消費のアルゴリズム


消費の意義と目的


消費は、経済の一過程の終点である消費は、自己完結しており、付加価値を生まない
消費は、内的経済である。故に、非市場経済であり、非貨幣的経済である。
経済は、市場経済だけが全てではない。市場の圏外に成立する経済もある。市場経済は、氷山の一角である。
市場取引だけでは、分配に偏りが生じる。それを是正するのが、金融と政府の役割である。金融は、貸借との引きを通じて資金の過不足を是正し、政府は、所得の再分配によって所得の偏りを是正する。
欲しい物が欲しいだけ手に入るわけではない。食べ放題と言われても食べられる量には自ずと限界がある。
限度を超えた消費、支出は、経済を破綻させるだけである。消費効率に求められるのは節約であり、無駄なく、全てを消費しつくす事である。かつて、私は、食べ物を残すと、お百姓さんが汗水たらして作った物を残すとは何事かと叱られた。乱獲は、種の絶滅すら招く。大量に生産しながら貧困がなくならないのは、経済の仕組みに問題があるからである。
その最大の原因は、経済が生産に偏り過ぎ、消費経済が確立されていない事にある。生産と消費は、経済の両輪であり、生産と消費を繋ぐ基軸が分配なのである
消費は消費主体の内側の空間で成立する内的経済である。典型的で最も重要な役割をしているのは、家事労働である。
家事は、経済の原点であり、生産労働と経済の両輪を構成する。生産労働によって財を創造し、消費によって生活を営むのである。
消費労働は、無償であり、対価がない
。それ故に、経済効果が高いのに、市場性はないのである。それが誤解の元となっている。無償労働は価値がないというのは錯覚である。無償労働には市場的価値がなく、付加価値を生まないというだけである。
消費労働は、むしろ、無償労働だから価値がある。それは、消費は自己完結的行為だという事である。自己完結と言う事は、消費主体の中で完結する事に意義がある。市場性を持たせると消費主体は崩壊する。市場性がない事に消費労働は価値があるのである。無償労働だからこそ愛情が必要なのである

経済的価値全てが換金化されるわけではない。換金できない、換金しないからこそ価値があるものもある。
なぜ、家族の為に働くのか、それは、「お金」の為ではない。これが、消費経済、家事労働の本質なのである。その為に、消費経済は、市場経済の埒外に置かれ不当に低く評価されてきた。母子家庭や父子家庭の様に所得を得る手段が限られた世帯には、何らかの補助があるのが当然なのである。それが、経済なのである。

消費労働と生産労働は、経済的働きには差がない。むしろ、消費と生産が等価だという事は、役割は違ってもほぼ同等の働きをしていると思っていい。消費労働と生産労働とは、役割が違うだけで、経済的な働きの重要性は変わりないのである。
内的経済の本質は、愛情であり、だからこそ消費によって経済は、完結するのである。そして、消費主体こそ経済の基礎的な単位を構成する。消費は目標を構成するのである。消費される事で生産財は完結する
消費を外注化する事は、愛情を金銭で測る事につながる。それは、経済主体の存在意義、根本を変質させてしまう。
自己完結的で無償であるために、所得を獲得できない。その為に、不当に低く評価されていおり、消費労働の外注化が進んでいる。消費労働が外注化される過程で内的経済が圧縮されている。
しかし、それは、市場経済が内的空間を侵食している事を意味する。内的経済が侵食された分、生産主体(分配主体)の範囲が拡大し、個々の所得単位の相対的低下を招く。外注化が進んでも生産量は、変化せずに付加価値だけ増大するから、価値が希薄になるからである。
外注化される前は、家計に計上されていなかった食事や掃除、洗濯などが出費として計上される事になり。外注化されただけ、食品や衣服、耐久消費財など、他の産業の収益を圧迫し、その産業に従事する者の所得を相対的に低下させる。共稼ぎをしても社会全体の家事の外注化が進めば、総体的に見て、結局、働き口が増えただけで実質的な取り分は変わりがない事になる。経済の本質は分配である。全体の生産量が変わらないで、働き口が増えただけならば、単位所得は、働き口が増えただけ減少する。
獲物は獲っただけで終わりでは、獲った獲物を分配し、それを消費する事で完結する。農産物は、収穫するのが目的ではなく、収穫した産物を分配し、消費する事で目的を達成する。経済とは、その過程を意味する。

内的経済の外注化は、かえって消費効率を低下させる。消費は、大量生産に適していないのである。なぜならば、消費は質を重んじるからである。料理と餌とは違う。

生産に併せて消費するのではなく。消費に併せて生産をするのが本筋なのである。
「お金」儲けの為に生産をするのではなくて、生産をする為に「お金」儲けをするのである。
この筋が現代社会は逆転している。確かに、技術革新は、人々の予想を上回っていろいろなものを生み出してきた。しかし、それでも、消費を無視した生産生産したから消費をするというのは、本末転倒である。
消費は全ての経済行為の終点であると同時に始点でもある。
必要だから生産するのであって必要でもない物を無闇に生産するのは無駄である。

顧客の望む物を売る。消費者が望まない物を売るのは押し売りである。何を消費者が望んでいるか、それを明らかにし、実証するのが市場である。何を必要とするかは、純粋に主体的、即ち、その人その人の好みで決まる。

消費は、支出され収益となって生産に還元される生産に還元される事で「お金」は、始点に戻り循環する

経済の最終目標は、消費にある。この点を取り違えてはならない。消費を考える事は、広く言えば、社会、経済、国家の在り様を考える事であり、自分にとっては、自分の人生を考える事であり、自分の生き方を考える事でもある。
国は、国民が生きる為に必要な最低限の消費が出来るようにする事を保障しなければならない。それは、あくまでも最低限の生活を保障する事である。それ以上の消費がしたければ、自分の力で稼ぎ出す事が国民国家の原則なのである。
この点を勘違いしていると経済の真実が見えてこない。経済は、生産する事でも「お金」儲けでもない。
生産は、結果であり、「お金」儲けは手段である。目的は、消費にある
必要性に基づいて生産し、無駄なく消費する。必要性の根源は、消費である。消費は、需要を構成し、供給によって調整される。生産は、供給力に制約される。過剰に生産されれば無駄が生じる。
必要とする物を必要なだけ生産する。必要なだけ作って余分な物は作らない。それが摂理である。この点が忘れられている。そして、必要性を生み出すのは、個人の欲求であり、消費である。生産は、供給力に制約される。
自然界においては、例え、猛獣であろうと必要以上に狩りはしない。虎やライオンでも満腹な時は、相手のテリトリーを犯さない限りは安全なのである。遊びで動物を狩るのは、人間だけである。
消費と結びつかない生産は無駄になるのである。これが経済本来の鉄則である。経済の根本は消費にある。

生きていくためには、一定の消費は必要不可欠な事である。市場経済においては、消費をする為には、可処分所得が資金源として確保しなければならない。問題は、可処分所得が一定していないという事である。
所得の元となる収入や収益は、本来一定していない。一定しない所得を平準化、安定化させるための仕組みが分配主体であり、分配主体は、生産主体と一体であるのが一般である。
注意しなければならないのは、消費と支出、所得は一致していない。同じ様に、生産、収益、費用は一致していない。基本的に消費は、所得があろうとなかろうと発生する。消費に必要な支出は、所得の範囲内に収まるとは限らない。逆に、支出は、消費の為にだけ発生するわけではない。

消費は固定的で一定している。故に、消費量が経済の基準となる。消費は支出として現れる。消費は支出の一部に過ぎない。消費しきれない「お金」は、投資か、預金に回される。預金は、金融機関が投資をする為の財源となるから間接投資と言える。つまり、余剰資金は投資に回される。
基本的に消費主体は、支払準備金としての余剰資金を蓄えているようにできている。しかし、消費主体が余剰資金を持つ事は、絶対ではない。常に、所得の範囲内に消費の為の支出が収まるとは限らない。常に、消費主体も資金不足に陥る危険性がある。所得と消費の均衡が破れ消費の為の支出が、所得を上回ると消費主体は立ち行かなくなる。不足する「お金」は、過去の貯蓄を取り崩すか、他から借りてくるしかない。消費が所得を上回る状態が長引けば破産する。蓄えを取り崩すにしても、そして、消費は確定的なのに対して、収入は不確定なのである。
収益は、不確かで制御するのが難しい。工業製品は、生産量は、供給設備によってある程度予測する事が可能である。しかし、どれくらい売れるかは、売ってみないと解らない。それに対して費用の多くは確定的である。経済の目的を実現するのは、費用であり、消費である。生活を支えているのは消費であって消費を実現する為に所得がある。
いくら節約して「お金」が溜まって一家が離散したのでは本末転倒である。いくら利益を上げてもその為にも働いている者の生活が成り立たなくなっては意味がない。
つまり、経済の核となるのは、費用、そして、消費である。費用は、中間消費である。
消費が成り立つために所得がある。ところが時として所得が不足する事で消費が成り立たなくなるのである。それが問題なのである。固定的な費用や消費に対していかに収益、所得を安定させ、平準化させるかそれが経済の最大の課題である。
そこから定職、定収、月給、賃金と言う思想が生まれた。現在は、雇用者報酬、即ち、賃金、定収を基礎として経済は築かれている。定職、定収は、借金の技術を発展させる。雇用形態の変化は、経済の基盤を変質させる

経済は、入金と出金によって動いている。収入が入力だとすれば、出力は支出である。資金の調達が入力であれば、運用が出力である。収益が入力なら、費用は出力。
経済は、投入、生産、分配、支出、そして、消費と貯蓄と言う一連の流れを繰り返すとしたら、投入が入力で出力は、消費支出と貯蓄である。
消費はゴールであると同時に出発点である
出口である消費支出は、消費主体では出力であるが、収費支出は、生産主体にとっては収入であり、入力である。貯蓄は、消費主体の出力ではあるが金融機関を通じて生産主体に投資される。つまり、生産主体では入力である。
つまり、消費支出や貯蓄が生産主体、産業を形作る。消費主体の支出は、産業の鏡である。

主たる消費主体は、家計である。消費主体には、家計以外に一般政府がある。
家計が消費主体の主たる部分を占めるという事は、経済の基盤を作っているのは、家計だということを意味する。
その証拠に全ての国民が生産主体に属するわけではないが、家計は全ての国民を網羅している。
我々は、経済と言うとすぐに産業に目を向けがちであるが、経済の基盤は、家計にある事を忘れてはならない。

経済の基盤は、消費にある。なぜならば、経済は、生きる為の活動、生活だからである。生活と言うのは、消費である。生きる為に必要な資源を調達あるいは、生産し、分配したうえで、効率よく消費する。それが経済の基本である。確かに、生活の為に必要なものを調達し、生産する必要がある。では、何を調達し、生産するのか。それは、生きる為に必要な物、生活に必要なものである。生活とは、消費である。つまり、消費に必要なものを調達し、生産するのである。調達し、生産したものを消費するわけではない。
この点に関して今日の経済は、誤解がある。なぜならば、生産が消費より重視され、優先される傾向があるからである。

猫に小判、豚に真珠と言うけれど、猫は、小判のために仲間を殺したりしない。豚は真珠のために兄弟と争ったりはしない。だとしたら、人と猫、人と豚どちらの方が真の経済的価値を理解していると言えるだろうか。本来、経済は、生きる為に必要なものを生産し、調達する事が目的なのである。
現代人は、必要なく無駄に生産し、捨てている。その為にどれだけ多くの資源が失われ、自然が荒廃しているか。経済は、「お金」を儲ける事が目的なのではなく。必要な時に、必要な財が、必要なだけ、必要としている人に供給されればいいのである。その根本にあるのは、消費である。

経済は、生産経済消費経済がある。労働にも生産のための労働消費のための労働がある。経済的差別の根本には、生産労働のみを貴び、消費労働を侮る風潮が隠されている。
今一度、消費を経済の根本と言う観点から見直す必要がある。

市場経済は、価格の力によって制御されている。価格は、需要と供給の均衡によって作られる
では、需要の根源とは何か。それは消費である。消費が需要を作り出すのである。そして、需要の本質は必要性である。必要性とは何か。必要性らも二つある。
第一に、生きていくうえで必要なものである。第二に、自己実現に必要なものの二つである。第一の生きていく上に必要なものと言うのは、生物学的な意味で必要な資源を言う。第二の自己実現のために必要なものとは、人として生きていくために必要な事を指す。生物学的な意味で生きていくために必要とされるのは、食べる物、着る物、住む処を言う。それに対して人として生きるとは、自己実現、即ち、自分の生きる目的に必要な物や事である。それは、生産物といった成果物よりも生きる為の手段、仕事を指す場合が多い。例えば、野球選手にとって野球の様な事である。

消費は、生きる為の活動である
消費の目的は、人生そのものである。つまり、生病老死衣食住にある。

人には、生きていく上で絶対に必要な物と、できればあった方がいい物がある。本来、絶対に必要な物の価値の方が高いはずである。しかし、実際の価格に、必要性が反映されているとは限らない。
空気は、生きていくために絶対に必要な物であるが価格はただである。ダイヤモンドは、生きていく上で絶対に必要という物ではないが高価である。
本来の経済的価値は、価格だけで捉える事はできない。この点を理解しないと経済の本質は見えてこない。
市場価値は価格によって表現されるが、価格が経済的価値を表しているとは限らない。
現代、生きていくために不可欠なものが不当に安く、できれば欲しいという物が異常に高かったりする。市場の環境によって価格の設定機能が正常に働いていない危険性がある。市場は一種の仕組みであり、価格を直接統制しようとすれば市場の機能が損なわれるが、無原則に規制を緩和すれば市場が本来の働きをしなくなる危険性がある。
規制を適正化する事は常に必要だが、規制を頭から否定するのは危険な思想である。市場は仕組みなのである。
スポーツでも自分たちの都合のいいようにルールを変えるのは、禁じ手である。

消費の場は生活の場である。消費の意味するのは、人生の軌跡である。消費の根本は、生病老死である。消費の根幹は、衣食住である。消費は、生活を実現する。

消費は、最終目標である
消費は、経済の目的を実現する事である。どの様な消費、即ち、生活をするのか、その設計がなければ経済の全体像は構築されない。
消費は、生きる事、生活を実体化する事なのである。消費は現実である
消費は文化である

消費には質と量、密度がある。食べ物でも、同じ値段なら量を重んじるか質を重んじるか、それが問題なのである。
量と質で言うなら、最終的に消費で一番の問題は、質である。消費の質は人生に関わっているからである。そして、消費の質の変化が経済に決定的な変化をもたらすからである。

消費は浪費ではない。消費は個々人の思想に基づく。思想を実現する事である。

現代の経済では、生産だけに偏り消費を経済としてみなさない傾向があるが、消費は生産と並んで両輪である。生産経済が確立しているように、消費経済の確立も急がれる。

一般に経済を主導するのは、消費であって生産ではない。生産力より必要性が優先するのである。
一部の例外を除いて、需要が供給を生み出すのである。

経済の基礎単位は、消費単位である。なぜならば、消費は、生きる為の基礎的な活動だからである。故に、消費の場は、生活の場であり、消費単位は、経済の基礎単位なのである。

現代の経済は、消費を軽んじていて、生産に偏り過ぎている。それ故に、分配の機能が正常に働かない。
消費と生産は、経済を動かす両輪である。消費と生産の均衡がとれて経済は安定するのである。生産だけが速く回転しても消費の回転が遅ければ経済は、まっすぐには進まない。

経常的消費の核は、衣食住にある。更に、近年では、交通、エネルギー、通信が加わった。
この様な日常生活の上に冠婚葬祭などの人生が築かれる。

市場経済では、消費は支出として現れる。日常生活に対する支出の上に、自己実現のための支出(投資)が上乗せされる。

市場は、消費者によって作られる消費は、産業の枠組みを作る

売上のために消費があるわけではない。必要性や欲求があるから消費がある。満腹な人間に無理やり料理を売るような事は、経済的に見て邪道である。
しかし、大量生産は、大量販売を必要とし、大量販売は、大量消費を求める。
大量消費は、壮大な無駄、浪費の本となる。大量生産時代には、使い捨てを奨励し、物の大切さを教えない。節約や倹約は美徳ではなくなる。しかし、無駄や浪費は不経済である。
大量消費は、乱開発や資源の枯渇、環境破壊等を招く。大量生産は、過剰設備や過剰生産の原因となる。大量消費は不経済なのである。

消費の中心


消費の中心は家計である。
消費の主体は、家計以外に一般政府がある。
家計と一般政府は、最小消費支出を構成する。

しかし、消費を生活と言う観点から見た場合、消費の中心は家計である。
故に、家計の働きが消費の働きを形成する。

家計とは何か。家計を構成するのは、日常生活である。
家計の基本は、衣食住である。消費の核となるのも衣食住である。
衣食住が充実し、生活にゆとりができると教育費や遊興費などの出費が増えてくる。
また、衣食住に関する支出も量から質へと移っていく。
最初は食べられればいいから、美味しい物へと更においしくて健康的なものへと人々の嗜好は変化していく。それに伴って産業や市場の傾向も変質していく。
消費の中心が移っていくのである。

生産の根本が事業計画ならば、消費の根本は、人生設計であり、生活設計である。
市場は、消費者によって形成される。
生産者は価格を上げるように働きかけ、消費者は、物価を低くするように働きかける。
生産者と消費者の力関係によって景気は変動する。
それが需給関係を形成するのである。

消費の核となる経済主体は家計である。そして、会計は、現金主義を基本として、税金も現金主義に基づいて徴収される。

消費の中心は、支出である。支出には、制約がある。支出に制約がなくなれば、分配の意味がなくなるかである。我々は、択一的な人生しか歩めないのである。

その時、その時一つの事しか選べない。その制約があるからこそ、人生は有意義になる。自分は自分でしかない。命には限りがあるのである。
生きる事こそ経済の本質である。人のために生きるのが人生なら、他人を犠牲にして生きるのも人生。
清く正しく生きるのも人生。欲望に身を委ねるのも人生。どちらが是か非かの問題ではなく。自分がどのように生きるかの問題なのである。

昼に何を食べるのか。誰を愛するのか。我々は、決めなければ生きていけない。
それは何に支出して何を消費するかであり、それが経済の問題なのである。

生産主体と分配主体は、同じ組織を活用している。生産効率を高める事は、必ずしも分配効率を高める事にはならない。
全てを独占する事は、何も持たない事と変わりない。

一人の人間が生産者でもあり、分配者であり、消費者でもある。この事が経済の本質を表している。調和、均衡が重要で偏れば、全てが成り立たなくなる。

消費が求めるのは、消費の質を上げる事である。消費の質を高めるためには、生活環境をよくする事である。生活の基盤は、地域コミュニティーにある。つまり、消費の質を高める事、それは究極的には、地域コミュニティを住みやすい場に変えていく事を意味する。

現代の経済は、消費の質をよくするどころか生産効率ばかり求めて生活の場を疲弊させ、劣化させている。
生活の場は荒廃しているのである。
人間の生活は、物質的にも、精神的にも貧しくなっている。人は、本当の豊かさを失いつつある。


消費の性格


消費の構成と質が経済の大枠を作る。
消費の構成と質の変化が産業の在り様を変質させる。

国民経済計算書では、消費は、中間消費と最終消費からなる。
最終消費は、民間最終消費と政府最終消費からなる。
最終消費は、最終消費支出して現れる。

中間消費は、生産過程で投入し、使い尽くされるサービスや財貨、即ち費用を意味する。

消費の担い手は、中間消費が民間法人企業であり、最終消費は、家計、対家計民間非営利団体、一般政府である。

消費には、波があり、その波が景気の波を形成する
消費の波には、一日の波一週間の波一か月の波季節変動半期の波一年の波商品のライフサイクルによる波人生の波などがある。
消費の波は、生活習慣に基づく波である。

生産と消費は表裏の関係にある。

支出は、収益の元となる。収益によって産業は、形成されるから、消費は、産業の生みの母と言える。

消費が需要を生み。消費の周期が需要の波を作る。産業は、消費の波によって景気の消長が定まる。消費が細く成ればその財に係る産業も衰退する。経済を考える時、消費の波を無視したら意味がない。



主要耐久消費財等の普及率(全世帯)  (平成16年3月末現在)
消費者動向調査   内閣府



経済には一定の発展段階がある。
我々が子供の頃は、太平洋戦争の戦後間もない頃で、家も建ち始め、食べる物も贅沢をしなければ、困る事はなくなっていた。しかし、少し前までは、その日の食べる物にも事欠き、配給だけを真面目に守った検事が餓死したなどと言う事件もあった。

私たちが子供の頃は、食事と言ってもそれこそ、素うどんか、油揚げを入れただけの狐か揚げ玉を入れただけの狸と決まっていた。服だって古着が多く、破れれば継接ぎをしてきていた。
それでも、国民すべてが貧しかったから、お下がりの服や継接ぎがあるズボンをはいていても引け目を感じる事はなかった。だからと言って今の時代に比べてその時代の経済は、活況がなかったかと言うと、むしろ、逆である。そこが経済の不思議なところである。当時の人達は、必死に生きる為に働き、そのおかげで経済活動は、活気があった。生きようとする活力が経済の原動力となる。物不足も市場を疲弊させるが、物が多すぎても市場を荒廃させるのである。その証拠に、今の時代は、物を溢れているというのに、商店街は、寂れ、仕事は廃れ、働く人に元気がない。
この様な現象は、経済の本質を表している。つまり、経済の本質は、生きる為に働く事であり、単に物が多いということを意味していないからである。
いくら物が多くても無駄に物が多くて、人々が生きる為に働くことに意欲が持てなくなっていたら、経済の活気は失われる。
豊かになったはずなのに何か貧しい。足らざるは貧なのである。
経済とは生きる為の活動なのである。「お金」儲けは、手段であって、経済の本質ではない。本質が失われたから経済の活力はなくなったのである。物が不足しているから景気が悪いというわけではない。物は溢れているのである。

生活水準が向上すれば、当たり前に消費の構造や質は変化する。消費の構造や質に合わせて、市場も産業も変化していかなければならない。
量から質への転換である。量から質への転換が上手くいかなければ、市場は荒廃し、経済は衰退する。

食べられる様になったら服にこり、気に入った服が揃ったら次は、家を建てようという事になる。
衣食住が一巡すれば、次に、質を高めようとする。
ゆとりが出来たらただ食べられればいいという訳にはいかなくなる。美味しくなければ食べないなんて言い出す。
生活の質の向上が次の課題となる。
また、衣食住が揃えば、電気、ガスを通そうとなり、次に電話となる。自動車も欲しいし、家具もそろえようと言う事にもなる。

生活にゆとりが出来たら次は、子供の教育に熱が入る。
生活の発展につれて家電業界や自動車業界は、拡大発展する。

父の世代は、出世するたびにお酒や自動車のランクを上げていったものである。今の子は最初から公共品、新車に乗っている。そして、終いに興味も失ってきた。
経済は、時代とともに変わる。時代とともに前提条件が変わってくるのである。
消費は、経済の前提条件に深く関わっている。


国連統計 名目GDP

低賃金でも最低限の生活が保てる環境が存在する。その点を考えないと賃金の水準が経済の及ぼす影響を理解する事はできない。生きていくために必要な資源は、賃金の多寡だけでは決まらないのである。
経済成長にとって生活水準と市場の状態は前提条件なのである。生活水準と市場の状態を加味しないと賃金の働きは明らかにできない。

発展途上で、市場の黎明期には、市場は物不足で、市場は、商品を、砂漠に水をまいた時の様に吸い込んでいく。

我々は物質的豊かさばかりを経済成長の基準としているが、現実には、人々の生活がある。いかに産業が栄えたとしても人々の実質的な生活が豊かにならなければ意味がない。

高齢化問題も設備や施設、制度の問題なのか、家族やモラルの問題なのかを置き去りにして財政や年金問題ばかりが取り上げられている。
「お金」がないのならば、「お金」に代る事を考えればいいのである。
一番大事で実質的な事は、人々の生活である。経済の本質、実体は生活にあるのである。「お金」の問題にすり替えられた瞬間に経済の本質も実態も見えなくなる。


国連統計 名目GDP


SNA(国民経済計算マニュアル) 名目GDP


生産性が上がっても価格が維持的なければ、働くものに還元できない。かえって合理化の名のもとに人員は、削減され、賃金は下げられる。
規制を緩和し、競争を激化すれば価格が下がると経済学者や政治家は言う。しかし、それは物価を下げることを意味し、失業率も上がって、所得も減る。それは明らかにデフレ政策である。デフレ対策と称してデフレ政策をしているのだからいつまでたっても景気がよくなるはずがない。

景気対策として公共事業を政治家は多用する。
しかし、よくよく考えなければならないのは、公共事業の効用である。公共事業をやって「お金」をばら撒けば、景気がよくなると思い込んでいる事が多くいる。
公共投資は、単に、潜在需要を拡大する事だけに効用があるわけではない。社会資本が充実する事で、生活環境が向上し、市場が拡大する事に大きな意義があるのである。翻っていうと、生活水準が一定の水準に至ると公共投資による経済的効果は薄れてくる。
同じだけ「お金」をかけても新しく道路や鉄道を敷くのと設備の補修や改修、更新に使うのでは、「お金」の効用は違う。なぜならば、設備の補修や改修、更新は、新な市場を生み出さないからである。つまり拡大再生産が起こらない。
景気対策によって公共教事業を無原則に行い財政を悪化させるのは、「お金」が全てだと思い込んでいるからである。それよりも重要なのは、投資と効果の関係である。効果が期待できない投資は、負債を多くするだけである。

現代社会は、何でも過剰なのである。過剰設備、過剰負債、過剰資金。そして、過剰な部分が問題を起こす。余剰な資金が市場をかき乱す原因なのである。しかし、一般に、不足するよりも過剰な方がましだろうという思い込みがある。その思い込みが経済を時として暴走に導くのである。
野生動物は、不必要な獲物を捕ったりはしない。
肥った豚になるよりもやせた狼になれ。それが野生の掟である。野生の生き物にとって無駄に肥る事は死を意味する。
何事にも限度があり、程々で調度いいと言う考えに徹する必要がある。それが中道である。程々と言う考え方が経済の根本なのである。
限度をわきまえずに、限度を超えてしまうから経済は回らなくなる。経済こそ、節度や抑制が求められる。人は、貪欲になれば、底なし沼に嵌りこみ、自制心を失うのである。知らず知らずのうちに限界を超えてしまは、抑制が効かなくなる。単独だと限度がわからなくなる。それ故に、相互牽制が必要なのである。経済価値は、認識の問題であるから相対的であり、絶対と言う事はない。

消費と人口構成


総支出は、人口構成を基礎として形成されていく。
人口は経済の基礎的要件であり、その影響は、長期にわたるという事を忘れてはならない。
一度、人口が減少に向かうと短期に回復する事は難しい。それは、人口問題は、長期的な蓄積の上に成り立っているからである。
人口は、総人口、労働人口、年齢構成などがその国の経済の土台となる。
人口は、生産と消費の枠組みを作るからである。

人口構成には、生産的人口と非生産的人口がある。労働にも生産的労働と、非生産的労働がある。
権力構造と言うのは、非生産的階層による生産的階層の支配から始まる。この構造は、基本的には変わっていない。生産性の上昇により、非生産的労働に従事する者の占める割合が上昇した。それによって所得の分配も変わった。問題は、非生産的労働に従事する者の所得が相対的高く、生産労働に従事する労働者の所得が相対的な低下した事である。

問題なのは、生産に携わる人口消費に係る人口が一致していないという事である。その為に、消費に必要な所得は、限られた人でしか獲得できない。それ以外の人は、所得を獲得してきた人の収入に依存しなければ生きていく事が出来ないという事である。
生産人口は、生産力になる。生産力は供給量を決める。供給量は、総所得を制約する。消費人口は、総支出の基礎となる。

市場経済では、「お金」の過不足によって資金は循環する「お金」の過不足を補う働きをしているのが資金移動である。税も資金移動の手段の一つである。
少子高齢化の問題は、資金移動から生じる世代格差である。人口が相対的に少ない世代から多人数な世代への資金移動をせざるを得なくなる事から生産年齢世代の負担が過重になり、一国の経済全体の生産性が低下する事である。

年金のような世代間の所得の再配分の仕組みは、人口構成を十分分析をして長期的な展望の上に構築する必要がある。国家百年の計と言うのは、国家経済の基盤を構成する要因は、長い期間をかけて変化していく。それなのに要因の働きは、経済全体に及ぶ。少子高齢化や人口減少などに対する対策は、人口構成が決定的な働きをする。人口構成の変化は、緩やかなものだがその変化の影響は確実に起こる。故に、国家構想は、百年先まで見通しを立てて計画しないと国家をの存亡に関わると言うことを意味している。




市場経済は、所得は、何らかの生産手段、即ち、資産や労働力の成果に対する対価として支払われる。資産や労働力を持たない者は、所得を得られない。生産手段の価値は市場取引に依って決まる。故に、いくら能力や知識を持っていても市場から評価されなければ所得は獲得できない。そこに差別が入り込む余地があるのである。

消費は全ての人に満遍なく必要とされるのに対して、所得を得られる者が限られている。全ての国民に必要な所得を配分する為には、消費単位を定め、その消費単位に一定の所得を配分する仕組みを作らなければならない。
その消費単位が家計であり、消費単位である。
消費単位には、私的消費の為の家計以外に公的消費をする一般政府がある。

所得が全ての国民に行渡るようにする為には、必ず消費単位に一人は所属させる必要がある。問題は、高齢者の単身世帯の様に自力で所得を得られない世帯である。この様な世帯は、公的な補助を必要とする。
いずれにしても全ての消費単位に所得が行渡るような仕組みでないと市場経済は成り立たない。

基本的に生産手段を発揮できる人達で構成される人口は、生産年齢人口とされる。
生産年齢人口とは、勤労世代である。
生産年齢人口は、一定ではなく社会体制や家族制度、人口政策等によって違いが生じる。相対的な人口である。

かつては、末広がりのピラミッド型だった人口構成が、釣り鐘型に変わり、段々に下が窄んできている。


(注)国立社会保障・人口問題研究所ホームページ

この人口構成の変化が生産年齢人口とそれ以外の人口の比率を大きく歪めている。一国の国民に必要な財を生産する為にどれだけの人口が必要なのかの問題であって「お金」の問題ではない。その点を勘違いすると人口と経済の関係を取り違えてしまう。つまり、働いて所得が得られる人の数と自分の力では、「お金」が稼げない人口の比率の問題である。
それは所得と支出の不均衡を引き起こす原因となる。仮に、生産効率が上がって一人の人間の力でそれまでの三倍の働きが出来るようになっても三倍の所得にならなければ、生産効率が上がって削減された人の数だけ総所得は減少するのである。つまり、生産効率を上げて三倍の商品を製造できるようにするだけでは不十分なのである。
問題は、一人の人間の稼ぎで何人の人間の生活の面倒を見てやれるかが重要なのである。

だから、生産年齢人口が人口に占める割合と総所得の関係が重要となる。また、所得が増えても自分だけの「お金」だと貯め込んでも「お金」は流れなくなる。
根本にあるのは、生産人口と消費人口の不均衡である。

無論、人口そのものの減少も深刻な問題である。しかも、人口の減少はかつてない程の速度で進む危険性がある。
人口の減少は、内的な経済の軽視による部分が大きい。外部経済のみを経済とし、内的経済に対して否定的であるから、家族が崩壊し、少子化につながるのである。
本来家族の在り方や人の生き方についてより議論を深めるべきなのに、安易に内的経済を否定してしまうから内的な経済が担ってきた空間までが希薄になるのである。




少子化の背後には、晩婚化、非婚化が隠されている点も忘れてはならない。人々の価値観の変質や家族の変質がある。

人口は、一国の生産力と消費量を確定する。それは国力の源泉である。

人口と生産財に変化がなく、「お金」の流通量だけが増加すれば、必然的に物価は上昇する。況や、人口が減少している上に、市場が飽和状態になった時に通貨の流通量を増やせば物価は、上昇する。こんなに中央銀行が「お金」を刷っているというのに、物価が上昇しないのは、「お金」が市場に供給されていないからである。市場に供給されていないというより、流れが逆流している。一般に家計が資金余剰主体で、非金融法人企業が資金不足主体である。つまり、家計の余剰資金が非金融法人企業に流れて設備等に投資される。ところが、非金融法人企業は、資金の調達力をふさがれて、専ら資金余剰主体に転じてしまった。その分、一般政府が資金不足に陥って家計の資金を吸収している。政府は、資金を投資しても付加価値を生まない。それ故に、市場に資金が回らないのである。お陰で「お金」は、金融機関に大量に滞留している。

資金は、捌け口を失って金利はゼロに張り付いてしまった。ゼロ金利は、今や、異常な事ではなく、普通の事の様になってしまっている。この状態が続けば早晩金融機関は、へばってしまう。
中央銀行は、出口のない迷路をさまよっている。出口がないというより、出口を自らが塞いでしまったのである。

産業は、産業が生産する財を人々が必要だと感じるから成立するのである。誰も必要だとしない財は、そもそも産業を形成しない。人々の必要性を基礎とする以上、人口以上に経済は拡大しない。永遠に続く成長と言うのは幻想である。どこかの時点で拡大均衡は止まり、縮小均衡へと転換していく。成長を前提とした経済には、明確な限界がある。経済は、人口以上には拡大しないのである。

家計支出の推移は、産業の消長を凝縮している。
支出を見ただけで経済の動きが明らかになる。それが総支出である。総支出は、総生産、総所得を反映している。故に、総支出、総生産、総所得は連関して分析する必要がある。

例えば、団塊の世代は、高度成長を引っ張ってきたのである。団塊の世代が生産年齢を過ぎたころから日本経済の停滞は明らかになってきた。

消費主体と消費の場


経済の終点は消費である

消費の最小単位は、個人である。個人的動機によって消費は実現する。
消費の場は家計である。消費の場は生活の場である。
個人が集合して経済主体は構成される
個人の働きが経済を形作る。個人が集まって経済主体は構成される
経済主体には、生産主体分配主体消費主体があり、各々、生産単位分配単位消費単位を形成する。

生産単位、分配単位、消費単位は、各々構成する経済主体の目標となる。即ち、生産量は、生産主体の生産目的となり分配単位は、分配主体の目的となり消費量は、消費主体の目的となる。各々の経済主体の目的は、存在意義を意味する。この点が需要なのである。各々の経済主体は、自己完結的な存在ではなく、相互依存の関係にある。
生産は消費を満たす為にあり分配は、生産と消費の均衡を保つ為にあり消費は、生産を促すためにある。
そして、市場の根本的な働きは、分配の場を形成し、成り立たせる事である。

そして、生産単位の基礎は物であり、消費単位の基礎は人である。
どれだけの人で、どのだけの量を生産しどれだけの量を一人ひとりに配分したか、そして、一人当たりどれくらい消費したのかが基本線を形作る。

単位当たり支出、単位当たり所得、単位当たり生産量は、相互依存関係にある

支出と収入は、表裏の関係にある。

全体量と単位当たりの生産量、消費量の均衡が保たれなくなれば、経済は成り立たない一人ひとりの生産は、一人ひとりの所得となり、一人ひとりの所得は、一人ひとりの消費を生み出す。
経済が上手くいかなくなるのは、極端に格差や偏りによってこの関係が崩れるからである。
利益を追求して生産、所得、消費の均衡を考えずに生産効率を上げたり、所得を下げたり、消費を減らしても経済は上手く回らない。何のために、生産性を上げるのか、所得を維持するのか、消費を減らすのか、それは、相互関係から求められることである。
利益も価格も指標に過ぎない。利益の向上や安売りを経済の指標と捉えたら生産、所得、消費の均衡は保てなくなる。
ただ、営利追求を目的とする法人企業は、無原則な競争にさらされると、自分達の力で、本来の役割や働きを維持する事ができなくなる。それを調整・統制をとるのが政治や行政の役割である。市場に法と規律をもたらすのが国家の役割なのである。だからこそ、政治や行政には中立が求められる。

支出に占める食料品の割合は、食品産業の収益を形成し、食品産業に従事する者の一人ひとりの所得の源泉となる。
この点がよく見落とされるのである。食品産業の単位所得は、家計に占める食料品の割合によって決まる
生産性が向上せず家計に食料品の支出の占める割合が変わらなければ、食料品産業に従事する労働者の所得は変わらないのである。逆に、生産性が向上する事で食料品産業に従事する人間の数が減れば一人当たりの所得は上昇するし、食料品にかかる支出が減少すれば食品産業の労働者の実質的な所得は減少する。
だからこそ家計は、経済を凝縮したものなのである。家計の構成は、一国の経済構造を凝縮している。


総務省統計局 家計調査より作成

注目すべきなのは、バブル崩壊後消費支出は低下傾向にあるのに対して食料品費は、横這いであり相対的に消費支出に占める食料品の比率が高くなっている事である。
消費支出に占める食料品費の比率は、70年代から80年代にかけて急速に低下している。故に、バブル崩壊後多少持ち直したと言ってもわずかである。

食糧費が家計に占める割合が低下するのに比例して農業人口は低下している。ただ、食料品費の絶対額は横ばいである。つまり、農業従事者の所得は、絶対額では変化がないが相対的には低下していると言える。これでは、農業従事者の意欲は喪失してもおかしくない。
その意味でこの低下の要因が生産性の向上によるものなのか、単位当たりの所得の低下によるものかが、重要なのである。
所得と物価、そして、家計に占める割合が産業の構造に影響しているのが読み取れる。
消費の構成は、収益を通じて産業に影響し、産業の構造は、所得を通じて消費に反映する。
食料自給率云々と言う前に、我々は何によって立つべきかを明らかにする事なのである。生きていくために必要とされる産業を犠牲にしていたら働き手がいなくなってしまう。
農業に対する補助金は、自給率の向上や産業保護と言う観点以上に所得の再配分の意味合いが強い。
全ての経済的価値を換金化しようとするのならば、全ての経済的価値を換金化する事で経済構造がどう変わるのかを見通しておく必要がある。市場に基づく配分の偏りがあからさまになるのである。
国の在り方、経済の仕組みに対して成り行き任せにするのではなく、明確な構想を持つ必要がある。
需給と産業の国家に対する役割とは、直接的な関係があるわけではない。国家、国民にとって不可欠な財であったとしても適正な価格で取引されるとは限らないのである。


労働力調査

要は、経済問題とは、社会が生産した物を人々にどの様に分配したかの問題であり、それは、消費単位によく現れるのである。
分配であるから、平均値や絶対量だけが問題になるのではなく、分散や偏差が経済では重要となる。格差や偏りは、分配の働きを阻害するからである。

消費主体は、所得を得る必要性から形成される経済的単位である
その根本は、家族である。経済単位としては家計である。
経済主体は、消費単位を形成する。消費単位は、所得や支出の単位でもある。

所得口が増えれば、それだけ、総所得は細分化される。生産量が一定であれば、それだけで、単位所得の取り分は低下する。勘違いしてはならないのは、所得が増えても、生産量が変わらなければ、一人当たりの取り分は、変わらないのである。ただ、一人より二人の方が取り分がそれだけ増えるのに過ぎない。共稼ぎをすれば、その分、確かに、所得は増える。しかし、共稼ぎによって失われた時間の分だけ家内労働も減少するのである。必然的に、失われた家内労働に対する成果の代償が求められる。

行政制度上、消費単位は、世帯である。世帯は家族を基としている。家族の構成単位は、個人である。
世帯の構成には、垂直的構造と水平的構造がある。家族の構造は、一対の男女を核として形成されていくからである。
垂直構造は、親、当人、子供、即ち、祖父母、父母、子供と言う構成を基本とする。水平構造は、兄弟姉妹、配偶者からなる。
家族構成は、三世代を基本とする。ただ、今日では核家族化が進み核となる夫婦を基本単位とする場合が一般的になりつつある。

家族構成は、独身独居者、夫婦、夫婦と子供、親と夫婦と子供が基本構成となる。

厚生労働省の「国民生活基調調査」における分類では、三世代以上世帯、ひとり親と未婚の子のみ世帯、夫婦のみ世帯、単身世帯と分類している。
問題は、どの様にして「お金」を必要なだけ国民に配分するかである。一般に人は、自分の所得の多寡ばかり気にするが、所得の多寡は相対的なものであり、絶対的なものではない。格差や物価などの影響を受けやすいものである事を忘れてはならない。
所得が全ての国民に行渡るようにする為には、必ず消費単位に一人は所属させる必要がある。問題は、高齢者の単身世帯の様に自力で所得を得られない世帯である。この様な世帯は、公的な補助を必要とする。つまり、社会保障である。日本の社会保障は、社会保険、公的扶助、公衆衛生、社会福祉の四つからなる。(「人口減少と社会保障」山崎史郎著 中公新書)
いずれにしても全ての消費単位に所得が行渡るような仕組みでないと市場経済は成り立たない。
かつては、夫が、主たる所得の稼ぎ手であった、現在、共稼ぎが常態となりつつあり、所得者を夫が独占するという例は少なくなりつつある。それと伴に消費の傾向にも変化がみられるようになってきた。


国民生活基調調査


消費の原点は、可処分所得にある。

家計は、消費主体である。消費は、生活そのものである。経済は、生産と消費を両輪としている。家計は、労働力を生産に提供する。消費は経済の基盤を構成する。家計は、消費の要である。消費は消費支出であり。根源は、可処分所得である。消費支出は可処分所得に制約される。

消費の鍵は、いかにして所得を得るかにある。

日本の税制では、所得を第一に、利子所得、第二に、配当所得、第三に、不動産所得、第四に、事業所得、第五に、給与所得、第六に、退職所得、第七に、山林所得、第八に、譲渡所得、第九に、一時所得、第十に、雑所得の十種類に分類している。



国税庁

事業所得が占める割合が急速に下がってそれに代わって給与所得が伸びているのがわかる。絶対数でも1991年のバブル崩壊を境に事業所得は低下している。これは、所得の質が収益に比例した所得から定収型へと変質していることを意味する。

報酬が平準化されれば、消費も安定する。借金の保障もしやすくなる。消費と言うのは、特に、食料と言った生きていくために必要不可欠な物は、一定量確実に消費される。それに対して事業収益は、不安定であり、不確かである。故に、いつも「お金」の過不足に悩まされる。借金もしにくい。当てにならないし、計画が立てられないからである。
現代の所得税の礎は、所得の定収化にあると言っても過言ではない。そこに所得の持つ性格が隠されている。


国税庁

家計は、労働力と言う生産手段を生産主体に提供して労働の対価として報酬(所得)を得る。
一般に通常は労働力を提供する事、つまり、働いて得た所得の範囲内で生計をたてる。「お金」が不足した時は、過去の蓄えか、あるいは、手持ち資産を売って対価を得るか、手持ち資産を担保にして「お金」を借りる事で不足資金を補充する。


労働力調査


現代経済は、生産と消費の箍が嵌められていて、はじめて、枠組みが作られる。箍が外れれば経済は、制御できなくなるのである。



労働力調査


消費構造と生産構造や分配構造は、相互に連関している。
サービス業の労働人口が増えているのに対して農林業などの人口が減少しているのが歴然としている。そして、この傾向は、家計構造を反映している。
また、バブル崩壊後、製造業の就業者数が減少しサービス業の就業者数が伸びている。




消費の働き


消費は、経済における最終的局面、ゴールを意味する。経済は、消費を実現する為にあると言ってもいい。
経済の土台は、消費の在り方、財をどの様にして消費されるかによって形作られる。一瞬で消費される財もあれば、時間をかけて少しづつ消費される財もある。どの様によって消費されるかによって財の性格は左右される。

生きる為に絶対に必要な物は、食料である。食料は、日々、消費される。日々、消費しなければ生きていけないからである。
経済の核を構成するのは、食料であり、それが経済の根源となる。食料は、日々、消費され、常に、補給され続けなければならない。この食料の性格が経済の基礎的性格を形成する。そして、一部の食料は、日々消費されながら、余った食料は、保存されるようになる。
食べ物がなくなれば人間は生きていけない。食料を調達する事で経済は進化したと言える。食料を調達する目的で生産が始まり、市場が形成され、「お金」が生まれた。

次に、住む家である。家は、長期間かけて消費される。長期間かけて消費される事によって家は、財産となり、資産となった。

服は、ファッションを生んだ。衣服は、必需品であると同時に、贅沢品でもある。衣服は、自己表現の手段でもある。
この様に消費は、経済の性格づけるのである。消費は文化を作る。

現代の経済では、消費は支出を前提とする。国民経済計算書では、消費は消費支出を意味する。支出は、消費と貯蓄からなる。可処分所得の中で消費されなかった部分は、貯蓄されるのである。

アルゴリズムの基本構造は、順次構造と選択構造と反復構造である。消費か貯蓄かは、選択構造である。

消費支出は、中間消費と最終消費からなり、中間消費は、費用としての働き、つまり、産出のために必要とされる消費支出を意味する。
それに対して最終消費には、家計最終消費支出と政府最終消費支出、対家計非営利団体消費支出がある。
そして、最終消費支出には、個別消費支出と集合消費支出があり、集合消費支出は、政府最終支出の中で発生し、家計や対家計民間非営利団体は、個別消費支出しかないと言える。

消費は市場を形成する。
消費は、支出によって実現される。支出は物価を形成する。故に、物価は、消費に基づいて形成される。
物価は、物の価格であり、価格は収益を構成する。収益は、経営主体、産業の根源である。
故に、経営や産業は、消費動向に影響される。

消費は、生活を構成する。生活そのものと言える。
故に、消費は生活費に反映される。

生活費の構成は、財の性格によって制約される。財の性格は、消費の在り方によって形成される。
例えば、食品やエネルギーの様に日々消費される財と住宅の様に長期間にわたって効用を発揮される財に対する支出が家計を構成している。

人間が消費できる量と言うのは決まっている。しかし、価格は、変化する。無論、財の需給は、物の過不足や人口の増減の影響は受ける。しかし、人も物も変わらないのに、価格だけが乱高下する事がある。
即ち、価格は、人と物との制約を必ずしも受けていない事になる。価格が何によって変動するか、それが、インフレーションやデフレーションと言った経済現象を解き明かす鍵である。

一人の人が食べる量は一定している。また、食料は毎日消費される。食料は、生きていくために不可欠な資源である。食品の多くは、農産物や海産物等で天候や作柄、環境の変化に左右される。この様な働きが財の性格を決める。財の性格は市場価格の変化に現れる。

衣服の難しさは、衣服は、必需品であるとともに贅沢品でもあるという点である。衣服がなければ生きていけないという訳ではないが、衣服は、衣食住と言うように必需品を構成する。そして、人は、生活にゆとりが出ると衣服に「お金」をかけるようになる。一般に人は、普段着や礼服などの様に目的に応じて衣服を変える。
エンゲル係数で食料品費が根幹の指標になるのに、衣服は、貧困の基準にはならない。生きる為の必需品というよりむしろ、衣服は、自己実現の手段である。衣服は、量から質への転換を象徴する。

量の拡大は、質の変化を招く。質の変化は、質を細分化し、等級を生み出す。食品も上級品、中級品、並に区分される。

支出項目は、最終消費と総資本形成に帰結する。

最終消費は、一単位当たりの経済活動のゴール、終点と言える。経済の最終利用形態は、中間消費、最終消費、固定資本の三つからなる。


消費は、収入の根源である。


消費は消費主体によって行われる。消費主体は、生活共同体である。生活共同体である消費主体には内と外がある。内と外は、内的空間外的空間を形成する。内的空間は、非市場的空間であり、非貨幣的空間であり、外的空間は、市場空間であり、貨幣取引の空間である。
消費主体は、個人の集合体である。消費主体は、世帯を構成する。消費主体は家計を形成する。家計は、所得を基本に成り立っている。

消費の源泉は、家計収入、可処分所得にある。
所得は、全ての人間が受け取られるわけではない。消費は、全ての人間が行う。
所得は、消費主体に最低一人はいなければならない。消費単位が受け取る所得によって獲得される資源は、消費主体を構成する全員に配られる。所得は、消費主体が支出する生活費の資金源である。消費主体が受け取る所得は、最低限の生活が保障されるものでなければならない。

消費は、支出である。支出は、所得の範囲内で行われるのが原則である。所得の範囲を超える場合は、貯蓄を取り崩すか借金をして不足分を補う必要がある。
支出は、最終消費支出と貯蓄からなる。所得から支払われた支出を除いた余りは、貯蓄へ回される。貯蓄は、直接投資か間接投資に分類される。
支出と収入は表裏の関係にある。
収入と支出の総和は外部取引では、ゼロである。非対称なのは内部取引である。
経済主体内部では、収入と支出は一致していない。その差が「お金」の過不足を生み、「お金」の流れを作るのである。
そして、その「お金」の流れが経済を動かす。

国民経済計算書では、そして、消費の対極にあるのは、可処分所得である。消費の根源は、収入である。

消費のアルゴリズムの基本は、「お金」を稼いで、稼いだ金で、生活に必要な物を市場から購入する。
「お金」が足りなければ、借金をするか蓄えを取り崩して補充する。
余った「お金」は貯金する。
つまりは、どこからか「お金」を工面する事から消費のアルゴリズムは始まる。収入が消費の源なのである。

お金を稼いで、稼いだ金で、生活に必要な物を市場から購入する。これは、順次構造である。それを繰り返せば反復構造になる。何を買うかは、選択構造である。

金持ちには、高額所得者と資産家
の二種類がある。高額所得者は、月々貰える所得(フロー)が高額なのである。それに対して資産家は、莫大な資産(ストック)を持っているのである。

現在の市場経済は、予めになんせかの基準、根拠に基づいて「お金」を分配し、分配された「お金」を使って生活に必要な財を市場から購入する事で成り立っている。つまり、分配は、市場でなされるのではなく。それ以前に何らかの基準、根拠によって「お金」を分配する事で実現する。何を買うかではなくて、どれくらい稼いだかによって決まるのである。故に、市場ばかり見ていても分配の本質は見えてこない。要は、どの様な基準に従って、何が「お金」を分配するかが鍵なのである。

投資と消費が収入を決める。投資は、消費に基づいてされる。要するに、収入の根源は消費であり、消費の為の支出なのである。

収入を決めるのは、支出であり、支出は消費によって生じる。つまり、収入と支出は表裏の関係にあり、支出は、消費によって成立する。この関係を忘れてはならない。
「お金」が経済の規模を決めているのではなく、消費が経済の実体的規模を決めているのである。

ホテル経営を考えてみればわかる。一軒のホテルの部屋数には限りがある。
ホテルの収益は、客室数と稼働率、単価の積によって決まる。この内の客室数と稼働率は、物理的に決まる。そして、再投資しないと客室数は増えない。つまり、客室数を基礎としている値には、自ずと限界がある。収益や小入を増やすためには、単価を上げるしかないのである。これが経済の根本の形である。
景気の変動によって単価を上げたり、下げたりする事によって収益や収入を変えたとしても、実体である客室が変化しない限り経済の実質的規模に変化はないのである。
そして、経済の実体的変化は、消費によって決まる。だからこそ、消費の経済を構築する必要があるのである。

収入が限られているから支出を家計は、極力、平準化しようとする。これは、所得の平準化にもつながる。所得の平準化は、定職、定収への要求に結び付く。だから、雇用の形態が重要となるのである。また、給与所得者に還元しようという働きになるのである。これは自由主義国のみならず。社会主義国も同じである。
故に、雇用形態が経済の根底を定めるのである。非正規採用者が増えると市場構造は歪み、市場は変質する。

所得は「お金」で支払われることが求められる。
余った「お金」は貯蓄され、投資へと廻される。貯蓄は、ストックを形成する。貯蓄は、「お金」が不足した時の予備費となる。また、投資の元本となる。そして、「お金」は市場を回るのである。

ここで重要なのは、物や用役は消費されるが「お金」は、消費されずに市場に蓄積されるという点である。「お金」は、天下の廻り物なのである。

人々が、何を欲し、何が不足し、何を必要としているか、それが経済の原点なのである。
消費にお構いなく生産しても過剰生産か生産不足に陥るだけなのである。
生産効率は、消費を基礎として決まるのである。
消費が需要を形成し、生産が供給量の源となる。需要と供給を調節するのが市場であり、その手段が「お金」である。この関係を忘れ、「お金」の動きに惑わされると経済の本質は見失われる。

需要は何によって生まれるのか。需要を生み出すのは、消費である。消費を決めるのは、必要性である。需要の性格は必要性によって違ってくる。第一に生きる為に必要となる財。第二に、自己実現のために必要とする財である。

生産と消費は経済の両輪であり、経済と消費を結ぶ軸の働きをしているのが分配である。

収入は、雇用形態や給与体系などによって違いが生じる。
雇用は、個人事業者、給与所得者、派遣、パート、アルバイトなどがある。
給与の種類には、時給制、日給制、日給月給制、月給制、年俸制、歩合給、完全歩合給などがある。

なぜ、所得を単位期間で分割して支給する必要があるのか。それは、消費の性格に依るのである。財の消費の性格は、その財に関わる産業の性格を制約する。
分割して支給するのは、短期間で入れ替わる財が存在するからである。生鮮食料の様に短い期間で消費される財がありそのような財は、消耗品であり、必需品である。そのような財に対応する所得は、一般に月ぎめで支給される。かつては、日給もあったがそれでは、生活が安定せず、計画が立てられない。かと言って一年では、日々の生活が成り立たない。だから、一つを単位に一定額の「お金」を給与として支給する。これが月給である。
一定額を一定の周期で安定的に支給する事で日常の消費を平均化する。それが経済を安定させるために、重要な役割がある。
故に、雇用が鍵を握るのである。生産主体は、利益を上げる以上に一定額の給与を働きに応じて周期的に配分する事にこそ意義がある。利益を追求する事に追われて人件費の働きを忘れたら生産主体は本来の効用を発揮できなくなる。
消費の原点は、所得、収入にある。

収入は、支出の裏付けであり、消費の財源である。収入の在り方は、消費を制約する。収入が保障されなければ、消費は伸びない。

家計の債権と債務


一般に収入と言うと可処分所得を指して言う。しかし、収入は可処分所得だけではない。金融資産や非金融資産を処分しても収入は得られるし、借金も収入である。借金による収入は、債権と債務に転じる
我々は、借金による収入は、可処分所得とは別勘定にする事が多い。なぜならば、借金による収入は、返済義務があり、金利が付くからである。つまり、収入と言っても自分のものと言うより他人の物を一時預かっているという感じである。金融機関の預金も預金者は、金融機関に預けているつもりかもしれないが、金融機関にとっては、借金である。中小金融機関では、借金の半分、運用先が見つからないから、預貸率が2019年現在で、50%を切っているのである。
また、獲得した所得を全て使い切るわけではない。多くの家計では、いくばくかの「お金」を残して何かあった時の足しにと蓄えに回す。その蓄えが金融資産となる。預金などの金融資産も金融機関にとって借金である。
この様な貸借関係による収入は、損益にかかわらないために移転とする。
問題は、この移転も収入であり、支出だという事である。しかし、通常、可処分所得や経常的支出として認識されない。移転は、長期資金の流れとして水面下で働いている。
多くの人は、損益にばかり気をとられて水面下で動いている貸借による資金の動きに気が付かない。実際、会計においても、貸借に係る入金や出金を表す勘定がない。この点が問題なのである。実際、経済主体を破綻させるのは、損益ではなく貸借上の資金不足なのである。
貸借は、長期資金の働きを現す。

債権と債務は、「お金」が市場側に流れる時に形成される。一度、債権と債務が構成されると、債権から債務の方向に、常時、一定の返済圧力がかかる。

家計でも、家計を破産させるのは、借金である。いくら浪費をしたくても「お金」がなければできない。怖いのは借金である。ところが、経済を問題とする時、損益ばかりに囚われて水面下の「お金」の動きを見落としている。
借金がなければ破産はしないのである。それなのに、借金は、静かに隠れた脅威なのである。
生活苦より借金の方が人を狂わす。なぜならば、借金は、自分一人で片づけられないからである。借金は信用や道義心に係る事だからである。借金の根本は、信用であり約束である。借金は人として守るべき約束を前提して成り立っている。だからこそ、人格を破綻させるのは、借金である。負債である。借金は、人を隷属させ、拘束する。
それなのに、負債は、静かに水面下に潜んでいるのである。貸借のよる「お金」の動き、移転を管理する事が市場経済においては不可欠な要件なのである。

収支は、損益移動の二つがある。一般に、損益ばかりに気をとられて移動を見落としている。しかし、資金の回収は、収益に基づかないと付加価値を生まない。
投資される資金は、移転である。借金して投資に回される資金も移転である。
移転は、損益にはかかわりはない。故に、移転は、付加価値を生まない。損益にかかわるのは、移転された先の民間企業が収益として認識し、それを費用に転じた時である。その時はじめて資金は市場に供給される。
公共投資も国債も付加価値をそれだけでは生みまない。また、民間企業も単純に収益に転化しただけでは、資金を回収できない。
最大の問題はそこにある。期間損益によって資金を回収しながら、回収した資金を返済する為の勘定がない。勘定としてあるのは、減価償却費と税引き後利益だが、これでだけでは、全ての移動資金を網羅する事はできない。損益計上されずに、回収できなかった資金は、市場に継続的に残留する事になる。

国債の元本の返済は、税である。税の財源は、所得と収益、付加価値である。相続税は資本移転である。財政にはかかわらない。資金が市場に回って付加価値を生み出さないと国債の元本の返済はできない。資金が市場に供給され、それが収益や所得に転化されない限り国債は、回収されない。

経済の仕組みは、内熱機関や電気機械に似ている。仕組みを「お金」が循環する事で成り立っている。
問題は、「お金」をどれだけ、いかに回すかである。だから、重要なのは、流通量と回転数なのである。
確かに、借金をしても「お金」は、手に入る。しかし、それでは負債が水膨れするだけです。収益から借金を返済できなければ、負債が幾何級数的に増殖する。公共事業に携わる人の中には、いくら赤字でも「お金」が回っていればいいと考える人がいるが、それでは金利が抑制できなくなる。

借金は、前受け金のような性格がある。収入と言ってっも厳密にいうと自分の「お金」ではなく、預かっているというだけなのである。だから、預金は借金なのである。そして、将来にわたって、一定期間、返済する義務が生じる。しかもこの責務は固いのである。返済の為の支出は、契約に基づくために法的にも、自分の一存では変更する事が難しい。一定期間、一定額を返し続けなければならなくなる。その返済額を所得が下回れば多くの場合、破産する。また、貸借の返済は、移動であるから付加価値を生まない。経済成長に結びつかないのである。この様な状態を資金が寝るというのである。

貸借は、付加価値は生まない。しかし、貸借が、収支である事は損益と変わりない。つまり、収支には、貸借と損益の二つがあり、その差は付加価値を生むか生まないかにある

市場では、消費は、支出として現れる。支出は、所得の裏返しである。所得は、全て消費されるわけではなく、消費されなかった余剰の部分は、投資される。預金は間接投資として投資の一部を形成する。投資は間接投資だけでなく、住宅投資等の直接投資がある。
この様に支出には、消費支出消費投資がある。

投資からは債権と債務が生じる

消費主体の中心である家計の構成は、日常的、経常的な支出、預金、年金、保険等の将来の支出に対する債権、住宅ローンなどの債務からなる。

家計の借金は、基本的に移転勘定であり、決済勘定ではない。つまり、金融機関から住宅ローンなどの資金を借りても「お金」は、消費主体である家計を素通りして、建設業者の手に渡り、消費主体にとっては、所得として反映されず、債権・債務として認識されるという事である。実際に「お金」の効用が発揮されるのは、約定に従って借金を返済した時点である。

故に、家計として支出が認識されるのは、住宅ローの月々の返済をした時で、家計としては、家賃と同じような働きをしている。賃貸と違うのは、住宅ローンの返済は、固定的で債務としての法的義務を伴っている点である。
家計が苦しくなったからと言ってやすやすと変更ができない点にある。賃貸の場合は、引っ越せば、借金と違って家賃を節約する事が可能である。ただ、借金をして家を手に入れた場合は、家の所有権を獲得する事はできる。

現金主義である家計は、利息だけでなく元本の返済額も支出として認識される。

この点が問題なのである。つまり、一般に借金と言うのは、経常収支では、返済金として認識され、その性格は、消費支出と変わらないのに、実際はその背後で資金移転があり、収入が途絶えたり不足すると、それが、他の消費支出を圧迫するようになってくる。家賃は、費用であり、借金の返済は、移動である。
一定の所得が維持されているうちは、生活に支障をきたす事はないが、一度、所得が減少してくると生活を成り立たなくさせてしまう。それが債務の恐ろしい点である。
しかも、資産価値の低下は、債権の担保力も悪化させる。それが新規の投資を抑制する要因ともなる。市場全体からすると金巡りが悪くなるのである。

生産主体の出発点が債権と債務であったように消費主体である家計も債権と債務が出発点となる。
ただ、基本的に家計は、現金主義であるから、家計は、債務、即ち、「お金」を原点とするのではなく。債権、即ち、資産、物を原点とする。

家計は、現実の物、即ち、資産の存在が原点となる。資産とは言えとか、土地である。
また、労働力は家計の有する生産手段の一つである。つまり、労働力こそ最大の資本である。よく体が資本と例えられる。それは、労働力を指して言う。

第一に、労働力を提供して所得を得る。それが原点である。働いて得た所得で生計をたてる。

所得の範囲内で必要な財を市場から購入して生活する。所得の中から生活のため支出した分を差し引いた後、余った部分は、貯蓄に回されるそれは家計の債権になる。預金は、家計の債権であると同時に、金融機関の債務でもある。この様にして「お金」は回り始める。「お金」の効用は、経済主体間の「お金」の遣り取りによって発揮される。
出したがいれば受け手が降り。受け手がいれば出し手がいる。受け手と出し手の相互関係によって経済は成り立っている。
一局面だけを見ていたら社会全体における債権と債務の働きは見えてこない。

家計の債権の中には、年金もある。
市場経済は、借金で成り立っていると言っていい。借金が成り立つためには、担保する物を必要とする。担保されるのは、資産か、将来の収入である。


国民経済統計

家計の債権は、家計資産を形成する。
家計資産には、金融資産と固定資産を形成する。金融資産は、現金預金の他に、年金や保険、有価証券などがある。
金融資産を作るむ目的は、将来の出費を維持する為に準備する事不測な事態に備える事である。将来の出費とは、住宅、教育、結婚、出産、育児、老後の資金である。不測の事態とは、病気、災害、事故等である。

家計の債権や債務は、生産を目的として生じるのではなく。消費の結果、生じるのである。つまり、基本的に家計の金融資産は、所得から消費支出を差し引いた余剰資金によって形成される。そして、基本的に経済が安定し、軌道に乗ってくると全ての所得を使い切らずに蓄えに回すようになるから家計の金融資産は、蓄積されていく傾向がある。
家計に蓄積された資金は、民間企業に再投資される形で「お金」は循環するようになる。これが市場経済の健全な流れである。ところがバブル崩壊後、この流れが変調をきたし、民間企業から金融機関に余剰資金が逆流し始めた。その結果行き場を失った資金が金融機関に滞ったり、財政に向かったりしているのである。つまり、余剰資金は、市場に還流せずに金融や財政に滞留しているのである。この流れが市場を収縮させている。

家計の債権は、固定資産も成立させる。家計の固定資産は、主として住宅を指す。住宅は、生産手段ではなく、消費手段である。故に、住宅から付加価値は生れない。あるのは、支出だけである。
持ち家の場合、この支出も借入金の返済と言う形で表れるため、家賃の様に費用とは認識されない。
一度住宅投資をした場合、返済の為の支出は固定的なものになり、可処分所得を狭くする。所得の減少や所得を失えば、家計を破綻させる最大の要因となる。なぜならば、借金の返済は、法的な義務を伴うからである。家計が苦しくなったからと言って減らす事は原則的にできない。
経済主体を破綻させる原因は、借金なのである。

「お金」は、所得として分配され収益として還流されるこの動きによって「お金」は、市場を循環するのである。そして、「お金」の過不足は、貸借によって補われる。貸借を司るのは金融である。所得の偏りは、「お金」の巡りを悪くするから所得の再配分によって「お金」の配分を均す。所得を再配分するのは政府である

基本的に「お金」は、生産主体と消費主体を循環する事で効用を市場全体に及ぼす事が出来る。それを実現するのが分配の仕組みなのである。
分配は、全ての国民必要な資源を、常時遍く配分する事が目的である。その為に、「お金」を絶えず全ての国民に供給しつづけるのが経済の仕組みの役割である。

注目しなければならないのは、生産主体の債権と債務の働きと消費主体の債権と債務の働きの違いである。
生産主体は、生産手段に投資する為に形成されるのに対して、消費主体の債権と債務は、所得を消費した結果として形成されるのである。

住宅ローンや自動車ローンの様に家計の債務は、基本的に使い道が特定されている。
手持ちの資金が不足すれば借金をする必要がある。家計の債務の一番大きな部分を占めているのが住宅ローンである。

最大の消費主体である家計が最大の余剰資金を持ち、最大の生産主体である非金融法人企業に資金を供給する。このダイナミックな資金の流れが市場経済を維持してきた。そして、経済主体間の不均衡を生産主体と消費主体を兼ねる政府が調節をし、「お金」の過不足を金融機関が補う。これが国内経済の基本的構図である。

ところが、資金調達力を奪われた民間企業は、資金を内部調達する様になり、資金余剰主体に変質した。その為に、資金は市場に流れなくなり、流れを補う形で財政が慢性的な資金不足となり、財政は、付加価値を生じさせないために市場が収縮しているのである。
市場が縮小すれば所得が減少する為に、相対的に債務の働きが強くなる。
それがゼロ金利やデフレーションの背景である。

消費支出


消費支出は、一国の産業の縮図である。支出構造、構成を見ればその国の産業の状態、構造が見えてくる。
その意味でも消費支出は一国の経済を主導している。

消費支出は、収益に転じる。故に、消費支出は、産業の基盤を構成する。。


総務省統計局

消費支出からも食料の占める割合が、継続的に低下しているのがわかる。ただ、リーマンショック以後わずかに上向きに転じている。これは、食品産業の消長を表している。食料は、生活の基盤である事は変わりない。問題は、食品産業の生産性の問題なのである。生産構造は、消費構造を反映する。

大切なのは、消費の性格である。毎日、毎日、確実に消費し続けなければならない物と、一生に一度か二度しか消費しないが、自分の人生に決定的な働きを支出とでは、消費の働きや性格が違うのである。そして、消費の働きや性格の違い産業の性格に決定的な差をもたらすのである。

消費支出の財源は、可処分所得である。可処分所得は、国民経済計算書では、所得の第二分配勘定の残高項目として、消費主体が金融資産や非金融資産を処分したり、又は、増やすことなく財貨・サービスを消費できる最大量と定義される。(「マクロ会計入門」河野正男 大森明著 中央経済社)

消費主体は、一般に政府家計がある。
家計の支出は、基本的に消費と投資によって構成される。投資の中には、貯金も含まれる。

消費支出は、生活の為の支出である。
生活費とは、生きる為の活動にかかる費用である。
経済は、生きる為の活動であるから、生活費は経済の基盤となる費用である。
最低限の生活費が保障されないと経済は成り立たなくなる。

消費支出には、固定的支出変動的支出がある。
変動支出には、一時的支出周期的支出がある。

固定的支出は、家賃の様に一定額派生する支出を言う。
変動支出は、暖房費の様に一定の周期で派生する支出を言う。
一時的支出とは、医療費のように一時的に派生する費用を言う。

消費支出には、個人的消費支出と共有消費支出がある。個人消費支出とは、個人的消費を意味し、共有消費支出とは、消費単位が共有する消費支出を言う。
個人消費支出には、食費や衣服費等があり、共有支出には、家賃などがある。

消費支出には、短期的な働きをする支出と長期的な働きをする支出がある。
短期的な支出は、日常生活に基づいて派生する消費支出である。
長期的な働きは、ライフサイクルに従って派生する消費支出を言う。
ライフサイクルは、生病老死を意味する。

また、支出には、不定期で一時的な支出と不測な支出がある。
不定期で一時的な支出の典型なものは、冠婚葬祭である。
不測な支出は、深刻な事態を引き起こす事がある。好例は、病気や事故である。不測な事態に備えて保険は発展してきた。
医療費は、支出の中で特異な位置を占める。医療費が負担は、家計によって違いがある。また、高齢者は介護の問題もある。医療費の負担が過大になれば家計が成り立たなくなる恐れもある。
問題は、公正な医療を受ける事が出来るかである。医療費は、人の生死にかかわる出費である事を忘れてはならない。
また、医療費は、私的支出だけでなく、公的支出や資金移転を含んでいるため資金の流れ全体で見ると複雑な働きをしている。

消費費支出の基本は、衣食住に係る支出である。近年衣食住にエネルギー、通信費が加わってきた。
消費支出の基幹は、ライフラインに係る支出である。
毎日、発生し、生死にかかわる支出が家計の根底となる。生死にかかわる出費、支出は、欠かすことができないからである。この部分を生活の糧とする。そして、このような毎日消費される事で生死にかかわる財の確保は、国策、国家戦略に直結する。この様な資源が不足すると国民生活が成り立たなくなり、国家の独立を危うくするからである。
毎日、発生し、生死にかかわる資源とは、第一に水食料であり、第二に、電力などのエネルギーである。そして、それに近年食料やエネルギーに準じる様になってきたのが、通信や交通手段である。
着物や家は、生きていくために、絶対に不可欠なものとは言えない。しかし、服や家がないと生活の最低限の水準が保てない。また、寒冷地などでは生命にかかわる資源でもある。
この様な財の消費は生活の基盤的な支出を構成する。

一番の物は、水と食料である。水と食料がなければ生きていけない。これは必需品である。しかも、消耗品であり、生鮮品でもある。つまり、毎日、補給し続けなければならない物資である。
食料品は、エンゲル係数の様に貧困の指標にもなる。貧富は格差が生み出す相対的な事である。
国家経済の大事な指標の一つは、人間らしく生きる為には最低限何がどれくらいの所得が必要なのかを表すものである。それは所得ではなく支出である。支出消費は表裏をなすが支出と消費は別物だからである。



総務省統計局 家計調査より作成

生きる為に必要な財を確保する事が出来るようになったら次に求められるのは、人間らしい、あるいは、自分らしい文化的な生活を営むために必要な支出である。
文化的な支出には、社会的な支出と自己実現のための支出がある。
社会的な支出の典型は、冠婚葬祭である。冠婚葬祭こそ文化の要である。

衣食住は、基礎的支出ではあるが、同時に、文化的支出である部分を含んでいる。人々は、生活が安定してくると質を求めるようになるからである。食べ物なら美味しい物を求め、衣服は、お仕着せではなく自分のファッションで、家は、自分らしさを求めるようになる。

現代の産業を形作ったのは、凄まじい勢いの家事の合理化であり、家事の合理化を推進した家電製品の技術革新である。この点を抜きに家計を論じる事はできない。家事の合理化は、家族の在り方を根本から変え、経済全般の骨格をも変化させた。一番重要なのは、家事を組織的に行う必要がなくなり、家族の分業が必要とされなくなった点である。家事労働は、個人労働に置き換わったのである。その事で家庭内での序列も変更されてきた。そして、家族は核家族化され、単身化されてきた。これは、晩婚化、非婚化の一因でもある。つまり、家族は集団や組織である必要性が失われたのである。

住宅にかかる費用で注意すべきなのは、持ち家か借り家かで支出の性格が違ってくる事である。家賃は、費用であり、借金の返済は、資金移転である費用は、付加価値となり、移転は、付加価値とならない。その為に、資金の働きを変質させる。住宅ローンなどの社会的負債が増大すると資金の流れが変わる。この事は、経済を考察する上では、忘れてはならない。

消費支出は、人の成長に従って変化する。幼児期には育児費用が嵩み、学童期になると学費などの教育費がかかるようになる。子供が成人に達し、世帯を別に持てば、養育費がかからなくなる。働き手が定年退職すれば、所得は年金を頼らなければならなくなる。この様に消費支出は一律にとらえる事はできない。
人の成長に従って消費主体も変化する。単身世帯から、夫婦のみの世帯へ、夫婦のみから夫婦と子供の世帯へ、親がいれば三世代世帯へと変質する。

消費支出には、生活の基盤となる支出文化的支出がある。生活の基盤となる支出とは生きる為に必要な支出を言い、文化的支出とは教育費や遊興費のような自己実現の為の支出を言う。
生活水準が向上してくると教育費や娯楽遊興費の比率が高くなってくる。ただ、これらも社会的分配の一端である事を忘れてはならない。一人ひとりの所得支出構造に影響する事を忘れてはならない。
生産性の効率と分配とを合わせて考えないと教育費や娯楽遊興費の働きを理解する事はできない。
娯楽遊興費の比重が高くなればコモディティ産業が圧迫される。大切のは均衡である
圧迫されている産業の生産性が上昇していなければ、つまり、一人当たりの生産量が改善されていなければ、圧迫されている産業に働く者の所得の相対的低下を招く。
どの程度圧迫されているかは、家計に占める財の比率によって明らかになる。

消費投資


消費投資は、経済の原型を表している

消費にも投資がある。消費投資で一番大きいのは、住宅投資である。
住宅以外にも、自動車のような耐久消費財に対する投資がある。また、教育投資等もある。保険や株などの金融資産に対する投資もある。老後の蓄えも一種の投資言える。大家族制度下では、年老いて働けなくなったら子供が面倒を見たのである。それ故に、孝と言う徳目が重視された。かつては育児も投資の一種だったのである。
国民国家化成立する以前は、国が国民の生活を保障するという思想はなかった。自分たちの生活は、自分たちの力で守る。生産的な働きができない者は、捨てられたのである。我々の親の世代でも、働けなくなったら家族を路頭に迷わすとか、生活の糧を稼ぐと言った考え方が一般的であった。親の老後の世話をするのは、子の勤めであり、国や世間を頼る事は出来なかったのである。故に、老後の蓄えも子供を養うのも一種の投資だとされた。
現在の国民国家は、教育や老後の世話は、国の責務だという思想によって成り立っている。
故に、現在の主たる消費投資は、住宅関連である。

消費投資は、家計の債権と債務を構成する。
長期資金の働きは、債権と債務の関係に基づいている。債務の清算は、長時間かかる事が特徴で、また、損益上に現れない資金の移動を伴っている。損益上に現れないと言っても収支に係る事である事は確かで、長期資金の資金繰りに失敗する事が、生産主体を破綻させる直接的原因である点を見落としてはならない。

消費投資を住宅投資を例とすると以下の様になる。
先ず、消費投資が成立する為には、消費主体が住宅投資をすると決定する必要がある。住宅を得る手段としては、住宅投資以外に賃貸がある。
基本的に消費主体は、住宅に投資した場合の経済的効果と賃貸の経済的効果を比較する事になる。つまり、基本的に経済は、賃貸にかかる費用と投資にかかる費用の比較によって経済効果を測定する。

賃貸にするか住宅に投資するかを比較するにしても、まず住宅投資にかかる資金を計算する事から経済計算は始まる。
検討する要素には、人、物、「お金」がある。この点をよくよく注意する必要がある。投資を「お金」の問題だけに特定すると投資の意味が失われる。この点が現代経済学の重大な欠陥である。
住宅の物的な価値としては、先ず、敷地面積、建設技法、地理的条件、新築か、中古か、張虎の場合築年数、耐用年数、償却年数、その時点その時点の時価等を検討する事が必要となる。
次に人としての要素は、消費主体の支払い能力が重要となる。例えば、安定した収入が確保されているか。預金などの十分な資産を持っているか。収入は、あと何年保障されているか。家族構成は、どうなっているか。万一支払いができなくなった時、保証する者はいるかなどである。
そして、「お金」は、元本、金利、返済額の総額、返済方法、月々の返済額、月々の収入などである。これが経済の基本であり、フローとストックの関係を示している。

返済額が収入を上回っていることが条件が大前提なのである。この前提が成り立たなくなると住宅投資は、破綻する。
収益が費用を上回ると債務が増加し、一定水準を超えると返済不能に陥る。フローとストックは無縁ではないのである。

消費投資は、決して小さい額ではない。住宅投資は、設備投資と同じくらい経済に影響を与えている。



国民経済計算書



資金の働きには短期的資金の働きと長期的資金の働くの二つがあり。相互に密接に影響をしあっている。
多くの人が短期的資金の働ばかりを見て長期的資金の働きを見ない。
実際、短期的な資金の働きは、表面に現れるが、長期的資金の働きはなかなか表には現れてこない。その為に見落とされがちだが、生活を破綻させてしまうのは、長期的資金の働きである。

その典型が消費者金融である。消費者金融のトラブルは、目先の資金不足を甘く見て、安直に高利の資金を借りて、首が回らなくなる事である。
少額の借金だと言っても侮れない。元本が雪だるま式に増えたら、金利の支払いだけでも、月々の所得を上回るようになるのである。フローとストックは、密接に関係しているのである。

投資の結果は、総資本形成として現れる。総資本形成の中身は、住宅、その他のの建物・構築物(住宅以外の建物、道路、鉄道、パイプライン、水路等)、機械、・設備(生産設備、通信設備、車両など)、兵器システム(戦闘機、潜水艦、戦車。ミサイル、軍艦など)、育成生産資源(制度単位の管理下にある動植物、魚類など)、非生産資産の所有権移転コスト、知的財産権(研究開発費、鉱物探査、ソフトウェア、データベース、娯楽・文学・美術品のオリジナルなど)からなる。(「マクロ会計入門」河野正男、大森明著 中央経済社)
総資本形成と流動資産、負債がストックを構成する。

消費と貯蓄


消費と貯蓄は、経済の最終局面を表している。ある意味で経済の最終目的だと言える。
支出は、最終的には、貯蓄と消費支出の和になる。そして、単位期間内の経済活動の帰結と言っていい。
貯蓄と消費投資は、表裏をなしている。ストックを構成する。家計部門の固定資本形成となる。

消費と消費投資は、文化でを作る。
消費こそ自己表現である。それが端的に現れるのがファッションである。服装は、思想であり、哲学である。
労働が自己実現の手段とするなら、消費は、自己表現の手段である。
消費は美学である。

消費は、最終消費支出として現れる。最終消費支出には、民間最終消費支出と政府最終消費支出がある。

「お金」の働きは、移転と決済である。移転からストックが構成され、決済からフローが形成される。ストックは、支払いを準備し、フローは、「お金」の効用を発揮する。

所得から、消費に必要な物を購入し、余った分を貯蓄する。物を購入する事を裏返すと支出になる。
支出は、消費支出と貯蓄の和である。これが「お金」の流れを作る。
故に、支出の性格は、消費と貯蓄の内容によって形作られる。

消費には質と量がある。
支出は、量を重んじるか、質を重んじるかが重要なカギを握る。
外食しようと思ったら同じ値段で量をとるか質をと値かで悩む。若いうちは質より量。歳を取ると量より質と変わってくる。いずれにしても選択肢がないのが困る。

市場経済の本質は選択肢である。選択肢が狭まったり、なくなると途端に市場経済は活力を失う。だから、独占を市場経済は、嫌うのである。

過当競争に陥れば、値崩れを起こして利益を確保できなくなる。利益を維持する為には、市場を規制する必要がある。市場を規制できなければ、市場は独占寡占に向かう。それが市場経済である。

経済の最終目標は、消費である。消費された部分を除いた余った部分は、貯蓄される。
貯蓄は、ストックを構成する。ストックの本質は、資産と負債なのである。


日本銀行


消費の構成と質


生産に投資と経常収支があるように、消費にも投資と経常収支がある。
生産が生産手段に対する投資と生産のための経常収支であるのに対し、消費は消費のための投資であり、消費のための経常収支である。

消費は、財政と家計を形成する。故に、消費の構成は、財政と家計の構造に現れる
財政は、公共の場の上に成り立ち、家計は、生活の場の上に成り立つ。
故に、財政は、公的支出からなり、家計は、私的支出からなる。

消費には公的消費と私的消費がある。消費の本となる支出にも公的支出と公的消費がある。
公的支出は、公共投資と所得の再分配、そして、公的消費がある。公的投資の目的は、社会資本と国防が主たるものとなる。国防は、公的消費にも関わる。戦後の日本人は、国防と言う事を厭う。故に、国防に対して明確な指針が出せない。戦前に軍事費を不可侵な事として財政が破たんした。しかし、国防を忌事としている限り、国家の存亡を危うくする。日本人は、国防に対して真摯、真面目に取り組まなければ国家経済も立ち行かなくなる。

日本の戦後の高度成長は、平和のお陰である事は間違いない。だからこそ、平和を維持する為に必要なコストとしての国防を考える必要がある。

国民経済計算書を作成する動機は、戦費戦争の継続可能性にあるという事実を忘れるべきではない。戦争が経済に与える影響抜きに財政は語れない。戦争は、国債発行の原因でもある。道義的に戦争を討議するだけでなく。経済的観点からも冷静に経済に与える得失を計算する事が求められる。
経済は、理想でも観念でもなく。現実である。

公的支出の必要性は、百年に一度、二百年に一度起こるか起こらないかと言う災難に備える事でもある。戦争や大地震は、百年に一度起こるか起こらないかの出来事である。百年、二百年に一度起こるか起こらないかと言っても一度、起これば、甚大な被害となり、国の存亡にかかわる大事なのである。戦争や大地震に備える為の支出も公的支出の中で重要な位置を占めている。

家計には、消費の性格や働きによって階層ができる。一番基礎となるのは、ライフライン、衣食住に係る支出である。そして、財の性格に依って支出の周期に財毎に差が出る。食品の様に一日三回支出されるものがあるかと思えば家の様に一生に一度か二度しか支出されない財もある。
一つひとつの支出は少額な物や巨額なものもある。日常的計画的な支出するものもあれば、予測がつかない出来事に備える支出もある。

家計は、生きる為の活動を意味する。生きる為の活動には、生存のための活動と自己実現のための活動があるがその境界線は必ずしも明確ではない。
生きる為の活動は、俗に衣食住として表される。生きる為に、最低限必要な資源として衣服、食料、住居があげられる。今日では、この衣食住の他にライフラインとしてエネルギー、通信が加えられる。

家計の中で一時的な支出の一つは、冠婚葬祭である。冠婚葬祭は最も社会的、文化的、儀礼的な支出である。また、家計の中で一時的ではあっても大きな割合を占めている。

財政は、公共の場を構成する。公共の場は、社会資本(インフラストラクチャー)、即ち、交通、エネルギー、通信、更に、防災、治安、国防、教育、医療などから構成される。更に、金融システムなどの経済基盤などを指す。

消費の本質は、消費する実体にある。実体のない者は消費できないのである。「お金」は消費できない。「お金」は、消費するのではなく、支出するのである。ただ、支出する目的の一つに消費があるのである。

また、消費にも質がある。消費の質は、消費する対象にある。消費する対象は、有形な物ばかりではない。サービスや情報、エネルギーの様な無形なものもある。
また、消費する為の支出は、消費する対象のみにかかるわけではない。運搬や貯蔵にもそれなりの支出がある。
また、世の中に役に立つと言っても毒性や危険性ある物もある。

石油だって、ガスだって、電気だって、原子力も危険物である事は間違いない。
世の中には、必要なものではあるが扱いを間違うと人に害をなすのである。安全に効用を引き出すためには、それなりの装置を必要とする。また、運搬、貯蔵等にそれなりの費用が掛かる。

消費も一度で消費される物だけではない。長時間にわたって効用を発揮し、消費される資源もある。住宅や自動車、家具、家電製品の様に長期にわたって効用を発揮する財は、消費に対する投資と見なされる。投資は、生産手段のみでなく消費手段にもある。

消費の「お金」の流れには、投資経常収支がある。
投資には、住宅投資、教育投資等が主たるものである。
投資には、蓄えも含まれる。蓄えには、経常収入から支出を引いた余り非常時、緊急時に対する備え出産や冠婚葬祭と言った一時的な出費に対する備え。住宅投資や老後のための準備金などの目的がある。

経常収支は、基本的に日常生活に必要な支出を基礎として成り立っている。
基礎支出は、生存に係る食料、そして、衣服からなる。今日では、この他に、ガス、水道、電気と言ったインフラに係る支出も含まれる。そして、次に、交通や通信と言った準基礎支出が加わる。これらの支出が生活の基礎を構成する。

その他に、固定的支出として社会保険とか、税金と言った公的支出が引かれる。年収から公的支出が引かれたものが、自分たちが私有に使える手取り、可処分所得である。

消費の働きには、周期がある。消費の周期には、一日、一週間、一か月、旬(季節)、半期、一年、一生(長期)の周期がある。そして、消費の周期が消費のアルゴリズムの下地となる
消費の周期は、支出の周期に重なる。

市場は、消費者によって形成される。故に、最大の人口を擁する中国は、いずれは最大の市場を有する国になる。と言うより、実質的には、常に、中国市場は最大なのである。この点をよく理解して経済は考えなければならない。

消費者にとって大切なのは選択肢である。量産・量販は、価格の低下をもたらすかもしれないが、生産財の均一化も招く。それは消費者から選択肢を奪う事になる。
量から質への転換のためには、価格の維持が不可欠なのである。
適正な価格は廉価を意味しているわけではない。適正な費用と利益の上に成り立っている適正な収益が維持されてはじめて適正な価格なのである。

生産主体が分配主体を兼ねているように、消費者は、労働者、生産者を兼ねている。
価格の低下は、収益の低下を招く。収益が低下すれば費用の削減と合理化が求められる。費用の中で一番負担が大きいのは人件費と言っていい。突き詰めれば、費用は人件費の塊なのである。収益が低下すれば必然的に、雇用と所得が圧迫を受ける。

経済を量から質へと転換させる事は、消費の質を高める以外にない。
工場生産される食品より、手作りの料理への転換である。それは、普及品から高級品への転換を意味する。
質を高める事で付加価値を上げるのである。
また、廉価、普及品と高級品とを使い分ける事である。量産品と手作りの商品とを分化する事である。
つまり、商品の差別化と階層化によって消費者に選択の余地を作る事である。

全てを安物にするのでもなく、高級品にするのでもなく、個人の嗜好に合わせて選択肢の幅を広げるのである。
消費者に自由意志を持たせる事、それこそが平等なのである。


家族構成


消費の在り方は、家族構成によっても違いがある。

家族構成は、時代を反映している。戦前からの大家族制度から、核家族制度、そして、個人へと家族の軸足が移ってきた。家族は、運命共同体から個人の集合へと変遷している。
それは、所得の担い手が家長から個人へと移ってきた事による。旧弊な家族制度の崩壊も促している。

また、家族の在り方は、婚姻制度や家族制度の影響を大きく受ける。
近年、問題となっているのは、晩婚化、非婚化、完結出生時の低下であり、人口減少の一因とされる。

なぜ、結婚がおくれたり、生涯結婚をしない人が増えたのか、その原因は経済にある。
一つは、女性の経済的自立である。大家族制度時代は、女性は、経済的に自立する事が困難であった。その為に、女性は社会的に弱い立場にあって、結婚しなければ生活できない状態にあった。また、結婚しても隷属的な立場に置かれていた。
それが戦後、解放され、女性の社会的地位が高まり、経済的な自立も促された。この様な女性の地位の変化に社会や人々の意識がついていけないのが晩婚化や非婚化の背景にある。
単に、女性の地位を高め、経済的な自立を促すだけでなく、それに見合った社会体制を構築しなければ解決する事はできない。

特に、出産育児といった女性固有の事柄高齢者の介護など、従来、女性の仕事とされてきた事をいかに補助、支援していくか。単に女性の地位の向上と言うだけでなく。家事など女性が担ってきた仕事の再評価が求められている。それは、消費経済の確立をも意味している。
有償な仕事のみを経済的な仕事として捉えている限り、家族の問題は解決できない。女性は、本来経済の半分を担ってきたし、現在も未来も担い続ける事になる。
それは、女性の男性化や中性を意味しているのではない。経済にとって母性は不可欠な要素なのである。
そして、それは家族の在り方そのものをも問いかけているのである。

家族の在り方の変化は、独居老人や引きこもりなどの原因にもなっている。家族そのものが崩壊しつつあるのである。家族の崩壊は、離婚率にも現れている。
高齢化を検討する際、親孝行とか、倫理観は語られずに、制度や施設、「お金」の事ばかりが問題とされる。
経済の根本は、倫理である。倫理観が確立されていなければ、経済は成り立たない。その事を忘れて介護や子育てを語っても始まらないのである。

本来、消費は内的経済なのである。つまり、共同体の内側の問題である。内的空間の性格は、道徳的、非金銭的空間である。そこに、外部経済、つまりは契約的、金銭的手段を持ち込む事は、内的空間そのものを解体する事につながる。それが家族の崩壊を促しているのである。だからこそ、地域コミュニティの再構築が求められるのである。
経済から人的要素が急速に失われつつある。人としての経済を取り戻す必要がある。

大家族から、核家族、非婚化、晩婚化といった家族の在り方の変遷は、消費の場の性格を変え、経済の基盤を変えている。そして、それは少子高齢化社会を準備している。

特に女性の社会進出は、女性の経済的自立を促し、それは、家族に縛られてきた女性を解放した反面、それまでの家族の崩壊を促している。女性の解放を維持しつつ、新しい家族の在り方を確立する事が求められているのである。また、それまで女性が担ってきた家内労働、家事労働の再評価が必要となった事を意味している。非貨幣労働、消費労働の否定は、家内労働、家事労働の外注化を招き、かえって経済的効率を低下させている。
女性蔑視は、女性に対する蔑視であるだけでなく。女性が担ってきた家内労働、家事労働、広く言えば消費労働の軽視に基づいている。家事労働は、全ての仕事の原点である。家庭料理の働きが意味するように経済の原風景でもある。
よく、家事労働を金銭で評価するとどの程度になるかと言う議論があるが、これは、錯覚である。消費労働は、水平的分業から生じており、生産労働とほぼ同程度に評価されるべきものであり、雇用者報酬とは表裏一体の関係にある。
ただ、女性が経済的に自立する事が難しかったことが女性に諸々のハンディを持たせていたに過ぎない。
単純に女性の社会進出によってのみ解決できる問題ではない。

また、近代になって最も合理化、機械化された仕事の一つが家事労働だという事も忘れてはならない。

女性が経済的に自立し、所得が個人に帰属するようになる育児期を除いて家族を構成する経済的な意義を失う事になる。つまり、経済的理由で家族を維持する必然性が損なわれるのである。
そうなると家族の絆を経済的なものではなく、より精神的なものに求めな事が必要となる。つまり、より純粋な感情が求められるのである。

年齢ごとの生計の違い


人は、成長に応じて経済環境が変化する。
生れたばかりの頃は、一人では生きていけない。子供の時は、親の世話になり、学校へ行くようになれば教育費がかかる。学校を卒業し、社会人になるまでは、経済的に自立していない。結婚すれば夫婦が中心となって新たな世帯を形成し、子供が生まれたら、子供養育費がかかる。年老いて働けなくなれば、それまでの貯蓄を取り崩すか、子供の世話になる事になる。また、社会の補助も受けなければならない。

かつては、家族は、経済的な必要性によって形成されてきた。経済的な必要性が薄れた事が家族の崩壊につながっている。
元々、女性は、経済的に自立していなかった。働きである男性を必要としていた。子供は、一人では生きていけない。養育者を必要としている。子供も、女性も、老人も経済的に他者に依存しなければならない状態に置かれていたから互いに結び付き合ったのである。
歳を取って働けなくなったら子供の世話になるのが当たり前であり、それは制度と言うより、道徳的問題だった。道徳的問題だからこそ、家族は拘束され。大家族制度が維持されていたのである。家族の絆の背景には、経済的な要因が隠されていたのである。
現代は、それぞれが経済的に自立しており、お互いに助け合う必要がない。また、高齢になったら、介護制度や施設に入れるのが一般であって、金銭の問題であって道徳の問題ではなくなった。つまり、お互いの信頼や絆など無意味になったのである。だから、家族が成り立たないのである。
家族に対する価値観が変わったのである。ただ価値観が変わった背景に、経済の仕組みの変化が隠されている事を見落としてはならない。人間性の問題ではなく銭金の問題にすり替わったのである。
女性の経済的自立は、必然的に晩婚化、非婚化、完結出生時数の減少、離婚率の上昇につながる。
結婚しなくても困らないのなら、面倒くさく、鬱陶しい人間関係を避け、自分の好きな仕事を続けたいというのが道理である。夫婦は、限りなく同居人の関係に近くなったのである。いつまでも嫌いな人間と同居する必要はない。
出産育児は、母親にとって大仕事である。しかも、孤独である。出産に意味を見出さなくなったら子供を作る必要はない。どうせ歳を取っても面倒を見てくれることを期待できないのであるから。
本気で、人口の減少を食い止めようと思うなら、この現実を直視すべきなのである。
金銭的な必要性以外に、家族を引き付け結び付けているものを見出さなければ、家族そのものが消滅してしまう。

個人の生計は、年齢世代ごとに違いがある。
基本的には、生産労働年齢と非生産労働年齢に分かれる。
要するに、自分の力で収入が得られる年齢と自分の力では、収入を確保できない年齢である。
非生産労働年齢は、学齢期以前の世代と高齢者に属する。

生計は、乳幼児期、学童・思春期、青年期、壮年期、高齢期の年代に従って変わってくる。

かつては育児も投資の一種だった。歳を取って働けなくなった時に世話をさせるのが目的だっったのである。
つまり、働けなくなった時の為に、子供を育てていたのである。だから道徳が大切だった。
成人するまでは親の面倒になり、成人したら自分の働きで生計をたて、働けなくなったら以前は、子供の世話になったが、今は自分の蓄えと年金によって生計をたてる。道徳より「お金」の方が信じられるような時代になったのである。今の日本人は、国が国民を守るのは当然だと思っている。しかし、国が国民の生命と財産を守るとしたのは、国民国家が成立した後の話である。
かつては、国民生活は、保障されていなかった。基本的に、個人の権利や義務を、国が保障したりはしなかった。大体国民と言う概念すらなく。国家権力も私的権力と大差なかった。自分の生活は、自分で守るそれが原則である。生産的な働きができない者は、捨てられたのである。
生存権が認められたのは、国民の権利と義務が憲法によって保障されて以後の事であり、今日でも、独裁主義国や全体主義国では、国家が国民の生活を保障しなければならないという思想は確立されていない。
そのような国でに、私的所有権も国家権力によって常に侵されている。

現代、少子高齢化が叫ばれている。
それは、人口分布の変化によって生産労働人口が全人口に占める割合が圧縮されている事による。
一つは、人口分布の変化に社会が追い付いていない事による。寿命が延びた事で、高齢者が増えている。しかも単純に寿命が延びているというだけではなく、健康年齢も真日たことを意味する。
ところが、定年制によって労働年齢はかえって下げられる傾向にある。まだ、健康で働けるというのに、強制的に現役から引き下げられ、年金収入に頼らざるを得なくなっていることが一因である。

また、仕事が給与所得に統一されつつあることで、個人事業が減ってきている。定年後に企業しようとしても、金銭的にも肉体的にも難しいという点がある。
かつて、農業従事者や職人は、年齢に囚われず働ける間は働いたという事もある。月給取は、融通が効かな。一般に定年退職で区切られる。そして、それまでの経歴は帳消しになる。
かつての職人は、年齢とともに技術が向上し、腕に職をつけておけば食いっぱぐれる事はないと言われたが、月給取はそうはいかない。特殊な技術を持っていない限り、定年後に再就職も難しい。

また、給与所得者は年齢とともに給与が上がる、処遇待遇も併せて、仕組みであるために、高齢者が高給取りになっており、簡単に待遇を落とせないという点にも原因がある。再雇用しようにも高給が障害になるのである。
高齢化社会では、仕事に対する考え方を柔軟にする必要がある。
要は、消費支出のピークと所得のピークが一致していないのである。

高齢になると自力で収入をあげる事が難しくなり、えられる収入に限界が生じる。ところが、医療費や介護と支出が増大する危険性が高い。また、一度要介護となると自活する事も困難になる。
身寄りのない高齢者も増えてくる。ところがその高齢者を支える若年者の人口が減少しているのである。
そうなれば、生活や社会の仕組みを変えない限り現在の生活水準は維持できなくなるのは必至である。


(出典)総務省「国勢調査」及び「人口推計」、国立社会保障・人口問題研究所「日本の将来
推計人口(平成24年1月推計):出生中位・死亡中位推計」(各年10月1日現在人口)
厚生労働省「人口動態統計」

あらかじめ推測できる事に対処しないのは愚かである。

人口構成のところでも述べたが少子高齢化との問題は、世代間の資金移動の問題である。
年金のような世代間の所得の再配分の仕組みは、人口構成を、十分、分析をして長期的な展望の上に構築する必要がある。人口構成の変化は、直ぐに影響を及ぼすという問題ではないが、長い期間をかけて、しかし、確実に起こる変化である。
長い時間かけて確実に怒る事象なのだから準備する時間は、タップリあるはずなのに現実は、その時になってみないと行動を起こさない。結局、手遅れになる。いろいろと言い訳をする事は可能だが、現実は現実であり、起こってしまえば言い訳なんてどうでもいい事態なのである。そのつけを払わされるのは、その時の世代である。
だからこそ、消費は、思想なのである。国家理念なのである。

「お金」の儲け方ばかりを問題として「お金」の使い道は、疎かにしがちである。しかし、「お金」の使い道を考えもしないで、ただ儲けても意味がない。
現代経済の最大の問題は、「お金」が儲かるか、儲からないかばかりに気をとられて何のために、「お金」を儲けようとしているのかを忘れている事である。「お金」儲けは、使い道を明らかにするから意味がある。さもないと「お金」に囚われて「お金」の亡者になるだけである。

景気対策を目的とした公共投資は、虚しい。根底に、どの様な国造りをしようとしているのかが、明らかにされていないなら、無駄になるだけである。実需の伴わない支出は、有害なだけである

公的支出も対象の年齢ごとに違ってくる。出産に関しては、医療や介助に対して幼児期においては、保育園等の補助。義務教育期間は、教育費の補助、そして、大学にも補助金、高齢に達し介護を必要となったら介護制度と年金制度と人生終わるまで経済である。
福利厚生や教育費、所得の再分配、公共投資など、何を重んじ、何を目的とするかの基準は、国家理念に基づく。つまり、それは憲法から発するのである。誤れば国家の礎を危うくする。
消費は文化であり、思想である。基本的に、福利厚生や教育にかかる出費は、所得の再分配、資金移転である。付加価値は、生まないが固定的な支出を構成する。分配が不均衡になれば、財政の基礎支出を揺るがす事になる。制度設計時の設計思想が鍵なのである。

消費のアルゴリズム


公的消費のアルゴリズムの始点は、建国精神であり、国家理念である。つまり、公的資金を何に使うかの問題である。
私的消費のアルゴリズムの基盤は、生活であり、人生である。
消費のアルゴリズムの突き詰めると経済の原点行きつく。なぜならば、経済の原点は、生きる為の活動であり、経済の仕組みは、人々を活かすためにあるからである。万人を活かすためには、一人ひとりが生きるためには何が必要かに至る。それは、消費の在り方を意味するからである。

先ず、使える「お金」どれくらいあるかを確認する事である。次に、どれくらい収入が見込めるか。消費に回せる原資が全てを決めるからである。それは、公私の別はない。始まりは、資金である。

経済の仕組みは、特定の人間や勢力の人々を生かすためにあるのではない。なぜならば、経済は、全ての人を活き活きと生かす事だからである。
その為には、生きる為に必要な資源が、全ての人に、行渡るような仕組みを、構築する事である。必要に物が、必要な時に、必要とするだけ、満遍なく、人々に供給される体制を作るのが経済の原点である。
その為の手段として「お金」がある。「お金」をどの様に使って必要な資源を生産、調達し、公平に分配し、効率よく消費させるか。一番の根本は、どれだけの物を、どれだけの人が、どの様に消費するかである。全体でいえば、偏りなく、格差なく、働きに応じて分配する事である。
消費に結びつかない「お金」の動きが市場を歪める原因となる。いかに、「お金」の無駄な動きをなくし人々の働きに応じた分配を実現するかなのである。
経済の目的は、必要な財を生産、あるいは調達し。全ての人に満遍なく。一定の周期で絶え間なく供給する事にある。

基本的に、一日の行動が消費のアルゴリズムを決める。即ち、朝起きて、食事をして、仕事に出て、昼飯を食べ、午後仕事をして、家に帰り、食事をして、入浴をし、就寝する。このアルゴリズムは、風俗、習慣、宗教などの影響下にある。故に一律には決めつけられない。ただ、一日の行動パターンがアルゴリズムの基本となる事だけは変わらない。消費のアルゴリズムには、反復構造が根底にある。

一日一日の反復構造と、誕生、成長、結婚、成熟、老年と言う順次構造が組み合わさって消費のアルゴリズムは形成される。

職場でいえば、定型業務と不定型業務が組み合わさって消費のアルゴリズムを形成する。
故に、定型的な消費と不定形な消費をどう組み合わせるかによって、消費の構造は形成されていく。

生産と言うと、工場とか、畑とか、製造現場にのみあると思われている。しかし、消費に係る生産もある。典型的なのは家事である。家事は、万能である。あらゆることに精通していないと実現できない。総合的な生産活動である。
家事は術の産業の原点であり、財政などの原型である。
故に、家事は、計画、構想が鍵となる。
消費はあらゆる経済の源泉である。

故に、消費のアルゴリズムは、生活設計に始まる。一般政府の場合、所謂、都市計画、即ち、国家構想に基づく。「お金」があるから使うのではない。必要な事があるから「お金」を使うのである。「お金」が不足している場合は、どの様にして「お金」を稼ぐか、補うかが重要なのであり、「お金」が余ったら債務の解消や新たな投資に「お金」を振り向ける。「お金」があるからと言って必要もないのに「お金」を使ったり、「お金」が足りないからと言って無闇に「お金」を借りまくるから首が回らなくなるのである。

生産労働があるように、消費にも労働がある。生産労働が収入に結び付くのに対して、消費労働は、支出に結び付く。それが生産労働を是とし、消費労働を否とするような認識を生み出す。生産経済に肯定的な人も消費経済には、否定的になる。それが経済の変更を生み出す要因となるのである。
生産面ばかりが注目され、消費面は黙殺される。しかし、それでは経済の実体は見えてこない。
浪費や無駄は解消されず。温暖化もゴミ問題も解決できない。環境問題、温暖化問題、ゴミ問題は、生産と言うより、消費の問題だからである。

支出と収入は、表裏をなす。支出の枠組みが産業の基礎となるのである。消費が衰えれば産業も衰える。かといって無理やり消費を強要しても経済に歪みができるだけである。現代経済は強引すぎる。不足するのも問題だが過剰なの有害なのである。乱獲は、資源の枯渇を招く。浪費は、退廃を招くだけである。肥り過ぎは不健康である。何事も程々、節度が必要なのである。

消費労働は、時間的分業、人事的分業であり、生産、所得、支出と言うのは順次構造なものである。垂直的な分業ではない。つまり、所得と支出は表裏一体なものであり、分割できるものではない。消費労働の価値と生産労働の価値は、同じである。
生産効率ばかり追求していて分配効率を疎かにするから、市場が衰弱し、消費が貧弱になるのである。また、消費効率を蔑ろにするから壮大な無駄や浪費が生じるのである。

消費は、支出として現れる。しかし、いきなり支出するわけにはいかない。当たり前に、手持ち資金が問題となる。つまり、消費も先ず資金調達に始まる。
消費の為の支出は、生産の場の支出の様な収益、収入を得る手段としての支出ではなく。対価、見返りのない支出である。つまり、消費それ自体は、付加価値を生まない。
消費に対する支出は、対価を前提としていないから基本的に無収入である。この点が、生産と消費に対する支出の根本的な違いである。
つまり、消費のための働きは、無報酬だという事である。消費に対する働き、無報酬だと言っても経済的価値がないのではない。ただ、経済的価値が貨幣的価値に置き換わらず、市場取引として認められないという事である。
この点こそ、生産と消費の決定的違いなのである。
消費は、基本的に消耗であり、再生産を前提としていない。故に、支出による収益は見込めない。この性格は、経常収支も消費投資も同じである。

故に、消費は、基礎的収入を根本として成り立っている。基礎的収入は、固定的で、安定した収入を指す。
所謂、定収入だが、定収入を維持する為の手段、仕組みがその国の経済に決定的な働きをしている。
定収入を支える仕組みは、雇用形態、賃金体系、経営主体の構造、会計制度、経済に係る法、社会保障制度、社会保険制度、年金等である。
収入が安定する事で消費者金融が確立される。
借金の手段は、基礎的収入の構造に依存している。

家計の収入状態によって支出の優先順位は決められる。それが消費のアルゴリズムの基礎となる。



消費のアルゴリズムを破綻させる要因


何が、消費のアルゴリズムを狂わせるのか。それは、消費に、生産や分配が結びつかなくなる事である。
消費があって生産があるはずなのが、生産の為に消費しなければならなくなるのは、本末転倒なのである。
消費が本来の目的を失い。消費が本来の目的を失うから生産が無意味になる
生きる為に「お金」儲けをしているはずなにの、いつの間にか、「お金」儲けをする為に生きているようになる。
「お金」儲けの事ばかり考えて「お金」の使い方を考えなくなる。本来、「お金」は、使い道にこそ意義があるのである。本来の目的を消費が失いから消費のアルゴリズムはおかしくなるのである
生きていくのに大切なものが不当に安い価格で取引していると思えば、役に立たない者が高価で取引されている。
尊敬すべき人は、貧しく。金に卑しい者が富。栄える。

消費のアルゴリズムは、消費の意義や目的を見失った時に破綻する。
なぜ、何の目的で、どんな意義があって消費をするのか。ただ、無目的に欲望の赴くままに消費をしていたら、抑制、自制心を失い、消費のアルゴリズムどころか人生そのものを破綻させてしまう。
欲望は、両刃の刃なのである。未練を断ち切れなければ、己の魂まで売り渡してしまう。

人は群れる。群れて社会を形成し、組織を作る。
なぜ人は群れるのか、そこに経済の根源が隠されている。

群れは経済主体を形成する。経済主体は内的経済を発展させる。内的経済は、自己完結的な空間であり、非貨幣的、非市場的、組織的、道徳的空間、規範的空間である。

人は、なぜ、群れるのか。人は群れて何をするのか。群れを作る事で外敵や災害から身を守り、安心した生活をする。次に助け合う。そして、子孫を残す。群れを作る要因で大きいのは、経済的要因である。経済的な利点が大きいから群れを作るのである。経済的利点がなくなれば群れなくなる。

家族を作る経済的な利点がなくなれば、家族を作る事は負担が大きくなるだけである。個々人が経済的に自立したら、家族を作る経済的な利益はなくなる。結婚して専業主婦になれば収入が減る。子供を作れば出産育児、教育と出費が嵩む。生活費も増える。独身なら収入は減らないし、子育ての為の負担がかからない。好きな仕事も続けられる。男も女も独身の方が経済的にも楽である。好きな事にも打ち込める。だとしたら結婚しない方がいいに決まっている。だから、未婚、離婚が増える。なぜ、損をして負担を増やしてまで結婚する必要があるのか。そこには金銭に換えられない意義がある。金銭に換えられない意義こそ経済の魂なのである。そして、それが消費のアルゴリズムの本質でもある。

「お金」の為に結婚をするのでも家族を作るのでもない。しかし、経済的な意味が先行すると「お金」でしか物事の判断が出来なくなる。それは、「お金」に隷属していることを意味する。

楽をする為に結婚をするわけではない。結婚をしたら楽になるどころか苦労が増える。苦労をする為に結婚をするのである。結婚をしたら、経済的に楽になるわけではない。経済的に楽をしたければ結婚なんてしない方がいい。その思い違いが、未婚者を増やしているのである。
生きるという事は、楽をする事ではなく、苦労をする事を求める事である。子供を産み育てる事は楽ではない。苦労が多い。苦労が報われた時、人は、生きる喜びを感じるのである。それが経済である。生きる為の活動である。
一緒に苦労をしてくれる人を見つけるのが結婚なのである。なぜなら、苦労する事にこそ生きる喜びがあるからである。楽を求めたら、生きる喜びは得られない。

人が群れを作らなくなると消費のアルゴリズムは狂い始める。なぜならば、人の群れは消費を前提として形成されるからである。消費を前提として生産し、分配する過程で群れは形成される。
群れが解体する要因は、群れる必要が失せる事にある。即ち、共同生活をする経済的意義を失う事である。一つは。内的労働の外注化であり、もう一つは、所得口の増加である。共稼ぎなどの所得口の増加は、内的労働の外注化を促す。それは、内的労働を貨幣化する事である。
共稼ぎが悪いのではない。ただ、家族の意義を金銭的の要素以外にも求める必要がある。経済本来の意義は生きる為の活動である。

群れは、拡大するのにしたがって社会化し、分業して、組織を形成する。
人は、人は、生きる為に必要な資源を生産、あるいは、調達し、それを分かち合い、活用して生きていく。群れがそれ自体自己完結している時は、市場も貨幣も必要としていない。その時代は、貨幣は、権力の象徴でしかない。
皆で助け合って働き、収穫物や獲物を分かち合い、必要なだけ無駄なく消費してきた。
生産も分配も消費も一体だった。それが社会が拡大すると支配する階級と被支配階級、支配される階級に社会は、分裂する。支配階級は非生産的仕事を受け持ち、被支配階級は生産的労働に従事する。故に、税が必要となり、権力が生じる。

社会がさらに拡大すると生産の場と消費の場が分裂し、その過程で分配の為の機構と場が形成される。それが分配主体であり、市場である。分配主体は、生産主体と一体となり、市場は、消費主体と一体となる。
それが市場経済である。

また、生産の場と消費の場が形成される過程で経済主体は、分裂して生産主体と分配主体、消費主体が形成される。生産主体、分配主体、消費主体の外側に外部経済が形成される。外部経済は、貨幣的空間、市場的空間、非道徳的空間、非組織的空間、自由な空間である。

生産物には、市場的生産物と非市場的生産物がある。市場的生産物は、貨幣取引に依って成り立ち、非市場的生産物は、内的空間で生産される。全ての生産財は、消費を前提としている。

人は、なぜ、群れるのか。一番は、外敵や災害から身を守る事である。日本人は、戦後、米軍の庇護下にあった。しかし、自然界で、自分の力で自分の身を守れない者は生きていく事が出来ないのである。だから、弱い者は群れる。弱い者は、自分が弱い事を自覚しているからである。
自然界では、動物は、テリトリーを守るためには、命がけで戦う。戦後の日本人の自由は、家畜の自由であって野生の自由ではない。生きとし生きる者は、生きる為に必死に働くのである。
一番忘れてはならないのは、何から何を守るかである。今の日本人に一番欠けているのが自分たちが何を守らなければならないのかである。
今の日本人は、自分たちが生かされている事を忘れている。他国が生存の為に必死に戦っている事を忘れている。そこに根本的な危機がある。
そして、その原点にあるのは、消費である。なぜならば、消費の目的は、本来、生きる事だからである。

最終消費支出は、国家の実像を表しているのである。軍事費が多く占める国は、軍事に、子育てにかかる費用が占める割合が大きい国は、子育てに重点が置かれているのである。医療に占める割合が大きい国は、健康に重きを置いている。住宅に占める割合が大きい国は、住宅を重んじているのである。文化的な支出が大きい国は、文化を大切にしているのである。

消費は最終目標である。
何のために働くのか。誰のために働くのかそれを見失ったら生きる意義が、わからなくなる。経済は、人生の目的、生きる目的だからである。そして、その本質は消費にある。人は、生きる為に何が必要なのか。消費はそれを具現化しているからである。

「お金」のために働いているわけではない。自分の為に働いているわけではない。
子孫を残すために働くのであり、家族を守るために、仲間を守るために働くのである。
世の為、人の為と言う言葉が現代社会では陳腐化している。しかし、それが仕事の本質なのである。世のため、人のために働くからこそ意義がある。個人主義とは、自己を活かす事であり、それは利己主義ではない。自分を活かす事は、即ち、自分を生かす者のために働く事なのである。自分を生かす者こそ自分が守らなければならない者なのである。

自由になるためにと言うが現代人の自由は、家畜の自由に過ぎない。何のために、誰の為に生きているのかさえ分からなければ、自由になんてなれない。なぜならば、己がないからである。志があるからこそ人は自由になれる。自分の意志と力で生きていない者は、結局、目に見えない力に囚われ、隷属しているのに過ぎない。真の自由は野生の自由である。肥った豚になるな。やせた狼になれ。

現代人は、「お金」が全てであるように錯覚している。「お金」儲けを生きる目的のように考えている者もいるくらいである。人生の成功、不成功をどれくらい「お金」を稼ぎ、残せたかで測ろうとすらしている。実は、その考えこそが消費のアルゴリズムを狂わせる元凶なのである。
消費の目的が失われてしまうから、消費のアルゴリズムは狂うのである。
生きる為に何が必要なのか。翻っていえば何のために生きているのか。生きる事の原点が見えなくなるから、消費のアルゴリズムの前提が狂う。消費のアルゴリズムの原点は、生きる目的なのである。

何のために、誰の為に「お金」を使うのか。それこそが消費の根源なのである。それが狂うから消費のアルゴリズムは、破綻するのである。人を幸せにするのが、消費の目的なのである。浪費は人を堕落させるだけである。


       

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