経済は、分配によって極まると言っていい。分配というのは、分け前の話である。だからこそ、経済は生々しくなる。苦節は共にできても栄辱は共にできずという喩もある。物を生産したり、調達する際は、助け合い、協力し合った人々が、分け合いの段になると途端に仲違いを始める。
人間の愚かで、醜い争いの素が分配にあるのである。
生産を分解し、支出として再構成する過程が分配である。
分配は、生産と消費とを結びつける局面である。即ち、分配は、過程である。分配の手段は、「お金」である。
「お金」を何らかの基準によって予め国民に分配し、国民は、配分された範囲内で支出をして生活に必要な資源を市場から購入する。収入を得てから市場で必要な資源を得る迄が分配の工程である。
生産は物中心、分配は、「お金」中心、消費は人中心。
「お金」は、分配の手段。市場は分配の場である。
人は、生物である。生きていくためには、食事をし、寒さや厚さを凌ぐための衣服を着て、寝食をする場の家に住む必要がある。これらの活動が経済の基礎となる。故に、経済は分配が要である。
実際、経済の仕組みは、分配を実現する為の部分が大きく占めているのである。
分配は、組織的な「お金」の配分と市場から財を購入するという二段階で成立する。
社会が発展し、分業が進化すると、生産財を直接、分配するのではなく、市場を介して分配するようになる。それが市場経済であり、市場経済は、先ず、分配の手段である。市場経済では、貨幣を何らかの働きに応じて配分し、市場から手持ちの貨幣と財を交換する事で分配は成立する。
市場経済において分配を正常に働かせるための鍵は、「お金」をいかに公平にかつ、満遍なく配分するかにかかっている。お金を公平にかつ、遍く配分する為の要件は、第一に、分配の単位。第二に、目的。第三に、手段。第四に、量。(総量と単位当たり)。第五に、分配の範囲。第六に、分配の対象。第七に、分配の根拠。第八に基準。第九に、格差。第十に、偏り。偏在。である。
経済は、生きる為の活動であり、経済の仕組みの本質は、分配にある。
分配は、「お金」の分配と財の購入と言う二段階で行われる。
「お金」の配分は、組織的に行われ、財の購入は市場を通して行われる。
経済取引は、二つ経済主体の間で成り立っている。基本的に経済取引は、相手が存在する。
二つ以上の主体が関係する取引でも会計上は、一対一の関係に分解される。会計上の単位取引は一対一に還元される。
取引は、財と「お金」、あるいは、権利と「お金」の交換を意味する。権利と「お金」の交換は、同量の債権と債務を生じさせる。取引は等価である事を前提とする。故に、取引量の総計は、ゼロ和に設定されている。
財と「お金」との交換は、損益、フローを形成し、権利と「お金」との交換は、貸借・資本取引、ストックを構成する。損益取引は、売買によって実現し、貸借取引は、貸し借りによって成り立っている。資本取引は、貸借取引の延長線上にあり、根本は、同質である。
「お金」の働から見ると、取引は、経済主体への入金、出金として現れる。つまり、一つの経済主体の入金には、必ず、同額の出金をする経済主体を前提としている。
一方の収入は、他方の支出であり、一方収益は、他方の費用である。この関係から生産と分配の相互作用を考察しないと部分と全体の整合性は取れなくなる。
故に、一つ取引の取引量は、主体の取引量と全体の取引量は、一対二の比率になる。
全ての人が生きていくために必要な財を市場で購入する事を前提として市場経済は成り立っている。その為には、全ての人が生きていくために必要な財を市場から購入する為に必要なだけの「お金」を、常時、絶えることなく、人々に供給し続けなければならない。
つまり、経済は、生産だけで、あるいは、利益を上げる事だけで完結する事、ではないのである。経済は、生産された財を消費者に送り届けない限り完結しない。
だからこそ、雇用問題や失業率が経済の中心課題とされてきたのである。ところが、肝心の「お金」の分配の重要性が理解されていない。
問題は、生きていくために、必要とする財を手に入れる為に必要な「お金」をどの様にして全ての人々に配分するかなのである。
経済的問題の多くは、第一段階のお金の分配の際に発生していることに注目しなければならない。
分配を正常に働かせるための要件は、第一に、分配の単位(一人、世帯、家族、企業・機関等、経済主体)。第二に、「お金」を獲得する目的。第三に、「お金」を獲得する手段。第四に、市場に流通する「お金」の量(総量と単位当たり)。第五に、分配の範囲(「お金」が流通する、あるいは、通用する空間的、制度的範囲)。第六に、分配の対象(「お金」を配分する対象)。第七に、分配の根拠。第八に基準(何を根拠に、どの様な基準で)。第九に、格差(資産と収入の格差の程度)。第十に、偏り。偏在。(富の偏在)である。
所得の分配と生産とを切り離して考えるべきだとする思想がある。しかし、それは経済の仕組みを破綻させてしまう。
経済の仕組みは、経済を構成する主体の双方向の働きと私的所有権に依拠した働きによって制御されている。個人が、生産主体と消費主体を兼ねているから、生産と消費双方の均衡がとれるのである。むしろ、生産主体としての働きと、消費主体としての働きを切り離してしまうから経済の仕組みが正常に働かなくなるのである。
経済主体は、自分が稼いだ収入を基礎として支出や蓄えを組み立てる。この収入と支出、蓄えを均衡させようとする働きが経済の仕組みを制御するのである。
「お金」は、分配の手段である事を忘れてはならない。お金儲けは、お金儲けなのである。一過程、手段に過ぎない。お金儲けが目的化するとお金本来の役割、つまり、分配の手段という働きが失われてしまう。そして、「お金」が分配を阻害するようになる。「お金」の性格をよく理解しておかないと、市場経済は正常に機能しなくなる。
「お金」は交換価値を象徴したものだから交換という行為から離れると正常に機能しなくなる。「お金」は、交換を通じて分配を実現する為の手段なのである。
消費者は、何らかの生産手段を提供する事によって「お金」を獲得する。消費者が支出によって生産者から財を購入する。この一連の過程を通じて生産と消費の整合性を保つのが市場経済の骨子である。収入と支出の関係を断ち切ると需要と供給を調節する働きが正常に機能しなくなる。
「お金」の配分は、支払いを準備する。準備金の一部はストックを形成する。ストックは、資本となる。
市場経済では、「お金」は資本を形成する性格がある。
総資産は、一国のストックの総量を意味する。総産出は、取引の総量、フローの総量を意味する。総生産は、総所得、総支出を意味し、一国の付加価値を意味する。そして、雇用者報酬は、一国の国民の所得を意味する。
一国のストックの総量は、高度成長が終わるとフローに対して拡大し続け、プラザ合意後のバブルによってフローがストックに占める割合は、10%代まで落ち込み、その後横ばい状態にある。フローに対する付加価値の占める割合は上昇するが、付加価値に占める雇用者の所得はオイルショック以後横ばいである。
ストックの上昇が付加価値の比率を押し上げ、フローを圧迫しているように見て取れる。
内閣府 国民経済計算書
経済を衰退させるのは、資源の配分を間違う事である。特に、働き盛りで、「お金」を必要としている世代へ、ある程度結果を出し、余剰な「お金」を持っている世代からいかに「お金」を循環させるかである。
経済を動かしているのは、資金不足主体に余剰主体からいかに融通するかなのである。
財政は、配分の問題である。公共投資を増やすと一般政府の債務を増やし、結果的に、一般政府への配分を増やす事になる。
経済のおいては、生産とか、採算とか、利益とか、成長とか、需要と供給とか、物価とか、消費が問題とされる割に、分配と言う働きが軽視される傾向がある。しかし、経済問題の多くは、分配に起因している。
成長や利益が結果ではなく目的と化している。
経済本来の役割は、全ての人々が生きていくためにも必要な資源を調達し、あるいは、生産する事と、それを必要としている人、消費者に分配する事なのである。必要な資源を調達し、生産するだけでなく、全ての人々が生きていくために必要なだけの資源を全ての人々に分配しなければ経済は成り立たない。必要性は、消費である。生産と消費を釣り合わせるだけでなく、人々にそれを何らかの手段によって構成に分配しなければならない。経済にとって最大の問題は、分配なのである。
この点を忘れて生産効率ばかりを追求すると適正な分配が不可能になり、経済が成り立たなくなってしまうのである。雇用問題、失業問題が、経済問題にとどまらずに、深刻な社会問題に発展するのは、経済の働きが分配に依存している証左なのである。
生産効率が高まれば高まるほど、生産量は、増加する。ところが分配の効率は一時飯食低下する。なぜならば、分配は、人の働きを根拠としているからである。市場経済では、分配の基準は、必要性ではなく、働きや働きの結果である。それは、分配が生産に密接に関わっているからである。
ここでいう働きとは何か。第一が人の労働力による働き。二つ目は、所有権などの権利による働き。この中には、配当金や利息も含まれる。三つめは、補助金、給付金等の公的な働き。四つ目は、預金や借金などの金融による働き。五つ目は、販売などの取引による働きである。
また、市場経済における価格は、需要によって作られる。その需要は、何によって生まれるか。それは、必要性と、所得によって生まれるのである。需要は、必要性(欲求)だけから生まれるわけではなく。資金的な裏付けがなければ生まれないのである。それが最大の問題である。
分配は、生産と消費が分離する過程で生じた。かつては、生産と消費の場は一体だったのである。社会的分業が進むにつれて生産と消費は分離した。そして、その間をつなぐ形で職場と市場が形成され、消費の場といての家族が確立したのである。生産の場と消費の場は、共同体によって担われている。共同体は組織である。各々独自の行動規範がある。
分配のアルゴリズムは、他のアルゴリズムとは、根本が違う。分配のアルゴリズムこそ思想的なのである。つまり、分配のアルゴリズムは経済の思想を具現化したものである。
何を基準、どの様な体制、仕組みによって生産財を分配するかは、極めて思想的なのである。
生産性を向上させるのに伴って付加価値をあげなければならないと主張する者がいる。それは、全ての国民、労働者の高度な技術と知識、能力を要求する事につながる。しかし、一人ひとりの能力や技術には個性があり、適正があり、限界がある。
全ての国民、例えば、システムエンジニアや飛行機のパイロット、数学者の様な技術や知識、能力を要求する事はできない。
単純な労働に向いている人もいる。所謂、進歩主義的な考えのある者は、能力至上主義的な事があり。能力の劣る者を認めようとしない傾向がある。
何の取り柄もなく、何をやらせても駄目、不器用で真面目、正直なだけな人、謹厳実直、そんな人にも遣り甲斐のある仕事、生き甲斐、誇りの持てる職場を作るのも経済の仕組みの重要な役割なのである。
大多数の人は、天才ではないし、スポーツの花形選手になれるわけでもない。不器用で、みすぼらしく、醜くて、欠点だらけ、それでも人間らしく生きる権利、誇りの持てる仕事に就く権利は誰にだってある。
確かに、俺はその他大勢の口かもしれない。でも人として生まれてきたのだ。
選ばれた人ではない、平凡で、普通な人たちのためにこそ経済の仕組みは役に立たなければならない。そうでなければ経済の仕組みなんて最初から成り立たないのである。なぜならば、経済とは生きる為の活動だからであり、経済は、全ての人を生かすための仕組みだからである。
市場は、分配の場であり、生産の場と消費の場が分離する過程で成立した場である。故に、市場には、生産と消費の懸け橋的な性格があり、生産と消費の性格を併せ持つ、あるいは、段階的に生産から消費へと変化していく傾向がある。
分配の過程は、最初は、生産の場から始まり、段階的に消費の場へと転回していく。分配の過程で、中間投資と中間消費が発生する。この中間投資と中間消費の役割が重要となる。
個人は、生産手段としての労働力を生産主体に提供して、所得を得て、消費に支出する。支出は、生産手段の収益に還元される。
これが「お金」の循環運動を生み出すのである。「お金」が円滑に循環しなくなると経済の仕組みは、正常に機能しなくなる。
つまり、労働の成果と所得と生活費は均衡しないと経済の仕組みは、機能しなくなるのである。最も経済の仕組みを不安定にするのは、偏りと不均衡である。
それを是正するのが一般政府と金融の役割である。
価格という事だけに特化して生産効率瀬を測ると分配の効率が損なわれる事がある。市場が成熟し、財がコモディティ化するに従って景気が急速に減速し、経済の活力が失われるのは、市場が分配の場だという事が忘れられ、価格競争によって適正な収益が維持できなくなるからである。
「お金」の流れは、市場に流れる大河のようなもので。流れそのものが市場を潤しているのである。この流れを枯らしてしまえば、市場は砂漠の様になる。
分配という観点からするとインターネットの発達は、分配の在り方を根本から変えてしまう可能性がある。
インターネットの発達は。生産者と消費者を直接結びつけてしまう。
インターネットは、生産者と消費者の距離を近づける。それだけ中間過程が排除されるのである。
もう一つ重要なのは、インターネットに対する支出は、労働の対価としてではなく、通信網やシステムといった有形無形の設備に対する対価だという点である。特に、システムという無形資産に対する支出、言い換えると、費用だという点にある。つまり、労働に対する対価ではなく、資産、ストックに対する対価だという点である。故に、所得、即ち、フローに反映しない。この点は、分配という働きを弱める。
代表的なのは、サブスクリプションである。サブスクリプションは、都度、商品に対価を支払うのではなく。一定期間の利用権として料金を支払う方式である。この様な料金制度は、支出が固定化し、ある種の税金のような働きをする様になる。即ち、可処分所得を圧迫する要素となる。また、労働や商品の対価としてではなく、設備の使用料のような料金であるから所得には還元されない。
例えば、企業価値が収益や損益ではなく、時価総額やシステムという無形資産、ストックに対する評価によって測られるようになる。その結果、フローに還元されない資金が増殖する傾向が出てくる。
これは、バブルが、インカムゲインではなくキャピタルゲインによって引き起こされた事に通じる。キャピタルゲイン中心に考えれば価格そのものが意味がなくなるのである。これは市場経済が機能不全に陥ったことを意味する。
中間過程が削除され価格が下がったとしても、生産主体、分配主体、消費主体の根本が変わっているわけではない。中間過程が排除されただけ市場が圧縮されるのである。市場が圧縮されるために、付加価値は増えない。即ち、経済成長には寄与しないのである。
これは、SPA、卸とか、仲介業者を排除した安売り業者にも言える。特定の既得権益者に富が偏在してしまう危険性がある。
分配という機能が働かなくなると、富の偏在や格差の拡大などの弊害が起こりやすい。インターネットは、新たな有産階級と無産階級を生み出し、持てる者と持たざる者との階級格差を生み出す危険性がある。この溝をいかに埋めるかが、新たな市場経済の課題となる。
生産主体がどのように分配に関わり、消費の在り方を生産主体に伝えるかが、重要となるのである。その為の手段の一つが市場であり、「お金」であり、価格なのである。適正な価格が維持できなくなった時、市場は崩壊する。
近年、多くの人は、市場は利益を上げる場だ錯覚している。利益は、分配の為の一指標に過ぎず。また、収益と費用の定義や関係によって変化する。相対的なものであり、絶対的な事ではない。市場の目的は分配であり、市場取引を通じて財と「お金」とを交換し、分配する事である。
その為には、支払準備としての「お金」を事前に配分しておく必要がある。問題はいかにしてどの様な基準で「お金」を割振るかなのかである。この事を忘れると単なるお金儲けに陥ったり、売上至上主義、利益至上主義にとらわれる危険性がある。
問題は、収益と費用が均衡する適正な価格である。費用は人件費に収斂する。つまり、突き詰めると所得に還元される。
市場は、分配の場だという点を忘れてはならない。
そして、分配は、市場で財を調達する以前に支払準備としての資金を分配しておく必要があるという事を忘れてはならない。公平さというのは、市場にあるのではなく。「お金」を獲得する段階、即ち、所得を得る段階にあるという点が重要なのである。
生産が生きていくうえで必要な資源を製造、あるいは、調達する事だとすれば、分配の目的は、全ての国民が生きていくために、必要な資源を遍く配分する事である。生きていくうえで必要な資源を遍く配分する事が実現したら、次に、人々が欲しがる物を供給するのが二次的な目的となる。
軍隊の様に組織の目的が明確で、組織効率を極限まで追求すると着る服は、軍服に統一される。軍にとって必要とする最低限の服は、軍服である。それに対して人々の嗜好は多様で、常に、衣服は、流行を追っている。つまり、核となる部分は、機能から求められるが、人々の欲求は、人それぞれの嗜好によるのである。衣服に対する好みは、その人の思想を表している。衣装は、自己表現の手段である。
経済の最終的な目的は、自己実現にある。ただ、必要性を満たしただけでは、完結しない。必要を充足したら自分の好みを実現する事を求める。
一人の人間が生きていくために必要な資源は、限られており、ほぼ一定している。人々が生きていくために、必要としている資源の総量は、有限であり、一人当たりの消費量と人口の積で求められる。消費量も人口の有限だとすれば、量的な拡大にも限りがある。
これが大前提である。つまり、物理的な市場規模は有限だという事である。
故に、物理的に市場が成熟した後の経済現象は、主として「お金」の循環運動によって引き起こされる。「お金」をいかに市場に満遍なく循環させるかが経済政策の主たる目的となる。
分配と言うのは、言い換えると分け前の話である。だから難しいのである。
しかも、部門の働きに応じた分け前をしなければならない。部門の性格も働きも違うだから難しいのである。
分け前、取り分は、争いの本。全ての人間を納得させられる分配の基準はない。むしろ、全ての人間がどのような基準に従って分配しても納得しないと思っていたほうがいい。だから、分配の基準には客観性が求められるのである。
経済で重要なのは、いかに、生産、あるいは、調達した財を必要としている人に、必要な時に、必要なだけ、しかも、全ての国民に満遍なく分配するかである。
その為には、「お金」が社会の隅々にまで配分されていなければならない。また、常に新鮮な資金が供給され続ける必要がある。その為の仕組みが分配の仕組みとなり、その基盤となるのが分配のアルゴリズムである。
この様な観点からすると生産のためのアルゴリズムと分配の為のアルゴリズムは明らかに違うのであ。第一に基本が違う。前提が違うし、そもそも目的が違う。故に、基礎となる指標が違ってくる。
分配の指標として重視されるのは、失業率、平均賃金、分散、最低賃金、物価、労働分配率、労働人口、生産年齢人口率、人口構成等、根本的に、労働条件や所得、評価方法、公正さ、市場環境である。
生産と分配を二律背反、対立的にとらえるのは、間違いである。なぜならば、生産と分配は表裏の関係にある。生産した物が売れなければ、生産主体は成り立たなくなるし、所得が増えても財が不足したら、物価の高騰を招くだけである。生産と分配の相互作用によって経済は成り立っているのである。
費用か利益かではなく。両立させるためにどれくらいの収益を上げるか、その為に価格をどう設定するかかが重要となるのである。
ただ、留意すべき事は、生産と分配の基準は、独立した事だという事であり、均衡がとれなくなると仕組み全体が正常に機能しなくなるのである。
実際の分配を担うのは、収益と費用である。利益ではない。利益は、収益と費用の均衡を測る指標である。分配は、生産したものを売った収益を基に費用によって行われる。
経済の要は、分配である。
現在の経済が上手く回らないのは、民間企業の収益力が低下したからである。市場経済は、収益を中軸とした経済である。即ち、収益と費用の力によって市場に「お金」を廻しているのである。
なぜ、民間企業が収益力を失ったかと言うと価格破壊によって民間企業が価格の決定権を奪われたからである。収益力が低下すれば、企業は、徹底的な経費節減を計らなければならなくなる。そして、生産部門から人件費が駆逐された。それは流通部門にまで及ぼうとしている。
費用こそ、経済の要である。
製造業が弱体化したのは、生産部門が価格の決定権を失ったことが一因である。価格を維持できなくなれば、経費を削減し、量産、量販するしか利益を確保する手立てがなくなる。経費削減の中でも重要となるのは、固定費である。ー固定費の経費削減で最も狙い撃ちにされるのは、人件費である。なぜならば、設備投資から生じる償却費は、投資時点で確定してしまうからである。
かつては、生産部門でも定価販売によって価格を維持する為の手段は与えられた。しかし、規制緩和、自由競争の名目によって価格破壊が起こり、生産部門から価格の決定権は奪われたのである。そして、価格破壊が起こり、利益を維持する為に、徹底的な費用の削減が求められた。その過程で報酬から属人的に部分が削ぎ落され、更に、無人化まで押し進んだのである。結果、生産部門から人間が排除され、それがやがて流通部門にまで及んでいる。現代の識者のとって顧客主義、即、廉価、安売りである。彼等にとっては、費用は悪でしかない。結果、「お金」を分配させる仕組みが機能不全に陥ったのである。以前は、乱売合戦によって市場が荒廃したら、業務提携や不況カルテルによって市場を養生させたのである。
分配は、経済の要である。分配で重要な働きをしているのは、費用である。現代人は、費用を目の敵にしているが、費用をやたらに削減すると分配の働きに支障をきたす。
適正な費用か、否かは、収益との関係から求められる。その指標は利益である。
費用は、価格に反映される。価格は収益に反映する。適正な価格が維持されなければ適正な費用も維持できない。故に、収益(売上高)が鍵を握るのである。価格が適正であるか否かは、収益と費用の関係から求められる。なぜならば、収益は、売上であり、売上は、単価を集計したものだからである。単価は、単位価格を言う。
ただ安ければいいというのは、経済の効用を無視している。
分配と言う観点からすると百人で一億円の利益を上げる企業と、一万人で一億円の利益を上げね企業とでは後者の方が効率がいい。だから、単純に利益率だけでは経済効率は測れないのである。
経済は、収益を上げ利益を得る事だと誤解している人が多い。経済は、生活に必要な財を生産し、それを消費者に配分する事である。
経済の目的が利益にあるとすると限りなく、費用を削減すればいいという事になる。しかし、費用の大半は、人件費である。人件費を極限にまで削減する事が目的だとされたら、必然的に個人所得は縮小される事になる。それは、社会全体では総所得の縮小を意味する。
忘れてはならないのは、経済は物の生産だけで成り立っているのではないと言う事である。
人の所得が対極に成り立たない限り経済は機能しない。人の所得は、支出と均衡する必要がある。所得より支出が上回ると貸借、即ち、ストックが過剰となる。貸借は、余剰の「お金」を生み出し、「お金」の正常な循環を阻害する。物価と雇用は、経済の両輪なのである。
勘違いをしてはならないのは、世の中の大多数の人間は、平凡な人間、凡人である。何らかの欠点、それも身体的な障害がある者もいる。天才でも、特殊な技能があるわけでも、図抜けた才能に恵まれているわけでもない。どちらかと言えば無能で、欠点だらけの人間である。そういう人達が生活に困らないような所得を得られるようにする事も経済の仕組みの役割なのである。
これからの技術革新が、平凡で無能な人間から仕事を奪うようなものならば確実に経済は衰退する。そのような仕組みになっているのである。単純労働を軽視したら経済は成り立たなくなる。
仕事・労働は苦役ではない。自己実現の手段の一つである。遊んで暮らすのは、虚しい。なぜなら、生きる目的も見出せず。他人の役にも立たないからである。
仕事を機械化して半分の労力で生産できるように成ったしても二倍の所得になるわけではない。むしろ、価格を下げる事に削減された費用は使われる場合が多い。
所得が増えなければ付加価値も増えない。付加価値が増えなければ、市場も拡大しないし、成長もしない。では、生産性を高めなくていいのかと言うとそれでは、物質的な豊かさは実現しない。
生産量が増えても所得が変わらなければ、経済成長は実現しないのである。要は、生産と分配とをどう両立させるかの問題なのである。
安売り業者を消費者の味方とメディアは持ち上げるが、消費者は生産者でもあるのである。消費者の実質所得が目減りすれば、いくら安売りをされても生活水準は改善されない。
生産のための仕組みと分配のための仕組みは違う。大体、目的が違うのである。ただ連動しているために、一体性が求められる。
分配の仕組みは、例えば、7000万人の国民がいる国があるとして、その内、20歳未満の人口が2000万人、60歳以上の人口が1000万人とする。男女の比率を半々として、国民が生活するのに必要な資源を生産する為に、必要とする資源は、1000万にで生産できると仮定する。但し、消費に必要とされる労働の成果は除く。市場経済では、生産されたもの総てを換金し、国民は、所得を得て、必要な物は、お金を払って市場から調達する。
要するに7000万人が生きていくために必要な資源を1000万人にで生産した場合、それをどの様に分配するかの問題である。
働ける人口は、未成年と60歳以上を除い4000万人だとする。かつては、大体7人程度の血縁による集団に形成し、それが家計と言う経済単位を構成して、その中の一人の男性が働いて後の7人を養っていたというのが基本的構図である。そうなると、働いてる男性の相対的な地位が高くなり、家庭では、主人に主人以外の者が隷従する。
2000万人の女性が所得を得る機会すら奪われていた。
更に、所得を得られる人間は、1000万人に限られるから、1000万人の男性も仕事にあぶれる。
それで新たに、1000万人分の仕事を作らなければならなくなる。その仕事の多くは、権力によって生まれる。権力の根幹は、治安と国防である。
現代問題となるのは、生産性が高まる事で、生きていくために必要な資源を生産する為の人口が少なくて済むようになってきた事なのである。生産性が高まれば高まるほど失業者が増える。失業者にいかに「お金」を配分するかそれが最大の課題である。
それに対して生産部門は、いかに効率化して費用を削減するかに血道をあげている。
かつては、人口を維持する為に労働力が不足した。それが課題だったのである。現代は、生産性が向上したことで仕事がない事が問題となっている。経済問題の質が変わったのである。
生産と分配の構造の整合性をいかにとり、保つかが経済最大の問題なのである。
経済が分配の仕組みだという事は、この点からも言える。
単純に労働への対価と言えないところに分配の難しさがある。分配には、市場取引の様な客観的根拠になる部分が少ない。多くの部分が恣意的なのである。
分配には、報酬、対価、評価、生活費の資金源等の働きがある。報酬は所得、経常収入を意味し、対価は、財に対する費用を意味する。評価は、自己実現や動機付けを意味し、モチベーションやインセンティブの根拠となる。その他に、生活費として人との属性に基づく部分がある。生活費には、個々の地域の前提条件も含まれる。そして、これらの働きが給与体系・給与構造の下地となる。
報酬は、給与の基礎的部分を構成し、対価は、残業や手当などの追加費用として、また、評価は、賞与や昇給などに反映され、生活は、属人給として支給される。
報酬は、給与の期間となる部分を構成する。費用は、収益と関係によって測られる。評価は、成果、実績が基本となる。
ただ、分配は、成果や実績、時間だけで測られるべき事ではない。なぜならば前提条件に個人差があるからであり、また、分配本来の目的は、必要な時に、必要とする人に、必要とされる資源を、提供する事だからである。
所得の偏りは、分配の目的の障害となる。その為に、国家権力による所得の再配分が必要となるのである。
生産の仕組みと分配の仕組みの整合性をとる上で、一番障害になるのは、生産の論理と分配の論理が不整合である事である。
生産側から見れば人件費はあくまでも費用であり、消費側から見ると生活費である。分配側から見ると所得である。
この三つの働きの相互牽制によって経済主体は成り立っている。
生産の論理は、利益の追求であるのに対して分配の論理は、生活にある。それ故に、仕事に対する評価が貢献度や実績に対する評価と年齢や家族構成といった属人的な部分に対する評価を組み合わせる事になる。
評価の基準が組織を構成する者の合意がとれなければ、組織を制御する事が難しくなり、最悪場合、組織が解体してしまう。
分配において報酬が組織的になされているという事が一番の問題なのである。ところがなぜかこの点が蔑ろにされて市場ばかりが問題とされる。収益を上げる事が問題なのではなく、適正な分配がされていない事が問題なのである。そして、それは評価の問題なのである。
つまり、経済で最大の問題は、評価、待遇である。評価の仕方、基準を間違えば、極端な格差が生じる。それは、プロスポーツの世界を見ればわかる。
プロスポーツは、評価や報酬の問題に常に頭を悩ましてきたのである。
成果と経済的効果、そして、個人の評価をどう結び付けるかが経済で一番の課題である。
分配は、二段階に行われる。第一段階では、働きに応じて「お金」、即ち、所得を分配する。第二段階で市場から財を購入する事で財の分配が完結する。第一段階で消費主体を収入を得て第二段階で支出によって財を購入する。
景気は、購買力によって左右される。景気は、経済の状態を現わしている。購買力は、所得と物価の関係から求められる。
即ち、経済の状態は、所得水準と物価水準によって定まると言っていい。所得水準と物価水準は一律一様ではない。市場によって違いが生じる。複数の市場が重なったり組み合わさって市場全体を形成している。部分を構成する市場は、固有の構造や掟によって動いている。
国際市場は、国や地域の市場が複合されて形成されている。個々の国の市場は、独自の所得水準と物価水準がある。また、為替によって通貨間の相場も変動している。
新興国は、所得水準が先進国より相対的に低く、物価水準も相対的に低い。それが経済成長を促す。
しかし、経済成長によって所得水準も物価水準も先進国並みになる。それに伴って後進国の経済の成長も鈍化する。
所得と物価の関係抜きには、経済の動向を予測する事はできない。
金銭面における分配の初期設定は、所持金はゼロである。故に、まず分配は、「お金」を稼ぐ、調達する事から始まる。
「お金」がなければ、何も手に入れる事が出来ない。最悪の場合、餓死する事もある。
自由経済では、「お金」がなければ何もできない。生きる事さえできなくなるのである。分配にとって支払準備、「お金」を所持する事が大前提となる。
「お金」がなければ、借金するか、貰うか、手持ち資産を売却する以外にない。
「お金」がなければ生きられないから現代社会では、「お金」が犯罪の最大の原因となる。
市場が飽和状態だといくら余剰資金があっても実体的成長は望めない。市場が飽和状態なのに、「お金」だけが過剰になると実体的価値と名目的価値が乖離し、貨幣価値を制御するのが難しくなる。住宅市場が好例である。住宅の価格が実需から乖離して投機の対象とされる。それがバブルである。問題は、資本が余剰資金の捌け口になり、実需とは無縁なところで価値を増殖している事なのである。その為に、資本が本来の働きが出来なくなってしまっている。資本本来の役割は、生産手段を構築する事にあるのである。余剰となった「お金」をどの様に処理するかによって経済の安定性は変わってくる。
また、市場が飽和状態になれば必然的に民間の資金需要が低下し、財政の負担が大きくなる。「お金」が実物市場に流れなくなるからである。
実需の低下は、雇用の減少を招き、働きと所得の関係を断つ。雇用を生み出すために、公共投資を増やせば財政負担になる。公共投資も拡大再生産に結び付かないと付加価値を生まない。また、高齢化は、働きと所得の関係を増々薄くする。それが、更に、財政負担を増やす原因ともなる。生産性を伴わない「お金」の流れは、付加価値を生まないのである。
余剰な「お金」は、ストックに蓄積されて付加価値を圧迫するようになる。それが低金利を招くのである。
市場経済における分配は、まず、「お金」を分配し、分配した「お金」を使って市場から必要とする財を購入する事で成り立っている。そして、分配の実際は、いかに「お金」を配分するかにある。つまり、実際に分配を担うのは、「お金」を分配する機構、仕組みにあり、市場は、分配を実現する場である。故に、経済は、所得と物価の関係が鍵を握っているのである。物価は、需給によって定まる。分配の本質は、何を根拠としてどの様に「お金」を配分するかにある。そして、「お金」の配分の仕方こそ、経済体制の根幹となるのである。
経済体制を確定するのは、生産の仕方ではなく分配の仕方である。そして、市場経済では「お金」の分配の仕方が経済体制に決定的な役割を果たしている。例えば、仕事とかかわりなく、一定の基準で「お金」を配分する仕方もある。そのような仕組みは、社会主義国に多く見られる。生活共同体にみられるような「お金」を用いないで生産物を分け与える仕組みもある。無論、国家と言う単位ではなく、小規模な集団の単位である。全ての生産物を国家が独占し、その上で権力者の基準で分配する形もある。物々交換によって成り立っている社会もある。いずれにしても分配の仕方がその社会の経済を形成している。
仮に、所得で生活費が賄えない事態になれば、補助金のような形で公共機関が分配を担う事になるかもしれない。現実に、社会福祉制度が行渡った国の中には、補助金や年金のような形で所得の再分配が行われている。
問題は、所得で生活費が賄えるかである。日本も少子高齢化が進めば、年金生活者が大半を占めるようになるかもしれない。そうなった時、現在の様な自由主義経済が保てるかどうかは、微妙である。
分配は、消費単位に対してなされる。消費単位は、基本的に一家族、世帯である。
位置消費単位は、少なくとも一人は、所得を獲得する事が前提である。
消費単位は、家計を形成する。
分配の前提は、全ての消費単位に生活する為の最低限の支払準備ができている事である。
そして、消費には周期があり、その周期に合わせて必要なだけの資金が絶えず供給されていなければならない。これが前提である。
分配の手段には、組織的な手段と市場的な手段がある。
いずれも「お金」が仲介する事で成り立っている。
故に、市場経済における前提条件は、組織、市場、「お金」が存在する事である。
組織的手段と市場的手段は、分配の基準もやり方も違う。
組織的分配は、評価に基づき恣意的になされる。市場的分配は、取引に基づき選択的におかなわれる。
組織的分配は、どの程度生産に貢献したかの評価に基づいて恣意的になされる。
市場による分配は、取引によって実現する。
市場取引は、二つの主体の間で成立する。
市場では、売り手と買い手がいなければ、分配は成り立たない。
売り手と買い手の関係は、外部取引を構成し、対称的である。
「お金」が取引の道具として成り立つためには、貨幣制度、信用制度が成り立っている必要がある。これは必要条件である。
取引が成り立つためには、需要と供給がなければならない。
市場経済では、「お金」の分配は、主として生産主体が担う。生産主体とは、民間企業や政府などの行政機関、個人事業主などからなる。生産主体は、財を生産し、それを売って収益を得、その収益の中から費用を支払う事で分配を実現する。つまり、分配を担っているのは、収益と費用であり、その均衡状態を測る指標が利益である。
生産は、収入と費用、そして、利益が指標となる。それに対して、分配では、雇用、所得の水準と幅、分散、そして、物価水準、需給、市場の状態が指標となる。所得の源泉は、費用である。費用が転じて所得になる。費用の本は収益である。利益を追求しすぎると費用が圧迫され、所得が減少する。
適正な収益と費用が保たれる事で分配は、実現する。費用の本質は人件費であり、所得である事を忘れてはならない。
経済の実体は、所得と物価として現れる。購買力は、所得と物価との関係で決まる。
現代問題なのは、利益至上主義に陥り限りなく費用を削減している事なのである。
利益は、指標であって目的ではない。分配の働きは、収益と費用の関係にある。収益と費用の関係を表す指標が利益なのであり、重要なのは、適正な収益と費用が保たれているかなのである。
費用をとことん削減化する無人化に至る。無人化は、生産と所得との関係を薄くしてしまう。働きから十分な所得を得られなくなる。個人の働きでは、生計が維持的なくなる。そうなると行政による補助金や社会保障に頼らざるを得なくなる。
働きによって生計が立てられなくなったら働きと関係なく一定の「お金」を配分する事を検討せざるを得なくなる。
費用は不必要な支出ではない。費用は、見方を変えると収益であり、収入、生活費、所得である。人々は、何によって生計をたてているかである。それを忘れたら経済は成り立たなくなる。人々の生計の源泉は、所得であり、収入であり、生活費である。それらを裏返すと費用を意味する。
無人化は、極端な格差を生み出す危険性がある。格差は、恒常化する階級化する。階級社会の歴史の方が長いのである。
極端な格差は、分配の働きを歪めてしまう。分配で重要なのは、分散と幅である。一定の幅の範囲で所得が配分されるから分配は働くのである。格差が広がれば、幅が維持できなくなり、「お金」が効率が損なわれる。極端に裕福な人たちの対極にその日の食べ物にも困窮する人々が発生する。我々は、最貧国に極端な富裕層がいるのをよく目にする。こうなると経済は正常の機能しなくなる。貧富の格差は相対的なのである。豊かさは、分かち合う事で実現する。
生産と分配を切り離す事は、社会主義化に結び付く。いずれにしても市場経済の終焉を導きかねない。
分配の始まりは、「お金」を稼ぐことから始まる。稼ぎ口がなくなれば、人々の生計はなり立たなくなる。この事を人々は、忘れようとしている。そして、効率化、自動化、無人化を推し進めている。それによって失われた雇用をどの様に補うかも考えないで…。
経済の最大の目的は、人々の生計が成り立つようにする事である。国民すべての生計が成り立つようにする為には、何らかの手段によってすべての国民に「お金」が行き渡るようにする事なのである。それも、全ての国民が最低限の生活が営めるだけの「お金」を配らなければならない。
このまま生産現場の無人化が進めば、生産と分配との関係が断絶する。財を生産する事と「お金」を分配する事とを切り離して考えなければならなくなる。市場経済の終焉である。
それは、社会主義化を意味する。
働きとは関係なく、「お金」を配分せざるを得なくなる。
「お金」を均等に配ったとしても「お金」の使い方には、個性が出る。もらった「お金」を使い切ってしまう者と、節約に努めて「お金」を貯め込む者が出る。長い間には、格差が生じる。「お金」に使用期限を設けると言う発想がでてくる。しかし、何度も言うように所得と労働の結びつきは、単純ではなく別の要素、生産や消費、需要と供給、労働と分配、評価と所得などと複雑に絡み合っている。「お金」を一律に分配すればいいというようにはならない。
大体、一律に配ったところで、条件の違いによって平等だとは言い切れないのである。例えば寒冷地と熱帯とでは、衣服や住宅にかかる費用に差が出る。
ネット社会の落とし穴は、生産と消費を直接結びつけることによって分配と言う機能が働かなくしてしまいつつあることである。
ネット社会で生産の現場から人間が排除された社会をバラ色の様に描いている者がいるが、彼等は、どうやって人々に「お金」を配分しようというのだろうか。労働は、苦であると言った間違った価値観が根底にあるように思える。労働を苦とするのは、苦役であり、苦役から人間を開放するのは正しい事ではあるが、だからと言って働く事とそのものを否定したら人間の居場所がなくなるのである。無人化されたショッピング街の廻りを失業者が取り囲む。そのような経済体制を望むのであろうか。
更に、IT企業の多くがIPOやM&Aを目的としている。本業が赤字なのに、高額なキャピタルゲインを得る。しかも、多くのIT企業は、低賃金で定着率が悪い。
これは、また、資本家と労働者と言う構図を甦らせかねない。
経済は、労働と分配、評価と所得(報酬)、生産と消費、需要と供給、収入と支出、収益と費用、フローとストックといた対の働きによって均衡を保っている。特に労働と分配は、評価と所得の働きとの均衡によって保たれている。労働に対する評価が所得に反映される事で分配は成り立ってきた。
そして、所得は、家計の収入となり、消費を構成する。消費の裏側に生産がある。消費と生産は、需要と供給を形成する。この労働と分配との関係が崩れると所得とこれら一連の関係が保てなくなる。それ故に、労働と分配がこれまで経済の基軸だったのである。そして、経済は、所得と物価に収斂する。物価は、需要と供給の力関係によって決まり、需要は消費、供給は生産に作用する。また、所得は、分散と範囲を制約する。所得の幅が保てないと生活が成り立たない人達を生み出す。
労働と分配、評価と報酬の関係が断ち切られ、座標軸が失われると経済の構造そのものが壊れてしまう危険性がある。
分配機能が喪失した社会は、非人間的な社会である。人は、収入を得る事で生計を成り立たせてきたのである。働きによって得ていた収入を失えば生計が成り立たなくなる。分配の機能を喪失するという事は、生計を断つことを意味している。それは非人間的な経済なのである。
経済で重要なのは過程である。川が流れる事で周辺の地域は、潤うのである。川をなくせば砂漠化してしまう。過程がない経済は干上がるのである。現代社会は、分配と言う過程を否定する事で砂漠化しようとしている。
なぜ、経済が一対の働からなるのかというと経済は、常に、相対する働きからなる、即ち、売りには買い、貸しには借り、収入には支出、受けには渡しといった働きからなるからである。
何を評価の根拠基準にするかによって分配の実際は決まる。
基本は生活給なのか。人件費なのか。年齢とか、能力とか、経験、知識、技術、家族といったその人その人が持つ属性を剥ぎ取れば、人件費は、単なる費用に過ぎない。利益のみを追求し報酬は費用だと割り切れば、報酬も費用対効果で測るしかない。
現代の様に技術革新が激しい時代は、費用対効果からすれば、圧倒的に若年層に有利に働く。
仮に、報酬を生活給だと考え、生活を重視すれば、子育て世代に対する負担が大きくなる。年功や序列を重視すれば所得は右肩上がりに上昇してしまう。操業年数が長く成れば、その分、平均年齢も上昇し、人件費も累積して不利にはたらく。
成長時代は、費用の上昇も収益の上昇によって補えるが、成長が止まれば、費用の上昇を収益で補えなくなる。必然的に雇用形態も変えざるを得なくなる。日本もご多聞に漏れず高度成長の終焉とともに終身雇用、年功序列と言った雇用形態が崩れていった。現在は、正規雇用さえ儘ならず派遣などの不正規採用に頼るようにすらなってきた。
市場が成長期から成熟期に移行すると雇用形態、即ち、分配の在り方も変化するのである。この変化を読み間違えると国家も企業も重大な過ちを犯す。分配の働きが変質するからである。
本来、人々の生活はその日暮らしなのである。
農民は、働ける間は働くことができる。手に職がある職人も同様である。
しかし、定年によって働ける時間を制約される給与所得者は分配を受ける手段を失う。技術革新は、熟練者を必要としなくする。
かつては、職を失っても比人事業を興す余地があった。しかし、市場が企業によって支配された今日、個人事業が入り込める隙は狭くなった。
本来、経済は、人と人の関係、人と物との関係が「お金」の関係でしかなくなってしまったのである。
分配の為の基準は思想的である。苦楽は共にできても栄辱は共にできずという故事がある。成果物の分配にこそその人の思想や人間性が出る。分け前の取り分を決めるのは思想なのである。
思想とは、分配の意義や目的をどう設定するかにある。
一律平等に配るとするのか。その場合も同じ物を同じだけ配るのか。それとも、同じ金額の「お金」を配っておいて何に使うかは、個人に任せるのか。そこに思想が介在する。
何を根拠とするのか、働きを根拠とするのか、貢献度を根拠とするのか、売れ行きを根拠とするのか、地位や権威を根拠とするのか、学歴のようなものを根拠とするのか、これも思想的な事である。
いずれにおいても建国の段階において明確にしておく要求される。それが立憲主義である。
社会主義や共産主義は、政府のような公的権力が分配主体を支配している体制である。この様な体制では、分配の基準や仕組みを自由に決める事はできない。社会主義体制や共産主義体制では、生産主体が生産したものを自由に分配する事は許されない。
自由経済における分配は、基本的に契約に基づく。自由主義経済は、契約に基づく経済体制である。社会契約の根本に税がある。納税は、義務であり、権利である。
自由主義体制は宣言を前提とする。自由主義体制である事を宣言し国民の合意を取り、国民に権利と義務を保障する必要がある。
自由主義体制は、経済的に自立的な経済主体を前提とした経済体制を言う。経済的に自立しているとは、公権力を頼らずに経済主体の意志に基づいて独立的に経営される事である。経済主体が国家権力のような公的権力から経済的に独立していることを意味する。つまり、私的な機関に拠る体制である。
自由主義体制と言うプラットホームの上ならどの様な組織を構築してもいい体制である。元手となる資金は自分たちが集めることが条件である。であるからその組織、機構の根本となる思想が重要になるのである。
それこそ、実力主義でも、年功序列でも、共同体主義でも、自由主義体制の法、言論の自由とか、思想信条の自由とか憲法を遵守するのならばその範囲で分配の根拠や仕組みを構築する事が許されるのである。
更に、資本主義は、生産主体と分配主体が一体である体制である。つまり、法人企業とは、公権力に頼らないで自分達で調達した資本を核とした事業体である。この様な事業体は、生産主体と分配主体が一体である。
自由主義経済は、契約に基づく。国民国家は、契約社会である。故に、自由主義経済では、証書、証憑、契約書が市場経済では、重要な意味や働きがある。また、国民国家は、法治主義の上に成り立っている。法は、手続きに則って成立する。故に、自由主義経済においては、手続きが絶対的な役割をするのである。この点を忘れてはならない。市場においては、法と手続き、証憑が絶対的前提となる。
紙幣や株券が代表的な物である。紙幣は、借用証書の延長線上にある。そして、借用証書の延長線上にある事が、紙幣の性格を表してもいるのである。借用証書の延長線上にあるから紙幣は、債務と債権を生むのである。また、紙幣は、信用の上に成り立っている。
市場経済では、全ての国民が最低限の生活が出来るよう「お金」と財を分配する事が求められる。それが国民国家の責務でもある。
全ての人が所得を得られるわけではない。所得をえらわれるものは限られている。生産主体に属さない人もいる。
故に、消費単位は、個人ではなく世帯とし、世帯主が世帯に属する個人の生活が成り立つようにする義務を負うようにする。子供や老人、病人、何らかの障害によって自力で生活ができない者と言った自力で所得を得られない者は、保護者を指定する。
生活に必要な資金が調達できない世帯に対しては、一般政府は、最低限の生活が営めるように資金や資源を補助する義務がある。収入がない者には、一般政府が補助金を給付するその財源は、国民からの税によって賄う。
市場経済では、分配の主体は、生産主体と一体である。
生産主体は、生産効率だけでなく、分配効率からも評価されなければならない。
百人で一億円の利益を上げる生産主体と一万人で一億円の利益を上げる生産主体とでは、全社は生産効率は後者より優れていると言えるが、分配効率は、後者に劣っているのである。市場経済では、生産と分配を一つの経済主体が兼ねる事で、生産と分配に偏りが生じないようにしているのである。この点を誤解して生産効率のみを経済主体が追うようになると経済の仕組み全体に偏りが生じる事になる。
市場全体にとって重要なのは、適度な分散である。極度な集中は、偏りの原因となる。
自由主義経済では、生産主体が分配主体を兼ねて「お金」を働きに応じて組織的に分配している。
将来、生産主体から分配主体を切り離し、政府などの公的機関が担う体制が出現するかもしれないが、現時点では、生産主体と分配主体が一体である体制が採用されている。この様な体制では、消費主体の構成員の少なくとも一人は、何らかの形で生産主体に所属する必要がある。
市場経済では、分配は、「お金」を組織的に分配し、分配された「お金」を使い、必要に応じて財を市場から購入するという二段階で行われる。
「お金」に還元する事で貨幣価値の一元化が測れ、市場から必要に応じて購入する事で多様性が保てる。また、市場を経由する事によって需給に基づく生産の調整ができ、適正な経済的価値を確定できる。
そして、生産主体と分配主体が一体であるという事は、所得と費用は裏腹の関係にあることを意味する。生産主体から見れば、所得は費用であり、分配主体から見ると所得は報酬である。そして、消費主体である家計から見ると所得は生活費である。
この様に所得は、それぞれの局面でやんわりを変えて働いている。
この様な所得がなければ、現代の社会では、何も手に入れる事はできない。「お金」がなければ生きていく事さえできないのである。
「お金」の分配は、働きに応じて組織的に行われる。働きに応じて組織的に行われるから評価制度が機能しなければならない。
財の交換は、市場において行われる。市場の分配は、市場価格を基準にして行われる。
一般に市場経済と言うと市場が全て取り仕切っているように思われがちだが、市場は、経済の仕組みの一部に過ぎない。むしろ、分配は、経済主体、即ち組織が主役なのである。一部の働しか担っていない市場の働きを絶対視したら市場経済の実体は見えてこない。
分配の仕組みの基礎は、「お金」を分配する仕組みの在り方によるのである。
生産の仕組みと切り離して分配の仕組みだけを働かせようという思想は、現代の経済の仕組みの対極に常に存在している。
それが共産主義であり、統制経済である。生産は生産、分配は分配として切り離して考える事で、生産と分配の不整合からくる景気を乱れをなくそうという思想である。しかし、生産の仕組み、機構と分配の仕組み、機構を切り離してしまうと生産と消費とを関連付ける事が出来なくなる。
また、生産のための仕組みと分配の為の仕組みを切り離した場合、何を基準に分配をするかが問題となる。働きに応じた基準が設定されないと仕事に対する意欲や倫理観が維持できなくなる。仕事に対する意欲や責任感が保てないと仕事の生産性は、極端に低下する。それは、共産主義体制において実証済みである。
それに、生産の仕組みと分配の仕組みを切り離したら「お金」は、市場を循環しなくなる。
重要なのは、生産の仕組みと分配の仕組みの整合性をどう保つかにある。それは、どの様な収益構造を構築すべきか、費用対効果をいかに維持していくかの問題なのである。
問題なのは、生産効率と分配効率が背反的関係にあるという事である。分配は、支出、費用を構成する。生産性を高める場合、いかに費用を削減するかが課題となる。しかし、費用を削減する事は、分配効率を下げる事になる。結果的に生産効率を上げると分配効率が低下する事になる。
経費の中で最も比重が重いのが人件費である。人件費には固定費と言う性格がる上に時間と伴に上昇するという性格がある。故に、利益率を高めるためには、人件費を削減するのが最も効果的なのである。
生産主体である企業は、利益のみを追求すると際限なく人件費を削減する事になる。人件費は、裏返すと所得である。故に、人件費を削減する事は、総所得を減少させる効果がある。要するに、仕事も所得も少なくなるのである。企業が利益を追求した結果仕事も減り、総所得が減少する。結果的に消費が減退して景気を悪くし、企業の利益を圧迫するという悪循環に陥ってしまうのである。
だからこそ適正な価格を維持できる市場環境を築き、維持する事が重要になってくるのである。だからこそ、独占禁止法は、独占を禁じる事だけを目的としたものでなく、不当廉売も禁じているのである。
生産の論理と分配論理は次元を異としている。それなのに、経済主体の組織を共有している。
いかに分配の仕組みと生産の仕組みの整合性を保ち、消費の構造に結び付けるかが解決の糸口なのである。
経済主体の働き、一つではなく複数ある。しかも、生産、分配、消費、貯蓄の個々の局面において違う働きをする。
経済主体の最小単位は個人である。個人は、集合して家計と言う消費単位を構成する。
生産、分配、消費、貯蓄と言う働きは、個人の働きによって実現する。
個人は、労働力と言う生産手段を生産主体に提供し、所得を獲得している。個人は、獲得した資金を使って市場から資源を調達して生活を成り立たせている。つまり、個人は、労働者であり、消費者でもある。労働者と消費者と言う相反する役割を個人と言う主体によって統一する。それが資本主義、市場経済の本旨なのである。
働き(Function)に応じて報酬を得る。ただ、働きは一定ではない。労働には個人差がある。単に能力と言うだけでなく、年齢によるものもある。兎に角、労働に代表される働きは一律一様ではない。
「お金」を分配、即ち、所得を分配する組織と生産のための組織は一体である。組織を共有する事で、生産と分配とを結び付け経済の仕組みの整合性をたもっている。
問題は、生産効率と分配効率は、一体ではないという事である。この点を考慮しないでひたすら生産性の効率を追求すると分配が成り立たなくなる。
労働組合は、経済主体の在り方を分配の側から監視してきた。それはそれなりの働きがある。ただ、それが生産、経営者と単純に対立するようになると生産と分配の整合性がとれなくなり、極論すると生産の仕組みと分配の仕組みを切り離してしまえという事になる。
しかし、そうなると分配は、生産と消費の懸け橋としての役割が出来なくなる。分配は、生産側にも消費の側にも偏り過ぎると均衡を失って暴走する事を防げなくなる。
その時重要になるのは、会計と言う枠組みである。勘違いしてはならないのは、元々、会計は、人為的なものであり、収益を中心とした利益構造を柱にした体制だという点である。適正な利益を維持する為には、適正な収益と費用をどの様に確定し、それを維持するかと言う事であり、それを実現する場が市場なのである。
収益は、名目的分配を担い。費用は実質的分配を担っている。
分配こそ経済の要になる。なぜならば、経済の目的そのものが分配にあるからである。
生産主体が分配主体を兼ねる事で、分配と消費とを直接的に結びつけることが可能となる。収益と費用の力関係によって生産と消費とを均衡させている。価格と所得の均衡が計られるのである。
生産したもので必要とされるものが収益となる。
産出は、投資分も含む。総生産は、単位期間に生産された経済的価値を言う。収益は、生産物の中で市場価値が認められた財である。収益は、費用に還元される。費用は、生産に必要とされたものでもある。費用によって分解された所得は、分配主体によって可処分所得に分解される。可処分の所得の中から消費に必要な支出と消費投資に必要な支出が分類される。消費支出は固定資本形成によってストックに回される。
ストックされる長期資金の動きをどの様に捕捉するかが、分配の働きを解明する鍵となる。長期資金は、残高でしか表に現れない。
国民経済計算書
経済は生産だけで成り立っているわけではない。いくら財を生産しても消費者に分配されない限り、生産された財は、無駄になる。生産された財は、全ての消費者、国民に分配される事ではじめて経済の仕組みは成り立つのである。
生産に働く原理と分配に働く原理とは違う。生産と分配の原理の違いは、生産と分配の目的の違いから生じる。
生産は、最小の資源で最大の効用を求める。それに対して分配は、所得の幅と分散と平均が問題となる。必要とする支出に対応できる所得が求められるのである。
費用は、生産のための支出である。費用の役割は、生産だけでなく、分配や消費の働きもある。生産効率を上げるという名目で費用を限りなく削減すると所得も縮小し、消費も減退する。
適正な費用が維持できるような収益を実現できる市場構造を構築する事。その為の指標が利益である。
所得の上昇拡大を前提としていたら際限なく成長し続ける事が運命づけられてしまう。
縮む事を覚えないと市場経済は、常に破綻と再生を繰り返さなければならない。
生産の拡大を伴わないで費用である所得だけを上昇させることはできない。利益は、収益と費用の差なのである。この関係を忘れたら、現在の市場経済は成り立たない。
現在、個人事業の典型だった喫茶店とか、居酒屋まで企業化され組織化されつつある。個性的で多様だった喫茶店や居酒屋、小料理屋が標準化され一様なものになっってしまった。東京で飲むコーヒーも、ニューヨークで飲むコーヒーも、静岡でのみコーヒーも規格化され均一化されている。それが成熟した経済だと言われたら、私は、退化、逆行だと答えるしかない。
経済は、本来多様なものだ。それは、消費者が多様であり、市場が多様であり、環境や前提が多様だからである。多様さを失った経済は、全体主義的で、独裁的である。
なぜ、喫茶店や、居酒屋、小料理屋が企業化され一様なものに変質するのか。
それは経済制度が市場を一様化させるような仕組みになっているからである。
価格やコストだけに特化した市場は、多様さを失うのは必然的結果である。それは、量のみが先行して質が軽視された結果である。大量生産、大量消費に偏れば質が軽視されるのは当然である。
また、居酒屋や喫茶店の様な三ちゃんと言われたような企業でも人を雇えば、常に人件費の高騰に悩まされる事になる。年々、人件費をあげなければならなくなれば年とともに競争力を失っていく事になる。経済発展に伴って新興国が競争力を失うのは、人件費の高騰に依るし、先進国が新興国に太刀打ちできないのも人件費が高いからである。
市場や経済が成熟してくると必然的に所得は、相対的に高くなる。
最低賃金や労働条件、労働時間などの経済の枠組みも分配に対する考え方から制約される。この点は、個々の国の経済事情、状況に違いがあるから、国家間の市場格差になり不公正な競争を容認する事になる。
故に、公正な市場環境を維持確立させるためには、国家間に差をつける必要がある。ただ、国家間に差をつけるのは、国家間の話し合いによる。差のつけ方が無原則なものであったり、報復的なものであったり、特定の国を狙い撃ちにするようなものであると健全な市場の発展を妨げる事になる。基本的には、相互協力、国際分業に基づいた体制にする必要がある。関税だけではかえって不均衡で偏った市場を許す事になる。
貧困の輸出や労働条件の悪化にならないような取り決めでなければならない。
生活水準の向上か悪化か、相互に採られた政策によって経済を発展する事も衰退させる事にもなる。
分配においては、幅が重要となる。人が生きていくために必要最小限の所得をどの様な基準でどこに設定するかが、下限を制約するからである。
所得の上昇拡大を前提としていたら際限なく成長し続ける事が運命づけられてしまう。
縮む事を覚えないと市場経済は、常に破綻と再生を繰り返さなければならない。
市場は拡大と縮小を繰り返す事で、「お金」を循環させているのである。
生産の拡大を伴わないで費用である所得だけを上昇させることはできない。利益は、収益と費用の差なのである。この関係を忘れたら、現在の市場経済は成り立たない。
費用や借金を罪悪視、費用や借金をひたすらなくそうとするのは、経済の一面しか見ていない事を意味する。費用や借金にも重要な役割があるのである。費用は、生産手段であるとともに分配の要である。費用と所得は表裏の関係にある。
かつて、経済主体は、生活共同体だった。生産の場と消費の場は、未分化で、分配は、専ら組織的になされていた。共同体内部では、「お金」は、必要とされない。それ故に、貨幣経済も未発達だった。
生活共同体内部では、組織的な分配が主である。その名残は、つい最近まで経済主体に残っていた。それが年功序列であり、終身雇用である。共同体外部は、非道徳的空間であり、取引によって分配されるのに対して、内部は、道徳的空間であり、組織的基準によって分配される。企業でいえば、評価制度である。
年功序列型の給与体系は、歳を取ればとる程給料が上がる仕組みになっている。人の一生で一番「お金」が必要とされる時は、子育て期間である。年功序列型の給与体系だと資金需要を正しく反映できず、子育て期間が終わっても高額の所得を支給される。また、実績や功績が給与に反映しにくいという欠点がある。その為に、市場が成熟してくると弊害が目立つ事になり、高度成長が終焉すると伴に廃れる事になる。
貨幣経済の成熟は、収支の均衡を要求する。即ち、必要な時に必要な収入と言う事になる。
問題は、高齢や病気で働けなくなった時である。そして、高齢化社会は、働きのない人間を増やし続けていく事になる。
経済主体が生活共同体であった時は、働けなくなったものの面倒は、共同体が見てきた。
市場経済が社会の隅々まで浸透すると共同体内部にも市場の掟が侵略してきた。それが共同体の崩壊を招いているのである。
家族や仲間の絆は、風前の灯火である。夫婦間の関係にまで金銭的契約が適用されつつある。生活共同体の崩壊は、それまで共同体が見てきた働けなくなった者の世話を誰がするのかの問題に突き当たった。その結果、働く事の出来なくなった者の世話は、共同体外部の公的機関や制度によって代替わりする事になる。それが介護制度でありも介護設備である。介護制度も介護設備も非倫理的なものである。親孝行と言う倫理はその時失われる。
分配は、生産と消費に間にあって生産と消費を調節する役割を果たさなければならない。
この目的に沿って分配の仕組みは形成される。
市場経済は、分配は二段階で行われる。まず、何らかの基準によって「お金」を分配し、次に、配分された「お金」で自分が必要とする財を市場から購入する。
ゆえに、分配は、「お金」を配分する機構と財を手に入れる場としての市場からなる。
第一に、分配を主導するのは、「お金」を分配する仕組みである。生活に必要な資源は、全ての国民に行渡らなければならない。これが大前提である。そして、その役割を担っているのが「お金」を分配する為の仕組みである。
「お金」を分配する為の仕組みは、主として職場が担っている。即ち、働きに応じて「お金」を配分するのである。しかし、世の中には、幼くて働けない人や高齢で働けない人、又何らかの障害によって働けない人もいる。そういう人達にも必要なだけの「お金」を配分しておかなければならない。
市場経済体制では、「お金」がなければ生きていけないからである。それが、「お金」が全てであるような錯覚を起こさせるが、「お金」は、手段であって目的ではない。「お金」によって生かされているのではなく。「お金」は生きる為の手段である。しかし、そうはいっても「お金」がなければ生きられない。だから、働けない者でも最低限必要な資源を手に入れる為の「お金」は、配分されなければならない。
国民国家では、国民が最低限の生活を営めるようにするのが国家の責務である。ただし、これは国民国家だからであり、憲法に定められているからである。この点を忘れると憲法の意義も国民国家の意味も理解できない。
「お金」の価値は、働きにあって、物的な価値があるわけではない。
分配は、先ず、部門への振り分けに始まる。次に投資と経常的支出に仕分けられる。個々の部門への振り分けは、収益による。経常支出への振り分けは、費用によってなされる。
分配の入り口は、各部門への付加価値の割り振りであり、出口は、市場である。始点は、付加価値を、部門間に分配する事である。部門は、「お金」を分配する期間によって構成されているからである。部門は働きによって形成される。
付加価値における分配の最終目的は所得にある。所得と費用は表裏一体の関係にある。付加価値は、国民経済計算書では、営業余剰(利益)、混合所得、雇用者報酬(費用)、生産・輸入品に課せられる税(間接税)、補助金(控除)、財産所得である。即ち。部門間への分配である。
雇用者報酬と混合所得、財産所得は家計への振り分けであり、営業余剰は、非金融法人企業への振り分け、生産・輸入品に課せられる税は一般政府へのふりわけ。
雇用者報酬、混合所得、財産所得は、家計に振り分けられ消費支出と貯蓄に振り分けられる。営業余剰は、資本移動となってストックとなる。
次に、支出は、投資は、固定資産として長期資金の働きを発揮し、経常的支出は、費用として効用を発揮する。
投資による支出は、資本移転となる。
営業余剰は、収益と費用の関係によって導き足される。混合所得、雇用者報酬は、所得に反映される。
収益は名目的分配を意味し、費用は、実質的分配を意味する。
収益は、生産された財の内、必要とされた財で、産出を構成する。総生産は、単位期間内に作り出された経済的効用を言う。経済的効用は、部門ごとに振り分けられ、最終的に家計部門と一般政府部門に消費される。分配は、生産と消費の間に位置する過程である。生産は、国民生活に必要な財を製造する事であり、消費は、生産された財を生活に活用する事である。
なぜ、分配と言う過程が必要かと言うと生産者と消費者が一体ではないからである。
但し、生産者と消費者と言うのは、働きを意味しており、労働者は生産者でもあり、消費者でもある。消費者は生産者より広い意味があり、消費者は全人口を意味し、労働者は労働人口を指す。
分配は、生産労働者から全人口に生産財が行渡る様にする過程でもある。ゆえに、「お金」を活用するのである。「お金」は、段階に応じて形を変えて市場の隅々まで行渡り、流れるからである。故に、「お金」は、流動性が重視される。流動性が失われ、「お金」が流れなくなったら途端に経済主体は機能しなくなるからである。
生産主体には、生産主体が生み出した経済的効用に応じて収益として「お金」が分配される。生産主体は、財を生産する過程で費用として「お金」を分配する。費用は、獲得した収益を元にして支払われる。余剰の部分は利益として純資産の蓄積され固定資本を形成する。
基本的に市場経済は、単位期間内の損益によって経済状態を測定される。しかし、利益に実体があるわけではない。利益は、差額勘定であり、実体は費用にあり、名目は、収益にある。
市場経済は、単位期間内の収益と費用を均衡させる事で成り立っている。単位期間における経済的均衡が長期的均衡をもたらすという思想である。つまり、単位期間の均衡が保たれなくなったら経済は維持できないことを意味する。
単位期間の収益と費用が意味するのは、生産と消費であり、単位期間の生産と消費を均衡させる事で経済を安定させるのである。
問題は、単位期間を超えて効用を発揮する財である。そのような財に対して考案されたのが、減価償却である。減価償却は償却期間で財の効用を分割し、費用に換算する行為を表している。
これによって単位期間の経済的効果を測る事が可能になったが、反面、「お金」の流れと働きが乖離する結果を招いた。
投資は、一定期間をかけて投資した資金を回収しようという思想である。この事を忘れたら、利益の持つ意味も薄れてしまう。償却費は過程の数字であるから、やりようによっては、利益を操作する事が出来る。その為に、資金の回収が遅れているのに、利益だけは確保できるといった事態を招く。やり過ぎればフローとストックの関係が維持できなくなる。
なぜ消費税(間接税)増税なのか、それは、法人企業の収益力が低下した為に、企業収益や所得が減少し、かつ、不安定だからである。だから企業利益や所得に依らない税として消費税の比重が高まったのである。それは分配の局面にも現れている。
分配の局面に計上されるのは、間接税であり、所得税は、消費の局面に、相続税は、資産移転として表される。
分配の起点は、「お金」をどの様な仕組みや基準によって何に分配するかにある。貨幣経済では、分配の仕方や仕組みが経済体制を規定する。
市場経済は、貨幣経済と不可分な関係であるが、市場経済だけが貨幣経済に則っているわけではない。共産主義も、社会主義も貨幣制度に則っているのが一般である。貨幣制度そのものを否定しようとした体制もない事はないが、ことごとく失敗し、貨幣経済に逆戻りをしている。
貨幣経済は、貨幣をいかに分配するかがカギを握っている。
経済の仕組みは、「お金」を廻せば維持できる。しかし、「お金」を廻す事だけが経済の仕組みではない。「お金」を循環するのは手段であって目的ではない。
では、適正な収益をどの様に維持するかと言う事になる。適正な収益を維持する為には、適正な価格を実現する事なのである。
ひたすら、価格競争力、生産の効率、規制緩和、廉価を追求して消費者に阿っても適正な収益が維持できるわけではない。不景気は、費用と価格の働きを軽視した結果なのである。
利益のみを重視して生産効率をばかりを追求すると生産と分配、消費の均衡が保てなくなる。
経済が成熟し、市場が飽和状態に陥ったら量から質の経済へと転化させるべきなのである。生産主体も消費主体も、分配主体である事を忘れてはならない。
生産と所得の分配が同じ組織である事によって生産効率を高める事が分配効率を低下させる事につながる事がある。生産効率と分配効率の整合性を保てるような仕組みや規制をしないと、経済の仕組み全体の均衡が保てなくなる危険性がある。
生産の論理と分配論理は次元を異としている。それなのに、経済主体の組織を共有している。
いかに分配の仕組みと生産の仕組みの整合性を保ち、消費の構造に結び付けるかが解決の糸口なのである。
経済主体の働き、一つではなく複数ある。しかも、生産、分配、消費、貯蓄の個々の局面において違う働きをする。
経済の仕組みは全体と部分から成る。経済はいくつかの部品が組み合わさってできている。全体と部分の働きの整合性がとれなくなると経済は正常に働かなくなる。
この点は、組織だけでなく、市場にも言える。
市場は、一つでできているのではなく。複数の市場が組み合わさり、あるいは重なり合って一つの全体を構成している。
市場は、一律一様な場ではなく、合目的的な構造を持った場であり、個々独立した働きや構造を持つ市場が組み合わさる事で全体の働を構成している。
経済政策は、個々の市場の働きや役割、動向、状況を見極めて個々の市場の適合した施策を講じる必要がある。
分配は、「お金」を市場に循環させることを介して行われる。市場は、「お金」の流れによって財を分配させる仕組みである。「お金」の流れが財の分配を実現するのである。「お金」の流れは、財の流れを作る。
生産財は、「お金」の流れる逆方向に流れる。つまり、「お金」が流れていればその逆方向に流れる財があることを意味する。
市場は、「お金」を循環させる装置だと言っていい。
つまり、市場経済の仕組みは、「お金」をいかに循環させるかが鍵を握っているのである。
その為に、資金の移転が重要な機能を果たしているのである。
「お金」を循環させる行為は、売買と移転である。移転には、貸借と贈与がある。
「お金」は、循環し、財は、直線的に流れる。
分配は、市場取引を通じて実現する。市場取引は売買を通じて行われる。売買は、「お金」と財との交換を意味する。
故に、市場取引を実現する為には、予め、消費単位に資金が供給されている必要がある。
つまり、分配は、「お金」の配分、即ち、所得によって準備される。
移転は、支払準備である。
「お金」は、取引に依って市場に供給され、循環し、効力を発揮する。
外部取引は等価交換を前提として成り立ち、利益は、内部取引より生じる。
一般に取引と言うと「お金」の動きばかりを注目し、財の流れが見落とされる。その為に、双方向の働きが認識されない場合が多い。
問題は、「お金」をどの様な基準に従って、どのような手段で、誰が(何が)執行するのかである。
「お金」は、一般に報酬として消費単位に支払われ分配される。
分配のアルゴリズムの働きは、全ての国民に、一人当たり一定の幅の範囲で所得を分配する事である。
一定の幅と言うのは、生活していくうえで必要な資源を市場で購入する事が可能な範囲と言う事である。故にも経済は、物価と個人所得の平均と分散、最低所得との関係に収斂する。
分配は、一般に組織的になされる。基礎を市場に置く生産とは、根本から違うのである。分配は、一般に組織的になされる。なぜならば、分配は、分業に基づくからである。
分配は、均一均等にはできない。分配の対象である消費者が置かれている環境、状況が違うからである。同額の所得を配分しても前提条件によって格差が生じる。寒冷地にいる者と温暖な地方にいる者とは生活の前提が違うからである。
また、人には、能力や適性の違いがある。能力や適性を無視して配分すれば当然不平等になる。
問題は、どの程度の差をつけるかである。経済は差によって動いている。差をつける時、合理的な基準に基づくか否かが、平等であるかないかの問題なのである。差をつけること自体で不平等が発生するわけではない。
分配は、部門を対象にして行われる。家計に対する分配は、雇用者報酬、企業法人に対する分配は、営業余剰と・混合所得、一般政府に対する分配は、税である。
所得と支出の配分の偏りが部門間の資金の過不足となる。資金の過不足は、ストックに蓄積され、フローの流れる方向を左右する。
注意すべきなのは、営業余剰・混合所得は、中間消費項目として最終消費支出から除かれている点である。
分配の仕組みは、いかに、生産の過程に連動しながら、公平な分配を実現するかにある。そして、公平な分配は、消費の充実から求められる。つまり、一定の生活水準の実現である。同時に最低限の生活水準を保障する事にある。
「お金」は、分配の手段である。分配は、「お金」の流れによって実現する。「お金」の流れ、即ち、移動には、移転と決済の二つの働きがあり、移転は、ストックを形成し、決済は、フローを構成する。ストックは、支払準備の働きがあり、決済は、分配を完成させる。
働きに応じて分配するそれが原則である。働く場がなくなれば当然分配する手段が限られてくる。経済で重要なのは、働きなのである。
分配には、個人の分配の流れと経済主体間の分配の流れ、部門間の分配の流れがある。
個人の流れは、所得から消費への流れを意味し、経済主体間の流れは、生産者から顧客への流れであり、部門間の分配は、貸借の流れである。
分配の基本は、働きに応じて所得として「お金」を配分し、必要に応じて財を市場から購入する。
それが原則であるならば、働くことが手段である。働く事は、労働力に代表されるが、労働力が全てではない。生産手段全般に言える。
市場経済体制においては、分配の手段には、組織と市場がある。
市場経済では、先ず、所得を分配しておいて必要に応じて必要なものを市場から手に入れるという二段階で実現する。
所得を組織的に分配するのは、主として経済主体である。
分配の手段には内的分配と外的分配がある。
内的分配の手段は、組織的分配であり、外的分配の手段は、市場取引を言う。
多くの人は、市場経済における分配の手段は、市場に限られているように思い込んでいる節がある。
しかし、分配は、所得の分配、財の購入と二段階行われる。所得の分配は組織的になされる場合が多い。また、資本主義体制では、徴税上の都合から給与所得として形式的に組織的手段を装う場合が一般的である。
一般に市場経済と言うと市場取引が全てであるように錯覚されているが、実際は、所得の多くは、組織的に配分される。
所得の分配は、組織的になされ、財の分配は、市場を通して行われるのが原則である。
なぜ、所得の分配は、組織的になされるのか、そこには、所得の分配は、評価にもしづくからである。つまり、所得の分配において差がつけられるのである。
経済主体は、生活共同体である。生活共同体は、非貨幣的、道徳的空間である。市場は、生活共同体の外にある。貨幣的、非倫理的空間である。貨幣的、非倫理的空間は、自由な空間でもある。共同体は、不自由な空間ではあるが安らぎの場、ホーム、家内でもある。
市場経済では、市場だけが問題とされる。しかし、市場経済下でも所得の分配は、組織的、かつ、恣意的にされる。だからこそ分配のアルゴリズムは思想的なのである。
経済主体は、基本的に共同体であり、組織である。家庭も、企業も、政府も組織的な主体である。
組織の機能には、現業部分と管理部分がある。現業部分は、生産・販売・仕入購買、在庫等、直接業務にかかわる部分をいう。それに対して、金銭の出納、組織統制、企画、設備の保守点検といった間接的、付帯的業務を管理部分と言う。これらの業務が費用を構成する要因となる。
所得は、支払準備である。
分配を実現する為には、支払準備となる「お金」を事前に配布する必要がある。分配は、所得を配分し、手に入れた所得の範囲内で市場から必要な財を手に入れるという二段階で行われる。
故に、先ずどのように所得を満遍なく消費単位に配分するかが重要となる。
先ず、所得を得る手段を準備する事が分配の前提となる。
所得を得る手段で一番有効なのは、生産手段である労働力を提供する事である。
つまり就職する事である。
家計が「お金」を調達する手段は、主として労働の対価としての所得である。
国税庁は、所得を、給与所得、利子所得、配当所得、不動産所得、事業所得、退職所得、山林所得、譲渡所得、一時所得、雑所得の10種類に分類している。労働の対価として支払われるのは、この内、給与所得を指す。
所得の中で安定的で固定的な所得としてみなせるのが給与所得であるから、基礎的支出は、給与所得に依存しているのが一般的である。
故に、分配の中核は、給与所得に依存している。
所得を得たら、市場から必要とする財を購入する。
現在、個人事業の典型だった喫茶店とか、居酒屋まで企業化され組織化されつつある。個性的で多様だった喫茶店や居酒屋、小料理屋が標準化され一様なものになっってしまった。東京で飲むコーヒーも、ニューヨークで飲むコーヒーも、静岡でのみコーヒーも規格化され均一化されている。それが成熟した経済だと言われたら、私は、退化、逆行だと答えるしかない。
経済は、本来多様なものだ。それは、消費者が多様であり、市場が多様であり、環境や前提が多様だからである。多様さを失った経済は、全体主義的で、独裁的である。
なぜ、喫茶店や、居酒屋、小料理屋が企業化され一様なものに変質するのか。
それは経済制度が市場を一様化させるような仕組みになっているからである。
価格やコストだけに特化した市場は、多様さを失うのは必然的結果である。それは、量のみが先行して質が軽視された結果である。大量生産、大量消費に偏れば質が軽視されるのは当然である。
また、居酒屋や喫茶店の様な三ちゃんと言われたような企業でも人を雇えば、常に人件費の高騰に悩まされる事になる。年々、人件費をあげなければならなくなれば年とともに競争力を失っていく事になる。経済発展に伴って新興国が競争力を失うのは、人件費の高騰に依るし、先進国が新興国に太刀打ちできないのも人件費が高いからである。
市場や経済が成熟してくると必然的に所得は、相対的に高くなる。
喫茶店の様な商売でも一人ひとりの所得を上昇させようとしたら多店化する以外になくなる。停滞や縮小は許されないのである。しかし、拡大成長には限りがある。なぜならば、実質的な市場規模を画定するのは人と物だからであり、人や物は、有限な実在である。故に、物質的な限界があるのである。人や物に限りがある以上、無限に経済を成長させることはできないのである。同様に限りなく所得を拡大する事はできない。市場の縮小を前提とした施策をとらなければならない時があるのである。
その為には、市場が飽和状態に陥った時、量から質への転換が求められる。
ところが今日の日本の市場では、安売りが奨励され、競争を煽る政策が採られている。これでは適正な収益は維持できなくなる。デフレーションの最大の原因は、適正な収益が維持できない事なのである。
問題は、情報通信技術の進歩によって労働の質が変化し、労働の質の変化が組織的分配の質を変化させつつある事である。
これまで分業による組織的な生産が主だったのが、個人を単位としたネットワーク型の仕事が増えてきた点にある。更に、分配の仕組みの変化に拍車をかけているのがインターネットの進歩である。
インターネットの進歩は、これまでの、閉鎖的で、自己完結型、垂直的で階層的、集中処理型な組織を開放的で、連結型、水平的なネットワーク、分散処理型へと職場環境を変化させている。
これらは従来の組織に基づく所得の分配の在り方を変化させつつある。従来の組織は、規模の経済が働き、生産と分配が一体となった仕組みである場合が多かったが、生産と、分配の仕組みが分離しつつある。そして、それに伴って失業率が上昇し、従前の様な労働集約的な産業が成り立たなくなりつつある。
単純反復労働は、廃れ、より特殊な技能や知識が要求されつつある。付加価値の高い仕事が求められている。
反面、AIの発達は、知的な労働からも人を追い出しつつある。
民間企業に頼って所得の分配が経営の合理化によって成り立たなくなりつつある。
この様な変化は、組織的分配の主役だった民間企業の在り方を変化させつつある。また、労働力と言う生産手段を提供し、その対価として報酬を受け取っていた個人の在り方も変化せざるを得なくさせている。
更に、肉体労働といった力を必要とする仕事からコンピューターを使った仕事が増えるのに従って女性の社会進出が進んだ。
この様な変化は、必然的に社会環境、個人と企業、個人と家計、個人と国家の関係も変えつつある。
それは、分配の仕組みの在り方そのものを根底から変えようとしている。
生産は物中心、分配は、「お金」中心、消費は人中心。
分配の手段の一番原始的な考え方は、分け前である。原初的には、「お金」を介さずに即物的に行われた。しかし、それは、社会が未分化で一家族の範囲で生活が完結していた時代なら可能だが、高度に社会的分業が進んだ今日では現実的な手段とはいいがたい。
現代は、「お金」が分配の手段として一般に用いられている。
先ず、「お金」を満遍なく生活に必要なだけ全ての人に配分し、配分された「お金」を支払って必要な資源を市場から調達する事で分配は成立する。即物的な配分ではないという点に注目してほしい。
「お金」は、分配の手段。市場は分配の場である。分配の主役は、「お金」である。まず「お金」をいかに満遍なく行渡らすか。それが分配の第一段階である。
労働というのは、「お金」を満遍なく配布するのには、有効な手段である。故に、何らかの仕事を作ってでも全ての人に仕事を与えるべきだと考えられている。ただ、全ての仕事が有償だとは限らない。無償の仕事もある。そこが難点なのである。
分配の第一段階は、「お金」の分配である。
市場経済を誤解している人の多くは、分配は、すべて市場取引によっていると考えている事である。分配の手段は、市場だけでなく、むしろ組織的になされている部分の方が大きい。分配は、第一段階で「お金」を分配する事から始まるである。「お金」の分配は、市場より、組織的に行われる方が多い。
そして、経済の問題の多くは、「お金」の分配にまつわる事である。
市場経済が機能するかしないかは、いかに、生きる為に必要な財を手に入れる事の出来る「お金」を、公平に、かつ、満遍なく配分するかにかかっている。経済的問題の多くは、「お金」を分配の際に発生していることに注目しなければならない。
分配を正常に働かせるための要件は、第一に、分配の単位(一人、世帯、家族、企業・機関等、経済主体)。第二に「お金」を獲得する目的」。
第三に、「お金」を獲得する手段にある。第四に、市場に流通する「お金」の量。(総量と単位当たり)。第五に、分配の範囲(「お金」が流通する、あるいは、通用する空間的、制度的範囲)。第六に、分配の対象(「お金」を配分する対象)。第七に、分配の根拠(何を根拠に、何に対して)。第八に、基準(どの様な基準で)。第九に、格差(資産と収入の格差の程度)。第十に、偏り。偏在。(富の偏在)である。
分配においては、単位が重要となる。単位には、一人、一世帯、一企業、一国、人類全体などがある。経済単位として個としての存在を単位とするのか、何らかの集団、機関を単位とするのか、一つの全体を単位とするのかによって経済体制に対する考え方が違ってくる。
自由主義体制は、個人を基礎単位として、それに、企業や政府、世帯といった経済主体、国家という全体を混合した経済体制である。故に、働きに応じて単位は、変わってくる。
経済主体の単位には、大きく分けて、収入側から見た単位と支出側から見た単位がある。経済主体としての単位としては、一人単位、一企業単位、部門単位、国単位等がある。
貨幣は、分配の手段であり、基準・尺度である。故に、何らかの単位を必要とする。ただ、貨幣単位は、物理的単位とは異質な単位である。
貨幣の単位は、相対的な単位であり、物の量と人の量、国と国の関係などで左右され一定ではない。
分配の目的は、根底にある思想に基づく。目的には、生活費、報酬、費用(生産手段の提供)、所得配分などがある。
何を重視するかは、経済に対する思想が色濃く反映される。そして、それは、社会体制にも影響する。
所得の配分は、要は、経済の仕組みの要請による。所得が配分されていないと市場が機能しないからである。所得の配分の延長線上に所得の再配分がある。
分配の構造を分析する場合、先ず、何によって、どの様に、どの様な考え思想に基づいて収入を得ているかを明らかにする必要がある。経済体制は、収入を得る手段に制約される。目的は、収入手段を決める鍵となるからである。
貨幣、即ち、「お金」を獲得する目的は、支払を準備することである。「お金」の価値は、交換価値であり。「お金」の働きは、支払準備である。では、何の目的で支払いを準備するのかというと、市場から財を購入、即ち、調達する事であり、社会全体から見ると分配を実現する事にある。故に、「お金」を獲得する、即ち、所得の目的は、財を市場から調達する目的を意味する。
個人として市場から財を調達する目的は、一つは、生活をする為である。もう一つは、労働の対価、即ち、報酬にある。
企業の目的は、収益を得る事である。収益を得る目的は、費用を支払う原資を得る事である。費用は、突き詰めると所得となる。つまり、費用は、突き詰めると費用を構成する所得が隠されている。人件費は、所得そのものを表しているが、光熱費は、光熱費を生み出すためかかった費用を意味する。そして、費用を分解していくと誰かの所得に行きつく。つまり、費用は、所得の塊なのである。
また、費用の裏側に収益があり、収益を裏返すと費用となる。費用となるか、収益と見なすかは、立場の違いに他ならない。収益と費用は、表裏の関係にある。
財を市場から購入する一番の目的は、生活に必要な資源を得る事である。第二の目的は、生産手段を提供した対価を得る事であり、これは権利の行使を意味する。報酬は、自己実現の手段でもある。
企業の働きは、生産財を市場で売って収益をあげ、収益を費用、即ち、所得に還元する事である。企業は、経済における整流器の働きをしている。つまり、不確かな収入を整流して安定した所得へ変換する。つまり、民間企業は、資金収支の波を整流する働きをしているのである。この様な役割を持つ企業、一般政府において重要なのは、雇用と定収である。
定職、定収には、収入を一定化させる働きがある。
つまり、企業や政府は、収入を整流する働きがあるのである。
月々の収入は、経常的な支出の枠(制約)となる。月々の収入を一定に保つ仕組みが定収、即ち、月給である。借金の返済が定収を上回る様では、生活が成り立たなくなる。定収の範囲内で生活費を捻出する。それが、市場経済の基本である。これは、家計にかぎらず、全ての経済主体、民間企業も、政府も、金融機関も、国家も同じである。
企業の役割は、生産活動を通じて市場から収益を得て、収益の中から費用として所得を分配しする事にある。また、不確実で、不安定な現金収入を確実で安定した所得に整流する事である。故に、キャッシュフローが重視されるのである。
民間企業は、現金が廻っている限り、経営を継続させることがかなうである。つまり、企業は、「お金」によって動く仕組み、機関である。
民間企業が現金を増やす手段としては、第一に、収益を上げる。第二に、費用を減らす。第三に、現金以外の資産を減らす。第四に、資本を増やす。第五に、負債を増やす事である。収益を上げ、費用を下げるのは利益を上げることを意味する。この五つの手段は、現金を増やす行為である。言い換えると、逆にすれば、現金が減り、最悪の場合、不足する事になり、どこからか、何らかの手段を講じて、調達しなければならなくなる。これは、民間企業だけでなく、他の経済主体、一般政府、金融機関なども同様である。家計もおおよそ同じ原則で動いている。これは、経済活動の基本だと考えていい。
「お金」を得る手段は、第一に、働いてその報酬として「お金」を得る事である。第二に、財を売ってその対価として「お金」を得る事である。第三に、何らかの生産手段を貸し出し、その賃料として「お金」を得る事である。生産手段には、人、物、金がある。人は、第一に述べた労働、物は、土地や設備、原材料。そして、「お金」は、資本、金融資産を指す。第四に、何らかの権利の使用料として「お金」を得る事である。第五に、税金として受け取る事である。第六に給付金である。第七に、金利である。第八に借金をして「お金」を売る事。そして、第九に、「お金」を貰う事である。
無法、違法な手段として略奪、強奪がある。しかし、これは、正当的手段としてみなされているので、ここでは取り上げない。
手段は、目的に拘束されている。
主たる分配は、労働の対価として組織的に分配する手段と市場を通じて分配する手段がある。問題は、多くの経済学は、いずれかの手段に偏っている事である。
組織的な分配で重要なのは、分配の基準、評価に対する考え方である。経済学は、働きに対する評価の基準が経済に与える影響を無視している。だから、既存の経済学は、非現実的なものになるのである。経済というのは、生々しい現実である。
評価とは、差を何によってつけるかの基準である。だからこそ、その時代や社会の価値観を反映したものになるのである。
量は、総量と単位当たり、一人当たりの量の釣り合いが重要となる。それは、市場は、分配の場であり、価格は、分配の為の基準だからである。分配の基準であるという事は、比率が基礎となる。つまり、財も、貨幣も、人も有限である事が前提となる。財も、人も、物理的に制約されるから問題ない。問題なのは、貨幣である。貨幣価値は、上に開いているために、何らかの制約を定めないと際限がなくなる。かつては、金を担保としていたが、現在は、国債と通貨の発行量、為替によって制限を設けている。それが管理通貨体制である。
貨幣価値(価格)は、生産量と通貨の流量と人口によって定まる相対的量である。需要と供給は、人、物、金の量によって定まる。物価は、価格に基づく指標であり、人、物、「お金」の均衡が破れるとインフレーションやデフレーションが発生する。
分配の範囲は、有限である。分配の範囲は、通貨が通用する範囲であり、物理的、制度的範囲である。
分配の対象は、何かである。分配の対象とは、何に対して「お金」が支払われるかを意味する。分配の対象は、分配の根拠ともつながる。
「お金」が支払われる対象にも、人、物、「お金」がある。人は、労働である。労働を対象とした分配は、賃金や報酬である。物とは、権利(所有権等)である。権利を対象とした分配は、権利の地代、家賃、賃料などの使用料である。「お金」は、資本である。資本に対する分配は、金利である。
物や「お金」を対象とした分配は、不労所得とされる。
分配の根拠としては、時間、必要性、効用、成果物、付加価値(能力、経験、知識、資格)等である。
報酬として支払われる「お金」を分配する対象は、労働者である。それに対して給付を受ける対象は、給付の資格を満たしたものである。また、何らかの権利の使用料ならば、権利の所有者である。ここに所有の概念が前提とされる。
収入を受ける者は、絶対的な権力を持つ。だからこそ公正な権利を与えられる必要がある。かつては、女性は、賃金をもらって働ける場所が限られていた。また、人種や出自によって差別が存在していた。この様な差別は、分配の構造を歪めてしまう。
性別や家柄、宗教、人種などによって差別されないようにする必要がある。
賃金という形式の分配は、組織的になされる。故に、賃金体系と評価基準や思想が重要となる。賃金制度は、構造的な体系である。
賃金の多寡は、相対的に決まるのである。絶対額だけでは評価できない。
賃金制度は、歴史的産物であり、その時代時代の家族制度や価値観(性差別や人種差別、階級など)、政治体制、雇用体制、教育、思想、世相、宗教(儒教も含め)、経済状態などが反映されている。賃金制度は、それ単一で成立しているわけではない。時代の変化とともに変遷している。
また、賃金体系は、報酬に対する考え方、受け取り方、思想が濃厚に反映する。
報酬に対する考え方には、働きに対する対価(評価)、成果に対する対価、生活費、属人的(家族構成や年齢等)にたいする手当、仕事の役割に対する評価、技能や知識、経験に対する評価、労働時間、危険性、稀少性(仕事に対する需給等)、過去の功績(退職金等)、血縁関係等などがある。
我が国は、現在、年功序列型賃金体系から職務(ジョブ)型賃金体系への移行期だと言われている。
これらの背景には、大家族制度から核家族制度へと家族制度が変化した事、成長期から成熟期への市場変化環境が変化した事、女性の社会進出、少子高齢化(人口構成の変化)、雇用制度の変化、生活スタイル・水準の変化等が指摘される。また、根底には、ストックの蓄積がある。この点を見逃すと経済の実体を見誤る事となる。
ただ、収入構造の基本には、生きていくために必要な事、社会を構成する為に必要なことなどの必要性が隠されている事を忘れてはならない。
高度成長期に、年功序列、終身雇用型賃金体系が形成されたと言われている。年功序列、終身雇用型賃金体系は、古来から、日本固有の賃金体系だと思われているが、年功序列、終身雇用型賃金体系は、決して日本固有なものでもなく、戦後になってから形成された比較的新しい賃金体系である。背景としてあるのは、家族主義的な、共同体思想である。男性中心、家父長的、生活給的、属人給的性格の強い制度である。年功序列型賃金体系は、過去の功績や功労や人間関係が重視される傾向がある。そこに情実が入り込む要素がある。
大体。時間給の概念が日本で確立されたのは、新民法施行と同じ年に施行された労働基準法制定だと言われる。(「給与クライシス」平康慶浩著日経プレミアムシリーズ)
年功序列が成り立つ前提。
第一に、男性中心社会。
女性の働く場所がない。政治は男の仕事として女性の参政権も認められていない。現代でも、基幹部分は、男性が担い、女性は、補助的な仕事をするといった傾向が残る。
第二に、男尊女卑の世界。
男は、外で働き、女は家を守る。内助の功。
女性の仕事とされた家事(掃除、洗濯、料理)、出産育児、介護、家政が蔑視され、軽視されてきた。
第三に、家父長制度。
男性が家長となってお金を稼いできて、妻子と祖父母を養う。
女性は、経済的な自立が許されず、結婚しないと生計がたたない状態に置かれ、社会的に差別されてきた。
第四に、独身、結婚、出産、育児というライフサイクルが基本となる。
賃金体系が年齢を基礎として設計された。働きや実績というよりも結婚、出産、育児といったライフサイクルと年功というステータスが重視された賃金設計となっている。
第五に、生活給が基礎という考え方に立つ。
その根底には、敗戦により、国全体が物不足に陥り、何よりも生活が優先した事に起因する。転じて、高度成長時代は、中流意識が存在し、極端な格差を認めない風潮が生れた。横並び意識。戦後、財閥と地主階級が解体された事が影響している。
背景には、農村中心社会から企業中心社会への移行がある。
年功序列が崩壊しつつある。その原因として、第一に、女性の地位の向上と社会進出。第三に、家事労働の合理化、専業主婦の減少、共稼ぎの増加。第四に、非正規雇用者の増加。第五に、大家族から核家族化。第六に、少子化による世帯規模の縮小。戦後数年間、合計特殊出生率が4だったのが70年代になると2に落ち着いた。(「給与クライシス」平康慶浩著日経プレミアムシリーズ)第七に、非婚者の増加。第八に、技術革新による年功の喪失。熟練度が問題とされなくなった事が大きい。第九に、退職金の負担の増加。勤続年数や経験を根拠とした年功のインセンティブが薄れた。第十に、情報技術の革新。ネットワーク社会の現出。働き方の基準が変化した。第十一に、情報技術の変化は、労働の質的変化をもたらしている。単純反復労働が機械化された。第十二に、年金、失業保険等、社会保障制度の充実等があげられる。これらは、家事労働の負担を軽減した。
なぜ、年功序列型賃金体制が成立したのは、高度成長時代のライフスタイル、女性は、結婚して、子供産んで、育てるの役割で、生活費は男が働いて稼いでくるというスタイルに適合していた。また、高度成長の物価上昇とも合っていた。この時代の給料は、生活給、属人給としての性格が強かったのも一因で、一番、「お金」が必要とされたのが子育て世代だったから、そこに、手厚く資金が回るように設計された。
ところが、高度成長が終焉し、低成長時代になると格差となり、また、性差別が顕在化してしまった。年齢や勤続年数が評価基準になると、格差が累積するからである。その為に、退職金の負担も課題となった。
そこで、正社員を少なくし、臨時雇いを増やしたのである。
このように、分配構造は、時代背景や価値観によって大きく変化する。
年功序列型だと経済が成長している時は、年々上昇する人件費を吸収する事が出来る。低成長時代になると徐々に人件費を吸収する事が出来なくなり。更に退職金の負担が大きくなった。
定年退職後も働くのは、借金の返済に見合う蓄えがないからである。
「お金」が不足すると、人は、市場から生きていくために必要な財を購入する事はできない。「お金」が不足すると不足した分を何らかの形で調達する必要がある。その主たる手段は、借金である。
債務の増大の背景には、、消費(支出)の減退、市場の収縮が考えられる。
消費の減退の原因は、人口の減少、人口構成の変化、及び、消費構造の変化がある。
更に、分配の仕組み、分配構造の変質。分配の構造とは、評価制度や取引の仕組みである。決定的なのは、少子高齢化により、富士型から、ひょうたん型に変化した事である。
人口ピラミッドを形から分類すると,富士山型(ピラミッド型),釣り鐘型(ベル型),つぼ型(紡錘型),星型(都市型),ひょうたん型(農村型)の五つの類型に分類できる。
分配が正常に機能する為には、フローとストックの比率が重要となる。
現金主義では、貸借の流れは、表に現れる。借金の返済は、支出として明確に意識される。故に、収入以上に借金の返済が上回れば、生活が成り立たなくなるのは、実感として感じられる。しかし、損益主義では、金利は意識されても借金の返済は、意識されない。金が廻っているうちは安全なのである。しかし、時々、金回りが悪くなり、資金不足に陥る。
地価が高騰している時は、例え、収支が合わなくても、土地を売れば元が取れる。また、土地の値上がりによって高額な利益を得る事が可能である。しかし、一旦地価が下落すると残されるのは、借金だけである。土地は売れば損失になので売るに売れない。残されるのは、借金だけである。しかも、借金の元本の返済は、表に現れない。利益の中から借金の返済資金が捻出できなくなれば、債務は拡大す根一方になる。表に現れる損益、利益だけを見ても理解できない。借金の返済に依って設備投資は、滞らさざるを得なくなる。
分配を阻害する要素として、格差や富の偏在がある。格差は、経済を動かす力であるが、反面、極端になると経済の動きを悪くする。要するに、均衡が重要なのである。
分配は、財を市場から調達する事で完結する。財を購入する為の支払準備として事前に所得を得る。支払額が所得を上回る場合は、貯蓄を取り崩すか、借金をする。所得の不足を補うという役割では、貯蓄と借金は、同じ働きをしている。ここが肝心なのである。貯蓄と借金は、貸借を意味する。
分配の第二段階目は、必要とする財を市場から購入する事である。
市場とは何か、市場の役割や、働きを明確にし、定義する必要がある。
市場について、わかっているようで、わかっていない。市場の役割が理解されていないから、競争は、市場の原理などという誤解が生じる。競争は、市場の働きの一種に過ぎない。競争を絶対視したら、市場の働きは見えなくなる。市場の働きは、競争が全てではない。
大体、競争といっても単純ではない。何をもって競争とするのか、何を競わせるのかによっても競争の意味は違ってくる。
第一に、市場は、取引の場である。
第二に、市場は、分配の場である。交換の場である。
第三に、市場は、需給を調整する場である。需給を調整する場とは、生産と消費を調整する場であもある。
第四に、市場は、「お金」を稼ぐ場である。儲けを上げる場である。
市場原理主義者の多くは、市場経済を絶対だとしながら、市場について、何も明らかにしようともせず、市場に任せて放ったらかしていればいい、などという乱暴な事を主張する。そのくせ、経済がうまく回らなくなると、何でもかんでも市場の性にする。
市場を制御する為には、市場の仕組みを明らかにする必要がある。
市場の問題に対する万能薬はない。市場がどのような症状を呈しているか。どの様な状態、前提条件があるのか。何が原因で、どこに病巣があるのかによって対策も変わってくる。表面的な現象だけとらえていても処方箋はかけない。
市場取引は、財と買い手と売り手、即ち、人、そして、「お金」で成り立っている。
市場の構造は、カジノの仕組みに類似している。まず、消費者は、支払準備の手段である「お金」を用意する必要がある。買い手は、売り手と交渉して値段、即ち、価格を決める。取引が成立したら、次に、お金と物との受け渡しの仕方を決める。この場合、「お金」の受渡と、財の受渡は別途の交渉によって決める。
事前に支払準備としての「お金」を用意しておくというのが肝心なのである。
市場経済の原理というのは、至って、単純である。
市場経済を動かしているのは、収入と支出である。経済主体を動かしているのは、入金と出金である。つまり、入金と出金を見ていると経済主体の動きは解明できる。
市場取引は、一対の売り買いによって成立する。売りは売り上げの元となり買いは費用の本となる。売上は、収益である。売りと買いは一対で成り立っている。
売りと買いは、対称であり、この対称性が複式簿記の根拠となる。
売り買いは、財と「お金」の交換を意味する。売り買いは、売り手から買い手に財を渡し、買い手から売り手に「お金」を渡す事で成り立っている。市場取引は、財の受渡、現金の収支、つまり、受けと渡し。入金と出金の四つの要素からなる。
売買取引は、企業側から見ると収益と費用、家計から見ると所得と支出を構成する。
収入と所得は、支払いを準備する。収入と所得から支出を差し引いた部分は、余剰資金となってストックを形成する。ストックは、金融資産に転化される。金融資産は、裏側で金融債務を構成する。金融資産が増加すれば債務も増える。
分配の第二段階で、財を市場から購入する。財を購入する為に、支払いに必要な「お金」を用意、即ち、準備しておく必要がある。
つまり、市場でお金を稼ぐという事には、必要な財を調達するという意味と支払いを準備する為の「お金」を手に入れるという二重の意味がある。これが市場の働きをわかりにくくしているのである。しかも、市場取引に時間が関係してくると、更に、市場の働きをわかりにくくする。
問題は、財の受け取りと代金の支払いが同時にされるとは限らない事である。
市場取引は、財の性格と支払方法によって成り立っている。そして、財の性格と支払方法は、市場の性格と働きを規制しているのである。
基本的に市場取引は、お金の授受によって完結する。取引を完結する行為を決済という。市場取引によって価格が設定される。
市場は、需給関係を調節する事で生産と消費を制御している。
市場は生産と消費を結び付ける場でもある。
市場に必要とされる財の量と人口、そして、適量の「お金」が満ちている事で機能する。市場の仕組みを動かす原動力は「お金」である。市場は、「お金」が循環する事で成り立っている。「お金」が市場を循環しなくなると市場の活力は低下する。
鍵となるのは、「お金」の流通量と回転数、流通速度、流れる方向、そして、残高である。
市場経済の柱は収益である。
資金の流れを見る前に、市場経済は、収益と費用を柱にした体制、仕組みだという事を明記しておく。収益と費用は、分配を実現する唯一の手段だからである。 故に、経済の動向は、収益と費用の関係に還元される。
市場取引を構成するのは、売り手と買い手、「お金」と財である。
バブル崩壊後、三つの過剰が言われるようになってきた。三つの過剰というが、三つの過剰の意味が正しく理解されていない。三つの過剰というのは、過剰債務、、過剰設備、過剰雇用である。
過剰というのならば、何を基準にして過剰なのか。この点が肝心なのである。
過剰債務というのは、負債が過大である事、過剰設備というのは、資産が過大である事、過剰雇用とは、費用が過大な事である。
決算を構成する要素は、資産、負債、資本、収益、費用であり。この内、資産、負債、費用が過剰だと言われているのである。
残されているのは、収益と資本(利益)。つまり、収益や資本(利益)に対して資産、負債、費用が過剰だというのである。裏返せば、収益と資本、利益が不足しているのである。資産、負債、資本、収益、費用は、絶対的な値ではなく。相対的な値である。
負債や費用、資産だけを削減しても、収益と資本が、それに伴って減少したら抜本的な解決にはならない。
債務、設備、雇用を過剰にしているのは、収益の不足である。債務や設備、雇用は、収益に対して相対的なのである。
市場とは、収益と費用、収入と支出を均衡させる場でもある。
企業の収入は、大きく分けて収益と貸借からなる。家計の収入は、所得と借金、貯金からなる。
経済活動は、現金残高を保てば継続できる。現金残高が保てなくなると破産する。
財を提供する側は、売上として対価を得る。財を購入する側は、対価を支払う事で財を手に入れる。
問題は、財の受け取りと支払いが同時に進行するとは限らない事である。財の支払いは、多分に財の性格によって違いが生じる。
家のような建物を側近で支払う人は、少ない。長期間かけて分割して支払うのが慣例である。それに対して生鮮食料を分割して支払う人は少ない。多くの場合は、現金で支払う。このように、支払方法は、財の性格によって違ってくる。
市場は、生産と消費の整合性をとる場でもある。市場は、需要と供給の関係によって生産を制御する。生産を制御する働きを持つのは価格である。価格は、需要と供給の関係によって定まる。
重要なのは、生産は、収益と費用の関係として現わされ、消費は、所得と支出の関係として現れる事である。また、所得は、生産過程において形成される点である。更に、消費は支出に還元され。支出は、収益に転化される。この関係によって生産と消費は、相互に結び付けられている。その結果、総生産と、総所得、総支出は一致する事になる。
収益の働きを貸借にとって代わられると生産と消費の関係は、失われる。それが問題なのである。だからこそ、収益と所得の関係は断ち切れないのである。働きに関係なく所得を分配したら、収益と所得の関係は損なわれる。
働きが所得に還元されるからこそ、市場の調整の働きは機能するのである。
市場を動かす力は、生産と消費の関係から生じる。
すべての国民は、消費をする。すなわち、消費者である。それに対しすべての国民が生産をするわけではない。故に、国民経済の根本は消費にある。それに、経済は、人が生きるための活動をいう。人は生きるために必要な資源を消費し続けなければならない。
市場は、最終的に財の分配を執行する場である。故に、市場は、財の性格に依って影響を受ける。市場は、一般に財を中心にして形成される。
市場は、一つではなく、一律一様ではない。市場を単一の仕組みとして語るのはも甚だ危険な行為である。財を核にして、産業も市場も形成されるのである。
規制を単純に緩和しろ、緩和しろという論者の多くは、市場を単一なものとしてとらえる傾向がある。単純に規制といっても規制が成立した環境や状況、歴史的背景や個々の市場の働き等を抜きに是非を論じる事はできない。
市場の中心となる財は、各々、財の性格も生産過程も違う。そして、財の性格や生産過程は、市場を形成する際の中核となる。
財の性格には、第一に、有形か、無形かがある。第二に、形状。大きさ。重量。液体か、固体か、気体かの別。剛体か、軟体か。第三に、味覚やデザイン等の影響度合い。第四に、生産工程。生産形態。原価。第五、稀少性、第六に用途。第七に、保存がきくか。財の劣化。腐敗。陳腐化の度合いなど。第八に、耐久性などがある。また、財のライフサイクル、コモディティ化によっても市場の条件は変化する。
市場の状態には、不足状態、飽和状態、過飽和な状態かによっても影響される。また、為替の動向にも左右される。技術革新やビジネスモデルの変化等の影響も大きい。それでなくとも、財には流行り廃りがある。
また、市場は地理的要件、交通市場によっても変化する。この様な市場を一律一様には語れないのである。
必然的に規制も産業毎に、状況の変化に応じて常に変更していく事が求められる。しかし、それは一意的に緩和を意味するのではない。
成長。発展段階から成熟期に移行しつつある日本の市場では、財の平準化、平均化、標準化がすすみ、コモディティ化している。この様な市場では、大量生産型から多品種少量生産、量から質穂への転換がされなければならないのに、生産者側からの効率化ばかりが追求され、結果的には適正な価格が維持できなくなっている。市場が成熟するに従い消費サイド比重を移していく必要がある。
それが量から質への転換を意味する。
市場は、放置するとエントロピーが増大するのである。成熟期に価格競争が陥れば、商品は、コモディティ化し市場は縮小する。そうなると雇用を維持する事が困難となるのである。
分配で必要なのは、収益と所得の整合性である。なぜならば、収益は、費用の原資であり。費用は、突き詰めると所得に還元されるからである。だからこそ、適正な利益の設定が求められるとともに、費用対効果を検証する必要があるのである。売上だけ追い求めても、利益のみ追求しても社会的な分配を実現できるとは限らないのである。収益と費用は相対的だからである。
市場経済は、損益が問題なのである。
市場経済を動かしているのは、市場取引である。
個々の取引は、価格に収斂され、価格は物価を形成する。
市場において追求するのは、適正価格である。適正価格とは、収益と費用が均衡し、一定の利益が保てる価格である。価格は、需要と均衡によとって作られ、生産と消費とを調節する役割がある。
適正価格と廉価とは、同じ意味ではない。
適正な収益、適正な費用を測定するのが利益の目的である。適正な価格は、適正な収益や適正な費用を形成する根拠、前提となる。
市場は単純に競争の原理が働いている場だと思い込んでいる学者もいる。先にも述べたが、競争は、市場の働きの一つに過ぎない。第一、競争を成り立たせるための前提条件が明にされていなければ、競争そのものが成り立たなくなる。
ルールは、規制である。規制をなくせば、ルールがなくなる。ルールなき争いは、競争できなく闘争である。競争と闘争では、働きの意味が違ってくる。
大体、競争とは何かを明らかにせずに…。競争は、闘争ではない。競争は、ルールによって成り立っている。ルール(規制)があるから競争は成り立つのである。市場は戦場ではない。市場機能が競争によるとするならば、市場で競争が出来るようにルール(規制)を整えるべきなのである。ルールがなければそれは闘争であって競争ではない。
市場至上主義、競争原理主義を称える学者が多いが、競争は、相対的手段であとて目的とはなりえないし、絶対化もできない。また、競争の在り方も環境や前提によって変化するものであり、一律一様には語れない。
競争というからには、誰と誰を、何を、どの様に、どの様な目的で競わせるのかを明らかにしておく必要がある。その為には、何が市場を成り立たせているのか、その構成要素を明らかにする必要がある。
競わせる要素は、いろいろある。第一に、価格。第二に、品質。第三に、デザイン。第四に、性能(味なども含む)。第五に、信頼性。第六に、メンテナンス等である。
商品が差別化しにくくなると価格競争に収斂する。価格競争に収斂してしまうと適正な費用が維持しにくくなる。競争の原理が働かなくなるからである。
競争の意味は、競争を通じで性能やデザイン、生産性を向上させる事で、平準化、標準化させることにあるわけではない。
一般に市場の草創期では、大量生産による市場の拡大が主として求められるが、市場が成熟するに従って多様性が求められるようになり、多品種少量生産へと移行する。大量生産、大量消費から多品種少量生産に移行する事で市場の収縮による所得の低下を防ぐのである。
市場が成熟しているのに、大量生産型産業から抜け出せないでいると価格のみで競争する事となり、市場が荒廃して産業衰退していく。そこで働いている人々の適正な所得が維持できなくなるからである。
市場の目的は、分配であって競争ではない。競争のみを追求すると分配という本来の役割が損なわれる危険性がある。市場が成熟してきたら、いかに価格以外のところで競わせるかが、重要となる。その典型は、出版業界であり、飲食業界である。
市場における分配は、予め「お金」を分配し、分配された「お金」を使って財を購入するという二段階で行われる。
「お金」の分配は、生産主体から消費主体への支出によって実現する。財の分配は、消費主体から生産主体に対する支出によって実現する。生産主体が分配する「お金」は、消費主体から生産主体に支払われる収益によって調達される。収益によって調達した「お金」が不足した場合は、金融機関などの他の経済主体から資金を借りるか、投資家から資金を調達するかの手段による。
経済は、基本的に生存闘争である。経済は、争いの種を宿している。だからこそ、市場に規律と秩序が求められるのである。
市場は、何の決まりがなければ、殺し合いになる。かつては、戦争も経済行為の一種だったのである。自分たちの生存が危うくなれば、他国を侵略した。それは今も変わらない。国際関係は、力によって抑止されている。
だからこそ、世界は、法を必要としている。ルールのないスポーツは、闘争でしかない。競争はルールに基づいて成り立つ。ルールは法である。法は規制である。お互い関係が円滑に築けないのは、規制が悪いのではない。規制の在り方が悪いのである。故に、規制は契約の基づくのである。平和を維持しようとしたらいかにして合意を形成していくかを考えるべきなのである。
法なき世界は、基本的に、闘争の場である。市場は、契約に基づく法によって成り立っている。それが民主主義である。無原則に規制を緩和する物は無法者である。
国民国家が成立する以前は、国家も国民も存在しない。自分の命も、家族も、財産も自分の力で守るしかなかった。人々は、生きる為に戦ったのである。故に、国民国家が成立する以前の経済は、闘争を意味する。敗者は全てを奪われ奴隷にされた。その時代は、奴隷制度も経済の一部だったのである。
市場経済が確立される以前の経済は、力によって支配されていた。どんな契約も権力者によって踏みにじられてきたのである。
近代国家は税の改革から始まった。国債を発行する動機の多くは、戦費の捻出である。そして、紙幣は国債を源とする。
かつては、生産の場(職場)と生活の場は一体だった。社会的分業が深化する過程で生産の場と生活の場が分離した。生産の場と生活の場、即ち、消費の場が分離する過程で市場が成立した。故に、市場は分配の場なのである。
市場の発達は、法と契約と「お金」によって促された。市場の発達によって経済は、平和になったのである。故に、市場は自由を尊ぶのである。
市場から規律と秩序が失われたら自由は成り立たなくなる。
市場は、スポーツでいえば、フィールドである。フィールドは、人工的に作られた空間、場である。フィールドを成立させているのは、フィールドの内部でしか通用しないルールである。市場にはも市場固有のルールがあり、ルールによって市場は成立している。ルールとは規制である。
自由市場は、規制によって守られている。
市場の構成要素は、売り手と買い手、財と「お金」である。
市場の働きは、第一に、消費者が必要とする財を購入する場、財と「お金」交換する場、取引の場を提供する。第二に、需要と供給を調節する場である。第三に、財の貨幣価値である価格を確定する場である。第四に、財を集配する場である。
市場は、複数の主体が存在する事によって成り立つ。なぜならば、市場は、相互牽制の働きによって成り立つからである。相互牽制は、複数の主体が競争、競合する事で働く。相互牽制を働かせる理由は、需給を調節する事、生産効率を高める事、不正を抑制する事、技術革新を促す事等があげられる。一番の課題は、消費者に選択肢を持たせる事で、生産と消費の整合性を持たせることにある。同時に生産財に多様性を持たせる。
「お金」がなければ始まらないのが、市場経済の特徴である。「お金」の移動、即ち、「お金」の流れを作るのは、経済主体に対する入金と出金である。市場経済を支えているのは、現金収入と支出なのである。
現金収入は、支払いを準備し、支払は、分配を実現する。
経済主体は、先ず、市場から「お金」を調達する。つまり、市場取引を通じて経済主体は、「お金」を調達し、支払いの準備をする。
市場経済を動かすのは、「お金」の移動、流れである。「お金」が流れる過程で必要とされる財を生産し、流通させ、分配を実現する。「お金」が流れなくなったら市場経済は動かなくなり、機能不全に陥る。故に、市場経済に生起する問題は、主として「お金」の問題なのである。
市場経済は、市場取引を通じて国民生活に必要な資源は、配分する仕組みである。
「お金」の移動手段には、売買と貸借、譲渡がある。譲渡は、基本的に売買か貸借のいずれかに振り分けられる。故に、市場取引は、売買か貸借のいずれかに要約される。
生きていくために必要な資源を市場から調達しようとする行為と資金を獲得しようとする行為が資金の過不足の状態を引き起こし、資金の流れを産む。この資金の流れが経済を動かす原動力となるのである。
消費を目的として財は生産される。これらの事を鑑みても経済の根本は消費にある。
市場経済では人は生きていくために必要な資源を対価を支払って継続的に調達し続けなければならない。
人は、生きていくためには継続的に消費し続けなければならない。消費を継続するためには支出し続けなければならない。お金は使えばなくなる。つまり、経済主体、常にお金が不足するように仕組まれている。人はお金を調達し続けなければ生きていけないような仕組みなのである。
収益や所得は、生産主体や個人が生み出した経済的効用への対価として支払われる。
生きていくために、必要な資源を「お金」を出して、市場から調達しなければならない市場経済では、「お金」がなければ生きていけない。
すべての国民が自力で生活に必要な資金を稼いでいるわけではない。原則としてわが国では生まれてから義務教育期間が終了するまでは、扶養家族として保護者の庇護下に置かれる。
全ての人が自力で資金を調達できるわけではないとしたら、資金を調達できる人間を中心にして集団を組む必要がある。それが、消費における経済主体を構成する。消費における経済主体は、消費の側の経済単位となる。
基本的には、消費の中心となる単位は、家計である。
市場取引は、買い手側だけで成り立っているわけではなく。対極に売り手がなければ成り立たない。売り手は、市場取引によって収益を得てその中から、費用、即ち、所得を分配する。売り手は、中間消費を構成する。
中間消費の単位として法人企業、金融機関、一般政府などがある。
法人企業は、生産した生産財への対価が収益である。それに対して一般政府は、公的効用への対価として税を徴収する。公的効用には、社会資本の建設、国防、防災、治安、教育、行政サービス等がある。収益は、収入の根拠である。
収益は、産出であり、売上を意味する。生産を意味するわけではない。売上は、販売量と単価の積である。売れ残って製品は、廃棄されるか在庫となる。
中間投入、総生産、総所得、総支出は、原価、生産、分配、支出を表している。中間投入、総生産、総所得、総支出は、「お金」が循環する事で結びつけられ、機能的には、「お金」が流れる断面を表している。故に、三面等価が成り立っている。そして、中間投入、総生産、総所得、総支出の働きが市場全体を制御している。投入、生産、所得、支出と順次転換していく事で、経済の仕組みは構造的に一体となるのである。投入は、投入、生産は生産、所得は、所得、支出は支出と切り離すと経済の仕組みを一体的に制御する事が出来なくなる。
三面等価は、結果ではなく、構造的要因であり、基盤なのである。
債務(負債、借金)は、成長の原動力となるが、同時に、成熟期には、衰退の原因となる。
バブル崩壊後、長期の停滞の原因として、収益に対して債務の相対的増加が考えられる。債務の増大の背景には、、消費(支出)の減退、市場の収縮が考えられる。市場を安定的に制御する為には、フローとストックの釣り合いをとる事が重要なのである。
消費の減退の原因は、人口の減少、人口構成の変化、及び、消費構造の変化がある。
更に、分配の仕組み、分配構造の変質。分配の構造とは、評価制度や取引の仕組みである。決定的なのは、少子高齢化により、富士型から、ひょうたん型に変化した事である。
市場は一つではない。無数の市場が部分をとなって一つの全体を構成する。市場の数は、物と「お金」の流れに沿って形成される。市場は、財の数だけ、段階毎に成立していると言える。また、部分を構成する市場は、各々独自の構造と手段がある。商品の特性(工業製品か、生鮮食料品か、有形か、無形か、歴史的背景等)によって市場の構造や働きが違ってくる。
市場は、生物の肉体の様に無数の細胞のような独立した市場が集まって全体を構成している。市場は一つではない。無数の市場の集合体である。そして、市場は、生物のような組織や構造がある。市場には、時間的・空間的な構造がある。そして、個々の市場は相互に連関しながら変化していく。
一般に市場は、歴史的な産物であり、個々の国や地域によっい独立性が生じる。また、基礎となる産業の性格や構造に拠っても差が生じる。例えば、鉄道や電力、ガスなどの巨額な投資を必要とするインフラストラクチャー産業と家電や自動車のような耐久消費財の市場、小資本の飲食業などの市場は必然的に構造も性格も違ってくる。
市場は一定ではない。絶えず変化している。しかも、部分を構成する市場は同質でもなく、発展段階にも差がある。構造にも違いがある。しかも、複数の市場が相互に関連しあっている。競合関係にある市場もあれば、連携している市場もある。
市場は千差万別なのである。原材料市場と小売市場とは構造が違う。エネルギー市場と家電市場では料金の体系が違う。新車市場と中古市場は、市場の仕組みが違う。不動産市場と食料品市場とでは取引の在り様も違う。同じ石油業界でも原油市場、精製市場、卸、小売市場では形態が違う。これに物量や備蓄、金融市場が絡む。物流や備蓄、金融市場は全く性格を異とするのである。この様な市場を一律には扱えないし、市場を改革するためには、市場の働きや役割、状況、環境、地政、国家戦略、発展段階、歴史性などを調べておく必要がある。
為替の変動や原油価格の高騰、金利等の影響も一概に決めつけられない。
生物が成長するように市場も成長がある。そして、成長に従って構造を変えていく。
市場は、生成段階では、小規模な生産主体が競い合いながら、各々が地保を固めていき成長段階の初期では、過当競争によって淘汰が進む。成長段階になると合従連衡、再編を繰り返し、一定の規模が競い合い、安定状態、小康状態となる。市場が飽和するにしたがって合併を繰り返して寡占、独占状態に陥る。寡占、独占状態になると相互牽制が効かなくなり、活力を失っていく。この様な市場の変化を前提としていかに市場の状態を安定させるか、良い状態を保つかが経済政策の目標となる。
過当競争の時は、数の多さが問題となり、寡占独占では、数の少なさが問題となる。
世の中は、環境や状況、成長段階に応じて仕組みを変えていく。また、仕組みが変えられなければ環境や状況、成長段階に適合できなくなって破滅してしまう。
市場も然りであり、環境、状況、成長段階に合わせ仕組みを変えていく事が出来なければ時代の変化に追いついていく事が出来なくなる。
例えば、戦国乱世を徳川家康が制し、江戸時代になると大名は、互いに武力で領土を奪い合う事は出来なくなった。必然的に経済の在り様も変化をする。
市場も同じである。成長発展気期には、互い攻め合い、争う事で市場は発展拡大するが、市場が下方は状態になり、縮小して来たら拡大期と同じように争っていたら、経済の発展は期待できなくなる。草創期の市場と成熟期の市場は、基本的な環境や状況が違うのである。同じ様な条件、前提、仕組みを頑なに維持しようとすれば、市場そのものが破綻してしまう。市場の法や仕組みは絶対と言うのはなく。環境、状況によって変化する相対的なものなのである。
国や社会は、経済主体の集合体である。経済主体は、個人の集合体、集団であり、組織である。経済主体は、生活共同体である。この様な経済主体には、内と外がある。経済主体の内側には内的経済が派生し進化した。経済主体の外側には外的経済があり、発展した。
市場は、内的世界と外的世界の境界線上に形成される。
経済の基本は、経済主体であり、それは、共同体を意味する。生活共同体、つまり、群である。生活を共同する集団があって経済は成り立っていた。そして、生活共同体には、内と外がある。
初期の経済主体は、自給自足体制である。故に、信頼関係だけで成り立っていた。
物々交換と言うのは、共同体の外部との関係で生じる。元々共同体内部には、物々交換なんてなかった。共同体内部に存在したのは、物々交換ではなく。分配である。
即ち、経済の根本は物々交換ではなく。分配である。どの様な基準で獲物を誰がわけるか。それが純粋に経済の問題なのである。
内的経済は、非貨幣的で、道徳的、組織的な集団でした。
その延長線上にあるのが家族である。家族の内部は、非貨幣的空間で道徳的空間、主体的、規範的空間、組織的空間、権威主義的空間である。それに対して外部経済と言うのは、貨幣的空間、不道徳な空間、客観的、自由な空間である。
内的な空間が信義で保たれるのに対して外的空間は法によって保たれる。だから、外部経済は、契約や法を必要としている。市場は化外な空間、つまり、共同体の境界の外にある空間なのである。
現代の社会は、市場によって内的空間が侵略されている。自由と言うのは、基本的に不道徳である。不道徳な空間だから、自分の価値観が重要となる。自由なのである。市場が内的経済を侵食しているから価値観が貨幣化される。そして、家族は解体される。
高齢者に対する経済は、設備や介護制度の問題になり、家族や道徳の問題は捨てられている。それを経済だとするのは重大な間違いです。化外の経済の問題なのであり。異次元なのである。経済空間は、「お金」だけで成り立っているわけではない。
市場は、経済主体の境界線上に成立する。生産、分配、消費の過程の節目、節目に市場は形成される。市場は、働きや役割によって姿、形態を変える。「お金」の調達段階において金融市場が派生し、原材料の調達段階で原材料市場が形成され、販売段階では、物量、卸、小売りなどの市場が生まれる。しかも、各々市場の構造や状況は一定していない。発散的構造である産業もあれば収束的構造の産業もある。この様な過程があって「お金」や財は分配される。分配されるのは、財だけでなく「お金」も分配されるのである。価格には、市場の断層がある。その断層が経済のアルゴリズムを示している。
内的空間は、非貨幣的空間である。非貨幣的空間と言うのは、内的空間では、個人個人の関係は、「お金」で成り立っていないという意味で非貨幣的空間なのである。確かに、雇用者は、「お金」で雇われている。しかし、それは、生産主体外の関係においてである。生産主体内では組織的規範で行動する。「お金」は、組織的評価に基づきあるいは、契約に基づいて支払われる。生産主体内の行動は、内的規範に従うのであり、市場取引のような外部経済の法則に従う訳ではない。組織的評価は、外部経済の様に売買や貸借とは本質が違うのである。厳密にいえば内部経済にも外部取引が混在する例もある。ただ、それは一部であり、原則的に内部経済は内的規範による空間であり、市場取引に依る空間ではない。
また、内部取引に依る「お金」の変換は、あくまでも帳簿上、記録上の取引で実際に金銭の遣り取りがあるわけではない。
道徳と言うのは、集団が共有する内的規範である。道徳は、共同体内部で共有される行動規範である。
内的経済が強い時代は、外で「お金」を無駄に使う事は不経済だとされた。
昔は、内的経済と外的経済の境界が明確に線引きされていた。内的経済は、「お金」の世界ではない。料理、掃除、洗濯、介護、育児を内の者に頼むときは、「お金」を出したりはしない。しかし、離婚する時は、外へ出ていくから「お金」を払う。
家でお酒を飲む時に一々「お金」を払う馬鹿はいない。しかし、外で「お酒」を飲めば「お金」を取られる。時には、法外な料金を請求されたりもする。それなのに、なぜ、外で「お酒」を飲むのかと言えば、外は不道徳で自由だからである。外で酒を飲むとき、説教を垂れるほど野暮はない。
家族の問題を金で片づけようなんてしたら不道徳だとされた。「お金」は、市場でしか通用しない。会社も雇用と言う事では家族から見れば外的空間の属するが、経済主体の内と言う意味では内的経済を構成する。であるから、会社の中では「お金」の関係で成り立たっているわけではない。社内は、組織の論理に支配されている。
人と人との関係でしか動かない。礼節が重んじられる。
指導者は、指導者としての徳や人間性が求められる。それは取引ではなく評価分配の問題である。人としての徳である。
それが内の社会の原則である。その境界線が段々曖昧になり、外的経済に支配され、道徳まで金銭関係に取って代わられつつある。
親子、兄弟の関係も「金・金」つまりは市場、化外になりつつある。内なる世界が失われているのである。
家事も外注化され、家内が家内でなくなる。内的経済は、信頼関係で成り立っている。そこでは、序列が重んじられ、主は主である。市場は対等である。「お金」に支配されている。家内が、市場の論理に支配されれば親子兄弟の関係は力を失う。
家事のような家内労働は全て外注化され、家族の絆も「お金」の関係に取って代わられ。
市場の論理で家内が支配されれば、内(家)が内なくなり、人々は、外へ放り出されてしまう。
外的世界は、原始的段階では、無法な状態であり、暴力の支配されていた。つまり、外的場は、無法地帯、戦場である。それでは、自由な交易が保障されないので契約と法が生まれた。法は道徳の対極にある規範である。法は、罰則規程によって守られる。
市場は、戦場の延長線上で成立した。市場は、法と契約によって取引の場に代り、平和が保たれるようになったのである。しかし、いずれにしても市場は法や規制に拠らなければ秩序が保てない場である。言い換えれば、市場は、法と規制によって支配されている。
統制的、計画経済では、消費者の実際の需要を吸い上げる事が難しい。市場を介する事によって需要と供給の関係を顕在化させ、需給を調節させるのである。それが市場の一番の働きである。
また、相互牽制、価格競争によって適正な費用水準を維持する。競争相手がいないと費用は、一方的に膨張する性格がある。
そして、生産主体が経済的に自立する事で、経済的民主主義を確立する事にある。民主主義の大原則は、個人が政治的にも経済的にも自立独立している事である。その為に、私的所有権を前提ともしている。これが自由主義国と全体主義国、独裁主義国との決定的違いでもある。
故に、経済的な意味だけでなく、政治的な意味においても独占や寡占を民主主義国は嫌うのである。
一見、統制的な経済の方が経済的合理性を持っているように思えるが、国民生活を基礎として考えるのならば、個としての人権が確立されている法が長い目で見て経済的合理性があると考えるのである。
経済的民主主義と言うのは、全体の利益よりも一人ひとりの生活を基礎として成り立っている。その意味では、自由主義国の発展は結果でしかない。その証拠に民主主義の発祥地の一つであるアメリカは、経済全体から見ると不利益に見える独占を嫌って企業分割等を行う事さえある。しかし、それが市場を結果として活性化する場合が多いのである。
競争も民主主義を守る為に必要とされる。競争本来の意味は、互いに競わせる事で利益を独占したり、価格を吊り上げる事を抑止する事にある。市場の独占を許せば、独占企業が価格を一方的に決める事が可能となる。つまり生産者の横暴を抑制する事が目的なのである。
ただ、横暴なのは、生産者だけではない。消費者にも横暴なところがある。だからこそ、市場には、規制が必要なのである。競争は、民主主義を守る手段の一つなのである。
競争は、経済的動機だけでなく、政治的動機でもあり、国家理念に係る事でもある。
それに比べて今の日本の政策は、無原則である。無原則だからこそ他国に振り回されるのである。ただ規制を緩和し、競争させろというのでは、競争本来の目的も果たせなくなる。
市場をどの様に規制するのかもアルゴリズムである。それは、何を競わせるか、価格なのか、性能なのか、品質なのか、デザインなのかによるからである。価格だけを競わせるのではなく。特に、市場が成熟してくると量から質への転換が求められるからなおさら何を競わせるかが、最大の課題となる。
価格は、高いか安いかで評価されるべき事ではない。適正かどうかが評価の基準である。そして、適正か否かを測る基準が利益である。ただ、利益は、一定の方程式によって導き出される。しかも、絶対的方程式は存在せず、その時々の政治や景気、状況、思想等によって左右される。価格は作られたものであり、作られたものなのである。
安ければいいというのではない。
価格は、相対的な値であるから、放置すると上げ圧力が抑止できなくなるから、競争によって相互牽制を働かせるのである。価格を一意的に決めると、結局、財は均一均質になる。費用は、抑制を失って上限を求めて増殖する。
予算は、あくまでも予測に基づく数値なのに、予算を決めると予算が確定値であるがごとく作用する。同じ様に市場を独占する者は、費用の上限を価格とする傾向がある。だから、市場で競争をさせる事が、不可欠なのである。
しかし、競争を促進する事と規制を緩和する事は同じではない。無原則に規制を緩和すると、むしろ、適性な競争が阻害される例が多い。
市場は競争で成り立っている。市場経済の本質は選択肢である。いろいろな選択肢が保障されているから市場は活力を持つのである。
選択肢が狭まったり、なくなると途端に市場経済は活力を失う。いくら「お金」があっても決められた商品しか選べないのなら、意味がない。だから、独占を市場経済は、嫌うのである。
価格の決定権は、消費者だけにあるわけではない。価格の決定権は、生産者の側にもある。生産者から価格の決定権が奪われれば、生産者は、採算の目処が立たなくなり、生産計画が立てられなくなる。なぜならば、価格を決める一番の要件は費用だからである。
価格は、消費者と生産者が市場で決める。価格を決めるのは、需要と供給の関係である。
競争ばかりが市場を健全に保つわけではない。過当競争に陥れば値崩れを起こして利益を確保できなくなる。利益を維持する為には、市場を規制する必要がある。市場を規制できなければ、市場は独占寡占に向かう。それが市場経済である。
安ければいいという訳ではない。値段が何を意味するのかをよくよく考えなければならない。
少しでも高いと文句を言う人があるが高いなら高いなりの理由がある。
価格の働きは、財の貨幣価値の確定である。
価格は、基本的に市場取引によって決まる。
価格は、需給だけで決まるわけではない。
価格は、費用対効果が基礎となる。
価格は、売上の素である。
売上は、価格と販売数量の積である。
価格が高ければ販売数量が落ち、価格が安ければ販売数量が上がる。販売量か利益率かが、売り手側の課題だったのである。
定価販売が禁じられ、市場価格にのみ依存するようになると価格は、需要と供給によって決まるようになる。
そうなると販売シェアが一番の問題となり、価格競争に陥る。
大量生産時代になると設備などに巨額の金額が投じられる。投じられた資金を回収する為には、量販しなければならなくなる。時には、原価を割った値段で叩き売られる。損益分岐点を基準にして考えるからである。一定の量を捌けば固定費が抑制される。
そうなると資本の論理がまかり通る。結局、過剰設備、過剰生産になる。余った財が価格の下げ圧力になる。中小業者が生き残るすべはない。
それでも、現代のマスメディアは、安ければいい。安売りが出ればさらに安く売れるはずだと叩くようになる。それが善悪の基準にまでなる。少しでも高く売ろうとすると悪者扱いにされる。その皺寄せは、下請け業者や労働者に向かう。マスメディアの正義感が下請けや労働者を虐げる。
必要な物を必要なだけ生産するという思想はなくなり、作れるだけ作って余ったら捨てる。使い捨てが美徳とされるようになる。
生産局面でのみ無駄を省こうとするが、消費でも無駄なものは無駄なのである。必要でもない者を大量に作り続けるても、消費できなければ、いくら生産効率がいいと言っても、大局的に見て無駄なのである。
売るために作る。売れるから作るのではなく。必要だから作る。使うから作るべきなのである。
独占禁止法の精神は、独占寡占のみではなく、不当廉売にもある事が忘れられている。
価格は、廉価に求めるべきではなく適正を求めるべきなのである。
価格競争に嵌れば所得は、単なる費用、人件費に還元され、属人的な部分は、削ぎ落とされる。ひたすら削減の対象となり、最低限水準まで引き落とされるのである。人からも市場からも人の要素が失われてしまう。
価格には。情報の非対称性がある。価格は、価格なのであって、数値に過ぎない。費用の背後にある働きを理解しないで低価格を要求すれば費用から人としての要素は奪われる。数字だけで判断される。数字には個性はない。値だけである。人としての要素が考慮されなくなれば、時間と物だけで測られる事となる。
価格は、低ければいいという訳ではない。適正な価格を維持する事が大切なのである。価格にも分配の機能がある事を忘れてはならない。
価格だけで競争すれば、品質は均質になり、デザインも製造工程が重視される事で画一的になり、性能も平準化され、没個性的になる。
かつての中国の人民服が好例である。ただ生産効率だけが追求された結果が画一化された腹なのである。選択肢がなくなるのである。そうすれば価格も単一になる。
価格こそ多様性を求めるべきなのである。値決めの権利は、生産者にも消費者にもある。
選択肢が保障される事が民主主義の原点でもある。だから市場経済は独占を嫌うのである。守らなければならないのは、市場の規律であり、秩序である。
一番の問題は、生産部門が価格の決定権を失った事である。かつては、生産者が定価を決めていた。
定価は、製造原価と予測販売量によって決められていた。
価格は、消費者や生産者が一方的に決めるのではなく。消費者の購買力と生産者の利益とをどこの点で折り合いをつけるかの問題である。
問題は、何をどの様な目的で競わせるかである。
価格だけで競わせると人件費は、単なる費用でしかなくなり、限りなく限界まで削減されてしまう。
価格は、総合的な経済評価である。
価格は、物と力の関係によって左右される。インフレーションの時は、「お金」より物に重点が置かれ。デフレーションの時は、物より「お金」の方に重点が置かれる。そして、この力関係がインフレーションやデフレーションを昂進させる。故に、インフレーションの時は、買い溜めや売り惜しみを規制するのである。
家計への分配は、可処分所得を起点とし支出を終点として成り立つ。
家計は、何らかの形で所得を得る。所得の中で必要な財を購入し、余った部分を貯蓄する。「お金」がある程度纏まると金融機関に「お金」を預ける事になる。預金は、金融に対する家計からの貸付金であり、金融側から見ると家計からの借入金である。
金融機関は、生産主体に資金を貸し付け、預金金利と貸付金利の金利差によって収益を上げている。
所得の根源は、雇用者報酬であり、支出は、民間最終消費となる。
山一証券の自主廃業や北海道拓殖銀行の破綻等があった1997年を境に雇用者報酬を民間最終消費支出が上回るようになった。また、雇用者報酬は、金融危機以降下降に転じている。
国民経済計算書
所得の枠組みは、税制によってつくられる。税制は、政府が所得をどの様に認識しているか拠って決まるからである。
今日の市場経済の考え方は、所得を給与所得に集約する事である。
給与所得に集約する事で、所得を安定化させ、収益の振幅からくる景気の波を平準化しようとしている事が窺える。
所得が安定すると借金もしやすくなる。なぜならば、借金は、所有資産の含み益と将来の収入を担保するからである。
月々の所得が一定化できれば、将来の収益を担保する事も月々の返済を計画化する事も可能になるからである。
定職定収化は、信用制度の基盤なのである。この点を抜きに雇用問題は語れない。
労働条件抜きの消費者第一主義は成り立たない。なぜならば、消費者は同時に労働者でもあるからである。
所得の問題は、雇用の問題抜きには進まない。雇用形態が景気に重大な影響を与えるからである。
国民経済計算書(2005年基準・1993SNA)
政府最終支出の原資は、生産・輸入に課せられる税だけではなく、所得・富に課せられる税、資本移転に伴う税などが含まれる。故に、間接税の増税は、営業余剰、混合所得、金利、固定資産減耗、貯蓄等を圧迫する。また、実質的な可処分所得の低下を招く。
総所得が拡大している状態で、また、直接税との均衡の上で間接税への転換は、問題にならないが、総所得が伸び悩んでいる場合は、部門間の資金移動が生じる。肝心なのは、前提である。
経済を衰退させるのは、資源の配分を間違う事である。特に、働き盛りで、「お金」を必要としている世代へ、ある程度結果を出し、余剰な「お金」を持っている世代からいかに「お金」を循環させるかである。
経済を動かしているのは、資金不足主体に余剰主体からいかに融通するかなのである。
国民経済計算書における、分配の流れは、第一次所得の分配勘定、第二次所得の分配勘定、現物所得の再分配勘定、そして、所得の使用勘定迄を指して言う。配分、移転、最終消費、貯蓄までの一連の流れを指す。
分配は、生産過程で所得を組織的によって分配し、次の段階で所得から必要な「お金」を引き出して財を購入する一連の過程である。
分配は、産出を基にして成立する。
第一次所得の配分は、第一次所得がどのような過程を経て制度部門に配分されたかを示している。
第一次所得は、生産局面において生産手段を活用した結果として発生する所得を指して言う。生産手段とは、生産に必要な手段(労働力等)、生産に必要な資産(設備等)である。
具体的には、雇用者報酬、営業余剰・混合所得、生産・輸入品に課せられる税(控除)補助金、それらに財産所得の受け払いを加えた値である。
財産所得の受け払いを除いた他の要素を各部門に配分しそれを集計したものが国民所得になる。
固定資産減耗を含まないのが純国民所得であり、含む者が総国民所得である。
雇用者報酬は、家計に、営業余剰は、法人企業と家計に、、混合所得は、家計に、、生産・輸入品に課せられる税(控除)補助金は、一般政府に配分される。
雇用者報酬は、専ら家計が受け取り、家計は、消費支出の資金源とする。
雇用者報酬は、専ら家計以外の他の部門が支払い、家計が受け取る。
第二次所得は、現物社会移転を除く所得の再配分の部分を言う。
所得の第二次配分における資金移転は、所得・富等に課せられる経常税と社会負担・給付およびその他の経常移転によって成立している。
所得の第二次分配勘定は、第一次所得バランスから可処分所得につながる過程である。
国民経済計算書では、分配と言うのは、生産の成果の分配から消費に至る過程を言う。
そして、その過程で付加価値を形成され、それが可処分所得を経て最終消費支出となるのである。
分配は、所得から最終消費に至るまでの過程と言える。最終消費は、貯蓄(ストック)を派生させる。その過程が分配のアルゴリズムの下敷きとなる。
分配の主体は、生産主体と消費主体でその間に組織と市場が介在する。そして、組織と市場は、分配の基準も分配の仕組みも違うのである。
市場経済と言う全てが市場によって行われているかの錯覚がある。しかし、分配の本質は、前段の組織的分配にある。
組織的分配を誰が、どの様な基準の依って行うか、それは経済体制の本質的な問題なのである。お金が事前に配分されている事を前提として市場は成り立っている事を忘れてはならない。
分配の流れは、可処分所得から支出へと流れる。
所得から支出への過程で部門別に分けられる。所得は、営業余剰・混合所得、雇用者報酬、生産、輸入に課せられる税、海外からの所得であり
、支出は、政府最終消費支出、民間最終消費支出、貯蓄に仕分けられる。営業余剰・混合所得は、中間消費され最終消費支出に反映されない。
貯蓄は、残高としてストックに反映され、部門間の資金の過不足を現している。
分配の前提となる要件は何か。
何を、どこに、どの様な基準・根拠で、どれくらいをどの様な仕組みで分配するかが問題なのである。
それが初期設定を決める。
それが前提である。
政府が国民全員を雇用すればいいという考えも成り立つが、その場合、経済主体の自律性は、損なわれる。経済主体の自律性が損なわれれば経済主体が果たしている経済的効用を測る事も難しくなる。結局、人々が必要とするむ財を必要なだけ生産し、配分するという機能が働かなくなり、生産は生産、消費は消費として分離してしまう事態を招く。
自由主義体制を前提とした場合、分配のアリゴリズムは、所得を得たところから始まる。
「お金」を得るという事は、何らかの仕事についているか、アパートとかの生産手段、特許権や著作権、株のような証券などの権利を持っている事が前提である。つまり、自分の力で所得、「お金」を獲得できる事が前提なのである。
今日の市場経済は、単位期間を設定する事で成立する。単位期間を設定する事によって経済単位の始点と終点が定まる。
収益による「お金」を資金源とする事で生産主体と消費主体の間に「お金」の循環ができる。これが単位期間内における損益を形成する。
収入と支出は、表裏の関係にある。外部取引では、売り手と買い手は、対称関係にあり、取引量の総和はゼロに設定されている。売買、貸借の均衡である。
生産主体は、非金融法人企業、一般政府、海外部門からなる。消費主体は、家計、一般政府、海外部門からなる。
金融機関は、生産主体にも消費主体にも属さないで中立的な立場をとる。金融機関が経済的に成り立つために必要な「お金」、金融機関の収益は、金融取引を仲介する為に必要なサービスから生じる。金融取引を仲介するサービスの対価は、金利差によって成立する。
対家計非営利団体は、一般政府に準ずる扱いとなる。
支出には、投資的支出と消費的支出がある。投資的支出と消費的支出の別は、投資対象の差から生じる。
投資の対象は、生産手段の設定を意味し、「お金」の効用が単位期間を超える物を言う。資金調達は、貸借取引か、資本取引に基づく基本的に資本移転として扱われる。投資は、債権と債務を生む。
投資に対する支出は、債権と債務を生む。債権と債務は、長期的資金の流れを作る。投資は、貸借取引と資本取引によって成立し、基本的に「資金」移転と見なされる。資金移転は、支払いを準備する事で「お金」の効用が生産されずに、市場にとどまっている事を意味する。つまり、長期的資金は、「お金」の効用を市場の留まらせて、支払いを準備する。
投資は、生産に対する事ばかりでなく、分配に対する投資や消費に対する投資がある。分配にも投資活動と経常的な活動がある。分配のため投資とは、分配を受ける為の投資である。典型的なのは、株式投資である。また、金融投資も分配の為の投資の一種である。配当や利息と言う分配を得る為の投資である。この様な投資は、必ずしも生産的な投資とは限らない。
住宅投資には、分配の為の投資と消費の為の投資がある。
いずれにしても分配に対する投資もある。
市場経済では、単位期間内における分配のアルゴリズムは、「お金」の分配、財の配分と二段階で行われる。
分配の為の支出は、生産主体にとっては、費用として生じる。経済の均衡は、収益と費用の関係によって測られる。利益は、その為の指標である。利益は収益と費用の差額勘定であり、収益は、名目勘定、費用が実質勘定であるから、経済の実質は、費用にある。故に、利益は目的にはならない。問題は、費用の働きと内訳である。
国民経済計算書では、経済的効用は、付加価値として表される。
付加価値は、生産主体から支払われた部門によって働きに違いが生じる。
国民経済計算書では、所得の配分は、二段階で把握される。第一次所得の配分は、家計に対しては、雇用者報酬、混合所得の一部、財産所得として、一般政府に対しては、生産・輸入品に課せられる税として、非金融法人企業に対しては、営業余剰、混合所得の一部として現れる。
第二次配分で、経済移転と可処分所得に仕訳され、経常移転として、所得・富に課せられる経常税、純社会負担、現物社会移転以外の社会給付、その他の経常移転とされる。
分配の出口を可処分所得に収斂する。故に、付加価値と可処分所得の関係が基礎となる。
法人企業統計
市場経済の分配のアルゴリズムは、先ず「お金」を手に入れる事から始まる。どこから、どれだけ、どの様な手段で手に入れるかが全ての始まりの課題である。「お金」の出所が始点なのである。
「お金」の出し手からすると支出が起点となる。「お金」の出し手である生産主体からすると支出が「お金」の分配は始点となる。
「お金」の受け手からすると、市場経済で「お金」を得る手段は、労働力を提供するか、自分の所有物を売るか、借りるかである。奪う事も盗む事も許されない。
そして、売り買い、貸し借りが成立する為には私的所有権が正式に認められてなければならない。私的所有権が認められている事が市場経済では前提になる。私的所有権が価値の源泉となる。私的所有権が認められていなければ、私有物が存在しないからである。私有権は、経済的価値の境界線を画定する。私有物には、自分の労働力や権利、物、土地、時間などである。
分配のアルゴリズムで問題とされるのは、所得の配分にどの様な手段を用いるか。生活していくうえで、必要な所得はどれくらいか。経常的所得(経常的収入)をどの様にして維持するか。所得の偏りをどの様にして是正するか等である。
所得は、人件費と言う費用であり、生活費であり、報酬でもある。
費用として所得は、収益の中から支払われる。これが原則である。つまり、資金の出口は、費用としての働きである。だからこそ、費用対効果を基本に据えるのである。
所得は、生活費の原資でもある。故に、生活と所得は対称的関係を構築する。消費は産業の鏡でもある。消費構造が産業構造を確定する。つまり、所得は消費支出に結び付く必要がある。
消費は多様である。故に、生産も多様になる。消費が多様であるだけ、市場も産業も多様になる。
分配のアルゴリズムで問題となるのは、「お金」と財が配分される経路と手段である。「お金」と財が配分される経路と手段によって経済の仕組みの基礎は構築される。
分配の働きは、部門によって違いがある。
国民経済計算書においては、最終消費支出部門は、家計と一般政府である。非金融法人企業、金融法人は、基本的に最終消費支出はしない事になっている。非金融法人と金融法人の消費は、中間消費と見なされる。
財政(一般政府)の分配の働きは、主として税や給付による所得の再配分である。
また、金融機関の分配の働きは、資金の過不足を補い、資金を融通する事である。
最終的に分配は、消費によって完結する。消費されない部分は、貯蓄として投資に回される。
市場を形成するのは、消費者である。消費があって生産が制御される。現代社会は、生産と消費の関係が転倒している。即ち、生産があって消費があるように錯覚されている。故に、生産性だけが異常に追及される。
その結果、消費の効率化である節約や無駄と言う概念が廃れてしまっている。
貯蓄は、部門間の資金の過不足となってストックに計上される。部門間の資金の過不足は、部門間に流れる「お金」の方向を表している。
分配のいきつくところは、生産と所得、支出の均衡である。故に、GDP、即ち、総生産も、総所得、総支出が重視されるのである。
経済が停滞する原因は、仕事がないか、所得が上がらないか、労働人口が減少する事である。
仕事がなければ仕事を作ればいい。それが失業対策である。しかし、景気対策、失業対策として公共事業をしてもそれが恒久的なものでなければ一時的な効果しか望めないし、また、生産性のない事、拡大再生産が望めない事に使われれば、財政を悪化させてしまう。結局税で補てんする事になり、負担ばかりが重くなる。
所得が上がらない理由は、収益が向上しないからである。表面的な現象ばかり目を獲られて犯人探しをしても抜本的な解決にはならない。
人口は基数である。短期間で解決する手段はない。
市場経済では、いかにして需要と供給を均衡させるかが重要となる。しかし、それは、単純に市場取引だけの問題と捉えるべきではなく。生産主体と消費主体、所得と労働との均衡をといった構造的な視点が不可欠なのである。
利益ばかりを追っていても経済の実体は見えてこない。利益の背後にある収益と費用の関係が重要となるのである。
前提を間違っているのである。成長や競争、利益を前提としている限り、経済の実体は見えてこない。経済、本来の目的は、人々の暮らしを豊かにする事である。だとしたら、戦争は愚かである。しかし、争いや災いに備えないのは、尚、愚かである。
成長は、状態であり、競争は、手段であり、利益は指標である。
成長と言う状態は、不変的ではなく。むしろ現在は、経済は、成熟し、市場は飽和状態になり、拡大から縮小へと向かっている。今求められるのは、量から質への転換である。質への転換こそ人々の生活を豊かにする事につながるからである。抑制のきかない欲望は、人々を物心両面で貧しくする。
競争は、手段であって原理ではないし、競争が機能する為には、ルールの在り方が鍵を握ている。規制を否定したら競争は成り立たなくなり、闘争になってしまう。現在の市場は、競争の場ではなく。闘争の場になってしまっている。闘争は、弱肉強食の世界である。規制緩和とともに独占禁止法の精神は失われた。市場は荒廃し、規律を失っている。争いは、人々を貧しくする。争うのではなく、切磋琢磨するのである。そうすれば伴に向上する事が出来る。人を蹴落とすために争うのは、本末転倒、共に、向上する為に競うのである。
利益は指標に過ぎない。実体は収益と費用にある。特に費用の在り方が問題となる。
分配の仕組みは、必要な物を、必要とする人に、必要とするだけ、必要な時に供給する事が目的で構築される。
その為に必要な「お金」を働きに応じてあらかじめ配分しておく必要がある。それが分配のアルゴリズムである。この分配を成り立たせるための基本的要素の一つでも欠けると分配のアルゴリズムは成り立たなくなる。分配を実現するのは人である。また、分配の対象も人である。故に、分配のアリゴリズムの根本は人なのである。
分配のアルゴリズムを破綻させるのは、欲望である。そして、欲望によって生み出される独占や格差である。
また、極端な所得や富の偏りも「お金」の巡りを悪くする。
分配のアルゴリズムの前提は、絶え間なく、分配に必要な「お金」を遍く、全ての国民に前渡しする事である。
極端な格差は、格差自体の働きによって分配を偏らせる。
経済は、人と人との関係の上に成立している。この人と人との関係を否定してしまったら経済は成り立たなくなるのである。
経済行為の過程でいかに人と人との関係を構築していくかが経済なのであり、それを単純に、「お金」の問題に要約してしまったら経済は経済本来の働きを失うのである。
通信の本質は、単に、通信の設備を整備する事にあるのではなく。いかに、人と人とを結び付けていくかにある。単に、通信を通信設備や技術の問題として特化してしまったら、通信は、本来の目的を喪失してしまう事になる。情報が使い手から遊離してしまい、特定の人間が他人を支配する為の手段でしかなくなるのである。この事は、経済の働きも象徴している。情報も経済もそれを使う人すべての利益を追求するものでなければならない。特定の人間の利益に資するものに堕したら、経済も通信も凶器となるのである。
分配のアルゴリズムが上手く機能しなくなる原因は、環境や状況の変化に分配の仕組みである組織や市場、そして、分配主体が適合的なくなる、ついていけなくなる事である。
変化をいかに取り込めるかが分配のアルゴリズムを正常に保つ為の鍵なのである。
分配のアルゴリズムを破綻させる要因には、人的要因、物的要因、金銭的要因がある。人的要因と物的要因、金銭的要因に環境の変化が重なると分配のアルゴリズムは変調をきたす。
経済環境や状況は絶え間なく変化している。経済は、仕組みによって動されている。経済を動かす仕組みは、環境や前提によって働きが変わる。
第一に、経済的価値そのものが絶対的な事ではなく、相対的な事なのである。例えば、財に対する需要は、一定ではない。需要と供給の力関係が変われば価格は変化する。自動車のライフサイクルと食品のライフサイクルは同じではない。工業製品と農産物とでは生産手段が違う。必然的に供給力にも違いが生じる。為替の変動の影響もうける。
第二に、経済は、時間に経過に伴って体制を変える。市場を取り囲む環境は、時間の経過とともに、人口、労働条件、設備状況、資金の流れ、債権・債務の関係、需給などが変化する。市場の成立させている前提条件は、刻々と変化しているのである。
第三に、市場や経済を取り囲む外的要因は、人の意志だけで動いているわけではなく。経済の仕組みは、天候や気候の変化、災害、事故、戦争等、人力が及ばない事で左右される。その年の米の収穫量によって米価は、左右される。お米の収穫量は、天候によって変わる。魚はもっと複雑である。地震や戦争と言った突発的な出来事によっても市場の前提条件は変わる。
第四に、市場の状態、内的要因によっても環境は変化する。物が不足している市場と、過飽和な状態の市場とでは、前提条件に差が出る。寡占、独占状態の市場と、過当競争状態の市場とでは条件が違う。成長発展期の市場と、成熟した市場も状況が違う。規制のある市場と規制されていない市場とでも競争の仕方は変化する。拡大している市場と、縮小している市場では、市場に働く力の方向が違う。
第五に、労働環境、雇用、所得によっても経済の環境や状況は変化する。雇用の変化、所得の変化は、市場環境に決定的に作用する。
年功序列的な給与体系の下では、年々、人件費が上昇するのを防げない。少子高齢化などの弊害も顕著になる。しかし、給与体系から属人的な要素を剥ぎ取ったら生活が成り立たなくなる。所得は、働きに対する評価(報酬)と言う働きだけでなく、生活費の原資(収入)と言う働き、労働に対する対価(人件費・費用)がある。
経済環境や状況は一定、不変ではない。市場を構成する要因の多くが予測困難なのである。物事には、不易、変易、簡易がある。何が変わらないで、何が、変化するのか。その変化は、どの様な関係から生じるのか、それを正しく理解しておかないと分配のアルゴリズムは、破綻してしまう。
表面に現れた事象だけに囚われたら、何か支障が生じた時に適切な対策が打てない。場当たり的、対処療法的手段は講じられたとしても抜本的対策は、講じられない。
環境の変化に適合できなくなるば、分配のアルゴリズムを成り立たなくする。なぜ、環境の変化に適合する事が出来なくなるのか。それは予測と実績が乖離するからである。予定した収益が上げられなければ約束された報酬は与えられなくなる。
経済を成り立たせている要因は、絶え間なく変化している。その変化を正しく認識し、分配の在り方を変えていかないと変化に適応する事が出来なくなり、配分に偏りが生じる。配分の偏りの原因は、「お金」の配分の偏りによる事と、物の要因によることがある。
生産と分配は、予測と実績によって成り立っている。分配は、生産の成果に基づいてなされる。
生産の成果は、予測によってなされるが分配は、実績をもとにする。予測と実績が大きく乖離すると必然的に分配の前提も狂う。場合によっては成り立たなくなる。この場合の予測とは、どれくらい消費されるかに関わっている。つまり、分配は、生産と消費の関係によって成り立つ。生産は、供給であり、収益を元としており。消費は支出であり、所得を元としている。つまり、生産と消費を関連付けるから分配は成り立つのである。生産は生産、分配は分配、消費は消費とそれ単独、自身で成り立っているわけではない。生産・分配。消費の関わりが全てである。
生産のアルゴリズムと分配のアルゴリズムの決定的な差は、生産のアルゴリズムは予測を元として、分配のアリゴリズムは結果から始まるという点である。生産は、予定に基づき、分配は、実績に基づく。
生産と分配とでは、前提が違うのである。
確実な事を根拠として不確実な事を予測する事で経済は成り立っている。
何が確実で、何が不確実なのかを見極める事が、分配のアルゴリズムの成否を決するのである。
分配のアルゴリズムを破綻させる人的要因には、人の一生が関わっている。人の働きは、歳と伴に変わる。年齢による変化は、分配のアルゴリズムを狂わせる最大の要因である。
分配の仕組みは、人を基本としたものである。この点を正しく理解しておく必要がある。
人の働き、役割と報酬をいかに結び付けるかが、分配のアルゴリズムの成否を握っている。
人は、時と伴に成長し、年老いていく。人の働きは年齢とともに変化する。しかも、人の能力は上昇し続ける訳できない。ある一定の年齢を頂点として衰えていく。しかも、人が必要とする物の変化と人の能力の変化は一致していない。
若い時に必要とする物とおいた時に必要とする物は量も質も違う。家庭環境などによっても違ってくる。
企業の様な分配の為の組織は、時間の経過に従って当初の目的が薄れ、働きが変質していく宿命を分配の仕組みは持っている。そのような分配の仕組みは、常に更新する事が求められる。
働きや実績、実力に応じて所得を分配するという原則は、時間と伴に風化され、そぐわなくなっていくのである。老いは残酷なのである。
親の財力は生れた時から格差を生む。そして、働きや実績、実力が伴わない者が、自分の権益を守ろうとする時、分配のアルゴリズムは崩壊していく。分配のアルゴリズムの崩壊は、社会全体の変革を促す。それが争いの元になるのである。
所得と資産を切り分け、所得だけで分配の仕組みを構築しようとする動きは絶えない。それは、給与所得と言う形で表れてきてもいる。何を基準に所得を分配するのかに特化されつつある。しかし、それでも格差は広がっている。問題はいかに合理的な分配の仕組みを組み立てるかなのである。実績に基づくべきなのか。属人的な要素を重んじるべきなのか。
また、他の分配のアルゴリズムを狂わせる人の要素には、雇用の不足、人口構成の変化等がある。
分配のアルゴリズムを破綻させる物の要素は、物価である。ハイパーインフレーションやデフレーションは、分配のアリゴリズムを土台から崩してしまう。
分配のアルゴリズムを狂わす物的要因の一つは物不足である。物不足で需要に供給が追い付かない事である。物不足は、インフレーションの原因にもなる。物不足の原因には、第一に、生産手段の不足、第二に、原材料の不足、第三に、在庫の不足、第四に生産財の不足などがある。
「お金」の要素から見ると第一に、「お金」の分配が途絶え、資金が不足して支払いが滞る事。第二に、生活する為に必要とする最低限の「お金」が行渡らない事。第三に、所得が一部の人間に偏り、遍く「お金」が配分されない事。第四に、格差が大きくなり、社会が、分断される事。第五に、働きと所得が釣り合わない事。第六に、フローとストックが不均衡で一方的に借金が増える事等である。
根底には、単位当たりの生産、所得、支出の構成の整合性をいかに保つかが隠されている。平均と分散の問題でもある。
「お金」が十分に人々に行渡っていないと市場は機能しない。「お金」の不足は、初っ端から分配のアルゴリズムを機能させない。必要とされる金額の「お金」をどの様にして全ての人に満遍なく手渡すかが分配のアルゴリズムの基本なのである。
「お金」の流れは、大河のようなものであり、流れる過程にこそ働きが隠されている。
現在進行している、分配のアルゴリズムを狂わせる新たな要因は、分配と言う働きそのものが否定されつつあるという点である。分配は、生産と消費の中間に位置する過程で成り立っている。この中間の過程を省略して生産と消費を直接結びつけ様とする動きである。この動きの背後には、分配から生じる費用は、無駄だと決めつける思想がある。分配を単純に費用として捉えていないのである。
そして、費用は不要だという思想である。
それは分配と言う働きの意味を正しく認識していない事による。市場経済においては、自滅的な危険に思想である。
彼等は、費用があって分配のアルゴリズムは成立しているという事を解していない。
変化を求める者は、規制を嫌い。秩序重んじる者は、無法を嫌う。規制は善か悪かの問題ではなく。市場は何を求めているかの問題である。何々原理主義者と言うのは、競争を原理だと頑なに決めつけたり、何もかも規制すべきだと型にはめようとする。重要なのは、状況なのである。
人は、自分の都合でしか物事を見ようとしない。しかし、経済にとって一番重要なのは、状態である。どの様な状態にすべきかを先ず議論すべきなのである。
経済政策は将棋に似ていて、守り一辺倒でも攻め一辺倒でもいい結果は望めない。状況の変化に合わせた攻守の均衡が求められるのである。
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