なぜ、人は、自殺を、悪いと言わないのだろう。
確かに、弱い者いじめは、悪い。しかし、だからといって、「いじめられた。」と、死んではいけない。
いじめは、悪いという前に、「自殺はいかん。」と、先ず、言うべきだ。
以前は、よく言われた。「死ぬ気になれば、何でもできる。」と。「死んだ気になって、やり直せ。」と。
ところが今は、そう思う前に、死んでしまう。歯止めが効かない。生きていくのが嫌だから、辛いから、もっと酷いのは、面倒くさいからといって死んでいく。
お釈迦様は、人間には、三つの欲があるといわれた。一つは、食欲や性欲といった、肉体的、生理的欲望。二つ目は、生きたいという欲望。そして、三つ目に死にたいという欲望である。これは、慧眼である。死にたいという欲望を人は、本然的に持つとお釈迦様は言われている。そして、この三つの欲を断つのが、修行の目標としているのである。
自殺は、自分を生かしている者、全てを否定する事である。そう、自分自身をも否定する事である。自分を生かしている者、それは、家族であり、社会であり、国であり、自分を愛する者達である。自分を愛する者達を信じる事ができない。だから、自殺するのである。
自分を愛する者達に、強烈に苦しみを残しながら、全てを否定しさってしまうのが、自殺である。
現代の日本人の自殺は、武士の切腹とは違う。武士には、守るべきものがあった。矜持や誇りがあった。武士は、守ろうとして、守り切れぬもの一切合切を、自分が背負い込んで、死んでいくとったのである。今、自殺する若者の多くは、生きたくても、生きられないが、故に、死んでいくのではない。自分が死んでも、守らなければならないものが、あるから死んでいくというのでもない。逆に、守るべきものがないから死んでいくのである。自殺者以外には、何の必然性もない自殺なのである。死にいく意味がない。ただ生きていくのが辛くてめんどくさい、それだけの理由で自殺していく。だから、残された者達に、たとえようのない、自分の存在を全て否定されてしまったような、苦しみを残すのである。一番苦しむのは、自分を一番愛している人達だ。それは、ただ単に身勝手な死だ。
試験に失敗したくらいで死ぬなよ。失恋したことくらいで死ぬなよ。いじめられたことくらいで死ぬなよ。嫌なことがあったからといって死ぬなよ。生きようよ。
なぜ、現代人は、愛を教えようとしないのだろう。離婚しない理由は、子供がいるから。違うだろう。愛しているからだろう。愛がないなら、分かれた方がいい。愛がないという事は、存在を否定する事なんだ。家族にとって愛がなければ、家族を否定する事。愛を知らないから、自分の存在を否定して、自殺する。愛は、性欲や快楽とは違う。愛は、行為ではない。人間、本然の情である。失楽園や不倫を賛美するのは、本然の愛を快楽のために、背かせているに過ぎない。それを愛というのは、あまりにも薄汚い。
愛って、愛される事ではない。愛する事。愛するからこそ、守ろうとするんだ。それがなくなったら、存在すら意味がなくなる。愛されたいと思うから、死にたくなる。人の愛をあてにしたところで、それは、確かめようのない、不確かなものにすぎない。愛する心の確かさからみたいら、幻のようなもの。
故郷を愛そうよ。そうしたら、自分の故郷をよくしようとするさ。何も、それは、保守的になれといっているわけではない。国を愛そうよ。国を変革しようとする者に、愛国心がなければ、それは、ただの破壊にすぎない。愛国心は、理念じゃあない、情なんだ。愛する事を教えようよ。
いじめられたことを理由に自殺していくのは、卑怯だ。立ち向かっていって、それでも駄目なら、逃げればいい。逃げることを卑怯だというなら、自殺することの方がもっと卑怯だ。生きることを考えようよ。
神は、私たちを生かしてくださる。自殺は、この神の究極の愛を否定する事になる。生きているという事は、神の愛だ。誰も自分を愛してくれないと思う前に、この神の愛を、受け入れ、信じようよ。
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