学校の先生というのは、まあ、ゴルフの世界で言えば、ツアープロでも、レッスンプロでもない。では何のプロだ。考えてみると、よく解らない。それが問題なのだ。
 今の時代というか、学校教育の世界では、生徒が先生を選べない。しかし、かつては、弟子が師匠を選んだ。自分が選んだ師匠であるから、弟子は、簡単には、師匠から逃げられない。だから、弟子は、師匠を尊敬もしたし、勉強もよくした。
 自分の生き方から相容れないような考え方を強要されることもなかった。まあ、時には、悪さをして、土地の寺に小僧に出されると逃げ出したりもしたみたいだが。まあ、それでも、相当の覚悟をして弟子入りをした。
 今の学校にはいるのに、相当の覚悟など必要としないかも知れないが、反面、思い入れも薄くなった。その分、勉強もしない。
 人は、自分の経験を敷衍化する傾向がある。結局、今も昔も変わらない。世の中の、皆、同じだ。自分が、勉強が面白くなければ、誰だって面白くないと決めつけてしまい。勉強をしなくなる。今日の日本を何が支えてきたのか、自分達が勉強しないとどうなるのか、理解もしないで。
 なぜ、学校には、プロの先生がいないのだろうか。ゴルフのレッスンプロと学校の先生のどこが違うのだろうか。いったい、何が欠けているのだろう。
 第一に、何を教えるのかが解っていない。次に、どう教えればいいのかが解っていない。最後に、最終的に、どうしたいのかが、解っていない。だから、教えることができないのである。
 ゴルフのレッスンプロは、相手が何を教わりに来ているかが解っている。プロとして教え方が解らなければ、やっていけない。だから、教え方を、必死に考える。そのうえ、生徒が最終的にどうしたいのかを理解している。どうしたいのかが、ハッキリしていれば、教え方も変える。それが、プロである。相手が初心者なのか、プロを目指しているのか、ただ単にスコアをあげたいのか。それが、解らなくては、プロではない。大体解らなければ相手に聞く。相手に合わせてレッスンをするし、生徒も先生が気に入らなければ、先生を変える。相手の話を聞かなければ、ゴルフのレッスンプロはやっていけない。
 親や子供が何を望んでいるのか、どうしたいのか。将来何になりたいのかは、当人に聞いてみないと解らない。先生が勝手に決めつけることはできない。しかも、事の本質は、その人の人生、生き様に関わる事だ。自分の思想と合わないからといって子供の親を悪し様に罵る権利は、教師にはない。生徒を自分の信条で政治闘争の具にする事は許されない。要は、相手の意見をよく聞く事と、子供達をよく観察する必要がある。
 だのに、学校の先生という人種は、人の話を聞くのが苦手である。しかもいつも、人を高見から見る癖がついている。だから、相手と同じ目線で物を見たり、考えたりするのが下手だ。自分では、そのつもりがなくても、相手が、いつも下手に出て、たてまつるものだから、知らず知らず、人を一段下に見るようになる。先生商売の一種の職業病である。
 教育の当事者である教師は、特に、母親や子供の話を聞く事ができない。といより、聞きにくい、話しにくい環境におかれている。そくな事はない。父兄や保護者の話をよく聞いていますよと反論する先生がいるかも知れないが、生徒や親からすると、先生は、いつも先生である。聞くとか話と言うよりも、教え諭されているようにしか思えない。結果、聞いていない。
 人の話を聞かないという事は、人から学べないという事になる。学ぶ事のできない者は、人に物事の道理を教えられるはずがない。滑稽な話である。教える事のプロが、実は、教える事が苦手だと言う事である。これで、教える事のプロになれと言うのは、馬鹿げている。
 人の意見を聞かず、学ぶのも下手だとなると、どうしても、独善的になる。物事を決めつけてかかる事になる。そうしなければ、人を教えるなんて事はできない。しかも、先生の多くが社会経験が少なく、世間知らずときたら、推して知るべしである。
 しかし、その事に先生自身も、生徒も、父兄も解っていない。それが、不幸の始まりである。
 徒弟制度を封建的かもしれないが、学校教育は、独裁的である。確かに、徒弟制度にも悪い面がある。特に、以前は、封建的なしきたりに縛られてもいた。劣悪な労働環境で、非人間的な扱いを受けたケースもあった。また、非効率な指導法でもあった。
 確かに、徒弟制度というのは、マンツウマン、一対一の教育である。経験や一人一人の個性を基礎にするために、教科書のようなものを頼るわけにはなかなかいかない。教える者の経験と勘に頼るしかない。しかし、その徒弟制度が、貴重な技術の伝承に役立ったのは確かだ。しかも、徒弟制度というのは、全人格的な教育でもある。徒弟制度の全てが良いとは言わないが、徒弟制度は、教育の一つの在り方を示唆している。
 なによりも、徒弟制度では、何を、どのように教え、最終的にどうしたいのかが、ハッキリしていた。徒弟制度を批判するならば、教育者は、少なくとも、自分達が、何をどのように、そして、最終的にどうしたいのかをハッキリさせる必要がある。
 本来、師とは、何か。それは、人生の師である。人生の師は、人生の師になる前に、人生の達人でなければならない。それは、聖人君子になれと言うのではない。よりよく生きてきたかどうかが問題なのである。
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