経済の現状

日本経済の現状について

海外交易




生物は、生きるために必要な資源を恒久的に確保しなければ生きていけない。
それは人も動物も同じである。それ故に、野生動物は、命がけで自分のテリトリーを守ろうとする。自分のテリトリーを侵そうとする者は、命がけで排除しようとする。
それは、人も同じである。自分や自分の家族が生存するために必要な資源を確保する事は至上命令なのである。
自分たちが生きて生きていくために必要な資源が確保できなくなれば、闘争的になるのが自然の理である。
人と野生動物との決定的な違いは、社会的分業にある。
かつて、人間も自給自足していた。生きるために必要な資源の全てを自分たちで生産し、消費してきた。余剰な資源を生産してもそれを不足な資源と交換しようという発想そのものがなかったのである。必要な資源が不足したら、他の集団から強奪したり、また、相手を支配する事で獲得してきた。

交易は、そのような野生状態の限界を克服する過程で成立してきた。そして、交易を公正で公平な取引に昇華するための手段として貨幣は生じたのである。
貨幣と交易は、不離不可分の関係にある。

交易の始まりは物々交換にある。余剰な物と不足した物とを交換する事である。つまり、交易の本質は交換なのである。「お金」は交換価値を表象した物であり、交換のための手段として発達してきたのである。
「お金」と物々交換が直接かかわり合ったどうかについては、異論がある。また、物々交換によって社会が成り立っていたわけではない。ただ、物と物の交換が交易の原初的形態である事に変わりはない。

交換、分配、消費は、経済の基本要素である。社会分業が発達すると必然的に交換は、分配の手段の一つとして進化した。交易は国家間の交換手段である。

交易は、国際分業を促している。
一般に経済の仕組みは、生産の仕組みと言う局面だけからとらえがちであるが、経済の仕組みには、物流や分配という働きもあり、捉えようによっては、経済にとって物流や分配は、より本質的だと言える。生産性ばかりを考えていると経済の仕組みは機能しなくなるから注意する必要がある。

経済の仕組みには、人の仕組み、物の仕組み、「お金」の仕組みがある。そして、経済の仕組み全体は、人の仕組み、物の仕組み、「お金」の仕組みが組み合わさってできている。

注意しなければならないのは、貨幣、すなわち、「お金」は、万能ではないという点である。経済の主体、実体は、物や人にある。「お金」は、影、虚、名目なのである。
実体である、物や人から「お金」が乖離したら、「お金」は暴走し、制御不能に陥る。バブルやハイパーインフレーション、大恐慌等という現象が典型である。バブルは、幻覚である。

「お金」の制度によって市場をすべて網羅できる訳ではない。

市場経済を動かす原動力は「お金」である。「お金」を動かしているのは、資金の過不足である。しかし、過不足は、資金だけではない。人や物にも過不足があり、そして、経済の根本は、人や物の過不足にあるのである。それを忘れると「お金」の効用も発揮されなくなり、経済本来の働きが歪められてしまう。「お金」のために、物流が阻害され、国際分業が破綻して、争いの種をまく事になる。

平和は、交易の仕組みによって守られている。交易の仕組みに齟齬が生じると人々は、暴力的な手段で生きるために必要な資源を調達しようとすることになる。それが戦争の本質である。

国家間の配分が円滑に機能せず、経済的歪みが是正されない時は、暴力的な手段、即ち、戦争によって経済的歪みは是正される。
つまり、破壊や略奪によって経済の均衡が計られる。戦争の一番の原因は、経済的歪みである。

国際交易の根底にあるのは、人や物の偏りである。一国で、あるいは、一地域、一家族で自給自足できれば交易の必要はない。しかし、今日の経済の根本は、自給自足には限界があり、人口が増えれば必然的に社会的分業が確立されなければならない。その延長線上に国際分業がある。つまり、国際交易の根本は、人と物の偏在であり、過不足の関係である。
人口、即ち、働き手は過剰だが生きていくために必要な資源が不足している国と逆に生産手段は過剰だ人手が不足している。そのような人、物の過不足、偏在が国際交易の基本にある。そして、物や人の偏在が国際交易の仕組みや制度、規則の基となっている事を忘れてはならない。基にあるのは、「お金」ではなく、人と物の関係である。

海外と交易せずに、人口も一定で、生活環境や様式も変化せず。生活に必要な資源の生産の一定で、通貨量も変化しなければ、経済的変動はない。インフレーションやデフレーションの恐れはなく、物価も安定している。ただ、人、物、金の何かが不足すると物価は、変動する。実際のところ人や物、「お金」、全てが不安定で動向が一定していない。物価は、人、物、「お金」の極めて危うい均衡の上に成り立っている。何かあれば簡単に揺れ動く。経済変動は、人が原因なのか、物が原因なのか、「お金」が原因なのかによって全く様相が違ってくる。

最近、よく問題とされるのが人口である。人口動向や人口構成の変化である。少子高齢化などが物価の変動の下地となる。人口問題の核心は、人口構成にある。全人口に必要な資源をどれだけの人間で担っていくかがカギを握っているからである。
人の問題には、生活水準や生活様式の変化等が物価にどう影響するかである。人口は、長期的な周期で変化する。しかし、生活の様式や水準は、急速に変化する事がある。電気やガスが普及していない時代と今日とでは、生活必需品の質も量も格段の差があり、その需給が物価に与える影響は、格段の差がある。
次に、生産量の問題である。資源の問題は、地理的な問題が重要な鍵となる。何らかの地下資源を持っているか、どの様な気候帯に属しているか、交通の要衝にあるかなどが決定的な要因となる。
その上で、全人口が生活する為に必要とする資源を国内で生産調達する事が可能か。もし自国内だけで生活に必要な資源が調達できなければ、海外から不足している資源を調達しなければならなくなる。不足する資源があったらどのような手段でどこから調達する手段が問題となる。
調達する手段には、交易以外に、強奪や戦争という暴力的手段も含まれるからである。根本が死活問題だからである。生きていくために、必要な資源が確保されなければ、生存できなくなるからである。
今日、一国だけで経済を成り立たせようとすること自体無理がある。

そして、最後に、「お金」の問題である。「お金」が人や物と違うのは、第一に、「お金」は、分配の手段だという事である。第二に、「お金」は、予め満遍なく配分されていなければならないという点である。第三に、「お金」は循環させなければならないという点である。
お金を循環させるためには、単に、「お金」を配分するだけでなく。それを回収すると同時に、再配分しなければならない。「お金」の順な働きは、交換にある。しかし、交換だけでは、「お金」は、循環しない。それを補う形で貸し借りがある。「お金」の流れには、偏ったり、蓄積したり、滞留する性格がある。この偏りや蓄積、滞留が「お金」の働きの効率を悪くするのである。
過不足が生じたら、貸し借りという手段を講じる。貸し借りは、ストックを形成する。資金の過不足は、ストックとして蓄積され、それが金利を通じて時間価値を形成する。時間価値が物価に決定的な影響を与えるのである。
資金の過不足を是正する手段には、貸し借り以外に税がある。税は、強制的に資金を市場から回収し、それを再分配する事によって、資金を循環するのが役割なのである。税制度は、資金の回収、再分配、循環の役割に沿って設定されなければならない。
そして、「お金」と物との関係によって名目的価値と、実質的価値が形成される。



国内と国外


経済単位が画定されたら内と外が生じる。例えば、家内と家外、企業内と企業外、政府内と政府外、そして、国内と国外である。
内と外が画定されると内部取引と外部取引が成立する。
外部取引は、対称的な相対取引によって成立する。故に、外部取引の総和は、ゼロ和となり、対称的になる。それに対して内部取引は、非対称的になる。企業の損益は、内部取引の非対称性から成り立ち、内部取引から生じる差が利益を生み出す。

即ち、内部取引の非対称性、外部取引の対称性が市場取引の前提となる。
国際収支は、国内取引と国外取引からなる。

国内と国外の違いを定義する場合、人による定義と空間、場所による定義がある。人による定義は「国民」を基礎とし、空間・場所による定義は、「国内」を基礎としている。

内部取引と外部取引を均衡させようとする働きが資金の過不足を作り、資金の流れを生む。「お金」は、財との交換によって流れ、流れによって効用を発揮する。

この資金の流れを制御する仕組みが市場であり、金融制度である。

経済単位が画定し、内と外が明確になると垂直的均衡と水平的均衡、部門間の均衡が形成される。
資金の過不足は、売買取引から生じる。売買取引によって生じた過不足を補うために、貸借取引が生じる。この売買取引と貸借取引は、均衡しなければならないから、売買取引と貸借取引によって垂直方向の均衡が生じる。国際収支でいえば、資本取引と外貨準備の和と経常収支の均衡である。
なた、外部取引は、相対取引であるから、市場全体の取引量は、均衡しなければならない。これが水平方向の均衡を形成する。
市場全体の取引の総和がゼロ和であるならば、部門間の取引の総和もゼロ和に均衡しなければならない。それが部門間の均衡を形成する。

この様に市場全体の垂直的均衡、水平的均衡、部門間の均衡が成り立っているとするとフローとストックの総量も均衡しなければならない。故に、時間的均衡が成立する。

水平的均衡、垂直的均衡、部門間の均衡、時間の均衡を保とうとする力が、国内、国外の経済の仕組みを構築し、景気を制御する。

特に、時間的均衡は、時間価値によって維持され、時間価値は、資金の流れを促す働きがある。

例えば、年金制度である。バブル崩壊後、年金制度が機能しなくなったのは、金利が取れなくなったことである。また、不良債権が処理できないのは、地価が下落した事である。市場の拡大、成長が止まったのは、所得の上昇が低迷している事である。いずれも時間価値が働かなくなったことが原因している。

経常収支は、水平的均衡と垂直的均衡の要に位置している。要に位置しているからこそ、経常収支は、水平的歪み、垂直的歪み、部門間の歪みが蓄積する。

経常収支は、基本的には、国家間の生産性の歪みが現れ結果である。生産性の歪とは、人、物、「お金」の歪でもある。
また、生産性は、生産、所得、消費の歪でもある。物は生産量として、消費は人の問題であり、所得は、「お金」の問題である。
そして、この歪は、常に、国際市場に存在し、放置すれば、拡大していく。
為替は、この歪のために存在する。
生産力があるところに、人も、物も、「お金」も引き寄せられる。どちらかと言うと格差を是正するよりも無拡大する方向に働く。
格差を矯正するのが政治であり、制度であり、規制である。この事を忘れると政治や制度、規制を正しく運用する事が出来なくなる。注意しなければならないのは、政治も、制度も、規制もその運用を間違えば、本来の働とは正反対の効果を発揮してしまう事である。つまり、格差や差別を政治や制度、規制が増幅してしのうのである。
この点は為替も同じである。

勘違いしてはならないのは、会計的に均衡しているからと言って財や、資金、所得が均衡していることを意味しているわけではない。会計は、本来均衡するように設定されているのである。実際の人、物、「お金」は、偏って、つまり、不均衡に存在している。

富や資源、人口の偏在こそ経済の大前提なのである。

富や資源、人口の歪は、放置すれば拡大する。それを是正し、公平な分配を実現するのが経済の役割である事を忘れてはならない。そこに人の意志がある。
公平な分配を実現しようとする意志を放置するのは、持てる者である。しかし、持てる者だけが満足する社会は持続性が保証されない。持てる者だけしか恩恵を得られない社会は、常に社会的対立を内包し、不安定な社会になる。
恒久的な社会を築くためには、富や資源、人口の偏在を常時、是正する仕組みを組み込んでおく必要がある。

国内の総所得が変化しなくなれば、基本的に資金の過不足は、部門間で遣り繰りをする事になる。
そして、その際生じる資金の過不足は、海外部門との遣り繰りで調節する事になる。

経常収支は、交流の結果である。
経常収支は、海外市場と国内市場とをつなげる接続部分と言える。接続部分だから、経済のバロメーターとなるのである。
経常収支は、経済の水準と経済規模を特定する。
経常収支は、市場の状態と段階を反映している。
国際市場と国内市場とは、相関関係にある。
国際収支は国内収支の対極にあって鏡の役割を果たしている。
経常収支は、国内市場の過不足を率直に表しているのである。
市場の規模を経常収支は特定する。なぜなら経常収支は資金の過不足を現しているからである。
為替が流動的なのは、国内市場と国際市場が常に共振(シンクロ)しているわけではないからである。
財政赤字と海外部門との関係を見る場合この点に注意する必要がある。経常収支の構造的な変化が財政にどの様な影響を与えるか、それが財政赤字を解決するための鍵の一つである。


世界経済のネタ帳
SNA(国民経済計算マニュアル)に基づいたデータ


日本人は、日本経済の状態を内側、即ち、円に換算してみようとする傾向があるが世界の標準はアメリカドルである。アメリカドルに換算してみるとどの様に見えるのかも日本経済の実体を知る上で大切な事である。

日本の名目的GDPを円換算した場合、ドル換算した場合、同じ方向の動きをするとは限らない。円換算した場合とドル換算した場合とで違う方向の動きをするのは、為替が影響している事は明らかである。
顕著なのは、91年にバブル崩壊してから4年後95年から2003年にかけて、そして、リーマンショックの前後で逆の動きをしている。


世界経済のネタ帳
SNA(国民経済計算マニュアル)に基づいたデータ


国別のデフレーターを見て見るとより顕著に世界経済の傾向が見て取れる。世界経済で際立っているのは、日本のデフレーターがバブル崩壊後低下しているという事である。好対照を示しているのは、中国である。
アメリカは、一定して直線的に上昇しているのに対してドイツは、ドイツが再統合された直後に急上昇している。つまり、インフレーションだったことがわかる。
中国は、いくつかの節目を経て段階的に上昇しているのがわかる。また、天安門事件の後鄧小平の南巡講話が一つの節目となり、全面民営化が弾みをつけている事も読み取れる。

生産から消費のサイクルを国内の市場が自己完結的に持っているかが、力関係を最終的に決める。アメリカは、このサイクルを持っているが、中国は、人口が多いから自己完結的には終わらない。どうしても海外市場に依存しなければならなくなる。
市場の規模は必ずしも決定的な要因にはならない。

世界経済を構成する部門


経済の本質は、分配なのである。分配とは、何に対して、何を、どの様にして分配するかが問題なのである。何を分配するのか、それは生産財である。何に対して分配するのか、それは個々の部門を通して最終的に消費者、即ち、全ての国民に対して分配するのである。どの様にして、それは、一度すべてをお金に還元し、所得として分配するのである。「お金」によって分配された「お金」を生産財と交換する事で生産財を分配する。その手段の一つが市場である。ただ、分配の手段は、市場だけでなく組織等もある。
分配は、部門を通して行われる。ここでは、どの様な部門があってそれが各々どの様な役割、働きをしているかを見ていく事にする。

国民経済統計では、世界経済を構成する主体として国内、国外に分類し、国外を海外部門と独立させたうえで、国内経済を構成する取引主体を「非金融法人企業」、「金融機関」、「一般政府」、「家計」、「対家計民間非営利団体」の五つの部門に分類する。
この内、対家計民間非営利団体は規模が小さいために、一般に世界経済は、「非金融法人企業」、「金融機関」、「一般政府」、「家計」に「海外部門」を加えた五つの部門によって経済は成り立っていると考える。

「非金融法人企業」、「金融機関」、「一般政府」、「家計」、「海外部門」に分類する根拠は、それぞれの働き役割の違いによる。
それぞれの役割とは、「非金融法人企業」は、生産・流通、「金融機関」は、資金を融通する事で資金の過不足を補う、「一般政府」は、所得の再配分と社会資本の構築、税の徴収と行政運営、「家計」は、消費、「海外部門」は、国外との交易を担っている。また、「対家計民間非営利団体」は、非営利事業を担っている。「対家計民間非営利団体」は、あくまでも経済規模が小さく経済に与える影響が少ないという事で、経済分析から除外されるのであって仕事のや周りの重要性は他の部門と遜色ない。むしろ、政治的には重大な役割を担っている。



資金循環表


各部門は、各々経済的な役割がある。経済は基本的に分配の仕組みである。分配は、「お金」を市場に循環させることで成り立っている。
家計は、消費の単位であり分配の根拠となり、労働力の源となる。
企業は、生産の単位であり、収入と個人所得を整流する。
財政は、公共サービスを提供し、共有資産(社会資本)を構築し、所得を再配分する。
金融は、「お金」を供給し、過不足を是正し、」「お金」を市場に還流する。
海外部門は、国内の財の不足を補い。国家間の決済を準備する。

各部門は、各々の役割に応じて経済的な働きに違いが生じる。例えば、投資は、「非金融法人企業」は、生産手段に対する投資で主として設備投資、「金融機関」は、金融投資。「一般政府」は、社会資本に対する公共投資、「家計」は、住宅投資に代表される消費投資、「海外部門」は、国外との交易に伴う海外投資である。

国際収支を考える上で、まず国内経済の状態が前提となる。なぜならば、国内経済の要請に基づいて国際経済は、形成されるからである。この点を忘れてはならない。国内経済の要請がなければ、国際収支は派生しない。現実に、日本は、江戸時代を通じて鎖国していた。

日本が開国したのも国内経済の要請に基づいたものではなく。海外からの圧力によるものである。この事を忘れてはならない。
開国をして海外交易を始めた後、日本の経済規模は飛躍的に拡大し、今日、鎖国したら国の経済を維持する事はできない。
つまり、交易は、国の経済規模を大きく変えてしまう効果がある。この点は、国際収支を考える上で、忘れてはならない事である。

国家の独立があって経済がある。国家の主権が保たれなければ、それは隷属国、植民地であり、国民は奴隷的状態に置かれる。故に、経済の主体は、国内に求められるべきなのである。

金融部門は、本来、主導的立場には立てない。なぜならば、金融は、資金の過不足を是正し、資金を循環する事が役割だからである。つまり、金融が生み出す価値には実体がなく、名目的だからである。
また、金融は資金の過不足を基としているため、負債を増殖させる性格がある。金融が主導すると負債を制御する事が難しくなるからである。
故に、経済の実体を主導するのは、家計、企業、財政、海外部門である。

各部門間の経済的取引量は総和は、ゼロ和になるように設定されている。ゼロ和になるのは、会計上設定されているからであり、物的、人的経済量が均衡していることを意味しているわけではない。経理上均衡しているというだけである。

ただ会計上ゼロ和という事は、資金の過不足は、市場全体では均衡していることを意味する。つまり、部門間の取引量の総和は、ゼロ和になる。また、国家間の取引量の総和もゼロ和になる。貸借と売買の取引量の総和もゼロ和になる。

水平的均衡、垂直的均衡、部門間の均衡、時間価値の均衡を保とうとする働きが経済の原動力となる。
故に、国際収支を評価する場合、国内に於ける部門間の力関係を見る必要がある。
国内を構成する個々の部門の働きは、個々の部門の資産と負債の均衡によって定まる。そして、そこから生じる過不足が国際収支に反映されるのである。

海外市場の影響を国内経済は受けるが、国内経済の状態を決めるのは、国内経済を構成する部門の力関係である。


資金循環表


国際収支は、どの部門がその国の経済を主導しているかによって違ってくる。企業が主導している場合は、市場が経済の基盤となり、家計が主導している場合は、消費が経済の枠組みを作る。財政が、主導すれば統制的な経済体制が敷かれ。中でも国防が中心となれば、軍事体制が経済の骨格となる。海外の勢力が主となれば国家の主権は失われ。植民地経済になる。何が国家経済の中心となっているかによって国際収支の在り様は違ってくる。

投資でいえば、企業が中心となれば、設備投資が中心となり、家計が中心となれば住宅投資が経済を主導する。財政が中心になれば公共投資が経済の基盤を構築し、海外部門が中心になれば、海外の主力国の経済に依存した投資になる。
植民地は、宗主経済を補完するための経済になるからである。

金融と財政を除く部門は、市場取引によって、金融は、金融取引によって、財政は、所得の再配分によって資金の過不足を補い、市場全体の均衡をはかっている。市場の均衡が保たなくなると経済は、破綻する。市場が破綻するとハイパーインフレーションや恐慌なの現象が起こり、市場を制御する事が出来なくなる。最悪の場合、戦争や革命によって清算せざるを得なくなる。

市場取引だけで経済の実体的歪みを是正する事はできない。市場経済で是正できない歪みを矯正するところに、財政の役割がある。
なぜならば、市場には、本然的歪みが存在するからである。本然的歪みとは、気候とか、熱帯か、寒冷地か、交通の要衝、過疎、砂漠、内陸部沿海部かといった地理的な歪み、人口の分布や人口構成、人口密度と言った人的歪み、資源の偏在や生産力等の物的歪み等を言いう。この様な本然的歪みは、市場取引だけでは解消できない。
もう一つは、構造的な歪みである。財の流れは、一方的であるのに対して、「お金」の流れは循環的である。
経済の仕組みは根本は分配にある。そして、経済は、貨幣が循環する過程で分配をする。つまり、貨幣は、常に、市場を還流していなければならない。「お金」を分配する手段には、組織と市場がある。この二つの手段を組み合わせて資金を循環させているのであるが、この二つの手段から派生する構造的な歪がある。
そして、「お金」の過不足が作る歪み。「お金」の過不足から生じる歪とは、そもそも、貨幣の成り立ちや性格、市場の仕組みによって作り出される。貨幣の成り立ちや性格と言うのは、貨幣の成り立ちは借金だという事、貨幣の性格と言うのは、名目的で負の性格を持つという事、そして、市場取引から生じるというのは、取引を成立させている要素が、売り買い、貸し借りだという点である。つまり、資金不足の主体は、資金余剰の主体から資金を借りてくる事によって資金を還流するのであるが、これが一方的なものだと負債が積み上がって清算できなくなる。資金の回収と言う流れがあってはじめて均衡が保たれている。そして、それは短期的資金の働き(収入と支出)と長期的資金の働き(借入と返済)を均衡させることによって成り立っている。この関係が均衡せずに、一方的に負債が積み上がる事で歪みが生じるのである。

もう一つは、所得を分配する過程で生じる歪である。
まず市場が分配の仕組みだという事が前提である。だから、個人所得を基礎としないと市場は、機能しない。その為に、個人所得を基礎とした社会体制をとる必要がある。ここで注意しなければならないのは、個人所得の大部分は、市場から直接分配されるのではなく。組織的に分配されているという事である。
また、個人所得は、基本的に労働の対価として支払われる。労働の対価として所得が分配されるためには、ある程度均等に仕事が分布している必要がある。仕事の分布が均一ではないという事から生じる歪もある。

また、持てる者と持たざる者のが偏在する事も歪みの原因となる。貧困は、市場を歪めてしまう。

根本的な問題として市場に「お金」を還流させているのは、差だという事である。所得と支出によって生じる差、時間差、原価と売上の差、金利差、空間的時間的差が「お金」を動かしている。そして、この差が歪みの原因ともなるのである。

この様に、経済的歪みを生み出す要素は多くあり、それは、市場取引だけでは解消できない。そこに財政の役割が必要となる。
市場取引で是正できない歪を矯正する為に、所得再配分や組織的分配がある。市場取引で生じる歪を是正できなくなると「お金」は、市場に還流しなくなる。


日本銀行 資金循環表

80年代、90年代は、非金融法人企業、即ち、民間企業が資金不足主体を担っていたのがわかる。それが、2000年代になると急速に資金不足を解消し、その分を一般政府と海外部門が補ってきたのがわかる。
それが財政赤字の主たる原因である。


日本銀行 資金循環表


経済的な歪から生じる差をどこかで清算できる仕組みを持たないと市場は、常に不安定な状態に陥り、最期には暴力的に歪を解消せざるを得なくなる。

経済状態を制御し、世界の平和を実現するためには、個々の部門の役割と働きを正確に理解しておく必要がある。なぜならば、経済が破綻する原因は、所得や富の偏りによって資金が循環しなくなる事である。

赤字とか、黒字とか、損得と言った表に現れた結果が問題なのではなく、黒字や赤字、損得と言った結果を導き出す仕組みや構造が問題なのである。


世界経済は、四つの軸からなっている。


為替には、時間的、空間的距離が関わっている。

世界経済は、水平的均衡、垂直的均衡、部門間の均衡、時間的均衡の四つの均衡から成り立っている。
均衡するとは、総和がゼロだということを意味する。総和がゼロと言うのは、市場活動は、通貨の循環が生み出す周期運動、回転運動による振幅が基礎となっている事を暗示している。
水平的均衡、垂直的均衡、部門間の均衡、時間的均衡は、水平方向、垂直方向、部門間、時間軸の四つの軸を構成する。世界経済空間は、四次元である。

市場取引は、双方向の働きをする。経済的主体の内部取引は非対称であり、期間損益を形成する。経済主体の外部取引は、対称しており、市場全体の取引量の総和はゼロとなる。市場取引は、双方向だから、複式簿記によって表現される。国民経済計算、国民所得会計では、水平的複式記入と垂直的複式記入を用いるのである。

経済は、均衡によって維持されている。水平的均衡、垂直的均衡、部門間の均衡、そして、時間的均衡、この四つの働きが四次元の空間を形成している。
市場経済を動かしているのは、部門間の資金の過不足による。基本的に家計部門と民間法人部門の短期的では、交互に資金不足部門と余剰部門とを入れ替わらせるようにする。
通常は、財政部門は、中立的、即ち、均衡した上に置かれるようにし、資金を供給する時に財政部門を資金不足部門とするよう調節し。財政部門は、期間損益(プライマリーバランス)を視座に入れて運用する。
そして、金融部門は、裏方として中立的立場を維持するように制御し。金融部門が資金余剰部門、資金不足部門として表面に現れるようでは資金繰りが上手くいっていない事になる。財政と金融は、表裏一体となって資金循環の中枢として機能するようにする。
海外部門は、国際分業の観点に立って経常収支と資本収支が均衡するように調節する。海外部門は、水平的均衡を保つ部門でもある。水平的均衡と言うのは、国際市場の均衡を言う。国際市場における経常収支の総和は、ゼロ和、即ち均衡している。
絶対に赤字は悪いと決めつけるのではなく。資金と損益の関係をよく見て判断するように心がけるべきでなのである。

垂直方向には、先ず、経常収支と金融収支がある。経常収支を垂直的に見ると貿易収支とサービス収支、第一次所得収支、第二次所得収支がある。金融収支は、投資収支と外貨準備、誤差脱漏がある。更に投資収支は、直接投資、証券投資、その他の投資がある。
経常収支の貿易収支とサービス収支は、水平的にも均衡している。

経済の本質は、分配である。今日の市場経済では、「お金」が循環する過程で生産財が分配される。市場経済は、資金が循環する事によって機能している。資金満遍なく社会全体に行渡らないと市場は、資金が流れない部分から壊死していく。故に、いかに、資金を社会全体に行渡らせるかが、市場経済最大の課題である。

資金の循環を妨げるのは、資金の偏在と流れの歪である。
資金の偏在と、流れの歪を生む根本的な要因は二つある。一つは、所与の条件である。二つ目に、資金の過不足と流れが生み出す要因である。

所与の条件とは、物的、地理的、人的、前提条件である。例えば、中東の産油国の様に何らかの資源に恵まれているが、砂漠に囲まれて人が生きていく環境としては過酷な国と日本の様に資源に恵まれていないが、人が住む環境としてはいい条件の国といった様に、国家が成り立っている基礎的要件からくる歪みである。同じ国でも沿海部と内陸部では市場が成り立っている条件が違う。この様な所与の条件は、経済の在り方に決定的な制約をもたらす。

資金の流れを阻害するもう一つの原因は、資金の流れによって作られる資金の偏在と資金の流れの歪である。
市場経済を機能させているのは、資金の流れである。資金の流れを生み出すのは、資金の過不足であり、資金の過不足を均衡させようとする働きである。資金の流れを阻害する歪みには、水平的歪み、垂直的歪み、部門間の歪み。時間的歪みがある。

これらの歪みや偏りは、放置すれば自然に均衡するという間違った認識がある。しかし、現実は、放置すれば歪みは拡大し、格差や差別の原因となる。

資金の流れなく最大の障害は、格差であり、差別である。格差や差別は、市場を分裂させ、分割してしまう。
経済学の一番の目的は、水平的歪み、垂直的歪み、部門間の歪み、時間的歪みをどの様な仕組みによって、どの様に解消するかの解答を出す事である。

資金の流れの歪みを是正するためには、資金の流れが何に対し、あるいは、どの部分に対してどの様な働きをしているかを見極める事である。



世界経済は、人、物、金の三つの要素で構成されている。



世界経済は、人、物、「お金」の三つの要素によって構成されている。
国際交易は、人、物、「お金」の過不足を補う過程で生じる。人、物、「お金」の何が、どれくらい不足しているのか。不足している人、物、「お金」をどこから、どの様に調達するのか。不足する人、物、「お金」を調達するためには、何が必要となるのか。

単純に、交易を考えるとしたら、余っている物を売って、不足する物を買う事である。売る物がなければ、労働力を提供する。
この人、物、「お金」の過不足が交易の基礎となる。
即ち、交易は、人、物、金の過不足を均衡させようとする働きによって動かされる。
逆にいうと余剰の資源を持たない国は、他国との交易はできない。
そして、この人、物、「お金」の過不足を補おうとする働きが、水平的均衡、垂直的均衡、部門間の均衡、時間的均衡を保とうとする働きになる。

経済活動が活発になると余剰生産物が生じる。それが交易の始まりである。交易が始まる以前は、自給自足が原則であり、生存するために必要な資源が調達できなければ滅亡する事になる。
あくまでも交易を生み出す要因は、内的なものである。外的要因ではない。故に、交易の妥当性を評価するためには、国内の経済状態を前提としなければならない。
国外があって国内があるのではなく。国内の事情によって国外との交易が成り立つのである。

余剰の資源と言うが資源は、一律に存在するわけではない。地理的要件によって経済的資源は、偏在している。それが資金の過不足に対して重大な影響を及ぼしている。つまり、資金の過不足を生み出す一番の原因は、人的、物的要件であって資金的要件ではないという事である。この事を前提としていない限り、資金の偏在による障害を取り除くことはできない。
物や人の偏在を解消しない限り、市場は正常に機能しない。

貨幣制度が実体的世界を網羅できるかが、貨幣経済の成否の鍵を握っているのです。網羅できなくなれば、貨幣経済からはみ出した部分、はみ出した人たちの生存が危うくなる。それが自由市場の存在意義までも揺るがす事になる。
一定の範囲の中に貨幣経済が収まるように制約しないと自由主義経済は土台から覆ってしまう。

次に資金の流れが生み出す歪みである。
資金の歪に対しては、常に、均衡させようとする力が働いている。それが、水平的な働き、垂直的働き、部門間の働き、時間の働きである。

資金の流れの働きは、「お金」の働きに由来している。金利、為替レート、時差は「お金」の働きを構成する根幹である。
なぜならば、金利は付加価値を構成し、時差は、時間価値を、為替は通貨の水準を確定するからである。

市場経済の目的は、分配である。この点を忘れてはならない。市場を介した分配の要になるのは、所得である。故に、所得を得る手段が市場経済の根源である。所得を得る手段は、生産手段である。生産手段には、物的手段と人的手段があり、物的手段の根拠は、所有権にある。そして、市場経済において最も本質的手段は、労働力である。
市場経済の根源は、人的生産手段である労働力を原則とする。なぜ、労働力を基礎とするのかと言うと労働力は万人に等しく与えられた生産手段だからである。労働力を基礎とする事で、満遍なく分配の権利が付与される。
厳しい言い方をすれば「働かざる者食うべからず。」が原則なのである。そして、働きに応じて分配されるから公平な分配が担保されるのである。

しかし、残念ながらこの前提に立って経済の仕組みが立てられているわけではない。それが今日の市場の病巣である。ただ、市場の原則は、満遍なく所得を与える事であるから、雇用が一番の目的となる。ところが今の経済は、雇用より利益を優先しがちである。その為に資金が実物市場に流れなくなるのである。

国際収支は、複式記入に基づくが最終的には、現金主義である。
国民経済統計(GDP)の基本式は、期首ストック+期間純フロー+調整項目=期末ストックでこれは、基本的にキャッシュフローを表した恒等式である。
また、総支出=消費+投資+政府支出+純輸出でこれも現金収支を表した恒等式である。
つまり、複式記入によって期間損益、現金主義どちらにも対応できるように設計されている。基本的には、現金収支を基礎としている。

国際収支と言うのは、個々の国の経済力を評価する為にあるわけではない。個々の国の状態を把握し、それを是正する指標を得る事が目的なのである。

水平方向の均衡で重要なのは、経常収支は、国際市場においてゼロ和に均衡するという点である。
経常収支にせよ、貿易収支、資本収支にせよ、黒字国と赤字国とは、鏡像関係にある。黒字国があれば、赤字国があり、全体としてはゼロ和である。そうなると黒字国が是か非かという事ではなく。位置と働きと関係が問題となる。これは、一国の問題は、一国の問題として価値づけられないことを意味している。乱暴に扱えば戦争になる。
黒字国と赤字国が共振(シンクロ)しているか、独立の働きをしているか鍵なのである。


IMF 世界経済のネタ帳

例えば、貿易収支の黒字国と赤字国は、雇用で正反対な動きをする。また、景気の状態も黒字国と赤字国では差が出る。資本収支は、正反対の動きをする。
つまり、黒字国と赤字国は、正と負、陰と陽の関係になる。それは、黒字国の問題は、赤字国の問題であり、赤字国の問題は、黒字国の問題でもあると言うことを意味する。それが黒字国と赤字国との間に微妙な緊張感を作り出すのである。

経常収支は、外需の問題であると同時に内需の問題でもある。

為替は、国家間の位置づけ、発展段階の差にも影響される。
物的経済の流れには、原材料の調達、生産・加工、流通、小売りといった流れがある。そして、その流れに沿って産業は形成され、資金の流れも生まれる。この流れは資金の偏りの原因ともなる。どの部分を担っているかによって経常収支の形も変化する。
産油国の様に原材料を担う国の経常収支の形と日本の様に生産・加工を担う国の経常収支の形、小売り、消費を担う国の経常収支とでは自ずと違ってくる。問題は、その形が硬直的になると資金の偏在や流れの歪みが拡大してしまう事である。それは、国際分業の在り様にも影響する。

また、財政状態は、国家間の資本収支に決定的な影響を与える。
なぜならは、国家間の資金の過不足は、資本収支によって調整される。

交易の働き、出と入によって行われる。
物の輸出と輸入、「お金」の支出と収入が交易の基本となる。そして、出と入を補う手段が貸し借りである。

また、水平的均衡は、所得、物価、金利の個々の国の市場と全体の市場との間に働く力である。所得や金利、物価の均衡を保つ為には、いかにして個々の国の市場と全体の市場の整合性をどの様にして取るかにある。整合性を保つ為に決定的な役割を破綻のは、個々の国の中央銀行の政策と市場の状況、財政である。

そして、所得や物価、金利は、各々背景がある。所得の背景には、労働条件や雇用の問題があり、物価の背景は、生活水準の問題があり、金利の背景には、投資や負債、資産価値の問題がある。水平的均衡を保とうとする力は、労働条件や生活水準、投資や負債、資産価値を平準化しようとする働きになる。

所得が核だという事は、最終的には、人件費と雇用の問題に収斂する。プロスポーツの選手の所得は世界水準を基本としている。

垂直方向の均衡は、損益と貸借の関係として現れる。つまり、フローとストックの関係でもある。国際収支でいえば、経常収支と資本収支の関係である。

物と「お金」の過不足は、物と「お金」の貸し借りを通じて一時的に解消される。そして、貸し借りは時間軸において清算される。
売買いと貸し借りは、垂直方向の均衡を作る。水平方向は、フローを垂直方向は、ストックを構成する。ストックは時間価値を生み出し、フローに還元される。フローは、ストックに制約される。
フローとストックの均衡は、部門間の過不足の蓄積され。部門間の均衡は、市場規模に反映される。
水平方向の均衡と、垂直方向の均衡は、フローとストックの均衡によって保たれる。

交易の根本には、物の不足がある。不足する資源をどこからいかに調達するかそれが交易の基本である。そして、調達する為に何が必要なのか。何が不足しているのかそれがまず問題となる。基本的に国際市場から物を調達しようとしたら資金が必要となる。
「お金」が不足している場合は、どこからか借りてこなければならない。あるいは、余剰な資源を売って資金を作る必要がある。
国際貿易では、売って、即ち、輸出して資金を調達すれば、貿易収支、経常収支に計上され、借りてきた場合は、資本収支に計上される。この経常収支と資本収支の関係が垂直方向の均衡の基となる。

我々は、国際収支を金銭面からのみ見る傾向があるが実際は、物質的必要性、その根本は人口問題がある事を忘れてはならない。国民が生存するうえで必要な資源を調達する事が交易の基本なのである。それが経済的に解決できなければ武力行使になる。それが戦争の本質である。
人口に対して余剰の資源がない場合は、労働力を輸出する事になる。いずれにしても、人、物、「お金」の過不足をどの様に補うかの問題なのである。その根本は、人と物との関係である。
国際交易を見る場合、人口に対して何が不足していて、何が余っているか。それを人、物、「お金」、各々で分析しておく必要がある。

国内市場を構成する部門、家計、民間企業、財政と国際収支とは密接な関係がある。
投資の在り方は、資金の流れの基底を構築する。
資金の短期的働き、長期的働きの状態が全体市場に作用して国家間の不均衡を生み出している。国家間の不均衡そのものは、市場を動かす原動力である。問題は、その歪みが大きくなったり、硬直化する事で資金の流れを阻害する事である。
個々の部門内部における資金の過不足を調節する手段には、短期的手段として所得の再配分、市場取引があり、それを補う形で長期的手段金融取引がある。
投資には、設備投資、住宅投資、社会資本に対する投資(公共投資)、金融投資がある。
そして、民間企業が主として設備投資を、家計が主として住宅投資を、財政が主として公共投資、海外部門や企業が、主として金融投資を担っている。

各部門は、各々役割や働きが違う。経済の基盤を構成するのは、家計と民間企業である。家計の投資は、住宅投資として消費を担い企業は設備投資によって生産手段を担う。財政が社会資本の建設を担い、海外が金融投資として資金の過不足の是正を担っている。
そして、経常収支は、経済規模と水準を制約する。

国によって投資の在り方は変わってくる。それを市場全体でどう調節するかが、重要となる。例えば、主たる産業に乏しく、人口密度が高い国では、公共投資が重要な役割を担っている。逆の産油国の様に資源に恵まれている国にとって金融投資が鍵を握っている。要するに資金が循環するように市場全体で投資を組み立てればいいのである。そこに働くのが政治である。

部門間の資金の働きの変化、そして、それが為替レートに及ぼす働きを明らかにするためには、資金の変化をもたらした事象が、市場にどのような経路で流れ、それがどのような影響を及ぼすかである。
例えば、貿易収支が赤字になった事で、外貨支払いが増す。外貨支払いが増すという事は、外貨の需要が増したことを意味し、それは為替レートの自国通貨の下落を招き、輸出が増加し、輸入が減少し、貿易収支が黒字化へ向かうといった循環である。
また、輸出量が増える事で自国の景気がよくなり、失業率が低下、物価が上昇し、生活水準がよくなり、為替レートが上昇するといった循環である。

大切なのは、資金の循環に基づく作用である。内需拡大と言っても流通量と回転数が鍵を握っている。

ただこれらは一本調子になるのではなく。いろいろな要素が複雑に絡むため一概に言えない事を留意すべきである。
変化の基となる基礎的要件が大事なのである。
例えば、為替の変動は、輸入、輸出にたいして正反対の作用を及ぼす。
問題となるのは、前提条件であり、基礎的要件である。円高が是か非かと問うのは、愚かと言うより危険な事である。

経済的価値は、時間価値によって形成される。
期間損益主義は、時間的均衡を前提としており、短期的、単年度の均衡は前提としていない。

期間損益と現金収支を乖離させるのは、減価償却である。減価償却は、一時的な現金収支による歪を是正する働きがある。期間損益と言う概念を導入する事で、資金の働きを平準化する事が可能となった。しかし、それは、資金の流れの実体を表しているわけではない。つまり、貸し借りにおける資金の流れと損益における資金の働きを乖離させてしまう。しかし、資金の回収を基礎として期間損益を計算すると資金の調達手段によって資金の働きが違ってくる。これでは、単位期間における資金の働きを正確に計測する事が出来なくなる。それ故に、キャッシュフローと言う概念を導入する事になる。ただし、キャッシュフローと言う概念を導入しても資金の過不足が明らかにされたわけではない。この点をよく注して期間損益との整合性を測っていかないと国際収支の実体を理解する事はできない。

「お金」は、長期的資金と短期的資金の二つの働きがあり、それが経済の波を作っている。
長期的資金の働きはストックを短期的資金の働きはフローを構成する。

金利は為替の短期的変化に影響する。なぜならば、金利は、その時点時点の経済政策や資金の需給を反映するからである。それに対して物価は、長期的変化に影響すると考えられる。基本的に、何によって動かされているかによって変化の本質は、短期的なのか、長期的なのか見方は変わるのである。

為替取引には、直物取引と先物取引がある。直物と先物の違いは、根本的に時差と金利である。基本的に金利の高い通貨の先物は、直物より安い。金利の低い通貨の先物は高くなる。直物と先物の金利差が均衡している場合、金利平価が成立していると考えられる。

国際交易の歪みが解消されず市場に資金が循環しなくなった場合は、市場経済は成り立たなくなり戦争、革命、恐慌、ハイパーインフレーション等によって暴力的な手段でリセットせざるを得なくなる。
国際収支を問題とする時、個々の国の国家戦略、経済政策等の影響を除外して純粋に経済的現象としてとらえようとする学者がいるが滑稽な事である。それは了見が様すぎる。




交易の始まりは物不足


間違ってはいけないのは、何が何でも交易をしなければならないという訳ではないのである。その国が交易をしなくても成り立っていたら交易などする必要がないのである。
現に我が国は、1639年から、1854年の日米和親条約締結まで「鎖国」し、一部を除いて海外との交易を禁じていたのである。開国も我が国が望んでしたわけではなく強要されたものである。
海外と公に交易をしなくとも我が国は我が国で成り立ってきた。「鎖国」している時代は海外との交易を一般庶民は必要と感じていなかったのである。
現在我が国は、海外との交易をしなければ成り立たない。この事実を先ず受け入れる事である。そして、成り立たない理由は、「お金」の問題ではなく、物の問題なのである。物不足が原因なのである。
交易の根本は、物の過不足を補い合う事である。交易には必ず相手国が存在する。交易は、自国の都合だけで成り立っているわけではない。相手国の都合にも左右される。
日本が開国したのは、日本が望んだことではないといった様に今日自国の都合だけでは「鎖国」は続けられない。どこかの国の都合で必要だとされれば開国が迫られる。拒めば侵略される。力づくで開国させられる事になるのである。

現在、国家が国家として成り立つ為には、食料やエネルギーは欠かせない物資である。故に、食料とエネルギーは戦略物資とされている。

しかし、江戸時代には、電気も必要としていなかったし、石油も、原子力もなかった。それでも生活はできたのである。

現在のアメリカと中国の貿易摩擦、併せて、日本との貿易関係を例にしてみる。

日本 アメリカ 中国
面積 38万㎢ 962.8万㎢ 960万㎢
人口 1億2,791万人(2017年) 3億2,571万人(2017年7月) 13億9008万人
GDP 4,872.1(10億㌦) 19,485(10億㌦) 11、218(10億㌦)
一人当たりGDP 38,440ドル 59,774ドル 8,113ドル(2016年、IMF)
輸出額 698,073(100万㌦) 2,351,072(100万㌦) 2,263,522(100万㌦)
輸入額 671,183(100万㌦) 2,903,349(100万㌦) 1,840,982(100万㌦)
経常収支 195,801(100万㌦) ‐449,142(100万㌦) 164,887(100万㌦)
貿易収支 44,230(100万㌦) ‐807,495(100万㌦) 476,146(100万㌦)
金融収支 133,819(100万㌦) ‐331,860(100万㌦) 57,096(100万㌦)
直接投資受入額 18,838(100万㌦) 277,178(100万㌦) 168,224(100万㌦)
外貨準備高 1,232,244(100万㌦) 122,178(100万㌦) 3,235,895(100万㌦)
対外債務残高 6,058,354(100万㌦) 33,929,846(100万㌦) -
穀物自給率 28%(2013年カロリーベース) 126% 100%
エネルギー自給率 6%(原子力を除く)日本原子力文化財団 83% 84%
国防予算 461億㌦(2016年) 6100億㌦ 2150億㌦
基礎データは、外務省と帝国書院 ジェトロ等より作成

注目すべきなのは、人口がアメリカは、約3億人なのに対して中国は14億人と5倍近い。国土面積は、中国とアメリカはほぼ同じとみていい。つまり、中国の市場は、人口面から見るとほぼアメリカの5倍あるという事である。これは、将来中国が消費大国になる事を暗示している。

人口と言うのは、二つの意味がある。一つは、消費者と言う意味であり、もう一つは、労働者と言う意味である。現在は、低い賃金、、人件費が生産拠点として資本を引き付けているが、将来は、一大消費市場として資金を引き付けていく事になる。
それは、貿易が輸出主体から輸入主体へと転換していくことを意味している。






中国の一人当たりのGDPは、まだまだ低い。
また、香港との格差も広がっている。
しかし、本格的に中国の市場が拡大すれば世界の食料消費量に占める中国の割合が拡大する事は明らかである。



IMF


穀物自給率は、米中共に、100%を超えている。また、エネルギー自給率は、80%代を維持している。しかし、中国とアメリカの人口差は決定的であり、自給率も今後中国は維持し続けられるかどうか疑問である。

自給率が低下すれば、対外関係に対しても攻撃的な姿勢に変化していく事が考えられる。
アメリカとの貿易摩擦もこの様な過程で起こっている。
かつての日本の貿易摩擦とは異質である。
日本は、狭い国土に、低い自給率、そして高い人口密度という事で貿易に活路を見出した。
ただ、誤解してはならないのは、日本は、日本は、国内に高密度の市場を持っていたという点である。
決して内需が乏しかったわけではない。狭い市場で激烈な競争を繰り返し、その延長線上で海外交易が発展した。

中国は、まだまだ生産拠点としては未成熟だという事である。

ただ、アメリカと中国との関係は、ピーナッツの裏表のようなものである。お互いがお互いを必要としている。しかし、利害関係が濃くなればなるほど対立も鮮明となる。
人類は、この超大国の間で生きていかなければならないのである。それは常に一歩間違えば破滅的戦争の危機をはらんでいる事を覚悟しなければならない。

問題は、経常収支が赤字か黒字かではない。その背後で蠢く人の問題である。何が不足で、何を必要としているのか。アメリカと中国どちらにとっても必要な事、利害が一致する点は何かなのである。

今は、中国の安い人件費で製造された低廉な商品のアメリカに対する輸入攻勢が問題とされている。しかし、やがて中国の経済も成熟へと向かっていく。そうなると国民生活も向上し、一大消費市場として世界にその存在を誇示するようになる。
その際、お互いに抑制的な態度で接する事が出来るかどうか。世界平和は、それにかかっているのである。
重要なのは、「お金」を循環させる事である。

生産から消費のサイクルを国内の市場が自己完結的に持っているかが、力関係を最終的に決める。アメリカは、このサイクルを持っているが、中国は、人口が多いから自己完結的には終わらない。どうしても海外市場に依存しなければならなくなる。ただ、中国が一大市場になった時、アメリカも中国市場に依存せざるを得なくなる。だからアメリカと中国は最終的には相互依存体制になる。

我が国は開国後、度々国際紛争に巻き込まれている。第二次大戦後は、国家の独立さえ危うくなった。
戦後は、戦争に巻き込まれる事はなかったが、それでも絶え間なく貿易摩擦に悩まされてきた。
なぜ、日本は国家存亡の淵に行くたびも立たせられる事になったのか。
それは、日本が鎖国時代と違って海外との交易なくして国民生活が成り立たなくなったからである。

ところが最近の日本人は、内向きになってしまっている。国際情勢に疎く。自分国が平和でありさえすれば、世界の動きなど関係ないと思い込んでいる節がある。
しかし、自給率が低い日本こそ世界情勢に敏感に反応し、迅速な対応をしないと、国民生活が根底から成り立たなくなることを忘れてはならない。

戦後の日本の自由は、家畜の自由に過ぎない。アメリカやその他自由主義国の傘に守られてきた自由である。しかし、真の自由を自分の力で勝ち取り、守り抜くものである。

まず世界の穀物市場がどのようになっているかを見て見る。
自給率が高い順に表にしてみる。

穀 物
自給率
1 パラグアイ 362%
2 アルゼンチン 317%
3 オーストラリア 279%
4 ウルグアイ 266%
5 ブルガリア 249%
6 ラトビア 238%
7 カナダ 202%
8 ウクライナ 194%
9 リトアニア 193%
10 ハンガリー 192%
農林水産省 諸外国の穀物自給率 2013

パラグアイやアルゼンチンの様に300%を超える国もいくつか見受けられる。香港やサモア等は自給率がゼロである。
穀物の生産量は安定的に推移しているわけではなく。2006年には安全在庫水準を下回ている。
我々は、資源がある事を前提としている。しかし、いつまでも資源が潤沢に生産できるという保証はない。
人類史の中で資源が有り余るほど生産されたという時代の方が資源が不足していた時代よりずっと短いのである。

カナダやオーストラリアのような先進国も含まれている。農業も歴とした産業であるが、日本人は農業を産業としてとらえられる人が少ない。それが農業の近代化を阻んでいるのである。


(資料)農林水産省「食料需給表」、FAO"Food Balance Sheets"等を基に農林水産省で試算した

人は、常に、飢饉や干ばつに苦しめられてきたのである。
1845年から1849年までアイルランド主食であるジャガイモが疫病になり、食糧難に襲われる。
アイルランドの全人口の少なくとも20%が餓死および病死、10%から20%が国外へ脱出したと言われる。また、婚姻や出産が激減した結果、総人口が最盛期の半分にまで落ち込んだいわれる。
飢餓前と飢餓後に歴史を分けるほど決定的な影響を与えたため、「大飢饉」と呼ばれている。(Wikipedia)

今は、人口減少を否定的にとらえる傾向があるが、中国ももかつては、人口爆発を怖れ「一人っ子政策」を実施たほどである。






農産物の価格は、天候やその年の作柄に大きく左右される。生産量は不確かであり、必然的に収入も不確実である。それを均すのが市場取引と在庫である。市場取引は、会計操作に結び付く。
減価償却も、債権も、債務も、資産も、負債も、収益も、費用も収入と支出を均す働きをする。
不安定で、不確実な生産や収入をいか、平準化し安定させるかが、経営主体。民間企業の役割なのである。法人企業は、不確実な収入を整流し、所得を定収化するのが役割である。




我々は、技術革新と言うと工業技術の革新を思い浮かべるが、生産量、単収、収獲面積の推移を比べてみるといかに農業技術革新が大きかったかがわかる。




米中関係や世界の穀物市場を前提として日本の農産物の現状を見ていく。
水や食料は、人間が生きるために不可欠な資源である事を忘れてはならない。水争いと言うようにかつては、水を奪い合って殺し合い迄したのである。

輸出と輸入は、必ずしも均衡しているわけではない。国ごとに凸凹がある。
しかし、市場全体ではその凸凹が均されてゼロ和に均衡する。



我が国の農産物の輸入相手国は限られている。


農林水産省

とかく現代の日本人は、交易を「お金」の問題と取り違え、金銭問題を優先しがちであるが、交易の根底にあるのは、信用制度である。
交易の根本には、物不足がある事を忘れてはならない。いかに貿易相手国と良好な関係を築き、自由な交易市場を確保する事なのである。
経済の問題は、基本的に生産者と消費者の問題である。交易でいえば生産国と消費国の関係である。それは、企業と家計の関係、労働者と消費者の関係でもある。この基礎にある関係を忘れたら健全な交易関係は、築けない。
消費者の都合ばかりを押し付けても、生産者の都合ばかり優先しても良好な関係はできない。「お金」は、生産者から消費者へ生産財を分配する過程で必要とされる。ただ、「お金」は、目的にはならないし、目的にはなりえない。
生産から消費に至る仕組みが鍵なのである。



海外交易と「お金」


海外交易は、国内に不足する資源や財、物資を海外から調達しようとする事から端を発する。
自国で不足する資源、財、物資は国際市場を通じ他国から仕入れるしかない。それが海外交易である。
不足する資源、財、物資を海外から調達しようとしたら輸入相手国の通貨で資源や財、物資を買付しなければならない。
つまり、交易をしようとしたらその前にお互いに支払いを準備する必要がある。
支払準備とは、お互いの国の通貨を交換することを意味する。
交易をする全ての国の通貨を準備する事はできないから決済のための仕組みや取り決めを予めしておく必要がある。

現在の決済の仕組みは、特定の国の通貨を基軸通貨とし、基軸通貨を仲介させることで通貨取引を一元化する基軸通貨制度を多くの国は採用している。そして、一般に基軸通貨として用いられるのはアメリカドルである。

アメリカドルを基軸通貨にする事は、1944年にブレトンウッズで開かれた国際会議によって取り決められた。

お互いの国の通貨を交換するためには、お互いの国の貨幣制度が確立されている必要がある。
現在の貨幣制度は、表象貨幣を基にして成り立っている。今日、実物貨幣を基とした貨幣制度を採用している国はない。あったとしても実質的に表象貨幣と同じ働きをしていると考えていい。

まず、表象貨幣を前提として通貨を交換しようとした場合、お互いの国の交換比率を明確にする必要がある。交換比率は、為替市場における為替取引によって都度決定される。

交換比率を定める基準は、その国の通貨の信認度、需給によって定まる。
ブレトンウッズでは、ドルが金との交換を担保する事で通貨の信認が保たれた。1971年のニクソンショックによってドルと金との結びつくが解消され以後、通貨の信認は、為替取引によって都度決められる変動相場制へと移行した。

変動相場制では、通貨の信認は、通貨を供給される仕組みによって担保される。

「お金」資金を市場に循環させる仕組みを知るためには、「お金」の成り立ちを知る必要がある。「お金」の成り立ちを知るためには、中央銀行の仕組みを知る必要がある。
資金は、一定の手続きによって生産された観念の所産である。

民間金融機関が国債を引き受けるためには、預金が前提となる。

現在の貨幣制度が確立される為には、一定量の預金が金融機関に貯蓄されている事が前提となる。

現行の紙幣の始まりは、国債である。現在の中央銀行の前身となる銀行が国債を引き受ける代わりにそれを担保に銀行券の発行権を得、その銀行券が現行の紙幣の始まりである。

紙幣は、無制限に発行できるものではない。そのような事をしたら、物価や所得を制御ではなくなる。人、物、金は、基本的に調和を求められるのである。
中央銀行が定まると準備金に基づいて兌換紙幣が発行される。この段階では、まだ、実物による制約があった。
今日、通貨の発行高の制約となるのは、国債と外貨準備高である。

2013年「異次元の金融緩和」によって日本銀行は、無制限の国債の買い入れを実施ている。2017年末現在で国債の発行残高1092兆円、日本銀行保有残高441兆円。当座預金残高合計2017年12月369兆円である。なぜ、当座預金に資金がたまっているのか。それは、地価が低迷し、民間企業が資金調達力が低下しているからである。地価が上昇し、資金が市場に流れだした時、物価を制御できるか。長期金利がどう働くかそれが問題なのである。

貨幣制度は、先ず、金貨、銀貨等の実物貨幣、秤量貨幣の段階、そして、兌換紙幣の段階を経て、現在の管理通貨制度に至った。実物貨幣の段階において蓄積された金貨、銀貨を担保にして紙幣が発行され。

現在の通貨は、いわば行政府と金融機関の融通手形みたいなものである。つまり、国債を行政府が発行しそれを担保にして通貨は発行される。通貨は、中央銀行の負債でもある。融通手形と言うのは、行政府と金融機関の間で何らかの取り決めがされけていないと上限がなくなるし言う点にある。上限のない通貨は、信認が無限大になり、分配の手段としての機能をしなくなる。
故に、何によってどの様に上限を制約するかが、通貨の信認を定めるのである。金本位では、金の量がその上限を制約していた。

表象貨幣である紙幣は、1690年イングラド銀行が英国の国債を引き受けそれを担保にして紙幣を発行した事に端を発している。今日、歴史的教訓に基づき国債を直接中央銀行が引き受けることを禁じている国が多い。それは、国債を直接中央銀行が引き受けると通貨の発行量に相互けん制機能が働かなくなるからである。
通貨の発行量は、民間銀行の預金と貸付金を基礎として調整される。なぜならは、預金と貸付金の比率が資金効率を表しているからである。今日金融機関の資金の融通機能は低下しているとは言われるが、資金効率を測り、抑制する手段としては有効であることに変わりはない。むしろ、金融機関の預貸率の低下が通貨の信認に深刻な影響を与えている。

「お金」は、貸し借りによって生産される。「お金」の貸し借りは、同量の債権と債務を生み出す。債権と債務は対称的である。
債権債務から市場取引によって付加価値が生産される。付加価値は、空間的距離、時差などによって作られる。
付加価値は、時間価値に変換される。時間価値に基づいて付加価値は、費用化され利益、減価償却費、人件費、地代・家賃、金利、税に分配される。
減価償却や地代。家賃は、設備投資として生産手段の働きを意味する。人件費は所得に還元され消費の原資となる。税は、財政の原資となり、金利はストックを働き現わす。利益は、預金に蓄積される。ただ気を付けなければならないのは、減価償却と利益は資金の流れと一致していないという点である。
債権と債務は、ストックの規模を特定し、付加価値は、フローを作る。経済効率は、ストックの規模と付加価値の幅、そして、その内訳(分配の割合)によって決まる。
期間損益は、その働きに基づいて設定されている。即ち、費用に見合う収益を獲得する事を前提に総資産、総資本、収益、負債の関係によって経済的整合性を計測する手段が期間損益なのである。
財政は、予定される支出に対してどれだけの歳入が必要かである。そして、その歳出歳入構造の前提となる国債の残高である。
この関係が資金効率を表している。


財務省

国債の引き受け手が誰かによって財政問題の質が問われる事がある。それは、国債の引き受け手が国内にいる場合は、財政は、国内の問題として処理できるが、海外にいる場合、財政に対する主導権が海外の勢力に握られる事になりかねないからである。現実に、多くの通貨危機や財政破綻は、海外の投資家によって引き起こされている。

逆に、国債の引き受け手が国内にいるからと言っても安心できるとはかぎらない。偏りが是正されない限り歪みは拡大するからである。
鍵を握っているのは、部門間の関係であり、根本的な原因は、国家体制の問題なのである。この部門は、単独で成り立っているわけではなく。他の部門との相互作によって成り立っている。
通貨危機、財政危機、金融危機は、密接な関係がある。いずれにしても海外部門、財政部門、金融部門に内在する不均衡が他の部門にどの様に遡及し、あるいは、他の部門の不均衡の影響がどの様に作用しているかを部門ごとに明らかにする必要があるのである。
通貨危機、財政危機、金融危機、いずれにも、長期資金の働きが決定的な役割を果たしている。債権と債務の位置と運動と関係が問題なのである。

個々の部門を構成する要素の働きを正しく認識する必要がある。
マイナス金利の当座預金は、その働きから見て中央銀行にとって負債ではなく、資産である。

フローの幅は、ストックによって制約される。故に、経常収支の効率を見るためには、対外純資産残高と経常収支を比較してみる必要がある。

注目すべきなのは、リーマンショック以降、経常収支が減少しているのに、対外純資産が大幅に増加している事である。
これは、所得収支の伸びが寄与している。



財務省

貨幣単位と貨幣価値とは別物である。
貨幣価値は、財の経済量を言うのに対して貨幣単位は、貨幣価値を測るための尺度、単位を指す。経済量は、貨幣単位と数量の積である。つまり、経済量、貨幣単位、数量が貨幣価値を構成する要素である。
経済量は、一般に市場では売上として現れる。貨幣単位は、価格、単価である。貨幣単位は、市場取引によって都度、財に対する需要と供給によって決められる。数量には、物理的量、時間量、仕事量などがある。

交易は、自国に不足する資源、財、物資を国際市場を通じて調達する目的で始められる。交易以外の手段としては、戦争や植民地化がある。戦争や植民地化は暴力や武力をもって行われる。人類にとって暴力や武力によって行われる強奪が大きな惨禍を与えるかを二度の世界大戦で思い知らされた。以後、外交と交易によって互いの国の資源の過不足を補い合うようにする自由貿易の維持する事が、人類の共通認識となり今日に至っている。

自由貿易が成り立つ前提は、個々の国が経済的に自立している事である。

日本は、輸入立国を国是とし、輸入に依存しているように誤解されているが、第二次世界大戦後日本が高度成長を成しえたのは、内需がしっかりしていたからである。日本は、貿易が自由化される以前は、ほとんど鎖国状態で、資本移動も制約されていた。1948年に制定された外為法によって対外取引が原則禁止されそれが原則自由化されたのは、1980年の外為法改正においてである。48年に対外取引が禁止され自由化されるまでの間に、日本は、国内の生産体制を整え、そこから生産された余剰製品を海外に輸出する事で外貨を獲得したのである。
日本は国内市場がしっかりと確立されており、内需が確保されていたから安定した生産が維持できたのである。輸入立国と言っても輸入だけに依存していたわけではない。

第二次世界大戦終了後日本は涙ぐましい努力をして外貨を獲得していたのである。


日本銀行 経済産業研究所 関志雄氏作成

国際交易で勘違いをしてはならないのは、不足している資源を調達する事が本来の目的であって、金儲けをする事が目的ではない。
不足している資源を調達する為に、余剰資源を輸出して資金を調達しているのである。経常収支が黒字化、赤字化は結果に過ぎない。ただ、経常収支の赤字か続けば、他国からの借金が嵩み、必要な資源を輸入する為に支障があるというという事である。黒字が続くという事は、それだけ他国の負債が嵩んでいる事になる。資金不足の国に資金を循環させる仕組みがなければ早晩、国際市場は破綻してしまう。重要なのは、国際市場に資金が常時循環している事なのである。

一国の主権の範囲ないでできる事は、部門間の不均衡の是正である。まず、国内に存在する部門間の歪みを正す事が求められるのである。その上で海外との交易を通じて国内の歪をなおす事を考えるべきなのである。さもなければ、国家の主権、独立は保てない。

経済は、実需に結び付かなければ空疎である。経済は、生きるための活動なのである。
いくら、市場を動かしているのが「お金」だと言っても、「お金」の尺度を普遍化したら「お金」は、本来の効用を発揮できなくなる。なぜならば、「お金」は、分配のための手段にすぎず。相対的な尺度だからである。
どんなに美味しい料理でも食べきれないほど作ったら余った分は、捨てなければならなくなる。豪邸を建てても住む人がいなければ空き家を増やすだけである。
そんな無駄遣いを神は認めたりはしない。

為替の仕組み


通貨は、一部の通貨を除いて、その通貨が構成する通貨圏の範囲内でしか通用しない。一部の通貨とは、基軸通貨、あるいは、決済用の通貨を言う。そして、通貨は、市場を循環する事で効用を発揮する。
通貨圏は、行政圏と基本的に重なる。
特定の範囲でしか通貨は、通用しないために、異なる通貨圏から資源を調達したり、販売しようとしたら、即ち、交易をするためには、取引をする前に通貨を交換する必要がある。この事なる通貨圏を結びつける仕組みが為替制度である。
注意しなければならないのは、第一に現在の経済は、自由主義経済であろうと社会主義経済であろうと一通貨圏には、一つの貨幣制度、一つの通貨しか通用しないという点と、第二に、通貨は、市場を循環する事で効用を発揮するという点。第三に、通貨圏と行政権は基本的に重なっているという点である。

為替制度や金融制度は、通貨を循環させる仕組みだという事を忘れてはならない。通貨は、資金の過不足によって流れる。つまり、為替制度や金融制度は、資金の過不足によって動いていると言える。そして、資金の過不足は、人為的に作られる事である。人の意志が働かなければ、「お金」は、動かない。動かなければ効用を発揮する事もない。経済は作為的行為によって成り立っているのであり、無作為では「お金」は、効用を発揮しないのである。経済を動かしているのは、人であり、神ではない。

通貨の関係は、極めて単純である。一方が上がれば相手は下がる。一方が下がれば相手は上がる。ただそれだけである。
為替を複雑にするのは、本来、交換される「お金」は、等価だという事である。交換される「お金」は等価なはずなのに、「お金」と「お金」を交換すると「お金」の相対的価値は変わり、等価でなくなるという事である。これは、「お金」が作り出す価値は相対的価値であり、取引によって変化することを意味している。「お金」が指し示す価値は絶え間なく変動している、振動しているのである。
この上限運動が「お金」の流れる方向を決める。言い換えると、「お金」の流れが為替の運動を生み出している。
つまり、「お金」の流れを生み出している源が為替を動かす力なのである。
何が「お金」の流れを生み出しているのか。それは資金の過不足である。
資金の過不足はなぜ、生じるのか。それは、「お金」を使うからである。「お金」は使えばなくなる。なくなれば不足する。問題は、「お金」の使い道である。見返りない処に「お金」を使えば、「お金」の不足は解消できない。
今の世の中「お金」がなければ生きていけない。いくら、「お金」のために働いているわけではないと粋がって見せても、「お金」がなければ、生きる為に必要な資源を手に入れる事はできない。だから「お金」がなければ他人から借金をしなければならなくなる。誰も「お金」を貸してくれなくなれば、「お金」を盗むか、強盗するしかなくなる。
働きのない者は、借金が増えるばかりなのである。
それは国家もおんなじである。それこそ、昔は、山賊とか、海賊とかを容認する国もあった。「お金」がなくなれば戦争にもなった。平和なのは、「お金」が世の中に回っている時だけである。
為替も世の中に「お金」を廻す仕組みの一つである。
「お金」を使うというのは、買いを意味する。買い一方では経済は成り立たない。売りもなければ経済は成り立たないのである。売りを成り立たせるためには、売る物がなければならない。この売り買いの均衡が為替を成り立たせている。
売り買い、貸し借りこれが為替の本質である。

経済量は、価格と数量の積である。経済量の変化は、基準となる時点と現時点との差である。それは、価格の差と数量の差の積でもある。経済量の変化率は、価格の変化率と数量の変化率の和で近似できる。
つまり、経済量の本質は、価格(単価)と数量によって構成されている。これを念頭に置いておく必要がある。そして、経済量は、単価と数量に分解できる。単価とは、単位当たりの貨幣価値である。
「お金」にも、価格がある。数量がある。これが通貨の経済量を特定する。では、「お金」の経済量は、何によって定まるのか。価格なのか、数量なのか。そこが問題なのである。価格によって表される以外に経済量の本質は存在するのか。貨幣価値に換算される以前の経済量である。この様な経済量はあったとしても認知できない。故に、表に現れた貨幣価値によって経済量は、測るしか表現しようがないのである。

実質的な経済量は、人と物との関係から生じる。しかし、物の価値は、普遍化できない。故に、「お金」の単位を掛け合わせることで全ての財を貨幣価値に還元するのである。貨幣価値に還元する事で質の違う財の価値を数値化し、市場取引を可能とする。「お金」は、触媒、アダプターのような役割をしている。

経済的基準の単位は、絶対的なものではない。経済的基準の単位は、相対的なものである。それは、為替制度に端的に現れている。

為替の仕組みは、貨幣制度の性格を顕著に表している。また、金融制度の要に位置しているのが為替制度だともいえる。
為替の根本は、「お金」なのです。

為替制度で重要なのは、決済の仕組みである。決済の前提は、市場取引である。つまり、為替は、市場取引を補完する役割をしてきたのであり、あくまでも、従であり、主ではない。

決済で重要なのは、個々の国の通貨の水準である。
現在、為替は、変動相場制を採用している。しかし、変動相場制をとる以前は、為替は、何らかの物を基準に決められていた。その代表的なものが金である。変動相場制に移行する以前、金を基準、即ち、金本位制をとっていた。その時代は、固定相場制が一般的だった。
1971年ニクソンショックによって金本位制は、事実上崩壊し、以後、管理通貨制度、変動相場制へと移行した。

なぜ、金本位制が崩壊し、変動相場制へと移行せざるをえなかったのかと言うと物としての金と「お金」としての金が両立できなくなったからである。それは、物と「お金」の働きの違いにある。物としての金は、物としての使用価値に基づいて相場が形成されるのに対して、「お金」としての金は、「お金」としての交換価値に基づいて相場が形成される。「お金」としての働きは、交換価値、価値の保存、価値の確定などであるが、このような働きが物としての働きと時として乖離する。それが極限にまで至った時、金は、「お金」の価値の単位を表象する事が出来なくなったのである。金本位制の放棄は、「お金」の働きと性格をより純化する事になった。つまり、「お金」の情報化の始まりなのである。

変動相場制に移行しても通貨制度は安定せず、度々通貨危機をこき起こしている。何を基軸通貨とするか、完全な変動相場制に移行するか、ある程度の管理をすべきなのか。
資本移動、為替相場、金融政策をどの様にするのか、選択するのかによって通貨は、神経質な動きをしている。

為替制度からわかる「お金」の性格とは、「お金」は相対的だという事である。
「お金」は、売買の手段だという事。そして、「お金」の価値は、売買によって変わり、売買によって決まる。
また、「お金」は、交換の手段であり、交換価値を表象している。
貨幣は、予め定められた範囲内でしか有効でない。
一つの貨幣制度は、一つの貨幣体系を表し、貨幣の単位は、特定の貨幣体系の中でのみ有効だという事である。
「お金」も売買の対象、場合によって投機の対象になる。
そして、「お金」の価値は、買えば上がり、売れば下がる。
為替は、交易があるところには必ず発生する。つまり、交易の本質は交換である。
こんな事が為替の動きを観察すると見えてくる。

財と物との交換させる事で資金を循環させ、物を分配する仕組みが金融制度である。
財は、一定方向に流れるのに対して「お金」は、循環させる必要がある。
「お金」を循環させる仕組みが金融の仕組みである。言い換えると、「お金」を市場に循環できなくなったら金融機関は成り立たなくなる。

資金の過不足が起こす上下動によって資金の流れをおこし、市場を動かしている。その資金の過不足を補う働きをしているのが、金融機関なのである。金融機関の主たる働きには、預金、貸付、為替の三つがある。
そして、預金、貸付、為替は、それぞれ固有にシステムを構成している。
この三つの働きによって資金の過不足を調節し、資金の動きを制御しているのである。
為替は、資金を循環させる仕組みである。

国際市場には、複数の通貨圏が存在している。
通貨圏は、独自の貨幣体系を持っている。
そして、通貨の基準は、相対的な基準である。
為替は、このような前提のもとに成り立っている。

為替と言うのは、決済の手段の一つとして発達してきた。元来、取引は、売り手と買い手が相対でする行為である。故に、決済も同じ場所で、同じ時刻に処理されるものであった。しかし、それでは大金、昔は、金属などで重量も嵩もあったのでいちいち持ち運ぶのも大変であり、物騒でもあったから、両替商などを介して決済をした。両替商、銀行の祖だとも言われている。両替と言うのは、本来交換を意味する。つまり、為替の意味は交換である。

決済は階層的になされる。決済の階層は、金融市場の階層によって作られる。
金融市場は、国際市場と国内市場があり。国内市場には、短期金融市場と長期金融市場があり、短期金融市場は、インターバンク市場とオープン市場からなる。長期金用市場は、債券市場、株式市場、派生商品市場からなる。
国際市場は、為替市場であり、インターバンク市場と対顧客市場からなる。
そして、これらの市場が決済の階層を構成している。
為替市場と国内市場の決定的な違いは、国内市場は、中央銀行を中心とした仕組みになっているのに対して、為替市場は、中央銀行を持たないネットワークによって成り立っているという点である。
中央銀行は、第一に、発券機関、第二に、最後の貸し手、第三に、銀行の銀行、第四に、政府の銀行、第五に、金融政策の施行などを担っている。つまり、為替市場には、これらの働きをする機関がないということを意味する。

日本の決済システムは、日銀ネット、全銀システム、外為円決済システムの三つ核とし、それに手形交換制度やでんさいネット等からなる。

売り買い、貸し借りによって通貨の水準が変動する制度を変動相場制度と言い、売り買い貸し借りによって水準が変動しない制度を固定相場制度と言う。
注意すべきなのは、固定相場制度を採ろうが、変動相場制度を採ろうが経済的単位は、相対的だという点である。

交易をするためには、お互いの国、通貨圏の「お金」が必要となる。つまり、交易を成り立たせるためには、「お金」を両替する必要が生じる。

売り買い、貸し借りには、人的な要素、物的な要素、金銭的要素がある。売り買いの人的な要素と言うのは、雇用、つまり、労働力の売り買い、貸し借りを言う。また、物の売り買い、貸し借りは、交易を指す。「お金」の売り買い、貸し借りが為替を構成する。

A国の人がB国から商品を輸入しようとした場合、A国の通貨をB国の通貨に両替する必要がある。A国の通貨をB国の通貨に両替するとは、B国の通貨を買うことを意味する。輸入した場合は、B国の通貨をA国の通貨に両替するとは、B国の通貨を売ることを意味する。
この様な通貨の売り買いは、変動相場制では、通貨の水準に影響を及ぼし通貨の水準を変化させる。

為替の原則は、売れば下がり、買えば上がる。輸入をすれば通貨を自国の通貨を売って相手国の通貨を買わなければならない相手の通貨は上がり自国の通貨は下がり、輸出をすれば相手国の通貨を売って自国の通貨を買わざるを得ないから相手国の通貨は下がり、自国の通貨は、上がる。故に、輸入が過剰になれば相手国の通貨は上がり、自国の通貨は下がるから輸入に負荷がかかり、輸出が過剰になると通貨が上がって輸出を抑制する圧力がかかる。

通貨の売買は、基本的に支払準備のために行われる。

為替制度と言うのは、水平的均衡を保つ仕組みである。
水平的均衡を保つうえで、一番の障害は、通貨体系が国や通貨圏によって違うという点である。
為替制度は、このような通貨制度の問題点を解決する手段として発達してきた。
故に、為替制度の在り方によって世界市場の均衡の在り様は違ってくる。
ある意味で、為替制度は、通貨の水準を保つ装置のようなものである。
何を基準にして水平的均衡を保とうとしているのか、それが為替制度の根幹となる。

為替は、なぜ、不安定な動きをするのか。なぜ、固定相場制度が維持できなかったのか。
それは、国家が独立していて、それぞれ独自の通貨制度や金融制度、経済制度を持っているからである。つまり、自由体制だからである。
忘れてはならないのは、為替制度は、通貨制度の一部だという点である。

また、もう一つ重要なのは、交易は、物の取引だけでなく、裏で「お金」の取引が働いているという点である。
交易は、物と「お金」の二重取引であり、その間には時間が作用している。

為替は、送金、両替、決済を担っている。中でも決済の仕組みは、為替の根幹になる。その根底を成しているのは、信用である。

為替は、決済の仕組みだと言える。

決済の手段には、現金決済、直接決済と金融機関を介する決済がある。注意しなければならないのは、金融機関を介して決済を行う場合、金融機関に預金がなければならない。金融機関の預金残高が決済資金を満たさなければ不渡りとなる。
決済の手段において金融機関を介する場合が為替だと言える。つまり、為替は、間接的決済の手段である。
決済には、単純決済と価値交換決済がある。価値交換決済には、証券決済と為替決済がある。(「決済インフラ入門」東洋経済新報社 宿輪純一著)

国内為替の場合、通貨は、共通しているから通貨の売買は伴わない。単純に建て替えればいい。
外国為替取引は、物を売買するだけでなく。同時に通貨を売買する必要がある。必然的に貸借関係も生じる。
つまり、自国以外で物を買おうとしたら、自国の通貨と相手国の通貨を交換しておく必要がある。この場合の交換は、自国の通貨を売って相手国の通貨を買うことを意味する。この様に、他国、通貨圏の違う国との交易には、物の売買だけでなく、通貨の売買が伴う。この様な複線取引が伴う決済を価値交換決済と言い、為替取引がこれにあたる。
物の売買と「お金」の売買との間に時間差が生じる。それが為替の変動に重要な意味を持たせる。

一般に為替取引は、基軸通貨を介して行われるために、基軸通貨国以外との取引は、クロス取引と言われる。
為替取引は、クロス取引の影響をも受ける。この様な各国の通貨の動きの相互牽制によって為替制度は保たれている。
これは同時にシステミックリスクの存在を暗黙に示している。

為替の働きは、交換である。
交換が為替を動かす働き、原動力となる。売り買い、貸し借りも交換と言う行為が発達したものである。
為替は、市場取引によって動かされている。つまり、為替は、市場を前提として成り立っている。為替を成立させる前提として市場の働きは、重要な役割を果たしている。

為替の水準を安定させるためには、三つの要素がある。第一に、為替相場。第二に、金融政策。第三に、資本移動である。
この三つの働きは、資金の過不足、資金の動きによって制約されている。
つまり、固定相場制度を採れば、個々の国が独自の金融政策をとられると資本の移動を制御できなくなり、資本の移動を自由にすれば、為替の変動は避けられなくなる。また、これらを両立させるためには、経済体制が一体でなければならなくなり、独自の金融政策は許されなくなる。これら問題は、資金の過不足の偏り、流れの歪みによって生じる。
つまり、為替相場、金融政策、資本移動は、資金の過不足や流れによって制約されるのである。

海外交易の売り買いは、経常収支に反映され、貸し借りは、資本収支に反映される。
もう一つ重要なのが外貨準備高である。外貨準備は、決済手段に用いられる。
決済手段は、基軸通貨が一般に用いられる。故に、外貨準備は、基軸通貨で蓄えられる場合が多い。
資本収支と外貨準備の和と経常収支とはゼロ和の関係にある。
つまり、売り買いした残高は、貸し借りと準備金の残高の和と一致する。


財務省


為替水準の変動は、物価水準を動かすほどの力がある。

借金は増える一方だし、預金もたまる一方、だけど使える「お金」がないのが悩みの種だ。「お金」の使い道が少なくなっている事が今の社会の一番の問題なのである。借金や預金が増える。預金は、金融機関にとっては負債、つまり、借金である。預金と言う借金を運用して利鞘で儲けるのが金融機関の生業であるが、優良な貸付先がなければ資金が回らなくなり、借金ばかりが増える事になる。
借金や預金が増えて一番困っているのが銀行だというのは皮肉な事である。


経常収支の働き


国際収支は、国際市場の均衡と部門間の均衡を保つ働きがある。また、垂直方向の均衡も働いている。
市場は、資金の過不足と資金の流れの均衡を保つ方向に動いている。
経常収支は、資金の流れを形成していてる。
資金の過不足は、資金の流出と資金の流入によって作られ、資金の流れの働きは、資金の流出と流入によって生まれる。
資金の流れの働きは、資金の流れる量と資金の流れる方向によって測られる。

資金の過不足と流れは、長期、短期という見方もできる。即ち、資金の長期的働きは、資本収支、外貨準備として現れ、短期的資金の流れは、経常収支と言う形で表れる。
また、その働きから経常収支は、損益の働き、資本収支、外貨準備は、貸借の働きとして考える事が出来る。
ただ、忘れてはならないのは、国際収支は、複式記入に則ってはいるが、基本的には、現金主義だという点である。
故に、現金収支は、資金の貸し借りによって補われる。それは、現金収支と貸し借り、つまり、資本収支と外貨準備のとの和は、経常収支と一致する事を意味する。資本収支と外貨準備の和と経常収支は一致する事を原則とする。

経常収支は、部門間の均衡をも意味する。部門間の均衡は、国内と国外の均衡を前提としている。国内と国外の均衡は、国内市場の規模と状態と経常収支とは密接な関係がある。国外の均衡は、国家間の均衡を意味する。

資金の働きは、入出金によって測られる。貿易収支では、輸入と輸出の関係から測られる。

資金の流れの方向と強さは、入出金の超過額で測られる。経常収支が負の場合は、財は入超で資金は出超であり、正の場合は、財は、出超で、資金は、入超である。必然的に、経常収支が赤字になると貯蓄は減少し負債が増える。つまり、資本収支は入超、黒字になる。

経常収支が赤字の場合、国内の貯蓄を取り崩すか、資産を担保して資金を借りてこなければならなくなる。交易を維持するためには、交易量に対して一定の比率の支払準備、外貨準備を用意しておく必要がある。支払準備が不足すると決済に支障が生じる。
外貨準備を裏付けているのは、国債である。国内に蓄積がなければ、国内の資産を担保にして国債を発行する事が出来ない。また、国内で処理する事が出来なくなり、海外から資金を調達せざるを得なくなる。
国家の最大の資産は、徴税権である。つまり、徴税権が海外の勢力に担保として提供される事になる。

経常収支の総量は、ゼロ和である。問題は、交易総額を何によって測るかである。つまり、経常収支の総和はゼロだとしても、市場全体で資金の過不足が均衡していることを意味しているのであり、交易の総量がゼロと言うことを意味しているわけではない。
また、経常収支の総和がゼロだからと言って国家間の不均衡が存在しないことを意味しているわけではない。
問題は、交易量を何を基準に測るかである。これは、貨幣の本質的な問題でもある。

国家間に存在する不均衡を是正する事は、現実的な問題である。単に会計上の問題として処理するわけにはいかない。
その意味では、経常収支は、結果であり、国際市場の不均衡を正直に反映していると言える。経常収支の結果に基づいてそれをいかにして是正するかは、政治の問題である。政治的に解決できなければ、不均衡は、拡大し、やがては、外交的手段、会計的手段では、解決できないほどに広がってしまう。
資金の過不足と資源の過不足とは、一致しているわけではない。資金の分布を資源の分布や人口の分布を同一の次元で語る事はできない。

今日、世界市場の規模は、基軸通貨であるアメリカドルによって表示される。しかし、アメリカドルも絶対的基準ではなく、實に為替市場で揺れ動いている。
つまり、貨幣価値と言うのは、何らかの本質があり、その本質を個々の貨幣単位によって表示されていると考えるべきなのか、実際の貨幣価値は、為替相場の動きによって実体的に形成されていると考えるべきか、どちらの観点に立つべきかが重要となる。


世界経済のネタ帳
SNA(国民経済計算マニュアル)に基づいたデータ


私は、貨幣価値総体は、何らかの本質、潜在的全体を持っていてそれを個々の貨幣単位は、市場との引きを通じて実体化していると考える。ただ、基軸通貨は、貨幣価値を構成する上で核心的な働きをしていると考える。
これは国際通貨制度を考える上で基礎となる事である。

携帯電話料金の国際比較をしたところ日本が一番高いとなった事が新聞紙上をにぎわせていた。
しかし、これはあまり意味のない事である。なぜならば、為替の変動によって容易に順番は変わるからである。
携帯電話料金が高いか低いかは相対的であり、所得を基準にして支出、物価、金利、貯蓄との相関関係に基づいて比較する必要がある。
一番重要なのは、携帯電話料金は、所得と比較して評価する必要がある。所得も単純に平均を基にする事はできない。所得格差や生活水準が決定的な影響を及ぼしているからである。

これは、為替の水準を測る上で重要な事で、為替は、単純に貿易収支だけで決まるのではなく。経済を構成する要素の働きが総合される事で決まるのである。
その為に、経常収支は、所得、支出、物価、金利、貯蓄を水平的に均衡させようとする働きがある。

経常黒字国上位10 2009
順位 国名 経常収支(10億USドル)
1 中国 426.107
2 ドイツ 168.02
3 日本 142.19
4 ロシア 48.971
5 オランダ 42.819
6 韓国 42.668
7 マレーシア 38.914
8 スウェーデン 29.564
9 シンガポール 27.181
10 スイス 23.636
総務省統計局『世界の統計』、内閣府『県民経済計算』、社会生活統計指標-都道府県の指標2011
総務省統計局『統計でみる市区町村のすがた2011』より

経常収支が黒字が、是か非かで国力を見ていると経常収支の働きを正しく理解する事はできない。
経常収支の赤字国をみると赤字が黒字国と同様、強国が並んでいる。
特に、アメリカの赤字が規模も含めて突出している事が目を惹く。

経常収支赤字国 上位10
順位 国名 経常収支(10億USドル)
1 アメリカ合衆国 -419.87
2 スペイン -78.683
3 イタリア -66.199
4 フランス -51.86
5 オーストラリア -47.786
6 ギリシャ -37.043
7 インド -36.088
8 イギリス -28.69
9 ブラジル -24.303
10 ポルトガル -23.38
総務省統計局『世界の統計』、内閣府『県民経済計算』、社会生活統計指標-都道府県の指標2011
総務省統計局『統計でみる市区町村のすがた2011』より

経常収支と資本収支は表裏をなしている。

資本収支黒字国 上位10
順位 国名 単位10億USドル
1 アメリカ合衆国 278.25
2 フランス 93.59
3 スペイン 91.484
4 ブラジル 71.289
5 スイス 63.043
6 カナダ 57.033
7 オーストラリア 51.108
8 イギリス 43.8
9 ポーランド 43.096
10 インド 40.464
総務省統計局『世界の統計』、内閣府『県民経済計算』、社会生活統計指標-都道府県の指標2011
総務省統計局『統計でみる市区町村のすがた2011』より

資本収支赤字国 上位10
順位 名称 単位10億USドル
1 ドイツ -186.18
2 日本 -135.14
3 ロシア -44.385
4 マレーシア -33.787
5 スウェーデン -23.647
6 オランダ -23.559
7 サウジアラビア -18.949
8 ベネズエラ -14.583
9 シンガポール -11.492
10 アルゼンチン -8.248
総務省統計局『世界の統計』、内閣府『県民経済計算』、社会生活統計指標-都道府県の指標2011
総務省統計局『統計でみる市区町村のすがた2011』より

中国、韓国、インドネシアは、経常収支、資本収支伴に黒字、即ち、資金の入超になっている。
注目すべきなのは、2001年の時点で最も経常収支の黒字が大きい中国が資本収支も黒字だという事である。つまり、一番稼いでいる国である中国、つまり、資金余剰主体の国が、借入もしているという事である。これは、アメリカと対極をなしている。


(出所)中国国家外匯管理局より 経済産業研究所 関志雄氏 作成

中国の国際収支で特徴的なのは、2013年まで、経常収支も資本収支も黒字だという事で、そのすべてが外貨準備に蓄積されている点にある。2014年以降資本収支は赤字に転じ海外投資が進んでいる事を表している。

また、中国とアメリカの関係は、表裏をなしている事も留意する必要がある。この関係が米中に恒常的な不均衡をもたらし、貿易摩擦の火種となっている。


総務省統計局『世界の統計』、内閣府『県民経済計算』、社会生活統計指標-都道府県の指標2011
総務省統計局『統計でみる市区町村のすがた2011』より

忘れてはならないのは、経常収支黒字国は、経常収支赤字国を必要とし、資本収支黒字国は、資本収支赤字国を必要としているという事である。
そして、経常収支と資本収支は通常一対になっている。その点でいえば、経常収支上、中国はアメリカを必要とし、アメリカは中国を必要としている。ただ、資本収支ではアメリカに対してドイツと日本が対を成しているという点である。
そこに2000年代における中国の特異性がある。ただ2013年以降中国の資本収支も赤字へと転じた。

アメリカには、基軸通貨国としての役割がある。基軸通貨国は、外貨準備を用意する必要がない。その代わりに必要に応じて基軸通貨を供給し続ける必要がある。それは、経常収支を赤字にすることを意味し、自国の通貨の下げ圧力がかかる上に、物価も上昇圧力がかかる。
基軸通貨国は、外貨を準備する必要もなく、外貨を準備するための費用も掛からない。また、自国の通貨が世界中で通用するという強みもある。しかし、通貨管理に責任を持たされる。その為に自国の雇用が犠牲になる事も余儀なくされるのである。

経常収支は、大きく分けて財貨、サービス、第一次所得、第二次所得、経常移転収支の五つの要素から構成される。
第一次所得は、雇用者報酬、利子、配当、再投資収益、レントを言い。第二次所得は、所得・富など課せられる経常税、純非生命保険料、非生命保険金、経常国際協力、その他経常移転、年金基金変動調整を言う。

経常収支と投資、貯蓄


経済収支は、経済的活動の結果である。
注意しなければならないのは、我々が市場経済で赤字、黒字と言う場合、期間損益主義に則いている。経常収支も複式計上方式に基づいている。しかし、基本的に現金主義に則っている。
それに対して財政や家計は、現金主義である。財政赤字は単式方式による現金の過不足に基づいている。
期間損益上の黒字、赤字と現金収支上の黒字と赤字では意味が違ってくる。
少なくとも期間損益上の赤字は一つの指標と捉える事が出来るが、現金収支上の赤字は、破綻を意味している。現金残高が枯渇したら経済は成り立たにいのである。故に、財政も赤字にする事は許されない。財政赤字とは、歳入の中から借入金を除いた部分と歳出から借入金の返済額と利払い部分を除いた部分の差額に赤字だという意味である。

貯蓄と投資は、経常収支に深く関わり、大きな影響を与えている。貯蓄と投資の関係を知る事は、経常収支を予測する上で重要な事である。

部門間の関係を見る上で重要なのは、消費と貯蓄、投資である。
そして、消費、貯蓄、投資を働きの前提となるのが、生産、所得、支出である。
生産、所得、支出が、集計された値が総生産、総所得、総支出である。総生産、総所得、総支出は、一致すると言われている。それが三面等価の原則である。
三面等価の原則が成り立つ、即ち、総生産、総所得、総支出が一致するのは、当然で、一つの事象、運動を三つの次元で捉えているからである。

部門間の関係を見る時、部門の性格や働きを正しく認識しておく必要がある。部門は、大きく国内と国外に分ける事が出来る。更に、実質的部門と名目的部門に分類される。国内は、家計と政府、民間企業からなる。実施的部門は、家計、政府、民間企業、海外部門からなり、名目的部門は金融部門を言う。

部門の中で動きを補足しやすいのは、法的に記録する事が義務付けられている民間企業と政府、金融部門、家計は、民間企業と政府、金融から類推する事で間接的に補足すればおおよその事がわかる。一番、補足しにくいのは海外部門かもしれない。なぜならば、為替の問題があるという事と、表に現れない動きがあるという事である。
いずれにしても統計で補足できないから三面等価が成り立たないと考えるのは早計である。

投資や貯蓄が経常収支にどの様な影響を及ぼすのか検討する時、単に、GDPの恒等式から導き出すのは、短絡的である。ISバランスと言うのは、一局面、しかも、結果であり、状況を表しているのに過ぎない。肝心なのは、GDPに現れた状態を生み出した原因であり、構造である。

投資と言っても部門によって投資の性格や働きは違う。家計が中心となる住宅投資と企業が主となる設備投資、また、公的機関が主となる公共投資では、自ずと、規模も、性格も、目的も違ってくる。
特に、注意すべきなのは、設備投資、住宅投資、公共投資は、資金の出所や流れる経路が違う点である。投資は、資金調達の運用の結果である。だからこそ、どこから、どのようにして資金を調達してどこに、どの様に運用するかによって資金の流れが変わるのである。

個々の部門の投資を均衡するためには、公共投資、設備投資、住宅投資、海外投資の配分が重要なのである。
公共投資は、社会資本を対象に、設備投資は、生産手段を対象とし、住宅投資は、消費手段を対象とし、海外投資は、資金の運用を対象としている。社会資本の働き、生産手段の働き、消費手段の働き、資金運用の働きを見極めたうえでその効率が一番よくなる投資を配分する必要がある。

投資を分析する上で注意すべきなのは、何に対して投資したかであり、どれくらい投資したかではない。どれくらい投資したかが重要になってくるのは、投資対効果が知りたくなった時である。投資対効果で決定的なのは、どの様な目的で、誰に対して何を期待して投資したかである。人が求めるところに事業は成り立つのであり、単に金儲けを目的としても投資の効果は期待できない。

投資、貯蓄の働きは、資金の調達と運用の過程で発揮される。結果だけ見ても働きの効用は明らかにならない。
国内の貯蓄と投資が不均衡で、その為に経常収支が黒字になったのだから、内需を拡大すれば経常収支の黒字は削減すべきだという考え方は経済の実体や現実を無視した空論である。そのような考えに基づいて政策を実行したら、それぞれの国の経済が破綻してしまうのは、必然的結果である。

まず、どの部門のどの様な投資が経済を主導しているのかを明らかにしてから、経常収支の是非を考察すべきである。

消費、貯蓄、投資の働きに消費は、費用に、貯蓄は、負債と純資産に投資は、固定資産に置き換えられる。そして、その基礎となるのは、所得であり、所得は、収益に置き換えられる。まずこの関係を念頭に入れておく必要がある。

あくまでも、経常収支は結果であって、経常収支が黒字だから、赤字だからと言ってそれを起点にして評価する事はできない。

三面等価は、生産、所得、支出という三つの軸で経済の働きを捉えている。これに、時間軸を加える事で、経済の働きを立体的に、四次元的に解析する事が出来る。時間軸は、時間価値と付加価値を生み出す。付加価値が、所得の基礎を形成する。そして、付加価値が時間軸を生み出すのである。

金融の働きは、資金を循環させる事と、付加価値、時間価値を生み出す事にある。資金の循環を促すのは、付加価値であり、時間価値である。つまり、金融は、時間軸に深く関わっている。そして、金融で時間価値を生み出すのは、金利である。ゼロ金利は、金融機関にとって自己否定に近い事である。

経済的価値を生み出すのは付加価値であり、付加価値は、時間価値でもある。時間価値には、金利以外に物価、所得、地代家賃、減価償却費、税などがある。

儲けた者がいれば損をすると錯覚している者がいるが、それは間違いである。経済は、お互いが成り立つようにするのが本来の在り方手背あり。特に、ゼロサムの場合には、等価交換を前提としているのであり、どちらか一方が得になるとかいう事はあってはならない。損得を生み出すのは、時間価値、付加価値である事を忘れてはならない。時間価値、付加価値は、時空間的な距離と運動によって生み出される。
経常収支も同様で、赤字か、黒字かが問題なのではなく。赤字や黒字を生み出す原因や構造が問題なのである。

投資が経常収支に与える影響を考える場合、どの部門のどの投資が総支出に影響しているか、どれくらいの割合を占めているかを確認する必要がある。そして、その投資が総生産や総所得にどの様に影響しているかを明らかにしていく事である。

もう一つ重要なのは、投資の時間的な影響である。投資が資金や生産にどの程度の時間をどの様に与えるかを知る必要がある。単位期間内の資金の働きと単位期間を超えた資金の働きがどの様に部門間の資金の過不足に影響を与えるか。それが経常収支の是非に関わってくるのである。単位期間内、即ち、短期的資金の働きがフローを形成し、単位期間を超えた資金の働き、即ち、長期的資金の働きがストックを形成する。フローは運動が、ストックは、量が重要となる。

交易の根本は、貿易である。貿易とは、余剰な生産財を売って必要な資源を調達する事にある。投資は、この延長線上で捉えるべき事である。資源の乏しい国は、労働力を輸出する事になる。
日本の交易構造は、原材料を輸入してそれを加工して輸出する事である。それは、日本が資源に乏しいわりに、良質な労働力に恵まれていたからである。

原材料を輸入し、加工品を輸出するという貿易構造も時代とともに変化する。その時その時の国際情勢や国内市場の動向などもよく確認して我が国の産業構造の在り方を変えていく必要がある。

また、所得は、利益によって拡大する。利益、収益と費用の関係から生まれる。つまり、所得にとって費用構造が決定的な役割を果たしている。特に、人件費である。なぜならば、人件費が所得の動向を決めるからである。

この事を正しく理解しておかないと投資の意味も、経常収支の働きも明らかにする事はできない。

また、為替の変動は、貿易量を調節する働きがある。為替の調節機能には、投資と貯蓄、消費と、輸入、輸出の関係が基本的な役割を果たしている。つまり、投資、貯蓄、消費によって輸入量と輸出量が制約を受けるからである。
為替を変動しているのは、通貨の売り買いであり、本来は、財の売り買いに伴って為替は変動する。近年では、投機的な動きが為替の変動に影響を与えてはいるが、基本的な変動の基調は、貿易による売り買いによって制約される。
この点は、貨幣の性格を物語っている。「お金」は、財の売り買いによって変動するのである。市場では、価格の変動として、為替では、通貨の変動として現れる。そして、これが貨幣本来の働きなのである。投機は、この貨幣本来の性格を増幅している。

通貨には、価値を一定の水準に統一しようとする力が働く。同時に通貨と価格とを一体化しようとする。これが為替の変動の原因の一つでもある。

価格は、財の経済的価値を為替は、為替は、「お金」の経済的価値を表している。
複数の価値基準の上下運動、振動によって経済的価値は、均衡している。

為替の変動には、通貨の働きを一定の水準に均衡させようとする作用がある。通貨の働きを一定にしようとする作用は、市場価格を統一しようとする、つまり、「一物一価」に収束させようという働きを引き起こす。市場価格を統一しようとする働きは、世界市場における通貨の働きを平準化しようとする、即ち、購買力平価にもつながる。購買力平価は、通貨の水準を一定方向に均衡させる働きにもなる。この様に通貨と市場価格、物価は、相互に作用して一定の水準に通貨価値を保とうとする。
購買力平価とは、価格と通貨の働きを一体化しようとする作用なのである。
故に、通貨の変動は、価格に作用し、価格の変動は、通貨に作用する。

1971年固定相場制の時に1ドルが360円だった。2011年に1ドル75円の最高値を記録した。だからと言った1971年に360円したものが2011年75円で買えたと思う人は、いないだろう。当たり前に物価も上昇しているし、所得も違う。
1970年大卒初任給3万7千円、うどん一杯80円、コーヒー80円、映画館入場料324円。2010年大卒初任給が20万円、うどん一杯600円。コーヒー410円。映画館入場料1266円。
経済的価値は、為替だけが決めるわけではなく、物価だの、所得だの複数の尺度の相互関係によって決まる。為替だの、物価だの、所得だの経済を決める尺度は水に浮かぶウキのようなものなのである。

この様な為替の働きは、人件費や物価、金利にも影響する。人件費、物価、金利の変動は、為替の変動にも影響する。
例えば、為替の水準は、人件費を押し上げたる、あるいは、押し下げる方向に働く。
自国の通貨価値が上がれば、所得が押し上げられ、輸入物価は、押し下げられる。世界水準からすれば、人件費は上がり、所得水準を平準化する方向に向かう。この働きによって世界市場の人件費や物価は、一定の水準に均衡しようとする。つまり、為替の変動は、平等な市場を実現する方向に収束する。

人件費は、新興国には上昇圧力が先進国には下げ圧力が、経常収支を介して国際労働市場に働く。


自給率、所得、内需、財政、金融。


人は、生きられる範囲内でしか生きられない。生きられる範囲と言うのは、生きる事が出来る条件が整っている範囲と言う意味である。経済を考える時、人間が生きる為に必要な要件の限界点を知る必要がある。経済は、人が生きるための活動なのである。

国際収支の動向を決める要素は、第一に、自給率、第二に、所得、第三に内需、第四に財政、第五に金融である。
自給率は、国際収支の基礎となり、所得は家計の元となり、内需は企業活動に左右され、財政は、その国のを配分を均し。
基本的に国際収支は、部門間の収支と部門間の関係によって決まる。
国際収支の大枠は自給率によって定まる。自給率は、生存圏を意味する。自給率の基礎は、生産力と人口である。生産力が人口を上回れば経済的に余力がある。生産力が人口を下回ると生存が危機的状況になる。資金の過不足を均さないと資金の循環が止まる。
所得は、分配の要である。所得で問題となるのは、平均と分散である。全ての国民にとって最低必要な所得が万遍なく配分されないと国民生活が成り立たなくなる。
企業は、収入と支出を司っている。企業は、収益と費用を調節する事で資金の流れ均している。内需が活性されないと企業経営は破綻する。企業が破綻すると所得が不安定になる。
所得の再配分がされなければ資金配分の偏りが是正されない。資金の過不足を融通しないと資金の回らなくなる。

経常収支は、その国の貯蓄と投資によって決まる。(「入門国際収支」 東洋経済)
金融収支は、その国の資金の過不足に基づいている。
経常収支と金融収支は表裏をなしている。

経常収支=国民総貯蓄-国民総投資
経常収支=総国民可処分所得-内需
国民所得(内需)=消費+投資+政府支出
以上の三つの恒等式が成り立つ。

経常収支は、国民総貯蓄と国民総投資の関係から求められる。総投資が総貯蓄を上回れば、経常収支は赤字になり、総投資が総貯蓄を下回れば黒字になる。この関係は、経常収支と金融収支の関係に反映される。

また、総国民可処分所得と内需との関係からも求められる。内需は、消費と投資と政府支出からなる。
可処分所得と言うのは、所得から公的で固定的な支出を除いたものである。
投資には、設備投資、住宅投資、公共投資があり、余剰の資金が海外投資に向けられる事になる。
総支出は、総消費と総投資と総貯蓄からなる。つまり、消費と投資と貯蓄の平衡をいかにとっていくかが経済政策の肝となる。
消費の何が、投資の何が景気を引っ張るのか、また、引っ張らせるのかによって内需の性格が変わる。そして、それによって国際収支の性格も変わるのである。

経常収支の黒字減らしに、単純に内需を拡大しろ、公共投資を増やせと言うのは暴論である。
個々の国の経済構造や状態によって民間投資を活性化させるべきか、公共投資に頼るべきかは違ってくる。間違った施策をとれば目的を達成できないどころか経済の仕組みそのものを壊してしまう事にもなりかねない。

特に、短期的で、投機的な資金の動きには十分注意を払う必要がある。この様な資金には、覚せい剤のような働きがあり、一時的な経済を活性化させるが、慢性化すると中毒を引き起こす事が度々ある。
短期的で、投機的な資金は、時として暴力的にまで一つの国家の基礎を破壊してしまう。

為政者や金融当局は、直接自分たちが操作できる財政や金融を使って速効的な対策を取りがちであるが、経済の仕組みは構造的で主導権を握っているのは実物市場。実物市場を担っている家計と企業である。そして、家計と企業の関係は、物価に決定的に反映される。家計の源は個人所得であり、企業は、設備投資にある事を忘れてはならない。個人消費と設備投資が活性化しなければ内需は本格的に拡大はしない。
今日の財政問題の核心は、民間投資が不活発でその分、公共投資に頼っている点にある。
投資の不足を公共投資に頼れば財政は圧迫を受ける。それを解消するための手段の一つは、増税によって家計から資金を移転する事であるが、それは可処分所得を減らす事になる。それは総所得の拡大、拡大再生産を誘発しない。
本筋は、民間投資を活性化する施策をとる事である。何が原因で民間投資が衰退しているのかその原因を先ず明らかにする事である。

投資は、長期的資金の働きと深いかかわりがある。つまり、安定し、恒久的な資金をいかに確保するかが重要な鍵を握っている。長期的資金を制御しているのが金融機関である事を忘れてはならない。その金融機関の経営が成り立たなくなりつつある。長期的資金で重要なのは時間的均衡である。金融機関の経営が成り立たないのは、時間価値が働かないからである。その大本はゼロ金利にある。

経常収支=金融収支
金融収支=投資収支+外貨準備
経常収支=対外純資産増減
国内総貯蓄-国内総投資=経常収支=投資収支+外貨準備
            =対外純資産(負債)の増減

この恒等式でわかるのは、国内総貯蓄が国内総投資を上回ると経常収支は黒字になり金融収支は貸越となって対外純資産が増える。逆に、国内総貯蓄を国内総投資が上回ると経常収支は、赤字となり、金融収支は借越しになり対外負債が増える。
つまり、黒字国と赤字国は表裏の関係にある。

経常収支は、金融収支に資金の流出入に反映されて対外純資産の増減につながる。
国際収支の状態が持続可能であるか否かか最大の問題である。経常収支の赤字が続くと外貨準備が枯渇して決済が滞る事になる。決済が滞ると生活に必要な資源を海外から調達する事が出来なくなる。
資金が不足したら他国から資金を融通してもらい以外にない。金融収支は経常収支の状態を反映するのである。故に、金融収支の状態がわかれば経常収支の状態も予測がつく。

経常収支の赤字が続くと海外に債務が累積される。債務が課題になると海外から資金を調達する事が困難になる。
問題とされるのは経常収支の赤字の性質である。所謂、周期的に赤字と黒字とを繰り返しているのか、一過性の性格の赤字なのか、恒久的な赤字なのかによって採るべき施策が変わってくるからである。
慢性的な赤字国は、経済の構造を抜本的に改善する事が求められる。

逆に慢性的に経常黒字が続くという事、対外純資産が累積している状態を意味する。対外的純資産が増加しているという状態は、国内における総貯蓄が総投資を上回っていて国内の貯蓄の一部が海外に配分されていることを意味している。

市場経済を動かしている市場取引は、相手があってはじめて成り立っている。言い換えると取引は、市場を構成する個々の要素を結び付け関係づける役割を果たしている。この事は、個々の主体単独では経済活動は成り立たないことを意味している。
我々は、企業の働きを一企業の決算書から読み取ろうとする。しかし、企業活動を正当に評価するためには、相手の動きも見なければならない。これは、経済を構成する部門の働きも同じである。財政赤字を財政と言う観点だけから見てもその原因は解明できない。単純に歳出を減らし、増税で歳入を増やせば解決できるという問題ではない。もっと構造的な問題なのである。

赤字国、黒字国の関係でも資金が回れば問題はない。ただ、累積する債権債務が解消できればと言う条件付きではあるが。
経常収支は、日本とアメリカ、中国とアメリカの間で貿易摩擦を引き起こす最大の原因である。
もう一つ忘れてはならないのは、貿易摩擦の根っこにあるのは、労働問題、つまり、所得の問題だという事である。

アメリカのような経常赤字国と新興国の赤字国とでは本質が違う。同じように扱うのは間違いである。
経常黒字にせよ、経常赤字にせよ、どの部門のどこに不均衡が生じているか、そして、それがどのような性格のものなのかを見極める必要がある。
個々の部門、また、部門間にある歪みを総合的に是正する必要がある。

景気対策として闇雲に公共投資を増やしたり、逆に、財政が悪化したから増税をし、あるいは、歳出削減をしても構造的問題が解決されなければかえって実態を悪化させてしまう。経常収支が赤字だからと言って関税を掛けたり、保護主義的な政策とって市場を閉じても国民生活に必要な物資が入ってこなくなったら国民生活そのものが成り立たなくなる。

公共投資は、市場に直結していない上に、拡大再生産に欠くならずしも結びつかない。また、家計の消費には影響がない。やはり経済成長を促すためには、民間投資と家計消費に資金が結びつかないと効果が期待できない。

実体的経済は、「お金」でつながっているわけではない。人と物によってつながっているのである。

慢性的な赤字国で問題になるのは、資金調達が難しくなった時である。
経常収支が赤字が続き、資金繰りがつかなくなった場合にとるべき手段としては、財政面からは、緊縮政策によって歳出を削減し、増税などによる歳入を増やす事である。
金融面からは、金融を引き締め投資を抑制し、民間企業の財務内容を改善する事である。そして、為替を引き下げて輸出条件を自国に有利にする事である。

外貨準備を増やす手段としては、第一に、通貨介入、第二に、対外資産運用、第三にIMF等、第三者からの支援である。

1997年タイを震源とアジア危機を例にとると、ドルペッグ制をとっていたタイバーツは、アメリカの為替政策、ドル高への転換によって経常収支が急速に悪化していた。急騰したバーツに対してヘッジファンドがバーツを売り浴びせ、支えられなくなったタイは、変動相場制に移行すると同時にIMFに支援を要請したのである。

この時とられたのが縮小均衡策である。財政と金融の緊縮政策によって財政、金融と経常収支の均衡を保とうとしたのである。
その結果、外貨準備の回復と資金流出に歯止めはかかったものの、タイだけでなく同時期に支援を受けた韓国、インドネシアは、厳しい景気後退に襲われ、不良資産を累増させ、インドネシアに至ってはスハルト体制の崩壊に結び付いた。
アジア通貨危機の際にも言えるが、経常収支だけを捉えていたら経済の実体が見えてこない。

アジア通貨危機の引き金は、為替の急激な変化があった。為替の急激な変化が何よって起こったのか。そして、変化は何に対して作用したのかを見極める必要がある。
タイは、通貨危機によって金融危機や財政危機に見舞われたが、金融危機や財政危機だったわけではない。金融危機は誘発され、財政危機は、結果的に生じたのである。表に現れた現象の背後に資金の激しい移動が隠されていた。世界市場を動かしているのは、資金の流れである事を忘れてはならない。

タイは、財政破綻をしたわけではなく、外貨準備が枯渇し、資金繰りがつかなくなったのである。結果的に財政も危機的な状態に陥った。経常収支が悪化しただけでも国家の主権は危うくなる。財政が破綻すればもっと深刻な事態になる事が予測される。

タイの通貨危機は、基本的にタイバーツの急落に端を発している。財政危機や金融危機引き金を引いたわけではない。バーツ急落の直接的原因とされるのは、アメリカの通貨政策の転換、ドル高政策からドル安政策への転換とそれが伴うアメリカの金利の上昇だと言われている。背後に短期資金の動きがあったと言われている。
対策を立てるのならば何がタイバーツを急落させ、それによってどこが一番影響を受けたかを明らかにする事である。この種の危機に際して一番問題となるのは、ステレオタイプの対応である。

通貨危機が起こる直前までタイは、東アジアの奇跡とまで言われた経済発展をしていたのである。それが一転してバーツの下落通貨危機を招いた。そこに至る過程を検証する必要がある。
自国の通貨をドルにペグしていた東アジアは、ドル安によって空前の活況を呈していた。それがドル高にアメリカが為替政策を転換した事で一転して苦境を呈するようになった。
タイの経済が急成長によって活況を呈していた。その要因が海外からの資金の流入である。それが経常赤字によって急速に市場から資金がひいていったという点である。

1982年に起こったメキシコの通貨危機は、タイとは違う過程を通った。70年代後半から80年代にかけてメキシコは、石油輸出の増大を前提にして石油の輸出収入以上の政府支出をし、不足する部分を通貨の発行と外国からの借入で賄っていた。貨幣の増発は、急速なインフレーションを引き起こしていたがドルに対して名目的為替レートを固定していたため実質的なメキシコペソは増加していた。しかし、財政支出を拡大していたために経済成長は高まり、アメリカをはじめ海外の資金を引き付けていた。
81年世界不況で石油収入が激減し、海外からの借入によって増やした。ペソの下げ圧力が強まり、急速に資金の流出が始まった。メキシコはペソ防衛のために為替に介入し続けたため外貨が枯渇し始め。82年2月にペソを切り下げたが根本的な歳出削減策などをとらなかったために、外貨が枯渇し、IMFの支援を受ける事になった。

タイやメキシコの礼を見てもわかるように通貨危機の原因は一律ではない。

市場を動かしているのは資金の過不足である。市場を揺るがすような資金の流れはたえず監視する必要があるように思われる。
タイのような場合でも、根本的にタイの経済をどうしたいのか、どの様な社会にしたいのかの構想や理念があったかでその後の考え方も展開も違てくる来たはずである。
例えば、緊縮財政と言ってどこをどの様に削減するかで財政の在り様も変化するのである。

後から批判したり、理由付けする事は容易い。しかし、事前や渦中で気が付いたとしてもそれを糺すのは困難である。また、未然に防げたとしてもその事を理解する者は少ない。結局、後手後手に回って事態を深刻にしてしまう。
バブルの時もリーマンショックの時も何かがおかしいと感じていたものは大勢いたのである。そして現在も…。しかし、大勢に流されてそれを糺す事が出来ない。


内需は為替を動かす要因である。


国際収支の変化を誘導するのは、内需である。ただ、内需は国内の経済状態や構造を反映したものである。
経常収支の黒字減らしに内需を拡大しろと言われても一筋縄ではいかない。大体、経常収支が黒字になるのは、それなりの理由があるからである。その原因を明らかにしないで、無理やり内需を拡大しようとしたら、経済の基礎的要件を損なう危険性が高い。

経常収支の黒字を減らすには、内需を拡大する事だというが、一体、内需とは何か。内需を支える要素がハッキリしなければ、内需を拡大しようがない。公共投資を上乗せすればいいなどという安易な考え方は、国家財政を破綻させるだけである。

内需を拡大するためには、国内の市場構造を明らかにする必要がある。内需の核は、所得と支出の関係なのである。

為替相場を変動させる基礎的な要件(ファンダメンタルズ)を表す指標には、財政収支、経常収支、インフレ率、生産性上昇率、経済成長率、失業率などがあり、これらの指標は、海外部門、財政、企業、家計、金融などの各部門が関わっている。個々の部門の関係と働き、位置などを明らかにしないと内需の実態は掴めない。実態が明らかにできなければ対策も立てようがない。

景気がよくなると所得が上昇し、輸入も増えるから、円安方向に圧力がかかる。しかし、一筋縄に行かないのが為替である。景気がよくなったから即円安とはいかない。日本の景気がよくなると中央銀行は、金融を引き締めようと金利を上げる。金利が上がると海外の資本を引き付け、ドル売り、円買いが増加し、円は高くなる。

市場には、実物市場と金融市場があって金融市場、実物市場、各々国際市場と国内市場を持ち、国内市場は公的部門と民間部門があり、民間部門には、法人企業と家計がある。
経常収支は、主として民間部門が担い、資本収支は、金融部門が担っている。
この構図から見えてくるのは、交易の主役は民間だという事である。

また、金融市場と実物市場は均衡し、ゼロ和である。国際市場と国内市場は均衡し、ゼロ和であり、国内市場も均衡してゼロ和である。資本収支と外貨準備の和と経常収支は均衡しゼロ和である。この関係が経済全体の均衡を保っている。これらはすべて恒等式であり、市場の構造を表している。

経済は数学である。


財務省

日本の経常収支は、貿易収支が強く、それに、若干の所得収支が加わり、サービス投資は、赤字と言うのが基調であったが、90年代に入ると所得収支が拡大し始め、また、2000年代に入る貿易収支が縮小し、2011年には、貿易収支が赤字に転じた。
これは、日本経済の構造的な変化による。

資金の過不足は、貯蓄と投資の不均衡から発生する。しかし、資金の過不足には、フローとストックがあり、時間価値は、このフローとストックの関係に左右される。
貯蓄と投資(ISバランス)は、位相である。即ち、結果であり、状況である。原因ではない。貯蓄と投資が不均衡なのが、経常収支の黒字として現れるのだから、日本は、家計の貯蓄を減らすべきだというのは、乱暴な話である。家計貯蓄が蓄積されるのには、それなりの原因がある。また、高度成長期で人口が増加している局面で貯蓄が増えているのと、市場が成熟し、低成長、人口が減少している時に貯蓄が増えているのでは貯蓄の性格に違いがある。
なぜ、貯蓄と投資が不均衡になるのか、その原因が重要なのであり、不均衡の原因が一時的な要因なのか、また、過渡的な要因なのか、恒久的要因なのか、周期的要因なのか、構造的要因によるのか、それによって採るべき施策が違ってくる。
また、経常収支の不均衡の要因は、部門間の不均衡によるものばかりでなく、国際的分業の偏り、資源の偏在、人口問題、その国の民度等、多くの問題が複雑に絡んで起きている。特に、個々の国が何を必要とし、何が不足しているか、その国の経済が成り立つ為の基礎的要件と国家間の力関係、経済力、国力の差に左右されるところが大きい。一概にISバランスの不均衡に原因を帰すのは危険な事である。

日本が決定的に不足しているのは、石油である。故に、原油価格の乱高下に振り回されるのである。石油が量的に交易の占める割合は、考えられているほど大きくはないが、その与える影響が大きいために、輸入がなければやっていけない国のように錯覚されている。しかし、日本は貿易依存度は、2017年のUNCTADの世界ランキングをみても207国中185位27.4%と世界的に見てもそれほど高くはない。ただ、依存度が低いと言っても、石油の様な基幹物資の輸入依存度が高いと、世界市場が安定しないと自国の経済も安定しない。だから、国家戦略が問われるのである。

貿易依存度とは、国民総生産(GDP)に対する輸出および輸入額の比率をいう。貿易依存度を見ても日本は高い方とは言えない。日本は、島国で食料自給率が低いから貿易依存度が高いのではと言うのは錯覚である。

主要国貿易依存度
国名 輸出 輸入
シンガポール 138.70% 126.10%
マレーシア 73.1 65.9
オランダ 66.5 59.5
タイ 53.5 59.4
サウジアラビア 50.2 21.9
韓国 42.9 39.5
ドイツ 36.9 32
スイス 31.7 28
メキシコ 30.2 30.3
ロシア 25.1 15
カナダ 24.9 25.1
中国 24.1 21.2
フランス 20.2 23.9
イギリス 17.8 24.1
オーストラリア 16.5 15.2
インド 16.2 24
日本 14.6 17
ブラジル 10.8 10.9
アメリカ 9.4 13.9
世界国勢図会・第26版(2015/16)

貿易依存度は、率だけでなく、貿易量や貿易額と言った規模を見て見ないと解らないし、貿易品目の重要度や輸入、輸出相手国も見て見ないと解らない。依存率が低くても輸入している資源が国家間存亡にとって欠く事の出来ない資源ならば輸入が出来なくなるというのは、深刻な問題である。
典型は、石油である。石油は、国家の存亡にかかわる資源であり、そのほとんどを海外に依存している以上、日本にとって交易の自由は、最重要戦略となるのは必然的な事である。

貯蓄は、負債でもあり、投資は資産になる。
負債や資本として調達した資金を生産手段である資産に投資して、収益に転換し、収益から費用を引き出して分配を実現したうえ、収益から費用を除いた余剰収益である利益を資本に畜帰して長期負債や資本の返済原資とする。この一連の過程によって資金の還流と分配、生産を促すのが、経済主体の役割なのです。
この過程と資金の過不足の関係が資金を循環させる。故に、民間企業の場合は、この過程のどの部分に問題があるかを見る必要がある。

投資と貯蓄の不均衡と言っても家計と、民間企業、財政とでは、貯蓄の在り方や投資の在り方が違い、国内の貯蓄も投資が、不均衡だと言っても、部門間のどの部分がどの部分に対して、不均衡なのかを明らかにする必要がある。
経常収支が黒字なのは、内需が足りないからだ。内需を増やせと言われてもそう簡単に片付く問題ではない。大体、内需とは何を指すのかも明確にされていないのである。
内需を増やせという理由だけで、金融政策や財政政策が採られたら、金融の均衡も財政の均衡も失われ、制御不能状態に陥ってしまう。
特に、財政は、国家理念に基づく者であって経常収支を均衡させるために歪めたら本末転倒である。そのような事をしたら立ち直れないほどの歪みを生じさせてしまう。

各国の為替は、その国の国内経済を基本的に反映したものである。その国の事情、人口や資源、部門間の資金の過不足や生産力、景気などか基礎となって経常収支は形成される。
故に、その国の経済市場抜きに経常収支を語っても意味がない。
その時々にそれぞれの国で何が不足し、何が余っていて、何を調達しなければならないのか。その個々の国の経済事情や状態が経常収支に反映し、世界市場を形成していくのである。
個々の国の内情を無視して自国の都合だけを押し通そうとすれば、交易は成り立たなくなり、最悪の場合、戦争になるのである。

突き詰めると戦争の原因は経済にある。


経常収支と産業構造



国際収支と経済の発展段階を結び付ける考え方がある。国際収支と経済の発展段階は、密接な関係がある。しかし、経済の発展段階は一様ではない。

経済の発展段階の形も一つではなく、いろいろな形が考えられる。それぞれの国の発展段階へ形に合わせて国際収支も、為替水準も変わる。
経済の発展段階は一律ではない。国際収支を考える上で中心となるのは、その国の経済状態である。他国の都合によってその国の交易が左右されるのではない。この点を勘違いすべきではない。
先ず、その国の状態、前提条件、実状である。近年、新興国や旧社会主義国の多くは、外国資本によって産業を興す例が多い。しかし、それが普遍的だと考えるのは、早計である。

各々の国が産業を興す際、前提となる条件が違う。まず、その国にどのような資源があるか。それは鉱物資源なのか、天然資源なのか、人的資源なのかによっても興業は違ってくる。
特に、金銀といった貨幣の質となる資源、石油の様な資源を持つ国と持たざる国とでは条件が違う。

問題は、資金である。資金の過不足、そして流れが産業を興す鍵を握っている。資金の流れが資産と負債、債権と債務の関係を生み出し、それが産業の基盤となるからである。ここでいう資金とは、資金の元となる物を言う。そして、資金の元となる物を貨幣に変換する仕組みである。そして、その仕組みは為替制度の根幹をなす事なのであり。資本主義経済の核心となるからである。それ故に、明治維新やフランス革命と言った、近代国家の黎明期において、金銀の保有量が、国家の運命を分けたのである。
つまり、兌換紙幣(貨幣制度)、金本位制度、国債、金融制度、株式会社、複式簿記、商法、市場といった仕組みが近代国家の礎となったのである。

興業においてもう一つ重要なのは、何を収益源とするかである。
軽工業の様な資本のかからない産業でまず基盤を作るのか、国家資本や大資本によって重工業に基づく興業をするのか、石油や希少金属等の自国の資源を元にして産業を興すのか。
また、何を主体にして経済体制を構築するか。民間企業を核とするなら、市場の整備や金融資本を育てる必要がある。また、財政を要にするのならば、国家構想に基づいて効率的に公共投資を行う事が求められる。家計に主導させようとすれば安定的な雇用を確保する必要がある。海外の資本を活用するのならば、海外資本が魅力を感じるような環境整備が求められる。
いずれにしても国の基盤は一様ではなく、一定の発展段階を踏むわけではない。

興業は、決して海外交易ありきではない。国内の市場を整え産業基盤を構築してからでも遅くはないのである。問題は、最初から将来への展望や国家構想を持っているかである。

無論、国家体制は決定的な意味を持つ。産業を発展させるためには、開かれた市場が前提となるからである。

資本収支の面からも、経常収支の面からも国際収支は産業構造に重大な影響を与えている。

為替の変動は、経常収支に決定的な影響を与える。
それでなくても貿易には、物的にも金銭的にも波がある。その波が貿易構造の変化を通じて産業構造に重大な影響を与えている。貿易構造の変化が産業構造の変化を促しているのである。

ニクソンショックやプラザ合意後の円高が日本経済や産業に決定的な影響を与え、その後のバブル発生と崩壊を招いたのが典型的である。

為替の急激な乱高下は、輸出産業、輸入産業の別なく産業構造に深刻なダメージを与える。為替の変動による影響を和らげるための何らかの緩衝装置、仕組みが必要である。


財務省 国際収支総括表

経常収支の中で産業構造に直接的な影響を及ぼすのは、輸入と輸出である。
内需の産業に直に影響を与えるのは、輸入である。為替の変動は、直に輸入物価を動かす。為替の変動は、輸入原価に影響する。
それに対して外需の産業に影響を与えるのは、輸出である。為替の変動は、輸出価格、輸出売上に直に影響する。
そして、内向きの産業か外向きの産業かは、為替の変動にも決定的な影響を受ける。
注意しなければならないのは、為替の変動は、輸出、輸入に対して正反対な作用をするという点である。

為替の変動と貿易収支は直接的に連動しているとは限らない。多少の時差が生じる事は、考慮しておく必要がある。
ただ、それも前提や状況によって違ってくる。


財務省 国際収支総括表


85年以降、貿易収支は、6年程度の周期で循環的拡大と収縮を繰り返してきた。
この様な循環的な変化の背後には、為替の変動が作用していると思われる。

80年前半から86年第2四半期までアメリカの財政赤字、金融引き締めなどを背景にドル高円安が進行し、対米輸出が伸び原油価格の下落で輸入金額が大幅に下落した事によって黒字が拡大した。
86年第3四半期から90年第4四半期、プラザ合意後の円高。為替換算効果により輸出ともに金額は減少したが、バブル拡大により内需が急拡大して、輸入が増えたため経常収益は黒字が縮小した。
91年第1四半期から93年第1四半期、輸出は横ばいだったが、バブル崩壊で輸入が減少し、経常収支は黒字が拡大した。
93年第2四半期から96年第4半期は、内需が拡大する中で円高が進行し、海外の設備投資が伸び悩み、輸入も鈍化したため黒字は、縮小した。
96年第3四半期から98年第3四半期アジアの通貨危機によってアジア向け輸出が大幅に減少したがそれ以上に輸入が減少したために黒字が結果的に拡大した。(「入門 国際収支」日本銀行国際収支統計研究会著 東洋経済社)

この様に、経常収支に決定的な影響を与えた要素は、為替、原油価格、アメリカの景気、アジアの通貨危機、内需である。



財務省 国際収支総括表

貿易収支は、輸入と輸出の兼ね合いによる。そして、為替の動向は、相反する影響を産業に与える。為替の変動は、産業の収益を激しく揺さぶる。この様な為替の変動に対して産業の特性も考えずに一律的に対応していたら、為替が変動するたびに産業衰弱していってしまう。また、貿易摩擦も引き起こし、深刻な国家間の対立にもなる。最悪の場合、戦争にまで発展をする。

近年、アメリカは、自国の雇用を守るために、輸入をいかに規制するかに躍起になっている。
このアメリカの動きは、日本の輸出産業に対して決定的な影響を与えている。

輸入を抑制する手段には、第一に、関税障壁と非関税障壁がある。非関税障壁には、数量制限や課徴金、また、補助金、参入規制といった規制、公共事業などに対する参入制限、煩雑な手続きや届け出などが指摘されている。また、広い意味では、商慣習や慣習、仕来りなども含まれる。



貿易摩擦


貿易摩擦は、戦争や移民問題と同じ根っこを持つだから厄介なのである。簡単に片付かない。全ての人を納得させることが難しいからである。

国際社会は、常に、貿易摩擦に悩まされ続けてきた。国際紛争の裏には、必ずと言っていいほど貿易摩擦が隠されている。
侵略戦争や覇権主義の裏には、貿易を独占しようという意図が隠されている。
貿易による国際的力関係の延長線上には、独立か隷属かがかかっている。
貿易は、国家存亡の問題であり、生きるか死ぬか生存を賭けた問題だからである。
貿易は、国民生活に直結した問題である事を忘れてはならない。
貿易問題は、単に国際的問題と言うだけでなく、移民問題などを通じて国内の問題に発展する。

最近の移民問題を見てもわかるように、移民難民よりも移民を受け入れる側が不満を持つ。それが排外主義を生み出し、やがて、民族主義や国家主義、独裁主義の温床となる。また、高関税による保護主義へと発展し、世界が分断される事が懸念される事態に発展する。だから貿易摩擦も移民問題も、そして、戦争も根っこは同じなのである。

国家間では、政治協定や軍事同盟が際立っているように見えるが、国家間の協定や条約の実質的な部分は、経済、中でも貿易にかかわる問題である。特に今問題になっているのは、関税同盟である。関税同盟には、二国間の者と多国間のものがあり、各々の国の政治戦略や軍事戦略と深く関わっている。

貿易摩擦の本質は、競争力ではなくて雇用である。仕事が減る事が問題なのである。
経済成長や発展、内需を担っているのは、労働生産性が低いと言われる労働集約的産業である。そこが効率化され過ぎると経済の活力が失われ、雇用が損なわれるのである。
経済の仕組みの主たる役割は分配である。
生産性ばかりを追求しても貿易摩擦問題は解決しない。問題の本質にあるのは、生産性の問題だからではないのである。
いくら産業が栄えてもそこで働く人々の生活がよくならなければ、経済はよくならない。その点を相互に理解しないと貿易摩擦の抜本的解決は望めない。

問題を解決しようとした場合、問題の本質を正確に理解しておく必要がある。
まず、何が問題なのかを理解しないで闇雲に答えを出そうとしても解答に辿り着く事は難しい。
そもそも、前提が間違っていたら例え答えがあっていたとしても後々厄介な課題を残してしまう。
目的が明確でないと、答えを導き出そうにもどちらの方向に向かっていけばいいのか検討すらつかない。
目先の現象に囚われていたら、その背景にある病巣や構造を見失ってとんでもない方向に走ってしまう。
問題を問題としてしかとらえられなければ、偏見や先入観から逃れられなくなり、独断を招く。
貿易摩擦は、その典型である。

貿易摩擦の本質とは何か。まずそれを見極める必要がある。一般に表面に現れた貿易収支の不均衡にばかり論点がいきがちである。しかし、貿易収支を引き起こしている要因を明らかにし、それを抜本的に解決しない限り、いつまでたっても貿易摩擦の火種は消えない。
貿易摩擦の鍵となるのは、雇用、所得、価格(物価)である。間違ってはならないのは特定の産業や企業の利権ではないという点である。例え、国内の産業を保護しようとして関税を上げてもそれで問題が解決するわけではない。貿易は、国民生活に直結しているのである。仮に一企業の収益が改善したとしてもグローバル化した今日では、企業は、より高い利益を認めて多国籍化して対応してしまう。部分的に有利に見えても全体的に歪みがあれば、拠点を移してしまうからである。

貿易摩擦の根底にあるのは、市場間の歪である。この点を忘れてはならない。
そして、市場の歪の根底には、国民生活がある。その国民生活を構成する要素が、雇用と、所得と、価格なのである。
雇用、所得、価格の裏には、失業者問題、貧富の問題、物価の問題があるからである。働き口があって、適度の所得があって、適正な価格が維持される事で生活水準は維持されるからである。

故に、労働条件や市場など規制を標準化していく必要があるのである。スポーツが公平に行われるのは、全ての国が同じルールを共有しているからである。現在の国際交易は、基本的な要件があまりに違い過ぎる。その違いは、雇用、所得、物価に反映される。極端に低い報酬や劣悪な労働条件で生産された商品が低価格で大量に売られたらまともに働いている人の雇用や所得を維持しようとしている国は公正な競争など最初から望めないのである。

基礎的要件を標準化してもすぐに公平になるかと言えば、貧富がなくなる事を余り期待してはならない。なぜならば、貧富と言うのは意識の問題であり、相対的な事だからである。
物質的に豊かになったら貧富の格差はなくなるかと言うとそうとも言えない。むしろ、貧富の差は大きくなるかもしれない。
ただ、貧富の格差の障害で決定的なのは、貧困家庭が生活ができなくなるまで格差が広がる事である。富める者と貧しき者は、同じ社会にいる事を忘れてはならない。
個々人の持つ属性が違うし、置かれている前提条件にも左右される。
格差はなくならない。差がある事が問題なのではなく、何に基づく差で、正当な基準、理由が示されるかが肝心なのである。
全ての人間を一律同等の条件にしたら平等が実現するかと言うとそれほど単純な事ではない。先に述べたように、一人人の属性も置かれたいる状況も違うからである。また、自己実現の手段も違う。
故に、差を付けられることが問題なのではなく。理不尽な理由で不当な差を付けられることが問題なのである。
この問題を直視しないと国家間の根本的な格差は是正できない。

男と女は違う。男と女の違いを正しく認識したうえでないと男女差別はなくならない。男女を公正に扱うという事は、女性の男性化を意味しているわけではない。例えていえば、幼児と二十代に若者とを同じ条件で競わせたら二十代の若者に分がある事は明らかである。逆に、二十代の八十代のの高齢者を競わせるのも二十代の若者に分がある。
男女を対等に扱うというのは、スポーツでいえば、男も女も隔てなく、同じ場で同じ基準で戦わせることを意味しているわけではない。ただ、女性だけで競って、入場料で入場数に変わりがないというのに、賞金に差があるような事が問題なのである。
スポーツの世界は、特に、男と女の違いが大きく出る。しかし、男と女だという理由で、受けるべき処遇待遇に差がつけられることが問題なのである。平等は、存在にかかわる問題であり、差別は、認識にかかわる問題なのである。

この様な格差や差別の問題は、国家間だけではなく国内にも存在する。人種だの、性別だの、宗教と言った理由で差別的な待遇があれば、それは正されなければならない。それは、市場間の歪の本となるからである。国内外にある歪みが是正できなければ、貿易摩擦の抜本的解決は望めない。貿易摩擦の根本は国民生活にあるのである。

国家間の問題を考える時、よく競争力、競争力と競争の事しか念頭にない人がいる。
そして、ひたすらに先端技術や高度な技術を必要とする分野ばかりを問題にする。
しかし、貿易摩擦で問題とされるのは、根本には、人の問題であり、雇用の問題である。
つまり、競争力ではなく、国際分業の問題なのである。また、国際分業だと割り切って望まないと解決はできない。
何もかもと総花式の議論になって何を守って、何を譲るかの線引きができないからである。

何かというと高付加価値、高付加価値と言うが、付加価値の高い仕事に向かない人間もいるのである。
近年、知的労働や先端技術の技術者ばかりが脚光を浴びるが、肉体労働や単純労働の必要性が低下したわけではない。
プロスポーツの世界も芸能界もスーパースターだけで成り立っているわけではなく。大多数は、平凡な人たちである。
しかし、その平凡な人たちだって生きていかなければならないし、豊かな生活をおくる権利はある。
人には、それぞれ適性がある。コンピューター技術者や医者に向いている人もいる。農業に向いている人もいれば、トラックの運転に向いている人もいる。船乗りに向いている人もいれば、会計技術に長けている人もいる。各々が各々の才能を伸ばせる職種を選べるような仕組みにするのが、経済の仕組みの目的なのであって、階級や差別を生み出す事が目的なのではない。

また、地域的な差もある。それぞれの国には、それぞれの国の事情がある。それぞれの国が置かれている事情、条件は違うのである。交通の要衝にある国、資源が豊かな国、内陸に位置する国、半島の国、島国、大きな国、小さな国、砂漠の国、南国、酷寒の国、人口密度が高い国、皆それぞれの国の条件は違うのである。それを一律に扱う事こそ差別である。

資金効率ばかりを追い求めていたら経済の本質は見失ってしまう。
経済は、人々を豊かにする事が目的なのである。利益ばかりを追い求めているうちに、豊かさを追求する事を忘れてしまったら、人々は貧しくなってしまう。

よく時代が変わり経済の在り方が変わったら時代にあった仕事に転職すればいいという経済学者がいる。
しかし、それは机上の空論である。仕事は、その人にとって人生であり、簡単に技術や知識を習得できるものではない。世の中の都合だけで転職しろと言われてもおいそれとできるものではない。仕事は、自己実現の手段だという事を忘れてはならない。
そういう学者は、大学の数を減らすから明日から土木作業をしろと言われて簡単に転職できると思っているのだろうか。
人それぞれに転職という者がある。どの仕事が尊くてどの仕事が卑しいという事はない。要は、どの仕事に向いているかである。
だからこそ、貿易摩擦は、「お金」の問題と言うより、人、仕事の問題なのである。
それを「お金」の問題だと勘違いしていたら抜本的解決は得られない。

国家間の取引は、何もしなくても調和している事でも、放っておけば調和する事でも、政治的指導者達の手によって調和させる性格の事なのである。


多国籍企業


国際交易が盛んになると民間企業は、多国籍化を検討するようになる。
なぜ、企業が多国籍化を目指すかと言うと第一に、競合の問題である。市場が国際化すると他国の企業と競合になる。第二に、為替の問題である。第三に、リスク分散である。第四に、経済の効率化の問題である。第五に、税制や会計制度等の制度上の問題である。以上のような動機によって企業は多国籍化を目指すようになる。

そして、多国籍化は、民間企業に治外法権的な部分を生み出す。多国籍企業は、複数の国家をまたがって経営活動をするために、国家間の法や制度の違いによっていろいろなメリットデメリットが生じるからである。多国籍化によって生じる障害を企業が主体的になって変えようとせざるを得なくなる。その典型が税制度ある。タスクヘブンの存在は、公然の秘密である。パナマ文書がその一端を垣間見せた。
しかし、税制度は、国家財政の基盤である。国家にとって消長の源泉ともなる。それを企業の都合によって歪められたら、税を国家経済の基盤とする独立国家にとって、国家の主権を侵されるのと等しい忌々しき問題である。看過できる事ではない。
そうなると多国籍企業がある種の政治権力として主権を持ち始める可能性がある。それが既存の国家と、時として対立するようになるのである。

多国籍企業の戦略によっては、産業の空洞化を招きかねない。政変の裏で暗躍している多国籍企業の噂も聞く。
しかし、企業が成長すれば今日のような経済体制では否応なく多国籍せざるを得ない。多国籍企業と言っても今時は、大企業ばかりとは言い切れず中小企業も多く含まれ、それこそ、事務所一つで切り盛りしているような企業さえ見受けられる。
経済は、どんどん、どんどん国境の壁を押し流しているのである。

多国籍企業がどの国を拠点としているかが、重要になる。どの国に、また、何に対して忠誠を誓っているのかが判然としなくなる。多国籍企業の国籍が問われるのである。そして、多国籍企業の存在が新たな階級、世界的な階級を生み出す下地にもなってきている。

プロスポーツの、あるいは、芸能界のスパースターには国境がなく、彼等は、経済的にも政治的にも世界水準の上に立っている。

国際取引が企業の内部取引に相殺されるといった事も往々にしてある。また、為替の変動や制度の違い、会計制度の違い、手続きや取引の仕組みを活用して利益操作をしているとみられてもおかしくない事象が多々見られる。マネーロンダリングの疑いをかけられることも度々ある。
山一証券が破たんした時、オフショア取引による飛ばしが話題となった。
また、知的財産の帰属先や技術、情報の漏洩問題にも深く関わっている事がある。
情報通信技術の発達はますますこの傾向に拍車をかける。情報を制御する事が困難になりつつある。

多国籍企業は、世界標準をも支配しつつある。

国境なき医師団の様にいい意味でも悪い意味でも国境がなくなっていく。ただ、その反動として国家主義や民族主義の台頭も懸念される。

多国籍企業は、政治的に中立であろうとすればするほど政治的にならざるを得ないという皮肉な状態に置かれる。
石油メジャーは第二次世界大戦の時に、敵国にも石油を売っていたのではと糾弾された。また、湾岸戦争の時もフランの戦闘機同士が空中戦をするといった事態があった。

多国籍企業の多くが兵器産業に関わっているという事もある。

ユーロドルのように国境を越えた資金の流れが生まれ、一国では制御する事が出来なくなり、中には、ヘッジファンドの標的にされ、自国の力だけでは、自国の通貨の価値を維持できなくなる国も出現している。それが通貨危機の引き金を引く事さえある。

資金の流れは、一国の存亡を危うくもする。世界経済の不安定材料でもある。

しかし、多国籍企業の存在が世界を裏で支えていることも事実である。表の仕組みと裏の仕組み、これらが、一体となって協調した時はじめて世界経済は安定した力を発揮する。
裏は決して闇でも悪でもない。表に出ない部分なのである。



国際税制


交易が盛んになり、国家間の往来が盛んになると個々の国の税制の整合性が問題となる。
国家間の税制の整合性をとるためには、税とは何かを明らかにする必要がある。
税とは何かを問う事は、国家とは何かを問う事でもある。


(注)1. 年度は各国の会計年度(但し,EUは暦年)。
   2. 関税負担率=関税収入額/総輸入額として計算。
   3. EU以外の諸外国:OECD「REVENUE STATISTICS」及び「International Trade」による数値。
   4. EU:EUROSTATによる28加盟国の数値(当時未加盟の国も含む)。



税は国家の在り様を定め、大枠を構成する。
税の根本の役割は、所得の再配分である。そして、国家目的、建国の理念を実現するための原資、国民の生命と財産を守る為の原資。故に、国民国家の国民にとって税は、義務であると同時に権利でもある。国民であるための証でもある。

資金の過不足は、貸し借りとしてストックに蓄積する。資金は、貸し借りだけでは、債権と債務が一方的に累積してしまう。所得を再配分して資金の偏りを是正しないと資金が回らなくなる。その為に税制がある。

先ず、課税対象をどの部分に設定するのかが問題となる。フローを対象とすべきか、ストックを対象とするのか。
税の目的の一つは、資金の過不足の補正にある。資金の過不足がどこに現れるか、フローなのか、ストックなのか。フローならば、フローの、どこに、どの様に、どの様な形で表れるか。ストックならば、ストックのどこに、どの様に、どの様にして現れるか。そして、それが歪みにどの様な影響を与えているかを明らかにする必要がある。
経済のフローを表す総所得は、総消費と総投資、総貯蓄から構成されている。所得税は、所得に直接働く。累進課税も可能な税である。消費税は、消費に上乗せされる事で、総貯蓄や総投資を圧迫する働きがある。
資産税、相続税は、ストックに直接働く。
法人税や取引税は、市場取引に作用する。法人税は、粗付加価値に働く。また、雇用者報酬も粗付加価値に作用する。これは、所得に影響する。取引税は、市場取引に広く影響する。
関税は、経常収支に直接働く。
そして、いずれの税も、部門間の資金の歪みや財政の働きを通じて経常収支に直接働くのである。


財務省


関税は、市場に垣根を作ると言われ、内外に両刃の影響与える。海外交易に影響を及ぼすのは、関税ばかりではない。
2013年輸入品に対して課せられた税は5兆円、その内、関税は、8,742憶円、ほとんどが消費税である。
国家間や部門間の税制の違いは、個人所得や家計消費、法人収益や利益等に決定的な差を生じさせるからである。また、為替の変動は、個人所得や消費、法人の収益や利益にも影響を与える。何を課税対象としているかによっても差が生じる。
また、資産税や相続税は、各国間のストックの歪に直接影響するからである。
関税ばかりが取り上げられる傾向があるが、免税の働きも忘れてはならない。


財務省

資金繰りに困った国が徴税権を担保して借金をする事がある。国債の裏付けとして徴税権を上げる者がいるが、徴税権は、国家の根幹をなすものである。徴税権を担保して国債を発行すれば、財政が破たんした時、主権をも失うのである。徴税権と言うのは、主権そのものなのである。そして、その権力は主権者より発効している。

税で重要になるのは、課税対象と働きである。
税が経済に対して有効に作用する為には、課税対象によって資金の偏りのどこをどの様に補正しようとしているのかを明らかにする必要がある。
税は、課税対象の違いによって、所得税、消費税、取引税、法人税、資産税、相続税、関税などに分類される。故に、税の目的を知るためには、所得税、消費税、取引税、法人税、資産税、相続税、関税の違いをよく理解する必要がある。また、免税の意味や働きも知る必要がある。
また、直接税と間接税の働きの差も理解しておく必要がある。

税は、強制的に徴収される。納税者が納得がいかなければ、税は強奪である。故に、徴税権を行使する際には、国家の正当性が問われるのである。
税の正当性は、主権者による。
かつて税は、権力者の為にあった。それが今日でも税は、国家に奪い取られるものと言う意識を拭い去ってはいない。
国民国家では、税は、国民の権利と義務、そして、主権を守るために使われる。
故に、国防は、税の使い道で最も重い。自分の生命と財産を守ってもらおうという意識のないものは、税の義務を負わない。しかし、その者は、国家に自分の生命と財産を保全、保証を求める権利はない。故に、納税は義務であり、権利である。

税で重要になるのは、課税対象と働きである。
税が経済に対して有効に作用する為には、課税対象によって資金の偏りのどこをどの様に補正しようとしているのかを明らかにする必要がある。
税は、課税対象の違いによって、所得税、消費税、取引税、法人税、資産税、相続税、関税などに分類される。故に、税の目的を知るためには、所得税、消費税、取引税、法人税、資産税、相続税、関税の違いをよく理解する必要がある。
また、直接税と間接税の働きの差も理解しておく必要がある。

税の根本が所得の再配分にあるのならば、誰から、何に対し、どの様な考えに基づいて徴収し、誰の何に対して再配分するのか。それが重要になる。そして、この税の在り方は、国家理念そのものを具現化しているのである。

税は、資金の流れや過不足の歪を是正する事が目的である。日本は、余剰資金が家計に溜まり、民間企業、海外部門の資金不足が解消されつつあってその分、財政が資金不足に陥っている。財政の資金不足を金融的手段で融通しているのが現在のわが国の構図なのである。それが極限に達すると財政は、破綻してしまう。
家計に蓄積している金融資産を財政に回せば、財政上に累積した負債は、解消できる。負債に税金はかけられないから、資産に税をかける事になる。その手段としては、資産税と相続税である。しかし、単純に資産に税をかけても対極にある負債が手つかずに残れば、今度は、家計に負債による負担が増えるだけである。バブルが崩壊した後の民間企業が不良債務の解消に苦しんでいまだに不況から抜け出せないようにである。

資金の過不足は、フロー、流れに沿って補正していくのが効果的である。フローは、生産から所得、所得から支出、支出から消費と段階を経て一定方向に流れる。生産から消費に至る過程のどの部分にどの様な手段、手続きで徴税するかによって、資金の歪みを補正するかによって資金の流れる方向が変化する。

生産にかかる税としては物品税などがある。物品税は、製品に合わせて課税を変える事が出来る。所得税は、所得と言う入り口にかかる税で、収入に合わせて税率を変える事で、所得の歪みを是正する効果がある。消費税は、実質は支出の局面で課税される税で、広く課税する事が出来る。ただ、一律に税金が負担する事で、逆進性が問題とされる。

税の本質は、税の使い道にある。税を国民のために使わなければ、税は国民国家における正当性を失う。
税は、必要とされるところに使われなければならない。
軍は、消費である。軍に対する投資は、消費に対する投資である。
公共投資は、社会資本に対する投資である。景気対策が本旨ではない。景気対策は副次的な事である。公共投資ありきの投資は無駄遣いになる。税の無駄遣いは、財政だけでなく経済の根幹を危うくする。公共投資は、あくまでも国家理念、国家構想、国家戦略に基づいて行われなければならない。

かつて、税は、国王や特権階級を養うための費用、外敵から国王や貴族守るための経費として徴収された。しかし、今日の国民国家の税は、国民の権利と義務、生命と財産の安全を守るために使われる。

租税回避行為として従来から問題とされているのは、タックスヘブンの存在である。タックスヘブンを表面化させたのは、パナマ文書の出現である。また、山一證券が破綻した際、飛ばしなどの行為にタックスヘブンが使われた。
最も留意しなければならないのは、一部の富裕層や特権階級による大規模な租税回避行為は、国家の存在意義すら危うくしかねない事である。
世界的な規模の階級が形成されてしまう危険性すらあるからである。そのような階級は、世界、人類を分断してしまう。だからこそ、個々の国と世界市場での税の在り方が問われているのである。

国際税の目的は、国家間の税制度の歪を是正し公正な税制を実現する事にある。もう一つ重要な目的の一つに国家の主権を維持するという事がある。
なぜ、国際税制が必要なのか、それは、国家の主権が関わっているからである。税制度は国家の主権に関わっている。国民国家、国民によって成り立っている。国民が、どの国家に帰属するかによって国家の主権は確立される。自由人には、本来、国家選択の自由が保障されていなければならない。国民がどこに帰属するかは、国民の愛国心による。国家は国民の存在意義の源でなければならない。
税制は、国民国家の主権にかかわる。税制が海外の勢力によって不当に歪められると国民の権利と義務が侵され、法の正義と構成が失われるからである。つまり、各国の主権が守られるような形で税制の正当性を保護する役割が期待されるのが国際税制である。
この様な目的に沿うためには、統合的、統制的仕組みにすべきなのか、調整型の税制にするのか、税の主体は基本的に主権国に持たせあくまでも補完的なものにするのか。そこが問題となる。

資金は、一定の手続きによって生産された観念の所産である。
資金と言う物質的実体があるわけではない。我々が目にしたり、手に触れるは、資金を実体化したものであり、資金そのものではない。資金と貨幣とは別の存在である。
「お金」は、採掘されて生産される資源でも機械で生産できる物でもない。「お金」は機械で印刷すればできるものではない。紙幣は、確かに、印刷すれば、いくらでも生産できる。しかし、印刷すればすぐに「お金」として通用するわけではない。紙幣が「お金」として通用するためには、それなりの手続きが必要なのである。

政府が国債を発行し民間金融機関や企業が引き受け、それを担保に中央銀行が銀行券を発行し、金融機関に資金を貸し出す事で市場に資金を供給する。
国債を担保とする事で銀行券の発行量に制約を設け、同時に財政にも連動させる。

金融機関に仲介させないで、行政府と中央銀行の間で相対取引をさせると相互牽制が効かずに、銀行券の発行量の箍が外れ、通貨の流量が制御不能になり。また、財政規律も失われる。ゆえに、間に外部機関をかませる事で銀行券の発行量を制御するのである。
国債、財政、通貨、金利がこの仕組みによって結びつけられている。

金融機関は、更に、貸付金を預金に還元し、信用を創造して通貨を増幅させる。また、貸付金は、民間企業や家計に対して投資され、民間企業や家計の負債を形成する。これら一連の手続きによって預金、貸付金、負債、国債、通貨、金利が完結づけられ、家計、財政、民間企業が関連付けられる。この様にして、家計、財政、民間企業、金融の各部門は、関連付けられる。

国際機関が直接税を徴収する事になると世界人ともいうべき存在を前提としなければならないからである。将来、世界政府のようなものが出現した場合は必要となるかもしれないが、その場合は、世界政府の理念、正当性が検証されなければならない。

国家間の歪を是正する為に関税を多用するのは感心しない。それは、国家の主権を護持する事にはならないからである。
国家が守らなければならないのは、国家としての存在意義である。関税の働きを否定するわけではない。ただ、関税を報復的手段や他国を市場から排除するための武器として使われた場合、関税本来の働きが失われてしまうからである。
関税は、国内市場の規律を守るため、公正な競争を維持する為にこそ用いられるべき税である。過度な関税は、かえって自国市場の規律を失わせ、産業を脆弱なものにしてしまう。肝心なのは、自国と他国との関係であり、互いにどの様な役割を演じるべきかなのである。

武力による侵略には、体をもって抵抗する事が出来る。しかし、経済的な侵略は目に見えない形で侵略してくる。だからこそ、強い意志をもってはねのけなければならない。

国家財政は、国家の生命線を握っている。財政主権こそ国家の主権、独立の本源である。政治家は、挙って財政に責任を負わなければならない。人気取りのために、政治対策として財政を利用するのは、国政を愚弄する行為である。一命を賭して守るべき事である。
国家財政に責任を持たない宰相は、亡国の宰相である。

金融収支と外貨準備


日本の国際収支関連統計が2008年に公表されたIMFの国際収支マニュアルに準拠して2014年1月に改訂された。
この改定によって国際収支関連統計では、従来の国際収支の枠組みが変わり、資本収支に対する定義も変更され、資本収支という用語自体が廃止された。この事で、学会を含め多少の混乱がある。

従来の国際収支は、「経常収支」、「資本収支」、「外貨準備増減」、「誤差脱漏」に分類されていた。新しい統計では、「経常収支」、「資本移転等収支」、「金融収支」、「誤差脱漏」に分類されるようになった。
「資本移転等収支」は、資本収支に似ているが「資本収支」の一部であった「その他資本収支」を独立させたもので、「資本収支」そのものではない。また、それまで「資本収支」から除かれていた「外貨準備」が、金融収支に含まれた。その際、「外貨準備増減」の正、負の扱いが逆転した。また、「金融収支」という用語は、従前のアメリカの教科書の訳語として違い意味で使われているものがあるから注意する必要がある。
要するに、従来の「資本収支」と言う用語をやめて、その中から「その他資本移転収支」を独立させ「資本収支」の中に「外貨準備増減」を加え「金融収支」に置き換えたという事である。

しかし、これらの変更は、あくまでも統計上の都合によるものであって経済の実体に沿うものではない。
知りたいのは、資金の過不足の状態と流れる方向である。
何を正の値、負の値とするかは、相対的であり、自分の立ち位置、即ち、どの経済主体によって立つかの問題である。肝心なのは、資金の過不足、流れる方向であり、基本的に主体から流入する量を正とし、流出する量を負とする。その意味では、「出超」か「入超」か、「流出超」か「流入超」かが、重要なのである。
要するに、何を正の値とするか負の値とするかは、経済主体の経済的位置、運動、経済の量(エネルギー量)を何によって特定かなのである。
この観点から必要に応じて金融収支、資本収支と言う用語を使い分けたい。紛らわしい時は、その都度、言葉の定義を確認していきたい。

統計も、学問も、合目的的な事であり、目的に応じて使い分ける必要がある。肝心なのは、目的であり、どの様な目的で統計を活用しているかを常に明確にしておくことが肝心なのである。

金融収支も、資本収支も基本的には同じ方向の働きとして考えている。故に、古い資料に基づいている場合は、資本収支、新しい資料に基づいた場合は、金融収支と使い分けているという程度で考えてもらえればいいと思う。
外貨準備は、支払準備を意味する。即ち、決済の支払いのための準備である。貯蓄と言う意味合いが強い。資本重視が重視されていた時代は、外貨準備にそれ程重きを置いていなかった。外貨準備が注目され始めたのは、通貨危機や金融危機の際に外貨準備高が標的にされてからである。それは、外貨準備の中に国際通貨の本質が隠されている事が通貨危機で露になったからである。
つまり、資本収支にせよ、金融収支にせよ、決済が肝なのである。

通貨の売買は、基本的に支払準備のために行われる。そして、通貨の売買自体が為替の変動要因である。
支払準備のための資金と言うのは、決済のための資金である。これが枯渇すると国家間の決済ができなくなる。



財務省 外国為替・国際金融入門 川本明人著 中央経済社


市場は、資金の過不足によって動いている。経常的貿易によって生じる資金の過不足を補うのが資本収支である。外貨準備は、決済用の支払いを準備する。
今日の国際市場における決済は、基軸通貨が主として担っている。
これが、資本収支を考える上での前提である。

国家が資金不足に陥った場合、国債を発行して資金を調達する事になる。問題は、資金の調達先を、即ち、国債の引き受け手を海外に求めるか、国内で賄うかが、財政の持続性に対して決定的な意味を持つ。

国債が担保するのは、徴税権である。国内で資金を調達する場合、納税者を対象とするが、海外で引き受け手を求める場合は、非納税者が対象となる。この差が財政の持続可能性に対して決定的になる。
市場を動かしているのは、資金の過不足である事は、資本収支も変わりない。問題は、資金余剰主体が国内に存在するか否かである。
一つの国として資金不足なのか、国としては資金不足に陥っていないのかが資本収支に現れる。
資本収支が黒字という事は、資金を海外から調達していることを意味している。
この場合は、資金の貸し手、即ち、投資家が海外にいるかいないかが、鍵を握っている。そして、彼らが担保するのは、徴税権と将来の経済成長なのである。

財政が資金不足でも資金収支が赤字、つまり、資金を海外で運用する余力がある場合は、国内の部門間に何らかの歪みがあることを意味している。この様な場合は、国内の部門間の歪を是正する事が急務となる。

日本の金融収支で注目すべきなのは、2003年の大規模為替介入の際、投資収支が黒字、即ち、資金不足に陥った事である。
このとき、日本は、経常収支も資本収支も黒字になり、その分、外貨準備が膨らんだのである。同じような事象は、2013年の「異次元の金融緩和」を実施した際も見られる。ただ、この時は、経常収支の現象により外貨準備は、2003年の時ほど外貨準備は膨らまなかった。




資本収支と外貨準備は、国際的決済の仕組み上に成り立っている。
今日の国際金融市場には、中央銀行の役割をする銀行は存在しない。
故に、国家間の決済は、国家間で決められた取り決めに基づいてネットワーク上で行われる。
世界市場で中央銀行の役割を果たしているのは、市場と国際的な決済機関である。

決済の仕組みには、いくつかの形が考えられる。一つは、一般にある中央銀行を核とした金融制度である。中央銀行は、第一に発券機関である。第二に、銀行間の決済を取り仕切る期間である。第三に、行政機関に資金を供給し、あるいは、決済を代行する機関である。三番目の行政機関と言うのは、世界政府が存在しない。しかし、国連の様な国際機関は存在するからその費用を管理する機関としての機能を持つ事はできる。ただ、いずれにしても中央銀行が存在しない以上三つの機能を世界市場で果たす機関はない。
二つ目は、個々の国の中央銀行を結び付け連携させる機関によって一定の取り決めをし、ネットワークを構成する事である。現在の世界市場は、この形である。

問題は、発券機能である。世界の交易を円滑に機能させるためには、国際市場に流通する「お金」を制御する必要がある。その為には、決済をどの様な基準に基づいてするかが鍵となる。現在は、個々の国が決済用の通貨、外貨を決め、それを準備する事で、国家間の資金の過不足に備えている。その外貨準備として主として用いられるのがアメリカドルである。

この様に特定の国の通貨を基軸通貨として用いる以外に、世界共通の決済通貨を定め、その通貨を介して両替する仕組みもある。現に一部では、この様な決済用通貨は、用いられているが、世界中に定着しているわけではない。
現在は、アメリカドルを基軸通貨とした体制が一般的である。

基軸通貨制度を採用した場合、基軸通貨国以外の国は、常に、決済用の支払準備資金を蓄えておかなければならない。それが外貨準備である。外貨準備が枯渇するとその国は自国の通貨水準を制御する事が出来なくなる。

通貨危機は、外貨準備の枯渇によって引き起こされる。


世界経済のネタ帳
SNA(国民経済計算マニュアル)に基づいたデータ


基軸通貨は、常に資金余剰主体であり続ける。なぜならば、基軸通貨は、必要に応じて通貨を発行できる権利を持っているからである。基軸通貨国は、支払準備、外貨準備を持つ必要がない。

基軸通貨国は、基軸通貨を準備する必要がない。代わりに、基軸通貨国は、必要に応じて自国以外の国に通貨を供給する必要がある。

基軸通貨国は、自国外に自国の通貨が流通する事を許さざるを得ない。
この事によって自国の市場の外に自国の流通市場が構成される。アメリカドルに関していえばユーロドル市場である。

付加価値が変化しなければ、資金の過不足は、資金の遣り繰りによって解消するのが原則である。故に、金融収支と経常収支は均衡するように調節されている。
経常収支は売買取引の結果であり、資本収支は、貸借取引の結果である。

海外取引というと、一般に経常収支、売買取引を思い浮かべる。しかし、その裏には、金融収支、即ち、貸借取引が隠されている。
この経常収支と金融収支の関係こそ「お金」の働きの本質を現している。


資金循環表 日本銀行


売り買いの陰には、貸し借りの関係が隠されており。しかも、売り買いは一時的な関係であるのに対して、貸し借りは継続的な関係である。
つまり、長期的な働きだけを考えると売り買いより貸し借りの方が影響力が強い。
本来、借り手は、貸し手よりも弱い立場に立つが、海外取引においては必ずしもこの関係は成り立たない。なぜならば、背景として武力が働いているからである。
国際社会では、結局、武力を独占した国の思想によって支配される。これが厳然たる現実である。自国の正義を貫きたければ、自力で自国の独立を守り抜く必要がある。

売り買いというのは、その時点時点で決済がすんでいる取引であるのに対し、貸し借りというのは、支払が先延ばしされている取引を意味する。債権は債務なのである。
金融資産は、経済全体から見ると有利子負債の一種である点を見逃してはならない。実体的裏付けな掛ければ結局負債が積み上がっている事に変わりないのである。

バブル時代の不良債権がどうなったかというと民間不良債権が金融機関の不良債権に転移し、更に政府の不良債権に転移したのである。

貨幣取引の根本は、物とお金の出入りである。
不足する資源を海外から調達しようとした場合、その為の資金がなければならない。
資金を獲得するためには、自国内の余剰の資源を輸出して外貨を稼ぐ必要がある。
ここに海外交易の意義がある。

輸出するための根源は、物的資源が人的資源かである。
人的資源とは労働力を意味する。



国際市場


国際市場とは、本来、オリンピックの会場のようなところ、場であるべきなのである。オリンピックの会場は、あらゆる人種、民族、宗教、政治体制、経済体制を超えて一つのシステム、ルールの基に公平に行われる。統一されたルールと組織があるからオリンピックは、開催する事が可能なのである。
そのオリンピックも近年では、規模が大きくなりすぎて開催するためには、相当の経済力が必要とされるのは、皮肉な事であり、現在の経済を象徴している。
オリンピックは、事業である。何か事業をしようとしたら費用が掛かる。投資もしなければならない。そして、最初はその費用や投資が経済を活性化するのである。しかし、次第にその負荷が大きくなり、経済性が損なわれるのである。
我々は、その時に原点に帰り、その本来の目的を見直す必要がある。

国際市場は、最初から不均衡なのである。それを「お金」の仕組みによって均衡させようというのだから、決済の仕組みには、過重な負荷がかかる。それを前提として考えなければ、国家間の溝は塞がらない。
国際収支は、国際市場の不均衡を正直に反映している。

熱い国と寒い国とでは、条件が違う。産油国と消費国でも前提条件が違う。砂漠の国と草原の国とでは、生活環境や食糧事情が違う。海に囲まれた国と海に接しない国とでも基本的条件が違う。
文化や宗教が違えば生活様式も違ってくる。この様な不均衡、違いは、放置すれば自然に解消されるという性格のものではない。また、何もしなくても見えざる手によって均衡する性格のものでもない。不均衡な状態を見ないふりをして、ただ単純に扱えば経済の意味がなくなる。同じ条件でないものを同じ条件にする事はできない。それこそ不平等である。重要なのは、人間の意志なのである。

持てる国と持たざる国の間に格差があるのは、明らかである。その格差をどの様にして是正していくのか、その為に、市場の仕組みがある。単に格差を広げるだけならば市場の仕組みは成り立たなくなる。
国際市場は、不均衡である事を前提とし、交易の仕組みによってその不均衡を是正する事が一番の役割である事を忘れてはならない。そして、不均衡を是正する手段が貨幣なのである。この点を誤り、市場の在り方、「お金」の使い方を間違うと市場の仕組みや「お金」は、かえって不均衡を拡大し、格差を広げる事になる。

国際市場は、世界的規模で財の配分を行う場である。
国際市場は、財の配分を行う過程で国際分業を促し、世界経済を深化させている。

市場経済には、水平的均衡と垂直的均衡がある。国際市場は、水平的均衡と垂直的均衡によって成り立っている。
水平的均衡とは、国家間、通貨圏間の均衡を言い、垂直的均衡等、貿易収支や資本収支と言った働きの均衡である。更に、部門間の均衡も加わって、国際市場は、三次元的空間を構成している。

国際市場は、水平方向にも、垂直方向、部門間にも零和だという性格がある。ゼロ和に設定されているという方が正しいかもしれない。

国際市場の働きは、国際的な財の配分、通貨価値の調節、世界経済の水準の標準化、各国の生活水準の均衡、資源や財、資金の過不足の均衡等である。

国際交易は、所得と支出の均衡の上に成り立ち、資金の過不足は、国家間、あるいは、通貨圏間の貸し借り依って調整されている。

経済成長を促すのは、国内市場が拡大している事と相対的に低賃金である。相対的と言うのは、他国と比べてと言う意味であり。低賃金は相対的な競争力を高めているという点と所得が向上する余地があるという事である。市場の拡大は、人口がふかくかかわっている。
市場が拡大している時は、負債や過去の損失は、成長によって先送りする事が出来るが、市場が縮小している時は、清算を迫られる。
市場経済や貨幣制度は、財の分配を効率化する過程で成立した機構、仕組みである。
分配の仕組みは、生産、分配、消費の一連の過程の中で効用を発揮する。

故に、成長は、発展途上の国にこそ興る。成熟し、市場が飽和している国は、経済成長が停滞する。
経済が成熟した国は、国内の市場の在り方を縮小均衡型の経済構造に切り替える必要がある。つまり、量から質への転換である。

また、経済成長を促すのは、国民の生活水準の向上と市場の拡大に伴う、収益、所得の上昇である。言い換えれば一定の生活水準が実現し、市場の拡大が止まれば経済成長は停滞する。

世界市場は均衡を求めるから先進国の所得や物価、収益に対して下方圧力、即ち、付加価値に対する圧縮圧力がかかり。それに対して新興国、途上国には、所得、物価、収益に対して上昇圧力、付加価値に対する拡大圧力がかかる。この相反する力が先進国と新興国、途上国との間に緊張関係をもたらす。

国際間の緊張関係が高まったら、双方の国の市場の構造を変革する事で調和させる以外にない。先進国は、経済成長が停滞し始めたら、市場の在り方を、量を重視する従来の体制からから質を重視する体制へと転換するすべきなのである。つまり、廉価、低級品から高価、高級品へ、より付加価値のある財への転換である。

成長には、限界がある。ある一定の水準に達したら、成長は止まると割り切れれば方策の立てようもある。しかし、いつまでも自分たちの限界を認めず成長や競争力のみを求めていたら破綻するのは目に見えている。
成長の限界を認めるのは、諦める事を意味するのではない。

成長を基礎とした経済体制は、満ち足りる事は、悪であり、人々が常に飢え渇く事を追求する。その為には、市場は、修羅場と化すのである。強欲や使い捨てが美徳となり、質素節約は悪徳となる。無秩序に支配され、礼節は失われる。
生活を豊かにするのが目的だったはずなのに、いつの間にか「お金」儲けが目的化している。

先進国は、豊かさを実現すると貧しさを求める事になる。そして、向上心は貪欲へと変質したのである。

先進国は、途上国や新興国にも貧しさや貪欲を求める。しかし、イスラム教国は、信仰に従って生きようとする。中東の紛争の原因がそこにある。

先進国は、自分たちの価値観を新興国や途上国に押し付けようとするが、それは先進国のエゴである。

先進国は、自分たちが常に優位に立てると思い込んでいる。
先進国が新興国や途上国より競争力を付けようと思うのなら、新興国並みに所得や生活水準を下げるしかない。しかし、それは総所得を下げる事である。

新興国、発展途上国だから経済は成長し、先進国だから停滞する。多くの人がこの点に関して錯覚がある。
先進国だから常に経済的に優位にあるわけでも、勝者になれるわけでもない。
仮に成長だけを経済の目標とする国があれば、その国にとって成熟する事は間違いだという事になる。しかし、経済が成熟するという事は、一定の生活水準に達し生活が豊かになったことを意味するのであるから、悪い事であるはずがない。
それを悪いとするのは、豊かさの真の意味を理解していないのである。
要するに満ち足りているから、働く意欲が低下しているのである。経済を成長させるのは、生活水準を高めたいという欲求である。満ち足りれば生活水準を今以上に高めたいという意欲が失われるのは当然の帰結である。

会計上の出来事は、均衡を前提としている。しかし、現実の世界は不均衡である。
不均衡な世界を均衡した世界に当てはめようとしているのだから、最初から無理がある。
その無理を承知のうえで構築されているのが国際市場であり、その上に成り立っているのが国際収支である。
為替や国際収支を解析しようとする時、為替や国際収支の変動は、公式通りにはいかない事が多い事を念頭に置いておく必要がある。

国際市場を構成する国家は、各々固有の事情や条件を抱えている。

人口、人件費の水準、経済体制、生活水準と生活様式、労働条件、物価水準と構成、資源、産業、地理的要件、インフラストラクチャー、教育水準、民度、歴史、文化、宗教等、個々の国が抱える問題や条件は違う事が大前提である。

貿易の不均衡の大部分は、前提条件の差から生まれる。
前提条件が違う国家間では公正な交易は成り立たない。

完全雇用を前提とした議論は、完全雇用が成り立つ市場を前提としている。しかし、世界には完全雇用が成り立たない国が沢山ある事が問題なのである。

国際市場は、常に偏り、歪んでいる。この偏りや歪みが世界市場を形成する原動力なのである。
資源が有り余っているが、食料や人手が足りない国もあれば、資源は何もないが労働力には、余剰がある国もある。原材料は不足しているが、製品は余っている国もある。労働環境や人件費、一年に必要とする食料の量や質も国によってまるで違ってくる。この様な不均衡を補う目的で市場は成り立っている。最初から個々の国の条件は同じなのではない。持てる国と持たざる国の差は歴然としている。

この様な資源や人口の偏在を前提として国際交易は考えるべきなのである。資源や人口は、各国一律平等に与えられているわけではなく。それぞれの国、皆、違うのである。何もせずに放置すれば一様になるというのではない。
公正な交易を成り立たせようとしたら、世界市場共通のルールや規制が必要となる。

公正な交易を実現するためには、一定の条件を共有する必要がある。例えば労働条件や市場規制などが同じ条件でない限り、公正な交易はあり得ない。一方の国が劣悪な労働条件によって人件費を低く抑え、一定の基準の労働条件を維持しているために相対的に人件費の高い国に低価格の商品を提供している場合、同じ条件で競争をさせて場合、劣悪な労働条件によって価格を低くしている国が優位に立つ。この様な事を許容すれば、労働条件の悪化は防げなくなる。

サッカー、野球、テニス、ゴルフ、陸上競技、相撲、競馬などはスポーツしての基本が違う。基本が違うスポーツを同じ土俵で扱うのは間違いである。
国際市場を成り立たせているのは、国家間の不均衡、偏りである。
いい例が石油である。石油の生産地は、特定の地域な限られているが、消費は世界的である。ただ消費量は、国情によって違ってくる。
かつては、石油を巡って戦争がおき、石油危機の際には、政治的に石油は使われた。この様に、石油は、単に価格だけで動かされているわけではなく、多分に政治的力が働いている。また、政治的な力によって価格も左右されてきた。

今日、巨大な規模の多国籍企業が世界市場で活躍している。中には、一国経済をはるかに凌ぐような企業すら出現している。また、マイクロソフト、アマゾン、グーグルのように国際的ネットワークを持っている企業すらある。国際ネットワークは、経済のインフラストラクチャを形成し、経済の在り様そのものまで変化させるだけの実力がある。
一国の内部では、独占は防げても、世界市場でカルテルや独占市場が成り立った場合は、一国の力では防げない。
この様な状態では、国際市場をこれから、どの様な機関、機構によって、いかに制御するかは、国境を越えた課題になりつつある。

国際市場には、前提となる条件を平準化しようとする力が働いている。前提となる条件は、個々人の生活の前提となる条件であり、特に、所得に係る事である。所得が低い国に対しては、所得に対して上昇圧力がかかり、所得が高い国に対しては、下降圧力がかかる。それは、物価に反映する。物価の低い国に対しては、物価の上昇圧力となり、物価の高い国には物価の下降圧力がかかる。また、労働条件が劣悪な国には、労働条件の改善圧力になる。それは相対的であるから、設備投資と人件費の比率も平準化されていく。
また、基準や制度も平準化しようとする圧力が市場にかかる。
ただ、これは平準化であって平均化ではない。平均と言うのは、代表値であって平均化されることが前提条件を均衡させるとは限らないからである。
平準化される過程でいろいろな交易摩擦を引き起こす。

国際交易を成り立たせているのは、国際分業である。国際分業は、各国の経済市場を平準化する働きがある。
生活水準が低い国も国際交易によって生活水準が引き上げられる効果が期待できる。

国際分業は、個々の国の生活水準や生活様式を変える。国際分業が深化し、交流が深まると相互の経済が似通ってくる事になる。その結果、国際分業は、個々の国の生活水準や様式を平準化する働きが生じるようになる。
そして、国際市場を通じて所得や労働条件も平準化されていく事になる。

国際市場で鍵を握るのは、通貨管理であり、国際決済システムである。
現在の国際市場には、中央銀行に相当する機関は存在しない。現在の国際金融は、国際的取り決めとネットワークを基礎とし、主要国、特にアメリカドルを基軸とした通貨管理が採られている。主要国の通貨を基軸通貨にするという事は、国際決済の支払準備として基軸通貨を一定程度保有する事を意味する。それが外貨準備である。

国際金融が中央銀行を持たないという事は、各国の金融当局は、国際市場において発券銀行、政府の銀行、銀行の銀行を持たないという事で、個々の国は、個々の国の責任で国際金融を管理することを意味する。
国家も破産する事があることを意味しているのである。

国家間の経済的力関係は、通貨単位が相互に上下する、即ち、為替相場によって調節される。為替相場は、その国の経済の実力を象徴していると言える。

間違ってはいけないのは、国際収支は、その国々の経済力、国力を反映した事であり、自動的になる事ではない。資源もなく、軍事力もなく、有力な産業もなければ経常収支が他国より劣るのは、必然的な結果であり、最初から予測できる事である。

国際交易が強国の論理だけで成り立つものである限り、経済本来の役割、人々の生活を豊かにし、平和な世界を構築するという役割は国際交易を通じては果たせない。

交易の根本は、物と「お金」の交換である。


交易は、物と「お金」との関係を如実に表している。

交易というのは、物と物、「お金」と物、「お金」と「お金」を交換する事を言う。
「お金」と物との交換を売買という。今日、交易というと売買を主としていう。

海外交易の基本は、国内の余剰な財を売って「お金」に換える。財を売って得た「お金」で国内に不足する物を輸入する。
「お金」が足りなければ、貯蓄した「お金」を取り崩すか余分にお金を持っている主体から借りる。
本来、海外交易の基本はいたって単純なのである。

個々の主体から見ると売り買い、貸し借りでも、中立的な第三者からすると「お金」と財の交換、移動に過ぎない。
買い手から見て買いであり、売り手から見れば売りなのであって中立的な第三者から見ると相殺されているのである。つまり、取引の総和は、最初からゼロなのである。ただ、個々の主体からすれば「お金」の増減と財の減増という形で認識される。
つまり、個々の主体における「お金」の増減によって「お金」と財は、流されているのである。

現代の経済は、生産に偏っているきらいがある。
しかし、経済の本質は必要性であって生産性ではない。
経済において重要なのは、必要な資源は何で、どれくらい必要としているかである。どれだけ生産できるかは二義的な事である。しかし、生産力に余剰があった方が分配はしやすい。しかし、余剰にも程度がある。度外れた余剰な生産力はかえって景気を悪化させる。現代社会は、不足よりも過剰な事の方がより深刻なのである。
人々が生きていくために必要な資源は何か、また、その資源がどれくらい必要なのかである。

人々が、生きていくためには、あるいは、人々が人間らしい生活を営むためには、必要な資源は、何か。そして、それがどれくらいの量を継続的に調達し続けなければならないのか。
不足している資源は何か、それをどこから調達しようとしているのか。
そのうえで、調達した資源をどのように配分するかが問題なのである。
過不足をいかに調節するか、そこに市場経済の真骨頂がある。

また、余剰な資源をどれくらい持っているのかの問題であり、それは、不足な資源をいかにして調達するかの問題の一環としてとらえるべき事柄なのである。

経済の問題を単に生産の問題だととらえていると経済の本質は見えてこない。現代社会は、経済を生産の問題だと思い込んでいる。だから、ひたすらに生産力だけを追い求め、それを価格に反映してきた。
それが、「お金」の意味も歪めているのである。

  
公益財団法人 関税協会


基本的に国際市場は、人、物、金の過不足から成り立っている。自国に不足している資源を他国から輸入し、自国の余剰の資源を輸出する。それが交易の基本である。
何が自国にとって不足しているか、何が余剰なのかの基礎的要件は、所与である場合が多い。
交易の前提条件には、人、物、金がある。人は、例えば人口である。物は、資源である。「お金」は、外貨準備高などである。
そして、人と物の不均衡が交易の前提条件になる。自国の国民が生きていくために必要な食料が確保できなければ、国民は、餓え、餓死するものまで出てくる事になる。自国民が生存していくのに必要な食料が国内で調達できなければ他国から調達する以外にない。この様な前提の上に国際市場は成り立っている。

故に、国際市場を成り立たせているのは、人、物、「お金」の関係と状態なのである。
例えば、石油の全世界の生産の量はどれくらいあって、その生産は、どの地域のどの国がしているのか。そして、全世界の消費量はどれくらいあってどの地域に、どれくらい必要なのか。それをどの様に配分するのかを決めるのが国際石油市場である。

つまり、国際市場の働きを決める要素は、第一に人口である。第二に、生産量である。第三に消費量である。単位消費量と人口の積が生産量を下回れば、余剰であり、上回れば不足している。不足した資源を調達するためには、余剰に生産された資源を売って「お金」にし、その「お金」で余剰の資源を持っている国から調達するのである。それが交易の基本である。

そして、国際市場は、収入と支出の均衡の上に成り立っている。収入は、経常収入と資本収入からなる。

自国の不足している資源と余剰の資源が均衡していれば、貿易収支も均衡する。しかし、往々にして自国が輸入しなければならない資源の経済的価値と輸出できる資源とが一致せず、輸入が過剰になったり、輸出が過剰になったりする。

第一の人口は、生産手段としての人口と消費者としての人口の二つからなる。生産手段としての人口は、労働人口を指し、労働人口とは、労働によって所得を得られる人口を言う。それに対して消費人口とは、全人口である。
労働人口が生産する資源から自国で消費する部分を除いた部分が余剰の資源であり、輸出に回せる資源である。

輸入と輸出が不均衡であれば、足りない部分は、借金をして調達しなければならなくなる。借金をしても、将来、輸出が輸入を上回り借金を返せるようになればいいが、返せなければいつまでも資金繰りを他国に依存し続けなければならなくなる。それは、経済が他国に依存している事を意味し、国家の独立そのものを危うくする。だから、どこで、どのようにして帳尻を合わせるかが、重要になるのである。

この様な点を鑑みると経済で鍵を握っているのは、人口と為替の動向、そして、債務残高である。債務残高は、金利と支払利息の分母となる。

市場は、無数の小さな市場が集まって
一つの全体を作っている。


世界市場は一つではない。いくつもの市場が組み合わさり、あるいは重なり合って一つの全体を形成している。
市場は、地域別、産業別、職種別に階層的に形成されている。また、産業横断するような市場もある。
全体を構成する一つひとつの市場は、各々、固有の構造や歴史、性格を持っていて一律一様に扱う事はできない。

垂直的に積み重なった市場もあれば、いくつもの市場が組み合わさる事でできる市場もある。
また、水平的に結びつけられている市場もある。
また、金融市場のように仮想空間上の市場もある。
一番、根幹となるのは、一つの国を単位とした市場である。国家毎に市場の特性は違ってくる。例えば政治体制、経済体制、通貨制度、金融制度、会計制度、労働環境、労働条件、生活水準、文化、歴史、宗教などの前提が違うからである。

市場は、特定の属性に基づいて一つの集合として見る事が出来る。
市場の属性は、市場を構成する財の特性によって決まる。好例が石油である。石油は、原油から精製、販売と言う過程に沿って市場が形成され、それぞれの局面によって市場の属性は変化する。
また、石油は、地政学的リスクや為替の変動の影響にたいして敏感に反応する。この様な石油と言う財の持つ特性は、石油市場の性格に決定的な影響を与え、それが石油市場の属性を形成する。
また、食料品も生鮮野菜、肉、調味料とそれぞれの財の特性によって市場の属性は制約を受ける。

一つの産業も一つの市場とは限らず、いくつかの市場が、製造、卸、小売りと言った段階毎に階層を形成している場合もある。部分を構成する市場は、規模や範囲が、同じ産業内でも一律ではない。
例えば石油業界は、原油開発、石油精製、小売りという段階ごとに独立した市場が形成されている。そして、段階ごと独立した市場は、階層化している。階層化した市場は、規模も範囲も異なる。原油市場は世界的規模で横断的市場を形成している。精製市場は、一般に国家単位で形成されている。小売りは、一定の地域に限定されている場合が多い。原油や精製市場は、資本集約的であるのに対し、小売市場は、労働集約型であるというように市場の性格も違ってくる。

故に、全体の市場は、部分を構成する市場の相互作用によって成り立っている。市場全体に共通する基盤と個々の部分固有の働きや構造を正しく理解しないと適切な施策は行えない。

財、各々が市場を形成していると言っても過言ではない。また、市場も取引に段階があれば段階の数だけ形成される。魚には魚市場があり、魚の仲卸場があり、小売市場がある。花には、花の市場が、機械には機械の市場が、石油には石油の市場が、株には、株式市場が、証券には証券市場がある。労働市場は、他の財の市場と本質的に違う。為替市場は、為替市場として独立している。
金融市場にも国内市場と国外市場があり、また、短期金融市場と長期金融市場があり、短期金融市場にも、銀行間市場やオープン市場がある。オープン市場にも短期国債市場、CP市場、CD市場、債券現先市場などがある。
また、市場の構造や働きは、国によっても違うし、地域によっても違いがある。歴史的な差もあり、文化的、宗教的な差もある。市場そのものが一種の文化である。
市場は、常に技術革新されている。特に、情報通信の近年技術革新は、画期的な変革を促している。
この様に全体の市場は、無数の市場の組み合わさり、重なり合って構成されている。しかも、その一つひとつの市場には、固有の構造や規則、手続きがある。

しかも、個々の市場の構造や働きは一定しておらず、経済の状況や国際情勢、政治体制の変化、戦争や環境の変化等によって変化し続けている。
これらの市場を一律の政策によって制御しようとするのは、無謀である。
規制とは何か。いつ、どの様な目的で、どの様な状況で、何を、どの様に規制しようとしたのか、規制を定めた時に比べて現在は、どの様に前提条件が変化したかを検証せず、ただ規制を緩和すれば万事解決すると結論づけるのは、あまりに短絡的である。魚と株式を同等に扱う事はできないのである。況や、規制は全て撤廃しろと言うのは、無政府主義に偏っている。

ローカル市場と世界基準との整合性がとれないから規制そのものをなくせというのは、暴論である。それ以前に、ローカル市場と世界市場の線引きをどこに引くかが問題である。
市場全体を形成する個々の市場には、個々の市場固有の歴史や仕組み決まり事があり、それを一概に不合理だと決めつける事はできない。確かに、中には、不合理で不効率の市場もあるが、だからと言って規制は悪だからなくしてしまえというのは無茶である。
第一、部分を変える事は、全体にどう影響を与えるか見通せない場合が多い。変革を怖れてはならないが、改革を焦るあまり根本や本質を見失ったら元も子もない。

市場を結び付けている触媒の役割を果たしているのが貨幣であり、貨幣制度である。
貨幣制度の基盤の一つが金融性であり、貨幣の生産、供給、消費を制御している。

市場取引は、基本的に売り買い、貸し借りからなる。
経済主体を動かしているのは、また、市場を制御しているのは「お金」の出入りである。

世界市場は幾つかの枠組みで保たれている。
世界市場は立ち位置によっても様相が違ってくる。一つの国を中心にしてみれば、輸入市場と輸出市場の別が生じる。
つまり、市場にも内と外の差が生じる。

市場には、人、物、「お金」の市場が個々独立してある。
「お金」の市場には、為替市場と国内市場がある。
物の市場には、例えば資源エネルギー市場があり、資源エネルギー市場は、更に、石油、天然ガス、原子力等に細分化される。

TPPは、政治的問題である。政治的と言うのは、政治判断と言う意味ではなく。政治体制や経済政策の持続可能性の問題だという点である。ある一定期間、政治体制や経済政策が持続手儀る国でないとこの種の条約は足並みをそろえるのが難しい。

人の市場は、労働市場であり、労働者の移動の自由がどれくらいあるかによって市場の性格も違ってくる。
無数の市場があるから、仕事が生み出されている。
現代人は合理化すれば経済効率が高まると錯覚している。
一見無秩序で混沌とした市場だからこそ人々の生活力が発揮されてきたのである。
整然とした倉庫のような空間からは何も生み出されない。乱雑で、雑然とした空間、人々の生活感、活力が感じられる市場だからこそ経済力は発揮されるのである。

競争は、市場を動かす働きの一つである。絶対的なものではない。
また、市場の構造も一様ではない。
ただ、市場から競争がなくなれば、市場は市場としての機能を失う。
この様に個々独立した物の市場を結び付けているのが金融市場であり、為替制度である。

規制緩和は万能ではない。入り組み個性的な市場をただ規制を緩和すれば機能的になると考えるのは、短絡的すぎて馬鹿げている。

一つの政策、一様な適用で効果を発揮するというのは間違いである。
環境、状況に合わせてきめ細かな政策を採用する必要がある。

市場の状態は、成長発展するだけではない。縮小均衡の状態にある市場もある。産業革命以降、技術革新によって多くの市場が生成発展してきた。しかし、その一方で多くの市場が縮小均衡に陥ったのである。産業革命以前の市場は、至って単純だった。生活そのものがシンプルだったのである。
産業や工業の発展は、生活や消費を多様化した。それに合わせて市場も多様化し、複雑なものに変化したのである。
それなのに、市場を一律一様にとらえようとする傾向が経済学にはある。
そして、日用品、経常的な市場を軽視する思想が蔓延している。成長が止まり、大きな技術革新が望めないような産業、所謂、コモディティ産業は、淘汰されるべきだといった極端な思想まで生まれた。

生活の基礎、核となるのは、日用品であり、経常的な収支である事は、変わっていない。日用品、経常的な働きをする商品で一番大きな市場を形成しているのは、コモディティ産業である。
また、機械化が遅れ、労働集約的産業こそ雇用の中心にある事も忘れてはならない。

新興国の市場に活力があるのは、投資のかからない労働集約的な市場が成立するからである。

技術革新が期待できず、機械化が難しい労働集約的産業こそ今後の経済を活性化する鍵を握っている。貿易摩擦の原因は、技術革新が期待できず、機械化ができない労働集約的産業が低賃金だという事、また、成長の余地があるという事が新興国の強みである事を忘れてはならない。
先進国の最大の弱みは、かつて自分たちが切り捨ててきた産業に活路がある事を認めようとしない事なのである。

何が経済を活性化する為に鍵を握っているのか。競争力があり、収益力はあっても、雇用や社会全体の所得に余り貢献しない産業を重視するのか、コモディティ産業で大きく発展は望めなくとも安定的な雇用を生み出す産業を認めるのか。

例えば、小売業でいえば地方の経済の活性化を担っているのは、商店街なのか、それとも徹底的に効率化された大型店なのか。一律に判定はできないが、現在の問題は、何の構想も政策もなく、闇雲に競争や効率を絶対視しているることである。
単純に安ければいい式の考え方は、不経済である。
根本になければならないのは、都市計画である。

規制を緩和し、競争を煽る事がなぜ、収益力の向上につながるのか私には理解できない。それはデフレ政策である。

経済には規律が必要であり、それは市場の規律でもあり、財政の規律でもあり、家計の規律でもある。

交易と地理的条件


世界には、歪みや偏りがあり、全ての国が同じ前提条件で成り立っているわけではない。
交易は、地理的条件に従って前提条件は形成される。
地理的条件を構成する要因には、地理的な位置、立地、地形、気候等だけでなく、資源、自然環境、地理的条件、人口、民度、宗教、交通、農業、工業、言語、国境、経済体制、政治体制、文化、風俗、習慣、価値観等多岐にわたる。
特に、重要なのは、距離感である。距離感には、物理的距離だけでなく、時間距離、情報的距離、経済的距離、政治的距離、組織的距離、文化的距離、心理的距離がある。
物理的距離とは、時間を除いた物理的単位で計測する事の出来る距離である。
時間的距離の中の一つには、交通手段や通信手段に係る距離があり。交通手段や通信手段によっては、物理的距離が同じであっても複数の距離が生じる場合がある。
情報的距離というのは、情報の伝達速度に基づく距離である。これは、時間的距離の一種とみなす事もできる。
経済的距離は、一つは物流によって作られる距離である。もう一つは経済的格差が作り出す距離である。
政治的距離とは、かつて東西冷戦時代、自由主義国と共産主義国との間にあった距離である。ベルリンの壁が崩壊した時、この距離はなくなったと考えられていたが、現在は、違う距離が生じてきた。また、南北問題といった形でも潜在的に存在する距離だと考えられる。
組織的距離というのは、組織によって作られる距離、手続きや指示命令による伝達速度から生じる距離、組織的決定に至る距離、制度的距離である。目の前にある国でも国を閉ざしている国は近づくこともできない国である。国交のない国から物を輸入しようとしたら、第三国を経由しなければならない。それだけ遠くなるのである。
文化的距離とは、文化の違いから生じる距離である。
心理的距離というのは、人の感情が生み出す距離で経済を考える上では重大な働きをしている。近くて遠い国という例は数多くある。

例えば、東京、鹿児島間では、新幹線で移動した場合、物理的距離は約1460㎞、時間距離は、約6時間30分、経済的距離は、28,820円、飛行機で移動した場合、物理的距離は、直線的になるから約1000㎞、時間距離は、約2時間、経済的距離は、43,890円となる。(「経済は地理から学べ」宮路秀作著 ダイヤモンド社)

国際市場は、単に、「お金」の論理だけで成り立っているわけではない。
物理的、人的要素が決定的な役割を果たしている。特に、地理的要件は、全ての経済の前提条件になる。

地理的条件は、経済的に持てる国と持たざる国を生み出す要件となる。中東産油国のように、自然環境は厳しくても石油という資源に恵まれれば、財政的に豊かな国を作る事が出来る。産業や資源に恵まれていなくとも交通の要所に位置する事で繁栄を誇って国もある。反対に人口ばかり多くて産業や資源に恵まれず、地理的にも離れた処に位置する国は、いつまでたっても貧困から抜け出す事はできないでいる。

物や人の分布は、最初から均衡を前提として設定されているわけではなく。不均衡なのである。
物や人の不均衡を是正し、適正な分配を実現する事が経済の仕組みにおいて第一に求められている事なのである。

貨幣経済では、富を生み出すのは、経済空間の歪である。つまり、格差が富を生み出すのである。そして、経済空間に生じたひずみを均衡させようとする働きが経済を動かしているのである。



経済制度の役割は不均衡の是正にある


市場は不均衡であり、資源や人口は偏在している。この不均衡を是正する手段として労働がある。
労働力と言う生産手段の対価として所得を分配する事によって公平な分配を実現する事を基本としている。
給付反対給付が市場経済、貨幣経済では原則である。経済基準は、相対的基準であり、相反するの働きの方向と量、関係によって定まる。故に、給付反対給付によって経済的価値は測られるのである。労働は、所得の第一の源泉である。
ただ、所得は、労働以外の他の生産手段からももたらされる。
それが持てる者と持たざる者の格差の原因となり、不労所得の原因ともなっている。ただ、この問題は、私的所有権の問題にも絡み、短絡的には結論が出せないでいる。

経済の目的は、低価格を実現する事ではない。経済の目的は、費用の削減にあるわけではない。

価格は、付加価値に要約される。価格は、安ければいいというのではない。適正な価格を知るためには、その価格の持つ働きを理解しなければならない。価格の本質は、付加価値である。付加価値は、「お金」の働きによって成り立っている。
「お金」の働きが付加価値を生み出している。付加価値は、貨幣から生み出された価値である。付加価値は、貨幣が存在したから生み出された。そして、いい意味でも悪い意味でもこの付加価値が経済現象を主導しているのである。
この付加価値を現在金融も産業も否定するような行為が横行している。故に、健全な経済が営まれないのである。
今日、費用や借金は、悪役にされるが、費用がなければ付加価値は生れない。付加価値を構成する要素の働きは、人件費は所得に、利益。地代家賃は企業資本に、減価償却は資産に、金利は負債に還元される。この点を考えないと総資産、負債、純資産、費用の働きは理解できない。
この付加価値を均衡させる収益が必要とされるのである。

何でもかんでも安ければいいという錯覚がマスコミや行政等にあるように思われる。
勘違いしてはならないのは、経済の目的は、低価格を実現する事にあるわけではない。
価格は、指標、基準の一つに過ぎない。価格だけで全てを判断しようとするのは危険な事である。
価格を考える時、その価格を構成する要因や価格が形成された経緯、価格を構成した仕組み等が重要なのである。
価格を是非を考える場合、不均衡に分散する、人や物の関係を是正し、生産財を適正に分配する仕組みを構築する事が経済の主要な目的だという事を忘れてはならない。

物や人の分散の歪みや偏りを是正するために交易は有効な手段である。しかし、物や人の分散を是正するという目的を見失うと交易は、むしろ、不均衡を拡大する事になる。

経済の目的の一つに生産や消費を調節したり、収入や支出を整流する事がある。
かつて生産といえば食料の生産を指し、産業と言って農林業や漁業、牧畜業などをさしていた。そのような、農業や漁業、牧畜業による生産量は、一定していなかった。それに対して消費量は人口に比例していた。
現代人は、産業革命ばかりが近代を作り出したかのようにいうが、その他に、エネルギー革命や農業革命があった事を見落としている。
農産物の生産が飛躍的に向上すると、次に求められたのが貯蔵技術の革新である。近年、冷蔵技術の発展は目覚ましく、それが陰で経済発展を支えてきたのである。また、交通、通信技術の発展も大きく寄与している。近代は、産業技術の革新だけで成り立っているわけではないのである。

注意してほしいのは、生産と消費以外に貯蓄があると言う点である。これが経済の基本にもなっている。つまり、貯蔵技術と交通技術の発展によって生産と消費の時間的空間的歪みや偏りを是正する事が可能となったから今日のような交易が確立されたのである。
そして、これは、今日の交易の仕組みの基盤となっている。

生産は不確かである。生産は、予測しにくい。それに対して消費は、人口に比例してある程度予測がつく。
収入は不確かである。それに対して支出は一定している。この不確かな部分を調節する部分として貯蔵や貯蓄がある。貯蔵や貯蓄は、在庫や預金となる。在庫や貯金は資産であるとともに負債でもある。
この点を理解しないと市場経済の仕組みは理解できない。

貨幣経済を成り立たせているのは、借金である。借金によって資金を市場に供給しているからである。その借金を成り立たせているのは、定収入である。つまり、定収入が成り立っているから、安心して「お金」をかす事が出来る。この信用があって今日の経済は成り立っている。
バブル崩壊後の日本経済の低迷は、制度を裏付けてきた信用が揺らいだからである。
信用を支えているのは、安定した収入である。しかし、収入には斑(むら)があり、波がある。その斑や波を整える機能を果たしているのが企業である。この点を理解しないと資産、負債、資本、収益、費用、そして、利益の働きが理解できない。
収益、費用、利益の真の関係が理解できないから、金儲けは悪だ、費用は無駄だから削減してしまえばいいという事になる。
収益は、生産と収入の働きを結び付けて物の流れを作り、費用は、所得と支出の働きを結び付ける事で分配を司り、利益は、収益と費用を関係づけてその働きを測る。
価格は、この収益の基礎を作るものである。単純に安ければいいと費用を削減すれば、所得が減少し、支出も圧迫される。結局経済の活力は奪われるのである。

安売りは、価格や費用を平準化する。費用が平準化されたら、人件費は単なる費用でしかなくなる。人件費を費用としてしか見ない経営者は、単純に人件費を均一化しようとする。また、賃金を変動費化しようとする。
人件費は、裏返すと所得でもある。人件費を単なる費用としてしか見られなくなれば、所得から属人的な部分は削ぎ落とされることになる。属人的な部分を減らして働きや実績だけに特化する事に努める。年齢からくる違いも、能力差も、性格も、人柄も、経験や知識さえ蔑ろにされ、生活費という側面も忘れられる。求められるのは、結果と実績だけになり、与えられた時間に与えられた仕事を言われたとおりに実行する事のみ求められる。それが同一労働同一賃金の意味である。安売り業者にブラック企業が多いのもうなづける。安売り業者の経営者が求めるのは、金銭的結果だけである。人格ではない。しかし、働く者にも人格がある。そして、人件費の多くの要素は人格によって決まるのである。

人にも、商品にもライフサイクルがあり、一律一様ではない。
人件費を一律一様に考えるのは、乱暴であり、野蛮である。

全ての人間が同じものを食べ、同じ服を着て、同じ家に住む事が平等なのだという思い込みがその背景にある。
人は、皆違う。その認識、その前提があって平等は成り立っている。同等と平等とは違うのである。
利益にゆとりを持たせるのは、不均衡を是正するのが目的だからである。それを理解できない者は、利益を悪だと決めつける。
利益の元となるのは価格である。価格は、適正さが基準となるべきであり、低さだけを基準とすべきではない。

国際交易の目的は、国家間の資源の過不足の是正にある。過不足の是正がうまく機能しないと戦争になる。国際交易の仕組みに欠陥があると戦争の原因を作る事になる。

国家の経済体制や状態は、その国が建国された時の前提によって制約される。どの国も同じ条件で成り立っているわけではない。建国時の条件によっては、何らかのハンディキャプ、支援を行う必要がある。

付加価値が変化しなければ、資金の過不足は、資金の遣り繰りによって解消するのが原則である。その為に、資本収支と経常収支は常に均衡するように為替が働いている。ただ付加価値が常に均衡するとは限らない。それが国際的な経済の歪を生み出す原因となっている。一方的に資金が流れれば、歪みは一方的に拡大していく。歪みを是正するような仕組みにするのが政治であり、所得再配分の仕組みである。ただ今日の世界にはこのような仕組みは完備されていない。故に、時々経済が破綻して争いが生じる。その争いが収束できない時、戦争になる。



交易の基本は貿易である。


交易を構成するのは、人に関わる仕組み、物に関わる仕組み、「お金」に関わる仕組みである。
今日、交易の主役は、「お金」であるように思われている。しかし、本来交易の実体は物や人である。
人や物があってはじめて交易は成り立つのである。
物や人に係る交易を実現する手段として「お金」がある。この点を正しく認識しておく必要がある。

現在の交易は、「お金」の論理を優先している。しかし、交易には、「お金」の論理だけでなく。物の論理、人の論理がある。
物の論理には、需給、在庫の論理、地理学的な論理、生産の論理などがある。
人の論理は、雇用の論理であり、所得の論理である。交易は、一つ間違うと貧困や格差の輸出とか、失業の輸出、産業の空洞化等の問題を引き起こす。
単純に交易を「お金」の観点からのみとらえていたら経済の根本を見失う事になる。
経済の本質は、生きるための活動である事を忘れてはならない。

現在の経済学では、市場価格は、放置すれば合理的水準で均衡するとの前提に立っている。しかし、現実の市場では必ずしも合理的水準に均衡するとは限らない。むしろ、放置すると不合理な水準に安定してしまう事が往々にある。
価格の決定の仕組みを正しく理解していないと不適切な価格を放置する結果を招くことになる。

第一に、今日の市場経済では、経済的効果を利益によって測るが、利益は、現金収支を基とした基準ではない。利益は、収益から費用を引いた値であるが、収益や費用を導き出す方程式は一定ではなく、任意に選択されるものである。また、収益は、必ずしも収入と等しいものではなく、費用も支出と等しいものではない。例えば、収入の伴わない収益には、売掛金がある。また、支出の伴わない費用の好例は、減価償却費である。また、費用として計上されない支出の礼は借り入り金の元本の返済である。
現金収支は、残高としてしか現れないために、「お金」の働きを正しく測定するのが難しい。利益は、現金収支の裏付けがないために操作しやすい。これらの点をよく理解しないと適正価格を見極めるのは難しい。安ければいいというのはあまりに短絡的であり、非現実的である。
第二に、需給の問題がある。需要と供給は、均衡しておらず、いずれかに偏る傾向がある。そのために、価格は、常に一定しておらず不安定であり、収益は不確かなものになっている。
第三に、商品特性がある。商品固有の性格は、一律ではなく。千差万別であり、価格の決め方もそれに応じて変わってくる。生鮮ものと耐久財とでは、商品価格の寿命に差があり、また、輸入財は為替の変動に伴って変化する。コモディティ商品は、商品格差がない分、何らかの規制がなくなると乱売合戦に陥りやすい。
第四に、収益と費用の関係である。収益は不確かであり、費用は確かである。費用の内訳にも変動費と固定費があり、性格を異にしている。
第五に、投資とライフサイクルの問題がある。初期投資は、予め支出されるもので、一度投資されると取り返しがつかない上、資金の回収には長期間かかる。それに対して製品の商品としての寿命は確定していない。投資した資金を回収する以前に商品としての寿命が尽きる場合がある。
第六に損益分岐点の問題がある。商品の多くは、損益分岐点を越えるとそれ以上の製品には理論上費用が掛からなくなる。故に、損益分岐点を越えた部分は費用の制約を受けずに決定づける事が出来る事になる。そうなると利益は、限りなく追加コストに収斂しようとする傾向が出る。
これら価格の特徴は、国際市場でも同じ、否、むしろ国際市場では歯止めがきかない分、露骨に現れやすい。

ビジネスマンも消費者も経済学的な原則に基づいて行動しているわけではない。基本的に自分の欲望に基づいて行動している。その欲望は、「お金」を儲ける事に集約される。「お金」の論理に振り回されると経済の実態は見えなくなる。

ビジネスマンは、必ずしも必要としている人や不足しているところに必要としている物や不足している物を売るのではない。ビジネスマンは、儲かるところに売るのである。つまりは金のあるところに物を供給する事になる。残念ながら、物を必要としている人が必要なだけの「お金」を持っているという保証はないのである。むしろ、「お金」は、余剰な物を持っている人のところに集まる傾向がある。
かくて、飽食と飢餓、豊かさと貧困が恒久的に同居する事になる。そして、格差は拡大する一方になる。富の再分配こそ経済の最も重要な働きの一つなのである。

交易の基本は、輸出入である。即ち、貿易である。
そして、貿易の基本は、余剰な物と不足したものを交換する事である。
この様な貿易を実現するためには、いろいろな仕組みや制度を活用しなければならない。
その最も基盤となるのが決済制度である。

輸入をするためには、それに見合う資源を必要とする。輸出入の均衡がなければ、経常収支は均衡せず。必ず貸借関係が生じる。
輸出入の均衡を保つ仕組みの一つが為替制度である。

余剰な物と不足した物を交換する事によって成り立っているとして、こちらが欲しい物と相手の提供する物が一致していればいいが、必ずしも一致しているわけではない。仮に、こちらが欲しているだけの量が確保する事が出来るとも限らない。逆に、こちらに余っていると言っても相手が不作しているとも限らない。土台、物や人の世界は不均衡なのである。
その不均衡をどの様に調節するかが、交易の仕組みの鍵となる。国際市場は、需給によって不均衡を調節する場である。

貿易の構造は、時代に応じて変化してきた。
輸出構造は、経済の復興期は、繊維産業を中心とした軽工業であった。やがて、高度成長時代になると鉄鋼、家電、自動車といった重化学工業に比重は移っていった。そして、重厚長大産業から軽薄短小型産業へと変遷していった。
プラザ合意以前は、日本の貿易構造は、原材料を輸入して証拠財や資本財を輸出する、所謂、加工貿易を主体としていたものであった。プラザ合意後の急激な円高によって消費財の輸入は伸び貿易構造は、変質した。輸入構造は、ニクソンショック、オイルショックの影響が色濃く出ている。
特に、オイルショックの影響は顕著で日本経済の構造、体質をも変えてしまったといえる。また、2000年以後の原材料、鉱物性燃料の上昇も大きく、反面、リーマンショックの打撃がいかに大きかったかも読み取れる。

  
財務省 貿易統計

また、日本からの輸出が多くなると貿易摩擦も大きくなり。貿易摩擦も時代の変遷とともに変化しているのがわかる。貿易摩擦は日本の産業変化に伴い、あるいは、日米の交渉の結果が産業構造を変化させると言った相互作用を日本経済に与えている事がわかる。
60年代後半に日本の繊維輸出が問題となり、72年に日米繊維協定が締結された。77年には鉄鋼・カラーTVで日本が対米輸出自主規制を導入し。80年代に入ると、自動車や農産物(米、牛肉、オレンジ)の日本の輸入が問題とされた。

輸出入に占める商品の割合からも貿易構造の変化は読み取れる。
60年代は、他工業用原材料といった中間財が占める割合が大きく消費財も順調に比率を伸ばしていたのが、オイルショックを境にして資本財の輸出が占める割合が拡大し、消費財は横ばいとなり、他工業用原料の割合は、縮小していく。そして、85年のプラザ合意後は、資本財が伸び、消費財や中間財の占める割合が縮小する。それは、輸入においてより顕著に表れる。プラザ合意後原材料や鉱物性燃料の輸入に占める割合が縮小するのは、多分に円高や原油価格の要因が大きいにしても輸入構造を大きく変質させていることは確かである。輸入に占める資本財や消費財が格段と増大しているのである。これは、産業構造、ひいては雇用の構造に重大な影響を及ぼしているのがうかがえる。また、バブルの伏線とも見える。

  
財務省  貿易統計

交易を通じて自国のみならず相手国の産業構造をも変革してしまう力がある。そして、その力は、産業構造や体質だけでなく、経済体制、政治体制にも影響を及ぼし、戦争や、内乱、革命、クーデターなどを引き起こす要因ともなる。
だからこそ、国境という枠組みを超えた仕組みを構築する必要があるのである。


国際市場を動かしているのは「お金」である。


「お金」には、実体はない。虚である。名目的な事である。しかし、現代経済を動かしているのは、「お金」である。「お金」がなければ現代社会では人は生きていけない。
現代社会では、「お金」は絶大な力を持っている。実体はなくても「お金」は生きていくためにはなくてはならない。しかし、使い方を間違ったら、自分だけでなく、社会を破滅させてしまう。
「お金」は、万能ではない。「お金」は、道具である。「お金」の性格、働きの長所・欠点をよく熟知すれば、「お金」ほど役に立つ物はない。反面、「お金」は凶器ともなる事を忘れてはならない。

現代社会では、生活に必要な資源を手に入れるためには、お金を支払う必要がある。
海外交易とは、必要な資源を海外から輸入し、必要な資金を輸出の代金として受け取る。資金が不足した場合は、海外から借り入れる行為を言う。

必要な資源を海外から輸入するためには、予め資金を用意しておく必要がある。それが海外交易の大前提である。

貨幣経済が成り立つためには、貨幣が全ての消費者に行渡っている必要がある。すべての消費者が必要とするだけの「お金」を所持していることが貨幣経済の前提なのである。しかも、貨幣は、消費者に絶え間なく供給され続けなければならない。消費者に絶え間なく資金を供給する手段、仕組みが、雇用であり、給付制度である。
「お金」を調達する手段は、売るか、借りるか、もらうかしかない。これは、簿記では、貸し方を構成する。
そして、お金を供給する手段は、買うか、貸すか、与えるしかない。

経済を構成する取引の基本は、売り買いと貸し借り、授(さず)け受けるである。

取引というと、売り買いばかりに目を向けがちであるが、実際は、取引相手に自国の通貨をいかに融通するかがまず取り組まなければならない事なのである。

今日、貨幣制度を基盤とした交易が成立するためには、物を買おうとする者、買手は、物の価値相応の「お金」を所持していることが前提となる。
市場を成り立たせるためには、「お金」をいかに買手に渡すかがカギとなるのである。
買手は、「お金」がない、足りない場合は、どこからか「お金」を調達してこなければならない。「お金」を調達する手段は、物を売るか、借りるか、もらうかしかない。
そして、「お金」を供給する側は、買うか、貸すか、与えるかしかない。
売り買い、貸し借り、授け受けるの六つの働きを組み合わせによって市場経済は成り立っている。

売り買いと貸し借り、授け受けるが資金の流れと物の流れを作っている。
お金の「流れ」に沿って物は流れる。
お金とは何か。今日のお金は、表象貨幣である。表象貨幣を代表するのは、紙幣である。
紙幣は、借用書が変化したものである。ここに表象貨幣の本質が隠されている。
表象貨幣が浸透する以前は、実物貨幣だった。実物貨幣は、貨幣そのものに価値があった。故に、表象貨幣と実物貨幣とは、本質が違うのである。表象貨幣は借り物であり、実物貨幣は本物なのである。その差は、貨幣の働きにかかわる問題である。
「お金」に要求されているのは、働きであって、価値ではない。

表象貨幣の本質は借金である。「お金」を借りる、「お金」を貸す、貸し借りの関係によって「お金」は市場に供給されるのである。つまり、売り買いに先行して貸し借りの関係が成立していなければ交易は成り立たない。
そして、この貸し借りが「お金」の働きの本質である。

海外交易は、このお金の流れを顕在化させる。
なぜならば海外交易では「お金」の働きが決定的な働きをするからである。つまり、海外交易では「お金」以外の融通が利かないのである。なぜならば、「お金」がなければ決済ができないからである。

貸し借りは、お金を供給する手段であり。物の売り買いは、お金と物を流通させる手段である。そして、決済によって取引は完結する。

貸し借りは、債権と債務を発生させる。貸し借りの仲介をするのが金融である。

国際市場における大きなお金の流れというのは、お金を受け取って、又は、借りて物を買うか、投資をするという流れと、お金を、渡して、又は、貸して物を売るか、投資をさせるという形の二つしかない。

お金を貸し、物を売って、貸したお金を回収する。この流れだとお金を借りた側は、借金ばかりが残ってお金は流通しなくなる。国内の交易ではこのような関係は、表に出てこないが海外交易では、債権国と債務国の関係として往々に表面化する。

お金を借りる側からすれば、借りた金で生産手段に投資し、それによって得た収益から借りた金を返すのが筋である。
しかし、この場合、貸し手側の利害と直接かかわることになりかねない。だから、そこに要求されるのは、国際分業である。
何に対して、どれだけ「お金」を融通するのか、それこそが国際経済戦略なのである。


国際交易の変化


国際交易の変化を引き起こす原因は、一つは国内経済の状態がある。もう一つは、海外の情勢の変化である。
国内経済の状態の変化は、第一に、市場の変化、第二に、産業構造の変化、第三に、生活水準、所得水準の変化がある。海外情勢の変化には、政治体制の変化、経済情勢の変化、国家間の力変化等がある。さらに、災害や戦争、革命などの国家間の基本的関係を揺るがす事件、事象である。

現代人は、何かというと主観を排して客観的に成らなければと思い込んでいる節がある。客観性は科学的であり、主観や直感は、非科学的だというのである。故に、経済を動かしてる要因もなるべく客観的な事としてとらえようとしているように見える。

しかし、ニクソンショックにせよ、オイルショックにせよ、プラザ合意にせよ、リーマンショックにせよ、直接のきっかけを作っているのは人間であり、政治的理由である。その点を抜きにして経済の変化を語る事はできない。経済をよくするのも、悪くするのも所詮は人間なのである。

例えば、なぜ、ニクソンショックが起き、オイルショックが来たのか。そして、プラザ合意は成り立ったのか。その背景や経緯をまず前提としなければ、その後の変動の原因は解明できない。
直接的な切っ掛け以外に変動を引き起こした要因が何かを探る必要がある。

オイルショックの引き金を引いたのは、第四次中東戦争であり、それは、政治的、宗教的、地政学的要件による。この様な事を鑑みるとオイルショックを引き起こした前提は、一つは、石油が戦略物資、軍事物資だった事、第二に、日常生活や産業に不可欠なエネルギーだと言う点。第三に、石油の産油国が限られており、地域も集中していたと言う点、第四に、産油国の多くが王国や独裁国で、政情が不安定だったと言う点、第五に、石油消費国は、全世界に広がっいて、一つにまとめることは不可能だと言う点、第六に、日本は、自国で石油が産出できず、原油のほとんどを中東からの輸入に頼っていたと言う点、第七に、石油は、限られた大企業に支配されていたという事、第八に、石油が不当に安い価格で取引されていたと言う点、第九に、基軸通貨がアメリカドルだったと言う点、第十に、東西冷戦時代だったと言う点などである。
これらの点が前提条件となってオイルショックは起きた。単に、表面に現れた現象ばかりを見ていると物事の本質を見落としてしまう。物事の背後にある核心をつかない限り抜本的な解決には結びつかない。事件や現象を分析する場合は、常に、前提となる要件を確認する必要がある。

この様な観点に立って国際交易の変化を見てみる必要がある。

60年代は赤字基調だった経常収支も70年代に入るとオイルショック時を除いて黒字基調が続いている。ただ、黒字が拡大したのは、80年代に入ってからである。
80年から86年にかけて黒字拡大局面、86年第3四半期から90年まで黒字縮小局面、91年から93年までが黒字拡大局面で93年第2四半期から96年第3四半期までか黒字縮小局面96年第3四半期から98年第3四半期までが黒字拡大局面、そして、98年から黒字縮小局面というように波を描いている。

経常収支に大きく影響を与えている要因の一つが貿易である事がわかる。第二点が為替の動向である。第三に原油価格の動向である。

  
日本銀行

貿易は、一本調子に右肩上がりなのではない。個々の産業のライフサイクルの影響を受けている。
また、貿易摩擦などの政治的影響も大きい。大統領選挙や戦争などの影響も無視できない。
交易は、経済的要因だけで左右されているわけではない事がわかる。




市場には、相転移を起こす臨界点がある。市場は、臨界点に達するとそれまでとは違った動き、場合によっては、真逆の動きをする。
例えば、成長拡大を続けていた市場が飽和状態になるとある時点を境に縮小均衡に向かうというような事である。
資産、負債、資本、収益、費用の関係からこの臨界点を割り出す事が出来れば、市場を制御する事が可能となる。

  
公益財団法人 日本関税協会

鉱物性燃料は、主として石油であり、石油価格と為替の変動を輸入額は大きく影響を受けているのに対して輸入量も影響を受けていないわけではないが価格ほど大きな変動をしているわけではない。石油の消費量というのは、なかなか急激に減らすわけにはいかないのである。

市場の基盤は国際決済制度である。


国際市場は、国際決済制度の上に成り立っている。
決済は、「お金」の受払が実現した時完結する。決済は、あくまでも「お金」を基準とした概念である。

交易、取引は、「お金」の交換と財の交換が一体となって成立する。故に、「お金」の受払と財の受渡とが双方成り立った時に、取引は実現する。
「お金」の受払が実現した時と財の受渡が実現した時との間に時間差が生じる事がある。財の受渡があった時に取引は実現し、お金の受払が実行された時、市場取引は完結とみなされる。「お金」の受払を実現する行為を決済という。

国際決済制度は、個々独立した多くの通貨制度と金融制度によって構築されている。通貨制度と金融制度の延長線上に為替制度が成り立っている。
通貨制度は必ずしも行政区分と一致しているわけではないが、一つ事つの国家は、一つの通貨制度、一つの金融制度の上に成り立っている。これらの通貨制度や金融制度は全体であると同時に個々独立した部分でもある。全体としての機能と部分としての機能をどう整合性をとり全体としての統制を守るかが最大の課題となる。
即ち、国際決済制度は、全体を構成する共通した要素と部分を構成する固有な要素から成る。

全体と部分の働きを発揮させるためには、水平的な構造と垂直的な構造が必要となる。
水平的な構造は、水平方向にゼロ和となるように垂直的な構造は、垂直方向にゼロ和になるように設定されている。
これが全体と部分を形成する仕組みとなる。

そして、全体と部分は、フローとストックの働きによって構造を維持すると同時に効力を発揮する。

この様に国際市場は、全体と部分、水平的働きと垂直的働き、フローとストックの関係によって成り立っている。

かつては交易の均衡を保つために金や銀などの本位制度が用いられていた。

垂直的な働きには、経常収支と資本収支がある。この関係は、ゼロ和である。経常収支は、売り買いを資本収支は、貸し借りを意味する。ここからは、貸し借りによって資金を供給し、売り買いによって効力を発揮するこの構図が見て取れる。
そして、個々の部分は、一般政府、金融機関、非金融法人、家計等から構成され、個々の経済主体の資金の過不足を表す。そして、部分は、海外交易によって清算され、総和は零となる。すなわち、水平方向の働きもゼロ和に設定される。

経常収支はフローを構成し、資本収支は、ストックを構成する。損益はフローの働きを表し、貸借はストックの働きを表し、キャッシュフローは、収支の働きを表す。

お金持ちという概念には、高額所得者という意味合いと資産家という意味合いの二つの概念がある。
バブル形成期には、資産家の貧乏人という人が多く出た。資産家の貧乏人と言うのは、昔から住んでいた土地が暴騰し、資産家にはなったけれど、所得は平均以下で、資産税ばかりが高くなり、生活に困ったという人たちである。かといって自分の住んでいる家を売れないし、また、地価は上昇したとしても立地条件が悪くて売りたくても売れないなどという事情を抱えていたりする。それに相続税が絡んだら最悪である。相続税が払えなくなって一家心中したなどという悲惨な例まである。バブル形成と崩壊の被害者の多くは、資産家の貧乏人である。
この様にストックがあっても必ずしもフローに貢献するとは限らい。だから流動性が重要となるのである。

国際決済制度は、国際金融制度を土台として成り立っている。そして、金融制度は、最終的には為替制度に反映される。
これらの土台の上に交易は成り立っている。



為替制度は国際市場の枠組みを作る。



為替制度は、国際市場の枠組みを作り、国際市場を制御する役割を果たしている。
為替制度は、国際市場のジャイロ装置なものである。

為替制度は、国際市場の水平的構造と垂直的構造の働きによって成り立っている。
水平方向の働きと垂直方向の働きの相互牽制によって市場の機能は発揮される。

為替の方向を定めるのは、売り買いである。基本的には、為替は「お金」の売り買いによって方向性が定まる。
当該国の「お金」に対する売り圧力が、買い圧力より強くなれば、値が下がり、売り圧力が強くなれば、値は上がる。
これが基本である。売り買いは、常に均衡している。なぜなら、売りと買いは、一体となって成立しているからである。
そして、「お金」の売り買いは裏の行為であり、表に財の売り買いがある。「お金」と財の売り買いは、表裏一体なのである。

財には、有形な物と無形に働きがある。無形な働きには、労働や権利がある。労働や権利から生じる収支を所得収支と言う。
経常収支は、貿易・サービス収支と所得収支からなる。

「お金」と売り買いする対象、物、そして、売り手と買い手がなければ取引は成立しない。
これが基本的前提条件である。取引が成立するためには、売り手は売る物を買い手は、買うための「お金」を準備する必要がある。
売る物や「お金」がなければ、物や「お金」を借りてこなければならない。つまり、貸し借りからも「お金」の流れは生じる。
「お金」の流れが生じると売り圧力、買い圧力が生じる。

この売り買いと「お金」と物の関係、貸し借りによって市場は、形成される。
売り買いは、物やサービスは、経常収支を構成する。そして、貸し借りは、資本収支を構成する。

売買が成立するためには、売り手と買い手、物と「お金」が必要である。
これが前提となる。「お金」がなければ何らかの手段をこうじて「お金」を手に入れないと売買取引は成立しない。

海外交易の基本は、国内の余剰な財を売って「お金」に換える。財を売って得た「お金」で国内に不足する物を輸入する。
「お金」が足りなければ、貯蓄した「お金」を取り崩すか余分にお金を持っている主体から借りる。
本来、海外交易の基本はいたって単純なのである。

余剰の財を売って得たお金で国内に不足している財を買う。お金が余れば、外貨準備として貯蓄し、不足すれば海外から借りてくる。
そして、経常収支と資本収支の差が外貨準備高となるのである。

個々の主体から見ると売り買い、貸し借りでも、中立的な第三者からすると「お金」と財の交換、移動に過ぎない。
買い手から見て買いであり、売り手から見れば売りなのであって中立的な第三者から見ると相殺されているのである。つまり、取引の総和は、最初からゼロなのである。ただ、個々の主体からすれば「お金」の増減と財の減増という形で認識される。
つまり、個々の主体における「お金」の増減によって「お金」と財は、流されているのである。

売り買い、貸し借りは、視点の相違で実体は同じ。
なんてことはない同じ取引でも借り手から見れば借りで、貸し手から見れば貸しだという事である。
故に、総和は零になるのである。そのように設定されているのである。
この様な構造によって国際市場は制御され保護されている。

為替は、「お金」の流れ、物の流れ、人の流れによって動かされている。物の過不足、労力の過不足、通貨の過不足を均衡するように為替は動く。
物価、所得、金利を均衡させようとする働きによって為替は動く。

為替は、通貨の価格である。為替は、通貨の価値を決める仕組みだと言える。為替、通貨の価値を決める仕組みというのは、いたって簡単である。しかし、通貨を決める要素は、単一ではなく、いろいろな要素が絡まり、現象として現れる為替は、単純ではなく。為替の変化を予測する事は一筋縄ではいかない。専門家でさえ正確に予測する事は困難である。
通貨の価値、即ち、為替は、通貨間の売り買いで決まる。そして、通貨の価格も他の財と同じように需要と供給によって定まる。ただ、他の財の価格と決定的に違うのは、通貨は、実体のない名目的な価値だという事である。
通貨の需給は、通貨の生産と在庫、消費で決まる。つまり、所得と貯蓄と支出である。更に、貯蓄は、負債と資本の元となる。
為替を定める手段は、通貨の売買である。為替を決める要素は、通貨の生産、需給、通貨の在庫、即ち、準備金である。

通貨の価格を決めるのは、通貨の売り買いである。しかし、通貨の価格を決める要素には、資本、貸し借りという働きが加わり、また、生産量の変化や物価、雇用、所得等の変化が絡むと複雑な動きをするようになる。

経常収支+資本移転収支-金融収支+誤差脱漏=0



長期資金と為替


通貨危機、金融危機、財政危機の間には密接な関係がある。通貨危機、金融危機、財政危機の背後に働いているのは、長期資金の働であり、国際的貸借から派生した余剰資金の動きがこれらの危機に決定的な影響を与えている。
そして、国際市場を浮遊する余剰資金は、為替相場にも重大な働きをしている。余剰資金の根源にあるのは、国債である。
それは、通貨の成立過程に深く関係している。

1990年に起こった欧州通貨危機は、イギリスポンドとイタリアリラ、1997年に起こったアジア通貨危機は、タイバーツに対するヘッジファンドの攻撃が発端だとされる。アメリカの金利の引き上げが資金の逆量を引き起こしたのも一因とされる。通貨危機は、アジア各国に飛び火し、財政危機や金融危機を引き起こしている。アジアの通貨危機の後、1998年ロシア通貨危機、1999年ブラジルで通貨危機が起きている。
通貨危機は、金融危機や財政危機を誘発する事が多く、為替制度の変更も招きやすい。
これらの危機の背後には、急速に流入した資金が突然引き上げられるといった国際資金の激しい動きがある。
この様な資金の動きが資金の急速な過不足を生み通貨制度が持ちこたえられなくなるのである。資金の激しい動きは、金利、国債、為替等に起因している。

長期資金の働きは、市場の表面には現れてこない。水面下で働いている。しかし、資金の流れを作るのは、長期資金の流れである。長期資金が蓄えられている状態や量や流れる方向と量によって市場の均衡は保たれているのである。
根本にあるのは、債権と債務の関係、実質と名目の関係である。実質的価値は、時価に影響され、名目的価値は、簿価に基づく。時価は、物価に結びつき、簿価は取引実績に基づいている。

金融危機は、金融部門を中心に、財政危機は、財政部門を震源にし、通貨危機は、海外部門によって起こる。
いずれも家計、民間企業も含めた各部門の債権と債務の関係、ストックの量とフローの幅の関係が背後に隠されている。即ち、各部門のストックとフローがどう関わり、資産・負債と所得の割合がどのような状態にあるかである。

日本は、国債の引き受け手が国内にいるから財政が破綻しないと主張する者がいるが、それは、根拠がない。国内にいようが海外にいようが財政は、破綻する時には破綻する。ただ、国内に引き受け手がいる場合は、一国内の問題として処理されるという事である。ただ、一国内の問題だとしてもその影響が国際市場に波及しないという保証はない。
重要なのは、「お金」がどこから、どこを経由して、どこへ流れていて、どこに蓄積しているかである。そして、部門間の均衡がとられているかどうか。
確かに、会計上は市場は均衡しているように見える。しかし、実際の資金の流れは、必ずしも循環的でない。一方的な流れによって債権と債務に偏りが生じている場合が多い。金持ちは、「お金」を蓄え、貧しい者は、「お金」が貯まらなくなる。富む者はますます富み、貧しい者は、ますます貧しくなる。
貧富の差は、時間とともに拡大し、最終的には、資金の流れを阻害する要因になる。資金の偏りが財政危機、通貨危機、金融危機を引き起こすのである。故に、資金を円滑に流すためには、債権債務の関係を解消する仕組みを市場に組み込んでおく必要がある。市場だけでは資金の偏在や歪みを解消する事はできない。
資金の偏在を解消する仕組みの一つが財政機構である。財政の重要な働きに所得の再分配がある。

長期的資金と為替の問題は、長期的均衡の問題である。
長期資金は、突き詰めれば債権と債務の問題である。
つまり、国際収支でいえば海外債権と海外債務の問題である。ただし、債権債務はストックであるのに対して国際収支はフローである。債権と債務、取得と消費支出の関係。経常収支でいえば対外資産負債残高と経常収支の関係である。

一般に経常収支の赤字黒字は問題にするが、長期的に見て債権と債務がどのような状態になっているかを見落としがちである。しかし、経常収支の黒字か続くという事は、それだけ海外債権が蓄積されていることを意味している。
逆に、赤字国は海外債務が膨れ上がっていることを意味する。
これが問題なのである。
基軸通貨国でアメリカは、長期的に経常収支が赤字で、それを裏で支えてきたのは、経常黒字国である日本やドイツ、中国である。基軸通貨であるアメリカは、対外債務が大きくなる傾向を常にはらんでいる。問題は、アメリカが国内に持つ債権との均衡である。基軸通貨国は、貸しても借りても資金流出が続く。

単純に経常赤字国は、努力が足りないから赤字が続くのだと短絡的に結論を出したら問題の本質が見失われてしまう。挙句に、黒字国の人間は優秀で、赤字国の人間は劣等だなんて言い出したら差別問題や民族問題にまで火をつけてしまう。

経常収支が赤字になるのには、赤字になる原因がある。その真の原因を明らかにする事が問題解決の道なのである。
経常収支が赤字になるのは、多分に構造的問題であり、アメリカの場合基軸通貨国だという事が原因している。
基軸通貨国は支払準備のための資金を世界各国に提供し続けなければならない。提供している国は、必ずしも経常収支がいいとは限らない。また、支払準備として提供したアメリカドルは独自の通貨市場を形成し、アメリカ政府の制御が効かなくなる。これらは常に不安定条件として作用する。そして、そのアメリカドルの不安定材料は、日本の円にも影響をする。

基軸通貨国の特徴は、買ったり、貸したりには有利だが、売ったり、借りたりするのは不利になるという点である。
基軸通貨国以外の国は正反対の動きになる。結果、アメリカは、経常赤字が拡大し、世界一の債務国になる。
買ったり、貸したりに有利と言う事は、消費や金融面で強みを持つ事になる。反対に、所得、つまり、雇用に弱みが出る。売る力が弱くなるからである。
ただ、基軸通貨国は、外貨準備に制約を受けないという利点がある。
問題は、金融の世界である。金融を事実上制御するのは、基軸通貨国の中央銀行である。

長期資金の働き、各々の国の金融制度、貨幣制度による部分が大きい。また、その国の国内市場の状況にもよる。

物の流れの裏には、「お金」の流れがある。
今日の市場経済では、「お金」の流れがなければ財は流れない。
まず「お金」がなければ、何も買えない。「お金」がなければ、何も手に入れる事はできない。

手持ち「お金」がなければ、何らかの手段をこうじて「お金」を調達してこなければならない。
資金調達の第一の手段としては、蓄えを取り崩すか、手持ち資産を売る事である。
売る物がなければ、売る物を造り出す。売る物を作るためにも資金が必要である。
「お金」もなく、売る物もなければ、「お金」を借りるか、投資をしてもらうかしかない。

他国から財を買うためには、相手国の通貨を使う必要がある。
その為には、自国の通貨と相手国の通貨を交換する必要がある。
自国の通貨と他国の通貨を交換する場が為替市場である。
決済するために必要な通貨が不足した場合、相手国の通貨か基軸通貨を借りてくる必要がある。

他国と交易をするためには、決済準備の体制を整えておかなければならない。そして、それが通貨制度の根幹となるのである。
初期条件が整わなければ国際市場に参加する事はできない。
その時の初期設定が国家経済の枠組みとなるのである。初期設定は、投資、負債、資本の関係によって構築される。
そして、投資、負債、資本は、資金の長期的働きの根源となるうえ、通貨の供給と調節を司る事になる。

問題となるのは、「お金」もなく、売るべき資源もなく、借金をするための担保もなく、投資をする魅力もない国である。この様な国は、国際市場から締め出されてしまう。それでは、必要な資源を必要な人に配分する。資源と「お金」の過不足を補うという市場本来の目的を果たせなくなる。市場は特定の手段の為にのみあるわけではない。

ないものをあるとして何もない国に始めから要求するから何も持たない国は、国際経済の中間には入れないのである。
資源のない国でも参加できるような仕組みづくりがあって世界は安定するのである。

物を生産し、流通させ、分配する。その一連の流れを構築する事が投資である。そして、投資を裏で支えているのが資金の流れである。長期的資金の働きを理解するためには、資金が働く過程を理解する必要がある。

為替の変動を左右する資金の流れには、経常的流れと資本的な流れがある。経常的な流れは、企業でいえば営業キャッシュフローである。資本の流れは、投資キャッシュフローと財務キャッシュフローである。営業キャシュフローは売り買いが作り出し、財務と投資が作り出す資金の流れは、貸し借りによって生まれる。
つまり、これは、長期的資金の働には、財務的働きと投資的働きがあることを意味している。
財務や投資が生み出す資金の流れは、為替のレートを動かす力があるから注意する必要がある。

為替は、経常収支と資本収支、そして、外貨準備の三つの要素からなる。
経常収支と資本収支、外貨準備は表裏の関係にある。

経常収支の黒字=資本収支の流出または外貨準備の増加→対外純資産の増加(負債の減少)
経常収支の赤字=資本収支の流入または外貨準備の減少→対外純資産の減少(負債の増加)

一国の経常収支の黒字額は、その国以外の国の経常収支の赤字額に等しくなる。つまり。全世界の経常収支の総和はゼロになる。同様に、資本収支、金融収支の総和もゼロになる。また、世界の対外純資産額あるいは負債残高を総和もゼロになる。(「入門国際収支」日本銀行 国際収支統計研究会著)


国際収支統計

長期的資金の均衡で重要となるのは、初期設定である。建国における前提条件や状況は国によって違う。一律に国家の発展状態を議論する事はできない。まず前提となる条件を確認する必要がある。
建国した時、資金と財を持つ国と財はあっても資金のない国、資金も財も持たない国がある。
どの様な条件のもとに、どの様な考えによって、国家構想によって建国されたかが、国の命運を握る。長期資金の働きを知るためには、どの様な前提に立って経済制度の基礎が構築されたかが重要なのである。資金も財を持つ国を基準として国際市場を考えていると国際交易は正常に機能しなくなる。これは、民間企業も家計も同じである。最初に明確な構想、ビジョンがあったか否か、それこそが長期資金の効用を決めるのである。もしそれが明らかにされていなければ、原点に立つかえって構築しなおす必要がある。革命的手段を講じてでもである。

長期的資金の根源は、投資である。投資は、経済主体によって違いがある。企業は、生産手段である設備投資、家計は、消費手段である住宅投資、財政は、社会資本の建設である公共投資と言うようにである。
投資が資金を生み、資金を市場に供給する。全ての始まりは投資である。何に投資するかによって国も、企業も、家族も、その礎が定まるのである。設備投資、住宅投資、公共投資との均衡を保つ為に、海外投資は、形成される。海外投資は国内の投資の延長線上にある。

今日の世界経済を不安定化させている要因の一つが過剰な余剰資金である。余剰資金を生み出しているのは、必要以上の負債である。この様な余剰資金が生まれるのは、多分に「お金」の性格に依る。紙幣は、融通手形の様に、政府と中央銀行が互いを相手に振り出された手形のようなものである。国債が通貨の上限を制約する事で、通貨量は制限される。国債の発行量が増えれば、必然的に通貨の発行量も増える。そして、国債も通貨も基本的に名目勘定であるから、国債の量が増えれば負債の量も通貨の量も増えるのである。

返せるあてもないのに借金をしたり、また、返済能力がない事がわかっているのに、借金をさせる。それが余剰資金を生み出すのである。「お金」を廻すためだけに借金をしたり、資金効率が悪いのに、嵩だけを大きく見せかけようとして無理なレバレッジをかける。この様な行為が、ストックを急激に増幅していくのである。
返済の速度が所得を上回れば、負債は、収束する事が出来なくなり、発散していく。

経済は、無限に拡大できるわけではない。人間の住む世界には限りがある。人間の力にも限りがある。人の命にも限りがある。自分の限界を知った時、人は、自分の可能性を自覚するのである。限りある世界だからこそ、限りある力だからこそ、限りある人生だからこそ、人は、その力を出しする事が出来る。自分の力を過信し、自分の力の限界を知らない者には、破滅しか待ち受けていない。それこそが神の意志なのである。


国際市場では、取引はゼロ和に均衡する。


市場経済では、ゼロ和均衡が経済全体の枠組みを作っている。
市場がゼロ和に均衡するという前提が経済現象を制約しているのである。つまり、市場には、ゼロとなる原点があり、その原点を中心として経済は形成され、なおかつ制御されている。

経常収支も、所得収支も、フローも、ストックもゼロ和に均衡する。個々の局面がゼロ和に均衡しながら全体をゼロ和に均衡させるような構造によって国際市場、国内市場は保たれている。それ故に、残高と振幅が経済を制御するための鍵を握っているのである。

市場経済は、何と何がゼロ和均衡するかが、重要なのである。
市場経済では、対称性が重要となる。何と何が対称的で、何し何が非対称なのか、それが市場活動では重要な意味を持つ。

ゼロ和均衡する要素には、水平方向に均衡するものと垂直方向に均衡するものがある。
この縦と横の均衡関係が市場を制御するカギなのである。

水平方向とは、経常収支、金融収支、国際市場、海外部門を含めた国内市場などを指す。
垂直方向とは、経常収支と金融収支、家計、財政、非金融法人の収支と貸借の関係などを言う。

水平方向のゼロ和は、経常収支の総和=金融収支の総和=所得収支の総和=貿易収支の総和=貿易・サービス収支の総和=ゼロ
経常収支の増減の総和=金融収支の増減の総和=所得収支の増減の収支の総和=ゼロ
経常収支の総和とは、市場構成するすべての主体の経常収支の和はゼロに収束する事を意味する。
垂直方向のゼロ和とは、経常収支=金融収支。また、家計+財政+非金融法人+海外部門=ゼロ
経常収支に対して金融収支を逆方向の働きと見なすと経常収支に対して金融収支はゼロ和となる。
フローの総和=ストックの総和=ゼロ

そして、ゼロ和の関係は、三面等価を構成する事になる。

市場のすべての取引、売りと買いを集計するとゼロになる。これは水平方向の均衡である。
全ての貸しと全ての借りは、ゼロ和均衡する。これは水平方向の均衡である。
全ての資本収支と経常収支は、ゼロ和均衡する。これは垂直方向の均衡である。

取引は、全て、ゼロ和均衡するよう設定されている。
売りと買いはゼロ和均衡し、貸しと借りはゼロ和均衡し、売買と貸借はゼロ和均衡する。
経常収支は、売買関係によって形成され、資本取引は貸借によって成立する。
交易は、経常収支と資本収支は、ゼロ和均衡する事で成り立つ。

売買取引は、売り手は買い手の存在を前提とし、買い手は売り手の存在を前提としなければ成り立たない。市場原理主義者は、この原則を無視して競争、競争と囃し立てる。しかし、いくら競争を奨励しようと売り手と買い手の関係が存在しなければ意味がない。
市場を介して売買取引をするためには、買い手がお金を予め持っていることが前提となる。先ずお金が市場に供給されていなければならない。最初からお金が市場に偏りなく満遍に供給されているわけではない。そこで、貸借関係が生じるのである。お金は、貸し借りによって市場に供給されるからである。
これが貨幣経済を基盤とした市場の原則である。問題はお金を消費者に如何に満遍なく偏りなく予め配布するかである。そこに労働という資源が重要な役割を果たすのである。原則は、最初は労働という資源の成果に応じてお金を配分することなのである。

売り手が有利で買い手が不利と言う事はないし、貸し手が優位で借り手が劣位と言う事もない。有利不利、優位劣位は力関係や状況によって決まることである。
売り手は買い手を必要としているのであり、買い手は売り手を必要としているのである。これが摂理である。
どちらが是、どちらが否という関係ではない。
経常収支が黒字か赤字かは結果であってそれ自体が良いとか悪いとか言う問題ではない。問題となるのは、均衡である。だから、黒字赤字の原因であり、黒字赤字を生み出す仕組み、構造の是非である。

経済の本質は、売り手がいいか、買い手がいいか、黒字は是で、赤字は否というような問題ではない。

お金の働きはお金の流れる方向によって形成される。
お金の増減は、お金の流れる方向を示している。

国別経常収支

BOP(国際収支マニュアル)に基づいたデータ
IMF - World Economic Outlook Databases (2017年4月版)


ゼロ和に設定されている市場経済を動かしているのは、歪みと均衡しようとする働きである。ゼロ和は、ゼロとなる原点を中心にすることで成立する。取引がゼロを中心とした歪を引き起こし、その振幅によって「お金」の流れが生じる。この「お金」の流れが市場を動かすのである。
市場は、生産財を働きに応じて配分する場である。働きに応じて「お金」を配分する。故に、市場経済が有効に機能するためには、働きに応じて「お金」を配分する仕組みが正常に機能する事が前提となる。
働きは、労働と所有から生じる。所有には、資本と生産手段がある。そして、所有は、持たざる者と持つ者との間に潜在的な格差をもたらしている。

市場本来の役割は、働きに応じて生産財を公平に配分する事にある。この場合、公平という事が当てはまらなければ適度、適正に配分するという事になる。適度、適正というのは、人が生きていくために最低必要な物が必要な量、満遍なく配分されるという事を意味し、また、最大限と言うのは、全体に必要な資源が行渡らなくならない程度という事らなる。

「お金」を循環させる働きは、経済的の歪みから生じる。歪みから差が生じ、その差を是正しようとする力が「お金」を循環させるのである。故に、差が生じるのは必然であるが、その歪みが拡大しすぎても「お金」や生産財は循環しなくなる。故に、均衡が重要んなるのである。

黒字が良くて、赤字が悪いというのではなくて、黒字幅や赤字幅がどれくらいあるか、黒字や赤字がどのような位置にあってどの様な働きをするのか、潜在的な力がどのよう貯め込まれているか、絶対額と増減の関係、フローとストック、その相対的な関係こそが重要なのである。
つまり、位置と運動と関係が鍵を握っているのである。何が決定的な働きをしているかは、その場面その場面の状況や前提条件に左右される。この点を見極めないと先を読むことはできない。例えば石油が上がったから、今回もドル高になるだろうなどと決めつけられない。

ニクソンショックの時、石油危機の時、プラザ合意の時、リーマンショックの時、何が為替の変動に作用し、また、何が働かなかったのか。
為替介入が効果を発揮した場合もあるし、全く効果を発揮しなかったこともある。局所だけ、部分だけを注目しても事態を見抜くことはできないのである。



国民経済計算書と為替


国民経済計算書は、基本的に一国の経済状態を現した統計である。しかし、今日、一国の経済は、その国単独では成り立たない。故に、国民経済計算書は、国際収支によって世界市場に結び付けられる。
その時、重要な役割を果たすのが為替である。
一国の経済状態は、その国の通貨によって表されるが、それでは、国際市場にどの様な影響を、また、かかわりを持っているかがわからないからである。

国家間の比較をするためには、基軸通貨に換算する必要がある。

国民経済計算は均衡を前提として成り立っている。しかし、統計上、会計上の均衡を意味している。国民経済統計が均衡するのは、予め均衡するように制度的に設定しているからである。この点は、国際収支も同じである。

国民経済統計書は、現金主義に則って複式記入によって集計される。その為に、家計や財政の様に現金主義に基づきながら企業の期間損益にも対応する事が出来るように設定されている。
ただ、この点を明確に認識したうえで整合性をとるようにしないと現金主義、期間損益主義いずれに則っているかが曖昧になる。

複式記入は均衡を前提として設定されている。
実際の経済の実態は、不均衡を前提としなければならないのである。
人、物、金は、常に不均衡なのである。人や物や「お金」は、釣り合いが取れているわけではない。
多くの経済学者は、この点を錯覚している可能性がある。会計上均衡しているからと言って現実の雇用や貸借、売買が均衡しているとは限らない。無理やり会計に合わせると現実の経済が回らなくなる危険性がある。逆に、実際の経済状態が良好なのに、会計上の結果に合わせて悪くする必要もない。
数値があって現実があるのではなく、現実があってそれを測り、監視、管理する為に会計があるのである。

現在の国民経済計算は、お仕着せを無理やり着せようとしているようなものである。相撲取りも子供も同じ基準のお仕着せを着せられているものである。無理やり均衡させるのではなく。不均衡である事を前提として国民経済統計を見る必要がある。
その国の経済のサイズや環境、状態に合った服を着せない限り、経済を分析する事は出来ても抜本的な解決ができるわけではない。
この点を理解しておかなければ、国民経済計算書を活用する事はできない。

会計基準との整合性も今後重要な課題となる。会計は、本来合目的的な手段、基準である。どの様な目的で設定された基準なのか、徴税目的なのか、株主への報告を目的としているのか、公的効用を測る目的なのか、目的に応じて基準を柔軟に見直すすべきなのである。

交易は、不足している人、物、金を補い合う事で成立している。不足している物を余剰に持っている所から補い合う。しかし、お互いにお互いが必要としている物を補い合えるとは限らない。
相互の過不足を補い合うための手段として「お金」が介在している。しかし、「お金」は、人、物、金の不均衡を是正するように働いているかというと甚だ心許ない。
大体、物が不足しているところが余剰のお金を持っているかと言えばそうとは限らない。むしろ、物が不足しているところは、「お金」も不足しているものである。そうなると物が不足しているからと言って買って補う訳にはいかない。しかし、お金を借りたくても担保するものがない場合の方が多い。
国民経済計算上均衡して見えても物や人において不均衡が存在する。それをいかに均衡させるかが最大の課題である。物もお金も余っている地域と物もお金も不足している地域が二極分離してしまう事のないような仕組みを構築するためにこそ国民経済計算は活用すべきなのである。

物は、生産と消費、人は、所得と支出、お金は、売買と貸借、これらの働きを活用していかに資源の分配を均衡させるか、それが交易の目的なのである。

この様な課題を行政圏や通貨圏という枠組みの範囲内で完結しようという事自体土台不可能なのである。
今日、鎖国の時のように、閉ざされた空間、通貨圏や行政圏で決済しようとする事には限界がある。

何が不足していて、何が余っているのか。それをどの様にして誰が補完するのか。
物も「お金」も不足している処にいかにして物や「お金」を補うかそれが経済本来の役割なのである。

この点を留意しないと国民経済統計の意味を正しく理解することはできない。

  
2017年は2017年4月時点のIMFによる推計
BOP(国際収支マニュアル)に基づいたデータ
IMF - World Economic Outlook Databases (2017年4月版)


2017年は2017年4月時点のIMFによる推計

BOP(国際収支マニュアル)に基づいたデータ
IMF - World Economic Outlook Databases (2017年4月版)


現代の経済の問題点は、会計的均衡の上に経済を成り立たせようとしている点にある。
要するに、体に服を合わせるのではなくて、服に体を合わせようとしているのである。土台無理があるのである。

現実の国際上は、多くの要素が複雑に絡み合って日々変動している。
単純な図式だけでは為替の変動は予測しきれない。
ただ、根本は、人々の生活が成り立つような状況を維持する事で、一部でも生活が成り立たない国が表れれば、力関係の均衡が失われ、戦争や革命などの暴力的な手段でしか解決できなくなる。
戦争や革命、内乱の背後には、生きるための活動、即ち、経済的動機が隠されている。

その意味では、生活水準と所得の分散が均衡する処に収束するような構造を国際市場が維持できるかどうかにかかっている。
つまり、水平的構造と垂直的構造によって世界市場が均衡できるような仕組みになっているかどうかが鍵なのである。

国民経済計算は、全体が均衡するように設定されている。

国際市場は、水平的構造と垂直的構造からできている。水平的構造を横系列、垂直的構造を縦系列として見てみよう。
国民経済統計には、横系列を表す恒等式と、縦系列を表す恒等式が用意されている。

横系列を表す恒等式は、
国内総生産(GDP)=内需(消費+投資+政府支出)+ネット外需
            =内需+「貿易・サービス収支」
国民総生産(GNP)=内需+経済海外余剰
            =内需+「貿易・サービス収支」+「所得収支」
            =GDP+「所得収支」
総国民可処分所得 =内需+国民経常余剰
            =内需+「経常収支」
            =GNP+「経常移転収支」
            =GDP+「経常所得」+「経常移転収支」
財貨・サービスの総供給=総産出+輸入
財貨・サービスの総需要=中間消費+消費+投資+政府支出+輸出
海外余剰=輸出-輸入
総国民可処分所得=消費(消費+政府支出)+貯蓄
貯蓄=投資+国民経常余剰
   =投資+「経常収支」
「海外部門の資金過不足」=「対外債権の増加」-「対外債務の増加」
                =対外純資産の増減
                =「経常収支」+「その他資本収支」
                =-(「投資収支」+「外貨準備増減」)

為替は、国際市場の均衡を保っている。
国際市場の均衡は、国内市場の過不足を海外交易によって補う事で維持される。
経済全体の均衡は、総供給と総需要を調節する事で得られる。
民間部門の均衡は、貯蓄と投資の均衡によって測られる。
財政は、税と政府支出、即ち、財政収支によって測られる。
海外部門の均衡は、輸入と輸出、即ち、貿易収支、あるいは経常収支によって測られる。

この様に垂直方向と水平方向の相関関係によって国際市場を自動的に制御される。

縦系列の恒等式は、
経常収支=資本収支+外貨準備増減+誤差脱漏
      =貿易・サービス収支+所得収支+経常移転収支
      =輸出-輸入+サービス収支+所得収支+経常移転収支
資本収支=投資収支+その他資本収支
      =(直接投資+証券投資+その他投資)+その他資本収支
金融収支=直接投資+証券投資+金融派生商品+その他投資+外貨準備
金融収支=経常収支+資本移転等収支+誤差脱漏
資本収支+外貨準備=金融収支+その他資本収支
その他資本収支=資本移転等収支



為替の縦の働きと横の働き。


為替は、縦の働きと横の働きの均衡、そして、部門間の均衡によって成り立っている。
横の働きは、市場全体を均衡させようとする働きによって作用し。
縦の働きは、経常収支と金融収支に相関関係によって作用し。
それに部門間の働きが加わる。部門間の働きは、部門別収支の働きによって作用する。

市場全体を均衡を保とうとする働き、市場を構成する要素の働きを均衡しようとする力になる。
市場を構成する要素には、通貨、物価、所得、金利等がある。

経常収支は、貿易収支、サービス収支、所得収支、そして、経常移転収支の総和からなる。
金融収支は、投資収支とその他資本収支の和となり、投資収支は、直接投資、証券投資、その他投資によって構成される。

横の働きは、国内市場と連動しており、部門全体の総和は零和になる。
縦の働きは、国際市場に連動しており、国際市場全体ではゼロ和になる。そして、重要なのは、縦方向を構成する貿易収支、サービス収支、所得収支、そして、金融収支は水平方向にも均衡している。貿易収支は、水平方向、即ち、世界市場に対しても均衡している。全ての国の貿易収支の総和はゼロになる。サービス収支の総和はゼロになる。所得収支の総和は、総和はゼロになる。投資収支の総和もゼロになる。この様に個々の要素も水平方向に均衡している。

経常収支を構成する部門は、一般政府、家計、金融機関、非金融法人、対家計民間非営利団体、そして、海外に分類されている。

為替は、縦の働きと横の働きの均衡を保つように変動している。
縦の働きとは、経常収支と資本収支であり。横の働きとは、人件費とか、物価、金利、通貨の均衡であり、特に、通貨の均衡は、国際交易においてすべての価値の基準、尺度となる。
各部門間の均衡とは、部門間の資金の過不足、収支の均衡を意味するのである。部門間の均衡は、時間価値の均衡によって解消される。
水平方向、および、部門間の働きの均衡を保つというのは、国内の経済状態と国外の経済状態の均衡を保つ事である。
縦方向の均衡は、資金の過不足を均衡させる事である。
一見、為替の変動は、国内の経済に深甚な影響を及ぼしているように見えるが、実際は、海外の景気変動の国内の経済に対する緩衝材として為替は変化している。
国内の経済に為替が深刻な影響を及ぼしているように見えるのは、海外の経済状態がそれだけ深刻な状態にある事を意味している。

縦方向と横方向の働きは、金融を通じて発効している。
縦方向、水平方向の均衡は、資金の過不足、流れの方向を定める。縦方向、水平方向の均衡は、フローとストックを形成し、市場全体を制御する働きを持つ。
基本的に水平方向、縦方向、部門間の均衡は、市場構造を維持する方向に働く。これらの均衡が破れると市場の仕組みは毀損し、破壊される。ハイパーインフレーションや恐慌は、市場の仕組みが破綻した時にそれを回復しようとする働きによって引き起こされる。
国内の財政、家計、企業会計、対家計民間非営利団体の人、物、金の過不足を補い均衡をとる形で為替は変動する。
横の働きとは、所得、貯蓄、支出であり、縦の働きは、投資、負債、純資産である。つまり、期間損益から見ると横の働きは、損益、キャッシュフローであり、縦の働きは貸借である。横の働きはフローを構成し、縦の働きはストックを構成する。
横の働きは、経常収支として現れ、縦の働きは、資本収支と外貨準備として現れる。
この縦線、横線の働きによって国際経済の骨組みは形成されていく。

縦線、横線は、個々の要素の過不足を補う形にもなる。例えば、法人企業の収支と家計の収支と一般政府の収支と対家計民間非営利団体、金融機関の収支の総和と経常収支と均衡している。
経常収支と資本収支は均衡している。この様に縦線と横線は相互に均衡している。この関係から経済全体の状態が明らかになってくる。

一国の経常収支の黒字額は、その国以外の国の経常収支の赤字額に等しくなる。つまり、全世界の経常収支の総和はゼロになる。また、世界の対外純資産額あるいは負債残高を総和もゼロになる。(「入門国際収支」日本銀行 国際収支統計研究会著)

海外部門の資金過不足=対外債権の増加-対外債務の増加
              =対外純資産の増減
              =経常収支+その他資本収支
              =-(投資収支+外貨準備増減)




為替の働きは時代や前提によって変化する。


為替を動かす原動力は、交易にある。国際交易は、地球的規模で資源の過不足を調節する手段だからである。
つまり、国際交易は、個々の国の前提条件に制約されている。
前提として輸出する資源、あるいは、生産手段を持っているかいないか。または、資本や、資金を持っているかどうか。そして、人口の多寡によって国家のとるべき施策が決まってくる。持てる国と持たざる国とでは、最初から対等な交易は成り立たない。また、人口によってその国が必要としている資源にも差が生じる。それは所得に反映される。
前提条件によって交易条件にもおのずと差を付けなければ、交易は正常に機能しない。
この様な国際交易を正常に機能させる為には、各国の前提条件を確認する必要がある。

前提となる条件は、資源、人口、生産手段、資本に係る事象である。この様な前提条件は、建国の時点において設定されてしまう初期条件なのである。この点を十分に留意しておかないと国家間にある格差は埋まらない。

為替の変動は、産業構造に影響を及ぼし、変化させる。産業構造の変化が為替を変動させるのか。為替の変動が産業構造を変えてしまうのか。
卵か先か、鶏が先かの議論に似ているが、しかし、前提や状況によってこの点は変わってくる。
そして、産業構造の変化は、景気の在り方を根本から変えてしまう。

為替は、通貨の価格である。為替は、通貨の価値を決める仕組みだと言える。
為替、通貨の価値を決める仕組みというのは、いたって単純である。通貨は、市場取引、売り買いによって決まる。仕組みは単純だから為替も単純な動きをするかというととんでもない事になる。仕組みは単純だが為替の変動は複雑怪奇、予断を許さないのである。
仕組みは単純だが、否、仕組みが単純だからこそ、為替の変動は、予測がつかない。

通貨の価値、即ち、為替は、通貨間の売り買いで決まる。為替の仕組みは何によって動かされているのかを明らかにする為には、何が通貨を売る、あるいは、買う動機となるのかを知る事である。
通貨の価格も他の財と同じように需要と供給によって定まる。ただ、他の財の価格と決定的に違うのは、通貨は、実体のない名目的な価値だという事である。
通貨の需給は、通貨の生産と在庫、消費で決まる。つまり、所得と貯蓄と支出である。更に、貯蓄は、負債と資本の元となる。
為替を定める手段は、通貨の売買である。為替を決める要素は、通貨の生産、需給、通貨の在庫、即ち、準備金である。

為替は、「お金」の値段を定める。為替の特殊性は、「お金」と「お金」の売買取引だと言う点である。
為替を決定する要因は、単純ではない。物価や景気、金融政策、財政、貿易収支、経常収支、石油をはじめとした資源価格の動向、株価、投機筋の動き、戦争や災害、作物の作柄、環境の変化など多くの要素が複雑に絡まって為替は動いている。


日本銀行

1971年8月15日、世界中に衝撃が走った。ニクソンショックである。
この日を境にしてブレトンウッズ体制は覆り、為替制度は、激動の時代に突入したのである。

戦争、そして、革命、クーデターのような内乱の背後に為替の変動が隠されている場合が多い事を忘れてはならない。
一般に、戦争や内乱の悲惨さは、伝えられても、戦争や内乱が何によって引き起こされたのかについて語られる事は少ない。特に、経済的原因について。しかし、戦争や内乱の多くは、為替の変動が招いた経済的混乱が起因している場合が多い。そして、その経済的原因の多くは構造的な問題であり、因果関係を明確に示せないのである。

今日の経済は、一国の経済だけで成り立っているわけではない。江戸時代、日本は、鎖国をし、自給自足体制にあった。現代の経済は鎖国状態は成り立たない。成り立たなくなったから、日本は開国をし、新しい世界へと船出したのである。船出したとたん、我が国は、国家間の紛争に巻き込まれ、日清、日露、満州事変、太平洋戦争と戦争を繰り返してきたのである。
国際交易によって明治維新という内乱を経て、多くの戦争に巻き込まれてきたのである。

国家は、国内の経済を制御したくても他国との交易を自由にしている限り、自国の都合だけで経済の安定をはかる事が難しい。勢い他国の政治に干渉し、あるいは支配しようとする欲求に襲われる。その結果、覇権主義や帝国主義が形成されるのである。

交易の本質は、余った財を売って不足な財を調達する事である。何が必要で、何が不必要なのか。この点を忘れると為替の動きの正否が判断できなくなる。単に経常収益が赤字か黒字化が問題なのではない。為替を操作して自国に有利な状況を作り出そうと画策したりするが、では、何が自国にとって有利な事かそれが明確に理解されているわけではない。
赤字だから、赤字は悪い事だからなくせと金切り声を上げているのに過ぎない。
その前に自国にとって何が必要なのかを考える事である。真っ先に考えるべき事は、「お金」を無必要としているのか、物を必要としているのか、人なのかを明らかにすることである。そして、物ならばどんな物なのかを掘り下げていかなければ意味がない。
試験の成績表を見るように経常収支の黒字幅がどうのこうのと言っても抜本的解決にはつながらない。


為替リスク


国際交易には、為替リスクがつきものである。

為替リスクとは何かである。リスクは、危険性と言うより不確実性である。
為替の不確実性とは何か。何が為替を不確実にしているのか。
為替の不確実性から生じる損失の大きさは、為替の変動性と変動幅、そして、元となる資産や負債の規模、時差で決まる。
為替のリスクには、どの様な種類があるのか。第一に、為替の換算リスク。第二に、為替の取引リスク。第三に、為替の経済性のリスク。第四に、為替の決済上のリスクである。第五に、金融上のリスクである。
為替の換算上のリスクとは、為替の換算に関する不確実性を言う。つまり、為替レートがどのように変化するかが不確実であるために生じる損失を言う。
為替取引のリスクとは、為替変動による為替取引に与えるリスクである。為替の変動によって生じる取引上の損失が不確かだという事、また、それが交易を阻害する事である。
為替の経済性のリスクとは、為替変動が経済に与える不確実性である。例えば、円高によって生じる損得がどの様に現れるかが不確かだという点である。また、為替の変動が物価や金利に与える影響も無視できない。
為替の決済上の不確実性とは、為替の変動が決済の仕組みに与える不確実性であり、資金の流動性に係る不確実性である。決済上のリスクでは、ヘルシュタットリスクが有名である。
金融上のリスクとは、金利に与える影響等が真っ先に考えられるが、今日では、金融工学や投機的な動きから生じる不確実性が深刻になりつつある。
これらのリスクは、「お金」の働きから生じている。

「お金」は、第一に、経済価値の規模を測る尺度だという点である。第二に、相対的尺度だという点である。第三に、経済価値の変動では、変動幅が重要だという点。つまり、経済的価値には、時差が影響している。第四に、「お金」そのものに価値があるわけではなく。実体的価値は、「お金」が指し示している対象にあるという点である。つまり、経済的価値は、実体的価値の変動に影響される。「お金」は、名目的価値を構成する。第五に、「お金」の尺度、単位は、都度都度市場取引によって定まるという事である。第六に、「お金」は、基本的に負債だという事である。第七に、「お金」は、退蔵できる。「お金」は、退蔵できる故に、負債は、集積する。第八に、「お金」は、使われる事で効用を発揮する。

為替の根本には、以上に挙げた「お金」の性格が隠されている。

為替リスクが生じるのは、換算があるからである。換算とは、ある値、数量を他の単位に置き換えて計算しなおす事である。物理的な量、例えば尺やヤードをメートルに換算するような場合、尺度は、一定であるが、石油をドルから円に換算しようとした時、尺度は時間や場所、取引条件などで変化してしまうのである。しかも、その変化を予測する事が難しい。そこに為替リスクが生じるのである。

換算のリスクと言うのは、為替が物と「お金」だけの取引で終わらないからである。物と「お金」の取引の背後に「お金」と「お金」の取引が隠されているという点と、物と「お金」の取引と「お金」と「お金」の取引の間に時差が生じる場合がある点である。

為替のリスクが生じるのは、物の受け渡しと、「お金」の受け払いの時点が違うからである。物の受け渡しは、取引の成立を意味し、「お金」の受け払いは、決済の完了を意味する。

為替の変動は、前提となる状況や前提によって変わってくる。
同じ事でも視点を変えてみると真反対な結論になる事がある。

例えば物の観点から見ると景気の拡大は、輸入が増加し、日本の輸入が減少する。輸入が増える事でドルを買って、円売りが増え、輸出が減る事でドルを売って円を買う動きが減少するから、ドル高円安要因となる。
「お金」の面から見ると日本の景気が拡大すると日銀は、金融引き締めのために金利を上げる。金利が上がると資金が流入する。資金の流入はドル売り円買いを増加させるからドル安円高要因となる。(「ニュースと円相場で学ぶ経済学」吉本佳生)

石油価格の上昇は、物の面から見ると日本の貿易黒字が減少するから、ドル高円安の要因となる。
金の面から見た場合、日本側に立った場合とアメリカ側に立った場合とでは違いがある。
日本の側からすると日本の物価上昇が予想され日銀の金融引き締め政策がとられると予測される。日本の金利が上昇し、ドル安円高要因となるのに対して、アメリカ側から見るとアメリカの物価の上昇、FRBの金融引き締めアメリカの金利の上昇が予測され、ドル高・円安要因となる。
この様に為替の変動は公式通りには動かない。

為替を動かしているのは、基本的には「お金」の流れである。故に、「お金」の流れる方向が決定的な決め手になる。
「お金」の流れる方向を決める要素には、売買取引と貸借取引である。
売買取引は、物の流れが介在する。それに対して貸借取引は、金利差と資金の過不足が重要な働きをしている。

つまり、為替に影響を与えているのは、物価と金利である。そして、物価や金利の背後には、所得格差や失業率が潜在的に働いている。

国際決済制度の枠組みは、経常収支と資本収支、外貨準備高によって成り立っている。経常収支は、貿易収支、サービス収支、所得収支から成り立っている。所得収支は、第一次所得収支と第二次所得収支があり、第一次所得所得収支は、雇用者報酬収支、投資収支からなり、投資収支は、直接投資収支、証券投資収支、そまた投資収支からなる。
資本収支は、資本移転等収支と金融収支からなる。
即ち、為替の変動は、この経常収支、資本収支、外貨準備の範囲の間で起こる。

個々の要素が何に対して作用するのか、その力関係によって為替の動向は定まる。

例えば、石油価格の高騰は、経常収支に影響を及ぼす。日米金利差は、資本収支に影響を及ぼす。為替の変化の分岐点は、物価や景気、金融政策、財政と言った要素が複雑に絡み合って定まる。これらの要因の中の何かが経常収支、資本収支、外貨準備に決定的な働きかけをするのかが為替の動向を左右しているのである。その何かを見極める事が出来たら、為替の動向を予測し、あるいは、制御する事が可能となる。

ニクソンショック、オイルショック、プラザ合意、リーマンショックなど為替の変動の分岐点で大きく作用し事がある。そのようなイベントの背後てどの様な事が起こっていたのか、それを明らかにすれば、自ずと為替を動かす仕組みが見えてくる。

ヘッジファンドは、為替リスクを回避する目的で作られたファンドである。それがリスクを増大させているのは皮肉な事である。


為替が変動する要因


なぜ、変動為替相場制度を採用せざるを得ないのか。なぜ、為替は、変動するのか。なぜ、貨幣価値は変動するのか。これは貨幣価値、「お金」の価値の本質にかかわる問題である。貨幣価値が変動する原因は、貨幣の働きにある。

なぜ、為替は変動するのか、それは、個々の国が自律的な、独立した通貨体制をしているからである。
第一に、個々独立した金融制度を持っている。独立した発券機関(多くの場合、中央銀行)を持っている。第二に、固有の通貨単位を採用している。第三に、独立した金融政策に基づいている。金利を独自に設定できる。第四に、独自の為替政策が採れる。第五に、独自の税制度を持っている。第六に、個々独自の経済体制を持っている。第七に、独立した政治体制、法制度を持っている。第八に、物価水準や所得水準が違う。
つまり、一つひとつの国が独立している事が為替を変動させる最大の要因なのである。

為替の変動の方向を最終的に定めるのは、その国である。この点を間違えてはならない。海外からの影響力が強いと言っても最終的にその国の通貨の価値を決めるのは当事国である。
円の為替レートは日本が作っている。アメリカドルのレートはアメリカが作っている。円のレートを決めるのはアメリカではない。
ただ勘違いをしてはならないのは、為替も、物価も、所得も為政者の思い通りには動かないという事である。いくらその国の総理大臣や大統領が自国の通貨を安くしたいとか、高くしたいと思ってもその通りにはならないし、強引に思い通りにしようとしたら痛いしっぺ返しを受けるのが落ちである。
要するにその国の為替の方向を決めるのは、その国の経済の状態や構造である。為替を動かしたいのならば、為替が動かなければならないようにする事である。

ただ、気を付けなければならないのは、為替は一意的に、教科書通りには動かないという点である。また、為替の変動は、為替だけに影響を及ぼすわけでもない。為替は、金利や物価、所得、投資、景気、地価、企業収益と連動している。また、その時の経済政策や金融政策にも敏感に反応するという点である。
先ず、何が、どの部門がその時の経済を主導しているかを見極める事である。

例えば、物価が上昇している国の為替は下がると多くの教科書には書いてある。しかし、現実には、教科書通りにはいかない。物価の上昇が金利の上昇を招き、金利の上昇が資金を呼び込んで為替を上げるなんて場合がある。長期的視点で見るか短期的視点で見るかによって効果も違ってくる。
重要なのは、市場に働いている力がどちらを向いているかである。


世界経済のネタ帳
SNA(国民経済計算マニュアル)に基づいたデータ


今日の経済で最も中核を担っているのは、財政である。これはいい意味で言っているわけではない。財政赤字と巨額な国債の存在が経済全体に不均衡をもたらし、金融政策を制約している状態である。この歪が企業や家計にどの様な影響を与えているか。そして、それが海外にどの様に波及するかそれが為替変動の下地を作っている。

貨幣価値とは、何か。金本位制度では金と言う現物と貨幣単位を結び付ける事で、貨幣単位を特定しようとした。しかし、結局金の物としての価値と「お金」としての価値は両立する事は出来なかった。そして、「お金」を市場につなぎとめる錨を失った事で貨幣価値は、漂流し始める事になる。

貨幣は、貨幣価値を表象したものである。その時その時に数字として表示される貨幣価値は絶対ではなく。相対的である。
では、貨幣価値は、その時点その時点表に現れている形相、値を意味するのか、それとも表には現れない何らかの価値があってそれを表に数値として表したのが貨幣価値なのか。

こうなるとプラトンやアリストテレスにまで遡る事になる。
私は、貨幣価値の根底には、何らかの価値の働きが隠されていると考える。その働きが貨幣を通じて表に現れたのが貨幣価値だと思う。どの様にして表に現れるのかと言うと市場取引によってである。
ただ貨幣の働きは一定していないし、物の様な実体のあるものではない。故に、市場取引と言う行為を通じて表に現れてくるのである。
働きであるから、市場の環境も状況の変化や力関係によって変化する。つまり、絶対的な基準を設定する事が出来ないのである。貨幣価値は、市場取引によってその都度取り決めなければならない。それが通貨の前提である。
外国為替は、この通貨の性格をよく表している。他の国と取引をする場合、物の売買だけでなく、「お金」の売買を並行して行われている。ただ、同一の通貨の場合、それが、表に現れてこないのである。

現代社会は、変化に基礎をおいている。かつては、不変性を求めた。しかし、今日の経済は、変化を求めている。
為替もかつては、不変、固定的であった。固定的である事を是とする。
変化を求めるから変化を当たり前としている。経済成長を基礎として、物価の上昇も然りである。
しかし、その国の実質的経済量は、それほど変わらない。なぜならば、実質的経済量は、人口と生産財の量に依拠しているからである。
変化を求めるのは、変化がなければ、「お金」が市場に流れないからである。変化は、安定性を損なう。本来経済の安定性は、不変なところにこそ求めるべきなのである。
為替も本来均衡点、安定を求めて動いているのである。その点を見落とすと為替の真の姿を描くことはできない。為替に求められているのは予測可能な安定した変化である。


物の場と「お金」の場


交易は、物の場と「お金」の場が重なり合って存在している。その二つの場を結び付けているのは、市場取引なのである。

為替相場は、基本的に水平方向の均衡、垂直方向の均衡を保つ方向に均衡しようとする働きによって動かされるのである。言い換えると為替相場は、基本的には、資金の過不足と資金の流れる方向、そして、支払準備、即ち、外貨準備の残高によって決まる。市場の水平方向に働く力には、通貨、物価、所得、金利、投資、貿易収支等の要素が複雑に絡み合っている。予測するのは一様ではない。
また、資金の流れる方向も、金利や資金需要、個々の国の経済の基礎的要件、財政状態などが複雑に影響しながら、しかも、その時々の状況の変化によっても違ってくる。特に、近年は、投機的資金が資金の大半を占めているために、更に、予測する事を難しくしている。
ただ、基本的に為替は、資金の過不足を補う方向に流れる様にしなければならない。つまり、資金の余剰の主体から資金不足の主体へと資金を還流する様に為替は変動しなければならない。

ところが、往々にして資金の余剰国から資金不足の国に資金が流れていかない。その為に、資金余剰国は、ますます資金が余り、資金不足の国は、ますます資金不足に陥る。それは金融制度に欠陥があるからである。
為替には、交易を均衡させるように動く機構が組み込まれている。輸出が増加すると輸出国の通貨相場が上昇し、輸出を抑制し、輸入が過剰になれば通貨相場が下落して輸入を抑制するという具合にである。

資金の過不足が為替の変動の直接的要因である。資金を供給するのは、その国の中央銀行であり、供給量は、財政と深く関わり合いがある。故に、その国の財政は、為替相場に陰に陽に影響を与えている。

為替の変動には、長期的な変動と短期的な変動があり、短期的変動は、投機的な思惑などが絡み複雑な動きをするが、長期的な変動は、資金の過不足と流れ、そして、支払準備などの基礎的要件によっている。

我が国の経済は、為替の変動に翻弄されてきた。為替の変動を予測する事は、産業によっては、死活問題にもなっている。
しかし、為替を制御するのは、難しい。制御するどころか予測する事すらできない。
為替は、アクセルを踏んで加速させたり、ブレーキを踏んで減速するというようなわけにはいかないのである。
それでいて、経済政策を誤ると深刻な事態を引き起こす。国家的経済破綻の原因になったり、最悪の場合、戦争を引き起こしてしまう。

大体、航空機事故の際、操縦ミスなのか、機体に欠陥があったのかも明らかにできなければ対策の立てようがない。操縦ミスと機体の欠陥では対策も根本的に違うのである。ただ現象ばかりに囚われていたら本格的な対策は立てられない。

為替を変化させる要素にはどのような事があるのか。まず、それを明確にする必要がある。そのためには、為替を決める仕組みを明らかにする必要がある。

為替の変動を起こすのは、基本的に「お金」や財の売り買いである。
基本的に交易は、多国間で行われる。しかし、いきなり多国間の問題としてとらえると複雑になるので、まず、日米二国間の問題で捉えてみる。

アメリカからの輸入は、アメリカの財を購入するから、ドルを買って円を売る事になる。故に、輸入が多くなれば売り圧力が強まる。逆に、輸出は、アメリカが日本の財を購入するからドルを売って円を買う事になる。輸入額が輸出額を上回れば、ドルに買い圧力がかかり、円に売り圧力が強まるから円安に振れる。

ただ気を付けなければならないのは、輸入も輸出も金額を意味すると言う点である。ドル高円安になれば、輸入品の単価は、上昇する、逆に、ドル安円高になれば輸入品は安くなる。ドル安円高に振れれば、輸入量は増えるのである。

輸入額と言うのは、輸入単価と輸入量の積である。急激なドル安円高の場合は、輸入量は増えてもドル高円安に転じるとは限らない。このへんが為替の難しいところで、理屈通りにいかない点である。要するにどちらの圧力が強くかかるかの問題である。

  
〔資料〕 経済産業省大臣官房調査統計グループ鉱工業動態統計室「資源・エネルギー統計年報」

ここまでがいわゆる実需である。

1973年の第一次石油危機までは、輸入数量が急速に伸びているのに、単価に大きな変動があるわけではない。それが第一次石油危機後は、急速に単価が高騰しているのに対して、輸入量は一旦減少しそのまま1978年の第二次石油危機まで横ばい状態が続いている。数量が本格的に減少に向かうのは、第二次石油危機後である。この様に価格と数量は、相互に影響を及ぼしてはいるが、同調して動くわけではない。そして、そこで生じる差や歪が経済に対して重大な働きを及ぼすのである。

「お金」が不足した場合は、「お金」を借りてくる必要がある。「お金」を借りるというのは、日本の債券、国債、株などをアメリカに買ってもらうのだから、ドルを売って円に換える、つまり、円には買い圧力がかかる。つまり、ドル安円高の圧力がかかる。つまり、外貨が不足すれば、ドル安円高圧力がかかるのである。お金を借りるというのは、資金が日本に流入する事を意味する。この場合は、ドル安円高になる。

外貨が不足している上に、外貨が借りられない事態になると深刻な物不足になり、ハイパーインフレーションを引き起こす引き金になりかねないのである。

もう一つ見過ごす事の出来ない動きに投機がある。
投機的動きを一概に否定する事はできない。裁定取引のように市場の歪を是正するような働きもある。もともと、投機的な動きは、時間差によって生じるリスクを保障する目的で派生した一種の保険である。ただ、投機には、リスクを増幅する働きがある。

更に、外貨準備高の残高、日米の金利差、資本取引の多寡などが複雑に絡んでくるから為替の予想を立てるのは、一筋縄にはいかない。しかも、現実の為替は、多国間にまたがっているから単純に二国間の問題と割り切る事が出来ない。

しかも、多国間の取引には、裁定取引が絡む。

かつては、石油価格の上昇は、ドル高円安と言われてきたが1997年頃からこの関係が逆転したとみられる。また、有事のドル高などと言われてきたがそうとも限らなくなってきた。
この様に市場が相転移したのではと思われる局面に度々出会う事がある。何がこのような相転移を起こしたか、相転移を起こしたと思われる分岐点の背景を検証する必要がある。

以上の点から為替の変動の方向を定めるのは、一つは、売買、所得収支、即ち、経常収支である。第二点は、貸し借り、即ち、資本収支、そして、三つ目に投機的動きの三つである。

為替の変動には、短期的な変動と長期的、持続的な変動がある。第二に、急激な変動と緩やかな変動がある。第三に、周辺に大きな影響を及ぼす強烈な変動と余り周囲に影響を与えない変動がある。第四に、段階的な変動と一貫した変動、第五に、直線的な変動と周期的変動。第六に、人為的な変動と構造的な変動がある。

短期的で一過性の変動なのか、長期的で持続的な変動なのか、まずこの点を見極める事が重要となる。次に、振幅の大きさである。大幅に急激な変化なのか、それとも小幅な変化なのか。小幅でも、大きな変化の予兆である場合もあるから甘く考えずに背景を検証する必要がある。そして、強さである。強さとは、周囲に与える影響に特に注目しなければならない。為替の変動と言ってもいろいろな要素が絡み合って引き起こされている場合が多い。その要素によっては、周囲に重大な影響を及ぼす事がある。何によって引き起こされた変動なのか、その誘因を確認する必要がある。為替の変化は、人為的に引き起こされる場合もある。また、市場の状況やシステム、制度的な要因によって引き起こされることもある。単純に上っ面だけ見ていたら肝心な要因を見落としてしまう事がある。

為替変動は、非常に繊細な均衡の上に立って引き起こされる事が多い。それは、為替の変動は、貨幣の働きの性格による処が大きいからである。それ故に、同じ事象、例えば、原油価格の上昇とか、物価の上昇と言った事象でも、円高を誘発したり、円高を誘発したりと真逆な反応を引き出す事がある。要因そのものが反対の働きをする要因と表裏の関係にある場合があるからである。基本的には、一つの働きに対して反対の働きが作用しているのが一般的である。どちらの要因の働きが強いかによって方向が定まる場合が多い。

人為的な変化には、市場介入や金融政策、財政政策、資本規制等がある。

為替の変動の誘因として考えられるのは、第一に、物価である。第二に、金利。第三に、原油価格などの資源価格の暴騰や下落。第四に、戦争や災害といった地政学的な要因。第五に、経常収支。第六に、資本収支。第七に、外貨準備高。第八に、国内、国外の景気。第九に、財政。第十に、政治的な要因、第十一に、投機筋の動き。第十二に通貨危機や金融危機と言った金融制度上の問題。第十三に、内外所得格差等である。内外所得格差は購買力の裏返しでもある。また、労働条件と雇用環境といった事情も隠されている。これらの点を見ないで単に優劣を語っても意味はない。

金利は金利差の働きが重要になる。


OECD Factbook 2015-2016

交易で基本的に為替を動かすのは、内外格差、即ち、内外の歪みである。歪みは、財や「お金」の需給格差として現れる。需給格差を是正するように為替は変動する。
物価も貿易相手国との物価の格差を意味し、金利や景気も同様である。交易がない国との格差は、さほど影響は及ぼさない。特に、基軸通貨国との格差、現在ではアメリカと格差は、重要な要因となる。また、主要相手国である中国、産油国、EUとの格差は、複雑に影響し合う。
内外格差による影響を予測する為には、第一に、相対的な位置。第二に、変化、歪みの方向。第三に、変化を引き起こしている力の大きさ。第四に、格差の性質。格差の要因。第五に、変化の時間。短期的な働きか、長期的な働きかを明らかにする必要がある。

例えば、第一次オイルショックは、短期的に急激な格差を引き起こした。要因は、政治的な要因である。性格は、石油は、戦略物資であり、産油国が限られており、必需品、消耗品だという事である。多くの産業にとって不可欠な資源である。当時は、備蓄量が少なかった。また、我が国は、原油の多くを輸入に頼っていた。

為替の変動を分析する場合、潜在的な働きと直接的な動機とを分けて考える必要がある。
また、長期的な影響や短期的な影響にも違いがある。
短期的に見て円高要因も長期的に見たら円安要因だという事もある。

物の面から見た場合と「お金」の面から見た場合、人の面から見た場合で全く違った予測になる事もある。なにが、正解で、何が不正解かを一概に決めつける事はできない。むしろ決めつけてしまう事が一番のリスクである事さえ考えられる。

前提条件や状況が変われば結果もまた違ってくる。そのような場合、何を前提とするかが鍵を握っている事になる。

為替の変動は、国内物価や輸出に反映する。
円高は、輸出を抑え、輸入を増やすことになるので貿易収支は黒字縮小あるい赤字拡大に動くことになる。

為替の変動は、一定方向に進むのではなく、必ず反動がある。それは、市場全体がゼロ和均衡を前提としており、一定の水準に均衡しようとする性格を持っているからである。歯止めがきかない状態で一定方向に暴走した場合は、制御不能な状態に陥り、事実上市場は破綻する。
石油価格が暴騰しても恒久的に上昇し続けるわけではなく、一定の水準に至ると下降圧力が生じて価格の上昇は抑制される。
なぜならば、経済の本質は分配であり、石油価格だけが一方的に上昇し続ける事はできないからである。
市場には、相転移を引き起こす臨界点が存在する。



物価と為替の変動の関係


物価と為替は密接な関係がある。それは、「お金」の性格に依る。

物価や為替は、貨幣の核となる働きによって形成される。
物価や為替を理解する上では、経済的価値とは何かという事がある。経済的価値の総量、全体とは何かである。
「お金」が分配のための手段だというならば、分配するための基となる全体は何かである。
経済的価値の根本は、生産量なのか、消費量なのか、総所得なのか、必要量なのか、市場取引の総額なのか。それは国民経済統計の基礎でもある。国民経済統計では、単位期間の経済の総量を総生産、総所得、総支出としている。
我々は経済の総体を「お金」に換算して捉えるしかないが、そうなると貨幣価値でしか経済の実体を捉える事が出来なくなる。
例えば石油の重量や容積は変わらないのに、石油価格は乱高下する。石油の経済量は、物理的なものを指すのか価格を指すのか。価格は相対的であり、確定しにくいし、掴みにくい。石油の働きを理解するためには、価格だけを見ていたら明確にはできない。車一台を走らすために、どれだけのガソリンが必要なのかは、簡単な方程式で割り出せる。どちらが真の経済的価値を表しているのか、物価の妥当性を評価するためには、見極める必要がある。
しかし、物の量は変わらないのに、価格が上がったり下がったりする仕組みを理解する事はできなくなる。なぜ、物の生産量は変わらないのに、価格の総量は変化するのか、そこに物価の真の働きが隠されている。

まず第一、経済的単位は、相対的単位である。物理的単位と違い絶対的基準があるわけではない。経済単位は、比較対象の上に成り立っている。
「お金」は、物の経済的価値を測る尺度である。物価も、物の経済的価値を測る尺度である。
さして、「お金」も物価も分配の尺度である。どちらも市場取引によって定まる。

貨幣単位と貨幣価値とは別物である。
貨幣価値は、財の経済量を言うのに対して貨幣単位は、貨幣価値を測るための尺度、単位を指す。経済量は、貨幣単位と数量の積である。つまり、経済量、貨幣単位、数量が貨幣価値を構成する要素である。
経済量は、一般に市場では売上として現れる。貨幣単位は、価格、単価である。貨幣単位は、市場取引によって都度、財に対する需要と供給によって決められる。数量には、物理的量、時間量、仕事量などがある。

為替は、「お金」と「お金」の取引によって、物価は、「お金」と物との取引によって定まる。
そして、重要なのは、交易は、物と「お金」の取引と同時に「お金」と「お金」の取引が隠されている事である。

物価と為替レートは表裏の関係にあると言える。

物価が為替の変動に影響を及ぼすのか、為替の変動が物価に影響を及ぼすのかは、鶏が先か卵が先かの議論に似て微妙な問題である。
物価が為替の変動に影響するという考え方の代表は、購買力平価という概念である。

為替の変動を見極めるために、まず注目しなければならないのは、物価と所得である。

市場には、常に内外の価格差を是正しようとする力が働いている。そして、内外の価格差は、所得を基準として測られる。
所得差は、為替の変動によって影響される。

為替が物価にどの様に影響するかという事は物価と為替の関係だけを見ていても明らかにできない。物価も為替も各々単独にあるものではなくいくつかの要素が複雑に絡み合っているからである。個々の要素の相関関係を解明しないと実際にはわからない。

特に、所得や需給、雇用、金利の問題とは切っても切り離せない。
物価は世界基準に収斂すると言っても基本的には生活水準の違いがある。
生活水準は、名目的には、所得と支出の関係によって、実質的には、生産と消費の関係によってある程度、推測できる。

なぜならば、為替は、交易の手段だからである。交易は、余剰の資源を輸出して、不足する資源を輸入する事が主眼である。
不足する資源の需給は、物価に反映される。



日本銀行 総務省



市場を流れる財の逆方向には、財と同量の価値を持つ「お金」が逆方向に流れている。この「お金」の流れが市場の働きの原動力である。
「お金」の流れは、直接的には、財の生産と分配を促すはたらきがある。しかし、「お金」の働きはそれだけではない。
「お金」の流れには、単に財の生産や分配を促すだけでなく所得や支出を平準化する働きもある。それを決めるのは、生活水準と所得の分散である。
市場から生きるために必要な財、あるいは、欲しい物を手に入れようとすればお金が必要となる。手元に「お金」がなければ何も手に入れる事はできない。「お金」は、使えばなくなる。故に、「お金」がなくなれば、何らかの手段をこうじて「お金」を調達する必要がある。

お金を調達する手段は、財を売るか、他の人から借りるか、貰うかしかない。
売る財は、以前から持っていた財か、働いて得た財かしかない。
基本的には、収入の範囲内で支出がされる。収入の範囲を超えた部分は蓄えを切り崩すか他から借りてくることになる。

所得は支出の原資となり、支出は所得の生み出す。
物は消費すれば価値がなくなるが、「お金」は、支出しても価値がなくなるわけではない。故に、貨幣価値は累積して時間価値を生み出す。
また、物の量は、有限であるのに対して貨幣単位は、上に開いている。物は実数であるのに対して「お金」は自然数である。物は連続しているのに対して貨幣単位は不連続である。

経済を動かすのは入、出、残である。収入と支出、そして、貯蓄。生産と販売と在庫。三つの要素が複雑に絡み合って価格を形成する。
物の在庫は、売れば減少し、手持ち資金は、買えば減少する。物は売りだけでは、「お金」は、買うばかりではいずれはなくなってしまう。
売る者は買う事を考え、買う者は、売る事を考えなければ成り立たなくなる。そして、売り買いは、市場全体ではゼロ和均衡しているのである。

人は、生活に必要な財を所得の範囲内で手に入れようとする。物価は、市場取引で生活に必要な財を手に入れる行為によって成立する。故に、物価は、所得の制約を受ける。

所得は、労働の対価として調達することを前提としている。つまり、賃金である。

賃金水準が低い国に生産拠点は転移する。賃金水準が低い国は、価格競争力が高いから収益が上昇するのに対して、賃金水準に高い国や地域は、価格競争力を失って収益力が低下し賃金に下げ圧力がかかる。逆に賃金水準が低い国は、収益の向上に伴って所得に上げ圧力がかかる。所得が上昇すれば支出が拡大するから物価は上昇圧力がかかる。
更に、オープンな市場では、市場間で物価の平準化圧力がかかる。この様に、物価、所得、支出を均衡しようとする働きが市場にはある。

いずれにしても物価を通じて、所得と支出、そして、生活水準を均衡させる点に為替を収斂しようとする働きが市場にはある。
価格を平準化しようとするのは、市場間の格差を調節しようとする水平的な力からも働いている。

物価の推移を検証する為には、貿易収支と為替の関係も見ておく必要がある。


ドル円為替レートと貿易収支の関係(出所:Bloombergからのデータを元にJPモルガン・アセット・マネジメント作成 2012年8月末現在。)


為替の変動の基調に影響を与えるのは、物価である。なぜならば為替は、交易の過程で生じるからである。交易は、地球的規模で資源の過不足を調節する手段である。
輸入物価と言うように物価に直接影響するのは、輸入である。
それが端的な示されたのは、原油危機の際である。

輸出入を通じて物価が直接影響するのは、経常収支である。故に、経常収支の動向が為替の変動の根底を形成している。
そして、内外の価格差を均衡させるようとする力が常に市場には働いている。

物価には、貿易を通じて常に均衡圧力がかかっている。


世界経済のネタ帳
SNA(国民経済計算マニュアル)に基づいたデータ



開かれた市場では、物の価格は、一定の水準に落ち着いてくるという認識が購買力平価の背景にはある。
しかし、いくら市場が開かれていると言っても市場の仕組みや環境は一様一律ではない。故に、購買力平価の原則が、一様一律に成り立つと結論を出すのは早計である。ただ、一般に長期的傾向として購買力平価の原則は成り立つと考えられている。この点が重要なのである。
購買力平価は、為替の変動に直接結びついてはいないかもしれないが潜在的に底辺に働いていると考えておく必要がある。

購買力平価というのは、物の価格は、市場取引を通じて世界基準に収斂するという考え方である。
有名なの指数に、マクドナルド指数がある。
つまり、為替は、物価を通じて深く結びついているという思想である。
しかし、物価は個別の問題ではなく、相対的問題である。この点を見逃すと購買力平価という考えも絵に描いた餅となる。


購買力平価という考え方に対して為替が物価に影響を与えた例としては、円高不況が代表的な事と言える。

一般に物価を一意的にとらえる傾向がある。しかし、実際は、その国の人が所得を何にどれくらい配分するかの問題なのである。日本人は、主食が米であるからお米に対する支出は、所得に対して他の国の人より相対的に高いはずである。ヒンズー教徒は、牛肉を食べないからビーフカレーなんてありえない。必然的に牛肉に対する支出は少ない。では、インドで牛肉は安いかと言うとそうとは限らない。何をその国の人々が必要としているかによって物価の水準は定まるのである。一意的に物価は定まるわけではない。
為替と物価の関係は、その国の人が何を必要としているか関係が根底にある。



石油と為替の変動


石油は、為替の変動と物価との関係を典型的に表している。
日本にとって原油価格は、原油の価格と為替の積である。ゆえに、原油価格の変動は、為替の動きと原油価格の動きの双方に影響を受ける。

なぜ原油価格がこれほど問題となるのか。他の資源や商品が高騰してもこれほど大きく取り上げられることは少ない。それは、石油がエネルギー資源であるとともに原材料としてもあらゆる分野に浸透しているからである。石油価格の上昇は物価全体を押し上げる。また、石油は、消耗品でなおかつ必需品だからである。

1985年から98年にかけては、原油価格が高騰すれば、ドル高円安だと言われたが、1998年頃からこの関係は逆転している。(「世界金融危機のからくり」吉本佳生著 PHPビジネス新書)
石油価格の高騰と言った同じ現象が為替に与える影響は時代によって変化している。要するに相転移と似たような事象が市場に起こっていると思われる。そのような変化を引き起こす原因は、何か、その分岐点となった背景を探る必要がある。

石油価格は、原油価格と為替との積である。故に、石油価格は、原油価格の変動要因と為替の変動要因双方の影響を受けている。しかも、原油価格の変動は、為替の変動要因ともなり、石油価格は、予測不能な変動要因となって景気を左右している。

アベノミクス、黒田バズーカと言われた金融緩和策も原油価格の急落を受けて相殺された形になっている。
いずれにしても原油価格、金融政策、為替の換算効果等が複雑に絡み合って為替は変動している。

まず、石油価格の変動が為替にどのような影響を与えるかを明らかにするためには、我が国にとって石油がどのような役割、位置づけであるかを明らかにする必要がある。

石油は、第一に、戦略物資である。第二に、消耗品である。第三に、必需品であり、日用品である。第四に、石油は原材料である。第五に、石油は資源であり、石油を我が国はほとんど産出しておらず、輸入に頼っている。第六に、産油国は、特定の地域に偏っている。その産油国の多くが政治的に不安定な地域だという事である。

為替に影響を与えるとしたら、第一に、交易上の問題である。第二に、投機的問題である。第三に、備蓄などの問題である。第四に政治的な問題である。第五に、輸送や在庫の問題である。

石油価格も為替に直接的に結びついているわけではない。いろいろな前提条件や環境状況によって現れてくる現象も違ってくる。石油価格が高騰したからと言って円が安くなると単純に決めつけるわけにはいかない。

石油価格の変動が為替にどのような影響を与えたかを統計的に確かめてみる。



資源エネルギー庁


1973年~2005年にかけて全体を通して見てみると石油価格の変動に為替は必ずしも連動していない。
ただ、為替の変動は、石油価格の変動を増幅したり、縮小させたりしている事がわかる。
年代を区切ってみると様相が変わってくる。第二次石油ショックから1997年にかけての相関関係を見てみると0.9という高い相関関係を示している。

1973年から1997年までの石油と為替の相関関係
石油価格円建て千円 東京市場 ドル・円
石油価格円建て千円 1.00
東京市場 ドル・円 0.90 1.00

第二次オイルショック以後強い相関関係を示していた石油と為替の関係が一転してしまう。

1998年から2005年までの石油と為替の相関関係
石油価格円建て千円 東京市場 ドル・円
石油価格円建て千円 1.00
東京市場 ドル・円 -0.57 1.00

第二次オイルショック後、1997年までは、原油価格が上がるとドル高になると言われたのが、1998年以降は、相関関係が弱くなった上に、逆相関を示すようにすらなった。
1997年には、ロシアやアジアで通貨危機が生じている。原油価格の変動よりもロシア、アジア危機による日米の金利差の方が為替に与えた影響が大きかったと考えられる。

問題は、前提条件や状況、環境の変化である。石油価格と為替の関係を考える際、石油価格が日米の金利差や物価にどのような影響を与えるかが鍵になる。(「「世界金融危機」のからくり」 吉本佳生著 PHPビジネス新書)

輸入額に占める鉱物性燃料(大半石油)が占める割合が4割強あったのが86年以降は原油価格の急落によって急速に下げている。88年に原油価格の高騰によって石油の輸入額が占める割合に歯止めがかかり、92年にかけてやや持ち直したがその後の原油価格の下落もあってシェアを落としている。この様な事も影響して石油が為替に与える影響力が低下した事が窺える。


金利と為替の変動


金融政策は、為替に決定的な働きをする。
なぜならば、第一に、金利は、資本移動を引き起こすからである。第二に、金利は、時間価値に作用するからである。第三に、金利は付加価値構成す目からである。

今日の世界経済を動かしているのは、金利と為替、そして、時差である。
それは、国際経済が資本と所得、支出によって成り立っているからである。所得、支出は、期間損益では、収益と費用に変換される。

金利の問題は、根本的には資金の過不足の問題であり、それが経常収支や金融収支にどの様な影響を及ぼすかなのである。
資金の過不足が何にどの様に生じたかの問題である。一般に根本となるのは、貿易収支である。貿易収支で足りない部分を補い、なおかつ、決算の準備をするために、金融収支が形成される。
つまり、金融収支は、フローとストックの問題でもあり、元本と利息の関係でもある。

資金が足りない処があるから資金移動は起こる。なぜ、資金不足になるのか。それは、交易である。輸入と輸出との間に不均衡が存在していることを意味している。
気を付けなければならないのは、輸入と輸出は根本が違う点である。輸入は、不足している資源を調達することを意味し、輸出は、余剰の生産財があることを意味している。故に、税や金利に質的な差が生じる。特に注意しなければならないのは、為替の動きは、輸出、輸入に対して正反対の働きをするという点である。それが金利や税に対して質的な差を生じさせている。
肝心なのは、密度である。為替の変動は、貨幣価値に密度の差を生じさせる。つまり、財の質と量に影響するのである。

金利と為替を検討する時、一番問題となるのは、金利と元本の動きが連動していない事である。
金利に影響を受けるのは、短期に回転する金融資金が主であり、その時点時点の金融政策や経済政策を反映しているのに対して、実体的な投資は、元本部分の実体的移動を伴っている。それ故に、金利は、為替の短期的変化に影響し、元本は、為替の長期的変化に影響する。

金利と為替の関係は、金融政策が為替にどのような影響を与えるかの問題でもある。
国家間の金利差は、金融政策に深刻な影響を与える。
主要国、中でもアメリカの金利水準と日本の金利水準の差は、時には、外交問題にまで発展するくらい重大な事なのである。

好例は、85年のプラザ合意後、急速な円高によって景気が冷え込みその対策として86年に公定歩合を4度引き下げた。景気が冷え込んでいる裏側で株価の上昇と地価の上昇がみられたが、甘く見ていたきらいがある。87年のルーブル会議後、日本銀行は、公定歩合を2.5%まで下げた。87年10月にブラックマンディが発生し、東京株式市場も暴落し、公定歩合を引き上げる機を逸した事がバブルを増長させた原因となったとも考えられている。公定歩合を上げる機を逸した原因の一つとして急激な円高によって物価が安定していたことを当時の日本銀行の澄田総裁は上げている。

後々、問題となったのは、日本銀行の役割として「物価の安定」、「通貨の安定」のどちらを優先すべきかである。

金利と為替の関係で注目すべき事は、プラザ合意後も金利は、低下し続け88年まで低位を保ち続け、その後、急上昇し90年株価が天井をつくと反転して急落し、99年には、ゼロ金利政策がとられるようになったと言う点である。もう一つ留意すべきは、プラザ合意以前は、80年には、7%以上金利はあったのである。
為替の方は、プラザ合意後、高め安定状態が続いている。

ただし注意しなければならないのは、為替と金利の関係を考察する為には、日米の金利差を見なければならない。単純に金利と為替だけを照合しても相関関係は見いだせない。


日本銀行

日米金利差と為替は、極めて微妙な動きをしている。明らかに連動しているように見える局面と全く連動していないように見える局面がある。
前提や条件によって相関関係が変化することを示唆していると思われる。



ドル円為替レートと日米金利差の関係(出所:Bloombergからのデータを元にJPモルガン・アセット・マネジメント作成 2012年8月末現在。

金利と為替の関係を変化させた要因は何か。それが問題なのである。
金利は、資本収支に作用する。故に、資本収支と為替との関係も見てみる必要がある。

金利は短期の資金移動を促す働きがあり、金利差が広がれば高金利の通貨の方に資金は移動する傾向がある。

金利が為替に影響するのは、金利差が資金移動を誘導するからである。
つまり、金利が低いところからお金を調達て金利が高いところで運用すれば、少なくとも金利差分は利益をかさ上げする事が出来るからである。

この様な場合、金利の低い国の資金を調達し(低金利国から「お金」を借りて高金利国の「お金」に両替し、高金利国の銀行に「お金」を預ける。)、その「お金」で金利の高い国の「お金」を買う行為を繰り返す必要がある。つまり、金利の低い国の通貨は下落する事になる。そうすると二重に資金をかさ上げする事が出来る。それを防ぐためには、金利の低い国は、金利を上げざるをえなくなる。金利差を活用して利益を上げようとする取引をキャリートレードと言う。キャリートレードは、金利以外の要因で大きな資金移動などがあり、逆方向に為替が動くと大損をする事がある。

高金利の国には、高金利の理由がある。例えば資本の流出が激しく、インフレが昂進して購買力が低下している場合などである。
2018年8月、アルゼンチンは、トルコリラの急落を受けて政策金利を15%あげ、60%に設定した。6月のインフレ率は、年率31.2%と高く。経常赤字が国内総生産の約5%にも達している。背景には、アルゼンチン通貨のペソの急激な下落があるとされる。

またアメリカの雇用統計も為替に影響を及ぼす。雇用が悪化すれば金利を下げ。改善された場合は、金融引き締め策によって金利が上昇する傾向があるからである。

今、日本は、ゼロ金利政策をとりその為に金利を上げる事が出来ない。そうすると、他の国が金利を上げると資金が海外に大量に流失する危険性がある。
アメリカやEUが出口戦略に向かい金利を上げてきたら、必然的に日本の金利にも上昇圧力がかかる。長期金利を低く据え置きたい日本のジレンマである。
為替に働く圧力は金利だけでなく、また、為替の両替にも費用が掛かり、時間もかかるために、単純に金利と為替とを結び付けるわけにはいかない。
ただ理屈の上では、金利と為替は連動しているという事は頭に入れておいた方がいい。

また、金融と言う観点から見ると金利、為替レート、時差は密接な関連がある。デリバティブ商品は、この三つの要素を巧みに組み合わせる事で成り立っている。基本的に金利は金融収支と深い関わり合いがある。

どちらにしても資金の過不足の状態と資金の流れる方向が為替のレートを予測する鍵を握っている事は間違いない。

今日の最大の問題は、ゼロ金利と金融緩和である。ゼロ金利や金融緩和は、キャピタルフライトの原因となる。長引けは資本の流出と投機資金の暗躍を招く事になる。金融市場の規律が保てなくなるのである。
その典型が、リーマンショックである。また、山一證券の不良債権処理の際に見られたモラルハザードである。不良債権処理の問題は、30年近くたった今も散見される。

金利と為替の関係を具象化しているのが現先取引と先物取引の関係である。現先と先物の取引が成り立つのは、二通貨間の金利差と時差である。これは為替と通貨と時差の関係から生じた取引である。
これは金利平価の裏付け伴っている。金利平価は、為替レートは、二通貨間の名目金利差によって決まるという考え方である。
金利も為替も資産や負債を基にして成り立っている。これは、貨幣の本質的性格から派生している。つまり、貨幣は、それが指し示す対象と対で成り立つのであり、貨幣単体では効用を発揮しないのである。ただ、貨幣は、その本としている資産や負債から派生した価値を付加する働きもある。それが金利である。為替は、通貨の基礎的水準を特定する。それが通貨間の金利差を生むのである。この通貨の変動と金利差は、最終的に均衡するというのが金利平価である。

金利平価は、時間的均衡と水平的均衡から派生した考え方だと考えられる。ただ、金利平価を立証するのは難しい。

財政と為替の変動


財政収支は、構造上の問題である。歳入や歳出だけを見ていても解明できない。
財政赤字を問題視するのならば、財政赤字を生み出す仕組みを見出さなければ解消できない。
第一に、財政は、給付反対給付の原則が確立されていない。費用対効果を計測する手段がないのである。
収入は、収入。支出は支出としてしか評価されない。目的税と言う考え方があっても現実に収支を目的によって評価するわけではない。税は、税でしかない。それが問題なのである。

近代経済の根源は、財政にあると言える。なぜならば、国債の発行と紙幣を基礎とした近代貨幣制度、中央銀行を核とした金融制度、金納を基礎とした税制、及び、所得の再配分、商法による市場経済、公共投資による社会資本の形成等が、近代の経済の基礎を形成しているからである。

現代の国際経済は、自立した国家を基本単位として成り立っている。自立した国家とは、一つの政治体制、一つの法、一つの司法、一つの立法機関、一つの行政府、一つの財政制度(税制度)、一つの経済体制(財産制度)、一つの貨幣制度、一つの金融制度から成り立っている。
現在の金融制度で鍵を握っているのは、中央銀行の存在である。ただ、一つの中央銀行でなければならないという原則にはなっていない。

現在、世界市場には、中央銀行が存在していない。中央銀行の役割は、発券、決済、金利政策である。この内決済を行う機関、仕組みは存在するが、発券や金利を調節する機関は世界市場には存在しない。
その為に、財政が破たんした国が生じた場合、任意の救済による事になる。

財政一番の役割は、資金の循環である。その為に、資金、所得の偏在を是正する事である。その手段として税と給付による所得の再分配がある。

また、公共投資は、社会資本を構築し、物理的、地理的不均衡を是正すると同時に、投資を通じて雇用を創出し、所得の偏在を均す事である。
公共投資の重要な役割は、富の偏在を均す事である。今日の日本は、一極集中しつつある。しかし、日本の政治体制は、決して中央集権体制ではない。それなのに、経済は、一極集中に偏り、資金が地方に流れにくくなっている。
この様な問題も構造的問題である。一極集中するのは、一極集中する事が経済的に効率がいいからである。
江戸時代、戦前は、地方経済が成り立つ構造になっていた。確かに、交通機関の発達や通信といった技術革新や交通網の整備などという事も大きな原因ではあるが、経済体制が一極集中に適している事が一番の原因である。

江戸時代は、江戸と大阪、京都等が役割分担をし、多極的な経済体制をしていた。また、参勤交代などの制度によって中央と地方の交流も計られていた。現代人は、進化論に囚われてあたかも過去より現代の方が何でも進んでいると思い込みがちである。
しかし、都市計画等は、現代の日本よりずっと進んだ考え方をしていたと言える。

財政問題は、古くて新しい問題であり、国家体制が出来た時から姿を変えて現れている。そして、国際収支と財政は、不利不可分の関係として常に存在していた。国内に足りない資源をどこから調達するのかは、どの時代においても最優先の課題だったのである。

交易が発達する以前は、武力によって解決するのが常套手段であり、当然の権利として認められていた。資源の調達は、交易か、武力かでしか解決できないのである。なぜならば、実利の問題だからである。

また、国際収支と財政が不利不可分の関係にあるから、一国の財政問題、一国の財政破綻は、一国にとどまらないのである。
現在の通貨危機の多くが特定の国の財政破綻に端を発しているのがその証左である。国の首長は、自国の経済だけでなく世界経済にも責任がある事を自覚しておかなければならない。

財政は、為替に対して決定的な影響を与える。それは、個々の国が自律的な、独立した国だからである。
財政の働きの中で、為替、即ち、国際収支に決定的な影響を与えるのは、国債、公共投資、税制、金利、外貨準備高、通貨制度等である。これらの働きは構造的なものである。つまり、単独で働くものではない。

為替を変動させるのは、個々の国の経済状態であり、個々の国の資金の過不足は、ストック、フロー、外貨準備等に現れる。
交易の上で見ると資本収支、外貨準備と経常収支として現れる。
財政で最も重要になるのは、通貨の水準を維持する事であるが、為替に直接介入して通貨の水準を維持しようとすると巨額の資金を必要とする。その資金は国債の発行によって賄われる。この国債が物価に影響を与える。
物価に影響を与えないような不胎化処置をとると中央銀行がそのつけを負う事になる。
為替の介入の是非もある。

為替は、通貨制度の一部である事を忘れてはならない。つまり、金融制度と通貨制度は表裏をなしている。また、金融制度は財政とも密接な関係にある。故に、通貨政策や金融政策の影響下にあるのは必然的である。

財政状態を見る場合、どこに不均衡があるかを見る必要がある。つまり、国内に不均衡があるのか、海外との間に不均衡が存在するかである。日本の場合、資本収支は、出超、つまり、資金は余剰な状態である。つまり、不均衡が存在するのは、国内だという事になる。この場合は、国内の部門間、即ち、家計、民間企業、財政間にある資金の不均衡を是正しない問題は解決できないことを意味している。

財政で重要なのは、資金不足に陥った時、どこから資金を調達するかである。国債の引き受け手が国内にいるか、国外に求めざるを得ないのか。基本的に、国内が資金不足に陥っているか、潤沢に資金を蓄えているかによって決定的に違ってくる。
海外に資金を頼った場合、資金の運用には制約がかかり、一定の金利も要求される。

元来、財政赤字も経常赤字も部門間の不均衡による。赤字が是か非かではなく。赤字の原因が重要なのである。財政も、経常収支も赤字の場合は、赤字になる理由があるのである。基本的に部門間の総和はゼロになるからである。無理やり財政を黒字にすれば赤字になる部門が生じる。

バブル崩壊後、民間企業が資金余剰主体に転換した、その後は、財政が一手に負の部分を担ってきたが支えきれなくなって貿易収支も赤字に転じた。
問題は、なぜ、民間企業が資金余剰主体に転換したかである。



財政と為替の関係をもっとも端的に表しているのは、国債である。
国債と為替との関係を垣間見せた事件の一つがロシア危機である。

ロシアは、市場経済に移行後、何度か経済危機に陥っている。
その一つが1998年8月に発生した、ルーブルの暴落とルーブル建ての国債の債務不履行である。
ロシア危機は、1997年に発生したアジア危機の煽りを受けて起こった。

国債が為替にどのような影響をどの様にして与えるかは、国債を誰が一番所有しているかに大きく関わっている。国債を国内の個人や機関が持っている場合と国外の個人や機関が持っている場合とでは、影響は、根本的に違ってくる。


日本銀行


必要な財を市場から手に入れるためには、資金が必要である。
最初から市場に資金があるわけではない。資金は、投資か、貸付によって市場に供給される。
資金を生産するのは、国である。国は、資本か、金融機関からお金を借りる事で、資金を創造し市場に供給する。

紙幣は、資産ではなくて負債を形成する。紙幣の本は国債である。つまり、国の借金であり、紙幣も、借金も支払猶予を前提として成り立っている。

国家も同じである。国が産業を興そうとしたら資金がなければならない。資金は、他国に国内の資源を売って調達するか、他国や自国民、金融機関から借りるかしかない。売る資源もなければ金を借りる事も出来ず、投資もしてもらえなければ、産業を興す事はできない。
資本市場は、すべての国や人に恩恵を施す事はできない。資本市場の限界を直視しそれを補う方策を講じないと国際市場は、機能しなくなる。

問題なのは、「お金」がなければ何も手に入らないのに、はじめっから「お金」があるわけではないと言う点である。「お金」を必要としている者のところに必要なだけの「お金」があるわけではなく。また、「お金」を必要としていない者のところに大量な「お金」があるといった事態である。
これは国でも同じである。資金を捻出したくても、売る物も蓄えもない。そうなると他国から投資をしてもらうか、金を貸してもらうしかないというのに、誰も投資も金も貸してくれない。大体金を借りても返す当てがない。こうなると経済を発展させようがなく、市場経済から取り残されてしまうのである。

国家の経済構造は、建国時の初期条件によって制約される。この点を考慮しないと国際交易の実態は見えてこない。

国内にある人、物、金の資源を使って資金が調達できなければ、他国から資金を調達しなければならなくなる。
それは、ある意味で他国の管理下に入る事を意味する事にもなる。

世界は、不均衡なのである。その不均衡な世界をあたかも均衡しているがごとく、貨幣経済制度は錯覚させてしまう。それが貨幣経済の限界である。貨幣は、一つの手段であって全てではない。会計的空間が均衡しているからと言って物的空間や人的空間が均衡しているとは限らない。
全体は、神の世界であり、人は、常に不完全な世界で生きている事を忘れてはならない。

人手不足と余剰人員は、常に混在している。人手が不足している仕事と人が余っている仕事がある。人手不足の地域もあれば失業を多く抱えている地域もある。
経済学者は、仕事がなければ仕事を代えればいいと簡単にいうが、仕事はその人の人生でもある。その人その人の生き様、一生がかかっているのである。人は、仕事を簡単に変える事が出来ないから苦しんでいるのである。
人と仕事の偏り、人と物の偏りが国際交易を生み出す。しかし、人と仕事の偏り、人と物との偏りが交易を破綻させる原因ともなるのである。

なぜ、財政は、破綻するのか。それは、財政が単式簿記的な発想に基づいているからである。単式簿記というのは、基本的に現金主義である。それに対して複式簿記は、期間損益に基づいている。期間損益は、現金主義的なゼロ和に均衡するわけではない。会計上、黒字の経済主体と赤字の経済主体が均衡しているわけではない。

「お金」は、「お金」だけで成り立っているわけではない。交換の対象となる財があって「お金」はその効用を発揮する事が出来る。故に、「お金」の流れの逆方向に流れる財の流れがある。

「お金」の働きは、単方向にとらえていては明らかにできない。「お金」の働きを明らかにするためには、「お金」の働きを双方向な働きとして再認識する必要があるのである。
現在の財政は、単式簿記的単方向の働きとして認識している。そのために、負債を制御する事が出来ないでいるのである。
赤字か、黒字かといった局所的な見方だけでなく。全体的働きから個々の部分の働きとして適正かどうかを見てみないと赤字の持つ意味、黒字の持つ意味は明らかにできない。

期間損益は、資産と負債、収益と費用の均衡を計りながら「お金」の働きを制御するために設定されている。
故に、損益は、資産と負債、収益と費用の均衡点に設定されなければ意味がない。
「お金」は負債によって発生する。
収益を費用が下回っていると負債は減少し、収益より費用が上回ると負債が増加する。
収益と費用との関係は、負債の増減に影響を及ぼし、負債の量を調整する役割を果たしているのである。
期間損益は、資産と負債、収益と費用の水準を保つ事に主たる目的があるのである。




国際収支の構造


国家間の交易は、国際収支として表される。
国際収支は、国家間の「お金」のやり取りを数値的に表したものである。
国際収支の構造は、国家間の売り買い、貸し借り、授け受けの組み合わせを反映したものである。

注目すべき点は、売り買い、授け受けを表した部分と貸し借りを表した部分に分かれる事である。
売り買い、授け受けの部分を表しているのが経常収支であり、貸し借りの部分を表しいるのが資本収支である。
経常収支を構成するのは、第一に、貿易収支、第二に、サービス収支、第三に、所得収支、第四に、経常移転収支である。それに対して資本収支を構成するのは、投資収支とその他資本収支である。経常収支と、資本収支、外貨準備高の和は均衡する。

国際収支の根底は、貸し借り、授け受け、準備金なのである。貸し借り、授け受け、準備金の上に売り買いが成り立っている。この構図こそ市場経済の本質を表している。

国際取引において、売りと買いは均衡してゼロ和である。貸し借りもゼロ和。経常収支と、資本準備、外貨準備高の和はゼロ和である。経常収支の国際市場の総和は、ゼロ和である。資本収支の国際市場の総和はゼロ和である。
この国際収支の関係によって世界市場は制御されている。

無償の資金供与は、経済援助という形で行われる。
資金供与をしてもその事業を資金供与した側の企業が全額請け負った場合は、資金的な利益は、供与された側には生まれない。
無償というと、代償を求めないという意味で、資金を供与する側に何の利点もないように錯覚しがちであるが、いくら資金1を供与してもそれが回収できれば問題はないのである。

それは、個人の次元で他人に「お金」を恵んでやるのと意味が違うのである。なぜなら、個人はお金を作り出す事はできないが、国家は、「お金」を発行する権限を持っているからである。個人と国家とは、本質が違うのである。

  
日本銀行


無償の行為


無償の行為というのが経済的価値がないというのではない。ただ、無償の行為には、市場価値がないという事である。

無償の行為というのは、見返りを求めない、代償を求めない行為である。
現在、反対給付のない行為を経済的行為とはみなさない。なぜならば、反対給付が成立しない行為は、貨幣価値に換算されないからである。
市場経済は、交換を前提として成り立っている。交換価値を認められない行為や物は、経済的価値を顕在化できないからである。交換は、双方向の働きを前提としている。市場経済は、双方向の働きを前提として成り立っている。

市場経済で経済的行為として認知できないからと言って経済的価値がないというのではない。ただ市場において経済的価値が認知されないというだけの事である。
ボランティア活動も経済なのである。経済は金儲けばかりを指すわけではない。政治も本来はボランティア活動だとみなすこともできる。
また、家事、育児、出産のように市場性が乏しいからと言って経済的な価値がないというのは、間違いである。「お金」の動きと結びついていないから、市場では、経済的価値が認識できないというだけの話である。
反対給付を求めずに「お金」を渡す事も、対価を求めずに物を渡したり、働いたりする事も本来経済的行為の一つなのである。

反対給付なしで「お金」を手渡す行為は、贈与、寄付である。報酬を求めずに物や用益を与える行為を無償という。国家的な贈与の例としては、戦時賠償や戦争を含む災害復興資金、政府開発支援(ODA)等がある。

戦争賠償は、第一次世界大戦後にドイツ人せられた過大な賠償金がドイツのハイパーインフレの引き金を引き、ひいては、ナチスの台頭を許し、第二次世界体制を準備したと言われている。
復興支援金としては、欧州復興計画マーシャルプランが有名で、第一次大戦後のドイツに対する戦時賠償とは逆に、戦後ヨーロッパの復興の基礎を築いた。
この様な無償の資金援助も単に消費に向けられている限り、相手国の経済成長に一時的な効果を出す事はできても、持続的に寄与するところは、少ない。生産手段に対する投資に向けられる事で、継続的な経済の拡大を触発することが可能なのである。

一つの国の内部では、お金が不足している自治体に対して財政機能によって資金を回したり、所得を再配分する事で、均衡を保っている。
しかし、国家間でお金を無償で与えるとか、受けるという行為はきわめて稀で、通常は、経済の大きなお金の流れは、お金を借りて買うか、お金を貸して売るかである。
この関係は表裏をなしている。そして、経済主体間に赤字と黒字の関係を生み出す。赤字の経済主体があれば、黒字の経済主体があるという事を意味する。

重要な事は、貨幣経済は、「お金」の還流によって、物の流れを促す事で成り立っているという事である。
物の流れと「お金」の流れを関連付けているのは、交換という行為であり、交換という行為を伴わない無償の行為というのは、「お金」の流れと物の流れとを関連付ける効果を殺してしまう。

通常の流れは、お金を貸して売るか、お金を借りて買うという事である。何の代償も求めずにただ「お金」を渡すという行為は、一般の経済行為とはみなされない。経済行為は、「物」と「お金」、「お金」と「お金」、「労働」と「お金」、いずれの関係も双方向の働きを前提としており、無償の行為というのは、一方的な働きしか生まないからである。

市場取引は、対価と反対給付から成り立っている。対価も反対給付もなく、ただ、無償でお金を転移するというのはきわめて稀な取引である。

「対家計民間非営利団体」の活動は、経済的には無視されている。しかし、非営利団体と雖も経済活動をしている事にはかわりない。対価を得る事は、悪い事ではない。むしろ対価をとらないと経済活動として市場に認知されない。使命に燃えて非営利活動をしている人たちも霞を食べて生きているわけではない。それなりの対価を得る事は恥ずかしい事ではない。問題は、そのような活動が営利事業として成り立たない事である。それが社会にとって必要な事業なら、ボランティアに頼るだけでは本来の意義を失うだけである。


利益は指標であり、交易の働きは現金の動きに依る。



利益は、基準であり、指標である事を忘れてはならない。そうしないと利益を目的化する傾向が出てくる。利益を目的化すると利益本来の働きが見失われる。鍵を握るのは、現金の働きである。
経済の働きを認識する為には、減価償却費、利益処分、元本の返済がキャッシュフローに与える影響が重要なのである。
特に、利益処分は、税、配当、役員賞与の配分が重要であるが、税引き後利益が元本の返済の資金源に充当されることを見落としてはならない。税引き前利益から税に配分される部分が大きくなるとそれだけ資金繰りが圧迫され、その分、負債が増加する。
場合によっては、現金収支以上の納税をしなければならなくなり、売上による収入以上の資金の流出を招くこともある。それは負債の増加を招く。

経常収支、財政収支、民間収支は、連動している。そして、資本収支と経常収支は、表裏の関係にある。現金が不足している経済主体は余剰の資金を持っている経常収支から借りなければならない。なぜならば、現金収支上は常に残高は、常に、正の値を保たなければならないからである。残高が正の値が保たれないと決済ができなくなる。
ユーロのような共通の通貨に基づく国家間では、財政を一体化する必要がある。それが不可能な場合は、超国家的機関によって過不足を調整する必要が出てくる。
そうしないと、資金の循環が滞り、経常収支の不均衡によって負債が累積する事となる。なぜならば、為替の変動によって経常収支を調節する機能が通貨圏内では働かないからである。
通貨圏域内の不均衡を是正する手段としては、国家間の国際分業を確立し、国家間の収支と貸し借りを均衡させる。又、超国家的な事業によって現金が不足している地域に資金を供給し、雇用を創造する事が考えられる。

財政赤字の国は、お金を貸して物を買う。あるいは投資をしているから赤字になるのである。また、経常赤字の国は、お金を貸して物を売る量よりもお金を借りて物を買う量の方が多いのである。この点を考慮しないと経常赤字の働きや財政赤字の働きは理解できない。
基軸通貨国になる為には、他国に自国の通貨を準備金として持たせておく必要があるから、必然的に、お金を借りて物を買う。つまり、経常赤字国にならざるを得なくなる。
慢性的に赤字を続けると負債は、累積する。
企業が大きくなると多国籍化せざるを得ないのは、赤字と黒字を国家間でスイングしなければ均衡が保てなくなるからである。

経済現象の多くが、不可逆的事象だという事実である。それが経済問題をより複雑なものにしている。

交易は為替に反映される


一般に貿易赤字は、その国の通貨の売り要因となる。しかし、現実には、必ずしもそうならない。貿易収支が赤字だというニュースが流される以前、市場がどのような事前予測をしていたかに影響されるからである。
貿易収支は、国際収支の根幹を構成している。
今日、投機的資金の動きが国際収支に大きな影響を及ぼしてはいるが、基礎的な部分は貿易収支に依存している事には変わりはない。
貿易収支は、為替のレートに直接影響をすると同時に、為替のレートからも調節影響を受ける。つまり、強い相関関係があることを意味している。

ニクソンショック、円高不況と為替の変動は、日本経済を根底から揺すぶってきた。それは、日本の産業構造を根底から変えてしまうほどの衝撃を与えた。
ニクソンショック、ドルショック、そして、その二年後の1973年に起こったオイルショック以来、日本経済は為替と原油価格の動向に振り回されている。

為替の動向が日本経済のどの部分にどのような影響を与えるのかを見極める事は、日本経済の動向を予測するうえで不可欠な事である。

為替は、前提となる条件や国際交易を色濃く反映している。為替を動かしている要因は、多様であり、かつ複雑に入り組んでいる。そのために、為替をの動向を予測する事は困難を極めている。
為替の動向、例えば円高がどのような環境下、状況下において日本経済のどの部分にどのような影響を与えているのかを明らかにすることが肝要である。

為替と経常利益、営業利益、販売費及び一般管理費、売上高、売上原価、棚卸資産との相関関係を時代別に調べてみる。

経常利益 営業利益 販売費及び一般管理費 売上原価 売上高 棚卸資産
1980~1989 -0.87 -0.83 -0.85 -0.83 -0.84 -0.90
1990~1999 0.60 0.54 -0.66 -0.04 -0.22 0.12
2000~2013 -0.24 0.02 -0.36 0.27 0.20 0.04

80年代は、経常利益、営業利益、販売費及び一般管理費、売上高、売上原価、棚卸資産、全てが為替と強い逆相関関係にあった。
逆相関関係というのは、利益も費用も円高になると上昇している事を意味する。

それが90年代に入ると経常利益も営業利益も正の関係、即ち、円高になると減少することを意味するようになる。費用だけは、逆相関関係を保ちながら他の要素は、相関関係が薄れていく。

これは前提条件が変化したことを示唆している。為替は、複数の要素の働きが絡み合って起こって結果である。何かの要因が直接的に働いているという訳ではない。あえて言うならば、「お金」の流れる方向によって決まるのである。「お金」の流れはどのような要因によってどのような方向に流れるのかを考える事である。



グローバリズムは、所得を平準化する


グローバリズムは、ワンワールド、即ち、世界市場を統一的規格によって運用すべきだという思想である。
必然的に水平方向の均衡を強く求める事になる。
つまり、一つのルールで世界市場を統制しようとする思想である。

世界中の人が人種、民族、宗教、国家体制、思想信条といった枠組みを超えてオリンピックに参加できるのは、ルールが統一されているからである。市場にこの様な統一的ルールを導入しようというのがグローバリズムの本旨である。
このような思想は、必然的に前提条件の統一化を求めるようになる。

その手始めが、会計制度であり、決済の仕組みであり、取引法や商法である。
前提条件が違えば公正な取引は保証されない。
劣悪な労働条件や低賃金で低廉な商品を大量に輸出されたら国内の産業は壊滅的な打撃を受ける。
また、それを許せば貧困の輸出と糾弾を受ける事にもなりかねない。

貿易業者の倫理観を信じるしかないとしても現実に同じ品質の商品が安く販売されたら安い方に消費者が流れるのは、自由主義市場の鉄則であり。妨げる事はできない。
必然的に為替の水準によって調節しようという考え方が生まれる。
また、市場を保護しようという勢力の台頭も許す。
そういう意味では、グローバリズムは両刃なのである。

市場価値を統一するのは価格である。
価格の弾力性が失われれば、市場経済も硬直化する。

グローバリズムは、価格によって所得を平準化する。
市場のグローバル化には、価格を普遍化する働きがあるからである。
所得を平準化しようとする働きは、格差を拡大する傾向を持つ。

価格による所得の平準化は、平均と分散が深く関わる。

所得の平準化は、所得水準の高い国の低所得水準を引き下げようとする圧力を産み。逆に所得水準の低い国の高所得水準を引き上げることで全体の平均を一致させようという働きがあるからである。

所得水準が高い国では、高所得者は自分の所得の水準を維持し、逆に低所得者層の所得を下げる事で平均値を下げる事が容易く。逆に、所得水準が低い国では、高所得者の所得水準を上げて、低所得者の所得水準を維持して平均値を上げようとする。そのために、全体的な格差が広がる傾向が生じる。

格差は、何も物理的な事に限らない。能力といった無形な事にも及ぶ。
格差は、スポーツ、芸能人、政治家、医者といった本来、実力本位でなければならない分野にまで及ぶと事態はより深刻となる。
格差の拡大の問題点は、世代間を超えて持てる者と持てない者の格差につながる事である。格差が世代間を超えていくと、格差は固定化し、硬直化していく。格差が固定化し、硬直的になると、社会に階級が生じ、経済の活力が失われていく。
問題は、格差にあるというよりも能力もないのに、たまたま親が資産家だったり、実業家だったという理由で持てる者になり、格差が硬直化し、形骸化する事で世襲化され階級化されたり特権階級となる事である。

オリンピックが成り立つのは、同じ条件で協議できる場が確立されているからである。国際市場にこの様な場が確立できなければ、公正な交易は保証されない。しかし、交易は、スポーツと違って直に生活につながっている。一朝一夕でそのような市場が確立されるとは思えない。問題は、公平公正な市場を確立するための道程を明らかにする事なのである。


経常赤字は、是か非かの問題ではない。


国際収支で問題なのは、国際収支の不均衡が、持続可能な事か、そもそも、恒久的な事かである。
現在、国際的な国際収支の不均衡は拡大する傾向にある。問題なのは、なぜ、国際収支の不均衡は生じ、それがどのような影響を何に対して及ぼすかなのである。

国民経済計算書では、経常収支では、正の値を黒字、負の値を赤字とする。資本収支においては、正を流入、負を流出としている。いずれにおいても流れる方向を示しているのであり、良否を表しているわけではない。
一般に赤字は、悪くて、黒字ならいいとされるが、基本的に国際取引は、ゼロ和であり、黒字主体が表れれば、赤字主体も対極に現れる。つまり、黒字か、赤字かは、位置、すなわち、ポジションの問題であって良否の問題ではない。
その点を誤解すると経常収支や資本収支の是非は論じられない。
重要なのは、相対的幅と変化の方向、分散であって黒字か、赤字かではない。

黒字になるか、赤字になるかは、前提条件と経済主体間の相対関係によるのである。

経済が成熟し貿易収支が所得収支が伸び悩んできたら、重要な役割を持つようになる。所得収支では、国内の債権債務の関係と海外との債権債務の関係が重要となる。
国際交易では、どっちが勝って、どっちが負けたと言った勝敗関係は意味を持たない。2011年以降貿易収支が赤字に転じたのに、経常収支が黒字なのは、所得収支によるところが大きい。所得収支なのは、貯蓄が過剰である事が要因であるが、貯蓄が過剰だという事は、金融、財政の負債が過剰だという事でもある。企業、家計の貯蓄は、財政、金融の負債となるのである。そして、海外部門との力関係が重要になる。黒字としている相手国がどこかによって所得収支の働きが違ってくるからである。

海外との交易は、経常収支と金融収支の均衡として表される。

貨幣経済下の市場は、貨幣空間と物的空間の二重構造を持つ。これに人的空間を加えると三重構造になる。
貨幣経済下の国際市場で、経常赤字というのは、お金を輸出して物を輸入している状態を言う。逆に経常黒字はお金を輸入して物を輸出している状態を言う。

よく経常収支が赤字か黒字かが問題となる。
しかし、本来、貨幣経済の問題で大切なのは、生産の問題ではなくお金を如何に循環させるかの問題である。それは、赤字化、黒字化の問題ではなく、均衡の問題であり、所得の問題である。如何に所得を適正に配分するかの問題である。
赤字だとしたらその赤字をいかに何処に付け替えるかの問題であり、是非善悪の問題ではない。経済は均衡が大事なのである。
黒字が良くて、赤字か悪いというのは、お門違いである。
赤字国に責任があるとしたら、黒字国にも責任があるのである。

それを現しているのが、マンデル・フレミングの法則である。
マンデル・フレミングの法則とは、「資本の自由な移動」、「為替相場の安定」、「独立した金融政策」の三つを同時に成り立たせることはできないという法則である。

マンデル・フレミングの法則は、国際収支を考える上で標準的な分析の枠組みであるが、あくまでも、短期的な分析には適していても長期的な状況を分析する手段としては適していないとの指摘もある。(「入門 国際収支」日本銀行 国際収支統計研究会著)

何かというと国際競争力を高めなければならないというが、競争力の本源は、付加価値にある。技術革新とか新規事業と言っても限られている。それよりも圧倒的なシェアがあるのがコモディティ産業である。現に、新興国の多くは、コモディティ産業を梃子にして先進国へと迫っている。

競争力を高めろと言っても競争力の本源は、付加価値にある。付加価値の中でも人件費である。故に、競争力を高めるためには、相対的に人件費を下げなければいけなくなる。人件費を抑えられなければ、減価償却費、地代、家賃、支払利息、税が占める割合を圧縮する以外に利益を維持する術はない。

減価償却費は、設備投資を分母としている。地代家賃は、地価を、支払利息は、債務残高、税は、税収を分母としている。これらは、管理ができない固定費である。地代家賃、支払利息と言うのは、債務残高と資産効率が基になり、この裏側にあるのは設備投資である。これらは、設備投資は、新規参入組にとって効率化しやすい。なぜならば、設備投資は、技術革新がしやすいからである。そうなると競争力は、人件費が鍵を握っている事になる。

故に、人件費が低いというのは、コモディティ産業においては、圧倒的に優位に立てる。この点を誤魔化している限り、経済を立て直す事はできない。

人件費が高い先進国が新興国に太刀打ちできないのは、先端設備や技術と安い人件費にある。人件費の上昇は、新興国から競争力を奪う事にもなる。

多くの学者や評論家の間違いは、付加価値の高い仕事をする事によって競争力を付ければいいと勘違いしている点にある。彼らの言う付加価値と言うのは、高度な技術や知識を必要とする仕事であり、自意識が過剰だからそういう発想ができるのである。高度な技術や知識を持てずに単純労働しかできない人間の雇用をどうするのかと議論しているのに、大学院を卒業するくらいの技術や知識を習得する事を前提として経済改革をしようと言うのは、狂気の沙汰である。
そのような飛躍した考えをするのではなく。平凡で、普通の能力を持つ労働者の仕事をいかに確保するかの問題なのである。

全ての野球選手は、スパーヒーローでない。プロ野球の選手になれなくても教育者として子供たちを育成する事はできる。学校の先生に要求されているのは、プロ野球の選手レベルの技能ではない。

トラックの運転手の負担を軽減するための技術とトラックの運転手を必要としなくする技術とでは経済に与える影響は、全く違ったものになる。
とかく、学者は自惚れて知的労働の優位性ばかりを強調するが、単純労働があるから社会は成り立っているのである。

この点を理解しないと人々を豊かにする目的の技術が人々をかえって貧しくしてしまう。

労働は、本来一律ではない。肉体労働と知的労働は、性格が違う。しかし、どちらの方が優れているかなどと言う議論は愚かである。仕事の成果に対する評価はあったとしても、仕事そのものに優劣はないのである。

人を見下している者が称える平等論程鼻持ちならないものはない。
そういう学者や評論家にかぎって大学の数を増やし大学卒業者を増やせば日本人の学力が上がると主張するのである。しかし、それは、日本の大学の質を低下させるだけである。



最終的には、労働の対価に還元される


技術革新は、人の役に立ってこそ本来の役割を果たす事が出来る。金儲けのために、あるいは、自己満足のために経済はあるのではない。経済は、生きるための活動を言い。人を生かすための行為である。

経済は、家計、企業、財政、海外、金融の五つの部門から成り立っている。厳密にいえば、「対家計民間非営利団体」があるが、政治的な影響力は別にして経済的には、影響力が小さいから度外視してもいい。
各部門の働き、役割は、家計は、消費の単位であり分配の根拠となり、労働力の源となる。企業は、生産の単位であり、収入と個人所得を整流する。財政は、公共サービスを提供し、共有資産(社会資本)を構築し、所得を再配分する。金融は、「お金」を供給し、過不足を是正し、還流する。海外部門は、国内の財の不足を補い。国家間の決済を準備する。
経済の目的は、分配にある。その分配の根源は、即ち、分配する相手は、全ての人民である。つまり、満遍なく全ての人に富を分け与える事が経済の仕組みに求められることなのである。
その為にはどの様な手段によって何を根拠とすべきなのか。それが経済の機構、仕組みの設計思想となるのである。
国民経済、自由経済では、分配する手段は、所得である。必要な資源を市場で所得に応じて調達させることで公平な分配を実現する。それが自由経済の根本思想であり、国民国家の理念なのである。全ての国民に公平に所得を行渡らせる事、それが、国民国家を実現するためには必須となる。それ故に、所得を与える根拠として全ての人が等しく所有する労働力を基準とするというのが自由経済の基本理念である。
それは、最終的には、賃金労働に所得の基準を収斂させるという考え方になる。その場合、私的所有権との兼ね合いが重要となる。なぜならば、私的財産も生産手段となり、所得を生み出すからである。この二つの資金源をいかに調和させるかが自由主義の肝となる。

経済と言うのは、分配の仕組みである。
仮に千人の社会があるとして一人の人間が九百人分の所得を独占したら公正な分配はできない。しかし、千人の所得を一律にしてしまったら生産、消費、分配を関連付けられない。
作用反作用、給付反対給付、取引反対取引によって生産、消費、分配を関連付けるのが市場である。給付反対給付の関係を支えているのが対価である。
対価は、財の評価であり、財の評価は、生産手段にものとづく。労働力だけが生産手段ではないが、基本は労働力に基づく。なぜならば、労働力は個人固有の生産手段だからである。
財に対する対価があるから、財と生産手段は関連付ける事が出来る。必要性は、相対的なのである。地域によって必要とする物は違ってくる。環境によっても違う。個人の嗜好によっても違う。同一に扱う事はできないし、同一に扱う事は不平等である。
生産は、一人ひとりの能力や働きによって違う。
故に、分配は、その人その人の必要性に基づかなければならないし、その人その人の働きに応じる必要がある。だから、一人ひとりの報酬を一律にしてしまったら生産、消費、分配は結びつかなくなったしまうのである。

所得は人的資源に基づき、生産は物的資源に基づいている。しかし、人的資源の分散と物的資源の分散は一様ではなく、整合性がとれているわけでもない。
経済の仕組みは、人的資源の分散と物的資源の分散の整合性をとり、分配を公平にする目的で構築される体系である。

人的資源とは、労働力である。故に、所得は、労働力に帰す。

市場経済では、資金や財は市場を介して交換によって得られる。つまり、所得は、労働手段と交換に市場から得られる。

人的資源の分散と物的資源の分散の不整合は、あらゆる社会の格差の背後に潜んでいる。格差の根源とも言える。資本主義社会では、労働や資本という資源を活用できる場がなければ、資金を手に入れる事は出来ない仕組みになっている。働きたくても働く場がない者達と、働く場を提供するだけで所得を得られる者との差は容易には埋められない。

経済状態を決めるのは、物的資源と人的資源の分散の不均衡である。
物的資源と人的資源の不整合は、収入と支出の構造の非対称性となって現れる。
物的資源が乏しい地域の者は、他所から資源を持ってきて加工し他の地域に売らなければ資金を手に入れる事は出来ない。分業が進化すると、余剰な資源を持つ者と資源が不足している者が相互に融通し合う必要が生じる。相互に資源を補い合う事によって交易は発達する。

所得に占める可処分所得率の低下は、競争力を低下させる。有効に使える所得が総所得に占める割合が低下する事は、総費用の上昇を意味するからである。
重要なのは資金効率なのである。

分配の基準が個人所得にある以上、最終的には、個人所得の均衡に向かう事は必然である。所得の根拠が労働と所有ならば、労働をいかに評価するかが鍵となる。
経済の仕組みの役割は分配であり。腰戦の持つ生産手段である労働力を根拠とする事ではじめて公平な分配が可能となる。
労働をいかに計測し、評価するかそれが問題なのである。労働は単純に量だけで測る事が出来ない。労働を測る基準は相対的なのである。問題は、労働が生み出す、経済量、付加価値である。
近代は、その解決策を賃金に求めた。最終的に賃金に収斂させることで労働の経済量を可視化、数値化、可算化、計測化できるようにしたのである。これは、自由主義、社会主義、全体主義を問わずである。労働に対する反対給付、対価として賃金を支払うそれを原則としたのである。それは貨幣経済が浸透する過程で実現した。また、現在もその過程にあり、全てが賃金労働に統一されているわけではない。農家や漁業、個人商店のような個人事業主等の存在や働きは現代社会において不可欠である。ただ、税制は、そうした個人事業も賃金労働に還元するよう働きかけている。

そして、その担い手として資本家による民間企業を主とするか統制的全体主義国家権力を主とするか、社会的機関を主とするかによって国家の経済体制は定まるのである。

資本主義国家は、資本の基づく民間企業を主とする体制である。そして、民間企業は、不確実で波のある収入を整流し、定収化する事で所得を安定させるのが役割である。この様な個々の働き、役割を理解しないと現在進行している問題は解決できない。

労働を基準とする事は、仕事をいかに作り出すかが一番の課題となる。「お金」の視点だけで見ていたら経済の本質は見えてこない。儲ける事が目的ではなく、社会が生み出した富をいかに分け与えるかが問題なのである。
経常収支が黒字だから内需を拡大しろと言われて無闇に公共投資を目的もなく乱発するのは、無駄遣いであり、後々、財政に禍根を残す事になる。
公共投資で重要なのは、継続的な仕事を生み出す事と「お金」を循環させる事である。その為に求められるのは、拡大再生産に結び付く投資であり、仕事である。公共投資に求められるのは、仕事を作る事、就労機会を生み出す事なのである。ただそれが単に消費に向けられるだけでなく、税や民間企業の利益になる事でないと意味がない。公共投資の役割や働きを理解していないと国家の存亡すら危うくしてしまう。

「お金」の世界と物の世界は違う



お金の世界と物の世界とは次元を異にしている。
物の世界には、最初から貨幣は存在していないのである。貨幣という存在は、純粋に人工的な物なのである。
貨幣が貨幣としての働きをするためには、市場の信認がなければならない。市場の信認は、貨幣が制約する事を根拠にして得られる。

市場取引が成立するためには、売り手は商品を買い手はお金を所有していなければならない。一つ、この関係が成り立つためには、所有権が確立されていなければならない。もう一つは、市場にお金が満遍なく行き渡っている事が前提となる。つまり、貨幣制度が成立するためには、いかにして貨幣の信認をとりつつ、市場に満遍なく市場を行き渡らせるかが鍵を握っている。また、信認をとりつつ、貨幣を満遍なく行き渡らせるためには、貸借関係が不可欠なのである。

物は、消費されれば終わりである。しかし、お金はそういうわけにはいかない。お金は循環させなければならないのである。
役割をおえたお金は一旦貯蓄されるのである。そこでも貸借関係が生じる。

売り手は、買い手がお金を所持していなければ、何らかの形で相手にお金を渡す必要がある。一つの手段は、何らかの物かサービスと交換でお金を手渡す事である。お金を貸す事である。いずれにしても、売り手、買い手が貨幣の価値を信認している事が前提となる。
お金の価値が信認されていない場合は、お金を貸して財を売る事を手始めとする。
生産者は、お金を貸して生産物を売り、お金を回収する。しかし、これで終わるとお金は循環しなくなる。故に、又お金を貸す。この関係だけでは、債務は、一方的に累積していってしまう。そこで逆方向の流れが必要となるのである。

一方的に生産し、一方的に消費するという関係は成り立たない。生産と消費との間を仲介するのが、労働と報酬である。労働と報酬によって所得の基本は形成される。それが原則である。



経済産業省 資源エネルギー庁

石油を例にとってみてみると、石油の消費量にも変動がある。しかし、石油価格の変動から見ると小さい。
石油の輸入量は、実需によって決まるが輸入価格は相場によって決まる。
物の価値を決める原理と「お金」の価値を決める原理には違いがある。物や人の価値よりも「お金」の価値の方が敏感に反応する場合が多い。
特に、市場が小さいと貨幣感度が高い。

価格は、必要性から決まるわけではない。基本的に需給によって決まる。生きていくために不可欠な資源でも必要以上に生産されれば安くなる。逆に生きていくために何の役に立たない者でも数が少なくて無性に欲しがるものがいれば、価格は天井知らずに跳ね上がることもある。


戦争は、国際収支の枠組みを変える




戦争の真の原因は経済である。経済的理由があるから戦争になるのである。
経済とは生きるための活動である。子孫を増殖する事も含めて生きる為に必要な活動を経済と言うのである。
経済は、金儲けではない。「お金」を儲けるのは、市場経済下では「お金」がなければ生きられないからである。生きるための活動が「お金」によって制約されるからである。人は、「お金」のために争うのではない。生きる為に戦うのである。
野生動物でも生存圏を侵されたら争いになる。
この本質を理解しないと戦争の真の原因は理解されない。人は、戦いたいから戦うのではない。生きる事が出来ないから戦うのである。言い換えれば、相手が生きる事の出来ないような状態に追い詰めれば戦いは避けられなくなる。
故に、交易は、外交の始まりである。交易によって外交は始まり、交易によって戦争を回避する。それが外交の本旨である。外交が破綻した時戦争が始まるという所以である。

財政が破綻しかけると他国に戦争を仕掛ける事で財政を立て直そうとする。皮肉な事に財政破綻の最大の原因は、戦争である。
戦争があるたびに、国債が発行され、それが、また、財政を逼迫させる。
悪循環である。国債が債務不履行になると国民経済は成り立たなくなり革命やクーデターの火種となる。

反面に、国債は、紙幣の本となり、中央銀行の設立を促した。
資金調達に成功した国は戦争に勝利し、近代国家の仲間入りを果たしたのである。

そして、貨幣制度の基準は、国際決済の仕組みによって形成された。金本位制度がその好例である。
所謂帝国主義時代。戦争と平和の狭間で為替制度は形成されたのである。しかし、いまだに帝国主義時代の残渣を引きずっている。

財政、税、国債、賠償金、そして戦争によって近代という時代は形作られてきたともいえる。
第一次世界大戦後、ドイツの賠償金を巡って国際決済銀行BISが設立され、また、過酷な賠償金がナチスドイツの台頭を準備した。

日清戦争の賠償金によって日本は近代的貨幣制度の礎を築かれたし、日露戦争の時、高橋是清の活躍によって国債によって調達した資金によってロシアと戦い抜く事が出来たのである。

経常収支は、国家間の資金の過不足の現れでもある。
一番、重要なのは、国際市場は、ゼロ和だという点である。
経常収支は、国家間の資金の過不足を現している。
そして、国家間の資金の貸し借りには、戦争が大きく関与している事を歴史は示している。

基軸通貨が動く時、戦争による国家間の貸し借りが大きく関わっている場合が多い。
典型的なのは、第一次世界大戦と第二次世界大戦後の基軸通貨国の動きである。

第一次世界大戦後の国家間の債権債務の関係は、見てみると解る。対一に、アメリカは、連合国に対して約71億ドルの債権を有するようになる。第二に、イギリスは、70億ドルの債権を保有するがその多くがロシア等の回収が難しい国だった。第三に、フランスは、14億ドルの純債務を負う純債務国だという事である。(「金融の世界史」国際銀行史研究会[編] 悠書館)
敗戦国ドイツは、総額1320憶金マルクという天文学的賠償金が課せられた。
アメリカが本格的に参戦してくる以前のイギリスは、「商品や資金の供給者」だった。「商品と資金の供給者」だった事で貿易収支の赤字が大幅に増加した上、経常収支の黒字幅が圧迫され、最終的には赤字に転落した。その為に、資本輸出余力が急速に低下し、民間資本輸出が統制された。その代償としてイギリス政府による連合国政府に対する貸付、対外支出が行なわられ、政府対外借入と外国証券売却によって賄われた。この様なイギリスの衰退に乗じて台頭したのがアメリカである。

第一次世界大戦前、ポンドが国際通貨として圧倒的な力を誇示していたのが、徐々にドルにその座を奪われていった。

戦勝国も敗戦国も膨大な資金を必要とし、それが世界の力関係を変更するのである。

この様に、戦争は、国家間の資金の過不足関係を変更し、それが国家間の力関係を決定的にし、次の国際関係を用意するのである。

経常収支は結果であって原因ではない。経常収支の帳尻を合わせたところで、経済の実体がよくなるわけではない。経済収支の根底にある産業構造や貿易構造がよくならないと抜本的解決には結びつかない、

現代経済の根本は個人所得である。所得の根源は仕事である。仕事が行渡る事で、所得も行渡る。所得が行渡れば経済も活性化される。国内の社会状態を不安定にする最大の問題は、失業である。なのに、経済を効率すると言って人件費が削減される。

「お金」の上で均衡しているように見えても現実世界の不均衡は是正されたわけではない。
人、物の偏りや歪みがなくなっているわけではない。それは、「お金」の問題ではない。しかし、人、物の偏りや歪みを「お金」が増幅してしまう事がある。

一方で飽食の挙句、大量に食料を廃棄しているというのに、今でも飢餓に苦しむ子供たちがいる。貧富の格差は拡大し、富める国と貧しい国の差は歴然としている。国内でも貧富の格差は拡大しつつある。
実質的な経済量は変わらないというのに、実物市場に資金が流れなくなり、経済破綻をする国が出てくる。経済が破綻した結果、戦争は起こるのである。



「お金」の流れは戦争の一因となる



地球的な規模の資金の流れが世界経済を実質的に動かしている。
資金の流れは、世界を平和にもするが、反対に、争いを引き起こしもする。

なぜ、戦争になるのか。

何も戦っているのは人間だけではない。野生の動物たちは、日夜、生き残りを賭けて戦っているのである。
つまり、争いの本質は、生き残る事と種を残す事である。
それは人間とて同じである。

経済が生きるための活動だとしたら、戦争の根底に経済があるの必然的帰結である。
つまり、経済の問題を片付けないと戦争はなくならない。
人は生きられない状態、生活できない状態に追い込まれるから争うのである。
それは生存闘争であって生存競争ではない。
そして、環境に適合できた者、強い者だけが生き残るのである。

今日、地球的規模で市場は統一されていこうとしている。
地球的な規模で市場が統一されていく過程で、資金の流れが、各国の経済を激しく揺さぶり続け、人々の生活を変化させ文化まで変質させてしまっている。

資金の貸し借り、収支によって資金の流れは作られる。
そして、資金の流れによって、個々の通貨の国際的水準も調停されるのである。
個々の通貨の水準は、個々の通貨圏の国力の差も確定する。
通貨の強弱は、国力の強弱に直接的に結びつくからである。

国際間の資金の流れを生み出すのは、国家間の貸し借りと売り買いである。

ニクソンショック以来、日本は為替の変動に翻弄され続けてきた。
中東で起こった戦争によって市場にパニックが起き、物価の高騰を招いた。
プラザ合意が引き起こした円高不況がバブルを引き起こしたとも考えられる。
地球の裏側で起こった出来事によって日本の市場は、翻弄されてきたのである。
ただ、情報が発達した今日では、経済に与える影響も狼狽するような事態は減ってきてはいる。
しかし、根本的な構図が変わたわけではない。

インターネットが発達した今日、これまでとは違った形で世界的な経済変動が起こる危険性がある。

歴史は、変えられない。過去に戻ってやり直す事はできない。しかし、歴史から学ぶ事はできる。

戦争は、結果であり、原因ではない。問題は、戦争の原因である。人は意図せず戦争の原因の種をまいている。

戦争の真の原因は経済である。経済的理由があるから戦争になるのである。
経済とは生きるための活動である。子孫を増殖する事も含めて生きる為に必要な活動を経済と言うのである。経済は、金儲けではない。「お金」を儲けるのは、市場経済下では「お金」がなければ生きられないからである。生きるための活動が「お金」によって制約されるからである。
野生動物でも生存圏を侵されたら争いになる。

交易、自分の余るところによって相手の足らないところを補い。相手の余るところで自分の不足しているものを補う。余っている物がなければ、労働力を提供した。
相互互助の精神に基づくものである。例え戦争中でも必要とあれば交易は途絶えなかった。互いに助け合う事が出来れば争いは生れない。たがいに必要な物を求めて交易が始まり、交易によって交流が生じる。交易と交流は懸け橋なのである。
故に、交易は、外交の始まりである。
交易がなければ暴力的な手段で相手の物を奪い取る。
交易が途絶えた時、争いが始まる。
商売を卑しいというのならば、武力は尊いのか。平和を維持したければ争いを避けて交易すべきなのである。



交易の在り方は、国家の礎を作る。


交易の在り方、特に、貿易は、国家の礎を作る。
日本は、資源が少ない、基本的に加工貿易が主体となる。
日本人の意識には、日本は小国、狭い島国で、資源も少ないという意識、ある意味で劣等感があるように思える。
しかし、昔から日本は、資源がなかったわけではない。
資源がないどころか、世界有数の銀や銅、そして、金の生産地であったこともある。ただ、長い歴史の中でこれらの資源が枯渇してしまったと言える。資源は枯渇したがその時に蓄えていた遺産が明治維新の時に大いに役立ち、日本の近代化の元手になっている事を忘れてはならない。
もう一つ、日本は、人口においては、大国であった。この点も忘れてはならない。多くの人口を養い育てるだけの資源が我が国にはあった証拠である。だからこそ日本は、鎖国という閉ざされた政策をしても国を維持する事が出来たのである。

明治維新後日本は富国強兵を合言葉にして近代国家の建設に邁進してきた。その間、日清、日露戦争、第二次世界大戦等の大きな戦争、また、関東大震災、近年では東日本大震災などのいくつかの試練を潜り抜けてきた。

そのような中で、交易の在り方は日本経済のひいては、近代国家の基礎を構築してきたのである。
そして、それが戦後高度成長によって花開いたのである。

交易の在り方を間違うと国家100年の計を誤る事になり、これまで父祖が営々として築き上げてきたこの国の資産を食いつぶし、果ては国家の存亡をも危うくすることである。
努々(ゆめゆめ)、この事を忘れてはならない。

日本が加工貿易を基礎にして発展してきたのは偶然ではない。日本が置かれている前提条件に基づいている。
中東産油国の多くは、石油資源を輸出する事を主として国は成り立っている。石油が枯渇する前に、石油に代わる産業づくりに躍起になっているがなかなか軌道に乗らずに苦しんでいる。
旧社会主義国は、旧社会主義の遺産の上に立ってどの様な産業を育成するか、国づくりをするかを模索してといる。
いずれにしてもその基礎となるのは、外国との交易である。他国に輸出する資源があればいいが、他国に輸出する資源がない国は、建国そのものすらおぼつかないでいる。
交易の在り方は国家体制すら左右するのである。

国際交易が意味するのは、人間が一人では生きていけないように、国家も一国だけでは、存在しえないという事実である。国際分業を確立し、互いが助け合って生きていかない限り、どの国も存在し続けられない。それが国際交易の意義でもある。独善は許されないのである。
自国の利益のみを追求しても自国の利益さえ実現できない。それが摂理なのである。

資源は、均等に満遍なく存在するわけではない。また、人も均等に存在するわけではない。人、物は、不均衡に存在するのである。持つ者もいれば持たざる者もいる。人や資源の在処は、偏っている。そして、人や資源が偏在する事で「お金」の在処も偏っている。そのまま、放置すれば自動的に均衡するという訳ではない。つまり、ある意味で自然状態は、不平等なのである。偏りや歪みを是正して能力や働きに応じて配分を受けられるようにするのが経済のしくみ本来の目的なのである。
資源や人や「お金」の過不足を是正するのは、市場の重大な役割の一つである。

偏りや歪みを放置すれば不均衡は、拡大し、暴力的な力によって是正しないと経済の仕組み自体が維持できなくなる。
恒久的平和を実現し、人々の厚生を維持するためには、人、物、金の偏りや歪を是正する事のできる仕組みを構築する事が不可欠なのである。

交易こそ国家間の交流において最も平和な手段なのである。商売を卑しむ前に、武力によって他国に侵略し、暴力によって他人の物を奪い取るより、「お金」によって正当な取引をする事の方がどれだけ生産的であるかを認識すべきなのである。
国際交易、自由貿易を実現し維持する事こそ平和を維持する活動なのである。




       

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