恐慌と言った現象は、仮想通貨になったしても防げないし、むしろ、もっと大規模に、広範囲、地球的規模にわたって影響を及ぼす危険性すらある。
通貨として機能する為には、通貨の総量を規制できなければ、単価を制御する事はできないのである。
また、通貨の基本は、貸借関係にあり、通貨の単位を何が保障するのかである。通貨の働きは、人と物の間でしか機能しないのである。

経済の仕組みに求められる事


我々は、一体全体、経済の仕組みに何を求めているのか。経済の仕組みに何が求められているのか、意外と判然としていない。自分たちが何を求めているのか判然としないうちに「お金」の働きが独り歩きし、気が付いた、自分たちの生活や人生が「お金」に振り回され、支配され、あたかも、「お金」のために生きている様にすらなってしまっている。「お金」は、生きる為の手段である。経済の仕組みは、人々を活かすための仕組みである。「お金」のために、人々の生活が犠牲になる様では、本末転倒なのである。

経済の仕組みに求められるのは、先ず、人として何を経済の仕組みに求めるかである。人々が経済に求めるのは、安心して生活が営めることである。次に求めるのは自分の夢を実現する事である。要するに、人々が経済の仕組みに求めるのは自分達を幸せにしてくれることである。
生きるというのは、日々の生活に追われるのではなく、長期的な展望が立ったうえでと言う事である。将来に不安があれば安定した生活は維持できない。安心は、安定の上に築かれる。所得、収入でいえば、定職、定収入が維持されることを意味する。定収が保障されていれば、安心して借金もできる。貸す側にしても将来の収入が担保できるのである。
物質的な意味では、第一に生きていく事である。次に、求めるのは豊かさである。
生きていくために必要な資源は、衣食住。特に、食料である。野生の世界で最も重要なのは食料である。野生動物は、衣服を必要としていないし、巣を必要としない動物も多くいる。しかし、食料が得られなければ忽ち絶滅してしまう。何を食べるかによって動物は、分類されるくらいである。つまり、経済の中核は食料だと言える。
自分たちが生きていくために必要な資源は、できれば自分達で全て生産したい。つまり、自給自足が理想である。しかし、今日、完全に自給自足できる国は少ない。なぜならば、生産物には、空間的、時間的偏りがあるからである。
飢餓の原因の多くは、流通問題にある。なぜならば、食料の生産量にはムラがあり、また、保存にも限界があるから交易が途絶えると在庫の平準化できなくなるからである。
つまり、経済の基幹は、食料であり、食料の持つ性格なのである。食料は、毎日消費される。食料がなくなれば人は生きていく事が出来なくなる。食料は、保存がきくものと保存がきかないものがある。それが主食品と副食品の差を生む。食料は、天候や環境によって生産量が変化する。更に、食料の生産量は地理的条件に左右される。そして、食料は、人々の嗜好や風俗、文化に影響される。
先ず常に、新鮮の食料量が供給され続ける事が求められる。同時に、食料の在庫を平準化する事が経済には求められた。
もう一つ重要なのは、生産財は豊富な方が不足するよりましましと思われている点である。不足するよりは、余っているくらいの方がいいという思想である。これが大量生産へとつながる。大量生産は、生産物の均一化を促す。
不足するより余っている方がいいというが、実際は、乱獲や乱開発、環境問題、温暖化問題、資源問題等を引き起こす。現在は、あらゆる物が過剰なのである。物を生産する事が目的なのか、よりよい生活環境にする事が目的なのか、これでは分からなくなる。
節約と言った思想が軽視された結果である。なぜ、節約が必要なのか。生産側から見たら理解できないが、消費の側から見れば明らかである。必要以上に生産して無理の消費するのは愚かな行為である。

問題は、いかに生産財を流通させ、分配させるかである。そこに、市場と「お金」が介在する事になる。つまり、市場と「お金」によって物流を作り、生産者と消費者の間を結び付けようというのである。それが市場経済である。
そして、市場と「お金」が分配の働きを担うようになると経済環境は一変する。「お金」がなければ生きていけなくなったのである。「お金」がなければ何もできなくなったのである。「お金」に支配されるようになったのである。
いかにして、市場に「お金」を満たし、いかにして「お金」を社会の隅々にまで循環させるか。そこに税制の働きが決定的な働きをした。
市場、「お金」、そして、税金は不可分の関係にある。
現在の税制の特徴の一つは、所得を給与所得に還元しようとしている事である。給与所得に還元する事で収入が平準化できる。収入を平準化する事で消費を平準化し生産を平準化する事が可能となる。それは、借金の技術を発展させる事にもなる。収入が担保できるようになるからである。雇用の在り方は、経済の基盤となるのである。

重要な事は、常に、「お金」を市場に循環させつづる事である。そこで、「お金」の働きにに時間価値が組み込まれたのである。それが金利であり、利益、即ち、付加価値である。
付加価値は、「お金」を循環させる為の原動力である。

経済の仕組みに求められるのは、第一に、人々が生きていくために必要な物を調達、あるいは、生産する事。第二に、生きていくために必要な物を必要とする人に、必要な時に、必要なだけ提供する事である。第三に、道路などの社会資本を構築する。第四に、畑や漁船、工場設備等の生産手段を建設する。第五に、住宅などの消費手段を作る。第六に、需要に合わせて生産量を調節する。第七に、「お金」を市場に供給する。第八に、働きに応じて「お金」を全ての消費者に満遍なく分配する。第九に、「お金」を市場に循環させる事である。第十に、「お金」が余っている所から「お金」が不足する処に、「お金」を融通する事である。

現在の市場経済の問題点は、人や物と言う実物経済と「お金」が生み出す名目的経済の乖離にある。「お金」は、ストックを形成し、ストックはは資本を生み出した。資本は、近代経済を飛躍させたと同時に多くの副作用ももたらしたのである。

ホテル業を例にとってみる。ホテルは、部屋数によって制約を受ける。収益を向上させるためには、客室の稼働率を上げるか、単価を上げる以外にない。ホテルを立てた時点で客室数と言う制約が始めから設定されているのである。
客室数を増やすためには、増築する以外にない。しかし、市場そのものに制限がある場合、増築しても必ずしも収益の向上は期待できない。それに対して費用は、上昇してくる。ここで重要なのは、何が固定的で何が変化しているかである。ホテル業で収益を上げるためには、単価と言う名目的な価値を上げるしかないのである。
部屋数といった物理的前提や顧客数といった人的前提は、固定的なのである。つまり、人や物は変わらない。経済を動かしているのは「お金」の変化なのである。「お金」が変化する事で経済は動く。いくら稼働率を上げるとしても客室その物に限りがある。物理的制約があるのである。
経済成長とか利益と言ってそれは「お金」の変化を意味する。つまり、見せかけ上の変化、錯覚と言っていい。しかし、この見かけ上の変化や錯覚が市場経済では重要な働きをしている。故に、経済に時間価値を持ち込んだ時から、物価の上昇は、必然的な事になる。物価が上昇しなければ恒久的経済成長は望めないのである。
厄介なのは、人や物も固定的であると言っても一定ではない。ホテルでいえば、季節変動もあれば、流行り廃りもある。また、ホテルも老朽化する。それでありながら、費用、特に、人件費は底堅く上昇していく。
市場が拡大し、顧客数が増加している場合は、費用の上昇を吸収できるが、市場が飽和状態になったり、縮小し始めたら費用の上昇分が吸収できなくなる。市場が成長している時は、外に向かって拡大をすればいいが、市場が飽和状態な場合は、内に向かって収縮していく。
国内の市場が飽和状態になったら海外からの客を当てにしなければ人的な拡大は望めない。しかし、それにもおのずと限界がある。実物市場は際限なく拡大するわけではないのである。
ホテル業の本質は、ホスピタリティにある。それは、「お金」には代えられない部分である。しかし、一旦、競争の原理だけに支配されてしまうとホスピタリティも単なるサービスに化してしまう。競い合う事が悪いのではなく。利益のみを追求した果てに、競争しかなくなるのが悪いのである。価格は一つの要素であり、価格だけが全てではない。
その変化に「お金」の働きがついていかなくなると人や物と言った実態的経済と「お金」を基礎とした名目的経済が乖離し始めるのである。客室と客という物と人とを仲介しているのが市場と「お金」の変化である。市場経済は、市場と「お金」によって作り出されたと言っていい。
高度成長の終焉とともに訪れた低成長時代に日本経済は、実体的経済と名目的経済が乖離し始めたのである。その頂点がバブル経済である。人、物、金の調和が失われたのである。
実物市場が飽和状態になり収縮しているのに、名目的な市場が拡大した結果、実物市場と名目市場が乖離したのである。庶民の収入では手が届かない勢いで住宅価格が上昇したのである。その結果、不動産市場から実需が失われた。それは、経済が空疎になった事を意味する。経済本来の目的、必要な物を必要とする人に、必要とする時、必要なだけ提供するという目的が失われたのである。バブルが崩壊すると負の遺産が残され、その返済に依って今度は、「お金」が回らなくなったのである。

市場が成熟するに従い、量から質への転換がはかられなければならない。なぜならば、市場が成熟するにしたがって市場が飽和状態になり、新規需要から更新需要へ切り替わる為に量的拡大が望めなくなり、かえっ量的縮小へと転じる可能性が高くなる。常に、資金市場を開発し続けるのにも限界がある。
また、少子高齢化による人口の減少は、縮小傾向に拍車をかける。量的縮小は、単価に反映できなければ収益の愛化を招く。
いくら高所得だと言っても所得に見合う収益がなければ高コスト体質に陥って利益が望めなくなる。必然的に人件費に対する下げ圧力がかかるようになる。人件費は、所得と雇用両面に圧縮圧力となる。
単価、即ち、価格に反映する為に、高付加価値の財への転換、即ち、量から質への転換が望まれる。
日本の転換点は、高度成長が終焉し、低成長に入った時である。しかも、この時、ニクソンショック、その後の二度の石油危機に見舞われ、狂乱物価、止めにプラザ合意後の円高不況、そして、バブルへと繋がった時である。
しかし、バブル崩壊、日本は、規制緩和などによる競争政策が採られ、市場は過当競争に陥り、単価の低下を招いた。その一方で金融緩和による金余り現象を引き起こす。一向に景気が回復しないのに、金ばかりが余るという異常な事態の中で長期にわたるゼロ金利政策が続いている。これは、量から質への転換に失敗したことが原因である。
量から質への転換は、大量生産、大量販売、大量消費から多品種少量生産への切り替えである。量から質への転換に成功した例としては、スイスの時計産業などがある。ブランド戦略でもある。廉価品から高級品への転換それによって所得水準を守る。
いくら所得が上がってもそれに見合う財の質の向上がみられなければ結局実質的な生活は変わらないのである。
日本の流通産業は、個人商店からスーパー、百貨店へ、そして、大型スーパー、郊外型ショッピングモール、そして、コンビニエンスストアへと変遷し、それに伴って商店街が衰退し、スーパーや百貨店の採算が悪くなり、大型スーパーの再編と繋がり、買い物難民が発生し、そして、今度はコンビニエンスストアの過当競争が問題になっている。
高齢化社会になるのに地域のコミュニティーはズタズタに破壊されてしまったのである。
生活臭のない空疎空間が拡大し続けている。
量から質への転換が上手くいかないと巨額の余剰資金が発生する。市場が資金を吸収しきれなくなるのである。
量的な縮小が続いているのに、費用対効果の均衡が破れ、負債が増殖し、その分、余剰資金が発生しているのである。フローが収縮しているのにストックが拡大している。それがゼロ金利の正体である。
巨額の余剰資金は、市場に津波や洪水のような災害を引き起こす。それが、バブルであり、ハイパーインフレーションである。また、資金が滞留するとバブル崩壊後の日本のデフレーションのような事態も引き起こす。
市場の規律が保てなくなっている。その為に市場が土台から崩れ始めている。

現代社会に求められているのは、多様性である。大量生産、大量販売、大量消費は、財を標準化してしまう。
市場は、独占され、価値は一様になる。量から質への転換は、多品種少量生産を進める事である。何でもかんでも境界線をなくし一元化してしまったら、消費者は、選択肢を失う。
かつては、高級店と普及店は、住み分けしていたのである。価格競争は、他の要素、品質とか、デザインとか、性能とかといった要素を削ぎ落してしまう。結局、生産主体は、住み分けが出来なくなり、寡占、独占状態に陥る。
かつては、多くの自動車メーカーが独自の設計思想で競いあってきた。しかし、寡占独占化がメーカーの個性も少なくなってきた。その結果、若者の自動車離れが進んでいるのである。

所得が圧縮されているのに、その他の費用だけが増殖し続けている。それは、所得に対して物価の相対的な上昇を招き。実質的な格差を拡大する。いくら安くても仕事がないから収入のない人たちが増えるのである。

現代人は、大きな勘違いをしているように思える。
働くことがなくなる。働かなくても生きていけるからと働く事を目の敵にしているように見える。そして、経済を無人化しようとしている。働く事のない社会は、そんなに素晴らしい社会であろうか。
確かに、人間性を無視したような過酷な重労働や苦役はなくすべきである。しかし、働くことそのものは、自己実現である。歳を取りあなたは世の中から必要とされなくなった。もう邪魔だから働かなくてもいい。後は、若い者に任せて悠々自適遊んで暮らしないと宣言されることがいかに残酷な事か考えた事があるのだろうか。多くの人にとって仕事は生き甲斐なのである。自己実現の手段なのである。多くの経営者や政治家は、世の中の定年退職を無視して働き続けるのはなぜなのか。彼等に許されて一般の人たちは、働く権利さえ認められなくなるのか。
機械か本来の目的は、苦役や重労働から解放し、その人その人の持ち味や能力を引き出し生かす仕事につける環境にする事なのである。その事を忘れてAIに仕事を奪われると怖れるのは、自分の影におびえているのに過ぎない。

現在、情報ネットワークが大きく市場を変化させようとしている。しかし、市場が分配の場だという事を正しく理解しそれを経済体制に組み込めなければ、市場経済は、大きく歪んでしまうであろう。その時、市場経済は土台から崩壊してしまう。なぜならば、情報ネットワークは、生産者と消費者を直接結びつけていくからである。また、機械化は、生産の場から人を排除していく。つまり、高度に機械化され、ネットワーク化された経済とは、非人間的な経済なのである。機械化され、ネットワーク化された経済の仕組みにいかに人間性を持たせるか。それこそが、これからの社会の最大の課題となる。
仮に、情報ネットワークが新たな分配の仕組みを構築する事になれば、その時、人類は新たな時代を迎える事になる。

GAFAに代表される新興企業の多くは、異常な株高に支えられるている。しかも、中には営業利益も上げられずに赤字が巨額な累積している企業もある。大体彼等の目的は、事業で利益を上げる事ではなく、IPOやM&Aでにある。事業ではなく資本投機なのである。これも余剰資金の仕業である。
本来、企業は、収益が基軸であり、その収益の中から費用を支払い、借金を返済していく。収益と無縁なところで投機資金が暴走している。
これでは、健全な市場は維持できない。正常な資本主義が損なわれつつあるのである。

経済が機械化されて労働環境や所得が改善されたかと言うとかえって悪くなっているくらいである。顧客第一主義は、国民本位と言うのとはわけが違う。顧客は、あくまでも商売の対象でしかない。
人は、客であると、同時に、労働者であり、生活者、消費者でもあるのである。

商店街の本来の役割は、地域コミュニティの構築であり、地域コミュニティの核となる事であったはずである。地域コミュニティが崩壊し、過疎地帯、限界集落が増え。高齢者は買い物難民となり、一人住まいの高齢者が増え、高齢者は引き籠り、孤独死が社会問題となり、なんとも高齢者には住みにくい社会が広がっている。
高齢化問題は、道徳・価値観の問題から、介護制度、介護設備の問題となり、高齢者は家族や社会からも見捨てられようとしている。なぜならば、彼等は、収入を得る資格がないからである。歳を取ると働く権利まで奪われる。
それは、自分たちの人生まで「お金」で売り渡したからである。

経済は生きる為の活動である事を忘れてはならない。人々は、経済に何を求めているのか。それは、人々が自分の人生に何を求めているかなのである。
真に人々が経済に求めているものを認識する事、それなくして経済を語るのは愚かである。欲望に身を委ねて破滅的な人生を送るなんて、「お金」で魂を売るような事なんて誰も望んではいないのである。
「お金」儲けのために生きているわけではない。自分らしい生き方をする為に必要だから「お金」儲けをするのである。

人々の要求によって現代の経済の仕組みはどのような構成にしなければならないのか。
第一に、生活費を賄えるだけの所得が配分されなければならない。言い換えると、日々の生活は、所得の範囲内でなければならない。
第二に、所得は、定期的に必要なだけの資金が絶えず供給され続けなければならない。
第三に、企業は、利益を上げる事が求められる。言い換えると費用は、収益の範囲内に抑えられなければならない。
第四に、売り手にとっての収益は、買手にとっての費用となる。但し、費用と収益の間には認識、評価の一様ではなく、市場取引の総和はゼロになるとは限らない。
第五に、支出は収入の範囲内でなければならない。即ち、市場取引の収支の総和はゼロになる。
第六に、出し手にって支出は、受取手の収入になる。
第七に、所得や収益の範囲を超える、即ち、不足する部分は、それまでの蓄えを取り崩すか借入金によって補填する。余剰資金は、貯金する。借入金と貯金は、ストックとして蓄積する。
第八に、「お金」は、時間的・空間的差によって動く。
第九に、「お金」の流れは、資金の過不足によって生じる。
第十に、貸し手にとっての貸金は、借り手にとっての借入金で、市場全体では、貸借の総和はゼロになる。
第十一に、市場は、常に「お金」に満たされていなければならない。
第十二に、「お金」は、常に、市場に流れていなければならない。

以上の点を鑑みると、収益は、常に、費用を上回る事が求められ。収入は、消費支出を常に上回る事を前提としている。
そうなると短期資金の働だけでは、経済は、収縮する。では何が、経済を成長させるかと言うと長期資金の働きである。投資の働きがあるから経済は成長する。短期資金とは、単位期間において消費される資金であり、長期資金は、単位期間を超えて効用を発揮する資金である。
単位期間内の「お金」の働きと単位期間を超える「お金」の働きを組み立てる事で、経済は成長する。
長期資金は、資産と負債、資本を構成し、短期資金は、収益と費用を構成する。短期資金は、フローとなって市場を循環し、長期資金は、ストックとなって支払準備を構成する。フローとストックの関係は、付加価値を制約する。
これが経済の要求定義である。

経済は、「お金」が全てではない。生きる為の行為を全て換金化したら生きることそのものを否定する事にもなる。なぜならは、人の人生を換金する事はできないからである。
「お金」にできない部分にこそ、生命そのものの本質がある。つまり、換金できない核心にこそ経済の本質が隠されているのである。
家族の絆まで「お金」に換えてしまったら家族そのものが崩壊してしまう。夫婦の愛情は、「お金」には換えられない。

人々は、幸せを追い求めている事を忘れたか、諦めてしまったように見える。欲望に身を委ね、利益を追求する事が生きる目的であるかのように錯覚している。
しかし、経済の目的は、心身の豊かさであり、幸せである。
そして、幸せの種は、身の内にあるのである。

人々が経済に求めているのは、豊かさと平和、幸せであって競争や争い、戦争、貧富の格差ではない。経済によって人々が不幸になる事があったら、その経済体制は、破綻しているのである。

人間不在の経済は、経済ではない。唯物主義では経済は成り立たない。

夕暮れにそぞろ歩きをしたくなる、散策をしたくなる街並みが少なくなった。街は、味気ないビル群に生まれ変わり、料理屋も飲み屋もビルの中の一室に追い遣られ。
倉庫のような無人店舗に相手をしてくれる店員はいない。店に居るのは、警備員だけ。失業者の群れが無人店舗の廻りを徘徊している。
スーパーや百貨店などの大型店舗の進出で活気のあって商店街は廃れ、そのスーパーや百貨店もむ郊外型のショッピングモールで窮地に立ち、ショッピングモールは、コンビニに押され、コンビニは、過当競争に追い込まれている。そして、今や市場は、インターネットに取って代わられようとしている。
仮想現実の中で友達との付き合い方を忘れてしまった。人と人との関係が希薄になって異性との会話も儘ならない。いつまでも結婚のできない人で溢れている。一家の団欒なんて遠い昔。
老いたら施設に入れられ、訪れる人もなくただ死を待つだけ。親孝行なんて望みようがない。そんな世の中、経済を望んでいるのだろうか。

シンギュラリティ、人工知能は人間を超え人間をいつか支配するのではないかと恐れる人がいる。かと思うとロボット三原則成る物を提唱する人がいる。人間への安全性、命令への服従、自己防衛。現時点では、どちらも幻想である。ロボットの研究が最も進んでいるのは、ヤッパリ兵器である。機械を怖れたり期待する前に人間を怖れるべきなのである。人間にこそ期待すべきなのである。

情けのない経済は、魂がない。魂のない肉体は、屍に過ぎない。苦楽を共にした仲間や家族は、最後まで見届けたい。それが経済である。経済は、生きる為の活動。人として生きる事、生かす事である。

成長や競争、利益を前提としている限り、経済の実体は見えてこない。
前提を間違っている。
成長は、状態であり、競争は、手段であり、利益は指標である。
成長と言う状態は、不変的ではない。大体、今は市場は、成熟し、飽和状態である。経済は、拡大から縮小へと切り替わっている。現在、求められるのは、量から質への転換なのであって成長を促す事ではない。市場の密度が大切なのである。
競争は、手段であって原理ではないし、競争が機能する為には、ルールの在り方が鍵を握っている。ルールとは規制である。既成の在り方が問題なのであり、規制を否定したら競争は成り立たなくなる。市場は、ルールなき闘争の場になってしまう。闘争は、弱肉強食の世界である。規制緩和とともに独占禁止法の精神は失われた。市場は荒廃し、規律を失っているのである。
利益は指標に過ぎない。実体は収益と費用にある。特に費用の在り方が問題となる。費用は否定される事ではなく、現実である。
経済の目的は、世の中に貢献する事なのである。




       

このホームページはリンク・フリーです
ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2019.10.17 Keiichirou Koyano