経済の現状

日本経済の現状について

製造業・卸小売り


小売業は、今の日本経済を象徴している



小売業は、現代の経済を象徴していると同時に、未来を暗示していると言える。
小売業というのは、最も消費者に一番近い業界である。
小売業の在り方は、消費の在り方に決定的な影響を与える。
小売業の在り方は、国家の構想を体現していると言える。

我々が子供の頃は、地元に商店街があり、お互いが助け合い一つのコミュニティを形成していた。
いわゆるプチブルジョアジーと言われる層であり、市民の中核を形成する人達だった。
しかし、個人商店が成り立たなくなりつつある今日、多くの小売業が法人化されつつある今日、多くの人は月給取になった。つまり、市民階級の経済的基盤が突き崩されつつあるのである。
その結果、市民として経済的に独立した階層は崩壊しつつある。

商店街は、単なる商売をするというだけの場ではなかった。
人々の生活の場であり、憩いの場でもある。
先祖代々の仕来りや価値観、伝統、仕来り、祭り、風俗、文化等を継承していく場でもあった。
そこには、人生があり、歴史があった。また、故郷でもあった。
今日、そのコミュニティが失われつつある。
商店街は、街の中心にあって市民の生活を支えていた。
小売業界の変化は、市民の生活そのものを変えてしまう。

小売業は、個人商店を中心とした中小零細業者から最初は形成されていた。それ以前は、焼け跡の闇市から発展した。
その後、百貨店、スパーといた大規模店が形成され、やがて、チェーン化された大型スーパーによる価格破壊、郊外型のショッピングモール等が侵出し、更に、ユニクロに代表される大手安売り業が全国展開をするようになった。そして、今日では、コンビニエンスストアが全盛時代を迎えている。
それに伴って古くからの商店街は寂れ、シャッター街と言われるような商店街が至る所に現れるようになる。
また、時代の変遷に伴い、個人商店が廃れ、中小個人スーパーが廃れ、ショッピングモールに客が流れて大規模スーパーが廃れ、地方の百貨店も廃業が相次ぎ、そのショッピングモールも少子高齢化、大都市への人口流出などによって採算が取れなくなりつつある。そして、今日、隆盛を誇っているのがコンビニエンスストアーだが、それも、過剰になりつつある。
その結果、商店街の荒廃、商店街がなくなり、近くに日用品を売る店がなく車でないと簡単な買い物ができない。車の運転ができない高齢者は買い物ができないと言った買い物難民が増えつつある。

小売業のチェーン化は、小売業のマニュアル化、平準化、標準化を促している。
地方の街から個性が失われ、東京で飲むコーヒーの味も、静岡で飲むコーヒーの味も、ニューヨークで飲むコーヒーの味も変わらなくなりつつある。それを是とするか非とするかは意見が分かれるところだが、地方の特色が失われている事は動かしがたい事実である。
日本中どこへ行っても何の変哲もない国になりつつある。

そして、インターネットが発達した今日、仮想現実、バーチャルな世界に支配されつつある。

現代の経済は、自由放任を是とし、行政は、金の流通を管理していればいい式の考え方に支配されている。しかし、その発想は、経済を無秩序にし、無法、無政府的な市場を現出してしまった。自由放任型の経済は、限界をきたしたのである。

経済の根本は都市計画にある。規制があって市場の秩序は守られてきた。
技術革新や時代の変化に適応できなくなった規制は、改めるべきだが、規制そのものを否定するのは、余りにも無謀である。何でもかんでも新しい物は良いというのは、短絡的発想である。


卸売りは、存在意義を問われている


卸売業というのは、流通の変化に伴って最も存在意義が問われてきた産業である。
流通革命は、卸売りという、中継、中間産業の存在意義を危うくしてきた。
全国的な安売り業者の台頭やインターネットの普及は、更にこの傾向に拍車をかけている。

消費者は中間業者を介さず直接生産者から商品を購入するようになりつつある。
卸機能は、巨大な倉庫と物流部門に取って代わられつつある。

ただ、経済というのは、単に生産効率のみを追求すればいいという訳ではない。
経済は、生産と分配の上に成り立っている。
現代経済の誤謬は、生産性のみを優先して分配の効率性を忘れているという事である。
そして、分配の手段として用いられるのは、所得である。
所得の根本は労働と賃金であり、労働と賃金を成り立たせるためには、雇用が確保しなければならない。
だから、中間の業務が生産効率から見て無駄だからと言って削除すると分配上の効率に齟齬をきたす事がある。

例えば、街のレストランもどんどんとチェーン化され、料理は工場で大量生産され出されるメニューも味も標準化されることが本当に経済の効率化と言えるのであろうか。
料理を工場で大量生産するという事は、料理人の技術を途絶えさせることになりかねない。

現在経済の問題点は、多様性の喪失にある。全てが一つの方向に向かってしまうと、その流れが適合している時は絶大な力発揮するが、一度(ひとたび)流れが反転したら総てが裏目に出てしまうのである。
それは、花粉症の蔓延が証明している。敗戦後の植樹が杉に偏った事で日本から雑木林がなくなり、日本人は、杉の花粉症に悩まされることになるのである。

経済の目的は、財を生産する事のみにあるわけではない。
生産財を必要な時に、必要な人に、必要なだけ配分することも経済の重要な働きの一つである。
確かに、経費の削減は、生産効率につながるかもしれない。しかし、なぜ、価格を下げる必要があるのか。また、競争力を上げる必要があるのか。
その点を明確にしないまま、短絡的に安くなればいい、競争をさせれば万事うまくいくと考えるのはあまりに浅はかなのである。

情報と物流技術の進歩は、生産者と消費者の距離を縮める。
インターネットの発達は、生産者と消費者の距離を加速度的に縮めるであろう。
しかし、それによって生じる利点ばかりをあげて弊害について十分に検討をしておかないと、歪んだ世界になってしまう事は明白である。

問題は、為政者にどの様な国にしたいのかの青写真があるかである。


製造業は今日の日本の礎を築いてきた


製造業は、今日の日本経済の礎、土台を形成してきた。
製造業の在り様は、国家の在り様も変えてしまう。
我が国は、富国強兵を以て明治維新後の産業を築き上げてきた。
戦後は、重厚長大型産業にまず重点を置き、産業基盤を構築してきた。

その後、自動車産業や家電業界が日本の経済を主導した。

ある程度産業の基盤が出来上がると今度は、軽薄短小産業へと重点が移され。
そして、インターネット、通信技術が急速に発達しつつある今日、産業の主力は情報通信産業へと主力が移りつつある。

かつて物つくりの国と言われ、高度成長を支え、また、推進役だった製造業にも陰りが見え始めた。
日本の高度成長の起爆剤だった繊維業界も構造不況業種と言われて久しい。また、産業の米と言われた鉄鋼業もインドや中国の新興勢力に追われて昔日の面影はない。
家電業界も三洋電機は、パナソニックに吸収され、シャープは2016年、中華民国の鴻海精密工業の傘下に入り、東芝は、一兆円近い赤字を出して経営危機に喘いでいる。


製造業と小売業では前提となるものが違う


製造業と小売業は、根本となる思想が違うと言っていい。
その証拠に製造業を工業と言い、小売業は商業という。
工業は、製造に主体があり、商業は、販売に違いがある。
そして、製造業が工業として認知され独自の計算方法を確立した事が近代経済を作ったともいえる。

まず、製造業と小売業は会計の基準や仕組みが違う。
この点は決定的なのである。
簿記にも商業簿記と工業簿記の区分がある。

商業簿記と工業簿記の何処が違うかというと、原価に対する考え方が違うのである。
商業と工業とでは原価に対する考え方からして違う。
商業にとって原価というのは、仕入れ原価を指しているのに対して、工業は、あくまでも製造原価を指して言う。
そして、狭義の原価といった場合、工業の言う製造原価を指して言う。

では、仕入れ原価と製造原価のどこが違うのかというと、第一に費用に対する考え方が違う。第二に、仕入れに対する思想が違う。第三に設備に対する認識が違うのである。第四に、資本もすなわち、投資に対する捉え方の違いとなる。第五に、会計に対する考え方の差である。
商業においては、製造過程は全く考えていない。しかし、工業においては、利益を計算するうえで製造過程が一番重要となる。
だから、減価償却費という思想が生まれたのである。減価償却に対する考え方も商業と工業では違う。
また、減価償却の計算の仕方も一律ではない。

費用に対する考え方の違いは、特に、人件費に対する考え方によく現れている。商業は、人件費はあくまでも人件費であり、総てが費用と見なされるのに対して、工業は、人件費の一部は労務費として原材料の一部としてみなされる。その場合、在庫に含まれる人件費は、製品が販売された部分を除いて費用としてみなされないのである。
仕入れに対する認識の差も大きい。商業は仕入れは、仕入れである。それに対して工業では、仕入れは原材料費である。

在庫は資産である。ただ、商業と工業とでは資産に対する考え方が違ってくる。商業では在庫は、販売過程で生じた販売のための予備という考え方だが工業は、資産は投資の結果としてみなす。工業は、在庫は資産だから在庫は投資という考え方である。
そして、在庫価値を測る尺度は任意に決められる上に一定の期間、手続きを踏めば変更することも可能なのである。

設備に対する考え方の差は、投資に対する差でもある。工業でいう投資とは、基本的に設備投資である。商業では一般管理費、販売費、在庫投資などが主たる投資となる。極端な場合、設備投資をしなくても開業できる。それに対して、工業は、設備投資は、資金計画を伴うものである。設備の償却と単位当たりの費用計算などを伴っていなければ、設備に対する意思決定はできない。また、投資計画は、資金計画でもある。資金の調達手段や会計処理の仕方によって利益は大幅に違ってくる。しかも、借入金の元本の返済は、会計上どこにも表れてこないのである。だからキャッシュフローという概念が補完する必要が生じた。

原価に対する尺度が変わると利益も大幅に違ってくる。言い方を変えれば、会計の在り方によって利益は作られると言ってもいい。早い話、総原価主義をとるか個別原価主義をとるかによって利益が違ってくる。しかもどのような計算方法や基準を採用するかは、一定の範囲内において任意なのである。この点を理解しておかないと実際の経済政策が景気にどのような影響を与えるかを予測する事はできない。

原価に対する考え方の差は、損益分岐点構造に現れる。
すなわち、固定費と変動費の関係として現れる。固定費と変動費の関係は、フローとストックの関係でもある。
それはまた、投資資金と運転資金との問題でもある。



原価に対する認識の違い



製造業における原価というのは製造に関わる費用を言う。
それに対して卸小売業では、原価は、仕入れに関わる費用を言うのである。
必然的に在庫のとらえ方に違いが生じる。
製造業では、在庫は製造過程から生じる。
製造過程から原価は、在庫は、原材料、仕掛品、製品、商品と変化していく。
たとえ、製品化されてもそれだけで売れるわけではない。
それによって在庫の評価も違ってくる。

卸小売業では、在庫は、できあがった製品を対象としているのに対し、製造業では、未完成な部品、あるいは、原材料というとらえ方をする。製造業では過程が重要なのである。

故に、卸小売業では、在庫と言えば完成品のみを言い、在庫評価というのは、あくまでも製品の売値と仕入れ値、残高の問題だが、製造業では在庫は、原材料、製造にかかった費用、完成品というように在庫そのものにも製造過程が反映される。製造業では、企業法人統計でも棚卸資産は、原材料、仕掛品、製品商品の別がある。

人件費も単なる費用としてみるのか、それとも製造原価の一部としてとらえるかによって評価の仕方に差が生じる。その差は、利益に直接的に影響を与えるのである。
その点を注意しないと利益に対する考え方を理解する事はできない。

原価とは、生産に関わる費用をいかに算出し、それをどのようにして適正に価格に反映するかの問題でである。
大事なのは、個々の産業が市場に果たす役割、働きをどのように認識するかの違いなのである。

必然的に原価に対する考え方は、損益の認識に反映される。損益の認識は損益分岐という思想に結びつく。
費用対効果のとらえ方に差が生じるのである。
また、産業構造の根本に関わる問題でもある。

損益分岐点の違い



損益分岐点構造の差は必然的にキャッシュフローの違いにもなる。

キャッシュフローの差からは、固定資産や減価償却費のとらえ方にも根本的な違いが生じる。それは投資に対する認識の違いでもあるからである。

製造業と卸小売りとで、会計の基準や仕組みが違うと言う事は、ある意味で貨幣経済、市場経済の本質の一端を示している。
会計というのは、本質的に人為的行為なのである。
会計の原則や定義は、任意であり。所与の事ではない。
自然科学の対象とは、前提が違うのである。
前提が違う以上同一に扱うことはできない。


構造上の違い



会計の仕組みが違うと言う事は、産業の構造が違うと言う事を意味する。
卸小売で言うところの仕入れが、製造業では、原材料というとらえ方をする。原材料は生産過程で認識の仕方に違いができ、計算方法にも差が生じる。それが原価計算であり、原価計算の仕方で、利益にも差が生じる。つまり、経済的価値が、計算の仕方で変動することを意味している。これは公認された利益操作である。それに対して、卸小売は、仕入れは仕入れであり、仕入れ値を維持することが求められる。
考え方が違うのである。

現在の経済の仕組みは意識によって作られたことである。
自然に成った物ではない。人工的な事である。
故に、意識的に変えることができる。そして、意識的に変えることができる者が経済の仕組みを牛耳ることが出来るのである。
この点を明確にしておく必要がある。
経済上の出来事、惨禍は、自然災害とは違う。
人災である。もし、経済を人間の目的に合った者にしようとすれば、経済の仕組みは、作り替える事が可能なのである。
経済を人類の為に役立ているか、否かは、人が決める事である。

損益分岐点比率は、製造業も卸小売業もほぼ一致した動きを示している。問題は、その根本ある構造である。損益分岐点比率の変動を細かく見ていくと経済変動の影響は、卸小売業より製造業の方が大きいように見て取れる。



総資本回転率は、製造業、卸小売業共に同程度低下している。





貸借上の違い



製造業と卸小売業とでは、総資産の占める有形固定資産の割合と利益率に、大きな隔たりがある。ただ、有形固定資産の占める割合は、バブル崩壊後接近してきている。
利益率と資本回転率は、同じような動きをしているのが見て取れる。

総資産に占める有形固定資産は、製造業と卸小売業との間の幅は縮小されているが、売上に占める固定費の割合は、幅は変化していない。
卸小売業の投資に対する質が変化している事は歴然としている。しかも土地に対する投資が大きくなっている。
それは、卸小売業の固定費の割合が総じて大きくなっている事を意味する。損益分岐点構造が変質しているのである。
かつては生活に困ると小売りでも始めようかとなったが、小売業は、手軽にできる産業ではなってしまったのである。

この事は経済の本質を変えつつある。かつては、不景気になったり、失業をしたら露天商になったり、屋台を引いたり、また、日雇い労働者になる事で糊口をしのぐ事ができた。あるいは出稼ぎに行くなどの選択肢があった。今は、元手がなければ何もできない。逃げ場所や捌け口がないのである。だから、何らかの国の施策がなければ、生活できなくなる。そしてまた、金で片付けるしかなくなるのである。
定年退職者もしかり。定年をしたら働く場所がない。つまり、自分の働きで収入を得る道が閉ざされるのである。
国の一方通行的な支出が増え続ける事にならざるをえない。

総資産に占める固定資産の割合は、製造業と小売業は対称的な動きをしている。その事は、当然固定資産回転率にも表れている。

製造業の有形固定資産の回転率が急速に低下しているのがわかる。
逆に、小売業の総資産に占める有形固定資産の比率が上昇している。



有形固定資産が総資産に占める割合が製造業と卸小売業において接近してきたのは、どちらかと言えば卸小売業の事情によるとみられる。
この点は、固定資産回転率の変化を比べてみるとより顕著にわかる。



考えられるのは、卸小売業の店舗の大規模化である。




損益上の違い



売   上



製造業も卸小売業も売り上げに対しては、ほぼ同じような推移である。
ただ小売業の方がバブル崩壊後の落ち込みが大きいと思われる。

  

製造業と卸小売りの売上高の推移の相関図をを見てみるとバブル崩壊前までは一致した動きをしていたのが読み取れる。バブル崩壊後は、全く違う動きをしている。



費用構造の違い



費用に対する違いは、原価に対する考え方の差に由来する。
この点を正しく認識していないと小売業と製造業を比較する事が出来ない。
小売業の費用は、あくまでも販売の延長線上にあるもので、製造業の費用は、製造原価の延長線上にあるのである。

卸小売業と製造業の構造的な違いは、減価償却費によく現れている。減価償却費の原価に占める比率は、固定資産が増えたと言っても卸小売業では、7%前後であるのに対して、製造業では、16%前後と倍以上ある。
問題は、支払利息が95年を境に卸小売業と製造業で原価に占める割合が逆転している事である。95年はバブルが弾けた時と重なっている。

金融機関の主たる利益は、金利である。支払い利息の減少は、金融機関も本業で稼ぐ事ができなくなった事を意味する。

ただ、固定費の中で顕著なのは、製造業でも卸小売業でも支払利息が量も比率も著しく減少している事である。これは、金利の低下だけでなく、金融機関からの借り入れが減少している事を意味し、金融機関の経営体質にも影響を及ぼしていると考えられる。






売上高に占める固定費の比率が接近してきたと言っても卸売業と製造業の構造が根本的に変わったわけではない。



注目すべきなのは、支払利息である。製造業も卸小売業も人件費の比率が高まり、相対的に支払金利が減っている。
これは、資金の返済を優先している事と金利の低下を表している。貸付金の減少と金利の低下という両面から金融機関は、圧迫を受けていることが想定される。



固定費の構成の変化は、固定費の働きの変化を意味している。
人件費の絶対額が減少しているのに、比率が相対的に高まっているとしたら経済が縮小均衡へと向かっていると言っていい。
経済が縮小均衡へと向かう中で支払金利が圧縮され続ければ金融機関は機能不全状態に陥る危険性がある。



利   益


製造業と、卸小売業では、利益率に明らかに差がある。
製造業と比べて卸小売業り営業利益、大体1ポイントほど低い。
これは、どの時代でも凡そ変わらない。

売上高総利益率は、1960年は製造業と卸売業の間では、10%以上の隔たりがあったのに、2008年リーマンショック時には、ほとんど差がなくなっている。
これは、仕入れにかかる費用が2000年頃まで一意的に削減されてきたことによると思われる。それが2002年を境に売上高総利益率が低下してきている。

これは、卸小売業は、変動費が占める割合が大きいのに固定費に占める人件費が大きい事が起因していると思われる。

  

製造業は、初期投資が大きくてその反面、変動費率が小さい。損益分岐点を越えると大きな利益を上げる事が出来る。
製造業は、売上高に対して固定費が大きく、減価償却費の比率が大きい。固定資産の回転率は、卸小売業に対して低い。つまり、資本集約型産業である。

製造業に対して、卸小売業は、初期投資が小さくて済み変わり、変動費率が大きい。損益分岐点を越えても大きな利益は、期待できない。固定費の多くは人件費で、労働集約型産業だと言える。製造業に比べて卸小売業は利益率が総じて低い。

労働装備率と設備投資効率を比べてみる。

労働装備率=有形固定資産(建設仮勘定を除く)(期首・期末平均)÷従業員数
設備投資効率=付加価値額÷{有形固定資産(建設仮勘定を除く)(期首・期末平均)}×100

卸小売業の場合、付加価値というとほぼ売上総利益、粗利益に相当すると考えていい。

  

製造業・卸小売業共にバブル崩壊後著しく設備投資効率、即ち、有形固定資産に対する付加価値の比率が低下している。
考えなければならないのは、何が、設備投資効率を低下させたか。設備投資効率が低下した事でどこにどの様な影響が出るかである。一概に設備投資効率が低下した事は悪いと決めつけられない。低下した事によってどこにどの様な影響が出たかを確認しなければ、是非は問えないのである。
設備投資効率を低下させる要素としては、付加価値額が圧縮されるか、有形固定資産が増えるかどちらかである。
法人企業統計における付加勝ち額を算定する方程式は次のようになる。
[平成18年度調査以前]
付加価値額=営業純益(営業利益-支払利息等)+役員給与+従業員給与+福利厚生費+支払利息等+動産・不動産賃貸料+租税公課
[平成19年度調査以降]
付加価値額=営業純益(営業利益-支払利息等)+役員給与+役員賞与+従業員給与+従業員賞与+福利厚生費+支払利息等+動産・不動産賃貸料+租税公課
ここで注意しなければならないのは、営業純益の取り扱いである。わざわざ営業利益から支払利息を引いて営業純益を算出するのは、支払利息の働きを取り出すためである。支払利息の働きを取り出す事で、付加価値に対する支払利息の働きを浮き上がらせる事が出来る。大切なのは、方程式を用いて答えを出す事ではなく。方程式そのものの働きである。

顕著なのは、支払利息がバブル崩壊後急速に減少していると言う点である。支払利息が急速に減少した事で金融が本来の働きを発揮することが難しくなっていることが想定できる。金利も安ければいいという訳ではない。金利の働きが問題なのである。

製造業の有形固定資産回転率がほぼ一定なのに対して、卸小売業の固定の回転率は、急速に低下している。

営業利益率より経常利益率の方が差が窄まっているという事は、製造業の方が売上高に占める支払利息の割合が大きい事を意味している。



全体的に言えるのは、製造業と卸小売業の差が縮小してきた事である。これはどちらかと言えば、卸小売業の性格が製造業に近づいてきたことによると思われる。
つまり、労働集約的で人中心、中小企業中心だった商業部門が、大規模化、合理化、資本中心型へと変質している事を暗示している。それまで、余り初期投資を必要とせず自分の家を改造し、商品を売れば成り立っていた小売業も初期投資に莫大な資金を必要とし、個人事業者が給与所得者に変貌しつつある事を意味する。
業種によっては、製造業以上の投資が不可欠になりつつあると言える。

卸売業はより切実な問題として中間経費の削減の中、卸売業の存在意義すら問われるようになりつつある。
この点を安易に考えるべきではない。一体我々は、どこに向かって走っていこうとしているのか。

どの様な社会を築こうとしているのか。そのためにはどのような経済の仕組みを作らなければならないのか。カメ儲けだけが唯一の手段であるような社会を作ろうとしているのか。「お金」の動きや働きだけ見ていてもそれはわからない。

なぜ、小売業は、小資本で手軽に開業できたのか。我々は、大資本による産業が行き詰まったりした時や大資本では、対応できない仕事に対して、その隙間を埋めたり、また、多様性に対応できるようにするために、また、失業対策として個人事業者や社会的弱者が逃げ込める場所として小売業を確保していたのではないのか。かつて仕事がなくなった時、失業した時、屋台を引っ張り自宅を改造したりして、細々とでも自力で生きていける可能性を残していた。現代社会は、一旦、産業が成り立たなくなるとに銭を稼ぐことのできる仕事さえない。
多様性を否定し、総ての人間が一様、一律の生活をする様に強いる。それは社会主義も資本主義も変わりない。
貧しくとも自立自営できるような仕事を現代社会は奪いつつある。その結果、一度、経済が破綻すると街は失業者で溢れてしまうのである。

小規模、個人事業を否定することは、個人の経済的自立をも否定する事である。それは自由な経済に反する事である。
総ての人間が同じ方向に向かう事は、向かっている方向が好転している場合は良いが、逆転した時、総てが逆回転することを意味するのである。
統制経済が闇市場を生み出すように、多様性が市場からなくなれば、市場は、求心力を失い自壊するのである。


キャッシュフロー上の違い



年金や補助金、手当は、キャッシュフローを生み出さない。反対給付がないからである。経済の根本作用は、相互作用である。双方向の働きがなければ、経済は有効な働きをしないのである。そこに補助や手当の落とし穴がある。金だけでは片付かない事を忘れてはならない。
キャッシュフローを見るとバブル崩壊後の製造業と卸小売業の差が顕著に表れている。

  

第一に言えるのは、製造業は、バブル崩壊後財務キャッシュフローが急速に減少してはいるが、負の値にまで落ち込んではいない。それに対して卸小売業は、大きく落ち込んで一気に負(negative)の値にまで達している。しかも95年以降、財務キャッシュフローは常に負(negative)である。
製造業は、急速に落ち込んでいると言っても営業キャシュフローの範囲内までである。ただ、バブル崩壊後は、財務キャッシュフローを営業キャッシュフロー、言い換えると投資をフリーキャッシュフローの範囲内に収めようとしている事が読み取れる。

製造業も、小売業もバブル形成時に財務キャッシュフローが異常な動きをしていたのがわかる。それは、営業キャッシュフローと比較してみれば歴然としている。
財務キャッシュフローと連動して投資キャッシュフローも異常な動きをしている。

また、リーマンショック時、営業キャッシュフローは、製造業の方が卸小売業よりも激しい動きを見せている。






営業キャシュフロー


営業キャッシュフローはオイルショック時に卸小売業界が受けたダメージ大きさを示している。ただ、傾向的には、製造業に対して一年程度遅れて卸小売業界に反応が出ている事が読み取れる。



営業キャッシュフローは、財務キャッシュフローや投資キャッシュフローとは違って卸小売業と製造業で大きな差があるわけではない。



投資キャッシュフロー


投資キャッシュフローは興味深い動きを見せている。85年、プラザ合意前は、常に製造業は支出超過、即ち、投資がされていたのに対して卸小売りは、収入超過、即ち資金の回収が優先されていたのがプラザ合意後は、バブルが崩壊する91年までは、製造業、卸小売業共に大幅な支出超過、即ち投資がされていたことがわかる。



投資キャッシュフローは、興味深い動きを見せている85年のプラザ合意以前、円高不況になる前は、あまり景気変動に製造業に比べて卸小売業は左右されていないように見える。それが、円高不況後は、製造業の動きと同じような動きを見せている。
投資に対する経営者の姿勢が変化した事がうかがえる。



財務キャッシュフロー


財務キャッシュフローは、製造業と卸小売業との違いをはっきり示している。
特に、バブル崩壊後、卸小売業が財務的に苦しい状況に置かれたことが読み取れる。



製造業、卸小売業の財務キャッシュフローは、共に、急速に低下している。バブル崩壊後、卸小売業は、一方的に2002年まで下げ続けている。それに対して製造ぱょうは、94年から97年、99年から99年にかけて、そして、2002年から2005年にかけてと幾度か持ち直している。卸小売業界も改善にしているとはいえ、20013年現在、負の値にとどまっている。

フリーキャッシュフロー


フリーキャッシュフローは製造業と卸小売業は、概ね一致した動きを見せているがリーマンショック時は対称的な動きを見せている。また、オイルショック時のダメージは、卸小売業の方が大きかったことがうかがえる。立ち直りも製造業の方が早かったように見える。円高不況の谷は、製造業も卸小売業も深かった。




CCC=営業サイクル-支払債務回転期間=棚卸資産回転期間+売上債権回転期間-支払債務回転期間






       

このホームページはリンク・フリーです
ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2015.5.8 Keiichirou Koyano