経済の現状

日本経済の現状について

金   融


金融は歴史的産物である



金融は、歴史的産物である。それは、現在でも変わらない。

今日の金融制度は、何らかの設計思想に基づいて築かれてものではない。
あくまでも成り行き、歴史的に築かれたものである。
しかも、直線的に進化したものとは言いかねる。幾つかの紆余曲折、試行錯誤を経て現在の形に落ち着いているというのが実態であろう。
また、現在の形が理想形でも、最終形でもなく。今でも、試行錯誤を繰り返していると考えられる。

金融制度や金融機関は、世界各国、一律一様に発展してきたわけではない。
それぞれの国の事情や状況、歴史や伝統、文化、宗教などが複雑に絡み合って独自に発達してきた。
故に、金融は、歴史的地域的産物なのである。金融は文化である。
金融制度や金融機関は、時代の変遷に伴って姿や働きが変化してきたし。
また、地域や国の制度や状況によっても違いがある。
この様に、金融制度や金融機関は、時間的空間的に違いがある。
そうはいっても今日は、金融制度は世界一つの体系の上に統合的に成り立っているのもまた事実である。

金融制度は、人為的構築物、人工的な産物であり、何らかの思想に基づいて成立した。自然に成るものではない。ただ、思想と言っても数学的、科学的な命題に基づくものではなく、より文化的な概念、道徳的原理に留まっている。どちらかというと演繹的なものではなく、コモンロー、帰納法的な原則によって成り立っている。
故に、設計思想のような実体的原則に昇華されているわけではなく。自由、平等、友愛と言った政治的な理念に基づいている。それでも、制度自体は、一定の方向をもって進化していると考えられる。
故に、金融制度の元となる思想を確認する必要がある。なぜならば、その思想は、経済体制の根幹をなす原則でもあり、金融制度の将来を占う事だからである。

金融制度は、金融制度単独で成り立っているわけではない。
金融制度は、金融制度以外の複数の制度との影響下で形成されてきた。

特に、金融制度は、貨幣制度、貨幣経済と不離不可分の関係にある。
また、市場制度や市場経済、会計制度、商法や証券取引法などの経済法を基礎として発展してきた。
また、金利に対する宗教的な制約といった文化的背景も無視できない。
故に、金融は、歴史的産物なのである。
特に、発券銀行、中央銀行の位置づけや役割、制約は、金融制度のみならず、貨幣制度や、財政制度の肝となる。十分に、考慮しておく必要がある。

最初から貨幣経済が経済総てを支配していたわけではない。つい最近まで貨幣は補助的手段に過ぎなかった。
今日真様な貨幣経済が確立されるためには、貨幣が市場に、ある定程度、行渡っている事が前提となる。つまり、市場に貨幣が満たされていなければ貨幣は機能しない。
現在の貨幣制度が確立される以前は、貨幣は、物の一種だった。貨幣価値は、物の価値の延長線上にあった。貨幣が貨幣と純粋に機能するためには、貨幣空間と物的空間が独立し、各々が独立した全体を形成して、重なり合う必要がある。
つまり、「お金」の分布と生産財の分布、人の分布が重なり合う事が貨幣空間、物的空間、人的空間が個々独立する前提となるからである。

人と物の空間は有限であるのに対し、貨幣空間は、無限である。人と物と金が作り出す空間が個々独立して場を形成した時からこの人、物、空間の特性による不具合が生じているのである。

貨幣の性格は、金融の性格の基礎でもある。
通貨圏の画定と国境の画定が貨幣経済を確立したと言える。

ただ、いずれにしても金融の発展を考える上では、核となる働きを知る必要がある。それは脳の成長と同じように、まず、核となる部分、原始的な部分から金融制度は確立発展してきたからである。
それは、今日の金融の問題点を明らかにする意味でも避けて通れない問題である。

吉本佳生は、今日流通している日本の「お金」、紙幣の歴史は、たかだか150年に過ぎないという。その150年に間に日本は、「お金」をめぐっていろいろな出来事を経験してきた。あたかも、「お金」が全てであるような錯覚すらしている。しかし、人は「お金」がなくても生きていくことはできるのである。それを忘れたら、人類は、大きな錯誤を犯す事になる。「お金」に支配された世界は幻想にすぎないのである。
真の人生は、「お金」とは無縁の世界にある。経済の本質は、生きるための活動であり、その核心は、人の心なのであり、命なのである。


金融とは何か


金融は、「お金」を融通する事である。故に、金融機関とは、「お金」を融通する機関である。金融機関は、製造業のように何かを生産するとか、小売業のようにサービスや商品を売る事を生業としているわけではない。また、物を運んだりするわけでもない。
「お金」の貸し借りの仲立ちをするのが仕事である。
金融業とは、物を生産し販売するという他の産業とは、異質な、特殊な産業である。

この特殊性は、決算書に表れている。一般の事業会社の決算書と金融機関の決算書では、枠組みが違うのである。

金融業が扱うのは、「お金」である。
金融業を理解するためには、「お金」を理解する必要がある。
第一に、「お金」は物ではない。「お金」は、象徴である。
第二に、「お金」は働きである。
第三に、「お金」は、交換の手段である。
第四に、「お金」は、「お金」単体では、働かない。
第五に、「お金」を生み出すのは、信用である。
第六に、「お金」は信用によって生み出されるというが、象徴としての「お金」がどのように生産されているかその仕組みは、判然としていない。
第七に、「お金」には、匿名性がある。つまり、誰の持ち主かは明らかにされない。
どの様に生産されるかだけでなく、市場にどの様に供給され、どの様に回収されているのかも明らかにされているとは言いかねる。
むろん、紙幣の発行の仕組みや供給の仕組みは明らかである。しかし、それは紙幣であって「お金」のその物の生産や供給を意味しているわけではない。「お金」は、紙幣とし言うものを通じて実現されるが、「お金」その物は、目に見えない、形のない観念である。「お金」は物としての紙幣に限定された存在ではないのである。この辺が、金融の働きをわかりにくくしている要因の一つである。

「お金」の働きは、市場取引を通じて発揮される。市場取引は、売り買いと貸し借りからなる。
金融が主として携わるのは、「お金」の貸し借りである。

金融機関は、余剰資金を持つ主体から資金不足の主体へ「お金」を融通する事で成り立っている。
忘れてはならないのは、融資する先は、資金不足をしている主体である。この事を忘れると金融は本来の働きができなくなる。しかし、往々にして、金融機関は、資金余剰の主体に「お金」を融資したがある傾向がある。

「お金」を融通するためには、「お金」の過不足を見極める必要がある。
しかし、現金収支だけでは「お金」の過不足を見極める事はできない。「お金」の働きを現金収支だけでは測れないからである。
「お金」の働きを測るためには、期間損益が有効である。ゆえに、金融機関は、会計制度の上に成り立っている。
ただ、期間損益も万能ではない。期間損益にも限界がある。その限界を弁えなければ期間損益を使いこなす事はできない。

期間損益は、利益によって「お金」の働きを測る手段である。利益は、収益から費用を引いたものである。また、前期総資産から期末の総資産を引いた値でもあり、前期の総資本から期末の総資本を引いた値、前期の純資産から期末の純資産を引いた値でもある。
期間損益の欠点は、利益が必ずしも現金収支の結果ではないと言う点である。即ち、収入と収益、費用と支出が一致しているわけではないと言う点にある。期間損益の弱点を補うために、キャッシュフローが考えだ避けた。しかし、それでも万全とは言い切れない。

「お金」の実際的な働きは、収入と支出によって発揮される。問題は、収入と収益、支出と費用が働きを発揮するのに、時間的な差が生じ目と言う点である。また、収入を伴わない収益、収益に計上されない収入、支出を伴わない費用、費用に計上されない支出がある点である。
この違いを是正しないと実際的な「お金」の働きを測る事はできない。
収益に計上されない収入には、借入と増資がある。また、費用に計上されない支出には、借入金の返済がある。
また、支出を伴わない費用には、減価償却費がある。

お金の働きには、長期的働きと短期的働きがある。故に、「お金」の過不足を生み出す原因には、長期的働きによる要因と短期的働きによる要因の二つがある。
長期的な要因は、投資に係る働き、短期的な働きは、操業と営業、管理に係る働きである。
短期的資金は、運転資金である。

営業キャッシュフローは、主として営業に係る資金、即ち、運転資金に係る資金の流れを表し、投資キャッシュフローは投資に係る資金の流れを表し、財務キャッシュフローは、金融に係る資金を表している。

減価償却費は、長期的資金の働きを短期的な資金の働きに転換する過程で生じる勘定である。
一般に減価償却そのものには、資金的な裏付けがないとされる。しかし、それは錯覚である。減価償却には、設備投資に対する「お金」の流れが対応している。問題は、減価償却の計算と設備投資に対するお金の流れが必ずしも一致していないという点にある。

大体、減価償却費は想定に基づく値である。実際の償却資産の老朽化と同じ速度で減価しているわけではない。あくまでも会計上の処理である。その為に、現実の設備更新の時期と償却期間が一致しているとは限らない。昨今のように技術革新が激しい時代では、設備が陳腐化する期間も短くなる。しかし、減価償却期間は簡単には変更できない。また、減価償却として想定される費用が実際の設備にかかる負荷とが一致しているわけでもない。もし仮に製品一単位当たり費用と消耗度を一致させようとしたら操業度を基準とする必要がある。
更に、資金計画と減価償却も一致していない。
この様な減価償却費の性格も期間損益の結果に瑕疵を作る。

以上に挙げた欠点以外に期間損益の欠点と思われるのは、先にも述べたように、金融機関の決算の枠組みと他の産業の決算の枠組みが違う事である。
また、期間損益は、基本的に市場取引を基礎としているために、財政と家計が期間損益基準ではなく、現金収支の基準に則っている事である。その為に、民間企業と財政、家計との整合性が取れない点などがある。



資金の過不足が発生する原因


なぜ、資金の過不足が生じるのか。資金の過不足が生じる原因は資金移動である。
では、資金の過不足とは何か。それは資金の需要と供給によって決まる。必要とする資金が足らなければ資金不足であり、必要とする資金以上あれば資金余剰である。つまり、資金の過不足は、資金の必要性を基準として決まる。
資金移動が起こる原因は、資金、即ち、「お金」の性格による。「お金」の性格と言うより、「お金」を利用した貨幣制度という仕組みが、資金移動によって作動しているからである。貨幣制度は、貨幣の過不足を是正するように動き、その動きが貨幣経済を動かす原動力となるからである。つまり、貨幣の過不足が経済を動かしているのである。
「お金」が必要なところに「お金」が流れる過程で財を逆方向に流し、あるいは、雇用を生み出し、生産を促す。それが貨幣経済の仕組みなのである。
「お金」は、基本的に交換の手段であり、「お金」の出入りによって経済主体は効力を発揮するのである。「お金」の出入りを実現するのは、取引である。取引を実現する場が市場である。市場は、「お金」の過不足によって動かされている。
この「お金」の過不足を貸し借りによって調節する機関が金融機関なのである。
金融機関は、「お金」をどこに流すかによって市場を作り上げているのである。そこに、金融機関の役割・使命がある。
つまり、「お金」の流れを制御するのが金融の役割なのである。水の流れに沿って田畑ができ、街ができ、林や森ができる。それと同じように「お金」の流れに沿って産業が興り、物が流れ、家庭ができる。それを誘導するのが金融の役割なのである。

貨幣移動を起こす要因には、売買、貸借、税、、贈与の四つがあり、その内、主として市場を動かしているのは、売買と貸借である。売買は、資金の効用を発揮させ、貸借は、資金の過不足を調節する。金融は、貸借取引を基礎として資金の過不足を調節する役割を果たしている。
売買取引は、短期的な資金の働きとして現れ、フローを形成し、貸借取引は、長期的資金の働きとして現れ、ストックを形成する。
問題なのは、売買取引は、損益上に現れるが貸借取引は、損益上に現れない事である。貸借関係において利益、あるいは、損失が出た時だけ損益上に特別損益として表面化する。

注意しなければならないのは、売買も貸借も相互関係にあり、対称性があるという事である。
売り手がいれば買い手がいる。買い手がいれば、売り手がいる。貸し手がいれば借り手がいる。借り手がいれば貸し手がいる。そして、一回の取引で成立する経済価値の総和は、ゼロ和である。つまり、対称性があるのである。
更に貸し借りは、貸し手側から借り手側に資金が流れると流れた量と同量の債権と債務が派生し、逆に資金が流れると流れた量と同量の債権と債務が清算される。この債権債務関係が長期資金の働きを形成するのである。
そして、金融は、債権と債務を制御する事によって資金の過不足を調節しているのである。

資金移動を引き起こすもう一つの要因は、時間価値である。資金移動を担うのは、基本的に人である。時間価値は、資金移動を起こす動機を人の間に形成する。時間価値は、金利、利益、地代、家賃、配当、物価や所得の上昇率によって形成される。金利があるから、人はお金を銀行に預けるのであり、銀行は企業に貸し出すのである。

自分が必要とする物を購入しようとした時に手持ち資金があるとは限らない。物を必要とする場合、必ず時間が関係する。必要な時に必要な「お金」がなければならないのである。しかし、常に手元にお金があるとは限らない。特に一度に大きな買い物をしようとした場合、投資をしようとした場合、一時的に資金が不足する場合がある。

資金移動の中で時間価値を生じさせないのは、税、給付、贈与などであり、故に、税、給付、贈与は所得の再分配の手段として用いられる。
資本は、時間価値を生じさせないわけではないが、相対的な形で、かつ、規則的に派生するものではない。資本と言う概念が成立した事で、資金の過不足の歪みからくる過剰な働きを抑制する事が可能となった。

市場は、現金収支の振動によって動いている。故に、重要なのは振動の幅と水準である。過不足その物の良し悪しが問題なのではない。不足している部分があれば過剰な部分もある。その歪みを均衡させようとする力が市場を動かしているのである。市場のエントロピーは常に増大している。それを制御するのが金融の仕組みであり、施策である。

「お金」は、資金余剰の主体から資金不足の主体へと揺れ動く事で市場を動かしている。資金不足な主体に資金を融通するのが金融機関だという事である。資金不足な主体なのであるから間違えば資金を回収できなくなる。それが問題なのである。金融は、資金が不足している原因を探り、それが健全な理由であるかないかを自分の責任で判断しなければならないのである。
現代の金融が落ちいているのは、余剰な資金を持っているところに資金を融通し、資金の不足している所から資金を回収しようとしている事である。その為に資金が市場に循環しなくなりつつある。資金が不足している原因を正確に見抜く力が求められているのである。

資金の過不足の要因には、短期的要因と長期的要因がある。短期的要因は、運転資本に係る事である。長期的要因は、投資に係る事である。

問題は、表に現れた事よりも、水面下に隠されている方が多い。
経済に深刻な影響を与えている原因が、表に現れる金利よりも表面に現れてこない、短期、長期の資金の流れに隠されている場合が多いのである。

資金移動には波がある。その波は、人間の生きるための活動、即ち生活に根ざしている。経済とは、生きる為の活動である。人の生活の波に伴って資金の移動にも波が起こる。資金移動が引き起こす波が、景気の波を引き起こすのである。この波が、市場を動かす原動力となる。

人間が使える「お金」の量は、本当は決まっているのである。いくら「お金」があったところで無限に土地があるわけではないし、不老不死でもない。土地に支払える「お金」の量は、金額として表せるものではないし、生きているうちに使える「お金」の量も限りがあるのである。それは、潜在的に決まっている。その事を理解しておかないと「お金」の過不足の原因は理解できない。「お金」は、分配のための手段なのである。

何が確かな事で、何が不確かな事なのかを見極める必要がある。
その為には、どの様な社会、産業を育成するかの構想や展望が必要である。「お金」は、手段であって目的にはならない。「お金」の背後にある働きを見る事なのである。「お金」の流れは、水の流れに似ている。水の流れは、草木を育て、生き物を育み、街を作り、文明を作り上げてきた。時には、人は、水をめぐって争い、殺し合う事もあった。しかし、水利をよくてものだけが発展してきたのである。

我々は、不確かな事に気をとられて確かな事を見落とししたり、忘れたり、軽視したりする。しかし、忘れてはならないのは、我々がよって立つべきところは確かな事なのである。そして、不確かな事の多くは、確かな事を前提にして成り立っている。しかも、我々が操作できるのは、確かな事よるのである。
注意すべきなのは、経済において我々が確かだと思っている事の多くは、恣意的な約束事であり、その多くは、自分たちの意志によって変更する事が可能だと言う点である。
全人類の中から父や母が自分の親になる確率は低いとしても父と母が自分の母親であることは確かな事なのである。

何が確かで、何が不確かなのかは、初期設定の段階で前提となる。
初期投資の段階で資金の返済計画は、確実に事として前提となる。借入金の返済は、約定通りになされなければならない。つまり、長期的借入金に対する支出は確定的である。
それに対して売上収入は不確かである。これが一番の問題である。

確かなのは、初期投資に掛った資金とその時に借り入れた資金の返済予定である。これは約定によって定められている。売上に確証はないが返済は待ったなしである。極端な話、借金をしなければ破産はしない。これは財政も、家計も同じである。次に確かなのは、費用による支出である。
つまり、支出は確実だが収入は不確実である。それが資金不足の根本的原因である。まず確実に出ていく「お金」に対してどの様な手段で「お金」を調達するか、それが問題なのである。

確実に出ていく支出に対して入ってくる収入は不確実である。収入が不確実なのは、売上が一定していないからである。大概売上には波がある。波には一定の形がある場合が多いから不確実ではあるが、ある程度の売上予測はできる。その予測に基づいて資金の過不足を想定し、それによって資金繰りをする。その資金繰りを支えているのが金融である。
問題は、資金不足を引き起こす原因である。一つは単純な売り上げの減少である。ただ、売上が減少する局面だけでなく、拡大局面でも資金不足は起こる。また、収入に季節変動がある場合も時期的に資金不足を引き起こす。また、創業期にも資金不足が起こる。原材料が上昇してきた時も資金不足を起こす事がある。事故や災害によって一時的な資金不足を起こす事がある。売上と入金に対する認識の違いから資金不足を引き起こす事もある。

初期投資後に、設備投資に対する借入金の約定、返済計画に従って派生する固定的な支出がまず前提条件を構成する。この支出に対しては、損益上では減価償却費と言う形で費用として計上されるが、減価償却費と支出は必ずしも一致していない。不足する部分は、将来の収入、未実現利益を担保として借入、それは借入金の増減として計上される。この様な資金不足は貸借上において処理される。
それに対して収益や費用に関連して一時的に収入が不足しり、支出が増加する時、資金不足が生じる。この様な資金不足を運転資金の不足という。この様な資金不足は損益上において処理される。む
運転資金は、短期的な資金不足である。この様な短期的な資金不足には、短期借入金で対応するのが一般的な手段である。この短期的な資金を担保しているのが含み益と内部留保、将来の収入である。問題は、この含み益、未実現利益を裏付けているのが資産価値の相場と簿価の差である。
バブル崩壊後、簿価と相場との差がなくなり、含み益が消滅した。それが貸しはがしや貸し渋りの対象となり、黒字倒産の原因となったのである。



法人企業統計と国土交通省の公示地価による。


経済において決定的な働きをしているのが時間の働きである。資金の過不足にも時間は決定的な働きをしている。

資金の過不足を実際を明らかにするためには、期間損益と現金収支との整合性をとる必要がある。
期間損益における利益とは、費用対効果、投資対効果を計算し、それが妥当であるか、否かを判断して追加的資金を投入すべきか、どうかをはんだするための指標である。その基礎となるのは、収益の予測である。

実際の資金の働きと期間損益によって測定される資金の働きとの整合性をとるためには、実際の資金の働きと損益との間にどの様な乖離が生じるかを読み取る必要がある。

まず、投資資金の調達手段には、借入と資本がある。借入金は、返済義務が、借入実行直後から発生する。支出は、借入金の返済以外に、費用がある。問題は、費用の中に支出を伴わない部分が含まれている事である。資本は、返済義務のない借入金だと考えるべきである。返済義務がなくとも費用は掛かる。
長期資金から生じる資金不足は、主として借入金の返済に係る事である。だからこそ、利息よりも借入金の返済がより深刻なのである。なぜならば、利息は費用として処理する事が出来るからである。それに対して借入金の返済は、費用として処理する事が出来ない。即ち、収益の中から賄う事が出来ないのである。では、どの様にして処理するのか、償却資産は減価償却費として費用処理する事が可能である。しかし、非償却資産である不動産は、処分するまでは清算できない。故に、その部分は、借り換えする以外に手段はない。借り換えする際の資金を担保するのが不動産の資産価値、含み益と内部留保である。この点を理解しておかないと含み益と内部留保の働きが理解できない。
含み益と内部留保は運転資本をも担保している。

バブル崩壊が直撃したのは、この含み益と内部留保である。それ故に深刻なのである。

長期金利が上がらないのは、長期的資金の需要がないからである。
そして、自然利子率に決定的な働きをしているのは、長期的な資金の働きである。

また、減価償却費が資金の流れと乖離している場合、利益は、経営主体の実態を正しく反映していない。その場合、利益が過大になったり、過小な評価される事になる。税金は、利益に対して課税されるために、資金繰りがつかなくなる危険性がある。

全産業 全規模
  
法人企業統計

1994年に金利が自由化される。その時から目に見えて支払利息が減少する。それに伴って急速に企業の営業純益が増加するのである。
金利の自由化は、何を目的とし、誰を利する為にするのか。金融機関の弱体化を目的としているわけではあるまい。なぜ、金融機関の収益力を低下させる必要があるのか。また、金利を低めに誘導する必要があるのか。ゼロ金利の時にである。ゼロ金利の時に金利を低めに誘導すれば、確実に利鞘は、圧迫され、金融機関の収益力は低下する。
バブルが崩壊し、金融市場は、縮小しているのである。

市場が拡大してる時の資金の過不足の原因や対策と市場が成熟している時、縮小している時の原因と対策は違う。その点を忘れてはならない。

現在生起している経済の諸問題は、資金配分の不均衡に起因していると考えられる。資金の配分の不均衡は、フローの面にもストックの面でみられる。この様な資金配分の不均衡は、資金の流動性を低め、また、資金の効率、効用を低める。格差の拡大は、その対極にある物流を阻害する。現在問題なのは、一方に飢餓で苦しむ者がいて他方で飽食によって無駄に捨てられる食糧であふれているという状態である。貧困は相対的な事で、配分の不均衡がもたらすのである。

貧困は、認識から生じる。故に、貧困は相対的な事である。貧困は格差から生じる。貧困が昂進すると貧困は、社会を二分する。貧困は資源の配分を巡って生じる。貧しい者の生活が成り立たなくなると暴力的手段によって状況を是正しようとする動きが表面化する。それが戦争であり、革命であり、クーデターである。

富める者のところに「お金」が集まり、貧しい者のところに「お金」が行渡らなくなれば社会的格差は拡大する。社会的格差が大きくなりすぎると、経済の仕組みを機能させなくなる。「お金」の流れが偏るような仕組みでは、不労所得が増大するからである。一番困るのは、生活に必要な最低限の資金も回らない部分がある一方で使いきれない程の資金を持つ者がいるような状態である。この様な格差は、社会全体に決定的な対立をもたらし、社会構造を根底から覆してしまう危険性があるからである。
仕事がなくても働きたくても働けれない者が増える一方で働かなくても収入を得られるものが増える様な状態は、社会に深刻な緊張をもたらす。
この経済的歪みを均衡させるように動くのが金融本来の役割なのである。ところが現在の金融環境は、資金の過不足を是正するのではなく、逆に拡大するような働きを促進するような状態になっている。前提が変われば仕組みを変える必要がある事を忘れてはならない。

現代の日本の経済の停滞は、資金の余剰主体に資金が集まり、資金不足の主体から資金を回収する動きを促進する体制に経済が成ってしまっている事にある。
この様な状態は、金融政策や財政政策では改善できない。構造的問題なのである。



資金の長期的働きと短期的働き


資金の働きには、長期的働きと短期的働きがある。資金の長期的働きと短期的働きの整合性をとるのも金融の働きである。

資金の長期的働きは、貸借上に現れ、短期的働きは、損益上に現れる。
キャッシュフローでは、長期的働きは、主として投資キャッシュフローそして、財務キャッシュフローの長期借入金として現れ、短期的働きは、営業キャッシュフローとして運転資金として、また、財務キャッシュフローの短期借入金に示される。

問題は、貸借に増減として長期資金の働きは、暗示されるために、明確にとらえにくいと言う点にある。なぜならば経営や経済の状況に決定的な働きを及ぼすのが長期的資金の働きであるからである。その点をよく理解していないと金融は、本来の役割を果たす事が出来ない。

長期的資金のベクトル、量と方向と働きは、資産価値の名目的価値と実質価値との相関関係によって決まる。
短期的資金のベクトル、量と方向と働きは、収益と原価(費用、仕入、在庫、売買条件、運転資金、金利等)の動向に左右される。

例えば資金の調達力は、実質勘定である資産の相場と名目勘定である負債の簿価との相関関係によっては決まる。投資した時点より時価が上昇していれば含み益が発生し、資金調達力を高め、下落していれば、含み損が発生して資金の調達力を弱めるからである。

特に地価の動向は、資金の流れる方向を制約する。
バブル形成期には、地価の上昇に合わせて市場に向かって資金が流れ。バブルが崩壊すると地価の下落に合わせて資金は、回収側に資金は流れた。それによって市場は拡大均衡から縮小均衡に向かったのである。

この様な長期、短期資金の働きを調節するのも金融機関の大切な役割である。

長期的資金、短期的式の働きは、基本的に時間の働きに還元される。時間が資金の動きに対してどの様に作用しているかを正しく認識する必要がある。

長期的資金、短期的資金の働きは、時間価値に反映する。時間価値とは、金利、利益率、物価上昇率、所得の上昇率、地価の変動、地代、家賃などである。

長期的資金は、累積する性格があり、短期的資金の働きによって清算される。

長期的資金の働きと短期的資金の働きの均衡が保てなくなることがある。短期的資金の過不足が一定期間で解消できなくなると、貸借に資金が累積する。貸借関係は金融市場を構成するから貸借上に資金が蓄積する事は、金融市場の拡大につながる。金融市場の拡大は、損益上の不均衡が貸借上に及ぶことを意味する。貸借上の不均衡は、長期資金の働きが短期資金の働きを圧迫する事を意味する。それは時間価値の働きを弱めてしまう。ゼロ金利はその延長線上に派生する。金利の低下は、時間価値を弱めるから反動で長期金利の上昇を招く。それは物価上昇や経済破綻、財政破たんにつながっていく危険性がある。

つまり、所得で不足する部分を借り入れで補う事を意味するからである。それが高じると暴力的な力によって貸借関係を解消せざるを得なくなる。それは、社会の仕組みを土台から壊してしまう事を意味するから一番避けなければならない事態である。


借金が金融の源である。




金融の力の源は、借金にある。

金融業の業務の柱は、貸付業務と預金業務である。いずれも金利に関わっている。金利、即ち、利息の根源は借金である。そして、金融機関の収益の源は、利鞘、即ち、金利差なのである。この事は、金融機関の根幹は、売買取引ではなく、貸借取引である事を意味している。
貸付業務には、貸し手と借り手双方に借り手の一定収入が保証されているか、将来上がる事を見越して返済が可能であるという信頼がなければ成り立たない。

しかし、金融は影である。経済の主役は産業にある。物つくりの時代は終わったなんて言う者がいるが、彼等は何か勘違いをしている。経済の本質は、財を生産し、雇用を創出し、生産財を分配する事に変わりはない。金融上いくら利益を上げたとしても、実体が伴わなければ架空の利益でしかない。

金融機関は、物を製造したり、販売したり、運んだりするわけではない。
金融機関の役割は、取引の決済や「お金」の融通である。
この点をよく理解していないと金融機関の役割を理解することはできない。

金融機関が他の産業と違うのは、取り扱っている商品が「お金」だと言う点である。「お金」の根本は、信用である。
つまり、金融機関の根本は信用なのである。信用が揺らぐと金融制度は成り立たなくなる。
「お金」は価値を象徴する物であって価値そのものであはない。現金とは、その時点における貨幣価値を指し示す貨幣単位なのである。
「お金」の本質は、表象であって物ではない。

「お金」は、分配の手段である。
通貨の流量は、有限でなければならない。なぜならば、通貨の流量に際限がなくなれば、通貨は、全体を明確にできなくなり、分配という機能が果たせなくなるからである。

無限は神の世界の事であり、人間は、有限な世界で生きている。この事を忘れたら、人は、自分を抑制できなくなる。

現代の市場経済は、分割という思想によって発達した。
借金や減価償却費が成り立つ背景には分割という思想がある。
分割というのは、時間の沿って支払や費用を分けて実現しようという思想である。
これは、支出や収入を時間的に平準化する、均すという考え方からきている。

この点を正しく認識していないと、金融、そして、長期資金の働きを理解する事はできない。
長期借入金において重要なのは、時間の働きなのである。
働きには、時間に伴って変化するものと一定のものがある。

収入は変動的であるのに対して、支出は固定的である。不確かで、変動的な収入と確実で固定的な支出の間を調節するのが借入金なのである。

数値化する為には、何らかの全体を特定の基準、尺度で最小単位に分割、分解する必要がある。数値を象徴化したのが貨幣である。貨幣によって経済的価値を数値化する事で経済的価値は測定が可能となる。

この様な分割という思想が成り立つ為には、一定期間、一定の収入が保証されているという前提が成り立たなければならない。なぜならば、分割は、その前提となる全体があって成立する操作だからである。
また、借入金の働きが持続している期間を明確に設定する必要が生じる。それは名目的働きと実体的働きを明確に区分しておく必要があるからである。
分割という概念が成り立つ為には、何らかの全体が想定されなければならない。それは経済的な概念にすると総量である。そして、この総量と言う概念が貨幣経済の基礎となる。
総量と言う概念を成立させるためには、全体を計るための手段がなければならないからである。総量を数値単位で測る事を可能としたのが貨幣なのである。そこに貨幣の重要な働きがある。

全体、即ち、総量を測定できないと分割はできない。なぜならば、分割された部分の働きは、全体に制約されるからである。全体と部分との関係を測定、あるいは、推定する目的で会計は成立した。また、資金的には、借入金と金利、それに対する返済計画が一体となって成立している。
会計は、資金の働きを測る基準であって現実の現金収支と必ずしも一致していない。例えば、減価償却費と借入金の返済額とは必ずしも一致しているわけではない。また、土地の代金の返済額は、損益には計上されない。収入も確定しているわけではない。
問題なのは、分割の幅、分割の仕方、分割の期間が会計と現実の現金収支と一致していない事なのである。
この様な会計と現金収支のズレを調節するのが金融の働きであるから、この点を正しく理解していないと資金繰りを正確に管理する事が出来なくなる。

通貨の流量の上限を何らかの手段によって制約を設定しなければならない。そうしなければ、「お金」は管理できなくなる。
その制約、枠組みを設けるのは、金融機関の一番の役割である。

ただその制約や枠組みは、経済主体の行動を制約する。
何によって通貨の上限を制約するのか。人なのか、何らかの仕組みなのか、機関、組織なのか、規則なのか、そこが問題なのである。

現代経済は、生産のみを重視している。しかし、経済は、生産のみで成り立っているわけではない。
生産以外にも分配と消費も重要な役割を果たしている事を忘れてはならない。

所得も、所得の生産、所得の分配、所得の消費からなる。所得の生産ばかりに重きを置くと所得の分配や消費が疎かになり、結果的に経済は停滞する。
価格は、適正であるかどうかが問題なのであり、ただ廉価であればいいというのは錯覚である。

この事は、金融業界も御多分に漏れない。金融業界も適正な金利収入が得られなくなれば成立しなくなる。金利が限りなくゼロに近づき、マイナスにまでなるのは、異常な事態である。また、異常な事態だという事を忘れてはならない。ゼロ金利が常態化するとゼロ金利は異常だという認識が薄れるからである。

昔、東京の下町でなかなかスーパーが受け入れられなかったのは、スーパーストアは、客にはならないという考え方が地元にあったからである。つまり、世の中持ちつ持たれつであり、自分の客の客に自分もなるという発想である。ただ安ければいいという考え方ではない。多少高くても全体の利益になるならその方がいいという思想である。
それは、無意識に経済は相互作用だという事が頭のどこかで働いていたからである。安値ばかりに囚われて経済は相互作用だと言う点を現代人は忘れかけている。
何を適正価格とするかは、所得の生産と分配、消費という観点からも捉えなおす必要がある。

赤字は、単純に悪い事で、黒字は正しいみたいな考え方が横行している。しかし、市場全体から見る赤字か黒字かは、資金余剰の主体か、資金不足の主体かの違いに過ぎない。それはポジションのも問題であって善悪の問題ではない。

資金余剰の主体が資金不足の主体にどの様な働きをしているかが重要なのであって、単純に、赤字を失くせという訳にはいかないのである。
市場取引は、売り買い、貸し借りを基本として成り立っており。売り買い、貸し借りに対称性があって総和がゼロ和である事を前提として成り立っている事を考えれば、赤字主体があれば黒字主体が必ず生じる。
要は、どの主体が赤字を引き受け、どの主体が黒字を引き受けるかの問題と、どの程度の累積が許容範囲かの問題に要約できるのである。それを黒字が是で、赤字は否だと決めつけたら、最初から成り立たなくなる。
財政を常に黒字に維持したければ、後の、家計か、企業か、海外部門のいずれかが、赤字を引き受けなければならないのである。

資金を融通する事でなぜ金融は、市場を制御できるのか。それは、負債によって資金を供給し、収益によって回収するという循環が維持されてきたからである。この循環が機能しなくなってきたのが、問題なのである。
なぜ、民間企業は、赤字主体でも成り立ってきたのか。それは、実物勘定、即ち資産価値が、名目勘定、即ち、負債を実質的に上回ってきたからである。それが逆転した事で、資金の流れが変わった。そして、企業か借り入れをすることで維持されてきた資金の供給を財政が赤字化する事で補ってきたのである。財政赤字で問題なのは、財政が赤字を続ける限り、民間は投資のための資金を調達できなくなると言う点である。

資金循環統計では、金融仲介機関として、中央銀行、預金取扱機関、保険・年金基金、その他金融仲介機関、非仲介型金融機関。非預金取扱金融機関として保険・年金基金、その他金融仲介機関、非仲介型金融機関を上げている。


 



金融の働き


金融は、「お金」の働く場を生み出し、「お金」の力で物や人を動かす事である。

水が高い所から低い所に流れるように、資金は、余剰な部門(主体)から不足している部門(主体)へと流れていく。

貸借取引では、資金が貸してから借り手の側に流れると同量の債権と債務が生じ、逆に流れると同量の債権と債務が解消される。
この資金の流れが長期資金の働きを生み出し、ストックを形成する。そして、通貨の流量を定める。
俗に「お金」には、色がないと言われる。「お金」に色を付けるのは、貸先である。その意味で不良債権と言うが不良債権は、不良債務でもある。不良債権を処理する事は、同時に不良債務を処理する事でもある。これを忘れて不良債権だけを処理したら不良債務は放置される事になる。片手落ちの処理なのである。

市場は、資金の過不足を是正しようとする働きによって作動している。故に、市場は、資金の過不足の歪を認識する事ができなくなると暴走する。資金の過不足を正しく認識できなくなる最大の原因は、片手落ちの処理にある。表面に現れてこない資金移動が水面下で無軌道な動きをしているのである。

市場経済は、人、物、金の過不足を原動力として成り立っている。
「お金」過剰な部分から不足している部分に融通される。それが貸借取引である。貸借取引は、支払準備となる。
支払準備金を取り崩して消費者は、必要な資源を市場から獲得する。
この様な「お金」の流れによって生産物を流通させ分配する仕組みが市場なのである。
故に、市場には常に、人、物、金が過剰な部分と不足している部分が混在していなければならない。
人、物、金の過不足は、差によって生じる。故に、格差は、必要である。格差がなければ、資金の流れは起こらない。問題は、格差の幅である。差から上下運動が起こる。差による振幅が均衡している時は、人、物、金は円滑に循環するが、差の振幅が乱れ、不均衡になり、市場に偏りが生じると市場は傾き、構造を維持的なくなる。格差の幅が大きすぎると振幅が激しくなり、市場を制御できなくなる。
経済の根本は本来必要性に置くべきなのである。市場の過不足は、必ずしも、人々の必要性を反映したものではない。
故に、過不足を制御せずに放置していると市場には歪が生じる。その歪みが市場経済にさまざまに障害を引き起こすのである。
計画性というのは、生産や分配に直接介入する事を意味するのではなく。仕組みを計画的に動かす、あるいは変化させることで市場の均衡を保つ事を意味する。

市場は何らかの形で常に余剰な部分を抱えている。
余剰な部分は、金銭的な部分だけではない。人や物にも余剰な部分がある。
人手も、財も余剰な部分と不足の部分が常にある。そして、不足している部分へ余剰な部分から融通する事によって経済の仕組みは稼働しているのである。
人は、労働力と需要、消費を担い、財は、雇用と供給、生産を担い、「お金」は、所得と支出、投資を担っている。
そして、これらは各々の要素の過不足によって機能している。
所得には、労働力と雇用が、支出には、消費と在庫が、投資には、需要と供給が対応している。
労働力の過不足を調節する為に財政投融資と所得の再分配があり、財の量の過不足を調節するために投資と在庫があり、「お金」の過不足を調節するために金融がある。そして、必要な資源が経済圏の内部で調達できない場合、経済圏の外から交易によって調達をして補う事になる。金融は、貯金と借金によって構成される。
需要と供給、労働と所得、生産と消費には偏りがある為に過不足が不均衡になる場合がある。
例えば労働力が余剰な地域に仕事(雇用)がない。過剰に家があるのに、買手がないといった事が往々に起こる。
余剰な部分と不足している部分を市場が適切に認知し、それに対する調節する機能が迅速に働けば問題はないが。
不足した資源を生産するのに、時間がかかったり、また、生産そのものが必要量を大幅に下回ったりすると市場は本来の働きを維持できなくなる。
金融は、基本的に人、物、金の過不足を調節する事を目的としている。この目的が失われると金融は、本来の働きができなくなり、「お金」の流通が制御不能に陥る。

金融本来の働きは、人と物の過不足を調節する事で資源の循環と分配を実現する事を促す事である。お金はあくまでも手段であって目的ではない事を忘れてはならない。


日本銀行

資金の働きを確定するのは、運用先である。「お金」は、それ自体では効用を発揮しない。対象があってはじめて効用を発揮する。
「お金」の性格は、何に対して、どの様に、どの程度支出したかによって決まるのである。

日本の金融の主軸は間接金融にある。それに対して欧米は直接金融を主としていると言われる。
なぜ、欧米が直接金融を主としているのか、その要因を探ってみると資本主義経済の生い立ちに行き当たる。
資本主義は、投資によって生まれたと言ってもいい。株式会社の起源は、航海に対する投資に始まったと言われている。
投資の根本は、事業に資金を賭ける事である。投機とは言わないがある種の賭けだと言っていい。それに対して金を貸すという行為は、返済を前提としている。だから、担保が重要になる。貸した金は、返してもらわなければならない。
それに対して投資は賭けるのである。だから、投資家は、担保ではなく保険を重視する。
日本人は、返済を前提とした資金移動を主とする。故に、資産価値が暴落すると資金が動かなくなるのである。
資金を融資する根本は、本来、、収益でなければならないのであり、担保力ではない。なぜならは、担保はストックであってフローではない。資金の回収は、収益を基にしない限り、経営の効果が生かされなくなり、企業の社会的効用が失われるのである。
現代日本の金融の問題点は、事業収益ではなく、過去の遺産に囚われている事なのである。
本来、我が国の将来にとって有用な産業、事業に資金を融通すべきところを、過去の遺産によって余剰なストックがあるところに資金を融通しようとする。それによって本業の収益力が低下して資産価値ばかりが上昇するという現象を引き起こすのである。それは金融機関の見識のなさに由来する。
国家の行くべき先、展望、国家のあるべき姿を描く事が出来ないからである。今、我が国にとって何が大切なのか。これからの社会国家はどうあるべきなのか。その問題意識を失えば金融は単なる金貸し業にすぎなくなる。街金と何ら変わらないのである。
資本主義経は、鉄道や運河と言った巨額の資金を必要とする野心的な事業に挑戦する事によって発展してきた。それは、元々資金不足だったのである。その資金不足を解消し、今日の経済の礎を築いたのは金融人である。現在の経済を築き上げた金融人には志があったのである。

「お金」には、色がないという。「お金」に色を付けるのは、事業家であり、投資家であり、金融人である。


金融の仕組み



金融には、貸借、預金、決済の三つの働きがある。
故に、金融機関も何を主体とし、何を、備えているかによって、あるいは、何を対象としているかによって性格に差が出る。

金融機関本来の働きは、貸し借りにある。つまり、融資である。
経営主体に資金を供給する手段としては、投資がある。しかし、銀行業務は基本的に投資から切り離されている場合が多い。
それは、銀行業務の役割の性格によるからである。銀行業務は、「お金」の供給、流通、回収、貯蔵を通じて「お金」の市場に循環させると同時に、「お金」の価値を維持する事が役目だからである。「お金」の価値を維持するというのは、金融の仕組みの「信用」を保つ事を意味する。故に、金融を信用制度と言うのである。

つまり、金融機関にとって「お金」は、商品であって、また、原材料である。一般で考えられている現金とは、扱いが違うのである。それを明確に区分する為に、金融機関では、仕組みの上切り離しておく必要があるのである。金融機関は、何兆円と言う預金があったとしてもそれは、商品であり、預かり品に過ぎない。それを人件費や設備に使用する事は許されないのである。
それに対して投資を専門にやる機関が証券会社で広義で金融と言った場合は、証券会社や保険会社も含まれる。

金融の働きは、貸し借り、預金の他に、決済がある。そして、貸し借りも決済も仲介的働きである。「お金」の働きの本質は情報にある。
決済の仕組みの根本は、情報処理であって決済そのものは複数の主体による連鎖取引である。故に、決済の過程で中断されたり、遮断されたりすると一つの主体にとどまらずに、連鎖的に他の主体にも影響を及ぼし、決済の仕組みそのものを毀損あるいは機能不全に堕とし込めるリスクがある。

金融の中核を担うのは、貸借、預金、決済の業務を主体とした銀行である。

金融機関本来の働きは貸し借りである。「お金」を貸し借りする為に資金を貯蔵し、また、「お金」の受け払いを清算、即ち、決済をする。
それが金融機関の本質である。金融機関の効用は、貸し借りを通じて発揮される。売買によって効用が発揮される他の経済主体との違いがその点である。
金融機関が貸し借りを主体とするのは、商品である「お金」の性格による。「お金」特に、紙幣の本質は、借用書、あるいは、預かり所である。つまり、「お金」の本体は、借物、借金なのである。

「お金」の性格の一つに価値の保存がある。「お金」は、価値を貯蔵する事が出来るのである。逆にいうと借金は、累積する。貨幣の実質的価値は変化するが、貨幣の名目的価値は不変である。故に、貨幣価値は、常に実質的価値と名目的価値の両方を持つ事になる。

「お金」の名目的価値は蓄積される。それは、借金も蓄積される事を意味する。
何事も累積され、蓄積されたものは、忘れられ見落とされがちである。特に借金の力は、見落とされがちである。なぜならば、借入金の動きは、貸借対照上における負債の増減としてしか計上されないからである。つまり、借金は、損益取引ではなく、貸借取引だからである。
借金は、将来の収入を担保することによって保証される。将来の収入が担保されない限り、借金は成り立たないのである。つまり、借金と将来の収入は、表裏の関係にある。

借金をしなければ、倒産しない。不渡りを出さなければ、企業は、倒産しないのである。個人も破産しないで済む。ならばなぜ、個人も企業も借金をするのか。それは、現在の経済体制が貨幣制度を基盤としているからである。貨幣制度は、売買だけで成り立っているわけではなく。売買の裏に必ず貸借関係がある。その貸借関係を成り立たせているのが金融の仕組みである。この点をよく理解しておかないと金融に携わる者は大きな間違いと言うより、罪を犯す。金融は、「お金」を貸す事によって成り立っている。「お金」を貸し出せない金融機関は、金融機関としての用を為さないのである。この様な金融機関は、市場を蝕む癌のような存在である。

貸借取引は、表に現れないお金の流れを形成する。貸し借りと言う表に現れない「お金」の流れが実際は、経済主体の死命を制しているのである。そして、貸借の流れを制御しているのが金融機関である。そこに金融機関の使命がある。



法人企業統計


貸借の在り方は、資金の性格によって変わってくる。資金の性格は、貸先によって差が生じる。貸先には、個人、企業の規模、経営形態、業種、資本形態、資産状態、地域性等によって変わる。また、長期的資金か、短期的資金かによっても違う。投資か、消費かによっても違ってくる。また、会計処理の仕方でも差が出る。貸出か、貯蓄か、決済かの目的によっても違いがある。

消費者に対する貸し出しに特化した消費者金融などは、貸先による違いである。

バブル崩壊以前、金融改革以前は、資金の性格に応じた金融機関が設定されていたが、金融改革以後は、規制緩和によって資本取引も含めて金融機関の区分はなくなりつつある。
しかし、これは、金融機関の本質を忘れた危険な政策だと考えられる。貸借の根本によって、貸借の在り方の質は自ずと違ってくるからである。
確かに、時代の変化に対応できなくなった金融機関もある。それは、その時代の変化や環境の変化に合わせて変えるべきである。しかし、それは金融本来の役割を前提としたうえである。為政者の一方的な都合で推し進めるべきではない。



日経BP社


例えば、長期資金の貸出に特化した長期信用銀行や住専などは、長期資金が必要とされなくなり、あるいは、直接資本市場から調達されるようになるとその役割を終えた。結局その清算が円滑にできなかったことがバブルの形成を促した傾向がある。長期信用銀行や住専の様な長期資金の貸出に特化した金融機関をどの様に転換させるべきだったのか、その原則が示せなかったことが問題なのである。それをすべて規制の問題だとして闇雲に規制を緩和してしまえば、強引に清算せざるを得なくなるのは、当然の理である。根本にあるのは、金融という仕組みに何を期待し、どの様なものにしたいかの明確な構想・展望である。


法人企業統計


金融の仕組みは、いくつかの市場が組み合わさってできている。一つは、個人向けの市場、二つ目は、法人向けの市場、三つめは、銀行間の市場、四つ目は、為替市場、五つ目は、資本市場である。

基本的に金融を構成する市場は、個人向け市場、法人向け市場、銀行間市場、為替市場、資本市場からなる。

金融機関の役割の一つに「お金」の価値の維持管理がある。
「お金」の価値を決めるのは、一つは、市場取引にである。市場取引による結果は、物価に反映される。もう一つは、為替取引である。

「お金」の価値は、為替によっても決まる。為替の動向は、金融と密接に結びついている。それは、為替が資金の流れの方向、資本の流れの方向の転換を促すからである。

故に、基本的なところで為替に影響するのは、物の価値である物価と、交易の結果である経常収支と「お金」の価値を左右する金利である。

また、為替と物価は表裏の関係にある。
物の取引と資本取引相互の働きによって金融制度は一定の均衡が保たれているのである。



中央銀行



今日の金融業界は、中央銀行を中心としたネットワークである。
ネットワークだという事が他の業界と決定的に違う事である。確かに、製造業や大企業も何らかの系列やネットワークを持っている。しかし、業界全体が一つのネットワークの下に制御されているという業界は、産業は、金融業界をおいて他にない。しかも、このネットワークは、国内にとどまらずに国際的なネットワークの中に組み込まれているのである。

これは、金融と言う仕事の性格、決済を基本業務としているという性格からきていると言っていい。
金融業界がネットワークだという事は、金融業界が一つの全体と部分から成っている事を意味する。つまり、金融機関は、一つの全体を共有する事で成り立っている。このネットワークが機能しなくなったら金融そのものが成り立たなくなるのである。
ネットワークが機能不全に陥りかけたのが、リーマンショックである。

中央銀行は、貸借、預金、決済の三つの機能を働かせて「お金」の供給、流通、回収を行う。それによって通貨の流通量や時間価値を制御する。
また金融機関の性格は、対象とする相手によっても変化する。

中央銀行の働きには、第一に、通貨の発行と信用の付与。第二に、市場への資金供給、資金回収(資金吸収)がある。第三に、資金の流通と流通量の制御がある。第四に、通貨の価値の創出と保証がある。通貨の価値には、交換価値と時間価値がある。第五に、物価の維持と制御である。即ち、物の価値と貨幣価値の調整である。第六に、金融機関の保護と管理である。第七に、行政府の信用保証等である。

現在は、通貨の発行権は、中央銀行に一元化されている場合が多い。中央銀行に通貨の発行権を集中させることで通貨の信用を維持しているのである。

市場に資金を供給するのは、中央銀行の重要な役割の一つである。ただ、中央銀行は、直接市場に資金を供給するわけではない。金融機関を通して市場に資金を供給する事となる。

市場に対する資金の供給と循環は一般に市中銀行によって執行される。

自由主義経済では、物価は、通貨の流量と金利によって決まると考えられている。故に、通貨の流量と金利によって物価を制御することが自由主義経済では、原則とされているのである。だからこそ、金融機関が物価に及ぼす影響が重要な意味を持っていると言える。
通貨の流量によって物価を制御しようとする手段の好例が量的金融緩和であり、金利によって制御しようとする手段がゼロ金利政策、マイナス金利政策である。

資金の流量は、資金の供給手段に大きく影響される。
資金の供給の手段には、資金供給と流動性供給の二つがある。この二つは、明確に区分する必要がある。資金供給は、売買取引で実行され、流動性供給は、貸借取引によって実行される。資金供給は、市場に消費、フローに投入されるが、流動性供給は、消費、フロー、即ち、市場には投入されない。
例えば、家賃と住宅ローンの違いである。家賃収入は消費に回される。しかし、住宅ローンは、住宅投資の時に金融機関から資金を借りた時点では、賃貸取引であり、市場に資金が投入されたわけではない。借りた資金で家を購入した時点で資金は、一時的に市場に投入される。その後、ローンを返済するわけだがこれは資金の回収であり、返済された資金は、市場に出回らない。つまり、投資が続かない限り、市場に流通される資金の量は減少し続ける事になる。故に、預貸率が重要な意味を持つのである。

資金の供給を目的とした操作を資金供給オペレーションと言い資金回収を目的オペレーションを資金吸収オペレーションと言い、資金の流動性を維持するための操作を流動性オペレーションと言う。
通貨の交換価値は、主として為替等の市場取引によって、時間価値は、金利や通貨量の調整などによって制御する。
中央銀行は、通貨の番人と言う言葉が示すように、通貨の発行だけでなく。通貨の信用の維持も重要な役割である。

「お金」は投資によって市場に供給され、消費によって市場を循環する。
投資には、設備投資、住宅投資、公共投資がある。流動性供給、即ち、貸借取引だけでは資金は、市場に供給されない。借りた「お金」を消費に使った時に資金は、市場に投入される。しかし、一度投入された資金も借入金の返済に充てられていたら資金は、市場から回収されてしまい。市場に出回る量が減少する事となる。

企業や政府、家計は、金融機関から借金をしてそれを投資する事で市場に「お金」を供給する。元にあるのは、借金である。借金は、累積するといろいろな悪さをするようになる。

継続的な投資が行われないと消費に使える資金は減少する事になる。負債が累積する一方で投資が減少すれば資金は市場に十分に回らなくなるのである。借金の返済に追われて消費が減退してしまう。現在の日本が陥っている状況である。一見、利益が上がっているように見えてもそれは名目的な部分であって実質的に使える資金は底をついている場合が多くみられる。

金利は、借入金を基礎にして付加され、消費に向けられる。金利は、フローとストックの均衡の指標でもある。
金利がいかに低下しても、また、資金を供給したとしても企業の資金調達力が低下していたら資金は投資に向けられない。
資金の調達力は、資産と負債の力関係で決まる。負債の上昇圧力が資産の下落圧力に優れば資金の調達力は低下する。
不良債権は、不良債務の問題でもある。債権と債務を切り離したら長期資金の働きの実態は見えてこない。
フローとストック、債権と債務の力関係を均衡させるのも中央銀行の重要な役割である。

中央銀行は、通貨の流動性を維持するのも重要な役割であり、流動性が失われると金融の仕組み全体に影響を及ぼし、最悪の場合、仕組みそのものの信認を失わせてしまうからである。金融にとって信用は命である。金融の仕組みは、信用によって成り立っているからである。
資金の流れを制御する為には、資金の流れる方向、資金の流れる速度、資金の流れる量が重要な要件となる。流動性が失われるのは、動脈硬化みたいなものであり、資金の流れが悪くなったり、詰まる事によっておこる。特に、資金の流れる方向が重要になるのである。

資金の流動性の管理は、主としてインターバンク市場で行われる。インターバンク市場は、銀行間に存在する市場である。インターバンク市場には、コール市場、手形売買市場、東京ドル・コール市場がある。

中央銀行は、一般に最後の貸し手と言われるように、金融機関が資金繰りに窮した時に最後に駆け込むのが中央銀行である。即ち、中央銀行は、金融の仕組みの最後の砦としての役割を果たしている。中央銀行は、市中銀行の生殺与奪の権能を持つともいえる。それが銀行の銀行と言われる由縁である。
日銀が金融機関に対する救済手段の一つが日銀特融である。日銀特融(にちぎんとくゆう)とは、日本銀行が金融システムの信用維持を目的として、政府からの要請に基づき資金不足に陥った金融機関に対する無担保・無制限に行う特別融資のことである。(ウキペディア)1965年の証券不況の時、山一證券に初めて発動された。


日本銀行の貸借と金融制度


金融取引の基本は、貸借取引である。故に、金融の働きを見る場合、損益よりも貸借に重要な意味がある場合が多い。

日本銀行の資産の主たる項目は、買現先勘定、国債、貸出金、外国為替等である。これらに、2013年以降は、金銭信託の比重が高まっている。また、象徴的勘定として金地金がある。
負債としては、当座預金、政府預金、現先勘定などが主たる項目となる。
損益計算書は、経常収益の大半は、日銀が保有する国債等から生じる利息や売却益である。経常費用は、経費や外国為替費用(為替差損等)である。売却益には、通貨発行によって得られる通貨発行益(シニョリッジ)が含まれる。




  
日本銀行

資産、負債の構成比を見てみる。資産に占める割合の中で国債や貸付金の変化が大きくないのに対して国債や貸付金、特に、異次元の金融緩和が始めってから国債の変化が突出している事が窺える。また、負債では、発券銀行券の残高が負債の大きな部分を占めていたのが、異次元の金融緩和後著しく比率を下げているのがわかる。

  
日本銀行

日本銀行の決算書の対極に銀行の決算書がある。銀行の預け金と日銀当座預金とが対応している。

  
銀行協会

貸付金を基礎に並び替えてみると貸付金は、大きく変化していない事がわかる。一番変化しているのは、現金預け金である。
それは、日本銀行の当座預金に対応しているからである。


銀行協会

2013年4月から導入された「異次元の量的質的規制緩和」における量的緩和では、日銀が供給するマネタリーベース(資金供給量)を年間60兆~70兆円増やし、2年間でそれまでの138兆円から270兆円に倍増させるとともに、長期国債を年間50兆円規模で購入するとした。また質的緩和では、40年債を含むすべての長期国債を買い入れて国債の償還までの期間(平均残存期間)をそれまでの3年弱から7年程度へ延長するとともに、上場投資信託(ETF)を年間1兆円規模、Jリート(不動産投資信託)を年間300億円規模で購入するとした。あわせて、日銀の長期国債保有残高を銀行券発行残高以下に制限する「銀行券ルール」についても一時的に停止し、無制限に買い取ることを表明した。量的・質的金融緩和は安倍晋三(あべしんぞう)政権が掲げる経済政策アベノミクスの「3本の矢」のうちの1政策であり、デフレーションからの脱却を目ざして、消費者物価の前年比上昇率を2年程度の期間のうちに2%まで引き上げることを目標としたが、結局、2年間で2%の物価上昇の公約は果たせなかった。(知恵蔵)

「日本銀行が「異次元の金融緩和」を行った最終的目的は、デフレ脱却だったはずである。
しかし、結果的にいうと2%の物価上昇は実現せずに、日銀の目論見が当たったのは、長期金利の低位安定と国債の消化である。こうなると財政をファイナンスする事が目的だったので、と言ったうがった見方も出てくる。2%の物価上昇も果たせず、財政でも改善がみられないとなると残されるのは、500兆円を超す日本銀行の保有する国債の残高とデフォルトやハイパーインフレに対する恐れだけである。その延長線上にマイナス金利があるとしたら、マイナス金利の正当性も怪しくなってくる。

本来、市場の規律を乱す事になるから、中央銀行は、直接的に特定の企業や産業に資金を供給するのは避ける。信託財産連動型上場投資信託とはいえ、直接的に株式に資金を供給する事で株価を支えている。2017年現在で信託財産連動型上場投資信託は、17兆円を超えている。


日本銀行

2016年8月29日の日本経済新聞では、GPIFと日銀を合わせた公的マネーは、東証1部の約1970社のうち4社に1社にあたる474社の筆頭株主となっており、日本株は「官製相場」の色彩が強まっている。TDK(17%)やアドバンテスト(16.5%)、日東電工(14.2%)などで保有比率が特に高く、コナミホールディングスやセコムなども10%を超える。企業側からは「長期に保有してもらいたい」(横河電機)などの声が出ているという記事が載っている。
また、「週刊東洋経済」日本銀行のファーストリティリング2017年3月末まで、浮動株ベースで約61%、2018年3月には、74%に達すると予測されている。(「異次元緩和の真実」木内登英著 日本経済新聞社)
中央銀行の中立性という観点から見て甚だしく逸脱していると言える。中央銀行の民間企業に対する持ち株比率が高まれば事実上の国営企業と変わりなくなる。

日本銀行の資産を構成する要素で、もう一つ重要な科目として外国為替がある。


日本銀行




中央銀行はいかにして「お金」を供給するか。



「お金」は、信用を基にして機能する。「お金」の信用は、何を根拠として成立しているかが、金融の核となる。
それは、「お金」がどのようにして成立したかを明らかにすれば解る。
「お金」が成立した過程は、「お金」を市場に供給するための仕組みの下地でもあるのである。

第一に、今日の紙幣は、金の「預かり証」が始まりだとされる。言い換えると金を担保とする事で紙幣の信用は裏付けられていると言える。元々紙幣は兌換紙幣から始まっているのである。
つまり、「お金」の根本は、預かり証と担保である。
第二に、中央銀行の多くは、国債を引き受ける代わりに通貨の発行権を与えられる事によって発足している。これは、中央銀行の働きを暗示している。

即ち、国家から独立した機関が発行権を持つと言う点と、国債、つまり、国の借金がが通貨に転じたと言う点、国債の扱いを間違うと国の経済が混乱し、最悪の場合破綻してしまうと言う点である。さらに、中央銀行は、国の財政に深く関わっているという事である。

政府の借金が政府と権力と中央銀行の権威を結び付けているのである。

また、中央銀行は、政府の信用を担保している。政府は、必要に応じて国債を発行するが、国債の信用を保証しているのが中央銀行である。もともと、多くの中央銀行は、国債の信用を担保する見返りと通貨の発行権を得ていたのである。
日本銀行は、国民の税金を国庫金として預かり出納管理をしている。

第三に、銀行は、「預金」を担保として「お金」を貸し出す事で、信用を生み出している。

第四に、税を金納にする事によって「お金」を社会に浸透させ、貨幣制度の基礎を築き上げた。

中央銀行は、直接、「お金」を市場に供給するわけではない。
「お金」を市場に供給するのは、銀行である。

これらを基礎条件として「お金」の生産と供給、回収の仕組みは構築されている。

「お金」の供給、流通、循環、回収、金利の設定、融通等にインターバンク市場が重要な役割を果たしている。
インターバンク市場は、銀行間を結び付ける中核的な市場である。インターバンク市場によって「お金」の流動性は、維持されている。

リーマンショックは、インターバンク市場が機能しなくなったことが原因していると言われている。インターバンクが機能しなくなったことで「お金」の流動性が一時的に失われた事ことで資金が市場に流れなくなっというのが原因だとされるのである。

インターバンク市場は、短期金融市場と言われ、金融機関内の短期資金の融通を目的として成り立っている。つまり、金融機関間の資金の過不足を調節するための市場である。

金融市場は、金融以外の産業が形成する実物市場から独立した市場である。その金融市場の核となっているのがインターバンク市場である。

中央銀行の貸借対照表は意外とシンプルなのである。
主となる部分は、総資本、つまり、負債の側は、発券銀行券残高と当座預金で、資産は、国債と貸付金、金地金、外国為替である。
注意してほしいのは、発券銀行券、つまり、紙幣も当座預金も負債だと言う点である。
何を担保に誰から借金をしているか。それが問題なのである。借金の担保は資産の側に表示されている。つまり、国債と貸付金と金地金を担保に国民から借金をしているというのが、通貨を発行する仕組みなのである。

単位期間に流通する資金の量は、中央銀行の発券銀行券残高を元金として市中銀行が生み出す信用によって決まると考えられている。信用は、預金と言う形で表れる。これは、単位期間内における資金の回転数と考える事もできる。
故に、中央銀行の発券銀行券残高と中央銀行当座預金の和をベースマネーとするのである。中央銀行が直接操作できるのは、銀行券の量と中央銀行の当座預金である。



日本銀行 M2/平残前年比/マネーストック(2004年3月以前はマネーサプライ)

日本銀行は、当座預金口座を使って「お金」を金融機関に供給する。



日本銀行

当座預金の増減要因の中で銀行券は、プラザ合意やバブル崩壊等時代の節目で大きく動く傾向がある。

  
日本銀行

当座預金の残高は、バブル崩壊後もそれほど激しく揺れ動いているわけではないが、1999年にゼロ金利政策を導入したころから大きく揺れ動くようになる。



バブル崩壊以前は、銀行券要因と資金過不足、金融調整は、比較的均衡が保たれていた。
しかし、バブル崩壊後は、銀行券要因と資金過不足、金融調節との乖離が甚だしくなっている。

法定準備金預金は、その時点時点の経済政策を反映していると考えられる。
準備預金制度とは、対象となる金融機関に対して、「受け入れている預金等の一定比率(これを「準備率」という)以上の金額を日本銀行に預け入れること」を義務付ける制度である。このようにして日本銀行に当座預金または準備預り金として預け入れなければならない最低金額を、「法定準備預金額」(または所要準備額)という。(日本銀行)


日本銀行

法定準備預金は、金融緩和政策が終わると同時に急速に上昇している。そして、リーマンショックによっていったん収束している。


日本銀行

かつては、準備率を上下させることにより、金融機関のコスト負担の増減を通じてその貸出態度等に影響を与えること、つまり、準備率操作を通じて金融を緩和、または引き締めることを目的として運用されていた。
しかし、現在、わが国をはじめ短期金融市場が発達した主要国では、そうした金融緩和・引締めの手段として準備預金制度は利用されておらず、わが国の準備率も、1991年(平成3年)10月を最後に変更されてない。(日本銀行)
2000年代の「量的緩和政策」(2001~2006年)や、「量的・質的金融緩和」(2013年~)の時期のように、日本銀行の潤沢な資金供給により、多くの金融機関が法定準備預金額を超える「超過準備」を有することが常態化してくると、準備預金制度に、各金融機関の日銀当座預金残高を安定化させる役割を期待することは難しくなります。(日本銀行)


  
日本銀行

  
日本銀行

リーマンショックを挟んで2007年から2011年までの間、都市銀行の超過準備額の比率が著しく減少している。その分、相対的に地方銀行、外国銀行の比率が増大している。

基本的に錯覚してはならないのは、経済成長を支えているのは、収益である。適正な収益が維持されていなければ、あるいは、期待できなければ、経済は成長しないで停滞する。いくら通貨の量を増やしても、それだけでは実質的な経済成長は起こらない。重要なのは、生産活動なのである。
表面的に経済成長しているように見えてもそれは名目的な事であって、真の景気ではない。つまり、実体の伴わない物価上昇だったり、所得の増加である。

金融政策だけで、つまり、通貨の量を増やしたり、金利を下げたりするだけでは景気は良くならない。

闇雲に規制を緩和したら、当たり前に収益力は低下する。規制がいいというのではない。高度成長時代に作られた規制は、成長を前提とした規制であり、市場が成熟して来たら適正を失い、かえって阻害要因になりかねない。
重要なのは、量的成長から質的な成長への転換である。その為には、規制を緩和するのではなく。規制を変えるのである。

量的な経済は、価格に収斂する。肝心なのは、何を、どこで競わせるかであって、何もかも価格で競争をさせれば、逆に質は劣化してしまう。
価格は、質を平準化、標準化してしまうからである。

量から質への転換は、決して楽な事ではない。休みを増やし、労働時間を無理やり雇用を増やしたからと言って実現できる事ではない。
人にとって重要なのは、自分の働きがどのように評価されるか。自分の働きが社会にどの程度貢献しているかなのである。そして、その証が報酬に直結していなければ自分がどのように評価されているかを認識する事が出来ない。自分の仕事と自己評価が乖離する事、それが阻害の原因となるのである。
人は皆違うのである。一人ひとりの個性を尊重できない経済は、意味がない。なぜならば経済とは生きる為の活動だからである。
労働は自己実現であり、自分の存在意義であり、社会貢献の証である。だからこそ、自分の働きに応じた報酬を得るのは、権利として主張できるのである。
労働を時間や報酬だけで測ったら労働に対する本質を見失ってしまう。
料理であれば味で競うべきであり、自動車なら、性能やデザインで競うべきなのであり、住宅は、いかに快適で住みよい家を建築するかが争点なのである。価格は、その働きに対する評価によって決められるべきなのである。単純に値段だけを競わせれば、規格が統一された大量生産の製品にかなわなくなる。それは量だけでしか評価に値しなくなり、質が失われるからである。

かつて社会主義中国では、全ての人間が着る服は、人民服に統一された。それを突き詰めると全ての人間は、同一労働に還元されてしまう事を意味する。それは個としての人間性を否定する事である。
確かに、強制的な長時間労働は規制されるべきである。しかし、極端な標準化、平準化するのも過ちである。

重要なのは、収益なのである。バブル崩壊後、金融を引き締めて投資を抑え込み、無理やり休みを増やし労働時間を削って労働生産性を低め、強引に不良債権を処理した事で資産価値が下落し、無原則に規制を緩和して過当競争を煽った。それが、バブル崩壊後、空白の二十年と言われる原因である事は、結果を見れば明白なのである。
景気の底を抜いてしまった後、金融を緩和しても後の祭りである。かえって弊害の方が大きくなる。
まず、規制を緩和すべきところは緩和し、規制すべきところは規制し、必要ならば不況カルテルを結び、適正な金利をとって、適正な収益力を回復させ。その上、ところは上げなければ経済は健全さを取り戻せない。

満腹の人間の口に食事を押し込むような営業をするのは愚かである。市場が成熟して来たら、高品質の良品を提供できる環境を作る事なのである。
今の日本人は、見かけ上の所得は増えたかもしれないが、生活や文化的には貧しくなってきたのではないのか。
豊かさは、生活や消費、生産の質に現れるものなのである。


市場における「お金」の働き


「お金」の働きを知るためには、「お金」にはどんな種類があるかを明らかにする必要がある。

マネタリーベースとは、「日本銀行が供給する通貨」の事を言う。具体的には、市中に出回っているお金である流通現金(「日本銀行券発行高」+「貨幣流通高」)と「日銀当座預金」を合計した値である。
式で表すと、マネタリーベース=「日本銀行券発行高」+「貨幣流通高」+「日銀当座預金」となる。

金融部門から経済全体に供給されている通貨の総量をマネーストックと言う。
マネーストックとは、基本的に、通貨保有主体が保有する通貨量の残高(金融機関や中央政府が保有する預金などは対象外)。通貨保有主体の範囲は、居住者のうち、一般法人、個人、地方公共団体・地方公営企業が含まれる。このうち一般法人は預金取扱機関、保険会社、政府関係金融機関、証券会社、短資等を除く法人とする。

M1=現金通貨+預金通貨(預金通貨の発行者は、全預金取扱機関)
現金通貨=銀行券発行高+貨幣流通高
預金通貨=要求払預金(当座、普通、貯蓄、通知、別段、納税準備)−調査対象金融機関の保有小切手・手形

M2=現金通貨+預金通貨+準通貨+CD(預金通貨、準通貨、CDの発行者は、国内銀行等<マネーサプライ統計のM2+CD対象預金取扱機関と一致>)
準通貨=定期預金+据置貯金+定期積金+外貨預金
CD=譲渡性預金
国内銀行等=国内銀行(除くゆうちょ銀行)、外国銀行在日支店、信用金庫、信金中央金庫、農林中央金庫、商工組合中央金庫

M3=現金通貨+預金通貨+準通貨+CD(預金通貨、準通貨、CDの発行者は、全預金取扱機関)

広義流動性=M3+金銭の信託+投資信託+金融債+銀行発行普通社債+金融機関発行CP+国債+外債
(日本銀行 参照)

何を「お金」の実際の働きの基数とするのかには異論がある。全ての預金を現金と同等に扱うというのならば、M3や広義流動性を基本と見なすべきだろうが、資金の循環という観点からするならば再投資を前提として資金の流れM2を基礎とするべきだという事になる。
一般には、M2を基礎とすると言考え方が強い。私もここでは、M2を基礎として考える事とする。

  

異次元の金融緩和の後、マネタリーベースは急速に伸びたが、マネーストックは、さほど影響を受けていないように見える。
その証拠に信用乗数は、異次元の金融緩和後急速に低下している。
この点は、発券銀行券の量と当座預金の関係から見てもわかる。マネタリーベースと言っても殆ど発券銀行券に転換されていないのである。

なのになぜ、国債を買い続ける必要があるのか、それは長期金利と財政への影響から考えてみる必要がある。

問題は、マネタリーベースがマネーストックに対してどのような影響を及ぼすかである。
マネタリーベースが増えているのに、マネーストックが増えない理由は、マネタリーベースとマネーストックの構成の違いにある。マネタリーベースを構成するのは、「日本銀行券発行高」と「貨幣流通高」、「日銀当座預金」である。それに対してマネーストックは、現金通貨と預金通貨、準通貨、CDである。マネタリーベースが通貨その物の量に対してマネーストックは、預金通貨、つまり、通貨が循環した結果の残高を示している。
マネタリーベースの現金通貨、つまり、銀行券は、流通量はあまり変化しておらず「日銀当座預金」に積み上がっているのである。


日本銀行


マネタリーベースは、日本銀行の総負債の構造を反映していると考えていい。
故に、対局にあるのが日本銀行の総資産であり、総資産を構成する科目の中では、現金、国債、貸出金、金地金がある。
注意すべきは、国債の当座預金の関係である。発行銀行券の変化は、国債の伸び率から見て比較的大きくないのに対して、当座預金の伸び率は、国債に比例するように伸びている。
これは、国債の購入資金が当座預金に蓄積されて銀行券に換金されていない事を意味する。
要するに資金が当座預金に積み上がっているだけで市場に供給されていないのである。

  
日本銀行

マネーストックは、銀行の貸出によって決まる。銀行にいくら資金を供給しても銀行が有望な貸出先を見出せなければ、マネーストックは伸びないのである。バブル崩壊後金融機関は、有望な貸出先を見いだせないでいる。それは、一つは、資産価値が下落した事で担保を確保できないのと、長引く不況で適切な収益を企業が上げられない事が原因なのである。まず、企業収益を回復させることに尽力すべきなのである。

日本銀行は、異次元の金融緩和によって大量の国債を市中銀行から購入した。本来なら購入した国債の代金が現金として市場の供給されるはずである。


日本銀行


ところが国債の代金は、当座預金に滞留し、民間企業に貸付されずに残っている。実際の資金の供給は、日本銀行の当座預金から現金が引き出され、それが、金融機関を通して民間企業に貸し付けられる事ではじめて市場に資金が供給されるのである。
優良な貸付先、即ち、担保となる資産、含み資産を所有している企業が見つからないために市中銀行は、日本銀行の当座預金にお金を預けっぱなしにしておいた方が安全で確実な利益を上げられるので、民間企業への貸し付けが増えず、当座預金の残高だけが積み上がっているのである。その結果、いくら、国債を買い上げも市場に「お金」が出回らないのである。
それで日本銀行は、2016年1月29日、超過準備預金に-1%のマイナス金利をかけて強制的に貸し出しを増やそうと試みているのである。
しかし、これは本末転倒である。第一に、民間企業は、金利が高いから投資を控えているわけではない。担保価値が下がったために、借りたくても金融機関が資金を融資してくれないのである。第二に、長いデフレーションで収益の見込めないから投資を控えているのである。資金需要がない、あるいは、資金の調達力がないから貸付金が伸びないのであって金利が高いとか、低いの問題ではないのである。
自分達で強引に資産価値を下げ、規制緩和によって収益が上げられない環境を作っていて最近の経営者はやる気がないと言われても経営者は、困るのである。

2013年3月までは、「日銀ルール」が働いていて、国債の残高は、発券銀行券の範囲内に抑えられていた。
日銀ルールと言うのは、第一に、保有する長期国債の量は、日銀券の発券残高を超えない範囲にとどめる。第二に、残存期間3年未満の国債しか買い取らない。と言う二点です。この二点とも今は守られていない。


日本銀行

2013年以降、「日銀ルール」は無効となり、国債の保有に関して制約がなくなった。つまり、無制限になったのである。
国債の保有に制約がなくなったと言う点を注意しておいてほしい。

また、短期国債なら、運転資本と同じで短い期間で正常化する事が可能だが長期国債だと固定負債と同様、償還するのに時間がかかる。それだけリスクが高まる事が予測され、リスクが増える分、金利も高くなるのである。

なぜ、2013年以前は、「日銀ルール」が存在したのか。それは、歯止めを失えば通貨の発行量に際限がなくなり、通貨の発行量を制御できなくなると経験則として考えられてきたからである。物価は、通貨の流用に影響されると言うのがそれまで一般の認識である。通貨の流通量が制御できなくなれば、物価の上昇を抑制できなくなると言うのが理由である。




金融機関の基本取引は、貸借である。


金融取引の基本は、貸し借りである。
資金余剰の主体から資金が不足している主体へ資金を融通するのが金融の基本的働きである。

ところがバブル崩壊後金融は、資金が不足している主体から資金を回収し、資金の余っている主体に資金を供給しようとしている。しかも、行政がそれを後押しするどころか、教条主義的に金融を引き締め、銀行が資金不足の主体から資金が提供できないようにし、更に資金を回収するように仕向けたのである。それでは、資金は、実物市場に回らなくなる。
企業の多くは、資金を外部から調達できなくなり、内部資金の範囲内でしか新規投資ができなくなった。その結果、金融機関は、有望な投資先を失ったのである。

日本銀行は、市中銀行が持っている国債を大量に買い入れる事で資金を市場に供給し、それによって物価を強引に押し上げようという目論見を持ち、それを2013年4月に実施に移した。当初は、2年足らずで2%の物価上昇を目標とし、短期で決着をつけるはずであった。
しかし、4年近くたった今も2%の物価上昇は実現していない。

日本銀行の目論見が成功するためには、市中銀行が国債を購入する目的、翻っていうと国債を売却する動機との整合性がなければ実現できない。

中央銀行が国債を買い入れる目的は、第一に、資金の供給である。第二に、流動性を高める事。第三に、金利の調整。第四に、金融システムの安定性を高める。第五に、財政支援。第六に、金融政策の手段。第七に、クラウディングアウトの回避である。

量的金融緩和が活用されるようになったのは、ゼロ金利政策によって伝統的な金利を操作する事で金融緩和する事が出来なくなったことによる。あくまでも一時的な窮余の策だったはずなのである。この点を忘れてはならない。緊急的、応急処置がいつの間にか常態化してしまっているそこに危機の深刻さがあるのである。

市中銀行が国債を購入する目的は、第一に、売却益を得る事。第二に、利子所得。第三に、運用資産のポートフォリオを適切にする事。第四に、ALM。第五に、金融規制、自己資本比率の維持である。第六に、担保需要である。第七に、安全な投資先が見つからなくなった等があげられる。

民間企業が資金を借りる条件は、単に金利だけではない。
第一に、投資に見合うだけの収益が見込めるか。第二に、担保力があるか。第三に、本業と投資に整合性があるか。第四に、どの程度のリスクがあるのか。そして、第五に金利である。
現時点投資する必要があるかが一番の関心事で、金利が低いからと言って安易に借り入れを増やしたりはしない。また、本業以外の投資がどれ程危険な事か経験的にわかっている。余程の事がない限り、無駄な投資はしたりしない。また、それがバブルの原因であったし、教訓である。本業で思うような利益が上げられなくなったからこそ、危ない橋を渡って土地や株に投資をした企業が多いのである。

投資には、更新投資、新規投資、開発投資、異分野への投資、投機的投資などがある。
俗に前向きな投資と言えるのは、新規投資、開発投資、異分野への投資であろうが、この様な前向きな投資ができる企業は限られている。結局、主流となっているのは、更新投資と投機的投資で、これらの投資は新しい市場、生産的市場は生み出さない。結果、日本は長期停滞に入ってしまったのである。

それもこれも円高不況の中で作られた見せかけの好況、バブルによって目先の利益を負った結果である。

異次元の金融緩和によって作られた見せかけの景気、実体の伴わない景気によって金融業界は、また、同じ過ちを繰り返そうとしている。
空き家、空室が目立ち、少子高齢化が予測されているというのに、マンションブームを起こそうとしている。何の展望もなく目先の利益ばかりを追い求めて、市場をカジノ化してしまったら経済のみならず国家を土台から破壊してしまう。
今、求められているのは、どの様な国にするのかという構想であり、どの様な国を建国するのかの建国の理念、未来への展望である。
そのような考えもなく、金銭的利益のみ追い求めたら、取り返しのない禍根を未来に残す事になる。

生産性が低く、競争力のない産業は、淘汰されるのが当たり前みたいな横暴で、乱暴な意見がまかり通っている。
しかし、それは、経済の一面しか見ていない。
重要な事は、産業の必要性である。産業の必要性は、生産性とか、競争力とか、あるいは、需給と言った局面だけで判断すべき事ではない。
その産業が社会に果たしている、はたしてきた効用を無視するわけにはいかないのである。

伝統的な産業は、非効率で、人手がかかるから不必要だと言い切れるであろうか。
例えば商業である。非効率で、競争力がないという理由で多くの個人商店が淘汰され、商店街が淘汰されて行ってしまった。
かつては、街々に個性的な喫茶店があったがいつのまにか淘汰され、没個性的なチェーン店に席巻されてしまった。この事は、反面において雇用の機会も奪っているのである。地方都市から個性的な商店が失われ、商店街はシャッター街へ、ゴーストタウンへと急速に変貌している。
その結果、町は寂れ、衰退していったのである。地方都市が寂れる事で東京への一極集中が進んでいる。地方の人口減少が問題となる半面、東京の人口増加が問題となっているのである。
経済にとって無駄な部分も必要なのである。その根幹を支えなければならないのが地方銀行なのである。

伝統的産業は、非効率で人でかかる産業が多い。そして、非効率で、人手がかかる産業だからこそ経済的な意義があるのである。

量の経済から質の経済へと促すのは、地域に密着した地方銀行の使命でもある。その使命を銀行が失った時、銀行はただの高利貸しに成り下がるのである。

忘れてはいけないのは、もっとも、非効率な産業は、国防産業であり、芸能文化産業、教育産業、観光産業だという事である。しかし、これらの産業は、単に生産性が悪いという理由だけで切り捨てられる産業ではない。

大切なのは、次の時代を担う産業は何か。また、この国に不可欠な産業は何かを見極める事なのである。
それは、成長産業だけに求められる事ではない。日本の将来にとって何が必要な産業かである。日本をどの様な国にするのかである。高齢者を生産性が悪いと言って切り捨ててしまうような事が経済ではないはずである。
なぜならば経済とは、生きるための活動であり、それは、人を生かすための活動でもあるはずだからである。

金融業界に求められるのは、未来に対する確固たる構想、展望とそれを実現せんとする志し、信念である。



中央銀行の損益


金融関係者以外の人から見て銀行の経営状態を理解するのは難しい。それは、一般企業の損益構造と銀行の損益構造の本質が違うからである。
銀行の損益の状態を理解するのは、損益に計上されている課目を含め、形式、構造も違うそのために、金融関係者以外が理解するを難しくしているのである。
まず第一に、一般企業が売買取引を基礎としているのに対して、銀行は、貸借取引を基礎としていると言う点にある。
故に、銀行の収益は、売上(Net Sales)ではなく、経常収益(ordinary revenue)である。
また、一般企業でいうところの仕入れはない。銀行の収益は、貸借取引から生じるからである。貸し借りと言っても物の貸し借り、レンタル業とは違い、金銭の貸し借りから生じる預金金利と貸出金利の利鞘が収益源となる。

まず第一に、売買取引と貸借取引の決定的な違いは、売買取引は、現金収支の動きが基本的に損益上に計上されるのに対して、貸借における資金移動は、表面的には、計上されないという事である。
第二に、預金は流動性が高い、特に、要求払い預金は、残高が不安定だという事である。
第三に、預金は、銀行では負債として計上されると言う点である。

この点は、中央銀行も基本的には変わらない。

日本銀行の収益の大半は、為替差益と国債利息である。
国債利息は、国債と当座預金、および、現金を交換する事によって得られる利子所得収支で通貨発行益(シニョレッジ)と言われる。

この事からも中央銀行の損益は、為替の動向と国債の利回りに重大な影響を受けているのがわかる。
日本銀行は、2013年4月4日の政策委員会・金融政策決定会合において量的・質的金融緩和、「異次元緩和」の導入を決定した。
消費者物価の前年比上昇率2%の「物価安定の目標」を、2年程度の期間を念頭に置いて、できるだけ早期に実現するために、マネタリーベースおよび長期国債・ETF等の保有額を2年間で2倍に拡大し、長期国債買入れの平均残存期間を2倍以上に延長するなど、量・質ともに次元の違う金融緩和を行うものとないる。また、その実施に伴う措置として、資産買入等の基金の廃止(長期国債の買入れに吸収)、銀行券ルールの一時適用停止しました。
そして、2016年には、マイナス金利も導入をした。

マイナス金利を導入は日本銀行が、簿価を上回る価格で大量の国債を取得する事を意味する。

第一に、いつまでも大量の国債を買い続ける事は不可能である。毎年、巨額な国債を買い続け、日本銀行の国債残高がGDPを上回り、金利がゼロ、更にマイナスになるなんて言うこと自体異常なのである。その異常な事態が常態化しつつある。
しかし、いつかはこの異常な状態を終わらせなければならない。それが出口戦略であるが、その出口戦略が見えてこないという事と、出口戦略そのものが非常なリスクを伴っていると言う点を私は、懸念している。
国債は主として市中銀行から購入する事となるが、国債を売却した市中銀行は、有望な貸出先が見つからないために、国債を売却した代金を日銀の当座預金に積み上げる結果になった。
この積み上がった当座預金もいずれかは裁かなければならなくなる。
多くの識者が懸念しているのは、その時に莫大な含み損が表面化する事である。

出口戦略は、両刃の刃である。第一に、元々の金融緩和の目的がデフレーションの脱却であるが、デフレーションを脱却するという事は、物価や金利の上昇を招くという事である。
第一は、国債の買い入れを日本銀行が削減、あるいは、止める事で市場から大口の国債の買い手がいなくなり、国債が捌けなくなるという恐れと第二に、国債が捌けなくなることで国債の価格が下がり、長期金利が上昇する事である。

長期金利が上昇すれば日本銀行の保有する国債に多額の含み損が派生するのと、国債を所有する銀行ににも多額の含み損が生じる。
マイナス金利となると物価が上昇すると国債の含み損はさらに拡大する。
これは、物価上昇を目的としている異次元の金融緩和の主旨に反する事にもなる。

日銀OBである慶応大学の深尾光洋教授(65)では、18年末時点で長期国債の保有残高が522兆円、平均残存期間8年とすると、日銀が抱える損失は金利が2%上昇した場合、数十年間の総計で84兆円に達するとしている。
また、同じく日銀OB中央大学の藤木裕教授(52)の試算によると、日銀は2020年度から39年度まで赤字が続き、21年度には9.7兆円に達し、自己資本を大きく上回る赤字となり、日銀は債務超過となる見込みとした。(Bloomberg)

また、いずれは、積み上がった当座預金も捌かなければならなくなり、それが物価の上昇に拍車をかける恐れがある。
しかも、物価の上昇局面では、政府は多額に発行した国債の残高と日本銀行が保有する国債の残高が障害になって有効な金融政策、金融引き締め策が嵩じられなくなる。

あたかも、金利も物価も上昇しないかのごとき前提に基づいて政策を立てながら、政策の目的が物価上昇、金利上昇に置き、しかも、物価や金利の上昇を前提としているのだから、最初から矛盾しているのである。
現在の経済状態を立て直すためには、金融政策や財政政策だけでは限界がある事は最初からわかっているのである。

なぜなら、現在の経済問題の根底にあるのが収益の問題だからである。しかも、収益の質の問題なのである。
収益の質は、その背後にある費用構造、特に所得や雇用、生活水準に与える影響、そして、長期、短期の資金の働き、また、雇用や環境、文化といった事業収益が地域に与える影響などから検証される。
なぜならば、経済は、生きるための活動であり、生きるとは、人生の質をも意味するからである。



日本銀行

問題は、収益力の低下なのである。それは、中央銀行も例外ではない。必要な経費を支払ったうえでも利益が出せる収益をいかに維持するかが一番の課題なのである。適切な収益を維持できなければ、紙幣の発行権を持っている中央銀行ですら経営は成り立たなくなる。
収益が維持されれば、負債があっても経営主体は、継続できる。
いくらも金利を操作しても会計を変更しても、また、投機や金融技術を発達させても、抜本的な解決にはつながらない。
根本にあるのは、いかにして適正な収益を維持させるか、それが量から質への転換を促す鍵なのである。
成熟した市場では、価格だけを競わせるような体制、仕組みにしてしまったら、市場は、収縮し、適正な収益を維持する事が出来なくなる。それは名目的な働きによって実質的な働きが抑制、阻害されてしまうからである。

例えば、借入金の返済は、名目的な働きであるが、収益よりも返済負担が過大になれば、利益を維持する事が出来なくなる。収益は、市場の動向によって変化するが、借入金の返済は、一定の金額を約定通り支払い続けなければならないからである。
負債は、拡大成長期には梃として働くが、成熟縮小期には負荷として働くのである。しかし、反面、それまでの蓄積は、成果が花開く時でもある。
縮小均衡期こそ内容を充実させ、体制を整える時なのであり、質が問われる時でもある。
最大の過ちは、拡大均衡のみを是として縮小均衡を積極的に活用しようとしない事なのである。そして、縮小均衡期にある産業や主体程金融機関の支援を必要としているのである。

自ずと金融政策にも限界があるし、公共投資に頼りすぎれば財政を悪化させる。問題は市場構造にあるのであり、量を追求すべきか質を追求すべきかを明らかにすべきなのである。なぜならば、量を追う給する施策と質を追求する施策は、相容れない性格を持つからである。




金融は、国際市場に直結している。


今や資本は、地球的規模で動いている。金融は国際化している。一国の金融政策は、一国の問題では終わらなくなっている
世界市場は、金融によって結びついているともいえる。

金融によって世界市場が結び付けられているという事は、金融政策や為替制度、資本規制は、他国の影響を排除できないことを意味する。
つまり、一国の金利政策は、すぐに他の国に波及し、その国の景気を揺り動かしてしまう。
しかも、金融政策、為替制度、資本規制は、相互に連動していて独立的に操作する事が出来ない。金利政策は為替や資本に直ぐに影響するのである。

ゼロ金利政策を考える上でこの点を見落としてはならない。我が国のゼロ金利政策は、他国に潜在的な影響を与え続けている事になる。日本のゼロ金利政策が硬直的なものになると日本が意図せずとも他国の経済政策や金融政策に対する制約となるのである。

例えば、アメリカが、金利を上げれば、必然的に金利が低いわが国から資金を調達して、金利の高いアメリカで運用しようとする者が出てくる。それによって日本からアメリカへの資金の流れが生じるのである。
この様に金利差や為替の動向、資本の流れは連動しており、その流れによって個々の国の経済は揺り動かされる事になる。
この様な資金の流れが時として一国の経済を破綻しかねない働きをすることさえある。
問題は、他国の金融政策や世界の金融環境と自国の金融政策との整合性をどの様に企てていくかにある。

アジア通貨危機やリーマンショックはその好例である。
金利自由化の波を受け1993年にタイにオフショア市場が開設され税制優遇を当て込んだ短期資本が流入した。アジア各国は、「ドル建ての短期資本」を「現地通貨の長期投資」に充てていた。当時、アジア各国の為替制度はドルにペッグされた固定相場制度であったため、アメリカが金融引き締めをしてドル高政策をとるとタイ・バーツの割高感が鮮明になった。その矛盾をついてヘッジファンドが1997年5月14日に突然、バーツ売りを仕掛けてきたのである。アジア通貨危機の始まりである。同年7月には、タイは、「ドルペッグ」を放棄すると通告するとバーツは、暴落し、8月にIMFに支援を要請する事態にまで追い込まれる。(「12大事件で読む現代金融入門」倉都康行著 ダイヤモンド社)
2008年には、前年のサブプライム問題に端を発したリーマンショックが起こり、世界経済は凍り付くのである。
この様に、世界経済は国際金融制度によって深く結びつくことになるのである。

保護主義や関税は、絶対に悪いという訳ではない。また、保護主義的な施策は、自由主義的施策に全て相反する事であり、保護主義と自由主義に二律背反、対立する事だと決めつけるのも短絡的で幼稚な発想である。関税も絶対に悪いというのではない。ただ、報復的であったり、閉鎖的であったり、公平な交易するような施策はよくないという事で、前提や状況環境による事だとい点を忘れてはならない。
内外の公正な競争を保証する手段として関税は有効なのである。
関税を撤廃するにしろ、規制を緩和するにせよ、その前提と目的が重要なのである。前提も状況も主旨、目的も明らかにしないまま、保護主義は悪いとか、関税は撤廃しろとか、規制を失くせというのは、野蛮な考え方である。肝心なのは、前提条件であり、環境である。

ニクソンショック後、為替が変動相場制度に変わってから、日本は、為替の変動の影響によって産業の消長が左右されるほどの大きな影響を受け続けてきた。
また、原油価格の乱高下によって物価は、乱高下し、市場も大きく揺さぶられた。この様な外部環境の変化からの衝撃を弱める様な施策を採用する事や仕組みを市場に組み込むのは、許されるべき事であり、当然の権利でもある。
各々の国には、その国固有の事情がある。物価水準も違うし、物価の構成も違う、生活水準にも違いがあるし、労働条件や人件費、雇用環境も違う。文化や歴史、風俗や習慣にも差がある。価値観も違うし、体制も違うし、資源を持っているか否かの差もある。地理的な問題もある。この様な違うを無視して一律に同じ条件で交易をしたら、それこそ格差を拡大したり、文化や生活を破壊する事になる。
為替の変動や経済変動、自然災害や戦争といった環境の変化にどの様に対処するのか。その外的変化、環境、前提の激変から国内の市場や産業を保護するのは当然の権利である。しかし、それが自国の市場や産業を閉鎖してしまうような事は、結局、自国の経済や平和にも障害となる。各々の国の事情を無視すれば、国家間の格差を拡大し貧困の輸出につながる事もある。

金融制度は、国際決済制度によって国際市場と直結している。
故に、日本銀行総裁は、G7財務大臣・中央銀行総裁会議等によって国際通貨制度、金融規制・監督などについて意見交換を行っている。
また、BIS規制の様な国際的な規制に従っている。
また、国際決済銀行や世界銀行の様な国際機関もある。

国際決済制度は、世界経済の根幹をなす制度であり、金融収支は、国際市場の動向を明らかにするために不可欠な事である。
国際決済制度の在り方は、世界経済の基盤を形成している。

国際市場には、垂直構造と水平構造があり、その要に位置するのが国際金融制度である。

資金循環勘定と国際収支統計は、国民経済計算書の骨格となる資料である。

海外部門の資金過不足=対外債権の増加-対外債務の増加
              =対外純資産の増減
              =経常収支+その他資本収支
              =-(投資収支+外貨準備高増減)

通貨制度は、国家の基盤を形成する。世界の通貨制度をつないでいるのは、国際決済制度である。
国際決済制度は、個々独立した多くの通貨制度と金融制度によって構築されている。通貨制度と金融制度の延長線上に為替制度が成り立っている。そして、国際市場は、国際決済制度の上に成り立っている。
通貨制度は必ずしも行政区分と一致しているわけではないが、一つ事つの国家は、一つの通貨制度、一つの金融制度の上に成り立っている。
これらの通貨制度や金融制度は、国際決算制度として一つの全体であると、同時に、各々が一つの通貨圏単位で完結した独立した部分でもある。全体としての機能と部分としての機能を、どう整合性をとり、全体としての統制を守るかが最大の課題となる。即ち、国際決済制度は、全体を構成する共通した要素と部分を構成する固有な要素から成る。
この様な国際決済制度は個々の国の通貨制度の枠組みを作っている。

国際貿易で不可欠な業務に為替がある。
為替業務は、貸付業務と預金業務と並んで金融業の柱の一つである。
為替業務は、歴史的に見ても、最も金融の本質的な業務だといってもいい。なぜならば、その根源的働きが決済に起因しているからである。
為替は、金融の基盤である決済制度を構築し、信用制度の基礎となっている。


金融の核となる働き


金融の核となる働きは、貸付、預金、決済、為替、与信、発券、債券等の引き受けである。
最近は、更に、資産運用、税務対策、証券売買、仲介取引、電子決済、電子商取引の補完などの働きが加わってきた。
金融の原点は、金貸しであり、高利貸である。
預金は、現在貸付業務と一体として考えられがちであるが、本来は別物である。紙幣が、金の預かり所に発するという考えがある。預金は、資金の貸し出しや発券の担保となる。その根本は与信である。
小口の資金を集める事で大量の資金を運用する事が可能となり。巨額の資金を運用する事で大規模投資、鉄道のような大事業が可能となった。それが資本主義の源となったのである。
また、今日、決済業務の変革が、情報通信技術の技術革新に伴って著しい。
電子決済業務の革新は、金融業界を根底から変えようとしている。そして、その延長線上にあるのは、仮想通貨である。
また、クレジットカードやデビットカード、プリペイドカード、ICカード、オンラインバンキング等は決済の概念そのものを変えようとしている。
次に、為替業務が加わって金融の核となる部分が形成され。為替取引は、金融の根幹にかかわる業務であり、通貨価値を確定する業務でもある。
決済と為替は、金融機関を単なる金貸しや高利貸しから近代的銀行へと脱皮させる契機となった。
与信は、融資・投資の根拠となる。与信は、銀行業務の本質ともいえる。融資や投資は、資本主義の根幹でもある。
そして、与信と債権の引き受け業務が紙幣の発券という取引の根拠となる。
金の預かり証や国債の引き受けによって紙幣の担保されるからである。
国債は、国の借用証書であり、発券銀行が国に与信を与える紙幣は発行されるからである。

そして、国債を発行する動機は、主として戦費と財政破綻である事を忘れてはならない。国民国家が成立すると公共投資が加わる。
金融の核となる部分形成される過程を経て今日の金融の礎は形成されたと言える。

金融の核となる部分は、預金と貸付金である。注意しなければならないのは、金融機関にとって預金は、負債であり、貸付金は、負債だと言う点である。

不良債権処理で問題なのは、資産を毀損してしまうと言う点にある。資産が毀損しても短期に補填できれば問題にならない。しかし金利がゼロとなり、利鞘が思うように稼げなくなると不良債権の処理は重荷になる。
バブル崩壊後金融機関に資本が注入された背景には、貸付金の不良な部分が処理される事によって純資産が毀損する対策という意味がある。不良債権処理は、損益ではなく、資産を直接傷つけその対極にある預金との不均衡をもたらすのである。


金融の現状


バブル崩壊は、金融の在り方を根底から覆してしまった。

1944年  7月 ブレトンウッズ体制始まる。
1971年  8月 ニクソンショック
       12月 スミソニアン協定。
1973年  3月 変動相場制へ移行
       10月 第一次オイルショック
1974年     日本列島改造 狂乱物価
1975年     赤字国債発行
1979年     第二次オイルショック
1985年     プラザ合意。
1987年  2月 ルーブル合意。
      10月 ブラックマンディー。
1989年  1月 昭和天皇崩御
       4月 消費税 3%で開始。
       6月 天安門事件
      11月 ベルリンの壁崩壊。
      12月 東証平均株価 3万8915円、大納会で史上最高値をつけ。翌年の大発会から下落する。
1990年  2月 大蔵省 不動産融資規制
       8月 イラク軍 、クウェート侵攻。
      10月 東証株価、二万円を割る。
1991年  1月 湾岸戦争勃発。
       3月 地価下落、バブル崩壊。
      12月 ソ連崩壊。
1993年  3月 EU発足。
1994年     メキシコ テキーラショック。
      10月 金利自由化 公定歩合が機能しなくなる
1995年  1月 阪神淡路大。
1996年  6月 住宅金融専門会社に6850億円の公的資金投入。
1997年  4月 消費税 3%から5%へ。
       5月 タイバーツ売り アジア通貨危機危機勃発。
      10月 IMF、世銀などがインドネシアを支援。
      11月 三洋証券。山一證券。北海道拓殖銀行破綻
           韓国政府がIMFに支援要請。
1998年   4月 日本銀行法施行。
        7月 IMF ロシア緊急支援。
       10月 日本長期信用銀行 国有化。
           金融再生法、金融早期健全化法が成立。
1999年  2月 日銀 ゼロ金利政策を実施。
2001年  1月 大蔵省が財務省、金融庁に分割。
        3月 日銀量的緩和策を開始
        9月 同時多発テロ。
2003年      りそな銀行へ公的資金投入。
2004年  1月 大規模為替介入
2006年  6月 日銀量的緩和策終了。
2007年  8月 パリバ・ショック。
2008年  9月 リーマンショック。
2009年 10月 ギリシャ、財政問題発覚。
2011年  3月 東日本大震災。
2013年  4月 日銀 黒田総裁 「異次元金融緩和」。
        5月 バーナンキ ショック。
2014年  4月 消費税を5%から8%へ。
        6月 原油価格の暴落
       10月 FRBが金融緩和策終了
2015年  1月 ECBが量的緩和
2016年 11月 アメリカ大統選挙、ドナルド・トランプ氏当選。

ニクソンショック、あるいは、ドルショックが高度成長の終焉を告げ、そして、それは、金融にとって新たな時代の序章だったともいえる。。
そして、新たな時代を荒々しく幕開けしたのは石油危機である。

高度成長の終焉は、市場が成熟し、飽和状態になった事を意味している。その為に投資が抑制され、市場が縮小を始めたのである。
そして、過剰債務、過剰雇用、過剰債務が表面化してきた。

石油危機を引き起こしたのは、第四次中東戦争である。そして、その根本的原因は解決されづに、2018年現在でも引き摺っている。

バブル崩壊後金融業界は変貌した。
一番大きい事は、1940年体制の枠組みが崩壊した事である。
護送船団方式、機能別、階層別の銀行の体制が崩れた事をも意味する。

バブルの背後には、資本のグローバル化が隠されている。
金融政策の決定的な分岐点となったのは、1997年の金融危機である。
それを受けて1999年、ゼロ金利政策からマイナス金利政策をとるようになった。
2001年、量的緩和策を講じる事になる。

そして、2012年の第二次安倍内閣の発足に伴って黒田日銀総裁が実現し、「質的、量的、異次元の金融緩和」が導入されるのである。
「異次元の金融緩和」によってそれまで日銀ルールによって抑制されていた国債の無制限な買取が始まる。

金融は、歴史的な産物である。その時々に、どの様な目的によって、どの様な政策が採られ、その結果どの様な現象が起こったのかを検証する必要がある。


資金と金融


市場経済における金融の役割とは何か。
第一に、資金の過不足を補う事である。第二に、資金循環を促す事である。第三に、市場に資金の供給と回収を通して資金の流通量を調節する事である。第四に長期的資金と短期的資金を区分することである。第五に、余剰資金の貯蓄である。第六に、信用の創造。第七に、資金の分配。第八に、取引の決済である。

金融の働きの中で一番注目されるのは、信用の創造。すなわち、乗数効果である。
しかし、金融の働きは、信用の創造だけにあるわけではない。
むしろ、資金循環の働きが大きい。また、資金の分配機能も産業を考えていくうえでは、重要な役割を果たしている。

金融の基本的な手段は、「お金」の貸し借りである。故に、金融の働きの大部分は、貸借上に現れ。損益、即ち、フローに現れるのは、金融の働きの極一部である。
金融機関は、貸し借りを通じて資金を市場に供給している。

余剰資金がある主体から「お金」を借りて資金が不足している主体へ「お金」を貸す。この取引によって「お金」の過不足を補うのが金融の基本業務である。つまり、金融機関に貯め込まれているのは、基本的に借りた「お金」であって金融機関自体が「お金」を保有しているわけではないのである。金融機関は、「お金」を融通することで得られる金利と手数料によって成り立っている。
この点を正しく理解していないと金融機関の収益構造、貸借構造は理解できない。

金融機関は、資金の余剰主体から預かった「お金」を不足主体に貸すことで資金を循環させている。基本的に貸し借りは、零和なのである。即ち、市場における金融取引の総和は、零になる。

中央銀行は、金融機関との取引を通じて、また金融機関は、預貸を調節することによって市場に流通する通貨の量を制御している。
投資資金と、消費資金、そして、長期貸付と短期貸付を使い分ける事で、市場に流通する資金の性格をフローとストックに仕分けている。

金融機関は、融資や投資を通じて資金を分配している。

金融機関は、決済機関でもある。金融機関は、決済を通じて取引を完結させている。国際的には、国際銀行間通信教会の決済制度を通じてまた、国内は日本銀行を核とした決済システムを通じて金融機関同士の決済業務を行っている。
この決済の仕組みは、金融制度、即ち、市場経済の基盤を構成している。

金融の働きを評価する場合、資金の運用と調達の釣り合いを見る事である。言い換えると貸付金と使い道である。貸付金が、どれだけ収益に貢献しているかを見極める事である。

バブルの形成時とバブルの崩壊時にはこの釣り合いが大きく乱れた。

建設業界に対する貸付残高と設備投資貸付残高を見てみるとバブルの痕跡が読み取れる。貸付金残高は、バブル崩壊後も増え続け、むしろ、92年から急激に上昇し、97年の金融危機を境に急落している。
注目すべきなのは、バブルが崩壊しても減少するどころ増やしている。それも大幅に増やしている事である。それがバブル崩壊後の傷口を大きくしたことが考えられる。
バブル崩壊時に不良債権が表立つのを防ぐ為に、追い貸しをし、それが結果的に貸付金の膨張を招いた。貸付金の膨張は、資産価値との乖離を招き、この時に膨れ上がった不良債権の処理に追われる事で、資金が市場に流れなくなったのである。


日本銀行


目に見えない資金の働き


現在世界経済で猛威を振るっているのは、長期的資金の働きである。バブルは資産インフレーションである。
我々は、インフレーションやデフレーションと言うとすぐに、物価、即ち、フローのインフレーションを思い浮かべる。しかし、インフレーションやデフレーションと言う現象は、物価だけでなく資産、即ち、ストックにもある。
今日、世界経済を混乱させているのは、どちらかと言うと資産インフレーション、ストックインフレーションであり、デフレーションである。
物価によるインフレーションは、生活にすぐに影響を及ぼすが資産インフレーションは、生活に影響を及ぼすのに時間がかかる。なぜならば、資産インフレーションは、長期的資金の働きによるからである。そして、この資産インフレーションがバブルと言われる現象である。

長期的資金の働き、表に現れにくい。それは、短期的資金は、損益上に収益と費用と言う形で計上されるのに対して、長期的資金の働きは、資産や負債、純資産の増減と言う形でしか現れないからである。

期間損益では、利益が経済状態を表す最終的指標として扱われている。
経営状態、即ち、経済の状態は、期間損益を基礎として測定される。言い換えると期間損益に現れる事象によって経済対策は立てられていると言える。問題は、損益上に現れてこない資金の流れである。損益上に現れてこない資金の流れは、主として貸借取引の問題である。なぜならば、損益は、売買を基に作られているからである。
損益上に現れてこない資金の流れには、長期借入金の返済額、運転資本、設備投資の資金源などがあり、これらの資金の流れを明らかにし、その均衡を見れば経営状態で見えなかったところが見えるようになる。
表に現れない資金がどこから、何によって調達され、どこへ、どの様に支出されるのか。それを見極める事である。
例えば、設備投資の資金は、長期借入金と純資産によって調達する。設備投資そのものは、有形固定資産の増減として現れるから、有形固定資産の増減と長期借入金の増減、そして、内部留保を対照すると実態が見えてくる。
長期借入金の返済資金は、減価償却と純資産から調達する。故に、長期借入金の増減と減価償却費、内部留保の増減を見ると長期資金の状態が計れる。
運転資本の資金は、短期借入金と営業純益から調達する。運転資本は、売上債権、買入債務、在庫から導き出される。故に、短期借入金と営業純益を対比させれば短期資金の働きが読める。



法事企業統計


資金調達は、内部資金と外部資金からなる。内部資金は、減価償却費と内部留保からなり、外部資金は、増資、社債、長期借入金、短期借入金からなる。



法人企業統計

バブル崩壊後資金調達そのものが大幅に減少している。内部からの資金調達は、波はあるが一方的に減少しているという訳ではない。それに対して外部からの資金調達は、1990年から2005年にかけて一方的に減少しており、これがバブル崩壊後の資金調達の傾向に決定的な影響を与えている。
また、1996年を過ぎるとリーマンショックのあった2008年を除いて減価償却費の範囲内に資金調達が抑制されている。
外部資金調達では、増資の減少が目立っている。また、内部資金調達では減価償却費が一定の比率を維持しているのがわかる。

  
法人企業統計

資産の下落によって担保価値が下がり、資金調達力を失った民間企業は、内向きの投資をせざるを得なくなった。その為に、実物市場への資金の供給口を金融機関は絞められてしまったのである。そして、資金が実物市場に流れなくなった。

資産価値が急激に下がっている時に、担保主義を貫こうとする事は、危険な事である。特に、含み益を期待する事で、資金調達をしてきた体制では、資産価値が急速に下がると担保力が低下し、場合によっては、マイナスになる事すら生じる。それを担保、即ち、不動産の枠内にとどめようとしたら、企業は、長期資金どころか、短期資金、運転資本の資金調達にも窮する状態に陥る。バブル崩壊のような出来事の後は、収益を基準としてある程度余裕をもった基準で融資をしないと景気を回復する事は難しい。
景気拡大期に金融を引き締める事は、冷水をかけるようなものである。

さらに言えば、強引な不良債権処理は、企業の資金調達力を低下させ、投資意欲を削ぐことになる。不良債権の判断基準を担保力に置けば、資金繰りは窮屈になってしまう。

日本は、バブル崩壊後、信用収縮(クレジットクランチ)が起きていた公算が強い。

蛇口を締めておいてジャンジャン水を供給したらいずれは破裂してしまうのは見えている。現在の日本経済は、将に市場への供給口を絞められた上で、過剰に資金が供給され続けているようなものなのである。

何が今日の状態を作り出したのか、それは、1991年のバブル崩壊から資金が逆流するまでの間2010年までにとられた政策を分析すればわかるのである。
バブル潰しのために、まずとられたのが金融引き締め、そして、次にとられたのが地価の抑制策として総量規制と土地関連税制の制定である。

その後、不良債権の強引な処理。そして、会計制度改革である。会計制度は市場経済の文法にかかわる問題であり、余り軽視すると深刻な事態を引き起こす。まず第一に言えるのは、どの様な目的で会計制度は作られ、何を真実としているかである。情報の透明性、公平性と言うが土台から損益上に現れない資金の動きは、認識されていないのである。
同時期にとられたのが規制緩和により競争の促進。また、雇用制度改革である。
そして、ゼロ金利政策に金融緩和。金融政策は極端から極端へ走った。
その結果、資産価値が下落した事で担保価値が下がり、含む益が失われた。ただでさえ市場の飽和状態に陥り需要が厳戒している最中に競争を煽ったっか過当競争、安売り競争に陥り収益が低下したのである。要するに、借入からも収益からも資金が調達できなくなった民間企業は、投資を抑制せざるを得なくなった。財務内容が改善したのは結果であり、見かけ上だけである。実質的内容は、まだまだ、資金不足である。
企業が投資を控えた事で貸出利息は細くなり、経済成長は止まったのである。この逼塞した状態を打破しない限り、いくら資金を供給しても経済は活性化できない。
生産性を下げ、収益力を弱め、資金調達力を低下させたら企業に「お金」は、回らなくなる。
本来、量の経済から質の経済への脱皮を促す政策をとるべきだったのである。



市場経済における金融の位置



金融は、貨幣経済の基盤となる産業である。謂わば裏方である。
その意味では、景気の表には現れてこない。

金融の主たる働きは、資金が不足している経済主体へ余剰な資金を持っている経済主体から融通することである。
基本的には、金融機関の仕事は貸し借りを通じて実現される。
貸し借りは基本的に市場全体ではゼロ和となるように設定されている。
つまり、お金の循環は、振動によって引き起こされる。お金の貸し借りによって振動を起こす機関が金融機関なのである。

「お金」は、使う事で効用を発揮する。持ち金の残高は、使えば減る。故に、「お金」は常に補充し続ける必要がある。それがお金の循環を生むのである。
「お金」は、使わなければ効用を発揮しない。しかし、将来に備えて「お金」を蓄えておこうという動機も働く。多くの人がお金を蓄えて使わなくなると「お金」は循環しなくなり、景気は停滞する。
お金がたまったらそれを「お金」が不足しているところに融通する。それが金融の働きである。

金融を仲介する場を提供するのが金融業である。金融業の核を担っているのが銀行証券会社である。
銀行は、間接金融を担い、証券会社は、直接金融を担っている。

お金を融通するためには、資金の出し手と資金の受け手との間で契約が取り交わされなければならない。その際、「お金」の受け手が発行する証書を「本源的証券」と言い。社債や株式といった証券や貸借の契約書等が「本源的証券」にあたる。
直接金融は、「お金」の最終的出し手が「本源的証券」直接「お金」の最終的受け手から購入する事で成り立っており。
間接金融は、「間接的証券」である預金証書を最終的出し手に販売し、それを最終的な受け手から「本源的証券」を購入する。間接金融の典型が銀行である。

我々は、金融を構成する機関を金融機関という。しかし、金融機関の核となっているのは、銀行である。この事は、金融の働きを考える場合、象徴的な事象である。
金融の働きを知る場合、金の歴史だけを追ってみ理解できない。明治以降は金が主役だが、それ以前は銀が主役だったのである。故に銀の歴史を学ばなければ金融の働きを明らかにすることはできない。

経済を構成する部門は、第一に、金融機関部門。第二に、非金融法人企業部門。第三に、一般政府部門。第四に、家計部門。第五に、対家計民間非営利団体部門。第六に、海外部門の六つがある。

銀行を業態別に分類すると、都市銀行、地方銀行、第二地方銀行、その他の国内銀行、信用金庫、農林漁業系統機関、その他になる。

都市銀行、信託銀行、長期信用銀行、地方銀行、第二地方銀行の数の内訳は、1989年末、都市銀行13行、信託銀行7行、長期信用銀行3行、地方銀行64行、第二地方銀行、68行あったのが、2015年3月末には、都市銀行4行、信託銀行3行、旧長期信用銀行2行、地方銀行64行、第二地方銀行41行までに集約された。

銀行は、バブル崩壊以前は業態別の構造を持っていたが、バブル崩壊後、金融ビックバンなどを経て業態別の構造は薄れた。

銀行は、決済制度によって結ばれているといっていい。
その意味では、銀行制度の基盤は、決済制度だと言える。

銀行の業務は、第一に、決済業務、資産運用業務、第三に投資銀行業務の三つである。(「ドキュメント銀行」 前田幸裕之著 ディスカヴァー・トゥエンティワン)
このコアとなる業務を介して「お金」を循環するのが銀行の役割である。

銀行法では、銀行の業務の範囲で銀行の核となる業務の範囲を、第一に、預金、および定期積み金などの受け入れ。第二に、資金の貸し付け、または、手形の割引、第三に、為替取引としている。(「ドキュメント銀行」 前田幸裕之著 ディスカヴァー・トゥエンティワン)

銀行の経済の仕組みにおける役割は、資金不足の経済主体に余剰資金を持つ経済主体に「お金」を融通する事によって市場に資金を循環させる事である。


資金不足経済主体と資金余剰経済主体


市場経済は、人、物、金の過不足を原動力として成り立っている。
「お金」過剰な部分から不足している部分に融通され。その「お金」の流れによって生産物を流通させ分配する仕組みが市場なのである。
故に、市場には常に、人、物、金が過剰な部分と不足している部分が混在していなければならない。

金融は、「お金」の過不足を補う事を通じて市場に「お金」を循環する役割を担っている。そして、この過不足を補う為に必要な手段が所得と借金なのである。

問題は、市場を動かしている過不足は、必ずしも人々の必要を反映したものではないという事である。
経済の根本は本来必要性に置くべきなのである。
しかし、市場の過不足は、必ずしも、人々の必要性を反映したものではない。

故に、過不足だけに市場の動きを任せていると市場には歪が生じる。その歪みが市場経済にさまざまに障害を引き起こすのである。
計画性というのは、生産や分配に直接介入する事を意味するのではなく。
仕組みを計画的に動かす、あるいは変化させることで市場の均衡を保つ事を意味する。「お金」の過不足だけを問題にしていたら、物や人の過不足を解決する事がおろそかになる。その結果、人口が減少に向かっているのに、家が過剰に立てられたり、市場が過飽和状態なのに、大量に生産された商品が供給され続け値崩れを起こしたりするのである。

人、物、金の過不足は、差によって生じる。差が均衡している時は、人、物、金は円滑に循環するが、差が不均衡になり、市場に偏りが生じると市場は傾き、構造を維持的なくなる。

市場経済を考える時、借金がいいかどうかを問題にすべきではない。借金が正常に働いているかどうかを見るべきなのである。

経済主体は、基本的には、第一に民間企業、第二に、財政、第三に、家計からなり。
これらの主体が持つ貨幣価値の総和はゼロ和になる。つまり、いずれかの経済主体が黒字になれば、その他のいずれかの経済主体は、赤字になる。

金融の問題は、どこが資金不足主体で、どこが、資金余剰主体かの問題であり。
それを政策的に見るとどこを資金不足主体とするか、どこを資金余剰主体とするかの問題なのである。

資金は、資金余剰の経済主体から資金不足の経済主体に向かって流れるのである。
その流れを市場取引によって還流するのである。

経済は、生産と消費によって成り立っている。

そして、生産部門が資金不足となり、消費部門が余剰資金を持つ構図が資金を効率よく回転させるのである。
なぜならは、消費者が資金を潤沢に持つことで生産が促されるからである。

つまり、民間企業を資金不足経済主体とすることが肝要であり。そのために、企業の健全性を測る基準として期間損益が採用されたのである。単位期間内における「お金」の働きを期間損益で測る事で家計の余剰資金を民間企業が借りて投資する事を可能とする。その手段が複式簿記に基づく会計なのである。
ところが現在、企業は資金を内部調達するように促され、資金余剰経済主体になるように政策的に仕向けられている。

なぜ、財政が赤字になるのか。
民間企業と家計が余剰資金を貯め込めば、財政部門は必然的に赤字となるのである。

黒字は良くて、赤字は悪いと決めつけている人がいる。黒字か、赤字かは、位置づけ、ポジションの問題である。市場がゼロサムに設定されている以上、黒字主体があれば、赤字主体もある。金融的に見れば、貸越主体か、借越主体か問題であり、要は、均衡がとれているかの問題なのである。赤字は悪い悪いと決めつけると物事の本質が見えなくなる。悪い赤字もあれば良い赤字もある。良い黒字もあれば悪い黒字もある。

現在の財政政策は、政府と中央銀行が、民間、すなわち、家計と企業を資金余剰主体とするための施策をとっているから、必然的に財政が慢性的に赤字になるのである。しかも、恐ろしい事に自分たちが採用している政策の意味を政府や中央銀行の当事者がわかっていない。


  
日本銀行


お金を侮蔑する者ほどお金に汚くなる。


負の働き




発券銀行では、紙幣は、資産ではなくて負債を形成する。

借金とか、負債というと何か悪い事のように考えている人が結構いる。
お金を借りる事は、犯罪であるかのように思っている人さえいる。
確かに、世の中には、借金だらけになって身を持ち崩す人が溢れている。
テレビでも過払い金請求の広告が連日流されている。
街金、高利貸というのは悪の権化のように思われているし、時代劇の悪党は高利貸というのが通り相場である。
しかし、本当に借金というのは悪い事なのであろうか。

現代社会は、借金によって成り立っていると言っていい。
借金なしでは貨幣経済は、成り立たないのである。
ただ、借金という事にそれなりのリスクが伴うのも事実である。
しかし、そのリスクは借金や負債の効用、存在意義をよく知らないことが原因で発生するリスクなのである。
借金や負債は悪い事だと決めづけずに借金や負債の働きを正しく認識する事が大切なのである。む

市場経済を考える時、借金がいいかどうかを問題にすべきではない。借金が正常に働いているかどうかを見るべきなのである。

借金が正常に機能しているかどうかを判断するためには、借金の働きとは何か。負債の効用とは何か。
それを明らかにする必要がある。

「お金」は天下の回り物である。
経済的な仕組みというのは、「お金」の循環によって動いている。
「お金」の循環を起こすのはお金の過不足である。

借金には、「お金」の過不足を調整する機能がある。
基本的に市場における貨幣価値の総量は、ゼロ和に設定されている。故に、資金の過不足は均衡しているのである。
この過不足は、貸し借りという形で市場に現れる。借りる者がいれば、貸す者がいて借入金の総量と貸出金の総量は常に均衡しているのである。この貸し借りが資金流れを生み出している。
そして、この貸し借りによって引き起こされるお金の流れが物流を促すのである。

「お金」は、最初、経済的機関に貸出、経済機関から見ると借入という形で供給される。投資というのも一種に借入金である。
借りてきた資金、元手によって何らかの価値を生み出し、その対価としてのして収入を受け、借入金の返済に充てる。
この循環の過程で所得という形で「お金」を分配するのである。
貸し借りによって作り出されたお金の流れは、収入と支出によって生産物の分配を実現する。

つまり、借金という形で「お金」は現物市場に供給されるのである。言い換えると借金がなくなれば資金は市場に供給されなくなる。

また「お金」は、貨幣価値、時間価値、付加価値の基となる。
「お金」の元は借金である。故に、貨幣価値、時間価値、付加価値の源泉は、借金である。

借金によって貨幣価値が生み出され貨幣が市場に供給される。
借金は、金利によって時間価値を付加する働きがある。
時間価値によって付加価値が生まれる。

借金の働きを知るためには、返済と償却、税金の関係を知る必要がある。
利益とは何か。

現代の市場経済は利益至上主義的なところがある。
利益のみを追い求めて経営の実態は理解できない。
増益と言っても何によって利益が向上したのか、それを解明しないと利益が景気にどのような影響を与えているかは解明できない。

利益を生み出している構造を見なければ利益の意味は理解できにないのである。
利益ばかりを追求しても利益の持つ働きや意味を解明することはできない。
なぜなせば、利益の持つ働きや意味は、利益を生みだと仕組み、システムによるからである。

この事は景気のような現象に関しても言える。ハイパーインフレや恐慌、デフレーションなど市場の表層に現れる貨幣的現象、景気を引き起こす原因は、構造的要因、システムの問題なのである。
会計は、このようなシステム、構造的要因に対応しきれていない。

期間損益は、単位期間内におけるお金の働きを表している。
収益や収入、支出は、単位期間内の働きである。
それに対して借金の働き、資産の働き、費用、特に償却は、長時間持続的なお金の働きである。
景気や経済状態にかかわりなく、債務者は一定額の返済をし続けなければならない。これが市場の底辺で常に働いている。
この様に短期的な収支と長期的な資金の働きが均衡している時は、経済は安定していると言える。表面に現れる景気だけ見ていたのでは経済の実体は理解できない。

貨幣経済の要は、借金と費用である。借金は悪い事と決めつけ、費用を削減するから経済は、活力を失うのである。
景気を維持しようとしたら費用を生み出す事である。なぜなら、費用が所得を形成する源だからである。、費用を削減すれば、所得が削減される。当然総所得が低下するのである。総所得を向上させようと思ったら、費用を創出し維持する事である。
費用を過剰に削減化する事は、経済の無人化を促進する事になるのである。費用の本質は個人所得である。費用を削減する事は間接的に個人所得を削減する事に結び付くのである。

借金や費用はいいか悪いかが問題なのではなく、正常に機能しているかいないかの問題なのである。
借金や費用は、悪い事だと決めつけてかかるのは、短絡的である。


貨幣経済は負債によって成り立っている。


ストックと言うと「お金」の流れがないように思われるが実際は大きな流れがある。ただ、決済の為の流れできないため、市場の表面には現れてこない。市場の表面には現れてこないが、景気の動向を左右する流れである。
そして、この流れを制御しているのが金融である。

資産とは何かが重要となる。
資産には、金融資産と非金融資産がある。非金融資産は、生産資産と非生産資産がある。この分類がストックの基本となる。
金融の核となるのは、金融資産である。金融資産とは、何らかの実体を持たない名目的資産で、貨幣価値だけがある資産であるが、本質は、債権である。債権は、同時に債務を構成する。つまり、債権と債務は表裏一体の関係にある。
金融資産と負債とは一体だという事である。更に、金融資産の対極に非金融資産がある。これがストックの基礎構造である。債権と債務が分離する過程で表象貨幣を生み出すのである。

金融資産と他の資産との違いは、金融資産の資産価値は、現金と同等だという点である。現金と同等と言う事は、貨幣価値の変動の影響を受けない。ゆえに、金融資産は、移転として扱える。それに対して金融資産以外の資産は、売買取引に依って相場が立ち、損益が生じるという点にある。つまり、資産を単純な移転として扱えない。また、償却資産と非償却資産の別が生じる。

信用創造をするのは貸借取引に依る資産価値の移動であるが、資産価値を生み出すためには、損益取引が必要となる。故に、貸借と損益が対称的となるのである。

金融機関は、何かを生産したり、販売しているわけではない。金融機関の働きはお金の融通をすることである。

金融の働きは、主として貸し借りにある。売買ではない。この点を注意しないと金融の働きを理解する事はできない。

市場取引は、売り買い貸し借りからなる。売り買いによって資金を流通させ、貸し借りによって資金を供給する。
貸し借り以外に贈与という行為がある。

しかし、贈与は一方的な働きしか持たない。故に、ゼロ和の関係が成り立たない。双方向の働きがなくゼロ和の関係が成り立たないという事は、経済的価値が成り立たない事を意味する。物や用益とお金とが結びつかないから、物や用益の経済的価値を確定できないのである。また、双方向の働きがない事によって貨幣の流通量を制御する事も出来ない。

故に、贈与という行為も対極に反対取引を想定する事が必要となるのである。

補助金や給付金には、贈与という側面がある。
それが財政を悪化させる一因でもある。

お金を実際的に循環させているのは、お金の出入である。お金の出入は個々の経済主体では、現金収支を意味する。お金の出入は取引によって実現する。
取引には、売り買いと貸し借りがある。
売り買いは、何らかの対価、代償を前提として成り立っている。貸し借りは、信用によって成り立ている。
お金は最初借り物なのである。
金融を除く産業が売り買いによって成り立っているのに対して、金融機関は貸し借りによって成り立っている。
売り買いによって生じた過不足を貸し借りによって補うことで貨幣は均衡している。
お金の収支の残高と貸し借りの残高は、一致している。

赤字主体があるという事は、黒字主体があるという事である。
問題は、どの主体が黒字、どの主体が赤字となるのか。
それは、周期的に交代するのか、慢性的なものなのかそれか経済の状態を決める。
赤字主体と黒字主体が周期的に入れ替わらないとお金は循環しなくなり、景気は停滞する。
金融機関は、お金を融通することによって成り立っている。

金融機関は、お金の過不足を均し、資金の循環を円滑にすることをその使命としている。
金融機関にとって重要な役割は、お金を如何に循環させるかである。
その為には、お金の動きを捕捉し、お金の働きを有効にする必要がある。

重要な事は、貸し借りは、均衡している。すなわち、市場における貸し借りの総量は、ゼロ和だという点である。

好きな物を買う為にお金を払うのと、借金を返す為にお金を払うのでは心持ちが違う。
好きな物にお金を払う金が陽なら、借金を返す為に使う金は陰である。




金融機関は、「お金」を循環させる機関である。



金融に関して多くの人は誤解がある。金融はお金を預かる所であるが、お金を預かったからと言って収益が増えるわけではない。預かったお金を運用して始めて収益がある。いくら、預かったお金が大きくてもそれだけでは利益には成らないのである。
預金や貸出は、売買取引ではなく、貸借取引である。故に、貸出金を回収しても、金利の部分を除いて収益に影響は出ない。

銀行にとって貸付金は、資産である。

金融機関には自分の為に使えない金が沢山預けられているという事を忘れとはならない。金融機関は、預かった金は、自分の為に使えないのである。

そして、預金というのは、金融機関にとって借入金なのであり、有利子負債である。つまり、経済の仕組み全体から見ると預金の増加は、有利子負債の増加を意味する。

金融の役割は、余剰の資金を持っている所から資金が不足している所へ資金を融通する事で資金を循環させる事である。
物やサービス、労働は、生産から消費へという一方通行的な行為、使い切る行為である。それに対して、お金は、使い回す物である。つまりお金は循環する事で効用を発揮する。その為に、お金を循環させる機関が必要となる。それが金融機関である。
金は天下の回り物なのである。

金融機関は、お金があったとしてもそれを自由には使えないのである。しかも、その金を返せと言われたら返さなければならない。金融機関は、極めて不安定な立場にある。その点を理解しないと金融機関の施策は理解できない。借入金に手を付けたら、つまり、預かり金に手を付けたら犯罪行為になるのである。

お金を循環させる為の負担という意味では、金利、利潤、配当等は、お金、資本の働きが産み出す経費だと言える。

金利の総量は、元本の総量に比例する。
経済では、比例関係が重要であり、その意味で線型関係を見いだす事なのである。

資金の流れが止まれば、浄化作用は低下し、沈殿物が蓄積し、流動性が損なわれる。


「お金」を循環させる仕組み



今日、お金は、中央銀行から、銀行券という形で供給される。
銀行券は、紙幣である。
政府が発行する硬貨があるがそれは、通貨の中の働きに影響を及ぼすほどの量ではない。
通貨の働きを捕捉するためには、今日では、紙幣の動きを理解すれば事足りる。

紙幣は、発券機関にとって負債である。今日、紙幣の発券機関は中央銀行だけに法律によって特定されている。日本では中央銀行は、日本銀行を指す。
紙幣は、負債であるから担保する物によって制約を受ける。言い換えると負債とする事で紙幣に制約を付けるのである。
かつて、紙幣は、金を担保としていた。金本位制度である。故に、金によって紙幣の発行量は制約を受けていた。
何らかの経済主体と発券主体との貸し借りによって紙幣は、市場に供給される。通貨の発行と供給は、貸し借りによって為される。売買ではない。故に、紙幣の流通量は、発券機関の貸借上に残高として現れる。
発券主体の負債として紙幣は発行される。故に、紙幣を担保する物は、貸借の側の総資産に表れる。純資産は、担保にはならない。なぜならば、純資産が指し示す対象は資金の調達先だからである。
現在では、国債と貸付債権が相当する。信用度からすると国が保証する国債の方が確実である。故に、今日では、国債を担保して紙幣を発行している。

また、支払準備金が他の通貨との担保となる。今日、支払準備金とは、基軸通貨である。支払準備金とは、外貨である。外貨は、国際的に信認された通貨、基本的には、基軸通貨を指す。基軸通貨国は、支払準備金を自国のために用意する必要がない。但し、基軸通貨国は、交易国のために基軸通貨を準備する必要がある。
基軸通貨の強味は、支払準備金である事に由来する。

日銀は、日銀ルールによってかつては国債の買い入れを制限していた。それは、日銀券と国債が相互に担保しあっていた事を意味する。国債を無制限に買い入れる事は、日銀券の制限を無制限に拡大する事を意味する。それは日銀券の信用を毀損する。
現在、無制限に国債を買い入れることは、国債の発行残高のみが通貨の発行限度を制約する事になる。それは、通貨の信認を著しく危うくすることである。それが危険視されている理由である。

市中銀行は、国債を中央銀行に売るか、預貯金を預けることによって紙幣を手に入れる。

資金を循環させる仕組みは、資金の過不足である。資金不足の経済主体に資金余剰の経済主体から資金を融通する。その仲介をするのが金融機関の役割である。資金不足と資金余剰の経済主体は、家計、企業、財政、海外部門に区分される。その裏で働いているのが金融である。
単位期間における部門間の資金の過不足は、貸借として長期資金に累積する。累積した長期資金は、金利、利益、物価上昇率、所得上昇率、税、地代、家賃として時間価値を形成する。時間価値は、単位期間の所得の範囲内で清算される。清算できない場合は、更に貸し借りが嵩む事になる。

適正の範囲内で資金の過不足を制御できなくなると経済は、暴走してしまう。

金融活動を通じていかに価値を生み出すのか。


金融には価値を創造する働きがある。
金融機関が価値を生み出すのは、金融機関自身のためにではない。
金融機関が価値を生み出すのは、市場に「お金」を回すためである。
実物市場に資金が流れなくなり、市場から溢れ出た余剰資金が金融市場に滞留した。
まるで金融市場が賭博場のようになり、投機や利鞘稼ぎによって架空の利益を作り出している。
例え、架空の利益であったとしても利益は、利益である。税金もかかるし、借金に対する返済もしなければならない。

税も、借金の返済も可処分所得を減らす。それが流動性を低下させて貨幣効率を縮小させているのである。
つまり、経済に関係のない「お金」の流れが、実体経済への「お金」の流れを阻害するのである。

金融は、本来、実物市場に資金を回す事で生産を促し、財を循環させることにある。
金融商品に対する投資は、実体のない投資である。
「お金」儲けを目的として家を建て投資目的で家を買う。実際に家を必要としている人は、家の価格が高騰して手が出なくなる。
実需がない「お金」に対する投資である。「お金」は、「お金」だけで成り立っているわけではなく、対極に人や物があって成り立つ。
「お金」は、人の役に立って初めて効用を発揮するのである。

貨幣価値は名目的価値である。実質的価値は、何らかの財によって裏付けられている。財は、それ自体が相場によって価値が決められる。財としての価値が下がれば価値も下がる。また、消費されれば価値は消滅する。しかし、名目的価値である貨幣価値は、貨幣自体によって価値が変化するわけではない。それでいて名目的な価値は変わらない。額面は変化しないし、貨幣価値は温存される。
金融商品と言うのは、「お金」が「お金」を増殖させることで成り立っている。泡銭なのである。

取引は、交換を前提として成立している。故に、反対給付のない取引は、経済的効果を発揮しない。
実体の伴わない資金の流れは、所得や支出、貨幣価値相対を薄める事になる事を忘れてはならない。それは、インフレーションを準備する事でもある。また、急速な収縮は、デフレーションやスタグフレーションの原因となる。

インフレーションは、価値を希薄化させ、デフレーションは、負債の水準を上げる。それは貨幣価値が名目的価値だからである。
それは、インフレーションもデフレーションも収入と資産と負債との相関関係によって影響されるからである。

経済的実体を伴わない資金の流れは、市場に不必要な波風を立てる事になる。
不必要な資金の流れは、実体的な資金流れを阻害し、市場から資金を排除する。
余剰の資金が市場に滞留する事で資金の流れる道を細くし、あるいは圧力を高め、流れを悪くし、血管を詰まらせ、動脈硬化を起こさせるような行為である。
バブル崩壊によって生じた地価の下落によって企業の担保力が低下し、外部資金調達力が著しく低下し。それによって実物市場への資金の蛇口が絞められたことが、一番の原因なのである。その点が改善しない限り実業への「お金」の流れは閉ざされたままになる。

実体のない資金の流れは、景気の変動を増幅させ、何よりも格差を広げる。景気の激しい変動は、産業構造にダメージを与え、格差の拡大は、支出水準の低下を招く。格差の拡大は、経済の健全な発達を阻害する。

現在の金融は、大きな風船の上に乗って自分が乗っている風船を膨らませているようなものである。風船が膨らめば膨らむほど高見には行けますが風船がはじけたらあっという間に奈落の底に落ちてしまう。
いつ風船が弾けるかと恐れ戦きながら、降りるに降りられない状況を自分たちで作りだしてしまっている。そこに、専門家としての過信や驕りが加わり抜き差しできない状態になっている。
限界にまで膨れ上がった資金は、一度弾けると潮のように市場に奔流し実業の世界を破壊しつくしてしまう。
汗水たらして働くことを侮り、政治着物が馬鹿を見るような世界にしてしまった報いが今日の状態である。
金融が実物市場から乖離すれば、水増しされ制御不能になった資金の流れが経済の仕組みを土台から壊してしまうのである。

キャッシュフローを分析するとお金の流れが明らかになる。しかし、キャッシュフローは必ずしも資金の働きを表しているとは限らない。
フリーキャッシュフロー、フリーキャッシュフローと手持ち資金の中で投資をしようとする風潮がある。担保の範囲でしか投資をしないという考え方では与信力は発揮できなくなる。所詮、キャシュフローが表しているのは過去の軌跡と現実の資金の流れに過ぎない。
企業がキャッシュフローばかりに囚われると、おかしな話だが、金融機関が借金体質になり、経営が成り立たなくなる。

キャッシュフローにも限界がある事を弁えておく必要がある。フリーキャッシュフローの範囲内で投資をし続ければ、縮小均衡になる。
金融機関の本来の役割は、資金の過不足を融通する事にある。

重要なのは、未来をどの様な世界にするのかという構想である。そこに実業がある。


お金の流れを追求する。



お金の流れを追求するには、一つは、その時点時点の資金の不足部門と余剰部門を捉えることである。次に、資金需給について調達部門と調達経路の動向を検証することである。その次に、部門別の金融資産残高を確認することである。これらは、日本銀行が公表している「資金循環統計」から明らかにする事ができる。

資金の過不足を部門別で見るとそれまで慢性的な不足部門で会った非金融法人企業部門が1998年、バブル崩壊を受けて余剰部門に転換している。一般政府部門は、1990年を境に国内最大の資金不足部門となっている。家計は、一貫して資金の余剰部門で会ったが、近年陰りが見えている。(「図説 我が国の銀行」 全国銀行協会金融調査部 編)
又、非法人企業部門は、資金の調達面から見ると1997年に返済超過となり、2006年から2007年には不足部門となったが、リーマンショックによって不足部門になった。一般政府部門は、1993年以降、最大の資金調達部門となっている。家計は1998年以降、景気の変動の影響を受け変動している。
いずれにしてもバブル崩壊が一つの契機になっていることが見て取れる。
資金調達の経路から見てみるとバブルが崩壊する以前は、金融機関経由した調達が大きかったが、バブル崩壊後、2000年以降は、減少に転じている。また、非金融部門は、直接金融が増加傾向にある。又、日本は、企業間信用の比重が大きいが、1997年、1998年に大幅に減少した上、2008年のリーマンショック時にも大きく減少させている。金融危機の際には、金融機関から調達していることが見て取れる。
ストック面、金融資産の残高からみると家計部門は、2005年末には、1,548兆円に達したがリーマンショックによって1400兆円台に減少し、その後持ち直して2010年度末には、1,502兆円と1,500兆円台を回復した。非金融法人企業は、プラザ合意後「財テク」資産運用の活発化によって増加したがバブル崩壊後の景気後退で伸び悩んでいる。(「図説 我が国の銀行」 全国銀行協会金融調査部 編)


   
国民経済計算書 内閣府

金融、非金融法人、一般政府だけを抜き出してみるといっそう主体の転換が見えてくる。

   

制度部門別の貸し借りを見てみるとバブル期に金融機関は、貸し越しになっている。
いずれにしても、金融機関は、基本的に貸し借りが均衡しているのが一般である。
事実、70年代、80年代は均衡していた。
バブル期は、バブルの発生に引き摺られて貸し借りの均衡が崩れたと考えられる。

国民経済計算書による制度部門別の貸し借りは、平成2年基準と平成17年基準とでは若干の違いがあるが概ね傾向は一致している。

また、バブル崩壊後、急速に、非金融法人企業、即ち、民間企業は、借り入れを減らし、1998年を境に借り越しから貸し越しへと転じている。また、一般政府は、プラザ合意後、1986年に借り越しから貸し越しに転じていたのが、バブル崩壊を契機に借入に転じ、1993年に民間企業と一般政府との借り入れの比率が逆転している。
家計は一貫して貸し越しではあるがバブル崩壊後減少傾向が続いている。

要するに、行政の考え方、国家に対する考え方が変わったのである。問題は、為政者がそれを理解し、意識しているかである。
バブル崩壊以前は、まで資金不足主体は、非金融法人(民間企業)だったのを財政に置き換える。家計も資金余剰主体から徐々に余剰資金を減らしていく。
資金不足主体を一手に財政が引き受け、民間企業は、資金余剰主体へと大きく転換させるという政策をとった結果が現在の状況である。
これは、自然になったわけではなく、政策的にこういう状態にしたのである。
この点を勘違いしてはならない。その為に、金融を引き締め、規制緩和し、資産価値を下落させ、不良債権処理を進めたのである。それらの政策が奏功して急速に非金融法人は、余剰資金主体に変じ、財政赤字は慢性化したのである。
仮に、財政赤字を解消したいとしたら根本的に政策を転換する必要がある。いくら金融を緩和しても市場環境が変わらない限り、非金融法人は、資金調達力を回復しないし、資金需要も発掘されない。



金融機関の働きを現す重要な指標の一つが預貸率である。


預貸率は、金融機関の収益力を表す業務純益を見る上で重要な指針である。
金融機関の本業の利益は、利鞘にある。利鞘は、貸出金利と預かり金利の金利差だけでなく、各々の分母となる貸付量と預金量にもよっている。その意味で貸付量と預金量の比率を表す預貸率は、直接的に金融機関の収益に結び付くのである。
預貸率が極端に低くなっている事が金融機関の経営を深刻なものにしている。
預貸率が50%を切るくらいなら資金量を半分に減らしてもいいくらいである。要するに余剰資金が多すぎるのである。余剰資金が多いのに、中央銀行は、市場に資金を供給し続けなければならない。それが今日の日本経済を象徴しているのである。

金融は、働きで評価すべきなのである。
例えば預貸率とかである。借入金である預金の量に対して、貸付金としてどれくらいの量、市場で運用されているかを表したのが預貸率である。
製造業や小売業と言った直接生産や物流に関わった仕事によって利益を上げている企業と金融機関の市場に果たしている役割も構造も違う。金融機関は、貨幣の供給と流通という市場の働きを補完する事を主とした業務にしているのであめる。金融機関が何らかの財を生産したり、物を流したりしているわけではないのである。自ずと経済における金融機関の位置づけも違ってくる。金融機関はお金を工面する事が役割なのである。

80年~02年まで預貸率は、100%を超えオーバーローンが常態だった。
預貸率は、2003年には100%を切ってきている。


国民経済計算

預貸率は、年々下降し、信用組合、信用金庫に至っては、2010年には、50%を切るところにまで迫っている。
貸出の不足分を補うように国債の保有残高が伸びてきている。


資料:全国銀行協会「全国銀行預金・貸出金速報」、信金中金 地域・中小企業研究所「信用金庫統計編」、
   全国信用組合中央協会「全国信用組合主要勘定」より、中小企業庁作成。
(注)1.貸出残高とは、各金融機関の銀行勘定貸出残高金額である。
  2.預金残高とは、各金融機関の銀行勘定預金残高+譲渡性預金残高+債権残高の合計金額である。


預貸率とは何か。金融機関における預金は、借入金である。貸出金は、資産、つまり、運用先である。
預貸率が50%を切ってくるというのは、借金の内の半分しか有効に運用できていないという事を意味している。資金効率が50%以下だという事である。

結局、優良な貸出先が見つからない事が問題なのであるが、優良な貸出先とは何を意味するのか。
銀行にとって優良な貸出先とは、第一に、遅滞なく利息を払ってくれるという事である。第二に、担保力があるという事である。第三に安定した収益源を持っている事である。この三点の中で何を一番重視するかによって金融機関の融資姿勢が決まる。
今日の銀行は、担保力を重視している。つまり、担保主義である。担保主義は、資産価値、特に地価が上昇している時は、経済に前向きな働きをする。しかし、一度、資金価値、地価の下落が始まると経済の発展に対して障害となる。

重要な事は、将来性のある事業や産業をいかに育成するかである。そこで勘違いしてはならないのは、将来性のある事業や産業は必ずしも新規産業、成長産業のみを指しているわけではないと言う点である。
日本の高度成長を支えたのは、新規産業や技術革新だけではないし、新規産業、成長産業を下支えしたのは伝統的産業であり、伝統的技術である。
産業の土台や技術革新と言うのは、一朝一夕にできるものではない。人々は、成功者の結果からばかり学ぼうとするが、失敗や挫折にこそ学ぶべき事は多くある。
一番してはならないのは、目先の利益や華々しさばかりに目を奪われて産業や技術の底辺を支えてきた事業や技術を枯らしてしまう事である。
雇用という観点からも伝統的産業をいかに活性化するかがカギを握っている。不況の時に雇用を支えたのも伝統的産業だったことを忘れてはならない。町工場や個人商店、職人、農林業や漁業と言った従来の産業が成り立たなくなったら我が国が長い培ってきた貴重な資源を失う事になる。
何に資金を回すか。それこそが金融の匙加減一つで決まるのである。そして、どこに資金を回すかに我が国の命運がかかっているのである。

優良な貸出先とは、単純に目先の利益をあげられたり、担保力がある産業を指しているのではなく。この国にとって必要不可欠で前途有望な産業を指しているという事を忘れてはならない。


金融機関の役割は「お金」を貸すことではなく、「お金」を回すことである。


金融機関の役割は「お金」を預かる事でも貸し付ける事でもない。「お金」を融通する事、廻す事である。
金融機関は、単なる金貸し業ではない。

担保がないから、赤字だからお金を融通できないというのでは、金融業としては失格である。
なぜならば、金融本来の働きは、資金が不足している経済主体へ余剰な資金のある経済主体から融通することにあるからである。
最初から担保が不足しているとか、赤字だというのでは、資金不足の経済主体に資金を融通することなんてできない。そのような視点では、資金が不足している経済主体から余剰な資金がある経済主体に資金を融通する事になる。

金融機関に求められるのは、事業を適正に評価することである。

担保主義に基づいた貸し渋り、貸し剥がしは、金融機関にとって自殺行為に等しい。
収益還元法が基本であるべきなのだが、収益還元法の最大の弱点は、一番肝心な収益を正確に予測する事が困難だという点にある。つまり、そこにリスクがある。
リスクとは不確実性を言う。リスクは一般に危機とか、危険性と解釈をされているが、経済学で言うリスクの本質は、不確実性である。

借入金、金融機関から見ると貸出金を回収しても何ら金融機関の収益には重大な影響がない。強いて言えば、金利収入が減って、有利子負債が増える。仮に、担保不足に陥った物件でも、月々の返済が滞っているわけでもなく、金利も決められてたとおり支払われているのならば、金融機関には、資金を回収する口実はない。第一、貸出金の回収は、有利子負債を増やす結果になるのである。

もともと、金融機関は、担保だけを根拠に融資をしているとは限らない。収益還元方式という考え方もあるのである。大体、政府は、担保に頼らず収益を基礎とした融資をするように推奨しているはずである。採算さえあえば無担保でも融資することは可能である。ところが、我が国の融資の原則は、担保主義に囚われている。その傾向は、バブル崩壊後、益々強くなっている。本来、バブルが崩壊し、担保力が低下しているのであるから、収益還元方式に切り替えなければならないはずである。なのに、バブル崩壊後、金融機関は、担保力に固執する傾向が強くなっている。
その原因は、担保不足に陥った物件を不良債権と認定し、引当金を積むことを強制したことが一因していることは明らかである。
人を豊かにするのは、お金ではない。人の働きである。人の働きによって豊かさが実現できなくなった時、経済は破綻するのである。
収入は増えていないのに、支出が増えている。しかも、実質的な支払は、横ばいか、場合によって減っている。この状態に陥るのか。それは、固定的な支払が累積しているからである。

非金融法人の利益は、営業余剰なのである。含み益は、未実現利益である。正当な営業活動を評価することが金融機関に求められている事である。

非金融法人の資金調達は、金融機関による間接金融から株式などによる直接金融に移行している。それは、非金融法人の借入金の推移、特に、長期借入金の推移に現れている。
又それ以前に資産価値の下落によって担保価値が減少し、与信力、資金の調達余力を非金融法人は低下させた。
非金融法人の金融離れによって金融機関の経営は、収益が低下した。つまり貸し先を失ったのである。貸し先を失った金融機関が新たな貸し先としたのが一般政府である。つまり、国債に流れたのである。

それは、金融機関が事業を適正に評価できずに担保主義に固執した結果である。
結局、事業に対する評価ではなく、金融資産を金融機関内部で転がすことで見かけ上の利益を上げようとした結果である。梃の原理とか言って負債の名目的価値を膨らませ、見かけ上の利益を上げる事に汲々とした結果、実物市場から資金が排除されてしまったのである。


金融の新しい働き



最近、金融工学が発達しハイリスク・ハイリターンという事が盛んに言われるようになった。
ハイリスク・ハイリターンという言葉には、リスクとリターンという二つの概念が含まれている。つまり、リスクの意味とリターンの意味を正確に知り、その上でその二つの概念を組み合わせて考えないとハイリスク・ハイリターンの真の意味は理解できない仕組みになっているのである。
経済的な意味でリスクとは、不確かな度合い、つまり、バラツキ、ボラティリティ(標準偏差)を意味し、リターンは、損益の確率的な平均を意味する。(「確率統計で解る金融リスクのからくり」吉本佳生著 講談社ブルーバックス)

バブル崩壊後民間企業の投資は抑制され、実物市場に資金が流れなくなった。その結果、資金は金融機関に滞留し、金融機関は、金融機関内部資金を捻出せざるを得なくなった。しかも、金利の低下は、金融機関の収益を圧迫し、業務純益だけでは必要経費を賄いきれなくなったのである。
そこで、新たな活路として手数料収入や金融工学による収益の拡大を計ろうとした。この様な傾向は地球的な規模で拡大し、リーマンショックを準備したと言える。

世界的な金利の低下。ゼロ金利という異常な事態が世界中広範囲で長期にわたって続き、出口がなかなか見いだせない。
ゼロ金利は、時間価値の喪失を意味する。
また、市場が成熟し、商品のコモディティ化が進行している。資産価値が下落し、企業の資金調達力が低下している。
財政が悪化し、赤字が累積している。産業が合理化され雇用が悪化している。

この様な環境の変化は、金融市場を根底から変質させようとしている。
要するに従来のビジネスモデルでは、金融業界は成り立たなくなってきたと言えるのである。

物質的な世界は有限だが数値的世界は無限である。



人間が一生のうちに使えるお金の量は、本来決まっているのである。そう考えると人間が使える「お金」の量は決まっている。我々は、金額に囚われているからそれが見えてこない。
無制限に「お金」を持っていたとしても無限に土地が買えるわけではない。我々が有効に活用できる土地は限りがある。いくら「お金」があったところで、食べられる物の量には限りがある。自分の限界をわきまえないで食べ続ければ体を壊すだけである。第一いつまでも生きていられるわけではない。それが神の意志である。「お金」に際限がないと思うのは、人間の性である。自分に必要なだけの「お金」があればそれでいいのである。「お金」は、分配のための手段なのである。

「お金」は、相対的尺度だから表に現れる金額は、無制限になる。例えば、物価が極端に上昇し、五千円で買えた靴が一兆円になったとしてもかえる靴同じなのである。時点が違うだけで五千も一兆円も買える靴は同じなのである。時間が変わったに過ぎない。本来「お金」が表象するのは、交換価値であり、交換価値が変わらなければ価値は変わらないのである。

人間は、物質的世界には、限界がある事をわきまえるべきなのである。物事には限界がある。限界のないのは、「お金」の世界である。「お金」は数値の世界であり、上に開かれているからである。
そして、人間の欲望にも限りがない。
限りない欲望によって人間が、「お金」の価値を増やそうと思えば貨幣価値は、無限に増やす事ができる。限りを知らない人間の欲望が物事は限界がある事を忘れさせてしまう。
物事の限界を忘れた時、貨幣価値は無限に拡大し始めるのである。
忘れてはならないのは、人の命にも限りがある事である。
足らざるを知らぬ者は、常に、飢え、渇き、貧しい。
満ち足りる事を知らぬ者こそが貧しいのである。

バブルの時に地価が値上がりし、東京二十三区の地価でアメリカ全土が変えるなどと囃し立てた愚か者がいる。一体全体それが何になるのか。
石油価格が高騰して産油国が大金を手にしたとしても結局オイルダラーとして世界に還流する事になる。「お金」のないのも不幸だが、使い切れない「お金」を持つのも不幸の種である。所詮、「お金」は影なのである。

今日の経済は、数値で成り立っている。経済は数学だともいえる。

経済現象は、複利的な変化、幾何級数的な変化を前提として成り立っている。だからこそ、指数関数が重要となるのである。

時間価値は、単利的変化ではなく、複利的変化によって形成される。
金利も、利益も、地代家賃も、地価も複利的に変化する。
故に経済は幾何級数的に変化する。経済を理解するためには指数関数を理解する必要がある。

経済では、指数関数は、重要な働きをする。
底が一より大きい時は、単調に増え続け、一より小さい時は、単調に減り続ける。一だと変化しない。
即ち、一が何を意味するのかが重要な鍵を握っているのである。
一より大きければ発散し、一より小さければ収束する。

一とは、全体であり、単位であり、基準である。故に、何を全体とし、単位とし、基準とするかによって経済の在り様は変わってしまう。



金融と会計


銀行会計というのは、一般の民間企業とは、一線をかす特殊な会計である。
まず第一に、一般企業でいう売上は、銀行では、経常収益という。また、銀行会計では、営業利益は存在しない。
また、一般企業では、資産に計上される預金は、銀行会計では、負債に計上される。
この様な会計上の違いは、一般企業と銀行の経済的役割の差から生じる。

銀行の経常収益を構成するのは、資金運用収益、役務取引等収益、特定取引損益、その他業務損益、その他経常損益からなる。「貸出金利息」「有価証券利息配当金」「コールローン利息」等を言う。
そして、費用は、資金調達費用、役取引等費用、特定取引費用、その他業務費用、その他経常費用、そして、営業費用(一般管理を含む)からなる。
資金運用収益は、資金運用業務から生じる利息収益を言う。資金調達費用とは、資金調達から生じる費用で、「預金利息」、
「譲渡性預金利息」「社債利息」等を言う。
役務収益とは、為替業務等から派生する収益である。
特定取引損益は、証券業務として、あるいは、特定取引のヘッジ目的で取引される国債有価証券から生じる売買損益湯評価損益を計上したものである。
その他業務収益とは、国債等債券・償還損益や金融派生商品損益を言う。
その他経常損益とは、株式などの売買損益や貸倒引当金戻入益、費用における貸倒引当金繰入額等を言う。

銀行の本業の儲け、一般企業の営業利益に相当するのが業務純益であり、一時的な変動要因(一般貸倒引当金繰入額、国債等債券関係損益等)を業務純益から除いたものをコア業務純益とする。

業務純益=業務粗利益(資金利益+役務取引等利益+その他業務利益)-経費-一般貸倒引当金繰入額
コア業務純益=業務純益+一般貸倒引当金繰入額-国債等債券関係損益

金融機関は、お金を融通る事に使命がある。
その働きから、お金の流れが陰画のように表現されるのである。

つまり、金融の働きは、実物市場の動きを写像したものと言える。

 
全国銀行協会

今日の金融業界は構造的な変動期にある事がうかがえる。それは、本業の儲けである業務純益の核となる利鞘や利回りが確保されなくなりつつある事に起因している。
バブル以前から間接金融から直接金融への変化が指摘されてきたが、今日の問題点は、それ以上に資金の流れの変化と低金利が影響していると考えられ。より金融業界にとって深刻な影響が与えられていると思われる。


全国銀行協会


「お金」の働きが付加価値を生み出している。付加価値は、貨幣から生み出された価値である。付加価値は、貨幣が存在したから生み出された。そして、いい意味でも悪い意味でもこの付加価値が経済現象を主導しているのである。
この付加価値を現在金融も産業も否定するような行為が横行している。故に、健全な経済が営まれないのである。
今日、費用や借金は、悪役にされるが、費用がなければ付加価値は生れない。付加価値を構成する要素の働きは、人件費は所得に、利益。地代家賃は企業資本に、減価償却は資産に、金利は負債に還元される。この点を考えないと総資産、負債、純資産、費用の働きは理解できない。
この付加価値を均衡させる収益が必要とされるのである。

金利や費用、利益、地代家賃などを目の仇にしていたら経済は回らなくなる。なぜならば、これらは付加価値だからである。

銀行の貸借構造



金融機関の財務諸表は、他の産業の財務諸表と根本的に違う。それは、金融機関の性格に依る部分が大きい。
「お金」の働きは、負の働きである。故に、一般企業と銀行の関係は、正と負の関係にある。
金融は、他の産業から見て正負の関係にあり。他の産業に対して印画紙のようになるからである。
その為に、金融機関の貸借は大変にわかりにくい。一般企業の勘定が使えないからである。

また、収益の基本は、貸し借りだという事であり。必然的に貸借対照表にも影響してくる。ある意味で銀行は、レンタル業のようなものであるが、ただレンタルする物が「お金」だという点である。

第一に言えるのは、銀行において預金は負債であり、貸付金は、資産だと言う点である。銀行の核となる部分を構成しているのが資産である貸付金と負債となる預金である。
実際問題、金融機関を窮地に追い込んでいるのは、損益の問題より、貸借の問題である。
バブル崩壊後、金融機関を追い詰めた不良債権は貸付金の中に潜んでいる。不良債権は、同時に、不良債務の問題である。

不良債権を処理した時、金融機関の貸借対照表のどことどこに、どの様な影響が生じるのかを見極めないと、簡単に処分しろとは言えないのである。



日本銀行

一般企業では、預金は資産だが、銀行では、預金は負債である。
預金は、バブル崩壊後も増え続けている。
2013年の異次元の金融緩和以降、現金預け金が顕著に伸びている。

  
銀行協会

また、資産の主たる部分は貸付金と金融商品である。つまり、製造業の様な実体のある有形資産より、実体のわかりづらい無形資産が多い。例えば、土地は、とりあえず簿価と相場を引き比べれば概算できるし、設備は減価償却によって計算できる。それに対して銀行の資産で固定資産が占める割合は極めて小さく一般企業では、流動資産と見なされる資産が大部分を占めている。


日本銀行

世の中の人は、よく借りた金は返さなければならないとか、貸した金は、回収するのが当然だと決めつけている人が一般である。しかし、事金融に関して言えば、返さなくてもいい金や返されたら困る金もある事を忘れてはならない。
金融機関の収益は、貸出金利と預かり金利の金利差にあるという点を見落としてはならない。いくら、預金量が多くても金利差を稼げなければ収益は上げられないのである。

金融の利益構造は、一般企業と本質的な違いがある。
金融機関の利益は金利を基礎としている。資産運用と言っても資産そのものを運用しているわけではない。利幅は決まっていて高利貸しはできない事になっている。
一般に総資産に表示されるのは、生産手段を表している。それに対して、金融機関は、金融的手段を表示している。資金だと言っても「お金」として使う事はできない。あくまでも利益を生むための資産なのである。その点が他の産業と違う。謂わば、金が金を生むのである。貸付金は、在庫みたいなものである。総資産が巨額になるのは、貸付金が主体だからであるが、利益幅は小さいのである。つまり、薄利多売型なのである。

金融機関にとって預金は、負債、すなわち、借金で、貸付金は資産である。この事は、何を意味しているのかというと金融機関というのは、一般企業や家計、財政、海外部門と言った金融以外の部門の資金の動きを写す鏡だという事である。つまり、金融以外の部門の資金の動きが金融の写像されていると考えていい。

この様な金融機関にとって一番の目安となるのが預貸率である。その預貸率が急速に悪化している。それが、金融業界を深刻な状態に追い込んでいるのである。預貸率が悪化すれば、ただでさえ利幅が小さい上に預金金利が底堅いのに、貸付金利が減少する事になる。
預貸率が悪化すると金融機関の役割である資金の過不足を融通するという働きができなくなることである。
また、基数となる貸付金と預金の均衡がとれなくなる。借金である預金の量に対して運用手段である貸付金が相対的に小さければ、資金効率が著しく悪くなる。預金と貸付金の均衡がとれないという事が、経済の歪みを象徴しているのである。
資金効率の悪さは、歳入と歳出の歪みでもあり、企業の資産と負債の歪みでもあり、家計の可処分所得の歪みの原因となるのである。

根本にあるのは、フローとストックの不均衡である。ストックが肥大化した事でフローが圧迫されている。

  
日本銀行 資金循環表

15年3月末時点における日本の3メガバンクグループの総資産に、貸出金、有価証券、現金・預け金の和が占める割合は、連結ベースで75%前後である。

内訳は、三菱UFJは、貸出金38%、有価証券、25%、現金・預け金、14%。三井住友は、貸出金39%、有価証券、16%、現金・預け金、21%。みずほは、貸出金38%、有価証券、25%、現金・預け金、14%。また、有価証券に国債が占める割合は、三菱UFJは、47%。三井住友は、48%。みずほは、50%といずれも約半分である。(「ドキュメント銀行」 前田幸裕之著 ディスカヴァー・トゥエンティワン)


貸出金と現金・預金推移 兆円

日本銀行 資金循環表

バブル崩壊後もリーマンショックまで、オーバーローン気味だったのが、リーマンショック後は急速に預金超過になっていた。
バブルが崩壊してすぐに預貸率が低下したわけではない。1998年ごろまでは、横這いあるいは、若干の上昇を見せている。それが2000年を超えるあたりから低下し始め、リーマンショック後には、預貸率は、100%を切るようになってきた。

バブル崩壊後預貸率は、年々下降し、信用組合、信用金庫に至っては、2010年には、50%を切るところにまで迫っている。
貸出の不足分を補うように国債の保有残高が伸びてきている。

日本の金融機関の預貸率は、急速に悪化している。金融機関は、貸出先に苦慮しているのである。
それは、バブル崩壊後資産価値の下落に伴って民間企業の担保余力が低下し、資金調達能力が減退した事による。
資金の流れは、外部調達から内部調達へと変わり、いくら金融緩和がされても資金の貸し出し先が表れないのである。

問題なのは、金融機関が金融機関本来の使命を見失いつつあることである。金融機関の在り様は、貸借対照表上に表れる。負債である預金と貸付金との関係から見て取る事が出来る。負債と資産である預貸率が五十%を切るのは異常である。しかも、ゼロ金利時代においてである。金利を限りなくゼロに近づけているのに、優良な貸付先が現れない。

企業が資金を借りないのは、将来の収入が保証できないからである。

成長期から成熟期へ移行すれば、当然、企業の資金調達の仕方にも変化が現れる。その変化に金融機関がついていけなければ、金融機関は成り立たなくなる。成長期には、投資を基本とした関係になるのに対して、成熟期では、資金の回収、返済を基礎とした関係になっていく。資金を回収してしまえば、金融機関と取引先は、必然的に関係が明日くなる。その時、新規投資ばかりを追い求めれば優良な貸付先を失うのは当然なのである。
成熟期で優良な貸付先は、再投資や更新投資を考えている企業である。住宅でいえば、リホームであり、中古住宅である。少子高齢化が下げばれている今日なら尚更である。
貸付も量から質への転換を計るべきなのである。そして、それは、根本的な構想に基づいていなければ成り立たない。

成熟期だというのに、成長期時代を忘れられずに、新規新設ばかり追っていたら自滅していくだけである。
所得の質を上げようとしたら仕事の質を高める事と利益率をよくする事である。
例えばエネルギー産業では、エネルギー効率を高める事と粗利益を改善する事である。つまり、省エネルギーを推進し、省エネルギーで減少した部分を利益率を上げる事で補うのが質を高める事である。
貸付も単に土地や株の投機に向けるのではなく。地域の活性化と高齢者時代に備えた環境投資こそが貸付金の質を高める事になる。
少子化が進み、新設住宅の需要が低下しているというのに、マンション開発に資金を投入すれば、バブルの二の舞を演じるだけである。空き家、空室を増やし不良債権を生み出すだけである。

金融本来の役割は、資金不足の主体に資金を融通する事で市場に資金を循環させる事なのである。金融が金融本来の役割を忘れた時、資金は市場を流れなくなるのである。



銀行の収益構造

確認しておかなければならないのは、第一に、一般企業が売買取引を基礎としているのに対して、銀行は、貸借取引を基礎としていると言う点にある。銀行の収益は、売上(Net Sales)ではなく、経常収益(ordinary revenue)である。それは、銀行には、売上に相当する部分がないからである。この事は、一般企業でいうところの仕入れもない事も意味する。

「お金」を融通、つまり、貸し借りする事でその金利差で収益を上げているのである。とういう意味では賃貸業に近いのかもしれない。ただ、賃貸業と違うのは、「お金」には物としての実体がない事である。
これが、銀行の産業としての性格を形作っている。

銀行の収益、売上の元、即ち、何を売って利益を上げているのか。金融機関の売り物、つまり、商品と言うのは見えにくい。それもそのはず金融機関の売り物は利息だからである。金融機関の収益源は、貸付金利と預金金利の差である。
銀行は、売り買いではなく、基本的に貸し借りが取引の根源である。
「お金」を商品だと勘違いされている人が結構いる。「お金」は資産であり、貸し借りの対象ではあるが売り買いの対象、つまり、商品ではない。
銀行の収益は、貸借取引から生じるからである。貸し借りと言っても物の貸し借り、レンタル業とは違い、金銭の貸し借りから生じる預金金利と貸出金利の利鞘が収益源となる。

まず第一に、売買取引と貸借取引の決定的な違いは、売買取引は、現金収支の動きが基本的に損益上に計上されるのに対して、貸借における資金移動は、損益には、計上されないという事である。

第二に、預金は流動性が高い、特に、要求払い預金は、残高が不安定だという事である。銀行業は、潜在的に取り付けによる倒産リスクを背負っている。なぜならば、預金は、預金者の要求に応じていつでも解約をしなければならないからである。

第三に、預金は、銀行では負債として計上されると言う点である。預金は、銀行経営の原資である。しかし、それは原価として認識される性格のものではない。「お金」その物は商品にならないのである。なぜならば「お金」は、それ自体が実体をもたない貨幣価値を表す単位に過ぎないからである。現金とは、その時点における貨幣価値を指し示す、値、指標である。現金という実体があるわけではなく、貨幣は、現金を象徴する物に過ぎない。

第四に、銀行の収益を左右するのは、預金量と貸出量といった母数、そして、預金金利と貸出金利の利率によって決まるという事である。これは常に規模の大きさが決定的要因として働いている事を意味する。スケールメリットを最大限にしたいという欲求を銀行経営者は持つ要因となる。

第五に、貸出金と預金の質が常に問題とされる。貸出金は資産であり、貸出先の質が悪いと資産が毀損し、それが損失として計上されるからである。この場合の損失は、特別損失になる。つまり、一般企業の営業活動から生じる損失ではなく、資産評価から生じる損失だと言う点である。
故に、銀行は、未実現損益、つまり、含み損益が重要な鍵を握る事になる。

第六に、取り扱っているのが金銭であり、基礎となるのが資産と負債であるために、資金繰りの悪化が表面化しにくい。要は、お金が回っている間は、企業は継続できるのだから、利息収入がなくても元金を食いつぶしている間は破綻しない。事実上破たんしていても表面化しない。銀行が一番怖いのは、流動性の悪化と取り付け騒ぎによる預金量の枯渇である。

銀行の収益を見る場合、鍵となるのは、預金量、貸出量、貸出先、預金金利、貸出金利、預貸率などである。これらの数字は、損益上には現れてこない。これが一般企業の損益と決定的に違う事を念頭に置いておく必要がある。
金融機関の破たんが突然死のように見えるのは、金融機関を蝕む病巣が損益上に現れてこないからである。



日本銀行

そして、銀行経営は、金利が収益の源となるために、金利の性格によって収益が左右される。
まず第一に言えるのは、金利は、商品格差がつけにくいと言う点である。商品格差がつけにくいのだから、無原則に過当競争になれば、金利は低下し、収益力は弱くなる。
第二に、元金によって利益が制約されるという事である。つまり、預金量が決定的役割を果たしている。
第三に、負債は、名目的価値であり、金利も名目的だと言う点である。名目的と言うのは、額面として表示されている値は、実体的な動きとは連動していないという事になる。地価が大きく高騰しても借入金の名目、額面は変化しない。逆に地価が下落しても返済額は変わらないのである。バブルのような事が起こると名目的価値と実体的価値に大きな乖離が生じ、それが経済にも銀行にも深刻な影響を与えるという事である。
第四に権利と義務に基づく契約書を基としていると言う点である。
第五に、預金量は、流動的で絶えず変化している、一定していないと言う点である。
第六に、収益は、売買取引を基にするのではなく、貸借取引を基にしていると言う点である。故に、金融取引から債権、債務が必ず発生する。
第七に、金利は、資金需給によって決まると言う点である。社会に流通する資金の量が余剰になれば金利は原則的に低下する。むろん、政策的要素が絡むから必ず低下するというのではない。ただ傾向的に資金が余ってくれば金利は低下する。
第八に、預金金利と貸出金利の性格の差が鍵を握っている。預金金利は、流動性が高く、要求があれば支払いを拒めない。それに対して、貸出金利は、約定による拘束を受けていて流動性が高く、拘束がある。
第九に、金利には、固定金利と変動金利の二種類があり、固定金利は、一定の収益を確保できる反面、長期にわたって拘束される。変動金利は、その時点その時点の環境によって変化し不安定である反面、市場環境に応じて調節する事が出来る。
第十に、金利には、長期、短期があり、時間価値が重要な働きをしている。
第十一に金利には、単利、複利の二種類があり、これも時間の設定の仕方によって現在価値を変化させる。
金融機関というのは、民間企業の中では、特殊なものである。企業法人統計でも、国民経済計算書でも非金融法人と金融機関は区別されている。
貸借関係は、金融機関と非金融法人とは表裏の関係にある。例えば、非金融法人では預金は、資産であるが、金融機関では負債である。更に、金融機関の中でも、中央銀行は、現金は、資産であるが、所謂紙幣に当たる銀行券は、負債である。
また、金融機関には、非金融法人で言うところの営業利益はなく、経常利益が基本となる。営業利益に相当するのは、業務純益である。

国民経済計算書において営業利益に相当する部分が営業余剰だとみられる。営業余剰は、2000年から2002年までにかけて上昇しそれから夜這い状態に入った後、リーマンショック時に急落している。営業余剰は、フローから得られた利益を集計したものとして見る事が出来る。


国民経済計算書 単位1兆円 2008年基準  内閣府

国民経済計算書によると金融機関の所得は、財産所得による部分が営業余剰に比べると圧倒的に大きいのがわかる。つまり、金融機関は、ストックから得られる利益に依存している事がわかる。故に、単純にフローばかりを引き比べても金融機関の収益の実態は見えてこない。


国民経済計算書 単位1兆円  内閣府

非金融企業における「売上」に銀行で相当するのは、経常収益である。
経常収益は、資金運用収益と役務取引等収益、特定取引収益とその他の業務収益、その他経常収益を足したものである。

  
全国銀行協会


金融機関では、業務純益が一般の会社で言うところの営業利益に近い。業務純益とは、銀行などの金融機関が融資などの本業で得た利益を指して言う。貸出利息の額から預金利息の額を引いた資金利益、手数料等の役務取引等利益、債券・外為等の売買損益を意味する「その他業務利益」などを合計して業務粗利益とし、そこから経費、並びに一般貸倒引当金繰入額を差し引いて算出した値である。

この業務収益が圧迫されている。それは支払利息が減少しているからである。
銀行の現状は、貸付先が確保できない。利鞘が稼げない。利回りが取れないという状態である。
これが打破できなければ業界の構造的な変化、再編を妨げられない。


日本銀行

銀行の収益の主力は、預金・貸出業務による収益、有価証券の配当等からなる資本利益である。

現在、ゼロ金利、マイナス金利等といった異常な状態が続いている。ゼロ金利、マイナス金利、金融緩和をしても資金需要は喚起されない。その為に、銀行の収益は、コアとなる業務で確保する事が難しい状態である。
その為に、資産運用や仲介業務、証券売買、コンサルタントといった周辺業務、サービスにも業容を拡大せざるを得なくなっている。
しかし、ゼロ金利とか、マイナス金利というのは、時間価値を消滅させることを意味している。異常な状態なのである。問題なのは、異常な状態が常態化しつつあることにある。
金融機関は、核となる収益、即ち、金利による収益が確保されるようにならないと健全な経営は保てなくなるのである。

銀行の経常収益を構成するのは、貸出金利や有価証券利息配当金等の資金運用収益、役務取引、特定取引収益、有価証券利息配当金・その他の業務収益である。
経常費用は、資金調達費用、役務取引等費用、特定取引費用、その他業務費用、営業経費、その他経常費用からなる。

企業から支払われる支払金利が銀行の経常収益を支えて来た。民間法人企業全体から支払われる支払金利が極端に減少している。明らかに、金融機関の収益は、圧迫されているのである。


全国銀行協会

銀行の収益性を分析する際、基礎となるのは、業務純益、あるいはコア業務純益などという。

業務純益とコア業務純益の方程式は、以下のとおりである。
業務純益=業務粗利益(資金利益+役務取引等利益+その他業務利益)-経費-一般貸倒引当金繰入額
コア業務純益=業務純益+一般貸倒引当金繰入額-国債等債券関係損益

銀行が本業から得た収支が「業務粗利益」である。
業務粗利益を構成するのは、資金運用収益から資金運用費用を差し引いた資金利益と役務取引等収益から役務取引等費用を差し引いた役務取引等利益、特定取引等収益から特定取引等費用を差し引いた、特定取引等利益、その他業務収益からその他業務費用を差し引いたその他業務利益である。信託銀行はこれに信託報酬が加算される。
資金収益は、預金、貸出業務や有価証券の配当等から得る収益を指し、役務取引等収益は、為替取引料等によって得られる収益を、特定取引等収益は、デリバティブなどから得られる収益、その他業務収益は、国債などの取引によって得られる収益を指す。

経常収益から経常費用を引いた値が経常利益である。業務純益と経常利益との差は、不良債権処理にある。

 
日本銀行  十億円


人や物から収益を見てみると、バブル崩壊後銀行は、職員数も店舗数も大きく減らしてきたが2013年頃から徐々にではあるが持ち直しつつある。



全国銀行協会


銀行のキャッシュフロー


銀行業務は、投資によって成り立っている。投資と言っても銀行は、直接投資するわけではなく。民間企業や家計、一般政府が投資をする際、お金を融通するのである。

資本主義社会は、生産中心の経済体制によって成り立っている。それ以前の経済体制は、消費を中心としていた経済体制であった。生きるために必要な、即ち、消費するために必要な資源を生産するというのが、経済の基本思想である。
経済的というのは、本来は、節約に対して用いられた言葉であるが、今日でいう経済的というのは、生産効率に対して用いられるようになった。

消費を中心とした社会では、消費に必要な資源しか生産しない。故に、生産が不足すると直ぐに生存を脅かされることになる。旧体制では、災害や旱魃は命取りとなったのである。
近代は、生産革命と金融革命によって生産力を増大させることによって成立させた。物不足を解消する事によって公共の福利を実現してきたのである。
故に、余剰は良くて不足は悪いという価値観がどこかに働いている。そのためにどこもかしこも過剰、過剰、過剰。人は、自分たちの力には限りがなく、資源は無尽蔵にあるかのように錯覚している。しかし、人生にも、資源にも限りがあるのである。それを和すそれを忘れてしまうとどこかで破綻してしまう。

近代は、生産革命によって成立した。その生産革命の根底を構成したのが金融の仕組みである。物は、有限であり、お金の価値は無限である。物と貨幣価値との均衡が崩れてら経済は暴走してしまう。

生産中心の世界のインフラストラクチャーを構成するのが金融である。お金を融通する事によって投資を下支えし、促してきたのである。

金融のキャッシュフローは、生産活動の裏で働いているのである。

銀行のキャッシュフローを見る時、一般の民間企業と同列に見たら理解することはできない。なぜならば、銀行のキャッシュフ以前の会計の基本が金融以外の企業と金融機関とでは違うからである。
第一に、銀行が扱う商品は、「お金」だという事である。
故に、銀行のキャッシュフロー上に現れる現金、預金残高がキャッシュフローに占める割合は、異常に高い。


全国銀行協会

リーマンショックの際、まず投資キャッシュフローが大きく減少したのに対し、営業キャッシュフローは、逆に大きく増加している。


全国銀行協会

銀行のキャッシュフローは、非金融法人と同じように、税引き前利益に減価償却費の様な出金を伴わない費用を足し戻しし、他の現金の収支は、資産・負債の増減から間接的に計算する。「資金運用収益」と「資金運用費用」は、発生主義で計上されているため、実際の現金の動きを伴っていない。そのために、キャッシュフロー上では、営業キャッシュフローに「資金運用収益」を引き、「資金運用費用」は足す事になっている。
運用収益は、「預け金利息」「貸出金利息」「有価証券利息配当金」等の「未収収益」を引いて前期分を加算する。前受収益も同様の処理をする。
「預金利息」等の「資金運用費用」未払い費用などを引いて算出する。
そして、貸付金や預金の元本部分である資産の増減を加算する。銀行にとっては、「貸出金」は、資産であり、「預金」は、債務である。貸出金を控除し、預金を加算する。
預貸率の悪化は、営業キャッシュフローの増加になる。

銀行の営業キャッシュフローで目を引くのは、貸付金や預金の増減、預り金の増減が加算されている点である。
銀行のキャッシュフローで重要なのは、資金の移動が直に反映している点にある。
銀行のキャッシュフローは意味がないという人は、その点を理解していないか。はぐらかしているのである。

銀行が破綻する理由にはどのような事が考えられるか。
民間企業が経営破綻する理由は、資金繰りかつかなくなる、資金が回らなくなることである。これは銀行も同じである。ただ、銀行が他の民間企業と決定的に違うのは、銀行が扱う商品は「資金」だという事である。
故に、営業キャッシュフローに貸付金の増減や預金の増減が加えられるのである。
銀行が経営破綻する原因は、資金が枯渇する事である。資金が枯渇する原因は、現金、預金残高が、例えば、取り付け騒ぎの様な出来事で支払準備が枯渇した場合である。次に、オーバーローン、貸付額が預金額を上回る。第三に、損益が赤字になり、預金を取り崩す。第四に、貸付金が回収できなくなる。第五に、一時的な運転資金の融通ができなくなる等である。
リーマンショックの際は、銀行間の一時的な資金の融通ができなくなったことで金融機構が機能不全に陥ったのである。
業容が拡大している時、銀行経営も資金が不足する場合がある。銀行が業容を拡大している時は、貸付金が増大しているからである。また、経常収益が悪化したからと言ってすぐに行き詰るわけではない。貸付金が減っても預金が増えていれば営業キャッシュフローは増加するからである。しかし、それは預貸率の悪化を意味している。損益だけ見てもキャッシュフローだけ見ても経営実態がわからない。損益、貸借、キャッシュフローの相互の働きを見極める必要がある。
銀行の経営を見る場合、支払準備がどの程度、用意されているかが重要となる。
この点を鑑みながら銀行の営業キャッシュフローを見ないとキャッシュフローの働きは理解できない。

一般企業では、キャッシュフローは、借入金の返済額、償却費、利益の関係によって導かれる。銀行は、それに加えて貸借関係が強く関わってくる。

次に銀行の投資キャッシュフローである。金融機関以外の企業に投資キャッシュフローは、設備投資、即ち、主として固定資産の増減として現れる。それに対して銀行の投資キャッシュフローは、有価証券の売買・償還が中心になる。ただし、投資キャッシュフローに計上されるのは、売買によって生じた増減であり、売却損益は、営業キャッシュフローに計上される。
有価証券というのは、国債、地方債、社債、株式、証券投資信託、不動産投資信託等である。

経済の動きは、銀行のキャッシュフローによく現れている。この点を理解しておかないと適切な経済政策を講じる事はできない。




銀行の本業は金貸しである。



金貸し業というと聞こえは悪い。それは、金貸しと言う言葉が悪徳な高利貸しを連想させるからであろう。しかし、金融業の本質は、金を貸す事にあるという意味であえて金貸しと言っているのである。そして、金融業者が使命感や道徳観を失い、金儲けのみを追求すれば、悪徳な高利貸となって金融が悪業になってしまう事を金融に携わる者は、忘れてはならないのである。。
金融機関は、貨幣経済の基盤である。つまり、市場経済の土台である。それだけに金融がその本来の役割使命を忘れ、悪行に走ればそれが国家、世の中に与える悪影響は計り知れないのである。

「お金」で失敗する人の多くは、借金の魔力に誑かされた者だ。
今日の「お金」の根源は、借金である。
本位制度下における物しての「お金」に対して働きを表象する紙幣の本質は、借金、即ち、負債である。それ故に不換紙幣の前身である兌換紙幣は、物としての「お金」、金貨を担保していたのである。しかし、兌換紙幣から不換紙幣、本位制度から、管理通貨制度へと変遷した今日、「お金」の持つ借金と言う性格を正しく理解しないと市場を制御する事が出来なくなる。

金融機関は、借金の塊だといえる。ファイナンスとは、資金の調達と運用の関係によって成り立っている。それを仲介し、資金の融通を図っているのが金融機関だからである。
この点を誤解している人が結構いる。金融機関は、調達した「お金」その物から利益を得ているとい考えてしまう。だから何兆円なんて預金量を持っている銀行は、預金の分だけも「お金」を所有していると考えてしまう。しかし、金融機関にとって預金は借金であり、預金に応じた金利を支払っているという事である。預金が多いというだけでは、借金で首が回らなくなる。そして、銀行の収益は、預金と貸付金の金利差によって成り立っている。
金利は利率がもとになっていて、働き、サービス、用役がもとになったているわけではないという事である。

不良債権処理にあたった者の多くが、愚か者のように言われる。それなりの使命感を持って処理した者も最後には犯罪者扱いをされる。
それは、「お金」の持つ負債と言う性格を正しく理解していない事に起因する。
不良債権処理は、いわゆる不発弾処理、爆弾処理のような者であり、不用意に扱えば処理する者も周囲の者も巻き込んで爆発してしまう。

地価や資産価値が急激に高騰たり、下落すると名目的価値と実質的価値に大きな乖離が生じる。そこから生じる問題点をまともに処理をしたら破綻をしてしまう。通常な処理ができないから非常の処理をしたらそれが不正だとされたら経済という仕組みが維持できなくなる。非常時や状況、前提が変わったら、それに対応した処理が出来なければ仕組みとしての市場は維持できない。
使命感や責任をもって処理しようとしたものが馬鹿扱いされたり、犯罪者扱いされたら報われない。そんなことを繰り返していたら、責任をもって処理をしようとする者もいなくなるし、モラルもおかしくなる。「お金」の爲でないと言っていた者も「お金」のためだと割り切らねばやっていられなくなる。それでは人としての尊厳も誇りも保たれなくなる。そのような社会がいい社会だとは思われない。
離陸時の処理と巡航時の処理、着陸時の処理、非常時の処理、緊急時の処理、異常事態の処理などが予め織り込まれてなければ、何らかの不具合が生じた時の責任の全てを操縦士に負わせるのは酷というものである。

借金の働きを正しく理解し、どの様な状況や前提の変化にでも対応できる市場の仕組みを経済に組み込むことが求められているのである。

借金は、資金を調達して、それを運用し、運用した収益によって、返済をしていく。ある意味で、資金の調達、運用、返済、決済という過程で生じる。
そして、借金を成立ささせる為の不可欠な要素が、資金の調達力、支払能力である。
資金の調達力を裏付けているのが支払能力である。その支払い能力は、何を担保とするかによって制約される。一般に、狭義の担保主義と言うと不動産等の資産を担保とするものを指すが、本来担保とすべきなのは、将来の所得なければ意味がない。なぜならば、借金の前提は、分割払い、延払いだからである。

金融の働きは、資金の過不足を補いつつ資金を供給し、市場に循環させる事である。金融が本業で利益を上げられないとしたら金融機関の本来の働きが弱まっている事を意味している。

資金は、投資によって供給され、消費によって循環される。消費は、支出によって実現し、支出は、所得と裏腹の関係にある。そして、各々の局面毎に金利が関わってくるのである。また、何に対して税をかけるかは、経済の働きの本質にかかわる事である。

投資に対して一般に間違った認識が流布している。一方で投資を生産と言う局面だけで論じ、一方で景気対策としての局面ばかりを問題としている。それが意味もなく公共投資を拡大させ財政を圧迫する原因となっている。
元々公共投資は、超長期的資金の活用にあり、短期的資金の活用には不向きな行為である。

投資には、投資の持つ働きや意義がある。それは、生産性だけに特定されているわけではない。かといって投資の持つ本来の役割を考えずに景気対策としてのみ考えるのは、危険な事である。
投資には、投資には社会的効用や生産手段の構築と言う役割がある。また、投資には、雇用の創出と言う働きがある。投資は、長期資金の働きの基礎となり、資産を形成する働きがある。そして、投資には、市場に資金を供給する働きがある。これらの働きを総合的に判断して何に投資するかを決定するのである。

低金利時代、ゼロ金利時代に、景気対策と言う目的だけで公共投資を上乗せし、その結果として国債を無意味に増やす事は、金融機関の収益が著しく低下する上に、金利を抑圧する事になる。
金融機関本来の役割は、財政の資金繰りにあるわけではなく、資金の過不足を融通する事にある。

可処分所得と経費の和が返済額を上回ると借り換えによって負債は拡大する。借入金の残高が収束に向かうか、発散に向かうかの分岐点を成否の会議を握っている。

借金の負荷ばかりを問題にすべきではない。今日の経済において借金の技術が発展し、表象貨幣が市場に浸透したのには、それなりの理由がある。借金と言う行為は、分割と言う思想によって成り立っているという事である。
支払い、返済の分割と言う思想がが時間価値を経済にもたらした。それが今日の経済に時間軸をもたらし、発展を促したのである。時間軸が加わる事で市場は四次元空間になった。
分割によって経済の時間の単位が設定された。
決済処理に時間差を持ち込んだ。

金融とは、金貸し業である。金貸し業の根本は、信用である。故に、金融の基盤は、信用制度である。
金貸し業というのは、何かを生産するとか、労力を提供するというのではなく、「お金」を融通することで利益を得ていることを意味する。
金貸し業である金融機関にとって「お金」は、資源であり、原材料であり、商品である。金融機関にとって「お金」は「お金」ではないのである。どちらかと言えば物に近い。

金貸しなどと言うと多くの人は、何かいかがわしさを感じる。今日、金融業は、一国の存亡命運を左右するほど、絶大な力を持っているのに、多くの人がある種の闇のようなものを感じさせてしまう。それは、金融がお金に纏わることに起因しているように思われる。

金融機関の収入は、あくまでも金利収入であって貸付金を基礎としている。しかし、貸付金の元本となる部分は、借り物であって自分のお金ではない。この点が重要なのである。ゼロ金利というのは、金融機関の存在意義を否定する事でもあるのである。

非金融法人の銀行離れが顕著になってきた。支払い金利が原価に占める割合が低下しているのが何よりの証左である。また、預貸率の低下にも顕著に表れている。

注意しなければならないのは、60年代、70年代と支払金利の水準は、大差ないという事である。ただ、支払金利の総額は、同程度でも利子率は、バブル崩壊後よりずっと高いと言う点である。つまり、資金効率が良かったことを意味する。現在の支払利息は、少額である上に利率も低いのである。それは、巨額の資金を運用している割に得る利益は少ない事を意味している。この様な現象は、金融機関だけに限った事ではなく、日本の産業全般に言えるのである。要するに時間価値が喪失したのである。

バブル崩壊以前は、市場の拡大に沿って支払利息も増加したのに対して、バブル崩壊後は、市場規模は変わらないのに支払利息が低下していったのである。
それは、金融機関に対する配分が縮小している事を意味している。





金融機関も本業では儲からなくなってきたのである。少なくとも、現状では非金融法人から得られる支払利息の拡大は望めない。

本業だけで儲からないからと言って多角化や異業種参入を叫ぶ評論家がいるが、いつの時代でも、評論家というのは無責任である。
本業以外の業種に参入しても本業ですら儲かっていないというのに、まるで性格も歴史も違う異業種に参入して成功できるという保証はどこにもない。いつの時代でも本業以外の仕事に失敗して本業までおかしくしたという事例が事欠かない。

資金運用収益が伸び悩む中、資金運用以外の分野、役務取引や特定取引等に活路を開こうとしている。

金融機関の本源的収入は、受取利息である。受取利息によって金融機関の経営が成り立たなくなったら、金融機関が正常な働きができなくなる。
金融機関本来の働きは、資金の供給と回収によって実物市場に資金を循環させることである。そのための手段は、貸付と貯蓄であり、金融機関本来の収益は企業や家計、政府の支払利息、金融機関から見たら受取利息である。

金融の中核的業務は貸し借りである。そして、貸し借りこそが銀行の本業なのである。それが他の産業と決定的に違うのである。安心して貸し借りが出来なくなれば金融業は成り立たなくなる。
また、貸し借りは資本主義の土台でもある。その貸し借りは信用の上に成り立たってきたのである。

本来、金融機関と言うのは、金貸しが本業なのである。つまり、金融の根幹は貸し借りにある。いかに「お金」を必要としている者に必要なだけ「お金」を融通する。それが金融の使命である。それがいつの間にか博打うちのようになり下がり、「お金」が足りない人から有金、全てを毟り取るようになってしまった。それは、金貸しの本業が成り立たなくなったからである。健全な貸付先がなくなったからである。

金融機関にとって健全な貸付先を作っていく事が大切なのである。その為には、今まで、利益を上げてきた産業、今、利益を上げている産業ではなく、将来、利益を上げられるような産業を発掘していかなければならない。
将来利益が上げられるような産業を発掘し育んでいくためには、金儲けに主眼を置くのではなく。人々の生活にこそ、根差している事が求められるのである。
なぜならば、人々は、「お金」を儲ける為に生きているのではなく。生きる為に「お金」を儲けるのであるからである。
金融機関は、自己責任によって投資先を見出さなければならないのである。金融業者は、貸付のプロである事が求められる。資産ばかり見て、事業の将来性が見抜けなければ、貸付のプロとは言えない。事業の将来性は不確かなのである。



金   利


金利は時間の関数である。金利は、基数となる借入金の残高に対する比率によって定まる。

金利は、悪いもので意味もなくとられているという偏見、先入観にとらわれているものが多くいる。
金利は無意味な事できない。金利は、経済の中で重要な役割を果たしている。
なぜ、金利は必要なのか、どの様な理由で金利は成立しているのかを改めて明らかにしたい。

金利はなぜ生じるのか。その要因の多くは、「お金」の働きに起因している。
金利とは差を付ける事である。つまり、その時点における価値に対して何らかの価値を付加する事である。その付加された価値はその時点の価値との差として表される。金利に差をつける理由が金利が生じる要因である。
「お金」に差をつける理由は、「お金」の持つ働きと性格による。「お金」の持つ働きと性格とは、第一に「お金」は、分配の手段だと言う点である。第二に、「お金」は、交換の手段だと言う点。第三に、「お金」は、物流の手段だと言う点。第四に、「お金」は、時間価値によって動くという事。第五に、「お金」自体に価値はない。そして、第六に、「お金」は、差によって動くと言う点、第七に、「お金」は使う事で効用を発揮する。言い換えると「お金」は使わないと効用を発揮しないと言う性格がある点である。

金利は、時間価値を形成する事によって市場に資金が循環する事を促す働きがある。金利が圧縮されたり過大になると資金は、市場に流れにくくなる。

「お金」は、交換の手段であり、「お金」は使わないと効用を発揮しない。つまり、「お金」を手に入れて「お金」を使いたいという動機を起こさせる必要がある。その「お金」を使いたいという気持ちを起こさせる要因に金利がある。「お金」は、「お金」自体が価値を持つわけではない。「お金」はただ手元に置いておくだけでは、何も生み出さない。しかし、「お金」は、運用すれば付加価値を付ける。それを象徴するのが金利である。金利が付くから、「お金」は、時間価値を創造する。それが金利が成立する第一の要因である。金利は、「お金」を動かす動機なのである。同時に、金利は、「お金」を手に入れたいという動機にもなる。「お金」を動かさないと金利分損をするそれがお金を循環するための原動力となる。
市場経済では、「お金」が循環する事で物が流れ、労働が促され、生産が拡大する。「お金」が流れなければ、市場経済は維持できない。その「お金」を流すための誘因を金利は作る。金利がつかなければ、「お金」は滞留する。それが低金利、ゼロ金利の原因である。
金利は、時間価値を生み出すとともに時間価値の基準となる。時間価値が生み出すのは、例えば、利益、所得、物価、地代家賃、配当等がある。利益や所得、物価などは分配の基礎となる。その基礎を誘導するのが金利である。
金利があるから年金生活者や高齢者は生活が維持できる。それは、金利が時間価値を生み出しているからである。金利が失われると時間価値が消失するのである。
時間価値は、経済を成長発展させる原動力となる。時間価値が利益の本となるからである。つまり、時間価値は付加価値を生み出すのである。それが金利が生まれる一番の理由である。
金利は価格差の元になる。価格差があるから、利益が生じる。つまり、時間差や価格差があるから期間損益は成り立っている。
時間差は、経済に過程を生み出す。過程は、事業計画の土台となる。つまり、時間差は、経済に過程を生み出すのである。
新築の家と中古の家に時間価値の差がなければ、新築の家と中古の家との間に価格差は生れない。そうなると実質的な経済価値は生じないのである。新しいものと、古いものとの間に差をつけるのが金利である。
金利は、「お金」を手に入れたいという動機、「お金」を使いたいという動機、「お金」を貯めたいという動機の部分に作用するのである。

金利は、ストックに対して付加される価値である。そして、フローから支払われる。故に、ストックとフロー均衡の上に成り立っている。金利は、ストックとフローを均衡させるための指標ともなるのである。

銀行の収益は、金利差から得られる。金利差がなくなれば、銀行の経営は成り立たなくなる。
金利には、預金金利と貸出金利がある。銀行の収益の主たる部分は、預金金利と貸出金利の利鞘にある。
銀行本来の収益は、預金を集めてきてそれを顧客に貸出その利鞘によって得る事にある。
銀行が収益を上げるためには、元手となる預金を多く集める事である。
次に、それを効率よく貸し出す事である。
そして、利鞘を上手に稼ぐことである。

そして、効率よく利益を上げるためには、預金量を増やす事。預貸率を高める事。預金金利と貸出金利が一定である事である。貸し出した資金が約定通りに返済される事である。
預金量が少ないと貸出資金に限界が生じて利益が出せなくなる。
預貸率が低くなると預金金利が貸出金利をうわまわり、損失を出す事になる。
また、金利が安定していないと逆鞘になり利益を上げるどころか損失を増やす事になる。
そして、貸し出した資金が回収できなくなると預かった預金を返せなくなる。即ち、純資産が毀損する事になるのである。
バブル崩壊後の銀行において問題となったのは、貸し出した資金が回収できなくなる事と預貸率の低下、そして、金利の低下による逆鞘である。



日本銀行

経済取引の基本は売り買いと貸し借りである。
金融は、貸し借りを基礎として成り立っている産業である。

金融機関は、他の経済主体からお金を借りて、他の経済主体にその金を貸し、その金利差によって収益を得ている。
他の経済主体から「お金」を借りるというのは、「お金」を預かる事を意味している。
貸し借りを通じて余剰資金を持つ経済主体から資金不足の経済主体へと「お金」を融通するのである。
「お金」を融通する動機が金利なのである。金利が失われれば、「お金」を融通する動機が失われる。

金融市場と物的市場は表裏の関係にある。
市場とは、貨幣的場と物的場重なって作られる重層場なのである。

金利と一口に言っても金利にもいろいろな種類がある。
例えば、国債の金利と預金金利とは性格が違う。

国債は資産である。
金利が上がっても預金の資産価値が下がるわけではないが、国債は、金利が上がると資産価値が下がる。
国債の金利というのは内的分配であって外的な所得には、影響を及ぼさない。国債の金利は売買によって定まるのである。
それに対して預金金利は、貸し借り依って決まるのである。

国債の金利の働きと貸付金や預金の金利の働きとは、性格が違う。
この点を正しく理解しておかないと金利の上昇が経済にどのような影響を与えるかを理解する事ができない。
金利が上昇しても貸付金や預金は元金の名目的資産価値は影響を受けないのである。
それに対して、国債の金利の上昇は、国債の資産価値の減少を意味している。つまり、金利が上昇すると国債の資産価値は下落するのである。この事は、国債を所有する主体にとっては資産の劣化を招くことを意味する。
だから、貸付金が伸びないからと言って安易に国債に頼るのは危険であるし、また、中央銀行が過剰に国債を保有する事のリスクも考えなければならない。
なぜなら、金利が上昇しても金融機関にとって貸付金利息や預金利息は連動して上昇するが、国債の場合は、金利の上昇は、資産の劣化を招くからである。

注意しなければならないのは、貸付金、預金の元本は、名目的資産価値である。金利の上昇や下落が他の資産価値に影響を与える事を考慮した場合、実質的資産価値は変動する。影響を受けないのは、名目的資産価値である。


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バブルの時、いかに金利が異常だったかがわかる。反面、ゼロ金利も正常ではない。
いずれにしても金利の異常な動きが経済を疲弊させているのである。

ただ、バブル崩壊を促した金融引き締めの際の金利も、石油危機以前を見ると、必ずしも異常に高いという訳ではない点だけは、注意する必要がある。

金利も経済的価値であり、経済的な働きがあって成り立っている。
その意味では、金利も収益と、費用と負債の働きの制約を受けている。支払能力や支払い限界を超える金利は成り立たなくなるのである。高利貸が社会的制裁を受けるのは、経済的に見て必然的な事である。つまり、支払能力を超えるような金利は成り立たないのである。

金利は、元となる借入金の残高との積である。市場が成熟し、収益が低下すると同時に、投資が抑制的になり、資金需要が低下すれば必然的に金利にも下げ圧力がかかる。収益と負債、純資産との均衡の上に金利は成り立っている。更に、費用に占める他の勘定との力関係によって金利は定まるのである。また、負債と表裏にある生産手段、即ち、資産との均衡も重要となる。収益と費用、収益と負債、負債と資産との関係が金利を決めているのである。


今、金融業界が直面する課題



金融の現状は、第一に貸付先が見つからないという事な尽きる。第二には、実物市場が収縮している。実物市場が収縮する反動で金融市場が膨張している。第三に低金利である。低金利でありながら、貸付先が見つからないために、過当競争が激化し金利収入が採算を割り込んでいる。第四に、金融緩和によって金余り状態に陥っていると言う点である。第五に、財政が破たん状態で国債が公共投資ではなくて金融に使われていると言う点である。第六に、資産価値の下落によって金融機関から融資を受けられなくなった民間企業が資金調達の手段を外部調達から内部調達に切り替えた事である。
金融が現在の様な問題を抱えたのは、資金の流れが変わったからである。資産価値と負債とが乖離し、均衡が保たれなくなった。さらに、所得と支出の構造が変化した事である。

金融機関の中核である銀行は、三重苦にあえいでいる。一つは、貸出先が見つからないという事。二つ目に、利鞘が稼げないという事。三つ目は、低金利である。
その元凶は、優良な貸出先がない。また、あっても融資を受けないという事である。
金利が低下しても貸し出しの総量が増えていれば、ある程度の利益は確保できる。市場全体が縮小している時に、優良な貸出さんがなく、結局過当競争になって金利を下げざるを得ないという悪循環に落ちいている事である。
これは、銀行だけでなく、あらゆる産業に蔓延している。

 
日本銀行

なぜ、貸出先が見つからないのか。言い換えると、なぜ、民間企業は、融資を受けないのか。
民間企業が借金をしないのは、日本の経営者から事業意欲がなくなったみたいな事を、政治家や行政は言うが、日本の経営者は事業意欲や投資欲を失ったわけではない。借金をしたくても、投資をしたくても借金や投資をするための担保がなくてできないのである。そして、その担保力を削いだのは、政治家であり、行政であり、金融機関である。

市場が縮小し消費支出が減れば、その分、実質所得も減少する。定期雇用が減れば借入金も成り立たなくなる。

日本の民間企業は、資金調達を外部調達から内部調達へと切り替えた。外部調達とは、外部機関から資金を調達する事であり、内部調達とは償却費や収益、経費の削減等を資金源とする事である。

民間企業の資金の流れが外向きから内向きへと変わったのである。その分、財政と海外部門の赤字が増してきている。
民間企業は外部資金を活用しなくなった結果、見かけ上の財務体質は強化された。その内部留保を還元しろというが、それも企業の経営実態を知らぬ者の戯言である。
いくら内部留保があったとしてもそれが含み益にならなければ資金を調達するための担保にはならない。
現在の金融機関は、厳しく行政に管理されていて担保力がなければ融資はできない仕組みになっているのである。
故に、民間企業は見かけ上は、財務体質がよくなっているように見えるが、経費削減、リストラを繰り返し、ぎりぎりまで経費を削減しているうえに、過当競争による利益幅の圧縮に苦しんでいて投資を受け入れられない状態なのである。
それは新規設備投資の動向に端的に現れている。設備投資全般は、横ばいないし若干の伸びがみられるが新規投資は、2013年まで下降して2016年現在でもバブル崩壊時点の水準には戻っていない。


日本銀行

新規設備に対する総貸付金は、バブル崩壊後多少の波はあるが長期低落傾向から抜け出せないでいる。

外部資金による投資が抑制され、市場が収縮し、金利が低下し、過当競争によって安売りが横行し、資産価値が低位に張り付いていて、消費に回せる収入が制約を受けている状態では、銀行の業務純益が向上する余地はないのである。が

現在の金融の問題点の背景には、資産価値の下落による資産の実質価値と名目価値のかい離がある。この点が改善されない限り、景気は拡大しない。ただ危険なのは、実質的価値と名目的価値が乖離した状態のままで名目的価値だけが上昇する事である。それはハイパーインフレを意味するからである。単純にデフレーションを脱却すれば経済状態が改善されというようにはならない。




問題点の背景


銀行の収益の根源は、利息と手数料である。この点を誤解している人が多い。いくら預金を多く集めてもそれによって収益が上がるわけではない。銀行にとって預金は、預かり物、預り金であって売上金とは本質が違う。大体、預金は、金融機関にとって負債、借金なのである。預金を集めただけでは、預金金利を払わなければならない。手数料と言っても現在は、収益の中心にはならない。あくまでも、銀行にとって収益の源は利息なのである。その利息収入が大きく減少している。それが金融機関にとって最も深刻な問題なのである。
いくら利息以外の収益を上げると言ってもお金を融通する事を生業としている以上、銀行にとって利息から収益が上げられないというのは、存在意義を失わせる事なのである。

今、銀行は、貸し先が見つからない、利回りが取れない、利鞘が確保できないの三重苦にあえいでいる。
問題は、このような状況に陥った原因である
この様な問題点の要因として考えられるのは、第一に、低金利である。第二に、資産価値の下落による民間企業の資金調達力の低下。第三に、市場が成熟化した事で経済が停滞している事。第四に、財政赤字。第五に、人口、特に生産年齢人口の減少。第六に、間接金融から直接金融へと資本市場が変化している事。第七に資金調達が外部調達から内部調達へと変化している。第八に、為替の変化による国際競争力の低下。第九に、産業構造の変化。第十に、技術革新によって労働の質が変わってきた。第十一に、正規採用から不正規採用、定期採用から不定期採用へと雇用環境が変化してきた等である。

中でも、一番、大きな影響を与えているのは、資金の流れが大きく変わった事である。資金の流れを大きく変えた要因が資産価値の下落である。
資金の流れの変化は、一つは、資金調達が外部調達から内部調達に変わったと言う点である。二つ目は、金融市場から資本市場へと中心が変わりつつある。三つめは、赤字主体が民間企業から行政機関へと変動したとい点である。
この資金の流れの変化は2000年頃を境に明確になった。

利息は、利率と元本の積である。この利率と元本、両方とも減少している。元本の量は、資金の需給関係で決まる。元本が減っているのは、資金需要が減退している事による。資金需要が減ったのは、先にも言った様に外部資金調達から内部資金調達に資金の調達先が変わったのと、間接金融から直接金融へと移行した事、そして、投資そのものが減退したのが主たる原因である。
金利は、商品であり、値段を現している。需要が減退しているのに、供給を増やせば、過当競争に陥って値段は下がる。資金需要が減退している時に大量の資金を供給しているのだから低金利になるのは必然的である。

資金需要が減退したのは、資金の流れが変わったことも一因である。
なぜ、資金の流れる方向が変わったのか。
一つは、バブル崩壊による資産価値の下落である。次に、市場が成熟し、飽和状態に陥った事である。第三に、赤字主体が民間企業から行政機関へと移った事である。第四に、時間価値が失われた事である。

金融業界が抱える問題は、一企業の問題ではない。金融業界の根っこにある問題である。
ただ、表面に現れた現象のみを追いかけても問題の本質は見えてこないし、解決の糸口も掴めない。

銀行の収益源は、貸出金利と預金金利の利鞘である。
支払金利を見ると民間企業に対する貸出金の利鞘が逆鞘になっている可能性がある。
それは、営業利益と経常利益が逆転している所からも見て取れる。つまり、民間企業では支払金利より受取金利の方が上回っているのである。

  
法人企業統計

金融機関は、「お金」が循環していないと利益が上げられない構造になっているのである。景気が悪くなれば途端に金融機関の収益も悪化する。
金融機関は、資金を必要としている健全な部分に資金を余らせている所から融通する事が本来の使命である。
それは、資金の偏りを均す事でもある。金融で大切なのは、平衡感覚である。

金融機関が健全になるためには、金融機関本来の使命、資金余剰主体から資金不足主体へ資金を融通を融通する事によって地域社会にいかに貢献していくかにかかっている。その為には、どの様な国にするのか、どの様な社会にするのかの見識が問われているのである。
人々が生きていくために、何が必要なのか。国民が平和で豊かな生活を送るためには、何に投資をしたらいいのか。先ず明らかにしなければならないのは、志すべきところである。
くれぐれも金儲けだけを目的にしてはならない。金儲けは手段であり、目的にはならない。金を儲ける事は大切だが、金儲けを目的と化したら、産業は、本来あるべき姿を失ってしまうのである。


成長段階から成熟段階へ



経済の状態を判断する際、拡大均衡局面か、縮小均衡局面かを正しく認識する必要がある。なぜならば、拡大均衡局面と縮小均衡局面とでは、採るべき施策が全然違うのである。

日本経済は、成長段階から1980年代から成長段階から成熟段階へと移行してきた。つまり、市場環境が拡大均衡型から縮小均衡型へと変質したのである。前提が変われば分析の手段も変わるし、対策も変えなければならない。
成長から成熟への転換は、量から質への転換でなければならない。
その転換に失敗した事が今日の日本の長期停滞を招いたのである。

高度成長を支えてきたのは、家電、自動車といった新興産業の技術革新と市場の拡大、敗戦からの復興による住宅建設、ベビーブーマーによる人口の増加といった条件が重なった事にある。
こういった条件、高度成長を支えていた前提条件が変質し、その多くは、機能しなくなっている。そして、市場は成長段階から成熟段階へと移行してきたのである。

高度経済成長は、1952年から1972年年まで 20年間を言う。日本の実質 GNP年平均成長率は 9.4%で,当時の先進工業国の平均成長率の5%程度に比べても,さらには戦前の日本経済の約4%と対比しても,きわだっている。

普及率を見てみると1972年頃までに主要な家電製品の市場は、飽和状態に達しているのがわかる。


主要耐久消費財等の普及率(全世帯)  (平成16年3月末現在)
消費者動向調査   内閣府


1950年代後半には、白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫が「三種の神器」ともてはやされ、1960年代になるとカラーテレビ、クーラー、自動車が「新三種の神器」、三Cとされた。家電や自動車は高度成長の牽引役と言っていい。商品が市場に浸透し、市場が成熟するにしたがって経済成長は性格を変えていった。

  
「日本の百年」 公益財団法人 矢野恒太記念会

その転換点は、1973年のオイルショックによって高度成長時代は、終焉し、同時に狂乱物価から低成長時代へと移っていった。

家電業界は、80年代に建設業界は、バブル景気を境にして成熟期に入ったが、この時、規制緩和といった競争促進策がとられた事で、市場は過当競争に陥り、急速に利益率を低下させ結局寡占、独占状態に向かう事になる。
テレビは、アナログ放送からデジタル放送への転換によって特需が生まれるが、それが仇となって過剰投資を呼び、危機的な状態に陥る事になる。
これは。金融業界も御多分に漏れず。1973年に太陽銀行と神戸銀行が合併したのち13行体制だったのが2013年以降は5行体制に集約された。

産業が成熟されるのに従って市場は飽和状態に陥った。プラザ合意後の円高不況になる以前から本業ではなかなか利益が上げられなくなってきたのである。
市場が飽和状態になってくるとあらゆる面で過剰な状態が目立ってくる。過剰生産、過剰設備、過剰在庫、過剰資金、過剰負債、過剰資本、過剰雇用等である。経済を身軽にするために、あらゆる局面が削減対象となる。また、その過程で生産の効率化が計られるようになりすべての面で標準化が推し進められる。新製品や新企画も短期間で陳腐化し、ライフサイクルが短くなる。商品は、ものすごい勢いで回転させられるようになる。
大量生産は、商品のコモディティ化を推進し、単価を短期間で引き下げてしまう。そして、過当競争によって収益は上がらなくなる。
市場が飽和状態になれば収益は頭打ちになる。販売量も伸び悩み、利益も上がらないとなると企業は、投資資金の回収目処が立たなくなり、新規投資を控えるようになる。
市場は、生存競争から死闘へと変わり、お互いのシェアを食い合う事になっていく。だからこそ先人たちは、無益な競争を抑え、独占を禁じたのである。

経済では、不足な事は深刻に受け止めるが過剰な事は、甘く考えている事が多い。しかし、時として過剰な事は、不足した場合より深刻な問題を引き起こす事がある。

収益が頭打ちになると経費を削減する事で利益をねん出しようとする。設備は、投資によって効率化を計る事が出来るが、人件費はそういう訳にはいかない。経費削減は最終的には、人件費に向けられるようになる。しかし、人件費は、個人所得に直結している。人件費の削減は、総所得の減少へと結びついていく。

重要なのは、絶対額なのか。比率なのか。増収でも増益にならない場合もあれば、減収でも増益に結び付くことがある。

人の人生にサイクルがあるように、商品にもプロダクトライフサイクルがある。そのライフサイクルに応じて経済政策は立てられるべきなのである。



プロダクトライフサイクルは、キャッシュフローのライフサイクルに対応している。

高度成長から低成長時代への移行は、量から質への転換が上手くはかれないと産業の衰退を招くことになる。
本業で収益が上げられなくなると資産運用や金融によって収益を補おうとする。それが顕著に表れたのが、プラザ合意後の円高不況である。本業で収益が上げられなくなった企業は、こぞって財テクに走った。それがバブルを準備したのである。

終戦直後、人々は、その日食べる物にも住む家にも事欠いていた。とにかくその日その日食べられる物を食べ雨露を凌げればよかった。時代は移り、今欲しいものは何でも手に入るようになり、食べる物にも困らなくなった。しかし、その中で本当にいい物を見極められるようになってきたであろうか。結局、安売りが横行し、人々は自分の目でいい品を見極める事さえできなくなりつつある。
結局、量販店に席巻され、適正な価格も維持できなくなりつつある。何が大切なのかさえ、自分達で考えようともしない。
「お金」だけが全てになりつつある。「お金」は、大事だが、「お金」は道具に過ぎないのである。


製造業から不動産業へ


ゼロ金利、マイナス金利、金融緩和をしても実物市場に資金が供給されない。
これは金融機関が正常に機能していない証である。
金融機関が正常に機能しない原因の一つに資産価値と負債、即ち、資産価値の実質価値と名目価値のかい離があげられる。

実物市場には金が流れないのに、金融を緩和して大量の資金を市場に供給している。その結果、金余り現象であり、余剰な資金は、行き場を失って投資的市場、主として不動産市場に溢れ出している。

しかし、このような資金は、実需ではないからいずれは崩壊する。バブル崩壊と同じ轍を踏むことになる。

製造業と不動産業に対する貸出金の推移を見てみるとこの関係が顕著に表れている。
プラザ合意後、製造業に対する貸出金は、低下している。それにたいして不動産業に対する貸し出しは急速に増え、バブル崩壊直前にはかなり接近している。バブル崩壊後一時的に製造業に対する貸し出しが増えるが、1993年をピークにして急速に低下し始める。それに対してバブル崩壊後も不動産業にたいする貸出金は、増え続け1998年にピークに達した後大幅な減少に転ずるが2003年頃から上向き始め2004年に製造業と逆転する。


 
日本銀行

2004年までは、貸付金は、製造業に流れていた。それがバブル崩壊後は、不動産業へと逆転しその後、この関係は、変化していない。
2000年から2004年の間に資金の流れに重大な変化があった事がうかがえる。
製造業から不動産への資金の流れの変化は、実物市場から投機市場への資金の流れの変化を意味している。

貸出残高が2004年に逆転しているのに対して設備に対する貸出残高は、不動産業がプラザ合意後急速に上昇しているのに対して製造業は停滞し、プラザ合意の二年後1987年には逆転している。


日本銀行

更に新規設備投資はプラザ合意直後に逆転している。明らかに、日本の産業構造が変化したのである。


日本銀行

バブル崩壊後、不動産業、製造業に対する貸し出しを減らしている。バブルが崩壊後製造業に対する貸し出しは復活していないのに、不動産業に対する貸し出しは、バブル当時に復活している。これが今日の金融業の実態なのであり、金融業界の病巣の深さを表している。
金融は、国家、産業を裏から支えている。金の流れがその時代の風潮を表しているのである。
国家や国民に対する忠誠心を失った金融は、単なる守銭奴、金の奴隷に過ぎなくなる。くれぐれも金融に携わる者は、自戒しなければならない。

資金の流れる方向は、その国の未来を作る。次世代のためになる様な国家構想に基づいた資金の流れならばいいが、何の考えもなく場当たり的な政策によって間違った方向に資金が流れたら、それは国家の存亡を危うくする。
重要なのは、どの様な構想に基づいて国づくりを画策しどのような方向に資金を流すかなのである。
それを過てば財政を破綻させ、戦争への道を拓くことになりかねないのである。
金融業界が果たさなければならない役割は、重大なのである。


不良債権


不良債権問題は、裏返してみると不良債務の問題である。
この点を錯覚すると不良債権問題を見誤る。

なぜならば、不良債権の根本に不良債務がある。
不良債務、即ち、回収不能な負債があるから、不良債権は発生するのである。

では不良債務とは何か。言い換えると回収不能な、あるいは回収が難しい債務とは何か。
回収が困難とは、何を意味するのか。回収が難しいというのは、返済ができなくなることを意味している。
返済できなくなる理由として、返済するために必要な収入が得られない場合と、担保が不足している事を意味している。
前者は、事業性評価主義、あるいは、収益還元主義といい、後者を担保主義という。
ただ、債務が不良化するというのは、基本的に返済が滞った時に表面化する。

要するに不良債権、不良債務というのは、資産と負債、収入と返済額の均衡が崩れた時に表面化する事であり、相対的な事である。バブル崩壊後に発生した不良債権というのは、資産価値が供促に下落した事によって負債との均衡が崩れた債権、債務であって資産価値が下落する以前は健全な債権だったのである。だから、不良債権は資産価値の動向によっては健全な債権に変わるし、健全な債権も資産価値が下落すれば不良債権に変質するのである。

また、不良債権を処理しようとした場合、不良債権の定義も問題となるのである。即ち、不良債権を定義する場合、資産価値を基礎とするか、収益力を基礎とするかによって不良債権の意味は全く違ったものになる。前提が変われば定義にも定義の持つ意味や働きにも差が生じる。
資産価値が下落している時に、担保主義をとれば、必然的に資金の調達力は弱まる。
収益還元主義に価値観を切り替えないと投資を拡大する事はできない。大体、バブルを発生させた原因の一つは、担保主義にあるのである。

その点を誤解してはならない。返済が滞ってもいないのに、資産価値が下がったから不良債権だと決めつけるのは、間違いである。
ところが日本の金融機関も行政もこの点をはき違えている。
バブル崩壊後、金融機関も行政も極端な担保主義に陥った。資産価値が急速に下落しているのだから、担保主義に囚われれば、資金は、実物市場に供給されなくなる。

不良債権問題と言うのは、裏返してみれば、不良債務の問題でもあるのである。
例えば、ゴルフの会員権を高度成長初期の頃に十万円で手に入れ、それがバブルの最盛期に三千万円になったとする。それがバブル崩壊後百万円まで下落したとして、それは、果たして損をしたと考えるのか、得をしたと考えるのか。購入した時から見れば、バブルの最盛期から見れば、三千万近くの損ともいえるが、九十万円にもうけである。しかも、当人は、別に会員権で儲けようとしているわけでもなく会員権を有効に使っているとしたら。確かに、割引現在価値から見たらどうかとかいろいろな考え方はある。しかし、現在でも使える会員権を不良債権だと決めつけるのはおかしな話である。

確かに、バブルの最盛期に借金をして別の物に投資をしたとか、相続が派生したというのなら話は別だが、それでも不良債権をただ債権の値動きだけで判断をしたら重大な過ちを犯す。

バブルの最盛期に借金をしたり、相続が派生すればそれは不良債権になるかもしれない。そうなると、なんて事はない借金と税金が不良債権を作り出しているだけである。

銀行が不良債権の回収を急ぐと資産価値が下落して市場全体の担保価値を下げる。市場全体の担保価値が下がると新たに担保割れした不良債権が派生するといった事が起こる。つまり、不良債権が不良債権を生むのである。

不良債権処理を急ぎ過ぎた結果、資産価値の下落に歯止めが利かなくなり、それが民間企業の資金力を低下させ、投資が抑制されるという悪循環に陥ったのである。それが失われた十年、二十年の主たる元凶である。

  
日本銀行協会

バブルの原因を作ったのも担保主義である。資産価値が高騰している時は、将来の資産価値の上昇を見越して過剰な投資、裏返すと過剰な借金をし、その反動で資産価値が下落すると今度は慌てて借金の回収に走る。
根本的に事業を評価する事が出来なくなってしまっているのである。それが結果的には資産市場を破綻させ、その影響が借入金、金融機関から見たら貸付金を減少させているのである。

借金の返済は、基本的に収入から為されるものであり、資産を売却して返済するというのは、遊休資産を除いて企業を清算する事が前提となるになる。
資金には、設備投資資金と運転資金がある。設備投資を裏付けるのは長期借入金であるが、運転資金は、収入を前提としてなされている。その運転資金までが、担保不足で調達できなくなれば、企業は立ちいかなくなる。
その運転資金までが担保主義に影響されるようになったために、十分な資産を持たない企業から立ちいかなくなったのである。
その間の事情は、資金が製造業から不動産業にまわされるようになったことからも覗われる。

経済を主導しているのは、事業である。事業がたちいかなくなった時、金融に頼りがちだが、そんなことをしたら本業が疎かになる。それが今日の日本が置かれている実状である。


日本銀行

バブルが崩壊してもすぐに不良債権処理がされたわけではない、不良債権処理が本格化するのは、1994年を過ぎたころで、1996年には一服つけた後1998年から2000年にかけて本格的に処理されていたのがわかる。2004年を過ぎると不良債権処理も落ちついてくるが、今度は、業務純益、資金利益の減少に苦しむ事となる。


金融庁

不良債権を生み出すのは、資産と負債の関係である。資産と負債の相対的関係である。
単に簿価と時価だけを比べたら、不良債権の構造は見えないし、不良債権の抜本的解決にはならない。
そして、簿価と時価との関係は、フローとストックの関係でもある。

日本の企業は、バブル崩壊後財務体質が強化され、内部留保を累積してきたように見る経済学者がいるが、彼等は錯覚している。目くらましにあっているのである。企業の内部体質が強化されたのではなく。企業は、資金調達を内部調達に依存し、外部調達をしなくなった、というより、できなくなったのであり。財務体質がよくなったように見えるのは、結果であって内実は必ずしも改善されたわけではない。
資本や利潤を否定したら真正の資本主義は成り立たないというのに、為政者や学者の多くは、企業が資本を蓄積したり、利潤を上げる事は悪い事だと決めつけ、やたらと競争を煽ったり、利益の還元を促す者がいる。しかし、基本的には、不良債権は、資本や利益から解消すべきものであり。企業が資本や適正な収益を上げられなくなったら不良債権を抜本的に解消する事はできない。

現代経済の最大の問題は、適正な収益を民間企業が上げられなくなったことである。その結果投資が抑制され、資金が市場に供給されなくなってきたのである。

不良債権問題は、不良債権の背後にある要因を見抜かなければ解決はできない。


支払利息と業界再編


金融機関は、バブル崩壊後深刻な事態に落ちいている。それは、実物市場に資金が回らないのである。それは、企業の支払利息に如実に表れている。バブル崩壊後、企業が支払う利息が急速に減少しているのである。つまり、資金需要が大きく減退している。
資金需要が減退している中で資金の供給を増やせば必然的に利息はさがる。経済のイロハである。

バブル崩壊後急速に企業からの支払利息は減少する。必然的に金融業界の収益も悪化していく。
問題は、なぜ、資金が実物市場に流れずに金融市場に滞留しているかなのである。
その原因を見極めずにただ資金の供給を増やせばバブルを引き起こすだけである。
本当に民間企業は資金を必要としていないのか。それとも投資をしたくても資金調達が出来ないのか。そのいずれなのかを見極める必要がある。

バブル崩壊後金融業界は大きく様変わりをしている。




融資と言うのは、借りる側にすれば借金である。借金は、将来の収入を担保することによって保証される。貸す側も借りる側も将来の収入が担保されない限り、実行されない。それは借りる側の都合だけでも貸す側の都合だけでも成り立たないのである。貸す側、借りる側双方の思惑が合致したところで成り立つ。要するに、借金が成立しないのは、貸す側と借りる側の思惑がいってしない、不適合な事だけなのである。

将来の収入は何によって得られるか。それが問題なのである。将来の収入は、一つは収益、もう一つは資産の売買益から得られる。
この二つのいずれか、あるいは二つとも期待できないから融資は実行されないのである。
例え期待通りの収益が上げられずとも資産価値がそれ以上に上昇しているのならば借金をすることは可能であろうし、資産価値が下落してもそれを上回る収益が見込まれるのならば、融資を受けられる。問題は、その期待が成り立たなくなったことにある。

支払利息が思うように得られなくなれば、金融機関の経営は成り立たなくなる。


法人企業統計

企業が支払う利息の減少は、確実に金融機関の体力を奪っている。そして、必然的に金融業界の再編を促す事につながる。

企業の支払利息の減少に沿って金融業界の再編が促されてきたようにも見える。


法人企業統計

支払利息は、金利と貸出金の積である。バブル崩壊は、金利と貸出双方に影響している。

資金需要は、決して新規投資ばかりではない。また、成長産業ばかりにあるわけではない。
逆に成長産業ではないからこそ資金需要が生じる場合があるのである。
成長産業ばかりに目を奪われると、本当に資金を必要としている産業を見落とし、本来核となるべき企業を衰退させてしまう事にもなりかねない。その点を見抜くのが金融の仕事である。目先の利益や担保ばかりに気をとられていたら、将来の確かな収入を見落としてしまう。
大切なのは、将来に対して確かな構想を持ち合わせているかなのである。

かつて、自動車産業を創業し、鉄道事業を興し、家電業界を育成した先日たちには確固たる構想があったのである。だからこそ進取の精神をもって投資をする事が出来た。目先の金もうけに走ったら今日の日本はなかった。大切なのは志を持つ事である。
どういう世の中、どういう社会、どの様な国にするのかその志がなければ、まともな投資はできない。

少子高齢化が叫ばれ、多くの基幹産業がコモディティ化をして構造不況産業となった今日、その構造をどう変えるか、そのために何に資金を投じるかその判断が求められているのである。
今、投資すべき対象を間違う事は、百年にわたり禍根を残す事になる。今こそ、国家百年の計が必要とされているのである。

低金利の問題点



今日の金融機関の状態の根本原因には低金利がある。
なぜ、金利は下がったのか。借り入れの需要が減少したからである。

まず第一に確認しなければならないのは、銀行の本源的収益は金利収入だと言う点である。
つまり、銀行は、金利で主たる収益を稼いでいるのである。
注意しなければならないのは、ここでいう金利というのは、利息を指していて元本は含んでいないと言う点である。
ただ、借り手の側にしてみれば、返済額は、元本も含まれているので、銀行は、元本も含めて収益としているように錯覚しがちである。しかし、銀行の収益には、元本は含まれていないのである。この点を注意しなければならない。

では、銀行の顧客である借り手は、何によって金利を支払っているかである。
それは、基本的には、収入、つまり、所得から払っているのである。
つまり、借り手は所得の範囲内で金利を支払うのが基本である。所得を金利が上回るようになったら借り手は、手持ちの資金を換金するか新たな借金をするか、つまり、借金の借り換えをする以外にないのである。この場合、金利分が上乗せになるために、負債の増加を招くことになる。
ここで注意しなければならないのは、借り手側からすると金利だけを支払っているわけではなく、元本部分も返済額の中に入れなければならないから金利プラス元本の返済部分という事になる。つまり、元本の返済部分と金利を足しただけの資金が調達できなければ、資金繰りができなくなり破産という事になる。

故に、所得に借入金の返済額が占める割合には限界がある。借り手は、借金の返済だけをしていればいいという訳にはいかないのである。生活するにせよ、財を生産するにせよいくばくかの費用が掛かる。その費用を所得の中から賄えなければ生活ができなくなる。それが破産である。
さらに、所得の伸び率と物価の上昇率とは相互に影響をしあい、必然的に借入金には、制限がかかる。

有利子負債とは、借入金である。借入金の返済額は、基本的に月々の収入の範囲内に抑える必要がある。つまり、負債の総額は、平均月額と平均返済額の積で求められるから、上限は、所得によって制約を受ける。
経常消費に向けられる支出は、蓄えの取り崩しや臨時収入を除くと単位所得から借入金の返済額を引いた範囲内でなければならない。

インフレーションの場合、所得も拡大している。その為に、借金の返済負担は軽減される。ただし、所得の拡大以上に借金の返済額が拡大したら可処分所得は縮小する。
デフレーションになると所得も縮小する。物価が低下するとしても借金の返済額は下方硬直的な性格があるために、支出は厳しく制限されるようになる。さらに、資産価値の低下している場合、担保力も圧縮されるために、借金にも制約されるようになる。仮に担保価値を資産価値が下回るようになると資金の回収圧力が強まる事となる。

返済額の総枠は、元本と利息の和である。また、年間返済額の平均値と返済期間(年)の積である。
総所得は、生産人口と単位当たり平均所得の積である。
所得は、金利収入や地代・家賃収入、補助金、、配当収入、年金などが含まれる。
消費の総量は、総人口と単位当たり消費との積である。
問題となるのは、所得の総量が生産人口に基づいているのに対して、消費の総量は総人口に基づいている点である。
そして、分配の効率を定めるのは、所得と消費の分散である。

所得が横ばい、あるいは、減少していて担保価値が圧縮される状態では、経済主体は外部から資金を調達(借入)が困難になる。そのような経済主体は、内部から資金を調達するようになる。内部から資金を調達する手段には二つあり、一つは、支出を削減する事であり、もう一つは、手持ち資産を取り崩して換金する事である。バブル後の日本の企業や家計が落ちいたのがこの状態である。

金融機関の決算書は、一般民間企業とは異質である。ある意味で市場経済の状態を映し出す鏡である。
一般企業では預金は資産に計上されるが金融機関では負債である。この点が金融機関の性格を端的に表している。
資産の効率は、預貸率によって測られる。この預貸率が極めて悪い。
預金ばかり集まって優良な貸付先が見いだせないのである。

民間企業は、見かけ上財務体質は改善されかのように見えるが、実質は、資金調達の道が閉ざされ、収益を負債の返済に向けざるを得ない状況にある。含み益が枯渇し、新たな投資に向ける余力が残されていないのである。財務体質は、企業が望んで強化されたのではなく。結果的に強化されたのである。しかも見せかけである。その結果、企業は資金余剰主体となり、財政が赤字主体となったのである。


ゼロ金利・マイナス金利


1998年(平成10年)、日本ではバブル崩壊後最悪の経済状況となる中で、大規模な財政政策が取られた。金融政策においても緩和が求められることになり、1999年(平成11年)2月、日本銀行は短期金利の指標である無担保コール翌日物金利を史上最低の0.15 %に誘導することを決定した。



国民経済計算書



日本銀行がゼロ金利政策を採用することになったのは、大蔵省が資金運用部による長期国債の買い入れの中止を発表した結果、国債金利が跳ね上がったためとされている。

2000年(平成12年)のITバブル景気を機に一時解除されるが、2001年(平成13年)のITバブル崩壊を機に事実上復活。2006年(平成18年)に景気回復を理由に再び解除となるが、2008年(平成20年)12月の世界金融危機と米国のゼロ金利導入を機に、同年12月19日に日銀が無担保コール翌日物金利の誘導目標を0.1 %に設定することを決定。いったんは解除したゼロ金利政策を再び実施する方向へと舵を切りなおした。(Wikipedia)

ゼロ金利と言うのは、異常な事なのである。況や、マイナス金利は、更に異常である。この点を明確にしておく必要がある。ゼロ金利という異常な事態が2018年現在20年近くも続いているという事である。20年近くも続くとその異常な事態が異常な事態だという認識が薄れ。それを前提として将来の予測や計画を立てるようになる。それこそが一番危険な事なのである。異常な事は、異常である事を前提として対処すべきであり、それを正常な事とするならば、それ相応の根拠と異常な事を正常とする事によって生じる問題点に対処する必要がある。

ゼロ金利は、時間価値を消失させることである。
金利は、あらゆる分野から目の仇にされてきた。ゼロ金利によって金利は、事実上機能しなくなってしまった。そして、金利が機能しなくなったことによっていろいろな障害が発生し、それによって金利の働きが改めて見直される事となった。
金利が働かなくなったことによって生じたのは、時間価値の消失である。

現実の市場では、マイナス金利と言うのは成り立たない。マイナス金利が成り立つのは、金融制度上だけである。金融制度と言う強権的な制度があって強制されるから成り立つのであって、市場取引では成り立たない。
マイナス金利が成り立たないのは、金利は貨幣的を基として成り立っているのであり、貨幣は、名目的存在であり、尺度だからである。
「お金」は、それ自体価値を持たない。「お金」は対象となる財があって成り立っている。財を計るための尺度である。「お金」には、本来色がないのである。
そして、金利と言うのは、金利を課すのであって恣意的な行為である。
金利は時間の関数であり、二時点間の財の貨幣価値の差と考える事もできなくはないが、それはあくまでも経済学者の理論上の事で、実際的、実務的ではない。なぜならば、現実に「お金」を貸し借りする人の間では、金利をマイナスにする動機がないからである。税金にマイナスがないのと同じである。

金利と言うのは、本来、地代・家賃、配当、利益等と性格を同じくするものである。つまり、付加価値を形成する要素の一つである。
金利とは、「お金」の賃料みたいなものである。逆にいえば、マイナス金利は、「お金」、預かり料、保管料みたいなものと言えなくもない。しかし、いずれにしても本来マイナス金利と言うのは成り立たない。注意しなければならないのは、ここでいうマイナス金利とは、預金金利の事である。
第一に、いくら金利をマイナスにしても「お金」の使い道がなければ「お金」を借りる者はいないのである。

ゼロ金利、マイナス金利は、時間軸が機能しなくなとっている事を意味する。時間軸が機能しないというのは、時間価値が消滅した事を意味し、歴史的に見ても異常な事態である。

正常に戻すためには、時間軸の機能を回復しなければならないが、時間軸の機能を正常化する、即ち、時間価値の働きを回復する事は、金利を上げるしかない。金利を上げて時間価値の働きを回復させるという事は、物価や地代、家賃、それに諸々の費用の上昇を招く。また、所得や利益の上昇にもつながらなければならない。なぜならば、時間価値の働きは、付加価値を増加させることによってもたらされるからである。

利益が伴わない収益の増加は、かえって可処分所得を圧縮してしまう。つまりは、付加価値の増加には結びつかないのである。
絶対額を増やす事ではなく、一定の利益率を保ちながら全体の配分を増やす事なのである。

経済状況と金融の問題は、表裏一体である。経済の状態は、金融に、金融の状態は経済に反映している。
金融の重要な働きに時間価値の管理がある。時間価値の制御の手段として従来は、金利が一般的であった。しかし、ゼロ金利時代に突入した事で金利を操作する事はできなくなった。公定歩合が廃れてから久しい。この事は、今日の金融事情を象徴している。

2013年に黒田東彦が日銀総裁に就任した時から「異次元の金融緩和政策」が始まった。
「異次元の金融緩和」政策の一番の問題点は、出口戦略が見えてこない、あいまいな事である。
「異次元の金融緩和」とは、デフレーションが景気停滞の主原因だから、まず、デフレーションを脱却する事に力を注ぎ、デフレーションを脱出した後でその他の施策をとるべきだという考え方に基づいている。
その為には、中央銀行が国債を引き受けまた、量的緩和をすることによって資金を潤沢に市場に供給し、金利を限りなくゼロに近づける事で資金需要を喚起する。

年率で二%の物価上昇をターゲットとすると公約を掲げていたが、公約を先送りしつつほぼ実現は難しいという事である。表面的には、景気の向上しているように見えるが、高度成長期とは内実が違うという点を見逃してはならない。

忘れてはならないのは、デフレーションは結果であって原因ではない。単純にデフレーションの原因が市場の流通する資金の量少ない事に起因しているというのなら市場に対する資金の量を増やせば、物価は上昇するだろう。しかし、それほど単純な事なのであろうか。
デフレーションの根本原因の一つに経済の成熟がある。経済が成熟するにしたがって市場が過飽和になり、生産財の増加分を吸収する余力がなくなりつつあるという事である。
それなのに、生産力、供給力を抑制せずに、強引に市場に押し込もうとしている。要は、満腹しているというのに、無理やり食事を押し込もうとしているのである。お腹がすいている時は、何を食べてもおいしいと思うものだが、満腹した状態では、どんな豪華の食事を見せられても食欲はわかないのである。
次に考えられるのは、資産価値と負債との均衡が崩れた事である。バブルによって急速に膨らんだ資産価値、そして、資産価値の膨張に伴って膨れ上がった負債が、バブルの崩壊によって均衡を失ったのである。資産価値は、実質価値であるから市場価値によって決まるのに対して負債は、名目的価値であるから、額面は減らない。その溝が塞がらないと景気の均衡は取り戻せないのである。
第三点は、資金の流れる道筋が変わったという事である。資金が実物市場に流れなくなり、金融市場や資本市場に滞留する事で、投機的資金の働きを抑制できない。また、格差も拡大している。

これらの問題を解決しなければ、デフレーションは、収束しない。無理やりデフレーションを抑え込もうとすれば景気は、反転暴走して、制御不可能になってハイパーインフレーションを引き起こしかねないのである。

最悪の事態を回避しながら、時間の働きを正常に戻すためには、今の状態で時間価値が機能し始めたら、どの様な状態になるのかを想定する必要がある。

物価の上昇、金利の上昇の兆しが見え始めると長期金利の上昇が始まる。長期金利の上昇は、国際価格の下落を意味する。国際価格が下落すれば、国債を大量に所有する中央銀行の資産価値が既存する事になる。半面、長期金利上昇に従って財政の負担も増す事になる。
もう一つ懸念されるのが長期金利の上昇を招くような金利政策が制約を売れると言う点であり、景気が過熱してきた時に、景気の過熱を抑制する為の手段として金利が使えなくなると言う点である。つまり、ブレーキの利かない車で高速道路を走るような状態に陥る事である。

この様な状態では、財政政策が制約を受け、年金制度や社会保険制度が機能しなくなる危険性がある。

資産価値の上昇に見合う所得の上昇がなければ経済の均衡は保てない。資産価値の上昇が所得の上昇に結び付くかがカギを握っている。所得の上昇に結び付かない資産価値の上昇は、バブルを引き起こすだけである。

いくら金利を下げても、資金を過剰に市場に供給したとしても、企業が、資金を調達できる環境、企業の資金調達力や収益力を高めない限り、企業が外部から資金を調達して投資をしようという意欲はわかない。
実物市場に資金が流れない環境状況が問題なのであり、その点を改善しない限り低金利とか余剰資金だけが取り残される事となる。そして、低金利や余剰資金の副作用に苦しめられるだけなのである。
小手先の対策ではなく。国家構想や国家戦略に基づいた施策が求められているのである。

根底にある経済の構造的変化、質の変化を見極めないと抜本的に解決は望めない。

適正な収益があげられるような施策をとる事とゼロ金利、マイナス金利政策をとる事とどちらの方が弊害が大きいかを考えてみるべきなのである。
適正な収益、利益が上げられる構造に市場をする事は、時間価値を維持する事を意味するのである。時間価値を喪失したら市場経済は成り立たなくなるのである。なぜなら、経済的価値は時間の関数だからである。

また、現在は、世界経済は、金融によって関連付けられている。ゼロ金利政策を検証する場合、この点を忘れてはならない。この事は、我が国のゼロ金利政策は、他の国に潜在的な脅威を与え続けている事になる。我が国のゼロ金利政策が硬直的なものになると我が国が意図せずとも他国の経済政策や金融政策に対する制約となるのである。それは世界経済の安定を損なう事になる。

為替政策や金融政策、財政に頼った対策には限界があるのは明らかである。
経済の環境状況が変わったらそれに合わせて市場の構造を変える必要があるのである。


時間価値の喪失


経済において重要な役割を果たしているのは、時間の働きである。
時間の働きは、複利的、幾何級数的な働きである。複利的、幾何級数的な働きがある以上、指数によって表現される。指数の性格が重要な要素となる。

指数は、全体が1以下ならば、収束するが、全体が1を超えると発散する。全体が1ならば変わらない。何を基準とし、何を全体とするかが鍵を握っている。

我々は、バブル崩壊後の金利の低下に気をとられて原因を金利の低下に求めがちだが、金利だけが低下しているわけではない。
しかし、経済の停滞は、バブル崩壊以前から始まっていた。バブルの形成と崩壊は、一つの過程に過ぎない。経済の停滞の原因は、高度成長の終焉にある。成長を前提とした経済が成り立たなくなったのである。

金利だけでなく、営業利益や物価、所得と言った時間価値を形成してきた要素が失われてきたことが問題なのである。
つまり、時間の働きが経済に機能しなくなったことが経済を停滞させている最大の要因なのである。
それは、オイルショック以前に始まっていると言える。

時間価値を創出するような仕組みに変えていかない限り、今日の状況は打開できない。
状況を打開できずに、市場は、内側に押し潰されていく。




金利は、費用、地代、税、利益など同様、悪役にされてきた。金利をとる事は不道徳だというのである。なぜ、金利が不道徳化と言うと、金利は、何らかの対価として支払われるのではなく、お金そのものに課せられるというのである。つまり、交換されるべき実体である用役や生産財がないとされるのである。つまり、金利は虚構だというのである。

その為に、金利は、古来、いろいろな分野から嫌われてきた。
道徳的にも、宗教的にも、商売の上でも、権力者からも嫌われてきた。
現代でも、イスラム教では原則禁じられている。
金融業者が金貸しと嫌われ、卑しめられたのも金利があるからと言える。

しかし、今日の市場経済を支え続けてきたのも金利なのである。金利は虚構ではない。金利には金利固有の働きがある。
その点を忘れては現代経済は語れない。金利の持つ働きを理解しないと適正な金利を設定する事はできない。
きんりの働きで最も重要なのは、金利は時間価値を構成すると言う点である。つまり、金利は付加価値を構成する要素の一つなのである。

現在、我々は金利を忘れている。長い期間、ゼロ金利時代が続き、今やマイナス金利時代が到来するかとすら思われている。
金利によって成り立ってきた仕組みが音を立てて崩れ去っていこうとしている事に気が付いていない。

これまで、金利の負の部分ばかりに焦点が当てられてきた。
しかし、費用や利益があるから市場経済は成り立っているのである。
費用は、最終的には人件費、所得に還元される。
費用こそ分配を担う支出なのである。
費用を否定したら市場経済は成り立たない。

金利生活者というのが成り立たなくなった。
資産や預金があれは、家賃収入や金利で働かなくても収入を得る事が出来た。
しかし、低金利、ゼロ金利が一般化した今日、金利だけで生活をするという事は出来なくなっている。
そうなると高齢者は年金を頼るしかなくなったのである。
年金は公的な資金である。公的資金では、個人の裁量の余地はない。

もう一つ重要なのは、利息は、時間価値を形成しているという点である。
金利が低下すれば、利益も、物価も、所得も、税収も減少する。金利、地代、家賃、利益、物価などは時間価値を構成するからである。
時間価値を生み出すのは付加価値である。金利は付加価値の一種である。
時間価値が失われている。
時間価値は、金利、物価、利益、配当等によって定まる。
金利がゼロになれば時間価値は喪失されてしまう。

収益に還元されることによって社会的恒産は増えるのである。単純な所得の再配分では、社会的恒産は増えない。
例えば、高齢者の交通費を無料にしても社会的恒産は増えないのである。
年金も公的資金を給付したものである。年金からは、社会的恒産は増えないのである。

なぜ、収益が上がらないのか。なぜ、投資が行われないのか。なぜ、経営に行き詰まるのか。それは銀行だけの問題ではない。多くの製造業、特に基幹産業と考えられていた産業が次々と構造不況業種に堕していく。それは、正当な利益が上げられなくなってきたことが原因なのである。

根本的に利益や金利を罪悪視する思想が隠されているように思える。

金融機関は、時間価値を管理しているともいえる。



現代の金融機関の問題点



現代の金融機関の問題点を明らかにするためには、市場経済における金融の役割を再確認する必要がある。
金融の役割は、第一に、資金の過不足を補う事である。第二に、資金循環を促す事である。第三に、市場に資金の供給と回収を通して資金の流通量を調節する事である。第四に長期的資金と短期的資金を区分することである。第五に、余剰資金の貯蓄である。第六に、信用の創造。第七に、資金の分配。第八に、取引の決済である。
現代の市場経済の一番の問題は、実物市場に資金が流れず、金融市場に資金が滞留している事である。そして、それが金融本来の働きを著しく歪めている。それがすべても病巣だと言っても過言ではない。
ではなぜ、実物市場に資金が循環しなくなったのか。その背景には、第一に、バブル崩壊による資源価値の下落がある。次に、円高や過当競争による収益の悪化である。第三に、ゼロ金利によって時間価値が喪失し、それまで市場を動かしてきたロジックが通用しなくなった。

企業の資金調達の手段は、外部機関からの融資や投資によるものと収益によるもの、費用を削減したり、遊休資産を売却するなどの内部調達の三つがある。資産価値の下落によって金融機関からの資金調達に限界が生じたところに、規制緩和によって過当競争になり、収益が悪化した。そのために、企業は、費用を削減し、遊休資産を売却し、あるいは、投資を控えて過去の償却費を収益の不足に充てたのである。その結果、雇用の悪化、個人所得の減少、税収の減少として家計と財政を直撃した。
この様な阻害要因によって実物市場への資金のパイプが閉められ実物市場に資金が流れなくなったのである。
資金が実物市場に還流しなくなったことで資金の適正な分配を促し、資金の過不足を補うという機能を阻害されている。
また、ゼロ金利による時間価値の喪失は、企業の長期的な収益予測を立てにくくしている。そして、金融機関は、金利に基づく営業が困難になってきた。

この様な事態を背景にして金融機関は集約化されてきた。民間企業はますます選択肢の幅が狭められてきたのである。

民間企業、全産業の支払利息の動向を見ると現在の金融機関の問題点は一目瞭然である。
企業から支払われる金利がバブル崩壊後極端に減っているのである。

  
法人企業統計

支払金利が人件費、支払金利、減価償却費の和と比較しても60年代には、2.8%と2%を割り込むレベルまで落ち込んでいる。これでは、本来の利息収益で経営が賄えるわけがないのである。
単純にこれは、ゼロ金利だからと割り切れない。資金需要がないところにいくら資金を供給しても資金は流れないのである。問題は、資金需要が枯渇した事なのである。
満腹な人間に吐かせまで食事をさせようというのは乱暴な話である。料理を食べさせたかったら、空腹にして、食欲が湧くようにしなければならないのである。


法人企業統計 全産業

問題は、なぜ、設備投資に対する資金需要が起こらないかである。


日本銀行

バブル崩壊後、設備資金への貸出は、なだらかに上昇しているのに対して貸出金の残高は、92年以降急速に増やしており、その後下げに転じている。
問題が深刻なのは、設備投資はなだらかなりに上昇しているというのに、総貸付残高が減少しているという事である。要は基本的な貸付資金が回っていないという事なのである。

適正な収益を上げ、収益から費用を支払い、投資を回収するというのは、資本主義の鉄則である。それは、金融業界も同じである。
では、適正な収益とは何か、それは適正な費用を支払うった上で、適度な利益を上げられるだけの売上である。原価を割ってまで安く売る事が適正な収益ではない。かといって法外に高く売りことも適正な収益でもない。
何を適正の収益とし、何を適正な利益とするかは、費用によって決まる。そして、費用は、支出の根拠であり、支出は所得の元である。この関係を理解しないと何が適正なのかを明らかにすることはできない。

今の経済の問題点は、市場が荒廃し、適正な収益が上げられなくなっている事なのである。



金融業界の目指すべきところ


物つくりから金融へと経済が変わると思い込んでいる学者や評論家が結構いる。しかし、それはとんでもない誤解である。金融工学とか、梃を利かす、または、フェッジファンドと言うのは、あくまでも副次的に派生した分野であり、それはそれで重要な役割をしているのは、確かであるが、かといって主役の座を奪うまでなっているわけではない。
金融機関ですら、本業が上手いかなくなって仕方なく、負債を活用する様な事をしているが、逆に、梃を効かせれば効かせるほど金利は抑圧されるようになる。
産業というのは、ただ物造りと言うだけでなく。雇用や所得という面からも見る必要がある。また、資金の流れと言う側面からも検討しなければならない。

科学技術は、人々を苦役から解放する目的で発達してきたはずである。それがいつの間にか、人々から働く場や機械を奪い取ろうとしている。
付加価値、付加価値と言うが特殊な技能や能力、知識を必要とする仕事しか残されていなければ、人々から働く機会を奪っているのに過ぎない。それは、金融業界にも言える。
金融機関と言うのは、本来、「お金」を融通する事によって成り立ってきた。処が今は現代の錬金術者、魔術者の如く「お金」を操る事で利益を得ようとしている。

短期的な利益を求めてゼロ金利、低金利時代にレバレッジを効かせたり、地価を煽ったり、無暗に財政を出動させる事は、かえって金融機関の収益穂を悪くし、金利を抑圧する事にもなる。
目先の利益を合うのではなく、長期的な展望に立った投資が必要なのである。

金融業界最大の問題点は、金融業界が金融本来の役割を見失っている事である。
その際たるものは、金利の問題である。金利は、金融業界の収益の源である。その収益源が異常な状態に置かれている。それも長期にわたってである。その為に金融業界は、その存在基盤すら危うくされている。

ゼロ金利と言うのは異常な事である。ゼロ金利と言う異常事態によって最も影響を受けるのは金融機関である。
ゼロ金利によってどのような影響が、金融のどこに出るのかを明確にしておく必要がある。
ゼロ金利の状態では、金融業界は、まともな収益を上げる事はできない。
また、利息は、時間価値を生み出す。その時間価値も失われてしまった。だから、ゼロ金利と言うのは、経済に時間の働きが失われた事を意味するのである。経済変動は時間の関数であり、時間価値が回復しない限り経済は成長しない。また、時間価値が働かないと経済の健全な発展は保障されない。

金利以外、もう一つ重要な事は、資金需要である。なぜ資金需要が失われたのか。本当に企業は、「お金」を必要としていないのか。
金融本来の働きは、資金の過不足を補い「お金」の働きを有効にする事である。金融業界は、「お金」を必要なところに余剰となった「お金」を回す事で成り立ってきた。ところがいつの頃からか「お金」が不足している所から「お金」を吸い上げ、「お金」が余っているところに「お金」を回そうとするようになった。
それは、市場が過飽和になり、企業が思うような収益が上げられなくなった頃か、円高になって本業の収益力が低下した時か、バブルになって資産価値が高騰した時か、いつとはわからない。ただ、徐々に徐々に金融の質が変わってきたことは確かだ。
かつての銀行員の印象は、謹厳実直で融通の利かない堅物という印象だった。それがいつの間にか投機に手を出すようになり、やくざまがいの人間にまで浸食されてしまった。

一体だれが本当に「お金」を必要としているのか。それが本来、銀行員に求められる事なのである。

かつては、人々共に産業を起こし、生活を豊かにするために、どぶ板をはい回って仕事をしていた銀行員が多くいた。今は一獲千金を夢見て博打に精を出している。

我が国を一体どのような国にしたのか。少子高齢化が言われて久しい。ただその弊害ばかりが言われて前向きに取り組もうという姿勢が見受けられない。東日本大震災では多くの人が犠牲になった。二度と同じような惨禍を起こさないためにはどうすべきなのか。温暖化が叫ばれ、環境をいかに保護していくかが問われている。戦後の食料難から一転して飽食の時代と言われるようになった。しかし、マグロやウナギなどの漁獲量が年々減っていて、絶滅すら危惧されるようになってきた。我々は、貴重な資源を無駄使いし、次の世代にまた飢餓をもたらそうとしているのか。何に対して資金を投入するのか。それによって我々の未来は決まるのである。金融を司る者は、高い使命感と志を持たなければならない。

需要がないところに、いくら資金を供給しても資金は、投資には回らない。貸先を失った資金は、金融市場に滞留して無理やり利益を上げようとする。
要するに、流動性が失われつつあるのである。資金が実物市場に流れてこないのである。それを改善しない限り、金融は本来の役割を果たす事はできない。

いくら金融工学が発達しても実物市場には還元されない。それはトリックであって虚構である。

金融最大の役割は、余った「お金」を集めて「お金」を必要としている人に融通する事なのである。
我々は、何を必要とし、どの様な社会を作ろうとしているのか。「お金」を必要としている人に「お金」が配分され。必要とされている物に「お金」が支払われているか。それが本来のあるべき姿なのである。
人々が本当に必要としている物に価値が付き、適正な価格で市場に出回っているか。それを制御するのが金融本来の仕事である。

金利は、悪いという思想が世の中には牢固としてある。金利が悪いとするのは、キリスト教にも、イスラム教にも、ユダヤ教にもある。共産主義にもある。武士道にもある。金利と言うのは、悪い働きがあるという思想は、社会に深く浸透している。思想と言うより、信仰に近い。
金利が悪いという根拠は金利は労働によらない体と言うのが一般的である。「お金」が「お金」を産むから悪い。つまり、浮利だというのである。今一つは高利貸のイメージである。不当に高い利息で貧しい人を困らせる。「お金」の持つ負の印象からも来る。

しかし、今日、金利の働き、「お金」の働きの重要性は広く認知されている。「お金」を悪用するから悪いのであって金利や「お金」が悪いわけではない事が浸透してきたのである。
まず「お金」の働きを正しく理解する事である。そして、「お金」を働きを効率的に働かせるそれが金融の仕事である。ところが「お金」の働きを有効に引き出していない。それが問題なのである。

いかにして金融を制御するのか。それが一番肝心なのである。銀行同士を競争させるべきだというのは、何を根拠としているのか。何を言いたいのか。求めているのか。金融の役割を見ようとしないで金融は悪だと決めつけるのは、稚拙である。
バブル以後、金融を語る時、護送船団方式は悪かったと決めつけているが、金融自由化がされてから四半世紀経とうとしている今日、護送船団方式のどこが、なぜ、どう悪かったのかを検証すべきなのである。少なくとも金融の寡占化が進み、本業が成り立たなくなりつつある今日の方が護送船団方式当時と比べてどうよくなったのかも併せて対比すべきなのである。何事も、オール・オア・ナッシングすぎやしないだろうか。

必要もなく、お金が市場に供給され、それが大量しているのも危険な事である。「お金」は、物の価値を定める。「お金」が物の価値を決めるのは、「お金」の流量である。なぜならば、「お金」は値だからである。値は量によって決まる。必要以上に量が流れれば、値は高騰するのである。
現在、必要以上の「お金」が金融機関に蓄えられている。これが問題である。

少子高齢化が叫ばれ、住宅があまり、人口流失が問題化している時に、高層マンションの建設資金を融通し、資産バブルを煽るのは、金融本来の姿を逸脱している。その結果、バブルがはじけて悲惨な思いをするのは、経済的弱者なのである。

金融機関が目指すべきところは、通貨を制御して適正な価格を維持し産業保護育成する事にある。そして、人々の生活を守る事にあるのである。
金融機関は、原点に立ち返り、その本来の役割を取り戻す以外、逼塞した状態を脱出する事はできない。

経済は、生きるための活動である。
経済の目的は、人々に生き甲斐、生きる目的を与え自己実現をさせる事である。
その為に、国家、国民を豊かで幸せにする事である。

国家、国民を豊かで幸せにする事は、他の国や民族の犠牲の上に成り立つ事ではない。
なぜなら、特定の国や民族、勢力が資源を独占しようとすれば必ず争いとなり、凄惨な状態を世界にもたらしてきたからである。
人々が助け合い、分かち合う事でしか実現できない。それが神の意志である。
人々は、冷徹な目をもって現実を受け入れそして万民の幸せを願わない限り、人間の犯す罪に対する罰から逃れる事はできないのである。
神の力を手に入れたとしても神になれるわけではない。神の力を制御する強い心を鍛えなければ、神の力はそれを持つ者に対してをもたらし、やがては破滅させてしまう。

神は、今ここに居られて、じっと我々を見ている。
神は自らを助ける者を助ける。



       

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