経済の現状

日本経済の現状について




財務の基本的働きは、資金の循環である


経済の働きは、人々を生かす事であって「お金」を儲ける事ではない。この点を見落としてしまうと経済の本質を理解する事はできない。

教育に「お金」を掛ければ人材が育つわけではない。人を育てるのは、教育の質であって「お金」ではない。しかし、教育ができない環境では人は育たない。「お金」の効用は、教育の環境をよくする事である。どの様な人間を育てるか、根本的な考えがなければ教育など無意味であり、間違った教育に余計な資金を投じるのだったら逆効果になるだけである。

経済の仕組みは、生きていくために必要な、資源を調達あるいは産出し、公平に分配する事を目的としたものである。決して、金儲けのための仕組みではない。ところが多くの人は、経済の仕組みは金儲けのためにあると思い違いしている。その為に、経済の仕組みが正常に機能しなくなるのである。
「お金」は、必要な資源を配分する為の手段である。手段である「お金」を特定の者や勢力が独占したり、偏って保持すれば必然的に経済は機能しなくなる。

家計は、一国の経済を凝縮している。なのに人々は、産業ばかり問題にし、生産性や収益ばかり追い求める。経済の根本は、人々の生活、消費にある。家計を忘れたら経済は成り立たなくなる。いかに、経済の本質は、人々が何によって所得を獲得し、どの様な生活をするかなのである。
それなのに、現代人は、企業利益や財政収支ばかりを問題にする。だから市場が歪むのである。

家計は、一国の経済の縮図である。それなのに、多くの人は、家計の質や構成を見ないで産業の業績ばかりに囚われている。
産業の根底と成果、業績を決めるのは、家計である。だからこそ、家計の構成の変化や人口構成の変化、雇用の偏りが経済の大枠を作るのである。産業の枠組みは、家計の構成によって導き出される。

我々は、経済の仕組み、枠組みを正しく理解する必要がある。仕組みや枠組みは形である。
経済の仕組みは、生産、分配(物流)、消費、貯蓄(再投資)と言う過程を制御し、生きる為に必要な資源を調達、配分する仕組みである。

経済の仕組みとは、第一に、国民、および、国に居住する者が生きていく上に必要な資源を調達、生産し、分配する為の機構である。
第二に、国家の独立と国民の安全を保障する為に必要な資源を世界市場から調達できる経済力を保持する事である。
第三に、世界経済のおける役割を果たし世界平和に貢献する事である。
一国の経済体制には、国家が、直接、調達、生産、分配をする体制と、市場を介して調達、生産、分配を行う体制がある。
全社を統制経済と言い、後者を市場経済と言う。ただ、純粋な形態の統制経済も市場経済も稀であり、一般には、統制的体制と市場とが混在している場合が多く、どちらを主としているかによって統制経済と市場経済とは分類される。統制経済を国是とする体制には、共産主義、社会主義、全体主義、君主主義、封建主義、軍国主義などがあり、市場経済を国是とする体制には、自由主義、資本主義、市民主義、個人主義などがある。
分配の手段として貨幣を用いるのが貨幣経済であり、直接物と物とを交換するのは、物々交換である。
以上の点から経済の仕組みの第一義は、国民の必要としている資源を何かを特定し、それをどの様に調達、生産し、何によって分配するか。生きていく上に必要な資源が不足した場合は、どこから、どの様に調達するか。また、余剰資源や非常用資源、また、在庫と言った資源をいかに貯蔵するかにある。在庫と言うのは、資源の分配を平準化する為に行う貯蔵を意味する。
金銭的問題、即ち、物価、企業収益、所得、金利、景気、財政収支、経常収支、成長性などは二義的な事である。二義的な事ではあるが、生産や分配に決定的な働きをする。
自動車の生産や社会的効用にとって石油価格の動向は、二義的な事である。しかし、自動車の販売台数、生産台数、性能に決定的な影響を及ぼすのである。
経済成長は、生活水準の向上に促される。言い換えると生活水準が一定の水準に達し、国民が生活の現状に満足してくると経済成長は鈍化する。しかし、経済成長が鈍化したと言っても決してそれは悪い状態を意味するのではない。それは、経済が成熟してきたことを意味するのである。その時は、競争を抑制し、量から質へと転換する時なのである。
また、付加価値の高い産業は、手間暇かかる産業である。なぜならば、手間暇かかるところから付加価値が生じるからである。

勘違いしてはならないのは、経済成長や競争力をつける事を第一義だとする事である。経済成長や競争力は、絶対的要件ではない。あくまでも二義的な事であり、前提条件や環境、状況が変われば経済成長より、縮小や競争より協調が求められることもある。

経済の効率は、生産効率だけでは測れないのは明らかである。経済効率は、生産効率だけでなく、分配効率や消費効率との均衡の上に成り立っている。

また、現在の一国の経済は、国際市場と深く関わっており、交易は、国の独立や存亡を左右する大事である。国民の生活を維持し、国の安全を保障する為に必要な資源を他国から調達できるだけの経済力を維持すると同時に、自国の役割を正しく理解し、国際分業の一翼を担う事が一国の経済体制に求められる使命である。現在の様にお互いの利害が密接に関わり合った市場では、一国の経済は、一国だけで完結できない。交易が断たれたら、国家は生存できなくなるのである。

「お金」は、分配の局面で働く。経済は「お金」が全てではない。
経済の規模は、生産と消費が枠組みを担っている。
要点は、誰が何をどの様に生産するか。誰が何によって所得を得るか。そして、何に対して支出をするか。これらの働きを発揮させるのが「お金」の出入りと「お金」の出入りが作る「お金」の流れである。
「お金」によって現れる経済の規模は、仮想的なものである。だから危うい。実体がないから捉えようがないのである。
生産ばかりが問題なのではなく。何によって「お金」を分配し、何に対して「お金」を使うかが経済を動かしている。
そして、支出は生産へとつながる。生産は、所得を生み出すのである。また、所得は支出の源となる。
肝心なのは、どの様にして所得を得るかなのである。いかに利益を得るかではない。
この一連の過程が経済であって。生産だけに特化するのは間違いである。企業利益は、中間消費に過ぎないのである。
生産局面では、産出、分配局面では、中間消費、消費の局面では家計の在り様によって経済の規模は確定する。故に、各々の局面で生産力、分配力、消費力、再投資力を高めるような施策が求められている。生産だけが全てではない。
生産効率を極端にまで進め無人化したら、所得が払われなくなるのである。市場経済の核は、いかに「お金」を地域社会に満遍なく行渡らせるかにある。特定の人間に所得が偏ったら、経済は早晩成り立たなくなる。
経済の要点は、先ず、人と「お金」をどう結び付けるかにある。

経済は、生産や企業収益だけで成り立っているわけではない。所得や支出との釣り合いがとれなくなれば、経済なんてすぐに破綻してしまう。

「お金」を節約する事ばかり考えて、「お金」の配分を考えなければ、分配の手段としての「お金」の効用は発揮されない。せっかく「お金」が配分されても「お金」が使われなければ、交換価値としての「お金」の効用は発揮されない。今の経済の問題点は、「お金」を有効に使おうとしない事なのである。

経済は、生産だけで成り立っているわけではない。分配や消費と言う働きがあって生産の均衡も保たれる。生産性ばかり追求すると付加価値は縮小される。何故ならば、付加価値は中間消費にあり、費用を意味するからである。費用を限りなく削減すれば、付加価値は失われ、分配は機能しなくなる。費用こそ、分配の要なのである。

「お金」、金銭面から結婚を考えたら、結婚なんてしない方がない。結婚したら金銭的な負担が増大する。子供を作れば子供にかかる費用は馬鹿にならない。生活費だって切り詰めなければならなくなる。結婚は、金銭的利益が何もない。
しかし、人として考えたら、結婚は人生の根源である。結婚を金銭的にしかとらえられなくなったから結婚の意義が見いだせないのである。
結婚は、苦労する事に意義があるのである。負担を家族が分かち合う事で絆が深まるのである。結婚して楽しようなんて勘違いである。結婚は、望んで苦労する事なのである。
経済の実体は、人にある。「お金」は手段である。よく費用は、無駄とか、不必要だとか、犠牲だとかいう人がいるがとんでもない勘違いである。費用こそ経済の本質である。費用対効果それが経済の一番の指標である。

各部門の収益と配分によって資金の過不足は定まる。故に、資金の流れる方向は、各部門の配分によって決まる。
市場の規模は、産出によって決まる。故に、実質的所得の増減は、産出によって決まる。産出は、数量と価格によって決まる。数量は、生産量によって決まり価格は、通貨量と人口によって決まる。
所得の増減は、市場の変化と人口によって決まる。実体的経済規模を左右するのは、人や物である。「お金」は虚構である。「お金」目を奪わられると経済の実体は見えなくなる。経済を無人化すればするほど経済は衰弱していく。馬鹿げているのである。機械は、道具なのである。使い方を間違えば間違ったなりの結果を出す。しかし、その結果は、機械に責任があるわけではない。使い方を間違った人間にあるのである。「お金」は、分配の手段である。分配の手段である「お金」の使い方を間違えば格差が生まれたり、インフレーションになったり、デフレーションになったりするのである。
AIとか、コンピューターとか、原子力とか、インターネットとかを恐れる必要は何もない。恐れなければならないのは、人である。人が使い方を間違は内容に恐れるべきなのである。

資本主義経済は、収益と所得を中心とした体制である。収益によって借金を返し、人件費(生活費)を払い。所得の範囲内で生活をする。汗水たらして働いて稼いだ「お金」で生計をたてる。借金も返す。それが資本主義の大原則である。
それ故に、適正な収益や所得が維持されるように市場を規制するのが行政の役割である。収益と所得の維持こそ経済政策の肝だからである。
競争力とか、生産効率は、二義的な事である。
市場が成熟し、収益が保たれなくなったら、規制を強化して過当競争を抑制し、市場が硬直的になったら、規制を緩和して競争を促す。市場政策に絶対はない。
重要なのは、前提条件である。
投資した資金の回収は長期間時間が必要となるから、ある程度、計画的に回収する必要がある。重要なのは、適正価格の維持である。安売りではない。
収益が低下している局面で労働規制を強化し、市場取引の規制を緩和すれば、生産現場ではコストが上昇し、市場は過当競争になって収益はさらに低下し、経費(人件費)の削減と人員削減が促される。結果、市場は、独占、寡占に向かう。
それが顕著に表れているのは、家電、自動車、金融、鉄鋼、石油といった主力産業である。しかも、不当な安売りを業者の後押しをしているのが行政とマスコミである。
特に金融業界は、不況カルテルを結んでもこれ以上の金利の低下を防ぐ必要がある。その為には、規制を強化する必要がある。

国民所得は、生産、所得、支出、消費の過程で生じる。この過程で「お金」がいくつかの経済主体を経由しないと国民所得は増減しない。生産から消費の過程で市場の中において国民所得は形成される。経済主体は働きに応じて部門を形成する。
部門には、家計、非金融法人、一般政府、対家計民間営利団体、海外部門がある。対家計民間営利団体は、一般政府を補完する場合が多く、規模が相対的に小さいために、一般政府と一体として考える。
財務は、個々の局面、個々の部門ごとに成立する。それは、財務に対する考え方や働きは、相対的な事だからである。
草創段階の財務、成長期の財務、成熟期の財務、衰退期の財務、再生期の財務は、本質が違うのである。また、生産、分配、消費の段階によっても財務は違う。家計、企業、政府、海外によっても財務の在り方は変化する。各々の局面に応じた財務の在り方を模索すべきである。

個々の部門が正常の作用すれば資金は循環し経済は安定する。経済の安定こそ平和の礎なのである。

個々の部門を正常に機能させるためには、個々の部門の目的や働きを明らかにしておく必要がある。
個々の部門の働きを明らかにする前に、経済全体の働きを明らかにしておく必要がある。
経済は、生きていくために必要な資源を必要としている人に配分する事で成り立っている。つまり、人と物の関係が基礎になければならない。必要な資源を必要なだけ調達、生産する事がまず求められる。次に求められるのがそれを公平に配分する手段である。
貨幣経済では、分配する為の主たる手段の一つが「お金」である。「お金」を分配の手段とするためには、予め、全ての人に「お金」を配分しておかなければならない。「お金」の配分の仕方が社会の基盤となるのである。ゆえに、「お金」をいかに公平に配分するかが経済の基本となる。何に基づいて、何によって「お金」を配分するか。それによって社会の大枠は形づけられるのである。
人と物は有限な存在であるのに対して、人為的に作られた「お金」は際限がない。「お金」は、分配のための手段であるから、総量を制約する必要がある。
先ず、基本は、人と物の関係をどう築くかである。その上で、どの様にして「お金」を配分するかである。そして、「お金」は、循環する事によって機能を発揮する。
これが経済の仕組みの全体の大枠を決める。
この点で明らかなのは、生産と消費をどう結び付けるか。そして、「お金」をどう配分してどの様に循環させるか。「お金」の総量をどの様に制御するか。これが、経済の仕組みの主要な要素である。

個々の部門は、それぞれ、生産、分配、消費を司っている。
そして、資金を分配し、循環させる働きを各々になっている。
財政の働きは、所得の再配分、資金循環、景気対策、社会資本の構築によって国家目的、理念を実現する事であって、景気対策に特化する事は許されない。

各部門は、市場生産者、非市場生産者。営利団体と非営利団体。公的機関と私的(民間)機関に区分される。
家計は、生計を共にする個人の集合と見なされ、後の部門は何らかの組織、機関の集合としてみなされる。

非金融法人の働きの基本は、財の生産、調達、分配である。その為に、雇用を創造し、所得を分配する。産出から販売の過程で資金循環させる。費用は、資金を分配するたるの要である。経営活動を通じて経済の安定である。
非金融法人は、基本的に市場生産者である。財やサービスを産出する主体であるが、消費者ではない。消費を担っているのは、家計と一般政府であるが、主たる消費主体は家計である。つまり、非金融法人と家計が経済の両輪となって経済を動かしている。
家計の働きは、労働力の提供、消費を通じて生活を実現する(生計)ことである。納税によって一般政府を経済的に支えている。そして、資金循環である。家計は、労働力を提供する事で生産に参加している。
しかし、生産を主として担っているのは、産業である。家計が主となるのは、消費である。消費を主とすると財務の在り方も違ってくる。家計は、労働力を提供する事で対価として所得、即ち、「お金」を手に入れる。手に入れたお金を使って生活する。生活、即ち、消費であり、支出である。
この様に、家計は、労働力を提供し、それを使う事で「お金」を循環させる。また、余った「お金」を金融機関に任せるか。直接投資する。常に、新鮮なお金が家計に供給され吐き出される事で経済は成り立っている。
「お金」は、家計が必要とするだけ、継続的に途切れることなく家計に供給され続けなければならない。

金融の働きは、資金の過不足を補う(資金の融通)。信用の創造(お金の供給)資金循環を円滑にし、安定させる。流動性の維持する事。資金の調達と運用(資金の集積)する事。時間価値の創造である。
金融機関は、部門間やフローとストックの不均衡を調節するのが一番の役割である。
金融には、生産側と消費側双方に働いている。今日の金融は、生産側に偏っている。しかし、市場が飽和状態に陥り、成長が停滞している状態では、むしろ、消費者金融が重視されるべきなのである。財務は、何も生産側だけに必要なわけではない。

資金の過不足を補うために、「お金」を融通するのが金融の主たる業務である。

金融が政府機関からも、家計からも、非金融法人からも独立した部門と見なされるのは、一般政府も、家計も、非金融法人も各々が固有の働き役割を持ち、それに対して金融は、中立的な立場で機能しなければならないからである。特に、権力からは一定の距離を保つ事が求められる。

一般政府の働きは、資金を生産し、市場に供給する事。貨幣価値を保証し、貨幣価値を維持する事(物価の安定)。所得の再配分によって所得の偏りを補正する事。また、治安・防災・国防・外交・教育等の行政サービスを通じて国家理念を実現する事。公共投資によって社会資本を整備する事。雇用を創出する事。また、市場環境や労働環境を整備する事。法や制度を整備して経済活動を支援する事である。
一般政府は、基本的に営利を目的としない非営利機関である。また、公共投資は、収益を目的とした投資ではなく、事業収益によって投資資金を回収する事を目的としていない。基本的に資金源は、税金であって反対給付を前提としていない。その為に、産出の評価は、産出に要した費用と同額だとみなす。非営利機関であるから利益を目的としていないから、営業余剰は、存在しない事を前提とし、産出のための費用は、中間投入、雇用者報酬、生産・輸入品に課せられる税から補助金を引いた値と減価償却費に相当する固定費減耗を言う。
行政サービスの多くは、受益者が特定できない。
一般政府の働きは、反対給付のない資金の一方的な取引である移転である。移転には、経常移転と資本移転がある
行政サービスも、公共投資も、それ自体が付加価値を生まないとみなされるから資金の経常移転であり、国民所得の増減に影響しない。
一般政府は非市場生産者であり、一般政府の産出の多く(公立学校の授業料などの例外を除いて)は、市場価格を形成せず、その点からも国民所得を増やしも減らしもしない。
一般政府は、最終消費者である。最終消費者は最終消費支出者でもある。
また、年金などの社会保障の給付金は、経常移転と見なされ、国民所得の増減に影響しないが、歳出が歳入を上回る場合は、公的な負債を増大させる。社会保障は、基本的に所得の再配分を意味する。

海外部門の働きには、交易を準備し、促進、支援する働き。国際分業の実現を促す働き。交易を通じて資源の過不足を平準化する働き。貨幣価値の調整(通貨量を制約する)、そして、貨幣制度を確立し、規格化する働き。国家間の生活水準の平準化する働き。国家間の不均衡の是正する働きなどである。

人々の生活を維持し、国を成り立たせるために必要な資源が不足したら海外から調達してこなければならない。日本は、特に、島国であり、石油も食料も自給できない。日本は自由貿易を前提として成り立ている。必要な資源を輸入する為には、相手国の通貨も必要となる。交易に必要な要件を整えるのも国や金融機関の役割である。

要約すると生産の中心は、非金融法人が担っている。一般政府と対家計民間営利団体は産出はするが営利的目的であるから国民所得の増減には影響を持たない。資金の移動と見なされる。故に、産出に必要な費用をもって評価する。この事は、国民所得の本質が何かを意味している。
消費の主体は、家計が担っていると考える。この事は、家計は、第一次分配に表れず。非金融法人と金融機関は、最終消費者にならないという点で表れる。
一般政府と家計は、所得の受け手として現れ、家計は、生産・輸入品に課せられる税の支払者として現れる。同時に、一般政府は、最終消費者でもある。そして、非営利団体であるから、現金な収支は資金移動と見なされる。
金融機関は、金融仲介サービス業FISMとして認識される。

経済と言うのは、荷造りに似ている。一つの枠組みの中に必要な要素を押し込むのである。
付加価値の枠組みは産出に基づき、産出の枠組みの中に、利益や人件費、支払金利、減価償却費、地代家賃、税等を押し込むのである。そして、利益は、収益や資本を元とし、人件費は、最終消費を元とし、支払金利は、負債を元とし、減価償却費は設備投資を元とし、地代家賃は、不動産を基とし、税は、歳出を元としている。
全体の均衡が守れなくなると内に向かって潰れるか、外に向かって発散する。

経済の仕組みは、物を生産するだけでは役に立たないのである。生産したものを消費者に配分しなければ意味がない。配分する為の手段が「お金」なのである。「お金」を獲得する為に働くことが「お金」を循環させる。しかし、間違ってはならないのは、「お金」のために働いているのでも、生きているのでもないという事である。「お金」のために、人としての生き方や感情を失ったら本末転倒である。

もう一つ忘れてはならないのは、生産性を上げる事ばかり考えて人々が「お金」を得る手段を奪ったら、経済の仕組みは破綻するという事である。

現代社会は、生産ばかりに偏っている。経済の効用は過程において発揮される。生産以上に消費も重要であり、消費こそ財務の働きが求められている。故に、財務の働きは、生産面だけで発揮されるのではない。個々の局面において財務は働いている。生産も重要だが、生産に偏っていたら経済全体の均衡が失われるのである。
また、家計、財政、金融機関、非金融法人、海外部門の資金の状態と関係から財務は派生している事を忘れてはならない。
部門間の不均衡こそ財務を危うくしてしまう。

「お金」は、儲ける事だけが目的なのではない。むしろ、使い道があって「お金」を稼いでいるのである。「お金」を儲ける事のみが目的となったら、守銭奴に成り下がる。「お金」は、使い道こそ大事であり、「お金」の使い道こそ財務の本となるのである。この点を忘れると財務本来の働きがわからなくなる。

貸家以外は、金儲けのために家を建てたり買ったりするわけではない。住むために家を買うのである。
目的を間違うから詐欺まがいの投資話に騙される。
働いて「お金」を得るのは、根本的に生活する事が目的なのである。

「お金」の調達と運用は、一体の行為である。「お金」を借りるだけでは国民所得は増えない。「お金」は、使われて、つまり、他人の手に渡り、付加価値が生産された時、所得は増えるのである。それが財務の働きである。

経済の実質的規模は、生産量、調達量と人口によって決まる。一人当たり所得の平均と分散によって実質的経済の質は測られるのである。「お金」は、効率よく生産と消費を仲介できたかによる。つまり、経済効率は、生産、分配、消費、個々の局面で違ってくるのである。

国民経済全体を見る場合、何が国民所得の増減に関わっているかである。国民所得に係っているのは、付加価値を構成する要素であるが、生産・輸入に係る税と固定資産減耗は、資金移動であり、所得の増減に影響を与えない。故に、所得の増減を見る場合、雇用報酬と営業余剰・混合所得が鍵を握っている。
また、もう一つ考えなければならないのは、何が付加価値を増やしているかである。
ここで注意しなければならないのは、付加価値率が同じでも市場が拡大している時と停滞、縮小している時とでは、付加価値の働きは違うという事である。

国民所得を増やすのは、産出、付加価値、市場に関わっている項目である。言い換えると産出、付加価値、市場に係らない項目は国民所得を増やさない。


国民経済計算書

生産・輸入に課せられる税は、間接税、日本では消費税を言う。1989年消費税が施行され、1997年に3%から5%に増税されたが、消費税の増税は、付加価値の配分にほとんど影響を与えていないのがわかる。




貨幣経済の仕組みは、「お金」が回る事で動いている



貨幣経済において市場のような経済の仕組みを動かしているのは、資金の流れである。資金の流れを作っているのは、資金の過不足である。「お金」は、入出金、即ち、収入と支出によって効用を発揮する。故に、資金の過不足や流れは、収支を追う事で明らかにできる。

経済の実体は、人と物にある。人と物とを結び付け分配する為の手段として「お金」がある。そして、「お金」を活用して物を人に分配する仕組みが市場と組織である。

資金の過不足は、経済の仕組みを動かす働きである。故に、恒常的、周期的に資金の過不足は、繰り返す。
人は、労働の対価として報酬を受け取ると資金余剰主体になる。市場で「お金」を使って生活に必要な物を手に入れている事を続けると「お金」が不足してくる。「お金」が不足して来たら働いてまた報酬を受ける。この繰り返しが資金を社会に循環させるのである。
この様な働きは、家計だけでなく、企業も、一般政府も同じである。

お金の過不足を補う手段は売り買いばかりではない。貸し借りも「お金」の過不足を補う手段である。
経常的な働きによる収入でも「お金」が足りなければ、「お金」を借りるしかない。
市場取引は、主として売り買い、貸し借りから成り立っている。

市場では、資金不足は常態であり、いかに資金不足を解消するかが、経済主体の一番の課題なのである。「お金」と財との交換によって市場は成り立っているのである。「お金」には羽が生えているというのは、あながち間違いではない。「お金」は、天下の周り物なのである。「お金」は、使わなければ価値がない。貯めているだけでは役に立たないのである。
資金が不足する事が予測された時、資金を調達する。資金の遣り繰りが財務の仕事である。

故に、資金不足が悪いのではない。資金が不足する事が予測付いたら資金を何らかの手段で補充しなければならない。「お金」が補充できなくなるのが悪いのである。

貨幣経済の仕組みは、「お金」が循環する事で機能を発揮する。資金を市場に循環させるためには、市場には、常に、資金余剰の主体と資金不足の主体が混在していなければならない。
資金が不足している主体に余剰資金を持っている主体から融通する事で「お金」を循環させているのが金融機関であり。「お金」、資金を循環させる働きが財務である。つまり、財務の働きは、資金を回す事にある。
基本的に「お金」は、「お金」を融通してもらう、即ち、借金をする事で市場に供給される。

資金を循環する事は、「お金」を遣り繰りする事である。そして、それが財務の主たる働きとなる。つまり、資金繰りが財務の仕事の核となるのである。この事からもわかるように財務の働きは、金融的な働きである。

資金の遣り繰りによって財務内容が左右されるという事は、資金がどれくらい回転したか、そして、資金の総量の増減はあったかどうかが効率を測る基準となる。これは、企業だけでなく、家計も、一般政府も、一国としても同じである。
残高だけてなく資金の増減が基準となる。この事は、財政の性格を象徴している。
つまり、財政は、資金の回転、流通量、資金の総量の増減が鍵を握り、経済主体の財務内容を表しているのである。

大局、全体的に見ると資金を市場や社会に循環させる事が、金融の働きである。その延長線上に財務の役割がある。
財務の役割は、資金を調達し、運用して、返済する事である。
どこから、どの様な手段で資金を調達してきたか。そして、調達した資金をどこに、どの様な手段で流したか、それを追跡する事によって経済の実態は、明らかになる。

故に、財務で最も重視されるのが資金の調達手段と調達先である。
調達手段としては、直接金融と間接金融がある。

資金調達は、内部資金調達と、外部資金調達がある。
日本の民間企業は、2000年を境にして資金調達比重を外部から内部へと移している。

財務の働きは、金融活動を通じて資金を市場や経済主体に循環させる事である。
貨幣経済体制においては、資金が回っている限り、経済を継続する事が出来る。逆にいえば資金が循環しなくなったら、流動性が失われたら経済は、破綻するのである。
その好例がリーマンショックである。

キャッシュフロー上でいうと財務キャッシュフローは、貸借対照表の総資本の部分、投資キャッシュフローは、総資産の部分、営業キャッシュフローは、損益の部分に相当する。
キャッシュフローの中でバブル崩壊後最も顕著な動きをしたのは、財務キャッシュフローである。バブル崩壊が持つ意味や働きを理解しようとした時、この財務キャッシュフローの動きをどの様に解釈するかが、重要な鍵を握っている。

金融には、間接金融と直接金融がある。直間比率も金融の構造を表す指標の一つである。
間接金融は、銀行などの金融機関に一度資金を集積し、金融機関を通じて資金不足主体に貸しつけることを言い。直接金融とは、株式市場などを通じて直接的に資金余剰主体が資金不足主体に貸しつける、あるいは、投資することを言う。直接金融の傾向が強くなると金融センターとしての金融機関の力が弱まる事になる。

金融とは、負の空間を構成する。金融は、市場を反映する鏡である。つまり、家計、民間企業、一般政府が作る空間が正の空間ならば、金融が作り出す空間は、負の空間なのである。

取引の対称性は、市場や会計の枠組みの不変性を保証する。

資金を融通する事が金融本来の働きであるから、金融の効率を表す代表指標は預貸率である。
その預貸率がバブル崩壊後急速に悪化している。信用金庫、信用組合は、50%を切る勢いである。



国民経済統計

預貸率の低下は、金融機関が金融仲介機能を果たせなくなっていることを意味している。
預貸率の歪は、資金の流れそのものを歪めてしまっている。

余剰資金が溢れているのに、優良な貸付先が見いだせないでいるのがわかる。
金利をいくら下げても資金需要が枯れているのである。つまり、金詰り状態なのである。それが金利を押し下げてもいる。
こうなると金融機関は身動きが取れなくなる。

不良債権、不良債権と言うが、債権と債務は一体なのである。不良債権を処理する場合は、同時に、対極にある不良債務も処理しなければならない。不良債権を処理しても、償却できない資産の債務は、処理しきれずに残されたのである。そして資金の調達力を圧迫し続けてきたし、今でも時折表面化してくる。そして、不発弾の様に突然爆発して大企業すら破綻させてしまう。不良債務の処理を間違ったとして、それを個人の犯罪として片づけていいのだろうか。
バブルが崩壊し、資産価値が下落し債権が不良化した時、債務も不良化したのである。その債務の処理を債権の上昇を期待して先送りした事がバブル崩壊の傷を深くした。その不良債務は、2018年現在でも重く日本経済にのしかかっているのである。

バブルの発生とバブル崩壊後の悲劇は、今日の財務の問題を象徴している。バブル期は、誰もが一種の昂揚感に囚われ、バブル崩壊後は、よかれと思ってやったことが裏目に出た。これはリーマンショックの時にも言える。しかも、間違いを犯したのは、素人だけでなく、その道の専門家やベテラン、プロである。
彼等の多くは、資産価格の動向を読み間違ったのである。そして、塩漬けにすればいつかは、株価も地価も回復すると信じていたのである。それが底なしの不良債権を作った。
1997年の山一証券の自主廃業は、それを象徴している。
実際、地価は、戦後の一時期を除いて右肩上がりだったのである。バブル崩壊後、多くの人は、地価の値下がりも一時的な現象として捉え、そして、不良債権の処理を誤ったのである。その行きつく先が山一証券の自主廃業や住専ま破綻である。
それは、一部の経営者の判断の間違いと言い切れるのか。個人の失敗、犯罪として処理していい問題なのか。故意なのか、過失なのか。この点を見極めないと同じ過ちを繰り返す。否、出口の見えない経済の停滞からぬけだすことができなくなるのである。

問題の背景には、長期資金の動向、債権と債務の乖離、資金調達の裏付けの問題が隠されている。これらはいずれも期間損益の表面には現れてこない。

多くの場合、収益が悪化し、資金繰りに困ると会計操作によって乗り切ろうとする。しかし、会計操作をしても生産性が向上するわけでも収益が上がるわけでも、キャッシュフローが改善するわけでも、資金の調達力がよくなるわけでもない。見かけ上の体裁はよくなるかもしれないが、所詮、評価の変更や配分(金利か配当か)の変更である。朝三暮四の類に過ぎないのである。
この様な事は、財務の本質ではない。バブル崩壊後、日本の企業は、会計操作に明け暮れて財務本来の仕事を見失ってしまった。
そして、それは、財政も、家計も同じである。財政の悪化は、財政本来の在り方を人々から忘れさせてしまっている。今や国債は、最大の不良債権となりつつある。
働いて得るべき収入を借金で補おうとした人たちが、バブルやリーマンショックを引き起こしたのである。本業の収入が期待できなければ、借金を返済する目処など立たないのである。結局、騙し騙しして問題を先送りしているのに過ぎない。
山一証券がした飛ばしなどがその典型である。

現在の経済の停滞の原因は、市場が拡大から縮小へ転じた事から部門間の関係に変化が生じた事にある。経済成長が鈍化した事から収益力が低下し、それによって企業が資金を外部調達から内部調達へ転化した。その結果、企業が資金余剰主体となり、反対に一般政府が資金不足主体となった。その転機がバブル崩壊である。

実質的価値は、総資産、費用の側に表示され、名目的価値は、総資本、収益の側に表示される。
バブル崩壊後、実質的価値が下落したために、名目的価値と実質的価値が乖離し、それによって負債の負担が大きくなった。負債の負担が大きくなったことで資金の流れが調達から運用方向の流れから回収から返済方向の流れに変わった。
名目的勘定は、ストックに反映され実質勘定は、フローに反映する。名目的価値と実質的価値の乖離は、ストックとフローの均衡も乱した。

経済の停滞の原因は、収益の低下と資産価値の下落、そして、部門間、経済主体間の不均衡にある。通貨の流通量が主因ではない。
通貨の問題は、通貨が市場に均質に流れていない、円滑に循環していない事である。インフレーションやデフレーションと言うのは、貨幣的現象である。貨幣経済下でないと起こらない現象である。しかし、その根本は、人、物、金の不均衡にある。ただ通貨の供給量を加減するだけで改善できる事ではない。

忘れてはならないのは、収益力が失われた事で、財務は本来の働きを逸脱するようになったという点である。
まず適正な収益が維持されてはじめて財務は正常な働きをする事が出来るのである。


財務とは


財務は、投資と負債と貯蓄の関係から生じると言ってもいい。
ただ、金利差によって投資をとるか貯蓄をとるかといた単純な問題ではない。なぜならば投資に対する判断は、金利だけで決まる事ではないからである。
また、貯蓄か投資かとどちらか一つを選ばなければならないという背反関係に貯蓄と投資はあるわけではなく。むしろ投資と貯蓄は表裏一体の関係にある。そして、負債と貯蓄も同様に表裏一体の関係にある。

三面等価の観点から見ると貯蓄=投資の関係が成り立つ。総需要=総供給になる。問題は、個々の部門に貯蓄と投資に偏りがある事である。それが資金の過不足を生む原因となる。そして、個々の部門の資金の過不足は、部門間の貸し借りを生むのである。その部門間の貸し借りによって財務は成り立っている。

利率が下がれば投資に資金が向くと言うほど単純な話ではない。投資をするためには、第一に資金の調達力がなければならない。次に、投資した資金を回収できる見通しがなければ、投資は行われない。もう一つ重要な要素は、フローとストックの関係がある。利率は、ストックとフローとの関係によって決まる。これも財務の話である。

所謂、リフレ派は、フローとストックの関係を切り離して考える傾向がある。故に、フローの帳尻を合わせればストックの残高は関係ないと思っているようだ。しかし、フローは何らかのストックを基数として成り立っており、フローとストックの関係は切り離して考える事はできい。例えば、利息は、借入金を基礎とし、利益は、粗利益、あるいは、収益を基礎としている。減価償却費は固定資産を支出は、所得に基づいている。
また、ストック間の関係は、部門間の貸し借りによる。故に、ストック間の力関係も影響している。
経済を構成する要素の位置と関係と運動は、部門間の均衡、フローとストックの均衡、時間的均衡、市場の空間的均衡(国家間、通貨圏間)から成り立っている。財務は、部門間、フローとストック、時間、市場の空間的歪みを是正する為の行為である。
ただ注意すべきなのは、経済で重要な概念は、均衡であって拡大がよくて縮小が悪いとか、黒字がよくて赤字が悪い、余剰がよくて不足は悪いという事ではなくて、拡大や縮小、、赤字や黒字、余剰や不足になる理由なのである。
経済は、常に拡大し続けなければならないという事はなく。時には、縮小均衡も必要なのである。市場が縮小均衡に向かっている時、無理矢理、拡大均衡に走ろうとする事の方が危険な行為なのである。
金融政策、財政政策だけで経済を安定化させることはできない。リフレ派の多くは、実物市場を見ていない。市場経済の核心は、民間企業の収益と設備投資にある。

また、ストックの残高は部門間の貸借関係から派生する。貸借関係の裏側には、売買取引があり、売買取引がフローを構成する。ストックとフローは表裏の関係にあるのである。

故に、投資か貯蓄かと言う関係だけでなくフローとストックの関係も財務には重要なのである。何故ならば、資金繰りは支払金利だけでなく元本の返済もあり、しかも、元本の返済額の方が大きいからである。
また、投資と貯蓄も投資と貯蓄間の歪を表す預貸率が重要な意味を持つ。貸し借りの差が、どの部門からどの部門へ、どれくらいあったかが問題の核心だからである。そして、何が原因で部門間の格差が生じたのかが問題を解く鍵なのである。
現に、日本では、ゼロ金利にしても資金需要は、増えるどころか減少している。資金需要が増えない理由は、魅力的な投資先が見当たらないからであるれ。なぜ、魅力的な投資先が見つからない理由は、収益の見通しが立たないからである。つまり、投資しても投資した資金の回収の目処が立たないからである。
金利が低くて投資をしたくとも確実にもうかる投資先がないから投資が賭けになってしまうからである。リスクを保全できないのである。

また、一口に投資と言っても投資対象によって投資の性格が違う。投資対象は、非金融民間企業、金融、家計、一般政府、海外、対家計非営利団体などであるが、民間企業の投資は、設備投資、在庫投資であり、金融機関は、金融投資であり、家計は、住宅投資、一般政府は、公共投資である。海外部門は、資本投資が主となる。そして、それぞれ回収手段や性格が違ってくる。設備投資は、収益によって回収するのに対して金融投資は金利、住宅投資は、所得によって回収し、公共投資は、税によって回収する。対家計非営利団体は、基本的に募金や補助金、そして事業収益によって回収する。
利率も対象や投資の性格に依って全く違ったものになる。これらを目的や働きに応じて調節するのが財務の役割である。
利率と所得と投資と資金需給の関係だけで経済全体の動きを制御しようというのは無謀である。

民間と一般政府の違いは、経常収入の違いである。民間企業は収益に基づき、一般政府は、税金に基づいている。収益は、反対給付を前提とし、収益が費用と直接的に結びついているのに対して一般政府は、歳入と歳出は直接的な関係にない。即ち、費用対効果に基づいていない。
それが財政再建の手段として民営化を導入する根拠でもある。公共事業と税との間には取引が介在しない。だから、経済効果が測れないのである。公共事業の占める割合が一定の基準を上回るとそれは市場経済から統制経済、への変質、社会主義化を意味するのである。市場経済は、市場と言う場を通して生産、分配、消費を制御すると言う思想があって成り立つのである。

生きていくために必要な資源がなかったり、不足していたら他の主体から調達する必要がある。これは家計でも、企業でも、一国の経済でも同じである。調達とは購入する事である。購入する為には「お金」が必要である。海外交易では、交易相手国の「お金」である。「お金」がなけれ財を売って「お金」を作るか借りるしかない。しかし、貸す方も回収する当てがなければいつまでも融通してくれるわけではない。これは国家も、政府も、企業も、家計も同じである。
借金だけで「お金」を廻そうとしても最初から限界がある。国には、通貨の発行券があるのだから足りなくなれば「お金」をすればいいという訳にはいかないのである。
経済を表す数式は、恒等式が多い。恒等式は、構造式である。方程式の様に会を求めるのではなく。要素に分解して働きを見る為の式である。
投資=貯蓄と言えばその通りである。問題は、投資を構成する構造であり、貯蓄を構成する構造である。全てを集計すれば同値になるかもしれないが、それでは、経済の状態は見えてこない。

経済の仕組みは、部門間、時間差、フローとストックの資金の過不足を均衡させようとする力によって動いている。資金の過不足を調節する働きを担っているのが金融機関であり、資金の過不足を均衡させようとする行為が財務である。

資金の過不足を補正する行為が財務である。資金の過不足を是正する手段には、市場で行う売買、貸借、資本的手段と税や補助金、公共投資等の公的手段がある。

資金の不均衡には、時間差による不均衡、ストックによる不均衡、所得格差による不均衡、取引による不均衡がある。部門間による不均衡、を引き起こす。市場は、均衡を求めて動く。

市場取引に依って資金の流れは生じる。資金の流れは、資金不足主体と資金余剰主体を常に派生される。そして、資金不足主体に資金余剰主体から融通する事で資金は市場を循環する。
経済主体は働きによって部門を形成する。部門間の資金の過不足を均衡させるように資金は、働く。部門間の不均衡は、時間差の資金の過不足を作り出す。

部門の制度単位には、市場生産者と非市場生産者がある。家計、非金融法人、金融機関は、市場生産者であり、一般政府、対家計民間営利団体は、非市場性者である。
一般政府による公共投資は、非市場生産者による投資であり、資本移転、あるいは、経常移転である。再投資に結び付かない限り国民所得を増減しない。公共投資だけでは、財源が税金を資本移転、あるいは、経常移動したに過ぎなくなり、付加価値を生み出さないからである。
公共投資が景気に有効に作用するのは、潜在需要を拡大するか、再投資に結び付いて市場に資金を供給した時だけである。重要なのは、公共投資の内容である。

国民所得を形成するのは、営業余剰・混合所得、雇用者報酬、固定資産減耗である。

時間差による資金の過不足は、長期的働きと短期的働きを生み出す。単位時間を設定する事によって長期的働きと短期的働きを区分し、長期的と短期的な資金の状態と働きを明らかにする。その上で、長期的働きと短期的働きを均衡させるのが、金融機関や財務の働きである。

短期的な均衡は、収益と費用、収入と支出を比較する事で測られる。費用や支出が収益や収入を上回ると短期的な均衡が保てずに、長期的資金に蓄積される。
長期的資金は、総資産と総資本の状態から測られる。総資産は、実質的勘定であり、総資本は、名目的勘定である。実質的勘定が名目的勘定を下回ると資金調達力は低下する。
長期資金は、全体に対するストックの残高、位置を現わし、短期的資金は、付加価値、変化率を表す。長期短期資金の働きは、長期短期の比率と付加価値に分配によって決まる。
資金の働きの要因には、資産、負債、資本、収益、費用の各要素に基づくものがある。
先ず経常的な収入(所得、収益)の安定が計られなければならない。次に経常的支出(費用、物価)を維持する必要がある。固定的費用の中で、ストックは、支払準備の残高、位置を現わし、金利は、フローの変化率を主導する。負債の管理を間違うと負債は際限なく拡大し、フローを圧迫する。
また、自由経済は、経常的収入が柱であるという事を忘れてはならない。自由経済は、所得、物価、金利を調和させることで全体の均衡が保たれる。
今の日本の経済を停滞させている原因は、収益力の低下にある。収益力の低下が費用を圧迫し、負債を増大させている。収益力の低下の背景として資産価値の低下による資金の調達力の喪失がある。

長期的働きはストックを形成し、短期的働きは、フローを形成する。ストックは、資本をフローは、付加価値を形成する。
ストックは、残高、即ち位置を構成し、フローは、変化率を構成する。位置を微分すると速度が割り出され、速度を微分する力が導き出される。

長期的資金は、貸借資本関係を構築し、短期的資金は、損益、経常的現金収支を形成する。資金調達は、手段によって負債と資本を形成する。負債と資本は、負であり、名目勘定である。資金調達は、何を担保とするかが重要となる。負債が担保するのは、資産価値と将来の収入である。資本が担保するのは利益である。

物や人は、有限であるのに対して「お金」は、人為的に際限なく作り出す事が出来る。
有限である人と物で無限な「お金」を制御する事はできない。
故に、「お金」の総量には、何らかの制限を設ける必要がある。
兌換紙幣は、金等の物に結び付ける事で制限を設定していた。不換紙幣が主体となった今日は、制度的に制限が設定される。この制限が機能しなくなると貨幣制度は、制御ができなくなる。貨幣制度が機能しなくなると暴力的な手段によって制度の再構築がされる。暴力的手段が恐慌であり、ハイパーインフレーションであり、戦争であり、革命である。

制度的な制限は、資金の調達力、付加価値の配分(固定費減耗、支払金利、人件費、税に対する配分)、フローとストック、所得と支出の関係。部門間の過不足等によってかかる。付加価値は、時間価値を構成する。

資金量は、資金の調達力による制約を受ける。「お金」は、「お金」自体に実体はなく、名目的なものである。故に、「お金」は、資金の何らかの実体に結び付ける必要がある。資金の調達力は、資金を裏付ける実体によって制約を受ける。資金の調達力は、購買力であり、資産価値、将来の収入によって担保されるなければ実効力を発揮できない。
この様な資金調達力は、物価と相対的な関係を形成する。つまり、物の価値と結びつく事で価値が確定する。物の市場価値は、需給によって定まる。「お金」の価値が抑制力を失うと物価は、沸騰する。

経済規模を決めるのは、あくまでも。人と物が素になる。即ち、労働人口、一人当たりの生産量と消費量、そして、人のあたり所得と物価水準である。これらが生活水準を定め、生活水準によって経済規模は、形成され、それに基づいて貨幣価値に換算される。

制度部門間の過不足は、ストックの残高とフローの変化率を制約する。故に、制度部門間の過不足の幅によって経済規模の大枠が制限される。また、ゼロ金利は、ストックの残高とフローの変化率の不均衡から生じている。ゼロ金利を解消する為には、部門間の不均衡を是正しないと解消できない。フローとストックの関係は、基本的に経常収支と経常支出の問題に収斂する。

今の日本の状況は、民間企業と家計が短期的に資金余剰主体で資金不足主体の一般政府を補っている。その為に、部門間の不均衡が一方的に拡大し、民間の金融資産が増大する一方で一般政府の負債が拡大し金融機関に国債が占める割合が大きくなり、市場生産者である民間企業への貸し付けが圧迫されている事にある。即ち、クラウンディングアウト状態にある。
問題は、歳入と歳出が短期的にも長期的にも均衡する目処が立たず、フローとストックの関係が収束できないという事にある。
その為に金余り状態に陥り、実体の伴わない金融取引が横行している。
実体を伴わない市場取引は、貨幣価値を希薄化させるだけである。
かと言って一般政府が増税などの手段で家計から直接資金を吸い上げると生産に結び付かず、国民所得は、縮小する。
金融機関を通じて民間企業の生産活動に資金を供給し、市場を経由して資金を吸収しない限り、国民所得は改善せず、部門間の歪が拡大する事を防げない。
その為には、過当競争を抑制し、民間企業が安定した収益を確保できる環境を作り出す必要がある。

今の財政は、窓のない暴走列車のようなものである。脱線するか、衝突しないと止められない。しかも周囲の状況が見えていない。列車には、アクセルも、ギアも、ブレーキもついている。少なくとも免許がないものが運転する事がないよう法的にも定められているのに、経済の仕組みもわからない者が経済の仕組みを操作しているようなものである。すでにブレーキは効かなくなりつつある。

経済の仕組みは、財を産出し、産出された財を分配、消費する事で成り立っている。「お金」は、あくまでも分配の手段であり、主たる存在ではなく、従である。「お金」の働きによって財の生産や分配、消費に支障が出たら本末転倒である。経済が破綻するのは、財の分配に齟齬が生じた時である。
生きる為に必要な資源が確保されない状態になると人は暴力的な手段に訴える。

生産には、産出と付加価値の形成の二段階ある。その過程で中間消費が発生する。
付加価値、変化率を意味し、付加価値は、元となる要素の残高を制約する。
故に、付加価値の配分は、全体と部門の関係、フローとストックの関係を制限する。

分配にも、二段階ある。
第一次分配は、所得を構成する過程で成立する。
第一次分配を前提として第二次分配は、成り立っている。
税は、第一段階で間接税、第二段階で直接税が派生する。
重要なのは、経常的収入(所得、収益)が支出の範囲の大枠を制限する事である。

最終的局面において働くのは、可処分所得と最終消費である。可処分所得の範囲内に最終消費が収まらなくなった時、経済は、構造的変化を引き起こす。可処分所得と最終消費は、経済の枠組みと働きを制約する。

各々の局面において財務活動は派生するが、局面によって財務の働きや目的に違ってくる。

財務の基本は金融取引である。財務とは、資金の過不足を補い、融通する行為を指して言う。資金を運用して利益を上げる事を目的としていない。



国民経済計算書




バブル崩壊後急速に貯蓄が減少している。また、バブル崩壊後、固定資産形成が減少しているのに対して固定資産減耗が増加している。過去の蓄えを取り崩して利益を捻出しているのが見て取れる。その傾向を決定的にしたのがリーマンショックである。

財務とは何か。企業はいかにして資金調達をしてきたのか、そこに、この問題を解く鍵がある。
そもそも、財務の働きは、損益上には現れてこない。なぜならは、財務は、貸借・資本取引の結果だからである。
では、貸借・資本取引上に表れるかと言うと残高として現れるだけである。単位期間中の増減や移動は、結果としてしか表現されない。
かろうじて今日、財務キャッシュフロー上に認識する事が出来るだけである。それも、資金調達の結果であって原因や動機は示されない。
肝心なのは、資金調達の根拠であり、長期資金の動向なのである。そして、それが経済を停滞させている根本的な原因なのである。

財務の核となる目的は、初期投資、および、再投資のための資金調達、資金繰り、そして、借入金の返済にある。
そこから、資金運用、リスクヘッジ等が生じた。ファイナンスと言うと資金運用を指すように言われるが、本来、資金の調達と資金繰りの必要性から資金運用は、生まれたのであり、あくまでも二次的な事である。

財務の重要な働きは、会計上、損益上表面に現れてこない。その為に、長期資金の働きを補足するのが難しい。
財務キャッシュフローを作成する目的は、長期資金の働きを明らかにする事である。

貸借・資本取引は、損益上に表れてこない。投資資金の調達や借入金の返済資金の動きは、貸借対照表上の増減、即ち、差額でしかとらえる事が出来ない。また、基本的に利益や資本は、差額勘定なのである。
また、例え、増減によって総額は、把握できたとしてもむどの様な目的、投資なのか、繋ぎなのか、不良債権の清算なのかと言った調達目的やどの様な手段で、どこから資金が調達されたか詳細まで精査しないと掴めない。
基本的に費用勘定のような、借金の返済や投資を意味する勘定そのものがないのである。

財務は、資金調達が主たる働きであるが、もう一つ重要な働きとして繋ぎ資金の調達と借入金の返済がある。繋ぎ資金が調達できず借入金の返済が滞ったり、不渡り手形を出すと経営主体は、経営を継続できなくなり破産する。
つまり、財務こそ企業の存亡の鍵を握っているのである。

財務の役割、必要性は、会計制度の構造から生じた。
財務の流れは、先ず、初期投資の資金調達から始まる。そして、資金は、調達した瞬間から回収、返済が始まる。返済と返済のための原資を考えずに資金調達や投資は行うべきではない。これは、企業会計のみならず家計も財政も同じである。回収と返済と言う両輪がなければ、設備投資であろうと、住宅投資であろうと、在庫投資であろうと、公共投資であろうと投資は成り立たないのである。
資金の回収計画が営業の流れを生み、資金の返済が財務の流れを生む。それ故に、キャッシュフローは、投資キャッシュフローを要として営業キャッシュフローと財務キャッシュフローが生じるのである。

回収計画と資金計画(返済計画)は、事業の両輪であり、経済を動かす動機でもある。投資資金の回収は、収益によって賄われる。
問題の一つは、収益と返済に時間差がある事である。
収益は不確かであるのに対して、返済は、確定しているという性格の違いがある。この収益と返済の性格の違いが時間差を生み出す要因でもある。

投資した資金を回収する手段は、企業経営は、収益、売上、財政は、歳入、家計は所得であるである。しかし、売上、歳入、所得は不確かである。しかし、借金の返済は待ったなしで来る。回収と返済が一致していない処から財務の働きは派生する。
それが財務の本来の働きである。

予定通り、計画通り、売上は上がらないものである。また、売上は一定ではない。波があるのが普通である。また、中には、季節変動がある商品もある。商品によっては一つひとつの単価が大きい物や安い物がある。下着の様に量を捌かなければならない商品もあれば、医療機器や住宅、自動車の様に一つひとつの価格が高い商品もある。
消耗品と耐久消費財とでは売れ筋が違ってくる。資金的にも現金取引が中心な商売もあれば、信用取引が大半である事業もある。
投資がほとんどかからない事業もあれば、電力や石油のように巨額な投資を必要とする事業もある。固定費がかかって採算ベースに乗るまで時間がかかるものもあれば、薄利多売の商品もある。売れるか売れないか流行ってみないと解らない。
それに対して支出は、確定的で一定なものが多い。この収入と支出の不均衡が資金の過不足を生み、財務を派生されるのである。つまり、財務の主たる働きは、資金の過不足の平準化にある。

もう一つの理由は、資金の返済上の資金収支と損益上のズレである。つまり、貸借・資本取引は、損益計上されないために、貸借・資本取引上の収支は、損益に現れてこない。つまり、投資した資金や借入金の返済(利息分を除いた)は、資金の出入ではなく増減でしかないのである。
投資した資金のうち、費用として支出が認められるのは減価償却費の部分でしかない。減価償却費として計上される部分も借金の返済額と一致していない。不足部分は、借り換えに依らなければならないが借り換えのために担保されてきたのが、不動産などの含み益である。
資産価値の下落は、担保力を低下させ、著しく資金調達力を企業から奪ったのである。その為に、民間企業は投資に資金がまわせなくなり、市場の流通する資金を減退させたのである。それがデフレーションの主たる原因である。

貸し渋り、貸し剥がしと言うのは、何も新規投資や運転資金だけを指すわけではない。借り換え資金こそ経営を継続するための生命線なのである。担保力が低下したからと言って借り換え資金が調達できなければ、企業は経営が成り立たなくなる。実質的に貸し剥がし、貸し渋りになるのである。
市場が縮小に向かい収益力が低下している時こそ、金融の力が必要とされる。

バブル崩壊は、財務の仕組みを直撃し、財務の働きを変質してしまったのである。

長期資金の働では、借入金の返済だけが問題となるわけではない。
貸借・資本取引で生じた収入も支出も損益上は現れない。要するのに勘定としては計上されないのである。
それが利益操作の温床になる。つまり、資産勘定を操作したり、純資産を操作する事で利益を変動できるのである。典型的なのは、在庫である。在庫の評価基準を変えただけで利益に差が生じる。

一番問題なのは、収益の変化が読めないという事である。どんな事業でも投資したら投資た資金は、収益の中から回収していかなければならないのである。それなのに、やってみなければわからない。事業は、一寸先は闇なのである。
しかし、支払いは待ってくれない。何としても「お金」は工面しなければならない。だから、事業の裏で財務は活躍する。財務は、黒子のである。



法人企業統計 ソフトウェアを除く設備投資を除く設備投資は、資金需要である。

上のグラフは、投資と資金繰りを長期借入金を基礎として見た場合であるが、投資と資金繰りを減価償却費を基礎に見ると以下のようになる。
バブル崩壊後一定の減価償却がされてきた事がわかる。また、減価償却費が横ばいになっているのも一つの特徴である。


法人企業統計 ソフトウェアを除く設備投資は、資金需要による。

資金の調達力を失った企業は、つなぎ資金を得る為に、いろいろの借金の技術を開発した。
借金の技術として開発されたのが、債権の証券化や金融工学、デリバティブなどである。
しかし、これは収益力が鈍化した事から仕方なく開発した事で、財務本来の仕事ではない。バブルが形成された時、財務が金を稼がなければならないと錯覚した企業が出た。それが間違いの元なのである。

財務(ファイナンス)を資産運用だと誤解している人が増えている。無論、財務活動に資産運用は含まれる。しかし、それが財務活動の本筋ではない。財務活動の本筋は、本業に必要な資金を効率よく調達し、それを返済する事で純資産を充実させることにある。
バブル期に財テクが流行り、本業よりも資産運用で稼ぐ金の方が多いと豪語していた経営者がいたが、その多くは、バブル崩壊後、そのつけを払わされる事になる。
財テクはあくまでも補助的な手段であり、本業を凌ぐようになったら本末転倒である。むしろ、企業体質を脆弱にしてしまう。
何故ならば、財務は、働きだからである。

一番の問題は、高度成長が終焉し、ニクソンショックと二度の石油危機と日本経済が曲がり角に立った時、プラザ合意がなされ急速に円高になった事で、資産運用によってしか本業の収益不足を補えなくなったことなのである。まず根本的に日本の経済の在り方を変えるべきだったのである。その時に安易に財テクに走った。その結果、バブルが起こり、そしてバブルは崩壊したのである。バブル崩壊後の財務は、不良債権処理に終われ、本来の財務が働かなくなったのである。その結果、投資活動が停滞しているのである。
拡大再投資の準備こそ本来の財務の使命である。また、いざという時の資金を準備するのも財務の仕事である。
財政再建に成功した藩が幕末維新に活躍をした。財政が健全でないと成長拡大の芽は摘まれてしまう。

経済の仕組みは、必要最小限なだけ生産し、それを適正な価格で販売し、必要とする者が必要とするだけ消費する事が出来るようにする。それに尽きるのです。その為には、密度が感じであり、所得と支出の均衡を保つ事が鍵を握っている。そこに金融の働きがあるのである。資金不足の主体に余剰の資金を持つ主体から融通する。だからこそ、金融は縁の下の力持ちに徹しなければならない。金融が生産的主体に代わって市場を主導したら忽ち経済は、金塗れになってしまう。

本来の財務は黒子であり、保守的な存在である。この点は、国家においても同じである。一国の経済が財務活動によってしか成り立たなくなったなら、経済は、生産と分配、消費と言う本道を失う事になる。
経済の根本要素は、生産、分配、消費である。

貨幣経済の仕組みを動かしているのは、資金の過不足と資金移動である。
資金の過不足を補う働きをしているのが金融である。この金融の働きを制御しているのが財務である。
そして、資金の過不足と資金移動を表しているのが財務キャッシュフローである。

財務活動は、資金繰り活動と言っていい。経営を継続する為に必要な資金には、初期投資資金、運転資金、更新投資資金などがある。資金調達と返済に関わる業務を資金繰りと言う。

財務とは、資金の調達と運用、利益処分である。そして、主として資金の調達が財務の働きである。
財務の始点は、資金調達にある。資金調達の手段は、貸借的手段と資本的な手段がある。
ただ、資金調達をするためには、裏付けが必要である。
何を担保として、また、元手として資金を調達するのか。そして、どの様にして担保する者を保証するのか。それが問題なのである。
一つは、手持ち資産である。もう一つは、将来の収入である。

資金の調達は、資金の不足を補う事である。
財務の目的は、いかにして資金調達力を高めるかにある。
更に、財務の働きには、資金運用がある。資金の運用は、余剰資金の活用である。
即ち、財務は、資金の過不足を補う事が主たる目的となる。

資金調達は、収入を計る事を意味する。収入の手段には、収益的手段、貸借的手段、資本的手段がある。
損益は、基本的に売買取引を主とする。それに対して、貸借的手段や資本的手段は貸借取引、資本取引による。
貸借取引や資本取引の結果は、損益上に計上されない。

財務は資金調達の手段として金融的な手段、資本的な手段を用いる。
故に、財務は、主として貸借取引、資本取引によって機能するから、財務の動きは、損益上に表れてこない。
この点が重要なのである。貸借上の資金の動きは、損益上ではとらえきれない。かといって貸借対照表には、増減としか表現されないのである。その為に、財務上の資金の流れと投資の資金の流れとの相関関係は、見えてこないし、期間損益における在庫や信用取引の変化も見えてこない。

資金調達は、資金の調達力が必要となる。資金の調達力は、収益力と資本力、経済主体の持つ資産の担保力による。
収益力とは、経済主体が将来どれくらいの収益を上げる事が見込めるかである。資本力とは、どれくらい内部留保を蓄えているかであり、担保力とは含み益がどれくら見積もれるかである。

財務にも短期的資金の働きと長期的資金の働きがある。
短期的資金の動きは、運転資本に、長期的資金の流れは、投資に反映される。

長期借入金は、投資と表裏の関係にある。投資が増えた時は、即ち、投資資金が借入金によって賄われると投資キャッシュフローは、負の値をとり、長期借入金は、正の値をとる。
減価償却費と借入金の返済額、固定資産の減少、支払利息の相関関係を理解しないと財務キャッシュフローの働きは見えてこない。

財務と、財務キャッシュフローは、根本が違う。この点を正しく理解しておかないと財務と財務キャッシュフローの見分けがつかなくなる。財務は、経営に必要な資金を調達する事に目的がある。長中期な的展望や事業計画を下敷きにしなければ成り立たない。また、財務は、実際的な資金の不足を補い、資金繰りを意味している。
財務キャッシュフローは、負債や資本の増減、資金需給を表しているのであり、資金の状態を表しているわけではない。借入金を増やしても財務キャッシュフローは増える。しかし、それによって資金の状態が改善されたとは限らないのである。
フリーキャッシュフローの範囲内で投資を行えばいいと投資を制約したら、投資本来の意義を見失う。キャッシュフロー経営の危うさがそこにある。
根本的な資金不足が解消できたかどうかは、財務キャッシュフローと営業キャッシュフローや投資キャッシュフローとの関係から明らかにされる事である。
また、利益は、費用対効果を表す指標であって資金の状態を表す指標ではない。資金の過不足は、最終的には、現金残高として表される。
財務で一番注意しなければならないのは、現金収支と期間損益の違いである。投資資金を借金で賄った場合、その借入金の元本の返済は、損益上計上されない。
それは、利益にも関係してくる。非減価償却資産は、費用化されないからである。
投資した分で費用とされるのは、金利と減価償却費だけであり、減価償却費に計上されない部分、即ち、土地などの非減価償却資産は、費用化されないのである。非減価償却資産は、清算された時、費用化される。借入金の返済は、本来利益の中から支払われなければならないが、利益には、借入金の返済は計上されない。故に、借入金の返済は、内部留保によらなければならなくなる。利益をすべて配当に回せば、借入金の返済の原資がなくなる。

利益が上がっているからといって資金が潤沢にあるとは限らないし、損失が出ているから資金が不足しているとも限らない。赤字倒産という例も多くあるのである。

この辺の絡繰りが見えてこないと経済の実像は理解できない。資金の過不足を利益や純資産は表しているわけではない。利益や純資産だけをみて現金収支を判断するのは間違っている。

資本主義というのは、一定の負債を維持しながら応分の費用を負担し続ける事で財の分配をしていく仕組みなのである。
それは、継続企業を前提とした時点から前提とされた事である。

財務は、金融でもある。故に、財務には、金融固有の技術がある。単に、長短の借入金の増減だけでは判断できない。
金融資産は、金融資産の働き、運用しだいで利益をもたらす場合があるからである。


財務分析の前提


経営分析をする場合、まず一国の経済の枠組みや前提条件を確認する必要がある。その上で分析の対象となる企業や産業の役割、位置づけを明らかにし。その企業や産業の現状、置かれている環境を状況を調べたうえで、個別の問題を分析しなければ、是々非々を論じる事はできない。
当該企業の置かれている環境、状況をむししたら、黒字だからいいとも、赤字だから悪いと言っても始まらない。
仮に、企業や金融機関が違法行為や不正を行わなければ、収益を上げられないとしたら、その状況こそ改善すべきなのである。バブルやバブル崩壊後の不祥事は、一経営者の力ではどうしようもない事が原因なのである。その点に対する共通認識がなければ、日本経済を再建する事はできない。現実を直視すべきなのである。
一企業として対処できる問題なのか、それとも、一企業ではどうしようもない問題なのか。産業全体、産業の構造的な問題なのか、それとも一過性の問題なのか。国家戦略にかかわる問題なのか、雇用にかかわる問題なのか、それらを総合的に勘案したうえで、結論を出さなければ、抜本的解決は覚束ない。
そして、それらの分析、国家構想に基づいて、行政、金融機関、民間企業は、各々の立場役割、できる範囲で最善を尽くす事が求められるのである。
根本に国家構想、国家理念が求められるのである。
行政、金融機関、民間企業、政治家は、自国の置かれた状況を正しく認識し、国家目標を達成するためには、其々が何を求められているのかを自覚し、共有する事が求められる。さもなければ、行政も金融機関も、民間企業も政治家も自らの責務を果たす事が出来ない。
反体制、反権力主義者は、政財官の癒着と攻撃するが、政財官が国家理念や国家目標を共有しなければ、国家を保つ事はできない。

行政や金融機関が暴力団を手先にするような悪徳企業に肩入れをしたり、目先の利益を追って国益を蔑ろにする様な行為がバブルを引き起こし、また、バブル崩壊後の混乱を長引かせているのである。
正直者が馬鹿を見るような体制だから若者たちは、汗水垂らして地道な努力を厭い、一獲千金を夢見るようになるのである。世も末である。現代の指導者には徳がない。

最近、金融の自由化、エネルギーの自由化が促進されている。ただ、なぜ、金融の自由化をしなければならないのか、エネルギへの自由化をしなければならないのかが今一つ判然としない。少なくとも、金融の自由化、エネルギーの自由化の目的と意義を明らかにする義務を為政者はおっているはずである。
競争をさせておけばいい、規制を緩和すれば万事解決できる。効率化は絶対だなどと勝手に決めつけているのではあるまい。
自由化にどのような利点があるのかを明らかにしないで自由化が是か非かを論じる程馬鹿げた事はない。
自由化は、業態間の垣根を取り除き、規制を緩和する施策であるから、競争を促進し、産業を効率化し、垣根を超えた再編、集約化を促す効用がある。但し、基本的には、デフレ政策である。
効率化する意義や目的を明らかにする必要がある。つまり、何を問題とし、どの様な目的や構想によって、どこを、どの様な状態を目指しているのかを明確にする必要がある。
例えばエネルギーの自由化であるが、まず第一に、エネルギー戦略を国家戦略や政策に果たす役割は何か、エネルギーを国の政策上どの様に位置づけるのか。その上で、エネルギー業界をどの様にしたいのか、電力、石油、ガスなどの構成をどう考えているのか、その点を明確にしておく必要がある。
エネルギーの自由化は、必然的にエネルギー業界の再編を促す。エネルギー業界をどの様に再編するのか、どの様に集約させたいのか。その点が不明瞭では、エネルギーの自由化の目的は不明瞭になる。曖昧なままに再編を進めれば、エネルギー業界の混乱は必至である。現にSS空白地帯が生じている。

大局的観点、経済全般から財務を分析しようとした場合、経済の仕組みの枠組みを理解しておく必要がある。一局面だけを取り上げて大局を捉える事がなければ偏った分析しかできない。それでは、適切な判断を下す事が出来ない。

現在のGDPに対する分析は、支出側に偏っている。一番、軽んじられているのは、生産側である。故に、分析の均衡を書いている。この点を改めないと均衡のとれた経済分析はできない。


国民経済計算書

現在の国民経済計算書をわかりにくくしているのは、産出の軽視にある。GDPは、付加価値の合計を意味している。付加価値は、商業会計でいえば、粗利益に相当する。つまり、GDPは、純額主義たった概念である。しかし、付加価値を生み出す産出を基礎としないと経済全体の枠組みを構築できない。何故ならば、付加価値は結果であり、原因ではないからである。付加価値が成立する為の土台が明らかにできないからである。
故に、いきなり、雇用者報酬とか営業余剰・混合所得とか、生産・輸入に課せられる税、固定資産減耗などが飛び出してくる。雇用者報酬や営業余剰・混合利益、生産・輸入に課せられる税、固定資産減耗は結果であって原因ではない。雇用者報酬とか営業余剰・混合所得、、生産・輸入に課せられる税、固定資産減耗などを生み出している基盤、成り立たせている土台が明らかにされないと、経済の大枠は理解できない。雇用者報酬や営業余剰・混合利益、生産・輸入に課せられる税、固定資産減耗を成り立たせていてる母体は、産出である。
この事は、企業経営に当て嵌めればわかる。企業経営は、売上を基礎としている。売上総利益を基礎とすると費用や負債、資産の働きが見えてこないし、利益の根源も見えてこない。負債や資産、利益、費用も売上と比較してはじめてその働きが明らかにされる。基盤が明らかにされていなければ、効用も明らかにする事が出来ない。
先ず、増収増益か減収増益、増収減益、減収減益かを見る事が経営分析の基本である。企業成長は、売上に表れる。売上を基礎にしなければ、回転率も利益率も意味がない。

産出は、収益、所得に転化される事で市場価値を持つ。
所得も支出も産出に基づいている。産出に係る事で所得を得て、産出された物の範囲内で支出がされる。
所得は、市場経済の源泉である。所得は、付加価値の構成要素の配分と付加価値を構成する要素と要素をの基礎となるストックとの比率によって制約される。

関数は、独立変数と従属変数からなる。特に経済では、何を独立変数とし、何を従属変数とするかが、重要な意味を持つ。

経済を表現するのは、一般に連立方程式である。その場合、個々の式と式を関連付けているのは、変数の性格である。

一般に個々の式を結び付け全体を形成するのは、和か積である。

現代の経済を成り立たせているのは、何か。それが経済を分析する上での鍵となる。
国民経済計算書では、経済を成り立たせている核は、総生産、総所得、総支出とし、総生産、総所得、総支出は一体だとしているのである。そして、総生産、総所得、総支出の本質は、付加価値だとみなしている。

何が付加価値を生み出しているのか、それは、何が生産の動機、原動力となっているのか、所得の源泉は何かが、支出が向けられる先は何かを解明する事が、鍵を握っているのである。生産、所得、支出が一体となるのが付加価値であり、付加価値の基盤となるのが、産出なのである。何故ならば、産出は市場規模を現わしているからである。
国民経済計算書においては、自由主義経済は、生産、所得、支出、貯蓄の相互作用が経済を動かしていると考えるのである。
そして、生産、所得(分配)、支出(消費)、貯蓄、各々の局面において調達と運用があり、財務活動が派生する。

財務は、ストックとフローを調節する過程で生じる。財務の重要な働きの一つがストックとフローの均衡を保つ事である。

国民総生産は、付加価値を合計したものである。
付加価値は、付加価値=営業余剰・混合所得+雇用者報酬+間接税+固定資産減耗で表される。
また、付加価値=産出-中間投入(中間費用)
付加価値=産出×付加価値率
企業会計では、付加価値=利益+人件費+償却費+支払利息+地代・家賃+税

金額(産出・売上)=数量×価格(単位価格、平均価格、標準価格、平均物価)
産出(売上)=販売数量×価格(物価)。但し一般政府、対家計営利団体の産出は、中間投入(要素費用)とされる。
販売数量=生産量+在庫
生産量=固定資産(生産設備+地価)×操業度
固定資産減耗=固定資産×減耗率(償却率)
付加価値(総所得、総支出、総生産、粗利益)=産出(売上)×付加価値率(粗利益率)
利益(営業余剰)=売上(産出)×利益率
利益(営業余剰)=売上(産出)-費用(中間投入+付加価値)
付加価値=営業キャッシュフローという見方も成り立つ。
利息=借入金×金利
雇用者報酬=付加価値(総所得)×労働分配率
雇用者報酬=家計所得。雇用者報酬は、家計所得の源泉となる。故に、付加価値を構成する主たる要素になるのである。
家計所得から最終消費支出を引いた残りが貯蓄(金融資産)となり、投資に転回される。
財産所得=地価×収益率
税=課税対象×税率
間接税=取引量(産出)×税率。
直接税=益金×税率

物価は、ベースマネー、マネーサプライに影響される。つまり、物と人、「お金」の相関関係で決まる。

関数の働きを見るためには、全体の働きと全体を構成する部分の働きの整合性を見る人である。

経済は、付加価値を構成する部分の相互作用と部分の基となる要素との関係からくる。基本的に基となる要素との比率が部分の働きを意味する。何を基数とするかが働きを位置付ける為の鍵となる。基数となる部分が経済の仕組みの中でどのような位置にあってどの様な働きをしているかが、鍵だからである。

付加価値値を構成する要素の基数の働きは、付加価値の要素間の力関係に反映する。付加価値の均衡が破れると経済全般を統御する事が出来なくなり、経済は暴走する。

付加価値を構成するのは、利益、償却費、金利、税、人件費、資産所得である。
そして、付加価値は、産出を基礎として成立する。

売上に相当するのが、産出である。そして、売上総利益に相当するのが、付加価値。原価に相当するのが中間投入である。
一般に粗利益だけで経営状態を分析する訳できない。
売上は、金額=数量×価格と言う恒等式によって成り立っている。

産出の基礎となる数式は、金額=数量×価格である。
数量は、人と物を基とし、価格は、「お金」の単位を基としている。
産出は、市場の規模と状態に依存する。市場経済の根源は、全て市場から発する。
故に、国民所得は、市場取引によって形成される。

経済の実体を理解する場合は、数量に基づかなければならない。
実質は数量を根拠に成り立っているからである。それに対して価格は、名目である。「お金」は、分配の手段であり、経済の仕組みは、「お金」によって動かされている。
それ故に、物価の変動は、「お金」の働きの振る舞いに左右される。「お金」の流通量、所得の配分が価格を決めるからである。
経済の実体を明らかにするためには、最初に実物の動きに焦点を当てる必要がある。何故ならば、「お金」の変動は、激しいが、それでいて実体を伴っていないからである。実体の動きを確認したうえで「お金」の変動を追跡しないと経済変動の正しい意味が解明できない。

産出の計算式を生産から分解すると売上=(生産量-在庫量)×(費用+利益)。
分配側から分解すると売上=販売量×物価。
支出側から分解すると売上=最終消費量×購買価格=(所得-貯蓄)×購買価格となる。
そして、生産量は、生産力に制約される。販売量は、生産量に制約され、販売量は、消費量に制約され、消費量は、購買力(支出)に制約され、支出は所得に制約され、所得は、付加価値に制約される。
分配側から見ると販売量は、需要と供給の関係かに決まる。物価は、所得と支出の関係から決まる。
これを支出の側から見ると販売量は、消費に制約される。生産量は、販売量に制約されるという正反対の働きを受ける。
生産量は、販売予測、販売予測は、消費予測に基づいて作成されるからである。そして、生産と販売の相互作用が需給関係を生み出すのである。

総所得、総生産、総支出が経済を測る根拠である。そして、それは国民所得に集約される。
産出、付加価値、市場の変動に影響を与えない要素は、国民所得の増減に影響しない。
国民所得に影響するのは、国民経済計算書でいえば、雇用者報酬、営業余剰と混合所得である。注意すべきなのは、営業余剰・混合所得は、中間消費だという点である。
償却費は、固定資産の基礎とし、金利は、負債を基礎としている。金利は、金融仲介サービスとして産出を生み出す。固定資産と負債は、過去の支出に基づいている。税と財産所得は移転と見なされる。その為に、金利は、産出を生み出すが、償却費、税、財産所得は、国民所得の増減に直接影響を与えない。
産出は、販売量と物価の積である。物価は、支出に、支出は、所得の制約を受けるから、最終的に物価の動向は、所得の影響下に入る。
所得の質、即ち、所得の水準(平均)、分散、増減が物価を左右する事になる。そして、所得は、付加価値が産出に占める割合と付加価値の中の配分に制約される。所得は、収益に転じる。
だから、収益が経済の要なのである。今の日本は適正な収益が確保できないから利益を維持できないのである。

現在の国民経済統計をわかりにくくし、活用の範囲を狭めているのは、産出と中間投入を軽んじているからである。産出と中間投入と関係が付加価値の案分を決めるからである。産出と中間投入との配分がわからないと付加価値の規模や付加価値の構成を評価できない。
産出に関わる数量には、生産数量と販売数量がある。産出は、生産、販売の関係によって調整される。どちらかに偏ると経済は均衡を保てない。生産効率を極限まで追求すると付加価値が失われてしまう。金利も、利益も、物価も、所得も成り立たなくなる。
産出、消費、付加価値の関係と働きを理解しないと経済の根幹は理解できない。
つまり、経済の実質、核となるのは、生産量と販売量、そして、人口である。これが基礎となって経済の大枠は構成される。
故に、財務を分析する際は、この点を先ず明らかにする必要がある。

財務は、資金の過不足を融通する事が本来の目的だから、最終的には資金の過不足に収斂する。

先ず、現在の日本経済の最大の問題は、産出量、即ち、売上が伸びないという事である。この点を明確にして起きなければ、財務分析の前提が立たない。
収益を上げる事を考えずに無駄遣いばかりをしていたら、「お金」が回らなくなるのは見えている。


全業種

法人企業統計

いずれにしても経済の動向を決めるのは売上である。産出の軽視は、売上の軽視につながっている。

売上が伸びないという状態では、付加価値の配分が財務の一番の課題となる。何故ならば、限られたパイの奪い合いになるからである。
何らかのルールを作らないと部門間、経済主体間の潰し合いになる。適正な価格が維持できなければ共存できなくなるからである。
だからこそ、財務は、産出量と付加価値の配分、消費量、フローとストックの釣り合いがとれるようにする事が最終的な目的となるのである。
故に、産出が拡大の方向に向かているか、付加価値の配分に対する力関係は、市場を経由して為されているかが鍵となる。産出が縮小に向かっている時に付加価値の配分を強引に変えようとしたら、付加価値の均衡は保たれなくなる。

産出と付加価値の均衡を保つ為には、時間的な均衡、フローとストックの均衡、部門間の均衡、収支の均衡をいかに調節するかが鍵となる。これらの均衡は、価格に集約されるから適正な価格を構成させるような仕組みにしない限り、経済的危機は解消されない。

統計上不突合の修正のためののコモディティ法に基づく中間消費と付加価値法に依る中間投入の調整は、付加価値の構造を示唆している。

配分の不均衡の解決方法は、産出量と付加価値を均衡させるか、産業の組み替え(再編成)をするか、収支の適正な配分を取り戻すかにある。
要するに、節度ある競争ができるような市場の規律を取り戻す事。高品質な商品を適正な価格で販売する。高品質な評価に基づいて適正な金利で融資ができるようにする事に尽きるのである。ただ安ければ、金利が低ければと言うのでは、経済は破綻する。均衡の取れた価格、金利を実現する事である。
部分や局面に固執すると事態は改善できない全体と部分の均衡をいかに計るかが肝心なのである。
ただ、現在の日本は、財政の不均衡が極限にまで至っている。これを是正するのは、尋常な手段ではできない。

経済は、産出、物価、所得、金利、そして、フローとストックの相互作用の上に成り立っている。これらの要素の働きの均衡が破られると経済は、制御不能な状態に陥り、経済の仕組みは、内側に向かって潰れるか外に向かって発散する。
内側に向かって潰れれば、適正な利益や金利が維持できなくなり、恐慌や金融危機を引き起こす。外部に向かって発散すれば物価は際限なく上昇する。

財務を分析する上でもう一つ重要なのは、歴史的背景、経緯である。
失われた十年とか、二十年とか言われて久しい。失われた時間の始まりがバブル崩壊にあるのならば、バブルの発生と崩壊の要因、メカニズムを明らかにする必要がある。そして、どの様な前提、考え方に基づいて、どの様な政策が採られたかを検証する必要がある。

一番、障害になるのは、バブルやバブル崩壊を引き起こした当事者である。自分たちの非を受け入れる事に抵抗するし、非を認めたとしても冷静に分析する事は難しい。故に、過ちをいつまでも引き摺り、あるいは、過ちを糊塗しようとしてかえって過ちを重ねる事になる。まず現実、事実を受け入れ間違ったところまで戻ってそこからやり直すしかない。

先ずバブルを引き起こしたのは、第一に、成長の鈍化と収益力の低下し、多くの企業が資産運用に活路を求めた。第二に、石油価格の高騰、第三に、為替が固定相場から変動相場に変化し急激に円高が進行した。第四に、海外からの圧力によって柔軟な金融政策が採れなかったと言った点である。

そして、バブル潰しとして取られたのが、第一に、金融引き締め、第二に、資産に対する投機に抑制策、第三に規制緩和、第四に、不良債権の強引な処理。第五に、緊縮財政である。そして、その反動として金融緩和、ゼロ金利、そして、財政出動、増税である。

バブル潰しは、どの様な目的で、誰が、どの様になされたか、それを明らかにしないと施策の成否は測れない。事の成否は、目的を基準にして測られるからである。

景気に囚われて物事の本質を見失ってはいけない。
根本にあるのは、収益や所得の問題である。
生産効率や競争力の問題ではない。雇用の問題であり、市場の問題である。この点を間違うと重大な過ちを起こす。

例えば石油業界である。石油業界は、規制を緩和する事によって急速にスタンド数が減少した。また、元売りは、合従連衡を深め、寡占独占状態に陥ってしまった。
なぜ、何の目的で規制緩和するのか。スタンド数が激減した事で、雇用が失われ、また、スタンドのない地域も生じた。安定供給もおぼつかない。元売りは、再投資の資金を稼げなくなった。規制を緩和するなら、石油をエネルギー政策のどこに位置付け、我が国のエネルギーをどの様にしたいのかの明確にビジョンに基づいて為されなければならない。

経済政策には整合性が求められる。生産と言う局面からのみ重視した政策は、分配や消費との整合性が失われる。
この事を為政者は、十分留意しておかなければならない。


経済産業省 資源エネルギー庁

過去へ戻れと言っているわけではない。
変革をしなければならない状態だったのは、事実である。問題は、その時とった政策である。政策は一局面だけを取り上げて企画されるものではない。全体を見てそれなりの構想、絵を描きながら細部を調節していくものである。
指導者は、政策に対する信念がなければ貫徹できないが、かといって部分に囚われたら身動きが的なくなる。全体を貫く方針と環境に適合する柔軟性を併せ持つ事が求められるのである。

規制を緩和し競争を促す部分や局面もあるし、逆に規制を強化して競争を抑制しなければならない部分や局面もある。全てを一様、一律に規制を緩和すればいいというものではない。閉めるところがあれば開けるところもあるのである。競争は原理だとか、規制緩和は原則なのだと絶対視する事が問題なのである。
政治政策は、合目的的な事であり、常に目的を明らかにし、確認する事が求められる。

以上の前提に立って各部門の資産と負債の構成を分析する。



部門別の財務構造


財務の働きは、部門間で補完し合うように働いている。何故ならば、資金収支は、部門間では、ゼロ和になるように設定されているからである。

経済の実体は、人と物にある。なぜならば、経済の仕組みは、生産、分配、消費を目的としているからである。故に、「お金」の動きばかりを追求しても経済の実態は見えてこない。経済の実体を「お金」の動きによって推測するのは、市場経済では、経済的価値を貨幣価値に換算して表示されるからである。
注意しなければならないのは、人と物は有限であるのに対して「お金」には、際限がないという事である。「お金」の量を制約するのは、個々の経済主体の資金の調達力である。家計でいえば購買力が基本となる。
経済的価値の全体量、総量は、個々の経済主体の資金の調達力のよって制約される。
例えば、住宅は、土地の広さと人口によって制約を受ける。そして、地価は、個人の年収の平均と分散によって制約される。
食料は、人口と収穫量、貯蔵量、輸入量、そして、消費量によって制約される。
消費量は、人口と所得に比例する。生産量は、需要と供給の関係によって調整される。
だからこそ、全体量と単位量の双方を見ないと経済の実質的な動きは明らかにできない。
即ち、一人当たり所得や収益、物価指数などが基準となる。
実質的経済的価値は、所得と物価との関係によって決まる。所得が十万円の時代と百万円の時代とでは、経済的価値は、違うのである。購買力が相対的に違う。
人と物の経済の全体量の単位量は、人口と生産手段、消費量の関係によって決まる。「お金」は、分配の手段である。


IMF 2015年=100 世界経済のネタ帳出典

実質と言うのは、住宅を例にとれば、人口、あるいは、世帯数に対して(何を単位とするかによって違いが生じる。)どれくらいの住宅が必要なのか。それに対してどれくらい住宅が不足、あるいは、過剰なのかである。
それに対して、現在の経済は、「お金」の都合が先行してしまっている。
資金が余っていて投資先がないからと言って少子化が予測されて住宅が余るのが予測されているのに、高層マンションを乱立させていたら、経済の実質は失われる。
過剰な資金は、経済的価値を希薄化させる。経済的価値は質と量、即ち、密度から求められるべきであり、住宅も量ではなく、質の向上が求められているのである。

資金の調達力を決めるのは、調達した資金を担保する物や権利と調達手段である。そして、資金を担保する物や権利、調達手段は、部門や経済主体によって違いがある。
調達力を担保するのは、資産価値と収入の変動である。
経済成長を促すのは、現在の調達力と将来の資金調達力に対する予測との差である。

財務は、資金の調達と運用の過程で生じる資金繰りを言う。故に、個々の部門の資金力が重要となる。また、各部門が置かれている状況、資金不足主体か資金余剰主体かによって財務の在り方は、違ってくる。つまり、資金を出資する側になるか、調達する側に回るかによって財務の本質が違ってくるからである。

今日の経済で一番の問題は、資金不足主体である一般政府から資金余剰主体である非金融法人や家計に資金が供給されている事である。

財務の働きは、資金調達から運用までの過程で発揮される。故に、財務の構造は、貸借対照表上に表れる。ただ、財務の働きの為すには、表面に表れない部分があり、それを補足するのが財務キャッシュフローである。

財務は、基本的に収益、所得、税収を除いた収入と費用、経常的支出以外の支出に基づく。収益や所得、税収以外の資金の調達手段は、貸借・資本取引に基づく。

非金融法人が調達力を担保しているのは、将来の収益、資産価値、含み損益である。そして、資金の調達手段は、負債(長期借入金や社債など)手段と資本的(増資等)手段である。
家計が担保するのは、所得と資産価値、保険金などである。家計の調達手段は、住宅ローンや自動車ローンと言った借入金である。
一般政府が担保するのは、主として徴税権で、手段としては、借入金(国債等)である。
海外部門が担保するのは、外貨準備、徴税権である。手段としては、借入金(国債等)である。

財務は、資金余剰主体、部門と資金不足部門との力関係によって成り立っている。一方的な関係になると資金構造は歪んでしまう。財務で重要なのは均衡である。

最終的に資金の過不足は、利益によって調節され、長期的に均衡するように調節されることが不可欠な要件である。さもないと市場全体の歪は解消されることなく、拡大する。その調節を担っているのが金融である。

財務は、資金不足の主体と資金余剰の主体間での資金の遣り取りの過程で成立する。故に、ストックの総量が一定である場合、部門間の資金の過不足の遣り繰りに収斂する。
ストックの総量は、残高の幅として現れる。過不足は均衡する。
故に、財務は、個々の部門のストックの増減として現れる。


日本銀行 資金循環 ストック

部門間の資金の過不足の関係は、継続的に資金余剰主体を家計が担っている。
非金融法人、一般政府、海外部門は、資金の不足を家計からの供給によって補ってきた。
問題は、家計の資金をどの様な手段によって、どれくらい、何に対して供給するかである。それによって財務の枠組みは定まるからである。

フローでは、1999年を境に非金融法人が資金不足主体から資金余剰主体へと転換している。それと軌を同じくして、家計の余剰部分が圧縮され始めて、一般政府の資金不足が拡大している。また、金融資金の余剰も拡大している。


日本銀行 資金循環 フロー

フローとストックとの関係は、借入金の返済に向かうか、貯蓄に回るかによって残高の規模は変わる。1999年以降非金融法人は資金余剰主体に転じ短期での収支は、改善するが、負債の残高が大きいために、短期で上がった余剰資金は、負債の返済に向けられる。その為に全体の資金の幅を増加させずに縮小させている。

バブル崩壊後、一般政府の資金不足が一段と進み、その対極として非金融法人が資金余剰になっている。家計は、資金余剰主体ではあるが、余剰の幅を急速に狭めている。

今日の日本経済の一番の問題は、資金不足の主体から資金余剰の主体へと資金供給がされている事である。その為に、負のストックが拡大し、収益が圧迫され、付加価値を歪めている。
資金が逆流しているのである。その為に、資金の流れの箍が外れ、金融の枠組みがおかしくなってしまっている。

期末資産は、非金融資産と金融資産の合計であり、負債と一致している。
期末資産の推移を見ると2013年の「異次元の金融緩和」前後から金融機関の期末資産が急速に拡大しているのがわかる。


国民経済計算書

財務の働きは、非金融法人、金融機関、一般政府、家計など部門によって特徴が違ってくる。
財務は、資金の過不足を融通と会う事であるから個々の部門は、相互依存関係にある。
故に、個々の部門だけを見ていたら財務の本質は見えてこない。

財務分析をする前に、投資と財務の性格の違いを明らかにしておきたい。投資は、生産手段である固定資産の形成に表れる。投資は、原因であって結果ではない。それに対して財務は、所得から支出を差し引いた余剰、貯蓄から生じ、金融資産として表れるという差がある。


国民経済計算書

非金融法人では、借入金と株式の比率が逆転しつつあるのがわかる。また、それに伴って金融資産が占める割合が増大している。

家計の負債は、ほとんどが借入金である。ただ、負債の比率が著しく低いのがわかる。家計の投資は、主として住宅であり、その他、自動車などのローンにしても本質は消費投資だからである。
投資した対象によって収益を得る事を期待しているわけではない。借金の返済は、所得、つまり、働いて得た経常的収入を充てるのが一般的である。
故に、定職、定収入がある事が一番重要となる。


国民経済計算書

家計は、負債の不均衡が目立つ。家計に蓄積されている資金をうまく引き出し、社会の福利にいかに活用するかが重要となる。消費者向けの金融をいかに充実するかが鍵を握っている。

資産は、金融資産が大幅に増加しているのがわかる。

注意しなければならないのは、年金は、本来金融資産だという点である。
一般政府が何もかも負担するのではなく。応分の負担を家計にも負わせることが社会全体から見たら経済的なのである。家計に負担をさせると言っても対価があれば問題はない。むしろ、付加価値が伴わない増税のような資金移動に頼るから市場の経済活動が弱まるのである。

2015年度において家計に対して一般政府から63.8兆円の現物社会転移が行われている。景気対策の公共投資と合わせ資金余剰主体に資金不足主体から資金の供与がされているから部門間の歪は拡大するのである。
ただ資金を右から左へと動かすだけでは、経済的な価値は生み出されない。「お金」の動きによって何を産出するかが重要なのである。

一般政府の負債の占める割合が1994年から見ると2016年には著しく大きくなり、ほとんど正味資産が読み取れないほど圧縮されている。
負債の拡大に伴って債務証券が増加している。総資本が占める借入金の割合は、大きく変化していない。また、総資産の構成は、金融資産の割合が増加している。

問題は、負債の歪みが資産全体のどこに表れているかである。
資産全体で見ると金融資産の比率が高まっているのが読み取れる。


国民経済計算書

金融機関では、負債と金融資産が占める割合が圧倒的に大きい。それは金融機関の役割を反映している。
金融機関においては、負債と金融資産は、表裏の関係にある。


国民経済計算書

金融資産と負債は、対称的である。

金融の金融資産と負債の構造を見て見る。
1994年に比べて2018年は、金融資産では、債務証券(国債等)の割合が大きくなり、貸し出しを圧迫している。その対極にある負債では、現金預金が増大して他の負債を圧縮している。また、金融派生商品が急速に拡大しているのがわかる。


国民経済計算書


金融資産と負債の部門毎の推移を追ってみる。


国民経済計算書

非金融法人は、金融政策の影響を一番受けているように見える。

非金融法人と家計は、表裏の関係にあり、非金融法人は、負債が金融資産を上回り、家計は、反対に金融資産が負債を上回っている。


国民経済計算書

一般政府は、負債が、金融資産に対して一方的に増大している。この負債の一方的な増大が全体の枠組みを変質してしまっている。


国民経済計算書

金融機関の金融資産と負債の総量は、ほぼ同じ動きをしている。金融機関が全体の金融資産と負債とを均衡させているのがわかる。




金融資産は、家計が大部分を占めている。これは、資金が家計に蓄えられていることを意味する。財務は、機動的に家計から資金を引き出す必要がある。
一般政府が資金不足だからと言って直接的に資金を家計から一般政府に移し替えようとしたら、増税だの預金封鎖だのと手段が強権的になる。通常は、市場取引を介して資金を一般政府に転移する事を考えるべきなのである。


国民経済計算書

家計の負債は少なく、一定している。それに対して一般政府の負債が増大しているのがわかる。
一般政府の負債の増加が金融機関の負債を上昇させている。

公共投資も資金の回収を前提として考える必要がある。何故ならば、公共事業といえども、経済的効果も計算せずに際限なく資金を投入してもいいわけではないからである。市場に流通する資金量の上限は、市場を構成する個々の経済主体、部門の資金の調達力に依存しているからである。投資対効果は、経済の原点でもある。効果の見込めない投資は、有害でしかない。景気対策の目的だけに公共投資を活用する事は、百害あって一利ない。
財政を政治の僕にしてはならない。

市場に流通する資金量の上限は、個々の部門の資金の調達力によって制約を受ける。しかし、この制約は、絶対的な働きではない。ある意味で箍に過ぎない。過剰に資金が供給されたり、必要な財が調達できなかったりした場合、この箍が外れてしまう。そうなると物価を制御する事が出来なくなる。



国民経済計算書

上記のグラフを見ても資金不足の一般政府の負債が増加し、家計の負債は、変わらない事がわかる。

重要なのは、各部門とも資金調達側は、単純なのに対して運用側は多様であるという点である。

家計と財務



家計は、一国の経済の縮図である。それなのに、多くの人は、家計の質を見ないで産業ばかりを問題としている。
産業の根底と成果を決めるのは、家計である。だからこそ、家計の構成の変化や人口構成の変化、雇用の偏りが経済の大枠を作るのである。

家計の在り方によって産業は形成されている。生産性の効率ばかり高めても経済は活性化できない。
人は、働いて日々の糧を得る。働き口がなければ人は「お金」が稼げなくなるのである。
人減らしのみを目的とした技術革新は、経済の成長に貢献しない。なぜ、技術革新をするのか、それは人の負担を軽くするためにある。単に効率化のみを目的としたら逆効果になる。だから規制が重要なのである。何でもかんでも規制を緩和してしまえというのは、経済を知らない者が言う事である。何故ならば、消費と分配の局面を全く見ていないからである。
分配では、中間消費(中間支出、中間生産)、すなわち、費用が要なのである。費用を不必要とか、無駄と考えるのは愚かである。費用こそ、経済の要なのである。

いきなり、経済をよくするためには、失業者を減らして給料を上げればいいなんて言い出す政治家がいるが、そんなに簡単に物事が片付けられるのなら誰も苦労しない。
問題は、給料を上げる事によってどの様に生活が変わるかである。それは、経済の成長段階によって全く違う。失業問題も同じである。終戦直後の様に仕事が何もなくてとにかく食べられればいいという状態、飢餓状態と高度成長時代のように人手不足が深刻化している状態、今日の様に市場が成熟し、飽和状態では、働く意味が違ってくるのが当然なのである。それによって産業構造も変化する。
そのような前提条件をよく考えないと家計の財務(ファイナンスプラン)も理解できない。


総務省 統計局

先ず経済を見る上で重要なのは、国民がどのような生活をしているかである。産業がどれくらいあって企業はもうかっているかではない。国民がどのような生活をしていて、あるいは、どの様な生活を望んでいるかである。
それを錯覚しているからとんでもない事態を引き起こす。あたかも、人は市場の為にあるによなそんな考え違いをしている人が多くいる。それは、経済の本質を理解していないからである。
経済の根本は、生活にある。どの様な生活をしたいかにある。「お金」のために人生を棒に振るものがいたら愚かな事である。
家計を支えているのは、所得である。所得は、生活費の源泉だからである。生活を犠牲にしたら経済は成り立たない。
だから、経済の第一義は、どれくらいの所得を、どの様に(どの様な手段て、どの様な配分、平均、分散、範囲、地域)、また、何を基準にして配分するかにある。格差が拡大したら、資金が偏れば経済は機能しなくなる。
ただやたらに金があればいいという訳でもなければ、安ければいいという訳でもない。

支出をどうすれば収入の範囲に収めるかの問題であり、金儲けの問題ではない。
故に、経済の規模を決めるのは所得と支出の関係である。

雇用の在り方が変われば、家計の質も変わる。
高度成長時代は、年功序列、終身雇用が当たり前で、一定期間勤めれば一定の退職金も、年金も保証されていた。それがバブル崩壊後、様相が変わってきた、先ず第一に、正社員の減少である。正社員が減少する事は、所得の質を劣化させる事になる。所得の質が劣化すれば、借入金も儘ならなくなる。また、年金や退職金も満額貰えるかどうかがわからなくなってきた。そうなると老後の保障が怪しくなる。医療費の負担も増額され、団塊の世代までは、定年までに住宅ローンが払い終えていたのに、今後は、退職時にローンの残債が残っている可能性がある。税の負担もさらに重くなるし、財政が破綻しようものなら当然そのつけも被らなければならなくなる。介護制度も維持できるかどうかも不明。そうなると家計の財布の紐も固くなる。
経済は生産だけの問題ではない。
その反面で、労働規制を強化すれば費用が上昇するのは目に見えている。費用が上昇すれば物価も上昇する。

何が、経済の仕組みや変化にどの様な影響を与えるか、よく見極めて経済政策を採用しないと経済政策は逆効果になる。前提が違うのである。
単純に生産を効率さえ上げればいいという訳にはいかないのである。所得の質や支出の質が変われば生産効率も修正する必要がある。

ところがバブル崩壊後の施策は、競争をさせておけばいい。規制を緩和すれば何でも片付くと思い込んでいるのではないのかと思わざるを得ないような事例が多い。
また、デフレーションになれば、名目勘定である負債の負担も重くなる。フローとストックの均衡をとるように運用していく必要があるのに、無原則な規制緩和は、価格競争を惹起させ適正な価格を維持する事を難しくさせる。一度価格戦争に落ち込めば、価格だけが全ての価値観に取って代わる。



総務省統計局


また、所得の効率は、総人口と労働人口の比から求められる。基本的な事を間違ってはいけないのは、経済は産業のためにあるのでも財政の為にあるのでもないという事である。
経済の基本が分配にあるとしたら生産活動にどれくらいの割合の人間が関わっていて、一人の所得によってどれくらいの人間の生活の面倒を見なければならないのか。労働人口によって総人口の面倒を見る為には、一人当たりの所得がどれくらい必要かなのである。
いくら資財があってもそれを購入する資金力が、消費者になければ無駄になるだけなのである。

家計は、経済の始点であり、終点である。つまり、経済は、所得に始まり最終消費で終わる。その所得と最終消費を担うのが家計である。
経済主体は、収入と支出によって動く。収入だけでも支出だけでも成り立たない。収入の手段と支出の手段二つの働きによって家計は成り立ている。

働いて得た資金で生活費を支払う。その繰り返しによって社会は動くそれが原則である。

家計の財務の基本は、生病老死、衣食住のうちの住である。そして、家計の経常収支は、衣食にある。これが、消費の枠組みである。
人は、生まれ、病み、老いて、死んでいく。その一つひとつの局面で「お金」が必要とする。その「お金」を工面するのが財務の働きである。
また、家を建てるのは、一生の大事である。多くの人にとって人生一度の大事業である。頭金を貯めて借金をして家を建てるのが得なのか、借家住まいをした方がいいのか、親と同居した方がいいのか。
財務は、生産者だけの問題ではない。消費者には、消費に関する財務がある。家計の財務は、全ての財務の始原となるのである。そして、家計の財務の根底には、人生設計がある。人としての生き様そのものが家計の財となるのである。
家計にも経営があるのである。

生産者側から立った経済だけでなく、消費者側に立った経済、消費経済の確立が必要であり。家計の財務計画や消費者金融など家計を基礎とした財務の確立が急務なのである。

現時点では、社会全体の金融資産の残高から見ると、家計が、唯一の資金余剰主体である。つまり、資金の供給源は、家計であり、家計の金融資産が資金の流れの源泉となっていると言える。

但し、それは、戦後の経済が一定の期間が経過した結果である。終戦直後、言い換えると戦前の経済が一度リセットされた直後は、家計は、資金不足主体であった。終戦直後は、その日の生活にも困る状態で、物々交換によって生活に必要な物資を調達した時期もあるのである。我々が子供の頃は。またまだ物資不足で、簡易な住宅や古着で何とかその日の生活を凌いでいた時期がある。いうなればその日暮らしである。また、終戦直後は、ハイパーインフレーションに見舞われ、貨幣価値が大幅に下落した。
戦後混乱期を脱し、ある程度仕事が確保されるようになると徐々に貯金が溜まり、家計は、資金不足主体から資金余剰主体へと変貌したのである。この段階では、国が借金をして民間に資金を供与する事は効果的である。何故ならば、民間に資金が不足しているからである。

この過程を無視しては、今日、なぜ、家計が唯一の資金余剰であるのか。その謎を解き明かす事はできない。
先ず第一に考えるのは、その日その日の生活の糧である。次に、働き口である。少し、生活が安定してきたら、住む家を考える。戦後の経済発展は目覚ましく、電化製品や自動車などを買いそろえていく。
この様な生活の変化が、経済成長を支え、所得の上昇に従って貯蓄率も上昇していったのである。経済の礎は、家計にある。経済の消長の源は、家計に求められる。
特に家計の住宅投資は、設備投資、公共投資と並んでストックを形成してきた。
高度成長の原動力は家計の所得の拡大にあったのである。

家計の本質は消費である。生産だけが経済を主導してきたわけではない。
現代社会は、生産手段に重きを置きすぎる。その為に、消費の経済が疎かにされる。
生産効率ばかりを追求する為に、所得を得る機会が失われている。
重要なのは、生産と消費の均衡である。生産性の向上が消費の質の向上に結び付かない限り、真の経済効率は、計れない。
財務は、生産者だけの問題ではなく。消費者の問題でもある。
所得の効率は、消費の構成を見ないと解らない。消費の構成によって生産構造は変化するのである。生産構造の変化は、産業の在り方を根本的に変えてしまう。食事の変化は、農産物の構成や製造工程を変えてしまう。

多くの人は、資本主義における資金の出し手は、一般政府や金融機関、非金融法人だと思い込んでいる。それは錯覚である。資本主義における資金の出し手は、家計である。
貨幣制度が未成熟であり、貨幣を使っているのが国家権力だった時代は、資金の出し手は国家であり、また、一部の富裕層であった。しかし、貨幣制度が確立し、「お金」が分配の主たる手段となった今日、資金の出し手は家計である。
それ故に、家計の金融資産の構成は、財務の起点となる。

生計の中心は、家計にある。人が生きる場は、家庭なのである。消費の必要があって生産の必要性が生じる。人は、パンのために生きているのではなく。人が生きる為にパンがあるのである。況や、人は金のために生きているわけではない。
自分の仕事が機械に取って代わられるのではとおびえるのは滑稽である。機械は人の爲にあるのであって、人は機械に使われているわけではない。「お金」は、人の爲にあるのであって「お金」のために生きているわけではない。
機械は、人が欲するように使えばいいのである。
「お金」の儲け方が問題なのではない。「お金」の使い道が問題なのである。間違えれば守銭奴、「お金」の奴隷になってしまう。
生産ばかりに気をとられると消費がいい加減になる。家を建てるのは、「お金」儲けの為ではなく。生活していくのに快適だからである。不必要に部屋数が多い家は不便なだけである。手入れをするだけでも余計に費用が掛かる。


国民経済計算書(2005年基準・1993SNA)

可処分所得の増減が、即、貯蓄に影響するのがわかる。
バブル崩壊までは、順調に貯蓄が伸びていたのが、バブル崩壊後急速に資金が貯蓄に回されなくなっている。
最終消費を見ると民間も政府もほぼ一定している。

また、リーマンショック後、間接税、雇用者報酬、営業余剰・混合所得が政府最終消費支出、民間最終支出とほぼ拮抗している。


国民経済計算書(2011年基準・2008SNA)


財務の始点は、資金調達にある。資金調達の手段の柱は、所得である。安定した所得が家計の財務の前提となる。故に、雇用所得が国民経済の核となるのである。
なぜ、雇用所得かと言うと日雇いと個人事業の所得は、不安定だからである。定収を保証されている事で家計は借金ができる。
家計が借金をする際、担保されるのは、一般に将来の収入である。しかも、借金の返済は、約定に基づき一定で固定的である。一定期間、安定した定収入が約束される事で家計の財務は成立する。故に、社会全体の雇用状態が一国の経済の基盤を左右するのである。だからこそ失業率は、必須な指標なのである。


国民経済計算書

全ての財務の根源は家計にある。そして、家計の財務は、家計の金融資産に反映される。
そこで、家計の金融資産の構成を見て見る。


国民経済計算書

年金準備金は、家計にとって金融資産である。この点を留意しておく必要がある。

バブル形成時に拡大した株式が減少し、それに代わるように保険・年金が占める割合が拡大している。それなのに、年金に対する不安が付きまとうのは、年金をうまく活用できていない事による。
家計に蓄えられた資金いかに将来に対する投資に向けさせるかそれが鍵なのである。それは、少子高齢化時代を前提としている事を忘れてはならない。少子高齢化時代を前提とした投資でなければ意味がないのである。日本人は、これまで景気対策と称して「お金」のために「お金」を投資する様な馬鹿げた無駄を繰り返してきた。消費金融とは、質の高い、消費のための投資を実現する事に意義がある。

今日の資本主義は、一般大衆、即ち、家計から資金を広く薄く集めるのが中心である。特定の勢力や機関、階級がスポンサーなのではない。これは一般政府でも同じである。広く薄く一般大衆から治められる税金で行政は成り立っている。この点を見間違えると経済の足元が見えてこないし、また、固まらない。

家計所得から消費支出を除いた貯蓄を集めて事業に投資する。一人ひとりの支出は、少なくとも集めれば巨額になる。
これは、今日の新興産業が成り立つ理由である。小口の売上や出資金を集める事で巨額の資金を動かす。これが国民経済の原点である。
集められた結果としての金融資本や、産業資本、国家資本に目を向けがちだが、根本は、一人ひとりの拠出する資金なのである。不特定多数を前提とした事業が国民経済の基本である。それは民主主義の原点でもある。

家計から供給された資金は、金融機関に一旦、預けられるか、直接企業に投資されるか、大きく分けて二つの流れがある。それが間接金融か、直接金融かの別である。
一旦、金融機関に集められた資金は、個々の事業に融資と言う形で投資される。
金融機関は、資金不足主体と資金余剰主体とを仲介するのが役割である。
それが非金融法人との違いである。

金融機関の収益が圧迫されている原因として間接金融から直接金融へ移行している事があげられる。確かに、バブルが崩壊するまでは、直接金融の比率が高まっているが、バブル崩壊後は、むしろ、直接金融の比率の方が高まっている。

金融機関にとって預金と貸付金の関係は収益の元である。故に、預貸率は、金融機関の資金効率を表す。
金融機関の収益、業務純益は、貸付金による受取利息と預金による支払利息の差である。
ここで注意しなければならないのは、受取利息は、貸付金と貸付利息の積だという事である。そして、支払利息は、預金と預金金利の積である。

今日、金融機関の経営が圧迫されているのは、ゼロ金利によって利鞘が稼げないというだけでなく。優良な貸付先が見つからないために預金量に対して貸付金が少ないという点がある。つまり、二重に障害があるのである。
いくら「お金」を市場に供給しても優良な貸付先が増えるわけではない。優良な貸付先が見つからないのは、市場の問題だからである。
将来の収益が見込めないのに資金ばかり増やしたらむしろ弊害になる。借金は、経常収入の中から返済するのが原則なのである。



国民経済計算書

預貸率こそ経済全体の均衡状態を表しているのである。貸付先、収益が期待できる投資が見当たらないのに、借金ばかりを増やしている。そのような不均衡な状態を促しているのが財政であり、中央銀行である。

預金と貸付金の均衡を取り戻す事が抜本的な解決につながる。要は、預金を減らすか、貸付金を増やすかでしかない。今日の政策は、国債を増やす事で、間接的に預金を増やし、規制を緩和する事で競争を促し収益を低下させる。つまりは貸出先を減らす政策である。故に、財政は破綻に向かい、金融は、均衡を保てなくなっている。

バブルが崩壊しても預貸率がすぐに悪化したわけではない。むしろ、バブル崩壊後の政策に問題があった事が窺える。
預貸率が決定的に悪化するのは、2000年を過ぎたころからである。

一番の問題は、家計や企業が資金不足主体であるかのような錯覚である。一番の資金不足主体は、一般政府である。その一般政府が景気対策として公共投資を増やし、民間企業や家計に資金を供給している事である。
むしろ、いかにして家計の余剰資金を一般政府に還元し、非金融法人に投資のための資金を廻すかを考えるべきなのである。

財務の役割は、家計に蓄えられた資金をどの様にして投資に向けるかにある。
財務の原点は家計にあるのである。

逆に家計の投資が疎かにされている。それが、資金の流れを偏らせているのである。
預金や貯金は、美徳だとする風潮があるが、「お金」は、循環する事で効用を発揮する事を忘れてはならない。家計が、余分な「お金」を貯め込まなければならない環境や状況が問題なのである。

家計の金融資産の中で、増加しているのは、実は、保険や年金の準備金だという事を見逃してはならない。

またも家計と財務の考えるうえで、相続の話を外すわけにはいかない。
相続税がバブルを促したという側面を持つ事を忘れてはならない。
基本的に資産、特に、土地は、公からの借り物だという事が根本思想である点を見逃してはならない。
バブル時代には、資産家の貧乏人と言える人たちが沢山輩出した。つまり、収入は少ないが先祖代々引き継いできた土地が値上がりしたという人たちである。
この様な人たちも含めて地価の高騰によって相続税が支払えなくなりそうになった人達が、わざわざ借金をしてまで節税対策を講じたのである。この点は、フローとストックの関係を暗示している。フローとストックは無関係なのではない。むしろ深く関わっていると考えるべきである。
ただ資産が多く持てばいいという訳ではない。資産は、対極に負の勘定を持っている。資本も負の勘定である。故に、費用が派生するのである。資産をうまく活用しないと負担ばかりが増大し、フローを圧迫する。それが資産家の貧乏人である。

基本的に資産は、公から借りていると考えるのが妥当である。この点は、資本主義も共産主義も向かっている方向は、同じである。三代で全財産は、国に返されると言われている。私有財政制度と言っても無制限に私有財産が許されているわけではない。資産が大きくなればなるほど税金や費用の負担は大きくなるのである。いずれにしても資産が代を重ねて蓄積される事は、格差の拡大につながり、階級制度を準備する事になる。



金融政策と財務


金融政策と財務は、密接な関係がある。財務の働きは、金融の働きと表裏の関係にあるからである。
財務も金融も資金の過不足を補うのが役割である。
必然的に経済主体の中で金融政策の影響を最も受けるのが財務である。

本来、金融政策は、金利を操作する事である。しかし、金利がゼロでは、金利の操作のしようがない。金利を操作するというのは、時間価値、付加価値に働きかけることを意味する。つまり、時間価値が働かなくなっているのである。それが根本的な原因である。
デフレーションは、時間価値が働かなくなった結果である。デフレーションが原因で時間価値が働かなくなったわけではない。
金融を緩和する場合この点をよくよく考慮しておく必要がある。金融を緩和しても時間価値に影響が及ばなければ効果がない。

財務は、資金調達の技術によって成り立っている。資金調達の技術は、言い換えると借金の技術である。
借金の技術という事は、主として金利が重要な役割を果たしていることを意味する。
歴史的に金利不要論が、金利罪悪論が存在する。しかし、それは、金利そのものを問題としている事から生じる発想であり、金利が果たしている社会的、経済的役割を理解していない事に原因する。

金利の重要な役割の一つが、時間価値を創り出し、主導しているという点にある。そして、二つ目は、付加価値の創造である。三つめは、ストックとフローを結び付け、景気を制御している事である。第四に、資金を動かす力の源だという点(金融機関の収益源)。第五に、資金の過不足を補う動機(金融機関の存在意義)となっている。
金利が失われれば、金融機関は、収益源と存在意義の両方を失う。これは貨幣経済、自由主義経済を否定する事でもある。

金利で最も重要な働きは、時間価値と付加価値を創り出しているという事である。時間価値と付加価値は、経済成長の原動力である。時間価値や付加価値がなくなると市場経済は、機能しなくなる。現在の市場で最も危惧しなければならないのは、時間価値の力が働かなくなりつつあるという点である。それがデフレーションである。
次に問題となるのがフローとストックの関係が弱くなり、フローとストック間にある緊張関係、相互牽制が働かなくなる事である。フローとストックの相関関係、相互牽制が働かなくなると市場を制御する事が出来なくなる。
元々、フロー、即ち、資金の流通量は、ストックによって制約を受けている。ストックが過剰になると通貨の流通量を制御する事が困難になる。
金利は、ストックを基数として費用としてフローに計上される。つまり、金利は、ストックとフローとを連結しているのである。ストックの総量と利率によって時間価値や付加価値は制約を受けるのである。

金利には、元々、二つの種類がある。それは、預金金利と貸付金利である。そして、預金と貸付金は、そもそもその根本的働きが違うのである。預金には、預り金と言う側面と貸付のための準備金と言う側面がある。預り金は、余剰資金を集めた集合であり、準備金は、貸付のための原資である。そして、この二つの働きが預金の性格を形作っている。注意しなければならないのは、預金は、金融機関にとって負債だという事である。

金利には、正の働きと負の働きがある。市場が拡大していた時は金利は市場の拡大を促進する制の働きがあるが、一度、市場が縮小し始めると金利は負の働きが強くなる。この金利の正の働きと負の働きによって市場を制御する手段が経済政策である。
ストックを調節する事でフローを制御しようという手法が金融緩和である。金融緩和の特徴は、間接的な手法だという点である。
間接的な手法だから影響が出るのに時間がかかるのと効果に対する予測がしにくい点に難がある。

金利が機能しなくなることは、市場を制御する手段を失う事である。早晩、市場は制御する事が出来なくなる。また、金利は、金融機関の本質であり、中央銀行が金利を否定する事は、金融制度そのものを否定する事でもある。

プラザ合意後の円高不況の時、財テクと称して本業より財務の方が稼ぎがあると錯覚した経営者もいた。しかし、それは邪道である。企業や産業には本来の業務や目的がある。財務は、金融機関が専門機関である。あくまでも一般企業においては、脇役でしかない。財務が稼ぎ出す利益が本業を上回る事は、経営的には危険な状態である。

これは一国の経済も同じである。金融政策だけで経済を制御できると考えるのは傲慢である。国を危うくする。それは、軍が権力を握るのと同じくらい危険な事である。

財務の働きだけで経営を健全化できない様に、金融政策だけでは、経済を健全化する事はできない。
何故ならば、資金の過不足は、市場取引の結果であり、資金の過不足を引き起こす要因は、別にあるからである。
資金の過不足の偏りを改善しない限り、財務は健全化できない。
財務は、貸借・資本取引に基づき名目勘定であり、財務も金融も名目的な働きなのである。物や人は、有限であるが、「お金」には際限がない。際限のないもので限りあるものを制御しようとしたら抑制が効かなくなる。
資金の過不足を引き起こす原因は、市場の構造や状況にある。市場の歪を改善しないと金融は健全化できない。同じように企業経営を正さない限り、財務を健全にする事はできない。

金利がゼロだという事自体、異常であり、不健全なのである。金利がゼロという事は、金利を操作する事で景気を制御するという従来の手法が活用できなくなることを意味する。なぜ、金利をゼロにしなければならなくなったのか。その状況が異常なのである。そして、金利をゼロにしなければ成り立たない状態を脱する事を考えるべきなのである。

なぜ、金利をゼロ、マイナスにしても借り手が現れないのか、あるいは、優良な貸付先が見つからないのか。そこに問題の本質が隠されている。いくら金利をゼロにしても資金を調達する裏付けがなければ資金調達はできない。企業には担保すべき資産がないのである。担保する資産がなければ金融機関は、「お金」は貸してくれない。経営者は経営者で投資しても収益が見込めない限り、いくら金利がゼロでも返す当てがないから借りない。貸す側も借りる側も投資する動機がないのである。この点を改善しない限り金利を幾ら低くしても資金は市場に供給されない。

また、金利をゼロにしなければならない原因は、第一に、デフレーションにある。第二に、財政事情がある。デフレーションは、時間価値が働いていない事を意味する。時間価値が働かなければ付加価値も生まれてこない。だから所得が伸びないのである。第三に部門間の歪にある。一般政府、非金融法人、家計の資金関係の歪みが資金の流れを偏らせている。それが健全な貸借関係を阻害しているのである。

大体、デフレーションが問題だ、デフレーションからの脱出を優先すべきだと言うが。なぜ、デフレーション、不況になるのか、その点を明らかにしなければ対策の立てようがない。
原因が明らかでなければ対策を立てても空騒ぎに終わるだけで抜本的解決にはならない。
デフレーションとは、恒常的に物価が下落し続けることを言う。ではなぜ、物価が上昇しないのか。物が売れないからである。つまり、収益の悪化である。それではなぜ、商品が売れないのか。そこが問題なのである。
「お金」がないからなのか。欲しい物がないからなのか。売れる物がないからなのか。必要とする人が少ないのか。「お金」がないのなら、「お金」を供給すればいい。
しかし、欲しい物がない、売れる物がないとしたら、いくら「お金」を供給しても意味がない。
経済は、本来、必要な生産財を必要としている人に必要としているだけ分配する為の仕組みである。ただ資源には限りがあるから、全ての人にその人が欲求する財を欲しいだけで与えるという事はできない。ただ少なくとも生存する為に必要な資源だけは確保しなければならない。

「お金」は、生産財を分配する為の手段であるから、分配する為に必要なだけの量があればいい。「お金」その物は、「お金」としての働き以外使い道がないのである。
問題は、物や人は有限だが、「お金」の量は無限に作り出せるという事である。そこで何らかの制約を設けないと「お金」は、際限なく増え続ける事になる。
インフレーションもデフレーションも極めて貨幣的現象だ。しかし、金利を操作したり、貨幣の流通量を調節する事だけで制御する事は不可能である。何故ならば、経済の実体は、「お金」にはないからである。金融政策は、あくまでも補助的手段である。
また、貨幣が有効に機能する為には、貨幣が適正に配分されている事が鍵である。
貨幣は、入金と出金、即ち、収入と支出によって効用が発揮されるからである。つまり、収入や支出に影響を及ぼさない金融政策は、実効力を持たない。

負債と資本、収益は、名目的な経済的価値を表し、資産と費用は、実体的な経済的価値を表す。

経済は、何らかの実体と結びつく事で効用を発揮する。

経済の実体は、実質的勘定に表れる。実質的勘定とは、資産と費用である。負債、資本、収益は名目的勘定であり、実体を持たない。いくら「お金」を貸し借りしても貸し借りだけでは、資金の効用は現れない。資金の効用は、何らかの実体と結びついて時に発揮される。貸借・資本取引には、生産性はないのである。

生産性は、物の生産、分配、消費と言う過程に表れる。生産や消費などの実需に結び付かない資金の動きは、経済を実体から乖離させる。
経済成長は、実際の所得、生産、消費の増加があって実質的なものに転化できる。

人口が減少している時に、新設住宅を増やしても需要は喚起できない。しかも、質を落として量販したら収益は向上しても利益は圧迫される。結局、空き室ばかりを増やして、現実の経済には還元されない。総所得には、貢献しないのである。
住宅の質を向上させる為の政策が必要なのである。量から質への転換が総所得を増加させる。実際に世の中に必要な物で、活用されるものでなければ経済の実体を成長させることはできない。
いい住宅を多少高価でも時間をかけて建設する。量から質へと転換させるためには、状況に応じて成長の速度を落とす事も必要である。つまり、時間をかけるゆとりがあるなら時間をかけて質の良い物を追求すべきなのである。それが総所得を向上させる。

経済の実体は、物と人にある。「お金」は、物を人に配分する為の手段である。資金の量は、物と人との分配の必要性から生じる事である。資金がいくら余っているからと言って住む人のいない家を幾ら建てても経済の実体には影響しない。
根本は、必要性であって必要性のない投資は、経済を混乱させるだけである。

一方で大量の食糧を廃棄していながら、他方で餓死する者がいる。この状況が悪いのである。

その為には、金融政策や財政政策だけでなく、産業政策や市場環境の整備などの政策も併せて施行すべきなのである。
何故ならば、市場経済を主導するのは、市場だからである。

では何が資金不足を起こしているのか。第一に収益力が低下した事である。要するに、儲からないのである。第二に、地価に代表される資産価値の下落である。地価の下落は、地価の含み益を担保としている企業の資金調達力を低下させている。
どちらも「お金」と物との関係から派生しているのである。
「お金」の流通量を幾ら増やしても市場に資金が出回らない限り、物価に影響を与える事はない。物価に影響するのは、物と「お金」が結びついた時である。

過剰な余剰資金は、金融市場に淀み。付加価値を圧迫する。

財政の悪化は、部門間の歪から発生している。部門間の歪を改善しない限り、抜本的解決には至らない。



財務は、時間の関数である


経済は時間的均衡の上に成り立っている。時間的均衡は、短期的均衡と長期的均衡をどう釣り合わせるかの問題である。
企業会計では、短期的均衡は損益上に長期的均衡は、貸借上に表れる。
損益は、収益と費用の関係から導き出される。収益は、不確実で費用は確定的である。この収益と費用の関係を調節するのが財務の働きである。
貸借は、投資の働きと運転資金の働きの結果である。投資は、初期投資と資金調達からなる。初期投資は、負債と資産を形成し、費用は、償却費に反映される。資金調達は、借入金と返済計画を構成する。資金の返済は、収益の中から捻出される。この初期投資と資金調達、損益は、長期的不均衡を生み出す。長期的不均衡を調整する働きをするのが財務である。

財務は、時間的均衡を計ろうとする力によって発生する。
故に、財務は、時間の関数である。財務は、変化を前提として成り立っている。変化は、時間の関数である。財務には、時間の働きがある。

財務は、差によって成り立っている。差を生み出すのは、変化である。
故に、財務は変化を前提として成り立っている。
財務を成り立たせる変化には、金利差、価格差、時間差、為替差などがある。

金融工学は、借金の技術であり、経済的空間と時間軸とで成り立っている。金融工学は、空間的、時間的均衡を前提として成り立っている。
経済的空間は、人、物、「お金」の三つの座標軸から成り立っている。そして、経済的空間と時間によって生じる差が金融工学を成り立たせているのである。

金融工学は、本来、財務の技術して発達してきた。金融工学は、経済環境の変動をやわらげる事が目的なのである。
財務は、資金の過不足を予測し、収入を平準化する事が本来の目的である。その目的を逸脱するとかえって経済状態を不安定にしてしまう。
安定を目的とした技術ず変化を増幅してしまうのである。

金融工学は、時間的、空間的に生じる資金の過不足を平準化する事に意義がある。
経済には、周期的な波が生じる事がある。また、空間的な歪が生じる事もある。例えば、一年には、四季による周期的な寒暖の差がある。ビールは夏に需要のピークが来るのに対して、暖房用のエネルギーは、夏は需要の底が来る。この様に正反対の需要の波を持つ商品がある。当然、需要によって収益にも波が生じる。また、天候によって作物の収獲も一定していない。原油などの価格も政治などによって大きく変動をする事がある。また、為替の変動も一定ではない。この様な不確実性に備える必要もある。物によっては、輸送に時間かがかかるものがある。輸送機関に、為替や金利、価格が変動する危険性もある。
この様な不確実性に備える技術が金融工学である。
時間的な波、空間的な歪が発生する事が予測されたら、それを補正する為に、他の主体と取引をするための技術が金融工学なのである。
しかし、変化を逆手にとれば金融を操作する事で見掛け上の利益を上げる事が出来る。過剰になれば投資が投機に変質する。

投機と投資の違いは、投資は、何らかの実体を根拠としているのに対して投機は、実体のないお金の動きである。投機は、貨幣価値を希薄にする。それは誤った金融工学である。刃物も自動車も使い方を間違えば凶器となる。原子爆弾も原発も原理は同じなのである。
必要に応じて規制すべきなのである。

金融工学自体が悪いのではない。扱い方を間違うと市場の混乱を増幅するのである。

財務は、差によって成り立っている。差は変化より生じる。
財務の役割は、経済環境によって生じる資金不足を解消する事である。
どの様な経済環境の変化がいつ、どの程度発生するのか。その資金不足をどの様にして解消するかが、財務の主たる仕事である。

経済環境には、主体内部に発生する固有の変化と主体外部の要因によって発生する全体的要因があり。内的要因か外的要因かによって採るべく施策も変わる。

収益力が低下するにしたがって財務は、外的要因による影響に左右される場合が増えてきた。それは、内的要因による資金調達に限界が出てきた証拠である。



経済環境と財務


財務の在り方は、経済環境によって大きく変わってくる。
何故ならば、資金不足を引き起こす要因の多くが経済環境に関わっているからである。

経済環境を変動させる要因は、第一に、景気。第二に、物価の動向。第三に、為替の変動がある。第四に、金利。第五に、業界の再編、規制緩和、過当競争など市場の状態がある。第六に、税制や会計基準などの変更がある。つまり、利益、物価、為替、金利、規制、税の動きである。

家電業界の消長は、戦後の日本経済を象徴している。
家電業界を成長させた要因は、家電業界を衰退させた要因でもある。
そして、それは、日本経済を成長させた要因でもあり、停滞させた要因でもある。

家電業界は、経済成長とともに発展をし、高度成長の終焉によって衰退しはじめた。
高度成長は、市場の拡大によって需要が恒久的に増加し続けた事、技術革新が新たな需要を継続的に掘り起こした。また、一定の物価の上昇が持続されていた。雇用と所得が安定していたと言った好条件に恵まれていた。
しかし、日本経済の成長を支えていたこれらの要素が崩れると日本は長い停滞期に突入してしまう。

資金不足を起こす要因には、内的要因と外的要因がある。
内的要因は、経済主体が経済活動をしていくうえで生じる資金不足である。
外的な要因は、経済主体を取り囲む経済環境による要因だが、内的要因と外的要因は密接に結びついている。

資金不足になる要因の多くは、そして、致命的な要因は、外的要因である場合が多い。ところが、一般に問題とされるのは、個々の企業の内部事情である。しかし、企業を破綻させる原因の多くは、一企業の企業努力だけでは解決できない要因なのである。
但し、外的要因の多くは、予測する事が出来る性格の事である。

今日、財務の技術は飛躍的に向上している。それは、個々の企業の努力と言うだけではなく、そうしなければならない状況がある事を忘れてはならない。その点を見落とすから、財テクは、財務が独自に開発した事のように思われてしまうのである。
デリバティブにせよ、証券化にせよ、必要に迫られて開発された事なのである。それを当然な事と考えるべきではない。

財テクは、必要に迫られて仕方なく開発された事であり、一歩間違えは、企業のみならず国家でさえを存亡の淵にまで追い遣ってしまう。


法人企業統計

2000年を越えるあたりから総資本回転率は、一回転を切るようになってきている。それは、総資産が売り上げを上回るようになってきたことを意味する。

大規模な設備投資をすれば、その資金の回収には時間がかかる。また、回収期間は、一定の収益、少なくとも損益分岐点を上回る収益を上げ続ける事が要求される。
また、先端技術を維持する為には、研究開発費も馬鹿にならない。

本来なら、目先の利益を追うのではなく。長期、中期的展望に立って長期、中期的な均衡を目指すべきなのである。

技術革新が激しい時は、新製品の開発期間も短く、個々の商品の寿命も短くなり、ますます、投資した資金の回収が難しくなる。
差う言って要因が重なって財務の質が変化してきたのである。単に資金繰りをすればいいという事から財務は、資金運用に精を出して運用益を稼ぐことが求められるようになってきた。

典型的に現れたのが薄型テレビ、液晶・プラズマテレビである。薄型テレビはそれまでの常識を覆し、驚異的な速度で普及した。その結果、薄型テレビに投資した企業のなかで好成績を上げたところから経営を悪化させ、競争力を失っていったのである。
これなどは財務の失敗とか、投資の失敗と言う以前の問題である。
競争を煽り、目先の利益ばかりを追求せざるを得ないような状況に経営者を追い込んでしまった経済構造に問題があるのである。


法人企業統計

財務も企業買収や合併といった企業や産業の大枠を変えるような事にまで及んでいる。
しかし、それは財務の本道ではない。
企業合併や産業再編をしなければならないような事態にまで至っているのである。
肝心なのは、産業や経済に対する根本的な構想である。なんの見通しもないままに、企業の合従連衡が行われれば、経済が土台から崩れてしまう。
競わせるのならば何を競わせるかの照準を明らかにすべきなのである。


法人企業統計

家電業界の利益率は、高度成長が終焉してから低下し続けている。一方で設備投資が嵩んでいく。技術革新が進めば進むほど、利益が上げにくくなっている。また、労働集約的産業から資本集約的産業へと移行している。
為替が円安に向いても生産拠点が海外に移転していたら、収益の向上には結びつかない。また、国内の所得には貢献しない。
産業の空洞化は、現実の問題である。


法人企業統計

同じような状況に、今、金融業界も落ち込みつつある。適正な価格、適正な利益、即ち、付加価値が維持できない構造が問題なのである。

市場の歪みが財務を歪めるのである。
通常の経営によって利益を上げる事が出来ないから財務が歪む。本来会計も市場の仕組みも適正な利益を上げられるようにする為にある。
現在は、ひたすら価格を抑える事ばかりに目が向けられている。その為に、本来守られなければならない事まで守られなくなってきたのである。また、雇用も維持できなくなりつつある。

バブル崩壊後、財務の歪みは拡大している。その結果多くの技術が開発された。財務によって利益が出されていると豪語する経営者もいる。しかし、それは、市場や経済、経営の歪みだという事を忘れてはならない。財務は、本業に必要な資金を調達するのが本来の役割なのである。財務が正常な状態に戻すためには、根底にある市場の仕組みを正す必要がある。


財務は、ストックとフローの関係から生じる


財務は、フローとストックの関係を調節する働きである。
フローとストックを調節する働きは、付加価値と時間価値にある。故に、財務は、時間価値と付加価値に対する働きである。

フローは、損益上に表れる。ストックは、貸借対照表上に表れる。期間損益は、資金の働きを表している。それに対して、実際に経済の仕組みを動かしているのは、資金の流れである。資金の流れは、資金の過不足によって引き起こされる。資金の流れがフローを構成し、資金の過不足がストックを形成する。

期間損益と現金収支とは、別物である。
資金の働きを表す期間損益と経済の仕組みを動かす現金収支との間には、時間的なズレや部門間の偏りが生じる場合がある。
その為に、期間損益上、償却が終わって利益が出ているのに、資金繰りがつかないと言った例が起こる。最悪の場合、黒字倒産なんて事になりかねない。
これなどは、財務の典型的な問題である。
期間損益と現金収支との間に生じる時間的なズレを調節するのは、財務の重要な役割の一つである。
また、為替の急激な変動は、収益構造を大きく歪めてしまう事がある。この歪を是正するのも財政の働きの一つである。

住宅投資を例にとると解りやすい。
現金収支は、住宅価格、頭金、月々の返済額、返済期間、元金(借入金)、利息、返済金総額、金利、残存価格からなる。
期間損益は、初期投資総額(元本)、土地の簿価、自己資金、借入金、減価償却費、償却期間、残存額からなる。
それに税負担を加算する。
また、比較対象となる基準は、家賃相場である。
この中でストックとなるのは、借入金と初期投資額、土地の簿価である。それに対してフローの中の支出、費用を構成するは、月々の返済額、償却費である。そして、基準となるのが家を借りた場合の家賃である。家を借りた場合の利得の方が、家を購入した場合より上回れば、住宅を購入するより借りた方が得だという事になる。
次に問題となるのは、費用や支出の原資は何かで、経常収入である。期間損益に置き換えると収益、あるいは、所得である。
そして、借入をする場合は、何を担保とするかである。
期間損益主義に基づけば、経常的収入と収益は一致しない。しかし、家計や財政は、現金主義に基づくから所得と経常収入は一致している。

支出は、可処分所得によって制約を受け、費用は、収益の範囲に制限される。問題は、支出が収入を上回った場合である。その場合は、過去の蓄えを取り崩すか、借金をするかである。
基本は、経常的収入の範囲内に借金の返済も含め、支出は収められなければならない。ただ、親の遺した資産が莫大だったりして無制限に借金ができるとしたら経常的収入と言う箍が外れてしまう。そうなると経常的な収益を得る意味がなくなる。

通常、経常的収益は、何らかの対価として受け取るものである。この対価と言う働きが生産と分配を結び付けているのである。何故ならば、対価と言うのは、双方向の働きを意味しているからである。

無制限に借金ができるとなると生産と分配を制御する事が出来なくなる。
国債の中央銀行の直接引き受けが禁じられているのは、一般政府が無制限に借金ができるようになるのを防ぐ為にである。

バブル期において住宅価格は、年収の七倍の範囲に抑えろと言われたのはフローとストックの関係の一つの目安である。
もう一つの目安が家賃相場である。
家賃相場は、住宅の規模や利便性、地域性などの要件から個別に計算される。一律に決まっているわけではない。

財務の働きを理解しようとした時、これらの点が鍵を握っている。住宅投資にかかる費用とそれを清算する為に要する期間、その対極に住宅を活用した時の経済的な利益から経済的な価値は測られるのである。
財務はこの経済的価値の最大値を求める事が求められているのである。

この様に住宅を購入する場合、頭金と借入金の割合をどの様にしたら最適か、また、借入の条件をどうしたらいいか。借入期間は、どのくらいが適切か。残存価値は、どの程度見込めるか。税負担はどれくらいになるのか。借りた場合とどちらが有利か等を検討するのが財務の役割である。

この様にフローとストックは相互に関連付けられている。フローとストックの関係は、経済に箍をはめている。その箍が外れたら経済は、制御不能に陥り暴走してしまう。

現在経済の問題は、実需と関係のないところで、投資先がないとか、金が余っているという理由だけで投資や投機の対象として住宅建設がされている事である。
少子化が叫ばれ、空室、空き家が社会問題化しているというにデベロッパーや金融、また、景気対策として住宅投資をするのは、バブルやリーマンショックの時と同じ過ちを繰り返すだけである。不必要なな投資は、貨幣価値を希薄化するだけである。
住宅の質が向上するわけでも、都市計画があるわけでもない。役に立たない箱もの(建物)ばかりを増やしている公共投資も同様である。この様な投資は、経済の実体を反映したものではない。この様な行為は、財務の本道ではない。
財務は、本業のための資金繰りを言うのである。
リーマンショックやバブルの背後には、この様な実態の伴わない住宅投資が大きく影響しているのである。
リーマンショックの時は、経常的な収入がないのに、住宅の値上げ益を担保して借金をし、借金によって経常的支出を賄っていたことが最大の原因なのである。

それを愚行と嘲笑するのならば、借金を当てにした財政を改めるべきなのである。

住宅投資は、家計を中心とした消費者の要請に基づく事でなければならない。金融や、建設業者、政府などの都合や景気対策で行うものではない。建国の理念に基づき、明確な都市計画によって行われるべき事である。人口や市場の環境等も十分に検討したうえで計画的に実施すべき事なのである。

金融機関は、部門間やフローとストックの不均衡を調節するのが一番の役割である。
金融機関の収益である業務純益は、受取利息と支払利息の利鞘が基本である。
その支払利息と受取利息の差は、単に金の差を指して言っているわけではない。まず第一に、支払利息と受取利息とでは金利が違う。第二に、支払利息の母数となる預金量と受取利息の母数となる貸付金量が違う。
現在は、預貸率が、中小金融機関で、50%を切ってきている。
これは、現在の財務状態を反映している。非法人企業は、資金の調達力が脆弱になり、外部から資金調達ができなくなっているのである。

支払利息と受取利息の状況は、金融機関の実情を如実に反映している。


国民経済計算書

支払利息と受取利息減少は、金融機関の経営状態を現わしている。
支払利息と受取利息を調節し、名目的な金利を割り出したのがFISIMである。


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FISIM調整前にしろ後にしろ、金融機関の収益は、危機的である事は明らかである。


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一般政府の金融資産と負債



財務は、資金の過不足を補う過程で生じる。
経済運動は、ストックの残高と変化率から成る。ストックの残高は、経済的位置を意味し、変化率は、付加価値を形成する。付加価値は、フローとして現れる。つまり、変化率は、ストックから制約を受ける。
付加価値とは、金利、人件費、減価償却費、地代家賃、利益からなる。
金利は、預金を母数とし、所得は、物価を基数とし、減価償却は固定資産を母数とし、利益は、売上を基数とする。そして、これらの要素は、資金の過不足、労働と分配、需要と供給、ストックとフロー、投資対効果、収益対費用等の相互牽制によって生み出される。

資金過不足を補正する手段には、貸借的、資本的手段以外に、税、補助金、公共投資等の所得の再配分、資金移転がある。
一般政府の役割は資金の過不足を補正し、資金の流通量を加減して資金を循環させる事である。現実には、社会資本を整備し、国民の生命と財産を守り、所得の再配分し、そして、国家理念を実現する事にある。景気対策は二義的な事に過ぎない。

自由主義経済は、基本的に収入を計ってその範囲内で支出をする。借金の返済も経常的収入の中から捻出するのが原則である。
非金融法人では収益、家計は、所得、財政は歳入である。利益が出なければ、民間企業は、借金が累積していくし、生活費を越えて借金の返済が求められれば生計が成り立たない。同じようにプライマリーバランスを越えれば、財政の均衡は、成り立たなくなる。

財務と言うのは、資金の調達と運用に係る事であるから一般政府における財務には、税が深く関わっている。
税は、生産・輸入品に貸される税と所得・富等に課せられる経常税、そして、資本税がある。
この中で財務機能があるのが資本税である。資本税以外の税は、経常的な経済活動の中で発生する。それに対して、資本税は、資本移動に伴って発生する税である。
相続税・贈与税は、資本税として資本移転と見なされ、所得とはみなされない。

注意すべき事は、公共投資は、市場を形成しない点にある。故に、国民所得に直接的な影響を及ぼさない。ただ、所得を再配分する事で間接的に国民所得に影響を与える。

一般政府は、非市場生産者である。一般政府、および、対家計非営利団体の産出は、利益を前提としていないのない産出である。故に、営業余剰。混合所得を生み出さない。つまり、国民所得を増やさない。

一般政府で問題なのは、一方的に債務証券、即ち、国債が増大している事なのである。
負債の歪みが金融資産のどこに表れているか、それが問題である。



国民経済計算書

「お金」が回っていれば、経営を継続する事はできる。しかし、構造的歪みを補正しないと部門間の格差は拡大していく。

財政赤字は、部門間の構造的な歪(ひずみ)によって引き起こされる。
貸借・資本的手段だけでは、フローとストックの歪は是正できない。借金は、収入の中から返済しないと借金の残高は累積していく。プライマリーバランスが保てなければ、政府の負債は拡大していく。
フローとストック、市場の歪(ゆが)みを是正しない限り抜本的な解決はできない。

現象は、その現象、変化だけを追ってもその変化の先に何が起こるのかを予測する事はできない。変化を引き起こしている原因や要因、仕組みを明らかにし、その現象を起こしている構造を変えない限り改善できないのである。

負債残高の拡大は、金利、即ち、変化率を圧迫する。金利が圧縮されると金融機関の機能が低下する。資金の貸し借りが円滑にできなくなるのである。それは、市場の仕組み全体を抑圧する。その圧力、緊張に耐えられなくなると市場は暴走するのである。
付加価値を生み出している基の構造を変えないと景気は、抜本的な改善をする。


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財務は資金の過不足を補正する事はできていも、収支を合わせる事はできない。経常的収支が合わなければ、負債の累積は防げない。収支は、収入を上げるか支出を削減するしかないのである。
所謂リフレ派は、景気を良くして税収を増やせば財政赤字は解決できると思っている。しかし、肝心の景気をよくするという話になると公共投資を増やし、国債を大量に発行して、資金を市場に供給すればいいという事になる。そんなことをすれば支出は際限なく増えていく。歳入と歳出がいつまでたっても均衡しなくなるのである。
金融政策や財政政策だけで財政の歪みは是正できない。もともと、財政赤字を引き起こしているのは、部門間の歪み、フローとストックの歪み、時間の働き、市場環境の変化等による歪などであるから、経済の仕組みの枠組みを変更しないと改善できない。
民営化などの方策はその延長線上にあるが、ただ、民営化すればいいという訳ではない。現在の日本は、包括的で、構造的な対策が求められているのである。対処療法だけでは対応しきれる段階ではない。

だから財政をファイナンスすることは財政規律を失わせるから禁じてなのである。プライマリーバランスを実現しようとせずに安易に借金に頼るのは自滅的な行為である。

先ず支出を削減する事と、公共投資を精査する事が必要である。そして、財政の原点に立って何が国家国民にとって必要なのか、それを明らかにする事なのである。


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非金融法人の金融資産と負債


忘れてはならないのは、貸借資本取引は、所得を増やさないという点である。
いくら借金をしても、増資をしても、それだけでは、収益は、増えないという事である。つまり、財務は、所得に影響しない。
この点を誤解すると本業が駄目にならば、財務で稼げばいいという発想になる。しかし、本業を支援する行為であって従属的行為であり、主たる業務ではない。
従属的行為である財務が主たる業務である本業を押し退ければ、本業は衰退してしまう。
住宅産業の主たる業務は、快適な住宅環境を整える事である。人口が減少しているというのに、投機のためにマンション建設をする事ではない。人口が減少し、市場が飽和状態に陥ったらリフォームや高級住宅、恒久的住宅を都市計画に基づいて計画的に建設する事なのである。つまり、量から質へと転換する事である。



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株式等とその他の金融商品を入れ替えてみると大きな波を作っているのが株式等である事がわかる。但し、2013年以降その他の金融資産の増加も目立ってくる。
負債では、借入金が減少し株式が増大している。


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財務と海外部門


近代的財務の始まりは、海外交易に求められると考えられる。海外交易は、近代貨幣制度の源でもある。日本が今日の貨幣制度の礎を築いたのは、明治維新の時である。つまり、開国によるのである。そして、近代貨幣制度が財務を生み出す。それまでの「お金」に対する考え方を百八十度変えてしまった。それは、経済の本質を根底から変えてしまう様な出来事だったのに、多くの日本人は、気が付いていない。
日本は、極めて特異な国なのは、閉鎖的経済と開放的経済の両方を経験しているという点にある。これはも経済を考える上で重要な要素になる。

日本は、開国にあたり、他国との通貨制度の整合性を確保しなければならない事態に追い込まれたのである。
浦賀沖に黒船が来るまで、日本は鎖国したのである。
多くの人は、明治維新と言う政治的な事象に囚われて経済的な大変革を見落としている。それが貨幣に対する認識を軽薄なものにしてしまっているようにさえ思える。

まず第一に明治政府は、極端な資金不足に陥っていたという事、そして、その資金を調達する為に財務が生まれた。その財務の始まりは、借金である。どの様にして誰から借金をしたのかと言うと当時の国民から紙幣をする事で金を借りたのである。
一般政府の借金と言うと一般に国債を思い浮かべるが、紙幣の発行も借金の一種である。
つまり、国家財務が紙幣を生み出したと言える。そして、それが財政の始まりである。

経済を考える時、なぜ、一般政府は、国債によって資金を調達しなければならないのか。政府がお札を刷って一方的に流してはいけないのか。そうすれば、税金を払わずに済むのではないのか。意外とこの謎に対する明確な答えは示されていない。ある意味で「お金」の存在は所与の事であり、自明な事のように考えられている。
紙幣も国債と同じ負債と言う性格を持っている。ところが紙幣は、国債と違って負債だという認識が希薄である。希薄だから一度味を占めると際限なく発行し、その結果、紙幣が過剰に市場に供給される事になり、物価が制御できなくなる。それに懲りて紙幣を発行する際、制限を設定する事を思いつく。その制限の一つが国債である。国債は、借金であるから返さなければならない。その返済義務が、貨幣の通貨量の上限を制約するのである。
忘れてはならないのは、「お金」は、分配の手段だという事である。生活に必要な資源を国民全員に遍く分配する為の手段が「お金」である。つまり、「お金」は、人と物とを仲介する働きによって成り立っている。人と物とを仲介し分配する為には、「お金」の流通量は制限される必要がある。何故ならば、分配は、配分であり、全体に占める割合によって確定するから、全体の範囲がなければ成り立たない。際限がなかったら配分は決まらないのである。
故に、貨幣制度では、貨幣の流通量の上限をどの様に設定するかが不可欠な要件となる。

なぜ、「お金」は、負債を生むのか。それは、元来、「お金」の働きは、負の働だからである。紙幣の根源は、借金なのである。
「お金」の働きは負だから「お金」は効力を発揮するのである。
「お金」の働きは、「お金」の過不足が産み出す一種の振動だといえる。だとしたら、「お金」が過不足な状態を意図的に作り出す必要が生じる。「お金」を振動させるために、正と負の位置が必要となるのである。
「お金」は、信用制度の上で成り立っている。「お金」は、負の存在であり、「お金」が成り立つ為には信認が必要とされる。「お金」その物には価値がないのである。「お金」その物に価値がないから、「お金」としての効能を発揮する事が出来る。今の紙幣は不換紙幣なのである。信用を裏付ける為の実体がなければ貨幣は成り立たない。貨幣のこの性格が貨幣の働きを生むのである。貨幣の働きの根源は交換価値である。

近代貨幣制度の始まりが開国に基づく海外交易なのである。
鎖国時代は、国民に必要な資源は、全て国内で賄っていった。その為に、旱魃や洪水により飢饉が絶えなかった。また、人口の上限も食料の生産量によって抑えられていたのである。また、口減らしも盛んにおこなわれていた。しかし、一度開国されると一国の生産量による制限がなくなる。資源が不足したら他国との交易によって調達すればいいのである。
ただ、必要な資源が不足したら、交易によって海外から調達してこなければならなくなる。必然的に資金が必要となる。特に、交易相手国の通貨がなければ交易はできない。他国の通貨を調達するそこに財務の始まりがある。
今日でも、海外交易の裏で財務は働いている。海外交易が財務の原型なのである。

これらの事からわかるように、海外交易が通貨の価値の水準や一国の実質的経済規模を確定しているのである。

海外から必要な資源を調達する。それが前提で近代貨幣制度は成立している。だから、新興国では外資が有効なのである。


日本銀行

2003年、32兆円規模の空前の為替介入がされた。その年の外貨準備高は、172兆円減少している。通常は、資本収支は、貿易収支やサービス収支を補うようにして現れるが、この時は、資本収支もプラスに転じている。大規模為替介入の影響の大きさがうかがえる。

為替介入は、対極的に行われるべき事であり、単純に為替の動向だけに振り回されるべきではない。肝心なのは、為替の流れを作っている背景・構造であり、どの様な状況、状態を望んでいるのかを明確に持つ事である。

一般に為替の状態を引き起こしているのは、市場の状態や産業構造、部門間の力関係等である。


国民経済計算書

経常外収支も常に黒字でなければならないというものではない。それ以前に国際市場における働きをより重視すべきなのである。経常外収支が常に黒字と言う状態は、国際市場の不均衡を招く。それは国際分業を維持する上で障害となる。黒字でなければならないというのは一種の強迫概念である。


財務の原点は資本にある。


財務の原点は、資本である。
財務の始まりは、資金集め、即ち、資金の調達であり、資金を調達する手段が資本の性格を決め、資金を調達する過程で資本は形成される。
資金を調達する手段と過程が財務の起点である。故に、財務の原点は資本である。

資本の性格は、投資の在り方によって制約される。

資本の性格は、第一に、投資の対象、規模。第二に、資金の調達手段。第三に、資金の調達先。第四に、事業の結果に対して無限責任を負うか、有限責任か、第五に、権利を売買する事が可能か、売買する市場があるかなどによって決まる。

投資の対象、規模によって事業の枠組みは形成される。多額な設備投資を必要するか、否か。研究、開発に多額の資金を必要としているか。それによって初期投資の在り方は左右される。そして、初期投資の在り方は、費用構造を制約する。多額の設備投資を必要とする産業は、それだけ、固定費の負担が大きくなり、投資資金の回収に時間がかかる。初期投資が大きければ大きい程、資金の出し手、スポンサーの存在が重要となる。
また、資本集約型か、労働集約型かによって固定費の性格も違ってくる。
投資は、有形固定資産の占める割合が大きいか、無形固定資産の占める割合が大きいかによって投資する対象も違ってくる。

多額の投資は、長期間かけて資金を回収する。つまり、一定期間安定した収益を確保できなければ、投資した資金は回収できないことを意味する。長期にわたって資金の転用が出来ず資金が寝てしまう。液晶テレビに対する投資で多くの家電会社が投資に失敗したのは、初期投資の大きさと回収期間を見誤った事である。鍵は、収益の在り方と資金計画の整合性にある。
現金収支と期間損益、税が資金の流れを規制している。

財務は、投資に源として形成される。
投資をするためには、初期投資が必要となる。初期投資をするためには、資金が必要となる。初期投資をするための資金調達が財務の源である。そして、投資された資金は、長期的資金の働きを構成する。

現代の経済は、事業を基礎として成り立っている。
あらゆる事業は、投資に始まる。投資をするためには、資金が必要となる。その資金の調達が資本を形成する。
資金の調達の仕方、即ち、どこから、どの様に資金を調達するのかによってその後の経営主体の在り様は制約される。
即ち、資本の在り方によって資産、負債、収益、費用は、形作られ、制限されるのである。
資本の在り方は、企業や産業の基盤の在り方を制約する。それが資本主義なのである。
資本は、事業の種子である。
そして、資本が財務を派生するのである。

事業の準備期間における資金調達の手段と過程が資本を形成する。資本は、資産と負債の根拠となるからである。
故に、財務の本質は、資本である。

投資とは、初期投資や設備の更新などに対して一時的に多額な資金を投入し、それを一定の期間、投資した(設備投資や労働力)生産手段を活用して得られる経常的収入によって解消する事を言う。つまり、投資は、短期的資金の働きと長期的資金の働きを組み合わせる事で成り立っている。
投資に必要な資金を調達する働きが財務である。
投資の対象の性格や資金調達の手段に依って収益と費用の構造に違いが生じる。その違いが産業の収益構造の基盤の差となる。
一度、事業を立ち上げ投資をしたら一定期間、資金の回収のための費用が掛かる。初期投資が大きければ大きい程、資金を回収するための期間は長くなる。
回収、即ち、返済のための資金は、経常的な収入が当てられる。返済のために必要な収益が不足した場合は、新たに資金を調達しなければならなくなる。そこにも財務の働きがある。

投資によって資金は、市場に供給され、収益によって資金は回収される。負債の増加は、資金の流通量を増加させ、負債の減少は、資金の流通量を減少させる。

資金には、返済を必要としない資金と約定に基づいて返済を義務付けられている資金がある。

資金調達の基本は、収入である。借金や贈与と言うのは、あくまでも補助的手段である。何故ならば、借り入れに頼っていたら負債の累積を防げなくなるからである。負債の累積は、費用を拡大し、収益を圧迫する。これは、一国も、財政も、家計も同じである。全ての主体は、経常的収入の範囲内で、借入金を返済していく。つまり、経常的収入は、借入金を制約しているのである。

注意しなければならないのは、資金繰りの要は、収益にあるという点である。
経常的収入が維持されなければ経済は破綻する。

全ての経済主体は、経常的収入に基づいて経済を維持していかなければならない。
つまり、経済の柱は、経常的収入でなければならない。経常的収入は、付加価値から派生する。
家計の収入の基礎は所得である。補助的手段として蓄えを取り崩す事や借り入れ、贈与がある。財政の収入は、税収と事業所得、借金である。企業の経常的収入は、収益である。いずれの主体も、借金を基礎として経営をしたら破産する。

企業における基幹となる収入手段は収益的手段である。負債や資本は、補助的手段である。
負債からは、返済義務が生じる。返済する義務を債務とし、返済金を受け取る権利を債権という。
即ち、貸し借りによって資金が貸し手から借り手の側に資金が流れると同額の債権と債務が生じる。借り手から貸し手の側に流れると同額の債権と債務が解消する。
企業の資金調達の基本は、収益的手段である。
ただ、収益は、財を生産し、販売する事が前提となる。生産準備が整うまで収益的手段は、講じられない。生産手段が整うまで資金不足が生じるので、その状態を解決する手段として金融的手段、資本的手段が必要とされる。それが財務の起点となる。

財務は、資金不足の主体と資金余剰の主体との間で成り立つ。何が資金余剰主体か、何が資金不足主体かを見極める必要がある。
現在の状況は、家計と民間企業が資金余剰主体で一般政府が資金不足主体である。つまり、資金不足主体から資金余剰主体に資金供与がされている。それが経済全体を歪めているのである。

資本は形式である。

資本は、民間企業だけでなく、家計にも、財政にも必要である。ただ家計や財政では、資本は、いまだに未成熟な概念であり、家計は、私的な範囲に限定される傾向がある。また、家計も財政も現金主義の範囲でしか機能していない。故に、民間企業を基本として財務の働きを明らかにする事が妥当だと考える。

財務は、対局に投資がある。その意味では家計上の財務の対極の主たる部分は、住宅投資である。
住宅投資と設備投資の違いは、住宅投資には反対給付がない。つまり、家計の主たる資金調達の手段は、所得であり、それは、労働力の提供によって得られる。労働が資本だというのは、一般に家計で資金を調達するための手段が労働だからである。

資本は、特定の個人や機関から調達する形式と一般から資金を調達する形式がある。また、非公開で調達する形式と公開して調達する形式がある。経営と資本が一体となっている形式と経営と資本が分離している形式がある。また、出資者が事業の結果に対して無限の責任を持つ形式と有限の責任を持つ形式がある。

民間企業の純資産は、株主から拠出した資本金と利益の内部留保によって構成される。
いずれも株主の持ち分とされる。それ以外に新株予約権などが加えられるようになってはきたが、本質的には変わらない。

資本準備金は、株主から出資を受けた金額の一部を資本金とせず支払準備とした金額、利益準備金は、会社法により配当を行なった際に一定額積み立てることが要請されている積立額、積立金は、何らかの目的をもって利益を留保している留保金で目的を限定していないのが任意積立金である。繰越利益剰余金は、会社が稼いだ過年度の利益のうち配当等として処分しないで当期に繰り越されてきた利益の留保額である。これらは内部留保を構成する。

資本金とか、純資産と言うと無何らかの実体があるかのような錯覚をする人がいるが、純資産は、名目勘定であり、差額勘定であり、それ単体では、実体があるわけではない。資本金や純資産は、資産と結びつく事で実体を持つ。但し、帳簿上の資産は、簿価であり、名目勘定である事に変わりがない。単純に内部留保が豊富だから資金があると考えるのは短絡的である。

資金の多寡は、流動資産を見て見ないと解らない。また、資本の裏付けは、資産を清算しない限り明らかにならない。


企業法人統計

バブル崩壊後繰越利益剰余金が重要な働きをしていると思われる。また、リーマンショック以後、利益繰越金の占める割合が増大している。それだけ、配当に回されずに、内部留保として積み上げられている。これは、変動に対する準備と考えられる。
気を付けなければならないのは、内部留保が厚くなったからと言って資金調達力の向上に結び付くとは限らないという点である。
やはり、資産価値の動向に大きく左右されるのである。


企業法人統計

初期投資で重要となるのは、返済を必要とする資金、即ち、借入金に頼るのか、返済を必要としない資金、即ち、自己資本を基本とするのかで企業の財務体質は決まる。
企業や産業の在り方は、初期設定によって大方は決まってしまう。当然、財務に対する基本思想も初期設定の段階で方向性が定まる。

資本主義では、誰が資本を握るかによって体制が定まるのである。

財務を構成する要素



財務は、基本的に資金不足を補う事である。余剰資金の運用は、本来の業務ではない。しかし、本業で思うように収益が上がらなくなると資金運用によって資金調達を計るようになる。そうなると負の部分が拡大し、経済全体に余計な負荷がかかるようになる。また、資金が金融市場に滞留し、実物市場に流れなくなる危険性がある。

故に、財務で重要なのは、資金不足の原因である。資金の過不足の原因が財務の目的となり、財務の性格付けをする。

個々の主体から見て資金不足を起こす原因には、収益の悪化、経済規模の拡大、投資、事故や災害と言った突発的出費、季節変動などの収支の周期的、為替の変動や石油など原材料の高騰等がある。

全体的な観点から見ると資金不足の原因を要約すると市場の拡大収縮と言った変動による場合と部門間の関係から生じる場合がある。部門間の関係から資金不足が生じるのは、資金の循環運動が関係している。
つまり、資金の過不足は、時間的不均衡、空間的不均衡から生じる。そして、市場全体を通して個々の主体には、不均衡を解消するような力が働く。

時間的不均衡の是正とは、投資した資金を回収する方向に働き、空間的不均衡の是正は、部門間の不均衡を是正しようとする方向に働く。

高度成長が終焉し、バブル崩壊後日本経済が長い停滞から抜け出せないでいるのは、市場が拡大から縮小へ転じた事から部門間の関係に変化が生じた事である。経済成長が鈍化した事から収益力が低下し、それによって企業が資金を外部調達から内部調達へ転化した。その結果、企業が資金余剰主体となり、反対に一般政府が資金不足主体となった。その転機がバブル崩壊である。

収益力の低下は、相対的に固定費の負担を増大させている。デフレーションは、相対的に負債による負担を増幅している。その時に市場の競争を煽れば適正な価格を維持できなくなる。市場の規律を取り戻す事が先決なのである。

財務には、短期的資金の働きに対する活動と長期的資金の働きに対する活動がある。短期的資金の働きは、運転資金から派生し、長期的資金の働きは、投資から派生する。運転資金は、繋ぎ資金であり、投資には、投資資金が必要となる。

短期的資金の働きは、経常収入と経常支出を基礎としている。
長期的資金の働きは、投資を基礎としている。
財務は、短期的資金の働きと長期的資金の働きを均衡させることを目的としている。

投資によって投入された資金は、経常的収入、非金融法人では、収益、家計では所得、一般政府は税を財源として回収される。借り入れた資金の返済に見合う収入が確保されていれば、深刻な資金不足には陥らない。しかし、返済に見合う資金が調達できなくなると忽ち資金繰りつまり、破産する。

投資によって作られる資金の流れは、先ず、初期投資に対する資金調達である。次に、資金の返済計画である。そして、投資による収益と費用の関係から損益計画を導く事である。それらを合算した資金計画によって導き出される。
資金の働きは、損益上で測られる。表面に表れた損益に基づいて資金繰りはされる。投資した資金の内、償却資産は、費用計上されるが、非償却資産は損益に計上されない。また、償却の仕方と返済の仕方は一致していない。その為に、繋ぎ資金を借り換える必要がある。借り換えの再担保するのが地価である。バブル崩壊後、資産価値の下落が資金の調達力を削いだ。その結果投資が滞る事になる。

資金不足で一番深刻なのは、収益不足である。そして、日本が長期低迷に陥っている原因が収益不足にある。全廃的な収入が不足しているために、経済成長が抑制されている。中でも一番不足しているのは、税収である。

現代の経済は、資金循環によって成り立っている。資金は、所得と言う形式で家計に供給され、収益と言う形式で非金融法人に供給され、利息と言う形式で金融機関に供給され、税と言う形で一般政府に供給される。

現代の経済の問題は、長期的資金の働きと短期的資金の不均衡にある。つまり、短期的な利益を追求する事によって経常的資金によって長期的資金から派生する資金需要を賄えなくなっている事にある。

自由主義経済の基本は、収益にある。収益以外の資金調達の手段はあくまでも補助的な手段であり、そのために、損益上に表れてこない。この点を理解しておかないと財務の働きは理解できない。
資本主義というのは、一定の負債を維持しながら応分の費用を負担し続ける事で財の分配をしていく仕組みなのである。
それは、継続企業を前提とした時点から前提とされた事である。
つまり、負債も資本も永続的なものであり、当座企業みたいに一回、一回、区切りのついたところで負債や資本が清算される事を前提としていない。
貸借上の働きが財務の基本であるから、継続事業を前提としたことで財務の在り様も大きく変化したのである。

財務は、資金不足の主体と資金余剰の主体との関係で成り立っている。つまり、資金を調達する側と資金を供出側の問題である。本来、余剰資金を持つ側が資金不足の主体に資金を提供する。

財務は、資金を活用する主体と資金の出し手の存在を前提としなければ成立しない。
その上で資金の調達手段が問題となる。その際に資金を担保するものが必要となる。

財務を構成する要素は、資金の出し手と資金の調達手段、資金を担保するものである。
また、財務が成立する前提は、資金不足主体と資金余剰主体の存在である。
つまり、資金の過不足の存在である。そして、資金の過不足を生み出す原因である。この事を理解しないと財務の働きは理解できない。
なぜ、資金の過不足が生じるのか、それは、資金の過不足が資金を市場に循環させる原動力だからである。資金不足の主体が存在すれば、資金が余っている主体が存在する。それが絶え間なく入れ替わる事で資金は、循環しているのである。

一般政府に対する資金の出し手は、主として国民である。国民以外の資金の出し手としては、投資家、金融機関、金融機関を除く機関、外国勢力等である。
家計に対する資金の出し手は、、非金融法人、金融機関、一般政府である。一般に、家計は、非金融法人から所得を得て日常生活を送っている。しかし、非日常的な支出は、貯金を取り崩すか、借金に頼っている。住宅や自動車などの耐久消費財は、金融機関からの借入によることが多い。
収益に依らない非金融法人に対する資金の出し手は、家計、投資家、金融機関、他の非金融法人、何らかの機関、特定勢力などである。

そして、財務を構成するもう一つの要素が、資金の調達手段、裏返してみると資金の出し方である。
経常的収入、収益や所得に依らない資金の調達手段には、貸借的手段と資本的手段がある。

近代資本主義は、資本を構成する資金の出し手を不特定多数にまで拡大した事によって成立した。
そして、それが資本市場を形成したのである。

つまり、経常的収入から支出を引いた余剰資金をかき集めて資金不足の主体に投資する。基本的に非金融法人が生産者となり、家計が消費を担う。生産者側は、設備投資の財源を収益に置き、家計は、住宅投資の財源を所得としている。一般政府は、公共投資の財源を税とする。
生産手段として家計は、労働力を非金融法人は、設備を元とする。そして、事業体の初期投資によって資本は、形成される。




資金を担保するのは


経済主体は、資金の過不足を周期的に繰り返す事によって成り立っている。常に、資金が不足している状態でも経済主体は、成り立たない。かといって資金が常に余剰な状態では、「お金」が市場に回らなくなる。
故に、経済主体は、資金が不足な状態と資金が余っている状態が繰り返し来る。また、資金が不足している主体と余剰な主体が交互に現れる事で、市場全体は、機能する。その資金の過不足を調節しているのが金融機関である。
この点を忘れてはならない。そして、資金の過不足を互いに補完し合う働きが財務の元となるのである。

資金を調達する為には、資金の返済を保証する、担保する物が必要となる。そして、資金を裏付ける物の経済的価値が資金の調達力となる。
市場に流通する資金量の上限は、市場を構成する個々の経済主体、部門の資金の調達力に依存している。

財務の性格は、資金の性格に依って決まる。資金の性格には、初期投資と再投資等の投資にかかる資金と繋ぎ資金とがある。
繋ぎ資金の原資は、経常的資金と資本的資金がある。

財務の働きは、資金不足を解消する事である。財務の働きを理解する為には、資金不足になる要因を明らかにする必要がある。
資金不足が生じる原因は、経常的な収入と支出の不均衡である。
なぜ、経常的な収入と支出が不均衡となるのか、第一に、収入が不確実な事なのに対して支出は確実だという点にある。つまり、収益の不足や減少が資金不足の一番の原因である。第二に、一時的な支出である。一時的な支出で一番大きいのは、投資資金であるが、その他に、災害や事故等がある。第三に、会計上の問題である。初期投資にかかる資金を一度に計上すると期間損益が不均衡となるので、期間損益上は、単位期間にかかる費用を減価償却費として分割して計上する。ただ、この減価償却費と現金収支の流れが一致していない。また、貸借・資本取引に係る収支は、損益に計上されない。その為に、実際の資金需給と期間損益との間に齟齬が生じるのである。それを補うために繋ぎ資金を調達する必要が生じるのである。

一番の問題は、経常的収入が不確実だという事である。家計の収入を安定させるために、賃金制度が確立され、定収入が保証されるようになった。そして、定収入が保証されることで借金の技術が発達したのである。
逆に、定職が保証されなくなると借金も成り立たなくなる。

問題は、資金が不足した時に何をもって資金を裏付けるかである。資金を裏付けるものが不足したり、なくなると資金は市場を循環しなくなる。

「お金」は、名目的価値である。何らかの実体と結びつく事で、価値が保証される。実体と遊離し「お金」だけが淀むと経済的価値は不安定になる。故に、つなぎ資金を調達する為に、何を担保とするかが、資金を融通する時の鍵となる。

財務は資金調達である。その財務の性格づけるものの一つに資金に何を担保、保証させるかがある。
資金を担保するとは、資金を裏付けるものである。

資金を提供する際に担保する物には、二つある。一つは、その時点における資産価値、主として地価等によって担保させるやり方と、もう一つは、将来の収入である。
資産を担保する場合には、現在の資産価値を基礎とする場合と、将来の資産価値を担保する場合の二つがある。
金融機関が融資をする際とられる手段は、主として資産によって担保する手段である。それ対して株などの投資家は、将来見込める収入を担保する事で投資をする。融資と投資の性格的違いでもある。

担保として資産を抑えるのは、貸し手からするとある程度、確実性は期待できるが、資産価値には限りがあるから自ずと限界がある。それに対して、将来の収入を担保する事は、事業計画がしっかりしていれば、限度額を超えて投資する事も可能である。

担保価値を設定する場合、担保にとられるのが不動産である事が多い。その場合、担保価値は、不動産の評価に基づく。不動産価値に対する評価基準としては、原価法や取引事例比較法、収益還元法の三つがある。

収益に対する評価法としては、回収期間法、正味現在価値法、内部収益率法などがある。

バブルの最中は、取引事例比較法や原価法が主として用いられたが、バブルが崩壊し地価が大幅に下落した苦い経験から、最近では、収益還元法が用いられるようになる。元来は、地価は右肩上がりだと考えられてきたから土地を担保にとれば無難だと考えられてきたのである。

ただ、バブル崩壊後の長い低迷は、土地に対する担保主義の影響による事は否めない。土地神話が崩れても、土地に対する呪縛から逃れられないでいるのである。

何を担保するかによって、投資や融資に対する姿勢は、変わってくる。資産を担保すればどうしても保守的になるし、収益を担保すれば事業に対して甘くなりがちである。

バブルが形成された際は、資産価値の値上がりを想定して担保価値を設定し、バブルが崩壊するとそれが裏目にでて多額の不良債権を抱え込むことになる。それでありながら現在に至るまで担保主義に固執しているのが、実状である。


法人企業統計

本来、投資とは、事業に対してなされる事であり、事業を適正に評価する目が必要となる。資産価値を査定して担保とするのは安易である。しかし、金融機関は、融資した「お金」を確実に回収する事が求められる。故に、現物による保証を何らかの価値で求めざるを得ないのである。

明治時代や敗戦直後の日本は、資産と言えるものは何もなかったから、人々は、事業に対して投資をしてきた。それが今日の我が国の繁栄を築いたことを忘れてはならない。
何を担保とするかではなくて、次の時代に対する明確な展望があるかないか、しっかりとした事業観があるか、計画があるかといった根本を忘れて目先の利益を追っていたらバブルの再燃は防げない。

担保というのは、本来、事業主や経営者と言った人の資質に求めるべき事なのである。

かつては、事業や産業を金融機関や投資家、国家が育ててきた。今は、目先の利益ばかりを追って事業や産業の育成を忘れてしまったかの如くである。それが、財政を悪化させ、景気を低迷させている原因である。
どの様な産業にするのか、どの様な国にするのか、どの様な地域社会を築こうとしているのか、「殖産興業」、それこそが資金調達の本旨である。

経済の目的は、金儲けにあるわけではなく、人々の生活を豊かにする事にある事を忘れてはならない。


財務の変質


日本経済は、高度成長の終焉、ニクソンショック、二回の石油危機、そして、プラザ合意後の円高不況などによって段階的に変質してきた。そして、その変化を決定的にしたのがバブルの形成と崩壊である。
突き詰めると、経済の停滞の原因は、収益の低下と資産価値の下落、そして、部門間、経済主体間の不均衡にある。通貨の流通量が主因ではない。通貨の問題を否定するわけではないが、経済の実体は、人と物にあるのであり、経済が停滞する主因は、市場にある。市場の変化に人が適応していないから、資金の流れに偏りが生じ、資金が円滑に流れなくなったのである。
通貨の問題は、通貨が市場に均質に流れていない、円滑に循環していない事である。インフレーションやデフレーションと言うのは、貨幣的現象である。貨幣経済下でないと怒らない現象で゜ある。しかし、その根本は、人、物、金の不均衡にある。ただ通貨の供給量を加減するだけで改善できる事ではない。

現在の経済の停滞の原因は、市場が拡大から縮小へ転じた事から部門間の関係に変化が生じた事にある。経済成長が鈍化した事から収益力が低下し、それによって企業が資金を外部調達から内部調達へ転化した。その結果、企業が資金余剰主体となり、反対に一般政府が資金不足主体となった。その転機がバブル崩壊である。
バブル崩壊は、財務の性格を変質させた。

実質的価値は、総資産、費用の側に表示され、名目的価値は、総資本、収益の側に表示される。
バブル崩壊後、実質的価値が下落したために、名目的価値と実質的価値が乖離し、それによって負債の負担が大きくなった。負債の負担が大きくなったことで資金の流れが調達から運用と言う流れから回収から返済と言う流れに変わった。
名目的勘定は、ストックに反映され実質勘定は、フローに反映する。名目的価値と実質的価値の乖離は、ストックとフローの均衡も乱した。

財務は本来、資金調達と資金繰りであり、資金運用は二義的、余技的だった。
その財務の変質し、資金運用が前面に表れてきたのは、高度成長がニクソンショックによって終焉した以降、二度の石油危機、プラザ合意による円高不況などで思うように本業で収益が上げられなくなった事による。

その先鞭をつけたのが石油会社だと言われる。石油元売りは、ニクソンショックによる為替の変動、そして、原油価格の高騰などによって収益が大きく左右された。在庫の評価や為替のヘッジなどによってなんとか急場を凌いできた。その経験から金融工学、デリバティブ等の技術が発達し財務部門にもヘッジ会計等の従来になかった技術が要求される様になった。

そして、プラザ合意後の円高不況で本業の収益が低下する中で、財テクが流行り、更に、IT産業の進化やインターネットの発達等によって財務の役割が変質してきたのである。

また、経済もグローバリズムによて国際化が促進された。この様な環境変化に対応するように、会計ビックバン、即ち、会計制度改革が断行され、それまでの守りの財務から攻めの財務、直接利益が計上できるような財務へと変化する事が求められてきたのである。

また、バブルの発生や崩壊は、新たな資金調達を開発させた。その一つが証券化(Securitization)である。

この様に財務の働きは、従前の働きと大きく変わったのである。

しかし、財務は、あくまでも裏方である事には変わらないのである。
事業主体の存在意義や根本的目的は、事業経営にある事は間違いない。バブル時代、本業そっちのけで財テクに励み、バブルが崩壊するとそれが裏目に出て本業その物が成り立たなくなってしまった企業や産業を私は沢山見てきた。

財務は、あくまでも資金不足を補い、事業目的を裏から支える働きである事を忘れたら本末転倒になってしまう。ただ、財務の働きを分析する際は、今までの様にはいかない事を念頭に置いておく必要がある。

本来の資金の流れは、投資に必要な資金を調達する事を起点として、投資した資金を収益によって回収し、返済をするというのが主筋でなければならない。要するの、本業でも儲けた「お金」で借金を返していく。その過程で生じる資金の過不足を遣り繰りのが財務の仕事である。

ところが、高度成長が終焉し、ニクソンショックなどで円高に向かうと本業でなかなか儲からなくなってきた。そこで多くの企業が多角や財テクなどによって資金の不足分を何とか補おうとした。そこから財務の体質が変化してきたのである。

この点を正しく理解しておかないとバブル後の財務の変質の真因は解明できない。
財務の変質は、第一に、本業の収益力の低下、第二に、資産価値に下落による、名目的価値と実質的価値の乖離。資金調達力の低下。第三に、部門間の力関係の変化。第四に、為替の変動による通貨の価値変化である。
そして、根本の対策は、収益力の回復であるが、この問題は、一企業や産業だけでは解決できない。
収益力の低下は、市場環境や構造の変化によることで、いくら、資金の流通量を増やしても公共事業をしても解決できない。
市場構造を変える以外に手立てはないのである。
無意味に公共事業を増やしたり、資金の流通量を増やすとかえって問題を拗らせるだけである。

現時点において基本的に家計が資金の余剰主体で、一般政府が資金不足主体である。そして、非金融法人は、資金不足主体だったのが、投資を控え、経費の削減に努め、借金の返済に専念した結果、短期的には、資金余剰主体となった。景気を停滞させている主因は、非金融法人が、投資を控え、経費の削減に努め、借金の返済に専念せざるを得ない市場環境なのである。
それは、市場が飽和状態になり経済成長が鈍化し、さらに、バブル崩壊で資産価値が低下して資金調達力が低下している時に、無原則な規制緩和をして過当競争を引き起こし、適正な価格が維持できなくなったからである。
その根本にあるのは、市場経済を悪だとする共産主義思想である。
現代の政府は、経済の統制色を強めている。それを推し進めているのが、競争を原理とする市場原理主義者である事は皮肉な事である。

それは、市場の独占、寡占として現れている。一度、独占寡占状態に陥るとそれを脱する事は非常に困難である。
ただ、経済的価値は、相対的価値であり、適度な競争が保てないと適正な価格を形成する事が困難になる。
それは、独占、寡占企業にとってもいい事ではない。

家計の余剰資金をいかに効率的に市場に引き出すかが一番の課題である。その為には、市場取引を活性化するのが一番効果的である。
一般政府か背資金不足だからと言って強権的手段で、家計の余剰資金を直接的に一般政府に転移し、調達した資金を所得の再配分で直接家計に還元するのは、市場経済を否定する事である。結局、それは、全体主義、独裁主義、国家社会主義、統制経済への道を拓く。
自由主義を貫くためには、市場の規律を取り戻し、市場において適正な価格を形成できるようにする事である。無原則な規制緩和をやめる事である。規制を緩和し、競わせることは、競わせる。しかし、無意味な過当競争は、抑制し、必要であれば、市場を養生させるために競争を抑止すべきなのである。
現に、金融機関に、今、金利合戦をさせるべきではない。それよりも投資の質を高めさせることに専念させるべきである。
問題は、何を競わせるのである。成長も速度だけを重んじるのではなく。経済的効果も併せて考えるべきなのである。




財務キャッシュフローとは


財務キャッシュフローは、資金調達から、投資、そして、経常的な資金の貸し借り、余剰資金の運用などによって作られる資金の流れである。
財務キャッシュフローを見れば、事業を開始するにあたり、どの様に資金を調達し、それを何に対してどの様に投資し、また、余剰資金を何に、どの様に運用したかが資金の貸し借り、融資状況からわかる様でなければ意味がない。

なぜならば、財務キャッシュフローは、資金の過不足を何によってどの様に補ったかを表しているからである。
資金調達の基本は、経常的な営業に求められる。投資にかかる資金は、利益を上げるための前提であり、財務は、資金の不足を補填するために働いているからである。つまり、財務キャッシュフローは、裏方であり、従属的資金の流れである。

一般に財務キャッシュフローは、複式簿記、会計原則が適用されている経済主体を対象としているが、財務キャッシュフロー自体は、財政にも家計にもそして海外部門にもある。

経済活動の基本は、民間企業であれば、売上収入と経常支出、家計であれば、所得と消費支出、財政であれば、歳入と歳出、海外部門であれは、輸出と輸入である。この部分は、民間企業であれば、営業キャッシュフロー、家計であれば、生計、海外部門では経常収支として表される。

基本的に現金収支は、民間企業の場合は、売上収入と経常支出の差、家計は、所得と消費支出(生計、生活費)の差、財政は、歳入と歳出の差、海外部門は、輸出と輸入の差(経常収支)を言う。
この他に、一時的な支出による資金不足が生じる。一時的な支出には、投資に基づく支出、災害や事故、戦争等によって生じる支出、教育や娯楽、冠婚葬祭、祭礼等によって生じる支出がある。

経済は、資金の過不足によって動かされている。資金の過不足を生むのは、資金移動である。

資金の過不足と言っても資金が余っている時は、問題はない。しかし、資金が不足した場合、どこからか資金を調達してこなければならない。どこから、どの様に、どれくらいの資金を調達してきたのか、それを現しているのが財務キャッシュフローである。

高度成長が終焉し、市場が成熟してくると収益力が衰えてくる。市場の拡大による売り上げの上昇が見込めなくなるからである。市場の拡大が期待できなくなると経費を削減し、あるいは、余剰資金の運用によって資金を調達しようとするようになる。しかし、そこに落とし穴があるのである。市場の拡大時と同じように資金の運用をしていると損益と現金収支の均衡がとれなくなる。損益の動きと現金収支の動きは一致していないからである。景気の動向も資金の動きと合わせてみるように心がける必要がある。

資金の不足は、手持ち資金より予定されている支出が多い場合生じる。手持ち資金は、過去の蓄積と収入からなる。
資金が不足すると経済活動を継続する事が出来なくなる。故に、資金調達は、経営主体の死活問題である。この事は、民間企業のみならず、家計も、財政も、国家も同じである。
売上なくても、利益が計上されなくても資金が回っていれば、経営主体は、経済活動を継続する事が出来る。逆にいえば、資金が回らなくなれば、家計も、企業も、財政も、国家も経済的に破綻してしまう。
水面下にあって目立たない項目ではあるが財務は、経営主体の生命線を握っていると言える。

資金不足を補うための資金調達の手段には、損益による手段、貸借による手段、資本による手段がある。そして、投機的な手段がある。
収支を均衡させるための基本的手段は、損益に基づく手段である。なぜならば、貸借や資本は、ストック、即ち、支払準備金を増やす事になるからである。支払準備金とは、決済が完結されていない、未完成な状態である。つまり、過程でしかない。支払準備金が蓄えられる事は、経営主体に余分に負担を蓄積させることになる。それ故に、極力避けなければならない事態である。

全業種・全規模のキャッシュフローの動向を見てわかるのは、バブル崩壊後の財務キャッシュフローの異常な動きである。
特徴的なのは、フリーキャッシュフローと財務キャッシュフローの関係がバブル期とバブル崩壊期では正反対の動きをしていると言う点である。

財務キャッシュフローが急速に低下しているのに合わせてフリーキャッシュフローも急上昇している。フリーキャッシュフローは投資余力を表しているとみられるから、財務キャッシュフローが低下する事で投資余力が上昇しているとも、逆に、投資余力が上昇しているのに、財務キャッシュフローは低下しているともいえる。

いずれにしても資金調達の質、考え方がが変化した結果と言える。



法人企業統計

財務キャッシュフローの異常な動きがバブル崩壊後の長期的な景気の停滞と何らかの関係がある事が窺える。
財務キャッシュフローの異常な動きの背後に、どの様な事が隠されているのかを解明する事が、財政問題や景気問題を解決するためには、不可欠な事である。

プラザ合意後急速に上昇した財務キャッシュフローは、バブルが崩壊すると、急速に減少しマイナスまで落ち込む。財務キャッシュフローのポジションが正から負へと転換する。それに伴って投資キャッシュフローを不安定な動きを見せる。経済の基盤が変質したのである。


財務キャッシュフローから何がわかるのか



現金収支と期間損益の問題点は、貸借・資本取引が損益上計上されないという点にある。
借入金の返済は、損益に計上されない。借入金の返済資金は、収益から出す事が出来ない。費用計上されないからである。
借入金の返済資金は、減価償却費と内部留保から引き出すしかない。ただ、借入金の総額は、減価償却費や内部留保で網羅できない。いい例が土地は、償却資金ではないから土地に係る借入金は、償却費に含まれない。もう一つ問題なのは、課例れ金の返済計画と減価償却費は一致していない事である。その為に、民間企業は、常に、損益上現れない資金需要を持ち続けている。減価償却費によって補足できない資金需要は、土地や資産の含み益を担保として借り換える。
バブル崩壊後、借り換えのための含み益がなくなったのである。その為に繋ぎ資金の調達が困難となった。資金調達力の低下が景気の頭を押さえ続けてきたのである。

財務キャッシュフローからは、負債の増減と損益上に表れない金融資金の流れがわかる。
そもそも、財務は、資金調達と運用にかかわる仕事である。故に、財務キャッシュフローから資金調達の手段と資金運用先が見えてこなければ意味がない。

財務キャッシュフローは、資金の調達状態を表す。資金調達は、資金不足から生じる。
調達と不足は表裏の関係にあるからである。故に、財務キャッシュフロー資金の過不足の状態と資金の調達状態を知る事が出来る。

経済主体は、資金の過不足によって動かされている。その資金の過不足を補う働きをするのか金融であり、金融の流れを表したのが財務キャシュフローである。
故に、財務キャッシュフローからわかるのは、資金の過不足の状態と資金の過不足をどの様に調節したかである。

特に重要となるのは、資金の調達目的、資金源、調達手段である。
財務キャッシュフローは、言い換えると金融の動きである。つまり、資金の働きを表している。

資金調達は、資金不足に基づく。根本にあるのは、資金不足の原因である。
原因次第では、資金調達にも支障が生じる。

資金不足は、日々の営みの中で生じる事と一時的な事に分かれる。一時的な資金不足には、投資のようにあらかじめ予測できる支出と災害や事故の様に不足な事態の二つがある。この事は、事前の蓄えに対する考え方にも影響する。

資金の働きには、長期的働きと短期的働きがある。
財務キャシュフローは、資金の短期的働きと長期的働きを制御し、経営主体の資金の過不足を調節している。

長期的資金の働きは、ストックの部分から発生する。短期的資金の働きは、フローの部分から生じる。

日々の営みから生じる資金不足は、売上収入と経常支出、家計であれば、所得と消費支出、財政であれば、歳入と歳出、海外部門であれは、輸出と輸入である。この部分は、民間企業であれば、営業キャッシュフロー、家計であれば、生計、海外部門では経常収支として表される。

民間企業の短期的働きは、営業キャシュフローの働きと連動している。
企業が日々の営業で資金不足になる原因は、第一に、売上収入の不足である。第二に、原材料や原油価格の高騰など経常支出の高騰である。第三に、市場の拡大や経済主体の成長に資金繰りが追い付かない事である。第四に、仕入支出と売上収入との時間差から生じる。第五に季節変動による。第六に、突発的な自己や災害による一時的支出である。

資金不足を引き起こす一番の問題は、売上収入の不足であり、次に、経常支出、即ち、過剰な支出、費用である。故に、資金不足を解消するための根本的手段は、収益の改善にある。この点を忘れて投機的な手段で資金不足を解消しようとする事は邪道である。

経済活動は基本的に支出が先でしかも確定的なのである。支出は確定的でありながら収入は不確実それが経済を複雑にしている。そして、この時間差が運転資本を構成する事になる。商業でいえば、商品を仕入れ、それを販売し、決済をするまで一定の時間がかかる。また、製造業では、原材料を仕入れ、それを加工して製品を製造し、それを販売して、代金を回収するまでには、相当の時間がかかる。さらに、開発、設計、生産設備の整えるまでの時間を加味すると結構な時間がかかる。この間収入がないのだから必然的に資金不足が生じる。基本的に経済活動は、収入に対して支出が先行するものなのである。収入に対して先行する支出が投資を形成する。
経済で重要となるのは、認識の問題である。いつ、どの時点で売り上げや費用を認識するのか。財の受払と現金の収支は、同時に行われるとはかぎらない。むしろ別々の時点で成立する方が多い。だから財務キャッシュフローが生じるのである。

資金不足を引き起こす原因の中で特に問題となるのは、経営主体が自分の力で対処できないような事象、為替や金利の変動、原油価格の高騰、戦争や災害などによって原材料が高騰すると言った事象である。

資金の過不足とその対策を立てるためには、何が外生変数か、何が内生変数かを見極める必要がある。

長期的働きは、投資キャッシュフローと表裏をなしている。
長期的資金の働きであらかじめ予測がつき、予算化できる部分は、投資に係る部分である。
予算は、事業の資金の流れの基本的部分を構成する。問題は、予測がつかない部分であり、怏々として経営主体を破綻させる原因となる。この部分は、蓄えによるか蓄えで足りない部分は、何らかの保険をかけておく必要がある。

故に、財務キャッシュフローからわかるのは、資金の過不足とそれを何によってどの様に補っているかである。
財務キャッシュフローが担保しているのは、経済主体の資金調達力、即ち、純資産と含み益である。含み益は、未実現利益であり、資産価値の相場である。

資金調達の先には、内部資金と外部資金がある。内部資金は、減価償却費と内部留保からなる。内部資金は、借入金の返済の原資でもある。
外部資金には、損益的手段によるものと貸借的資金によるものと資本的手段によるものがある。
財務キャッシュフローで補足できるのは、主として外部資金調達した部分である。

適切な経済政策を施行するためには、資金不足の原因を正しく認識する必要がある。資金不足を起こす原因は何によってどの様な意味で何に対して作用しているかを正しく見極めないと経済的な障害を改善するどころか事態を悪化させてしまう。

経済的障害をどうすれば改善できるか、どの部分にどの様な働きかけ、あるいは施策、改良すればいいのかは、その原因を明らかにする事にかかっている。

熱が上げれば熱さまし、腹が痛ければ痛み止めの様な対処療法では病を根治する事はできない。病の原因を正しく診断してから処方し、治療を開始すべきなのである。
現代の経済政策は、対処療法的な事が多い。それが経済を深刻な状態に堕とし込んでいるのである。


財務キャッシュフローの構成


財務とは、資金調達を言う。
資金調達というのは、資金、即ち、「お金」を作る事である。
「お金」は、他の財同様、生産されるものである。ただ、財と「お金」の違いは、「お金」は、財の様な実態を持たず、名目的に作られるという事である。名目的に作られるというのは、市場の合意と信用に基づいて生産される事を意味する。財務は、資金を生産する過程に関わっている。

経営主体は、資金が不足すると破綻する。逆にいえば資金が回っている間は、経営を持続する事が出来る。
「お金」は、経営主体の生命線である。

問題は、経済が発展する段階、過程、または、経済の状態によって財務の質が変わる事である。
資金は、資金を何に、どの様に使うかによっても性格が変わる。

短期的資金は、流動性が求められるし、長期的資金は、安定性が求められる。ただいずれにしても資金が一時的でも不足したら、経済は成り立たなくなる。

経営主体が成り立たなくなるのは、借金があるからである。借金の返済が滞ったり、不渡り手形を出せば、取引が停止され、経済主体は事実上破たんする。これは民間企業に限らず家計も財政も同じである。だったら、借金をしなければいいではないかと考えがちだが、多額の資金を一時的に必要とする投資を自己資金だけで賄うのには、限界がある。投資は、いかに多くの資金を最初に調達できるかにかかっている。
現在経済は、借金の上に成り立っている事を忘れてはならない。紙幣そのものが借用収書を基本としているのである。つまり、貨幣の本質そのものが借金なのである。



投資キャッシュフローを構成する要素は、長期借入金の増減、短期借入金の増減、社債の増減、資本の増減である。
基本的に貸借の資金需給は、前期当期の増減によって損益上の資金需給は、実数で表される。
これは、損益が売買取引に基づいて当期で決済されるのに対して貸借は、貸し借り取引によって生じ決済は、投機以降にされる事による。
これは資金移動を考える時重要となる。






資本の変動


資本は、経営主体の元金である。
会社の種類は、資本の性格によって定義される。

資本について一般に重大な誤解があると考えられる。
その一つは、資本は、自己資本だから返済する義務がないという事である。
それは、出資の意味を理解していないからである。かつては、経営体というのは、当座企業を指していた。例えば、貿易は、一回いっかいの航海ごとに成果はを配分してきた。出資と負債の根本の違いは、元本と利息が事前に決められているかいないかの違いである。
負債は、事前に元本と利息が決められており、その返済と支払は法的に義務付けられていると言う点である。出資は、返済義務がないのではなく、元本が保証されていないという事である。投資かは、利益を、出資に応じて配分を得る権利がある。
また、負債は、金利を支払う必要があるが、資本にはコストがかからないというのも誤解である。投資家は、利益から出資に応じて配当を受ける権利がある。今日のように低金利時代ではむしろ資本から生じるコストの負担の方が大きくなる。
利益配分は、投資家だけでなく、税として一般政府に、そして、経営者に分配されるが、利益は、負債の元本の返済の原資である事も忘れてはならない。繰越金が計上できないと借り換えなどによって返済資金を調達しなければならなくなる。

財務の主たる働きは、資金調達にある。

故に、財務の働きを性格づけるのは、資金の調達手段と、調達先である。
経営主体の資金調達には、四つの手段がある。第一に、収益に基づく手段であり、損益の期間を成している。第二に、「お金」を金融機関から借りる事である。第三に、人や金融機関を除いた機関から借りる事である。第四に、株式を発行する事である。
資金の調達先、第一に、金融機関、第二に、一般投資家、第三に、一般政府、第四に、民間企業、第五に、海外部門、第六に、従業員、社員である。

投資家にも、「特定個人」、「家族、ないし、一族」、「特定少数」、「不特定多数」の別がある。

株式会社の意義は、不特定多数の投資家、あるいは、機関から株式化する事で資金を調達する事を可能としたことである。株式化というのを資本金を予め定めてそれを株単位の有価証券に分割する事を言う。

株式会社が成立するためには、資本と経営が分離されていなければならない。資本主義の特徴は、資本と経営の分離にある。そして、主として資金調達、即ち、資本の形成を担っているのが財務の働きである。

ただ、資金調達の手段は、株式だけではない。
資本の性格は、資金の調達手段、投資家と経営者の責任範囲、資金の調達先などによって変わる。

例えば、株式形式で一般政府から資本全額を調達し、経営責任を一般政府が負った場合は、国営企業に分類される。しかし、これも資本の形の一つである。

資本とは、事業主体の核心を言う。事業主体が何でどのような性格を持っているか、それを先ず定義する必要がある。

今日、事業主体の形には、株式会社、合同会社、合名会社、合資会社、社団法人、財団法人、NPO法人、国営企業などがあり、各々資本の性格が違う。必然的に財務の在り様も変わる。




資本の動きで顕著なのは、小泉内閣が発足した後、大きく毀損している事である。
2000年以降、資本の資金需給はマイナスしており、現在もその状態を抜けきっていない。それは、民間企業が資本を食いつぶしている事を意味している。資本を食いつぶさなければならない状態だという事である。

資本金の前期末、当期末の推移を比較してみると2000年以降、増減資を繰り返して不良債権処理をしてきた事が窺える。

名目的に見れば当期末資本金は、バブル崩壊後も順調に上昇しているように見える。しかし、資金需給をみると2000年前後に大きく減少している。実質的には、大きく資本を毀損している。
リーマンショック時には、資本の嵩上げが計られた形跡がある。


法人企業統計

地価が下落し、資産価値が大幅に下がったとして一斉に含み損の生産に走ると地価や資産価値がさらに下落するという鼬ごっこになり、悪循環に嵌る。また、資産価値が下落して資金調達力が低下している時に担保主義的な政策をとると更に資金調達力が窄んでしまう。担保力が低下している時は、不景気と重なりがちで収益力が低下して更に体力が落ちている事が多い。そんな時に、無原則に規制を緩和して競争をしいれば企業経営は、続かなくなる。
反対に景気が好転している時も資金不足に陥りがちなのだから、融資の条件を担保力から収益に重点を移しつつ、市場の規律を取り戻すような施策をとらなければならない。担保ではなく、事業内容、収益力をどの様に評価するか。また、荒廃した市場をいかに立て直すか、物事を杓子定規にとらえていたら本質は見えてこない。角を矯めて牛を殺すような政策は愚かである。
かつては、市場が荒廃し、規律が乱れたら、法的に不況カルテルを結ぶことも容認したのである。
とるべく政策の正反対の政策をとれば市場の底を割って回復できないほどの打撃を与えてしまう。


(2000年基準・93SNA)

不良債権処理は、1998年に頂点に達し、1998年に金融機関は、資本を注入された。

但し、2008年基準では1995年に頂点に達しているとされる。


平成23年基準(2008SNA)


不良債権処理をなぜしなければならないのか。それは、企業が不良債権を放置していると企業の資金調達力がいつまでも改善できないから底値を確定して含み損を一斉したかったからである。しかし、強引に不良債権を表に出して清算させようとすれば地価や資産価値がさらに下落してしまう事は明らかだった。それ故に金融の現場では、不良債権を先送りしても市場の規律を取り戻して収益力を回復しようとしたのである。資産価値よりも事業内容へと発想の転換を計ろうとしたのである。それは、事実を隠ぺいする事ではない。たとえ含み損が生じてたとしても十分に採算がとれる設備は、清算する必要がないのである。
更に、担保主義の影響が運転資本にも及ぶと資金繰りが窮屈になり、最悪の場合、将来性のある企業の息の根をも止めてしまう。実業に資金が流れなくなるのである。

不良債権というのは、不良債務の意味でもある。資産を取り除いても残債はなくならない。将来の収入を見込める資産を一時的に価値が下がったからと言って清算したら、将来の収入も見込めなくなる。
重要なのは、事業観であり、将来に対する展望である。
経済は生き物なのである。資産の変動よりも事業内容こそ重視すべきなのである。

景気が停滞し、収益力が低下した時、採るべき政策は何か。その答えは現実にある。観念的な事ではない。
間違いをいつまでも認めなければ、事態を改善する余地はなくなるのである。


企業法人統計


小泉内閣が発足後純資産は、増加している。資本金が減少しているのに対して対照的な動きを示している。

純資産は、資本金だけでなく、資本準備金や利益準備金等が含まれる。つまり、当期利益の部分が加算されるのである。
利益が加算されても負債の返済に充てられれば、実質的な資本が増えるわけではない。利益として得た資金を何に運用したかが重要なのであり、不良債権の処理に使われたとすれば、含み益の増加を意味するわけではない。


企業法人統計

経済は相対的であるから、純資産の推移ばかり見ていても働きは見えてこない。


企業法人統計

一般に、経済主体は、純資産の比率が高ければ高いほど経済状態はいいという思い込みがある。しかし、全業種、全規模で見ると高度成長期は、純資産の比率が小さく、流動負債の比率が大きいのに対して、高度成長が終わり、低成長時代になると固定し負債の占める比率が相対的に高くなり、バブル崩壊後は、純資産の比率が高まる。純資産の比率が高まるから見た目は財務内容が改善されているように見えるが、内実は、外部から資金調達ができないから結果的に純資産の比率が高まっているのに過ぎない。

成長期には、流動し負債の比率が高くなり、成長が鈍化するにつれて相対的に流動負債の比率が低下し、その分、固定負債の比率が高まるが、再投資を控えるようになると今度は償却が進んで純資産の割合が高くなるのは理にかなっている。ただ、成長が止まり、再投資もされなければいくら純資産の割合が増えても経済活動からするといい状態とは言えない。


企業法人統計

資産の変動を見て見るとバブル崩壊直後よりも1996年の金融ビックバンの時の方が変動が大きく。翌年の1997年に、三洋証券、北海道拓殖銀行、山一証券が経営破綻している。
そして、1998年に銀行に資本が注入された。
2001年には、金融の量的緩和が導入された。2003年にはりそな銀行に資本が注入された。


(2000年基準・93SNA)

2003年には、32兆円規模の為替介入が実施された。


平成23年基準(2008SNA)

阪神淡路、東日本大震災によって我が国の資産は大きく毀損した。


国民経済計算書

社債の変動と働き


財務の基本は資金調達である。

社債は債券である。債権は、証券の一種である。
社債は、株と同じ証券である。
ただ社債と株式の違いは、社債は、債券であるのに対して株は、所有権、経営権に関わる証券だと言う点である。国債も債権の一種である。

債券とは、資金を貸し借りする際に作製される証書である。即ち、債券とは、約定に従って利息を支払い、元本を返済する義務を証明するための契約書である。

資金調達には、四つの手段がある。第一に、収益に基づく手段であり、損益の期間を成している。第二に、「お金」を金融機関から借りる事である。第三に、人や金融機関を除いた機関から借りる事である。第四に、株式を発行する事である。

社債の種類には、
性質による分類として第一に、 普通社債。第二に、転換社債型新株予約権付社債(転換社債、取得請求権付株式)。第三に、新株予約権付社債(ワラント債、新株予約権を付した社債)。第四に、劣後債がある。

債権者名義の管理の有無による区別として、 記名社債と無記名社債がある。
募集の仕方による分類は、 公募社債、私募社債がある。
担保の有無に担保付社債(担保付社債信託法の適用を受ける。)と無担保社債がある。
利払方式には、利付債と割引債があり。利付債には、固定利付債と変動利付債がある。

会社法上の社債と類似するものとして、特定目的会社が発行するものを、特定社債といい、資産の流動化に関する法律の適用を受ける。投資法人が発行するものは投資法人債といい、投信法の適用を受ける。その他にも、業種によっては、社債発行に当たり、各業法規制の影響を受けることがある。 また、非居住者である外国の発行体が日本国内で円建てで発行する債券をサムライ債、外貨建てで発行する債券をショーグン債という。(ウィキペディア)

社債は、長期借入金の一種だと考えていいが、株式の性格も併せ持っている。
株式の性格とは、不特定多数から資金を調達するという性格である。
普通社債のみの時代では、負債と資本は明確に区分できたが転換社債や新株予約権付社債等が発行されるようになると社債のはたらきの一部に株式の要素が入り込み負債と資本の区分が不明瞭になった。転換社債は株式に転換されると負債から資本に組み入れられて増資になるからである。

しかし、この事は、資本の本質的性格によると考えられる。即ち、資本の働きは、負債の働きの延長線上にあるからである。
社債のこのような性格は、国債にも見られる。超長期国債や永久債は、資本化してしまう。

社債の残高見るとバブル崩壊後も一定の水準を保っているように見える。
しかし、社債に対する資金需給は、バブルの形成期に一気の増加し、バブルの崩壊と同時に一気に暴落した。



社債需給

法人企業統計

財務の働きを難しくしているのは、資金調達の手段の選択肢が広がった事がある。
財務は、本来、黒子であったが、財務が直接的に収益を上げるようになると本業以上に役割が期待されるようになった。
特に、プラザ合意後、円高不況になると財テクが持て囃され、結果的にバブルを準備する事となる。

社債は、証券の一種である。
証券化というのは、資産を流動化する手段である。資産を流動化するというのは、資産を決算手段に転換し、市場に流通できるようにする事である。
決済手段というのは、現金、および、現金同等物を言う。
証券化の対象は、流動化できる物であればなんでもいい。例えば、売掛金でも、在庫でも、債券でも、預金でもいい。

財務の本来の仕事は資金調達であり、資金繰りだった。資金繰りの根幹は、収益である。これは、今も変わらない。故に、収益力が低下すれば、すぐに資金繰りが難しくなる。
プラザ合意後、本業の収益だけでは資金が回らなくなった。また、急激な原油価格の高騰や為替の変動は、財務に何らかの保険を掛ける事が求められてきた。

単なる資金調達、資金繰り部門から資金を運用して財務は財務で利益を上げる事が要求されるようになってきた。
また、バブルが崩壊するとそれまでの含み益を頼った資金繰りが効かなくなってきた。そこで編み出されたのが、手法の一つが証券化(Securitization)である。そして、このような技法が財務の在り方そのものを変えてしまった。従前の受け身の財務では、対応できなくなったのである。

長期借入金の変動


借入金には、長期、短期の別があり、各々に役割がある。明確に区分されているわけではないが、長期借入金は、固定資産等固定的資産を対象とし、資本と同じような部分を網羅していて、短期資金は、主として運転資本や季節変動資金に対応するというのが一つの目安である。


法人企業統計

1999年には、ゼロ金利政策が導入されるが、企業は、長期も、短期も、むしろ、借入金を減らしている。


法人企業統計


財務キャッシュフローで重要となるのは、損益上に表れてこない借入金に係る資金の流れを表に現わす事である。特に長期借入金の借入と返済は、景気変動に深く関わっている。

借入金は、元本の部分と利息の部分から成る。利息の部分は、費用として損益上に計上される。元本の部分は、約定に従って定められた期間で返済しなければならない。この元本の返済部分は、損益上には計上されない。

長期資金の働きで損益上に計上されるのは、減価償却費である。しかし、減価償却計画と返済計画は必ずしも一致していない上、減価償却費で負担できる範囲は投資資金の一部でしかない。

ただし、単に、長期借入金の増減としてしかとらえていないと、長期資金の働きは、見えてこない。長期借入金は、投資資金の返済と回収に関わっており、また、償却費と資金繰りにも影響を与える。また、税と現金収支、利益の関係にもかかわってくる。
これらの要素を複合的に見ないと財務キャッシュフローの意義はわからない。

期間損益ばかりを問題とするが、実際の事業は、投資と資金の回収、そして清算の流れの中で捉える必要がある。期間損益は、途中経過を表しているのであり、事業の始まりと更新については、資金の流れに沿ってみていかないと判読できないのである。事業の始まりを資金調達からとらえる事に、財務キャッシュフローの真骨頂がある。だからこそ資本と負債の関係や割合が重視されるのである。総資本の構図が財務キャッシュフローの下地となっている。

長期借入金は、長期資金の不足を補う事によって発生する。長期資金は、基本的に投資に対する資金不足に対応している。


法人企業統計

長期資金の変容を資金需給、つまり、資金需要の増減から見るとバブル崩壊前と崩壊後の変化がより鮮明となる。

長期資金需給

法人企業統計

長期資金の流れは、投資対効果の流れに対応している。長期借入金は、固定的資金支出を形成する。
故に資金計画の基礎を構成する。

長期借入金の働きは、固定的資金支出と固定費の関係によって形成される。固定費とは、主として減価償却費を指して言う。

借入金の効用を測る指標で重要なのは、借入金限度額であるが、何を基準として借入金の限度額を設定すべきかは、むずしい。思想の違いでもある。第一に言えるのは、投資対効果によるものである。第二に、返済力である。第一の投資対効果で見られるのは、投資に対して収益が見合っているかであり、、第二の返済力というのは、担保力、つまり、返済を保証する資産があるかという事になる。収益は、不確かであり、担保は必ずしも将来の収入を保証しているわけではない。
現在経済の問題点は、長期的展望をもって見なければわからない事を短期的な視点で判断しようとする事である。

投資対効果という観点から見ると長期借入金の残高と減価償却費、税引き後利益との関係が重要となる。





短期借入金の変動


短期借入金は、単位期間内の資金不足を解消する目的で実行される事が基本である。主として運転資本の不足に対する対応である。
資金が、一円でも不足すると経営主体は、経済的に破綻する。ゆえに、資金残高をギリギリにしておくと不測の事態に対応する事が出来なくなる。
短期資金は、季節変動、業容の拡大などから生じる一時的な資金不足に対する手当である。投資のように一時的に多額の資金が必要とされる事態を想定していないが、それだけでに安定的な資金の供給先を確保しておかないと経営破綻に至る危険性があり、甘く見る事はできない。
黒字倒産の主たる原因となるのが、短期資金の不足だからである。



短期借入金の残高は、バブル崩壊後、すぐに減少したように見えないが、資金需給から見ると違って見える。


短期資金需給



短期借入金の資金需給は、バブル崩壊後急速に減少している。

長期資金が投資から発し、投資キャッシュフローの原資が長期借入金の増加と減価償却費に基づいているのに対して、短期借入金は、営業キャッシュフローの動向に影響を受けている。営業キャッシュフローの原資は、売上収入と短期負債である。営業キャッシュフローの中で投資に関わっているのは、固定資産の減少部分と長期借入金の減少部分であるが、会計上は、投資キャッシュフローに仕分けられている。
この点を理解しないと財務と財務キャッシュフローの関係は見えてこない。

短期借入金は、運転資本の資金重要を色濃く反映している。運転資金は、つなぎ資金でもあり、一円でも不足すると経営が成り立たなくなる。
貸し渋りとか、貸し剥がしというが金融機関は、表立って資金を回収しなくても短期資金の貸し渋りをすれば、経営は追いつめられる。短期の借入が細る事は、経営主体にとって死活問題である。そして、短期資金の裏付けが含み益だから、資産価値の下落は、中小企業を直撃したのである。

事業の基本は収益にある。事業収益に対する評価が融資に結び付かない事が景気を停滞させた要因の一つである。

運転資本は、景気の状態を最も反映している。在庫は、景気の代表的な先行指標でもある。

バブル崩壊後急速に運転資本が窮屈になったのが見て取れる。バブル形成期は、短期借入金に頼らないで資金調達が出来たのがバブル崩壊後は、短期借入金に頼らざるを得なくなっている。

注意すべきなのは、第二次石油危機後は、運転資本を短期借入金が上回っている事である。





営業キャッシュフローと運転資本の関係を見てみる。
プラザ合意後運転資本は、減少しているのに、営業キャッシュフローは増加している。



経済は、資金の過不足によって動いている。


経済を動かしているのは、資金の過不足である。
資金の過不足を補うように資金を融通しているのが金融機関である。
財務キャッシュフローは、資金の過不足を何によってどの様に補っているかを表している。

そして、財務キャッシュフローから経済の動きを知るためには、金融機関の決算の内容、キャッシュフローが鍵を握っている。
銀行の貸借対照表では、一般企業の資産である預金が負債であり、貸付金が資産となる。収益は預金金利と貸付金金利の利鞘から導き出される。金融機関は、資金の過不足を調節する事が専ら役割であって何らかの財を生産しているわけではない。
つまり、金融機関は、預金者と貸付先との仲介役でその財務は鏡なのである。

金融機関の預金量と貸付量の関係、預金元と貸付先、速度、貸付金利と預金金利の利鞘から市場の状態は明らかになる。

資金の過不足を補うのが金融機関の働きであるから、預貸率が重要となる。
家計、企業、財政のどの部門が資金不足でどの部門が資金超過かは、銀行の決算に現れる。
資金の需給関係も銀行の決算を見ればわかる。資金の需給は、預貸率に現れる。今日の日本経済は、資金需要が弱く、優良な貸付先が見つけられない状態にある。バブル崩壊後預貸率は低下し、2000年以降貸付金が預金を下回るようになる。
民間企業の資金需要が減退した分、財政に対する依存度が高まり、国債の比率が高まっている。国債は、中央政府への貸付金を意味する。

民間企業の資金需要が弱まった主たる理由は、資金調達力の低下と収益が見込める事業が少なくなったことが原因である。収益が見込めなくなったのは、過当競争による利益率の低下である。


銀行協会


預金と貸付金の割合は、資金の流れの状態を表す。また、家計、企業、財政、預金の部門ごとの割合、貸付金の部門ごとの割合は、それぞれの部門の資金の過不足を現している。国債は、財政に対する貸付金を意味する。
重要なのは、貸付金の使途であり、家計は、住宅ローン、企業は、設備投資、財政は、公共投資などに向けられる。そして、貸付先と預金との均衡、関係が経済に対してどの様に作用しているかを追跡する事である。

貸付先は、民間企業と家計が中心となる。国債は、中央政府への貸し付けを意味するが、貸付金からは除外されている。貸付金は、個人と企業が主たる先であるが、企業に対する貸付金の割合は、2000年以降2017年現在まで一貫して低下している。
つまり、銀行の貸付先が企業から家計へと移行しているのである。


  
日本銀行

設備投資に対する貸付金もバブル崩壊後急速に減退していたが2013年以降緩やかに回復基調にある。
ただ、重要なのは、何に対してどの様な設備投資に力を入れるべきかであり。少子高齢化、空き家空室が社会問題化しているというのに、投機対象の高層マンションを乱立させるのは、自殺行為である。

目先の利益や流行にとらわれることなく国家理念、国家戦略、産業観や将来、未来に対する展望を持った設備投資を促進すべきなのである。


日本銀行

中小企業絵の貸し付けは、バブル崩壊後大きく落ち込んだ後、横ばい状態だったのが、2013年以降やや持ち直している。ただ、設備投資ほどの力強さは感じられない。中小企業が活力を取り戻すためには、市場の環境が整う必要がある。とにかく収益の回復が見込めない限り中小企業は活力を回復できないでいる。


日本銀行

自由主義経済において経済主体を動かしているのは、「お金」の流れである。経済主体は、「お金」が回っている間は、破綻する事はない。逆に経済主体は、「お金」が回っていれば破産する事はない。「お金」が全てと言われる由縁である。

資金の過不足を補い、資金を回すのが財務の働きであり、主として資金の調達と運用を担っている。経済主体は、極端な話、何もしなくても「お金」が回っていさえすれば経営が継続できる。本業をそっちのけにして投機によって利益を上げている企業さえあるくらいである。特に、プラザ合意後の円高不況時は財テク企業として持て囃された。
しかし、財務だけで経営は成り立っているわけではない。財務はあくまでも裏方である事を忘れてはならない。
資金の効用は、調達と運用によって発揮される。資金の運用は投資的キャッシュフローに表現される。

財務は、資金の調達を主とする。
資金の調達先は、経営主体の外と内がある。財務キャッシュフローが扱うのは外部取引である。
内部資金には、内部留保と減価償却費がある。
外部から資金の調達手段には収益的手段、貸借的手段、資本的手段がある。収益的手段は、主として営業キャッシュフローで扱う。財務キャッシュフローが扱うのは、貸借的手段と資本的手段である。
貸借的手段には、金融機関からの借入や社債などがある。また、売買取引から派生する債権債務の関係がある。ただ、売買取引から生じる貸借関係は、営業キャッシュフローで処理されている。資本的手段には、増資などがある。

資金調達には、資金を担保する物や権利が必要である。担保する物は、手持ちの資産か投資対象、あるいは、将来獲得するであろう収益に求められる。
財務キャッシュフローは、調達手段と担保する物や権利とによって成り立っている。即ち、財務キャッシュフローの背後には、担保力が隠されている。ただ、資金の調達力は財務キャッシュフローからは検証できない。この点は注意しておかなければならない。つまり、資金が動いたらその背後において何を担保としているかを見極める事が必要なのである。
担保不足に陥ると経済主体の資金調達力は低下する。現在の民間企業が陥っているのは、資産価値の下落による資金の調達力の低下である。担保する物や権利を手持ち資産から投資する対象や将来獲得する収益に置くかえないと民間企業の資金調達力は回復せず、結果的に投資が抑制されてしまう。この関係を理解しないと財務キャッシュフローの真の働きを分析する事はできない。

財務キャッシュフローは、資金の過不足を補う事を意味しているという事は、貸し借りが主たる項目となる。それに、資本的項目が加わる。貸し借りとは、長期資金の流れや働きの調整を意味する。
長期資金の流れは、資金の流れの底流を形成している。しかし、長期資金の流れは、損益上には現れてこない。
それが、経済の動向を理解するうえで最大の障害となっているのである。

経済を動かす資金の流れや働きの核となる部分が表面に現れてこないのである。

財務キャッシュフローは、この長期資金の働きを主として扱っている。
この点をよく理解しておかないと財務キャッシュフローを作成する意義と目的は理解できない。

また、近年では、先物取引やスワップ取引、オプション取引等のデリバティブが財務において重要な役割を果たすようになり、財務の幅が広がっている。デリバティブは、本来表面に現れてこない未実現損益に関した勘定である。この扱いが経営を評価するうえで重大な意味を持つようになってきている。
また、デリバティブを金融取引とみるか、投資とみるか、運転資本の一貫してみるかによってキャッシュフローの扱いも変わってくる。この点をよく理解しないと財務キャッシュフローの役割も見えてこない。
同様な事は、為替損益の扱いにもある。為替損益も、第一に、営業活動から生じる損益と第二に、投資活動及び財務活動から生じる損益、第三に、外貨建てのキャッシュから生じる損益があり、各々取り扱い方も項目も違う。この様な動きが財務活動にどのような影響を与えるのかを検討しないと財務キャッシュフローの働きは見えてこない。

財務キャシュフローは、長期資金の流れと短期資金の流れからなる。
長期資金は、主として投資に係る資金の流れと働きを表し、短期資金は、単位期間内の資金の流れと働きを表している。
単位期間内の働きと流れは、運転資本の資金の裏付けや減価償却費と実際の借入金の返済との間に生じる資金の過不足を補っている。
財務キャッシュフローは、実際の現金収支と期間損益の間に生じる歪を補正する働きをしている。
ただ金利は、営業キャッシュフローに表示されるため、金利の動きは、含まれていない。つまり、付加価値を生まない資金の流れを表している。

短期資金と長期資金の関係は、財務の働きを象徴している。
短期資金が調節するのは、基本的に営業に係る資金の過不足の調節であり、売上債権、在庫、仕入れ債務である。それに対して長期資金は、長期負債の動きや減価償却のようなと投資に係る資金の過不足を調節している。長期資金の動きを検証すると投資の実態が明らかになる。

  
法人企業統計

長期資金の働きと短期資金の働きは違う。ただ、いずれにしても借入金の動きは、損益上に直接現れてこない。借入金の働きは貸借上から導き出す以外にない。
貸借の動きは、表面に現れてこないが、経済の持続性を占う上で重要な意味を持つ。なぜならば、長期短期の資金の働きは、資金繰りを意味しているからである。経済主体が破綻するのは、損失を出す事によるわけではない。資金が続かなくなることが直接的な原因となるる。
営業上の資金繰りは短期資金の働きによる。短期資金は流動性が重要となる。そして、企業経営がたちいかなくなる原因は流動性を失う事が一番の原因となる。
バブル崩壊後は、短期借入金から長期借入金に借り換える事で企業は経営の安定をはかった事が窺える。



財務キャッシュフローの中軸を成すのは、長期借入金と短期借入金である。
借入金以外に金融資産、金融投資も財務の中に含まれる。要するに金融活動の働きや動きを表しているのが財務キャッシュフローである。

財務キャッシュフローは、資金の調達と返済を表している。
資金の調達には、外部資金調達と内部資金調達がある。
内部資金調達の手段には、内部留保の取り崩しと減価償却費がある。
外部資金調達の手段には、借入や社債、増資等がある。

総資本が増加すれば、外部から資金を調達した事を意味する。減少すれば、外部から調達した資金を返済した事を意味する。
外部資金は、借入か、増資か、収益である。

財務キャッシュフローは、調達された資金が何に使われ、どの様に返済されたかを合わせてみないとその働きを評価する事はできない。
その意味で財務キャッシュフロー、投資キャッシュフローは裏腹の関係にある。
貸付金や現金・預金、金融商品の残高との関係も重要となる。



資金繰りの流れ


「お金」は、使われることで効用を発揮する。
所持金の残高は、使えば減る。それだから、常に「お金」を補充し続けなければならない。
それが「お金」の循環を生むのである。
問題は、お金をどこに使い、どこから補充・調達をするかである。

経済全体から見ると「お金」の内、紙幣は、発券銀行の借金として発生する。「硬貨」は、政府の借金として発生する。
つまり、「お金」の本は、借金なのである。
中央銀行では、紙幣は、負債であり、政府の借用証書の国債は、資産である。
普通銀行では、預金は、負債であり、貸付金は、資産である。
つまり、貨幣制度の根本には貸し借りがある。

財務キャッシュフローは、「お金」の過不足を調節する働きを示し、投資キャッシュフローと同様、貸し借りに基づいている。
「お金」の過不足は、一つは、運転資本によって生じる。
もう一つは、投資に基づく支出、費用にかかわる支出と収益に基づく収入との時間差によって生じる。

基本的には投資のための資金は、主として長期資金によって調達し、運転資金は、短期資金によってい補填する。
資金調達は、主として収益、借入、そして資本的手段である。収益よって調達された部分は、利益として計上される。利益は、営業キャッシュフローに計上される。

営業キャッシュフローは売上収入を元としているが売り上げと収入は必ずしも一致していない。一つは、受取手形や売掛金のような売上債権の存在である。反対に、買掛金のような仕入れ債務もある。また、売上が成立するまでの棚卸資産、在庫もある。
この様な入金と支出の実際的な時間差を調節するのが運転資本である。
予定通り売上が上がらない、あるいは、売上が上がっても利益が思うように取れないといった場合は、投資資金と回収との間にズレが生じる。この様な現金収支のズレを補正するのが財務キャッシュフローの働きである。

営業キャッシュフローは、日常の現金収支、すなわち、短期的「お金」の働きを表し、売買取引を基本としている。言い換えると営業キャッシュフローは付加価値の増減を表している。
それに対して投資キャッシュフローは、生産手段に対する現金収支を表し、長期的「お金」の働きを示し、基本的には貸し借りに基づいている。財務キャッシュフローは、長期的資金と短期的資金を調節するような働きがある。
経済全体から見て営業キャッシュフローそのものは、「お金」の供給量を増やしたり、減らしたりはしない。なぜならば、営業キャッシュフローは、売買取引を基礎としているからである。
「お金」の流通量は、「お金」の供給量と回転数の積である。つまり、「お金」の流通量を増やすためには、供給量を増やすか、回転数を増やすかしかない。供給量を増やす取引が貸し借りであり、回転数を増やす取引が売り買いである。
投資キャッシュフローは、長期的資金計画の基づいて管理されているのに対して、財務キャッシュフローは短期資金によって状況に合わせて運用される傾向がある。

財務キャシュフローでは、借入金の増加は、正であり、減少は負である。
社債発行による入金は正であり、償還は負である。
株式発行による収入は、正で、配当金の支払いは負である。また、自己株式の取得による支出は、負である。

貸し借りの総量は、ゼロ和である。
売り買いの総量も、ゼロ和である。
貸し借りの循環運動が売り買いの循環運動を生み出す。

売り買いの総量は、回転数と供給量の積として求められる。
故に、供給量が増えると回転数が減少する。
貨幣の供給量は、紙幣と貨幣の発行残高と国債残高の関係によって定まる。

市場取引で派生する貨幣価値の総量は、常に、ゼロ和である。
貨幣価値は、市場で取引される財の総量と対応している。
市場で取引される財の取引量と生産された財の生産量とは、同量ではない。

生産原価がすべて消費に向けられるわけではない。

「お金」は使えばなくなるのにである。故に、絶えず補給し続けなければならない。しかし、だからと言ってやみくもに「お金」を供給すればいいという訳ではない。
問題は、どの時点で、どの様な手段によって「お金」を補給するかなのである。
重要なのは、供給量が少ないのか。回転数が悪いのかを見極める必要がある。

お金は幻である。無駄に費やせば無駄になる。
無駄なことは、世の中の害になることが多い。


金融の役割は、資金の過不足を補う事である。


金融は、資金の過不足を補うのが役割であり、財務キャッシュフローは、金融の役割に基づく資金の動きである。
故に、主として「お金」の貸し借りを表している。
「お金」を借りるためには、物的、あるいは権利等の裏付けがいる。
物的裏付けとは、担保力である。
そして、最も担保力があるとされてきたのが土地である。バブルが崩壊するまでは、土地は、右肩上がりに上がる事を前提として見られる。
地価の値上がりを前提に組み立てられてきた日本的含み経営は、バブル崩壊とともに音を立てて崩れ去ったのである。
本来事業計画は、収益を基礎として建てられるべきものである。
借り入り金の返済は、収益の中から賄われるべきものである。
しかし、地価の値上がりを資金源としていると地価が下落すると資金の調達力を失ってしまう。

問題は、何を根拠として資金を調達するかにかかっている。
投資は、投資自体の資金計画に基づかなければならないのである。

地価の実勢価格と土地の相関関係は、失われた。簿価は、地価の実勢価格を反映しなくなった。また、ある程度、反映するようになったとしても地価が、上昇しない限り土地の時間価値は働かない。土地は、非償却資産である。
故に、収益によって不良資産を清算することは許されない。厳密に言えば、不良債権を回収する手段は、土地を売却した時である。しかし、不良資産の中には事業を継続していくうえで欠かせない資産もある。即ち、生産する事の出来ない資産が含まれているのである。企業は、投機のためだけに資金を調達したわけではない。
そうなると民間企業は含み損を抱え込んで不足資金を調達しなければならない。
不足資金は、単に新規投資のみに限られているわけではなく、むしろ、運転資金の不足の方が、企業経営では深刻な事態を引き起こす。
民間企業は新規投資だけでなく、更新投資の資金も事欠くようになった。それが、市場に資金が回らない要因ともなっている。

外部から資金を調達せず収益を専ら借入金の返済に充てている事から見かけ上の財務体質は改善しているように見える。
しかし、企業本来の生産力、開発力といった基礎体力は確実に奪われているのである。経費節減による人材の流失も深刻である。

担保主義の悪弊である。何を根拠に資金を融資するのか、それは金融機関に勤める者は心しなければならない。
金融機関の働きは、資金の過不足を調整し資金の円滑な循環を促す事にある。事業や人を見ずにただ担保ばかりを見ていたら経済は機能しなくなるのである。




財務キャッシュフローは、資金の過不足をどの様な手段によって融通を付けたかを表している。
資金の過不足をいかに補うかは、時系列分析こそカギを握っているのである。
すなわち、どの様な時点で、何を原因として、どれくらいの資金不足が発生するかを正確に予測し、どれくらいの資金をどの様な手段によって補填していくのかを見極める事が金融マンに要求される事なのである。
今金融機関に求められているのは、担保価値を計る事ではなく、事業価値や経営者の実力を計る事なのである。


自由主義経済は、所得中心の経済である。


経済は生産だけで成り立っているわけではない。また、財務諸表が絶対なのでもない。
経済には、生産局面以外に分配と支出の局面もある。
そして、それぞれの局面で一定の働きがあって経済の仕組みは、機能する。そして、生産局面に生産効率があるように、分配局面には、分配効率が、消費(支出)の局面には、消費効率がある。生産効率ばかりを優先すると付加価値は、失われ。消費効率は、蔑ろにされて無駄が生じる。エネルギー効率は、主として消費効率に求められるべきなのである。
生産効率、分配効率、消費効率を均衡させるためには、市場の枠組みが重要となる。
特に、分配の局面では、費用と所得が要となる。
一定の費用、所得が支払える収益を確保維持する事が求められる。所得は、雇用が前提となる。
雇用を維持する為には、確実に一定の収益を見込める産業を大事にすべきなのである。これは借入金を返済し、資金を市場に循環する為にも必要とされる。
経済は、人を養うのが第一義であり、お金を儲けるのも所得をあげるのも手段に過ぎない。
確実に利益が上げられる産業を保護し、公正な競争を維持できるような市場環境を作る事が大切なのである。無原則な規制緩和によって過当競争を促す行為は、市場から規律を奪い荒廃させるだけである。
価格競争だけが全てではない。何で競わせるかが重要なので、目的を曖昧にしてルールなき競争をさせるのは乱暴である。

市場経済を動かしているのは、「お金」の出入りである。つまり、入金と出金が経済を動かしているのである。
そして、本源的な入金は、所得である。所得がなければ、何もできない。それが現代社会である。すなわち、今日の市場経済は、所得を根源として成り立っている。

所得と支出は、表裏の関係にある。だからこそ、家計の構成や家計支出は、その国の産業の基盤になるのである。

それは、所得の質によって市場環境が変わることをも意味している。
団塊の世代は、高度成長期、日本の雇用は、年功序列、終身雇用、企業内組合を基盤にし安定した賃金の上昇、年齢に伴って改善される処遇、高額な退職金の保証などに支えられ。定年までに住宅ローンを支払い終え、年金を満額貰え、医療保険や介護制度の恩恵が受けられた。
しかし、団塊の世代以後の世代は、低成長、デフレ、年功序列制度が崩壊し実力主義に代わってきた。派遣やアルバイトと言った正社員以外の雇用が増え、退職金も減額される。住宅ローンの支払いも残っている。年金もいつもらえるか判然とせず、医療保障や社会保険の負担も増加し、税負担も増える。この様な市場の前提条件が変われば当然雇用の質も変わる。
人生設計そのものに狂いが生じている。そうなると支出の質にも変化が現れるのは必然的な事である。

経済は、収入と支出で成り立っている。言い換えると所得と支出の関係によって成り立ている。
所得と支出は、表裏の関係にある。所得と支出は相互作用なのである。

ただ、支出は、所持金がある事が前提となる。「お金」がなければ始まらないのである。故に、先ず資金を得る為の手段が必要となる。故に、経済の柱は、所得、収益なのである。

所得の源泉は、収益、即ち、産出にある。産出が伸びなくなれば必然的に付加価値も頭を抑えられる。

収益は数量と価格の積として表す事が出来る。
つまり、収益や所得は、量としての性格と価格としての性格がある。
所得の拡大は、量的アプローチと価格的アプローチがある。
所得の拡大策は、量的なアプローチか価格的なアプローチの二つがある。量が伸び悩み始めたら価格の上昇を計らなければならなくなる。
量の拡大が望めなくなったら価格が上昇しなければ所得の拡大は望めない。しかし、価格の上昇は、物価の上昇を意味する。
物価が上昇すれば所得の上昇が相殺されてしまう。どの様に量と価格との均衡を保ちつつ所得を拡大するかが鍵なのである。

経済的価値は、生産、分配、支出を経由する過程で形成される。生産、分配、支出、個々の局面には、量的要素と質的要素がある。つまり、経済的価値を高めるためには密度が大切なのである。

収益と所得は、産出を基礎としている。

量には人的要素、物的要素、時間的要素がある。価格にも人的要素、物的要素、時間的要素がある。この六つの要素を組み替える事で財の質的価値を高め、所得の拡大を計るのである。
量は、生産手段によって変わり、価格は、費用の配分によって変わる。つまり、生産手段を変えるか、費用の構造を変えるかによって産出の質は変わるのである。



国民経済計算書

所得と支出は、両輪である。所得と支出の均衡が経済活動を支えているのである。
バブルが崩壊するまでは、所得に伴って消費支出も上昇してきた。民間最終消費支出は、雇用者報酬とほぼ軌を一にしている。それがバブル崩壊後乖離し始めた。最終消費総支出は、民間最終消費支出に政府最終消費支出を足したものである。

そして、所得と支出の根底にあるのが産出である。所得も支出も産出に基づいている。産出に係る事で所得を得て、産出された物の範囲内で支出がされる。

「お金」は、使う事で効能を発揮する。「お金」は、使わないと何の働きも発揮しない。「お金」は、使えばなくなってしまうのである。故に、「お金」は、絶え間なく補充し続けなければならない。「お金」を補充するための手段が所得なのである。故に、所得は、本源的な収入である。

自由主義経済は所得が中心にある。所得によって他の要素の働きは定まる。
所得を上回る支出があれば、借金をして投資する事になる。また、取得を支出が下回れば、その分は貯蓄となる。資金調達と資金運用は、実体経済の投資、貯蓄行動と表裏の関係にある。(「バランスシートで読み解く日本経済」辻村和佑編著 東洋経済新報社)
全体は、全体で部分を構成する個々の要素は個々の要素でこの関係が成り立っている。

所得が改善しないと生活は向上しない。では所得とはどの様にして決まるのか。手取り資金が増えたら、所得は向上したと言えるかと言うと、それ程簡単な話ではない。名目的な所得が上がったとしても実質的な所得が上がったとは言えないからである。
所得の量は、収入だけで決まるのではなく、支出にも影響を受けるからである。所得の上昇以上に物価が上昇したら、所得は上がったどころか相対的に下がってしまっているのである。

総所得が限定的になると限られたパイを奪い合う為に格差が硬直的となり拡大する。それは社会的地位も同様である。
会社の成長が止まると役職者の数が限定されて昇進する機会が少なくなるのと同じである。

所得が横ばいで総量に限りがある場合は、所得の分散や偏差は拡大する。

また、所得が横ばい状態になると負債の比重が高まる。
なぜならば、負債は名目的価値であり、下方硬直的である上に、借入金の元本の返済部分が会計上表面に現れてこないからである。つまり、目に見えない支出としてキャッシュフローに働くからである。


市場が成熟すると


市場は、一律一様ではない。財によって需給に固有の波が生じる。また、産業や市場には、固有の発展段階があり、それによっても波が生じる。また、為替の変動の影響を受けやすい産業や市場もある。
市場は、需給だけで動いているわけでも決まるわけでもない。第一に、需給を決める要件も財によって違ってくる。農産物の様に天候によって左右される財もあれば、戦略物資の様に戦争や政治と言った人為に左右される財もある。生産するのに、熟練を要する財もあれば、大量生産されほとんど人手のかからない財もある。
ただ根本的な構造には、共通した部分、仕組みがあり、その共通した部分、仕組みによって経済は制御されているのである。

何が何でも規制を緩和しろ、規制緩和は万能薬だという人がいるが、財も市場も一律一様ではない。規制を緩和する事で活性化する市場もあれば、規制を緩和すると市場の規律が失われる市場もある。市場の状況や発展段階、財の持つ性格などを見極めたうえで、緩和すべき規制は緩和し、強化すべき規制は強化すべきなのである。一番悪いのは、無原則な規制緩和である。

一般に経済学では、基礎的要件を不動な事として想定する傾向がある。しかし、現実の市場は、財の数だけ基礎的要件が違うと言っていい。財の性格に依っても市場の性格は変わる。商品格差が決定的な財もあれば、商品の差別化が難しい財もある。前提条件や構造によって採るべき施策を変える必要がある。例えば雇用形態や条件も産業ごとに違うし、段階によっても違う。一律に規制する事はできない。かと言って何も規制しなかったら市場を制御する事はできなくなる。

市場が成熟し、過飽和な状態になると市場や産業の性質や構造も変化する。前提条件の変化に応じて市場や産業の構造を変えていく必要がある。
何でもかんでもむ市場に任せていればいいというものではない。市場は、自然に成るものではなく、人為的に構築される構造物、仕組みなのである。

成熟した市場と言うのは、過飽和な市場を言う。ある製品の市場が拡大を続けても人や物は、有限だから、拡大にも限りがある。ある一定の境界線を越えると急速に市場は満たされてしまう。例えば、掃除機や洗濯機のような耐久消費財は、一世帯に一つあれば十分用が足りる。全世帯に普及すると急速に市場は萎んでしまう。それが過飽和な状態という事になる。
ただ、現実には変え変え需要などが起き一遍に収束するという事はあまりない。
この様な市場の成熟度は、製品の性格、特に、ライフサイクルに依存している。

日本は、高度成長時代には、右肩上がりを前提としてきた。しかし、低成長時代に入ると企業の成長にも陰りが見えてくる。成長市場では、ひたすら前進あるのみ、前へ前へ進んでいればよかったが、市場が成熟し、停滞、低成長時代になると前へ進もうとすると同業者と衝突するようになる。募り、競争から闘争へと市場の様相は変化してくるのである。行政の仕事は、このような市場の変化に合わせて市場の仕組みや規則を変えていくことなのである。

市場が成熟してくると成長にも陰り、限界が見えてくる。収益も頭打ちになり、よくて横ばい、悪くすると下降し始める。それに伴って、設備や雇用などが過剰となり、供給や負債も過剰になる。
一方で、少子高齢化問題は、生産労働人口を引き下げることになる。
この様な事を考え合わせると実体的市場は、縮小均衡へと向かう。収益を前提とし、所得の拡大を前提とした経済体制では成り立たなくなる。

経済成長を促すのは、生活水準の向上である。生活水準が一定の水準に達すれば経済成長の速度も鈍化する。
いくら「お金」を渡しても、美味しい物を作っても満腹している場合は、食事をしようと言う気は起こらない。それは、満足しているのであって悪い状態ではない。重要な事は、経済の目的と働きをどう整合性をとるかである。
消費者が現状に満足したら新たな需要は弱くなる。つまり、魅力ある物を生産すると同時に価格の水準を保つ事が求められるのである。
需要が減退したからと言って無理やり需要を作り出したり、供給を増やしてもかえって収益を悪化させるだけである。
つまり、量から質への転換が求められ、同時に、競争から協調への転換が求められているのである。

市場が拡大している時は、一定の利幅を維持する事は難しくないが、市場が縮小してくると費用の構成比率が変わらないと利幅を維持する事が難しくなる。費用を削減すれば質を維持する事が困難になる。市場が規律を失えば、必然的に市場は過当競争に陥り、生産者は淘汰されていくのである。

所得が横ばいという事は、総所得はゼロ和にある事を意味する。
ゼロ和という事は、勝敗がはっきりする事を意味する。

収益が横ばいか下落しているのに利益が上昇するのは、費用が削減されている事を意味する。費用の減少は、市場全体では収入の減少を意味する。収益は、単位期間の収入の元となる。収益がよくならないがり所得は改善しない。結局、奪い合いになる。

全体の所得が横ばいになると個々の所得の格差は拡大する傾向がある。
全体の所得が変わらなければ取り分の奪い合いになるからである。

市場が成熟するに従って資金調達の流れは、外部資金から内部資金へと移行する。新規投資が抑えられるからである。
温故知新ではないが、それまで蓄積した資金や技術、知識を新しい分野に活用できるような環境を整備する事が行政に求められるのである。
投資の質も新規投資から更新投資へと質を変えてくる。
経済が成熟して来た時、最も重要な施策は、環境の変化に対応した市場の整備であり、産業の再編、構造変革である。財政政策や金融政策は、あくまでも補助的な行為であって、民間企業の活性化が鍵を握っている。民間企業を活性化する為の手段は、通常の経営行為によって一定の収益が維持できるようにする事である。
資本主義経済は、民間企業の収益を核にして成り立っている経済である。借金や公共事業に依存した経済は、本来のあるべき姿とかけ離れている。借金や公共事業に過度に依存するのは、麻薬中毒患者のようなものである。健全な経済ではない。

費用には、費用の働き、役割がある。費用は悪い事ではない。

成熟期に入ると次に重要になるのは資金を循環させる事である。
投資は、更新投資や再投資と言う形をとるようになり、市場に流通する資金の量は、一定に保たれるように制御する事が求められるようになる。この段階では、雇用の確保と雇用の質が重要になる。

一国の市場全てが飽和状態に陥るわけではない。産業の発展も商品のライフサイクルも一律に動いているわけではない。

量的な拡大を続けている市場もあれば、成長の限界に達している市場もある。市場は一律一様なのではない。
量的な拡大を促す市場もあれば、質的拡大を計る市場もある。

量的な拡大が限界に達したら、付加価値の構成を組みなおす必要が生じるのである。

収入が横ばいになることの意味


経済成長を促すのは、生活水準の向上である。翻っていうと一定の生活水準が実現すると経済成長は、滞ってくる。要するに、食が進むのは、空腹だからであり、満腹してくれば、食は進まなくなる。しかし、それは悪い状態を意味しているのではなく。満ち足りているからである。それを無理やり腹の中ものを吐き出させ、飢餓状態にする必要はない。

市場が拡大している時は利幅を確保する事は難しくない。しかし、市場が縮小してくると利幅を確保する事が難しくなる。なぜならば、経済の変動は、利率に基づくからである。
だからこそ一定の利幅を確保する為には、市場を規制する必要が出てくるのである。それがインフレーションの時にとるべき施策とデフレーションの時にとるべき施策の差である。インフレーションとデフレーションでは場に働く力が違うのである。同じ施策を講じても同じ効果は得られない。

経済が成熟し、市場が飽和状態になると収入は、一定の幅に落ち着いてくる。一定の生活水準に達し、人々が生活に満足してくると収益も所得も落ち着いてくる。人々は、変化より安定を求めるようになる。それを衰退とみるのは、間違いであるし、また、間違って政策をとらせる事にもつながる。まず正しく事実認識をする必要がある。
満ち足りた生活は、悪い事ではない。ただ安定ばかりを求めて質的向上を目指さなくなると経済は衰退へと向かう。それがリスクなのである。
収入が一定になってくると、資金を遣り繰りして「お金」の使い道に計画性を持たせるようになる。それが財務である。
目先の利益にとらわれることなく。長期的な資金の使い道を模索するようになる。
日々の生活に終われ、金銭的なゆとりがない時は、短期的な資金の遣り繰りが主となる。その日暮らしの生活を抜け出し、安定的な収入が保証されるようになると借金もできるようになる。しかし、一度「お金」を借りると借金の返済と金利に基づく固定的な支出が生じ。可処分所得を圧迫するようになる。

収入の中から過去の負債の返済と経常的な支出を捻出する必要がある。その為には、一定の収入が維持されなければならない。これは、家計だけでなく、民間企業も財政も一国の収支も同じである。
名目的な所得が減少すると可処分所得が圧迫され、一時的な出費が嵩むと家計そのものが成り立たなくなる恐れがある。
所得が安定してくると、一般に、住宅、結婚、出産育児、教育費、老後の資金、そして、病気や事故等の一時的な出費、急な出費、不測な出費に備えて資金を計画的に運用するようになる。これが財務の本質である。

つまり、財務は投資と貯蓄、負債の帳尻を合わせる行為なのである。その原資は、固定的で一定した経常収入に求められる。
故に、現在の経済は、経常的な収入が保証されなければ成り立たないのである。

経済が成熟し、市場の拡大が望めなくなった時は、所得と収益を一定に保つような状況、環境を保つ事が必要不可欠な要件となる。民間企業が一定の収益や利益を保てなくなれば、必然的に家計も財政も破綻する。妙な道義心から民間企業の収益を圧迫するのは、自滅的行為である。

所得が横ばいというのは、家計で言えば、父親の給料が横ばいで上がらない状態を言う。
お父さんの所得が上がらないで過去の借入金、ローンの支払いに追われる事になる。
お父さんの所得が上がらないで過去の借入金、ローンの支払いに追われる事になる。
収入が増えないのに、過去のつけ、借金、家のローンの返済等が重くのし掛かってくるのである。その上、バブル崩壊後は、家の資産価値は上がるどころか下がっていて売っても借金だけが残ると言う状態なのである。
それでなくとも、育ち盛りの子供がいれば、将来の出費が拡大する事も予測される。また、失業や病気などによって収入が途絶えたり、減少すると即家計が破綻してしまう。
お爺さんは、定年退職をしていて収入がない。働きたくても働けない。過去の蓄えと年金で何とか家計を支えていると言う状態。それは、とりもなおさず、社会全体から見ると生産年齢労働者の減少を意味し、被扶養者層を拡大させることとなる。社会全体の効用も低下する。
また、企業の側では、収益が横ばい状態では、経費の削減と借入金の返済の追われ。新規投資ができなくなる。また、人件費を上げる事ができなくなる。その為にリストラや派遣、パート、アルバイトと言った不定期雇用へと雇用も変質していく。つまり、定収入を基礎とした社会の根本が変質しつつあるのである。
ここで重要なのは、若い世代は、借金をしたくても資産がなく、高齢者は過去の蓄えを当てにして働いていないという点である。
個々の経済主体の場合は、内部で完結しているが、全体の場合は、全体の所得が変わらなければ、特定の部分が拡大した場合、他の部分は圧迫され縮小される。その結果格差を広げることとなる。
所得が横ばいというのは要するに現金収支の頭を抑えられている状態を指す。
所得を改善する手立ては、収益し負債の均衡を保ちながら費用と収益、資産と負債のバランスを保つことである。それが支出と投資を促し結果的に収入を増やすからである。

適正な所得を維持する為には、適正な費用、適正な借入金、適正な利益を上げ続ける事が重要となる。適正というのは、質と量両面から求められる。肝心なのは費用対効果である。安ければいいという発想は短絡的なのである。

景気を主導するのは何か。総所得にせよ、総生産にせよ、総支出にせよ、その本体は、付加価値である。付加価値に影響を与えるのは、収益、所得、金利、物価、資産価格、設備投資等である。では、何によって経済を主導させるべきなのか。それは収益である。何故ならば、収益こそ他の要素の基礎となるからである。所得や利益は収益を基礎としているのであるし、物価は、付加価値の外にあり、金利は負債をほ基礎としている。資産価値は固定資産を基礎としている。そうなるとすべてに共通している枠組みは収益となる。基本的に拡大再生産に結び付くような要素でなければ景気を主導する事はできない。

やってもやっても、やったなりの成果が現れてこない。
それは市場が成熟し、総所得が増えないからである。
だからといって何もしなければ、じり貧となり淘汰されてしまう。
それは、現状が力の均衡の上に成り立っているからである。
何もやらなければ、使えるお金が減っていく。それは、過去のつけを払わなければならないからである。

日本は、そういう状況に20年間おかれている。
この様な状態では、経済は、物質的と言うよりも精神的な問題なのである。
いくら努力しても向かわれない。結果が現れてこないから、成果や成長を実感できなくなる。しかもこう言う逼塞した、状況の中で経済は縮小均衡へと移行していくと精神的に参ってしまう。
モチベーションやモラルが保てなくなり、組織の統制がとれなくなり、内側に潰れてしまう。




実際に使えるお金の量



第一に、生産現場では、所得が均一化されていく。なぜならばやってもやっても成果に結びついていかないからである。必然的に費用対効果の関係が薄れていく。
次にいえるのは、持てる者は富を蓄積し、持たざる者は、富を放出する。この事が社会的格差を拡大する。

縮小均衡となると、高給取りが冷遇され、若年層は、実績が重んじられるようになる。
それは働いている者の所得を平準化する。
また、属人的な要素、年齢や経験、扶養家族等の要素が過小評価されるようになる。

総所得が一定であっても社会的変化は継続してといる。とくに情報技術の進化は、経費削減効果が大きいからである。それは、個人所得、雇用に一番大きな影響を与える。
こうなるとやる気のある人間からやる気がなくなり腐っていく。この様な事が経済から活力を奪っていくのである

高度成長時代は、競争すればよかった。それに対して市場が成熟した今日では、格闘になる。競争は差を競うが格闘は奪い合い。勝敗ではなくて勝負の世界になる。
我々はこの現実を受け入れる必要がある。
時代は変わったのである。成長だけを追い求める時代ではない。

支出が所得を上回れば、不足した分を借りる事になるし、余れば貯金する事になる。
民間企業では、収益が費用を上回れば、利益が上がって、負債が減少し、内部留保、資本が増加する。逆に、費用が収益を上回れば、損失が出て、資本が減少し、負債が増える。
この関係が資金運用の基となる。余剰な資本や資金をどの様に活用するかが、資金運用なのである。
余剰な資金は、収益の過不足を補うように運用される。

家計でいえば、経済が成長し、所得の増加が見込める時にローンや月賦で買い物をしても将来の負担になる事は少ない。しかし、経済成長が止まり、所得の増加が望めなくなると借金の返済は重くのしかかる。
また返済額が所得の範囲内で収まっている時は、支払いに支障はきたさないが、所得の範囲を少しでも超えれば、支払いはたちまち滞り、借金は、雪だるま的に膨れあがる。
借金も働いて返せるうちはいいが、いくら働いても返せない額になったら破産するしかない。
実質的な可処分所得というのは、借金の返済とか、税金の支払い、家賃といった予め確定している支出を取り除いた部分である。つまり、実質的に使えるお金をいう。
所得に占める可処分所得率の低下は、国際的競争力を低下させる。資金効率を低下させるからである。有効に使える所得が総所得に占める割合が低下する事は、総費用の上昇を意味するからである。
重要なのは資金効率なのである。

資金効率という観点に立つと総所得に占める可処分所得の割合が重要となる。つまり、実際に使える「お金」の量である。

貸し借りと売り買いは均衡している。



市場取引は、売り買いと貸し借りによって成り立っている。売り買いは、分配を実現し、貸し借りは、資金の過不足を補う。
売り買いと貸し借りによって資金は、市場に循環する。
売り買いと貸し借りは、相互に補完関係にあるから均衡する。売りと買い、貸しと借りは対称的取引だから個々の取引の和はゼロとなる。
売り買いは、売り手と買い手がいて成り立ち。貸し借りは、貸し手と借り手がいて成り立っている。売り手と売る量と買い手の買う量は、等しい。貸し手の貸す量と借り手の借りる量は等しい。

貸し借りで「お金」を供給し、売り買いで「お金」を活用する。これが原則である。
収入と収支は一致しているわけではない。収益によらない収入があり、収入のない収益もあるからである。また、支出のない費用もあれば、費用に計上されない支出もある。「お金」の効用は、貸し借りでは発揮されない。「お金」の効用は、売り買いによって発揮されるのである。
貸し借りは、支払い準備を意味する。「お金」は、財の対価として支払われて、即ち、売買取引によって効用を発揮する。
負債が支払い準備ならば、貯蓄も支払い準備である。

経済主体間における貸し借り、売り買いは、均衡している。
経済主体は、「国民経済計算書」、或いは、「金融資産・負債残高表」では、第一に、金融機関、第二に、非金融法人企業、第三に、一般政府、第四に、家計、第五に、対家計民間非営利団体、第六に、海外の六つに区分される。また、資金循環勘定では、中央銀行、民間金融機関、郵便貯金、政府系金融機関、民間企業、公共企業、政府部門、家計、海外の九つに区分している。

資本主義体制とは、資金の過不足を短期、長期の時間を組み合わせる事で均衡させるような仕組みの上に成り立っている。
その為に、現金主義的な勘定を期間損益主義に基づく勘定に変換するが複式簿記を土台とした近代会計制度である。

全体を一とし、分散をゼロ和とする。一は全体でもあり、単位でもある。何をゼロとするかは、基準の設定の仕方で決まる。ゼロと一との間は無限に分割できる。

貸し借りは、ストックを形成し、売り買いは、フローを構成する。
貸し借りによって資金の過不足を補い。売り買いは、生産財を動かす原動力となる。売り買いによって分配は実現する。

貸し借りは、貸借資本取引の元となる。財務の働きは、貸借・資本取引に依って実現する。
財務の本質は、貸し借りである。

問題は、貸借資本取引が損益上に計上されない事にある。それ故に、財務キャッシュフローが必要なのである。
財務キャッシュフローは、損益上に計上されない長期資金の働きを顕わしている。

財務キャッシュフローで注目するのは、長期資金の動きである。また、長期、短期の資金の割合である。
短期負債の割合が大きくなると資金繰りは流動になる。長期資金が増えると資金繰りは硬直的になる。
運転資金は、短期で廻し、投資資金は長期で調達する。運転資金が過大になると資金繰りは忙しくなる。長期資金の割合が大きくなると資金繰りは窮屈になる。頃合いが大切なのである。


キャッシュフローが意味するもの



キャッシュフローとは何かを、明らかにする為には、第一に、収入でない収益。第二に、収益でない収入。第三に、支出のない費用。第四に、費用に計上されない支出の四点が意味する事を理解する事が肝心なのである。
第一の収入のない収益とは、売上債権や未実現利益である。
損益には、実現損益と、未実現損益がある。実現利益は、損益が確定した取引といえる。
未実現損益とは、単位期間内に損益が確定していない取引を言う。
未実現利益とは、取引が実現していない為に利益が確定していない取引を言う。未実現利益は、貸し借りを構成する。
いくら手持ちの株や土地が値上がりしても実際に売買されない限り、収益はあっても収入にはならない。これは損失も同じである。
第二の、収益でない収入の代表は借入金である。
第三の支出のない費用は、減価償却費や引当金である。引当金は、負債勘定の対極にある。
第四の費用に計上されていない支出とは、借入金の返済を言う。多くの人は、費用に計上されていない支出である彼入れ禁の元本の返済を考慮していない。しかし、キャッシュフローの根本は資金計画であり、借入金の元本の動きである。なぜなら、それが負債の働きを制約するからである。

税制度はキャッシュフローを土台としたものにならざるをえない。なぜならば、税制度は資金の循環と回収を目的として成り立っているからである。

仕入れ債務は、物的借入金の一種。棚卸し資産は、未実現利益の一種と考えられる。
仕入れ債務の仕分けは、負債と費用性資産(棚卸し)に分解される。

財務キャッシュフローは、資金の過不足を補った結果である。資金の過不足を補った結果が何を表しているのか。それが問題なのである。財務キャッシュフローは、本業の資金の状態を表している。

家計にも財務の働きがある。家計の財が歪んだことがリーマンショックの原因を作ったと言える。
リーマンショックは、住宅ローンを悪用した事が原因なのである。
サラ金地獄も家計の財務の問題である。

金融にも生産者向けの金融と消費者金融がある。
可処分所得の範囲内で借金の返済が収まれば家計は破綻しないが、所得以上の返済が掛かれば借金の元本は、水膨れしてしまい、返済が不可能なまでに増加してしまう。

これは、家計だけでなく、財政も、企業も同じである。フローとストックは、相互に関連している事で抑制されるのであって各々独立して機能しているわけではない。

特に、財政は、通貨の供給と循環を担っている。財政支出に歯止めが効かなくなると経済を制御する事が難しくなる。
財務キャッシュフローは、通貨の供給と循環を制御する為の目安を提供する。

キャッシュフローは資金の一局面を現している。



現金主義は収入と支出の均衡点をゼロとし、期間損益では、収益と費用の均衡点をゼロに設定する。現金主義は、資金の流れを表し、期間損益主義は、単位期間における資金の働きを表すように設定されていおり。収益と費用とは、単位期間内における資金の働きを意味する。収益と費用は、売り買いの結果を資産、負債、資本は、貸し借りの結果を表している。売り買いは、実際の市場の直接的働きを貸し借りは、単位期間を超える間接的働きを表している。売り買いは、市場の物のフローを貸し借りは、物のストックを形成する。

一億円で買った土地を六千万円で売ったとする。六千万円は、負債の返済に当たられ。四千万円損失として計上され、利益、すなわち、資本の減少となる。しかし、単に資本の減少としてでなく、キャッシュフロー上は、節税され、資金の流出をその分減らす事になる。
この様な事例が意味する、負債、利益、資本、費用、税、現金残高の関わりが解らないと資本主義の実際を理解する事はできない。

キャッシュフローは、資金の流れの局面を表している。資金の流れは、資金調達から資金運用へと流れていく。その根底には資金需要がある。
資金調達から資金運用の流れがキャッシュフローの一側面を表しているとすれば、財務キャッシュフローは、この資金の一断面を表している。

資産価値は、キャッシュフローより生じる。キャッシュフローによって資産は形成される。新たなキャッシュフローを産み出さない取引は、消費である。故に、キャッシュフローを産みださない支出は投資とは言えない。それは消費である。
例えば、不動産に対する支出である。収益を目的とした不動産に対する支出と、住居用の支出とでは、本質が違う。賃貸住宅を作って収入を得ようとするのと、自分が住む為の住居では金のかけ方に差が出る。
収益用の不動産は、収益を目的とした支出は必然的に損益を基本とした設定になるのに対し、住居用の不動産に対する支出は損益を度外視したもの成るからである。収益を目的とした支出は、投資であるが、住む事を目的とした不動産に対する支出は、消費である。
消費は、収益も、費用も、キャッシュフローも関係ない、単なる支出である。この様な支出を消費という。消費は、取引の最終的帰結である。
公共投資もキャッシュフローを産み出さなければ、投資ではなく消費になる。

消費は、交換であり、マネーストックはならない。
マネーストックが成立しなければ、資金の流れ、即ち、マネーフローは起こらない。
キャッシュフローを生み出さなければ所得は増えない。

その意味では、補助金はキャッシュフローを生まない。生産手段に結びついていないからである。

不景気になった時に、企業経営を手助けする為に、補助金を出すが、補助金は資金繰りを楽にはするが収益を改善するわけではない。つまり、いくら補助金を出してもそれが利益には直接には結びつかないのである。むしろ赤字企業を延命しているに過ぎない結果になる危険性がある。その様な企業は、補助金を打ち切られた瞬間に破綻してしまう。

経済施策で補助金をだしても、それは、資金繰りに貢献しても収益には貢献していない。
収益に貢献するように工夫しなければ利益には反映しないのである。

収支計画は、一次元的なものではなく多次元なものである。
収支にせよ、資金計画にせよ多分に人、物、「お金」が絡んでくる。更にそれに時間軸が加わるのである。
周囲の状況や環境に合わせて前提となる方程式を変える必要が出てくる。

財務キャッシュフローはストック部分を構成する。



総資本の働きは、負債の増減+払込資本の増減+当期利益として現れる。内部資金を活用すれば総資本は圧縮されるし、外部資金を活用すれば、総資本は、増加する。また、外部資金を導入する事は、市場全体の資金量を増加させる。逆に内部資金に頼れば市場全体の資金量は減少する。資金量の増減は、市場の拡大縮小に影響する。すなわち資金量が増えれば市場は拡大し、減れば市場は、縮小する。

日本は、総資本を圧縮する政策をとりながら物価を上昇させようとしている。総資本を圧縮させることは、結果的に投資を抑制することとなり。市場の出回る資金の量を制約することにもなる。必然的に所得、収入は伸び悩む事となる。物価の上昇を誘発する事は、費用の上昇を促す事となる。
要は、総体としての収入が伸び悩む中、費用だけが上昇するという事態に陥りかねない。

国と中央銀行が借金をする事で、市場全体の総資本の減少を補おうとしているが、それは出口を塞いで資金を注入しているような事で破裂でもしたら目も当てられない事態になりかねない事が想定できる。
いくら「お金」を供給しても市場に「お金」が流れるようにしない限り、効果は限定的となり、弊害ばかりが生じてしまう。

総資本を拡大させる政策をとらない限り、総所得の上昇は見込めない。しかし、総資本を拡大させる政策は金利の上昇を前提とせざるを得ない。
いずれにしてもリスクをとらざるを得ない。
総資産の上昇がなければ総所得の上昇は望めない。ただ資産価値が上昇すればいいというわけではない。資産価値が上昇するだけでは社会的効用が増すわけではないからである。
生産手段に結びついて付加価値を生み出さない限り社会的効用は増えないのである。
その意味では内部資金を取り崩しているだけでは経済の発展は期待できないのである。

内部資金から資金調達をするという事は、蓄えを取り崩すという事を意味している。
それは、預金を取り崩して生活費に充てたり、年金を頼って生活する事に等しい。

財務キャッシュフローは長期金融機関借入金(当期末資金需給)と短期金融機関借入金(当期末資金需給)、社債(当期末資金需給)、資本金(当期末資金需給)の和を用いている。


企業法人統計 財務省

1991年にバブルが崩壊すると急速に財務キャッシュフローは減少し、1993年にはマイナスまで落ち込んでいる。


高齢化社会になると



高齢化社会が社会問題になりつつある。
高齢化社会で何が問題なのかというと不労所得者が増えるという事である。
つまり、自力で自分が生きていくために、必要な収入を獲得できない人口の全人口に占める割合が、拡大する事が深刻なのである。

財務の観点からすると一番の問題は、年金、医療、介護問題である。
高齢者問題に関してに錯覚している人が多い。高齢者問題は、高齢者をどの様に位置づけるか根本的なのであるが、一般に高齢者は仕事の第一線から引き下がり、どちらかと言うと非生産的で介護や消費の対象だと決めつけている点である。もう一つは、年金や医療、介護にかかる費用は、財政が負担するという前提に立っている事である。

しかし、高齢者問題は、行政だけの問題ではない。年金や医療保険だって民営化する事は可能である。また、高齢者の面倒を見てきたのは、家族である。高齢者問題は、社会全体で取り組むべき問題なのである。

この点は、国家の働きとは何か、家族の働きとは何か、企業の働きとは何かという根本的議論抜きには対策が立てられないもんだなはずなのである。
かつては、高齢者の世話を見るのは、家族であり。高齢者問題の中心は、倫理観や家族関係に求められていた。それが今日では、高齢者の世話は、専ら、財政に求められ制度や設備の問題に変質してきた。しかし、この点については、誰も深刻に受け止めようとしていない。
その陰で逆に家族関係が問題が置き去りになり、孤独死、独居老人、介護疲れ等が深刻化している。
高齢者とどう向き合い、高齢者に対してこれから社会は何を期待するのか。それを忘れてしまうから高齢者は、社会にとって厄介者でしかないような扱いになる。
高齢者問題の本質は、国家理念であり。それを無理やり経済や財政の問題に押し込もうとしているところに根本的原因がある。
その為に、高齢者問題は、いつの間にか制度や設備の話に堕してしまっている。

高齢者一部門が担う問題ではなく、全ての部門が各々の立場から協力して行うべき事なのである。財務とは、本来、足らない部分を補いあうことなのである。だからこそ、高齢者問題において金融が果たす働きは大きく。財務が取り組まなければならない問題なのである。

2007年(平成19年)から2009年(平成21年)にかけて、200万人以上と年齢人口の多い団塊の世代のサラリーマンが一斉に定年退職を迎えた。

現代のサラリーマンは、定年退職を迎えると基本的に半強制的に労働から離れる。
かつては、人は、基本的に死ぬまで働けるものという想定の上に人生設計をしてきた。
しかし、今日のように資本主義経済が定着をし、ほとんどの人、自営業者も含め賃金労働者になるとサラリーマンの再就職の先は限られてくる。
そうなると彼らは、生産活動から遠ざけられて年金生活に追い遣る事になる。
同時に、医療、介護の費用が増大する。高齢者は、収入の頭を押さえられているうえに、支出が上昇するのである。
また、核家族化は、制度的にも家計を世代間で独立させてしまった。さらに将来は、男女も個々独立した会計、さらに個別化されていく傾向が高まることが予測される。そうなると高齢者は、自分の蓄えと年金の範囲内でしか生活ができなくなる。

収入が増えない上に蓄えを取り崩していく世代が確実に増加する。それは、総所得の拡大を抑制し、貯蓄の残高を減少させる事になる。それでいて確実に支出は増えていく。その負担は、次の世代に重くのしかかる事となる。社会全体が逼塞していく事は目に見えている。

高齢化社会になると多くの高齢者は、年金、預金を取り崩して生活する事になる。
年金預金を取り崩して生活費に充てている限り所得は増えない。現在のままでは高齢化社会では総所得は増えないのである。高齢者が自分たちの経験を生かして適度な仕事ができる社会にしないと総所得は増えない。
これは、民間企業が内部留保を取り崩して資金を調達しているのも同じである。

預金を取り崩して生活するのも、年金だけで生活するのも資金の移動に過ぎない。資金が移動するだけでは付加価値は生まれない。年金をもらって生活したり、預金を取りくずして生活しただけでは付加価値は生まれないのである。
付加価値は生産活動によって生まれる。生産活動が消費活動に結びつく事によって社会全体の効用は増える。資金移動だけでは、単に消費が増えるだけである。

年金のみでなく、社会保険制度も総所得を増やさない。補助金も然りである。
しかし、本当に高齢化は、非生産的な事であろうか。
高齢化が進めば進むほど高齢者が生産的な分野で活躍できる環境を整備する事が求められるのである。

高齢者問題とは、経済の問題ではなく国家の問題、建国の理念なのである。どの様な国を目指しているのかと言う理念なくして高齢化対策は語れない。単に、制度や設備の問題ではない。国民一人ひとりの人生の課題なのである。それだけ重い問題である。

気が付いてみれば、晩年になって他の人の助けが必要となった時、誰も面倒を見てくれる人がいない。そんな時代になりつつある。財務は手段であり、それ自体が目的になる事はない。財務が目的と化した時、物事の本質は失われるのである。

表に現れない資金の動き



問題は、表に現れてこない、資金の動きである。

財務というのは、言い換えれば資金繰りの流れである。
期間損益主義において、一番問題なのは、財務による資金の流れが捕捉できない点にある。
損益上は順調に機能しているように見えても、財務に齟齬が生じると経済は破綻してしまう。

では、資金繰りと何か。資金繰りは、日々の資金の過不足を補う行為である。そして、実質的に経営主体を動かしている。資金繰りというと企業会計のみに限定的な行為だと錯覚する人が多くいるが、現実には、家計も財政も日々資金繰りに追われているのが実体である。
給料日前にお金を使い果たして親からお金を借りてくるか、それとも貯金を取り崩すか、これも歴とした資金繰りであり、安易に高利貸しから金を借りたりすると人生を破滅させてしまうことだってある。
国家もしかりである。財政問題の本質は資金繰りなのである。
だから、資金繰りの流れが重要となる。

ところがこの資金繰りの流れは、会計の表面にはなかなか現れてこない。
なぜなら、資金繰りの流れの主筋を作っている借入金の返済が会計上、計上されないからである。

会計上、捕捉しきれない資金の流れが経済に与える影響が問題なのである。
特に、所得と借金の関係が鍵を握っている。

資産を購入したり、また、会社買収しようとした時、その経済的価値を測定する必要がある。
経済的価値を測定する考え方には、基本的に原価法、取引事例比較法、収益還元法の三つがある。
三つの手法は、それぞれ、原価法は原価計算に、取引事例比較法はマーケッティングに、収益還元法は、キャッシュフローに基づいているといえる。
これは、象徴的な事である。

現在、収益還元法が多く用いられるようになってきた。原価法に基づいても原価というのは生産者の都合であり、必ずしも消費者の欲求を反映してものではない。また、一般に取引事例比較法は、多くの場面で使われているが、たとえばバブルが発生したような場合必ずしも経済の実体を反映した価格とはいいきれないばあいがある。
資産を購入、働きは資産が生み出すキャッシュフローに還元するのが妥当だといえる。そういう意味もあって収益還元法が重視されるようになってきたのである。

新築の家を建てる資金をの全てを預金でまかなう事を想定する。
二、三十年かけてこつこつとお金を貯めて全額手持ち資金で家を買った場合がいい例である。第一に、借金して、家を建てた場合は、すぐに家を利用する事が可能だが、お金をが貯まってから家を買ったらお金が貯まるまでの間は、家を活用する事はできない。
また、一見、金利分を得をしたように見えるが、
お金が貯まるまでの間の物価の上昇分も家の価格に上乗せされている。物価と金利は基本的には連動しているから、金利の分得をしたとは言い切れない。さらに、金が貯まるまでの間、家賃もかかる。また、せっかく家を建てても、人間には寿命がある。家を活用する時間が短い事になる。
重要なのは、家の資産価値である。新築の家は、確かに資産価値が大きいが、土地だけに関して言えば、借金をした家を買った場合は、地価の値上がり分が加算されるが、金を貯めて家を買った場合は、地価の値上がり分が加算されない。
借家が得なのは、デフレが予測されていて、地価が下落している時だけである。
なぜ、それでも賃貸住まいをするのか。それは月々の支払いが相対的に家を借りた場合の方が安いからである。

それでは、なぜ、家賃が月々の返済額より安いのか。
地主が、自前の土地の上に家を建てていたから地代に相当する分を安くできた事に起因する。


負債は、直接的には損益に影響しない。



借入金の元本は、固定的であり、負債勘定である為に、会計上、表面には現れない。損益には直接影響を与えないのである。しかし、キャッシュフローでは重大な影響を与える。金利は、変動的であり、表面に表れ、損益に直接関わってくる。
借金の構造が景気の変動に深く関わっているのである。

収益は、費用に対応し、負債は、資産に対応する。
収益と負債の均衡を保ちつつ、資産形成や経費を効率的に活用する事が肝要なのである。
これは家計も企業も財政も同じである。

収入は、所得と借入金の和である。
借金も収入の一種である。その点が、収益と収入の差にもなる。
収益には、借入金は含まれない。
収益に借金は、含まれないから借金の返済金も費用には計上されない。
故に、貸し借りによる資金の流れは捕捉が難しくなるのである。

ミンスキーは、金融には、ヘッジ金融、投機的金融、ポンジー金融がある。借入金は、元本部分と金利部分に別れている。ヘッジ金融は、所得で金利と元本の返済ができるものを言う。投機的金融は、金利部分だけ所得で支払う事は可能だが、元本部分は、返済する事ができず借り換えに頼らなければならないものを言う。ポンジー金融は、金利も元本も返済する事ができずに、資産の売却益による以外に清算手段がない。

会計上、負債の元本の部分が表面に現れてこない。それが、経済を不安定にする要因ともなっている。

金利は、損益に影響を及ぼすが元本は、損益に影響を与えない。しかし、元本は、貸借やキャッシュフローに決定的な影響を与える。いずれにしても会計上の表面には現れてこない。

また、会計上表面に現れてこない事の一つに未実現損益がある。しかし、この未実現損益は資金調達上重要な働きをしている。この未実現利益の働きを見ないで資金の動きを予測する事はできない。なぜならば、未実現利益は、含み損益の素でもあるからである。含み損益は、担保力にも影響する。

資金の調達と運用にかかわる部分



財務の基礎は、資金運用だと考える事もできる。
資金をどこからどの様に調達し、何に対してどの様に運用するか、その点を理解しないと財務の正しい働きを理解する事が出来ない。
財政が赤字だから、景気か悪いから資金を運用するのではないし、本業で儲からないから財務で儲けるのでもなく、生計が立たないから消費者金融から「お金」を借りると言う考え方は、財務の働きを見失わせてしまう危険性が高い。借金で借金の返済に充てていたら、負債は、雪だるま式に膨れ上がり、収拾がつかなくなる。

財務と言うのは、収支を平準化する事で、企業経営では、利益によって測られる。利益は、速度計、高度計、燃料計みたいなものである。

財務の本質は、現金収支を平準化させる事である。なぜ、資金不足が派生するのか。現金収支を考える場合、収入と支出は、一致した動きをするのではなく、各々、独立した固有の動きをするという点である。収入は、収入独自の動きをし、支出は、支出固有の事情で動いている。支出は、必ずしも収入に従属した動きをするわけではなく。支出に合わせて収入が定まるわけではない。
そして、支出には、明確な原因があるのに対して、収入の動きの要因は、はっきりしていない場合が多い。また、支出は、固定的で、一定なものが多いのに対して、収入は、不確実で、不安定なものが多い。
何故ならば、支出は、消費量に制約されも収入は、生産量に左右されるからである。
また、消費にも生産にも固有な波がある。消費の波は、生活に依拠しているのに対して生産の波は、生産手段に依拠している。
この様な生産と消費のズレは、時間的、空間的なズレを生じさせる。

個々の経済主体は、各々働きに応じ、経済取引の過程を通じてズレを修正するように働く。また、働くような仕組みを構築する必要がある。このズレを修正する行為が財務である。

収入は、本来、不確実、不安定な変動をする。消費は、周期的、規則的な変化を基礎としている。一人の一日の食料の消費量は、有限であり、一定の幅を持っている。衣服は、一定の季節変動がある。エネルギーの消費量にも季節性がある。
それに対してお米の収穫量は、天候に左右されるうえ、地域によって収穫量に差が出る。味も天候や産地によって違う。また、機械化や品種など生産手段や技術によっても単位当たり収穫量は違ってくる。また、収穫時期も決まっていて、収穫されたお米は、倉庫に貯蔵され必要に応じて出荷される。この様な違いは、当然、収益、所得を不確実、不安定なものにする。

収益や、収入による不確実性や波を一定の所得に整流するのが生産機関である。故に、生産段階の、財務の働き、経常的活動で生じる生産と分配のズレを是正する事にある。

また、このような経常的な資金のズレ以外に、投資に基づく長期的な資金のズレが生じる。この時間的なズレを調整するのも財務の働きである。
長期的な資金の働には、初期投資に基づく働き、再投資、保守修繕から生じる資金の働き、そして、会計上の働きがある。
会計上の働きと言うのは、損益上、貸借資本取引の動きは、計上されない事から資金の働きと現実の損益の働きに不整合が生じることを意味する。

財務キャッシュフローというのは、有り体に言えば資金繰りの部分を言う。
資金繰りを理解する為には、金融を理解しなければならない。特に財務の部分は、会計の表面に現れてこない部分だけに十分に注意する必要がある。
俗に、黒字倒産がなぜ起こるのか。それを知る為には財務キャッシュフローを理解する必要がある。

資金繰りは、資金の需給状況によって定まる。

資金の需給関係は、資金調達と資金の運用状況によって関係によって決まる。
資金調達は、外部調達と内部調達からなる。

財務キャッシュフローは、この資金の調達と運用に係わる部分を言う。

外部資金の調達手段には、資本的手段と金融的手段がある。
資本的手段は、増資があり、金融的手段には、社債と長期借入、短期借入がある。
外部資金は、基本的には外部から資金を調達する事で、外部から影響を受ける事になり、経営主体の安定さは欠くきらいがある。しかし、経営主体を拡大、成長させる為には有効な手段であり、経済を活性化させる。
資本的手段と金融的手段の違いは、資本的手段は、返済義務を負わず。また、金利負担もない。反面に、利益の取り分に対する請求権と経営に対する発言権、経営者の選任権が与えられる。

故に、資本的手段と金融的手段の違いは、返済義務と金利負担の有無にある。

内部調達資金



内部調達は内部留保と減価償却費からなる。内部留保は、利益留保、引当金、特別法上の準備金、その他の負債(未払金等)の期中の増減額の集計したものを言う。利益留保は、その他の資本剰余金、利益剰余金、その他(土地の再評価差額金、金融商品に係わる時価評価差額金等)、自己株式の年度の増減額を言う。
資金需要は、固定資産投資と運転資金からなる。
資金調達に対して資金需要の過不足は、資金運用によって補われる。

資本というのは、資金の源である。つまり、内部調達資金の源となるのが資金的観点から資本である。資金的な資本を構成するのは、実質的内部留保と減価償却である。

資金とは、貨幣的資源をいう。
資本は、収入の不足時に対応する為に資金の源泉を蓄えた物である。ただし、必ずしも現金で蓄えているわけではない。現金が必要な時にどれくらいの速度で換金することが可能かを流動性という。すなわち、資源の換金可能の程度によって流動性ははかられる。

資本には、外部資本と内部資本がある。
内部資本は、払い込み株式と内部留保からなる。ただし資金の源泉としては、減価償却費も含まれる。


企業法人統計

バブルが崩壊すると外部資金調達から、内部資金調達へと資金の流れが変わった。
それは、単に企業が外部から資金を調達しなくなったというより、調達できなくなったという方が正しい。
これは、市場の問題と言うより政策の問題である。


法人企業統計


内部資金の動きを見ると減価償却費が一定の動きをしているのに対して内部留保が大きく変動しているのが読み取れる。特にリーマンショックの際は、内部留保が大きく減少している。




内部留保とは何か。



内部留保というと何か利益を貯め込んでいるように聞こえる。
また、内部留保に対して為政者や経済学者、政治家といった専門家でもすら利益を貯め込んでいると誤解している人が多くいる。著名な大学教授の中にもこの様な誤解をしている者がいる。大学で講義しているくらいならば実害はないが彼等が政策に影響を及ぼすと無知という事では済まされない。国家にとって深刻な災難をもたらす事になる。
そういう人達から、内部留保があるのだから、投資をしたらどうとか、課税をしたらどうかといった見当違いの意見が出る。
見当違いなだけならいいがそれを実行しようとする風潮までで来る。間違った認識でそんな見当違いな政策が実行された、無用に経済を混乱させる事となる。

この様誤解が生じるのは、複式簿記の原則を知らないからである。この事は、複式簿記が理解できない者は、現在の経済の実体を理解出来ない。経済の実体を知るためには、簿記の初歩的な知識は、不可欠である。

内部留保とは何か。
内部留保にも名目的な部分と実質的な側面がある。
実質的な部分は、資金を調達する時の根拠となる部分でもある。ただ、実質的な部分は、会計上、表に出てこない。
それが経済の変動をわかりにくくしている。
しかし、実質的な部分がブラスか、マイナスになるかによって資金調達力は変わってくる。要するに、実質的な部分は、含み損益となって資金の流れる方向に影響する。表面に表れた名目的な部分ばかり見て、内部留保の実質的な変化を見ないと経済の実体を解明する事は難しい。

名目的な部分は、利益を根拠とする部分と資本を根拠する部分から成る。
利益を根拠するとか、資本を基とすると言っても、実際的に明確な区分がされているわけではない。ただ便宜的に読み分けているにすぎにない。それでも、内部留保の性格や働きを知る上では参考になる。
純資産は、資本金、資本剰余金、利益剰余金、自己株式、新株申込金、自己株式申込金からなる。内部留保は、狭い意味では、利益準備基本言う。つまり、内部留保と言うのは、名目的には、過去の利益を蓄積した部分と言える。

なぜ、企業は内部留保を蓄積する必要があるのか。よく内部留保は、無駄に蓄積しているのだか、税金をかけて社会に還元するか株主に配当として還元すべきだという意見が聞かれる。しかし、企業は、意味もなく内部留保を積み上げているわけではない。内部留保を積むのは余計な資金流失を防ぐという意味がある。なぜ、資金流失を防ぐのかと言うと一つは、再投資のための資金を準備する。もう一つは、借入金を返済して支払金利を減らす。更に、企業を取り囲む環境や状況が変化した時に備える。また、非償却資産に対する負債の返済資金を担保する。新規投資のための資金源とする。清算時の支払準備などの理由がある。
つまり資金繰りを柔軟にできるようにするという効用を期待して内部留保を積んでいると感がるのが妥当なのである。
だからこそ、内部留保を裏付けている資産価値がバブル崩壊によって下落した事で、企業の投資活動が抑制されたのである。

金利が高いから投資が抑制されたわけではない。だから、いくら金利を下げても資金需要は高まらないのである。

内部留保というのは、基本的に名目勘定であり、差額勘定である。
会計上の内部留保は、利益剰余金を言う。会計上の内部留保は公表された、名目的、額面上の内部留保を指す。

実質的な内部留保というのは、実質的な内的資金源、たとえば含み損益等を言う。

資本金に対し、何らかの資金的な実体があるような誤解があるがこれも同様である。

内部留保とか、資本というのは、資金の調達手段を言っているので資金そのものを言っているわけではない。

まず第一に、厳密にいうと内部留保という勘定科目はない。内部留保というのは、純利益から役員賞与とか、配当金とか、法人税等の社外流出分を除いた残りを言う。

親から頭金を出してもらって残りをローンで家を買った場合、その頭金の部分を資本というのである。
負債とか資本とかいうのは、お金の出どころを指すのであり、借りた金か、もらった金か、稼いだ金かの違いを表しているのである。
内部留保というのは、自分で稼いだ金を基にしているという意味である。もらった金に税をかけるというのなら意味がわかるが、稼いだ金は、稼いだ時点で税金が課せられているのである。
また、親からもらった金があるだろうと言われても、その金を頭金にして家を買ってしまったのだから、手元に現金があるわけではない。

また、フローとストックの意味も取り違えている。手元に現金があっても、それを投資や賃金として支払えば費用が発生し、ただでさえ赤字な時は、赤字幅を広げるだけなのである。

複式簿記では、現金は資産として計上され、その資産を手に入れるための調達資金を負債、資本、収益として対極に表すのが複式簿記なのである。つまり、資金の調達と資金の運用を併記するのが複式簿記の決まりである。

150万円の自動車を自分の預金から50万円を取り崩して後ローンで支払うとして自分が出したお金50万円は、返す必要がないので、そのまま記載し、後のローンは、返済した分だけ減っていくという事を意味しているのである。そして、返済分は、自分の稼ぎの中から生活費を引いた残りで支払う事になる。つまり、内部留保の中には、借金の返済部分が含まれている事を忘れてはならない。ところが、会計上、この借金の返済部分は計上されない。借金の返済の源資は、内部留保と減価償却費なのである。この内部留保と減価償却費が内部資金を構成している。

負債の減少と内部留保の減少は、対極にある資産の減少を伴っている。

資金運用は、貯蓄の活用と金融資産の活用がある。貯蓄の活用は、現金・預金と有価証券、その他の活用からなる。有価証券には、一時保有の物と長期的、固定的な物からなる。その他は、長期貸付金と投資不動産等からなる。

資金繰りの基礎は、経常的現金収支である。経常的な資金の流れから生じる資金需給の関係を資金繰りは陰で支えているのである。
その上に長期資金の収支の流れがある。


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営業の資金の流れは運転資金に表れる。
投資の流れは、固定資産への投資とその償却として表れる。資本は、増資や借入金として調達され、利益に蓄えられる。蓄えられた余剰資金は、設備投資、即ち固定資産以外の物に運用される。

営業キャシュフローが不足し出すと短期借入によって不足分を補おうとする。それでも足りないと長期借入金を営業キャッシュフローの不足分に補填する事になる。現代の日本の経済がこれに相当する。将来の収入を当てにするのではなく、借入によって資金を回そうとすれば際限なく負債は増大していく。故に、金融機関は、借金の使い道に神経質なになるのである。
問題は、財政である。財政を監視するの国民である。税金の使い道を誤ると税金は、当てもなく流出する事になる。

運転資本は、流動負債と流動資産の関係を意味し、更に、細かく見ると売上債権と仕入れ債務の部分と在庫の部分からなる。そして、どちらの部分も基本的に時間価値が関係する。時間価値が関係していながら、無利子債権、債務でもある。
売上債権と仕入れ債務との関係は、どちらが大きいかと言う事が重要な意味を持つ。

産業構造や経営方針によって売上債権と仕入れ債務の大きさには差が生じる為、必ずしも、仕入れ債務が多い方が安全とは言い切れないが、運転資金は、ある程度ゆとりがある萌芽資金繰りは楽である。

突発的、一時的な事象による現金収支が重要な働きをする。その為に、一定の流動性を保つ必要がある。
この一時的、突発的事象が資金繰りの土台を切り崩してしまうことがあるから十分注意しておかなければならない。
資金運用の巧拙は、本業に重大な影響を与える。
余剰資金の運用部分にこそ、その主体の政策や思想、信条、行動規範がよく現れてくるのである。
企業は、一定の利益を継続的に上げる事が義務付けられている。赤字が続くと資金調達に支障をきたすからである。
収入や収益は一定しておらず変動な事、不確かな事である。それに対して支出、費用は固定的な部分、確定した部分があり下方硬直的である。
それ故に収支は一定しておらず、それを緩和する働きをさせる為に期間損益が導入された。現金収支よりも期間損益の方が時間的に平準化されたとはいえ、不安定である事に変わりはない。その不安定な部分を補っているのが資金運用の部分なのである。


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見かけ上の内部留保がよくみえるのは、縮小均衡しているからである。
収益が横ばいか低下している時に利益が上がるのは、費用を削減しているからである。
費用の削減は、市場全体では所得を減少させる。

資金繰りがつかないから潰れるのである。



企業は、赤字だから倒産するのではない。借金の返済期日を守れないから倒産するのである。
借金の返済か1分でも遅れれば、企業は、債務不履行と見なされ、取引停止の処分を受ける。
逆に言えば、借金がなければ企業は倒産する事はない。
では、借金をすることは間違いなのか。
それは短絡的である。市場経済を構成する取引の根本要素は、売り買いと貸し借りしかない。
売り買いだけでは、貨幣を土台とした市場取引は成り立たないのである。
貸し借りは、借金を意味する。

財務キャッシュフローは、1978年に谷があり、1979年には、一旦持ち直してはいるが、その後横ばい状態だったのが、1985年のプラザ合意後急速に上昇し、1990年にピークを向かえた後、急落している。1998年~2000年前後、一時、負の値になるなど落ち込んだ後、乱高下を繰り返す荒っぽい展開が続いている。

戦後は、家計が金融は機関に貯蓄した余剰資金を資金不足の民間企業が借りて事業に投資するという図式が成り立っていた。その図式が、1995年を境に根底が変わった。民間企業が資金余剰のグループに加わり、その分、財政が赤字となったのである。
財政赤字を問題とする時、財政だけを見ていたら本質は見抜けない。財政は、財政単独で存在するのではなく。家計や民間企業との関連を良く吟味する必要がある。

財政は、家計や民間企業の働きとの関係の延長線上にある。背後の環境を無視しては財政は語れない。
財政、家計、民間企業、経常収支はゼロ和関係にあり、全ての経済主体を黒字にも赤字にもできない。

何処を黒字にし、何処を赤字にするかは、経済戦略の一環として考えなければならない。

借金とは、将来の収入を担保して資金を先取りする取引である。担保するものとして、資産、及び、将来の所得、利益等である。
借入金の返済は、収入の中からか、担保している資産を売却して清算する。
彼に予め定められた約定が履行できない場合は、担保している資産の所有権は、貸し手側に転移する。
即ち、予定した収入が継続的に確保されているか、資産価値は安定しているかが借金の価値を定める。
故に、資産価値の上昇を伴うインフレーションは、担保力を上昇させることで借り手側の資金の調達力を高め、資金繰りを楽にする。

借金は、借り手側からすると前受金であり、繰延金である。貸し手側からすると前渡し金である。
借金は、金利が働く分、通常では値上げになり、値下げにはならない。故に、所得の増加には結びつかずに、可処分所得を減少させる。

借金は、元本と金利の部分からなる。費用となるのは、金利の部分に限られ元本の部分は損益勘定に計上することはできない。

元本は、表面ではなく水面下で働いていることを見落としてはならない。

家計、即ち、現金主義に基づくと金利と元本の区別はなく、収入から差し引かれる。それに対して、期間損益では、金利は費用となり、収益の中から返済する。元本部分は、原則として内部留保と減価償却費によって工面するが正式には、会計上、計上されない。
期間損益状は、元本の返済は、減価償却費と税引き後利益の利益処分で充当するが、税引き後利益には、借入金の返済という科目はない。また、土地のように非減価償却資産もある。その為に、収益によって賄えない部分に関しては、資産の上昇分を担保として借り換えによって対応し、資産の最終処分によって清算することを前提としている。

この事は、収入や所得、収益が減少し、金利部分が返済できなくなるとつなぎ資金が必要となる事を意味している。
損益取引の時間差によって生じるつなぎ資金を運転資金という。

収入、収益が減ると借入金の返済が滞る事になる。又、資産価値が減少するとつなぎ資金の調達も困難になる。

経済主体の資金の調達力は、収益力か、資産の上昇力によって定まる。

資金が不足する原因


資金不足は、単に、収益が悪いという理由だけで起こるわけではない。

資金不足を起こす原因は、第一に、収益の悪化がある。第二に、逆に急激に売り上げが伸びた時にも起こる。第三に、投資による資金不足である。第四に、市場や企業が成長段階にある場合も資金不足は起こる。第五に、収益が何らかの周期性、例えば季節変動がある場合、つなぎ資金が必要となる。第六に、為替の変動や原油価格や原材料など外部環境の急激な変化。第七に、自己や災害などの一時的な出費等がある。
これは単に一企業の問題ではなく。経済全般や個々の産業にも言える。為政者や金融機関は、産業や市場の特性を見ながら資金需給を測る必要がある。

収益が悪化してくると当たり前に資金繰りが難しくなってくる。この様な場合、何が原因で収益が悪化しているのかを見極める必要がある。収益が悪化している原因が為替の変動や原材料の高騰、市場の縮小、過当競争等のような外的要因によるのか。過剰投資や安売りといった内部の要因によるのか。また、一過性の要因か持続的な要因が出とるべき対策は違ってくる。中には、一企業や一産業の力では回復する事ができない要因や構造不況業種のような構造的要因によるものもある。

業績が悪化しているだけでなく。売り上げが急速に伸びた時にも、運転資金不足を引き起こす事がある。この様な場合は、営業利益は、上がっているのに、営業キャッシュフローが悪化している場合がある。この様な事も一企業だけでなく。産業全体が陥る事がある。

また、投資をするときは、資金不足に陥る。それが過剰であるか否かは、一定の期間たたないと判明しない。減価償却費と長期借入金の返済との均衡を見ないと一概に評価できないが、長期借入金の返済は表に現れず、利益には反映されない。また、減価償却費は恣意性があるために、過剰投資による資金不足はなかなか表面に現れてこない。

第四の成長期における資金不足は、売り上げが急伸した時に起こる資金不足同様の要因による。支払資金が準備できないと黒字倒産という事態も引き起こされる。また、売上債権や在庫の動向をよく見る必要がある。

季節変動による資金不足は文字通り、収益に波があり、収益が谷間に陥った時に、発生するつなぎ資金である。

経済は、「お金」で動いている。収益が上がるような環境仕組みを作るのは、行政の役割であり、資金の過不足発調整するのは金融機関の働きである。行政や金融機関がこの道理を忘れると途端に経済は円滑に動かなくなる。

また、資金の調達手段は、収益、資本、借入金がある。しかし、経営の継続性を考えた場合、収入に基づく資金調達ができるように図るべきなのである。

企業経営というのは単純に金儲けにあるわけではなく。一企業や一産業の力だけでは、持続的に利益を上げる事は難しいのである。

 



近代は、借金から始まる



近代経済は、借金から始まっている。なぜならば、借金が「お金」の元だからである。
紙幣は、政府が借金をして、それを担保にして中央銀行が発券する。いわば融通手形のようなものである。
だから、政府と中央銀行双方に規律が求められる。また、中央銀行に独立性が求められる所以である。
今日、貨幣の主たるものである紙幣は、政府が資金繰りに困った事に端を発する。いわば借用書の延長線上にある。
紙幣は、中央銀行では負債に計上される。

財政は、政府の資金調達、即ち、国家財務が源である。
現代でも財政の本質は、資金調達にある。政府が借金をするのが悪いのではない。規律を失くすことが怖いのである。何故ならば、政府は、いくらでも名目的な借金をする事が可能だからである。

家計も企業もいくらでも借金ができるとなれば規律を失う。ただ、家計や企業は、所得を上回るほど返済しなければならないような借金はできない。しかし、政府は違う。だから規律を失えば抑制力がなくなる。

必要以上に「お金」が市場に出回れば貨幣価値は希薄になる。
「お金」は、人に生産財を分配する為の手段である。人に生産財を分配するのに必要な量だけであればいい。過剰に「お金」が出回る事は、物の経済的価値を不安定にしてしまうだけである。無論不足するのも困る。その加減が難しいのである。

現代人には、借金に対する錯覚がある。その第一が、借金を返さなければならないという思い込みである。第二に、借金に実体があるように思う事である。
借金に実体はない。借金は名目的なものである。
借金を何に使うのかが大切なのである。借金は、何に使うかによって実体をもつ。その実体がある限り、借金は必ずしも返す必要がない。しかし、借金を使った物に実体がなくなれば借金は働いて返さすしかない。
借金をすると金を手にする。「お金」を手にすると金持ちになった錯覚をする。そして、気が大きくなって虚しく使ってしまう。そうすると借金は、負荷となって重くのしかかり、返済圧力が強まるのである。
借金は実体をもたない、虚である。そのままで負の価値にしかならない。

「お金」は、無駄遣いをすれば無駄になる。
「お金」は、目的があって使われるものである。
景気対策と言う意味だけで財政を使うのは、危険である。景気対策にしても経済的目的、使用目的の明らかでない支出は、生産性がない。つまり、必要性がない。

「お金」はあるから使うのではない。必要だから使うのである。「お金」がいくらあっても必要でなければ「お金」は使うべきではない。必要な物や事があるから「お金」を使うのである。「お金」は使わなければ溜まる。
問題は、何を、いつ、なぜ、必要とするかである。そして、「お金」をどの様にして使うかである。
物も必要もないのにあったところで使ったりはしない。ところが現在の経済は、不必要に物や金を生産し、供給し続けている。

借金をすれば取り敢えず「お金」は回る。「お金」が回っている間は何とか事業は継続できる。だから資金繰りは、借金をする事だと思い込んでいる経営者が中に入る。
資金繰りとは、資金の調達から運用までの過程で資金の過不足を調整する事である。

借金は「お金」である。「お金」は何にでも化けると言われている。しかし、そこが曲者なのである。「お金」には、実体はない。
「お金」を手にすると人は変わる。何か特別な力を手にしたような錯覚に陥るからである。
しかし、借金は特別な事ではなく。虚しい事なのである。借金を実体のない事に使えば虚しくなる。


貨幣価値は虚構である。



1990年代後半、サラリーマン金融、バブル崩壊後は、消費者金融が社会問題化した。いずれも高利貸しの問題である。サラ金地獄なんて言う言葉も生まれ、夜逃げや自殺が相次ぎ映画化もされた。
サブプライム問題の背後にも金融の問題が隠されている。資産価値の値上がりを前提とし自転車操業のように借金を繰り返すのである。
時折社会を騒がす出資法違反も然りです。投資話に引っ掛けて実際は金だけ集め何の投資もしていない詐欺である。ただ、お金が回っているうちはこの様な詐欺も露見しない。
ネズミ講も然りである。なぜこんな事ができるのか。それは借金の持つ本質を理解していないからである。

借金を問題にする場合、借金だけを取り上げて問題とする場合が多い。しかし、借金は、借入金だけで成り立っているわけではない。借金を成り立たせている構図が重要なのである。

ただ、消費だけ、使う事だけを目的として「お金」を借りることは虚しく、自滅的行為である。それは強盗と同じ効果しかもたらさない。

借金が成り立つ為には、「お金」がなければならない。次に貸し手と借り手の存在である。その上で返済を保証する、担保する物である。
「お金」を借りる為には、返済を担保する物が必要となる。担保する物がなければ「お金」は借りられない。担保する物が成立する為には、私的所有権が確立されていなければならない。つまり、自分の物でしか担保する事はできない。返済の保証は他人がする事はできるが、その場合も保証した人が持つ物を担保する必要がある。
何らかの裏付けがなければ金は借りられない。
担保する事が可能な物は、将来の収入か、資産である。

借金は、支払い準備である。借金は、前受金でもある。本来の支払は後回しにされる。
借金はあくまでも借り物である。実体があれば返済はできるが、実体がなくなれば返済ができなくなる。

現在問題となっているのは、総所得が横ばいだと言う事である。
所得が横ばいだと過去の借金のツケが実質所得に重くのし掛かる。即ち、可処分所得を減らすのである。それは物価の上昇と同じ効果を所得にもたらす。

それ故に、所得が横ばいだと実質的可処分所得が所得に占める割合が低下する。

所得の上昇が物価の上昇を上回っている場合は、物価が上昇しても所得によって物価の上昇分を吸収することができる。お金の現在価値を低下させるから金利負担も軽減される。
資産価値が上昇している場合は、名目的価値である負債の実質的価値は下がる為、元本の

所得が上昇することで、負債の軽減を前提としていると所得が横ばいになると実質収入は減少するのである。
返済は軽減される。又、未実現利益も派生する。

貸し手側にとっても資産価値の上昇は逆鞘が派生しないかぎり悪い事ではない。なぜならば、貸し手側にとっても元本は、金融資産であり、裏返してみれば有利子負債だからである。

逆に資産が下降し始めると資産の担保価値が低下し、つなぎ資金の裏付けが失われ、マイナス投資が生じる。マイナス投資とは、資金の調達源を内部資金に求めることを意味し、経費の削減、主として人件費や雇用の削減、遊休資産の取り崩し、借入金の返済などを指す。

資金調達を多くの企業が内部に求めるようになると経済は、拡大均衡から縮小均衡へと向かう。




借金に鈍感になることが怖い



借金で怖いのは、借金に対する感覚が麻痺することである。そして、借金と実物が乖離する事にある。
借金と実物が乖離するとお金が勝手な動きをする。
借金の実体が失われれば虚しく「お金」が舞い上がる。

それは、国の借金も同じである。
国債は、国の借金である。
国の借金は、2016年6月末で1057兆円。
一般会計予算は、歳入は、96兆円うち収入は、59兆円、37円は、借金で穴埋めをしている。歳出は、ほぼ100兆円、うち24兆円が国債の債務償還費・利払いに消えている。

国家が他の経済主体と違うのは、国は、「お金」を生産することができると言う事である。しかし、借金の本質は、国家といえども変わりない。
借金を増やせば増やす程「お金」の価値は下がるのである。

借金をして得たお金を虚しい事に使えば借金しか残らない。その様な借金は、働いて返す以外に手はない。
借金というのは返さなければならないというのではなく。虚しい事なのである。
なぜ、借金をする必要があったのか。借金の目的を忘れたら借金は、抑制できなくなる。

少し余剰な「お金」があるから借金を返したいと思っても、相手は約定以上の「お金」を受け取ってくれない。負債というのはそういう事なのである。

財政生産や金融政策は、市場に資金が循環しないかぎり、効果を発揮することはできない。
市場に資金を循環させる為には、市場を経由して資金を供給する事が最も効果的な手段である。
公共投資は、拡大再生産に結びついているかぎり有効であるが、ただ需要を喚起する為にだけならば効果に限りがある。

借金というと借金の事ばかり考えてしまう。しかし、経済全体から見ると必ず反対の働きが働いている。すなわち、借りには貸しが、売りには買いがである。そして、全体としては、常に均衡するようにセットされている。

国の借金を問題にする場合は、必ず相手を考えなければならない。借り手が存在するという事は貸し手が存在するからである。そして、貸し手と借り手は、同じ運命を背負っている。借り手が返せなくなれば貸しても損をすることになるのである。だから、借金を問題にする場合は、貸し手は誰でどれくらい借りているのかが問題なのである。また、貸し手と借り手の関係も確認をしておく必要がある。つまり、国の借金を問題とするならば、誰から国は、どれくらい借金をしていて、貸し手と国とはどのような関係にあるのかを確認する必要があるのである。

金融機関では、預り金は借金であり、貸付金は資産である。他の経済主体、民間企業、一般政府、家計、海外部門と金融機関は鏡像関係にある。この事が重要で、金融機関と他の経済主体との関係によって通貨の流通は制御されているのである。
金がなくなれば借金をすればいいというのは、安易な考え方で、むやみに借金をすれば、全体との調和を失う危険性が高い。それがインフレーションやデフレーションの最大の原因となるのである。


財政は家政の延長線にある。


財政は、家政の延長線上にある。家政は、所得の範囲内で支出を抑えないと蓄えを取り崩すか、蓄えが底を尽きたら、どこからか借金をしなければ、生活が成り立たなくなる。

財政は、宮廷官房から発達している。官房というのは家政である。財政学は、家政学の延長線上にある。
家計と財政とは、根本的なところで結びついている。

そして、家計と財政の根源は、財務にある。
家計にせよ、財政にせよ基本は、いかにして資金を調達し、それをどの様に運用するかである。

そして、家計、財政、企業、海外部門の資金の過不足を足すとゼロになる事が原則なのである。

一般に、お金は、どれくらい手持ち資金があるか、どれくらいお金を持っているかが問題となる。しかし、実際は、いつどれくらいをどこからどの様に調達したか。それを何処に、どの程度、どの様に使ったか。つまり、運用したかが重要となるのである。
財政の根本も変わりはない。大体、財政は、家政の延長線上に発達してきたのである。

財政も家計も蓄えと消費が基礎になければならない。つまり、フローとストックである。なかでも蓄えの多寡がいざという時に重要になる。ところが現在の財政は、この蓄えを頭から否定している。それが財政の根本的な問題なのである。蓄えを持つ事が許されないから官僚は四苦八苦するのである。

自由経済の基幹は、収入と支出にある。収入の主たるものには、所得と借入がある。所得と借入以外には、贈与と徴収、給付があるがいずれも会計上は所得か借入に振り分ける事を原則としている。

収入は不確かで支出は確実に発生する。収入と支出の整合性をいかに保つかが、経済の最大の課題である。収入は不確かで波がある事を前提としたら、蓄えが必要となる。あたかも収入は確かで、安定しているかのように予算を組めば、資金に過不足が生じるのは、当然の理である。

今の財政に欠けているのは、財務的発想である。

家計でどの様にして収入を得て、それをどの様に活用するかを考えるように、いかにして資金を調達し、どの様に運用をすべきなのかを考えるのが財政なのである。
単に、資金調達を徴税と国債に頼っているから、資金不足をいつまでも解消できずに、資金が回らなくなるのである。

経済政策に過度に依存するのは危険である。
経済状態や環境が問題なのであるから、状況や環境作り出している仕組みや構造を変えなければ抜本的な解決にならないからである。

所得は、本来、不安定なものである。つまり、所得や収益、収入は不確かな事である。不確かな事というのはリスクがある事を意味する。
企業は、リスクを軽減するために、収入を収益に変換する事で平準化し、平準化した上で、賃金という形で定収入化する機関だと言える。
利益は、収益を平準化する為の目安、指標である。

経営主体とは、資金の流れの整流装置のような働きをしている事を忘れてはならない。ただ利益ばかりを追求しているとこの重要な働きが見えなくなる。資金の流れを整流する際、重要な働きをしているのが貸し借りなのである。
定収入化、安定した収入が一定期間保証される事によって借金の技術が発達し、信用制度が確立されたのである。

現代の経済は、借金の上に成り立っている事を忘れてはならない。
借金の裏側には、収入の平準化と安定化、一定化がある。




付加価値のない所得は、実質経済を向上させない



資金需給とキャッシュフローは相互に関連している。

経済的効用を生み出さないお金の流れは所得の拡大に結びつかない。貨幣経済では経済的効用はお金の流れによって生み出される。故に、貨幣経済は、供給される貨幣の量よりも経路に依存する。経済的効用は、貨幣の経路の長さと質、速度が問題となるのである。

経済的効用が所得を生み出すのは、経済的効用は、付加価値を意味するからである。所得の源泉は、付加価値である。資金の流れによってどのような価値が付加されるかが重要なのである。

注意しなければならないのは、金融商品の需要には、実体がない。故に、際限がなく制御が効かなくなる恐れがある。金融商品には物理的限界がないのである。

現代人は、生産物や環境は無限だと思い込んでいる節がある。
しかし、経済的効用には限界がある。限界があるから経済的な価値が生じる。無限にある物は経済的な価値が生じないのである。
人の寿命がある。日本人の平均寿命は、昭和三十年の時点で男が63.6、女が、67.75歳である。それが平成25年には、男80.21歳、女86.61歳、実に20歳近く寿命が延びているのである。それによって必然的に生活も変わってきている。ただ、死という現実から逃れられたわけではない。人間の一生には限界があるのである。
人間の寿命に限界がある以上、人間が一生の内に所有できる物も有限である。そして、その限界が価値を生み出すのである。
市場にも物理的な限界があり、その制約こそが市場を機能させているのである。
市場が物理的に飽和状態になると市場の状態は貨幣の流量に左右される。

エネルギーを例に考えてみる。
石油が本格的に使われ出したのは、1859年、ドレークが油田を掘り当ててからだ。江戸時代には、電気はこんなに発達していなかった。ガスもなかった。せいぜい言って薪と炭、石炭である。エネルギーと言っても水力や風力ぐらいしか知られていない。昔はいたってシンプルだったのである。
石油や電気が活用されていないのだから、当然、自動車も飛行機も電化製品もない。それが百年足らずの間に、世界を席巻したのである。必然的に自動車や飛行機、電気製品に関連した産業も勃興する。
私が生まれた頃は、電気冷蔵庫も洗濯機もない。テレビもない。それが瞬く間に電気冷蔵庫、掃除機は家庭の中に入り込み、テレビは白黒から、カラー、そしてデジタルへと目まぐるしく変化した。
これらの発展には、経済的効用が伴う。故に、総所得の増加には寄与したのである。

高度成長の限界


現代経済は、成長を前提として成り立っている。では、何が成長を促す原動力なのか。
所得の拡大なのか。市場の拡大なのか。いずれにしても成長何らかの拡大を基礎としている。現代経済の問題は何らかの拡大が望めない事にある。経済成長は、市場規模の拡大と部門の所得、収益によって決まる。

各部門の収益と配分によって資金の過不足は定まる。故に、資金の流れる方向は、各部門の配分によって決まる。
市場の規模は、産出によって決まる。故に、実質的所得の増減は、産出によって決まる。産出は、数量と価格によって決まる。数量は、生産量によって決まり価格は、通貨量と人口によって決まる。
所得の増減は、市場の変化と人口によって決まる。

財務の役割は、長期、短期資金の整合性を保つ事である。期間損益が単位期間の利益を中心とするのは、単位期間における収益と費用を調整する事で、長期的均衡を実現する事を期待しているからである。
調達した資金の回収は単位期間の収益を基礎とする。それが期間損益の原則である。利益が維持される事で長期的資金との整合性が保てると考えるのである。

借りた「お金」は、儲けて「お金」で返す。問題は、稼いだ「お金」で借金が返せなくなった時が問題なのである。稼いだ「お金」で借金が返せなくなったからと言って借金を重ねっていたら経済が破綻するのは目に見えている。かといって一か八かの博打をするのでは、本末転倒である。

高度成長期に発達してきた産業がある一方で伝統的な産業、仕事や分野の多くが消えていったのである。
高度成長が終焉し、本業で儲けられなくなった時、財テクが流行り、資金を運用する事で本業で儲からなくなった部分を補おうとした。それがバブルを発生させた要因の一つである。バブルが崩壊するとバブルに踊った多くの企業が淘汰され、あるいは、後遺症に苦しんでいる。財務の本質を見失った報いである。
バブルに踊った企業は、財務から報復されたのである。

高度成長期は、新しい効用が生まれ続けていたのである。生産性の向上に結びついしていた市場は黙っていても成長した。
しかし、市場が飽和状態になると市場は新たな付加価値を生み出せなくなる。市場が成熟すると実質的な所得は一定となり、総所得は横ばいになる。そうなると名目的な所得によって市場の状態は定まるように変質する。量的拡大は質的変化をもたらす。

今日、エネルギー市場は、飽和状態にある。そうするとエネルギー市場に流れ込む資金の量によって価格は、エネルギーの効用に関係なく乱高下する事になる。

2000年に価値が付加が生み出せなくなり内部に資金調達を求めるようになった。それが日本経済の構造を根底から覆したのである。

一国の経済にも、企業にも、産業、家計にも草創、成長、成熟、衰退期がある。各々の段階に応じた財務のやり方がある。
高度成長期は、市場の拡大、成長を経済を動かす原動力としる事で成り立つ。しかし、市場の拡大や成長が限界に達し、停滞、更に、縮小へと向かったら市場や経済主体を動かす原動力を失う事になる。
市場が縮小しはじめたら、成長期と同じ事をしていたら駄目なのである。

問題は、いかにして付加価値を踏み出し、それを維持するかにある。拡大成長から成熟期へと市場が変換したら、量から質への転換を促す必要がある。量から質への転換を促すための財務が求められるのである。
量から質への変換は、必然的に投資の在り方を変える。より基礎的、大局な投資が求められるからである。本業が儲からなくなったからと言って目先の利益を追った投資を繰り返せば資金が続かなくなるのは目に見えている。
経済の質的効率を高める以外に新たな付加価値は生み出せないのである。
収益力が低下している時に規制を緩和して競争を強めれば、独占寡占状態に陥る。大体、規制緩和は、デフレ政策なのである。成熟期で規制を緩和する事は、市場の縮小を促す事になる。
規制緩和は、新規の事業の草創期や拡大期にこそとられるべき政策である。規制緩和は、市場の活性を促す策なのである。

公共投資も単に消費するだけの公共投資は効果が薄い。拡大再生産を生み出せる社会資本に公共投資を振り向ける事が出来るかがカギを握っている。
補助金や年金は、国民所得を増やさない。それは所得の再配分であるからである。即ち、付加価値を補助金や年金は生まない。

ある意味で資金の需給関係は、資金の流れに沿って、キャシュフローは資金の働きに沿っていると見る事もできる。
資金需給は、複式簿記を下地にし、キャッシュフローは損益を下地にしていると考えられる。
その意味では、資金は、資金需要に基づいて調達された資金と資金の過不足を補う運用と捉える事ができる。また、営業キャシュフローを損益になぞらえ投資と財務を貸借になぞらえる事もできる。
資金は、需要、調達、運用という流れがあり、働きには収益と費用がある。

資金は、資金需要を賄うように調達され、過不足分は運用される。
資金調達の手段としては、内部資金を活用する手段と外部資金を活用する手段がある。
内部資金を活用する手段は、資産を圧縮する事で、資金を絞り出す事で、既存の資産を効率化し、財務体質を健全化する事で安定性を増す反面、経済活動は、不活性化させられる。外部資金を活用する事は、総資本を拡大する事で資金を調達する。不足分は資産を運用する事で捻出する。余剰部分も運用する事で資金効率を保つ。

景気回復のカギは家計にある。


家計は、経済の始点と終点に位置する。何故ならば、経済は、生きる為の活動だからである。
経済の本質は、生活である。産業に拠点を置いていると経済の本質は、見えてこない。いくら生産を増やしてもそれが生活に不必要なものであれば、国民所得には、結びつかず無駄になるだけなのである。

現代人は、無駄と言う意味を理解していない。ただ、「お金」を廻すだけのために、無駄に生産し、ゴミを増やしている。その結果、環境汚染だの資源問題を引き起こしているのでは、何をか況やである。売るために生産するのではない。必要だから生産するのである。

その必要性の原点が家計である。故に、財務の原点も家計にある。
家計の財務は、生病老死にある。出産育児、教育、医療、老後、そして、死という人生節目節目にまとまった資金が必要となる。その資金を捻出するのが家計の財務である。
もう一つ重要なのは、住宅である。

経済的投資の中で大きな部分を占める投資は、設備投資、公共投資、住宅投資である。この三つの投資が経済の基調を構成する。
バブルにせよ、リーマンショックにせよ住宅投資が深く関わっている。それなのに、住宅投資の財務は、軽んじられている。景気対策としては、公共投資ばかりに目が向けられている。しかし、投資で大きな部分を占めているのは、設備投資と住宅投資である。

そして、実は、住宅投資こそ社会基盤を構築しているのである。住宅をどの様に建築するのかは、その地域の経済の基礎を形作るからである。住宅は、都市計画にの採って為されなければならない。そして、それに伴って金融も整備されるべきなのである。


国民経済計算書


生産は、消費を反映する。生産が消費を決めるわけではない。ただ、生産手段が消費の在り方をある程度制約しているのも事実である。

物価水準を決めるのも家計である。
物価の基礎は、所得、生産量、消費量によって構成される。所得、生産量、消費量は家計の在り方を反映している。家計は、経済の基本単位を構成しているのである。
つまり、経済の原型は家計、消費にあるのである。それを産業に置いている限り経済の実体は見えてこない。

市場を動かしているのは、家計の所得の規模と在り方と消費の規模と形態である。

現代社会は、市場と言う場そのものを否定しつつある。市場と言う場を否定する事で取引と言う働きのみを純化する。しかし、市場と言う場を否定すれば、販売や購買と言う行為をも否定する事になる。
その結果、所得が失われるのである。単純に経済を「お金」の問題として処理するから生きる為の活動と言う経済本来の姿が失われる。

経済は、「お金」の遣り取りだけが目的なのではなく。人的な側面、分配の在り方こそ本旨なのである。「お金」ばかり見ていて人や物を忘れるから景気はよくならないのである。


国民経済計算書


家計を支えているのは、所得である。所得から支出を引いて余った部分を貯蓄する。それが家計の経常的収支の基本である。
もう一つ重要なのは、長期的資金である。家計は、借金をしたくても簡単に借金ができるわけではない。
返済する当てがなければ、おいそれと借金できないし、誰も、「お金」を貸してくれるわけではない。

家計の貯蓄が直接、政府支出に向けられているかぎりは、総所得を増やす、すなわち、経済成長には結びつかないのである。資金が民間に流れ、実物市場に供給され、それが資本ストックとなり、生産に結びつき、雇用を増やすから総所得を増やすのである。財政赤字を補填するために、家計の貯蓄が使われる。それが、財政赤字の最大の問題なのである。

また、失業保険や年金、補助金のような支出は、再生産的なキャッシュフローを生み出さない。
生産的な労働に結びつくからこそキャッシュフローは生まれるのである。所得の再分配だけでは、総所得の増加にはならないのである。そこに高齢化社会の問題点が隠されている。

単なる消費は、資金の流れは産み出さない。

経済政策の目的は、金融機関以外の企業が本来の働きを、即ち、拡大再生産を繰り返しながら、資源の配分ができるように市場環境を整える事である。それは、経済の民主化を促すことである。

市場経済というのは、適度な格差と私的所有権を前提としている。
市場経済は、極端な格差や硬直的な格差は嫌う。しかし、何もかも均等にすればいいという思想も受け付けない。
全てを均等に分配できれば平等が実現できるというのは、幻想に過ぎない。第一に、均等というのは、量的なことを言うのであり、質的な部分は含まれない。含めない。なぜなら、質というのは主観的なことだからである。そして、主観的だからこそ平等を実現する為に決定的な働きをしている。平等とは認識であり、認識は主体的な事だからである。

人生は借り物に過ぎない。死ねば何もかも全てを根源的な存在にお返ししなればならない。
どんなに地位や名誉や富を得てもあの世には持って行けない。
大切なのは、自分の真実である。
経済とは、生きる為の活動である。
所詮この世の物は神からの借り物に過ぎない。
その事を忘れた時、人は、真実から遠ざかるのである。

経済の基盤は、一人当たりの所得、所得の代表値(平均値。中央値。最頻値)、分散、偏り、規模、幅(最大値と最小値)そして生活水準(物価)によって構成されるのである。


自由は、意志から生まれる。


戦後の日本人は、何事も、自然に任せれば時間が解決してくれると思っているようだ。
確かに、これまで、自分の意見を主張せずに、成り行きに任せていれば、平和で豊かに生活を送ってこれた。しかし、それは、稀有な事なのである。
今の日本人の自由は、家畜の自由に過ぎない。真の自由は、自分達の手で勝ち取るものである。

民主主義体制、自由市場は、人為的な空間、作られた空間である。人為的な力を排除すれば自然に成る空間ではない。
日本人の無為自然と言う思想を結びつき、人為的働きを排除する事が自由なのだという誤解を多くの日本人は持っている。それが、何が何でも規制を排除するという極端な考え方を生み出す土壌となっている。しかし、それは無秩序な空間を生み出すだけなのである。民主主義は無政府主義とは違う。

自由市場は、作られた市場である。
自由市場を動かしているのは、法であり、規則であり、規制である。自然の法則ではない。

日本人は、傲慢になっている。けいやくは、人と人との間で成立する者だと思い込んでいる。それは、人間というものは、絶対視しないと思い浮かばない思想である。人間の能力は絶対ではない。人間は限りある存在である。人間は限りある存在である事を前提とする事で自由も民主主義も成り立ってきた。

しかし、科学技術の発展によって、いつの間にか、自分を超える存在を認めようとしなくなり、人を絶対視する様な思想を蔓延化てしまった。
その際たるものが日本人である。日本人の多くは、民主主義も科学も無神論だと錯覚している。だから人前結婚式成るものが成立する。
しかし、民主主義も科学も自分を超えたところに存在する絶対なる存在を受け入れない限り成り立たない。自己を絶対化したら他の存在を認められなくなるからである。

そして、真の契約は、その絶対なる存在との間にかわす事なのである。一神教徒は、神に懸けて誓うから互いを信じ契約をする事が出来る。
無神論を標榜する日本人が世界市場で異端視されるのは、契約する相手を取り違えているからである。

見ず知らずの人間、どこのものとも知れない人間、生まれも育ちも違い、価値観も信じるものも違う者同士が相手を信頼し、自分だけでなく家族や一族、の生命財産を危険にさらすような契約ができるのは、相手が絶対約束を違える事のできない存在にたいして制約するからである。

人の命には限りがある。限りある人生を送る者にとって絶対普遍成るものに存在の根拠を求めなければ、その魂は、彷徨してしまう。なぜ、何のために、誰のために、その問い掛けは虚しい。虚しいが問わずにはいられない。それが人間である。

今の日本人は、この世の中を動かしているのは、欲望だと決めつけている。権力欲。名誉欲。金銭欲。性欲。征服欲。欲望だけがこの世を動かしていると思い込んでいる。それ以外の考え方を受け入れようとはしない。
自由とは欲望の果てにある事だと主張する。
欲望には限りがない。人間の一生には限りがある。限りある者が限りない欲望を支配しようとすれば、欲望に呑み込まれてしまう。

人は、絶対なるものを受け入れる事によってのみ魂が救われる。一神教徒は神を信じる事で自らを律する事が出来ると信じている。かつての日本人は、国体を絶対普遍的な存在としていた。現代の日本人間多くは、国に代わって会社に絶対普遍成るものを見出そうとした。しかし、会社は会社である。定年を迎えた時、彼等は全てを見失うのである。

今の日本人は、自由の意味も民主主義の意味も理解していない。ただ、無気力、無作為に、意志もなく、目的もなく生きていけば幸福になれると信じている。しかし、その信仰は空疎である。実体もない。

信仰は、最も知的な行為である。神を信じるのは、人間的な行為である。
ところが、現代日本人は、信仰を野蛮な事、無知な事、迷信だと退ける。
神を否定する者は自らを神とする。自らを神としたものは、世界を失う。
現代日本は、日本人の傲慢さが生み出した。その末は、日本人が悔い改めない限り明らかである。


いかにして経済を健全するのか


全業種、全規模の投資キャッシュフローをみて際立つのは、財務キャッシュフローの異常な動きである。投資キャッシュフローに若干の乱れはありが、フリーキャッシュフローも、営業キャッシュフローも、極端な動きは見られない。むしろ、フリーキャッシュフローは順調に増加しているようにも見える。
それに対して財務キャッシュフローは、バブル崩壊後一気にマイナスまで急落し、1994年から97年にかけて一旦小康状態に陥った後、1998年から2005年にかけて急落した。この段階で市場の本質が変わったと見ていい。

この様な変化は、偶然でも、故意によることでもなく、何らかの構造的要因が働いている。現象背後に潜んでいる構造を変えない限り、経済の抜本的な解決はできない。
問題は、いつどのような条件によってこのような変化が生じ、その結果、どの様な状態、良い面も悪い面も含めて起こったかを検証する必要がある。
バブル崩壊直後と2000年前後にとられた政策を見直す必要がある。

背景にあるのは、バブルであり、バブルを引き起こした要因である。バブルを引き起こした前提条件は、高度成長の終焉、石油ショック、円高不況といった要因による収益力の低下、そして、収益力の低下を脱出しようとして行われた財テク、そして、低金利策、財政赤字、経常黒字に対する外圧である。

財テクが地価や株と言った資産価値の異常な上昇を招いた。それがバブルである。そのバブル潰しとして地価や株の抑制政策、高金利政策、不良債権処理、規制緩和である。これらの政策によって資産価値が急速に下落し、民間企業は、資金の調達力を失った。それが投資を抑制している最大の原因である。
更に財政再建策として消費税が導入されましたが、財政はいまだに好転していない。

景気低迷によって高金利策から一転して低金利、ゼロ金利、金融緩和策がとられましたが、既に遅く、かえって時間価値を喪失する結果を招いている。

留意しなければならないのは、バブル期に財政が黒字化したと言う点である。今日、バブルの負の面ばかりが強調される傾向があるが、バブルによって財政が黒字化したという事は見落とされがちである。この事は、財政を健全化するうえで重要なヒントになる。

財政を健全化し、長期的低迷を抜けるためには、を脱却するためには、前提条件を変える必要がある。
また、国家ビジョンを明確にする必要がある。
国家ビジョンを構築するための前提条件は、第一に、高齢化社会に向かうと言う点です。第二に、人口の減少です。第三に、高度情報化時代になる。第四に、環境問題が深刻化してくる。第五に、エネルギー戦略が国家の命運を左右する。
まず、第一に言えるのは、収益力の低下をどの様に回復させるかである。今日、競争を原理化してしまい、規制を緩和すれば万事解決という風な傾向に支配されている事である。

第一に、競争は、合目的的な手段であって目的でも原理でもない。手段である競争は、相対的な事であって目的に応じて競争を促したり、抑制するのは悪い事ではない。
第二に、規制があって競争は成り立つのであって、規制をなくしてしまうと、公正な競争は成りたたない。幼児と成人を同じ条件で競わせたら、成人が勝つに決まっている。自動車と人間が競争すれば自動車が勝つ事は最初からわかっている。
この様な競争を公正とは言わない。ルールを定めずに無原則に競わせる事は、競争ではなくて闘争である。
規制があってはじめて市場の規律は保てるのである。
規制緩和ではなく、新しい時代や環境の変化に合わせて規制を改める事である。規制をただなくせと言うのは、乱暴な話である。それは、自由主義ではなく無政府主義である。

企業の収益を回復するためには、市場の規律を取り戻す事である。価格競争、過当競争で荒廃した市場を養生する必要がある。
重要なのは、企業が適正な収益を上げられるようになる事である。そして、企業が適正な利益を上げられるようになるためには、一企業だけでは解決できない問題がある。この点だけは忘れてはならない。

次に、取り組まなければならないのは、資産価値の回復である。現在地価は、負債と資産の関係から見て相対的に異常に低い状態にある。それを一定の水準にまで引き上げる必要がある。
資産価値が異常に低い水準にあるために、企業は、資金調達力を失い、再投資ができない状態にある。それが財務キャッシュフローは如実に表している。企業が資金の調達力を失い再投資ができなくなったために、金融機関は、健全な貸付先を見いだせないでいる。このような状態が続けは、金融機関はもたない。
地価を上昇させる為には、土地や不動産の流動化を計る事である。

資産価値の上昇を計る必要があるからと言って闇雲に地価を上げてしまえと言うのは乱暴である。闇雲に地価を引き上げてしまうとバブルの再燃を招くことになる。資産価値をどの様にして回復するか、それこそが肝心要なのである。
空き家、空室が激増している今日、地価の上昇だけを目的にした政策は、亡国的施策である。
将来に対する何の展望、構想もなく資産価値の上昇を計るのは破滅を招くだけである。

資産価値の水準を回復するためには、次の時代に対する国家ビジョンが要求される。その時、前提となるのが、第一に、高齢化社会、第二に、人口の減少、第三に、高度情報化時代、第四に省エネルギー社会、第五に低成長、市場の成熟である。

これらの要件が指し示しているのは、量から質への転換である。
第一に言えるのは、住環境の改善。第二に言えるのは、地方都市の再建。第三に、個人事業の再建である。

住環境を整備し、量から質へと変化させるためのは、地価を上昇させる目的で乱開発を許せば、かえって経済を荒廃させてしまいます。高齢化社会に向けて環境を整備する事が求められている。
何でもかんでも新しくすればいいというのではない。住む馴れた家をいかに住みやすい家に改造していくか、中古住宅市場やリホーム市場の整備充実にある。

戦後の住宅難から始まった高度成長が終焉した今住まいの質が問われるようになってきた。住宅難の時代には、ひたすら量産されてきた家をより高齢化社会、少子化社会に適合した家に変えていく。
粗製乱造から高齢者が安心して住める家に、その延長線上に安心して住める街づくりがある。
高齢者が安心して住める家や街づくり。その根本は、都市計画にある。
高齢化社会、人口減少に適合した年のインフラ作りである。
シャッター街とかした地方の商店街をいかに再生するのか。それは、個人事業の再建にもつながる。
かつて、個人事業者、個人商店は、大企業の隙間を埋め、職場を創造してきた。また、市民の中核もなしてきたのである。雇用を多様化しても来たのである。その個人事業、個人商店が大資本によって淘汰され、死滅しつつある。失業者は行き場を失いつつある。
給与所得者ばかりが増えたら景気が停滞した時、働く場がなくなってしまう。かつては、脱サラとか、定年退職しても働く先があったが、個人事業や個人商店が成り立たなくなると、給与所得者ばかりでは逃げ場を失うのである。

地方都市の再建の原点は、都市計画にあり、都市計画の根源は、財政である。人々の暮らしがあってこそ国は成り立つのである。人々の生活を犠牲にしたら経済は成り立たない。

それから、製造業を立て直す事である。製造業の問題は、適正な収益が上げられなくなっている事である。何か、金儲けは悪であり、利益を上げる事は、人を誑かす行為であるがごとき、偏見に満ちているように思われる。企業は、消費者や労働者から搾取して私腹を肥やしていると言った色眼鏡で企業業績を見ている。半面、投資家は、常に増収増益を求めて、利益を上げられない経営者は無能だと責める。

経済の目的は、金儲けにあるわけではない。生きるために必要な資源を国民に配分する事である。配分は、所得によって実現される。所得は、基本的に労働の対価として配られる。だとしたら、人々に働く機会を作る、所得を得る機会を作るのが経済政策の主目的だと考えられる。金儲けは手段にすぎない。ところが、いつの間にか金儲けが目的化し、お金が回りさえいいというような風潮が支配している。人々に豊かな生活をさせるためには、どうしたらいいのか、その根本を忘れたら経済は成り立たなくなるのである。
肝心なのは、事業目的であり、企業理念である。ところが今の風潮は、企業は、人々を欺く詐欺師、ペテン師と蔑みながら、その一方で、価格だけで企業の社会的責任を評価しよとする。それではまともな経営などできるはずがない。

企業経営で重要なのは、その企業がどのようなところで社会貢献をしているかである。社会貢献の手段は、単に価格だけではない。価格は一つの指標である。企業の貢献を測る基準の重要な要素が費用である。価格は、費用対効果を測る指標の一つである。価格は、密度を表している。密度とは、質と量の積である。安ければいいのではなく。適正な費用と利益で成り立っているかが重要なのであり、消費者は、商品の価値を見極める目を要求されるのである。良い産業を育てるのは、消費者の責任でもある。

現代経済は、生産にばかり重きを置いて財の配分を疎かにしているように思える。いくら大量に製品を生産してもそれが適切に分配されなければ意味がない。一方において多くの食料が浪費され、廃棄されているというのに、他方で栄養失調に苦しみ、飢え死にしていく人々がいるとしたら、それは、経済の仕組みに欠陥があるのである。重要なのは、所得を公平に分配する事であり、そのために働きを生み出す事なのである。
技術革新は新規事業ばかりを重視し伝統的産業を蔑ろにしたら経済は衰退する。農業とか、製造業と言った伝統的な産業こそ雇用にとって重要な役割を果たしてきた事を忘れてはならない。ただ生産効率ばかりを追い求め、経済の目的を金儲けだと錯覚したら、経済は衰弱してしまう。

財務は、民間企業だけに限った事ではない。家計にも財政にもある。家計も、財政も資金不足に陥れば経済的に破綻する。
ただ財務は、部門間の資金の過不足を補正する事で成り立っている。つまり、経済全体では、資金余剰の部門があれば、資金不足の部門があり、全体では、資金の過不足の和はゼロになる。今日、財政の資金不足が累積し、市場全体の歪を大きくしている。この様な歪を是正するためには、累積した部門間の資金の歪を是正する必要がある。つまり、債務が累積した部門の負債を他の部門に付け替えるのも一つの解決策である。
例えば、年金や医療保険などの負債を民営化などによって民間部門に付け替える事である。財政赤字は、部門間の資金の過不足の歪から生じている事を忘れてはならない。部門間の歪を是正しない限り、抜本的な解決に気ならない。赤字の問題は、赤字の部門だけの問題ではない。

もう一つ重要な事は、官僚虐めをいい加減止める事である。政財官の結びつきを否定してきたのは、革命世代である。革命世代は、何でもかんでもぶっ壊せばいいと思っている。
自分達も革命世代の末端に位置していました。だから、痛感するのである。
先輩に僕は、強く抗議した。あなた方は、古い秩序をぶち壊したけど、新しい秩序を何一つ創造してこなかったではないかと…。
その為に苦しんでいるのは、後輩達である。革命世代は、革命的状態を造り出そうとしてきた。革命的状態とは、無秩序で無規律、無統制な社会、無法な社会、無政府主義である。暴力の支配する社会状態です。そうなれば反体制的風潮が高まり、革命が成就する。
だから、彼等は、学校を荒廃させ、政財官の結束を断ち切ろうとしたのである。
体制側に立っても彼等は反体制である。
だから日本は、無秩序な状態に向かっているのである。
もう一度、政財官の秩序ある関係を取り戻す必要がある。


この世には、変化している部分と不変な部分がある。そして、変化している部分と不変な部分は、簡単な法則によって結びつけられている。
そして、世界は、時とともに転回している。
絶対普遍な部分は、神のみである。
神は、天でもあり、太極である。
太極は分かれて陰陽を生じる。
変化は、太極より生じる。太極は一極である。太極より陰陽が生じ二極となる。
陰陽合わさって太極となる。故に、陰陽は常に均衡する。
変易、不易、簡易。これは、易経的世界である。

易経は予測の書であって予言の書ではない。
占うとは予言するのではなく。予測する事である。
当たるも八卦。当たらぬも八卦。

易は、吉凶悔吝を占う事であり、是非善悪を問う事ではない。

剛柔相推して、変その中に在り。辞を繋けてこれに命じ、動その中に在り。
剛柔がたがいにおし動かして、変はその中にある。卦爻にことばをかけて吉凶悔吝など名をつけて、動はその中にある。

決断するは吾にある。易は、決断を促す為の指針である。

故に、是非、善悪より、剛柔・強弱を見る。

強弱は、変動幅によって陰陽を判定する。変動幅が大きければ陽、小さければ陰とする。
何をもって基準と成すかによって易の相は変わる。
大切なのは、何を前提とするかである。

吉凶悔吝は、動に生ずる者なり。剛柔は、本(もと)を立つる者なり。変通は、時に趣(おもむ)く者なり。
吉・凶・悔・吝は、動きから生じるものである。剛・柔は、物事のはじめをたつものである。変・通は、時に対してめざすところのものである。

吉凶とは、貞(てい)にして勝つ者なり。天地の道は、貞にして観(しめ)す者なり。日月の道は、貞にして明らかなる者なり。天下の動は、かの一に貞なる者なり。
吉凶とは、正しくしてまさるものである。天地の道は、正しくして示すものである。日月の道は、正しくして明るいものである。天下の動きは、吉凶と同じく正しいものである。

陰陽と善悪、真偽、美醜の価値観は異なる。
陰か陽かは、善か悪か、真か偽か、美か醜かとは違う。
善の中にも陰も陽もあり、悪の中にも陰も陽もある。
争いや、乱れは、むしろ、陽にある。
平穏や安定は、陰にこそある。
陽だから、善。陰だから悪という訳ではない。

表に現れた陽ばかりを見ていても、裏にある陰を見ないと世の中の真実を知ることはできない。
何を是とし、何を非とするかは、表裏、陰陽合わせて見ないと定まらない。
表ばかりを見てもその裏に隠されている事が察知できなければ物事の真実を見極めることはできない。

太極は、混沌としている。
太極は天にある。太極は神にある。
天と神とは合一である。
天と神が和して東西南北一体となる。
陰陽の働きは、道徳の働きの外にある。

窮すれば則ち変じ、変じれば則ち通じ、通じれば則ち、久しい。

無窮から太極が生じる。
太極は、宇宙の精気を吸い込み、放出する。太極の運動によって世界は変化する。その本性は、渾然一体なる状態、玄妙なるものである。

窮まれば無、則ち、零となる。
陰陽合わさって零、則ち、虚となる。
零には、虚、無、空、始、基の意味がある。
虚は無であり、空であり、始まりであり、基点である。

それがゼロサムな状態である。ゼロサムは均衡を意味し、調和を意味する。

易に太極あり。太極から両儀が生じる。

易は、二進法である。

事象には全体と部分がある。
全体の働きと部分の働きが調和した時、全体は安定した動きをすることができる。
部分が正しい働きをすれば全体を制御する事が可能となる。

全体は部分に支えられ、部分は、全体に守られる。

この世は、天、地、人よりなる。天から時が生じ、地から物が生じ、人から働きが生じる。

諸行無常は、人の世の理。地の道は、人として守らなければならない筋。それが道理。
人生は、天と地の恵みによる。天と地の恩、人の恩によって生活は成り立っている。
天と地、生と死の間、我が人生あり。日々是好日。

経済は、天下に生じる。
経済は、人の世の出来事。
経済から貨幣が生じる。貨幣は陰である。
陽は、生活にある。経済の根本は生活である。生活とは、生きる樽の活動である。
生活から生産と消費が生じる。生産は、陽であり、消費は陰である。
貨幣からは、出納の働きが生じる。
出が陽であり、入が陰である。
支出は陽であり、収入は陰である。
「お金」出入りは、「お金」に過不足を生じさせる。
「お金」の余剰は、陽。「お金」の不足は陰。
「お金」の流れは、売買と貸借を生じる
売買は、陽。貸借は陰。
売りは陽、買いは陰。
貸しは陽、借りは陰。
生活は、生産と消費を生じる。
生産は陽、消費は、陰。
生産は、収益と費用から生じる。
費用は陽、収益は陰。




企業法人統計から財務キャッシュフローを産出した結果を下記する。

1961 1962 63 64 65 66 67 68 69 70
配当金計(当期末) 402 482 549 590 607 670 774 916 1104 1213
社債(当期末資金需給) 182 78 171 64 183 81 297 275 259 360
長期金融機関借入金(当期末資金需給) 867 888 834 776 1364 855 1840 3565 3375 4080
短期金融機関借入金(当期末資金需給) 614 1967 1727 2331 2580 1951 3083 5602 4407 5424
資本金(当期末資金需給) 880 883 689 727 537 518 496 1137 983 1043
財務CF 2141 3333 2872 3308 4056 2735 4942 9663 7921 9694
1971 72 73 74 75 76 77 78 79 80
配当金計(当期末) 1247 1363 1749 1752 1615 1766 1765 1921 2091 2373
社債(当期末資金需給) 217 288 281 478 1549 869 680 1097 1382 530
長期金融機関借入金(当期末資金需給) 4619 5489 5485 4663 6720 4308 1455 -8 3815 6555
短期金融機関借入金(当期末資金需給) 4366 6473 8635 7397 7096 7224 7620 5243 14143 9274
資本金(当期末資金需給) 602 643 666 825 1177 704 742 733 672 784
財務CF 8558 11531 13319 11612 14927 11339 8732 5144 17921 14769
81 82 83 84 85 86 87 88 89 90
配当金計(当期末) 2504 2413 2508 2617 2809 2924 3182 3546 4169 4227
社債(当期末資金需給) 941 1127 1353 1893 2062 3543 4266 3130 9642 3635
長期金融機関借入金(当期末資金需給) 8177 6864 5096 5299 7777 11698 19987 17929 31363 36139
短期金融機関借入金(当期末資金需給) 8179 9694 9061 13376 11458 10897 11847 14636 7169 13139
資本金(当期末資金需給) 996 779 1102 1312 1219 1409 2397 3651 6020 2676
財務CF 15789 16050 14104 19263 19707 24622 35314 35800 50025 51362
1991 92 93 94 95 96 97 98 99 0
配当金計(当期末) 4530 4008 3771 3833 4125 4180 4231 4381 4221 4832
社債(当期末資金需給) 4684 -135 2578 -270 -2095 -1140 43 3617 -1134 -3397
長期金融機関借入金(当期末資金需給) 13120 12454 10634 -3545 451 -2334 -408 3886 -3106 -12430
短期金融機関借入金(当期末資金需給) 11047 4411 -3738 4905 2561 548 1584 -8543 -9006 -3186
資本金(当期末資金需給) 1228 817 738 621 1223 1776 1403 401 1223 1789
財務CF 25548 13540 6441 -2122 -1985 -5330 -1608 -5020 -16243 -22057
2001 2 3 4 5 6 7 8 9 10
配当金計(当期末) 4496 6509 7233 8585 12529 16217 14039 12210 12285 10357
社債(当期末資金需給) -2252 -1830 40 -1578 -1090 -133 73 608 1524 698
長期金融機関借入金(当期末資金需給) -6099 -11347 -4621 -5392 -6739 727 583 6695 5457 -6123
短期金融機関借入金(当期末資金需給) -3208 -11251 -11906 -8119 -7196 -2295 3489 6314 -9784 -3976
資本金(当期末資金需給) -531 -2321 -8518 -21358 -12335 -12426 -10722 -4687 -3789 -6209
財務CF -16585 -33258 -32239 -45032 -39889 -30344 -20616 -3279 -18878 -25967
2011 12 13
配当金計(当期末) 11900 13957 14400
社債(当期末資金需給) -2833 -1911 303
長期金融機関借入金(当期末資金需給) 1044 2702 3742
短期金融機関借入金(当期末資金需給) -2508 747 -2713
資本金(当期末資金需給) -6990 -3700 -4796
財務CF -23187 -16119 -17863





       

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