経済の現状

日本経済の現状について

物  価


日本の物価は長い間右肩上がりだった


バブルが弾ける迄は、人々は、何んでもかんでも右肩上がりなのが普通だと思い込んでいた。年とともに売上も上がり、所得も上がる、地価も、物価も上がり続ける。給料も地位も年功序列、終身雇用が当たり前だと考えられていた時代は、右肩上がりに上がる。減らされるとか、削られるなんて考えてもみなかった。だから借金をしても借金の負担は年々減っていくと考えられていた。
ところが世の中というのは、そうは甘くない。バブルが崩壊したころから怪しくなり、給料は増えるどころか、横ばいになり、一定の年齢を過ぎると減り始める。定年退職を迎えると減らされるどころか退職金をもらった後はなくなってしまう。一見右肩上がりに見える事も実質は右肩下がりだったりする。そうなると年金生活になる。
考えてみれば、右肩上がりだと思っている事の方がおかしい。人は、歳をとり衰える。若い時の様にはいかないし、若い者にかなわなくなる。そうなると若い連中より、何倍も多く給料をとるという訳にはいかなくなる。むろん、支出も子育てが終われば随分と楽にはなるが、年金だけで生活していくというのは不安が残る。かといって定年後の勤め口など限られている。何より自尊心が邪魔をする。
経済も成長だけが全てなのではなく、成熟し、衰える時もある。その時、その状況にうまく折り合いをつけていくのが人生本来の姿である。時間は、残酷なのである。変易、不易、易簡。変わるものもあれば、変わらないものもある。人の一生は、唯一で不可逆なのである。その瞬間瞬間を一所懸命に生きていくしかない。

物価は、人々の生活に直結している。物価のメカニズムを理解しないと人々の生活は維持できない。

今の経済を動かしているのは、「お金」の都合であって、人や物の都合ではない。物価も御多分に漏れない。ハイパーインフレーションやデフレーション、恐慌といった現象も「お金」の振る舞いによって引き起こされている。ただ、経済の実体は、本来、人と物にある。経済の実体は、生きるための活動なのである。
この点をよくよく理解しないと今日の経済の課題は見えてこない。

日本は、高度成長期から始まって長い間右肩上がりの成長を続けてきた。それに伴って消費者物価指数の前年比も、プラスの値を続けてきた。それがバブル崩壊後、失われた10年、20年といわれ長いデフレーションに苦しまされている。
消費者物価指数を代表する指数は一つではない。その中で一般に消費者物価指数と言われる指数は、「総合」、「コア指数」、「コアコア指数」の三つがある。「コア指数」は、総合から天候や作柄に左右されやすい生鮮食料品を除いた指数をいい、更に、原油価格の乱高下の影響を受けやすいエネルギー価格を除いた指数が「コアコア指数」である。




日本がデフレに陥ったのは、1998年コア指数がマイナスになった時からと考えられる。

バブルが崩壊するまで日本人は、物価は右肩上がりに上がるものだと思い込んでいた。物価だけでなく、地価も、所得も右肩上がりに上がっていく。そう信じていた。それが土地神話となってバブルの伏線になる。
ただ、なんとなく物価は、未来永劫上がり続けると勝手に決めつけ、それを前提にして人生設計をしてい。日本人の幻想は、バブル崩壊とともに消え失せ、人生設計そのものを見直さざるをえなくなった。ただ、人生設計の基盤を見直さなければならなくなったと言っても過去の負の部分は、負として認識しなければ、新しい出発はできないのである。負が悪いのではなく、負を負として認識できない事が悪いのである。

大体、何でもかんでも右肩上がりだというのも思い込みに過ぎない。
右肩上がりと言っても、何でもかんでも値上がりをし続けてきたわけではない。
商品によっては単価が上がるものもあれば下がる物もある。物価と言っても価格は一様に動いているわけではない。
テレビやビデオの様な家電製品や自動車、パソコン等は、技術革新とともに値が下がる。だから、かつては手の届かなかった高級品も手に入れる事が出来るようになり、借金の技術の発展によって憧れのマイホームも夢ではなくなった。

物価の変化を一般に実感されるのは、生活必需品や消耗品においてであろう。
皆は、物価が上がったとか、下がったとか一喜一憂するが、物価の実体をわかっているわけではない。
大体、物価の実体なんて統計的問題なのだからである。
どこかで誰か、自分とは何の縁もゆかりも関りもない者が勝手計算して導き出した数値に踊らされているのである。
物価の変動が重要だというのならは、物価の本性、計算方法ぐらい理解しておく必要がある。


 
総務省統計局    年度



デフレーションせよ、インフレーションにせよ、結果に過ぎない。肝心なのは、現象の背後に隠されている構造であり、原因である。現象を引き起こしている仕組みを理解しないと対策も立てられない。
現在日本のデフレーションの原因は、地価の下落と過当競争による収益力の低下にある。単純に表に現れた現象ばかりを追い求めていたら経済の本質を理解することはできない。正しい対策も講じられない。


国民経済計算書

バブル崩壊後、経済は、長期低迷に入り「失われた十年」、「失われた二十年」と言われ続けたが三十年近くなっても一向に改善の兆しも見えない。その間、ゼロ金利、金融緩和、異次元の金融緩和といろいろと対策が講じられたが効果が全くと言って現れてこない。
なぜ、経済は、長期低迷から抜け出せないでいるのか。それは、資金が実物市場に回っていないからである。

国内の主要銀行の総資産の構成を見ても貸出金は、横這い状態であり、有価証券は若干上昇しているのに対して預け金だけが増加している。預け金は、日本銀行当座預金に相当すると思われる。

国内主要銀行の資産の推移

日本銀行協会

貸付金が増えていないという事は、資金が市場に出回っていない事を意味する。
また、日本銀行の負債の状況を見ても発行銀行券の残高は、微増であるのに対して、当座預金が急激に拡大している。
つまり、市中銀行の貸付金も発行銀行券も伸びていない、それだけ資金が市中に出回っていないのである。
2017年時点で300兆円近い資金が日本銀行の当座預金に積み上がっているとみていい。

いくら国債を発行して資金を市場に供給しても民間企業の資金の調達力が減退していたら市場に資金は還流しない。
民間企業の資金の調達力は、収益力と担保力である。担保力とは、資産の含み益、特に、地価に依存している。
過当競争によって収益力が低下し、地価の下落によって担保力が低下している民間企業は、資金を金融機関から調達して投資に回す余力がない。

不動産市場が縮小均衡状態にある時、行政や金融機関が担保主義をとれば、企業の資金調達力は低下し、市場への資金の供給力は締まる。この様な明白な原則すら守られなかった。その為に、資金の調達力は極限まで低下したのである。バブルを引き起こしたのも担保主義ならば、バブルを崩壊させたのも担保主義である。

景気回復策として賃金を上げるよう政治的な圧力を加えようとする勢力がいるが、単純に賃上げだけをしても個人所得が上昇するだけで、かえって財政や企業収支を圧迫するだけに終わる危険性がある。市場に資金を供給するためには、投資が行われなければならないが、公共投資に依存したくても現在の財政状態では、国債に依存した投資である限り、資金は、金融機関にとどまり市中に還流できない。それはストック、支払準備を増加させるだけで将来の物価上昇を準備する事になる。
所得の上昇が民間の健全な設備投資に回された時のみ、資金は、実物市場に還流する。ただ、その為には、民間企業の資金調達力を高め、同時に、健全な収益が上がるような市場環境を整備する事が前提となる。単純な規制緩和では物事は解決できない。収益を重視するならば規制緩和ではなく、市場の規律を重んじるべきなのである。むろんこれも絶対ではない。市場の状態、経済的経緯などの前提条件を見極めたうえで判断すべき事なのである。

いくら賃金を上げても収益が見込めなければ、民間企業は投資に資金を廻さない。民間企業が投資を控える最大の理由は、収益が見込めない事と資金が調達できない事にある。
市場経済は、利益中心の体制だという点を忘れてはならない。利益の根本は、収益と費用の関係から導き出されなければならない。貸借に基づく利益や資産運用に基づく利益は、本義ではない。もう一度原点に立ち返り、国家建設、都市計画といった観点から国民生活を具現化する以外に手立てはない。何が今求められ、将来どのような国にしたいのかの青写真を作る事なのである。担保に対してではなく事業、それも国家事業異に根ざした事業に投資を促す事なのである。

問題は、企業の投資が再開され、景気が順調に回復し始めた時、景気の回復に伴って物価が上昇し、物価上昇に伴って金利が上昇した時、財政が圧迫される事である。それを避けるためには、財政の健全化が求められるのである。それでも物価の上昇が防げなかった場合は、先ず健全な投資に注力を注ぎ、どこで物価上昇に歯止めをかけ、健全な部分をいかに温存するか、それを思い定める事である。健全な部分を温存できれば、国家の再建は可能である。健全な部分まで腐らせたら国家の経済の再建は不可能になる。

景気の変動において一番障害になるのは、所得の再配分の仕組みである。働きと所得が結びつけにくいからである。
所得の再配分が格差の是正や弱者保護を目的としているだけに、本質的な議論を避けて通れない事である。
国家理念に基づき、国民生活をどの様にするのか、それが、根本なのである。


日本銀行

国債の残高は、異次元の金融緩和が施行されて以後加速度的に増えている。
これは財政の悪化を補完する形になっている。
市場に資金が還流せずに金融機関に滞留している事が見て取れる。


日本銀行

今日の経済学では、通貨の流通量と物価は比例していると考えられている。これだけ、国債を発行し、ベースマネーの供給を増やしているのに、物価が上昇しないのは、実物市場に資金が還流していない事を意味する。それは、日本銀行の発行銀行券の残高や主要銀行の貸し付けが増えていない事が証左である。
物価は、通貨の有効流通量を基礎としている。有効流通量というのは、実物市場、即ち、直接投資や生産、消費等の実物的な活動に結び付いた資金の流通量を言う。基本的に発行銀行券残高を元としていると考える。ただ、日本銀行の当座預金は、銀行券への支払い準備として常に働いているという事を忘れてはならない。

これだけベースマネーを増やしているのに、物価が上昇しない原因として考えられるのは、第一に物が不足していない。第二に、金利が異常に低い上に、金融機関が優良な貸出先が見つけられるずに、利鞘が確保できない。第三に、原油価格が低価で安定している。第四に、為替が円高で、輸入物価が上昇していない。第五に、所得が増えていない。第六に、市場が成熟し、消費が伸び悩んでいる。第七に、過当競争で民間企業が適正な利益が維持できない。第八に、資産価格がバブル期から比べて相対的に低く、民間企業の資金調達力が弱く、投資が伸び悩んでいる。

注目すべきは、物価の上昇を抑制していたいくつかの要件が変わりつつあることである。第一に原油価格が上昇に転じてきた。第二に、為替が不安定な動きをしている。地価が上昇に転じ、民間企業の不良権処理が一段落ついたと考えられる。
そうなると、これまでのデフレショーンからインフレーションへと転換する予測される。問題は、物価と地価が上昇に転じると金融機関に滞留していた現金が一気に市場に放出される危険性があるという事である。資産価値の上昇をいかに制御するかが鍵となる。
物価の上昇は、長期金利の上昇に連動する。なぜならば、物価と長期金利は時間価値を構成しているからである。長期金利が上昇すると財政の資金繰りが逼迫する。財政は、ますます国債に依存せざるを得なくなるが、国債が大量に発行されれば、市場で捌くことが困難になる。市場で捌ききれなくなった国債を日本銀行が引き受ける事になると通貨の供給を抑制する事が難しくなる。

ただでさえ、出口戦略で日本銀行が国債を買い控えざるを得なくなったら長期金利は抑えきれなくなる。こうなると八方塞がりである。物価を抑制する術がなくなるのである。そして、物価は暴走し、ハイパーインフレーションになる。これは財政インフレーションの典型的構図であり、我が国はその瀬戸際に立たされていると言っていい。
金利が上昇する事で影響を受けるのは金融機関である。金融機関は、金利が逆鞘になるからである。民間企業も急激に物価が上昇すると運転資本が回らなくなる。

仮にハイパーインフレーションになったとしてどれくらいで収束するのかが問題となる。単純に考えれば、当座預金に累積された資金が全て市場に出回ると現在の発行銀行券が五倍に膨れ上がるのだから物価が五倍になってもおかしくない。ただ、その間に財政の資金繰りが怪しくなるだろうから、財政の破たんを防ぐために、日本銀行が資金を供給すれば際限がなくなる。
一度ハイパーインフレーションに火が付いたらその落とし処は想像もできない。予測不能である。

目先の利益に走って地価の急上昇、バブルが起これば後がなくなる。だからこそ、金融家や実業家は、志と倫理観が求められるのである。心指しなき金融家や実業家は経営について語る資格はない。なぜならば、志や倫理観がない事は、金融や事業の目的や働きを理解していない証拠だからである。

ハイパーインフレーションは、インフレーション以前に財政を破綻させてしまうのである。
ハイパーインフレーションは、最初は好景気を装ってくる。問題は、景気が過熱した時抑制する手段がない事である。
ブレーキの効かない車に乗っているようなものであるから一度加速したら止められない。

「お金」は、分配の手段なのである。交換という行為によって分配という働きを発揮するためには、生産と消費とを関連付ける必要がある。何を関連付けるかというと割合なのである。つまり、生産の構成と消費の構成をお金は結び付ける役割を果たさなければならない。その為には、生産量と消費量と資金量が均衡していなければならない。生産量と消費量は、有限な量であるのに対して資金量は無限なのである。上限に制限がなくなれば際限なく上昇する。何らかの制限を設けないと抑制できなくなるのである。
生産を司るのは設備という物、消費は、人、そして、所得は、「お金」なのである。経済は、人、物、金の均衡によって成り立っている。

ハイパーインフレーションが財政インフレーションに端を発するというのは、財政が実需に結び付かなくなった時である。実需と結びつかない歳出は、財と人と「お金」との関係を崩してしまう。財と人との割合に対して「お金」の比率が異常に高くなるからである。
実需に結び付かない歳出の典型は戦争である。戦争は、全ての経済をリセットしてしまう働きがある。
財政インフレーションは、人災である。経済の仕組みを正しく認識すれば、防ぐ事が出来る。

日本人は、ハイパーとは言わなくてもある程度のインフレーションを覚悟しなければならないところに立たされているのかもしれない。


インフレーションとデフレーション



経済を制御するために必要なのは仕組みと均衡である。仕組みが状態の変化に適合し、経済の状態が均衡しているかどうかを測る指標の一つが物価である。物価を測るためには、全体の規模と比率が重要となる。

第一に、インフレーションやデフレーションは、「お金」がなければ起こらないという事である。そういう意味では、極めて貨幣的現象である。第二点は、インフレーションもデフレーションも、貨幣的現象だとは言っても物や人が絡まらなければ起こらないという事である。そして、第三に、インフレーションやデフレーションは、名目的価値としば質的価値の乖離がひき起きす。第四に、インフレーションやデフレーションは、基本的には貨幣的現象という点では共通しているが、インフレーション、デフレーションを引き起こすのは別々の要因だという事である。第五に、インフレーションもデフレーションも人、物、金いずれかの不均衡によって引き起こされる。要するに何かが過剰か不足しているのである。第六に、インフレーションもデフレーションも時間の働きが関わっている。時間の関数だという点である。第七に、インフレーションもデフレーションも通貨の量、流れる速度、回転数などが決定的な働きをしている。

インフレーションを通貨膨張と訳し、デフレーションを物価収縮と訳す事がある。インフレーションは、貨幣的現象であり、デフレーションは物的な現象とみられる傾向を示している。

経済現象を読むとき、必ず確認しなければならないのは、前提条件であり、背景の構造である。
市場が拡大している時に物価が上昇するのと市場が縮小している時に、物価が上昇するのとでは全く意味が違うし、周囲に与える影響や働きも違ってくる。当然とるべき政策も違ってくる。更に、金利や為替の動向がどう関わっているか、どう働いているかも検討する必要がある。また、何が直接的な要因として物価の変動を促したのか、例えば原油の高騰なども調べる必要がある。

市場が縮小しているのに、物価が上昇するのは、物価を上昇させる何らかの要素や構造があるのであり、それを明らかにする必要がある。ただ、因果関係だけで解決しようとすると問題を見誤る危険性がある。

価格の変動は、一次元的ではなく、多次元的なものである。
即ち、人、物、金を掛け合わせた上に時間軸が加わる。
物価が上昇していると言っても全ての価格が一律に上昇しているわけではない。大幅に上昇している財もあるし、小幅な上昇にとどまってる財もあれば、横這い、下落している財もある。要するに、物価の動向は、平均値に過ぎない。インフレーションもデフレーションも統計的な現象であり、分散と平均、標本が重要な鍵を握っている。
統計的現象である以上、何を前提として成り立っているか、全体像が何か、何によって構成されているかを確認しなければならない。前提条件が重要なのである。
前提条件によってインフレーションの位相もデフレーションの位相も変わる。

インフレーションやデフレーションは、人、物、金の関係によって引き起こされる。
インフレーションやデフレーションの背景には資金の流れが隠されている。
「お金」の問題としては、実物市場に過剰に資金が流れたり、また、資金が流れなくなることがインフレーションやデフレーションの原因とされる。
物の問題は、物の極端な供給不足や過剰な供給、また、人の問題としては、人手不足や逆に失業者の増加などが原因としてあげられる。いずれにしても、複数の要素が絡み合ってインフレーションやデフレーションは起こると考えられている。

仮に、自給自足体制で、生きる為に必要な資源は、自国内で調達できると仮定する。そして、人口も一定で、生産量も一定、通貨の流量も一定だとすれば、物価も一定である。しかし、このような体制では、成長も、進歩も発展もない。では、人口と生産量と、通貨の何が変化する事で、成長や発展は始まるのであろうか。また、国内で全ての資源が調達できなくなった時、どの様にして海外から不足した資源を調達すべきなのか。それが問題なのである。そして、その点に物価を動かす要因が隠されている。

余談だが、自給自足できる体制ならば外部から資源を調達せずにも経済は成り立っていける。かつて日本が鎖国していたのを見てもわかる。ただ、今日、交易をしなければ国の経済が成り立たないのは、主として国防上の問題である。

インフレレーションやデフレーションの原因の一つに過剰債務がある。過剰債務には、国債も含まれる。
過剰債務が資金の流れに影響するのは、金利だけでなく、返済額もある。資金の働きからして長期借入金の返済、資金の回収の流れの働きがフローに与える影響は金利以上に大きい場合がある。しかも、それが表面に現れてこないから怖いのである。
インフレレーションもデフレーションも時間価値が絡んでいるという事を忘れてはならない。人、物、金の過去の関係と現在の関係、未来の関係がインフレレーションやデフレーションには深く関わっている。
債務と債権の関係は、インフレーションにもデフレーションにも深く関わっている。ストックとフローの関係を切り離したらインフレーションもデフレーションも真の原因は理解できない。
過去の債務の返済が嵩むと可処分所得が圧迫される。同時に、利率が抑圧される。利率が抑圧されると、時間価値が喪失する。それがデフレーションの原因の一つである。利率を上げなければ金融機関が成り立たなくなる。時間価値が回復すると物価や所得の上昇を招き、利率に上昇圧力がかかる。それが、インフレーションの原因となる。
デフレーションを引き起こす原因とインフレーションを引き起こす原因は表裏の関係にある。

ストック、借入金、貸付金が蓄積するとフロー、所得と支出を圧迫する。金利に相当する部分が可処分所得を圧迫して限界に達すると資金が市場に流れなくなる。流動性が失われるのである。その場合、ストックを清算するか、フローを急拡大する事になる。破綻する前なら、借金を返済するか、経費を削減し収益の拡大を計る。
金不足だとストックを清算する方向に働き、金余りの状態だとフローが拡大する。前者がデフレーションになり、後者がインフレーションとなる。

インフレーションもデフレーションもストックとフローの関係が重要となる。
ストックの規模と比率が前提となる。ストックは、人、物、金の要素がある。即ち、人口構造であり、固定資産や在庫であり、貸借・資本である。

インフレーションを引き起こす主因は物不足がある。物不足の背景は、必要な資源に対して人が多い場合である。つまり、物不足は人と物との関係によっておこる。しかし、物不足だけでインフレーションが起こるわけではない。物不足と言っても間に「お金」が介在しなければ、インフレーションは、起こらない。インフレーションは、貨幣的現象なのである。物不足が発生した時、「お金」が介在しただけでインフレーションが起こるわけではない。物不足の時に、大量の通貨が市場に出回っていると物価は、上昇し始める。

インフレーションは物不足によって引き起こされる現象だが、「お金」が絡まなければインフレーションは起こらない。なぜならば、インフレーションは、物価、即ち、価格の変化だからである。
インフレーションもデフレーションも貨幣的現象である。「お金」がなければ、インフレーションもデフレーションも生じない。
インフレーションもデフレーションも更にそれが発展したハイパーインフレーションも、恐慌も極めて貨幣的な現象である。

インフレーションやデフレーションは、基本的には貨幣的現象である。
インフレーションもデフレーションも「お金」がなければ起こらない現象なのである。その意味では、インフレーションもデフレーションも貨幣的な現象なのである。

しかし、インフレーションやデフレーションの背後には、人、物、金の関係が隠されている。インフレーションやデフレーションは、貨幣的現象ではあるが「お金」だけが原因で起こるわけではない。インフレーションやデフレーションは、基本的には貨幣的な現象ではあるが、原因には、物的原因や人的原因が絡んでいる。

インフレーションとデフレーションは貨幣的現象だと言う点は共通している。
インフレーションを引き起こす要因とデフレーションを引き起こす要因は別である。インフレーションもデフレーションも人・物・金の不均衡によって引き起こされる。
インフレーションは、物不足か金余りによって引き起こされ、デフレーションは、逆に、物余りか金不足によって引き起こされる。ここまでは基本的な要素は同じである。問題は、何によって物不足が生じ、金余りの状態になるのかであり、逆に、何によって物が過剰に生産され、また、お金が不足するのかである。その点がインフレーションとデフレーションの決定的な違いなのである。
かつては、経済は物の制約を強く受けていた。食料は、天候や災害等の影響を強く受けていたし、物不足を引き起こす原因は、洪水や干ばつ、地震といった自然災害、そして、戦争や内乱と言った人的な災害であった。
この様に経済は、本来、人と物との関係から成り立っていたのである。貨幣は、この人と物との関係を基本的に変えた。通貨の流通量が物価を構成するようになったからである。
しかし、経済の根底にあるのは、人と物との関係である。表面に現れた貨幣価値の変動ばかりを見ていたら、経済の事態を見失う事になる。貨幣の動きの根底にある人と物との関係を常に確認する必要がある。

第一に、物と人が直接的にかかわっていた時代では、物不足が深刻な問題であり、物が過剰にあること自体は、問題とされなかった。
ところが、貨幣が介在すると物が過剰にあると物が売れなくなりそれが経済の活力を奪うのである。故に、物が過剰に生産されることも深刻な問題とされるようになったのである。それは、「お金」が人と物との関係に介在するようになったからである。
市場に物が不足する状態と市場に物が豊富に存在する状態とでは、経済の在り様は本質的に違う。
成長期と言うのは、物が不足した状態であり、成熟期とは、物が豊富に存在する状態を言う。どちらが豊かな状態価と言えば、それは歴然としている。考えようによれば物が豊かに存在するから経済は停滞するのである。
成熟期を否定する事は、豊かさを否定する事にもなる。物不足にするためには、戦争をするのが最も効果的である。平和だから物が豊かになるのである。物が豊かになったというのに、物不足の時のように生産を競わせるのは愚かである。要は、物が不足する時の施策と物が豊富にある時の施策を変えればいいのである。成長ばかりを追い求めるのは愚かである。

インフレーションは、貨幣価値を薄めてしまうし、デフレーションは、負債の実質的水準を引き上げる。インフレーションとデフレーションは、実質価値と名目的価値の関係によって生じる。実質的価値が上がれば名目的価値は希薄となり、実質的価値が下がれば、名目的価値は、重くなる。負債は、名目的価値であるから実質的価値が下がれば、負債の負担は重くなるのである。
つまり、インフレーションは、貨幣価値を希薄化するのである。デフレーションは、負債の負担を重くするのである。

インフレーションもデフレーションも「お金」が決定的な役割を果たしている。
「お金」は、基本的に分配の手段である。交換は、分配のという働きを実現する為に必要な要素の一つである。「お金」が分配の手段という性格がインフレーションやデフレーションを引き起こす主因である。
市場において「お金」に分配という機能を発揮させるためには、一定の条件が満たされている必要がある。
「お金」が市場で分配という機能を発揮するたるの要件とは、第一に、市場を構成る人全員に、必要最小限の「お金」が満遍なく行渡っている。第二に、必要な「お金」が必要とされる時に絶え間なく供給されている。第三に、必要な資源が、必要な時に、必要なだけ市場から調達できるという三点である。

「お金」が分配の働きをするためには、前提がある。
第一に、「お金」が満遍なく分配されていなければ、経済は成り立たない。第二に、絶え間なく供給され続ける必要がある。第三に、「お金」と必要とする財との交換が成り立たなくてはならない。

インフレーションも、デフレーションは、流動性の問題でもある。「お金」は、社会全体に満遍なく配分され、かつ、常に補充され続ける必要がある。その為には、お金は、社会全体に循環し、流れ続けている必要がある。つまり、流動性と回転が資金効率を表す事になる。
そして、インフレーションとデフレーションには、流動性や回転数が重要な働きをしている。
「お金」が出回らなくなればデフレーションになるし、過剰に供給されるとインフレーションになる。

分配という働きをするためには、生活者、全てに満遍なく「お金」が配分されていなければならない。「お金」が流れなくなると経済の仕組みは保てなくなり、破綻する。問題は、「お金」を配分する手段である。
「お金」は、何らかの働きに対する対価として分配される。働きの対価として支払われる事で生産と働きが結びつくのである。
経済で一番重要なのは、生産と働きを結びつける事なのである。生産と働きが結びついていて、働きが所得に反映されれば、生産と所得が直接的に関係づけられる。生産と所得が直接的に結びつく事で、生産を働きによって制御する事が可能となる。そして、所得は消費のための原資であるから、働きと所得とを結びつけることで間接的に生産と消費を制御するのである。

分配という働きは、割合を意味する。割合は、全体と部分から成り立つ概念である。
分配では、全体量と配分量が鍵を握る。社会全体で実際に使えるお金がどれくらいあって、個々人が手持ちの資金がどれくらいあるかが、分配という働きにおいて決定的になる。そして、この全体と部分の働きと関係がインフレーションやデフレーションを引き起こす要因なのである。

社会的分配をするためには、資金が満たされていなければならない。つまり、市場に流通している資金が市場価値の全体を構成する。そして、全体の総量に対する割合によって財は分配される。即ち、財の総量と通貨の流量が貨幣価値を基礎となる。必然的に通貨の流量が大きくなれば単価も上昇する。

配分という間は、構造的なのである。財の配分と人の配分を関連付けるのが「お金」の配分なのである。故に、生産量と人数と「お金」とは、連動している。これを前提として経済の仕組みは組み立てられなければならない。財と人とを結びつけている場が市場なのである。
人は、生産者であると同時に、消費者であり、所得者である。この関係が三面等価の根拠となる。三面等価とは、生産と、所得と、消費は一つの事象の三つの局面を表している。

必然的に、消費の構造の変化は、産業構造を変化させる。産業構造も消費構造を変えるが、本来は、中心は消費構造である。現在の経済の誤謬は、生産構造によって消費構造を変えようとしている点にある。それが過剰設備や過剰負債を生み出す原因となっている。つまり、必要性が軽視されているのである。必需品に係る必需品を中心とした伝統的産業が成り立たなくなりつつあるのである。
生産性が全てではないし、競争が全てではない。保守的で、安定した産業に支えられて革新的な産業、新興産業は成り立つのである。成長や技術革新にのみ依存した経済は、衣食住に係る基幹産業から衰弱し頽廃化していく。

一人ひとりの所得の平均と分散と総量と財の供給量との関係によって市場は成り立っている。
そして、一人当たりの所得の平均と分散と需要と供給の関係が崩れるとインフレーションやデフレーションと言った現象を引き起こすのである。

必要量と供給力と所得、これが価格の決め手となる。
必要量は、消費量、人に根ざし、供給力は生産量、生産設備、即ち、物に根ざす。所得は、働きによって求められ、「お金」に根ざす。
人・物・金の関係によって物価は、左右される。

インフレーションかデフレーションかを見極めるためには、名目的変化と実質的変化を比較する必要がある。
名目的とは貨幣的変化であり、実質的とは物的変化である。経済成長は、貨幣的拡大と生産的拡大の歩調があっていないと歪みを生じさせることになる。そのようにして生じた歪みがハレーションを起こしてバブルやバブル崩壊、インフレーションやデフレーションを引き起こす事になる。

今、世界は一つの市場に収斂しようとしている。その過程で、これまで個々独立していた各国の市場や経済、生活水準を一定の水準に統一しようとする力が働いている。この力は、生活水準の低い国には上げ圧力として働き、生活水準の高い国には下げ圧力として働く。
まず、最初に働くのは、個人所得である。新興国には、個人所得への働きは、企業の費用を押し上げ、収益に上げ圧力として働く。そして、同時に先進国には、下げ圧力がかかる。これは、新興国にはインフレーション圧力となり、先進国には、デフレーション圧力になる。
各国が協力して調和させるように努力しないと世界は、破局的な方向に向かう事を防げないであろう。


インフレーション


異次元の金融緩和策に対し、一部の識者からハイパーインフレーションになる懸念が示されている。
しかし、ハイパーインフレーションとはどのような状態を指して言うのか、何が問題なのか、防ぐ手立てはあるのか、その点を明らかにしようとしなければ、ただ人々の不安をあおっているのに過ぎない。もし、ハイパーインフレーションになる危険性があるとしたら、ハイパーインフレーションとはどのような事か、どこが問題なのか、どうすれば防げるかを真剣に検討していく必要がある。

インフレーションとは、物的、空間的に物の価格の水準が広範囲に上昇する事を言う。
物価の上昇は、物の価格全般が一律的に上がるのではない。
全体の物価が上昇している時でも価格が下落している商品もある。
かといって特定の商品や特定の地域の価格の上昇を言うのでもない。

故に、インフレーションは統計的な現象である。

統計的な現象であるインフレーションをどの時点でどのように認定するのかは難しい。これは、デフレーションも同様である。強いていれば感覚的な問題である。つまり、絶対的な指標があるわけではなく。相対的な指標に基づいた概念である。
ただ、インフレーションだと明確に認定できる状態というのは、かなり深刻な状態だと言える。

インフレーションは、インフレーションを起こす要因によって分類する事が出来る。
インフレーションの種類には、第一に、物的要因、例えば、地震や災害、戦争などによって極端な物不足によって引き起こされる実物要因によるインフレーション。第二に、人的要因、需要の拡大によっておこる需要インフレーション。第三に、供給側の要因、費用の高騰とか、産業構造、輸入の要因、輸出の要因、産業の成長段階からくる供給インフレーション。そして、第四に、「お金」、即ち、貨幣的要因、財政による要因、通貨の発行に係る要因、為替の変動による貨幣的要因インフレーションなどがある。(Wikipedia)

もう一つ重要なのは、インフレーションは、時間価値を生み出すという事であり、付加価値を基礎とした経済体制下では、インフレーションは必然的な現象である。
付加価値は、金利、利益、所得、税金などの源である。

物価は、利益は、価格、即ち、数量と単価の積と費用、即ち、固定費と変動費の和との差によって構成される。
つまり、インフレーションの要因には、価格要因と費用要因があり、価格要因は量的な問題と貨幣的問題がある。費用要因には、固定的問題と変動的問題がある。

インフレーションをどうとらえるかは、前提条件と背景となる構造が鍵となる。ただ表面的な現象をとらえていたらインフレーションの実態を解明する事も対策を立てる事もできない。
市場が拡大している時の物価上昇は、市場に働く拡大圧力が底辺で働いていて、拡大速度と上昇速度との関係が重要となる。名目的変化と実質的変化の関係が経済の実体を表している。上昇速度が拡大速度に比べて急速に早くなった場合は、注意が必要であり、拡大策度が鈍っているのに、物価の上昇速度が変わらない場合も注意する必要がある。

インフレーションを人、物、金の関係からとらえてみる。
インフレーションは人、物、金の関係の不均衡によって発生する。物価は、必要量と供給力、そして、所得との関係によって定まる。必要量は、消費を根拠とし、供給力は生産量に基づく、所得は働きに応じる。必要量は、人により、供給力は物により、所得は「お金」による。この関係が安定している時は、物価は安定している。しかし、財が必要量を下回れば物不足になり、異常に貨幣が供給されれば金余りになる。これらが引き金になってインフレーションは起こる。物が原因なのか、人が原因なのか、「お金」が原因なのかでとるべき施策も変わってくる。

インフレーションは、かなりの確率で物不足の状態が背景となっている。人と物の均衡が破れ、そこに金余り現象が重なるとインフレーションは加速する。
金余りは、インフレーションの前兆である。余った金が資産に向くか消費に向くかでバブルとなるか、インフレーションになるかが分かれる。

物価の上昇は、一次元的ではなく、多次元的なものである。
即ち、人、物、金を掛け合わせた上に時間軸が加わる。

インフレーションは、時間価値の変化が重要な働きをしている。
物価の上昇を促すのは、時間価値である。
時間価値の根源は、付加価値にある。ただ、付加価値は、結果であって原因にはなりにくい。
付加価値を構成する要素の何がどのような働きによってどの様に変化したかを明らかにしなければならない。

インフレーションは、通貨の流量が絡んでいるというのが専らである。
しかし、それでは、これ程金融緩和によって資金を大量に市場に供給しているのに、物価が上昇してこない理由がつかない。いくら市場に資金を供給してもそれが金融市場に滞留して実物市場に流通しなければ、資金は、効用を発揮しないのである。要するに、「お金」実物市場に出回らないから物価は、上がってこないのである。

インフレーションは、流動性の問題でもある。インフレーションにせよ、デフレーションにせよ資金の流れによって引き起こされる現象である。資金が過剰に流れれば、インフレーションになるし、資金が流れなくなればデフレーションを引き起こす。資金の流れは、量だけでなく速度の問題でもあり回転率の問題でもある。インフレーションが昂進すると資金の回転は以上に早くなる。社会制度を壊すほどに早くなる事すらある。故に、インフレーションの兆しがある時は、資金の回転にも充分に注意する必要がある。

インフレーションを引き起こすのは、通貨量だけではない。
以前は、インフレーションもデフレーションも貨幣的現象だと思われていたから金利を操作すれば制御できると考えられてきた。ところがゼロ金利時代になると金利を操作する事が出来なくなる。そこで金利に代わって通貨の供給量を操作すれば景気を制御できるとされた。
そこで異次元と言われるほどの資金を市場に供給したのに、いっこうに物価は上昇する気配を見せない。

インフレーションの怖さは、経済変動が、複利的変化を前提としている事にある。時間価値は複利的変化だからである。
故に、物価上昇も幾何級数的な変化になる。変化は、徐々に加速され最後は暴走してしまう。
算術級数的変化を前提とし制度設計がされていると制御するのが難しくなる。
過去においても破滅的な物価上昇に陥った国がいくつもある。
インフレーションも年間の上昇率は低くても長期に渡れば制御不能な変化になる事もある。

インフレーションは、群集心理にも影響される。
石油ショック後の狂乱物価には、かなり群集心理が働いたとみなされる。
つまり、ベクトルの問題である。群衆の認識が一定方向に傾いた時が危険なのである。
群集心理には情報が重要な働きをしている。

ハイパーインフレーションは貨幣的要因、特に、財政インフレーションが原因になると言われる。なぜ、財政インフレーションがハイパーインフレーションに転じるのかというと財政という性格による。財政は、通貨を市場に供給し、循環する役割を担っている。通貨を管理し、制御する事を財政はになっている。しかも、財政は、現金主義、単年度均衡主義に基づいているために、市場経済、期間損益主義との連続性が薄く、整合性をとりにくい。また、財政は、その規模が大きく、影響を及ぼす範囲が広い。また、財政は、財政目的以外に景気対策や所得の再配分などに活用される。また、期間損益に基づく、利益を度外視している。また、財政は、政治的に利用されたり、既得権益が発生しやすく、硬直的になり易い。また、予算制度のために対策を立ててから実行するまでに時間がかかり、機動性が乏しい。
これらの要件に加えて実需とかかわりのないところで多額の出費、例えば、戦争などによる出費が嵩むと国債等を発行して貨幣の流通によって調節せざるを得なくなる。この様に市場経済と無関係なところで通貨の流通量が異常に増える事でハイパーインフレーションを引き起こすのである。
財政規律が重んじられるのは、歴史的教訓に基づいている。その規律が現在の日本から失われつつある。

実際に財政が破綻し、ハイパー・インフレーションになりうるのか。ハイパー・インフレーションになるとしたらどういう経過をたどるか。
ハイパー・インフレーションの原因は、財政破綻だとされる。過剰に資金が市場に流れ込む事でハイパー・インフレーションは、起こるとされている。
ハイパーインフレーションを引き起こすのは、「お金」である。貨幣価値は、複利的空間を形成する。貨幣価値は複利的な変化をする。物価が歯止めを失い複利的に変化を始めると容易には止められなくなる。徐々に加速されて行き、最期には、制御不能状態に陥る。それがハイパー・インフレーションである。物には、限界があるが、数値で示される名目的価値である貨幣価値には、制限がない。故に、無制限に上昇する。

デフレーション


豊作豊漁貧乏という事がある。物が過剰に市場に供給されると物価が急速に下がる。しかし、物が過剰に生産されただけでデフレーションになるわけではない。過剰に生産された物が市場に出回らない限り、物価は下がらない。過剰に生産された物を市場に供給、即ち、売らなければならない理由があるから、物価は、下落するのである。売らなければならない理由というのは、第一に投資した資金を回収する必要がある。どうしても投資した資金を回収しようとするのは、投資資金の中に多額の借入金が含まれているからである。その為に、損益分岐点を根拠に一定量を早期に捌こうと考えるからである。
第二に、廉価で量販しようとする業者がいる、即ち、競争の原理が働くからである。
第三に投資の減退による資金の供給が細る事である。投資が細ればそれだけ資金の供給も細り、物価に対して下げ圧力がかかる。
これらの事が回りまわってデフレーションを起こす。

今日、問題とされているのは、デフレーションである。
バブル崩壊後の長い停滞や財政の悪化はデフレーションが原因であり、財政を悪化させても、まず、デフレーションから脱却すべきだとされ、異次元の金融緩和策がとられたとされている。しかし、本当にデフレーションが原因なのか、それともデフレーションは結果であって真の原因は別にあるのではないのかなのか意見が分かれるところである。
いずれにしてもデフレーションを引き起こしている原因を突き詰める必要がある。治療を開始するためには、まず、病気の原因を突き止める必要があるからである。熱が上がったから
デフレーションの何が問題なのか。デフレーションによってどのような影響が出ているのか、それも検証する必要がある。

従来は、デフレーションよりもインフレーションの方が深刻な問題だとされてきたのである。それは、戦後は、高度成長時代は、右肩上がりの経済状態でバブル崩壊まで深刻なデフレーションを経験してこなかったである。しかし、高度成長が終わり、景気が後退し始めるとインフレーション以上にデフレーションが深刻になってきた。
ただ、注意しなければならないのは、インフレーションとデフレーションは表裏の関係にあり、その背後に隠されている要因には共通したところがあるという事である。対処の仕方を間違うと一転して悪性のインフレーションを引き起こす事になりかねない事を忘れてはならない。目先の対処療法では、真の問題解決にはならないのである。

デフレ、デフレと言うが本当にデフレなのか。デフレが意味することは何なのか。
物によって物価の動向は違うはずなのである。
価格が上昇している物もあれば、下落している物もある。横ばいの物、長いこと変わらない物もある。その働きは相対的であり、相対的だから産業の消長に影響している。
ところがインフレだ、デフレだという言葉が先行し、本来、物の生産や分配が人々の必要性に応えているのかという本源的な問題はおざなりにされている。高級な家が余っているというのに、一方で、町に、ホームレスがあふれていいるなどと現象が併存する。生活に必要な物の価格が下落して、産業として成り立たなくなったりしている。必要な産業なのにである。なぜ、それは貨幣の動きが経済の実態にそぐわなくなったからである。

デフレーションも人、物、金の関係から捉える必要がある。
デフレーションが起こりやすいのは、成長段階よりも成長段階から成熟段階にさしかかった時である。ここにデフレーションの謎を解き明かす鍵が隠されている。
日本がバブル崩壊後の長い低迷に入ったのも高度い成長が終わり、低成長時代に入った直後に円高が襲った事がある。これだけの条件がそろったところでバブルが発生し、そして崩壊した事がデフレーションの引き金を引いたと思われる。
デフレーションは、負の印象が付きまとうが、同時に爛熟した状態でもある。デフレーションを克服するためには、物価の下落を否定的にとらえるだけでなく、前向きに見る必要もある。

バブルが発生したのは、高度成長期が終焉し、ニクソンショックで急速な円高が進み。二度の石油危機で物価が乱高下したという事が伏線となっている。
一つは、市場が成熟し飽和状態になったという事と、もう一つは、消費が拡大から縮小へと転じたと言う点である。経済が拡大均衡から縮小均衡へと移り、税収も伸び悩むようになった。それによって財政赤字が慢性化した。

それでありながら政策の基本を高度成長期にとった拡大均衡策から変えずに依存し続けた事にある。経済が縮小均衡へと向かっているのに、拡大均衡策をとり続ければ、経済は、破綻してしまう。

市場が成熟期に入ったら量から質の政策へと変えていくべきなのである。

デフレーションというのは、基本的に総所得が伸びない事である。所得だけでなく投資も滞ると市場への資金の供給が途絶える。資金が実物市場に流れなくなると市場は収縮しはじめる。
地価の下落が資金調達力を低下させ、投資が控えられる投資が控えられると資金の供給が低下する、資金の供給が止まると、投資にが抑制される、日本経済は、バブル崩壊後、悪循環はまり込んだのである。
バブル崩壊後、資金調達力を失った企業は、利益をひたすら借金の返済に向けざるを得なくなった。また、不良債権を処分すればするほど資産価値の下落を招く。

物価をリード、引っ張るのは所得である。所得が伸びなければ物価は上昇しない。なぜならば、所得は支出の原資であり、物価は支出で決まるからである。

バブル崩壊後、20年以上も総所得は伸び悩んでいる。総所得が伸びなければ、経済は縮小均衡へと向かう。市場が縮小傾向になれば、価格には下げ圧力がかかる。つまり、デフレーション圧力が現在の日本市場にかかっている事がわかる。デフレーション圧力を解除しない限り、経済は活性化しない。

総所得の源は、市場経済は収益に求めなければならない事を忘れている。企業が適正な利益を上げようとする努力を搾取だとしている限り、経済は改善できない。


物価は世相を映す鏡である。



物価は世相を映す鏡である。
子供の頃、まだまだ、自動車は高級品であり、自家用車を持っている人は稀だった。テレビを持っている人も少なかった。今では、テレビ、冷蔵庫、掃除機は、必需品であって何処の家にもある。
テレビも出始めの頃は高根の花で、持っているうちは少なかった。テレビの放映を売り物にする飲食店もあったくらいだし、テレビを床の間に飾っている家もあるくらいである。
今やテレビは一家に一台どころか、二台三台も当たり前な時代である。
掃除機がない時代は、掃除、洗濯、料理は、人の力に依っていた。ある意味で一番機械化されたのは家事労働かもしれない。
通信と言っても電話の普及率も低く、地方によっては、金持ちの家にしかなかった。地方では、電話をかけるのに、親戚の家に借りに行ったくらいである。今では子供に携帯電話を持たせるかどうかで悩む親が大勢いる。
電灯だって裸電球があるかないか、暗くなったらすぐに寝かされたものである。

物心がついた頃は、輸入果物は高くてバナナやメロン等は、特別な時しか食べれなかった。バナナやメロンと言った果物のを出されると悪い病気なのかと心配したものである。逆に、リンゴやミカンは、安くて箱一杯田舎から送られてきた。食べきれなくて腐らせてしまった事を覚えている。それが今では、バナナと桃の値段は逆転し、バナナは手頃な値段で手に入るのに、桃などは高級な果物になってしまった。
同じ果物と言っても値を上げた物、値を下げた物がある。物の価格を一様に捉える事は出来ないのである。

つい最近まで、全ての商品には定価があった。定価があったから安心して買い物もできた。定価があるのが当たり前であり、定価がない商品は胡散臭い思いをしたものである。家電製品も秋葉原では、定価があるから安く感じた。
この定価という概念が近年では失われつつある。インターネットが発達した今日では、どこの店が一番安いか瞬時伝わってしまう。定価なんてあってもないようなものである。
また中には、独禁法によってメーカーが販売価格を小売店に強制する事が禁じられたりもしている。メーカーが小売店に販売価格を強制する事が禁止されてからは、書籍や新聞、雑誌、たばこなどを除いて定価販売されている商品は限られてきた。定価が失われる事によって価格は、流動的なものになり、不安定化している。企業や販売業者の収益率も低下している。
安売り業者は、廉価で売る事を目的化し、自分たちは、消費者の味方のようにふるまう。同じ商品ならば安い方がいいと思いがちなのである。逆に同じ商品なのに、高くかわされたら損した気持ちになる。しかし、必ずしも、値段は、安ければいいというのではない。要するに適正な価格でなければならないのである。
価格を決める要素は、値段だけではない。商品の性能、デザイン、機能、そして、売り手のサービスやアフターケア、信用と言った要素も価格決定には重要な働きを及ぼしている。価格には、量的側面と質的側面があるのである。
定価は、放置していると安定性を欠いてくる。
以前は、価格は、相対取引によって決められてきた。その為に収益や収入が定まらず、その日暮らしになる者が多かった。所謂どんぶり勘定がおおこうしたのである。また、原価のわかる者が少なく、大規模な商店が形成されにくかった。
最初に定価販売をしたのは、現在の三井、三越の源流である三井呉服店だと言われる。三井呉服店は、定価販売をする事によって消費者に安心して商品を購入してもらえるようになり、また、多くの店員を雇う事を可能とした。
定価と言う概念そのものが新しい概念だったのである。そして、定価と言う概念によってある時期産業は成長してきた。

定価販売の原点や意義は第一に、消費者に最初から価格を提示しておくことで安心して商品を選べるようにすると言う点と、価格を設定する事で店員に値決めのための知識や労力を割かないで済むようにした点にある。
定価販売が廃れたというのは、この二点があまり意味をなさなくなったことに起因している。

一時「価格破壊」という言葉が流行り、スーパーストアや家電量販店が低価格を売り物にして、市場を拡大してきた。
この「価格破壊」というのは、定価販売を切り崩す事に意義があった。メーカーが決めた価格を消費者に取り戻すという大義である。
それに伴って個人商店が衰退していったのである。
その結果、地域の商店が寂れていった。やがてスーパーストアは、大型スーパーストアに駆逐され、大型スーパーストアは、郊外型ショッピングモールに取って代わられ様としている。郊外型ショッピングモールもインターネットに普及に伴い最近は、採算が取れなくなり、閉鎖へと追いやられつつある。
その結果、高齢化時代に向かうというのに、買い物難民が続出する事になる。

どの様な社会、どの様な街を建設しようとしているのか、その根本思想が失われてしまった。そして、値段だけが独り歩きした結果、世の中は、画一化されてしまったのである。
ただ安ければいいというのではない。問題は価値である。何を必要としているかによって、何を求めているかによって価値は決まる。値段が全てなのではない。

なぜ、価格が大切なのかと言うと、価格にどのような機能を持たせるかによってその社会のありさまが変わるからである。価格を集計したものが売り上げを構成し、収益となる。収益と費用の関係から利益は求められる。費用こそ分配の要なのである。費用は無駄だとなくしてしまえば分配は機能しなくなる。収益と費用の関係は、社会の在り様に還元される。

適正な価格は、市場競争によって決まると思い込んでいる人が多い。しかし、無原則な価格競争は、価格本来の役割を失わせてしまう危険性がある。

現在社会においては、生産手段が劇的に進化した。同時に、大量生産、無人化を可能としている。大量生産、無人化を可能としているのは、機械化である。しかし、何でもかんでも機械化してしまったら雇用が失われる。所得は、基本として労働の対価として支払われるのである。報酬を労働の対価としなければ、今度は生産と消費の均衡が破られる。
労働と報酬、生産と消費、需要と供給、収入と支出これらの均衡の上に現在の経済体制は成り立っている。この関係断ち切れば経済は均衡を失って制御ができなくなる。
機械化は、雇用と所得との均衡の上に測られるべきものであり、だから、価格が重要になるのである。
一方で機械による大量生産品と他方で手作りの多品種少量生産品を共存させるのは価格である。

何を目的として、何を実現しようとしているのか。
陸上競技で何を競わせようとしているのか。マラソンでレーシングカーを走らせたらひとたまりもなく人は負ける。それではマラソンそのものが成り立たなくなり、選手はいなくなってしまう。陸上競技をする意義が見失われてしまうのである。
だからと言って何もレーシングカーが悪いわけではない。レーシングカーを人と同じ土俵で競わせたものが悪いのである。
経済に我々は何を求めるのか。安さばかりではあるまい。
書籍や雑誌は定価販売である。自分たちが定価販売に依存していながら、他の業界の定価販売を批判する。それがマスコミの習い性である。

大量生産品を無原則に市場に放出する事は、陸上競技に自動車を投入するような事である。そもそも、我々は、どの様な地域社会にしたいのかその構想をしっかりと持つ事なのである。何の構想もないままに、ただ値段だけで競わせたら、市場は荒廃し、経済の活力は失われる。
消費者だけが市場を作っているわけではない。確かに、生産者の都合ばかりを優先するのは間違いだが、消費者のために安値ばかりを追求するのも本末転倒である。人は何に価値を見出すのか。その点が重要なのである。

かつて地方の商店街は活気に満ち溢れていた。夜遅くまで、売り子の声が響き、人々の喧騒が絶えなかった。路地裏に入れば小さな居酒屋が美味しい料理とお酒を供してくれた。そんな人々の暮らしを感じさせてくれるような街を衰退させてしまうのは、経済の在り様なのである。そして、価格が重要な役割を果たしている。



総務省統計局    年度

産業は、収益と費用との関係によって成り立っている。価格は、売上を構成する。売上を構成するという事から費用対効果に決定的な影響を与えている。
費用対効果はすなわち、投資の元である。投資の在り様は、産業の基盤を構築する。故に、価格は、産業の消長を決めると言っていい。
価格が制御できなくなったら産業は衰退する。

物価は、一律に変化をしているわけではなく、生活水準やライフスタイルの変化、消費構造の変化などを反映している。

同じ主食といってもパンの価格とお米の価格に同じ変遷をしているわけではない。時代じだいの、世代せだいの嗜好によっても変化していく。

何が上がり、何が下がったかを見ると産業の消長を見て取る事が出来る。家電製品は、工業化、大量生産化が進むにつれて単価が下がり、コモディティ産業化していった。家電の価格決定権は、製造部門から販売部門へと量販店に牛耳られ、やがて、薄利多売へとのみ込まれていく。その過程で、街の電気屋さんは淘汰されて行った。家電製品は、投資額が巨大となり、投資を早期に回収するためには、価格よりも販売数量を重視せざるを得ない。行政は、ひたすら、安売りを奨励し、その結果、多くの家電メーカーが外資に飲み込まれていった。

子供の頃、馴れ親しんできた街と様相が一変してきている。町全体が寂れたというか、活気が失われてきたのである。それは少子高齢化の生徒ばかりは言えない。人間の匂いと言うか、生活感が感じられなくなってきたのである。
かつては活況を呈していた商店街の目抜き通りもシャッターを閉めた店が目立つようになり、シャッター街と揶揄されるようになってきた。寂れた商店街で目立つのは、コンビニエンスストアだけである。そのコンビニエンスストアも最近は店舗が増えすぎて採算が取れなくなりつつある。かつては、街々の特徴のある喫茶店があったものだが、現在は、全国チェーンの店に席巻され、大都市も地方都市も同じ味、同じ店装の店に統一されてしまった。かつては、脱サラして喫茶店でもという発想があったが現代では通用しないのである。
要するに、個人商店が成り立たなくなってしまった。その原因の一つが価格である。
商店街から個性的な店舗が失われ、どこへ行っても変わり映えのしない風景が広がっている。

現代社会は、価格を生産性の尺度でしか測らなくなってきた。生産性だけを問題とするなら、デザインも部品も規格も標準化した方がいいに決まっている。その結果、見た目は多少違っていても全てが標準化されてしまったのである。

物価は、物の価値を金銭的に表したものである。それは物の価値に対する人々の価値観を表している。
子供の頃は、食べ物を粗末にしたら叱られたものである。汗水たらしてお米を作っている人の事を考えろ。感謝しながら残さず食べろと諭されたものである。今は使い捨ての時代である。生産者の気持ちを理解しろなどといったら鼻で笑われてしまう。飢餓など遠い昔の出来事。大量生産薄利多売、そこに道徳など入り込む余地はない。あるのは損得ずくである。金の爲なら法に触れなければ何をやっても許される。金さえ儲かればいいのである。

物価とは


一般に物価とは、財全体の水準を表した統制的な指標である。
物価は、一意的に決まるものでも絶対的な基準があるわけではない。
つまり、物価に、統一的な基準があるわけではなく、一般に物価というと消費者物価を言う場合が多い。
故に、物価は、定義にの仕方や目的によって変化する。
また、物価全体の水準を表す指標として代表的なのは、消費者物価指数、企業物価指数(旧卸売物価指数)がある。

物価というのは、個々の財の価格の代表値を言う。個々の財には固有の価格があり、財の価格は、個々の財の性格や働きから定まる。物価は、一意的に動くものではなく、個々の財が置かれている環境や状況、他の財との関係によって相対的に決まる。

物価は、統計的な指標なのであり、物価を導き出すための前提、即ち、標本の採り方、代表値の決め方、調査手段などが重要な意味を持っている。

物価には、市場全体の水準を表す物価以外に個々の局面や財が形成する物価がある。
小売物価、卸売物価、輸出物価、輸入物価(国内物価、国際物価)、都市物価、地方物価などがある。


日本銀行


物価には、全体の水準を表す物価と個々の財が作り出す物価があり、一律に語る事はできない。
経済政策を立案する段階では、全体的物価水準が重要な意味を持つ。具体的な産業政策を立てようとした場合は、統一的な物価水準だけでは、均衡がとれなくなる。市場で重要なのは均衡なのである。

個々の財の物価は、財の性格、産業やその国の経済の発展段階、地域や範囲、産業が置かれている状況(為替の動向、災害や事故の影響、市場規模)、流通段階等によって決まる。
円高と言っても物価が上昇する財と物価が下落する財は混在していて為替の変動の影響を一意的にとらえる事はできないのである。

物価は、財の値段を集約した指標である。
値段とは価格である。価格とは、経済的価値を測る単位である。
経済的価値を測る単位と言われても、一般に考えられている単位と価格は、多くの人は、掛け離れた印象を持つと思う。一般に考えられている単位とは、物理的単位、数学的単位を言う。物理的単位とは、一定の距離や、量などを何らかの客観的基準によって定められた単位である。
それに対して経済的単位は一意的には決められない。経済的単位は、価格は、人と物との相対的関係から導き出される単位であり、何らかの客観的基準によって定められる単位ではないからである。経済的単位は、物と物の関係ではなく、人と物との関係によって成り立っている。
人の要求は重要となり、物の生産力は供給力を構成する、故に、経済的単位は、需要と供給の関係によって定められる単位だともいえる。
一定ではなく、景気だの、需給だの、為替だの石油価格などによって連れに揺れ動いているのに対して、我々が一般に単位とし認識しているのは、固定的で普遍的な事象としてとらえているからである。
価格は、市場取引によって定められる単位なのである。
価格は、市場の環境や状況、関係によって単位自体が伸び縮みする尺度なのである。それが物理的単位と経済的単位の決定的な差である。
価格は、変動的で、相対的な尺度である。故に、物価は、変動的で、相対的な尺度である。

価格のこのような性格は、現在の市場経済においていろいろな問題を引き起こす原因となっている。
物価が引き起こす、インフレーションやデフレーションという現象はその好例である。

経済的価値の単位が伸び縮みするから、税金は、基本的に比率を単位にして徴収される。また、企業業績や利息も比率を基本としている。問題は、何を基礎として計算するかである。経済現象は、はいろいろな要素が複雑に絡み合って起こる。前提となる空間や場を支配する法則そのものが変化するのである。故に、自然の現象のように絶対額を前提とした単位にすると状況や環境の変化に対応できなくなるのである。

価格は、絶えず揺れ動いている。また、価格の変化は、一律一様ではない。
お米の価値というのは、基本的には変わらないはずである。むろん食生活の変化とか、その年の収穫量、技術革新などによる影響はある。しかし、使用価値そのものが一年二年で大きく変化するというのは稀にしかない。
この様な長期的な変化だけでなく物価の変動は、急激に起こる事がある。急激に起こる物価の変動は、主として「お金」を原因としている。
要するに急激なインフレーションやデフレーションは、貨幣的な現象なのである。

インフレレーションやデフレーションと言った経済変動は、「お金」と物との関係を基礎とした単位だと言う点に起因している。
「お金」は、相対的で変動的な単位である。

昔、それも、そう遠くない昔、報酬や租税は「お金」ではなく、物で支払われていた。江戸時代まで大名の報酬は石高で表されていたのである。
日本の古代の租税は、「租庸調」といわれていた。租は、米を意味し、庸と調は、労役を意味しいたが、後に代納としての米や布を意味するようになったと言われる。いずれにしても、この時代は、「お金」ではなく、物や使役によって支払われていたのである。
そして、この時代では、インフレーションもデフレーションも無縁だった。

要するに、物価の変動というのは、貨幣的現象なのである。

市場を動かしているのは、「お金」の都合であって人や物の都合ではない。いくら人が欲しても「お金」がなければ手に入らない。それが貨幣経済の鉄則なのである。どんな王侯貴族、権力者でも力づくでは自分の物にできない。だから、王侯貴族や、権力者も「お金」を手に入れようとするのである。それが「お金」さえあれば何でも手に入れる事が出来るという「お金」に対する幻想を生む。「お金」が有効なのは、あくまでも市場の内においてである。また、「お金」の価値を認めない者にとって「お金」は無価値である。
「お金」の働きは、「お金」の配分によって支配されている。

財の値段は、財の単位、原単位と単価の積である。

物の値段は一律一様に変化しているわけではない。
一つの指標だけで理解しようというのには、無理がある。

値段の変動には、短期的変動と、長期的変動がある。
また、周期的変動と一方向的変動がある。
基本的変動と一時的変動がある。

この様な値段の変動は、多分に財の性格による。

物の値段の時系列的変化を見ると長期的に値段が上がる傾向にある財と横這いの傾向の財と、下がる傾向の財がある。
短期で値段が激しく揺れ動く財もあれば、何十年とほとんど変わらない財もある。
物価の変化は、全ての財が一様に動いているわけではない。
物価の変動の法則を知る事は、経済政策を立てる上での基本である。

物価の変化は、インフレーションやデフレーションの素なのである。

財には、第一に無形、有形、第二に、必需品と奢侈品、第三、消耗品と耐久品、土地の様な経済的価値が変化しない財、第四に、保存がきくものと保存のきかない生鮮もの、第五に、流行り廃りがある財と、流行にとらわれない財、第六に、季節変動のある財と、季節に囚われない財。第七に、個別で売る財、量による財、第八に、輸入品、国産品。第九に、消費財、原材料、第十に、工業製品、自然品等がある。また、無形の財には、サービスのような用役とエネルギーの様な財がある。

財の性格は、天然製品と鉱工業製品からなり、鉱工業製品は、最終需要財と生産財からなり、最終需要財は、投資財と消費財からなり、投資財は、資本財と建設財からなり、消費財は、耐久消費財と非耐久消費財からなり、生産財と鉱工業生産財とその他生産財に分類される。


総務省 統計局

値段の性格は、財の性格に基づく。
値段には、一定に定まった単価、定価がある財、相場で決まる財、担保価値を持つ財、為替の変動の影響を受ける財、時間で測られる財(賃金やサービス等)等、一定の性格があり、それが物価の変動を複雑にしている原因になっている。

産業の特性は、財の特性と無関係ではない。産業の消長は、価格によって決まる。産業の基盤を作るのは、財の性格である。
また、投資に関わる財と日用品に関わる財の関係によっても産業は違ってくる。

また、物価は、生産に係る要件、例えば、作柄、戦争や事故、クーデーター、内乱と言った人災、地震や洪水、干ばつと言った天災、生産技術の革新、労働条件の変化といった要件によって左右される。この様な要件は、主として費用、原価に影響する。

物価は、生産者側の都合だけで決まるわけではなく、消費者側の欲求の方が強く左右する場合もある。
消費側から見ると物価の水準は、所得の水準、生活水準、生活様式、価値観、消費構造などが相まって決まる。この様な要件は、主として収益に左右する。


資料:総務省「家計調査」、「消費者物価指数」を基に農林水産省で作成。


物価は、所得を通じて生活水準を平準化しようとする働きがある。物価は、消費構造に基づいて形成される。消費は支出に制約され、支出は、基本的に所得の範囲内に収めようとされる。

生活水準が低い段階では、衣食住などの生活必需品の占める割合が大きくなる。衣食住も生活水準の向上に伴って食から衣へ、衣から住へと比重が移っていく。
そして、このような消費構造の変化は、産業構造に反映し、物価にの構成を制約する。
現代社会は、生産があって消費があるように思われているが、実際は、消費があって生産があるのである。

食品一つとっても肉類のように90年代に入って衰えは見えても基本的に上昇傾向の物もあれば「お米」のように下降線を辿っ入る食品もある。果実や魚介類のようにほぼ横ばいの食品もある。この様に消費と物価が必ずしも連動しているとは言えない。ただ、物価の枠組みの基礎を構成している事は、変わりない。



農林水産省 食料需給表

価格をあまり安易に考えない方がいい。単に安ければいいというのは、価格の働きを無視した暴論である。
また、何でもかんでも規制を緩和すれば万事うまくいくというのも短絡的に過ぎる。

価格は、収益の源であり、収益の働きによって市場は活性化されているのである。

価格は、付加価値に要約される。価格は、どの様な価値を付加するかによって決まるからである。裏返してみると付加価値は価格に集約される。つまり、価格には、利益、経費、償却費、人件費、利息、税金などが込められているのである。
価格も、固定費と変動費、利益によって構成される。ただし、単価に対しては、固定費は、変動的働きをし、変動費は、固定的働きをしている。利益で問題となるのは、限界利益である。この様な価格の裏にある収益構造は、価格の性格を表している。売上は全体を表し、単価は、部分を構成する。故に、単価設定を間違うと収益は見込めなくなる。値決めが決め手というのはその事を言う。
価格を構成する要素のどの部分を抑えたかが問題なのである。それによって量に重点を置いているのか、質に重点を置いているのかが明らかになる。価格の働きは密度で決まる。
価格は、「お金」の単位で表されるが、価値は、「お金」ではない。
価格は、安ければいいというのではない。適正な価格を知るためには、その価格の持つ働きを理解しなければならない。その為には、価格に付加されている価値を明らかにする事なのである。
価格の本質は、付加価値である。付加価値は、「お金」の働きによって成り立っている。
「お金」の働きが付加価値を生み出している。付加価値は、貨幣から生み出された価値である。付加価値は、貨幣が存在したから生み出された。そして、いい意味でも悪い意味でもこの付加価値が経済現象を主導しているのである。
この付加価値を現在金融も産業も否定するような行為が横行している。故に、健全な経済が営まれないのである。
今日、費用や借金は、悪役にされるが、費用がなければ付加価値は生れない。付加価値を構成する要素の働きは、人件費は所得に、利益。地代家賃は企業資本に、減価償却は資産に、金利は負債に還元される。この点を考えないと総資産、負債、純資産、費用の働きは理解できない。
この付加価値を均衡させる収益が必要とされるのである。

価格面からだけ見ていると、物価の本質は見えてこない。例えば、料理等でいえば、価格は変わっていないかもしれないが、数量が減っていたり、質を下げていたりする。

物価の変動を一意的にとらえていたら有効な経済政策も、金融政策も産業政策も立てられない。
あらゆる経済政策は、部分の自律と全体の均衡が保てるように調節する事を目的とすべきなのである。
今日の経済政策の誤謬は、物価を一つの指標としてとらえ、個々の財や産業の動きを見ない事にある。
個々の財が作り出す物価は、各々固有の動きや働きをしている。その動きや働きに応じて施策は変える必要がある。


原油価格と物価


原油価格というのは、極めて特異な過程を経て決定される。故に、独特の動きをする。それだけに価格が形成されるいろいろの要素が際立って見える。物価を考える上でいろいろと参考になる要素がある。

ある意味で第一次石油ショックは、高度成長に終止符を打ったとされる。まだ、第一次石油ショック時に起こったインフレーションは、狂乱物価とも言われ、終戦直後のハイパーインフレーション以後最大のインフレーションであり、以後2018年今日まで、狂乱物価を超えるインフレーションには、遭遇していない。

一商品価格である原油価格の高騰がなぜこのようなインフレーションを引き起こしたかを考えてみると興味深い事が多くてで来る。
第一に、原油という商品の持つ固有の性格である。第二に、原油価格の高騰が狂乱物価を引き起こした背景である。
原油価格の持つ固有の性格というのは、第一に、石油が戦略物資だという事。その為に、政略や戦略に利用されやすい物資だという事。特に、軍事上不可欠な資源だという点。第二に、原産地が限られており、しかも、政治的に不安定な地域に集中しているという事。また、複雑に宗教問題が絡んでいる地域だという事。第三に、石油がエネルギーの主要な資源であり、必需品であり、非耐久消費財であり、消耗品だという点。ただ、備蓄が可能だという事も忘れてはならない。第四に、商品格差がしくなく、差別化が難しい財だという点。第五に、カルテルの存在である。第六に、我が国は、消費大国であるうえに、ほぼ百%近くを輸入に頼っているという事である。この点は、為替の影響をもろに受ける事を意味している。

背景を考える上で、狂乱物価の原因は、石油価格の高騰だけではないという点である。確かな石油価格の高騰は、物価上昇の重大な因子であったことは確かである。
一つは、列島改造による地価の上昇である。田中角栄が打ち上げた列島改造論による地価がの上昇が第一の背景として考えられる。ただ列島改造に至る過程も重要なのである。列島改造論を田中角栄が打ち上げたいきさつは、経済が成熟期に入る事で経済の成長率が鈍化してきたという事がある。

また、ニクソンショックによる急激な円高である。これは、プラザ合意後のバブル形成期にも見られた現象である。
急激な円高、地価の上昇、収益力の低下、この様な要素によって余剰資金が株や土地の投機に向けられてのがバブルであり、消費財に向けられたのが狂乱物価だと言える。

これらの事を鑑みると異常なインフレーションやバブルの形成の背景として為替の変動、地価の上昇、収益力の低下が決定的な要因として働いている事が窺える。

では、原油価格がどの程度物価に影響したか。この点に関しては多くの異論があり、第一次石油危機の際は、過剰反応した部分があるのではないかというのが通説である。この点でいえば、その時の国民感情が物価に重要な影響を与えていると思われる。
また、石油価格が物価に与えた影響は、少なくとも我が国においては、一時的なものと言える。原油価格の高騰が原因で慢性的なインフレーションになったとはいいがたい。むしろ、為替の変動や経済成長とった市場の底辺に働いている力の方向性の方が決定的な働きをしていると考えられる。

この様に物価は、一律に決まるわけではない。いろいろな要素が絡み合って物価は形成される。今あげたような要素以外にもバブルには、金利が重要な働きをした事が知られている。

物価と、人、物、金




海外と交易せずに、人口も一定で、生活環境や様式も変化せず。生活に必要な資源の生産の一定で、通貨量も変化しなければ、物価も一定している。ただ、人、物、金の何かが不足すると物価は、変動する。物価は、極めて危うい均衡の上に成り立っている。
人、物も、「お金」も一定ではない。絶えず揺れ動いている。諸行無常なのである。
物価を動かす要因には、人、物、「お金」、各々に起因する事がある。

先ず人口の問題である。全人口が必要とする資源を調達する為にどれくらいの人間が必要か、その人口が確保されているかが問題となる。そして、人口動向や人口構成の変化である。少子高齢化などが物価の変動の下地となる。生活水準や生活様式の変化等が物価にどう影響するかである。人口は、長期的な周期で変化する。しかし、生活の様式や水準は、急速に変化する事がある。電気やガスが普及していない時代と今日とでは、生活必需品の質も量も格段の差があり、その需給が物価に与える影響は、格段の差がある。
次に、生産量の問題である。全人口が生活する為に必要とする資源を国内で生産調達する事が可能か。もし自国内だけで生活に必要な資源が調達できなければ、海外から不足している資源を調達しなければならなくなる。
その為には、不足する資源があったらどのような手段でどこから調達する手段が問題となる。
調達する手段には、交易以外に、強奪や戦争という暴力的手段も含まれる。根本が死活問題だからである。生きていくために、必要な資源が確保されなければ、生存できなくなるからである。
今日、一国だけで経済を成り立たせようとすること自体無理がある。

そして、最後に、「お金」の問題である。「お金」が人や物と違うのは、第一に、「お金」は、分配の手段だという事である。第二に、「お金」は、予め満遍なく配分されていなければならないという点である。第三に、「お金」は循環させなければならないという点である。
お金を循環させるためには、単に、「お金」を配分するだけでなく。それを回収すると同時に、再配分しなければならない。「お金」の順な働きは、交換にある。しかし、交換だけでは、「お金」は、循環しない。それを補う形で貸し借りがある。「お金」の流れには、偏ったり、蓄積したり、滞留する性格がある。この偏りや蓄積、滞留が「お金」の働きの効率を悪くするのである。
過不足が生じたら、貸し借りという手段を講じる。貸し借りは、ストックを形成する。資金の過不足は、ストックとして蓄積され、それが金利を通じて時間価値を形成する。時間価値が物価に決定的な影響を与えるのである。
資金の過不足を是正する手段には、貸し借り以外に税がある。税は、強制的に資金を市場から回収し、それを再分配する事によって、資金を循環するのが役割なのである。税制度は、資金の回収、再分配、循環の役割に沿って設定されなければならない。

物価を形成する要因には、物的要因、人的要因、貨幣的要因があり、各々に量的要因と質的要因がある。更に、量的要因には、数量と価格がある。

物価を考える上で忘れてはならないのは、「お金」の性格である。実物的存在である人や物は有限であるのに対して、名目的存在である「お金」は、限りない。「お金」の単位は、自然数で上に開いた離散数である。故に、何らかの形で上限に制約を加えないと無限に発散してしまう。経済は、収束しないと価値が確定しないからである。故に、兌換紙幣として発行数を金等に結び付けたのが本位制度である。現在は、通貨量を通貨当局が制約をする形で上限に制約をしている。この様な通貨制度を管理通貨制度というが、甚だ、通貨を制約するという考え方では怪しくなってきた。通貨当局が、市場の規律を軽んじるようになってきたからである。国債を際限なく中央銀行が買い入れるのがその証左である。今は、物価が落ち着いているからいいが、一旦上昇し始めたら、手が付けられなくなる危険性がある。
なぜ、何のために、「お金」の単位の上限を何らかの形で規制しなければならなくなったのかをよくよく忘れてはならない。それを忘れると物価は、際限なく上昇し始めてしまうからである。

物的要因で量的なものには、生産量、販売量、出荷量、在庫量、消費量、輸入量、輸出量などがある。人的要因で量的なものには、人口がある。そして、質的要因としては、少子高齢化や都市集中などがある。貨幣的要因としては、ベースマネー、マネーサプライ、金利、為替、経常収支、総所得、総生産、売上高、費用、資産、負債、資本、キャッシュフロー、歳入、歳出、公共投資などがある。

人は、消費の面から、物は生産として、「お金」は、取引を通じて価格に影響を及ぼす。価格は物価の根源である。消費は、需要を形成し、生産は、供給を形成し、「お金」は、貨幣価値を定める。

人は、所得と支出を通じて経済を動かし、物は、投資として、「お金」は、貸借と損益として表される。
人は、所得と支出を通じて物価を形成するが、物は、収益と費用の関係から物価を形成する。人の都合と物の都合は、市場価格を通して物価に反映される。人の都合は、需要に反映され、物の都合は、供給に反映される。価格は、需給関係によって調整される。

価格は、数量要因と単価要因に分解できる。単価は、利益と費用に分解され、費用は固定費と変動費に分解される。

物の変化には、生産量が変化していない場合、増えている場合、減っている場合があり。人の変化は、消費量(その根底に人口がある)が変わらない場合、増えている場合、減っている場合がある。「お金」の変化単価が変わらない場合、上がっている場合、下がっている場合がある。
人、物、金の変化が掛け合わさって物価は形成されていく。

例えば、生産量が変わらないのに、消費量が上がっていて、単価か下がっている財もあれば、生産量が減っていて、消費量が下がっているのに、価格が上昇している財もある。物価の変動を予測するためには、その背後でどの様な仕組み、働きがあるのかを解明していく必要があるのである。

  
農林水産省 総務省統計局

お米の消費量は、70年代から一貫して減少している。それに対して生産量は、その時々の政策によって波を打っているが傾向として減少している。それに対して米価は、食管法が廃止するまで上昇しその後下降している。物価は、その時々の政策に左右されている事が見て取れる。

米価の背後では、生産量、総需要、在庫、消費量等が作用している。また、生産量は、消費量に対して一定していない。需給だけに米価が左右されているわけではない事がわかる。

物価に対して法や政策が決定的な働きをする事がある。これは、統制価格と物価との関係を検証する時に重要な要素となる。例えば、米価を考える場合、「食管法」の影響を無視する事はできない。まず第一に言えるのは、市場経済では、利益が中心であり、収益と費用の関係が要であるという事である。
米価が需給と価格の関係による本来の動きと違う動きをしていた。それは、「食管法」によって行政が介在していた事が原因である。「食管法」の精神は、主食である米の自給率の維持にあった。ただ、お米の値段が低く据え置かれた事で、市場では、お米は、利益を上げられない状況になった。まずこれが第一の問題点である。お米の自給率を維持する為に、その負担を生産者がとるか、消費者がとるか、一般政府が負担するかの選択なのである。生産者がとるという事は、収益が確保できずに、損を被る事を意味する。消費者なら費用負担。行政なら、財政負担となる。財政負担は、税金に還元される。米価は、収益、費用、税の関係によって作られていたことになる。このころや見舞が横行し、経済も二重構造になっていた。統制経済の限界が見て取れる。物価を統制によって制御する事には限界があるのである。






需給は、価格に影響をするというのは確かだか、生産に反映されるとは限らない。それは、財の性格に依るからである。例えば、漁業は、収獲の多寡は、生産者の意図と無関係に決まる事が多い。売上が即価格に反映できるのは、工業製品のように生産者が生産量を確定できるものに限る。また、生産量の決定は、販売が確定する以前に決められる場合が多い。そのような場合は、売れないからと言って即生産量を減らすという訳にはいかない。需給と言っても何に基づく、需要予測に基づくか供給量、生産力に基づく予測なのかによっても価格は影響を受ける。巨額な投資を前提とした場合、供給によって需要を造り出す場合さえある。
需給関係だけで物価の動向を予測するのは難しい。

生産と消費、所得の関係は、物価を構成していく。過剰に生産したものは、海外で捌かないと無駄になる。逆に不足する資源があれば、どこからか調達してこなければならない。アメリカのように、基本的に自給自足できるが、過剰生産したものを捌かないと国内の経済が回らない、所得が公平に配分できない国と物不足の国とでは、経済の本質的な部分が違うのである。それは、所得の配分問題に関連してくる。いくら余剰な資源を持っていてもうまく仕事を作って所得を配分しないと経済は回らなくなる。逆に元々資源不足の国は、他国に財を輸出しないと国内の経済そのものが保てなくなる。その均衡の上に物価は成り立っている。国内経済と海外交易の整合性をどう保っていくか、それが、重要なのであり、国内の各部門と海外部門の役割をどう位置づけるかが、鍵を握っているのである。
条件の違う国を同等に扱うこと自体馬鹿げている。

物価を予測するためには、需給だけでなく市場規模や人口などのより包括的な指標が必要である。

物価では、「お金」の動きが決定的な働きをしている。むろん、物の過不足や人口の変化は、根本的な枠組みをつくる。ただ、目先の物価の働きを動かすのは、「お金」である。だからこそ金融が重要なのである。

価格というのは、ただ安ければいいというのではない。生産者の都合もある。生産者の都合というのは、生産を通じて、働きを通じて所得を分配する事も含まれている。消費者側だけの都合を優先するのではなく、消費者、生産者の都合を折り合いをつけるのが市場であり、価格である。どこで折り合いをつけるべきかを測る基準が利益なのである。物価は、利益との関係によって定まる。

物価を決めるのは、最終的に人だという点も忘れてはならない。



人や物には限界がある。



人や物には、量的、空間的、時間的限界がある。量的、空間的、時間的限界から、制約が明確となり、制約によって経済の全体的規模が画定される。全体的規模が画定されたら、内部が細分化され、等級が形成される。等級は質を形成し、質によって貨幣価値に密度が生じる。
密度が形成されると代表値や分散が明らかにされ、経済は統計化される。

物価において重要となるのは、密度である。

経済の限界には、生産の限界と消費の限界がある。
生産の限界は、主として物的限界であり、設備的限界、原材料の限界、労働力の限界、商品固有の限界(例えば、農産物ならば、天候による限界とか、耕地面積による限界、水利による限界等)等の限界がある。
消費の限界は、主として人的限界に基づく、即ち、人口による限界、単位消費量による限界等である。人間は、無限に消費できるわけではない。
これらの限界は、需給関係に反映されて物価を形成する。

これらの限界が必要性や欲望に制約を与え、物価の上限と下限を規定する。

問題は、「お金」は、経済的価値を自然数によって表象している。自然数は、上に開いているから、上限を制限しないと無限に発散する性格を持っている。この自然数の性格がハイパーインフレを引き起こす原因なのである。

人は、自分たちの限界を知る必要がある。人の活動範囲も、命も、活用できる物にも限りがあるのである。活動範囲としては、宇宙はあまりにも広すぎるし、不老不死等望みようもない。一生に食べられる物など万物からすれば微々たる物である。
限りないのは、人間の欲望、観念である。限りある者が限りない物を手に入れようとすれば、結果は最初から見えている。

足るを知らぬ者は貧しい。
限りある人生だから今が大切な意味を持つ。生きていける範囲に限りがあるから、此処が大切となる。一生に食べられる物に限りがあるから、日々の糧にも感謝するのである。人や物に限りがあるから価値がある。

限りがあるから選ばなければならない。全ての人を愛するわけにはいかない。全ての物を食べつくす事はできない。全ての場所に行くことはできない。
結局、限界は、わが身一つに集約されるのである。それが価値の根源である。そして、経済の始点。そして、原点。

「お金」には、限りがない。「お金」には、色がない。「お金」の本質は、数値であり、姿形は、本来ない。我々の目にする「お金」は、仮の姿である。「お金」は、何にでも姿を変える。実体は、「お金」にはない。だから、「お金」は使い方を制限する必要があるのである。

需要の根拠は人口であり、単位消費量である。供給の根拠は、生産手段であり、生産量である。物価の根拠は、購買力であり、単位支出である。そして、購買力の基軸は、所得である。物価は、危うい需給バランス、即ち、消費と生産、所得と支出の均衡の上に成り立っている。人、物、金の均衡が保てなくなれば、インフレーションやデフレーションがおきる。
生産と、消費の均衡が崩れても、所得と支出の均衡が崩れても物価は、乱高下する。所得は、労働か所有から生じる。雇用が減少すれば、持てる者と持たざる者の格差は拡大する。

ハイパー・インフレーションのように破壊的な物価の変動は主として貨幣的現象である。なぜならば、物や人は、有限であり、生産革命によって人口の対して物の絶対必要量は、確保されていると考えられる。それに対して、「お金」は、無限であり実体がない、名目的存在である。それ故に、貨幣価値は、暴走したら止められなくなる。

金融は虚業である。実業に金が回らなければ、貨幣価値は虚しい。物価も空しくなる。



物価は、時間価値を形成する。


物価は、時間価値を形成する。時間価値は、付加価値である。
時間価値は、ストックとフローを結び付ける働きをしている。故に、付加価値は、フローとストックを結び付けている。即ち、借入金は、金利に、固定資産は、減価償却費に、土地は、地代家賃に、投資は、利益に、費用は、物価の上昇率に、所得は税に転換され、フローを構成する。ストックの拡大は、時間価値を増大させる。フローの幅は、時間価値を制約する。必然的に比率が重要となる。比率には、ストックとフローとの比率、前年との対比、構成比等がある。そして、前年との増減は、資金の需給を表している。
そして、付加価値を構成する要素は、相互に働きかける。その基礎となるのは、フローの幅である。フローの幅は、ストックとの関係によって相対的な決まる。
物価は、付加価値を構成する要素間の働きの均衡の上に成り立っている。

物価の変化と金利の変化、所得の変化、収益の変化、利益の変化、税の変化は、相互に影響し合いながら時間価値を構成していく。
物価は、時間の関数である。

通常、時間価値を構成する物価、金利、所得、株式相場は連動して動くと考えられてきた。つまり、方向は、一致しているとされる。また、これらの動きと関連して為替の動きも連動しているとみなされてきた。ただ、ゼロ金利をとられて以降、金利と物価、所得、株価の相関関係が薄れてきたと思われる。ゼロ金利には、時間価値を喪失させる働きがあるからである。
また、物価、金利、所得には明確な因果関係があるわけではなく。相関関係によると考えられる。物価の上昇が金利の上昇を招くこともあれば、所得の上昇が物価や金利の上昇を招くことがある。注目すべきなのは、方向性であり、速度と幅である。即ち、ボラティリティである。変化の方向性や速度、幅は、付加価値の構成比率にも関係してくるからである。

物価の上昇速度よりもはやい速度で金利が上昇したり、逆に物価の下降速度より遅い速度で金利が低下すると景気に深刻な影響を及ぼす事がある。この様な速度の差は、財政事情が影響している事が考えられるからである。物価の上昇速度より速い速度で金利が上昇するとインフレーションが加速される危険性がある。物価の低下速度より遅い速度金利が低下すれば利益が圧迫され、早い速度で低下すれば金余りによってデフレーションが加速する危険性があるからである。

ゼロ金利が続くと金利に鈍感になる。それが怖いのである。物価の上昇局面では、金利が重要な働きをする事になる。物価や所得の上昇速度や幅が金利の上昇速度や幅を下回ると金利は収益を圧迫してくるからである。それは、景気にブレーキをかける原因ともなる。
問題は、変化の速度と幅である。また、金利には、預金金利と貸出金利があり。その金利差が重要な意味を持つ。

物価には、財政状態、国債、長期金利の動向、為替の動向などが微妙に作用する。それは、物価がストックに根ざしている事を意味している。フロー、即ち、所得と消費だけを見ていたら物価の動向は掴み切れない。

経済を動かしているのは、資金の移動である。資金を移動させているのは、資金の過不足である。資金の過不足は、ストックとフローを形成する。ストックとフローは、時間価値に転換させれる。ストックは、貸借によって形成される。
故に、物価には、預貸率が重要な意味を持つ。なぜならば、預貸率は、金融機関の貸し借りの効率を表しているからである。預貸率は、資金の過不足のズレを表している。預貸率は、投資効率を反映しているのである。預貸率は、利鞘を構成し、金利の効率を左右する。金利の効率は、時間価値の基礎となる。時間価値は、経済の推進力である。資金の過不足がブレると経済は、活力を失い、低迷する。

預貸率は、貸し手と借り手の均衡を表している。貸し借りの均衡は、預金と貸付金の関係として現れる。預金と貸付金の関係を表す指標の一つが預貸率である。貸し手は、預金に集約され、貸付金は、借り手に集約される。預金と貸付金の増減と比率が資金の効率を表す。
預金は、所得から消費を引いた値であり、貯蓄を意味するだけでなく、余剰資金、支払準備金、投資原資などの働きがある。貸付金は、投資として現れ、投資には、公共投資、民間企業投資、住宅投資がある。民間企業の投資には、設備投資、在庫投資、運転資本がある。投資は、長期資金の働きを構成する。
貸付金だけが資金量を表すわけではない。預金量も資金量を表す。預金は、金融機関にとって借入金であり、預金の増加も社会全体では負債を増やす事になる。

注目すべきは、2002年から預金と貸付金の関係が逆転している事である。2002年以降、資金が余剰となって金融機関に蓄積されている。逆にいえば、それだけ資金が実物市場に流れていない事を意味する。


日本銀行


一般に、預金は、良くて借金は悪いみたいな印象があるが、預金は、金融機関にとって負債であり、預金と借金は、共通の性格があり、ある意味で表裏の関係にある。預貸率の低下は、金融機関の収益の悪化につながり、また、社会全体から見ると余剰の負債を積み上げる事にもなる。家計の余剰な金融商品は、余剰の債務にもなる。債権と債務も表裏の関係にあるのである。
重要なのは、部門間の過不足の関係であり、一定の部門に偏るのが問題なのである。

貨幣が貨幣本来の働き以外の働きをする事が問題なのである。部門間の偏りが拡大すると貨幣本来と違った働きが過剰に働くようになる。それが市場の働きを歪め、最悪の場合、機能不全に追い込んでしまう。そうなると経済が正常に機能しなくなるのである。

バブルにせよ、リーマンショックにせよ、住宅投資が決定的な働きをしている事を留意する必要がある。
住宅投資の特徴は、住宅は生活手段ではないという事。つまり、生産手段ではなく、将来の収益が見込めない。一方向的な支出だという点である。資金を循環させる手段としては、効用が期待できない。

金利の変化は、物価を動かす。また、金利の変化は利益にも影響を及ぼす。収益の変化は、所得の変化に影響を及ぼす。物価の変化は、所得に影響する。
金融政策によって物価を制御する手段として用いられるのは、金利、金融緩和などによる資金の流量の調節、公共投資による所得配分、規制緩和等である。逆にいえば、これらの要素は、物価に影響を与えているという事である。そして、これらの要素は、付加価値を構成する要素でもあるのである。

変化の後先も景気を占う条件となる。所得の上昇が先で物価が、上昇したのか。物価の上昇に伴って所得が上昇したのか、それによって市場の状況は全く違ったものになる。金利が上がったから所得が上昇したのか、所得が上昇したから金利も上がったのかである。金利、所得、物価の関係は、一筋縄にはいかない。そして、これに所得や収益、費用が絡むとより複雑となる。

市場の拡大に伴って生産量が増え、単価が下がる場合もあるし、市場の拡大に伴って消費量が増えて単価が上昇する事もある。
市場が拡大しているか、縮小しているか。それに伴って生産量が上昇しているか減少しているか、消費量との釣り合いはどうか、単価の動向は一致しているか。これらの条件が重なって物価の水準は定まる。

経済は、全体の規模の変化と部分の割合の変化の関係から形成されていく。全体の規模は、生産を意味し、部分の割合は、分配を意味するからである。総所得が横ばいの時、民間企業の所得が増えれば他の部門の所得を圧迫している事を意味する。全体の変化だけでは、個々の部門の働きを理解する事はできない。
そして、資金の過不足は、ストックとフローを構成する。単位期間の部門の資金の過不足は、貸借上に累積する。
総所得が横ばいでも総資産が上昇している場合、全体は拡散している。それは物価の密度に影響を与える。物価の密度は、ストックとフローの関係から生じる。負債の総量は、金利に反映され、金利は、所得を圧迫する。金利の上限は、所得によって抑制される。支払利息が可処分所得を上回れば経済は破綻する。
物価の変化では、ストックの働きとフローの働きの均衡が重要なのである。

資金の流れには、収入と支出、借入と返済の二つの流れがある。借入金だけがストックを増加させるわけではない。
単位期間の負債と、収入は一致している。なぜならば、借入は収入でもあるからである。
収入と支出、借りと貸しはゼロ和である。借入と収入もゼロ和である。
収入の中で消費に回されない資金は、貯蓄としてストックに積み上がる。貯蓄は、金融部門の借入である。
ストックが拡大している間は、資金は市場に供給され続ける。資金を減少させるためには、負債を清算する必要がある。清算する手段の一つが資本化である。
民営化とは、期間損益主義を導入する事を意味している。
貸方と借方はゼロ和であるが、収益と費用、資産と負債はゼロ和である。
ストックが拡大し続けると資金の供給量も増え続け、時間価値も上昇していく。借入だけがストックを拡大するのではなく、貸出も借入と同量、ストックを拡大するのである。
過剰負債は、過剰資産でもある。レバレッジを聞かせるとストックは、さらに拡大する。信用取引を考えればわかる。損失が拡大したら追証がかかるのである。その時、水面下にある元本は何倍にも膨れ上がっている。名目的な担保は、保証金でも、実質的借入は、元本であり、それが現実の収支を支配するようになる。信用取引を基礎とした経済の落とし穴である。



物価には、全体に統一しようという働きと
個々の部分が自律しようとする働きが作用する


物価は、資金の過不足を均衡化しようとする働きがある。
物価は、所得、資金の過不足、消費水準、労働環境、資源の配分などを平準化しようとする働きがある。

物価には、統一しようとする働きと自律しようとする働きがかかる。
統一しようとする働きと自律しようとする働きの整合性がとれなくなる経済は、分裂状態に陥る。

大切なのは、物価の変動の背後に隠されている市場の構造である。表面に現れる現象に目を奪われて背後に隠されている構造を見失えば、経済を制御する事はできなくなる。

物価で重要になるのは、地合いである。市場全体の底辺に流れる力の方向である。地合いを作るのは資金の流れの勢いである。市場に働く力とフローとストックの関係である。市場の場に働く力の方向が、物価を上昇する方向なのか、下降する方向なのか、それが個々の部分にどのような作用を及ぼしているのかそれが問題なのである。

市場は全体と部分から成る。
市場は、複数の部分を構成する市場が組み合わさり、重なり合って全体の市場を構成している。
市場は場である。

部分を構成する市場は、商品毎、地域毎、段階毎に形成される。
部分を構成する市場は、商品、地域、段階によって性格も構造、働きも違っている。
部分を構成する市場は歴史的な過程を経て形成されている。

成熟した市場の性格と、新興市場とでは市場の性格が違う。当然、物価の性格も違う。
全体の市場が拡大している時でも、個々の部分を構成している市場は、成熟した市場と新興の市場が混在している。
その為に、成熟した市場には物価の下げ圧力が、新興市場には上げ圧力が働く。それは、人件費の水準を平準化しようとする圧力がかかるからである。
全体の動きばかりを見て部分を構成する市場を一律に扱ったら市場を制御する事はできない。
部分を構成する個々の市場の働きと全体の市場の働きの整合性をとるように政策を決めていかないと市場は均衡を失うのである。

極端な規制緩和は、市場の規律を乱し、結果的に市場の寡占、独占を招き、あるいは、保護主義をよぶ。
公平、公正な取引を実現するためには、統一的なルールを築く必要がある。

物価は、物の価格である。
全体の働きと部分の働きが価格に反映する。全体の働きは、全体を統一、統制しようという働きになり、部分の働きは、部分としての整合性や働きを維持しようとする。

この全体を統一、統制しようとする働きと、自律的な働きを保とうとする働きの二つの働きが市場を動かしている。

全体を統一しようという働きと、部分の自律性を守ろうとする働き、この二つの相反する働きの均衡を保とうとする行為によって、物価は変動する。物価の変動によって生活水準や所得を平準化しようとする働きが生じるのである。

全体を統一しようという働きと、個々の市場が自律性を守ろうとする働きの相互作用が、よく現れているのが為替の変動である。
日本の為替制度は、現在、変動為替相場制度を採っている。日本は、為替の変動に対して浮島のような動きをしている。
物価と為替は、表裏の関係にある。為替の変動は、輸出入物価に直結している。
輸出入物価は、国内物価と国際物価双方に働いて内外の経済格差を是正しようとする。
為替によって国内、国際市場は地球的規模で結びついている。
為替と物価が結びつく事で、中東の戦争が日本の物価を押し上げるといった現象が起こるようになったのである。
そして、市場が地球的規模で結びつく事で購買力平価という考えも成り立つのである。

全ての物価は、国際的均衡点に収斂するというのが、購買力平価の概念である。

長期的に見れば、購買力平価というのもある程度の妥当性があると思われる。
問題は、良かれ悪しかれ、「お金」が「お金」としての独自の働きを持ち、それが物価に重大な影響を持つようになったという事である。

物価は、水準も性格も、商品、地域、段階によって動きや働きが違う。
物価は、ベクトルである。

商品の特性によって物価の性格も変わる。例えば、生鮮食品のように鮮度が重要な商品と石油のように保存がきく商品とでは価格の変動の仕方や変動要因は違う。また、自動車や家電製品のように流行り廃りがある財と、電力やガス、水道のように商品格差がつけにくいものとでは、価格を決定する要因や周期が違う。文房具の様な消耗品と住宅のようにに長期にわたって使用する物とでも物価の変化は違う。家具のように伝統的な技術に支えられている財と通信技術のように技術革新が激しい財とでも物価の動きは違う。株の様な日々の値動きが激しい財と鉄道料金のように何年も価格が変わらない財もある。
この様に、商品の特性によって財の価格の動きは違う。
商品の性格は、商品の持つ生産特性や消費者の嗜好の変化に基づく。故に、商品の性格も絶対的ではなく相対的である。

物価の働きは、物価を構成する要素によっても差が出る。
物価を構成するもので基礎的で固定的な部分、即ち、必需品と変動的だけれども経済成長を指導する部分。更に、市場を拡大させる部分では物価に与える影響が違う。また、余剰的部分、つまり、生活にゆとりができた時に発達する部分、奢侈、贅沢品を構成する部分とでは、景気に与える影響が違う。
一次産業、第二次産業、第三次産業等の産業の差からも物価は違ってくる。

市場は、人と物と金の独立した場からなる。人は、消費を構成し、物は、生産手段を構成し、「お金」は、資本を構成する。

一物一価というのは、一期一会に似た概念で一つの財には、一つの取引によって決められる価格は、一つしかないという事である。定価という事に否定的な今日では、価格は、一回一回の取引によって決められ同じ商品でも同一の価格ではないという事が当然だと考えている人から見れば当たり前なことかもしれないが、定価販売が一般であった時代には、一価というのを定価と考えている傾向がある。一価というのは、定価を意味しているわけではなく、一つの取引で決められる価格は一つだという事を意味している。

価格の基準というのは、必ずしも市場取引に限られているわけではなく。例えば、土地は一物五価とも、六価とも言われている。それは、取引で決められる価格が五つも六つもあるわけではなく、未実現利益や課税対象額の仮想的価格をも含めていっているのである。実際の取引で決められる価格は一つである。

故に、物価は、市場ごとにある。問題は、個々の物価の何が景気を引っ張っているかである。それは、支出に占める財の占める割合が重要な意味を持つ。そして、それは、その時代その時代の世相を反映しているのである。

市場の動きは、一律でも一対でもない。拡大期にある市場と成熟期にある市場、衰退期にある市場が共存しており、拡張期にある市場と成熟期にある市場と衰退期にある市場とでは、物価を形成する仕組みが違う。

また、物価を表す指標も市場によって違う。消費段階、流通段階、生産段階では物価の水準に差が出る。
経済予測や経済分析に用いられる物価は、代表値である。一般に物価を表す指標に用いられるのは、消費者物価である。

物価で重要なのは、市場に働くアルゴリズムである。故に、経済分析や経済予測をする時は、市場に働くアルゴリズムを解明しておく必要がある。

現金収支は、ゼロ和である。しかし、利益は、ゼロ和ではない。
経常収支は、国際市場ではゼロ和である。
家計、財政、民間企業、海外部門の現金収支は、ゼロ和である。

この事は、論理的に自明な事である。

論理的に自明な事を無視する事は、非科学的な態度である。
全ての国の経常収支を黒字化しろと言ったり、また、黒字化する事が可能だとするのは、非科学的態度である。
そのように非科学的な態度は、問題を拗らせることはあっても改善する事はできない。

つまり、全ての国や地域、経済主体の経済的評価を一律の経済指標で判断する事はできない。前提条件が違うのである。

全ての国の経常収支を、全ての部門の現金収支を黒字化しようとしたら、全ての国、全ての部門の現金の過不足を完結しなければならなくなる。それは、全ての要素を平準化する事を意味し、国際分業を否定する事で非現実的である。
全ての国を黒字化しようとする事は、全ての国の経済行動や方向を統一する事を意味し、それは、経済を一定の方向に暴走させてしまう。
経済で重要なのは、分散と均衡であって、個々の部門の働きと全体の働きの整合性が問題なのである。

全ての国、全ての部門に固有の事情があり、条件に差がある事を前提としない限り、経済問題は解決できない。

経常収支の赤字は、赤字国の問題だけではない。黒字国の問題でもある。
そして、赤字国だけで解決できる問題ではない。だから、解決をするためには、国際間で協議する必要がある。

個々の指標は、各国の経済状態や前提、個々の部門の事情を反映したものでなければ意味をなさない。

経常収支が赤字だというのは、状態を表しているのであり、倫理的価値観を表しているわけではない。
その状態を是とするか否とするかは、個々の国の状態全体との整合性をいかにとるかの問題である。

公正な取引を維持しようとして市場の規律を保つ事は、各国の市場の規律に影響を与える。物価を通じて所得や労働条件、生活水準は平準化される。その為には、公正な競争を維持される様に市場は規制されるべきなのである。

経済人が利己的な動機に従って行動すれば、経済が円滑に成長するというのは、間違った認識である。事業には、事業家の高い志と倫理観が要求される。経済は、金儲けのための手段ではない。

物価の働きは、全体と部分の働きの均衡が重要なのであり、全体だけ見ていても部分だけ見ていても理解できない。

今の経済学は、政策や企業経営に直接的に役に立っていない。現実の社会に活用できない学問は科学ではない。


価格は何によって決まるのか。


市場経済では、基本的に価格は市場価格である。しかし、公共料金など一部に統制価格が用いられる。また、独占、寡占市場では独占価格が現れる事がある。いずれにしても価格は、一般に考えられているほど簡単に決められるわけではない。

価格は何によって決まるのか。価格は何によって決まるかは、価格は誰が決めるのかにかかっている。
また、価格はどこで決まるのかにもよる。価格は、価格の決め方、手段によっても違ってくる。
価格を決める要素には、第一に、財、即ち、商品。第二に、売り手。第三に、買手。第四に、価格を決める場所、第五に、価格の決め方、手段。第六に、取引の段階。第七に、資金。第八に、決済手段、条件がある。そして、この要素によって価格の違いが生じる。
一般に、売り手は生産者側に属し、買手は、消費者側に属する。

また、価格には、市場価格、独占価格、統制価格があり、価格の種類によっても価格の決め方は違ってくる。

価格には、市場価格、独占価格、統制価格がある。

価格は、商品の性格によって決め方が違ってくる。例えば、生鮮食品と株などの金融取引では、取引の場所も、手段も、決済の仕方も違ってくる。原油と灯油の価格の決め方も違う。
また、石油製品のように液状、気体のものは、重量や体積によって価格が決められたり、電力やガスのように使用量によって価格が変わる物もある。

価格は、売り手と買い手の関係によっても違いが生じる。売り手が独占、寡占状態では、売り手市場が形成される。売り手が過当競争状態では買い手市場が生じる。どちらが是で、どちらが非かというのではなく、前提や条件、状況によって売り手市場、買い手市場も入れ替わる。

市場価格といってもその都度、全ての価格が相対で決められるわけではない。
売り手が一定のメニューを予め決めておいてその中から客が注文を付ける場合もある。
売り手が限られていて買い手がが不特定多数な場合もある。逆に売り手が多数で、買手が少数の場合もある。
例えば、自動車メーカーは限られているが、買手である消費者は不特定多数である。
逆に受注製品である住宅などは相対取引が多い。

場所も市場だけで価格が決定されるわけではない。公共料金は、公共機関や場合によっては議会で決められる。統制価格や管理価格などもある。カルテルや提携などによって決められる事もある。
書籍は、出版社が出版部数などの予測に基づいて決める。

市場で価格を決める場合は、基本的に市場取引による。

価格の決め方もいろいろな種類がある。定価を予め決めておく場合もあれば、オープン価格として店頭で決める事もある。また、公共事業など入札で決める事もある。骨とう品や美術品、生鮮食品等、セリ、競売、オークションによって決める事もある。
入札だけでも契約方式によって違いがある。契約方式には、一般競争契約、指名競争契約、随意契約の三つがあり、更に、一般競争契約は、一般競争入札、公募型競争入札、オープンカウンターの三つの方式があり、指名競争契約には、指名競争入札、希望性競争入札の二つの方式があり、随意契約には、随意契約、企画競争入札がある。

原材料か完成品かによっても違いが生じるし、卸段階では卸売物価、消費段階では、消費者物価というように物価そのものにも違いが生じる。

価格は、資金の状態によっても変化する。
資金の形は、決済手段を制約する。

また、インターネットの発達は、販売方式や決済手段を根本的に変えてしまった。インターネットは物価の形成過程を決定的に変えつつある。

基本的に市場取引は、財の受渡と現金の支払いが同時に行われるとは限らない。その為に、支払い条件や荷物の受渡、運送などの取り決めによって価格は影響を受ける。

市場経済では、全ての貨幣価値は、価格に収斂する。
適正な価格を維持する事が市場経済を維持するための必要条件である。
では適正な価格とは何か。現代人は価格は限りなく安ければいいという間違った観念にとらわれている。
価格は、貨幣価値を集約したものであり、安さは一つの目安に過ぎない。
それよりも価格の果たしている役割を正しく理解する事が先決なのである。

価格が市場で決まる時は、売り手と買い手がいて、売り手と買い手の力関係によっても違ってくるのである。
価格は必ずしも市場だけで決められるわけではない。政府が決めたり、生産者が決める場合がある。

価格には定価がある場合とない場合がある。

価格は、商品の値段である。
価格は基本的に需要と供給と所得との関係で決まる。

民間企業が価格を決める場合は、利益が前提となる。
利益は、売上から費用を引いた値である。
売上は、数量と単価の積である。
費用は、固定費と変動費からなる。
故に、市場を決める要因には、数量的要因、単価的要因、固定費的要因、変動費的要因がある。
そして、基本には、収益構造がなければならない。

もう一つ見落としてはならないのは、税金が物価に与える影響である。

価格を決めるのは、需給、所得、そして、利益である。

消費税は、価格に直接影響を与え、所得税は、所得を、法人税は、利益を課税対象にする事で間接的に影響を与える。
いずれにしても税は、物価に重大な影響を与えていることは確かである。




物価の働き



物価は、物の価格を安定化する事で市場全体を均衡させようとする働きがある。物価は、所得との関係によって生活水準を平準化しようとする働きがある。物価は、格差を是正しようとする働きがある。物価は、財の価格の基準を制約する働きがあるのである。
物価は、統計的働きを市場に導入する。

物価は、物の価格を基礎とした指標である。物の価格というのは、貨幣価値を言う。つまり、物価の働きは、貨幣、即ち、「お金」の性格に依る部分が大きい。

「お金」の性格は、第一に、「お金」は、循環する事で効用を発揮すると言う点である。第二に、「お金」は、名目的指標であって実体がないという事である。第三に、名目的価値は劣化しない。第四に、「お金」は、交換価値を数値化し、表象している。第五に、貨幣体系は閉じた体系だと言う点である。第六に、貨幣価値は、上に開いている。第七に、貨幣価値は保存ができて、蓄積できる。第八に、貨幣価値は、相対的価値であり、絶対的基準ではない。第九に、「お金」は匿名性がある。第十に、「お金」の本質は、情報だと言う点である。

「お金」は循環する事によって効用を発揮する。「お金」を循環させるのは、資金の過不足である。そして、実際的に「お金」を動かしているのは、売り買い、貸し借りである。
名目的指標である「お金」は、「お金」自体が実体を持っているわけではない。「お金」が指し示す対象があって成り立つ。そして、お金は、何らかの対象と交換される事に依ってはじめて効用を発揮する。「お金」は、使わなければ意味がない。「お金」は、尺度である。
「お金」の本質は、数値であり、情報である。「お金」は対象とと結びつく事であり、対象の交換価値を数値化する。数値化された交換価値が貨幣価値である。交換価値を表象する貨幣価値は相対的である。貨幣単位は、絶対的基準ではなく。絶えず揺れ動いている。
自然数である貨幣価値は、上に開いている。つまり、何らかの制約を設けないと貨幣価値は無限に拡散する。
「お金」が作り出す体系は、閉じた体系であり、物や人の体系から独立している。
貨幣価値は保存する事が出来、貨幣は貯める事が出来る。
「お金」は、匿名であり、所有者を特定できない。「お金」には、色がない。

これらの「お金」の性格と市場の構造が物価を形成している。
人と物には限りがあるが、貨幣価値には限りがない。限りある物を限りないもので測ろうとすれば、何らかの制約を設けない限り無限に拡散してしまう。「お金」とは、そのようなものである。そして、人の欲も限りない。限りない貨幣価値と限りない欲が結びつけば、抑制は効かなくなる。

物価は、経済のみならず、政治や社会に深刻な影響を及ぼす。物価は、人々の生活に直結している。インフレーションやデフレーションとていった物価の変動は、時には、戦争や革命、クーデター等の原因にもなる。物価を如何に制御するかが、経済政策の鍵を握っているのである。
貨幣経済下では、物の価格に、経済事象の全てが要約されていると言っても過言ではないのである。だから、物価を制御する事は、政治第一の課題だといえるのである。

特に、物価で問題となるのは、恐慌とハイパーインフレーションである。
日本も第二次大戦終戦後しばらく、1945年8月から1945年初めまで、ハイパーインフレーションに見舞われた。1934年~36年までの卸売物価を1とすると49年までに約220倍、45年の水準から見ても70倍にも達するハイパーインフレションを日本は経験した。ハイパーインフレーションは49年のドッジラインまで続き。ドッジライン以降は、逆に縮小へと転じた。
その後高度成長時代へとなり、高度成長は、74~75年の狂乱物価によって幕を閉じる事になる。狂乱物価の際は、23%の物価上昇率を記録する。その背景にはオイルショックによる石油価格の高騰がある。

消費者物価指数を前年比で見てみるといかに、いかに狂乱物価の時の変動が大きかったかがわかる。
それから見るとバブル期の物価は、余り大きく変動せず、かえって落ち着いて見える。
それは、バブル崩壊後も同じである。ただ、リーマンショック後の物価の落ち込間が大きかったのも読み取れる。

この様に物価は、時代や地域性を反映している。

消費者物価推移(1974~2013)
  
総務省統計局

1970年以降2013年までの目ぼしい物価の変動を上げてみると次のようになる。
1974年の物価の急激な上昇は、1973年に起こった第四次中東戦争に端を発した第一次オイルショックを反映している。1972年から1974年までの物価上昇を狂乱物価と名付けたのは、福田武夫である。総合卸売物価は73年で15.6%、74年で31.4%上昇し、消費者物価指数は73年で11.7%、74年で23.2%上昇、74年の実質GDPは-0.2%となった。春闘での賃上げ率は73年で20%、74年で33%上昇した。(Wikipedia)
1980年の物価上昇は、前年の第二次石油危機による。
1986年の物価下落は、85年のプラザ合意後の円高不況による。
2009年の大幅な物価の下落は、リーマンショックの影響である。

狂乱物価の背景は、ニクソンショックによる急激な円高、それに対する列島改造ブームによる物価の上昇、それに追い打ちをかけるような原油価格の高騰と物不足の風評である。

原油価格の高騰は、急激な物価の上昇とその後の急速な冷え込みを伴っている事がわかる。この様な物価の上昇には、急激な輸入物価の上昇と物不足(風評によるものでも)が関わっていると考えられる。

デフレーションは、円高と資金不足が背景にあり、また、その後にバブルやインフレーションの伏線として作用している。
また、リーマンショックは、流動性が極端に失われた事による。いずれにしても資金の働きが隠されている。

消費者物価推移(1995~2015)

総務省統計局

仮に物価が前年を下回る状態をデフレーションとするならば、2000年代はデフレーションだったと言える。
安倍政権は、デフレーション脱出を一番の課題として掲げている。物価の働き、安定はそれほど強烈なのである。

景気は、物価の変動として現れる。
では、物価は、何によって動かされるのか。

円高不況と言うが、その場合は、物価は、為替によって動かさせれると考えられている。
オイルショックの際は、石油の高騰。バブルは、金利や金融緩和と言った金融政策。地価の変動も物価に影響する。

産業の経済活動は、物価を形成する一因である。
また、物価には、経済を調整する働きがある。所得と物価の関係によって消費構造は変わる。例えば、所得が伸び悩めば、将来の所得の増加が期待できなくなり、衣食住などの生活必需品の消費に占める割合が増え、逆に市場が拡大している時は、贅沢品の消費が増える。
逆に、消費構造によって産業構造が形成されたりもする。自動車産業の発展に伴って自動車に対する支出が増大するといった例である。

経済の本質は、産業である。「お金」は影である。「お金」の価値は名目であり、虚である。物つくりの時代は終わったなんて言う人間がいるが、それは経済の実態を知らない者が言う戯言である。経済は、生きるための活動である。人間が生活するために必要な資源を生産する事がその根本にある。「お金」は、手段である。人は金儲けのために生きているわけではない。生きるために「お金」を稼ぐのである。
「お金」の働きには限界がある。「お金」は、所詮、人間が生み出したものである。「お金」によってすべての価値を網羅する事はできない。「お金」の限界を知るから「お金」をうまく活用できるのである。

ただ、だからといって「お金」を粗末にしてもいいという事にはならない。
「お金」を侮蔑する者ほど「お金」に汚くなる。

物価の働きを理解するためには、所得の動きと物価の動きとを結びつけて考える必要がある。
長期的な観点から見ると物価は、人口構造の変化にも影響を受ける。

物価の働きは、人、物、金の構成や関係によって変化する。
物価の働きは、全体と部分の働きの均衡が重要なのであり、全体だけ見ていても部分だけ見ていても理解できない。


バブルとインフレーション



物価は、経済の状態を表す指標である。経済はいわば市場の体温みたいなものである。経済を動かしているのは、資金の過不足である。単位期間内における資金の過不足は、資金フローとして現れ、長期資金に累積する。累積した資金は、時間価値として資金フローに反映される。資産価値がフローに還元される過程で人、物、金の均衡が計られるのである。物価は、人、物、金の均衡点でもある。

物価は、時間価値を形成する。金利、所得、利益、地代、家賃、物価は時間価値を構成する。そして、金利や所得、利益と言った時間価値は、物価を押し上げる。

物価は、消費財や消耗品のような短期的なもの、即ち、フローばかりではない。土地や家具、自動車の様な長期間、効用を発揮くする財が構成する、即ち、ストックに係る物価もある。

一般にインフレーションというと消費や流通の局面に現れる現象をいう。しかし、物価の上昇というのは、消耗品や耐久消費財といった消費財の上昇ばかりを指すのではなく。物価の上昇は、地価や住宅の様な資産にも現れる。資産とは、ストックを意味し、消費財は、フローを意味する。
そして、資産価値、即ち、ストックの急激な上昇がバブルなのである。

フローとストックは、資金の過不足と時間価値によって密接に結びついている。ただ、フローの価格変動とストックの価格変動は、直接的に結びついているわけではない。フローとストックは構造的に影響を与えている。

時間価値というのは、金利、所得、利益、地代家賃、そして、物価などによって構成される。時間価値を構成する要素は、相互に影響をしあっている。

バブルが再生時の時は、年収と地価の関係倍率が話題になった。地価は、賃貸との関係によっても影響を受ける。そして、金利や税が重要な役割を果たす。この様に地価は、地価単一で決まるわけではない。これは、物価にも当てはまる。

経済は、資金の過不足によって動いており、資金の過不足は、資金の長期的働きや短期的働きの根源である。資金の長期的働きや短期的働きは、時間価値を生み出すと同時に、時間価値に依拠している。故に、インフレーションもデフレーションも時間価値が根源的な部分で働いているのである。

バブルの時、何が一番問題だったかを思い出せばわかる。地価の上昇によって実需が排除された事なのである。地価の上昇によって都心部は過疎地と変わらなくなった。人が生活できなくなったのである。また、投資と収益が合わなくなり、資産価値の含み益による借金によって収入を得るという異常な状態になったのである。土地の評価も原価法や取引事例比較法と言った地価を基礎とした手段が用いられ、収益還元法といった収益を基礎とした手法はバブルがはじけるまでは用いられなかった。
貧乏人の資産家と言われる人たちが多く発生し、実際の生活に支障が出るようになった。例えば、異常な地価の上昇が資産税や相続税を押し上げ、生活費にまで事欠くような事態を招いた。また、無理やり借金をしなければ、相続税が支払えないような状態になったのである。かといって土地を売るわけにもいかない。なぜならば、自宅とか、店舗や工場だったり、買い手がつかずに売れないと言った売るに売れない土地である場合が多く。ただ地価の上昇や含み益を当てにして借金をして食いつないだ例もある。また、仮に売れたとしても税金の支払いなどでかえって損が出たりする。実際に土地活用で土地を売買するのではなく投機的目的の土地売買が横行し、それが、地価をさらに押し上げるという悪循環に嵌ったのである。つまり、実体のない虚構の上に築かれた経済だったのである。その虚構がバブル崩壊後、四半世紀以上にも及ぶ景気停滞を生み出してしまった。
バブルが崩壊すると結局借金と空き地だけが残されたという無残な結果に終わった例も多いのである。
この様な事例は、フローの価格と変動とストックの価格変動は、直接的に結びついていないが、お互いに構造的な制約条件として働いている事を意味する。
地価(ストック)の上昇を収益(フロー)の面から説明する事はできないが、地価の異常な上昇は、収益に対して重大な影響を与えるのである。その根底に流れているのは、長期的資金の働きと短期的資金の働きの関係である。

現在の金利圧迫、低金利、ゼロ金利、マイナス金利は、財政の歳入不足による国債の大量発行がある。大量に発行された国債が良質の貸し付けに転嫁できず、金融機関に滞留している事が原因なのである。ストックの変動とフローの変動が不均衡なのである。
歳入不足を国債に頼っている限り、金利圧迫は解消できない。国債は、歳入を増やすか、歳出を削減するかによらない限り、解決できない。増税によって歳入不足を解消とすると今度は、民間の収入を圧迫する事になる。基本的に税は拡大再生産に寄与しない。税外収入を測る必要がある。ただ、歳入を増加しようとすれば、インフレーションを歳出を削減しようとすると市場の資金不足によるデフレーションを引き起こす危険性がある。

リーマンショックは家計の負債が所得に対して相対的に拡大した事による。低所得者が住宅価格の上昇を当てにして借金による収入を拡大した事が主因である。ストックとフローの緊張関係が極限に達した時、流動性が失われ経済活動に急ブレーキがかかったのである。

何が隠されているか。第一に言えるのは、本業で利益が上げられなくなる事である。第二に、本業で利益が上げられなくなると収入部策を資産運用に頼るようになる。しかし、資産運用では、実物経済に資金が回らなくなる。その為に、ストックとフローの変化の幅が乖離し、均衡が保てなくなる事なのである。
現代経済の根本は利益にある。利益は、収益と費用の差に求められることが基本であり、前期、当期の総資産の差に求めるのは、二義的なのだという事を忘れてはならない。
バブルの時は、円高不況によって本業の収益が圧迫され、借金をして土地や株に投機した事が原因である。金利圧迫には、公共投資に財政収支の不均衡が影響している。また、リーマンショックは、住宅投資に起因している。いずれも拡大再生産につながらない投資を借金によって行っているという点である。不確かに将来の収入を担保して借金を増やしているのである。当てにしていた将来の収入が実現不可能な幻想だと人々が気が付いた時、資産価値は大きく下落し、借金だけがなくる状態になる。そうなると、稼いだ収入の過半を借金の返済に廻さざるをえなくなり、再投資に資金が向けられなくなるのである。しかも、収支の均衡が破れれば、借金の返済のために借金をせざるを得なくなり、金利負担が拡大する。

何が目に見えない動きかと言うと借金の元本の返済の動きである。借金の元本の返済は、損益上には現れないのである。

インフレーションは、必ずしも資産の上昇を伴っているわけではない。つまり、インフレーションとバブルは連動しているわけではなく。その背後にある資金の流れや構造的な問題である。消費者物価が下落しているのに、地価が上昇したり、株価が急騰するなどという現象は往々に起こる。逆に、インフレーションなのに株価が急落するなどという事もよく起こる。

物価の上昇には、ストックの上昇と同時にフローが上昇する型、ストックの上昇に対してフローが下降する型、ストックが下降しているのにフローが上昇している型、ストックもフローも下降している型の四つの型がある。そして、それぞれの型は、市場の位相を表している。

80年代後半に起こったバブルは、プラザ合意による円高に端を発している。つまり、急に資産価値の上昇が始まったのではなく。短いが円高不況が伏線としてある。一旦、円高による不況があってバブルは発生したのである。
収益の低下を補おうとして投機によって一時的な利益を稼ごうとしたのである。それが負債を拡大した。収益の悪化も円高は、きっかけに過ぎず、それ以前に、市場の成熟による高度成長の終焉、石油危機による物不足という背景が隠されている。

バブルがインフレーションを引き起こしたかというとそうとも言えない。むしろ、バブル崩壊後のデフレショーンの方が深刻なのである。

ストックの物価とフローの物価は、変動要因も働きにも違いがある。ただ、フローとストックとの間には、密接な関係があり、何がストックの変動要因となるか、フローの要因となるかを見極めたうえで、ストックとフローの関係を明らかにする必要がある。

先ず、ストックにせよ、フローにせよ物価を動かす要因には、第一に、消費的要因、第二に、生産側の要因、第三に、貨幣的要因、第四に資金的要因、第五の市場の要因、第六に、所得の要因がある。
消費的要因とは、消費者のライフスタイルの変化や消費構造、支出構造の変化、人口構成の変化等を言い、生産側の要因とは、生産量や供給設備の変化、また、事故や災害等を言う。貨幣的要因とは、為替の変動や金利の状態等である。資金的要因とは、資金過不足や資金の流れ、投資の状態、地価や資産価格の動向等である。市場的要件として地理的な要件や資源、環境問題などである。所得の要因とは、雇用状態、労働条件の変化、支出と貯蓄の構成等である。
これらの要件がストックやフローにどのような影響を及ぼすかによって資金がどちらに流れるかが変わる。

消費構造や支出構造は、フローの要因であり、人口構成やライフスタイルの変化は、ストックの要因である。生産量の変化は、フローの要因であり、供給設備の変化はストックの要因である。為替の動向は、フローの要因であり、資本の状態はストックの要因である。
消費は、支出であり、費用に結び付くし、所得は収入であり、収益に結び付く。ただし、消費と収益は表裏の関係にある。ただ、消費の拡大、費用の上昇によるインフレーションと所得の拡大、収益の拡大によるインフレーションとでは、景気に与える影響に差が出てくる。消費の拡大によるのか、生産の拡大によるのかでもインフレーションの性格に差が生じる。景気の流れに影響するからである。

インフレーションの原因は、物不足か、金余りである。物不足や金余りは、インフレーションにおいて決定的な働きをするが、物不足だから、金余りだからインフレーションになるとは限らない。早い話、金余りでも、金の使い道がなければ、即、物価に反映するとは限らない。旧社会主義国では、物不足だからといってインフレーションになったとは聞かない。ただ、インフレーションに物不足や金余りが引き金となっていることは確かである。
問題なのは、インフレレーションを引き起こす仕組みなのである。インフレーションを引き起こす仕組みで鍵を握っているのは、時間価値である。
時間価値とは、付加価値を構成している要素でもある。

金融は、物価の背後で物価を動かしている。金利が時間価値を形成し、元本の返済は長期資金を動かしている。そして、長期資金の働きは、ストックから発生するのである。

経済を動かしている仕組みの上で物不足や金余りが引き金になってインフレーションやデフレーションは発生するのである。
では、物不足や金余りだけでインフレーションになるかというとそうではない。大体、金がなければ、いくら物不足と言ったってインフレーションになるわけではない。江戸時代、飢饉の時に、大金を懐にして餓死した旅人がいるという記録が残っている。インフレーションは、貨幣的な現象なのであり、「お金」が「お金」として機能していなければ、物不足だとしても、金余りだしとてもインフレーションになるわけではない。

今日、懸念されているのは、長期金利の動向であり、長期金利が物価に与える影響なのである。
景気が良くなり、地価が上昇すると資金の供給量が増え物価が上昇する。その時、巨額な国債の存在が障害となって金利を上げる事が出来ないと景気の過熱を抑えられず、インフレレーションを加速してしまうのではないかという点なのである。

例えば、1974年に狂乱物価と言われるインフレレーションが起こった。狂乱物価が起こった伏線は、1973年に列島改造ブームによる地価の高騰、高度成長の終焉、ニクソンショックによる急激な円高による収益力の低下があり、第一次石油危機が加速した。第一次石油危機の際は、物不足の風評の影響も働いている。

80年代のバブルの時は、第二次石油危機による石油の高騰、プラザ合意後による円高不況などの伏線があり、資産価値の高騰を招くが物価の上昇は狂乱物価当時に比べてさほど大きくない。
狂乱物価の時は、主としてフローに流れた「お金」が、バブルの時は、ストックに流れた。前提となる条件は、収益の低下、円高とよく似ているのに、一方は、フローに他方は、ストックに資金が流れた。それは、単なる偶然ではなく構造的問題である。

現代経済の仕組みの柱は、利益、即ち、収益と費用の関係にある事を忘れてはならない。物価も例外ではない。
適正な利益が上げられなくなると物価もおかしくなる。
貨幣経済の仕組みを動かしているのは、経済主体である。経済主体を動かしているのは、「お金」の入りと出、即ち、収入と支出である。ただ、現金収支だけでは、「お金」がどんな働きをしているかを理解する事が出来ない。そこで、時間を単位期間に切って「お金」の働きがわかるような仕組みにしたのが期間損益であり、その核となるのが利益であり、利益の基礎が収益と費用である。利益を導き出す手段としては、資本によるものもあるが、根本は、収益と費用にある。つまり、利益がなければ、貨幣経済は成り立たなくなるように仕組まれているのである。

収益と費用は、「お金」の働きを意味する。「お金」の働きを実現するのは、現金収支、即ち、収入と支出である。そして、資金の働きを制御するのが利益である。価格は、この延長線上にあり、価格が物価を形成している。価格は、価格単独で成り立つのではなく、複数の要素の力の均衡によって成り立っている。


物価指数



物価と一口に言うが、物価という指標ほど難しい指標はない。

物価は、統計的指標である。何か物価を決める為に絶対的な基準があった自然の現象のように一意的に観測して求められる指標ではない。物価を構成する物の価格は、一律一定の動きをするのではなく、個々の商品ごとに独立した動きをする。経済予測や経済分析に用いられる物価は、代表値である。一般に物価を表す指標に用いられるのは、消費者物価である。また、消費者物価だけでなく企業物価指数(旧卸売物価指数)等がある。

物価に基づいて経済分析や予測をする際は、この点を十分に留意する必要がある。

統計には目的がある。
物価は統計的指標である。それも推測統計を基礎としている。統計には、記述統計と推測統計があり、記述統計は、集められたデータから集合の性格や働きを導き出し、それを予測や確率に役立てる手法であるのに対して、推計統計は、いくつかの標本から母数を導き出す事によって成り立っている。つまり、標本の背景にある全体を推測し、それに基づいて全体の構成や動きを割り出していくことを目的としている。記述統計では必ずしも母数を導き出す必要はなく、一般にビックデータというのは、記述統計に基づいている。

物価は、推測統計である。推測統計は、標本の設定の仕方によって母数の性格も変わってくる。また、何を代表値とするのか、代表値に対する荷重の掛け方でも母数は変わってくる。

物価というと何か絶対的基準があってそれに基づいて設定されていると勘違いしている人が多くいるが、物価は、統計的基準であり、相対的なものである。しかも合目的的な基準であるから、目的や前提によって変わる値である。たとえば、消費者物価指数は、物価を表す代表的な指数であるが、物価を表す指標は消費者部下指数以外に企業物価指数などがある。また、消費者物価指数ですら代表する指数は一つではない。その中で一般に消費者物価指数と言われる指数は、「総合」、「コア指数」、「コアコア指数」の三つがある。「コア指数」は、総合から天候や作柄に左右されやすい生鮮食料品を除いた指数をいい、更に、原油価格の乱高下の影響を受けやすいエネルギー価格を除いた指数が「コアコア指数」である。この様に、物価指数というのは、目的に応じて標本は設定されていて絶対的な基準できない。

物価とは財の価格である。財の価格と言っても単純に決まるわけではない。
財の価格は、絶対的価値を表しているわけではない。相対的価値を表しているのである。
故に、物価も相対的である。

価格は、買い手から見ると交換のための指標であるが、社会全体から見ると分配のための基準である。
物価は、財を人々に分配するための指標なのである。

物価というのは、単純に物の市場価格で計られる事ではない。物の価格は、物の市場価格だけでなく、所得、そして、平均と分散からも測る必要がある。要するに経済の根本の働きは分配にあるからである。小人数の時は、個々の人間の所得はあからさまに分配に結びつくが何億という人に対する分配は統計でしかない。
物価は、全体と部分の関係から成立しているのである。全体に占める割合と個人の欲求が均衡する水準に物価は落ち着くのである。

物価は貨幣価値として表される。しかし貨幣価値だけで物価は成り立っているわけではない。価格が指し示す財の価値が本体なのである。お金だけを問題としたら、価格は成り立たない。

その財をどれだけ必要とする人がいるかによって価格は変わってくる。
物価は、それを必要とする人とそれがどれくらいあるか、そしてどれくらい支出できるかによって決まる。

そして、価格が仲立ちして生産と消費が調節されるのである。
物価は、消費の水準を特定する。つまり、生活水準を決めるのである。

物価は、統計的数字である。物価の働きは平均と分散、そして、規模、最大値と最小値、頻度、中央値、範囲が鍵を握っている。物価の働きその物が平均と分散と規模、そして、最大値、最小値、頻度、中央値、範囲に関わっているからである。
先ず物価は平均値である。平均値の推移が重要となる。また、物価は分散、分布が問題となる。値段、品質、量の最大値と最小値の幅が物価に決定的な働きをする。物価では、高級品と普及品、その等級が物価の質を表す。そして、どの範囲で有効かによって物価の及ぼす影響が明らかになる。物価は、統計的指標である。
物価が表す、全体と標本が物価の信憑性を保証するのである。

物価は、経済指標の基礎となる。しかし、物価の働きを統一的に現わす事の出来る指標はない。あくまでも物価は、統計的にしか表せないし、統計的な働きしかできないのである。


バブル以後の物価



1990年代後半、バブル崩壊後、日本は、長期に亘って物価が下落傾向にある。バブル崩壊以前は、高度成長、右肩上がりが当然と思われてきたが、バブル崩壊後は、逆に、二十年以上に亘って横ばいか、右肩下がりの時代が続いている。

名目的価値と実質的価値の関係によって物価の傾向は、定まるのである。
1990年、バブル崩壊した後、名実が逆転し、2000年に再逆転するまで、名目GDPが実質GDPを上回り、2008年リーマンショックの年に50兆円の乖離幅を記録した後、2010年に30兆円まで圧縮したがその後又拡大して2013年には、47兆円を記録している。50兆円というとGDPの1割、08年の一般会計税収が44兆円、09年が39兆円であるから一般会計税収を上回る乖離幅である。

バブルが崩壊が、名目的価値と実質的価値は、ワニが口を開けるように拡大している。典型的なのは、GDPであるが、その他にも地価と有利子負債残高等である。
名目的価値と実質的価値の清算は、現物取引によってしか解消されない。例えば、土地が担保価値を下回り、不良債権と認識されたとしても、その土地を売っただけでは、債務の清算は済まないのである。つまり、不良債権というのは、裏返せば不良債務の問題であり、借金の清算が終わらないかぎり、名目的価値と実質的価値の差は埋まらない。そして、この様にして派生した債務は、民間から金融機関へ、金融機関から国家債務へと移転していくのである。そして、最後に物価に反映される。
累積した債務を解消する最終的手段は、収益的手段しかなく。収益的手段は付加価値に依拠しており、付加価値は時間価値から生じるのである。実質的価値の下落は、債務の増加として現れる。収益の低下は、付加価値の減少、極端な場合喪失となるからである。収益を維持する為には、時間価値を維持する必要がある。
故に、今日の経済は時間価値の増加、即ち、物価の上昇を前提として成り立っている。
この点で気を付けなければならないのは、実質的価値の上昇を名目的価値の上昇が上回った場合、インフレが加速し。逆に、名目的価値の上昇を実質的価値の上昇が上回れば、経済は、収縮するという点である。


企業法人統計  財務省

名目的価値と、実質的価値の乖離幅を縮小する為には、所得を拡大する施策をとる必要がある。しかし、日本では、規制緩和と言った競争促進策、即ち、所得を圧縮させる施策がとられてきた。それが失われた10年、20年という事象を引き起こしたのである。

名目総生産と実質総生産の差が景気を左右するのである。


国民経済計算書    内閣

一般には、バブルというのは、良い印象がない。しかし、バブル期に財政が改善されたのも事実である。バブルのどこが悪かったのか、それが検証されないまま、バブルは悪いと決めつけられているように思われる。バブルの印象が悪いのは、地上げとか、ゴルフ場などの乱開発、意味のない宴と言った上辺の狂騒に目が奪われているからである。

しかし、バブルの最大の問題は、資金の使い方を間違った事であり、そして、バブル崩壊後の長期停滞の方がより深刻なのである。つまり、バブルというより、バブル崩壊後の政策の方に問題があったように思われる。バブルを問題視する人は、何かとバブル崩壊後の政策を正当化しようとするが、それでは公正さに欠けるし、今に続くバブル崩壊後の長期低迷を抜け出す方策を考え出す事はできない。
なぜ、バブル崩壊後これほど長く低迷状態に陥ったかそれが本当の問題なのである。


国民経済計算書    内閣府     単位1兆円


過去を振り返ると高度成長期は一貫して名目的総生産の上昇率が実質的総生産の上昇を上回り、その差は累積で、1972年には、121兆円にも昇った。それが翌年の1973年から急落し1974年には、93兆円とピーク時から見てわずか2年で28兆円も下落したのである。71年には、ニクソンショック、73年には、第一次オイルショックがあり、これらが日本経済の分岐点であった事がこれらの事実と照らし合わせると歴然とする。ニクソンショックによって場に働く力の方向が変質した事が窺われる。成長経済型から成熟経済型へと方向転換を測られる必要があった。これがまず第一の関門であったが、列島改造などの成長経済への回帰策がとられた。
ただ、従来の政策と決定的な違いは、内需拡大を成長の原動力とした事である。結果は、狂乱物価を招いた。内需拡大と言っても公共事業、土木、建設開発型の施策だったから、市場が深化されたわけではなく、金余り現象が物価の高騰を招いたと考えられる。内需拡大と言って実需に基づいて市場を深化しないと「お金」が市場の表面を踊る事になる。為替の変動が招く金余りは、バブルの伏線にもなった。バブルの時は、余剰資金が資産、特に、株と土地に向かったのである。


国民経済計算書    内閣府     単位1兆円

名目総所得と実質総所得との差は、71年まで下げ続けている。それがニクソンショックの時逆転し、85年のプラザ合意まで上昇を続けていて91年バブルが弾けた時までこの傾向が続いている。注意しておくべき点は、バブル崩壊後も差は、上昇を続けている点である。そして、93年から97年頃まで横ばい状態になり、2001年からは、負の値に沈んでいる。


  
国民経済計算書    内閣府 単位1兆円 財務省

2013年に「異次元の金融緩和策」がとられた、その目標は、2%の物価上昇、先ずデフレ脱却である。つまり、デフレーションである事を前提として取られた政策である。だとしたら、なぜ、デフレーションに陥ったのかを検証する事が先決である。

バブル崩壊後、なぜ、デフレーションに落ち込み、かくも長い間抜け出す事が出来ないのか、その仕組みを明らかにしないと、とるべき施策は明らかにできない。

バブル時において言われたのは、過剰設備、過剰債務、過剰雇用であり、この退治がバブル潰し策である。そして、その背後にあるキーワードが地価、株価、金利、含み益、担保力、資金調達力、財政、円高、投資である。これは、バブル崩壊後の停滞を引き起こした要因でもある。

過剰設備、過剰債務、過剰雇用の底辺では、過剰資金の問題が潜んでいる。問題は、過剰資金を招いた原因、要因である。それは為替の変動が深く関わっている。

バブル崩壊後のデフレーションの主たる原因は、新たな資金が実物市場に供給されなくなったという点にある。ただ、バブル崩壊後のデフレーションの原因背景は、バブル形成以前に用意されていたと考えられる。それは、収益力の低下とそれに伴う経済成長の鈍化である。
収益力の低下に従って余剰資金が土地や株の投機へと向かいそれがバブルを形成し、バブルが限界に達して崩壊するとその反動によって資金が実物市場に流れなくなったと考えられる。
実物市場に資金が流れなくなった要因は、それだけでなく。バブル潰しの政策と、バブル崩壊後の弥縫策にもある。
第一に、無原則な規制緩和による過当競争。第二に、強引な不良債権潰しによる底なしの地価や株式の下落。第三に、景気浮揚策のための公共投資の拡大。第四に、確乎たる理念に基づかない税制改革。第五に、バブル潰しのための高金利政策とその後の低金利政策。第六に、中途半端な財政再建策。第六に、展望なき担保主義等である。これらの要因が絡み合ってバブル崩壊後の低迷を招いたのである。

物価は、本来安定しているのが望ましい。今日、時間価値によって経済が動かされている関係上、ある程度の物価上昇を前提とされているが、それでも、急速な物価上昇は、国民生活に悪影響を与える。ただ、インフレーションだけを是とするのは危険である。現象の背後にある構造を明らかにする必要がある。

経済が成熟し、市場が飽和状態になってきたら順次、量から質への転換が計られるべきなのである。飽和状態に陥った市場では、必然的に清算量が制約を受ける事になる。成長拡大期とは、同じようにはいかない。その為には、適正な価格をどこまで維持できるかが、重要になる。新規投資も技術革新のみに頼りことはできない。むしろ既存の商品の収益力を基礎とする必要がある。失いと雇用を維持する事が難しくなる。また、借入金の働きも成長期と成熟期では違った働きになる。投資が新規投資から更新投資のように変化するからである。
量から質への転換は、産業構造そのものの在り方に影響をする。例えば、中古市場の整備、リフォーム市場、改造、保守点検などの新規よりも更新や改造などの市場の整備が重要となる。また、高級品やブランドなどの付加価値が重要となる。また、収益を維持する為に市場の規律を守る必要がある。大資本や大企業は、最初から大量生産、量販を前提として価格を設定してくる。だが、これは長い目で見て自殺行為になる事がある。
問題は、産業の基盤をどう構築するかにある。経済の目的は、分配にあり、労働の場をいかに確保維持するかも重要な命題だからである。
競争原理主義者はこれらの一切合切を頭から否定し、生産効率や競争力のみを至上の命題としてしまう傾向がある。これは、経済の現場を知らないからである。


経済は、生きるための活動である



経済は、生きる為の資源を生産し、或いは、調達して、共同体の構成員に分配する事である。お金を儲けたり、利益を上げる事が目的なのではない。お金儲けや、利益を上げる為に、殺し合ったり、争う事は、本義ではない。
ただ、貨幣経済下では分業が進んで、一つの共同体だけでは、生きる為に必要な資源をすべて生産調達する事が不可能になった。その為に、お金は、生きる為に、不可欠な道具となったのである。
また、貨幣経済下では、全ての生産物は換金する事が求められる。なぜならば、税をお金で支払う事が求められるからである。故に、生活をしていく為には、お金は必需品となったのである。

お金の使い方も随分変わった。餓死した検事がいたなんていう時代は想像もつかない。何にお金を掛けるのか、それも時代によって変わる。
時代時代の流行廃りによっても物価は変化する。人は、今、自分の住んでいる環境、状況を基準にして物価が高いか低いかを判断する。所詮、人間は主観的な存在なのである。

今日の貨幣経済では、全ての経済的価値は、貨幣価値に換算される。つまり、物価は、経済的価値の土台を形成するのである。ただ、全ての経済的価値が貨幣価値に換算されるからといって全ての経済的事象が貨幣によって解決される事を意味しているのではない。むしろ、幾つかの経済的事象は、全ての経済的価値が貨幣価値に換算される事によって解決する事が困難になっている。例えば、貧困である。
貨幣経済が浸透する以前は、人々はお金に依らずに助け合って生きてきた。しかし、貨幣経済が浸透した現在、病気になってもお金がなければ治療すら受けられないのである。
ホームレスが増える一方で、空き家が増えるといった事も起こる。
お金がないといっても貨幣経済が浸透する以前は、飢饉でもない限り、食べられないという事はなかった。商品価値はないかもしれないが、それなりに美味しい不揃いの野菜なんかを採ってきて自分達で料理をすれば、それなりに豊かな食事ができたものである。
ところが、経済的価値が全て貨幣に換算されるようになると食事も外食化され、工場生産された規格的な料理しか食べられなくなる。つまり、貧困の質が変わってきたのである。貧困はお金がないが故になるのである。この様な延長線上で物価の働きを考える必要がある。
自給自足していた時は、物価は補助的な意味しかなかったのである。
生きる為には、何が必要なのか、豊かさの程度も今日では貨幣価値によって測られる。
人格者もお金がなければ落伍者であり、悪党でもお金さえあれば成功者なのである。

豊かさや貧しさに対する考え方も、時代や環境によって変わる。豊かさや貧しさを測る絶対的基準なんて存在しないのである。王侯貴族でも貧しいと感じる者もいれば、質素で禁欲的な生活をしてても豊かだと感じる者はいる。

ただ、生活水準は所得と物価との比較によって判断する事は可能だ。

資金の働きで決定的な役割を果たすのは、資金の過不足によって生じる資金の流れであって資金の有り高ではない。市場における資金の働きは、物価という形で現れる。

 

物価は、直線的、あるいは、曲線を描いて滑らかに変化するとは限らない。
電気料金のような公共料金や金利の様に階段状に変化するものもある。
そして、その変化の形が個々の物価の働きを左右している。


小売物価統計  総務省

豊かさも貧しさも相対的である



物価は市場規模、生産力、通貨量によって決まる。
市場規模は、所得と人口の積によって決まる。生産力は、供給力と操業度による。通貨量は、貨幣の供給量と回転数の積である。
生産と供給、通貨は価格によって調整され均衡する。物価は、平均価格である。
市場の拡大と生産力の上昇、通貨の流通量の増加が均衡すれば、物価は安定する。

通貨の供給量を決めるのは貸し借りである。通貨の回転数を決めるのは、売り買いである。
成長経済では、市場の拡大と生産量の上昇、通貨量の増量によって物価は上下する。物価の変動にあわせて利益も変動する。利益の変化にあわせて金利や所得も変動する。
物価、利益、金利、所得は連動して付加価値を形成する。付加価値は、時間価値に転化する。

物価は、所得と比較にしなければ意味がない。

貧困はなくなりはしない。なぜならば、貧困と豊かさは相対的な概念だからである。貧しさは意識が生み出す事だからである。
そして、所得によって購入できる物の範囲が特定される今日では、豊かさや、貧困は、所得の大きさによって意識される。
ある意味で、豊かさがなくならないかぎり、貧困はなくならない。しかし、豊かさと言う事は悪い事であろうか。豊かになれないとしたら多くの人は生きる希望を失うだろう。アメリカンドリームと言うがそれは豊かさが目的となるから成り立っているのである。
豊かさを実現化するために人々は励むのである。
問題は、生活水準である。最高と最低である。問題は格差であり、保障されなければならない最低の水準を何処に設定するかである。
生きる事さえままならないような環境は改善されるべきである。

貧しさというのは、相対的な感覚であり、豊かさを否定しないかぎりなくならない。
豊かさが否定できないならば、貧しい人間は生まれるのである。
ただ、貧しいといっても生活ができなくなったり、人間としての尊厳が保てないほどのことを言うのか。
相対的に貧しいという事を言うのかの違いである。
豊かさを求める事は間違いだとしたら人間の向上心を真っ向から否定してしまう。
問題は程度の問題である。
特定の人間や階級が富を独占する状態は感情的にも、又社会の公正という観点からもよくない。
経済的な歪みにもなる。

豊かさが否定できないのならば、豊かさとは何か、貧しさとは何かの定義が問題となる。
豊かさも貧しさも時代や地域によって違いがある。

終戦直後は、皆、貧しかったのである。それは、物が不足していたからである。餓死した検事がいた程である。
今は、物が溢れている。それなのに、豊かさを感じられない。それは金回りが悪いからである。
有り余る程物はあるというのに、お金がなくて、借金だらけである。だから精神的な飢餓がある。
それも又貧しさである。生活には困らないけれど貧しさがある。

物価は、人口、物、通貨の量の比率と構成によって定まる。

物価は、その地域の所得を基準として考えるべきである。
なぜならば、経済は生きる為の活動であり、人が生活する空間で何をどれだけ必要としているかによって物の価格は本来定まる事だからである。
故に、収入、所得の水準を基準として物の価値は相対的に定まる。自分の収入がどれくらいあるのか、その収入に見合った生活とはどの程度の生活なのか。それが物価を形成する基本にある。収入の多寡は、支出に対して決定的な影響を与えている。

システムや機械化というのは、人を豊かにするのが目的だったはずである。しかし、いつの間にか技術革新によって人々は貧しくなり、職場から追い出されようとしている。技術革新によって人々が貧しくなるのでは、何の意味もない。本来、システム化や機械化は、仕事の質を深化させるものでなければならないのである。

機会の平等だけでは意味がない。結果が伴わなければ、本来の目的は達成できない。
だからと言って結果に囚われてしまえば、自由の意味がなくなる。

生活を豊かにするという事は、量だけでなく質的な要素にも関わっている。
しかし、今日の情報通信技術の革新は、生活の質を低下させている。それは、なぜ技術革新をしなければならないのか、その本来の目的を逸脱しているからである。



物価は所得によって決まる。


物価は、所得の制約を受ける。物価を決めるのは支出である。支出は、支払能力、購買力の制約を受けるからである。
では賃上げをすれば購買力が上がると決めつけるのは、早計である。デフレーションを脱出する為に、とにかく賃上げをしろと強制する勢力があるが、それは錯覚である。所得と支出は表裏の関係にあり、所得と支出は、卵が先が鶏が先かの議論に陥り易いが、それ程単純な問題ではない。
賃上げと言うのは、費用であり。人件費の原資は、収益に求められる。収益が上がらなければ人件費は上がらない。収益が不足した時は、運転資金によって資金繰りをする事になる。運転資金の不足は、基本的に短期資金によって賄われる。短期資金を調達するためには、担保する資産がなければならない。バブル崩壊は、担保する資産価値を直撃したのである。
いずれにしても将来の収入を保証する者がない限り、企業は、賃金を上げるわけにはいかないのである。

そうなると物価に影響を与えるのは、収益と費用の関係だと言える。一定の費用を確保しながら利益が上げられるようにしない限りデフレーションは脱出できない。市場環境を無視して賃金を上昇させればデフレーションから脱出できると考えるのは、あまりに幼稚である。

物価は、所得と対比する事で働きがわかる。家電商品は、日本人の所得から見て新興国よりも安い。反面、家電製品を基準とすると新興国の所得より日本人の所得は高い。物によっては、日本の所得から見て新興国の方が高い物もある。その国の物価が高いか低いかは、総じてどちらの物価水準が高いか、低いかの問題なのである。そして、それは、平均や分散、階級的偏りの問題、即ち、統計的問題でもある。
所得は、購買力の問題でもある。物価は、市場が連続しているために、一定の水準に収束するとするのが購買力平価である。国家間の物価の水準は、為替の変動によっても左右される。生活水準や生活様式によっても差が出る。
最低限の生活水準が維持されているかどうかが、物価を判断するうえで重要となる。

単純に何らかの指標を比べれば物価の実体が伝わるという訳ではない。物価は、日常生活の上に成り立っている。生活水準や生活様式から見て何がその時代その時代、あるいは、その地域地域の生活にとって決定的な要素かを見極めないと何と何を比較すればいいかが見えてこない。例えば、ビックマック指数である。ビックマック指数が成り立つのは、その国々の食習慣や食料事情、所得水準が一定しているという前提においてである。ハンバーガーを他へる習慣やハンバーガ庶民から見て高価な国では比較にならない。
重要なのは、物価は、所得と消費の関係から生まれるとい事である。いくら物が溢れていても所得が少なければ物は売れない。生産性ばかり高めても雇用がなくなれば経済は成り立たなくなるのである。この点に現代人の錯覚がある。生産性ばかり追い求めて、無人化、効率化ばかりを追求すると雇用が失われ、所得が減るのである。
雇用と物価は、経済の両輪である。雇用とは、即ち、所得である。

人件費、即ち、所得の上昇は、物価の上昇を招く。所得は人件費でもあり、人件費は費用でもある。所得は、購買力の源であると同時に固定費を構成する。つまり、所得の拡大は、購買力を高め、同時に、費用を高騰させる。その両面から物価を押し上げる。

物価の変動要因は、一概に決められない。農産物のように天候や作柄に左右されるものもあれば、洋服のように流行に左右されるものもある。石油のように地政学的な要素によって大きく振れるものもあれば、為替の変動に振り回される商品もある。
また、個々の価格の変化を見ると何らかの統一性があるようには思えない。同じ魚でも、季節によって価格が変わる物もある。銭湯のように価格変動があまりない財もある。個々の財を見ると何らかの共通性があるようには見えない。
しかし、全体を平均してみると一定の方向性があるように思える。だからこそ、物価の総合指数を表す事ができる。なぜ、物価の全体を平均してみる一定の傾向があるのか。それは、物の価格は、支出によって形成されるのに対して支出は、所得の範囲内で行われるのが基本だからである。所得、企業でいえば収入を超える部分があれば、どこからか借りてこなければならなくなる。しかし、貸し借りは金銭上の事であり、取引の本質ではない。経済の基本は利益にあるのである。故に、物価は、所得の範囲内に収めるように意図される。それが、物価全体に一定の傾向を持たせるのである。

ただ、物価と所得の因果関係を突き詰めてみるとどちらが、原因でどちらが、結果か、極めて微妙なのである。それは、所得の伸びが先で、その後物価の上昇がみられたか。逆に、物価の上昇によって所得が上昇したのか、そのタイミングも微妙なのである。石油ショックの時のように明らかに原油価格の高騰が所得の増加を招いたという場合は稀である。物価と所得の因果関係ではなく、相互関係に着目すべきなのである。何が原因で、何が結果かを問題とするのではなく、物価と所得の相互作用を解析する事である。

物価は、所得を通じて生活水準を平準化しようとする働きがある。なぜなら、物価と所得の相互作用には、生活水準を均衡させようとする働きがあるからである。そして、物価と所得の関係は、生活の枠組みを構築するのである。

所得とは、何か。我々は、所得の意味をわかったつもりになっている。しかし、その実体を正確に理解している者は少ない。
所得とは、収入である。
企業で言えば、現金売上である。収益の元である。
所得は、個人的に見ると給料である。生活の原資でもある。生活費とは日常的支出である。故に、消費の本でもある。消費は支出として現れる。つまり、所得は支出の範囲を確定する。範囲は規模を制約する。
所得の拡大は、市場の拡大と物価の水準を確定する。

金融の力の源は、借金にある。借金の裏側に預金がある。預金は、金融機関にとって借入金である。
金融業の業務の柱は、貸付業務と預金業務である。いずれも金利に関わっている。金融機関の収益は、金利である。金利、即ち、利息の根源は借金である。
紙幣の本質は、借金である。貸し借りである。紙幣は、交換価値を表象しているものなのである。貸し借りが成り立たなければ紙幣も成り立たない。
貸付業務には、借り手の一定収入が、保証されているか、将来上がる事を見越して返済が可能であるという信頼が、貸し手に、なければ成り立たない。
物価は、所得と支出との間で成り立っている。所得を支出が上回れば蓄えを取り崩すか、借金をすることになる。借金は、返済義務がある。借金頼りの生活はいつかは破綻する。だから、基本は可処分所得の範囲内で生活費を収める事である。だから、物価は、所得の範囲内に収まるものでなければならない。
物価の安定は、所得と支出の均衡によって成り立っている。そして、所得は不確かだが、支出は確実に発生する。つまり、物価は所得の範囲に収まるように経済政策も仕組みも設定する必要がある。

問題は、物価が時として収入の範囲内に収まらなくなる事なのである。物価が収入の範囲に収まらなくなる原因の一端は「お金」の持つ性格に隠されている。

物価の働きを理解するためには、可処分所得の動きと物価の動きとを結びつけて考える必要がある。なぜならば、支出は、可処分所得の範囲内で行われるからである。可処分所得を支出が上回れば生活は成り立たなくなる。
物価の上昇と所得の上昇が同時に起きている場合と物価が下落しているの所得が上昇している場合、物価が上昇しているのに、所得が下落している場合、物価も所得も下落している場合とでは、所得の働きも物価の働きも違ってくる。一般に所得の上昇は、物価を押し上げる効果があると言われている。
また、タイミングも重要な要素である。物価の上昇に先立って所得が上昇しているのか、物価の上昇に伴って所得が上昇したのかで景気に与える影響は変わってくる。
物価の変化を読み解くためには、市場取引を構成するアルゴリズムが重要なのである。

基本的に物価の上昇は時間価値に影響するのである。時間価値は、所得の増減、金利の増減、収益の増減、利益、資産価値の増減などによって構成される。

収入とは、お金である。故に、所得もお金である。物ではない。
税金も今は金で納める。所得は、民間企業では売上である。売上も「お金」で換算される。
家計は給料である。働いて得た「お金」が所得である。「お金」は「お金」であって使わなければ実体を持たない。つまり、名目的価値なのである。
ようは、「お金」は、使ってはじめて効用を発揮する。

所得が多いか少ないかは、支出との関係から判断される。
見かけ上、即ち、名目的所得が大きくても物価が高ければ所得に満足できない。


大卒初任給

賃金構造基本統計   厚生労働省

豊かさというのは、自分の収入に対してどの程度の物が購入できるかによって実感できる。いくら見かけ上の収入が上がっても欲しいものが手に入らなければ豊かさは実感できない。
つまり、豊かさとは、収入と物価との関係において決まるのである。
例えば地方に言っていくら物価が低く、収入があっても欲しいものを売っている店がなければ「お金」の使い道がないのである。

ニクソンショック後もサラリーマンの年収は、物価の上昇以上に伸びた。問題は、バブル崩壊後、物価も伸び悩んだがそれ以上に所得が伸びなかった事である。


賃金構造基本統計   厚生労働省

所得が上がれば物価の上昇も吸収できる。所得が上がらなければ、物価の上昇は、実質的取り分を減少させる。実質的物価というのは、名目的所得と物価との対比によって求められる。名目と物価の上昇率を比較すれば実質的な変化が読み取れる。名目的な所得は上がっていても実質的な所得は減っている事だってあるのである。

人を豊かにするのは、お金ではない。人の働きである。お金は豊を実現する為の手段である。だから働くに応じてお金が配られるのである。しかし、根本は人の働きである。人の働きによって豊かさが実現できなくなった時、経済は破綻するのである。


経済の根本は哲学に至る



消費は、その国の品格を表す。金儲けよりも「お金」の使い方にこそ人の品性は出る。品のある人は、「お金」の使い方も綺麗である。「お金」の儲け方だけが経済に影響を与えるのではなく。「お金」の使い方も経済に決定的な影響を与える。「お金」の使い方にこそ思想や哲学が現れ、「お金」の使い方で文化が醸成されるからである。そして、「お金」の使い道の先に所得があるからである。

現代社会は何でもかんでも過剰なのである。設備の過剰、生産も過剰、消費も過剰、人口も過剰、お金も過剰。世界は物で溢れ、ゴミで溢れている。過剰であればいいというわけではない。大量生産、大量販売、大量消費、その果てに、飽食、道徳観の喪失、乱開発、無駄遣い、ゴミの山である。
かと思えば、一方で飽食、無駄使い、大量のゴミが発生しているのに、他方で貧困と飢餓か蔓延している。明らかに経済の仕組みが破綻しかけている。

結局、行き着く所は、哲学である。つまり、人生観であり、世界観である。使い捨てや大量生産というのも人生観である。人々の生き様を重んじるのも人生観である。
そして、人としての生き様に達する。高価でも、高品質な物を何代にも亘って大切に使い込んでいく。
スイスの時計産業などが好例である。そう言った市場は、職人によって支えられている。職人を育て、養い、継承できる社会がなければ、成り立たない。社会そのものが芸術的な域にまで達する世界である。

生産、労働、消費が一体となった世界。だから哲学が求められるのである。
我々は、使い捨ての社会を求めているのか。それとも、伝統や歴史に育まれて永続的な社会を求めているのか。
その根本が現代社会では見えてこない。

何もかもを手作りにしろとは言わない。しかし、何もかも大量生産にしてしまえと言うのも乱暴な話である。
人は何によって生きていくのか、その点こそが肝心なのである。

縮小均衡も経済には必要なのである。経済は拡大成長を続けるだけではない。歴史を見るとむしろ成熟期の方が長いのである。
拡大均衡のみを前提としていたら経済の仕組みは維持できない。
縮小均衡型経済では、固定費が賄えなくなる。拡大均衡型経済では、物価の上昇を抑えられなくなる。
故に、縮小均衡型経済と拡大均衡型経済を周期的に切り替える必要が生じるのである。
むしろ、如何に縮小均衡型の経済に対処すべきかが重要なのである。

現代経済学の間違いは、経済の根本を人間の利己心においている事である。経済にとって最も重要なのは理性である。利己心に経済を委ねてしまえば、経済は制御不能な状態に陥る。なぜならば、経済を動かす原動力は、人間の欲望だからである。欲望を人間の利己心の支配下に置けば、結果は火を見るより明らかである。
人間の欲は、経済の原動力になる。しかし、それを抑える事を知らなければ暴走する。経済は、理性によってのみ制御できる。理性を根本にできない経済は、それ自体危ういのである。欲望が昂じると理性を保てなくなる。理性を保てるような仕組みがあって欲望を活用する事が出来るのである。

本来、物価は、所得、働き、成果の三つの要素が均衡した点によって定まるべきである。だからこそ、物価において重要なのは、所得であり、所得の平均と分散なのである。しかし、適正な所得を計算手段としての会計、原価計算は、まだ確立されておらず。また、制度も確立されていない。それが物価を不安定にしているのである。


物価と借金や蓄えの関係


物価は、所得の影響を受けると言ってもそれは可処分所得を前提としている。物価を変動は、消費によって決まるからである。可処分所得と消費との関係が物価の変動に決定的な働きをする。そして、消費において核(コア)となるのが、生活必需品である。
消費の核となるのは、衣食住であるが、差し迫って必要とされるのは、食と住である。
衣食住と言うのは、消費の性格を象徴している。食は生きていく上に不可欠な資源である。それに対して住は、生きていくうえで不可欠な資源ではあるが短期的な資金で賄えるものではなく、投資になる。衣は、生きていくうえで不可欠な資源ではあるが毎日消費されるものではなく、どちらかと言うと自己実現の手段としても意味合いが強い。つまり、衣で重要なのはファション、自己表現である。

可処分所得とは、所得から公的支出、そして、固定的支出を除外した部分で自分が自由に使える収入をいう。つまり、税や社会保険料等の公的支出、借金などを差し引いた部分で、フローを形成する部分、逆にいうと自由にならない支出と言うのは、公的支出と資産の対極にある負債の返済である。負債の返済は、資産と対になってストックを構成する。
この部分は、いわゆる固定的支出、物価や所得に係りなく支出される部分であり、実は、目に見えない物価を構成する部分でもある。

住にかかる支出は、費用とするのか、負債とみるのか、金を借りるのか、物を借りるのかとも関わり、可処分所得を定義する際、重要な要素となる。それは、ストックに係る部分の物価をどう考えるのかの問題でもあるからである。

物価は、所詮、所得と支出の関係によって定まる。借金の返済は、固定的支出であるからデフレーションや不況などで所得全体が収縮している時は、可処分所得を圧迫し、実質的な支出を制限する事になる。固定的支出が可処分所得の限度を超えると生活が成り立たなくなる。
逆に市場が拡大し成長期には、相対的に所得が上昇し、可処分支出の比率を上げ固定的支出の負担を軽減する働きがある。
持ち家が得か、賃貸が得かは、前提条件の問題でもある。資産価値が下がっている時は、賃貸の方が得だし、資産価値が上昇している時は、金を借りても資産を買った方が得だからである。ただ、借金をすれば住宅費は、借金の返済として固定的なものになり、賃貸を一時的な支出として処理される。

それが、バブル崩壊後の市場の流動性を悪くしているのである。

バブル潰しの際、資産価格と実物経済は、別物といった誤った認識があった。資産価値の水準の対極には、負債の水準があり、負債は、支払利息によって時間価値に連動している。資産価値の上昇は必然的に負債の水準を引き上げ、資産価値の下落は、相対的に資金の調達力を低下させる。

人が物の価値を決めている。



物の価格を決定する主体は、人である。市場から、必要とする資源をお金と交換する事で手に入れる。故に、人は、自分が自由に出来るお金をどれくらい所持しているか、また、市場に必要とする資源がどの程度で回っているかによって価格を決定する。それが需要と供給関係である。

需要は人々の生活の必要性や水準によって決まる。物の値段は、嗜好の変化にも左右される。私の母に言わせれば松茸や数の子なんて昔は安くて捨てるほどあったけど、今は、目が飛び出る程、高価な物なってしまた。物価水準は、単純に金額だけで比較できる事ではない。
地域や時代によって、また、生活水準や価値観などによって違いが生じる。物価は、一律に決まる事ではない。
それに、物価は貨幣価値である。貨幣の働きによっても物価は変化する。

何に対して価値を見出すかは、その国の文化、風俗習慣、宗教などによって左右される。
東京などは結婚式にあまり金を掛けないが、名古屋では、娘三人いれば身代がつぶれると言うほど婚礼の支度に金をかける。

物価を決めるのは、需給だけでなく。収入と支出、生産と消費、そして、時間価値等がある。

経済成長は、経済発展の過程で生じる一現象である。状態ではなく、一過性の出来事である。
単純に所得が増えても、生産量と生産構成、人口数と人口構成が変わらなければ、物価が上昇するだけで実質的分配は変わらない。朝三暮四である。所得の構成、分散が変わった場合は、格差が広がり、偏りが生じる事になる。
重要な事は、どの様な生活を自分達は望んでいるかである。

あらゆる文明を拒否し、信仰に従って生きている人々もいるのである。経済は、生きる為の活動、即ち人生なのである。
物価は、人々が何に価値を見いだすかによって定まるのである。

ダイヤモンドに目が眩んで人生を誤るのは、人であってダイヤモンドが悪いわけではない。物の価値を決めるのは、所詮、人なのである。他人から見てがらくたでも、その人にとっては捨てる事の出来ない宝物もある。子供の宝物は大人にはわからないかもしれないが、本当の宝物の価値を知っているのは子供の方なのかもしれない。友達と浜辺て拾った貝殻に価値を見出すのは子供たちである。それは「お金」には代えがたい価値なのである。

高級レストランに子供を連れて行って何が欲しいと聞いたらラーメンと答えるかもしれない。でもその子は、本当に美味しい物を知っているのかもしれない。価値をむ決めるのは無心な人なのである。

物の価値を決めるのは、人である。「お金」が物の価値を決めるわけではないし、「お金」には、そんな力はない。値段で物を買う訳ではない。値段が高い物をやたらと有り難がる人がいるが、それは真の価値がわからないからである。値段でしか物の価値が計れない者は心が貧しい。

人に対する洞察が欠けているから「お金」が全てになる。



現代の経済学は、人に対する認識が欠けている。だから金が全てとなるのである。
人を利己的な存在とするのが第一の間違いである。人を利己的な存在として経済の仕組みを組み立てれば、人は、利己的な存在になってしまうのである。

なぜ、所得に差が生じるのか。それは第一に、人が置かれている状況が違うからである。寒冷地で生活する人と熱帯で生活する人では、必要とする物が違うのである。必然的に物価をも違ってくる。第二に、人は皆、価値観が違うのである。価値観の差は、その人の嗜好の差にもなる。第三に、立場の違いである。大体、労働年齢というのは限られている。第四に、個体差がある。人は、一人一人、能力や体型に違いがある。一律に同一の服を着せるわけには行かない。第五に、家族構成が違うと言う事である。第六に、所有資産の差である。第七に、人は人だと言う事である。人間は、ただ生きているわけではなく。生きる意義、自己実現を求めている。それは働きに反映し、働きは報償に反映される事によって人は自分を位置づける事が可能となる。
労働に価値が見いだせないような経済は、堕落している。

又、利益を目的とするから理性を働かす事ができなくなる。利益さえ上げれば、善良な経営者と見なされるからである。
経営の目的は利益ではなく。企業の社会に対する経済的働き出にある。だからこそ、場合によっては損失を出しても許容されるのである。
利益は、経営指標の一つである。利益は、経営目的にも、経済の目的にもならない。
会計の目的は、利益にあるわけではない。経営活動を経営目的に沿って監視(モニター)する為にある。利益を会計や経営の目的とすると経済本来の目的を見失う事になる。

貨幣経済は、貨幣の循環運動によって成り立っている。物価も貨幣の循環過程で形成される。物価は、働きと所得と成果の均衡によって定まる。働きは力、所得は支出、成果は、需要と供給を産み出す。

なぜ通貨の供給量が増えると物価は上昇するのか。貨幣の働きは、分配の手段であり、分配量は、働いている通貨の総量に占める割合に世って定まるからである。つまり、全体と部分、総量に対する持ち分によって所得の価値は決まる。財の総量が変わらないで、市場を流通する通貨の量が増えれば、その分、物価も上昇する。
ではなぜ、現在日本銀行が通貨の供給量を増やしているのに、物価が上昇しないのかというとそれは、通貨が市場に流通していないからである。通貨が何処に行ったのかというと金融機関の内部に滞留しているのである。

また、貨幣は、循環運動によって効用を発揮するからである。循環運動と言う事は、全体の働きは、回転数と単価によって決まるからである。資金の働きは、回転数と物価の変動率によって決まる。

物価は、貨幣経済によって成立する。つまり、貨幣経済が確立されていない段階では物価は、余り意味がない。なぜならば、貨幣経済が浸透していない時点では、物価が表せるのは経済現象のごく一部だからである。

食費というのは、自分で作るのと買ってくるのとでは随分違う。材料費等の費用も工夫次第で節約できる。味だって、かつてはお袋の味などといって家庭でそれぞれ独自の味が合った。元々財政学の本は、家政学である。それが、外食となると一回一回、一人ひとり費用が、単価がかかる。どちらが経済的と言えるのだろう。生産者のとって物価は作る物なのかもしれない。買い手にとって物価は作られる事なのかもしれない。


家計調査年報  総務省

利己的で私利私欲が物の価値を決めるとするのは、間違いある。あまりに人という物を理解していない。そのような考えに立脚しているか「お金」に支配された社会を生み出すのである。「お金」を支配するのは人である。「お金」に支配されたら人でなしになる。
物の価値を決めるのは、人であり、人は、必要に応じて価値を定めるのである。

現代人は、経済を間違って捉えている。経済は、所詮、人間の為にある。人の生活を豊かにする事が目的なのであって生産効率を高めたり、利益を上げるのは、二義的な事である。
例えば、情報通信技術が飛躍的に向上した今日、社長がパソコンを使って一人で人事考課をしたり、予算を構築する事は技術的に可能かもしれない。効率を考えれば、個人商店など淘汰し、巨大なショッピングセンターに集約してしまえばいいかもしれない。しかし、それで人々の生活が豊かになれるかというとそうとは言い切れない。その根本にあるのは豊かさとはという問いである。豊かさの定義は、生産性のみにあるわけではない。
豊かさの根本には、収入の問題が、その対極に労働がある。働きと収入が見合っているかどうかが、豊かさの基本を形作る。同時に、収入と支出のバランスがある。どちらが過剰になっても豊かさは実現できない。むろん、物が豊富でなければ、豊かとはいえないだろうか、分配に偏りが生じれば、格差が生まれる。
一人で、人事考課や予算を作っても人事考課や予算本来の目的が見失われたら意味がない。なぜ、人事考課をするのか、社員の成績を付ける事が目的ではなく、組織の活力を最大限に引き出す事が目的であるはずである。要〃を差配する者の考えが直接反映できなければ組織は、有効に機能を発揮できない。予算も然りである。制度によって人の意見が反映できないのが、日本の官僚組織の最大の弱点でもある。

自由が経済の拡大や成長、技術革新などを前提としていたら経済成長や市場の拡大、技術革新が限界に達した時、自由は失われる事になる。しかし、自由がその真価を問われるのは、むしろ限界に達した時である。
数学は、拡散、拡大、無限の身を前提として成り立っているわけではない。むしろ、数学の本質は、収束、収縮、有限に置かれるべきである。
成熟は、衰退を意味するわけではない。成熟は、繁栄の極みである。成熟が衰退に変質するのは、状況の変化を見誤り、適切な政策がとられないからである。借金の働きも成長期と成熟期とでは違う。つまり、衰退するのは、政策の過ちによる。
成長や拡大は、量的な要素に支えられているが、成熟期になると市場は飽和状態になり、量的な拡大は期待できなくなる。つまり、量から質への転換が求められるのである。成熟期が衰退に転じるのは、量から、質への転換する事に失敗したからである。
少子高齢化は、衰退を意味しているわけではない。むしろ社会が成熟した証である。その点を理解せずにただ、少子高齢化の負の部分ばかりを問題にしたら少子高齢化の正の部分を活用できなくなる。




ゴールドは「お金」の性格を象徴している



貨幣の性格は、金(ゴールド)を考えると明確となる。なぜ金(ゴールド)は、貨幣の単位となったのか。先ず第一に、金は、希少な物質だと言う事である。なぜ希少品でなければならないかというと貨幣は、価値を制限する必要があるからである。つまり、貨幣が効用を発揮する為には、貨幣の流量を一定の量に制限する必要がある事を意味する。通貨量は有限でなければならない。
第二に、金は消費財ではない。つまり、生きていく上で不可欠な素材ではないという点である。ここにもお金の性格がある。貨幣は消費に使われるのではない。貨幣というのは、それ自体は無用な物なのである。使い道のない無用な物だから貨幣としての働きができる。
第三に、金は、価値を保存できる。つまり、価値を貯蔵できる。金は、消費されないのである。
第四に、金は、素材を純化し、一定の量に小分けする事で価値を抽出できるという点である。貨幣も単位を物として価値を細分化できる物でなければならない。ただし現在は、物としての価値が抽象化され、情報化されている。
この様な金の在り方を見ると貨幣のの性格の原形が明らかになる。

貨幣経済では、第一にお金の分配の仕組みが確立されている。第二に、お金を循環させる仕組みがある。第三に、お金の供給と回収する仕組みができているという事が前提となる。
その上で、物の貨幣価値をどの様に、どの様な場所で確定するかが決まっていなければ物価は定まらない。

これらの仕組みに基づいてお金は、お金と物との交換によって生活に資源を分配する。物の貨幣価値を定める。資源を受け取る権利を留保するといった働きが成立するのである。

お金が物の価値を決めるわけではない。お金の価値によって物の価値が左右されるべきではない。物の価値は、市場の要請によって定まるべきなのである。市場の要請は、需要と供給によって形成される。需要と供給は、個人の働きと所得と成果の関係による。どれくらい働いたら、どれくらいの収入が望めて、とれくらいの物を手に入れる事ができるのか。それを個人と社会全体との関係から割り出す事を可能とする為の仕組みが本来、経済の仕組みのあるべき姿なのである。価格が貨幣の都合によって乱高下する状態が問題なのである。

我々は、貨幣経済体制下で生きている。だから、お金が絶対であり、お金が価値を確定しているように錯覚している。しかし、お金は手段に過ぎない。お金に価値があるのではなく。生きる為に必要な資源そのものに、つまり、お金によって取引されている物に価値があるのである。

企業の目的は利益にあると言ってはばからない経営者が横行している。しかし、利益は、経済を円滑に運用させる為の指標に過ぎない。利益を上げる事を目的とした結果、多くの人が働く場を失ったり、生産が過剰になったり、乱開発によって環境が破壊され人間が住めなくなったらそれは利益の有り様が間違っているのである。経済の仕組みは利益をあげる為にあるのではなく。人々が安心して生きる為にあるのである。

不兌換紙幣が「お金」の主役になる以前は、「お金」にも物としての価値があった。
紙幣になると「お金」から物としての価値は、全く失せて貨幣としての価値だけ、交換価値だけが残った。「お金」には情報としての実体しかないのである。最後には、紙幣もなくなってしまうかもしれない。
物と「お金」の価値が結びついていた時は、「お金」も、物の価値によって「お金」の動きや働きも制御されていた。「お金」が物の価値から離れると「お金」は、「お金」として固有の働きをするようになり、物による制御が難しくなったのである。

物と結びついていたら「お金」は不必要な働きをしなかった。しかし、「お金」が物との結びつきを失った時、物の世界では不必要な働きまでするようになったのである。

生き物は、生きるために必要な物しか調達しようとはしない。必要以上の物を調達しても無駄になるからである。しかし、現代人は、必要以上の物を生産し、浪費する。

「お金」が物としての実体を失い「お金」が「お金」固有の働きを持った時、「お金」は、物価に深刻な影響を与える事になる。

「お金」が独自の働きをするようになると人間は「お金」に振り回されるようになる。
ただ、「お金」は、「お金」だという事を忘れてはならない。「お金」は、手段であって最終的な目的とはならないという事である。

お金に対する信認は、信仰のようなものである。「お金」信じる者のみに価値がわかるのである。「お金」を信じない者には、何の価値もない。
豚に真珠、猫に小判というが、豚や猫は、真珠や小判のために殺し合ったりはしない。だとしたら、豚や猫と人間、どちらの方が真珠や小判の真の価値を知っていると言えるだろうか。
「お金」に価値があるというよりも「お金」を市場に供給する側の人間も、「お金」を使う側の人間、即ち、売り手も買い手も、貸しても借り手も「お金」に価値がなくなると困るから貨幣価値は成立しているのである。



物の価格は相対的である。



物の価格は絶対的ではない。相対的なものである。市場経済では、物の価格は、市場取引によって決まる。市場取引で物価を左右するのは、需要と供給である。ただ、物価は、需要と供給だけで決まるわけではない。通貨の供給量や所得水準の影響も受ける。
供給は、生産力や生産量、在庫量などによって決まる。

貨幣経済は、貨幣の循環運動によって成り立っている。物価も貨幣の循環過程で形成される。物価は、働きと所得と成果の均衡によって定まる。働きは力、所得は支出、成果は、需要と供給を産み出す。

物価の変動率は、金利や所得の変動率と共に付加価値を形成する要因の一つである。付加価値は時間価値の一種でもある。
ゼロ金利で問題となるのは、時間価値が喪失する事である。金利と物価とは、時間価値を生み出すという点においては共通している。物価が下がると言う事は、時間価値の喪失に繋がるのである。

物の価値には、名目的価値と実質的価値がある。名目的価値は、公式に金額によって記録された価値であり、実質的価値とは、物そのものがその時点時点に持つ価値である。どちらも貨幣価値として表現される。名目的価値は取引によって定められ、実質的価値は、時価によって表現される。例えば、地価の取引価格は、該当する土地の取引が成立した時点の価格を言う。それに対して、時価は、該当する地価の周辺において直近で取引が成立した価格から推定される。

今日の貨幣制度では、正式にお金を供給しているのは、貨幣の発行、発券機関である。日本では、政府並びに中央銀行である。硬貨に関しては、政府機関が発行し、紙幣に関しては、中央銀行が発券している。多くの人は、中央銀行だけがお金を供給していると錯覚しているが、実際は、政府も一部貨幣を直接市場に供給しているのである。

現在、物価は、金利と通貨の流通量を調節する事で制御している。物価を考える上でこの点を前提として先ず留意しておく必要がある。

現代社会は、何でもかんでも価格、価格。それも安ければいいという風潮がある。
安ければいい。安売りを奨励することは、消費者の味方だと気取っている。そのうえ、独善的に消費者は安ければ喜ぶと思い込んでいる。
消費者も馬鹿ではない。本来、消費者も値段だけで選んでいるわけではない。

市場は価格を決める場である。
市場が目指す価格は、適正価格である。必ずしも廉価ではない。
価格を決定する際、決定的な要素となるのは、人々が何を必要とし、それに対してどれくらいの値段なら支払うに値するかである。

市場は失敗しない。失敗するのは、人である。
人が失敗するのは、市場の本来の目的を見失っていることによる。


物価は一定ではない。


物価は、一定一律ではない。又、一様でもない。一方的に上昇する物もあれば、逆に下降する物もある。又、乱高下する物もあるし、長い期間変化しない物もある。景気や為替の変動に連動する物もあれば、生産量に影響する物もある。一律一様に価格の変化を予測する事は不可能である。競争を煽って全ての価格を安くしてしまえと言うのは乱暴であり、科学的でもない。重要な事は、適正な価格を追求する事である。商品その物の性格も一律一様ではないのである。

適正な価格を決めるための手段の一つが競争である。
競争という手段は鍵を握っているが、競争という手段は、絶対ではないし、全てでもない。

自動車が速度を出しすぎて事故を起こしても自動車が悪いと決めつけるのは短絡的である。自動車よりも運転していた人が悪い場合が多い。
市場も同様である。都合が悪くなると市場の性にするのは人間の勝手である。しかし、それでは何ら解決には至らない。
市場ら欠陥がないとは言わないが、欠陥車を作るのが人なら、欠陥のある市場を作るのも人である。しかも、それを改めようとしなければ、悪いのは人であって市場ではない。そうなると、市場が失敗したなどと言うのはいいわけに過ぎない。

適正価格という思想は、どこかに消し飛んでしまった感がある。特に、マスコミの人間は、不見識な事を不用意に言う者が多い。中立的立場に立って適正価格を訴えるためには、かなり勉強しなければならない。それよりも消費者の味方を気取って安売り業者の肩を持つ方が安易で楽である。
そこで、安売りを奨励していれば、取り敢えず知識人としての責任を果たしているとでも思っているようである。
何も考えずに安売り業者の肩を持つ事が消費者の味方であるとでも言いたいのであろうか。
でなければどっちつかずの事を言ってトラブルが生じた時に、責任逃れをしやすくしておいた方が得か。
消費者の味方を気取るならば、消費の質にもっと関心を払うべきである。
良い品を適正な価格でと言うのが本来の姿である。

デフレが悪いと言いながら、安売りを奨励する。デフレは、物価の異常な下落が一因する。悪徳な安売り業者が横行しても、マスコミの人間は、安売り業者の肩を持つ。なぜならば、彼等は価格以外に判断する尺度を持たないからである。

不当廉売、過当競争は、長い目で見て消費者のためにならない事が多い。
良心的な業者や良質な商品を市場から駆逐してしまう事にもなるし、市場の寡占独占を招く事にもなる。

市場が成熟するにつれて、本来、量から質への変換が必要なのである。ところが現在の市場は、量から質への転換が上手くいっていないように見える。廉価な商品から高級品への転換を計るという事は、高級品への転換から使い捨てではなく、物を大切に使い込んでいくというライフスタイルへと変わっていく。それが環境保護や資源保護に結びつくわけである。

資源保護や資源保護の観点からも良い物を大切に使い込み、使い捨てを止める事が大切なのである。大量生産、大量販売、大量消費型の生活から卒業する必要がある。無駄遣い、浪費が多すぎるのである。


 





独占への道


なぜ、自由主義経済、市場経済では競争を重んじ、独占を嫌うのか。それは競争の必要性からきている。
なぜ、競争を必要とするのか。
第一に、組織は、単独では、自己増殖する性格がある。組織は自己増殖し始めると著しく効率が低下する。また、非効率な部分が温存される。つまり、無駄が増える。
第二に、差別や格差を生む。階級化される。
第三に、年功や出自が重んじられるようになる。
第四に権威や権力が強くなりすぎる。
第五に、自己制御が効かなくなる。自浄能力も失われ、情実に支配される。
第六に、既得権が生じる。階級、格差が定着したら、必然的に既得権益が生じる。
第七に、相互牽制が効かなくなり、不正の温床となる。相互牽制が効かなくなるという事は、チェック機能が働かなくなることを意味する。
第八に、組織が硬直化する。動的要素より静的要素が強くなり、変動を要因が抑えられる事で組織が硬直化する。
第九に、新陳代謝が進まなくなる。相互牽制が効かなくなると組織が硬直的になるために、新陳代謝が進まなくなる。評価基準として実力や能力以外の属性による評価、家柄とか、学歴とか、性別、人種などが幅を利かせるようになり、世の中に不公平感が充満するようになる。
第十に、自分の位置づけが出来なくなる。即ち、自己を絶対化する事で、相対化する事が出来なくなるのである。経済的価値の本質は相対的価値である事を忘れてはならない。
独占の危険性は、社会主義国の末路を見ればわかる。経済的価値は相対的なものであって絶対的ではない。生産は不確かで、需給は揺れ動いているのである。価格が一意的に決められてしまう独占は、価格の働きを失わせ経済を硬直化し、機能不全に陥れてしまうのである。

現在、独占禁止法の精神が失われているように思われる。
独占禁止法という名前から、独占禁止法の精神は、独占を禁止する事のように誤解されている。しかし、独占を禁じるというのは、一つの方策であり、目的ではない。独占禁止法の精神は、適正な価格を維持する事であり、そのために、公正な競争を促す事である。
なぜ、適正な価格を維持する為に、競争が必要なのかと言うと経済的価値は、絶対的価値ではなく。相対的価値だからである。

気を付けなければならないのは、競争と独占は表裏の関係にあるという点である。無原則な競争は、独占、寡占に至る。故に、不当廉売も独占禁止法では、禁止されているのである。
今日、競争を煽れば、万事うまくいくといった思い込みがあるが、無原則な競争は、寡占、独占状態を招くことを忘れてはならない。無原則に規制を緩和し、市場の秩序を奪えば競争はやがて闘争に変質し、潰し合いになってしまうのである。今日、日本の産業の多くが寡占独占状態に陥ったのは、無原則に規制を緩和した結果である。

公正な競争というのは、何をどの様な条件のもとに競わせるかが鍵を握るのである。特に、市場が成熟し、飽和状態になった時は、量から質への競争に転化する必要がある。なぜならば、市場が拡大、成長している段階では、競争による弊害を市場の拡大によって吸収する事が出来るが、市場の拡大が止まり、市場が飽和状態になるとパイの食い合い、占有率の争いとなって潰しあいになるからである。

無秩序な競争は、寡占、独占を促す。
かつて、プロ野球は、アメリカではヤンキース、日本では巨人が圧倒的な強さを誇った。こういった一強による弊害を取り除くために、ドラフト制度やトレード制度を導入したのである。規制は悪い、撤廃しろというが、スポーツは、ルールによって成り立っている。なぜ、スポーツ以外の市場は無政府的にしなければ気が済まないのか。公正な商売も規制があって維持される。規制がなくなれば無法状態に陥る。無法状態になったら市場は荒廃するのである。

競争原理主義者は、結果的には、競争の働きをなくしてしまう。なぜならば、ルールのない競争は競争として成り立たなくなるからである。競争で大切なのは、節度のある競争、スポーツマンシップに則った競争である。弱者を徹底的に痛めつけるような競争は、市場にいい結果をもたらしはしない。市場を荒廃させるだけである。
相手を完膚なきまで打ちのめし、叩き潰してしまう。最後は、廃業、合併にまで追い込んでしまうのは、競争とは言わない。それは闘争である。

規制を緩和する事は、競争を促す事だから拡大策だと考えがちだが、必ずしも、拡大策とは限らない。競争が激化すればかえって拡大は抑制されてしまう。競争によって拡大を画策するのならば、一定の規制が必要となる。
何よりも前提が重要なので、同じ策でも、前提が違う場まったく逆の反応をする事もある。景気が悪ければ公共投資をすればいいというのは短絡的である。
不景気な時に規制緩和による競争の奨励をすれば収益力の低下を招く。又、失業者が増えているというのに、支出を削減し、緊縮財政策を採用し、金利を上げれば投資を投資が抑え込まれる。財務体質を強化させるために、自己資本率の向上させ、総資産、総負債の圧縮等の施策を促進させる事は、縮小均衡型の施策である。
逆に、本業の収益が見込めなくなった時に抜本的な解決策をせず、保護主義的な規制をし、優遇的な税にして投機を奨励し、金利を不必要に下げて借金をしやすくし、総資本、総資産を拡大させるする事は、拡大均衡と言うよりバブルを誘う施策である。結局、バブルを引き起こしたのもバブルを崩壊させたのもやるべき時にやるべき事をせず、やってはならない時にやってはならない事をしたのである。金利あげるべき時にあげないで、金利を下げてはならない時に金利を避けだ結果、景気を悪化させたのである。
縮小均衡、拡大均衡どちらが是か否かの議論は馬鹿げている。どちらにしても絶対的施策と言う事はない。市場の環境、状況に合わせて拡大均衡型施策、縮小均衡型施策を組み合わせて施行すべきなのである。
何を前提とすべきかが事の正否を分かつ事なのである。

規制は、悪だとして競争を崇めている者を見ると新興宗教のようにすら見える。経済の原則に原理なんてない。なぜならば、経済は、人工的産物だからである。そのような驕りが結局独占寡占を許し、市場から競争が働かなくさせてしまうのである。
規制のない競争なんてない。競争は、規制があって成り立ってい目からである。規制のない争いは、競争ではなくて闘争である。

市場における競争で重要なのは、競争をしても利益が上げられるようにする事なのである。無原則な競争は、限りなく利益を奪い去っていく。その果てにあるのが寡占、独占状態なのである。

極端な規制緩和は、独占や寡占状態を招き。そして、保護主義を招く。

なぜ競争をする必要があるのか。なぜ、競争をさせる必要があるのか。なぜ、競争を必要とするのか。一つは、経済的価値は、相対的価値だからである。
もう一つは、適正な価格を裁定するためである。適正な価格と言うのは、適正な費用を基としている。費用は、分配の要だからである。
今日、一般に利益を最終的指標として見る傾向があるが、利益は、余剰である。企業経営上、余裕も必要である。しかし、過剰な余剰は弊害にすらなる。だから、利益には、税がかけられ、株主や経営者に分配もされる。しかし、余剰以上に重要な働きをしているのが費用である。
競争は、利益を出すというより、適正な費用を確定する為にあると言える。基本的費用と言うのは固いのである。
経済の働きを評価しようとした場合、収益、収入ばかり注目しがちだが、経済的働きは、支出にもある。言い換えると収入は支出でもある。つまり、ある人の収入は別の誰かの支出でもある。だから、費用と収益は表裏一体なのである。費用は、支出を基としている。支出によって分配は実現する。価格にとって適正な費用を確保する事が目的なのであり、そこに損益分岐点の意味がある。
費用は、下方硬直的と言う性格がある。費用の上昇は収益に先立って起こり、費用を削減するにしても収益に追従して起こるという性格がある。この様な費用の性格も経済の闇を作る原因となる。

経済的価値が相対的であり、絶対的ではない。独占寡占が良くないのは、価格が硬直的になり、環境や状況の変化に適合できなくなるからである。経済は、相対的価値だから、相互牽制が働かなくなると価格の調整機能が市場から失われる。

プロ野球を考えた時、一つのチームでは、試合は成り立たない。二つのチームでは、勝負がつかなくなる。じゃあ百チームでは、経営は成り立たなくなる。日本にとってどれくらいの数が適正なのか、それが問題なのである。
アメリカのプロフットボールは、だからこそいろいろな仕組みや規制を設けてチームやリーグ成り立つようにしているのである。

意味もなく競争を煽り、競争を原理として絶対視する事は危険である。無原則な規制緩和は、過当競争を招く。市場経済は、適正な利益によって成り立っている。適正な利益は、収益と費用の関係が導き出される。適正な利益が上げられない状態になれば、寡占、独占状態に陥るのは必然的帰結である。

適正な利益は、適正な収益と適正な費用によって成り立っている。

廉価で輸出できるには、輸出できる理由がある。一つは、輸出国の通貨が輸入国に比べて相対的に安い事である。次に原価が安い事である。原価が安い最大の要因は、人件費である。

なぜ、安い人件費が実現するのか。不当に安い人件費で働かせているか。劣悪な労働環境で働かせている場合が考えられる。
同じ前提に立たなければ、公正な競争は保たれなてのである。公正な競争を実現するためには、労働条件はどうか、生活水準はどうかは、労働環境はどうか格差や差別はないか等を検証する必要がある。その上で必要に応じて規制するのである。

不公正な競争と言うのは、前提条件による。前提となる労働条件が不当に低かったり、労働環境が劣悪であったり、品質管理や保安が劣悪では、同じ条件で競争しているとは言えない。
最初から条件が違うのでは、適正な競争はできない。不公正な競争が横行したら市場を守るために、保護主義的にならざるをえないのである。

個々の国を関税によって閉ざすのではなく。同一の条件で競争ができるようにする事なのである。それは、無原則な規制緩和を意味するわけではない。

金融と物価


物価に決定的な影響を与えるのは、金利である。金利は、時間価値を形成するからである。物価もまた、時間価値を形成する。

物価は、需給で定まる。

需要の根拠は人口であり、単位消費量である。供給の根拠は、生産手段であり、生産量である。物価の根拠は、購買力であり、単位支出である。そして、購買力の基軸は、所得である。物価は、危うい需給バランス、即ち、消費と生産、所得と支出の均衡の上に成り立っている。人、物、金の均衡が保てなくなれば、インフレーションやデフレーションがおきる。
生産と、消費の均衡が崩れても、所得と支出の均衡が崩れても物価は、乱高下する。所得は、労働か所有から生じる。雇用が減少すれば、持てる者と持たざる者の格差は拡大する。

ハイパー・インフレーションのように破壊的な物価の変動は主として貨幣的現象である。なぜならば、物や人は、有限であり、生産革命によって人が生きていくために必要な資源の絶対量は、確保されていると考えられる。それに対して、「お金」は、無限であり実体がない、名目的存在である。それ故に、貨幣価値は、暴走したら止められなくなる。

金融は虚業である。実業に金が回らなければ、貨幣価値は虚しい。物価も空しくなる。恐慌もハイパーインフレーションも虚である金融が実業から離れて膨張する事が原因となる。

金融機関は、金融機関だけで成り立つわけではなく。財政は、財政だけで、企業は、企業だけで、家計は家計だけで成り立っているわけではない。個々の部門の相互作用によって経済は動かされているのである。
経済は、部門間の相互作用によって成り立っている。そして、部門間、企業間の関係や働きを制御するのが価格なのである。物価の異常な動きは、この関係が破綻した事を意味する。

現在の金利圧迫は、歳入不足を国債に頼っていることに起因している。財政収支を改善しない限り、金利圧迫は解消できない。金利圧迫を解決する手段は、ストックの削減かフローの改善しかない。フローの改善は、財政収支の改善を意味する。財政収支を改善する手段は、歳入の増加か、歳出の削減の二つしかない。歳入の改善は、税収を増やすか、税外収入を増やすかしかない。財政収支を改善する為に、増税をしても総所得が上昇しない限り、民間所得を圧迫するだけに終わってしまう。税というのは、拡大再生産には向かないのである。なぜならば、税には反対給付がないからである。一つは、税外収入を計る事。もう一つは、民間の収益の拡大を計る事なのである。
財政収支を財政だけで解決しようとしても不可能なのである。
金融は金融だけで存在するわけではなく。財政は、財政だけで均衡しているわけでもない。家計は、家計だけで均衡しているわけでもなく。企業は企業だけで均衡しているのでもなく。一国も一国だけで均衡しているわけではない。個々の部門が互いに協力し合い、助け合わない限り全体の均衡は保てないのである。全体は部分のために、部分は、全体のためにそれが神の意志なのである。

金融機関や実業家は、利己的で私利私欲で行動すれば市場は自ずと均衡するというのは幻想にすぎない。金融機関に携わる者も実業家も、官僚も、政治家も高い見識、倫理観と節操、志が求められるのである。私利私欲だけで経済は治まるほど簡単な事ではない。経済人の無責任な行動こそ世界を破滅に導くのである。

現在の逼塞した状態を打破するために、また、資産の上昇に頼ろうとすれば、バブルの二の舞になるだけである。
ただ土地に投資するだけなら、土地は何も生み出さないからである。土地の価値は地価にあるわけではなく、いかに活用するかにある。ただ地価の上昇のみを追求するのならば、負債、ストックを膨らませるだけである。そして、負債に見合わない資産を増やすだけで、バブルがはじけ資産価値が消滅し、借金ばかりが残るのである。そのとたんに資産と負債の関係も崩れてしまう。問題は、資産が負債に見合う価値を失う。名目的価値と実質的価値が乖離する事なのである。
ストックとフロー、名目と実質、所得と支出、生産と消費、労働と分配、需要と供給、資産と負債、収益と費用これらの均衡の上に物価は成り立っている。そして、これらの関係を調節するのが利益であり、部門間の力関係なのである。
何が今求められているのかと言えば、健全な投資に対する健全な貸付である。ただ目先の利益のみを追い求めるのではなく、健全な利益を上げられるような市場環境を整え、仕組みを構築する事である。
そして、なにが未来の世界にとって必要な事なのか。破滅的な兵器に血道を上げる事なのか。住む人のいない住宅に金を注ぎ込む事なのか。高齢者の住宅を充実する為に投資すべきか。将来を考えたら市場をカジノ化する事がいいのか。貧困をなくす事なのか。平和を保つ事なのか。環境を維持する為に投資をすべきなのか。地震や洪水から人々を守るためなのか。港湾や空港を整備する事なのか。公害をなくすために投資をすべきなのか。衛生や健康を維持させるための投資をすべきなのか。何に資金を投資すべきかを見極める事が今求められているのである。
金融家が高い志を失った時、経済は堕落する。産業は、実業家の夢と理想によって築かれる。財政の在り様は国民、政治家の品性を表している。家計は、人々の倫理観に支えられている。国民一人ひとりの倫理観が節度ある負債を維持するのである。

健全な投資に対する健全な貸付以外にこの逼塞した状態を打破する事はできない。そして、健全な投資をするためには、適正な収益と適正な費用に基づく健全な利益なのである。

経済に善良さを求めても意味がないのかを知れない。なぜならは、経済は生きるための活動だからである。生きるという事は、戦いである。善良さだけを求めて戦い抜けるとは限らない。しかし、善良さを否定したら経済が成り立たないのも事実である。なぜならば、人は一人では生きていけないからである。
誰も、損をしたくて商売をしているわけではない。騙すつもりで取引をしているわけではない。中には悪党もいるが、大多数は、善良な市民なのである。週時期に真面目に生きていきたいと願っている。ところが、世間はままならぬものである。儲けるつもりで損を出しその為に多くの人に迷惑をかける。だますつもりでなくても結果的に騙したの同じ事になることがある。バブル崩壊後の惨状がいい例である。バブルが形成された時は多くの人が強欲となり、バブル崩壊後は、大損をした。バブルが膨らんでいる時は、欲望が剥き出しになり、バブルが崩壊するとあさましいかぎりである。
施策を過てば経済は、人々から善良さを奪い取ってしまう。利益が上がれば快楽を追い求め、損失が出れば損失を糊塗する為に、不正に手を染め、人を欺き、倫理観まで売り払う。
だから、商売人は蔑まれる。しかし、経済は、人々を生かすために不可欠な生業なのである。商売こそ、商売道が求められるのである。
人の本性が試されるのは、負けた時、失敗した時、損をした時だと言われる。人の一生にいい時と悪い時があるように、経済にも波がある。苦しい時、挫折した時こそその人の本性が問われるように、市場が縮小している時こそ政治や金融機関は、その品性が問われるのである。真に人生も経済も糾われる縄のような事である。
負けた時、失敗した時、損をした時こそ志が問われるのである。

金融機関の役割は、経済の波を整流する事である。経済が停滞し市場が縮小している時は、資金の偏りがあらわになる。
景気が後退する局面で金融業者に問われるのは、国家の礎をいかにするかである。苦しい時だからこそ、高所、大局に立った長期的な展望が求められるのである。
物価は、人の本性をあからさまにする。物価を制御したければ、まず、人は己に克ち礼に復する必要がある。

バブルは、形成期においても崩壊期においても金融機関に携わるもののモラルが問われるような事象が多発した。バブル形成期において善良なる銀行員は排除され、バブル崩壊後の後始末の中で心ある者もモラルを失っていった。謹厳実直ていう銀行員に対する我々のイメージは過去のものである。経済の仕組みを理解しないままに不正に手を染めるからである。

海外のテレビドラマを含めて今のテレビドラマを見ていると何が言いたいのかわからなくなる事がある。大概のハッピーエンドにならない。それ以前に、何をハッピーとしているかがわからない。つまり、ハッピーエンドにはなりようがない。
昔は、国の爲とか、世のため人の爲、あるいは、家族の為と何のために働いているのかが比較的見つけやすかったと思う。今は、国のためなどと言うと国粋主義者、世の為人の爲などと言うと偽善者、家族の為といっても家庭が崩壊してしまっている。
現代人は、かっこつけて恵まれないものとか、労働者のためになんて言うのが流行ったが、それって恵まれない人たちや労働者を見下している。
これでは何のために、誰のために働いているのかもわからなくなる。
それで、結局、金の爲でしょと手っ取り早く決めてかかる。しかし、「お金」なんて本来実体のないものである。だから、「お金」なんて命を賭けたら人生そのものが虚しくなる。
何のために、誰のために生きているのか。行きつくところ、自分達を生かしている何者かのために生きるとしか言いようがない。だから、現代人は信仰を必要としている。特に、日本人はである。
なぜ、「お金」のために生きているような錯覚を起こすのか。それは、「お金」のために、人生を棒に振ったり、大切なものを失っている人たちが多いからである。「お金」に人は試されている。一億円の「お金」を自由に使っていいと言われたら何に使うか。そこにこそ、その人の本質が表される。だからこそ金融に携わる者は、崇高な精神を求められるのである。


物価と税金


税金は、物価に対して決定的な働きをする。それは、税金の主幹的働きの一つが所得の再分配にあるからである。また、税金は、家計、企業、海外部門とならんで国民経済統計では分配のための一部門でもある。経済の目的の一つは、分配にある。故に、税金は、物価にや景気に対して決定的な働きをする。

もう一つ重要なのは、明治維新以後、税が金納になった事である。税が金納になった事で貨幣制度の本質が変わり、貨幣経済が確立された。貨幣経済が確立された事によって税の働きが、所得の再配分、資金の回収と循環という働きが加わったのである。と同時に、もう一つ重要なのは、貨幣価値の市場に対する定着がある。貨幣価値の定着というのは、経済的価値を貨幣価値に統一する事と貨幣価値の統一という事を意味する。

税が物納ではなく金納になった事で何が変わったかと言うと、全ての経済的価値が貨幣価値に還元される事が前提となった事である。貨幣価値と言うのは、負の価値である。その事が実感されるのは、相続税を支払う時である。相続税と言うのは、誰に所有権が帰属しているかという事であるが、結局、相続の対象となる物の所有権は、国家にあるという事であり、国民は資産を借りているのに過ぎない。相続税が派生すれば、借金をしないかぎり税金を払わずに財産を相続することはできない。贈与をした場合は、架空の取引を想定され、それにかかわる費用から税が決められる。
経済主体と言うのは、そのような仮想空間の上に成り立っているのであり、資本も仮想的現実なのである。総資産と言っても総資本と一対になって成立している。総資本と言うのは、負債と資本、つまりは資金調達を言うのである。有態にいえば、借りである。税金の本質は、「お金」なのである。

税金の目的は、第一に所得の再配分。第二に、資金の回収と循環。第三に、公共投資の原資。第四に、国債の返済の原資。第五に行政費用の原資、第六に景気の調整機能であるが、税金の働きで市場に決定的な働きをしているのは、所得の再配分と資金の回収と循環である。

税には、所得税、消費税、固定資産税、物品税、目的税等がある。
税の性格は、課税対象と税固有の性格によって決まる。
所得は、所得を直接的に課税対象とする事で、財政を所得の最終的な受け手の一部門としてみなす。また、所得に対して累進性を持たせることで、所得の再配分を直接的に実現する事が可能である。それに対して、消費税や取引税の様な消費や取引等の行為を課税対象としている税は、収入を直接消費や取引に結び付ける事が出来ないために、所得の再配分に資する事が難しいとされ、逆に逆進性を問題とされることがある。

所得に対する関係によって直接税となるか間接税となるかがわかれる。
所得税は、所得を課税対象としている。消費税は、消費を課税対象としている。固定資産税は、資産を課税対象としている。物品税は、特定の製品を課税対象としている。目的税というのは、何らかの目的によって課税対象を決める税制度である。

また、税金を考える上で定額か、定率かも重要となる。
定額というのは、事や物の単位に対して課税する事を意味し、定率とは、何らかの対象に対する分配や加算を意味する。つまり、事や物に対する課税なのか、何らかの全体に対する課税なのかの差である。

何を課税対象とするかによって景気の変動に直接影響を受けたり、また、所得の偏りを是正する、あるいは、資金の回収と循環を促すといったどの様な効果があるかは、課税対象と課税手段、基準によって決まる。

所得を直接課税対象と見なす考え方は、最終的所得の分配先として財政を見做しているのに対して、それ以外の税金は、資金の回収を経済過程の一過程としてとらえる。

税金の性格は、所得と税金との関係によって直接税と間接税の違いが生じる。それは、所得とどうかかわるかによって税金の働きが決定的になるからである。それは、税金の主たる目的が所得の再配分、資金の回収と循環にあるからである。特に、財政においては、資金をいかに回収し、循環させるかが鍵を握っている。資金の回収は、結果ではなく、制度的問題である。
公共投資や補助金なので供給された資金が、収益によってどの程度回収されるかは、制度的な問題であり、その根幹となるのが税制度である。
また、内税にするか、外税にするかは、税に対する思想の現れである。
内税という思想は、税を分配だという思想であり、外税という思想は、加算されるものだという思想である。

税金の問題点の一つは、可処分所得の圧迫にある。なぜならば、消費は、特に、恒常的生活費は、可処分所得の範囲内で行わる事が前提となるからである。所得が伸び悩む中で税率が上がれば必然的に可処分所得は、圧迫される。税金というのも分配の手段の一つである事を忘れてはならない。
一般に税金はとられると思っている人がいるが、収入に対する分配なのであり、どれくらいを公的部分に分配するかの問題なのである。つまり、可処分所得と消費とのかかわりをどうするかが重要となる。
所得税は、所得そのものを課税対象とするために、効果は、最も上がると考えられる。しかし、反面、所得の全てを補足する必要がある上に、所得の明確な定義をする必要がある。
資金の回収という観点からすると所得税は、消費を網羅しているわけではなく、消費税は、所得を網羅しているわけではない。所得と消費は、資金効率の問題でもある。

バブルは、成長期から成熟期への移行の狭間で起こった現象である。成長期から成熟期への移行に伴って所得の伸びが停滞した事である。そして、それを補う形でそれまで蓄えや資産を活用した。そして、円高不況である。円高によって本業で儲からなくなった企業が財テクを始めた。バブルを形成し、バブルが崩壊すると借金の山が残ったのである。それを清算できずに三十年以上が立とうとしている。地価の上昇は、庶民の世界にまで及んだ。借金をしなければ相続税が支払えない。銀行も保険屋もそれまで見向きもしなかった人々まで巻き込んでバブルをお起こした。バブル崩壊後は貸し剥がしが問題になったが、それ以前にバブル形成時は、地上げが問題となったのである。どちらも背後には金融機関がいた。その点を直視しないと経済の立て直しも財政の健全化もできない。ただ、欲得づくだけでバブルは形成されたわけではない。

バブルの最盛期に更にバブルを煽った要因の一つに相続税である。ただ一等地に住んでいる、商売しているというだけで資産価値が莫大になり、自分の所得では、税金が払おえなくなり、特に、相続の特には法外な資金が必要となる。やむにやまれずにとった相続税対策がバブルが崩壊したら裏目に出て今度は巨額の借財を追わされる羽目に陥ったものが数多くいる。金持ちの定義には、二つある。一つは、資産家であり、もう一つは、高所得者である。バブルは資産家の貧乏人を多く生み出したのである。

税と言うのは、経済に深刻な影響を及ぼす。
「お金」の働きは負である。人と物の働きは正である。経済は、陰と陽、負と正の働きの均衡の上に成り立っている。
それは、相続の時、嫌と言うほど思い知らされる。相続財産と言うのは、いわば借物に過ぎないのである。資産の裏側には「お金」が潜んでいて、それを引き継ごうと思えば、負債を新たに起こさなければならない。それが実態なのである。そして、それがバブルの背後で働いていた。
相続の後に地価が下落し身動きが取れなくなって自殺した者まで現れた。こうなると誰が悪いのかもわからなくなる。経済には、光と影があるのである。光だけで経済は成り立っているわけではなく、影の部分も光以上に重要な働きをしている。光ばかりを見て影の部分を見ようとしない事が間違いの本なのである。
税とは何か。税の働きを正しく理解していないと税は、経済の仕組みを根底からおかしくしてしまう。


成熟した経済、大人の経済


成熟した市場の性格と、新興市場とでは市場の性格が違う。当然、物価の性格も違う。
そして、一般に成熟した市場と新興の市場が混在しているものなのである。

何が問題なのか、市場が成熟し、量から質の経済へと転換すべき時に、価格競争を煽って結局量販店に市場を占拠させてしまった事である。その為に、高級品が駆逐され、質より量が重んじられた事である。その結果、収益が維持できなくなり、所得が減少した。
商品のライフサイクルも短く、長期的な見通しをもって投資する事が困難になった事である。
技術革新や資金商品ばかりに目が向けられ、職人の技が軽んじられるようになった。手に職がある者も量販品に追われて廃業に追い込まれて行ったのである。その為に、技術の継承も困難になった。手作りの物より機械製品が重んじられ、匠の技など二束三文の価値しかなくなったのである。

売上は数量と価格の積である。数量が減ってきたら価格で収益を確保しなければやっていけなくなる。その時に無原則に規制を緩和した結果、多くの個人事業者は廃業を余儀なくされた。
それを経済効率というのは見当違いである。仕事の価値は、定価だけで測られるべきものではない。大体、経済の仕組みの本義は、分配にある。必要以上に物を生産し、無駄に余った物を捨て、使い捨てを奨励するような仕組みが経済本来の目的を実現していると言えるであろうか。

市場の拡大が止まり、縮小してきたら、拡大期と同じ事をしていたら収益を確保する事が出来なくなる。
市場が成熟すれば量から質への転換が計られなければならないのである。
貨幣価値の働きは、密度が重要な役割を果たしている。密度とは、質と量の積である。量的な拡大が望めなくなったら質的な拡大を計る必要が出てくる。量的拡大は、質的な変化をもたらす。

例えば、ホテルやレストラン等は、創業時点で、設備や建物と言った物理的基礎部分は確定している。
売上は、客単価×客数である。つまり、売上を上げるためには、客数を増やすか、客単価を上げるしかない。しかし、客数の上限は、創業時点で確定している。
人的、物的経営資源である従業員数、設備などの固定費の基数となる部分もほぼ確定している。つまり、収益や費用の人的要素や物的要素は、投資時点で確定しているのである。
不確定要素は「お金」が絡む部分である。なぜならば、「お金」は、変化させることが可能だからである。
「お金」が絡むと言っても費用は、下方硬直的で放置すれば確実に上昇してくる。従業員の給与や料理の原材料費などの金銭的な部分が上昇するからである。それに対して収益は、客単価は変動できるが、来客数は、不確かである。つまり、収益にはリスクがある。収益を上げるためには、客単価を上げる以外にないが、おいそれと客単価を上げるわけにはいかない。
事業の成長期には、稼働率や回転率を上げる事に専念をすればいいのだが、設備に限界がある以上は、来客数にも限界がある。
競争力と言っても新規のホテルやレストランに対して太刀打ちできない部分もある。
そう言った時に収益が限界に対し、横ばい状態になったら成長期と同じ戦略は取れなくなる。今日、老舗のホテルやレストランが苦戦している理由がそこにある。

翻っていえば、これは一国の経済にも言える。高度成長期が終わり、市場が過飽和な状態になったら、量から質への経済へと舵を切る必要があるのである。重要なのは、新規のホテルを無原則に立てさせることではなく、サービスの向上に努めさせることである。バブルの時のようにやたらに設備投資をして過剰設備にしてしまうのではなく。適度な競争を促しながら質を重視した施策に転換させる事なのである。

質とは、付加価値を構成する。
即ち、付加価値を上げるためには、何らかの仕組みが必要なのである。

回転数が下がったら利益率を上げないと経営主体を継続するのに必要な収益を確保することが出来なくなる。

所謂豊作貧乏という現象が起こり、作れば作るほど貧しくなるなどという事もある。

消費は、支出である。支出は、費用になる。費用は、所得でもある。
いい産業を育てたければ、適正な収益を上げられる環境を整え、技術に応じた報酬を保障すべきなのである。

かつては、安物買いの銭失いといい。良い物を大切に使おう。一生物、親から子へと代々受け継ごう。家宝に使用と物を大切にする心が日本人にはあった。現代人は、何でもかんでも金、金、金。使い捨て社会。人も又使い捨て。結局、品性が卑しく、貧しくなってしまった。

安ければいいという発想そのものが貧しいのである。

逆に、ブランド物を目の色を変えて買い漁った挙げ句偽物を掴まされる。
明日ければいいという裏側に高ければいいという卑しさがある。
価格だけでしか商品が選べないとしたらそのこと自体精神が貧しいのである。

物事の価値を価格でしか判断できなくなった証拠である。

価格は、いろいろな要素が込められて本来決められる物である。
同じ物であったとしても作る人によって価格は違うこともある。

物価を問題とするのならば、先ず価格について考えるべきなのである。人と物と価格とが適正な関係に保たれているかが問題なのである。
もったいないとか、倹約とか、節約という言葉も経済的という意味でかつては使われてきた。今はもったいないなんて言うと笑われかねない。しかし、笑っている者だって実際は、使い捨て文化、浪費文化、量産、量販文化に毒されているだけである。物を大切にするという事は今でも廃れてはいないのである。

骨董品のような物、中古品を自分の好みに合わせて改造する事は、決して貧しい事ではない。自動車を改造して自分だけの自動車に改造するのも一つの文化である。代々伝わった物を子孫に伝承していく事は悪い事ではない。父や母の遺品を大切にするのも時代遅れではない。愛着のある物を修繕し、修理して使っていく事は、心温まる事である。
物を大切にする心は侮れはしない。

事の是非善悪成否に、新旧老若男女の別はない。古いから悪いという事もなく。新しいからいいという決まりもない。進化だけが真理なのではない。

人の心を失った経済は、人を生かす事が出来ない。経済は、生きるための活動なのである。

自由が経済の拡大や成長、技術革新などを前提としていたら経済成長や市場の拡大、技術革新が限界に達した時、自由は失われる事になる。しかし、自由がその真価を問われるのは、むしろ限界に達した時である。
数学は、拡散、拡大、無限の身を前提として成り立っているわけではない。むしろ、数学の本質は、収束、収縮、有限に置かれるべきである。
成熟は、衰退を意味するわけではない。成熟は、繁栄の極みである。成熟が衰退に変質するのは、状況の変化を見誤り、適切な政策がとられないからである。借金の働きも成長期と成熟期とでは違う。つまり、衰退するのは、政策の過ちによる。
成長や拡大は、量的な要素に支えられているが、成熟期になると市場は飽和状態になり、量的な拡大は期待できなくなる。つまり、量から質への転換が求められるのである。成熟期が衰退に転じるのは、量から、質への転換する事に失敗したからである。
少子高齢化は、衰退を意味しているわけではない。むしろ社会が成熟した証である。その点を理解せずにただ、少子高齢化の負の部分ばかりを問題にしたら少子高齢化の正の部分を活用できなくなる。

量から質への転化が出来ず、安売り業者が跋扈している事で、現代人は、低級とか、低俗ばかりを追い求めている様にすら見える。この様な状況下では高級、高尚など望みようがない。文化から品性が失われている。品質を見抜く力が失われ、値段ばかりが価値の基準となっている。テレビは視聴率ばかりが追い求められ、映画は観客動員数が映画の主張を正当化する。どんなに悪質な内容でも儲かればいいのである。量さえ稼げれば質なんてどうでもいい。だから、文化が幼稚化、稚拙化している。

市場が飽和し、成熟したからこそ、質が求められ、大人の経済が求められるのである。
成長時代はただ、ひたすらに走ればいい。質よりも量が求められていたのである。
大人になってたくさん食べられなくなったからこそ、美味しいものを少しずつ味会うようになるのである。
量から質への経済の転換に失敗し、高齢者が全力で走り続けなければならないようにしてしまったから、結局、息が切れてしまったのである。



物価が意味すること



物価とは物の価格である。
もっと厳密に言えば、物の価格の平均である。
しかし、物の価格と言っても一律に変動しているわけではない。
物価が上昇しているとか下がっていると言うと、世の中全ての物が一様に上がったり、下がったりしているような印象を持ちがちである。しかし、

全ての財が、一様一律に変化をしているわけではない。
パソコンのように指数が2000年2247から2014年58迄一気に下落した物もあれば、
1970年に消費者物価指数15だった教育費が2014年には、101と6.7倍にまで上昇した事もある。



総務省統計局    消費者物価指数

食料品と一口に言っても生鮮食品と加工食品とでは物価の形成が違う。生鮮食品と言っても野菜、果物、魚では、市場が違う。また、材料なのか、調理済みなのかによっても価格の形成は違う。
人々が何に価値を見いだすかである。食料品価格は、人々の生活様式や生活水準、文化、嗜好によっても違うのである。

現代の経済学は、まるで全ての財が工場で作られているとでも思い込んでいるようである。目に見えない財もあるのである。
物価も工業製品を主体に考えられているきらいがある。工業製品なら売れなければ、需給に応じて製造を調節できる。しかし、農作物や魚などは、なかなか生産調整ができないのである。それ故に、物価が相場によって左右される。物価には相場によって左右される側面がある事を見落とすべきではない。不確かな偶然に支配されている部分があるのである。故に、物価の形成を画一的に考えるべきではない。

市場の拡大成長によって急速に価格を下げる物もあれば、殆ど価格が変化しない物もある。
価格の変化と言っても物価の変動に結びついて変化する物もあれば、物価の変化とは、まったく関係なく、独自に価格を形成する物もある。

売り手の言いなりになる物もあれば、買い手の言いなりになる物もある。
市場の競争原理に任せるべき物もあれば、厳しく規制をすべき物もある。

今日の市場は、競争を絶対視し、何でもかんでも競争をさせれば効率的に動くと思い込んでいる。又、成長発展を前提としている。しかし、市場は、一つではない。幾つもの市場が複合的に組み合わさって、或いは重層的に組み合わさって構成されている。市場の構造は一律ではなく。市場の働きも一律ではない。市場の状態は多様なのである。その市場を一律に捉えて一つの原理で対処しようというのは野蛮である。

個々の市場には、その市場を構成する財のライフサイクルに基づいた段階がある。発展成長段階の市場もあれば、成熟飽和状態の市場もある。又、衰退期の市場もある。それぞれの市場の段階によってもとるべき施策には違いがあって当然である。経済政策というのは、本来合目的的な行為であり、市場の状況に合わせてとるべき対策も違ってくるのである。
病気に万能薬がないように経済政策にも万能薬はないのである。

価格を市場の自由競争に委ねるのは極めて危険である。市場は、貪欲である。あらゆる物を呑み込んで貨幣価値に換算してしまう。人間の人生も、人としての価値も、愛情や想い出さえもお金に換えないと気が済まない。しかし、それは真実ではない。
市場には、かつて財の性格合わせて安全装置が仕掛けられていたのである。確かに、生産手段の変化によってそれらの中の幾つかは、時代遅れになってしまった。だからといって全てを非効率と言って否定してしまうのは乱暴な話である。市場は規制によって成り立っている事を忘れてはならない。

財は、成熟してくるに従ってコモディティ化してくる。現代の市場では、コモディティ産業は、あたかも市場のお荷物のように扱われている。しかし、コモディティ産業は、本当に市場のお荷物なのであろうか。私は違うと思う。
コモディティ産業こそ成熟し、実り豊かな市場なのである。ただその実り豊かな市場を政策的に腐らせているだけである。コモディティ産業の多くは、伝統的な産業である。だからこそ、市場の伝統を重んじるべきなのである。

エネルギー産業の多くもコモディティ化している。しかし、エネルギー産業こそ無秩序な競争に委ねてはならない産業である。なぜならば、エネルギー産業は、環境問題や資源問題、省エネと言った極めて構造的な問題を抱えているからである。無論、ただ単に規制しろというのではない。
構想や目的を明確にした上で規制すべき産業なのである。エネルギー市場の無秩序、無原則な競争は、戦争や環境破壊を引き起こし元凶となる。



物価の変動要因



紙幣と国債は、いわば融通手形のようなものである。国が国債を発行し、発券銀行がそれを担保に紙幣を発行する。それによって市場に紙幣を供給するのである。
貨幣価値は虚構である。真の価値を生み出すのは、人と物である。この点を忘れたら、人や物は、虚構に振り回され、やがて、虚構に呑み込まれてしまう。

2018年現在マネタリベースは、493兆円に上っている。2010年、約101兆円であるからほぼ8年で5倍に達している。
紙幣の供給量は、物価に決定的な影響を与えると言われている。なのになぜ、これほど大量な紙幣を市場に供給しているというのに、物価は、上昇しないのか。
それは、実物市場に資金が流れないからである。バブル崩壊後の資産価値の下落が企業の資金調達力を奪い、それが、実物市場に資金が流れなくしているのである。つまり、いくら資金を供給しても貸付金に回らず資金が金融機関に滞留しているのである。信用金庫の預貸率は、50%を切るくらい低下している。

物価の変動、ひいては、景気の変動を予測するためには、物価の変動要因とは何かを明らかにする必要がある。つまり、物価を動かしている要因とは何かである。それは、経済の本質にかかわる問題でもある。
市場の仕組みも含めて、経済の仕組みは、情報によって動かされている。経済を動かす情報は、「お金」によって伝達されている。つまり、「お金」は、情報を伝達する手段である。

前提となるのは、「お金」は、情報を伝達する手段であり、経済の仕組みの目的は、分配だという点である。「お金」は、財と結びついて貨幣価値を形成する。貨幣価値は、数量と単価が掛け合わさる事で成り立っている。
故に、貨幣価値で問題となるのは絶対的価値ではなく。相対的価値である。

市場も含め経済の仕組みの目的は、分配にある。分配は、生産構造と消費構造の関係から生じる。そして、生産構造と消費構造を関連付けているのが「お金」の働きである。市場において「お金」が有効に機能するためには、市場は、「お金」に満たされている必要がある。
物価は、生産構造と消費構造と通貨の量によって決まる。故に、物価を制御するためには、人、物、金の関係を理解しておく必要がある。

経済の仕組みは、情報によって動かされている。情報を伝える手段は、「お金」である。「お金」による情報の伝達の仕方は、経済主体に対する「お金」の出入りによる。情報は、入金と出金によって伝達される。入金は、収入であり、出金は、支出である。
入金と支出は、資金の過不足と流れをつくる。資金の過不足は、資金の偏在、偏りの原因となる。資金の偏りを是正する手段として貸し借り、税、資本がある。

「お金」の情報は、入金と出金という形をとり、複式簿記では、入金は、調達を出金は、運用を意味する。調達は、負債、資本(純資産)、収益に仕分けられ運用は、資産と費用に仕分けられる。
資金の運用は、正の働きを表し、調達は、負の働きを意味する。

また、調達は、名目的価値を形成し、運用は、実質的価値を形成する。
金融資産、償却資産は、支払準備を意味する。減価償却は、資産の費用化を意味する。

この様に、経済主体に対する入出金によって経済主体を構成する要素が形成される。経済主体を構成する要素を働きに応じて会計的に処理すると、資産、負債、資本、収益、費用に仕分けされる。
経済主体の経済状態は、資産、負債、収益、費用の相互作用によって変動する。そして、その基準を表すのが、利益であり、資本である。

市場経済は、「お金」が市場や経済主体を回っているうちは、事業や生活が継続できる。言い換えると「お金」が回らなくなれば事業も生活も継続できなくなる。

「お金」の流通量に歯止めをかけるのは、資産、負債、収益、費用による相互牽制である。今、問題なのは、利益だけで経済の状態を評価しようとする事である。なぜならば、景気の実体は、収益と費用の動きによって形成され、資金の状態は、資産と負債の関係に現れるからである。利益も、資本(純資産)も差額勘定である事を忘れてはならない。

一企業で見れば、創業期には、負債や資本によって資金を調達して資産に投資する。資産と費用を組み合わせ、それを基にして収益を上げ借金を返済する。収益は、単価と数量の積である。これは、国家も同じである。借金(国債)によって最初は資金を市場に供給するのである。
本来、企業は、収益の中から借入金を返済していく。収益が上がらなくなったら借金をするか増資をするかによって資金を調達する。

経済状態を判断するうえで重要なのは、資金調達の質である。資金調達の手段には、収益的手段、資本的手段、負債的手段があり、本来、資金調達の手段としては、創業期を除いて収益を中心にして補助的に負債的手段、資本的手段が用いられるべきなのである。
収益によって借金が返せなくなれば、借金は累積していきやがて所得で利息を支払う事さえできなくなる。それは、企業だけでなく、家計も、財政も、一国家も同じである。

会計上の固定資産の評価基準は、取得原価主義である。地価や金融資産の変動が収益に影響を及ぼすと本業の収益力を測る事が出来なくなるからである。また、基本的に固定資産の調達は、長期的資金によるからである。この点が含み損益を生み出す要因となる。
含み損益は、資金の流動性に重要な働きをしている。含み損益は運転資金を担保しているからである。

基本的に投資は、長期的資金で調達し、運転資金は、短期的資金で運用する。収益の不足を土地を担保に借金で補うのは、一時凌ぎに過ぎない。国も、家計も、財政も同じである。どの様にして利益を維持するのかがカギを握っている。問題は、絶対額ではなく比率である。利益を維持する為に、収益の拡大を計るか、費用の削減するかは、部門間の関係によって決まる。部門間の関係を決めるのは、資金の過不足の分布である。

経済規模は、収益と負債、資本(純資産)の和によって定まる。経済規模が一定ならば、必然的に収益と負債、資本(純資産)の構成比率である。

資産、負債、収益、費用は、相互に牽制する。資産と負債の関係は、長期的資金の働きを表し、収益と費用は、費用対効果を表す。資産と費用は、資金の運用の構成を表し、負債、収益は、調達の構成を表す。資産と収益は、投資対効果を表す。負債と費用は、資金効率を表す。そして、資本(純資産)は、累積的資金の過不足を表し、利益は、単位期間の資金の働きを表す。

資金の働きは、収益と費用の関係によって測られる。収益が費用を上回っている時は、負債は圧縮されるが、収益が費用を下回るようになると負債は拡大する。
収益は、売上である。売上は、単価と数量の積である。つまり、売上は、物的量と貨幣価値から構成される。
売上は、販売数量と単価の積である。単価が物価を構成する。物価の変動要因は、数量要因と価格要因である。もう一つ重要なのは、通貨の流通量である。価格は、情報の一種である。「お金」は、情報を伝える手段である。市場の役割は、分配である。故に、市場は「お金」で満たされていなければ、「お金」は機能を発揮しない。更に、「お金」が機能を発揮するためには、「お金」は、常時、循環している必要がある。市場は「お金」で動く機構、仕組みである。
物価が安定して見えるのは、実物市場に資金が流れていないからである。

資産価値の低下は、企業の資金の調達力を低下させ、結果的に、流動性も低下させる。

貨幣制度は、虚構である。実体は、人と物にある。「お金」は、陰である。人と物は、有限であり、「お金」は、無限である。人と物が制御しなければ「お金」は、無限に発散する。

物価は、所得と対比する事で働きがわかる。ハンバーグは、日本人の所得から見て新興国よりも安い。反面、ハンバーグを基準とすると新興国一般の所得より日本人の所得は高い。所得は、購買力の問題でもある。物価は、市場が連続しているために、一定の水準に収束するとするのが購買力平価である。

市場の規模は、消費量によって決まる。市場規模は、生産量によって決まるわけではない。ただ、消費量を制約するのが生産力である。

市場規模は、消費量によって決まるが、価格は、消費によって決まるのではなく、消費量に対する供給量によって決まる。
消費は、需要を形成し、供給量は、生産量と在庫量によって構成される。

物価を決めるのは、所得と消費の関係である。
物価を確定するのは、単位当たり、即ち、一人当たりの消費量と生産総量の関係である。
個々の価格を決定するのは、単位たりの価格、単価である。物価は、単価を集約した値である。単位当たり消費量は、需要を構成する。そして、生産総量は、供給量を意味する。
そして、消費は、支出に基づき、支出は、所得の範囲に制約される。所得と支出との関係によって物価は定まる。
物の生産には、限界がある。物の消費にも限界がある。「お金」の量には際限がない。「お金」の量に際限がない事が物価を暴走させる。

物価は、個々の単価の統計的値である。つまり、価格の分散や代表値が物価の水準を明らかにする。つまり、物価は統計的量である。
また、物価は、所得に制約される。所得には階級があり、それが物価に偏りを作る。

物価には枠組みがある。物価の枠組みは、人口や生産設備といった固定的要素によって作られる。つまり、物価の基礎は、生産と消費、需要と供給、所得と支出によって形作られるからである。

人口は、固定的である。固定的要因から最低必要量は、導き出される。問題となるのは、経済を活性化する要因は、変動的要因である事である。その為に、生活必需品である固定的部分が蔑ろにされ、新製品や最新技術などが脚光を浴び価値である。しかし、経済の基礎は、いわゆるコモディティと言われる変化の少ない部分が握っている事を忘れてはならない。

経済の根本は、所得なのである。所得に対する支出の状態によって景況は判断されるのである。

資金の過不足には、臨界点がある。資金の流れは、一定の幅の中で変動をしている。
部門間、経済主体間の資金の過不足は、貸借において蓄積し、一定の水準を超えると解消する方向に資金の流れは転換する。
資金の過不足は、貸借上に累積し、債権・債務関係を形成する。債権・債務の総量の比率が一定の水準を超えるとを解消する方向の圧力が強まる。

物価には、臨界点があり、臨界点を超えると物価の持つ働きの性格が変化、相転移する。それに応じ収益構造を変化させないと物価は制御できなくなる。相転移するとそれまで正しかったことが、間違いとなり、間違いが正しくなったりもする。この点をよく注意しないと重大な錯誤をする。
物価の臨界点は、所得と消費の関係によって定まる。

石油危機は、原油価格が、バブルやリーマンショックは、地価が、臨界点を超えた事で市場が崩壊した。
臨界点を超えると取引量が変化して価格の方向性が変わる。その際、何らかの事象が引き金になる事がある。ただ、引き金となった事象だけが要因であるわけではなく。市場が臨界点に達している事が前提となる。つまり、市場に働く力の方向を変えてしまう状況が前提として存在している。
バブルの形成と崩壊は、地価に代表される資産価値の上昇がある。しかし、それは表面に現れた現象であって資産価値を上昇させてしまう何らかの要因や構造が隠されているのである。その一番の柱となっているのは、収益力の低下である。円高によって本業で利益が上げられなくなった企業が資金を資産価値に向けた事がバブルを形成させたのである。そして、バブルの形成を促進したのも崩壊を促したのも地価の動向である。ではなぜ地価がこのような働きをしたかというと地価の名目的価値と実質的価値の差が含み益となって、経済成長期における資金調達力の裏付けだったからである。
経済成長を主導しているのは、生活必需品ではない。経済を活性化しているのは、耐久消費財や贅沢品といった非日常的な財である。
物価水準は、生活必需品の動向によって定まる。

物価は、時間価値を形成する。

時間価値は、一定の幅で変動を繰り返す。
時間価値には、相対的な上限と下限がある。時間価値の上限と下限が価格の上限と下限を制約する。

経済は、ストックとフローの関係によって制御されている。ストックは、時間価値を形成し、フローに反映される。

経済ではボラティリティ(volatility)、幅が重要な意味を持つ。その幅の根拠が差なのか率なのかで経済に対する見方は変わる。早い話、単利的か、複利的かの違いが好例である。単利的世界は、差を基礎とした世界であり、複利的世界は、率を基礎とした世界なのである。この違いは、決定的な差になる。
複利的な変化は、加速度がかかる。つまり、徐々に速度が上がり、最期には、制御不能な段階にまで加速されるのである。それが物価の変動に表れた時が怖いのである。

物価を最終的に決めるのは、人々の生き様である。
経済の根本は、本質的には必要性である。必要な資源を調達、生産、運用、配分する事が経済の役割である。
必要性と言う概念が経済から軽んじられるようになってきた事が経済をおかしくしている。
なぜ、「お金」が必要以上に物価が上昇しないのか。それは、人々が必要とする資源が満ち足りているからである。また、実物市場に資金が供給されていないからである。
ただ、何らかのきっかけで物が不足して来たら、「お金」が過剰に供給されていたら物価の上昇に歯止めが効かなくなる危険性が高い。
気を付けなければならないのは、必要とする資源の質や量が時代とともに変化している事である。
ただ、経済が破綻し、物価が制御不能となったとしてもいずれ落ち着く。落ち着かなければ、人々は生きていけなくなるからである。問題は、景気の嵐が過ぎ去った後である。その時にこそ、経済の本質がみてくる。経済とは生きるための活動なのである。
経済で重要なのは、生きるために必要な資源が必要なだけ調達されているかの問題である。その為には、生きていくために最低限必要な資源は何か、必要な量は何かを絞り込み明確にしていく事なのである。その上で、それをどの様に分配していくか。その仕組みをデザインする事が肝心なのである。


多くの人達は、変化より安定を求めている。


一般に多くの人は、変化より安定を求めている。しかし、今日の経済は、経済成長を基本とする、即ち、変化を基礎とした経済体制の上に成り立っている。その為に、多くの人は、無理やり競争を強いられ、絶え間なく破壊的行動が求められている。
現代経済において停滞は悪であり、間断なく技術革新をし続ける事が運命づけられている。
大会を回遊するマグロのように動きを止めたら生きていけないのである。

しかし、多くの人は、競争や争いを求めているわけではない。安定やゆとり、穏やかさや癒しを求めている。現代人は、競争や革新に疲れ果て疲弊している。
なぜ、人々は、変化を求めるようになったのか。それは、変化が経済の原動力だと思い込んだからである。技術革新によって経済は、活性化し、動いている。だから、絶え間なく技術革新をし続けなければならない。競争があるから、経済は、活動する。だから、競争し続けなければならない。
しかし、経済成長も技術革新も人間の歴史の中では、さほど頻繁に起こっていたわけではない。また、人々は、競争ばかりしていたわけではなく。むしろ、競争や争いを嫌い、助け合い、分かち合っていこうとした時代の方が長かったのである。

物価は、上昇し続けるものだと考えられている。それは、物価と時間価値が密接に関わっていると考えられているからである。
そして、時間価値こそ、自由主義経済の本質なのである。

変化は、決して一方向ではない。不可逆的な現象だけに経済は支配されているわけではない。変化には、周期的な変化や循環的な変化もある。そして、経済にとって周期的で循環的な変化こそ本来の姿なのである。
なぜなら、「お金」は循環する事で効用を発揮するからである。経済の仕組みを動かしているのは、資金の過不足である。過剰な部分があれば不足している部分がある。過剰な部分と不足した部分の相互作用によって経済は動いているのである。拡大や上昇だけに経済は支えられているわけではない。

しかも、資本主義経済に要求されたのは、変化は、不確実な変化である。確実性のある変化は、予測可能であるという理由によって忌避された。予測不可能な変化だから成長性があるとされたのである。それが技術革新である。

予測不可能な変化を前提としたために、規制を緩和し、市場の規律を乱し、競争ばかりを促すようになる。無秩序こそ、経済の原動力だと思い込んだのである。市場では、提携や強調、話し合い、規制、掟は悪なのである。

提携や協調、協定、規制、掟を否定した事で、市場は不安定となり、企業は常に倒産の危機にさらされ、家計は、失業の影におびえ、財政は、赤字を抱え続ける事となるのである。安定は腐敗の温床だとみなされてしまった。

しかし、本来、経済は、部門間の資金の過不足を補おうとする力によって動かされているのである。それは安定的な変動に基づかなければ市場の機構を破壊してしまう。市場の機構を維持しているのは、規律である。そして、制御力を失った景気は暴走するのである。

利益があるから収益と費用の関係は維持される。ただ、安ければいいとするのは危険な思想である。価格に求められるのは、適正さと安定である。

個々の商品の価格には、意味がある。無意味ではない。生活必需品の価格には価格の意味がある。自動車の価格には、自動車の性能とか、用途とか、デザインと言った意味が隠されている。また、流行り廃りとか、消費者サイドから見た意味がある。生鮮食料品の価格には、生鮮食料品の価格としての意味がある。料理と餌とは違う。ただ栄養があって食べられればいいという訳ではなく、消費者の嗜好や生活水準と折り合いをつける必要がある。味は関係ないと言ったら価格は成り立たない。高級料理の値段には、高級料理としての意味があり、大衆食堂には、大衆食堂としての値段がある。値段は作り手とお客との力関係によって決められるのである。
そして、価格が集約されたところで品別の物価は構成されていく。品別の物価は、それを生産する産業の性格を定める。この様にして経済の仕組みは構成されている。一律に価格を決め、統制しようとしたら、経済の基盤を破壊してしまう。

物価は、景気を測るバロメーター、体温みたいなものである。物価の変化だけを見ていたら物価を動かしている要因や構造を読み解くことはできない。
物価は、家計、企業、財政、海外部門の均衡、ストックとフローの均衡の上に成り立っている。物価は時間価値を形成しているのである。

経済は、予測不可能な変化を基礎とすべきではない。なぜならば、経済は、日常的な活動の延長線上にあり、生きるための基本的活動でもあるからである。予測不可能で、不安定な変化に基礎をおけば、経済も不安定で予測不可能なものになってしまう。
経済は、予測可能で安定した変化の上に築かれるべき事なのである。そのような土台があるから、予測不可能で、不安定な変化も吸収できる。
予測不可能で不安定な変化に市場を合わせれば、経済の仕組みは破損し、経済は制御不能な状態に陥る。その先にあるのは、破滅的な破壊である。

経済は、時として犯罪者を造り出す。バブルが弾けて二十年近くたつのに、不良債権処理による不正が時々明るみに出る。相場英雄の「不発弾」という小説があるが、将に、不良債権が不良債権として二十年の時間を経て爆発し、大企業や金融機関の息の根を止めている。
不良債権を不正に処理した者たちにどれほどの罪悪感があるのだろうか、多くの人は、会社の事を思ってやった事で抜き差しならぬ深みにはまってしまったのである。なかには、日本銀行から不良債権処理に出向させられたものまで含まれている。
経済変動の怖さがここにある。犯意や悪意があって行ったわけではないのに、市場環境が変わったという事だけで犯罪者にまでなってしまうのである。

法や制度、規則や基準、規制、政策が変わるたびに前提条件が変わり、市場環境や経済状況が変わる。その度に多くの人はなぜと誰とはなしに問いかける。なぜならば、それまで取っていた施策や対策が無に帰したり、否定的な働きになったりする。最悪の場合法に触れてしまう事さえある。これでは施策の継続性が保てない。なぜ問いたくなるのも無理はない。なぜと問うのは、最終的に為政者がどうしたいのか、どのような国にしたいかがわからないからである。法や制度、規則、基準を変える時は、その目的と同時に最終的にどのような国にしたいのかを明らかにする必要がある。

バブル崩壊は、典型的である。バブルの功罪を明らかにし、なぜ、バブルを崩壊させる必要があったのか、そして、バブルを崩壊させた後、どの様な公算があったのかを為政者は明らかにする責任がある。
大体、バブルを引き起こした背景には、円高不況がある。本業で収益を上げられなくなった多くの企業が財テクに走らざるをえなかった。そして、地価の高騰に対する相続税対策がバブルに拍車をかけたのである。それが反転した結果、財テクに走った企業や相続税対策をした人たちは、地獄に落ちた。彼等を責める事が出来るであろうか。経済環境の変化や場当たり的な政策に翻弄されただけである。何が悪かったというのか。それを明らかにしなければ、真の責任者は見えてこない。

かつては、人の爲に仕事を作ったという時代もあった。多角化だって、リストラだって、合理化だって根本は人だった。所詮、経済も企業も人と人との関係の上に成り立っているのである。しかし、人の爲と言う目的で行われた多角化も合理化もその多くがうまくいかず、金のためにという口実や人件費の削減だけが残ったのである。経済の目的から人が外れ「お金」が主役に置き換わった瞬間である。そしそれがバブルを生み出し、やがて、バブルは崩壊したのである。その間人々は「お金」に翻弄されてきた。

経済を人のために取り返さないと「お金」のために人生の目的を見失う者は後を絶たないであろう。経済の目的は、世のため、人の爲になる事であるはずである。ところが自分の意図しないところで経済や市場の変化によって罪を犯す事になりかねない。だとしたら、このような仕組みを変えない限り経済は人の爲にはならないのである。



       

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