躾というのは、本来,仕付けと言う意味なんですよね。
つまり、仮縫いという意味なんですね。
子供が自分の考えや思想を形成するまで、仮縫いしておくという意味だったんです。
ところがいつの間にか、お仕着せの意味にすり替わってしまった様に感じます。
仮縫いは仮縫いなんです。ギシギシにするものではない。
だから、仕付けというのは、人と人との人間づきあいに必要な礼儀作法を教えたんです。ところがいつの間にか形式主義になってしまった。
それでは、基本的な礼儀作法を教えなくていいのか。
そうなると今度は、集団生活ができなくなる。
だから、自分なりの人間関係を作れるまでの間、仮縫い的な作法というものを教えておく必要はあると思うんですけど。

仕付けと言う言葉の意味合いから、日本人は、本来自分の価値観は、自分で経験的に創り出すものだということが解っていたと思うのですが、いつの間にか、植え付けてしまう。枠に填めてしまうと言うふうに勘違いしてしまった気がしますね。
でも日本の伝統的な教育は、経験主義的なもので枠に填めるようなものではなかったと思います。

仕付けというのは仕付けなんです。
仮縫いなんです。
できあがりは、仕付けに左右されるけれど、仕上がりではない。
なぜ、仮縫いをするかというと、
体型や好みと言った個性が一人一人違うという事を前提としているからです。
仮縫いをする時は、一人一人の個性に合わせて、
仕上がり具合をある程度、想定しなければならない。
だから。仮縫いの時、一度手を通してもらう。
デザインについては、仮縫いをする時、
その服を実際に着る当人と打ち合わせをする必要がある。
仕立屋が勝手に決めるわけにはいかない。
相手の個性を無視してお仕着せをしても駄目。
奇抜で特殊なものを無理矢理着せようと言っても
当人に合わなかったり、気に入らなければ、
最初から無理がある。
最終的にどの様な人間、人格を育てるかが、問題なのである。
それがわからないと仮縫いはできない。
仮縫いされ、更に仕上がったものに
反抗と服従を繰り返しながら、
自分のものにしていく。
そして最後に仕付け糸がはずされる。
仕付けというのは、身を美しくとも書く。
これは、昔の人の知恵だと思う。
つまり、仕付けの基準は、善悪と言うより、美醜。
つまり様式的なもの。
行儀作法や礼儀作法で、思想性の高いものは避ける。
仮縫いなのだから、とりあえず人付き合いをしていく上で
最低限必要な、知識、マナー、モラルを教え込む。
そこで問題となるのが、
基礎となる倫理観は、アプリオリなものなのか、アポステオリなものなのか。
この議論が延々続くのである。
生物学では、学習理論とローレンツ博士のように
ある程度プログラムされていると・・・。
今は、どちらでもなく双方の折衷的なところに落ち着いているみたいです。
ぼくは、存在の在り方と、環境、そして、最初に刷り込まれるものというふうに考えています。
いぜん、物理学教室での議論の最中、担任教授からあなたは、プラトニアンかアリストテリアンかと質問されて、びっくりしました。
物理学の様な基礎科学でもこの様な素養が必要なのです。

礼儀や作法が廃れた原因の一つは、我々にあると思います。
僕らの世代が何でもかんでも形式は悪い、形式主義は悪だとぶち壊したことに原因があると思います。
形式主義と形を重んじるという事を混同して、何が何でも形式悪いと。
魂、内容の伴わない狭量の
形式主義は悪いと思います。
しかし、だからといって形を捨てたら、日本の文化そのものを否定する事になる。
僕は、価値基準には、真善美があり、そのバランスだと思います。
梅原孟は、日本人の価値観は、美にあると言われてます。
確かに、僕もそう思います。
日本人の教育観は、道という言葉に現れていると思います。
それが、美意識にまで発達した。
それが、華道、茶道だと思います。
日本以外の国は、善と真を重んじる傾向がある。
しかし、日本文化のしなやかさ、健全さは美意識にあると思います。
その美意識が危機に瀕している。
日本人の教育観は、基本的に道だと思います。
道というのは、修験、修業、つまり、経験主義なのです。
世界の教育界では、経験主義こそ理想の教育と言いながら、それに成功した例がありません。
日本人は、経験を通じて子供を育ててきた。言葉を重んじてこなかったように思えます。
僕は、それが道だと思います。剣道、柔道、華道、茶道の道です。どれもが形を重んじている。
ところが、道という思想を陳腐な処世訓、道徳訓のようにしてしまった。
まあ、道徳という言葉も道の徳ですけれど。
儒教では、仁義礼智信。仁義礼智忠信孝悌。いずれにしても道徳というのは、単元的なものではありません。
それを旧いの一言で全否定してしまった。
僕は、言うのです。事の正否善悪に、新旧老若男女の別はない。
道という言葉は含蓄のある言葉です。

一口につしけと言っても
いろんなものがあります。
特に日本は、明治維新前は、沢山の藩があり、
その藩ごとに仕付けが違ったのですから。
それを十把一絡げで片付けられたらたまったものではない。
仕付けというのは、庶民的なもので、御上がするものではない。
その議論もされていない。
むしろ今の議論で一番危険なのは、
仕付けも御上がしてくれと言う議論です。
それが、誰も解っていない。
躾が悪いからどうだというのか。
その躾を自分達がするのか、
国がするのか。
では何を躾るのか。
何を躾て欲しいのか。
先ず、自分に問うことから始めないと。
仕付けは、元来は過程ですべき事なのです。

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