人のアルゴリズム


経済における人の役割


経済の主役は、人である。なぜならば、経済は、生きる為の活動であり、人を生かすための活動だからである。
物や「お金」は、脇役に過ぎない。なぜなら、物や「お金」は、人を生かす為の手段、道具だからである。
「お金」を中心に見るから経済の本質は見えてこないのである。

人は、原因でもあり、結果でもある。

経済の根本は、道徳にある
。ある意味で経済は、極めて宗教的なのである。
人は、なぜ、生きているのか。人はなぜ、働くのか。人は、なぜ、生きる為に働く必要があるのか。その答えは、経済にある。だからこそ、経済は、道徳であり。経済の最終的目的は自己実現にあると言えるのである。
ただ生きるだけでなく、その人その人が自分らしく生きる。それこそが経済が目指すべき境地なのである。
その国の人が何を善とし、どの様な社会の在り様を基盤とするかによる。この点をあいまいにしたら、経済は理解できない。人々は、自分たちの価値観を絶対化する。その為に、他の価値観の人達に考え方を理解する事が出来ない。理解できないから、経済体制の違う国で起こる事が予測できない。価値観が変われば、経済の在り様も変わる。
現代人、特に、資本主義国の人間は、「お金」の価値を絶対化する傾向がある。愛情や幸せだって「お金」で買えると思い込んでいる節がある。経済の根本は「お金」ではない。生きる事、生存である。この事を忘れると魂や命すら売り渡してしまいかねない。
重要な事は、どの様な価値観が絶対なのかではなく。どの様な価値観の上に築かれた経済かなのである。この点を客観的に考えられる様にならないと経済の実体を理解する事はできない。
好例は金利に対する考えである。金利の是非は、経済の問題と言うより、宗教の問題である

故に、人の問題ではモラルハザードが重要な意味がある。人は、どの様な状況下において、何によって行動規範を変えるか。人の行動規範に決定的な影響を及ぼし、それを狂わせる要因は何か。どの様な行動規範が経済を向上させるか。それは経済の根本的な課題である。

経済を動かす仕組み経済を動かす目的は違う。経済を動かす原動力は「お金」であるが、「お金」は、手段であって目的ではない。経済を動かす目的は、人々を生かし、豊かにする事である。経済の目的は、人々を幸せにする事にある。いくら「お金」持ちになっても人々を不幸にするのでは本末転倒である。

経済の中心は人である。人を生かすために経済があるのであって、経済のために人は生きているわけではない。人が中心であるから、経済は成り立っている。
人が生きていくうえで必要な物を生産、調達し、それを全ての人に遍く分配するのが経済の役割である
その為に、資源の過不足を調節する事が経済の仕組みである。その為の手段として「お金」や市場がある。
「お金」が中心で経済は成り立っているわけではないし、宮殿だのお城やピラミッドを建設する為に経済はあるわけではない。
人が、住みやすくするために、街を作り、国を造っているのであって。経済の為に、街や国を造っているわけではない。ところが、現代は、経済中心に街や国が作られている。経済さえよくなるならば、人間の人生なんて滅茶苦茶になっても構わない。そんな風に経済はなりつつある。生産効率だけで言うなら街は、機能的であればいいので、美しくある必要がない。文化は欲望でしかない。人間は、経済の僕ではなく。経済こそ、人間の僕である。
人間の為に、経済はあるので、経済の為に、人間は生きているわけではない。経済は文化でなければならない。経済の中心は人間である。

経済の規模も発展や成長も人口が基数なのである。人々の生活水準が基本であって。金銭の多寡ではない。人間の数しか経済成長の芽はない。
経済が成長がいつまでも持続するなんてありえない。それよりも、どれくらいの人が豊かに生活していねかが大切なのである。経済成長なんてしなくてもいい。平和で豊かに生活がおくれればいいのである。

いくら儲けたかなんて、どうでもいい。それより、何が、どれくらい買えるかが肝心なのである。

故に、経済の中心は人間の生き方にある。どんな生き方を人々は望んでいるかが、経済の中心課題なのである。
また、経済は人口の制約がある。人の数以上に経済は発展できいのである。
だから、経済成長は限りなく成長発展する事はできないのである。人が食べられる量人が一生に着る事の出来る衣服は、限られているのである。人は、不老不死ではない。常に限界の範囲で生きている。限られた時間、限られた物、限られた空間で、どんな生き方をするのか経済の問題なのである。

経済は、人の為にある。
経済は、「お金」の為にあるわけではない。

海外交易にしても国民が生活する上で必要な国内で調達できるかいないの問題で、国内で全てが賄えるのなら、海外と交易をする必要がない。現にかつてのミャンマーやブータン王国は、事実上の鎖国をしていた。
国民が生きていくために必要な物資があるから海外交易を行うのである。「お金」の為に海外交易をするわけではない。
今日の経済は、海外交易が前提となっている
。つまり、海外交易がなければ生存できないのである。ゆえに、海外の事情が直接的に国内の経済に影響する。また、海外から必要物資が調達できなくなると国家の存亡に関わる。
この点を抜きにして国家の在り方を議論する事はできない。
問題は、何が国内に不足していてどこからそれを調達しているかである。そして、不足している資源を国外から調達する為に何が必要かである。
不足している資源を調達する事は、国家の存亡に関わる。故に、国家の存亡に関わる資源で不足しているものをいかに調達するかは、国家戦略の問題である。
我が国は、エネルギーと食料の多くを海外に依存している。これらの物資を輸入する為には、外貨を準備する必要がある。故に、エネルギー食料、そして、外貨獲得の手段は日本の国家戦略に関わる大事である。

経済は、均衡を求める働きがある。これは国際市場も例外ではない。故に、国際交易は、常に、格差を是正しようとする力が働いている。
特に、所得格差と価格格差を是正しようとする力が柱になっている。所得格差は賃金格差であり、生活水準や物価に影響する。価格格差は、為替と物価に働く。
先進国の様に高所得水準の国は、常に、下方圧力が働き、途上国には、上昇圧力が働いている。
個々の国も生活が成り立たなくなったら国際交易も成り立たないのである。経済そのものが成り立たないからである。
海外交易は、双方向の働きを前提としており、一方通行の働では、経済は成り立たなくなる。

経済とは、人が生きる為の活動を言う。要するに人が中心なのである。「お金」が中心なのではない。「お金」は、市場経済の中で生きていくために必要なのである。
人々の生活をどの様にして成り立たせていくかが経済の根本である。
人を忘れたら経済は成り立たない。
ところが近年、人の問題よりも「お金」の問題の方が重要視される傾向がある。そして、人が蔑ろにされる。
人と言うのは、特定の個人や勢力を指すわけではない。全ての人々が生きていけるようにするのが経済である。

財を生産したり、消費するのは、内的な経済である「お金」は、外的な経済で必要だから発達した
「お金」は、名目的な価値であり、「お金」を必要とするのは、非生産的な働きである。なぜならば、生産的な働きは、生産財と言う実体があるからである。生産的な労働に従事している者は、生産財を分け合えばいい。非生産的労働に従事する者は、分かち合う生産財がない。だから、「お金」が必要なのであり、権力が必要なのである。

経済の仕組みは、人々の暮らしに必要な資源を必要な時に、必要とするだけ配分する事に役割がある。
故に、経済を測る基準は、人々にとって何が、必要か。それが適切な量、適切な時に必要とする人に行渡っているかにある。ところが「お金」の為に経済の仕組みはあるような錯覚している人が多い。それがかえって「お金」本来の働きを歪めてしまっている。
その為に、人々の生活に何が必要なのかが忘れられている。その結果、経済的価値は、需給だけで決められている。
欲しい物が優先されて、本当に、必要な財が必要なだけ生産されているのか。それは、貨幣価値に反映されていない。それが、世の中に格差や偏りを生んでいるのである。
例えば、どんなに不道徳な映画でもヒットすれば正しいとされる。道徳的議論は、芸術では禁忌になっている。無論、言論を弾圧するのは許されない。しかし、儲かるからと批判を封じ込めたり道徳的な議論まで否定する事は、言論の自由を保障する事ではない。

人々は、社会的貢献をした対価として働きに応じた報酬を得る。報酬は、分け前である。そして報酬の一部を税として公に対する分け前として供出し、その他の部分を自分の為、私的に目的で使う。税には、二つの側面がある。公共の為という側面権力者への上納と言う側面である。
労働を苦役だとする思想がある。労働は神の与えた罰だという考えである。そのような考え方に立つと労働そのものを否定しかねない。労働の肯定的な働きが失われるからである。しかし、本来、労働は、共同体の一員としての証である。共同体の為に働く事で、共同体の一員として認められる。共同体の一員として正式に認められることで、分け前を得る権利が与えられる。
人件費は、悪だと否定したら、経済は成り立たなくなる。利益だけが目的なのではない。重要なのは費用構造である。なぜなら、費用は、人件費に収斂するからである。人件費は、人の活動に対する対価なのである。費用は、分配の手段であり、費用を否定する事は分配そのものを否定する事である。だから、最低限の所得や労働条件の改善を要求する事は、労働者の権利なのである。
本来、税は公の為の配分である。搾取と言う働きが強くなると権力は正当性を失う。国家権力は、ただの暴力装置に堕する。

かつては、必要性が経済価値の根本であった。「お金」は、交換価値の指標である。交換は、必要に応じて行われた。
禁欲的な人たち、特に、修行者は、必要性のない物事無駄として排除しようとした。しかし、それも行き過ぎると生きる事の喜びまで否定してしまう。本当に必要な物まで否定してしまいかねない。欲は、経済を向上させる力となる。
必要な物欲しい物、その加減が重要なのである。しかし、根本は、必要性である。欲望には際限がないのである。必要を基礎として、欲を力に経済は動いているのである。
欲望を経済の根本としたら経済は、際限なくなる。しかし、現実の世界は、有限なのである。
人々の暮らしに本当に必要な物事は何か。それを忘れたら、この世の中から争いは絶えなくなる。それは、争いは、経済本来の役割から逸脱している行為である。

経済の人に対する目的、役割


経済の目的は、「お金」ではない。人々の暮らしを平和で、豊かにする事である。
人々の生活を豊かにする為には、人々が必要とする物を必要な時に、必要なだけ提供する事である。経済の実体は、人と物にあり、「お金」は、必要とする物を必要とする時は、必要とする人に供給する為の手段である。
故に、経済に決定的な影響を与えるのは、人と物に関連したことであり、疫病戦争内乱犯罪旱魃飢饉地震洪水津波火災事故などである。経済的な災害の多くは人災である。

経済は、人と人との関係の上に成り立ち、人を生かすための活動である。
根本は人間の生活に遡る。

経済の最終的目的は、人に帰す。
要は、国民を幸せにする事である。この点を明確にする必要がある。
国民を豊かにすると言っても豊かさの中身である。

経済の規模は、人口を基礎として決まる。
経済の在り方は、人々の価値観によって方向付けられる。
経済の根源は、人である。

経済規模は、全ての国民が生きていくために必要な物によってきまる。
生活に必要な資源が確保されているかである。
人に対して物と「お金」の過不足が景気を左右する。

経済とは状態である。経済は、状態を指して言う。経済とは観念、また、何らかの存在や行為ではない。
経済は、人々が生きる為の活動を通じて生じる状態を言う。しかも、経済は、人為的に作られた状態である。
経済は、合目的的な行為であり、人は、無目的に財を生産したりはしない。
故に、経済行為において、目的は、重要な働きなのである。それが自然とは違う。つまり、する事であって成るものではない。故に、目的を明確にする事は経済を理解する為の第一歩である。

経済状態を現わすのが景気である。我々は、経済の状態を言うのに、景気がいいとか、悪いとかいう。景気がいい時を好況と言い。景気が悪い時を不況と言う。
この様に、経済の状態を景気がいいとか、悪いとかいうが、その割に景気の本当の意味は、判然としない。
景気がいいというのは、一体全体どういうことなのか、その事を明確にしないで、経済のよし悪しを判断しようとすること自体、土台無理なのである。
景気が悪い時は、目的が悪いのか、目的とは違う方向に経済が働いているかである。多くの場合、本来の目的を人々が見失っている事が一番の問題なのである。

景気とは何か。基本的に景気がいいというのは、経済の状態が良好なことを言う。
経済とは、状態を言う。経済の動向が良好とはどのような状態を言うのか。それは、経済本来の目的から考えるべきなのである。
経済の目的とは、人々が生きていく上に必要な物を、必要なだけ、必要としている人に、必要な時に供給する事である。となると、経済が良好であるとは、必要な物を、必要としている人に、必要なだけ、必要な時に供給できる状態が景気がいい状態なのである。景気がいい状態を保つ為には、「お金」が正常な働きをしていなければならない。
市場が良好な状態を維持する為には、「お金」廻りがよくなければならない。なぜならば、「お金」は、分配の手段だからである。「お金」は、経済における血液である。「お金」が社会全体に満遍なく循環しなくなると経済は、機能しなくなる。「お金」を社会全体に満遍なく行渡らせる事が肝心なのである。
先ず、人々は、働くなり、家を貸すなりして「お金」を得て、その「お金」で必要な物を、必要な時に、必要なだけ市場から調達する。そして、物は、人々の働きによって生産されたり、調達される。「お金」は、人々の働きの対価として支払われる。つまり、「お金」の遣り取り、循環によって経済は、回っているのである。故に、景気は、「お金」廻りに左右される。「お金」が廻らなくなると景気は、悪くなる。つまり、経済で重要なのは、「お金」の流動性回転率である。その前提となるのは、人と物との過不足である。経済は、余っているものを売って、足りない物を補充する事が主たる活動である。その根本、人に対してにある。

ただ、根本は、必要な物を、必要な時に、必要なだけ、必要とする人に供給する事である。それを実現する為に、「お金」はある。「お金」が原因で景気が悪くなるのは、「お金」が、本来の役割を、果たさなくなる事である。この点を間違ってはならない。「お金」が足りないから景気が悪くなるわけではない。
必要な時に、必要とする人に、必要とするだけ「お金」が行き渡っていなかったり「お金」が廻っていない事が問題なのである。「お金」は、分配の手段であるから、多すぎても、少なすぎても正常に働かなくなる。適度な量に調節するのが、金融と財政の役割なのである。
故に、景気対策は、必要な物が必要なだけ供給されているか、必要とする人に必要なだけの「お金」が、必要とする時に行渡っているか、どうかの問題なのである。「お金」儲けは、その為の手段にすぎない手段である「お金」儲けは目的にはならない
生産主体は、必要に応じて財を生産し市場に供給し、対価である収益によって「お金」を獲得し、費用によって「お金」を分配する。消費主体は、労働を提供する事で所得を得て、支出によって必要とする財を市場から調達する。
利益は、収益と費用の働きを測る指針に過ぎない。利益自体に実体があるわけではなく、何を収益とし、何を費用とするかが肝心なのである。
市場は、獲得した「お金」生活に必要な資源に変換・交換する場である。

経済が状態を現わしているとしたら、どの様な状態が定常的なのか。非定常的なのか。何が変化を引き起こすのか。何かの事件(イベント)によって変化は引き起こされるのか。それとも、変化は状態によって引き起こされるのか。それが問題なのである。それによって採るべき政策も変わってくる。

市場の状態は永続的なのか。それとも、定常的な状態の方が稀(異常)なのか。
我々は、何らかの法則や基準を仮定する際前提となる空間や状態を明確にする必要がある。一定の状況や前提のもとで生起する現象なのか。状況や前提が違っても法則や基準は一定なのか。多くの経済学者にとって状況や前提の変化や違いは、経済政策を立てる上で問題とならないと考えられているように見える。
その証拠に、市場を取り囲む状況前提が変化しても規制緩和をすれば万事解決すると頑迷に主張する経済学者や評論家が後を絶たない。彼等に、いくら状況や前提が変わったのだと言っても聴く耳を持たない。

多くの人は、市場は無尽蔵に経済的価値を生み出すと思い込んでいる。そして、経済的価値が無尽蔵に生み出される事を前提として経済を考えている。しかし、経済の根本は人である。人の数は限りがあるのである。また。人間が生きられる環境にも限りがある。
人が一生で必要としている物には、限りがある。人間が一生に食べられる物にも、着る服も限りがある。
経済の基数は、人と物である。人と物は、有限だからこそ量が測れる。それに対して「お金」は無限である。故に、「お金」には上限を設ける必要がある。

経済とは、人が生きる為の活動である。故に、経済の起点は人である。
人が必要とする財を生産、あるいは、調達して、遍く、人々に配分する行為が経済なのである。
「お金」は、人々か必要とする財を生産、あるいは、調達し、全ての人に分配する為の手段、道具である。

人は、「お金」のために生きているわけでも、生かされているわけでもない。市場経済で生きていくために「お金」が必要なだけである。生きる事が目的で「お金」は手段である。

人の役割は、生まれて、働いて、結婚をして家庭を築き、子供を産んで、育てる。これが基本である。
無論これは基本であって違う生き方を選択する事もできる。しかし、生まれて働いて結婚をし子供を産み育てるというのが基準である事に変わりはない。そうしないと子孫は残せなくなるのである。

そして、この基本に、生病老死が関わる。それが経済における人の目的と役割を形作るのである。

経済の目的は、国民生活にある。経済の主役は人なのである。

世の中に不必要に物程「お金」がかかる。なぜなら、世の中に不必要なものだからである。世の中に必要な物は、実体と経済が合致している。不必要な物は、「お金」でしか測れない。だから、必要性がなければ、価格は、際限なく上昇するのである。
「お米」の値段が宝石程、高価なら「お米」は、主食にはなりえない。宝石が「お米」と同じ程度の値段なら宝石は宝石としての価値を持たない。しかし、人々が生きていくために不可欠なのは、「お米」であって宝石ではない。

生きていくために必要な物ほど安い。経済には、このようなパラドックスが沢山ある。
ただ、これが経済の本質を誤らせる、安い物は価値がないといった錯誤の原因ともなる。安いから価値がないのではない。価値があるから安くなるのである。

価格は、社会的分業の結果であり、相対的に決まるという事を忘れてはならない。
例えば、一国の総生産が変わらなければ、所得口が増えたとしても分配の比率が変化するだけで、経済の実質的規模が変わるわけではない。また、名目的な所得が変わっても実質的な経済規模は変わらない。

住宅用の土地が同じ面積なら家の数が増えても面積が狭くなるだけである。その場合、価格が家の品質や価値を表しているとは限らない。単に、需要と供給に拠っているだけである。また、「お金」の供給量に基づいている場合もある。所得の偏りを表している事もある。

重要なのは、何を人々が求めているかであり、価格は、人と物と「お金」の関係を表しているに過ぎないという事を忘れてはならない。そうしないと価値のない物に多額の「お金」を支払う事になる。

「お金」は、非生産的で不必要な部分によって拡大した。そして、一番、非生産的で、不必要な行為は、戦争である。戦争が、貨幣制度を拡大発展させたのである。故に、現代の経済と戦争は、切っても切れない関係にある。

農業や製造業等の生産的仕事
の生産性が上がったから非生産的仕事が占める割合も拡大したのである。生産的仕事と非生産的仕事は、個々独立して関連せずに存在するわけではない。非生産的な仕事が占める割合が生産的仕事が生み出す生産量以上に拡大すれば、需要を吸収しきれなくなり、経済は、破綻する。
所得と支出の構成や割合は、経済の縮図なのである。だからこそ、生産、所得、支出の関係が経済を表しているのである。

経済性について多くの人が誤解している。経済性と言うのは、より少ない資源やエネルギーによってより多くの経済的効用を得る事である。つまり、最小限の資源・エネルギーによって最大の効用を得る事である。
この事を突き詰めるとどれだけ多くの人が必要性を満たしているかによるのである。「お金」を沢山儲けるとか、競争力をつけるとか、無制限に物を生産するという事ではない。
基本は、生産すべき物を必要なだけ生産する消費すべき物を必要なだけ消費するのが原則である。生産すべき物とは、人々が必要とする物であり、消費すべき物とは、人々が生きていくために必要とする物である。無駄に作って無駄に捨てるのは経済性を悪くする。節約や倹約は経済性をよくし浪費は経済性を悪くするのである。
欲しい物を欲しいだけ生産し、消費しきれなかったら捨てればいいというのではない。


生活の場


経済は、生きる為の活動である。言い換えれば経済の仕組みは、人々を生かすためにある。人々の生活を成り立たせるために経済の仕組みがある。
では、人々の生活が成り立たせている要因とは何か。それが明らかになれば、経済を構成する要素を知ることができる。
まず人が生きていくためには、生活に必要な物を調達する必要がある。調達する手段は、自分で生産するか、他者から譲り受けるかである。
自給できる資源以外は、他者から譲り受ける必要がある。他者から譲り受けるとは、交換を意味する。
他者から必要な資源を譲り受ける以外の手段としては強奪、奪い取る事がある。しかし、現代社会は、一般に奪い取る行為は、犯罪として見なされる。故に、基本的に経済行為の範囲は、譲渡を前提として画される。譲渡の手段は、売買か贈与である。市場経済では、売買を根拠とする。なぜならば、市場は交換を前提としているからである。交換は双方向の働きがある事を前提としているからである。

市場経済は、何らかの形で生産手段を提供し、生産手段を提供した対価として収入を得て、獲得した収入によって市場から生活に必要な資源を調達する事で、成り立っている。
基本は、働いて得た稼ぎによって生活をする事である。これが原則である。

この事から、先ず、社会全体でどれくらいの生産がされたかを表す総生産どれくらいの所得を獲得したかを表す総所得どのくらいの師主査がされたかを表す総支出が均衡している事が求められる。この中で総所得は、総生産と総支出を制約している
次に、所得が人々に行渡っているかが問題となる。
生産の対価として所得は支払われ所得の範囲内で支出はされるからである。所得が満遍なく行渡っていないと市場経済は成り立たない。言い換えると所得が行渡らなくなった時、市場経済は破綻する
そこから生産に従事して所得を得ている人口総人口の関係。働きによって所得を獲得できない人口が生産労働に対してどれくらい占めているかを表す失業率一人の所得でどれくらいの人間が生活しているか等が大切となる。
一人当たりの所得の平均と分散、上限と下限。下限を知る必要があるのは、生活をする為に最低限必要とされる所得が保障されていないと生活が成り立たない、即ち、経済的に破綻する者が出てくるからである。
支出から見た場合、生きていくために必要な資源が調達されているか人々の欲求を表す需要を満たしているか。支出は、どの様な構成になっているか。支出の構成の変化は、産業や所得の構成の変化に反映される。そして、物価の動向である。需要と供給の関係は、価格、即ち、物価に反映されるからである。
もう一つ重要なのは、「お金」の果たす役割である。「お金」は、交換を媒介する道具であり、分配の手段である。常に、一定量の支払準備として市場に「お金」は、供給され、かつ蓄えられている必要がある。また、常に一定量の「お金」が市場に流通、循環していなければならない。一定量とは、経済量を意味する。

人の経済は、生活の場で成り立っている。生活の場は消費の場でもある。
かつて、生活の場は、仕事の場日常生活の場は一体だった。生産と消費の場は一つだったのである。
生活の場が拡大するにつれて生産の場消費の場は分裂していった。その隙間に成立したのが市場である。
生産の場は、職場となり、消費の場は家庭を形成した。家庭は、家族の場であり、育児の場でもある。

生活の場は、生活共同体でもある。
生活共同体は、生産主体消費主体を兼ねていた。仕事の場と、生活の場が分離するのに伴って生産主体と消費主体が分離確立され、分配主体が形成されていった。
生産と消費が分離する過程で、分配主体分配の場である市場が形成されていった。また、分配の手段として貨幣が発達した。

経済単位は、基本的に経済主体に基づく。経済主体は、内部経済外部経済を生じさせる。
内部経済は、非市場的非貨幣的道徳的(内面の規範)組織的で閉じられた空間である。それに対して外部経済は、市場的貨幣的非道徳的(外的な掟や法)自由で開かれた空間である。

生産と分配、消費の場が確立される過程で、個人の働きにも変化が生じた。生産、消費、分配が一体の時は、個人の問題は、全人格的な問題として統一的にとらえる事が可能だったか、社会の分業が深化し、更に、生産の場と消費、分配の場が分離した結果、それぞれの場での役割、立場の違いによって個人の働きや行動規範も使い分けざるを得なくなった。それは、一己の人間として価値観を分裂させ、極度な緊張、ストレスを生じさせることとなったのである。

一人の父親として、また、夫として、組織人として、労働者として、所得者として、生産者として、消費者として、あるいは、一人の母親として、妻として、職業人として、女性として、家庭人としての役割を一人の人間が一己の人格の中で統合しなければならなくなったのである。

生産と消費が分離し、市場経済が発達する事で必然的に経済の在り様も変化してきた。

現在、生活を成り立たせるためには、働いて所得を得る必要がある。
就学期間は、就労期間の準備期間である。つまり、働いて「お金」を稼ぎ、稼いだ「お金」で生活の糧を得る。それが人の日々の生活である。
そして、この日々の生活は、基本的に同じ事の繰り返しである。
一定の順序でやることが決まっていて、それを日々繰り返す。その繰り返しの中で自分の生きる道を選択していく。
それが人のアルゴリズムを構成するのである。
人のアルゴリズムは、踏み分け道のような事である。

一日生活の基調、リズムは、基本的に平凡である。
朝起きて、顔を洗い、歯を磨き、食事をして、出勤する。職場に着いたら仕事をして、お昼になったら昼食をとる。夕方仕事が終わったら、家に帰って、夕食を取り、入浴して就寝する。この繰り返しが、寄り集まって経済のリズムとなる。

人々の生活が経済の基礎を構築する。
三度三度の食事が農業や漁業、食品産業を売を生み出し、着る服が服飾産業を育む。住む家が建設業を形成し、日々の生活に必要な事、娯楽に必要な物が、電力産業や石油産業、通信産業などの礎となる。子供たちの教育や育児が教育産業となる。

人々の生活は、経済の起点であり、終点である。

経済の最終目的の一つは、地域コミュニティを構築する事にある。



家族


人の経済の基礎は、家族にある。家族は、全ての経済の始まりである。

家族は、基礎的経済単位である。現代経済の根源的単位は、家族である。家族は、経済の始原である。
家族は、消費主体を形成する。

家族は、生活の場を構成する。家族は、かつては、生産の場であり、消費の場であった。家族は、生活共同体である。生産の場と消費の場が分離する過程で、生産主体と消費主体が確立され、内部経済と外部経済が形成された。
家族は、基本的に血縁関係によって成立している。つまり、経済の大本は、血縁関係、即ち、夫婦、親子、兄弟、姉妹である。いくつかの世代が組み合わさる事で、家族は構成される。世代の組み合わせ方が家族制の基本となる。

家族の在り方は、経済の枠組みの基礎となる。家族の在り方は、家族制度に現れる。
親子関係が三世代にわたっている家族制度を中家族制度と言い、それ以上に及ぶ家族制度を大家族制度、核となる夫婦、親子だけで構成されるのが核家族制度である。
生活の場と仕事の場が分離するにしたがって大家族制度は、核家族制度へ、更に、単身世帯へと推移している。
これは、生活共同体の解体にも結び付いている。

かつての大家族は、一族郎党、親戚を指していた。中には、執事、下女や下僕、女中や子守、家令と言った働き手を雇っていたこともある。財政学は、家政から発展した官房学を始原としている。消費経済が確立されていたのである。王家、貴族等の権力者も家を中心とした集団だったのである。それ故に、家族制度は、封建制度の基幹を構成していた。家族制度そのものが国家だったと言っても過言ではない。

家族制度の変化は、社会的格差を質的にも量的にも拡大する。
原因の一つは、世帯単位が細分化される事によって内部経済が圧縮され、外部経済が拡大する事である。内部経済は、非市場的経済非貨幣的経済であるのに対して、外部経済は、市場的経済貨幣的経済である。
その為に、市場や貨幣の圏域範囲が拡大するのである。
大家族主義の時は、現金収入に多くを頼っていなかったのが、核家族化されるに従って現金収入に多くを頼らざるを得なくなってきた。それが、共稼ぎの増加などを招き、合わせて家事の外注化によって外部経済が内部経済に取って代わっているのである。その為に所得格差がそのまま経済格差になってしまう。
大家族制度は、低収入でも成り立つ。しかし、核家族化すると高収入が求められる。反面、大家族は、核家族に比べて不自由なのである
第二に、経済のグローバル化である。経済のグローバル化は、所得と労働を平準化する。つまり、世界的に同一労働同一賃金化を推し進める。その結果、地域経済の格差がそのまま一国の経済格差に反映される。それは、先進国と途上国の経済摩擦の原因にもなる。
グローバル化は、国家間の経済格差をあからさまにする。生活水準や物価水準と所得水準を平準化しようとする力が働く。それは、労働の二極化を招く。高付加価値労働と、単純労働が二極化するのである。
所得格差は、国家間の経済格差を反映しているともいえるのである。
先進国では、労働の高付加価値化が求められ、それに、適応できない者は、相対的に低賃金に甘んじるか、職を失う事になる。また、産業の空洞化の原因にもなる。
経済発展を単純に生産性ばかりに求めると、所得水準の高い国は、高付加価値の労働に収斂する。しかし、経済の底辺を支えているのは、単純反復未熟練肉体労働である。仕事には、適正があり。特殊技能や特殊な知識がある物の為だけに経済の仕組みはあるわけではない。特殊技能や特殊な知識を持つ者の方が圧倒的に少数派なのである。滑稽な事に、所得水準の上昇は、所得水準の低い国との格差を国内に持ち込むのである。内外所得格差国内の所得格差を増幅させるのである。
どんなに経済が発展しても人間の能力まで発展するわけではない。単純肉体労働しかできない者にも、生活をする権利はあるのである。
所得は、労働条件にも関わる。安易に廉価を求める事は、労働条件の悪化を招いたり、貧困の輸出を促進する事にもなる。また、所謂、知識人の傲慢さが経済格差を拡大させているのである。
先進国の過ちは、普通一般の労働を軽視する事である。
第三に、世代間格差の拡大である。所謂、高齢化問題である。大家族制度では、三世代、四世代などの複数の所得が合算される。しかし、核家族化されると一世代の所得への依存度が強くなる。そうなると所得を獲得できる世代と、所得が獲得できない世代との間で格差が拡大する。
重要な事は、所得を獲得できる期間生存期間は別だという事である。大家族などの複数の世代が一つの生活共同体を形成している時代は、内部経済に所得を平準化し、併せて、高齢者の介護などをしてきたが、核家族化されると世代間の家計が独立してしまい、世代間格差が露呈する事になる。核家族化が進行した社会では、年金や介護制度等によって世代間の所得の再配分をする必要性が生じる。それが社会負担の増大を招くのである。

家族は、世帯を形成する。世帯は、経済における行政単位でもある。

世帯の中で働き手が何人いて、その内、何人が所得を獲得しているかが経済の基礎となる。
家族の構成者働き手、そして、所得者は一体ではない。

一世帯の中には、扶養家族が一般に存在する。扶養家族とは、自分では、所得が獲得できずに、他の家族の収入に頼っている家族である。主として成人前の子供現役を引退した高齢者、そして、専業主婦などを指すが、専業主婦を扶養家族とするのは本来ならおかしい。なぜならば、専業主婦も働いていないわけではない。むしろ、経済的に相当の働きをしている。ただ、非賃金労働だというだけなのである。
旧家族制度が成立していたのは、主婦の働きが大きい。家内経済の中心は、主婦であり、母親である。父親は、かつて、家内を守るために外に働きに出たのである。故に、家内と家外とは対等である。
内部経済を否定してしまったら経済は成り立たなくなる。消費の中心は内部経済である。家内で働く者家外で働く者も互いに尊敬心を持つべきなのである。

消費主体は、経済の基礎単位である。なぜ、消費主体が経済の基礎単位となるのかと言うと消費は全ての人が関わっているのに対して、生産や分配は一部の人間にしか関りがないからである。
また、消費は最終目的であり、消費の在り方によって生産や分配は、制約されるからである。生活に不可欠な物を確定するのは、消費であり、生産や分配ではない。故に、経済の根本は消費にある

そして、家族を構成する者の数の集計、即ち、全人口が経済の規模を確定し、働き手の数が実体経済の範囲を、所得が市場の規模を確定する。

共稼ぎが増えても付加価値が増えるわけではない。生産量に変化がなければ単に所得口が増えたに過ぎない。

核家族は、大家族より不経済なのである。故に、核家族化が進んできたら、核家族化の持つ不経済な部分を補う必要が出てくる。家族が大きい方が何かと節約できる。また、過不足も緩和できる。

最初は、家族の生活を維持する為に必要な「お金」を稼ぐために働きに出ていたのである。基本は、家族の生活を維持する事である。

少子高齢化で一番の問題は、分配にある。
年金生活者が増えるという事は、不労所得者が増えるという事である。大家族主義では、一家の総収入で全ての家族を養ってきた。つまり、高齢で働けない者、家内労働に従事する者(専業主婦)、扶養家族も生産に従事する者の収入で面倒を見てきた。
生活費全般を稼ぐことが働きに出る事の目的だったのである。しかし、核家族化が進んだ今日は、一世帯を養うの精一杯であり、年金や生活保護、失業保険等で不足分を補てんする事が原則となっている。
それは、公的支出の果たす役割が拡大しているということを意味する。
つまり、分配の在り方が抜本的に変わったのである。そして、この変化は、少子高齢化を促進する働きがある。
つまり、所得が個人に帰属すればするほど家族を養うだけの分配が得られなくなっていくからである。
所得は、あくまでも個人に帰属する。その結果、扶養家族や失業者は公的支出に依存しなければならないが公的支出を裏付ける収入は、税収に依存している。公的支出は、付加価値を生み出さないから、税収は、個人所得か消費に依存せざるを得なくなる。個人所得そのものが個人の生活に依拠している以上、不労所得者の支出を賄えるほどの税収は期待できなくなる。そうなると不足分は、国債に依存せざるを得なくなる。
つまり、支出の財源が所得ではなく、借金に移行していく事になる。
所得税から消費税への移行が不可避なのは、所得からの分配では不労所得者への分配が維持できなくなるからである。分配の基礎を消費に求めざるを得ない。

それは、所得や収益を柱とした市場経済の変質を意味する。営利事業が成り立たなくなるからである。また、個人所得だけでは、消費を賄えなくなる。
問題は、フローとストックの均衡が維持できるか。また、勤労意欲を高め、維持する事が出来るかである。

働いて、労働の対価としての報酬を得て、その報酬に基づいて家族を養い生活していく。あるいは、部屋を貸してその対価として得た家賃を元にして生活するという根本が崩れてしまう。
そして、借金や補助金によって得た収入で生活する。そうなると、働くとか、部屋を貸すという生産活動の意味が失われてしまう。必然的に勤労意欲も失われる。生産と働き、そして、消費の関連が失われるのである。
働いても働かなくても同じ。働かなくても生きていれるとなれば、汗水たらして働く動機がなくなる。働くこと自体が馬鹿馬鹿しくなる。そうなると働き手はいなくなる。しかし、完全に人間は、労働から解放されるかと言うとそれはあり得ないし、労働の持つ意味が失われてしまう。労働は、生きていくうえで否定的な要素ばかりではなく、自己実現に対して決定的な働きをしている事を忘れてはならない。
そして、労働は人間関係。家族の絆でもある。働いてその報酬で家族を養うという関係が失われれば、家族の紐帯も失われる。それが少子高齢化の背景でもある。
労働は、単なる苦役ではない。それ自体が自己実現の手段なのである。

昔から人は、営利事業を目の敵にしている傾向がある。金を儲ける事は、悪行であるかのように考える。特に、宗教においては、金利は悪だとする傾向がある。金利と言うのは、付加価値や時間価値の代表のような物である。付加価値や時間価値を否定する事は、営利を否定する事につながる。
だから、お金を儲けるという事の客観的意義、働きが正当に評価されない。正当に評価されていないから、逆に、不当に過大な利益を上げる者や法外な所得を受ける者が出る。その結果、格差が拡大する。
所得や収益の働き、営利の意義を正当的に評価しない限り、市場経済は、有効に機能しなくなる。
暴利は悪である。しかし、正当な利益には、それなりの働きがある。利益は指標の一種である。


経済の基本は所得にある


市場経済の肝は、収支の均衡である。収支の構成とは、収入の構成と支出の構成である。収入の構成は、所得と借入、資産の取り崩し。支出の構成は、決済と返済、資産形成である。
収支の構成の核心は、所得である。収支は所得を中心にして成り立っている。所得の対極にあるのは、支出である。所得を返済額が上回ると総資産は減少に向かう。
危険なのは、表面に現れる所得の流れに対して水面下の借金の返済の流れが逆転する事である。要は、稼いだ「お金」より過去に借りた「お金」に対する返済額が上回ったら経済が成り立たなくなる。これは、家計だけでなく国家も同じである。
国家と家計は違うという意見があるが、国も企業も家計も変わらない。要するに、借金し続ける事が出来るのなら破綻していないように見えるというだけである。しかし、そんなことをしたら際限なく借金は増え続ける事になる。
しかし、それは、勤労の意義を失わせる事である。勤労の意義が失われるという事は、生産の意義も失われることを意味する。

働いて得た報酬で生活する。それが市場経済の根本である。借金や補助金でしか生計が立てられなくなったら市場経済の根本が変わってしまう。
借金の返済額が所得を上回るようになっても生活が成り立たなくなる。借金を返済するために、借金をする様になったらお終いである。「お金」が本来の働きをしなくなるからである。
「お金」は、分配の手段である。「お金」は、生産者と消費者を結びつける手段でもある。市場本来の働きは、生産者と消費者を結び付ける場である。借金や補助金で生活をする様になったら市場は機能しなくなる。

市場経済の基本原則は、何らかの生産手段を用いて所得を獲得し家族の消費生活に必要な資源を市場から購入する事で家族を養う事にある。この点が重要なのである。
獲得した所得によってどれだけの人を養う事が可能か。それが市場経済の基本になる。

つまり、所得を柱とした経済体制が市場経済なのである。この点を間違うと経済の在り方が理解できなくなる。収入の手段には、所得だけでなく、借金がある。現代社会の問題は、所得の役割が借金に置き換わろうとしている点にある。
借金には、対価としての実体がない。借金は、支払準備であり、資金移転である。つまり、借金には、生産性がないのである。

所得の対極に位置するのが収益である。市場経済のもう一本の柱が収益である。
基本的に負債を担うのは、民間企業の役割である。なぜ、民間企業が負債を担うのか…。それは、民間企業は、営利事業ができる主体だからである。
金融機関は、金利、一般政府は、税、家計は、所得が収入源であるが、金利は、生産活動から生まれたものではないし、税は、資金移動である。所得の本質は、費用であり。所得の源泉は、収益にある。税も、金利も、所得も付加価値を生み出せない。
民間企業は、営利活動を通じて借金の返済ができる。故に、民間企業だけが負債を担う事が出来る。民間企業が生産活動を通じて収益を上げる事によって、金融機関も、家計も、一般政府も負債を返済する事が出来る。

所得は費用である。利益は、収益と費用の均衡を計る指標である。費用が収益を上回れば、人件費を負担しきれなくなる。所得は、費用であると同時に生活費の資源である。つまり、適正な収益が維持されなければ、所得を負担しきれなくなる。もう一つ重要なのは、収益の中から借金の返済資金を賄っている点である。しかし、借金の返済額は、損益には計上されない。つまり、働きが見えないのである。それが企業においては、突然死を招き、市場においては、流動性の喪失を招くのである。

財政問題の根本は、一般政府が負債を担う事になった事による。その結果、ストックが拡大し、フローが圧縮された。それは、市場の水面下の資金の流れと表面の資金の流れの均衡を崩したのである。水面下に「お金」の遣り取りの為の資金量が、支払いの為の資金量を上回るようになってきたのである。そうなると、「お金」は、本来の働きが出来なくなる。

資産価値の下落が担保余力を低下させた事と、無原則な規制緩和が収益を圧迫している事である。この二点を改善しない限り、市場は正常な働きを回復できない。

重要なのは、配分である。何を基準として、どことどこにどの様な配分するか。個人所得を基準にして家計と企業、一般政府、そして、海外に配分するとする。その場合、個人所得で、どれくらいの負担をすべきかが問題となるのである。この点が正しく理解されていない。
個人所得の中から企業の収益や税を配分しようとした場合、個人所得の性格が問題となる。個人所得は、必ずしも生産的活動から得られるわけではないからである。働いた成果に対する対価として支払われる報酬以外に、年金や補助金のような非生産的な所得がある。そして、年金や公的補助金は、税金によって支払われる。更に、借金の返済もしていかなければならない。借金は、その人個人の借金だけでなく、公的負債も含めてである。
税が個人所得に主として依拠していたら、結局、年金や公的補助金の財源は、個人所得に求められる事になる。
故に、少子高齢化が進めば、個人所得だけに頼るわけにいかなくなる。だから消費税へと比重を移す必要が出てくる。
よく生産労働年齢世代が何人扶養しなければならないという議論がある。それは、錯覚である。絶対額が問題なのではなく、配分が問題なのである。生産年齢世代に全ての負担を持たせるとすれば相応の所得が求められるという事である。
年金や諸々の社会保障費が負担できるだけの所得配分がされるのならば成り立つ。成り立たなければ公的な負債が積み上がっていく。
もっと深刻なのは、借金の返済が所得を上回る事である。そうなると所得を柱とした経済が成り立たなくなる。

所得の適正度を測るためには、所得の平均、分散、偏差、最大値、最小値、幅を知る必要がある。

経済の仕組みの根本は、分配である。分配の根本は、一人当たりの所得である。所得は、購買力を生み出す。購買力は、消費の原動力である。一人当たりの支出の構成が消費の分布を表している。消費は、経済の源である。消費は、市場を形成する。消費は需要の源泉である。消費が集合して需要は構成される。需要は、収益を生み出し、産業を形成する。
故に、消費の水準と分布が一国の経済の素地となる。また、消費の伸縮は、市場の拡縮方向性を定める。
総生産の部門構成は、産業構造を現し、総生産の推移は、産業構造の変遷を表している。一次産業、二次産業、三次産業の構成比は、消費と生産性の変化をも意味する。例えば一次産業の所得が、総所得全体に占める割合相対的に減少しているのは、反面において生産性の向上を意味している場合がある。
総生産を構成する産業構造は、支出の構成を基礎として形成され、支出は、所得を源泉とする。産業構造は、家計構造を反映している。
総生産の構造と、所得の構造、支出の構造は、一体であり、また、経済の構造を現している。また、所得は支出を制約し、支出は産業を制約する。産業は所得を制約する。

経済の根本は、所得にある分配の準備は、所得によってなされるからである。
例えば、国際交易は、所得水準の均衡が根本にあって成り立っている。経常収支は、所得水準を均衡しようとする力が国際市場には働いている。所得の内外格差を是正しようとする方向の力が働いている。
所得は、賃金であるから所得水準の均衡は、賃金水準の均衡に繋がる。
その過程で貿易の不均衡や産業の空洞化などが生じるのである。
賃金格差と言うが低賃金国でも生活が成り立たなければ経済は成り立たない。生活が成り立つためには、所得と支出が均衡している必要がある。土台、所得格差も賃金格差も相対的なのである。
所得と支出が釣り合わなければ、暮らしは立ち行かなくなる。
故に、所得水準と物価水準が決め手となる。
所得水準と物価水準は、購買力を意味する。国際市場の購買力は均衡する方向に働く。背景には、一物一価の原則が働いている。それが購買力平価である。
海外交易によって国内経済が成り立たなくなったのでは意味がない。いつまでも賃金の内外格差が続くわけではない。
内外価格差は、また、労働条件の違いによっても生じる。要は、費用としての所得が低いのである。所得は、報酬であり、収入であり、賃金であり、人件費であり、生活費なのである。一つの所得がこれだけ多くの側面を持っている事を忘れてはならない。

発展途上国は、相対的に賃金が低いと言っても、発展途上国の国民にも生活があるのである。生活が成り立たなくなったら経済は成り立たない。
発展途上国において低賃金でも経済が成り立っているのは、低賃金でも生活が成り立っているからである。

発展途上国で生活が成り立っているのは、日常品の物価が安いからである。また、労働条件が劣悪である場合もある。ただ、低賃金だからと言って国民生活が成り立たない訳がない。
そこが問題なのである。そして、この点に経済の本質がある。

所得が低いままで、生活水準の向上がなければ、それは自由主義国とは言えない。経済が成長するにつれて所得も向上し、費用も上昇するのである。
先進国と言われる国々は、所得が伸びるだけ伸びたのである。途上国も経済が拡大するのに伴って所得も拡大するのが、常である。

途上国もいつまでも発展途上だという訳にはいかない。先進国並みの生活水準にいずれは追いつく。所得が相対的に一定の水準に達すると市場に下げ圧力、縮小圧力がかかる。成長段階から成熟段階へと移行するのである。飛行機も上昇し続ける事はできない。一定の高度に達したら、水平飛行になるのであり、水平飛行の時間の方が一般的には長いのである。

世界経済は、生活水準の均衡点に向かうような力が働いている。
所得の本質は働きである。絶対額にあるわけではない。所得は相対的な働きである。
所得は、支出される事で効用を発揮する。故に、所得の働きは、支出の構成として現れる。
故に、経済の実体は、支出の構成に要約される。支出は、経済の縮図である。

支出の質を変化させているのは、固定的支出が占める割合が相対的に上昇している事である。
特に、月賦やローンと言った借金の返済と最近増えている定額の課金である。借金の返済や定額の課金は、一つひとつは少額でも蓄積されると可処分所得を圧迫する。所得の伸びが止まると借金の返済は、負担は、軽減されなくなる。支払能力を超えてくると借金の負担は増殖する傾向がある。
また、支出の固定化は、収益の硬直化を招く。資金繰りが窮屈になってくるのである。資金繰りが窮屈になると経済活動は抑制される。市場の金回りが悪くなるのである。

経済は、生活に使われる部分以外に公の部分がある。私的部分と公的部分の配分も所得に現れる。公的な部分は、国防や国家秩序に払われる。公的支出の多くは、非生産的支出である。
公的支出は、国防、防災、治安、教育、福祉、所得の再配分等が主たる部分を占める。ただ、公的な部分の比率が多くなると生活を圧迫するようになる。
経済は、分配の仕組みである事を忘れてはならない。例えば、軍事費が経済規模に比して過大になれば、生活は圧迫され、財政は知らず知らずのうちに圧迫される。国防に対する支出は、あくまでも国を守ることが主眼である事を忘れてはならない。軍事費によって財政を破綻させる事は本末転倒である。

所得の分布は、経済の状態を表している。経済格差の拡大は、経済効率を著しく弱める。

家族の構成の変化は、経済のファンダメンタルズ(基礎的要件)を形成する。
かつて、所得は、男が独占していた。基本的に一人の稼ぎによって巣族は養われていた。農家でも、封建的な体制で男性が主人として君臨していた。それが女性の経済的自立が促され、稼ぎ手は、一人とは限らくなり、世帯が分裂、独立して、核家族化し、経済の最小単位が個人へと移行してきた。
この事は、経済の基礎的要件を変化させてきた。第一に家族制度の崩壊である。経済が個人主義化するに従って家族の紐帯が失われ、共同体としての家族が成り立たなくなってきた。即ち、家族の相互依存関係が薄れ、その分、国家の役割や負担が重くなった。第二に、市場の拡大である。市場の拡大は、貨幣的空間の拡大を意味する。全ての価値が貨幣価値に換算されるようになったのである。第三に、世代格差が失われている。実績主義、成果主義的傾向が強りまり、報酬から属人的な要素が削減されている。例えば子育て世代の負担相対的に増加している。その結果、扶養家族が多い世帯の負担が大きくなり、それが、単身世帯を増加させ、少子高齢化に拍車をかけている。要するに結婚して家族を持たない者の方が経済的に優位になっている。

この様な環境の変化は、経済の基礎的要件を変化させている。一つは、家族の在り方、結婚制度の在り方の根本に問いかけている。二つは、男女関係の改善が求められている。三つめに、育児問題、子育て世代の負担をどう軽減するのか喫緊の課題となっている。四つ目は、高齢者問題である。五つ目が労働問題であり、雇用問題である。労働の評価をどの様にすべきかが重要になってきている。六つ目が健康、医療問題である。

家族は、経済の基礎なのである。

日、週、月、旬、年


経済等は、波がある。経済の波、波動が経済を動かしていると言っていい。経済の波には、定期的な波と、不定期な波がある。

経済運動の基本は、循環運動であり、過不足を補うための揺れ戻しである。故に、経済は、周期運動が派生する。
経済の基礎を形作るのは、反復運動である。
故に、一方的に上昇したり、逆に、下降し続けるわけではない。また、成長拡大するだけでなく、調整期・縮小期もある。拡大する市場と縮小する市場が混在する事で経済の調和は保たれている。

この様な循環、反復によって生み出される波動以外に、生成、成長、成熟、衰退、再生と言う段階が生み出す長期的な周期、生産、分配、消費、貯蓄と言った過程が生み出す周期がある。
また、資金の過不足による、貸借と売買が生み出す周期がある。

経済は、成長するものだと決めつけている人がいるが、経済は成長する一方ではない。市場は、一定周期で拡大と収縮を繰り返している。成長するだけでなく調整局面がある。それは、経済運動の基本が波動運動だからである。
「お金」の過不足は、反復している。反復する事で資金の循環が起こる。資金の過不足が反復しなくなると経済の湯済みが蓄積される事になる。経済は、貸借と売買の均衡の上に成り立っているのである。
「お金」を持つ者は、使って「お金」を放出しなければならない。「お金」が不足する者は、働いて「お金」を補充しなければならない。「お金」を持つ者と「お金」に不足する者の働き資金を循環させるのである。

即ち、市場経済は、「お金」を放出する活動支出)と「お金」を補充する活動所得)とによって成り立っている。

経済の仕組みの目的は、必要な物を、必要な人に、必要なだけ(量)必要とする時に供給する事である。
この目的を構成する要素が、経済に一定の波を作る。
つまり、物は、生産やライフサイクルによる波を作る。人は、消費や必要性による波を作る。必要量は、収獲や保存に基づく波を作る。時は、生産、消費、在庫、運搬等による波を作る。

基本的に経済は、季節変動の影響を受ける。衣服の様に工場生産のような製品でも消費に季節変動がある場合は、製造設備で波を調節する事は難しい。故に、経済の動向は、季節変動の影響を受ける。この季節変動をどの様に処理するかが、経済を考える上で重要な要件となる。
季節変動の仕組みを理解する為には、季節変動を引き起こしている要因や構造を理解する必要がある。

必要な物を生産する為には、時間がかかる。また、農産物や魚は、季節によって採れる産物や収獲量が変化する。それに対して工業製品は、設備の設置状態によって生産量が変わる。また、住宅の様に製造する期間が長期にわたるものもある。この様に、生産する物や生産手段によって生産する期間や時間が変化する。

財を消費するののにも時間がかかる。即ち、消費期間がある。消費期間が生活に波を作る。消費期間によって作られ波が生活のリズムを作る。生活のリズム経済のリズムの基となる。

生活には、リズムがある。リズムとは、一定の周期で繰り返される日常的な働きによって形作られる。
この日常的な活動も単純ではなく。宗教的、文化的な制約の上に成り立っている。
一日三食、食べる習慣がある地域では、朝、昼、晩と食事による周期が生じる。この様な一日の定型的で周期的な働きは、経済の基本的な働きを形成する。経済の基本的働きは、収支として現れる。即ち、出金入金である。
市場経済下では、経済主体は、入金と出金で動いている
また、衣服の様に、一年単位で消費される物もある。自動車の様に一定の周期で買い替える物もある。家の様に一生一度の買い物もある。この様に消費の周期によって資金の性格は、違ってくる
この様な定期的な働きには、内部経済と外部経済がある。内部経済は、家内の経済であり、外部経済は、家外の経済である。

日々の活動が生み出す一日単位の生活による周期以外に仕事が生み出す、一日、一週間、一月、旬、半年、一年、長期的な周期がある。
一週間は、労働時間や働きによる周期を生む。
月は、決済や月給による波を作る。
年は、決算に基づく波がある。また、季節変動による波がある。
経済は、これらの波が複合されて変化している。

一定な周期で繰り返される日常生活は、順次構造と反復構造が組み合わせられて形成される。
この順次構造や反復構造が経済の波の根源となる。
経済の動向を理解する為には、この順次構造や反復構造が作り出すアルゴリズムを解明しておく必要がある。

内部経済の例は、朝起きて、顔を洗って、食事の支度をして、食事をする。掃除洗濯をして昼食を取り、夕食の支度をする。夕食をしたら、お風呂に入って就寝すると言った流れである。三度の食事、掃除洗濯、育児と言った事である。
内部経済に対して外部経済は、基本的に収入を得る目的で形成される。


人の一生


人の一生は、経済の枠組みとなる

人に歴史ありと言うが、そういう意味では、経済は歴史的産物である。
最初から現代のような経済体制があったわけではない。
経済は、本来が合目的的で、人工的な事なのである。
経済は、放っておけば自然に成るものではない。人の意志によって作り上げられるものである。

経済の基数は、人である人の数と構成が経済に決定的な作用を及ぼす。
人の一生が経済の在り様を決める。
その国を構成する国民の風俗習慣が経済の基礎を形作る。

経済の根本は、人である。人の一生である。人の生き様が経済の根底を決めるのである。
経済は、人為的な事である。
経済は、人が生み出すものであり。人の生き方が反映されたものである。
経済とは、生きる為の活動である。

人の一生から考えないと経済本来の姿は明らかにならない。

今日、生きていくために必要な資源は、「お金」を使って市場から調達しなければならない。
生きていくために必要な資源を手に入れる為の「お金」は、一生でどれくらい必要なのか、それを明らかにする必要がある。なぜならば、自分の力で収入を得られる期間は限られているからである。
自分の力で収入を得られなくなったらそれまでの蓄えを頼るか、政府などの公的機関や他人を当てにする以外にない。政府や他人が当てにできないとなったら、働けなくなるまでに必要な資金を蓄えておく必要がある。

経済のアルゴリズムの起点は、人であり、終点も人である。人に始まり、人に終わる。それが経済のアルゴリズムの基本である。

徳川家康は、人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべしと人生を例えた。

生病老死、人の一生は四苦である。そして、この四苦が経済の源でもある。

人の一生は、不可逆的で一筋である。基本的にやり直しがきかない。
時間は残酷である。老いてみれば若さは取り戻せない。どんな権力者でも不老不死は実現できる。
誰もが、老いやがては死んでいくのが定めである。死のふは一定(いちじょう)、しのび草には何をしよぞ、一定かたりをこすのよ。

死と言う定めは一つ。
但し、人の一生は、一種類ではない。
人の一生は、人それぞれ違う。人はそれぞれ望む望まないに関わらず、自分の一生を選んでいるのである。

人の一生は千差万別、同じものはない。それでも、共通したところはある。
変易、不易、簡易。それが人生である。人のアルゴリズムを定める。何が変わって、何が変わらないのか。何がそうさせるのか。因果応報。突き詰めてみれば人間の一生なんて単純だ。泣いて笑って。限りある事。限りある人生を人は泣いて笑って生きている。

寄せては返すさざ波の様に同じ繰り返しをしていても老いは忍び込んでいる。気が付いたら年老いた自分が鏡の中にいる。

人を活かすために、そして、生きる為に経済はある。

人の一生でどれくらいの所得を得られて、そして、どれくらい支出するのか
問題は、所得を得られる期間より、支出する期間の方が長いという事である。だから、稼げるときに稼いで、稼ぐことのできなかったときのために蓄えをしておく必要がある。
それが人の経済である。

生涯獲得賃金一生で使う「お金」が一致していない、不均衡な事が重大な障害となるのである。
生涯に自分が稼いだ「お金」より、支出が上回れでば、自力では不足分を補う事が出来ない。特に核家族化、が進み、更に、離婚、未婚がが増えて単身世帯化したら、不足分を補いたくても家族を頼る事が出来なくなる。
年金問題の根底に潜む罠であり、少子高齢化が深化するこれからの時代問題は顕在化する。
核家族化は、家計の自立化、独立かを促すように見えて、実際は、家計を解体している要素を多分に含んでいる。
高齢化問題では、「お金」や、設備制度の事ばかり問われて、倫理観や人生観は問題とされない。高齢化問題で一番の問題は、高齢者をだれがどの様に世話するかなのである。
働けなくなって収入が得られない状態に陥ると困窮する事になる。特に、サラリーマン化が深化すると、定年退職すると年金以外の収入源を断たれてしまう。再雇用されればましたが、再雇用されなければ過去の蓄えと公的保障以外に縋る事は出来なくなる。その時、年金制度が破綻したら救いようがない状態になる。
また、一世代で完結してしまう家族制度だと一人の人間の一生の収支が全てとなる。晩年には、蓄えがなくなれば自力で生きていく事が不可能となる。高齢者は必然的に弱い立場に立たされる。たださえ、高齢になると医療費が嵩む事になる。高齢破産が増える事になり、それがまた、社会の負担を大きくする。
いくら老後の蓄えがあると言っても何歳まで生きられるかは、不確かなのである。だからこそ、長生きはリスクだという考え方まで生まれる始末である。家族制度地域コミュニティの在り方が根本的に問われなければならない。

かつては、子供が保険の役割をしていた。働けるうちは働いて、働けなくなったら、子供の世話になる。その場合は、老後の問題は、「お金」ではなくて有形無形を問わず、人として生きていくために,何が必要な物事かが問われたのである。年寄りには、年寄りの役割があった。人生いかに生きるべきかが問われたのである。

仕事と生活の場が一体だったからこの様な体制が可能だった。
しかし、生産と生活の場が分離した、今日では、働けなくなったら、子供の世話になるという訳にはいかなくなりつつある。
現代社会は、「お金」が全てである。現代社会では、働いて「お金」が稼げない者は、厄介者でしかない。
定年退職後のサラリーマンは惨めなものである。世間に居場所すらない。
生きていくうえで必要な物は、「お金」がなければ手に入れる事が出来ない。働いて「お金」を稼ぐことができなくなったら、社会が「お金」を蓄えていて充当してくれることになっている。「お金」以外は当てにする事が出来ない。それが年金であり、失業保険であり、生活保護である。病気で働けなくなったら、健康保険が面倒を見てくれる。
面倒を見るというのは、費用を立て替えてくれることを意味する。但し、可能な限りである。財政が破綻したらそれまでである。政府に「お金」があるうちは面倒を見てくれるが、「お金」がなくなれば面倒を見切れなくなる。
この辺の事情が、未だに世の中に浸透していない。だから、年金問題もまだまだ深刻ではない。しかし、いよいよ、蓄えが底をついてきたら大騒ぎになるだろう。しかし、その時は手遅れなのである。

人間は、「お金」中心に経済を考えるようになってきてから経済の真の意味が理解できなくなったように思える。生産の場と生活の場が一体だった時代は、何が生活に必要なのか、それをどうしたら自分たちの手で獲得できるか自分の力生活に必要な物を、手に入れられなくなったら、どうなるのかを実感として捉えていた。
現代社会は、生産の場(職場)生活の場(家庭)が完全に分離されている。農業でも収穫されたものは一旦全て換金される。所得も給与所得に置き換えられる場合が多い。そうなると収獲は物でと言うより「お金」という事になる。
そうなると収入が得られなくなったら終わりなのである。
高齢者の孤独死が増えていく背景には、経済の問題が隠されている。
経済の根源は人なのである。
結婚をして子供を育てる動機には、切実な生活からの必要性があったのである。そして、それが家族の本質であり、絆を深めてもいた。それは一緒に人生を共にする事である。助け合って生きていく事である。そして、それが経済の本質である。親は、家族を養うために働いた。子供が都会に働きに出るのは、家に仕送りをする為だったのであり、子供大切な働き手でもあった。それは、家族は、一つの共同体だったからである。
経済的な絆を失った時、家族は、単なる同居人に過ぎなくなった
経済的絆
とは、「お金」ではない、生きていくために必要な物事である。「お金」は、むしろ、経済的絆を断ち切ってしまう。なぜならば、経済が「お金」の関係でしかなくなってしまうからである。真の経済的関係とは、共同し、助け合って生きる為の関係である。今は、親子、夫婦でさえ家計を別にしている。
家族の根本は、人と人との関係なのである。家族の中で道徳は生きているのである。家族は、人間関係の基本であり、道徳の根本なのである。家族は生き甲斐なのである。今は情けない社会なのである。家族はまた、喜怒哀楽の根源でもある。

生きるためには、何が必要なのか。そして、どうしたら生きる為に必要な物を手に入れる事が出来るのか。それを考える事が経済なのである。
確かに、現代社会では生きる為に「お金」は、不可欠である。しかし、「お金」は食べられないし、着る事もできない。つまり、生きていくために必要な物ではない。生きていくために必要な物を得る為の手段なのである。
生きていくために本当に必要なのは、食料や衣服といった物なのである。

なぜ、何のために、その答えは、父だから、母だから、子供だから、兄だから、姉だから、弟だから、妹だから、祖父であり、祖母であり、叔父、叔母、伯父、伯母だから、家族だから愛する者の為だからなのである。

生病老死、冠婚葬祭


仏教では、娑婆の苦しみの根源は、生病老死にあるという。しかし、生病老死は、人生そのものである。苦しみから逃れなれないとしたら、その苦しみから何を掴み取るかが大切になる。それこそが経済の本義である。

かつては、人生五十年と言われたが、今は、その倍の百年生きる人が増えている。人々が長生きすれば自ずから経済の質が変わってくる。
人生で大切なのは、結果ではなく、過程である。なぜなら、死と言う結果において人は平等だからである。死の前に人は平等である。故に、人生は結果ではなく、働きである。どの様に生きたかが問われるのであり、結果を問われているのではない。結果は、死である。
死と言う現実を前に、人は今と言う瞬間を正しく生き抜くことが求められている。それが経済である。経済を考える事は人生を考えるかである。
どれくらい儲けたかではなく、何を為したかが重要なのである。自分が納得し、満足できる生き方をしたか、仕事をしたかが最後に問われるのである。
いくら「お金」を残しても、どんなに資産を築いても死によってすべて清算される。死の前に、富や名声は何の価値もない

経済の長期的な枠組みを構成するのは、生病老死、冠婚葬祭である。
生病老死にいかに付き合うかが経済であり、冠婚葬祭は、生活の彩、目標でもある。

経済を考える事は、人生国の在り様を考える事である。
人の一生には、生き方を変える節目・節目がある。生病老死は、その節目を作り、節目・節目を象徴する儀式が冠婚葬祭である。

人生では、自分の力で所得、収入を得られる期間は限られているのである。収入を得られない期間は、他人の世話になるしかない。赤ん坊は、一人では生きられない。また、退職後の高齢者も年金以外の収入は得られない。だから、老後に備えて大家族制度では、収入が得られなくなったら他の家族が世話をしたのである。
故に、人生の節目節目で親族全員に節目を知らしめる必要があった。節目を知らしめるための儀式が、冠婚葬祭である。

冠婚葬祭は、人生の分岐点を表している。冠婚葬祭は通過儀礼である。言い換えると冠婚葬祭は、人生の節目を表している。
かつては、仕事にも四季があった。生活にも四季があった。季節・季節に祭礼を決めて仕事のけじめをつけてきた。季節が生活を導き、経済活動を制約してきた。四季は、経済活動の枠を作ってきた。
そして、生活の四季の延長線上にある冠婚葬祭は、経済の基盤、枠組みを作ってきたのである。人生の四季が経済を形作ってきたのである。

経済の枠組みとは何か。時間は、経済に対して重要な働きをしている。
時間の経過に伴って環境や状況は刻々と変化している。変化の中には、定常的な変化非定常的な変化がある。

人生の節目には、纏まった「お金」が必要とされる。節目に必要とされる「お金」を調達する手段は、借りるか、貰うか、蓄えを取り崩すかのいずれかである。その為に、人々は、日々の稼ぎの中から少しずつでも蓄えをする。蓄えや借金、贈与、相続は生活における長期資金の働きを形作る。それが経済活動の根本なる。
人々の蓄えをする目的は、冠婚葬祭だけではない。病気や事故、災害と言った不測の事態に備える目的もある。

教育支出、住宅建設、老後支出は、人生の三大支出だと言われている。人生設計は、この三つの支出を核にして進められる。そして、病気や事故、災害などの不足の支出に備えておく。不測の支出に備える手段として保険がある。

仕事や生活は、作業や行為の集まりである。作業や行為には期間がある。基幹には、期限がある。
報酬は、期間か、成果に対する評価に対して支払われる。期間は、時間価値を形成する。
期間は、製造期間販売期間在庫期間消費期間清算期間等がある。また、商品の耐用期間や賞味期限、消費期限などがある。これが生産や消費の周期を制約する。
生産財にも寿命がある。財の寿命には、製造、販売、在庫、消費、解体と言う一定の周期がある。
製造する為の期間、販売するまでの期間、在庫期間、消費機関、解体するまでの期間とそれにかかる経費が経済の枠組みを構成する。

経済変動は、期間数量人数金額の組み合わせによって成り立っている。経済は時間の関数である。時間を時点とせずに、敢えて、期間とするのは、時間の長さや幅が重要な働きをしているからである。つまり、経済変動は、期間を要因とする変数、数量を要因とする変数、人数を要因とする変数、金額を要因とする変数がある。
経済は、人の人生がより絡まった集合である。人生は、時間の要素、物の要素、人の要素、「お金」の要素によって構成されている。

物事には、始まりと終わりがある。人生にも始まりと終わりがある。人生の始まりと終わりが生と死である。
経済は、物事の始まりと終わり人生の始まりと終わりの過程にある。

生活は、日々の生活だけでなく、投資も行われる。投資は、「お金」の長期的働きを形成する。
日々の生活に使われる「お金」以外に、長期間にわたる支出がある。
その資金源は、蓄えか借金がによる。そして、消費投資は、家計の債権と債務を形成する。

生活には、住宅投資教育投資結婚投資出産育児投資老後や病気に対する備えとしての投資がある。
消費のための投資は、安定した収入の裏付けがあって成り立っている。

住宅、教育、結婚、出産育児、老後の為の蓄えは、経済の根底となる。人が中心の経済では、人と人との関係が基礎となって住宅、教育、結婚、出産、育児、老後の経済が構築されていた。

それ故に、大家族制度下では、結婚は家と家との結びつきを意味したのである。
それは、三世代、四世代にわたる家族が一つの共同体を形成し、経済単位を構成していたからである。
複数の世代が組み合わさる事によってライフサイクルを緩和してきたのである。
核家族、単身世帯は、年齢に基づく波を緩和する事が難しくなった。
その為に、老後や病気の世話は、公共機関が肩代わりする事になる。

経済における人の働き


一己の人間は、経済に対していろいろな働きをしている。
人間は、主体的な存在であり、主体的に経済に関わっている
この主体的な存在である事が人の働きの根源にある。
即ち、経済において人は、一人何役も果たしているのである。

人は、主体である。人は一己の存在である。主体的存在は、自己として現れる。自己は、この世でただ一つ、唯一の存在である。自己は、全ての認識の前提である。自己は、主体である。自己は間接的認識対象である。
人間は、周囲の対象とのかかわりの中で自己を形成していく自分で自分を直接認識する事はできない。鏡がなければ自分の顔を見る事はできない。自分の顔を直接見る事はできない。
人間は、他者との関わりがないと自己を確立できない
外界は自己の鏡なのである。

存在は絶対的であり、認識は相対的である。

主体的存在である自己を客体化すると個人となる。故に、個人は、自己の特性をそのまま継承している。
生産、分配、消費が生み出す主体や場を結び付けているのは、個人の働きである。
個人は、生産、分配、消費、各々の局面によって働きを変える。
個人は、生産の場では、労働者であり、生産者である。分配の場では、所得者であり、消費の場では、消費者であり、生活者である。どこかの局面の一側面を切り取っても、個人は成り立たない。ところが、経済学では、労働者と言う側面だけを切り取ったり、人件費だけを問題にしたり、消費者としての働ばかりに注目する。個人の性格は、総合的であり、統合的である。個人は労働者であり、生産者であり、消費者であり、生活者であり、所得者である。
社会全体が一斉に費用を削減すれば、総所得の低減を招く。

個人は、政治的存在であり、経済的存在であり、社会的存在家庭的存在国民的存在である。

人は、外界とかかわりがないと生きていけない。生きる為の糧は、外界から得るのである。空気や食料、水がなければ人間は、この世に存在する事が出来ない。

認識上においても、存在上においても人は、外とのかかわりがなければ生存できない。物理的にも、生物学的にも人は、自分一人では存在できない。人間は生き物なのである。
この外界との関わりが経済を生むのである。
生きる為の活動そのものが経済なのである。生活は、経済の種である。

人は損得で生きているわけではない。損得は、認識の一手段である。人は、生きが為に生きているのである。生きることそのものが目的である。それは、自己の存在が絶対前提だからである。自己の存在がなければこの世はないに等しい。なぜなら、自分は自分だからである。存在前提だからである。故に、自明な事なのである。

一己の人間、即ち、個人が生産の場や分配の場、消費の場を貫いて結び付けているのである。

経済に対する人の働きは、人間がどんな役割を社会に対して果たしいるかに基づく。
人は、第一に生産者である。第二に、人は、生活者、消費者である。第三に、人は、労働者である。第四に、個人である。第五に、人は、社会人である。第六に、人は人である。

人は、生産者である。生産者である人は、労働力と言う生産手段を売って収入を得る
人は、生活者である。生活者とは、生きる為に必要な資源を市場から調達しなければならない。必要なものを手に入れるためには、手持ちの資金を支出しなければならない。
人は、労働者である。人は、労働の対価として「お金」を調達する。労働の対価は、人件費と言う費用を意味する。
人は、個人である。個人は、経済の最小単位であることを意味する。
人は、社会人である。社会人として法に従う義務がある。社会人としての権利と義務がある。人は、組織人としてふるまわなければならない。
人は、人として生きる。人として自己実現をする存在である。人は、生物である。空気を吸って、食べ物を食べて、水を飲む事、着物を着て、家に住む事で生きている。人が生き物である事が経済の根源を為す。

人は、生活者、消費者である。消費には、周期がある。消費の周期は、消費にかかる時間、期間が影響している。財には、寿命があるのである。食品の消費時間住宅の消費期間は違う。消費の時間・期間消費の周期を生む。消費の周期景気の波を作る。
消費の周期には、一日単位の事がある。月単位の事がある。旬単位の事がある。半年単位の事がある。一年単位の事がある。一生単位の事がある。

消費には、時間、物、「お金」、人による構造がある
消費は、消費する対象によって消費の性格が変わる。

消費には、必需品がある。贅沢品がある。
消耗品がある。耐久消費財がある。
必ずしも必需品の方が、贅沢品より高価だという訳ではなく。贅沢品の方が高価である場合が多い。それが所得格差の要因になったりもする。
必需品は、生活に不可欠な財である。贅沢品は、絶対になければならないという財ではない。
それなのに、市場価値は、贅沢品の方が上である場合が多い。その為に必需品を生産する産業の方が貧弱になったりする。しかも、本来、必需品は、安定した雇用を生み出すはずである。必需品の産業が貧弱になると雇用は途端に不安定になるのである。
一次産業の衰退は、経済の底支えの力を弱くする。

人口


人は、経済の基盤である。
人の集合は、自然数であり、離散数である。
人は、経済の単位群を構成する。

人口構成の在り様は、経済の基盤を形成する。

生産に関わる人口分配に関わる人口消費に関わる人口は、一体ではない。
生産に関わる事の年齢は限りがある。
生産に関わる年齢の人口を生産年齢人口とする。それ以外の人口を非生産人口と言う。
基本的に生産に関わる人口は、労働人口でもある。労働人口は、雇用に関わる人口である。故に、失業率によって左右される。
生産年齢人口非生産年齢人口の差は、経済の生産性を決定的に左右する。
消費人口は、基本的に全人口である。

この様に人口の働では、人口構成が重要な働きをしている。
人口、および人口構成は、経済の基礎を構成する。
故に、人口は、経済の基数の一つである。
人口の増減は、経済の最終目標にもなる。

人口は、実質的経済規模を決定的に規制する。
重要なのは、人口構成である。
人口構成の基準は、年齢、性別、職業等がある。
また、人口の分布も経済に決定的な働きをしている。

人口構成は、経済の働きを制約する。
特に生産年齢人口の占める割合が経済では重要となる。

人は、年齢によって経済的な働きに違いがでる。
自分が働いて収入を得られる年齢は限られている。自分の力で収入を得られなければ、誰かの力を借りないと生きていけなくなる。自分の力で収入が得られないのは、例えば、子供や高齢者である。それから、病気をしても所得は得られない。専業主婦も「お金」を調達する事はできない。
少子高齢化は、自分の力で収入を得られる世代が減少する事で、人口全体に対する配分が少なくなる事による。
働ける人口と働けない人口の比率が重要なのである。

故に、人口は、単に人数だけの問題ではなく。構成の問題が重要なのである。
その意味では、人口は密度が鍵を握っている。

経済成長とか、見かけ上の総所得が増えても、実体は人口にある。人が必要とする資源は限られているからである。人が増えて、総所得が上昇しても人の住む事の出来る土地には、限りがある。見かけ上の総所得が増えても、住宅の敷地面積が狭くなったら実質的には、経済は縮小していると言える。
経済の実体は、人口を基礎として見る必要がある。


歴  史


経済は、歴史的産物である事を忘れてはならない。
いかにして、市場は生れ、都市は形成されたのか。
「お金」は、どの様な経過をたどって今日の姿になったのかは、経済を知る上で不可欠な事である。

経済の仕組みは人工的な仕組みである。自然に成るものではない。
経済の仕組みが構築する背景には、人間の意志が働いている。
経済の仕組みに背後に働いている人間の意志が重要なのである。

金融制度にせよ、市場にせよ、「お金」にせよ、歴史的な産物である。故に、経済は歴史を学ばなければ理解する事はできない。
それに経済制度は、政治体制や経済体制に依拠している。政治体制の歴史を学ばなければ経済は理解できない。

経済は、戦争によって発展し、また、破綻してきた。戦争の歴史も経済を知る上では不可欠である。

金融制度にせよ、市場制度にせよ、貨幣制度にせよ、人間が作り出した事である。この点を間違ってはならない。金融も、市場も、「お金」も自然に成るものではない。
何らかの人間の意志に基づいて作られた事である。人間の意志によって作られた事である以上、そこには。何らかの意志があり、目的がある。それを解き明かして、本来の目的実際との差を明らかにする必要がある。なぜならば、経済は合目的的な事だからである。
目的に過ちがあれば、そこから改める必要があるし、目的と実際との間に隔たりがあれば、その原因を探る必要が降るからである。

歴史は繰り返すと言われる。歴史は同じ軌跡を繰り返しながら進化する。何が変わって、何が変わっていないのか、物事の変化を貫く関係、法則は何かを明らかにする事で、経済のあるべき姿を追求するのが政治であり、行政である。

市場、産業、財は、創成、成長、成熟、衰退、再生を段階的に繰り返すと考えられる。そして、個々の段階の局面において構造や前提条件が変化する。

経済は、地理的要件に制約される


経済は、地理的な要件に制約される。

原始的な社会では、経済の中心は食べる事である。その時代は、生産の場と生活の場は一体であった。
故に、市場も「お金」も必要とされていない。

食べる事と外敵から身を守る事が、経済の中心である。
獲得した獲物は、皆で分ける。それが経済の骨格を形成していた。
故に、地理的な条件は、食料と安全が第一に考えられていた。

その原型は、動物の社会にある。故に、経済の原型は、動物の社会にあり、経済は、人間の社会にだけあるわけではない。

自然界では、地理的な条件は、経済にとって絶対的な要件の一つである。食べ物を求めて移動する。故に、主食は何かが経済を核となる。肉食獣と草食動物とでは、経済の在り様が違う。
その意味では、農業は、経済に決定的な変革をもたらした。定住である。

原始的な社会では、内的経済が主だった。市場は、基本的に共同体の境界線上に作られる。市場は、内的経済と外的経済の接点だからである。

市場には、土地から離れられない、地域と一体の市場と土地に縛られない市場がある。例えば、同じ電気を資源とする産業に電力業界と家電業界があるが、電力業界は、供給エリアが確定していて供給エリアを離れる事が出来ない。それに対して家電業界は、条件さえ整えば、どこでも売ることができる。必然的に電力業界は、ローカルな産業になるし、家電業界はグローバルな産業になる。この様に、経済は、地理的要件と切り離して考える事はできない。
市場は、前提条件、地理的要件によって構造が変わるのである。
地理的要件は、産業や市場の根幹となる要件である。

地理的要件の中でも都市化と言うのは、経済の実体をよく反映した事象である。都市と言うのは、本来非生産的な空間であり、消費を中心にして発展する性質がある。都市は、生産地と言うより、消費地である。消費地であるが故に、その国の権力構造や経済体制を反映している。都市の在り様が
都市と言うのは、最も、人工的な空間と言える。市場は、都市の延長線上に築かれている。
人間の経済は、都市計画から始まると言ってもいい。
現代の都市の欠陥は、計画性が乏しいという事である。それは、公的経済の計画性が薄れた事による。
現代の都市は、流民によって作られている。つまり、意図的に、計画的に建設されているものではない。
中には、ブラジリアやリスボンの様に政治的な作られた都市もある。ただ、それが成功したかどうかは、疑問的がある。しかし、近代以前の都市は、都にせよ、門前町にせよ、計画的に建設されてきた。それは、権力者の拠点だったからである。権力者の意図が明確に表されていた。都市建設は目的が明確にされていたのである。だから、多くの都市は城塞都市であった。そこから、國、国、圀と言う漢字も生まれたのである。

人のアルゴリズム



人のアルゴリズムは、所得が終点となり、また、出発点となる。
なぜならば、人のアルゴリズムは、所得を獲得する迄の過程と所得を支出するまでの過程の二つの過程によって構成されるからである。
自由主義経済は、働いて得た所得に基づいて生計をたてるというのが原則である。この原則が崩れると自由主義経済の地盤そのものが崩れる事になる。自由主義経済は、「お金」儲けが目的なのではなく。人々の生活を成り立たせる事が目的なのである。
人々の生活を成り立たせるために、営利事業や「お金」儲けがある。言い換えると営利事業や「お金」儲けが成り立たなくなったら市場経済も成り立たなくなる。
現代経済の問題点は、政治家や官僚、知識人に営利事業や「お金」儲けを罪悪視し、商業を蔑視する思想がある事である。それが国家設計や市場設計に影を落としている。過度の規制も逆に、規制緩和も営利事業や「お金」儲けを蔑視している処がある。それが適正な利益を維持する事を阻害しているのである。
市場の問題は、市場の問題であって「お金」が主たる問題ではない。ただ、経営効率、生産効率ばかりを追求していたら自由主義経済は成り立たなくなる。なぜならば、分配に偏りが生じるからである。

基本的に、人が所得を獲得する過程は、財を生産する過程を意味し、所得を支出する過程は、財を消費する過程を表しているからである。
この二つが混線しないようにしないと、人のアルゴリズムは整理できないし、見えてこない。
所得を獲得する過程は、生産主体が財を生産する過程であり、所得を支出する過程は、生産主体が収益を獲得する過程である。

経済は、最終的に所得の構成に要約される。なぜならば、所得と支出の関係が経済の最終的な目的を表しているからである。つまり、所得と支出の関係が経済の在り様を規定している。
産業の構成は、家計に還元される。軍事支出が増大すれば、必然的に可処分所得は圧縮される。財政が逼迫すれば、家計も圧迫される。非生産的な部分が拡大すれば、生産的な部分は、圧縮される。

人のアルゴリズムには、所得を得る為のアルゴリズムと、支出に基づくアルゴリズムがある。
先ず、所得を得るアルゴリズムから考える。

人的アルゴリズムは、先ず、人は、市場から生きていくために必要な資源を手に入れる(調達する)為には、「お金」が必要となる。
人は、「お金」を第三者から借りるか、労働力か、手持ちの私財を売って「お金」を手に入れ、その「お金」を支出する事で生きていくために必要な資源を市場から手に入れて消費する。
労働力は生産手段の一種である。

人生は、過程である。生れて、幼児期、思春期、青春期、成人し、壮年期を迎え、年を取り、やがて死を迎える
人の一生は道程である。それは順次構造である。物事には順序があり、筋がある。
人生には、いくつかの岐路がある。無論、人の一生は一律一様ではない。人の数だけ生き方がある。どの生き方がいいか悪いかはない。ただ、その人その人に固有の人生があるだけである。
人は、一生の間に何度も岐路に立たされる。学校に行くか、何の仕事につくか、結婚をするか、家を建てるか。人は、岐路に立たされた時にその人なりの選択をするのである。人の人生には、幾つかの岐路がある。そのキロが人生の選択構造を構成する。人生には、選択構造がある。
日々の暮らしは同じことの繰り返しである。それは反復構造を持つ。

幼児、思春期は、学童期であり、自分の力で働いて生計をたてる事はできない。故に、親のような保護者を必要としている。子供の養育は親の義務である。
自分で働いて収入を得る事が出来るようになると世帯を持つ事が出来る。世帯は、消費の最小単位である。世帯は、自分で働いて生計が立てられるようになると一人でも持つ事が出来る。
経済的に自立して世帯を持ったら、次に結婚をして家庭を持つ。原則として家庭を持つと家族が一つの世帯と見なされる。稼ぎ手は、一人でなくとも二人でもいい。ただ家計を共にしている場合は、一つの世帯としてみなされる。基本的に夫婦が世帯の核とされる。
やがて子供が生まれると、子供は扶養家族とされ、養育する事が義務付けられる。生産労働年齢を過ぎ、働けなくなると年金や補助金によって生計をたてる事になる。
働けなくなったら基本的に子供が養育費を負担する事になる。
これが一般の人のアルゴリズムの下地である。

次に支出の為のアルゴリズムを考える。支出の為のアルゴリズムは、生活を実現する過程を意味する。つまり、経済が実現する局面である。

支出の為のアルゴリズムは、生活設計から始まる。つまり、家政である。家政は、財政の元となる事でもある。
家政の延長線上に官房学があり、さらにその先に財政学がある。

基本的に人は働いて、働いた対価として報酬を受け取り、その報酬の範囲で、生活に必要な物を市場から購入し、家族を養う。
毎日、一定の時刻に起きて、食事をして働きに出る。昼には、昼食を食べて。夕方まで仕事をして帰宅して夕食を食べる。日々の暮らしには、一定の決まりがある。

この様な日常生活は、一定の「お金」の周期の流れを生み出す。それが生活のリズムを作るのである。
収入と支出にも一定の形がある。

人のアルゴリズムは、生病老死、即ち、人の一生である。そして、日々の生活がある。

人の一生には、拍子があり、旋律があり、和音がある。人生は音楽のようだ。


生きる事


人のアルゴリズムの究極的な目的は、生きる事、そして、自己実現する事にある。
地位だ、権力だ、出世だ、名声だと、「お金」儲けだ、成功だと外聞ばかりに囚われると内心の目的を見失う。
自己実現と言うのは、幸せになる事である。
人生究極の目的は、幸せになる事であり、何が自分を幸せにしてくれるかを考えた末に自己実現はある。
いくら地位や名声、権力を得ても不幸でしかなければ、それは自己実現を達成したことにはならない。

人は、パンのために生きているわけではない。生きる為にパンを必要としている。また、パンでなければならないという訳でもない。経済は、人が生きる為の活動を意味する。

ただ生きるだけなら人生は無目的である。自己は間接的認識対象である。社会とのかかわりの中で自己形成、自己実現はされていくのである。

生きる為の活動。それが経済である。




       

このホームページはリンク・フリーです
ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2019.6.4 Keiichirou Koyano