「お金」のアルゴリズム


「お金」とは


「お金」と言うと札束や大判、小判、金貨を思い浮かべるかもしれない。しかし、「お金」の本質は、働きである
表象貨幣が中心になってから「お金」は、物としての使用価値、属性を失った。今は、単なる情報、電算機の中の信号でしかなくなりつつある。「お金」の本質は数値情報である。

経済データは、対象の経済活動を貨幣空間に写像した影である。「お金」は影なのである。経済の実体は別にある。影は影である。実体がなければ影は成り立たない。
「お金」は、虚構であり、負の働きである事を忘れてはならない。

我々は、経済的価値を「お金」に換算して考えるのが当たり前のようになってしまっている。それが経済的価値、即、貨幣価値だと受け取りがちである。
しかし、本来、経済的価値と貨幣価値は一体なものではないし、「お金」その物に価値があるわけではない。「お金」は、「お金」単体で成り立つわけではない。「お金」の価値を裏付ける何らかの実体がなければ成り立たない。また、「お金」を「お金」として人々が認知しなければ成り立たない。
それ故に、貨幣価値を一般に受け入れるのには、それ相応の時間と手間暇がかかっているのである。

まず第一に、一万円札の価値を成り立たせるためには、一万円と言う価値を一万円札の出し手と受け手双方が認めるている事が前提となる。次に一万円が何と交換できるか。つまり、一万円で何が買えるのかが問題とされる。一万円で買える物の価値は一定していないからである。
要するに一万円札は、一万円と言う交換価値を表象しているが、一万円と言う価値が確定するのは、何らかの財と交換した時なのである。「お金」は、使用された時はじめて価値が確定する。
「お金」が表象しているのは、交換と言う働きなのである。

現代経済の仕組みを動かしているのは、「お金」である。「お金」といっても現在の「お金」の主たる部分は表象貨幣、即ち紙幣が占めている。故に、現在「お金」と言った場合、表象貨幣を指していると言っていい。

「お金」は、元々は、物々交換を起源とする。物々交換は、物と物との交換を意味する。物々交換の一方の物が交換価値に特化する事で貨幣化したのである。故に、「お金」は、当初物としての属性を持っていた。物としての属性とは、運搬が可能で、保存がきく。数が数える。形がある(有形)。その上で何らかの価値あることが条件となる。
可搬性、即ち、移動が可能と言う属性は、流動性を生む。(石貨の様に可搬性が乏しい貨幣もあるが、これは象徴としての貨幣の別の側面を表している。可搬性はなくとも実質的には所有者の移転が明確である。所有者の移転を明確にする事で可搬性と同様の効果を持たせている。「お金」の働きで重要なのは、「お金」の働きを移転できるという点にある。石貨のような場合は、所有権の移動が可能でなければならない。)「お金」は、所有権によって成立している。所有と言う概念がなければ「お金」は機能しない。所有権が確立される事で「お金」は、譲渡が可能となる。
「お金」は、物々交換を起源とするが、物々交換を目的としたわけではない。物々交換は、結果である。特定の物が交換価値に特化した事で貨幣化した。貨幣化すると「お金」は、「お金」固有の働きを持つようになる。「お金」固有の働きとは交換、即ち、売り買いにある。そして、売り買いは、権利化していく。「お金」の働きが権利化する事によって貸し借りが成立する。お金の働きの根源は、権利にある。つまり、交換の権利である。そして、「お金」の働きは、売り買い、貸し借りによって発揮される
売り買い、即ち、交換と言う働きはフローを形成し、貸し借りによって形成される権利の働きはストックを構成する。ストックは支払いを準備する
交換と言う働きを特化する過程で物としての「お金」に求められたのは、等質性等価性均質性均一性可算性普遍性不変性社会性である。
「お金」が「お金」としての働き、即ち、交換価値の基準を表象する為には、「お金」は等価でなければならず、等質で、均質、均一でなければならない。そして、数えられる物であり、「お金」としての価値(貨幣価値を測る基準としての価値)は普遍性を持たなければならない。物としては不変的腐ったり、錆びたりして変質しない物)でなければならない。そして、社会一般に受け入れられる(信認)必要がある。
「お金」は、権利化する事によって物としての「お金」の属性はつれて薄れていく。「お金」の働きが物から表象に移行する。近年「お金」は、更に進化し、情報化、無形化している
「お金」は、表象化されるにしたがって名と実が生じ、各々の働きが分化していく表象として名の働き交換と言う実の働きである。名はを意味し、実は、物の価値を意味する。
価値とは、評価を伴う。評価は、基準と信用によって客観的実在となる社会的な信認がなければ、「お金」は、効用を発揮しない。故に、「お金」は、基準と信用は、合意契約を前提とし。合意と契約は、世俗的権威によって担保されることによって保証される
評価に値する物として、希少性等質性である。それが、等価性匿名性と言う「お金」の性格を形作っていく。この段階では、「お金」は、物である。
物々交換を仲介するというのが「お金」の働きの本質、核である。即ち、交換と言う働き評価と言う働き計数化と言う働きが「お金」の本質である。
交換と言う働きは交換価値を形成する。交換価値は相対的価値であり、「お金」は、相対的価値を形成する手段である。「お金」の価値は絶対ではない
「お金」の働きは、仲介である。つまり、物と物、人と物との関係によって「お金」は、効用を発揮する。「お金」は、代替え物である。「お金」その物に使用価値はない「お金」は、消費されないで循環する。「お金」は、「お金」単独では機能しない。「お金」が指し示す対象対象を必要とする人、必要性(価値)を認める人の存在があって機能する。即ち、「お金」は、人と物の関係の上に成り立っている。
「お金」の匿名性は、交換価値を純化し、「お金」が交換価値に特化した結果である。逆に、「お金」の匿名性が、「お金」の交換価値を保障している
交換と言う働きによって「お金」は、常に均衡を求めて変動する。「お金」の働きは価値の均衡にある。その根源は、人と人との関係であり、必要性交換と言う作用によって均衡と言う働きは派生する。
「お金」の働きの基本が交換であるから「お金」は、流れる事で効用を発揮する「お金」は、流れなくなると効用を発揮できなくなる
計数化は、価値を数値的価値に一元化する。価値の一元化は、貨幣制度の統一を促す。一つの通貨圏の貨幣制度は、一つの体系に統合されていく。貨幣価値は、一物一価を求めるからである。貨幣価値は、一物一価を求めるが一物一価を前提としてはいない。なぜならば、貨幣価値は、経済的価値を測る相対的基準であって状況や目的によっても変化するからである。典型的なのは、地価である。地価は、目的によって変化する。
価値の一元化は貨幣価値の信認に起因する。一つの尺度に基づかなければ相互比較、対照が成り立たなくなるからである。
故に、貨幣体系が違う通貨圏間の交易は、両替を必要とする。
計数化される事で経済的価値は演算が可能となる。また、価値が数値化される事で価値は、細分化される。細分化される事で対象の評価と価値が一対一に結び付く事になる。対象の価値が個性を持つのである。個々の対象が固有の価値を持つようになる。価値の個別化である。
金銭は「お金」を意味する。つまり、「お金」は、金と言う価値銭と言う働きから成り立っている。それが、金貨、銀貨と言う高価な価値を表す金と銭勘定、即ち、価値を数量化する働きに「お金」は、分化する。
「お金」がある程度流通してくると、「お金」の働から紙幣が生まれる。紙幣の原型は、借用書や預り証と言った証文である。故に、紙幣は、証文としての性格、即ち、信用契約と言う概念が付与される。
紙幣は負債の性格を併せ持つ事を忘れてはならない。負債と言う性格があるから正の価値である資産と一対で効用を発揮する。「お金」は、「お金」単体で成り立つのではなく。「お金」が指し示す対象と一対で効用を発揮する。「お金」は、未発の債務なのである。そして、未発の債権が資産となるのである。資産と財産は違う。未発の債権が資産であり、財産はそれ自体が価値を持つ物や権利である。
紙幣の発行は、当初、一元化されていなかった。許可された金融機関や公的機関が自分の責任かで発行していた。その為に、流通量を制御できずに度々インフレーション等を引き起こす原因となった。貨幣を一元化するのは経済を制御するための必須だと考えられるようになったのは、近代市場主義の確立される過程でである。
「お金」が隅々にまで浸透すると分配と言う機能が働くようになる。分配と言う機能は、税制度が基礎となる。税制度は、社会の全ての経済的価値を測るという事が前提となるからである。故に、公正な税政を志向する為には、国内の全ての経済的価値を測る必要がある。そこから、全ての経済的価値を計量化し、測定し、分配するという働きが「お金」に求められるようになったのである。分配は、総量と所有が重要な要因となる。

「お金」は影である。「お金」に経済的な実体があるわけではない。「お金」は、対象の経済的実体を貨幣空間に写した影である。写像である。経済的実体別にある。経済的実体は、人と物の側にある。
経済は、「お金」と物と時間の関数である。

「お金」の性格や役割は、以上の経過を経て形成されたと考えられる。
物々交換を仲介するという働きから、勘定尺度と言う役割が派生する。勘定と言うのは、数えられる物にするとい事である。つまり、対象から数の概念を抽象化する。その前提が等質性等価性が必要とされる。等質性、等価性は、貨幣単位の原則でもある。「お金」の単位の等質性、等価性をいかに保つか、即ち、「お金」の品質管理、均質化は、貨幣制度を維持するための必須条件である。
例えば、数えようとする対象を小石に置き換えたり、木に縄を巻き付けるなどして何らかの印をつけると言った行為である。数字は文字より先に生まれたと言われている。注目すべきは、数が生まれた要因は、経済にある点である。「お金」以前数は、経済の基礎を構築したのである。そして、数こそ「お金」の正体である。
この事からわかるのは、「お金」の役割は、価値の数値化見えるかである。ここから、記録、保存と言う属性が付与される。そして、「お金」の働きが数えられる物と言う属性に基づくために、「お金」は、自然数で、離散数となる。自然数であるから、演算は余り算になり、残高主義になる。そして、残高を基本とする為に、加算的減算と言う手法がとられる。それが会計制度や複式簿記の基礎となる。
「お金」は記録され保存され、蓄積するという特徴から、数値情報化される。数値情報が価値と働きを持つようになる。保存され記録される事で債権と債務の働きが確立される。
当初は物としての属性があって経済的価値が客観的実在として対象化された。対象化される事で経済的価値が眼に見えるようになり、一元化されたのである。数値化は、操作性客観性を価値に与える。経済的価値は、「お金」によって対象化され、操作演算が可能となったのである。物としての属性が失われた現在でもこの性格は失われていない。むしろ、交換と言う働きに純化された事でより顕著になったと言える。
物は消費されるが交換手段である「お金」は、消費されない。
更に、「お金」は、一定の数の集合に分けられ単位を形成する。一定の数の集合は、体系を形成して桁を構成する。
数が体系づけられると数は、制度に結び付けられる。制度は、人や物を体系づける。
数の体系に「お金」の単位が結びつく事で貨幣制度の原型となる。貨幣制度は、税制度の下敷きとなる。税制度と結びつく事で、「お金」は、権力によって保証される。同時に、権力に結びつく事で「お金」の価値が強制されるようになる。
証文と言うのは、証文が指し示す対象証文に記録されている価値の二つの要素からなる。この二つの要素は、債権と債務の元になる。債権と債務は、複式簿記でいう帳簿上同量の貨幣価値を持つとされる。同量の価値と言うが債権は、対象の持つ価値を表象し、債務は、証文に記録された価値と言う違いがある。
「お金」が写すのは影なのである。実体は別にある。債務は影なのである。実体は債権である。債務は、債権を写した陰である。決算書は記録された映像のような物で、実体は別にある。経営者が決算書を見るのは、映画に出演した俳優が劇場で映画を見ているような事である。債務は影である。影から実態を推測する事はできても影と実体とを置き換える事はできない。
つまり、表象貨幣は、貨幣が指し示す対象貨幣が表す価値の二つの働きで成り立っている。二つの働きを分化する事で債権と債務が成立する。物としての働きは債権「お金」としての表示、記録は債務を構成する。債権は、運用された物債務は、調達、準備された「お金」を表す。債権と債務は、時間の経過と伴の各々固有の変化をする。それが時間価値を生むのである。
貨幣価値は、物としての価値と「お金」としての価値が合わさる事で成り立っている。これは、物と数との関係から派生している。物の価値は、実質的価値を形成し、「お金」の価値は、名目的価値を構成する。

現在の経済では「お金」の動きが鍵を握っている。

現在の経済の仕組みを制御する為には、経済を動かしている「お金」の貨幣経済の仕組みを知る必要がある。
貨幣経済の仕組みを知るためには、「お金」の生成アルゴリズムを明らかにする必要がある。

今日、「お金」は、手続きによって生産される。「お金」は、手続きの産物なのである。手続きが物質化する事で「お金」が生じる。

「お金」は、発券銀行の支出によって供給される。発券銀行は、売買取引が許されていないから、支出は、金融機関に対する貸出によって実行される。

「お金」は、取引に依って市場を循環し、効力を発揮する。
外部取引は等価交換を前提として成り立ち、利益は、内部取引より生じる。
一般に取引と言うと「お金」の動きばかりを注目し、財の流れが見落とされる。その為に、双方向の働きが認識されない場合が多い。

「お金」の価値は交換にある。つまり、どれだけの財と交換できるかによって「お金」の効用は測られる。
本来、自分が何を欲しいか、どの様な生活をしたいかによってどれくらいの「お金」を稼ぐかを考える。「お金」があって使い道を考えるわけではない。食べる物もなければ兎に角「お金」を稼ぐことを考える。それが経済である。


「お金」と数学


「お金」と数学との関係を考える時、先ず着目すべきなのは、「お金」がどのようにして生じ、どの様な働きをしているか、また、どの様な性格を持っているかである。
先ず、「お金」の働きは、数えるという行為から発達しているという点である。つまり、「お金」の働きは、数の抽象される。故に、数の持つ性格がそのまま、「お金」の性格を規定する。
数には、対象分類し、一元化するという働きがある。
もう一つは、貨幣価値は、人、物、「お金」の集合によって構成されているという事である。
「お金」は、数に象徴される。そして、数も、自然数、整数、実数、また、離散数、連続数といろいろある。
では、「お金」は、どの様な数なのか、それが問題である。

バートランド・ラッセル卿が「2匹の雉の2と、2日の2とが同じ2である事に気が付くまでに、人類は限りない時間を要した」と述べている。
雉と日にち、物の価値と時間の価値と言う異質の価値を同じ次元で演算できるようにするというのが「お金」の本質的な働きである。この「お金」の働きによって経済的価値は、一元化される。

数には、第一に、数える働きがある。第二に、抽象化の働きがある。第三に、測る働きがある。第四に、分類、類型化、グループ化の働きがある。第五に、価値の一元化の働きがある。第六に、比較対象の働きがある。第七に、写像の働きがある。第八に、演算の働きがある

「お金」は、対象のあらゆる属性を剥ぎ取り、数値に一元化する。数値に一元化する事で異質なものを足したり引いたり掛けたりする事を可能とする。

「お金」の働きの要は、物と数とを一対一に結び付け、対象を特定の性格に依って類型化し、数値化して価値を一元化し、数を数えて、価値を測り、交換する事である。

「お金」の働には、対象を順序付ける働きがある。また、比較する働きがある。
「お金」は、対象の質を数値化する働きがある。それによって対象の経済的密度を測定する事が可能となる。経済的価値には、質、量、密度がある。

「お金」は、自然数で、離散数ある。
物は、実数であり、連続量である。人は、「お金」と同様、離散数である。

また、貨幣価値は、人、物、「お金」の集合によって構成される。
人と物の集合は、有限数合である。「お金」は、無限集合である。

自然数であり、離散数である「お金」の計算は、余り算であり、残高主義になる。また、減算は、加算的減算が用いられる。
「お金」は、物としての属性はあるが、その本質は、数としての働きである。

「お金」の本質は働きであるから、「お金」単独では効用は発揮されない。「お金」の効用は、対象との積で表される。

人と物と「お金」は、一対一の関係を原則としてといる。

人、物、「お金」は、各々単位群、対象群、交換群が重要な働きをする。
経済全体の単位群は、人の集合を基本とする。



税と土地と戦争、国債、そして、宗教。


「お金」の起源を考える時、鍵となるのは、土地戦争国債、そして、宗教である。

社会が拡大するにつれて生産的活動と非生産的活動が分離した。それが権力を形成し、税を生み出したのである。

税を必要とするのは、非生産的階級である。自分たちが何も生み出さないから税を必要としているのである。そして、権力を必要とする。
元々、税は、収穫物を簒奪するという性格と富の再配分と言う性格を併せ持つ。税は権力の象徴であり、国家の働きを具現化する。簒奪と言う性格が強く成れば強権となり、再配分と言う傾向が強く成れば共同体と言う性格が強くなる。そして、税を遍く徴収する目的の過程で税の金納、税金が生まれた。税は、国を造る根拠・動機でもある。

税は、所得の生産、分配、消費の局面において課せられる。所得の生産と言う局面では、財産課税が、所得の分配と言う局面では、所得税(個人、法人)が、支出の局面では支出課税が課せられる。(「日本国債の膨張と崩壊」代田 純著 文眞堂)

戦争は、経済である。戦費は、臨時支出
である。平時の支出とは違う。しかも、その国の総生産を上回る程の出費を強いる事もある。その支出は、非生産的な事であるから、長期にわたってその国の財政負担となる。
国債の必要性は、戦争である事が多い
。戦争は、莫大な資金を必要とする。その資金を得ねために国債や税が用いられた。戦争は、巨額な臨時支出なのである。戦争は、税や国債によって賄われ、時として財政を破綻させ、革命を準備する。そして、「お金」を生み原因となったのである。
交易の規則が定まるまでは、強奪も、略奪も、簒奪、侵略も経済であった。世界は無法なのである。ただ条約によって守られているに過ぎない。その条約すら戦争となると一方的に破られるのが常である。
平時の経済と戦時の経済は、別であるが、根底では繋がっている。だからこそ、平時と戦時とを明確に区別し、その上で、返事と戦時の連続性を明確にしておく必要がある。戦争は経済である
戦争は、経済を破綻させ、また、新しい経済を生み出す

税も戦争も非生産的な行為なのである。
非生産的な行為だからこそ、税や戦争は深く「お金」の成立に関わっているのである。

最も、庶民を苦しめ続けたのは、税である。税は、税金ではない。元々は、租税である。貨幣経済、市場経済が確立する以前は、経済の基礎、生産手段は、土地である。土地であるからこそ、戦争も経済行為の一手段だった。土地が生み出す物が経済に根幹をなしていたのである。
それ故に、経済の基本は、領土である。国民国家が成立する以前は、王侯貴族が支配する土地が国を意味していた。経済は、専ら領土争いである。土地は、「お金」と違い、限りがある。土地を基本としていた時代は、税は、土地を活用した産物に依った。つまり、領土を拡大しない限り、税は増えないのである。その時代は、税は、税金ではなく、租税である。
近代国家が確立する過程で、租税は、金納、つまり、税金に変質する。
租税が金納に変質するキッカケの多くは戦争である。戦争は、非生産的行為である。軍隊は、非生産的組織である。兵器は、非生産的道具である。兵農が分離し、専門の軍人が現れると軍事行動は、完全に、生産的行為から独立する。非生産的組織である軍を養うためには、「お金」が必要となる。
財政の多くは、軍事費が占めるように成れば必然的に財政は逼迫し、破綻する。租税によるもので不足した部分を「お金」で賄おうとすれば「お金」が不足する。「お金」が不足したら国王は、借金をする。それが国債である。国債は、やがて紙幣へと変質する。この関係が「お金」の根本的な性格となる。国債とは、国の借金である。借金の性格が紙幣の根底にはある。借金だからこそ、財政が行き詰まると革命が起こる。戦争をとるか革命を許すかの選択が迫られる事になるのである。戦争も革命も経済破綻が隠されている。
税と土地、戦争と国債こそ、「お金」を拡大発展させたのである。

戦争が経済に与える影響
を無視してはいけない。戦争を聖域化しても禁忌にしてもいけない戦争を現実として受け止め、いかにして戦争を防ぐかを真剣に考える必要がある。国防は、不可避な事なのである。
医者がいるから病気になるわけではない。警察があるから泥棒や強盗がいるのではない。消防署があるから火事になるわけではない。法があるから犯罪が生まれるわけではない。軍があるから戦争になるのではない。
それぞれの役割を明らかにして、しっかり社会が監視すれば間違いは抑止できるのである。鬱陶しいという理由だけでその存在を無視する事が一番悪い事である。現実を直視すべきである。地震は嫌だと言ってるだけでは地震に備える事はできないのである。自分に相手を攻撃する意思がなくても、相手が自分を攻撃する意図を持てば争いは、防げないのである。

戦争と国債は、「お金」の機能を発展させ。そして、「お金」を世の中に拡大させた。
戦争や贅沢と言う生産性のない支出「お金」を生み出してきたという点を見落とすべきではない。「お金」によって直接生産に携わるものでなくとも分配の権利を得る事が可能となった。それは元々過剰、余剰な部分なのである。過剰、余剰な部分を補うために「お金」は、生じたと言える。過剰も余剰な部分は、余分な部分、無駄な部分でもある。だからこそ、「お金」は節約する必要があるのである。さもないと余剰な資金が生じ、それが経済をおかしくするのである。

戦争や国債は、「お金」の働きの基礎を形成する。そして、その働きを市場に浸透させたのが税金である。
国民経済が確立されると税金の基本的な働きが変化する。財政は、宮廷官房から独立し、国民国家の目的と権力に従うようになる。それまで、王国貴族の為にあった税金は、国民の福利厚生の為に用いられる事になる。
そうなると「お金」は、分配と言う機能を鮮明とする様になる。そして、分配と言う機能が明確になると税の在り方が国家経済の骨格となる。

税とは何か。つまり、税とは誰の為に、どの様な目的であるのか。この事を考えるとその根底にあるのは、国家とは、誰の為にあるのか。国家とは何か。つまり、国家主権の問題に突き当たる。税が私的所有権や財産と不可分な関係にあることを意味している。
古代国家と言うのは、土地と不可分に結びついていた。そして、税と言うのは、その土地が生み出す稲のような作物である。支配者にとって人は、土地についた奴婢に過ぎない。経済の問題は、領土が中心だったのである。
その時代の税は、支配者である領主や王侯貴族のものであり、税を徴収する目的も使い道も私的な事であった
税だけでなく、産物、全て、労働力までも、権力者の所有物だったのである。人々の私的所有権や財産権という権利は、王侯貴族や領主にはあったが人民には認められていなかった。現代でも英国の土地は、王室のものだと聞く。また、共産主義国でも土地の私的所有権は認められていなかったと言われる。
この様な時代では、徴税権も債権として担保できる。あくまでも徴税権も権力者の私的財産の一つなのである。徴税権は今日でも国債を担保している。
税は、自給自足できれば国内の生産物で賄う事が出来る。そうなればわざわざ「お金」に換える必要がない。財政難と言うのも物不足を意味し、「お金」が不足しているわけではない。「お金」が必要とされるのは、外部から何らかの資源を調達しなければならなくなるからである。それはある意味で「お金」の本質を表している。「お金」を必要としているのは、「お金」でしか調達できない物があるからである。その意味では、税金も為替も同根から成り立っている。坤ポポンおるの物不足であって金不足ではない。それが財政赤字や国際収支を深刻にしているのである。
国民国家になると税の本質は変化した。しかし、税制度の根幹は、基本的には変わっていない。それが税制度が生まれ変われない根本原因でもある。財政赤字は、なるべくしてなっている。それは税の目的や意義の問題ではなく。仕組みの問題、制度の問題なのである。
不足する物があるから「お金」が生まれ、税金がとられると言う体制である限り、財政は、資金不足から逃れられない。財政赤字は、宿命になる。税を即物的にとらえるのではなく、働きとして捉え、経済の仕組みの中に組み込まない限り、財政赤字は防げない
税は、部門間の分配の延長線上で捉えるべきなのである。重要なのは、部門間の均衡である。どの様にして「お金」を部門間に循環させるかが大切なのである。
国家主権は、国民国家が成立する事で王侯貴族から国民に移った。しかし、税に対する考え方は、変わっていない。だから財政赤字は解消できないのである。財政が赤字になる以前に税金は、政府に不足している資源を補うために使われているからである。それは景気対策だとしてもである。しかし、国民国家の税の働きや役割は王政時代とは目的が違って当然なのである。不足を補うという思想を捨てきれない限り、財政は健全にならない。
市場経済を基礎とする国民国家では、「お金」の働きや効率を根本とした税制に改める必要がある。「お金」の働きに着目しないと財政問題は根本的に解決できない。税は分配の問題なのである。

主たる税には、間接税直接税資産税がある。なぜ、主たる税と言うのかは、税の区分は、多分に恣意的であり、解釈によって違いがあるからである。ではなぜ、間接税と直接税と資産税を取り上げるのかと言うと、今日の税金で最も多くの部分を占め、なおかつ、「お金」の働きに決定的な影響を及ぼしているのが、間接税(消費税、取引税、関税等)、直接税(所得税、法人税等)、資産税(相続税、固定資産税、地税、贈与税等)である。
間接税、直接税と資産税の違いは、間接税、直接税がフローを対象としているのに対して、資産税はストックを対象としている点である。間接税と直接税の違いは、間接税が部門間の配分に重きを置いているのに対し、直接税は、所得の再配分に重きを置いている点である。つまり、間接税は、部門間の分配、直接税は、所得の分配に効力を発揮する。

かつて、多くの飲食店は、暴力団に場所代(ショバ代)みかじめ料をとられていた。一種の用心棒代みたいなものだが、払わなければ嫌がらせをされた。払えば、暴力団には縄張りがあり、他の暴力団から守ってくれた。税と言うのは、元々、場所代と同じような性格がある。だからこそ、一番「お金」がかかるのが国防費なのである。
この様な税が国民国家になると性格が変わってくる。特定の勢力に支払う上納金のようなものから、町内全ての人が払う町内会費のようなものになり、自分たちの生活は自分たちの手で守ろうという事になる。ただ基本的な処では、暴力から身を守るという点で一致している。自分たちの力で自分たちが守れなければ自分たちの権利は他人の善意に縋る以外にない。暴力団から守ってくれる警察は、自分の身内から出さなければ意味がないのである。

税と言うのは、いつの時代でも戦争や革命の火種だったと言える。なぜ、税は戦争や革命の火種になるのか。それは、税が所得や所有権を侵すと考えられるからである。税は、取られるという認識が付いて回る。汗水たらして働いで自分たちが獲得したものの中からなぜ税金を取られなければな内のか。税は、国家権力を象徴しているようにも思える。
しかし、税は、本来、所得の再配分を通じて「お金」の分配の偏りを是正するという働きがある。また、資金の過不足を補うという働きもある。ところが近年、このような働きが機能しなくなり、税がかえって人々の格差を拡大したり、部門間の不均衡を促進したりしている。実は、古来、税が税としての機能をしな来ることが一番の問題なのである。無論、財政の不均衡、「お金」の使い道に問題がある事も確かである。しかし、それ以上に「お金」の分配が上手くいかなくなり、「お金」が市場に循環しなくなる事の弊害の方が大きい。元々、「お金」には、国家の負債と言う性格がある。税は、その負の部分を常に持っている事を忘れてはならない。
それは、税の使い道にも重大な役割があることを示唆している。人々は、税を取られる事ばかりに囚われて税金の使い道に疎い。しかし、「お金」は、収支が表裏に働いているのである。
景気対策として無駄に「お金」を使ったりばら撒いていながら、一方で、増税をしても景気にはいい影響を与えない。
税とは、所得の再分配の手段でもある事を忘れてはならない。

インターネットビジネスが普及するにつけてインターネットの課金は、税に近い働きをする様になりつつある。だからこそ、誰のために、どの様に活用されるかが重要となるのである。

税と戦争と借金と土地は、密接な関係がある


「お金」の働きについて考える時、税とともに忘れてはならないのが「お金」と宗教の関係である。特に、金融と宗教の関りである。

「お金」は、物々交換をする為の手段だと先に述べた。しかし、「お金」は、最初から物々交換を目的として成立したものではない。
最初の「お金」は、儀礼的なものであったり、地位や富の象徴として発生した。石貨などが典型的だが、物々交換として「お金」は、最初から機能していたものではない。
大体において初期の集落、群れは自給自足を前提としていた。物々交換を目的としたものではない。
「お金」が「お金」として機能する為には、相互に「お金」を「お金」とする信認がなければならない。物々交換が生じるのは、物々交換に対する必要性がなければならない。さらに、「お金」が物々交換を仲介するのは、「お金」を「お金」として信認されなければならない。 むしろ、「お金」は、権威の象徴、宗教的儀礼として成立したものある。

宗教は、「お金」とは、無縁に思える。宗教は、神聖であり、「お金」は、最も俗っぽい事だからである。しかし、宗教と「お金」とは、常に深いかかわり合いがある。宗教は、世俗とは断絶しているようで、常に、世俗とは深いかかわりがある。そして、超俗的な立場に立つことで宗教は、経済的な特権を経済団体は、与えられてきた。
特権を与えられた事で、金融に関して宗教は、特異な地位を保ち続けたのである。中世の日本で最大の金融機関は寺院である。
宗教は、最も、人間的な行為なのである。いくら悟りを開いても生きる為の活動から脱け出せないのが人間なのである。聖人も食事をしなければならないし、裸ではいられない。生病老死から逃れられない。
そして、現代社会で生きていく為には、「お金」が必要とされる。
世界の国々で最も壮麗な建物は、宮殿か寺院である事が経済と宗教の関係を象徴している。
宗教と「お金」の問題を象徴しているのは金利の扱いである。それは価値の問題である。「お金」に対する根源的な考え方である。「お金」を卑しいと蔑みながら、「お金」の虜になる。それは、「お金」の働きを善悪で捉えようとするからである。
日本では、中世、宗教教団が一番の金融機関になったし、ヨーロッパでは、教会税によって世俗的権力と絶え間なく対立していた。所詮はこの世は、「お金」次第なのである。
「お金」の基本的な性格は、宗教によって基礎づくられたのである。そして、その働きは、金融の根底に流れているのである。金融機関は、経済の司祭である。

「お金」の目的


「お金」は、道具・手段である。故に、「お金」の目的は、道具・手段としての目的である。包丁を殺人や強盗に使う事はできる。しかし、包丁の目的は、料理を作る事である。なぜならば、包丁は、料理を作る道具・手段だからである。包丁が犯罪に使われたとしても、包丁は、犯罪を目的として作られた物ではない。包丁は、犯罪の為の手段ではないからである。この点をわきまえないと「お金」本来の役割を画定する事はできない。「お金」も使い方を誤れば凶器となる。

「お金」は、分配の手段である。故に、「お金」の目的は、財の分配を促す事にある。
「お金」の目的を理解する為には、分配に対して「お金」がどのように活用されるかを明らかにする必要がある。
まず「お金」の目的は、経済的価値の一元化がある。

「お金」の単位を掛け合わせる事で一旦全ての経済的価値を貨幣価値に還元する。それが分配の為の前処理である。「お金」は、媒体である。
「お金」は、何らかの財と掛け合わさる事で財の経済的価値を貨幣価値に還元する媒体である。

貨幣価値に還元される事で、全ての経済的価値が一元化される。
時間の経済的価値も、労働の価値も、権利の価値も、物の価値も同一の基準で測れるようになる

第二番目に、「お金」の目的は、経済的価値を数値化する事である。「お金」は、財を貨幣価値に還元する事で経済的価値を数値化し、演算や比較を可能とする事を可能とする。

三番目に、「お金」の目的は、取引を完結させる事(決済)である。「お金」は、財と「お金」とを交換する事で一つひとつの取引を完結させる働きがある。

四番目に、「お金」の目的は、経済的価値を普遍化する事である。財を貨幣価値に還元する事で、財の価値を普遍化する。

そして、五番目の「お金」の目的は、交換価値を純化する事である。「お金」は、交換価値に特化する事によって交換価値を純化する。純化されることによって交換価値は情報化される。最終的には、物質性から乖離し、純粋の情報となる。「お金」は、価値尺度に過ぎない。物差しが距離を測るための道具であるように、「お金」は、尺度である。「お金」その物が価値を持っているわけではない。その事を忘れると「お金」の変化に振り回される事になる。「お金」は、交換価値を純化したものにすぎない。

「お金」の目的は、分配と言う働きから成立している。そして、「お金」の働きによって「お金」の目的が純化されると「お金」の仕様も明確になる。

「お金」は、働きに応じて分配され、必要に応じて市場から財を調達する為に使用される。
これが「お金」の最終的な目的である。

ハイパーインフレーションや恐慌等の一番の問題は、「お金」が、「お金」本来の働きである交換分配と言う機能が発揮できなくなる事である。その意味で、インフレーションやデフレーションは、極めて貨幣的現象だと言っていい。

「お金」の目的は、所得と収益に要約される
所得と収益に共通しているのは、分配の手段だという点である。所得は、家計への分配を意味し、収益は、生産主体への分配を意味する。
そして、分配を実現するのはいずれも費用だという点である。



国民経済計算書



所得は、第一に、労働等生産手段に対するの対価。第二に、生活費。第三に、評価。第四に、費用の等の働きがある。
収益は、第一に、生産財の売上。第二に、費用の資金源。第三に、投資資金の回収。第四に、借入金の返済資金源。第五に、利益(配当)の源。第六に、運転資本や投資の担保である。
この働きを裏返すと「お金」の目的が明らかになる。所得や収益が減少すれば「お金」の働きも弱まる。

現代経済の停滞の原因は、適正な収益を維持的なくなった事による。つまり、適正な費用を維持できなくなったからである。「お金」の働きが弱くなったから経済は活力を失っているのである。
現在求められているのは、安売りでも費用の削減ではなく。適正な価格によって収益と費用を維持する事である。
金融業界が活力を失ったのは、低金利ではなく。利幅がとれなくなったことであり、適正な収益が見込める投資先がなくなったことである。いずれも、適正な収益が維持されていないことが原因である。

経済主体は、「お金」の収支、即ち、入金と出金によって動かされている
要するに入り口と出口が、問題なのである。入り口を構成するのは、収入であり、出口は、支出である。入力と出力の関係が経済の動きを定めている。つまり、収益対費用、所得対支出の関係によって景気の方向は定まるのである。

「お金」を集めたり、貯めたりする事は、経済活動の目的とならない。貯蓄や預金は、結果であって目的ではない。
なぜならば、「お金」は分配の手段であり、交換価値を純化したものだからである。
「お金」は、使用されないと効用を発揮しない。ただ、「お金」を貯めても「お金」は、効力を発揮しないのである。
「お金」の目的は、市場取引を通じて財の貨幣価値を確定する事である。
「お金」を使う目的は、必要とする財を市場から手に入れる事である。必要とする財を消費して生活していく事が「お金」の最終的目的である。


「お金」の初期条件・前提



現実の「お金」は、歴史的産物であり、各々の通貨が成立する過程は、一定ではない。ただ、紙幣が成立する為の、要件、アルゴリズムには一定の法則がなければ成り立たない。それは紙幣は一定の共通した要件を満たす必要があるからである。

今日の紙幣の本質は、紙幣の成立過程に隠されている。紙幣は、歴史的産物である。最初から、明確な理論に基づいた仮定、設計図の上に建てられたものではない。むしろ、経験やその時々の状況に合わせて形成されたものである。
紙幣は、何によって生産されるのか。紙幣を生産するのは信用である。紙幣が成立するのは、紙幣が「お金」として信認される事である。つまり、「お金」は、信用が生み出すものなのである。紙幣は、預かり証や借用証書から発達したものである。預かり証も借用証書も信用の上に成り立っている。これは紙幣が信用を基に作られている事を象徴している。

「お金」は、歴史的産物である。それを前提として現在の紙幣の初期設定をする。
「お金」に関しては、全ての経済主体の初期設定は、基本的にゼロである事が前提である。つまり、経済主体は、始まりには「お金」を所持していない。「お金」は創作されるのである。一般政府も金融機関も、全ての経済主体は、所持金はゼロに初期設定されている
どの様にしてゼロから「お金」は、生じるのか。それを明らかにする必要がある。

実際の市場は歴史的出来事の支配下にある。故に、過去の仕組みの残像を引き摺っている。しかし、表象貨幣の機能だけ見ると初期条件はゼロと設定せざるを得ない。
まず、市場経済は、「お金」がなければ始まらないから経済主体は、「お金」を調達する必要がある。
初期の段階では、政府は、借金によって「お金」を調達し、歳出と公共投資によって「お金」を市場に供給する。
中央銀行は、国債や金を担保に紙幣を発行する。金融機関は、資産や預金を担保に中央銀行から「お金」を借りて、企業や政府、家計に「お金」を貸出する。
初期前提をゼロに設定したからと言って実際は、それまで蓄積されてきた資産がゼロになるわけではない。過去の遺産を担保しながら新たな制度に取り込んでいくのである。
紙幣は、信用によって生み出される。これが一番の核心なのである。経済的価値と貨幣価値は一体なものではないし、「お金」その物に価値があるわけではない。「お金」は、「お金」単体で成り立つわけではない。「お金」の価値を裏付ける何らかの実体がなければ成り立たないし、「お金」を「お金」として人々が認知しなければ成り立たない。人々か「お金」として認知しなければ「お金」は成立しない。
先ず「お金」として認知される事である。更に、「お金」の価値を確定する必要がある。
例えば一万円と言うお札を一万円の「お金」だと認知する事である。しかし、一万円として認知されたからと言って一万円と言う価値が確定するわけではない。一万円で食事したり、カバンを買った時、一万円札は、一万円としての価値が確定するのである。なぜならば、「お金」の価値は、交換価値だからである。経済的価値は一定ではなく、前提条件や状況によって変化するからである。一万円と言う価値が実体を伴って存在するわけではないのである。
以上の事が、「お金」の働きを象徴している。「お金」の価値は絶対的価値ではなく。相対的価値である。

「お金」を裏付けているのは、信用である。「お金」の価値は、額面に書かれた金額であるが「お金」その物には額面に書かれた価値はない。要は、額面に書かれた価値があると人々が信じているから価値があるのである。しかも、「お金」の価値は相対的である。市場取引て確定した価格が貨幣価値である。価格は、財の値段であり、財があって成り立つ。財の対価と言う働きが貨幣の価値なのである。「お金」には、実体がない。
故に、「お金」の働きに信用を付けにければならない。贋金を厳しく取り締まるのは、貨幣に対する信用が失われるからである。紙幣から信用が失われればただの紙切れになる。しかし、一般に使用されている紙幣に希少性はない。要するにに経済的価値がないのである。

紙幣の価値を裏付けているのは、債権と債務である。紙幣の価値は、法に依って債権・債務を担保として保証されている。債権と債務は、手続きに依って確定する。故に、紙幣は手続きによって作られる。
債権、債務の実体とは何か、それは貸し借りである。貸し借りによって生じる信用が「お金」の信用の根拠となる。しかし、貸し借りによって発生するのは借金である。要するに、借金が「お金」の信用を担保しているのである。

紙幣は、政府と発券機関(中央銀行)との貸し借りから始まる。貸し借りは、債権と債務を生み出す。債権と債務の証券が国債と紙幣の本となるのである。
紙幣の始まりは、国が国有資産徴税権を担保として国債を発行し、金融機関から「お金」を借り、公共投資や行政費用として使用する。中央銀行は、金等の実物資産国債預金を担保に紙幣を発行し、金融機関に貸し出す。金融機関は、最初は何らかの資産や預金、国債を担保に紙幣を借りる。金融機関は、政府からは徴税権や国家資産を担保に、民間企業に対しては資産か、将来の収益を担保として資金を貸し出す。
紙幣の発行の前提は、紙幣が発効する以前に金貨や銀貨、銅貨と言った実物紙幣が十分に流通し。また、政府は、何らかの物的な財産を持っている。また、徴税権などの将来の収入源がある。つまり、借金の担保となる物や権利がある等である。故に、貨幣制度は歴史的産物である。一定の手順を踏んで進化する。(順次構造
中央銀行は、当初は、金や国債、預金等を担保として発券する。国債の中には、軍人に対する報酬や旧士族に対する補償なども含まれる。ここで鍵を握るのは、信用の創出である。
政府と発券機関との関係は、発券機関は、自らの信用によって紙幣を発券し、貨幣の価値は政府が保証するという関係である。故に、貨幣の流通に対して、翻っていうと物価に対して発券機関は責任をもつ。
政府と発券機関の間で直接的な交換をしているだけでは、紙幣は、市場の信認を受ける事が出来ない。発券機関以外の金融機関が介在する事によって紙幣は、市場の信認を取り付ける事が出来る。
金融機関から政府や家計、民間企業などに「お金」が貸し出され、貸し出された「お金」と財とが交換(譲渡)、即ち、売買が成立した時、「お金」の効力は発行する。売買取引を完了させる事を決済とする。つまり、「お金」は、売買取引に依って決済の機能が付与されるのである。

国が国債(債務)を発行し、金融機関から資金(資産・債権)を借り受ける。金融機関は、国債を受け取って、資金を国に貸し付ける。金融機関は、国債を担保にして中央銀行から資金を借り受ける。中央銀行は、国際を買い入れる事でも資金を市中に供給する事は可能である。中央銀行は、担保として金融機関から中央銀行の当座預金に「お金」を預ける事を強制する。
この様に、国と金融機関と中央銀行は、同量の債権と債務を交換する事で債権と債務を構成し、債権と債務は、資産と負債に転化する事で、紙幣を発行し、市場に供給する。
実際に市場に供給する時は、金機関を除く経済主体、即ち、金融機関を除く法人企業、一般政府、家計、対家計民間非営利団体、海外部門に対して貸し付ける。
「お金」の本質は、債権と債務なのである。

「お金」を除く資産担保に「お金」を借りると資産の値付けがされると資産価値が確定する。



日本銀行



この様にして「お金」が金融機関から市場の方向に流れると流れた「お金」の量と同量の債権と債務が派生する。「お金」の流れる方向によって債権と債務は増減する。

金融機関は、他の経済主体とは、貸借関係に特化し、自らが売買取引はしない。

「お金」を調達する手段は、政府は、発券機関と組んで「お金」を発行すればいい。他の部門は、手持ちの資産を売るか、「お金」を借りるか、「お金」を貰うかである。
「お金」を借りる場合、担保が必要となる。担保できるのは、資産(無形の権利も含まれる。)か将来の収入である。実物と貸し借りが結び付けられることで貨幣価値が実体を持つ。
家計部門が担保できる限度は、手持ち資産か生涯所得である。企業が担保するのは、資本と将来の収入である。政府が担保するのは、国家資産と徴税権である。海外に対しては、外貨準備と徴税権である。貸出と担保の相互牽制によって資金の流通量の上限は設定される。

全ての家計に、一定水準以上の「お金」が配分されないと市場経済は始まらない。
生産部門である民間企業は、金融機関からの借入金と他の経済主体からの投資によって資金を調達する。
生産手段は、担保される事で資産価値が形成する。



「お金」の性格



「お金」には、水に似た性格がある。水の様に「お金」は、市場に広がり、満ちる。それは、「お金」が分配の手段だと言う事に原因している。
仮想通貨になろうと、キャッシュレスになろうと、電子信号やデータであろうと、「お金」が分配の手段には変わりない。故に、仮想通貨であろうと、キャッシュレスになろうと、「お金」の働きは、市場に流通する「お金」の総量に強く影響を受ける事は変わらない。
だから、「お金」の働きは、水位のような物価の水準所得の水準、そして、分散が重要な指標となるのである。

水が器の形に従うように、「お金」も市場の形に従う。水が高きから低きに流れるように、「お金」も高低差によって流れるように流れる。「お金」の過不足が「お金」の流れを生む。
水がダムに堰き止められ、湖に貯められるように「お金」も貯める事が出来る。
経済の仕組みは、「お金」の流れる力によって動かされる。
「お金」は、信用の力を加える事で膨張する。

「お金」の性格は、その働きと成立過程に形成された。「お金」の性格の第一は、交換価値に特化している事。第二に、「お金」は、流れる事で効用を発揮する。第三に、「お金」は、消費されないで循環する。第四に、「お金」は、価値を一元化し、演算を可能とする。第五に、「お金」は、価値を数値化する。「お金」の単位は、自然数離散数だという事。自然数である事で、演算は余り算となり、残高主義になる。第六は、「お金」は、信認に基づいて成り立っている。第七に、「お金」は、代替え物で「お金」自体は価値を持たないという点。「お金」は、交換される事で効用を発揮する。第八に、「お金」の本質は働きであり、情報だという点である。現在、「お金」の情報化が深化する過程にあり、その過程で「お金」の物として属性は失われつつある。第九に、「お金」は価値を保存する。第十に、「お金」は、債務で、名目的価値を構成する。第十一に、「お金」は、単体では機能せず「お金」が指し示す対象と一対になって効用を発揮する。第十二に、経済主体は、「お金」の出入りによって働く。「お金」の流れによって「お金」の効用は発揮される。「お金」の流れを作るのは、「お金」の過不足である。「お金」の過不足は、収入(入金)と支出(出金)によって作られる。

貨幣価値は、債権と債務によって作られる。貨幣価値が債権と債務によって作られる事は、「お金」の形成、および性格に決定的な影響を及ぼしている。

貨幣価値が債権と債務によって作られるという事は、「お金」の生成過程、特に、紙幣に決定的な働きをしている。
要は、貨幣の本質は貸し借りであって売買ではない。この点が国債と紙幣の関係を暗示している。
貸し借りだけでは、貨幣の効用は発揮はできない。売買取引に活用される事で貨幣は効用を発揮する事が出来るのである。
この事が貸し借りと売り買いの関係の前提となる。貸し借りと売り買いは表裏の関係にあるのである。

貨幣制度の基礎は債権と債務の関係によって成り立っている。つまり、「お金」は債権であり債務、その根底にあるのは、貸し借りなのである。紙幣自体が債権証書、債券が発展したものである。
つまり、紙幣の発行は、負債の増加、ストックの増加を意味する。この点を理解しないと国債と紙幣の関係は理解できない。フローは、売買によって成立する。「お金」の働きは、売買によって発揮される。即ち、「お金」の効用は、売買取引によって実現する。この貸借と売買取引の関係から、フローとストックの働きは形成される。
ストックは、フローとの均衡によって安定する。ストックの拡大は、フローを圧迫する。

「お金」は、循環する事によって効力を発揮する。「お金」の働きは、「お金」が流れる事で発揮される。「お金」の働きを規制しているのが貨幣制度である。
経済主体は、「お金」の出入りによって動く。「お金」の出入りは、現金収支を意味する。現金収支を表しているのがキャッシュフローである。

「お金」の出し入れによって経済主体も市場は動く。「お金」の出し入れは現金収支となる。「お金」の出し入れは出金と入金である。出金は、支出であり、入金は、所得である。
「お金」の働きは、出し入れによる。故に、働きの根本は、二進数であり、離散数(デジタル)である。

「お金」が使用されると余剰資金が派生する。余剰資金を金融機関に預ける事で預金が形成される。預金は、現金と同様の働きをする事がある。国民経済計算書では、現金と預金の和が市場に流通する総量と見なす。

「お金」は観念的所産である。つまり、人間の意識が生み出したものである。「お金」は、合意によって成り立つ。故に、「お金」は、信認がなければ成立しない。
「お金」の価値は認識の問題であって存在の問題ではない。故に、相対的なのである。

「お金」は、象徴であり、情報である。
「お金」は、あなたが「お金」だというから「お金」なのである。ある意味で「お金」は錯覚の所産である。
「お金」は、市場で信認されてはじめて効力を発揮する。紙幣は、市場の信用によって成立する。
信用は、仕組みによって作られる。それが信用制度である。
「お金」は、匿名である。「お金」の過去の履歴や誰の所有物かの記録は、「お金」その物は持たない。「お金」は匿名だからこそ「お金」としての働きが出来てきたのである。

また、「お金」は、取引によって成立している。「お金」は、使わなければ効用は発揮できない。
交換を基本とする「お金」は、単独では成立しない。故に、紙幣を成立させる為には、単一機関では不可能である。行政府だけでは、紙幣は、発行できない。故に、紙幣を成立させる為には、政府とは別に独立した機関がなければならない。

「お金」は、税金によって循環する。納税を金納にする事によって「お金」の価値と働きは、政府によって信認され、保証される。納税期間が一定化させることで、「お金」の単位期間が画定され、「お金」に時間価値が付与される。

「お金」の働き

市場経済を円滑に機能させるためには、需給に併せて「お金」の流通を制御する事である。
「お金」の位置と運動の関係をどうとらえるかによる。つまり、「お金」の働きのベクトルの問題である。

「お金」は観念的所産である。つまり、人間の意識が生み出したものである。「お金」は、合意によって成り立つ。故に、「お金」は、信認がなければ成立しない。
合意に基づく「お金」は単体では生み出せない。
必ず相手がいる。自他の取引、やり取りが全ての始まりである。買う者がいれば売る者がいる。借りる者がいれば貸す者がいる。この関係は対称している。
男と女がいて子孫が残せるように、「お金」を生み出す仕組みにも雄と雌がある。これは一つの摂理を表している。

「お金」の本質は、働きにある。「お金」の働きは、「お金」の流れによって発揮される。「お金」の流れは、「お金」の過不足によって作られる。
「お金」の流れには、移転の流れ決済の流れがある。「お金」の移転は、債権と債務を派生させ、長期資金の働きをする。長期資金は、長く市場に留まって支払いを準備すると同時に「お金」の流通を保障する。移転には、資本移転経常移転がある。
決済は、取引を完結する。

財は、消費される事で完結する。しかし、「お金」は、消費されない、交換されるだけである。「お金」は、消費財ではない。「お金」は、腐らない。焼いたり、溶かしたり、分解する事はできる。多少劣化する事はあっても「お金」は消費されない。「お金」は、消費されないというより消費できない。「お金」は、消費できない。消費されないが故に、「お金」は、循環する。循環する事で経済主体は維持される。循環の働きがなくなると経済主体は、求心力を失い解体する。

「お金」の効用は、「お金」の流れによって発揮される。「お金」は、資金の過不足によって流れる。
非金融法人企業と家計の実体面が金融の資金の過不足にどの様に関係しているかを数式で見ると以下の様になる。(「入門 資金循環」日本銀行 調査統計局経済統計課著 東洋経済社)

非金融法人企業の金融、非金融取引は、以下の式で表さられる。
企業収益+資金調達額=実物投資+資金運用額(金融投資)

上の式を実物面と金融面に整理したの以下の式である。
実物投資企業収益資金調達額-資金運用額
実物投資は、投資、企業収益は、貯蓄を意味する。基本的に実物投資から企業収益を引いた値は、資金不足を意味する。

家計の実体面の、金融面での取引は以下の様になる。
消費+実物投資+資金運用額=可処分所得+資金調達額

上の式を実態面と金融面で整理すると以下の様になる。
可処分所得-消費)-実物投資=資金運用額-資金調達額
可処分所得から消費を引いた値は、貯蓄を意味する。
家計は、貯蓄から実物投資を引いても余りがある。日本の家計は、通常、余剰資金を持っている。

非金融法人企業は、資金調達額から資金運用額を引き、家計で逆に資金調達額から資金運用額を引くのは、1997年の金融危機以前は、基本的に資金不足主体だったからであり、家計は、一貫して資金余剰主体だったからである。ところが1999年を境にして非金融法人企業は、資金余剰主体に転換している。「お金」が流れる方向が変わったのである。

「お金」は、取引によって成立している。「お金」は、使わなければ効用は発揮できない。
貯蓄は、支払準備であって効用が発揮されているわけではない。
「お金」は、働きである。
働きである「お金」は、作用するものと作用されるものがあって働きは成立するからである。
市場取引は、基本的に売買と貸借に集約される。譲渡と言う取引もあるが、譲渡は、基本的に売買取引に包含される。「お金」の効用は、貸借によって準備され、売買によって発揮される。

紙幣は、象徴(名目性)、交換(取引)、信用、価値の尺度(市場価値の確定)、名目的価値の不変性(価値の保存)、支払準備、匿名性、数値情報の八つの要件を満たさなければならない。
「お金」は、分配の手段である。
「お金」は、循環する事によって効力を発揮する。翻っていうと循環させる必要があるという事である。
紙幣は、貸借によって成立し、売買によって実現する。

「お金」の価値は、交換価値である。
今日の「お金」には、実体はない、交換と言う働きに価値がある。「お金」の働きは、生産でも消費でもない。交換なのである。

「お金」は、消費されない。「お金」は、交換と言う働きであり、故に、「お金」の名目的価値は保存されるのである。名目的価値が保存されるから、「お金」は、循環するのである。

交換が意味するのは、貨幣の働きが双方向性を持つという点である。

一つ重要なのは、交換価値は、市場取引に依って確定する相対的な値である。故に、交換価値は、変動する。つまり、変数である。

「お金」は、象徴であり、情報である。交換価値の象徴である「お金」は、貸借取引によって生み出される。直接物と物とが交換できるならば「お金」は必要とされない。「お金」が必要とされるのは、物と物との間に貸し借りが介在するからである。
「お金」は、象徴的行為、手続きによって生産される。その行為は、貸借取引を象徴している。
貸し借りにせよ、売り買いにせよ、市場取引は、単体では成り立たない。何らかの相手が必要とされる。取引主体と取引相手との間の反対取引に依って市場は成り立っている。
これは、「お金」を生産する上で重要な要素となる。そこに金融機関の本質的役割がある。金融機関は、市場取引の鏡なのである。

金融機関の企業のアルゴリズムは、貨幣の創造だけでなく。信用を創造する過程でもある。

「お金」は、あなたが「お金」だというから「お金」なのである。
「お金」の性格の中に匿名性がある。「お金」は匿名だから信用される。匿名であるが故に、「お金」は、「お金」自身が「お金」の信用を保証する必要がある。贋金は、金融の基盤と成る信用制度を根底から覆す。故に、贋金は厳罰をもって取り締まられている。

国民の信認が、「お金」の信用を確立する。国民の信認が失われると、「お金」は、「お金」としての働きができなくなる。「お金」の信用は、初期の段階では、金の様な何らかの資産によって保証されていた。それが兌換紙幣である。しかし、実物による保証は、市場の拡大に伴って限界に達する。一定程度経済規模に至ったら、貨幣価値は、実物による保証から銀行券の発券量と国債の発行量との相互牽制による管理へと切り替える。それが管理通貨制度である。
管理通貨制度は、基本的に政府と発券銀行の相互保証制度によって成り立っている。
政府と発券銀行である中央銀行が相互に保証し、牽制し合う事で、市場規模は抑制され、経済は、制御されるのである。相互牽制機能が働かなくなったら仕組みそのものが成り立たなくなる。経済は、双方向の働きがあるから相互牽制がきくのであり、単一方向の作用しか働かなくなったら仕組みそのものを維持する事が出来なくなる。

注意しなければならないのは、「お金」の働きである。
「お金」は、分配の手段である。分配である「お金」が機能を発揮する為には、「お金」の流通総量は、上に閉じている必要がある。「お金」が有限であることが「お金」が信任されるための必要条件である。これは仮想貨幣も同じである。
なぜならば、「お金」は必要量と生産量を調節する手段だからである。市場価格は、人と物と「お金」の量の均衡点によって定まる。
問題なのは、貨幣価値は、何の制約もしなければ上に開いている。故に、貨幣の流通量の上限に対して何らかの制約を設ける必要がある。キャプを被せるのである。

「お金」は分配の手段である。
「お金」は、市場取引の媒体である。

「お金」は、媒体であって「お金」の量の変化によって経済の実体的な部分は動いているわけではない。「お金」の流通量を増やせば見かけ上は、変わるかもしれないが、景気の実体がよくなるわけではない。価格は、物と「お金」の需給によって決まる。「お金」の流通量は価格を決める時の基準となる。しかし、それは尺度の問題であって実体の問題ではない。供給量を調節すれば価格は上下するが、それによって経済の実体が変わるわけではない。

「お金」の働には、長期的働きと短期的な働きがある。
長期的働き、生産手段を構築し、短期的働きは、消費として現れる。
長期的働きは、貸借によって、短期的働きは、売買によって実現する。「お金」の効用は、売買、決済によって完了する。売買に対して貸借は単なる資金転移と見なされる。
貸借は、債権と債務を生み出し、債権と債務は証券を派生する。この証券が紙幣の原型となる。貸しは、「お金」を預けることを意味し、借りは、「お金」を預かることを意味する。故に、預金の本質は貸借である。資本も貸借関係の一種とする事が出来る
生産手段は、固定資産と負債・資本を形成する。負債と資本、資産がストックを形成する。


収入と支出


経済の仕組みは、経済主体によって構成されている。
経済主体を動かしているのは、入金と出金である。入金は、収入であり、出金は支出を意味する。

経済主体は、個人の集団であり、組織である。組織である経済主体には、内と外がある。経済主体は、「お金」の出入りで動いている。「お金」の出入りは、内部取引と外部取引を生じさせる。経済主体と外部との取引は、対称的で均衡している。即ち、ゼロ和である。
内部取引は非対称で不均衡である。利益は、内部取引によって生じる。なぜならば、内部取引が非対称で不均衡だからである。外部取引は、内部取引に依って変換される。期間損益は、ゼロ和にはならない。
外部から仕入れた原材料を内部で加工し、製品として販売する。この過程で、仕入、原材料、費用、製品、在庫、売上と言う過程を経て「お金」は、分配される。仕入、費用は、支出を伴い、売上は入金を伴う。
負債と資本は、入金、即ち、収入を構成する。資産は、支出によって形成される。

所得は、生産主体では費用であり支出であるが家計にとっては、収入となる。消費は、消費主体にとっては支出を伴い、生産主体から見ると収益、収入となる。生産主体の入金は、消費主体の出金であり、消費主体の入金は、生産主体の出金である。要は、立場、視点によって入金と出金は代わる。常に、入出金は表裏をなすのである。故に、外部取引の総和はゼロになる。ゼロに設定されているから市場も、経済主体も均衡するのである。これは、経済の作用反作用である。

「お金」の働きは、経済主体によって変換される。生産主体に入金した「お金」は、資産と費用に振り分けられ、営業余剰・混合所得、雇用者報酬、財産所得、生産・輸入品に課せられる税に変換される。

経済主体に対して入金と出金を繰り返して「お金」は循環する。「お金」が循環する事で、生産、分配、支出は関連付けられる。生産、分配、支出は一体である。これが外的垂直的、水平的均衡をもたらす。
収益は費用に、費用が所得に、所得は消費と貯蓄へと「お金」が流れ、「お金」の働きが変換される。更に、可処分所得、経常移転に変換され、家計を経由して最終消費支出と貯蓄に変換される。

基本的に経済主体は、「お金」の入出金によって結びつけられている。

入金されると法人企業では、「お金」の軌跡は、総資産、総資本、収益と費用に振り分けられ、生産と分配とが均衡させられる。それが、内部勘定である。但し、総資産、総資本、収益と費用は、「お金」が流れる事で起こる働きであって「お金」は、資産としての残高でしかない。
家計では、入金された所得が消費支出と消費投資(貯蓄も含む)に振り分けられる。
収益は、産出であり、売上を意味する。生産を意味するわけではない。売上は、販売量と単価の積である。販売されないで売れ残って製品は、廃棄されるか在庫となる。在庫は、原価で記録される。
中間投入、総生産、総所得、総支出は、原価、生産、分配、支出を表している。中間投入、総資産、総所得、総支出は、「お金」が流れた総量を意味する。金額として計上してあるからと現金を除いて相当の現金があるわけではない。勘定は「お金」の軌跡の残像なのである。一億円と言う金額が計上されているからと言って一億円と言う「お金」があるのではなく、一億円で買った土地、資産があるだけである。五千万円の純資産と言ったても五千万円あるわけではない。
中間投入、総生産、総所得、総支出は、「お金」が循環する事で結びつけられ、機能的には、「お金」が流れる断面を表している。故に、三面等価が成り立っている。そして、中間投入、総生産、総所得、総支出の働きが市場全体を制御している。投入、生産、所得、支出と順次転換していく事で、経済の仕組みは構造的に一体となるのである。投入は、投入、生産は生産、所得は、所得、支出は支出と切り離すと経済の仕組みを一体的に制御する事が出来なくなる。
三面等価は、結果ではなく、構造的要因であり、基盤なのである。

経済の仕組みは、「お金」の流れによって動いている。「お金」の流れを作るのは、「お金」の過不足である。
「お金」を使えば、所持金は減少する。「お金」が不足したら蓄えがあれば、蓄えを取り崩せばいい。しかし、蓄えがなかったり、底を着いたら、新たに「お金」を補充しなければ、現代の社会では生活が出来なくなる。
問題は、いかにして収入を得るかである。

「お金」は、入金と出金を繰り返す事で効用を発揮する。「お金」を動かすのは、「お金」の必要性である。「お金」が必要とする者が絶えずいるから「お金」は動くのである。
「お金」の効用は、「お金」の動き、即ち、「お金」の流れである。「お金」の流れは、「お金」の過不足から生まれる。
「お金」の過不足が生じるのは、「お金」を使うからである。「お金」を使うとは、出金、即ち支出である。「お金」は使えばなくなる。故に、入金がなければいつかは枯渇する。入金とは、収入である。収入がなければ、生きていけない。自分が生きていけなくなるだけでなく。自分の係累も生計が立たなくなる。
問題は、収入を得る為の手段である。何をやってもいいというのではない。盗んだり、脅したり、騙したり、傷つけたり、殺したり、強盗するのは犯罪である。
基本的に「お金」を獲得する手段は働く事である。

経済主体は、常に、「お金」が不足した状態にされる。つまり、常に、経済主体は「お金」に飢えているのである。それが「お金」に対する欲求、欲望を生み出す。
この「お金」に対する欲望が経済を動かすのである。
しかし、「お金」に対する欲望は、時として人を狂わせる。
「お金」に狂うと人は、「お金」本来の役割を忘れる。それは、人が悪いのであって「お金」に罪があるわけではない。
「お金」は道具である。道具である「お金」は、使い方一つで凶器にも、利器にもなる。

経済主体は収入と支出によって動く仕組みである。生産主体では、収入は収益の源であり、支出に費用の根拠となる。収益と費用が分配を担っている。
家計において収入は所得となる。支出は、消費を生む。所得の内で消費支出に結び付かない部分が貯蓄へと廻される。

収入と支出は表裏の関係にある。支出する者がいれば受け取る者がいて受け取る者がいれば支出する者がいる。
入金と出金を繰り返す事で「お金」の流れが生まれ。生れた「お金」の流れで経済の仕組みは動かされる。

金融機関の収益源は金利差である。

経済主体を動かしているのは、何が欲しいかであり、いかにして収入を計るかである。
経済の原則は、入るを測って出を抑える事である。


「お金」の循環



現在の市場経済の基盤は、「お金」を循環させる仕組みだと言える。いかにして、満遍なく市場全体に「お金」を、絶え間なく循環させるか、それが、市場経済を機能させるための鍵を握っている。

「お金」は、循環する事で効力を発揮させる。翻っていえば、「お金」をいかに循環させるかが、市場経済の成否をらぎっている。

「お金」が循環は、「お金」本来の役割、目的に由来する。
「お金」は、分配の手段であり、「お金」を全ての国民に行渡らせる事で、市場経済は、成り立っている。それは、血液の働きに似て体の中で血液が流れなくなった部分は、壊死するように、市場で「お金」が流れなくなった部分は、生産財の配分が受けられなくなる。それは、今日の市場経済では、経済的な死を意味する。現在の経済体制は、自給自足を許さない。
それ故に、「お金」を全ての人に満遍なく周期的に絶えず「お金」を供給させ続ける事が国民国家の責務である。
国民国家では、全ての国民に「お金」を絶えず供給し続ける事を前提として成り立っている。これは、国民国家と国民の契約なのである。なぜならば、「お金」を全ての国民に供給し続けなければ、国民生活、国民の生命と財産が保証できないからである。
つまり、国民国家は、「お金」を循環させ全ての国民に供給しつづける仕組みによって成り立っていると言える。この仕組みが破綻した時、国民国家も破綻するのである。
なぜ、供給し続けなければならないのかと言うと、「お金」は、使えばなくなるからである。そして、「お金」は、使わなければ効用を発揮しない。「お金」を循環させるのは、「お金」の流れであり、「お金」の流れは「お金」の過不足に起因する。「お金」は、不足する事によって「お金」は、流れる。市場経済は、常に「お金」が不足している部分を必要としているのである。故に、資金不足は、市場経済の必要性によって作られている。

故に、国民国家にとって「お金」を循環させることは絶対的条件となる。

自由主義体制は、全ての国民に直接、「お金」を配分するのではなく、経済主体を介して間接的に「お金」を配分する体制である。全ての国民に直接「お金」を配分す目のではなく。消費単位を決めて、その消費単位の働きに応じて所得として「お金」を配分する仕組みが自由主義体制だと言える。
この様な自由主義体制において「お金」を満遍なく全ての国民に定期的に供給し続けるためには、証拠単位を定義し、設定する必要がある。

市場は、体に血液が流れるように絶え間なく「お金」が流れ続けている必要がある。血液の循環が止まれば、死んでしまうように経済も機能しなくなる。
「お金」を市場に循環させる力は、周期的に起こる「お金」の過不足である。経済主体は、入出金を繰り返す事で動かされている。反復的な入出金は、周期的な「お金」の過不足を生じさせる。周期的な「お金」の過不足は、「お金」の流れに、波を起こして「お金」を市場に循環させる。
「お金」の揺らぎ、振動によって「お金」は市場を循環する。その為には、一定量の「お金」が市場に流通していなければならない。そして、「お金」を循環させるためには、経済主体間、あるいは、生産と消費の間をスィングさせる必要がある。
「お金」を流すだけでは「お金」は、市場を循環しない。「お金」を循環させるためには、それなりの仕組みが必要とされる。
その仕組み総体が市場経済である。市場経済は、「お金」によって動かされている。人為的に「お金」の過不足を作り出し、その過不足を均衡させるような流れを市場に作り出しことで市場に「お金」を循環させているのである。
「お金」は、第一に、全ての国民に遍く分配する必要がある。第二に、常に、国民一人ひとりに、最低限の生活が営めるだけの「お金」絶え間なく供給され続ける必要がある。第三に、収益と費用を均衡するように「お金」は、配分されなければならない。第四に、生産と消費が均衡するように「お金」は、分配されなければならない。第五に、「お金」は、循環しなければならない

「お金」は、消費されない、交換されるだけである。財は、消費される事で完結する。しかし、「お金」は、消費財ではない。「お金」は、腐らない。焼いたり、溶かしたり、分解する事はできる。多少劣化する事はあっても「お金」は消費されない
「お金」は、消費されないというより消費できないのである。「お金」は、消費できない。消費されないが故に、「お金」は、循環する。循環する事で経済主体は維持される。
循環の働きがなくなると経済主体は、求心力を失い解体する。経済主体は、「お金」の運動によって保たれている

「お金」を循環させているのは、「お金」の流れである。
「お金」の流れを生み出す力の源は、資金の過不足と時間価値である。
資金の過不足は、部門の債務残高に蓄積され、ストックの歪みを生む。この歪を均衡させようとする方向に力が働くと市場は収束していく。
市場は、収束と発散を繰り返す事で効用を発揮する。

「お金」を循環させるために金融の仕組みには、垂直構造と水平構造がある。
金融は、債権と債務によって成り立ち、債権と債務は、資産と負債、収益と費用の関係を生む。この関係が垂直構造と水平構造の核となる。即ち、貸借と収益の分解に拠っとて垂直方向が生じ、収益と費用、資産と負債の関係が水平構造を生む。垂直方向と水平構造を連関させているのが利益と純資産(資本)である。故に、利益と純資産は、差額勘定となる。

経済は、水平方向の均衡、垂直方向の均衡、市場の均衡、時間の均衡の四つの均衡を保とうとする力が働いている。そして、この四つの働きが経済を動かし、かつ、統一しているのである。つまり、市場経済は四次元空間である。

水平方向の働きと垂直方向の働き、複式簿記の構造によって均衡を維持するように働く。
貸借は均衡する。

経済の状態は、水平的には、金利、利益、税率、所得の増減、物価の増減、資産価値の増減等の均衡として現れる。物価の増減は、短期的資金の働きの状態を表し、資産価値の増減は、長期的資金の働きの状態を現わしている。これらの値は、体温や血圧のようなものである。

「お金」を循環させるためには、資金不足主体と資金余剰主体の二つの主体が存在する必要がある。そして、その主体は、絶えず入れ替わる必要がある。つまり、「お金」のやり取りが経済の仕組みを動かしているのであり、資金不足主体や資金余剰主体が入れ替わらない状態では「お金」の流れは一方的なものになり。「お金」は循環しなくなる。「お金」が一方的に偏って流れる事は、正常な「お金」の循環を妨げる。

「お金」の過不足には、時間による過不足もある。時間の基づく過不足は、時間価値を形成する。

「お金」の流れは、相対する反対の働きによって起こる。相対の働きは、経済の作用反作用の関係を形成する。経済の作用反作用は、経済の対称性を作り出し、複式簿記の根拠となる。
相対の働とは、売り買い、貸し借り、債務と債権、収入と支出、入金と出金、収益と費用、需要と供給等である。

「お金」の流れは、売買と貸借によって作られ、制御される。売買の働きは取引の実現であり、貸借の働きは「お金」の移転である。そして、売買は、フローとなり、貸借はストックになる。売買は、「お金」の効力を発揮し、取引を完結する。貸借は、「お金」の働きを保留し、支払を準備する。
故に、売買は、運動エネルギーを生み。貸借は位置エネルギーを生む。
売買は、物を流し、交換を実現する。貸借は、「お金」を移動する。売買は、市場の表で働き、貸借は裏で働く。
資金の過不足の量と、資金の過不足を生める流れの量は、一致している。即ち、単位期間の売買の量と貸借の残高は一致する。

経済主体は、働きに応じて非金融法人企業、金融法人、一般政府、家計、対家計民間非営利団体部門、海外部門を形成する。
市場には、部門間を均衡させようとする働き、フローとストックを均衡させようとする働き、経済主体間を均衡均衡させようとする働き、時間的に均衡させようとする働き、需要と供給を均衡させようとする働き、生産と消費を均衡させようとする働きがあり。この働きによって「お金」は、市場を循環する。
収益と費用、所得と支出を均衡させようとする働きが経済を動かしている。収益と費用、所得と支出を均衡させる力は、利益と物価に収斂する。

「お金」の流れは、部門間を循環し、経済主体間の「お金」の過不足は、部門毎に蓄積し、ストックを構成する。
ストックは、支払いを準備する。部門間の歪みが拡大するとストックとフローの均衡が保てなくなる。
ストックとフローの均衡が保てなくなると「お金」の循環にも支障をきたす事となる。
故に、ストックとフローをいかに均衡させるかが一番の課題となる。

余剰な資金は、「お金」の流れを滞らせる原因となる。余剰資金は、正常で円滑な資金の流れを阻害する。余剰資金は、フローとストックの均衡を妨げ、「お金」の流れを停滞させる。例えば、バブル時の投機的な資金が、地価の異常な高騰を招き、住宅の実需を妨げてた。
ストックは、フローに作用して流動性を左右する。

市場に流れる「お金」は、適正な量に維持されなければならない。多すぎても少なすぎても、「お金」は、円滑に流れなくなる。「お金」の滞留は、物価や雇用に重大な影響を与えるからである。金融政策の一番の課題は、市場に流れる「お金」を適正な量に管理する事にある。

かつては、日本銀行のルールとして国債の保有を日銀券の発行の範囲に抑えるとしていた。このルールは、2013年の異次元の金融緩和によって一時的に放棄された。


日本銀行 資金循環 ストック

ストックの残高の総量が一定である場合でも、個々の部門のストックの残高の増減が変化している時がある。この様な場合は、部門間の「お金」の流れる方向が変化していることを意味する。個々の部門のストックの増減が変化する裏には、部門間のフロー(キャッシュフロー、現金収支の増減)の変化があることを示唆している。

1997年の金融危機以前は、短期的にも長期的にも家計が資金余剰主体で、非金融法人企業と海外部門が資金不足主体で、一般政府と金融機関は、資金が均衡していた。それが、金融危機以後は、非金融法人企業が家計と伴に短期的な働きで資金余剰となり、それに変わって一般政府が資金不足主体となった。また、金融機関は、1991年のバブル崩壊時に一時的に資金不足に陥った後、金融危機後は、資金余剰主体に転じている。
この状態がデフレーションを招いているのである。


日本銀行 資金循環 フロー(ストックの短期的増減、資金需給)

経済の仕組みは、生産主体が費用によって「お金」を分配し、収益によって回収する。費用は、所得に転換される。消費主体は、所得によって「お金」を獲得し、支出で「お金」を生産主体に還流する。その際、支出は、収益に転換される。この流れによって「お金」は、市場を循環する。

消費量を満たすだけの生産量が確保される必要がある。支出を裏付けるだけの所得が求められる。
資金が順に開店する為には、収益が費用を上回る必要があり、費用以上の所得がなければならない。
収益と所得が一定以上の水準を保てなくなると「お金」は循環しなくなる。収益と所得の水準は、ストックの水準にも関係する。
故に、経済の適正は、収益と価格と費用、所得と物価と支出で判断される。それが生産、分配、消費を調和させる。

総支出の減少は、総所得の下げ圧力となり。総所得の減少は、総生産の下げ圧力となる。

所得の極端な格差は、「お金」の流れに偏りや階層、分断を生じさせ、正常な流れを阻害する。また、所得格差は、累積すると資産格差を生む。資産格差は、長期的資金の働きに係る。
所得格差を是正する働きが所得の再配分である。所得の再配分は、財政の主要な役割である。ただ、所得の再配分は、基本的に資金の移転であり、付加価値は生み出さない。即ち生産的行為ではない。


生産・分配・消費と「お金」


債権と債務は、経済に水平方向の関係を生む。同時に債権と債務が細分化される過程で垂直方向の働きを形成する。垂直方向の働きは、単位期間の働きと長期的働きに別れてフローとストックを形成する。フローは期間損益を構成し、ストックは貸借を構成する。

「お金」の長期的働きは、時間価値を均衡させるように作用する。投資と負債によって「お金」の働きは、時間的配分が可能となる。そして、投資と負債は、投資キャッシュフローと財務キャシュフローを形作る。投資キャッシュフローは固定資産を構成し、財務キャッシュフローは、長期的資金の均衡によって成り立つ。

金融機関から「お金」が金融機関以外の経済主体に「お金」が貸し付けられることで債権と債務を生む。生産主体に流れた「お金」は、投資と費用に分配される。
投資は、収益に結び付き、費用は、所得に結び付く。所得は、消費の為に支出され、残った資金は、投資される。預金は間接投資の一種である。
生産、分配、消費、投資と言う手順で資金は循環する。

分配の経路は、生産主体を経由する経路と一般政府が直接配分する経路の二通りある。

一般に、「お金」は、発券銀行、日本では、中央銀行である日本銀行が、国債や預金を担保にして市中金融機関に貸し出され、金融機関から金融機関を除く経済主体に貸し付ける事で供給される。
金融機関を除く経済主体に貸し付けられた「お金」は、投資される。貸し付けられた「お金」は、投資される事で債権と債務が生じられる。債権は、最初、流動資産を構成し、流動資産から固定資産と費用に転換される。固定資産と費用から収益が生じる。費用からは所得が生まれる。
所得は、支出されて消費を形成する。消費に回されなかった所得は、投資される。投資には、直接投資と間接投資があり、いずれも債権を構成し、金融資産が成立する。

投資は、長期的資金、支払準備として市場に留まる。
産出に投入した資源が転換して財となるのであるから、総生産と中間投資入は表裏一体である。必然的に、総産出量は、中間投入の倍となる。
総生産は粗利益。総産出は、生産量ではなく売上を意味する。売れ残った物は在庫となるか廃棄される。在庫は投資である。
過不足の量と過不足を是正する為に流れた量は一致する。過不足の量は、単位期間あたりの資金需給を意味する。資金需給の残高は、個々の部門の債務残高を損減させストックに蓄積され、長期資金の歪の原因となる。個々の部門の債務残高は、長期資金の働きを形成する。
流れた量はフローを構成する。そして、それは付加価値を生み出す。
消費単位には、所得として生産主体から支給される。


法人企業統計

全体を見て顕著なのは、支払利息が著しく圧縮されている点である。特に、バブル崩壊の1991年を境にして顕著になっている。その分、営業純益が拡大している。支払利息と営業純益が占有率を分け合っているようにも見える。租税公課は、一貫している。


法人企業統計

金融を除く法人企業の付加価値は、リーマンショック以後上向いて見えるが、それは、営業純益の伸びによることがわかる。この間、営業純益が伸びたのは、原油価格の下落と円安という外的要因による。日本経済に漂う閉塞感は、外的要因によって激しく揺さぶられた結果が一因だともいえる。
営業純益を除く部分の和は、基本的に横ばい状態である事には変わりない。実質的経済は、変化していないのである。逆にいうと営業純益が上昇した分、分配率は、相対的に圧縮されていると言っていい。

消費は、消費単位によって行われる。消費単位は、世帯とする。世帯は、個人の集合体である。基本的に生活費は、所得によって賄われるが、世帯を構成する個人全てが所得を得ているわけではない。ただ、世帯の内、少なくとも一人は、所得を得る事を原則としている。所得を得ているものが全くいない世帯や得ていても最低限の生活をするだけの収入に不足している世帯もある。そのような世帯は、政府から必要とされる「お金」が支給される。

生計は、獲得した所得の範囲内で賄われる。
経済の基盤は、消費が担っている。故に、景気は、消費に左右される。この点を正しく認識しておく必要がある。
少子高齢化に向かえば、必然的に住宅需要は減少する。住宅の量的需要が減少したら新築着工件数を促進する政策は愚行である。それよりも住環境を充実させる為の投資を促すべきなのである。
この様に、「お金」や物中心の経済から人中心の経済にどう転換するかが、成長期から成熟期に向かう経済の肝なのである。
それは、都市計画的な構想に則った政策が求められるのである。
経済は、イデオロギーからより現実的な施策が求められるようになる。

また、消費は、人口構成の変化が大きく影響する。

世帯は、通常、家族に基盤を置く。家族の個性が世帯の性格に強く影響する。
世帯は、家計を一つにしているとみなされる。
家族の構成は一様ではない。現在は、一般一組の夫婦を核にして構成される。これが核家族である。核となる夫婦を中心にして生活設計がされる。
世帯を構成するのは、個人である。家族を構成する一人ひとりの人生が世帯の在り方に係る。
通常、幼児期から成人に達するまで扶養家族として経済を親に依存している。成人して就職し自分で所得を稼げるようになると一応経済的には、独立した家計を持っているとみなされる。ただ世帯として独立するのは、結婚してからである。そして、子供産んで育てる。高齢になった定年をしたら子供の世話になるというのが従前の考え方だったが、今日では、一度子供が独立した世帯を持ったら、世帯を一緒する事はない。所得が不足したら政府が補填する事を原則としている。
この様な人の一生にかかる「お金」が家計の長期的資金、債務・債権の基礎となる。
かつては、個人の価値観にも国家が介入し、人々の生き方、生活まで統制してきたが、今日は、人権が確立し、価値観も多様化してきた事で、家族の在り方を類型化、平準化する事が困難になってきた。それと伴に消費の在り方や社会福祉の在り方も変化してきた。経済の基盤も柔軟に対応する事が求められる。

社会環境の変化に伴い、家計の債務・債券の在り方も変化してきた。家計の債務・債権は、消費投資に対する考え方によっちかせってくる。かつては、老後の世話は法的な意味だけでなく道義的においても子供の義務だったが、今日、介護施設や介護制度が家族を道義的経済的責任から解放してきている。自分の責任、人生の始末は、最後まで自分で責任を持つ。誰の世話にもならないという個人主義支配的なってきた。その為に、独居老人や孤独死などが問題となってきている。
その結果、家計の債権の中で、預金や保険、年金は、重要な位置を占めていきた。
また、資産価値が下落し、生活のスタイルが変わってきた事で家を資産としてでなく債務として捉える傾向が強くなり、賃貸に需要の重点が移ってきた。この様な傾向によって、住宅産業の在り方は抜本的な見直しが求められている。
この様な時代の変化は、観念的にとらえるのではなく。現実的になる必要がある。

世帯は、個人の集合体である。故に、生活水準は、個人の働きに負うところが大きい。
今日、所得が個人に帰すようになり、家族と言う単位で消費を捉えるのが難しくなってきた。個人として所得が保障されるようになってくるとそれまで家族に縛られてきた子供や女性の社会進出が活発になってきた。それに伴って一生結婚しなかったり、また、離婚する人たちも増えた。家族が家族として家計を共有する必要性が少なくなった。その事が家族の在り方そのものまで変質させてきている。従来の価値観で家族を捉えていたら、経済的変化から取り残されてしまう。

個人には、基本的に働きに応じて「お金」は、報酬として支給される。
しかし、中には、働けない人もいる。一生、同じように働けるわけではない。歳を取ったり、病気になれば働きたくても働けなくなる。必然的に収入も得られなくなる。
消費は、人の一生によって定まる。働かざる者食うべからず働かないからと言ってほったらかす事は許されない。それが国民国家である。
働けない人は、いずれかの消費単位に属する事で報酬を共有するか、それでも「お金」が不足すると想定される人には、政府が直接支給する。

配分の周期には、日単位、月単位、半年単位、年単位、そして、不定期等がある。不定期と言うのは、随意、必要に応じてと言う場合と収獲や収入があった時点等がある。

給与の形態には、日給、日給月給、月給、年俸等がある。
「お金」の性格は、雇用形態にも影響される。日雇いと不定期採用者では、借金や生計の条件に明らかに差が生じるからである。

基本的に給与は月毎に支給されている。周期が一月である事で一年間の支出が平準化されていると言っていい。また、賞与は、長期債務の返済と一時的な出費に充てられる例が多い。これらは、生活のリズムに基づいていると言える。また、リズムを作っているともいえる。

「お金」の分配の周期が生活に規則性を持たせる。分配の周期は、消費や支出の周期、波を作る。

一つの部門の均衡のみを求めても達成されない。個々の部門は、それ単独で成り立っているわけではなく、他の部門との関係で成り立っている。必然的に個々の部門の働きは、直ぐに他の部門に波及するのである。
重要なのは、個々の部門の変化だけでなく、全体の変化と個々の部門の整合性である。経済で重視されるの単純な量的変化だけではなく、各部門への配分なのである。
故に、まず全体がどの方向に動いているか。その上で各部門間の債権と債務の残高と単位期間あたりの増減、各部門間の比率が鍵を握っているのである。「お金」がどの方向に、どれくらい、どの程度の強さで流れているかが決め手である。
全体の総量に変化がなければ部門間の力関係に影響する。そして、部門間の力関係は、「お金」の流れる方向に影響する。

貸借によって生じる資金の過不足を生めるように「お金」は流れるのであるから、部門間の資金の貸し借りと現金収支は一致する。これが垂直方向における部門間の均衡を保つように働く。
部門間の資金の過不足の総和はゼロである。これが水平方向における均衡を保つように働く。部門間に働く力は、部門間の不均衡を是正しようとする働きであるから、部門間の不均衡を解消しようとする方向に流れる。

固定資本形成は、付加価値を構成しない。固定資本形成は、生産手段を対象としている。つまり、投資によって形成される。損益の表面上に現れるのは経済的価値の半分に過ぎない。単位期間で形成された固定資本も経済の成果である。単位期間内の資金需給は、負債の増減、固定資産の増減として顕れる。固定資本は、資金移動によって形成される。

収益によって生産主体は、「お金」を調達し、費用によって「お金」を分配する。所得によって消費主体は、「お金」を獲得し消費支出によって「お金」を活用する。費用は所得であり、消費支出は、収益に転じる。所得から消費支出された部分を除いた部分は、投資に回され、固定資本形成になる。この手順が「お金」の循環となる。
生産・分配・消費の調和によって市場経済は保たれており、この均衡をとるのが政治と政府、中央銀行の役割である。そして、生産・分配・消費は「お金」の循環によって保たれる。
「お金」の循環によって生産と消費は、分配の仕組みを通じて関連付けられ制御される。

この循環を断つと生産と分配、消費は、分解し、統制を失う。故に、生産主体と分配主体は、不可分の関係にある。

部門における金利の働き


加速装置だけで、変速装置も、制動装置も、操縦装置ももたない自動車は制御できない。経済もただ加速すればいいという訳にはいかない。
金利は、変速装置であり、制動装置でもある。クラッチやブレーキの役割をマイナスだとばかり考えていたら車は、制御できないのである。金利をただ下げ、ゼロにすれば景気がよくなると考えるのは短絡的である。

金利は、「お金」を動かす動因・動機である。金利があるから、「お金」を貸し出す動機が生じ、「お金」は、流れるのである。金利がなければ、「お金」を預かった者は、「お金」を預けた者に責任が持てる。金利がなければ、金融機関は、預金者に対しても、出資者に対しても、投資家に対しても、国に対しても責任を果たせないのである。
金利の働きで一番大切なのは、「お金」の流れを作り出す事、「お金」を動かす事なのである。

金利の働きは、これまで正当に評価された事がない。
多くの宗教は、金利をとる事は悪徳としていた。
しかし、金利は、時間価値を生み出し、資金を循環させる働きがある。ゼロ金利が現在経済を停滞させる大きな原因の一つである。

経済の仕組みは、「お金」の流れによって動かされている。分配は、「お金」が循環する事で成就する。
それでは、何が「お金」の流れを作り、何が「お金」を循環させる原動力となるのか。それが問題なのである。
「お金」の流れを作り、「お金」を循環させる力は、差によって生じる。では何が差を作り出すか。それは、空間と時間である。そして、時間差は、時間価値を生み出す。そして、「お金」を動かす主たる原動力は時間差である。そして、時間差は時間価値を形成する元となる。
時間差から生じる時間価値には、利益、金利、含み損益(未実現損益)、所得等がある。
利息があるから貸付の動機がある。利息がなければ貸借は生じない。なぜならば、貸し手側が一方的にリスクを負う事になるからである。つまり、貸し手には何も得する事がない。それでは「お金」は、動かない。
金利は、貸し手側だけに働くのではない。借り手側にも得になる。第一に、借り手は事業を始めてくても資金がないのである。貸し手は資金があっても利益を上げる手段がない。お互いにとって得になるからそれぞれが資金と手段を出し合うのである。そこに金利がなければお互いにとって共通の利益を上げる術がない。
のた、借りたものは、金利が働くから慎重にも、計画的にもなる。一定期間、収益があげられるように計画するのである。金利がなければ投資資金は、無制限になり、それだけ、リスクも無制限になる。要は無責任になるのである。
今日のゼロ金利にしてしまえば国債も無制限になり、財政リスクも無制限となる。
それは、利益にも言える事で、儲からないのもいけないが、儲かり過ぎるのも余剰な資金を生み出し、その分不確実な要素を増やすのである。
借り手は、利息以上の利益を上げなければならない。この利息と利益の関係が投資の勢いを決めるのである。金利は、悪ではなく。経済の原動力である。

経済の仕組みは、資金の過不足によって動いている。資金の過不足は、資金の流れを作る。
そして、資金の過不足は、経済主体や部門間の貸し借りによって補われ、残高は部門間に累積する。部門間の過不足の総和は、ゼロになる。

金利は、基本的に貸借・資本取引から生じる。即ち、支払いを準備する事である。

金利には、短期金利と長期金利がある。短期金利は、日常生活、企業では、営業の過程、即ち、フローによって生じる金利であり、長期金利は、ストックから生じる金利である。
また、金利には、生産金利と消費金利がある。

また、金利は、働きによって預金金利と貸出金利がある。金融機関は、預金金利と貸出金利の利鞘が収益源である。

金利の働きは、部門によって違う。
金融機関では、金利は、収益の源である。つまり、金利は、「お金」を融通する為の動因である。金融機関は、金利によって時間価値を生み出している。

それに対して非金融法人企業では、投資によって生じるのが長期金利であり。運転資本から生じるのが短期金利である。金利は、生産手段を獲得する事から派生する費用である。
運転資本は、市場取引から派生している。即ち、売買と貸借の時間差から派生する。

金利は利益の基準である。金利は損益の中から、元本の返済は、利益の中の範囲内で実行される。

家計の金利は、消費者金融が元にある。
消費投資は、住宅ローンなどで、生産手段に対する投資とは違い、基本的に収益に結びつかず、一方的な支出と言う性格がある。
住宅ローンの返済は、月々の収入が基礎になる。消費投資は、投資した対象は生産手段ではなく消費手段なのである。当然、収入が中断したり、途絶えると滞る性格のものなのである。

一般政府では、国債金利である。国債金利は、税によって清算される。また、国債金利は、長期金利の基準となる。
財政収支が合わなければ、国債は、際限なく拡大するのである。それは、支払準備を際限ないものにしてしまう。

海外部門では、内外金利差が重要となる。金利差は、為替を変動させ、国際市場の資本の流れを生み出す。
国家の存亡にかかわるような経済変動の多くは、海外部門に関わる、即ち、海外からやってくる。
石油危機、円高不況とバブル、リーマンショックこれらの出来事は、外的要因によって発生し、国内の経済に対して壊滅的な影響を与えた。
金融工学は、海外を原因とした不確実性(リスク)に対応する事で発達してきた事である。即ち、為替の変動、原材料費の変動、金利の変動等に対応した結果、発達してきたのである。
日本は長い間、鎖国していた。鎖国とは、海外との交易を遮断した状態で、自給自足を原則とする。自給自足体制は、経済規模のみならず、社会の規模も自給自足できる範囲を限界とする。それを超えると飢餓状態に陥るのである。日本は、国民の生活を成り立たせる為の多くの資源を海外に依存している。
現在の日本は、海外との交易をしないで成り立つ事はできない。海外交易は、将に、国家の生命線を握っている。戦争の多くは、海外交易の破綻を原因として起こる。戦争の主因は経済である。

海外における金利の働きは、多様であり、かつ、決定的な働きをする。バブルも実際のところ海外事情に振り回されて引き締め策がおくれた事に起因すると言われている。

また、海外交易は、その国の通貨価値を制約し、確定する。

部門間の貸借が金利の幅を決める。ストックとフローの関係によって率は計算される。つまり、部門間の貸借関係が金利の制約となるのである。

単純に資金量を増やせば投資が活発になるという訳にはいかない。
不思議に思えるかもしれないが、資金が余剰となり、金利が下がれば下がる程、資金を貸し出す動機も借金をする誘因も小さくなる。一つは、将来金利が上昇する事に対するリスクである。もう一つは、金融機関にしてみれば金利による利益が見込めない。つまり、貸し出しを増やす動機や意欲がなくなる。更に、貸出先にしてみれば、投資した資金を回収できるだけの収益が見込めなくなる。

「お金」を市場に循環させ、財を配分する為には、非金融法人企業、家計、財政、海外部門、各々に役割や働きがある。それぞれの部門が適切な働きが出来なくなると部門間の均衡が破れる。部門間に歪みが生じると「お金」の巡りが悪くなる。
金利は、非金融法人企業、家計、財政、海外部門の相互作用によって働いていてる。国債の金利を低くしようとすると非金融法人企業や家計に対する貸付金利や預金金利も低くなる。また、海外の金利差が為替を通じて国内経済にも影響してくる。

経済は、現実である。人々の生活が成り立たなくなったら経済は、破綻するのである。



海外部門の働き


基本的に海外交易は、外国から資源を調達する必要があるから生じる。国内で自給自足ができれば、海外から資源を調達する必要はない。生存するのに必要な物がすべて国内で賄えるのなら、わざわざ危険を冒してまで海外交易をする事はないのである。海外から調達しなければなら資源があるから海外交易をしなければならないのである

そして、海外交易をする為には、先ず外貨を獲得しなければならない。なぜならば、必要とする財は相手国の市場で購入しなければならないからである。その為には、相手国に財を売って相手国の「お金」を獲得するか、相手国の「お金」を借りる必要がある。「お金」を借りるにしても担保する物が必要となる。
故に、先ず、相手が必要とする物で、国内で余剰に生産された財がなければ交易は成立しない。財は、労働力でもいい。

この事は、「お金」の働きを象徴している。
必要な物が不足するから対外取り引きが生まれる。そして、必要な資源を獲得する為には、取引相手国の「お金」が必要となる。不足する物があって「お金」が必要となる。不足する物があるから「お金」が必要とされる。
必要とする全ての財が国内で調達できれば、わざわざ「お金」を両替する必要はない。外貨を獲得すると言っても物不足を意味しているので、「お金」が不足しているわけではない。「お金」が必要とされるのは、外部から何らかの資源を調達しなければならなくなるからである。それはある意味で「お金」の本質を表している。「お金」を必要としているのは、「お金」でしか調達できない物があるからである。つまり、不足する物は、「お金」でしか手に入れられないのである。「お金」でしか手に入れられない物があるから「お金」を作るのである。それが「お金」が必要とされる要因である。
「お金」を先ず獲得しなければならない。しかし、それは「お金」が目的なのではない。「お金」を使って手に入れたい物があるからである

必要とされる財だという点、内部経済で不足しているか、あるいは、手に入らない財という点、この二つの要素を持つ財が貨幣価値を持つ。家内においても労働力が不足すれば、外部から調達しなければならなくなる。その場合は、報酬を支払わなければならない。つまり、貨幣価値が生じるのである。

国内の経済主体には、国内に不足する必要な資源を海外から調達しなければならないという命題がある。そして、その為には外貨を獲得しなければならない。交易相手国の通貨がなければ海外との交易はできない。それが国際収支の大前提となる。

海外と物を売り買いするためには、「お金」を両替、即ち、売り買いする必要がある。それが、支払準備であり、為替相場を作る。支払準備が枯渇すると交易の決済ができなくなるからである。

海外から必要な資源を調達しなければならない。その為に必要な「お金」を作る。それが海外交易の起点である。海外から「お金」を獲得する為には、海外で「お金」を獲得できる財を生産しなければならない。財がなければ労働力を輸出する事になる。
つまり、輸入輸出は不可分な関係にある。国際収支は、双方向の働きであって一方的な働きで成り立っているのではない。収益と費用が不可分であるようにである。
輸出入が不均衡になると「お金」の過不足が生じる。「お金」の過不足は、資金移動、即ち、貸借によって解消される。輸出入の不均衡と「お金」の過不足がフローとストックの関係を作る為替は、この不均衡を解消しようとする方向に働きフローとストックは、国際収支の垂直的均衡に係る。同時に、輸出入の不均衡と「お金」の過不足は、水平方向の均衡を保つように働く

先ず見るのは、資本収支と経常収支の比率である。次に外貨準備金の残高経常収支である。経常収支が資本収支と外貨準備高の和を下回るようだと資金が不足していることを意味する。資本収支残高の累積が大きいと国家の主権にも影響する。基本的に資本収支の不足は、徴税権や国家資産を担保していると考えられるからである。

海外で自国の製品を売るためには、対外価格差が鍵になる。対外価格差は、輸入と輸出の両面に作用する。それが為替問題となる。そして、対外価格差が交易に影響する以上、国内の価格差所得水準にも影響する。
国際収支は、国内経済とは、「お金」の働きを通じて表裏の関係にあるのである。

国際収支は、国家経済の一断面を表し、経済状態が集約的に示されている。国際収支を見ると経済の「お金」の流れや働き、状態を推測する事ができる。なぜならは、国際収支には、関門があるからである。密輸のような不法な物を除き関門を通過する人、物、金の流れを全て記録する事が可能だからである。
では、国際収支からどのような事が明らかになるのか。それを知る事は、経済の仕組みを明らかにするための重要な手掛かりである。
国際収支を見ると一国の経済の垂直構造が明らかになる。経済の垂直構造は、物や「お金」の経常的な流れ貸借・資本の状態に二分割される。経済には、物の輸入や輸出と言った実体的な流れと貸借と言った「お金」の流れがある。輸出入と言った実体的な流れは、経常収支に集計される。輸出入を保障する為には、資金的な裏付けが要求される。国家間の貸し借り支払準備に影響しも資本収支外貨準備高を形成する。
実体的な交易は、その国の経済の在り様を明らかとする。それ故に、経常収支を見ると一国の産業構造と状態が明らかになる。また、産業の性格加工貿易に依存しているのか必要資源は自給されているか原材料の輸出に頼った経済なのか観光に依存しているかなどのその国の経済の性格が端的に示される。それは国家戦略に結び付いていく。例えば石油などの輸入は、国家の存亡にかかわる大事である。貿易量の問題ではなく、国家の独立にどの程度影響しているかが重要なのである
「お金」の貸し借りの流れから一国の経済の「お金」の債権・債務状態が解明される。「お金」の過不足が明らかになる。「お金」の過不足は、支払準備、即ち、外貨準備高に影響する。有態にいえば「お金」に困っているか、資金繰りに苦しんでいるかがあからさまになる。「お金」に困れば国家の独立も怪しくなる。
「お金」の過不足から人、物、金の過不足が推測され。何が足りていて何が不足しているのかが見えてくる。
そこから、その国のフローとストックの関係が明らかになる。基本的には、国際収支の規模は、国家の生産力を反映している。総生産の中に占める経常収支の比率は、その国の海外の依存度を示している。
「お金」の貸し借りの累積を見ると対外債権と債務の残高状態が明らかになる。そして、対外債権と債務は、国債と表裏の関係にあるから国債等の国の債務債権が明らかになる。国債を自国内で消化できるかどうかは、財政の独立性に係る。
以上の事から国際収支から国力が見えてくる。国力は、為替に影響する。為替相場から、自国の通貨の国際的評価が明らかとされる。対外依存度対外価格差対外所得差は、国家間の経済的な力関係を示している。金利や関税は、その国の経済政策や国家戦略を左右させる。

国際収支統計の原則は、第一に、単位期間内の取引、第二に、任意の経済圏とそれ以外の世界との経済取引である事、第三に、市場価格を基準とする。第四に、所有権、又は、債権債務の移転があった時点に計上する。第五に複式計上方式に基づくていう点である。
国際収支上での取引は、「交換」「移転」「移住」「その他の帰属取引」とする。(「入門国際収支」日本銀行・国際収支統計研究会著 東洋経済新報社)

その国の「お金」の価値や外貨準備高は、その国の財の調達力を表す。つまり、その国が他国から獲得できる資源量を意味する。故にその国の経済力、国力を表す。逆に、外貨が不足した場合、他国から借金しなければならなくなる。つまり、借りができるのである。この様な借りは、徴税権や国家資産を担保とするから必然的に相手国に自国の権利を明け渡すことになる。この様な為替は、その国の在り方を表す事になる。徴税権や国家資産は、独立を保障する事だからである。安易に他国から借金をすると国家の独立を危うくするだけでなく。経済政策の主導権を奪われる事にもなる。

1992年9月16日にイギリスは、自国通貨を売り浴びせられ翌日に欧州為替メカニズムから離脱せざるえなくなり。1997年には、タイの通貨危機を発端にアジア全体が金融危機に追い込まれた。この様に為替は、単に通貨取引と言うだけでなく。国家経済に深く関わっている。

通貨は、為替の安定金融政策の独立性自由な資本移動の三つを同時に実現できないとされる。それを通貨のトリレンマと言う。いずれをとるかは、その国の国家戦略、経済政策に係る大事であり、その政策如何で国家の消長が左右される。三つの要素は、いずれも「お金」の流れと働きに関わる事である。

為替の働きは、「お金」の働きを要約していると言える。
現在の市場経済は、一国単独で成り立たなくなっている。つまり、他国との交易がなければ国内の経済も回らない仕組みになった。
一国の経済を成り立たせるために必要とする物の中に、国内で調達できない資源がある。つまり、一国が成り立つために必要な資源を他国から調達しなければならない。これが為替の大前提である。
この事は、国際分業を深化させると同時、世界市場を成立させ、世界市場が成立する過程で為替制度を形成させた。為替制度は、通貨制度、通貨単位が違う国の間で交易をする過程で成立した。通貨制度や通貨単位が違う国家間で交易を成り立たせるためには、通貨の両替が要求されるからである。

一国の経済状態は、国際収支上の債権・債務関係によく現れると考えられる。

国際交易の裏付けとなるのは、決済資金である。即ち、支払準備をどれくらい用意できるかによって国家間の力関係は左右される。
クローサーは、一国の経済の発展段階を第一段階、未成熟な債務国、第二段階として成熟した債務国、第三段階として債務返済国、第四段階して未成熟の債権国、第五段階として成熟した債権国、第六段階として債権取り崩し国と六段階に分類していてる。この様な段階を踏んで一国が成長するとは限らないが、ただ、一つの傾向は示されていると考えられる。債権と債務の関係は、その国の状態産業構造の構成を表していると思う。

国際交易は、国家間の相互関係の上に成り立っている。一方の当事国の都合だけで成り立っているわけではない。相手国から資源を調達しようとしたら相手国に売る物がなければならない。そして、売り買いの均衡する事で交易は持続する事が可能となるのである

一方的に債権や債務が積み上がっていく関係は、経済の健全性を損ない、一国の主権や独立を危ういものにする。
何を輸出し、何を輸入するのか。それは、その国の国家戦略に関わる問題である。経済が脆弱な国は、貿易をする材料によっては強国の支配下に組み込まれてしまう事もある。

日本は、多くの資源を他国に依存している。中でも戦略物資である石油の九割以上を海外に依存している。石油価格の動向に、日本経済は、振り回されてきたのである。
この様に経済の基盤を支える戦略物資を海外に依存している我が国は、為替の動向にも敏感にならざるを得ない。為替の変動の影響は、全ての産業が一様に受けるのではなく、産業毎に差がある。円高でもプラスに作用する産業もあれば、マイナスに作用する産業もある。円高が是か非かの問題ではなく。個々の産業がどのような影響を受けるかが重要なのであり、為替の変動に対してとるべき政策も産業毎に換える必要があるのである。

金融政策や財政だけで為替の変動に対応としようとするのは無理である。直接的な影響を受けるのはも産業なのであるから、構造的な問題として為替の変動は受け止める必要がある。

為替の働き



経済圏間の交易を接続しているは、「お金」である。経済圏は、一般に通貨圏を指し、国家を基準とするが、複数の国家が一つの通貨を共有している場合や逆に複数の通貨が併存する国もある。しかし、ここでは、基本的に通貨圏とする。
即ち、通貨圏間の交易を結び付けているのは、「お金」であるが、通貨単位が違うために、同一の「お金」を使う訳にはいかない。その為に、他の経済圏と交易をする為には、経済圏でつかわれている通貨と両替をする必要がある。
両替と言うのは、通貨同士を交換する事だが、交換するという事は、売買取引を意味するので、「通貨」に相場が生じる。それが為替相場である。

為替は、基本的に通貨圏間で派生する。通貨圏間の交易が為替を必要とし、生み出すのである。
一つは、交易そのものから、もう一つは、交易の決済の必要性から財だけではなく「お金」の取引、両替が成立するのである。財は、財の持つ効用を必要とする為、為替は、決済をする為に生じるのである。
これは経常収支と資本収支の性格の違いにもなる。

交易をする為には、相手国で商品を相手国の通貨によって購入する必要がある。
その為には、自国の通貨と相手国の通貨を両替する必要が出てくる。二国間の通貨を交換しようとした場合、相手国の通貨と自国の通貨を交換する場合、何を基準とするかが問題となる。 金融決済の仕組みや基準が為替なのである。

為替を複雑にしているのは、国家間の価格体系に大きな隔たりがある事による。
金の単価を通貨を交換する際の基準としても、個々の商品の金に対する価格は、一様ではなく。国家間で大きな差があるのが一般的である。
仮に、金を基準としたとしても、金だけでは、金の価格を測定できない。なぜならば、金の価格自体が相対的な事だからである。単位当たりの金で、何が交換できるかが、金の経済的価値を意味する。ところが、単位当たり金と交換できる物は絶えず変化している。金の国内相場すら一定しているわけではない。

物価を構成する価格の体系は、万国共通なわけではない。
購買力平価と言う考え方があるが、価格と言うのは、国情や地理的要件、文化的要件などによって体系が違う。早い話、石油に対する需要や用途は、熱帯に位置する国と寒冷地に位置する事では違うし、産油国と非産油国とでも違う。また、交通機関の発達程度によっても差が出る。道路状況によっても違う。運賃は、金との比較で一意的に決まるわけではない。
また、主食が何かによっても食料品の価格体系は差が出る。米を主食とする国とパンを主食とする国とでは、自ずと経済的な価値に違いが出る。
為替相場は一意的に定まるわけではない。

一つの貨幣制度は、一つの通貨圏を形成する。これが原則である。故に、一つの行政圏で二つの通貨制度が採用されていれば、二つの通貨圏が併存することを意味し、複数の行政権が一つの通貨制度を共有している場合は、通貨制度を共有する行政権は、一つの通貨圏に統合される事を意味する。後者の例は、EUである。

一国に二つの通貨単位が存在すると、国内でも為替相場が生じる。実際、江戸時代は、金銀に本位制であったために、金貨銀貨の間で両替が必要とされた。

交易の量よりも交易をしなければ経済が成り立たないという事実である。経済が成り立たなくなるから為替の変動は、景気に対して決定的な影響を及ぼすのである。

この様な関係が、国内経済にどのような影響をもたらすか、この点を理解しなければ為替の意味は理解できない。
単に「お金」を交換すればいいという訳ではない。為替の変動によって経済のどの様な働きに影響が出るかである。
石油価格の高騰が為替にどの様な影響を及ぼすかは、石油価格が国内の経済にどのような影響を及ぼすかによって違ってくる。それが石油なのか、ダイヤモンドか、金かによって経済に及ぼす影響や範囲に差が生じる。絶対にある程度の数量を確保しなければ国民生活が成り立たなくなるような物資とできればあった方がいいという物資とでは影響の度合いに差が生じる。それは為替にも反映する。
交易に必要な「お金」を互いに交換する。その交換の裏には、同じだけの財の交易が前提となる。そうでなければ、為替は成立しない。原油を必要とするならば、同じだけの経済的価値を交換しなければ対等の交易は成り立たないからである。
故に、為替は、一国の経済の実力を表すのである。原油と交換できるだけの相手国の通貨がなければ、どこからか不足する分の相手国の通貨を借りてこなければならない。その場合、決済手段となるのが基軸通貨である。現在は、米ドルが基軸通貨である。

基軸通貨は、決済通貨である。国家間で交易をする為には、決済資金を準備しておく必要がある。
その決済の為の通貨が米ドルなのである。米国以外の国は、米ドルを支払準備のために一定額蓄えておく必要がある。
それが外貨準備である。支払準備金の残高が枯渇すると他国と交易が出来なくなる。それが通貨危機である。
外貨準備が枯渇したら世界銀行などから借金をしなければならなくなる。そのお金は米ドルである。つまり、アメリカに借金をするようなものである。
反面、アメリカは、ドルが決済通貨だから支払資金を準備する必要が全くないドルはどこの国でも通用する。ニクソンショック以前は、兌換紙幣でしたから要求があれば金と交換しなければならなかったが、ニクソンが金との兌換を止めたから、金と言う拘束もなくなった。
米ドルが決済資金であるから、世界市場は、ドル相場やドルの発券国であるアメリカの経済政策の影響を受ける。その為に、プラザ合意のようなアメリカの一方的な要求ものまざるを得なくなる。
アメリカドルは国際市場では基軸なのである。ただ、アメリカを悩ますのは海外に流出した巨額のドルを制御できないという事である。

為替の性格は、垂直的な均衡を要求する。つまり、経常収支と資本収支の均衡である。基軸通貨国であるアメリカは、国際市場に大量なドルを供給し続けなければならない。その為に、世界市場では米ドルが慢性的に不足となる。アメリカは、資本収支を常に黒字に維持する事が求められる。その為に、基軸通貨国は、宿命的に経常収支が赤字に陥り易いのである。

この様な矛盾を解消しようとする手段としては、基軸通貨以外に決済通貨を設定する事であり。度々試みられるがいまだに実現していない。それは、「お金」の本源的性格、即ち、「お金」は、万人が「お金」だと認める事によって成立するという性格である。通貨間の決済だけの通貨の信認がなかなか万人に受け入れられないのである。

為替の変動によって国内の経済がどのような影響を受けるのか理解する為には、交易の量より、為替の変動が物価や所得、収益に与える影響の方が重要である。

為替の変動によって貿易が受ける影響よりも国内市場が受ける影響の方が経済全体に与える影響は大きいからである。

なぜならば、内外価格差や内外所得差は、国内の経済の前提を狂わせるからである。為替の変動は、内外価格差や内外所得差の水準を変えてしまう。それによって、物の流れる方向や「お金」の流れる方向が変わるからである。

注意しなければならないのは、国内経済から見て為替の変動の影響を受ける財と受けない財があるという点である。そして、為替の影響がある財が影響のない財に対してどの様な働きをするかが問題なのである。
例えば、雇用者の所得は、国内では為替の変動の影響を受けない。しかし、相対的に国外の物価が下がるために、海外旅行が活気づくと言った事である。

基本的に各国の経済の前提条件は、違うという事を前提として考えるべきなのである。それぞれの国は経済体制も経済構造も経済に対する考え方も違うのである。そのような前提条件の違いを無視して為替や関税だけで自由な交易を実現しようという事こそ無謀なのである。
世界には、社会主義国もあれば、独裁主義国もあり、イスラム原理国もある。経済間発展段階も違えば、通貨制度も、金融制度も違う。利息に対する根本思想が違う事もある。労働条件や資源も違う。資源を持つ国と持たない国とでは、出だしから違う。安全や仕様に対する規制も違う。いい例が、排ガス規制や食料、医薬の安全規制の違いである。風俗習慣も違う。宗教上の理由で食品が制限されている国もある。国の大きさも違うし、人口も違う。交通の要衝に位置しているかどうかでも違う。島国か、内陸国かでも違う。寒冷地か熱帯かでは、環境も違うし、求めるものが違う。軍事力も違う。民度も違う。市場の歴史も構造も違う。社会資本の差も大きい。
それぞれの国の国情に合わせて交易条件を設定する必要があるのである。それは関税の問題だけではない。また、一方的に自国の都合を相手国に押し付ける事もできない。その横暴さが戦争の火種になるのである。

為替は、所得自体に影響はしないが内外価格差や内外所得差によって人の流れや物の流れに影響するのである。単純に円安は、輸出産業を利するとか結論づけるのは短絡的である。為替の変動で一番重要なのは、経済全般に与える影響なのである。

為替の変動による弊害を弱める為に、為替への介入を試みる例がある。その場合、注目すべきなのはも併せて取られる国債に対する政策である。なぜならば、為替の介入に用いられるための資金は、国債によって調達されるからである。

為替が大きく変動する事が予測される時は、為替の変動が是とする産業と否とする産業があるから、それぞれの影響に合わせた政策を事前にとる必要がある。一律な政策はとれない。また、為替の変動の影響には時間差が生じる事もある。

国際市場においては、為替の固定資本移動の自由金融政策の自由の三つを同時に実現する事はできないとされる。それは、為替を固定相場にし、資本の移動を自由な状態にしておいたときに、国家間に金利が差が生じる金利の低いところで資金を調達金利の高いところで運用するという一方的な流れを防げないからである。

変動相場制をとっている国では、為替の変動は、海に浮かぶ船のような物であり、波による揺れを和らげる様な経済構造にしておく必要がある。さもないと大きな波に襲われた時、経済そのものが転覆してしまう恐れがある。

「お金」の要件定義


「お金」は、分配の手段である。

貨幣制度は、「お金」の循環によって財を分配する仕組みを基礎として成り立っている。
貨幣制度の要諦は、いかにして「お金」を市場の隅々まで行渡らせ、そして、循環させるかである。

経済の仕組みは、「お金」の流れによって動かされている。
「お金」の流れは、経済主体に対する「お金」の出入りによって引き起こされる。

一つの貨幣制度は、通貨圏を形成する。一国の貨幣制度は一つである。通貨圏と行政権の境界線は一致している。貨幣制度は、国家権力によって保障されている。国家権力が力を失うと「お金」の効力も薄れる。「お金」と権力とは不可分な関係にある。「お金」は、力である。
逆にいうと通貨圏は、行政権を画定する。「お金」が通用する範囲が行政の力が及んでいる範囲と言える。一つの貨幣体系が効力発揮する範囲が事実上の行政権を画定しているともいえるのである。「お金」が通用しない領域があったらその領域は治外法権の状態にある。
かつては、複数の金融機関が自由に貨幣を発行していた時代がある。しかし、その為に、行政による物価の統制が保てなくなった。それが原因で現在は、一国の貨幣制度は一つに原則統一されている。
現在は、通貨圏と行政権は基本的に一致している。幾つかの政府が一つの貨幣制度を共有している場合がある。
その場合は、通貨圏と同じ通貨を採用している国の行政圏の境界は、一体である。
通貨圏と行政権が一体である事によって政治と経済の整合性が保たれている。

例え、仮想通貨が普及しても仮想通貨を裏付けし、保証するのは既存の貨幣制度である。この点を誤ると仮想通貨の働きも理解できない。仮想通貨も既存の通貨制度の上に構築されるのである。

「お金」は、価値を一元化する。

「お金」は、貨幣価値を生み出す。
貨幣価値と言うのは、その時点その時点の交換価値を意味し、数量と価格の積を意味する。
数量は、有限であり、価格は、無限である。販売数量は、単位当たり消費量と消費人口の積であり、有限である。故に、経済変動は、貨幣的現象である。この点を注意する必要があり、人や物と言った経済の実体には限りがあるのである。物、固定資産は、相場を構成する。変動するのは、価格であり、経済を制御する為には、価格を抑える必要がある。物や人は、価格形成を制約するが、しかし、価格を変動させている直接的な因子は、交換価値である。価格変動は、基本的に貨幣的現象である。貨幣価値は、名目的価値を形成する。

「お金」の効用は、財との交換である。財と交換する事で分配を実現するのが「お金」の目的である。それは、貨幣価値が「お金」の効用を表しているからである。
「お金」の効用は、市場取引に依って発揮される。
「お金」は、経済主体に対する出入りによって効力を発揮する。効力は、入金、出金の量で測られる。

「お金」の働きを促すのは差である。差には、時間差、空間的差、物的差、個人差、質的差等がある。

財は、消費される事を目的としている。しかし、「お金」は、消費されない。交換されるだけである。消費されないから、名目的価値を保存して、循環するのである。

経済主体が「お金」を出金する事で外部から何らかの効用を受け取る事で経済の仕組みは動いている。
経済主体は、「お金」を使う、即ち、出金すれば手持ち資金の残高は減少する。残高がなくなれば経済主体は、経済活動が継続できなくなる。故に、「お金」を常に補給し続けなければならない。「お金」を獲得する手段と「お金」によって獲得する財の働きによって「お金」は、循環している。
「お金」を獲得すれば余剰の資金ができ、「お金」を使えば資金の残高が不足する。この資金の過不足が「お金」の流れを生み出すのである。

生産財の分配は、「お金」を予め、消費単位全てに配分しておき、消費単位が必要に応じて財を市場から購入する。即ち、二段階で実現する。経済主体にとって第一段階は、収入として現れ、第二段階は、支出として現れる。
故に、消費単位では、収入は支出であり、支出は家計である。つまり、分配の基準は、所得の基準を意味し、物価の水準によって変化する。
分配の目的は、所得を一定の基準で満遍なくどの様にして配分するかの問題である。

また、物価が安定しないと消費が成り立たなくなる。経済の仕組みに求められるのは物価の安定である。

それに対して生産は、最小の投資で最大の効用を得る事である。生産と分配は、違う論理で動いている。
だから、生産と消費の均衡を保つのが難しいのである。

生産上で生じる偏りを是正するのが金融機関の役割で、所得上で生じる偏りを是正するのが一般政府の役割である。

一般政府は、税によって収入の一部を回収し、それを、行政費用や公共事業によって市場に還流する事で「お金」を循環させている。この過程で所得の再配分も併せて行っている。

経済主体の働きだけでは、「お金」の流れに偏りが生じる。経済主体の働きによる入出金は、不確実であり、空間的にも時間的にも偏りが生じるからである。この偏りを補正する働きが金融である。そして、法人企業は、経済活動を通じて「お金」の流れを整流する。
資金の時間的な偏りを補正し、損益を安定させるのが金融の働きである。注意しなければならないのは、収益によって貸借の均衡を保つという点である。つまり、借入金の返済を収益に中から賄えなければ、貸借の均衡は保てなくなるのである。

経済主体を正常に機能させるためには、資産、負債、資本、収益、費用、利益の働きを理解して適正な価格が実現できるように市場を規制する事である。無原則な規制緩和程、経済の仕組みを危うくする政策はない。規制緩和は、適正な価格を実現し、経済活動を活発にするために実施するものであり、絶対的原理ではない。必要に応じて行うべき事である。

生産主体には、不確かで不安定な収入を貸借によって整え、賃金を一定化させることによって従業員の定収を確立する働きがある。生産主体は、収支の整流器でもある。

経済の目的は、生活に必要な資源を調達、生産し、公平に分配して、人々の生活を豊かにする事であるが、そもそも、産地や収獲にばらつきがあり一定しているわけではないのである。
土台に安定しておらず、偏りがあるのだから、何らかの働きによって収入や生産を一定にしないと生活は不安定なものになる。放置すれば生活の格差は拡大する。経済的な偏りや格差を矯正するのが経済の仕組みの重要な役割の一つである。

全ての経済主体の活動は、資金調達に始まる。
生産主体の資金調達の手段は、資本的手段、貸借的手段、損益的手段である。
消費主体の資金の調達手段は、稼ぐ、借りる、貰うである。
いずれにしても経済主体は、先ず資金を調達する処から始まる。これは一般政府も同じである。

経済の仕組みは、利益を上げる事や金儲けではない。必要な財を調達・生産し、それを公平に分配して、人々の豊かな生活を実現する事である。

経済の仕組みは、「お金」を循環させる。満遍なく全ての消費主体に「お金」を供給する。常に、新鮮な「お金」を全ての消費主体に供給し続けるという三つの機能を備える事が求められている。

「お金」のアルゴリズム


「お金」のアリゴリズムと物のアリゴリズムの違いは、物のアルゴリズムが実際に使用する物やサービスを生産する為のアルゴリズムなのに対して「お金」のアリゴリズムは、価値の生産の為のアルゴリズムだという点である。

実際に使用する為の財の生産と価値の生産は、どこが違うというと財は、実用性や実体があるのに価値は観念の所産であり実体がないという点である。
財の生産は、有形であろうと無形であろうと何らかの実体、実用性がある。しかし、「お金」は、信用や信認と言った観念の上に立脚し、実体や実用を伴わない。「お金」は、交換と言う働き以外に使い道がないのである。言うなれば交換の為の交換のようなものである。しかも現代の主たる貨幣は、不換紙幣であり、担保する実体すら持っていない。つまり、裏付けとなる物がない、担保される物がないのである。

「お金」が分配の手段である以上、上限が閉じている必要がある。なぜならば、「お金」は、影であり、実体を投影したものでなければならないからである。人や物は有限である。実体が有限である以上それを投影する尺度が青天井では、全体と部分とを比較する事が出来ない。故に、貨幣単位は、上限を何らかの形で制約しないと尺度としての機能が果たせなくなる。
貨幣単位の上限は、手続きと契約によって設定される。

故に、「お金」の価値は、手続きや契約の上に成り立っている。手続きや契約は、法に依って保証されていなければならない。これが必要要件である。
貨幣価値の上限を設定する為の手続きから「お金」のアリゴリズムは開始する。

貨幣価値の上限は、政府と中央銀行との間に相互牽制を働かさる事で設定される。政府は、国債を発行してその国債を担保として中央銀行に紙幣を発行させる。国債発行の残高によって紙幣の発券残高の上限に箍(たが)を嵌め、制約するのである。つまり、中央銀行と政府が互いに債権と債務を発行し、交換する事で、通貨の流通量を管理するのが現在の通貨管理体制である。

「お金」のアルゴリズムは、少し複雑である。まず「お金」を金融機関が生産する必要がある。生産した「お金」を経済主体に貸し出す事によって供給する。「お金」を手に入れた経済主体は、市場取引に依って市場から生きていくために必要な資源を手に入れる。

紙幣は、政府と金融機関との貸し借りで生産される。
金融機関の中心に位置するのが発券機関であり、一般に中央銀行である。他の金融機関は、中央銀行から手持ちの資産を担保に「お金」を借り、それを民間企業や家計に貸し付ける。金融機関から「お金」を借りた企業や家計は、売買取引を通じて「お金」を市場に循環させるのである。
経済は、歴史的産物である。「お金」も歴史的産物であり、過去の遺産を引き継いでいる。故に、ゼロからのスタートと言っても完全にゼロという訳ではない。
近代的な金融制度が成立する過程で過去の負債、たとえば、藩札や旧貨幣、そして、家禄を源資とした金禄公債証書等を集めて担保などとした。


日本銀行

日本銀行

「お金」も、生産、分配、流通(使用)、貯蓄、再利用と流れがある。そして、物とお金の決定的な違いは、財が消費されることによって完結しているのに対して「お金」は、消費されずに循環する事である。

紙幣は、第一段階として紙幣の生成、第二段階として紙幣の信認を確立させ、第三段階として紙幣を流通させ、第四段階として紙幣を循環させ、第五段階として紙幣の流通量の上限を制約すると言う五段階によって市場に浸透させる事が出来る。

経済の仕組みを成立させるためには、まず「お金」を生み出し、社会に承認させ、市場に供給させ、流通させる必要がある。
「お金」の価値は、交換価値である。
今日の「お金」には、実体はない、交換と言う働きに価値がある。「お金」の働きは、生産でも消費でもない。交換なのである。

「お金」は、政府と中央銀行が債権と債務を持ち合う事で発行、生産される。
生産された「お金」は、金融機関と政府に一旦預けられ、改めて金融機関が非金融法人企業に貸し付ける事で市場に供給される。非金融法人企業は、市場取引を通じて市場に「お金」を循環させると、伴に、所得として家計に「お金」を供給させる。家計に供給された「お金」を使って(最終民間消費支出)家計は、生活に必要な資源を市場から購入する。
余った「お金」は、金融機関に預けられ、非金融法人企業や家計に貸し付けられることで、市場を循環する。
「お金」が生産されれば、次に、市場経済は、各経済主体が、「お金」を調達す事から始まる。

生産主体は、金融機関や家計、他の法人企業からの借入金や出資によって生産手段に投資をする。単位期間内に稼ぎ出した収益から費用を支払い「お金」を家計に供給し、あるいは、債務の返済、納税をする。

「お金」の流れは、収入と支出が組み合わさって形成される。
収益の本質は、社会的効用である。必然的に社会的責任が伴う。

一般に、「お金」は、発券銀行、日本では、中央銀行である日本銀行が、国債や預金を担保にして市中金融機関に貸し出され、金融機関から金融機関を除く経済主体に貸し付ける事で供給される。
金融機関を除く経済主体に貸し付けられた「お金」は、投資される。貸付金から債権と債務が生じる。債権は、最初、流動資産を構成し、流動資産は、固定資産と費用に転換される。固定資産と費用から収益が生じる。費用からは所得が生まれる。
所得から消費投資と消費支出が支出を形成される。
所得は、支出されて消費を形成する。消費に回されなかった所得は、投資される。投資には、直接投資と間接投資があり、いずれも債権を構成し、金融資産が成立する。預金は、間接投資を意味する。
所得の不均衡は一連の過程の途中で徴税され更に再配分する事で是正される。財政の重要な役割は、所得の再配分によって格差を是正する事にある。なぜならは、所得格差は、富の配分に偏りや歪をつくり、「お金」の循環を妨げるからである。

最終的に消費単位には、生産主体から所得として「お金」は、支給される。
所得は、日本の所得税の分類によると所得は、第一に、利子所得、第二に、配当所得、第三に、不動産所得、第四に、事業所得、第五に、給与所得、第六に、退職所得、第七に、山林所得、第八に、譲渡所得、第九に、一時所得、第十に、雑所得の十種類に分類している。

生産主体は、消費主体から収益として回収し、費用に転換して消費主体に支給する。消費主体は、生産主体から所得を受け取り、財を買って生産主体に還流する。この過程で生じる「お金」の過不足は、貸借によって埋め合わせる。この繰り返しが市場に「お金」の循環を生み出す。「お金」を経済主体間でスィング(遣り取り)させるのである。
つまり、収益と費用、所得と支出の関係が経済の仕組みを動かしているのである。

物価は、市場に流通する通貨の総量と市場に供給されている財、家計が必要としている財の相互関係で決まる。
政府と中央銀行の最大の仕事は、通貨の流通量を加減して、物価を制御する事にある。

よく財政はデフォルトをしないとか、ハイパーインフレーションになるはずがないとか言う人がいる。そういう人の多くは、木を見て森を見ないと言うタイプである。経済の問題は、財政のデフォルトとか、ハイパーインフレーションだけではない。金融危機も不況もある。それよりももっと深刻なのは格差の拡大である。そして、今一番懸念されるのは金融危機である。ハイパーインフレにならなければいいとか、デフォルトなんかしないといった短絡的な問題ではない。経済の仕組みが正常に機能しなくなることが問題なのである。

国家が無制限に「お金」を発行していったら何時かは「お金」の働きを制御できなくなる。なぜなら相互牽制が聞かなくなるからである。
故に、「お金」がある程度市場に流通したら、「お金」の流通量の上限を制約する必要がある。なぜならば、「お金」は、分配の手段であり、貨幣価値は相対的な値だからである。

問題は、「お金」の回収である。一旦発券された紙幣は回収するのが難しい。「お金」は、返済できない、債務のような物だからである。また、紙幣は国の債務を担保として発券されているために、国の債務が清算されないと紙幣は、最終的には、回収できないからである。


「お金」のアルゴリズムが破綻する要因



現代人は、経済的価値が際限なく湧いて出るようと思い込んでいるようだが、それは、錯覚に過ぎない。経済的価値を生み出すのは、人々の欲求と生産量である。
人の欲求にも生産量にも限りがある。限りがないのは「お金」である。作ろうと思えばいくらでも作り出せる。
人の欲求は、需要を形成し、生産量は、供給力に基づく。経済の根本は、「お金」ではなく。需要と供給なのである。
この点を間違うと「お金」のアルゴリズムは狂いだす。なぜならば、「お金」、本来の役割、働きを逸脱してしまうからである。

「お金」の最大の効用は、労働と所得を直接的に結びつけたことにある。労働と所得を直接結びつけたことで、生産、分配、消費が関連付けられ、「お金」が循環するようになったのである。労働と所得が分離されたら、生産、分配、消費の関連が切れてしまい。「お金」が回らなくなる。

「お金」の効用は、「お金」が市場に流れ、循環する事によって、全ての人に遍く「お金」行渡る事によって発揮される。つまり、「お金」のアルゴリズムが、「お金」が流れなくなる事、「お金」が循環しなくなる事、「お金」が遍く行渡らなくなる事によって「お金」のアルゴリズムは、破綻する。

つまり、何が「お金」の流れを悪くし、何によって「お金」が循環しなくなり、何が全ての人に「お金」が行き渡らないようにするのかを明らかにすれば、「お金」のアルゴリズムを破綻させる原因が明らかになるのである。

「お金」の流れを悪くするのは、障害や梗塞、詰まりである。「お金」を循環させなくなるのは、滞留や澱み、隘路、袋小路である。「お金」を満遍なく行渡るを妨げるのは格差や極端な偏りである。
「お金」の働きは、血液に似ている。故に、血液の病の原因は、「お金」の病の原因にもなる。
「お金」にも、梗塞血栓麻痺動脈硬化動脈瘤動脈乖離破裂高血圧心不全出血不整脈等に似た病がある。特に、脳梗塞や脳血栓、心臓麻痺のような病は致命傷になる。梗塞や血栓のような症状を甘く見ると「お金」のアルゴリズムは破綻する。
血管が一部でも詰まり、その先に血液が流れなくなれば血液が流れなくなった部分は壊死してしまう。

注意しなければならないのは、表面、即ち、損益上に現れない「お金」の流れである。表面に現れない流れだと言っても流れが滞れば、経済主体は破綻する。経済も動かなくなる。
流動性が失われるからである。

利益の効用を理解する上では、借金の返済を考慮に入れていないと理解する事はできない。借金の元本の返済は、損益上には現れず、利益の中から支払われるからである。利益が確保できなければ、借金の元本の返済に支障をきたし、借り換えをしなければならなくなるからである。
困るのは、費用と違って借金の返済に充てられる「お金」の流れは目に見えないという点である。費用のように直接利益を減少させる支出ではないが、経済主体にとって致命的になる。経済主体を破綻させるのである。しかも、目に見えないから、支出の多寡も計れない。
表面的には利益を上げているように見えても負債を累積、自己増殖させている危険性があり、ある日突然資金が廻らなくなるなどと言う事態を引き起こす。
経済対策として貸付金を増やすのはいいが、それが、目に見えない処で利益を圧迫する原因となる事がある。
利益も貸付金をする以前と同じわけにはいかない。ところが利益率を上げる理由が外からは見えないのである。


「お金」の正体


「お金」に実体を求めても虚しいだけである。無駄である。
「お金」は、実体を持たない。「お金」にあるのは、働きである。
猫に小判、豚に真珠と言うけれど、猫は、小判のために殺し合ったり、騙し合う事はない。豚は、真珠のために恨んだり、羨んだり、妬んだりはしない。
猫は、小判は腹の足しにもならず寒さや暑さから身を守ってくれない事を知っている。
だとしたら、人と猫や豚、どちらが本当の価値を知っていると言えるだろう。
「お金」には使用価値はない。要するに「お金」だけでは何の役にも立たない。
「お金」は、使わないと意味がない。「お金」を使うというのは、物を買ったり、売ったり、貸したり借りたりする事である。
しかし、相手が「お金」を「お金」だと認めなければ、「お金」は使えない。
街の居酒屋で米ドルを出しても外人相手の店なら別だが普通は使うない。米ドルだってそうなのだから、見ず知らずの国なら尚更である。
「お金」の価値は、たがいにあると認めればあるが、いずれか一方が認めなければない。
見ず知らずの国に言って日本円で物を買おうとしても両替しない限り使えない。
最近では現金の効力が薄れ、カードでなければ変えない店も増えたという。
「お金」の正体なんてこんなものである。価値があると言えばあるし、ないと言えばない。
全く、「お金」という物は鵺のような物である。
正体の知れない「お金」に振り回されながら、人は生きている。
中には、「お金」のために人を殺し、人を騙し、争い、憎み合っている者もいる。
金の切れ目が縁の切れ目。それでも、人は、豚や猫より自分は価値を知っていると思いあがっている。
豚や猫は、「お金」の為に、憎み合ったり、殺し合ったりしないと言うのにである。
「お金」の価値は、人々の観念の中にある。人々の頭の中で生じ、頭の中でしか通用しない。
それなのにいつの間にか人々は、「お金」に支配され、「お金」で人間の価値も計ろうとしている。
国境だって「お金」だって人間が作り出したというのに、争いになると神を引き合いに出して神を罵る。
しかし、国境だって「お金」だって人間が作り出した代物、何か問題が生じたら人間が解決しなければならないのである。その事で猫や豚に文句を言ったところで仕方がない。
それは人間の責任であって猫や豚の責任ではない。
よくよく「お金」の正体を見極める事である。「お金」は、正しく使うば、役に立つけれど、間違って使えば、身の破滅を招く。身の破滅を招いたところで、自業自得なのである。人を恨んでも意味がない。況や、神を罵るのはお門違いである。
「お金」は影である。「お金」に実体を求めても無駄である。真実は別にあるのである。「お金」に真実をら求めても意味はない。
「お金」の正体は、自分の心である。「お金」にまつわる出来事は、自分の心を写した影に過ぎない。自分の影に怯えて自分の本心を直視しないから、自分の影に踊らされるのである。欲望は本心ではない。
「お金」に惑わされて自分の欲望を満足させるためにのみ、「お金」を、使おうとするから、自分を見失うのである。
放縦、傲慢、慢心、嫉妬、妬み、見栄、外聞、虚栄心。自分の強欲・慢心を本心と見誤れば身を亡ぼす。自分の欲望に任せてお金を使えば身の破滅。猫や豚より劣る。
「お金」は、大切に使えば自分の為になる。「お金」の正体は働きにある。
節制、節約、自制して人の為に「お金」を使えばその効用は自分を豊かにしてくれるのである。正しく使えば、自分も人々も豊かにしてくれるのである。





       

このホームページはリンク・フリーです
ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2019.6.4 Keiichirou Koyano