経済原理(見出しつき)

はじめに


 経済というのは、生きる為の活動を言う。経済は金儲けを指して言うのではない。

 経済が生きる為の活動というのならば、経済活動の基本は生きる事であり、生かす事である。しかし、経済の目的は、それだけではない。経済は、人を人として生かす事にある。

 経済の仕組みや施策の目的は、人々を幸せにすることにある。過半数を超える人々が幸せになれない社会があったとしたら、それは、経済構造に何らかの欠陥があるという事である。
 戦争の根本原因は、経済にある。通常の経済的手段が破綻する事によって戦争は起こる。戦争は人を不幸にする。戦争は、経済的破綻が人を不幸に導く例証なのである。
 経済の目的は人を幸福にする事である。では、何が人を幸せにするのであろうか。幸せとは何か考えてみよう。幸せとは、幸せだと感じられる状況である。

 お金があるからと言って、幸せになれるとは限らない。時には、お金は人を不幸にする。偉くなれば、幸せかというと、偉くなったら偉くなったで、それなりに気苦労も多い。愛人を沢山かかえても、心が満たされなければ、幸せとは言えない。総ての人を同等に扱えば幸せになれるのかというと、必ずしも、総ての人が、幸せになれるとは限らない事を、歴史は明らかにしている。

 幸せとは何かと言う問題は、人間とは何かという根本的問題に根ざしているのである。
 幸せになるために必要な事は、一つは、自己実現が保証されている環境と、もう一つは安心して生きる事のできる環境である。
 しかし、いつどんな時に幸せだと感じるかは、千差万別、一概にこれだという答えは見つからない。
 だとしたら、なにが人を不幸だと感じさせる状況かを考えた方が、むしろ、いいかもしれない。では、不幸だと感じさせる状態とはどんな状態を指すのであろう。幸福や不幸というのは、その人その人が感じる事である。何が人を幸福だと感じさせ、何が人を不幸だと感じさせるのか。不幸の原因を知るためには、不幸だと感じさせるのは何かを明らかにする事である。
 何が人を不幸と感じさせるのか。不幸と感じさせるのは、不安や恐怖、満たされない思い、飢え、別離、そして、惨めさだろう。生きていく為に必要な資源が確保できなければ、人は幸福にはなれない。
 飢えは人を不幸にする。寒さを防ぐ服がなければ人は生きられない。雨露を凌ぐための家も必要である。ただ、人間は、飢えや寒さや雨露を凌ぐだけでは満足できない。できれば美味しい物を食べ、又、気に入った服を着て、より快適な家に住みたいと思う。さらに、自分の希望や夢、また、より有意義な生き方をしたい、即ち、自己実現を望むものである。
 不幸な状態は、病気、戦争、内乱、無秩序、老化、孤独、疎外、また、馬鹿にされたり、無視されたりする惨めな状態等も考えられる。要するに自分の生存を危うくされる状態や自分の存在が認められない事があると人は不幸だと感じるのである。
 では、人を不幸にする原因にはどの様なことが考えられるたろうか。第一に、貧困、第二に、差別、第三に、無法状態、第四に、抑圧的状況、第五に危機的状況である。
 第一に物質的に恵まれない、特に、その日の食事にも事欠き、生きていく事さえ困難な状態では、なかなか幸福にはなれない。
 又、不当な差別や超えられない格差があったら幸せな気分にはなれないだろう。
 いつ生命、財産が奪われるか解らない、戦争や騒擾状態では安心して寝る事も、生きていく事も叶わない。
 自分の自由が奪われ、いろいろな制約や規制によって抑圧され、或いは隷属を強いられていたら幸せな気分にはなれまい。夢や希望が持てず、八方塞がりで、自己実現ができる可能性もない環境では、幸せにはなれない。
 いつ破産するかも解らない、いつ争いが始まるかもしれない、皆が相争い憎み合っていたら幸せな気分にはなれまい。
 経済学とは、これらの問題を解決するための学問である。
 ただ、市場の動きや景気を分析することが経済学の目的ではない。
 経済学は人を幸せにするための学問なのである。

 経済学は、生を考え、病を考え、老いを考え、死を考える事である。

 経済の話というのは金儲けの話ではない。人の生き様の話しである。
 経済は生きるための活動を言うのである。何を食べて、どんな家に住み。どんな仕事をするのか。そんな話しが経済についての話である。
 では、お金の話は関係ないのか。そうではない。今日、生きていく為に、お金は、必要不可欠な物である。だから、お金の話も大切である。
 ただ、経済の目的は、金儲けにあるわけではないと言いたいのである。
 金のためなら、平然と人を殺したり、人を騙する者がいる。金のためなら人殺しでも、詐欺やペテンでも何でもできるというのは、金さえあれば、何でも手に入ると錯覚しているからである。だから、金のためなら親を騙したり、親友を裏切ることもできる。しかしそれこそ、経済に対する誤解の最たるものである。
 金では愛情や親友は買えないのである。しかし、生きていく為には、愛情も友達も重要な役割を果たしている。生きていく為の活動が経済だとするならば、経済は金では計り知れない事がある。金は人を不幸にもする。経済の目的が人を幸せにするというのならば、金はその目的を逸脱させる事もある。
 経済は金が総てなのではない。金儲けは経済の手段であって経済の目的ではない。
 金のためなら何でもするというのは、金のために生きていることを意味している。人は、生きる為に金を必要としているのであり、金のために生きるというのでは、本末転倒である。経済とは、本来、生きる為の手段、生かすための手段なのである。
 経済の目的は、人々を豊かにする事で、人々を貧しくする事ではない。

 問題は真の豊かさとは何かである。それを見誤ると豊かさを求めながら、結果的に貧しくなる。

 経済は、暴力的手段に依らないことを前提とする。盗みや詐欺、略奪、強盗と言った経済的犯罪は、経済的手段が破綻することによって生じる。戦争や革命は、経済的手段としては破綻している事を意味する。要するに盗みや強奪と変わりないのである。

 また、戦争時や革命時は、通常の経済的手段が効力を失うことを意味する。
経済の仕組みは、平和を前提として成り立っているのである。

 犯罪は法を定めて人が作り出す。経済的犯罪も人が作り出したことである。
 一般に経済的行為において暴力的手段を用いる事は、犯罪として見なされる。
 経済は、暴力的手段に依らない事が原則なのである。
 暴力的な手段でしか経済の問題が解決できなくなったら、それは経済自体が破綻していることを意味する。

 経済では、事象が価値を生み、価値が事象に作用する。
 故に、経済を制御するためには、現象の働きを正しく理解する必要がある。

 市場経済では、経済事象を直接制御する事はできない。
 経済の仕組みを作ったうえで、貨幣の供給量を制御する事で経済を制御するのである。
 だから、経済現象を引き起こす基礎の構造、仕組みが鍵を握っている。
 経済に歪みがあるとしたら、土台にある経済の仕組みに問題があるのである。
 経済の仕組みは人工的構造物である。
 経済は、神の問題ではなく。人の問題である。

 一方で、飢えに苦しみ、餓死していく人々がいるというのに、もう一方で、何万人も食べられるだけの食料が倉に蓄えられ、或いは腐り、捨てられているとしたら。
 又は、住む家もない人々が、貧しいあばら屋で生活し、ホームレスが増えていながら、もう一方で、何十万人もの人々の家を建てるだけの資材と土地が余っていて、また、多くの空き室、空き家があるとしたら、それこそ、経済の仕組みがおかしいのである。
 だから経済について話し合う必要があるのである。


経済の目的



会計の教科書においても企業経営の目的は、利益を上げる事だと公言してはばからない者が多く見受けられる。

しかし、お客様にお宅の会社はどう言う目的で商売をなさっているのですかと聞かれた時、金儲けのためですよだなんていったら、相手は腰が引けてしまうのではないだろうか。
少なくともその会社から何かを買おうという気は失せてしまうだろう。

一方で、金、金、金と利益至上主義のような思想が蔓延し、もう一方で、利益に対する嫌悪、生理的な嫌悪感まで持つような考え方が蔓延している。
こういった両極端な考え方は、社会のみならず、人間の人格まで分裂させようとしている。
その結果、社会を分裂させるだけでなく、精神に異常をきたす人間を大量に発生させているのである。
物質的に豊かになれば、幸せになれると人間は思い込んでいた。
しかし、物質的に豊かになったからといって精神的に豊かになれるとは限らない。
物質的な豊かさを追求している内に、人間は本来の目的を見失ってしまったのではないだろうか。

その典型が利益を目的化する事である。
金儲けは手段に過ぎない。金儲けは目的にはならないのである。

現代社会は貨幣経済と市場経済を下敷きにして成り立っている。その結果、お金が全てであるように錯覚している。
少なくとも経済はお金で動かされていると思い込んでいる節がある。

そして、利益とは何かと言う事、これは資本と言う事に対しても同じであるが、明確な定義もされないまま、利益は是か非かという議論をしている。

そして、いつの間にか利益は目的化され、経営主体は利益を上げるために存在しているかのように思い込まされる。
経営主体、即ち、企業の社会的役割はどこかに行ってしまい。
企業は、ひたすら利益だけを追求する機関のように思われている。

利益が経済の全てであるとか、利益は経営行為の目的だと考えるのは、間違いである。
利益は、経営状態を測るための手段である。

経済は、生きる為の活動である。
人々が生きていく為に必要な物を生産し、分配し、消費する一連の活動が経済の原点である。
そしてその根本は今でも変わらない。
世の中に有用な物や用役、権利の生産と消費、分配が経済本来の目的である。
利益も経済指標である限り、その根本から離れる事はできない。
離れるどころか、利益こそ、その根本を測るための手段なのである。
その点を見落とすと利益の目的は明らかにする事はできない。
その目的から逸脱しているが故に、利益は本来の働きを発揮する事ができないのである。

利益は、経済効果を測る指標に過ぎない。
利益は、極めて会計的な指標だと言える。

利益は、収益から費用を引いた金額である。
売上も費用も、勘定に過ぎない。売上は収入ではない。費用は支出を意味するわけではない。収入を伴わない売上もあるし、売上に依らない収入もある。支出を伴わない費用もあるし、費用に依らない支出もある。
故に、利益は、収支に直接関わっているわけではない。

この事は、資金の流れと利益とが直接関わっているわけではない事を表している。
しかし、利益と資金の流れとは深い関係がある。そして、相互に影響を及ぼしている。
利益は、むしろ、実際の取引、即ち、財の流れに即していると言える。
それが発生主義、実現主義の根拠でもある。
実体の取引、物の効能にあわせて資金の流れをあわせていると考えた方がいい。
そのためにお金のやりとりと会計上のやりとりとの間に時間差が生じるのである。

利益は、単なる結果ではない。
利益は経営主体の行動規範に作用する。
経営者の行動規範を制約する。行動規範に抵触すると言う事は、経営主体の価値観、倫理を形成する要因でもある。
経営主体は、利益のために、法を犯したり、また、環境を破壊したり、仲間を裏切ったり、嘘をついたり、解雇したり、客に不利益な事をしたり、敵対する国を利したり、人を出し抜いたり、時には人殺しまでして、生活に必要な資源を貧しい人から取り上げたり、健康に悪いとしていながら供給したり、暴力的になったり、人を争わせたり、浪費を促したり、欺いたり、年寄りを騙したり、脅迫じみた事すらする。
それは、利益に対する目的の設定を間違っているからである。
利益を単なる金儲けの手段としてしか見ていないのである。

利益は、経営の実体を測るための手段である。
利益には、利益を測定する目的がある。
黒字には黒字の赤字には赤字の理由や原因がある。
それが重要なのである。利益は結果だけが問題なのでない。
結果だけ歩問題として資金の供給を決めるから会計上の利益は、極めて不利益に事になるのである。

利益の目的は、金儲けにあるわけではない。
利益が目的化すると経済本来の生産や消費、分配に支障をきたす事がある。
その結果、格差の拡大や戦争、貧困、環境破壊が起こるとしたら本末を転倒している。
重要なのは、利益の必要性である。
利益は手段であって目的ではない。

利益の結果は、最終的に資金の流れに還元される。
利益の結果を見て資金を供給する者は、資金を供給するか、回収するかを判断するからである。

利益は、一意的に決まる事ではない。
利益の出し方は、一意的に決まるわけではないのである。

利益の出し方は、個々の産業や企業によって違いがある。
利益を出す仕組みの事を近年ではビジネスモデルなどと言う。
そして、ビジネスモデルによって同じ産業でもまったく違ったやり方で利益を出している場合がある。
それは、個々の企業が置かれている状況が例えば企業規模だとか、市場の占有率だとか、後発だとか、資金量が違うだとか、どこかに部分に特化しているとかによって違ってくるからである。

利益の出し方に違いがあるからと言って個々の経営主体が利益を上げる根拠や要因に不正があるとか、妥当性がないわけではない。

問題なのは、利益の目的が明確ではない点にある。

人を騙したり、誤魔化したり、欺いたりそうしなければ利益を上げられない仕組みになってしまうのである。
利益を上げると言う事で総てが正当化されるというのに、利益を上げなければならない目的が明確に示されていない。
利益を上げると言う事で総てが正当化されるわけではない。
利益を適正に設定しないと豊作貧乏や大漁貧乏のような事態が引き起こされるのである。
問題は、利益の設定が世の為、人の為になっているかである。つまり、社会的効用と合致しているかなのである。

利益の目的が世の中のため人の為に合致しているか、それは費用との関係で決まる。
費用は、利益の源である。利益の源泉は、収益にあるわけではなく、費用にある。
この点にも重大な錯誤がある。

現代の経済では規模の経済、スケールメリットが働いている。
そして、スケールメリットを成り立たせているのは、大量生産、大量消費である。
大量生産は、生産手段、設備に対する初期投資を前提としている。
最初に巨額な初期投資をして、それを長い期間掛けて回収する事を前提として成り立っている。
そこで成立したのが減価償却という思想である。

減価償却費を資金の流れと切り離して考えるのは、費用対効果が正確に測定できなくなるからである。
第一に、減価償却費は生産手段の劣化から生じる費用である。
第二に、元本の返済原資と言う働きがある。第三には、更新設備の準備金と言う意味もある。

利益の働きと減価償却の関係は、資金の流れを介して表裏の関係にある。
なぜならば、利益と非償却資産(土地)、そして、税が利益配分の重要な部分を構成している上に、借入金の元本の返済をの原資は、利益と償却費の和から求められるからである。
そして、収益が悪化した時、この資本を担保として資金調達が図られるからである。そのために、利益がある。

つまり、利益の目的は、収益による必要な費用の確保と収益が悪化した時、更新投資のための準備資金を蓄えるという事が含まれるのである。
中でも、費用対効果を計測して必要な資金を調達すると言う事が重要となる。つまり、費用が利益の根拠となるのである。

利益に対する無理解から、利益は余剰資金であるかのような錯覚をしている人が多くいる。
その為に、利益を全て外部の人間や機関に放出すべきだと考えている。
法人税や配当金、経営者の報酬によって利益を配分し、内部留保を残さない事が正しいというのは重大な錯誤である。
しかし、利益には資金的な裏付けがあるわけではない。むしろ、利益は、資金の流れとは無縁である。利益を対象にして課税をすれば、税金を納めるために、企業は、借入を起こさなければならなくなる。
なぜならば、利益は、借入金の元本の原資だからである。
かつて政府は、利益を蓄積する事自体悪い事だとして、内部留保に課税までしようとした。この事は、利益や資本に対する基本的認識が欠如しているからである。
この点で言えば、償却が終わっていながら、借入金の元本の返済が終わっていない場合、費用が計上されずに利益が生じる。この利益に課税をした場合、資金的裏付けがないために新たな借入金を起こさないかぎり、納税資金を賄う事ができなくなる。これが黒字倒産の一因でもある。また、この様な納税資金は、設備の更新資金を奪う事になる。
減価償却費、資金計画、税金の関係は、資金の流れと絡めて考える必要がある。利益があるからと言って儲かっているとは限らないし、赤字だからと言って儲かっていないとは限らないのである。

この辺の絡繰りが解っていない為政者や金融マンは、自分達は、正しいと思ってやった事が、善良な企業を破綻させる原因を作っている事にもなる。

費用は所得を形成する。
要するに、費用とは、配分の根拠を意味している。
利益は、何に対して費用を支払ったかの妥当性の問題である。
費用を悪者にし、何が何でも費用を削減する事は善だとしたら、所得は失われるのである。
費用というのは、何が社会的に必要とされるかによって決まるのである。
それを測定するのが利益である。
だからこそ何の制約もなく費用を削減する事は経済活動を否定する事になるのである。
そして、費用と収益の関係が経営主体の経済効果を定めるのである。
その妥当性を判定するために会計がある。
そのための指標が利益である。
利益を調べる事で利益を出すための仕組みや過程、論理の正当性を評価するのである。

利益は、経営効果を測る手段である。
では、人は、どの様な目的で、何を、どの様にする事によって利益を測定しようとしているのか。
その点を明らかにしないかぎり、利益本来の意味堀解する事はできない。

経営主体を実質的に動かしているのは、資金の流れである。
そして、資金を経営主体から回収し、資金を再循環させる働きをしているのが税金である。
税には、又、経営主体の経営活動の結果を社会に還元する働きがある。
経営主体の働きは、費用対効果として表される。

資金の流れと税、利益は密接な関係がある。ところが、資金の流れと利益、税の構造とが結びついていない。
それが経済現象を歪める原因となっているのである。
それは資金の働きと利益の働き、税の働きが理解されていないからである。

利益というのは、全て余剰な事だから、分配してしまえと言う考えもある。しかし、利益は余分な事ではない。利益というのは何度でも言うが指標である。利益を全て分配してしまえと言うのは乱暴な話である。
利益には長期的な働きと短期的な働きがある。長期的な働きは資本として蓄積される。

経済の拡大局面では、費用が梃子の働きをして、収益を押し上げていく。逆
に、縮小局面では、収益が梃子の働きをして、費用を押し下げようという力が働く。
また、拡大局面では、負債が梃子との働きをして資産を押し上げ、縮小局面では、資産が梃子の働きをして負債を削減しようとする力が働く。
経済は拡大と縮小を繰り返している。
拡大局面は良くて、縮小局面は悪いと強(あなが)ち決められないのである。
拡大も、縮小も一つの局面である。縮小局面は、停滞とも言えるし、成熟とも言える。市場が縮小しているのは調整局面だと言えるのである。
その時に間違った施策を採れば経済の仕組みを壊してしまう事がある。
拡大局面で景気を過熱させたり、縮小局面で景気を悪化させるのは為政者や金融機関である。

収益というのは、変動的なのに対して、費用は固定的で硬直的である性格がある。
それらを前提として外部環境を考慮した上で利益の状況を判断しなければ利益の指標としての働きは無意味である。
赤字だから悪くて、黒字だからいいと短絡的に判断したら利益を測定する意味はない。
なぜ、赤字なのか、なぜ黒字なのかが問題であり、それによって資金を供給すべきか、取引を継続するかを決めるべきなのである。

ところが、現代の日本の金融機関は、支払能力、即、担保力でしか利益の意味を理解していない。
そのために、資金が不足している場所から資金を回収して余剰の資金を持っている所に供給するなどと馬鹿げた事を平然と行うのである。
それは、利益の目的や意味、働きを正しく理解していないからである。

かつて、ある映画が倫理的に問題があるとされた。しかし、その映画が当たると儲かるからいいじゃない、経済効果があるから良いじゃないとその映画の倫理的な問題は、消えてしまった事がある。
根本には言論の自由とかなにか、又、道徳とは何かという問題がある。それを儲かったからいいではないか式に問題を片付けてしまったら、それは決して表現の自由を擁護した事にはならない。

言論の自由が問題とされる時、一番先に問題とされるのが猥褻の基準である。しかし、言論の自由は、猥褻に限った事ではない。しかし、猥褻が真っ先に問題とされる背後には営利主義がチラつく。要するに儲かるのである。
こんな事を許していると全ての価値観が貨幣価値に支配される事になってしまう。
問題は、利益を追求する事ではなくて、利益を追求する目的と社会の厚生が一致していない事なのである。
だから、利益を追求すればするほど、人も社会も不健康で退廃的になるのである。
それは利益自体が悪いのではなく。
利益の設定の仕方と、利益に対する解釈の仕方に問題があるのである。
利益を一概に悪だと決めつけるのも、利益をいたずらに追求する事も結果として同じである。
人を不幸にするだけである。
正しく利益を認識し、設定する事が求められているのである。


経済は、認識の上に成り立つ事象である。



 経済は、認識によって形成される事象である。経済の働きは、意識が生み出す事である。

 経済上の出来事は、ある物ではなくて、する事である。経済は観念の所産である。
 経済空間は、人間の意識が生み出した空間である。
 認識は、対象と自己との関係の上に成り立つ相対的事象である。対象とは、絶対的存在物であり、その物自体をその物自体で識別する事はできない。
 対象を識別するのは自己である。自己とは、主体であると同時に間接的認識対象である。
 間接的認識対象とは、何らかの対象にその物自体を反映する事に依ってしか認識する事のできない対象である。自分の顔は、自分は直接見る事はできない。
 ただ、自己とは、物理的存在、即ち、肉体を意味するわけではなく。認識主体としての存在を意味する。

 その物自体が数や値という属性を持っている訳ではない。数や値は、それ自体で独立して存在する事ではない。何らかの物と結びつく事によって本来の機能を発揮する。数や値は、対象を認識した後、必要や目的に応じて任意に付加される属性である。この様な数や値の性格も一様ではなく、二進数、十進数など、或いは、連続数、離散数等、 又は、自然数、整数、実数、有理数、無理数等、数の体系によって性格も違ってくる。
 どの様な数値体系に対象を結びつけるかは、対象を取り扱う人の意志によって定まる。また、社会的に数値を活用する場合は合意が必要となる。更に、数の体系も一つだけを活用するとは限らず複数の数の体系を組み合わせて使う事もある。数というのは、複数の体系が相互に作用する事で発揮される場合もある。

 認識主体であり、間接的認識対象である自己は、対象を内に向かう働きと外に向かう働きの二つの働きによって対象の働きを意識の中に再構築する。これが認識の作用反作用を生む。
 経済的な働きで言うと売るは買うであり、買うは売るとか、或いは、貸すは借りるであり、借りるは貸すであるというようにである。
 認識の作用反作用は、正の働きと負の働きを生む。
 存在する対象は、実体がある、即ち、実でから正の働きをし、認識によって生まれた事象は、実体がない、即ち、虚であるから負の働きをする。経済的には、実は実質的価値を、虚は、名目的価値を成立させる。
 存在は正で、認識は負である。実体のある物は正の働きをするのに対して人間の認識が生み出した事は虚即ち負の働きをする。つまり、貨幣は、負の働きなのである。
 経済の実態は物の世界である。しかし、貨幣経済で経済を動かす力は虚の世界にある。この点を正しく理解しておく必要がある。数は自然界には存在しない。数は人間の意識の中に存在し、意識の中で働いているのである。
 数の概念に上に成り立つ貨幣価値も人間の意識の中でのみ働いているのである。
 だから、目に見える形にし、操作する必要があるのである。

 権利や義務、権限や責任は、意識が生み出した働きである。
 そして、権利は義務を、権限は責任を伴う。つまり、反対方向に同量の働きを想定する事で、働きの均衡を保っているのである。
 これは、経済的働きは、同量の双方向の働きによって均衡する。
 同量の双方向の働きによって均衡するというのは、ゼロ和均衡を意味する。
 即ち、経済的働きの多くは、ゼロ和を前提として設定されている。

 ゼロ和というのは、経済には正の事象と負の事象があり、その相互作用によって経済的事象は均衡していることを意味している。
 負とは足して零になる値である。

 貸し借りは、同量の債権と債務を生み出す。
 また、ゼロ和均衡というのは、多くの経済的事象が対称性となる根拠でもある。
 経済的事象は、相対的である。相対的というのは前提が重要となる。
 経済的事象はある物でなくてする事である。即ち、人為的な事象であり、所与の現象ではない。
 人為的事象は、そうするからそうなるという事象である。
 誰もそうしたいと思わなければ起きない事象が人為的と言う事なのである。人が望むから起こる事なのである。
 大恐慌といえども何ものかの意志が何らかの形で働いているから起こる事象である。
 むろん、大恐慌やインフレーションを起こそうとして起こしたわけではないかもしれない。しかし、大恐慌を起こそうとして起こしたわけではなくても人間の欲望が何らかの形で作用している事は間違いないのである。
 貨幣的災難は、人間自らが招いた災いなのである。つまりは人災なのである。

 戦争も人為的事象である。人が、戦争をしようとするから戦争は起こるのである。逆に言えば戦争は避けようと思えば避けられる事象である。
 むろん、戦争を避けようとして妥協したり、逃げ出せば良いと言っているのではない。人間が強い意志を持てば、戦争は避けられる事象なのである。それが地震や津波、台風、洪水と言った自然現象と決定的な違いである。戦争を起こすのは人なのである。

 主体的な事象であるから合意を前提とする。
 合意を形にした事は契約である。
 故に、経済的事象は契約に基づいた事である。

 経済の事は、人間の意志で決める事である。
 人間の意志が重要なのである。

 現代人は、経済はお金の問題だと思い込んでいる。
 しかし、それは認識の問題である。
 我々は経済を貨幣的事象を通して認識している。逆に、貨幣を通じてしか経済的事象を認識できないとも言える。
 だからこの世の出来事は何事もお金だと言う事になってしまうのである。

 貨幣経済で重要なのは価値の抽出と数値化、即ち、象徴化である。価値は、抽出され、数値化されて貨幣価値に転じる。
 価値を抽出する過程で、価値は抽象化され数値化される。問題は、その過程で価値が元の対象の本質から乖離してしまう事がある事である。価値を抽出する過程で財の持つ属性が削ぎ落とされ、単なる数値でしかなくなる。
 社員数というと、人は、名前とか、性格とか、生き方とか、信条といった事が削ぎ落とされ、一という数値でしかなくなる。しかし、実際には、一人ひとりに名前があり、性格があり、人生がある。
 土地も本来の価値、その土地の持つ属性が削ぎ落とされ、地価という価値でしか評価されなくなる。しかし、土地の価値は、その土地の利用価値で決まる物なのである。
 例えば、海に近い土地とか、よく肥えた土地とか、思いでのある土地とか、由緒正しい土地だとか、歴史のある土地とかである。土地は利用目的によって様々な形を持っている。

 経済は、認識の仕方によって違った様相を見せる。
 我々は、表面に表れた数値の背後にある実体や本質を見抜かなければ、ならない。
 経済本来の目的や価値を見失えば表面に現れた数値、貨幣価値に振り回される事となるからである。

 豊かさも、貧しさも、お金が原因だと思い込み、お金が全てだ思い込んでいる人が多くいる。
 お金さえあれば何でもできる、何でもかえると信じ込んでいるのである。
 しかし、お金は手段に過ぎない。お金は総てではないのである。
 それ以前に、お金を使う人、一人ひとりの人生がある。
 自分があるのである。

 豊かさは貨幣価値だけで表す事はできない。富裕層を金持ちと表現するように、貧富の格差を貨幣価値だけで捉えようとする傾向がある。しかし、実際は、所有権の問題であって資産や資源をどれくらい所有しているかによって実体は表されるのである。
 不動産が好例である。地価の下落によって一見、地主は、多くの損失を出したように思われがちであるが、実際の所有している土地の広さに変わりがない場合が多い。むしろ、地価の下落によって資産を増やしている地主もいるのである。
 ただ、そこで問題となるのは、名目的な価値によって左右される事柄なのである。名目的価値というのは貨幣価値であり、貨幣性資産や負債、税のように名目的な価値によって謀られる勘定が実質的価値と乖離する事から生じる事が問題となるのである。

 厳密に言えば豊かさの絶対的基準などない。豊かさも貧しさも、主観的、認識の問題なのである。

 経済とは生活である。経済とは生きる事である。
 経済は、生きる為の活動である。だから、蟻や犬、猫にも経済はある。それこそ草木にも経済はある。経済とは、ごく身近な物事なのである。

 どうしたら充実した人生が送れるか、どうしたら、皆を幸せにできるか、どうやって家族を健やかに養っていくことができるか、そんな事を語り合うことが経済について話し合うことなのである。
 金儲けはあくまでも手段に過ぎない。その点を間違うと経済の本質を見間違うことになる。

 経済は、人生である。故に、経済を考える事は、人生を考える事である。経済学は、人の一生を考える学問である。
 経済学は、金儲けの術を学ぶ事が本旨なのではない。経済学を学ぶ事は、人生、即ち、生き様や生き方を学ぶ事である。

 たとえて言えば、老後の生活に関して、介護制度や介護設備を整えることを考えるのが経済学の目的ではない。
 老いた後、如何に生きるかを考えるのが経済である。介護を学ぶ事は、老いを学ぶ事である。
 そして、老後の生活を如何に精神的にも肉体的にも物質的にも豊かに暮らせるようにするかを考える事が経済学の目的である。
 介護制度や介護設備を如何に整えても、老後の生活が精神的にも肉体的にも貧しいものであれば、経済的には失敗なのである。
 生まれて、成長し、家庭を持って、年をとり、そして死んでいく。それが経済の道筋である。
 生病老死。
 その過程が経済を成り立たせている。
 如何に、人間らしく心豊かに人生を送れるかを考えるのが経済学である。

 それは、お金の儲け方だけでなく、お金の使い方、使い道を学ぶ事でもある。
 一般に、経済学というとお金の儲け方ばかりを研究する傾向があるが、お金の使い方を学ぶ事も経済を学ぶ事なのである。
 むしろ、お金の使い方、使い道を学ぶ事の方がより経済的かもしれない。
 同様に、生産についてばかり学ぶのも偏っている。物の消費について研究するのも経済学である。
 生産効率ばかり求めても経済的とは言えない。消費の効率を合わせて考えなければ経済の安定は得られない。
 公共投資も金を使うことばかり考えて、使い道をよく吟味しない。
 そのために、必要としない公共財ばかりが増える一方で、財政が立ち行かなくなったりする。
 かつて、節約とか、経済的という言葉は、物の使い方や消費の仕方について使われていたのが言い証拠である。
 人は、もっと効率的な資源の使い方、消費の仕方を学ぶべきなのである。

 そのためには、公正な分配の仕方が重要となる。
 財をどの様に分配するば効率的な生産や消費を促す事ができるか。それを学ぶ事も経済学の目的の一つである。
 効率的に生産、分配、消費をするための仕組みを研究するのが経済の本来の目的である。
 お金のことを研究するのは経済本来の目的を実現するための手段である事を忘れてはならない。

 現代経済の問題の一つは、生産経済に傾いて消費経済が確立されていない事である。

経済とは数学である


 経済とは、数学である。数学と言っても純粋数学という意味ではなく。
 数の持つ本来の働きに基づいて成立しているという意味で数学だというのである。
 経済は数によって成り立っている。それは貨幣によってより顕著になった。
 しかし、貨幣経済が確立される以前から経済は数によって形成されてきたのである。

 例えば、獲物の数とか、収穫量、家畜の数といった数に始まり。分け前を与える数とか、子供や大人の数。土地の大きさ、木の高さ、物の重さ、相手との距離というように数は発展していったのである。
 突き詰めてみると経済は数の論理によって支配されている。

 物心がついて最初に教えられるのは数の数え方である。
 言葉は、自然に生活の中で覚えるが、数の数え方は教えられないと覚えない。
 数というのは、それだけ人工的な概念なのである。

 体重、身長、財布の中身、今日食べた食事のカロリー、体温、血圧、脈拍、血糖値。好きな人の電話番号。
 血圧の正常値を超えたら食事に注意をしなければならない。
 数字は生活に直結している。数字には、本来、温もりがあるのである。
 売上、粗利益、数量、単価、売上高。利益率に占有率、損益分岐点、労働分配率。何処を見て投資先を決めるか。これらは総て数値情報である。数値情報は、時には自分の運命をも左右する。
 そして、経済は生活であり、足し算引き算ができければ現代社会では生きていけない。

 子供がお使いに行っておつりを間違わないように。大人が釣り銭を誤魔化すようになったらお終いだ。歳をとっておつりの計算ができなくなったら一人で生きていく事は難しい。簡単な計算と言うけどそれが大事なのである。

 経済的数値は任意に定義されることによってその働きを発揮することができる。経済的数値の性格や働きは、数が定義された際、設定される前提によって変わる。
 人は、対象を数の概念と結びつけて識別し、数えたり、足したり引いたりという操作を無意識にしているが、これは高度な知的行為なのである。

 又、数は、普遍的な意味を持つ。つまり、数は万国共通の概念である。だからこそ、言葉が通じなくても経済的交流は可能なのである。この点も意外と見落とされている。
 市場が国境を越えて形成できるのもこの数の持つ普遍性による。

 会計は、数学的体系である。数学的体系だからこそ万国共通に使えるのである。日常話したり書いたりする事に使用する言語はそういうわけにはいかない。故に、通訳が必要となる。数値を土台とした科学や会計は、万国共通なのは、数の普遍性という性格に依る。

 そして、今日、複式簿記、近代会計を基礎とした経済では、市場規模とか、価値の総量、通貨の流通量、回転数、速度と言った全体的数や一人あたりの所得、消費量と言った何らかの単位に基づく数、固定費と変動費、貨幣価値は自然数、複利か単利かと言った数の性格による分類が重要のを役割や意味を持つようになってきたのである。
 更に、集合や統計、確率と言った数の根本的性格、それに基づく平均値や中央値、偏差と言った数の持つ特性が経済の根本を形作るようになってきている。
 その様な意味において経済は数学だといえるのである。

 数学的性格は、産業毎に違う。その違いを前提として産業毎の性格に応じた経済政策が立てられないと経済政策の実効力は発揮されない。

 又更に、現実の経済では、暗号や素数が重大な働きをするようになってきた。
 情報産業や通信産業が新たな数学を生性発展させているのである。
 経済では、アルファベットも数字的な機能を加えられることさえある。
 二進法や論理も数学的に扱われている。
 この様に経済は数学の新たな分野を切り開いているのである。

 経済は数を認識し、表現する事が求められる。

 数は本来、数が指し示す対象の性格に依って性格付けられる。
 数は数だけでは成立しない事なのである。
 純粋数学は、数の持つ性格だけを抽出する事によって成り立っている。
 しかし、数は、数とその指し示す対象とが一対になって始めてその働きを発揮するのである。
 その意味で経済はより数学本来の姿をしていると言える。

 かつては、数は、数が指し示す対象と不離不可分な関係にあった。その事を示す好例が日本語の助数詞である。
 船は、一艘二艘と数えられ、人は、一人、二人と数えられる。家は一軒二軒と数えられる。動物は、牛や馬のように一頭、二頭と数えられる動物もいれば犬や猫のように一匹に引きと数える動物もいる。ウサギは一羽二羽と数える。
 この様に数は、数が指し示す対象の性格に依って使い分けられていたのである。
 この事で重要なのは、助数詞は、単位の元でもあるという事である。

 経済的数値には次のような特徴がある。
 第一に、経済的数値は集合を本としている。第二に、経済的数値は数列化できる。第三に、経済的数値の数列は直線的に捉えることが可能である。第四に経済的数値は、次元を形成する事ができる。第五に、一様だとは限らない。第六に、経済的数値には、密度がある。第七に、時間と物質的数値は連続量を基とし、人と金は、離散数を基としている。第八に、時間と物は、実数を基礎とし、人と金は自然数を基礎としている。

 例えば、生鮮食品には、賞味期間があり、その賞味期間によっていろいろな数値的属性が付加される。
 人生には限りがある。生まれて、学校に通い、結婚をして、死ぬ。人生には、いろいろな時間や数値による制約がある。それが数の属性を決めるのである。人生には長さがあり、その折々に生きる為の出来事があるのである。

 事象には、確かな事と、不確かな事がある。確かな事は代数的な事象であり、不確かの事は、統計的な事である。生産は代数的な事象であるのに、消費は、統計的な事である。費用は代数的な事象であるのに、収益は統計的事象である。供給は代数的な事象であるのに、需要は統計的な事象である。工業製品は代数的事象であるのに、農産物は、統計的事象である。

 経済的数値は、集合を基としている。
 経済的数値は金額として表現される場合が多いが、金額、即ち、貨幣価値、価格は、何らかの実体、物や用役といった財の集合と貨幣単位が結びつくことで成り立っている。貨幣価値は、金額だけで成り立っているのではない。
 そして、何らかの財と貨幣単位が結びつくことで、経済価値の属性が形成されるのである。

 数が指し示す対象と数とを切り離して数そのものの性格や論理を探求するのが純粋数学である。
 必然的に経済的な数学と純粋数学とは、性格的に違いが生じる。
 だからといって数学は経済に必要としないとするのは早計である。
 むしろ、経済こそ数学を形作ってきたのである。

 経済的数値は、一様だとは限らない。我々は、数というと等間隔に並ぶ或いは分散する数を想定しがちであるが、経済的数値は必ずしも等間隔に並んでいるとは限らない。
 将来はどうなるか解らないが、現在、物と時間は実数として表現することが可能だが、人と物は、自然数としてしか表現できない。

 真に経済は数学なのである。

 今日、足し算、引き算、掛け算、割り算といった四則の演算ができないと日常生活にも事欠くようになってきたのである。
 ただ、だからと言って高等数学のような高度な数学を理解しないと経済は成り立たないというわけではない。

 経済にとって数学は、より身近な存在なのである。それ故に、数学として経済を意識することが少ないのかもしれない。

 最近、大学入試で数学が教科から外されたと聞く。
 それは経済に対する間違った認識に基づいていると思われる。

 経済的価値は数値によって表されるのである。

 我々は、日常、数を何気なく使っている。数の性格や数の意味を改めて考えて使っているわけではない。
 例えば、貨幣価値は自然数であり、ゼロ以下の貨幣価値はないとか、貨幣単位は離散数だと言う事がどの様な意味があるといった事をあまり考えた事はない。
 しかし、数にも性格があり、その性格に依って経済事象は、変化する。
 数の性格が経済の有り様を決めるのである。

 数と言っても人の数と物の数とは違う性格がある。お金の価値も又違う。
 その数が指し示す対象によって数の性格も違ってくる。
 経済の数学は、数が指し示す対象と不可分な関係にある。
 それが数の本来の性格でもある。

 不変的数もあれば、変動する数もある。無限な数もあれば、有限な数もある。連続的な数もあれば、離散的数もある。
 数には、単に、数を表した値、何らかの対象や概念(例えば、一を赤とし、二を青とし、三を黄色とする等)と結びついた値、働きを表した値(一かゼロかで存在を表す等)、順序と結びついた値、間隔と結びついた値があり、これらの要素が複合的に結びついて数の働きを構成している。

 時間には、不可逆的な働きがある。
 生鮮食品は、時間と伴に価値が低下する。それを如何に数学的に表現するか。設備や建物は使用頻度や時間によって劣化する。地価には五つの貨幣価値があると言われる。株の値段は相場によって決まる。
 所得の決め方は一様ではない。所得は時間の関数と言える。
 金利には、複利と単利がある。
 費用には固定費と変動費がある。利益は、収益と利益の差である。費用は、構成比が重要となる。収益は価格と数量の積である。
 この様に経済と数学は不離不可分の関係にある。一体だと言っても過言ではない。

 企業経営も財政状態も家計も、今日、総て数値によって判断される。
 数の持つ意味、数の背後にある働きを理解しないと経済現象を解明することはできない。

 経済現象は、自然現象ではなく、人工的事象である。
 必然的に取り扱われる数学も異質になる。

 我々は、経済を考える上で数学的に何が鍵を握っているのかを明確にしていない。
 それは、経済とは何で、経済の仕組みが、何を目的としているかを、明らかにしていないからである。

 経済の働きで重要なのは、分配と交換である。
 そのために、人間が生きていく為に必要な資源は、何で、どれだけ必要なのか。
 必要な財を生産するためには、どの様な設備と
 そして、それを必要とする者の人数と一人あたりの最低必要量を明らかにし、どれくらいの通貨を何によって分配するかを数学的に明らかにする必要がある。
 その意味で経済学は数学なのである。

 発明と発見の違いである。発明というのは、人間の創造力が基本にある。つまり、創作なのである。それに対して発見というのは、観察や調査によって今ある現象を解明することである。
 典型的なのは、貨幣である。貨幣というのは、人間が生み出した事であって自然に成る物ではない。
 発見は基本的に帰納法を基礎とするが、発明は家庭に基づく演繹的な事である。

 貨幣価値は人間が創作した事なのである。

 貨幣の働きは、価値を測って、計算し、交換する事である。この働きを実現するためには、視覚性と操作性が重要となる。つまり、貨幣の基本的要件は、目に見えて操作できる事である。
 忘れてはならないのは、貨幣は、測るという機能と計算するという機能を持っているという点である。それが貨幣を数値化するのである。言い換えると貨幣における数値という部分は測るという機能によって形成されたのである。

 お金の信認が失われれば物に還る。

 経済は、数学を基礎とした事象である。しかし、だからといって数学を過信したり、絶対視する事は危険である。
 なぜならば、数学として表される経済的事象は、数学的空間に実体を写像した事柄に過ぎないからである。経済の実体は数値にあるわけではなく。数値の根底にある実体にあるのである。
 その典型が土地と地価の関係である。
 土地活用と地価の動きは必ずしも連動しているわけではなく、投機的な資金の動きが実体経済から乖離し、本来の土地活用と懸け離れたところで地価が形成される事が間々あるのである。それが、経済の本質を見失わせ、経済を破綻させる原因にもなる。貨幣経済は虚構である事を忘れてはならない。

 人がお金を操るのが本筋であり、お金に人が操られたら、人としての主体を失ってしまう。
 貨幣価値はあると思えばあるのであり、ないと思えばないのである。


相関関係



 経済では相関関係が重要な意味を持つ。
 経済は、複数の要素が互いに影響し合って経済事象を生み出している。
 経済事象を予測したり、経済の仕組みを構築するには、要素間の相互作用を知る必要がある。
 そのためには、相関関係を明らかにする事が前提となるのである。
 経済の仕組みを知り、経済的事象が起こる法則を明らかにする為には、何が何に対してどの様な働きを及ぼしているのか、或いは相互に影響を及ぼしているのかを知る必要がある。

 その物自体が数や値という属性を持っている訳ではない。数や値は、対象を認識した後、必要や目的に応じて任意に付加される属性である。この様な数や値の性格も一様ではなく、二進数、十進数など、或いは、連続数、離散数等、又は、自然数、整数、実数、有理数、無理数等、数の体系によって性格も違ってくる。

 対象を数と結びつける事で、数の属性が付加されるのである。
 例えば背の高さと数を結びつける事で、背の高さを数値として表す事が可能となる。数値として背の高さを表す事で、比較したり平均する事が可能となるのである。背の高さを測る基準の単位は任意である。最初から背の高さは数値としてあるわけではない。

 どの様な数値体系に対象を結びつけるかは、対象を取り扱う当事者間の合意によって定まる。
 また、数の体系も一つだけを活用するとは限らず複数の数の体系を組み合わせて使う事もある。
 例えば、値付けである。リンゴ一個、九十円というのは、リンゴという物に一個という数と九十円と言う貨幣単位を付加する事で成り立っている。

 現在の一万円札を江戸時代に持っていっても印刷紙以上の価値は持たない。ただの紙切れである。江戸時代の小判や豆銀を現代に持ってくると金や銀としての価値に骨董的価値が付加されて評価される。ただ通貨としての価値はない。日本のお金を違う通貨圏の国に持っていっても特殊な場合を除いて一般の日常生活では通用しない。
 貨幣価値というのは、その時代、その地域において付加される事なのである。
 突き詰めると表象貨幣は、働きだけを切り離して個々の物に結びつけているといえる。貨幣経済では貨幣の働きが意味を持つのである。極端な場合、物としての貨幣も必要とされなくなり、貨幣は単なる情報となる事もある。

 経済的価値は、何らかの対象に経済的価値が付加される事によって成立する。経済的働きを付加する手段として貨幣がある。貨幣は、経済的価値を数値化する為の手段である。貨幣と対象が結びつく事によって対象に数値的属性が付加されるのである。経済的働きを貨幣が付け加えられる事によって貨幣と対象とが関連づけられ、貨幣価値が数値化される。貨幣価値が数値化される事で、人、物、金に相関関係が生じる。

 貨幣経済における相関関係というのは数値的関係である。
 貨幣は、相関関係を数値化する為の手段である。貨幣は、経済的事象を成立する為の要因である。故に、貨幣で重要なのは働きである。
 貨幣は、個々の要素を関係づける働きがある。この働きが貨幣経済を形成していくのである。

 貨幣価値というのは、物理的単位と貨幣単位の掛け算によって成立する。故に、貨幣価値の本質は、掛け算である。

 経済的事象は、複数の要素が互いに働きを及ぼしながら、複雑に絡み合って構成されている。
 この様な複数の要素間に働いている作用を明らかにし、それが経済現象にどの様な働きをして、全体をどの様に変化させるかを予測しないと経済現象を制御する事はできない。
 経済的事象を構成する個々の要素の働きも一律一様ではなく、強くなったり弱くなったり、或いは周期的な働きをしたり、一方向の働きをしたりと変化しているのが一般的である。特に変化は時間の関数であるから、時間と伴に働きの性格も変わっているのが一般的である。

 統計や確率は、何も確実には証明できないのである。この点は、経済的事象において顕著に表れる。
 確かに、工場で物を生産する時は、かなりの精度で生産高や品質管理はできる。また、交通機関の運用も然りである。しかし、売上の予測や景気の動向は憶測、推測の域を出ないのである。

 経済的事象では、確かな事から不確かな事象を如何に予測し、予定を立て、また、制御していくかが、一番の問題なのである。
 例えば、紙幣の発行高、残高が物価にどの様な影響を与えるかというようにである。
 そのために、経済的事象を数値化する必要があるのである。その為の手段が貨幣である。

 一定の働きをする要素、何らかの要素の変化に比例して変化する要素、段階的に変化する要素、何かの誘因をきっかけにして急激に変化する要素、算術級数的な変化をする要素や幾何級数的な変化をする要素等、変化にもいろいろな種類がある。
 変化や働きを一律に考えていたら経済の動きを理解する事はできない。
 大恐慌や不況は、いろいろな要素が複雑に絡み合い、経済が制御不能になる事によって引き起こされるのである。
 経済を制御する為には、経済を構成する個々の要素がどの様な状況や前提によってどの様な動きや働きをするかを予め理解しておく必要があるのである。

 経済を構成する要素の関係を明らかにする為には、相関関係を数字に置き換え、方程式化する事が有効な手段である。

 相関関係を数値化する為には、直交座標が有効である。
 直交座標を作る為には、座標軸を設定する必要がある。

 一般に、数学は、物を計ったり、計算するために発達してきた。
 しかし、経済では数学の働きそのものが重要となるのである。
 例えば多変量解析である。多変量解析は、人事考課をはじめ多面的に評価に使える。
 今日の経済は、数学的な働きを基本にして成り立っている。

 個人所得をどの様に設定するかは、人の経済的属性をどの様に定義するのかに基づいているのであり、その根本にあるのは思想である。
 所得を生産的基準に関連づけて決めるのか、消費的基準に関連づけて決めるのかによっても経済の有り様は変わってしまう。この点こそが国家理念の根幹をなしていると言っても過言ではない。
 生産に関連づけて賃金制度の国は、生産を基礎とした国になるであろうし、消費に関連づけられた所得配分をする国は、消費中心の国になるであろう。又、階級を基礎とすれば階級的社会になる。宗教的戒律を基礎とすれば、宗教的社会になる。

 いずれにしても、国家は、資源の配分の仕方によって形付けられるのである。

 何を核として所得の配分の仕方は決められるのか、それが重要なのである。
 そこに共同体の論理が働くのか、それとも市場の論理が働くのか、生活の論理が働くのか、競争の論理が働くのか、それが総ての方向を定めてしまう。

 例えば、人の働きの成果には個人差はないとすれば、同一労働同一賃金の原則に基づいて職種に応じて一律均等に支払えばいいという事になる。実績主義だとなれば実力主義的な評価がされるであろうし、年功を重んじれば年功序列的な制度になるし、また、生活を重んじれば、必要に応じて配分されるべきだと言う事になる。
 いずれにしても根本は思想である。
 人の一生とは何によって測られるべきなのか。それが実際的に露わにされるのが所得の配分基準なのである。

 数は、連続した対象と不連続な値から構成される。
 連続した対象は、図形化され、不連続な値は任意に設定された基準に基づく。

 貨幣は、貨幣としての働きがあって成立する。
 貨幣の働きを成立する要素は、対象と貨幣、対象を所有する人と貨幣を所有する人の存在である。
 貨幣は、値を象徴する物、或いは、情報である。
 この様に貨幣の本質は値であり、貨幣を成立させるのは、対象と値を象徴する物、或いは情報である。突き詰めると貨幣価値は対象と値によって構成されているのである。
 そして、貨幣価値を構成するのは人、物、金である。

 自由市場は貨幣経済を基礎として成り立っている。
 貨幣制度は、値の集合を体系化した事である。
 貨幣制度は、不連続な値の体系である。
 貨幣経済は、貨幣を基本的手段として成り立っている。
 貨幣は、交換手段である。
 交換手段である貨幣は、相対的基準である。
 相対的基準を的とした成り立っている貨幣価値は、比較対照によって成り立っている。
 故に、経済的事象の分析は比較を基本とする。経済的事象を解明する為には、要素間の働きを比較する事が有効である。

 経済的運動は数値の変化として表される。
 変化は時間の関数である。
 運動は変化である。
 故に、経済的運動は、時間の関数である。

 相関関係では、時間が陰に作用しているか、陽に作用しているかが、重要な鍵を握っている。
 時間が陽に作用している運動は、推移として現れる。
 時間が陽に作用する経済的運動は、基本的に上下動として表される。
 要素間の働きを知る為にも座標軸は重要な役割をする。
 経済的事上において今日、その座標軸の一辺をを構成するのが貨幣単位である。

 経済的関係は、一律一様に定まる事ではない。
 経済を構成する複数の要因の相互作用によって経済的事象は現れる。

 経済において、人、物、金の相互関係、即ち、相互の働きが重要になる。

 貨幣には双方向の働きがある。故に、貨幣経済は、双方向の働きによって成り立っており、一方向の働きだけを見ていても経済の動きは、明らかにならない。

 貨幣は、経済を構成する他の要素と結びつく事によってその効用を発揮する事が可能となる。貨幣は、貨幣単体では効用を発揮する事ができないのである。又、貨幣の効用は、要素間を関係づける事によって成立する。これらの貨幣の働きの性格は、貨幣の働きを単方向の働きではなく、双方向の作用にする。

 貨幣は、経済的要素と結びつく事によって成り立っている。この事は、貨幣的事象は相関関係の上に成り立っている事を意味している。
 経済を構成する要素は単一な事ではない。多くの要素が複雑に関係して経済的事象を構成している。

 相関関係は単に正比例する事ばかりではない。
 相関関係を図表化した場合、直線的に表されるとは限らない。

 相関関係というと、即、因果関係に結びつけて考える傾向があるが、相関関係、即、因果関係というわけではない。
 相関関係と因果関係は、同じ関係ではない。因果関係は、相関関係の一種ではあるが同じ事ではない。

 特定の事象を考察する上では、要素間に関係があるのかないのかを先ず明らかにする事が肝心なのである。
 その関係がどの様な関係かどうかと言うのは次に考えるべき事なのである。

 相関関係と因果関係は、次元が違う。相関関係の一種が因果関係なのである。しかし、相関関係にあるから因果関係にあるというわけではない。相関関係は、因果関係に対して十分条件ではあっても必要条件ではない。

 経済的事象を理解する上では、即、因果関係に結びつけて考えるのではなく。何がどの様な影響を与えているのかを先ず明らかにする事が大切である。
 因果関係ばかりに捕らわれると相互関係を形成している働きを見落としてしまう危険性があるからである。
 なぜと言う事は、大切だが、経済的関係においては、重要な要素でも、なぜと言う事がハッキリしない人もある。
 肝心な事は、経済の状態を制御する事であって因果関係を知るのもその目的によってである。
 なぜ、株価が暴落したかよりも、何に関連して株価は、どの様に変動をしたのかを明らかにした方が適切な対処ができるのならば、何が株価に影響したのかを明らかにする事を優先すべきなのである。

 いきなり、因果関係のような事に結論づけるのではなく。先ず、複数の要因が何らかの相関関係を示すかどうかを検証する必要がある。
 この様な相関関係を検証する為には図表が重要な役割を果たす。

何を同一視するかで経済は左右される


 数とは、数えるという行為によって成り立っている。数えるためには、同じ物を集める必要がある。それが集合の概念の基礎であり、数は、集合の概念の本であり、また、集合は数の概念の基礎である。
 即ち、同一性こそ数の本質なのである。同一性は、共通性によって成り立つ。

 数の概念では、何と何を同じとするか、同じと見なすかが重要となるのである。
 つまり、複数の対象に潜む共通点を見いだし、それ数に要約する事に始まるのである。
 そして、その共通項を抽出する必要が生じる。それが定義である。
 任意の意志と所与の存在とが一体になる事で物事は定義される。
 定義とは、である事と、とする事とを一致させる事である。
 例えば、リンゴとは何か。これをリンゴとするという事でこれはリンゴであるになるのである。
 そして、リンゴが特定されることリンゴの数を数える事ができる。
 更に、青森産のリンゴとか、富士リンゴというように分類し細分化する事も可能となる。それによって概念の体系が形成される。
 数は、総ての概念の根底にある。
 そして、この数が、数を数えるという行為と結びつき、経済が形成される。
 又、同一性は、物と物との関係を明らかにする。この物と物との関係こそ経済を原点になる。
 物と物との関係が明らかにできれば、物と物とを結びつけることも可能となる。
 物と物とを結びつけられれば、物と物とを交換することも可能となる。
 結合と交換は分配を可能とする。即ち、結合、交換、分配は、四則の演算の基礎であると同時に、経済の基礎でもある。

 同一性こそが経済を形成するための原点でもある。
 故に、数は経済の素であり、経済は数の本なのである。

 貨幣経済は数学である。価値の等価性が重要な鍵を握っている。
 要するに、何と何を均しいと見なすかである。

 数は、対象を均一化する傾向がある。そのために、数値化すると対象が均一化されてしまう怖れがある。
 極端な平等主義は、対象を同一化し、均一な物として認識する。
 人を均一な対象としてしまうと努力とか、才能は埋没して認識できなくなる。
 定量化を極限まで進めると個性的な部分が削ぎ落とされてしまうのである。
 その結果、同一労働、同一賃金と言う事になる。
 しかし、労働は質的な部分が重要な働きをしている。
 単に労働を一律に時間によって計測する事は不可能である。
 野球選手の報酬を、守備を基準にして一律に決める事はできない。
 労働の対価は、何らかの正当な基準によって差を付けられるべきなのである。

 また、差を否定する事は、変化や成長をも否定する事に繋がる。
 なぜなら、変化は時間差を意味するからである。
 経済を動かしているのは差である。
 差をなくしてしまうと経済は動かなくなる。
 逆に差が拡大しすぎても経済は上手く機能しなくなる。
 経済を円滑に機能させるためには、適度な差を付ける事なのである。

 数値は差をあからさまにする。差を付けるというとあまりいい印象が持たれない。しかし、差は経済の根本である。差が悪いというのではない。差別の問題は、何処を、どの様に差を付けるかの問題なのである。
 一人ひとりの持つ属性をどう認識するかの問題である。能力や努力に本来関わらない部分、例えば、性別や人種などによって差を付ける事が問題なのである。
 むろん男と女は違う。しかし、その事によって本質的な部分で差を付けるのは間違いである。しかし、それは、初期前提や設定から差を付けるような性質の事ではない。
 性別とか、人種とか、家柄によって差を付けるのではなく、その人その人の持つ能力やその人の実績に基づいて差を付けるべきなのである。

 科学では、視点が大事なのである。視点は立場で決まる。
 立場とは、自分が依って立つところである。人は、立場に依って意識、認識に差が生じる。
 多くの科学者が地動説によって殺されかけたが、視点を変えれば、地動説も天動説も成り立ってしまうのである。
 逆に、視点を決めなければ何も定まらずに混沌とした状態に戻ってしまうのである。
 これが相対主義の正体てある。
 相対主義というのは、絶対的視点を否定する事によって成り立っている。
 視点を定める事によって物と物との関係が定まり、森羅万象の現象を認識する事ができる。それが科学の視点、立場なのである。
 この様な視点、立場によって意識も認識も変わるというのは経済も同じである。
 むしろ、観念的所産である経済の方が視点、立場によって意識、認識に差が出るのは当然の事である。
 そうなると立ち位置が重要となる。

 立ち位置は、自分と対象と基点の三点によって定まる。基点と対象と距離、関係を如何に認識するかが、立ち位置を決めることなのである。
 そして、これは経済的価値を考える上で重要な意味を持つ。

 同一視というのは、幾つかの対象、事象を同じ事、或いは、物と見なすという事である。
 それは自己と基準と対象の関係を意味する。
 自己と単位と対象をも意味する。

 貨幣経済で言えば、自己とは、人、対象は、物、そして、基準は金である。
 故に、人、物、金が貨幣経済の根幹をなすのである。

 同一視と言う行為は、数学の淵源となる。

 数は、任意の対象と対象を同じ物として見なす事から始まる。
 二つの対象を同じと見なす事が数を考える場合の根本である。

 つまり、数の性格の背後には、共通の要素や性格が隠されていることを意味している。
 この共通性が価値を生み出すのである。
 そして、この同一性は、共通性に繋がり、そして、その共通性から抽象化が始まり数の概念を構成していくのである。
 この抽象化は、象徴化を派生され、貨幣概念の核心部分を形成する。
 つまり、貨幣は、交換価値を象徴化した物なのである。
 そして、同一性が貨幣の働きを性格付けている。

 二つの事象、対象を一対一の関係に於いて同じ物、同じ事と見なす。
 それを敷衍することに於いて、同じ要素の集合を構成する。
 その集合が数の概念の根源となる。
 数学の根幹をなす重要な概念である。
 この同一性という概念が数学の根幹をなしているのである。
 つまり、同一という概念が数の概念の根底に暗黙に存在することを忘れてはならない。
 そして、この同じという概念は存在に対する認識に基づいている。

 同一性は、等しいという概念に結びつく。
 等しいというのは、二つの対象や事象を同一の事象、対象と見なすのである。
 この様な場合の等しいは、等しくなると言うよりも等しいとすると言う意味の方が強いのである。
 なぜなら、等しくなると言うのは結果であって前提ではないからである。
 数学では何を前提とするかが、根本でなければならない。
 故に、何と何を等しくするのかが、数学の始まりになるのである。
 一とは何かは、何を一とするのか。
 何を一と見なすのか。
 何の何処を同じと見なすのか。
 それが始まりなのである。

 同一性は、経済の対称性をも意味する。
 経済の対称性は、後に述べるような正と負の関係も生み出す。

 一軒の家と一人の人間を一という概念で同じ物と見なす事は可能である。しかし、実際には余り意味がない。
 なぜならば一軒の家と一人の人間を同じ物と見なす必要性が認められないからです。
 一軒の家と一人の人間を等しいとする必然性がないのである。
 故に、一軒の家と一人の人間を等しいとする意味がない。
 では、何をどの様に考えれば等しいとする二つの事象や対象を蓋然性が生じるのか。
 そこに、経済では交換という概念を導入する事になる。それが貨幣価値である。

 貨幣価値によって交換価値は統合される。交換価値が、貨幣価値に統合される事によって異質な物の価値を足したり引いたりする事が可能となるのである。

 貨幣単位と掛け合わせることで、交換価値に還元し、一定の値に基づいて等しいとするのである。
 それが、貨幣経済における経済計算の基本となる。
 それ故に、貨幣経済は市場取引を前提とせざるを得なくなるのである。


対称、周期、そして、同期


 市場は、大海のような場ではない。
 無数の細胞が集まって一つの肉体を形成している生き物のように多くの小さな市場が集まって全体の場を構成している集合体である。
 部分を構成する一つ一つの市場は一見雑然としているように見えるが、よく観察すると何らかの法則が働いている。
 数は、対象を特定の性格に依って分類する働きがある。特定の性格に依って分類された対象の集合が類である。
 貨幣も数に基ずく指標であり、必然的に特定の性格によって財を分類する働きがある。

 市場は取引によって成り立っている。
 取引には、物が生産され消費されるまでの個々の段階や産業固有の性格に依って違いがある。
 個々の市場は、この様な取引の形態の違いによって構造や特性、働きに差が生じる。

 取引は認識の上に成り立っている。取引には、認識の作用反作用が働く。
 即ち、買う者がいれば、売る者がいる。
 売る者がいれば、買う者がいる。
 貸す者がいれば借りる者がいる。
 借りる者がいれば貸す者がいる。
 出す者がいれば、入れる者がいる。
 入れる者がいれば出す者がいる。
 渡す者がいれば、受け取る者がいて、受け取る者がいれば渡す者がいる。
 お金を、支払う者がいれば受け取る者がいて、お金を、受け取る者がいれば支払う者がいる。
 この関係の上に取引は成り立っており、それ故に、取引は対称性を持つのである。なおかつ、取引の対称性は、普遍化するのである。

 問題は、この様な市場と取引で、経済的に見て何を同一、同値と見なすかである。
 同値であるかないかは、取引の対称性を担保している。
 だからこそ市場経済においては、同一性が重要な働きをするのである。

 同一性は、時間軸上において対称性と周期性を形成する。
 そして、対称性は、同期性を誘発する。

 同一性を表す記号は、等号である。

 等号によって結ばれた数や数式、事象は、足して零になる関係を表している。
 この事は経済において重要な意味を持つ。
 ある意味で貨幣経済の原点を意味する。

 等号は、ゼロ和を成立させる。
 ゼロ和を成立させる事象は、一つの事象を完結させる。
 ゼロ和は、正と負の関係を成り立たせる。
 即ち、足すと零の関係である。
 この足すと零の関係は、対称非対称の関係を判定する。

 等号は、方程式の根源である。
 経済は方程式によって成り立っている。
 経済にとって等号は重要な働きをしている。
 等号は、零に関わり、零は同一性に結びつく。
 零が同一性に結びつく事によって貨幣経済の本質は形付けられる。
 足して零になる関係を意味している。
 市場取引では、足して零になる関係が成り立つからこそ、取引の対称性は保たれている。
 貨幣経済の基本はアーベル群、可換群である。

 等しいと等しくする。
 数には、任意の性格で対象を集合化するという性格がある。この性格は、逆に、任意の性格に依って対象を等しくすると言う働きもある。また、特定の性質や要素を抽出し、その性格に依って対象を類型化するという働きが数にはあり、数の性格を基礎とする貨幣にもこの性格は継承されている。
 この作用は、貨幣を考える上で重要な働きとなる。
 即ち、貨幣の本質は自然数であり、自然数は、負のない離散数という性格に則って対象を類型化し、一旦、貨幣価値に換算した上、異質な対象を貨幣価値によって演算する事を可能にするという働きがある。
 これが貨幣の働きで最も重要な要素である。

周期性


 運動の基本は、回転運動と直線運動の二つである。
 循環運動の根本も周期運動の根本も波動の根本も回転運動である。

 故に、経済事象で問題なのは、正と負の関係が継続的な事象なのか、一過性の事象かである。
 それは、事象が回転運動に基づく事象か、直線運動に基ずくかを判定する。

 その上で規則性の有無が問題となる。
 規則は、周期性の根拠となる。

 同一性は、周期性の根拠となる。同じ事を繰り返す事によって周期は定まる。

 この周期性を人為的に設定し、経済的運動を測定しているのが期間損益である。
 期間損益は、現金収支に結びつく事で意味を持つ。
 複式簿記に基づく経済的価値、零に対して均衡している。均衡するとは等しい事を意味する。
 零に基づいて均衡する事によって複式簿記によって成立する正の空間と負の空間は、常に、零に対して均衡する。

 経済や会計には周期性の高い現象や事象が多い。この周期性が現象や事象の性格を規制している場合がある。経済や会計の現象や事象を予測し、制御する時に、周期の特徴をよく理解しておく必要がある。
 例えば、短期か、長期か。収束的か、拡大的か、一定か。これらの特性は、周期性から派生する特性である。
 周期性の背後には数の同一性がある。
 数の同一性は、経済においては重要な概念の一つである。

 周期運動と対称性は相互に関連している。
 経済の周期運動を生起させ、制御しているのが対称性である。

 市場経済は、発散と収束を繰り返す事で、生産財や貨幣を循環させる。
 発散と収束を繰り返す運動は回転運動である。
 故に、経済を制御するためには、回転運動が円滑に行われる様な仕組みを構築する事が要求されるのである。

 安定した回転運動を維持するためには、対称性が重要となる。

 経済を動かしているのは振り子の原理のような事である。
 ある種の振動が市場という仕組みを動かしているのである。

 また、経済で同期現象は重要な働きをしている。
 同期現象によって、個としての動きが全体に波及して場を構成する事が往々にしてある。
 この様にして形成された場を平均場という。
 この様な場が形成されることによって場の性質が変化する場合がある。
 この様な質の変化を転移という。
 経済では、個々の動きが全体に波及し、大きな変動を引き起こす事が往々にしてある。
 この様な現象の背後に同期現象が隠されている場合がある。
 同期現象は、株価の暴落や暴騰、バブルの発生や崩壊などを引き起こす一因とも考えられる。

 物理学において、物自体の運動にのみ囚われるのではなく。その背後にある空間や場の歪みによって物の運動が引き起こされていると捉えることも可能である。そして、その物の運動と空間や場の歪みを映像として捉え、それを方程式に置き換えられる様になる必要がある。
 この事は、経済現象も同じである。空間や場の歪みが通貨の流れにどの様な作用を及ぼすのかによって景気の動向を予測する必要がある。

ゼロ和と経済的基準


 単位は一である。
 一とは、掛けても相手を変えない値である。
 始まりは何を一とするか決める事である。
 零は基点である。
 零とは、掛けた相手をゼロとしてしまう値である。
 零を掛ける操作は、空にする操作である。
 空にすることで始点に戻すことである。
 単位は、何を基点とするかによって定まる。
 負とは足して零になる値。経済では借金、負債を意味する。
 足して零を作るという事が大切。足して零とすることで清算される。
 それが負債である。
 始点は、総てを足し合わせた時、零になるように設定する事である。
 それがゼロ和である。

 経済的指標は足してゼロになる点を原点としている場合が多い。
 その場合、基本的に足してゼロになる関係になる。
 そして、足してゼロになる関係は経済的基準を表している。
 又、足してゼロになる値は、負を意味している。
 貨幣的空間が成立した瞬間に負の空間も成立する。

 数は、自己と数を表す対象と数指し示す指標、基準点によって成り立つ。
 経済的価値は、自己と対象と貨幣によって認識される。
 貨幣価値は、取引に依って成り立つ。
 故に、自己と貨幣と取引の対象と取引相手との貨幣と対象と交換によって確定する。
 現金とは、現時点において貨幣価値の単位を指し示す物を言う。

 基準には、絶対的基準と相対的基準がある。相対的基準には、物理的基準と操作的基準がある。
 例えば、温度である。絶対零度と相対的零度がある。絶対零度は、負の温度を前提としていない。温度は全て正の値である。
 更に暑いとか寒いと言った体感的基準があり、それから一度上げてとか下げてという操作がある。ただ、この場合にも原則的には負という概念は生じない。
 負という概念は、ある一定の基準点を超えた時に生じる概念である。

 現金収支は残高と言う考え方から離れる事がない。
 あくまでも現金収支では残高が重要なのである。
 残高は、ゼロ以下になる事はない。
 借金というのは現金収支とは別次元の問題であり、借金が負の点を形成するとは限らないのである。
 借金が形成するのは負の空間である。現金収支の延長線上で借金を捉える事はできないのである。
 借金は借金である。借金は独自の空間を形成するのである。

 会計上の数値は、常に、引いても自然数になる事を前提としている。
 故に、残高主義なのである。残高がなくなれば成立しなくなる。即ち、破綻する。
 会計上は、借入金を収益の延長線上で捉える事はしない。
 借入金と収益は別の次元の事なのである。

 「お金」は物である。存在物である。
 物である「お金」は使ってしまえばなくなってしまうのである。なくなっしまえば「お金」の効用もなくなる。お仕舞いなのである。
 収益も借入もお金を調達する手段に変わりはないのである。
 収益は正の手段であり、借入金は、負の手段である。
 又、収益は正の働きをし、借入金は、負の働きをする。

 数は、存在物を前提として成り立ってきた。故に、負の概念は、長い間認知されなかったのである。
 数の中でも最も新しい概念の一つである。
 負の概念は、足して零になる点、即ち、任意の基点を設定する事によって始めて生じた概念である。

 会計は加算主義である。基本的に演算は足し算のみである。
 故に、会計数値は可換群である。
 会計は基本的に、マイナス、即ち、負の数を想定していない。残高主義なのである。
 負は、足して零になる数という事が意味を持つ。
 負の概念は借金から派生したと言われる。
 借金は、金と証書のやりとりであり、物理的実体を持たない。
 故に、負債は、実体を持たない名目勘定なのである。

 物理的基準は、外的基準でもある。操作的基準は内的基準でもある。
 物理的基準は、ある一点からある一点まで、或いは、何々に対してと言った何らかの要素間を比較する事によって成立する。
 相対的基準は、基準点以外の単位要素だけで次元を持つ。逆に言えば、次元数足す一の要素を持つ。
 経済で言えば、貨幣単位(単価)、一人、一個、一時間(単位時間)、単位量(単位重量、単位長さ、単位幅等)等が構成要素となる。

 操作的基準は、主観、意識、感覚によって設定される。

 操作的基準は、操作、取引、手続きによって決める原点を設定する。例えば、コイントスで先攻後攻を決めるとか、サイコロによる親決めするような事である。
 経済は、取引によって基準が決められる。そして、物と金との交換によって物理的空間と貨幣的空間において逆方向の流れを生じる。物の空間は性の価値を「お金」の空間は負の価値を形成する。「お金」の空間では、「お金」は物としての属性を持たない。
 この操作的基準が経済的基準である場合が多い。
 即ち、ゼロ和関係である。

 ゼロ和は、ゼロ均衡である。
 ゼロ和において平均はゼロである。
 総和がゼロとなった時、市場は単一になる。
 ゼロは一になる。

 ゼロ和は。負の領域を作り出す。
 経済は、負の勘定を出現させる事で負の数を設定せずに負の概念を実体化して負の領域を実現した。

 市場はゼロ和である。市場取引もゼロ和である。
 故に、市場はゼロにおいて均衡する。市場がゼロにおいて均衡するという事は、黒字があれば赤字が存在する事を意味する。
 ゼロ和という事は黒字がいいか、赤字がいいかと言うのではなく。如何に全体的に、時間的に均衡させるかが問題であり。
 最初から黒字が是か赤字が否かという議論は成り立たないのである。

 経済的事象は、均衡によって静止し、不均衡によって動く。
 市場は、均衡によって安定し、不均衡によって流動的になる。

 市場取引をゼロ和に設定する事で市場は常に均衡に向かう力が働くようになる。均衡とはゼロである。ゼロに至ると経済は静止する。
 故に、経済を動かすためには不均衡を継続的に引き起こす仕組みを人為的に作り出す必要がある。

 ゼロ和に設定された空間は、慣性系を形成する。
 市場の拡大と収縮は、市場を動かす力を生み出す。

 ゼロ和関係にある要素を抽出し、その働きを明らかにする必要かある。
 ゼロ和関係にある要素には、水平的関係にある要素と垂直関係にある要素がある。
 例えば、経常収支の総和と個々の国の経常収支は、水平的関係にある。
 又、民間収支、財政収支、経常収支、家計収支は水平的関係にある。それに対して、経常収支と資本収支は垂直的関係にある。

 複式簿記によって構成される勘定は、自然数の集合であり、足し算、掛け算、引き算に対して閉じている。

ゼロ和と非ゼロ和


 ゼロ和と言うが、世の中の事象総てがゼロ和なのではない。
 ゼロ和というのは、任意にゼロ点が設定される事によって成立する。認識上の事象、言い換えれば人為的な事象である。
 しかも、零点によって均衡する事が前提となる。基本的には、ゼロ点で均衡する事象というのは特殊な事象である。むしろ、多くの事象は、非ゼロ和である。

 経済現象には、ゼロ和ゲームと非ゼロ和ゲームがある。貨幣経済の根底はゼロ和である。
 現在の市場経済の基礎を構成する複式簿記はゼロ和を原則としている。故に借方貸方の総和はゼロであり、常に均衡している。しかし、個々の損益は非ゼロ和であり、収益と費用の差が利益を構成する。利益には負の値もある。誰かが、儲ければ誰かか損をすると思い込んでいる者がいるが、損益は、非ゼロ和であり、誰かが儲ければ誰かが損をするという関係は必ずしも成り立たない。むしろ個々の取引は、等価、つまり、同じ価値の物を交換すると言う前提で成り立っている。

 ゼロ和ゲームというのは、ポーカーのような事である。勝つ人間もいれば、負ける者もいる。集計すれば総和は常にゼロになる。
 ただ、経済は、勝ち負けが問題なのではない。個々の赤字や黒字が全体に対してどの様な働きをしているかが、問題なのである。なぜならば、個々の取引は、一回の取引で完結しているわけではないからである。
 金は天下の回り物。借りて買い。貸して売る。また、売って買い。買って売る。金は回っていれば経済は保てるのである。逆に金が回らなくなると途端に経済は動かなくなる。

 注意しなければならないのは、キャッシュフローは非ゼロ和である。キャッシュは自然数。つまり、正の数である。故に、キャッシュフローでは残高が重要となる。

 複式簿記は、非ゼロ和である現金収支をゼロ和の関係に変換する操作である。
 複式簿記は、取引の対称性によって市場価値をゼロ和に設定するのである。
 ただし、利益を基準としてゼロ和に設定されているわけではない。利益ではなく、貸借の均衡点、取引の対称性が原点を構成する。
 そして、非ゼロ和からゼロ和に変換する際、鍵を握っているのが時間価値である。
 それが償却と有利子負債の元本の返済の関係である。

 貨幣制度の重要性は、「お金」の価値よりも物流を促す働きにある。物流を促す事で、広範囲に亘って生産財の配分が為される。
 「お金」は、交易を仲介する手段である。
 飢饉の原因となるのは、干魃等によって食料の生産が不足することがあるが、食糧不足に陥った地域が経済的、交通面において孤立し、交易が途絶えることもある。お金が流通していれば、お金の流れに沿って物の流れも生じ、飢饉を抑制することができる。
 貨幣制度の働きの根幹は分配なのである。この点を見落とし、損益ばかりに囚われると貨幣の根本的な機能が失われる事となる。

 任意な点で均衡するというのは客観性が重視される。それに対して認識は主観的な行為である。
 いくら客観性を前提としても完全に主観性を排除する事はできない。なぜならば認識は主体的行為だからである。

 それは、ベイズ確率の有効性をも左右している。ベイズ確立を有効とするか否かは、将に、主観的認識を是とするか非とするかに関わっている事なのである。
 経済現象を予測する場合、先験確率や事後確率をどの様に設定するかが重要な鍵をにきる。故に、ベイズ確率やベイズ統計にとって経験や直感による設定を前提とする事が鍵となるのである。

 経済の現場では、経験や直感に基づく主観的な事前予測が重要な働きをしている。それは、時間が重要な働きを経済ではしているからである。既存の統計は、静態的な構造、比率を解明するためには有効であるが、状況や環境の変化によって判断を軌道修正するためには不十分である。そこにベイズ統計の有効性がある。

 ベイズ的な手法は、経済にとって基本的な事である。
 数学といえどもその人の感性や経験に左右されるというのは当然の事であり、むしろ、数学だからこそ設定や前提条件、手法の選択などは、第一感に因る事を前提とするのである。
 例えば、景気や株価の予測は、最初に自分の経験や勘に頼って目安をつけ、それに基づいて情報を集め資料を作り、検証をするのである。最初から将来の景気の動向や株価が解っているわけではない。
 将来の景気の動向や株価は、あくまでも、不確実なのである。
 だからこそ、ベイズ的手法が、経済では有効なのである。
 そして、複式簿記を基礎とした空間では、対称と均衡を前提としている。故に、ゼロ和と平均と分散が重要な要素となる。ベイズの基本も対称性と均衡に基づく予測ロなのである。

 自己は主体であり、間接的認識対象である。
 故に、自己を外に投影し、投げ出す。それによって自己を位置づけ、自分を知ると同時に外部との関係を認識する。そのプロセスこそベイズ統計に繋がる。
 私は、朝、会社に出勤する際、八時三十分に会社に着いていなければならない。駅までは、おおよそ十五分かかる。電車は、七時五十六分と八時七分がある。出発駅から会社の最寄りの駅まで八分くらいかかる。駅から会社まで歩いて七分くらい。昨日は、家を七時四シュッ分頃出たが、電車が遅れていたのでギリギリ五十六分の電車に乗れた。しかし、今日は、少し早めに出たけれど電車が定刻の出発したので、間に合わなかった。明日は、もう少し早く出よう。
 こういう発想がベイズなのである。

 経済は、人口と物量、通貨量で決まる。そして、この三つの量は、需要と供給、貨幣の残量として現れる。
 経済的価値の平均と分散、ゼロ和均衡によって経済状態は定まる。これらの関係はベイズ統計によって表現できる。
 経済の状態を測るのに、何を基準とするのかが重要となる。その基準の一つが、費用と収入の均衡予測点である。それが損益主義である。期間損益主義における一つの指針が利益である。
 放置すれば、エントロピーの増大によって利益は限りなくゼロに近づく。損益分岐点が原点かというと少なくとも社会的の状態は測れても、個々の企業経営までは、損益分岐点では測れない。経済の実相を知りたければ、損益の平均と分散を明らかにしてからでなければならない。
 ただ均衡予測点は、ゼロではない。なぜならば、ゼロ和均衡でなければならないからである。ゼロ和を基準とするならば損益平均値から見た分散である必要がある。それが標準偏差、ボラティリティである。

 経済にとって予測は重要な要素である。予測の本は、認識である。認識は相対的なものであり、主観的な行為である。その主観的な行為に客観性を持たせるために統計的手法や確率的手法を用いるのがベイズ的手法である。だからこそ、ベイズは最も経済的な手法と言えるのである。


経済の運動



 貨幣経済は、お金で回っている。

 重要な事は、お金の働きとお金の流れは違うという事である。
 お金の働きとお金の流れは関係はしているが、お金が流れなくてもお金の力が働く場合がある。
 ただし、お金の働きは、お金の流れと何らかの関わりがある事だけは確かである。

 貨幣経済は、貨幣の働きや運動を前提としている事は間違いない。
 故に、貨幣経済では、貨幣の過不足や貨幣の動向を常に監視している必要があるのである。

 貨幣経済の問題とは、いつ、何処で、誰が、なぜ、どれくらい資金を必要としているか。
 そして、必要な資金をどの様に調達、或いは、供給するかなのである。
 資金を調達、供給する手段は市場による売り買い、貸し借りの二つである。
 売り買い、貸し借りの差は時間によって生じるのである。
 売り買い、貸し借りが時間と関わった時、貨幣は独自の働きを発揮できるようになるのである。
 売り買いは、収益と費用を形成し、貸し借りは、資産と負債を形成する。

 売り買い、貸し借りから生じるお金の流れがお金の働きの基となる。
 資金の流れによる働きは、財務三表に現れる。
 即ち、単位期間の資金の働きは、損益計算書に、長期の資金の働きは、貸借対照表に、資金の流れは、キャッシュフロー計算書に現れる。
 一定期間の収益と費用の動きに基づいて収益構造を表したのが損益計算書である。経済事象の断面を捉えて残高構造の関係を表したのが貸借対照表である。

 貨幣の働きは、お金の流れる方向と量によって作られる。
 貨幣の働きを決めるのは時間である。
 故に、経済価値の本質は時間価値であり、何が時間価値を生み出すかが、貨幣経済では重要となる。

 お金の流れは、入りと出として現れる。
 お金の入りと出がお金の働きを生み出す。
 お金の入りは収入であり、お金のでは支出である。
 収入は、売上金か借入金が入金される事によって実現する。支出は、買い出し金か返済金が支払われた時に実現する。

 収益と費用は、取引によって形成される。
 取引は、金のやりとりを伴うとは限らない。
 例えば、掛け取引や手形取引などである。
 又、仮想的な取引もある。

 貨幣の働きが発生した時点、又、実現した時、財の受け渡し、お金の支払いこれらの時点の時間差が時間価値を形成するのである。

 お金の流れが収入と支出となり、収益と費用が損益を、資産と負債が貸借を形成する。

 貸し借りが資金のストックの部分を形成し、資金の流量を制御し、売り買いがフローの部分を形成し、資金の働きを発揮する。
 キャッシュフローは資金の流れを表している。
 資金の働きを見る上で重要なのは、お金の働きが物や人にどう作用するか。
 お金の働きには、結合、分配、交換がある。
 経済政策は、資金の過不足を調整する事である。

 経済の運動の基本は回転運動である。
 回転運動は、周期運動に変換される。
 経済の周期運動は正と負の間を振幅する。
 その時、派生する正の値と負の値が短期に収束する性格の値か、長期に収束する値か、それとも恒久的に累積する値なのか、又は発散する値なのかによって経済の環境は規定されるのである。

 経済は、双方向の働きによって制御される。
 一方向の働きでは、経済は、一方的に拡散してしまう。
 双方向の力が働くから周期的運動、回転運動、循環運動が起こるのである。

 経済の運動の基本は振り子運動である。
 赤字か良いか、黒字が良いかではなく、任意の一点を基点として一定の幅で揺れる運動によって貨幣や財を回転させる仕組みを根幹となすのである。

 双方向の働きを生み出しているのがお金の流れと物の流れである。
 お金の流れは、逆方向の財の流れを生み出す。
 即ち、金の流れには、常に、逆方向の財の流れが隠されている。
 貨幣経済は、金の流れを追うことによって財の流れを明らかにする事が可能なのである。
 金の流れによって生み出される価値を分析することで、財の働き、即ち、経済の働きを知ることが可能な体制なのである。

 経済に双方向の働きが生じるのは、市場経済がゼロ和を基本としている事による。
 ゼロ和を基本とする空間では、変化はゼロを核とする。変化は、ゼロを基点として均衡する。
 故に、ゼロ和では、平均が特別な意味意味をもつのである。
 それがゼロの圧力である。典型的なのは裁定取引である。

 現金の流れは基本的に直線運動、即ち、線型運動である。

 現金収支は直線運動であるが、複式簿記の仕組みによって一定周期の運動に置き換え、回転運動に転換するのが会計制度であり、期間損益である。
 故に、会計制度は、複式簿記を基盤とするのである。
 会計制度は直線運動を回転運動に変化する仕組みなのである。 

 会計制度は、複式簿記の働きによって現金収支の直線運動を、債権債務の上下運動によって回転運動に変換していく仕組みである。
 そして、貨幣の循環運動が引き起こす運動によって自由経済は機能している。
 市場経済では、取引上のゼロを中心として正と負の価値が生じ、正と負の働きによって生産、分配、消費は制御されるのである。

 例えば、為替の上下運動が経常収支を調整し、経常収支の上下運動が為替相場に影響を及ぼす。

 経済では、因果関係よりも相関関係の方が重要である場合が多い。
 為替や経常収支の関係もどちらが原因でどちらが結果というのではなく、連動しているという事である。

 運動を回転運動にして制御するためには、一つの働きが作用する時、逆方向の働きが作用するように設定する必要がある。この様にして設定された働きを作用反作用の関係にあるとする。
 貨幣経済では、貨幣の流れと物の流れの働きが作用反作用の関係にある。
 貨幣の流れは名目的価値を形成し、物の流れは、実質的価値を形成する。

 名目的価値、そして、債務は、貨幣の流れた行跡の残像である。
 この様な名目的価値に対して実質的価値は、不規則、不確実な変化として現れる。

 会計空間では、ゼロ和によって均衡している。そのゼロ和は同時に貨幣の働きに作用反作用の関係を生み出す要因でもある。
 また、ゼロ和は、平均、分散、標準偏差を均衡させ中心極限定理を有効にしている。

 損益の境界を基準として、分散と均衡、ゼロ和を前提としている。それが期間損益主義である。

経済構造


 経済の目的は、人々を幸せにする事である。
 つまり、経済を成り立たせている構造は、人々を幸福にすることを目的としているという事である。この点をよく理解していないと経済構造の本質を明らかにする事はできない。

 経済の仕組みとは、有限な資源を活用して、有用な財を生産し、暴力的手段を講じずに適正に配分、分配する仕組みである。重要なのは、経済というのは、非暴力的手段を前提としているという事である。経済の仕組みが円滑に機能しなくなった時、暴力的な手段によって資源を確保は様とする動きが顕在化する。つまり、経済は平和を実現するための手段でもある。

 平和や幸せを追求する仕組みである経済の仕組みが、お金儲けの手段に変質したところに今日の経済の問題があるのである。

 また、経済の仕組みは人工的構造物である事を忘れてはならない。経済は自然に成るわけではない。貨幣は、所与の物ではなく、任意な合意の所産である。

 経済構造には、全体と部分がある。

 部分を構成する要素には、部分を構成する他の要素に対する働きと市場全体に対する働きがあり、その相互作用によって経済現象は、成立する。

 注意しなければならない事は、合成の誤謬という事象である。つまり、部分と全体との不整合であるが、合成の誤謬は、部分と全体との関係が確立されていない事に起因している。何が全体として優先し、何処の部分を尊重すべきかが重要なのである。
 それが経済の主要課題だと言ってもいい。

 例えば費用や借入金である。

 貨幣は、全体的な働きとして見ると分配の手段であるが、部分的な働きとしてみれば、交換の手段である。
 分配の手段として貨幣を捉えるならば、必要かつ適正な配分が働きの主眼となる。それに対し、交換の手段というのならば、効率的な交換が目的となる。

 企業を経営する者からすると費用や借入金は、なるべく少なくした方が良いと思いがちである。
 しかし、社会全体からすると必ずしも費用や借金は不必要なことと断定するのは間違いである。
 むしろ、経済は費用や借入金によって成り立っているとも言える。

 費用や借金を悪だとする風潮が偏っているのである。
 社会全体から見ると費用や借入金は必ずしも負の働きをしているわけではない。大体、取引相手から見ると費用は収益であり、借入金は貸付金なのである。

 経済指標では、例えば、総資本利益率や総資産利益率などは、総資産が利益に対して少ない方が資本効率が良く安定性がいいという風に考え、営業利益率は、収益に対して利益が多い方が収益力があると考えがちである。
 現代の経済には利益至上主義みたいなところがあるが、利益は指標の一つに過ぎない。むしろ、個々の要素が経済に対してどの様な働きをしているかの方が重要なのである。
 忘れてはならないのは経済は過程でもあるのである。
 単純に総資産と利益を比較したり、借入金の多寡を問題にするわけにはいかないのである。

 部分的な最適化だけでなく全体としての最適化を計らなければならないのである。さもないと合成の誤謬が生じる。
 部分と全体との最適化を実現し、合成の誤謬を避ける為には、部分を構成する個々の要素の相互関係、相互比率を明らかにしていく必要があるのである。

 要するに、バランスの問題である。費用と収益、負債と資産のバランスが問題なのである。
 会社経営というのは利益だけを目的としているわけではない。又、利益を出す事が目的なのではない。

 大切なのは、企業活動を通じて何を生産し、どの様に分配するかなのである。生産と分配をした後の余剰が利益なのである。その点を忘れると企業経営は利益を上げることが目的であるかの錯覚に陥る。
 そして、無借金経営や極端に機械化された企業ばかりになると経済は停滞するのである。

 経済を構成する単位は経済主体であり、経済主体を構成する要素は個人である。
 経済主体は民間企業、家計、財政である。

 経済の基本単位を何にするかは、思想である。個人におくか、家計におくか、家計においた場合、家計の定義や範囲をどう設定するか。今日の経済は、最小単位を個人としたり、家計としたりと複数の単位が混在している。これも思想である。又、思想的には過渡期と言える。それがいろいろな問題を引き起こしているのである。
 この経済主体を個人を媒体として貨幣が循環し経済の仕組みを機能させているのである。
 故に、経済で重視される働きが均衡と循環なのである。

 大事なことは、生産者は、消費者でもあるのである。個人は、所得と支出両面の担い手なのである。個人の所得や雇用が低下すれば支出も同様に低下するのである。
 無人の生産現場を理想とした場合、所得の分配をどの様な手段でやるかを考えなければならない。なぜならば、生産と所得の分配は表裏の関係にあるからである。

 費用や借入金を無原則に削減していった景気は悪化してしまう。なぜならば、費用の中には、人件費も含まれているのである。
 又借入金は、裏返せば投資である。費用や借入金を削減することは、雇用や投資にも影響を与えることにもなる。
 費用や借入金を限りなくゼロに近づけることは、雇用や投資を限りなくゼロに近づけることにもなるのである。

 人件費の高騰や労働条件の改善が競争力を奪うとするのならば、競争によって何を得ようとしているのかを検証する必要がある。ただ、競争力を維持するという名分は、低賃金や劣悪な労働条件を正当化する根拠にはならないのである。
 何を経済状態を測る指標とするのかは、どの様な経済状態にすることを目的としているのかによって設定されるべき事なのである。

 その大前提が経済の目的は人々の暮らしを豊かにして幸せにする事にあるという点である。

 回転率や利益率は、経済の目的と経済状態との釣り合いによって考えるべき指標なのである。そうなると一企業だけの判断では決定できない。
 競争の原理と言うが、何を競わせ、何を協調するのかが問題なのであり、無原則な競争は、経済を悪化させるだけなのである。だからこそ市場の目的や働きを明らかにした上で、経済の仕組みを構築する必要があるのである。

 単純に費用や借金は悪であり、ひたすらに削減すればいいというのは間違いである。重要なのは、費用や借金の働きであり、役割を正しく認識する事なのである。その上で、適正な競争が行われるよう、市場を構築する事なのである。

 経済の構造を考える場合は、入り口に当たる収入の構造と出口に当たる支出の構造を検討する必要がある。
 入り口に当たる収入には、資産性収入と勤労性収入、臨時収入がある。支出には、消費性支出と投資性支出、貯蓄性支出がある。
 この収入と支出の構造が経済主体の構造を形作る。

 税を考える場合、税の持つ働きを前提とする必要がある。税の働きとは、所得の再分配、通貨の循環、公共投資、行政支出、景気対策がある。中でも、通貨の供給と回収を経済活動の基礎とした場合、期間収益を何を基準にして、どの様に評価するかが重要な鍵となる。何を課税対象とするかを誤ると財政収支の均衡を保つことができなくなる。


経済の基盤を形成する要素



 貨幣経済では、経済を構成する要素は人、物、金に分類される。
 経済の主体は、人と物である。お金は、あくまでも黒子であり、従である。
 金儲けは、目的にはならない。金儲けは、手段である。金を儲けてどうするかが問題なのであり、金を儲ける事自体は目的にはならないのである。主たる物はその背後にある事業である。
 ところが、主たる人と物が従であるお金によって動かされているのが今日の経済の問題なのである。手段である金儲けが目的化し、本来の目的である人や物が手段化してしまっている。そのことで、経済が人間性を失ってしまったのである。
 経済は、本来、合目的的な事象である。そして、目的を生み出す主体は人と物である。ところが現在は、お金が目的を支配している。その事によって人と物がお金の奴隷と化しているのである。
 総ての価値観は、お金が主となり、人間性だの資源、環境の保護は二の次になっている。
 お金の暴走を誰も止められないのである。

 経済は、思想の影響を受ける。と言うよりも経済は思想そのものである。
 何を経済的単位とするのか。それによって人々の生活の有り様が決まる。今日の自由主義経済は、経済の基本単位を個人に置く。それは、経済要素を個人に還元する事を意味している。かつては、家族において。
 家族制度にも三世代を基礎とした大家族制度、家長制度と二世代を基礎とした核家族制度がある。大家族制度は、垂直方向に老人と勤労者、そして、子供である。水平方向には夫婦である。老人と子供と配偶者を扶養家族として一つの単位を構成したのである。これが大家族制度を構成した。家族制度は夫婦と子供を単位にした構造から個人を単位にした構造に変遷してきたのである。
 この様な家族制度の変遷は、社会の基礎に重大な影響を及ぼしてきた。家族の崩壊は経済単位の変更によって引き起こされていると言っても過言ではない。即ち、専業主婦が否定されているのである。それによって家事の外注化が進んでいる。それは家庭内労働の外在がであり、貨幣かである。
 そして、経済の個人化は、少子高齢化を生み出す一因でもある。もう一つ忘れてはならないのは、戦後、最も合理化や機械化が進んだ分野の一つが家事労働だという点である。この点を抜きにして少子高齢化問題を解決する事はできない。むろん性差別の問題も無視できない事ではある。

 能力に応じて賃金を決めるのか、同一労働、同一賃金の原則に従って平等に支払うのか思想の問題である。自然の法則に従うのとは訳が違う。人間が考えて決める事なのである。
 経済は人為的な現象なのであり、自然現象とは違う。つまり、経済的成果は自然に成る物ではなく、人間が作り出す事なのである。故に、経済が引き起こす諸々の現象は人間が責任を負うべき事であって自然や神に責任を負わせるような事ではない。

 お金はエネルギーである。石油やガス、水力、原子力もエネルギーである。エネルギーを人の役に立てるためには、装置が必要である。つまり、金を人の役に立つように制御するためには装置が必要なのである。それが経済体制である。
 自動車は、機械である。自動車を制御しているのは人間である。運転している人次第で自動車は凶器にもなる。エネルギーは装置がなければ、制御できない、危険な資源なのである。お金も経済を動かすエネルギーの一種である。
 お金も、制御装置がなければ危険な資源なのである。

 人、物、金の軸に時間軸が加わって経済は時空間的な動きをする。
 人、物、金と時間によって形成される空間が市場である。
 自由主義経済は市場を基盤とした経済体制である。

 経済の基盤は、人と物によって形作られるのであり、「お金」によるわけではない。
 経済で重要なのは人である。経済の有り様を決めるの決定的要因は、人口である。
 人口が増えている時は、経済も拡大期である。人口が減少に転じると市場も縮小に転じる。

 市場の規模は、生産財の量に制約を受け、市場の広さは、人口に制約を受ける。
 市場の構造は、生産の仕方と社会構造、人口の分布によって形成される。
 市場経済は、予め経済主体に「お金」を何らかの基準や要因に基づいて配分しておく事によって成立する。
 市場取引によって生産財を配分する仕組みを土台として成り立っているのである。

 生産要素は、資本、労働力、設備である。資本とは金を基本とした生産手段であり、労働力とは人を基本とした生産手段であり、設備とは、物を基本とした生産手段である。

 経済状況を決めるのは、物の量と人の量、金の量である。

 物の経済では、何を分母とし、何を分子とするかが、重要となる。
 物の経済とは、物の生産、物の運搬、物の分配、そして消費からなっている。
 物の経済は、有限である。又、物の経済は連続性がある。そして、物の経済には実体が伴っている。
 物の経済は、供給を形成する。物の経済は、生産力と在庫、消費量によって決まる。
 消費量は、人口を基としている。

 人は、生産手段(労働、所有権等)、所得、必要性である。
 人の経済は、有限である。
 人の経済の基本は、生産手段と配分である。
 人の経済は、需要を形成する。

 人と物の経済は、需要と供給によって制御される。

 物の観点から見た貨幣価値、人の観点から見た貨幣価値、金の観点から見た貨幣価値は、貨幣単位によって表されるが、同じではない。

 貨幣価値は、数量と金額からなる。数量は物を表し、金額は金を表す。
 数量は、物の空間を表し、金額は、数の空間を表す。
 数量は、物の集合を表し、金額は、数の集合を表す。

 お金の経済には、限りがない。無限である。
 お金の経済は、収入、支出、貯金からなる。

 二十一世紀に入って原油の生産量は、横ばいであるのに対して、石油価格は、急騰した。
 これは、原油市場に投機マネーが流入した事が原因である。(「日本の経済の奇妙な常識」吉本佳生著 講談社現代新書)
 このように貨幣経済は、物の生産、お金の流れ、人の消費の三つの要因によって引き起こされる。

 生産量や消費量というのは物の経済を表し、価格の変動はお金の経済を表す。価格は、人の欲求に基づいて市場取引によって形成される。
 市場取引は、価格に収斂する。価格は、需要と供給によって定まる。需要は、人の欲求を基とする。
 貨幣経済現象は、物の要因と金の要因、そして、人の要因が複合されて起こる現象である。

 市場取引は、過剰なところから不足しているところへ資源(人、物、金)を配分する事を目的として成り立っている。
 経済の役割は、必要な資源を、必要なだけ、必要なところへ配分する事である。

 この様な貨幣のはたきは、経済的価値を平準化する。

 その国の経済状況は、産業構造に依って決まる。産業構造は、人的資源、物的資源、金融資源のあり方によって定まる。そして、各々の資源には、質と量がある。
 経済状況は単純にその国の生産量によって定まるわけではない。
 生産、分配、消費の相互作用によって経済状況は定まる。生産、分配、消費の働きは、市場の基礎にある産業構造と消費構造、金融構造に制約されている。
 また、産業構造は、生産手段の有り様、分散によっても制約を受ける。

 例えば、新興国の多くは、経済を離陸させる段階で低賃金による労働集約的産業に基礎をおいた成長を計る。
 それから漸次、資本集約型、知識集約型産業へと移行していこうとする。
 経済は、通常一定の段階を経て発展していく。
 即ち、労働集約的産業から資本集約的産業、そして、知識集約的産業へと段階的に移行していく。
 しかし、段階をステップアップする際に、何らかの支障が生じると経済は失速する。
 最も障害となるのは急速な格差の拡大である。急速な格差の拡大は、市場分裂させ、政治状況を不安定化する。
 経済が成熟してくると人件費が高騰し、それに従って労働集約的産業が衰退する場合がある。
 労働集約的産業が衰弱している時に、資本集約型産業、知識集約型産業に移行していくと雇用に偏りが生じ、その結果、格差が更に拡大し、政治が不安定となる。
 なぜならば、資本集約型産業、知識集約型産業は、労働の質に偏りがあり、限定的な雇用しか生み出さないからである。
 労働集約的市場を軽視せずに労働集約的産業を一定程度維持できる環境を予め予定しておく必要があるのである。

 労働にも質があり、特に、質は、年齢に左右されていることを忘れてはならない。
 よく付加価値の高い仕事に雇用を転移すればいいと高名な経済学者は言うが、それができれば苦労しないのである。付加価値が高いというのは、付加価値が高いなりの理由がある。第一、付加価値が高いというのは、希少性に価値がある事を意味している。皆が付加価値が高い仕事に移転したらあっという間に付加価値は消滅してしまうのである。
 又、付加価値というのは特殊な技能や知識を持っていることで成り立っているのであり、特殊な技能や知識というのは何らかの偏りがあって成り立っている。
 単純肉体労働だからこそ偏りのない雇用を創出することが可能なのである。その点を抜きに付加価値、付加価値と言っても意味がない。
 結局そういう学者達は、単純肉体労働、および、単純肉体労働者を侮蔑し、差別しているのである。言い換えると自分達の仕事は、価値があるのに対して、単純肉体労働は、価値がない、不必要な労働だとしている証である。しかし、この世の中を支えているのは、生産の部分でも、所得の部分でも、消費の部分でも、その単純肉体労働者である事を忘れるべきではない。また、人口の三割程度は単純肉体労働しかできない。逆に言うと、後の人間の多くは単純肉体労働に適さない人間なのである。人間には、各々、向き、不向きがあるのである。雇用を均一化してしまうのは、職業の選択肢を狭め経済の活力を奪うことになる。

 同一労働同一賃金というような尺度によって労働を量的に均一化できないのは、労働の質が一様ではないからである。又、分配を成り立たせている場も均一ではない。
 人間には個性があるのである。人間の個性によって労働にも質的な差が生じる。労働にも個性があるのである。
 野球選手の評価は、守備位置だけでは、確定できないのである。

 経済というのは、都合が悪くなったからと言って簡単に右から左へと変えられるわけではない。
 仕事は特にそうだ。仕事というのは、人生である。労働者一人一人の生きてきた軌跡がある。それを無視したら経済は土台から成り立たなくなる。なぜなら、経済は生きる為の活動だからである。

 人口の増加が需要を拡大した。その拡大によって供給の拡大、生産手段、特に、労働力の価値が上昇する。それに合わせて資金の供給量が増加し、実質価値が名目的価値に対し相対的に増大した。
 しかし、この流れが一旦逆転すると人口の減少は、需要の減退をもたらす。それは供給過多の状態を引き起こすことになる。その結果、労働価値の低下、所得の低下となり、実質価値が名目価値を下回るようになる。それは投資をも抑圧する。名目価値は負の働きがある。そして、名目価値は、絶えず回収圧力に晒されることになる。つまり、市場全体に負の圧力がかかることになる。


市場経済を動かしているのは現金である。



 現在の経済的場という事は会計的場である事も意味する。
 市場は、幾つかの部分的な市場が集合して全体的市場を構成している。
 個々の市場は、産業のあり方や局面によって様相が違ってくる。

 例えば、書籍は定価販売を基本とした市場であり、魚や野菜と言った生鮮食料は相対取引を基本とした市場である。

 現在の経済学の中には、市場を一律一様に捉えるものもあるが、市場は一律一様ではない。
 個々独立した市場が複雑に組み合わさって構成されている。
 また、産業は財が生産され消費されるまでに幾つかの段階を経る事になる。
 そして、その個々の市場には市場形成された歴史や過程、また、財の特性による取引形態、慣習、慣行等によって市場の構造は形成されている。
 そして、価格は、市場の構造に支配されている。

 現代の経済の仕組みを動かしているのは現金である。
 貨幣経済では、常に、現金残高を残しておくことが要求される。
 そして、現金の調達手段には、正の手段と負の手段がある。
 正の手段は、収益、或いは、所得、資本である。
 負の手段は借入金である。
 調達された現金は、資産と費用に仕分けされて運用される。
 会計上、調達された現金と運用された資産とは足すと零になる様に設定されている。

 経済的に負の数とは、借金を意味する。

 現金収支というのは、現金の入金と出金の流れを追って残高を記録した物である。
 それでは現金の働きの結果どの様な事象が生じているかを記録することはできない。
 そこで現金の働きを現金の流れに沿って計算した記録が複式簿記であり、簿記に基づいて経済の働きを記録する事が期間損益である。
 期間損益の仕組みは決算仕訳にある。
 決算仕分けをする直前の集計表が試算表である。故に、会計の実体は、試算表に表れる。ただ、試算表も現金の流れを表しているわけではない。試算表は、決算という加工をする以前の素の状態を表しているのである。

 現代経済の絡繰りを知りたければ、決算仕訳とキャシュフローの関係を知ることである。
 決算仕訳とキャシュフローとは、連動している。
 そして、これらの元にあるのは、試算表である。故に、会計の核心は試算表にある。
 ただ、注意しなければならないのは、試算表、現金収支、キャッシュフローは同値というわけではない。
 微妙な差がある。その点は注意しなければならない。

 現金と損益において重要なのは、現金収支に表れて、損益に表れない事象、そして、現金収支に表れないで、損益に表れる事象である。
 その代表的なのが借入金の元本の返済金と減価償却費、利益である。そして、納税額である。
 この三つの働きを正しく理解しておかないと経済の動きを理解することはできない。

 もう一つ重要なのは、家計と財政は、現金主義であるのに対して、市場は期間損益主義だという事である。
 即ち、家計と財政は、市場と制度的な整合性を持っていないという事である。

 家計、財政と市場は、別の原理で動いている。

 ただし、家計、財政、市場を動かしているエネルギーは現金である。

 経済には、妙な考えがある。つまり、儲けることは悪いことだという認識である。
 金利は悪だという思想と相まって経済を解りにくくしている。
 それは、財政の現金主義、単年度均衡主義、法定主義という形で現れている。
 この様な形は、士農工商のような身分社会の残渣なのかもしれない。百害あって一利なしである。

 武を重んじ商を軽んじるから、力を頼って利を侮る。
 現金主義に必要以上に固執するからお金の働きを分析することができないのである。
 財政が破綻しているかどうかも明らかにできないでいる。
 それは、フローとストックの関係や長期的資金の流れ、短期的な資金の流れの働きが分析できないからである。
 故に、財政も長期的な観点で制御する事ができないでいる。
 また、現金主義に基づいている事が、単年度均衡主義予算主義から抜けきれない原因なの一つなのである。
 必要に応じて期間損益主義に従ったものの見方も採用すべきなのである。

 市場経済を動かしているのは資金の流れである。
 資金はただ流れれば良いというのではなく、循環する必要がある。
 資金は循環することによって財を動かし、分配する。この循環運動が社会を成り立たせているのである。
 資金の流れは、市場を動かし、また、市場を維持する働きがある。
 資金の流れがある事によって経済体制のみならず、国家体制も維持されるのである。
 この資金の流れが変調すると経済は円滑に機能しなくなり、そのまま放置すれば、国家体制も崩壊してしまう。

 貨幣価値が市場に浸透すると換金できるか、否か、即ち、貨幣価値に換算できるか、否かが、経済的価値を左右するようになる。



フローとストック



 経済事象を予測する際、フローとストックを明確に区分する必要がある。
 経済現象は生産と消費の過程で生じる。
 フローは、現金の流れによって形成され、ストックは、生産手段と権利によって形成される。

 貸し借りは、通貨の流れに対応して貨幣の働き、即ち、売り買いの権利を転移し、留保する取引を言う。
 売り買いの働きは、損益計算書に、貸し借りの働きは、貸借対照表に反映される。
 損益は、フローに、貸借はストックに対応する。

 会計空間に於いて通貨の流れには、二つの働きがある。
 一つは、通貨の流れの反対方向に財の流れを起こす事である。
 今一つは、同量の債権と債務を派生する働きである。

 負債から資産の方向に通貨が流れると流れた量と同量の債権と債務が生じる。
 言い換えると債務、即ち、借金が増えると通過の流量も増える。
 債務とは「お金」を、債権とは「物」を、意味する。
 債務は名目勘定であり、債権は実質勘定である。
 そして、一定期間内の市場の取引の総量は、通貨の量掛ける回転によって計算される。
 通貨の働きは、フローの側に流れるか、ストックの側に流れるかによって変化する。

 債権、債務は会計上のストックを形成し、財と貨幣の流れはフローを形成する。

 債権と債務は、貨幣価値に振幅をもたらす。この振幅によって経済は動かされる。

 貸し借りによる通貨の流れは、同量の債権と債務を派生させ、その均衡の圧力が貨幣に作用反作用の働きを生み出す。

 作用反作用の働きによって景気は一定の幅で振幅し、収束するのである。作用反作用の働きがないと景気は、一方的な方向に拡散し、収束できなくなる。

 逆方向で同量の債権、債務の働きは、ゼロ和である。
 ゼロ和というのは、ゼロを基点として均衡している状態を意味しているのである。
 この様なゼロ点に向かっては、求心力と遠心力が働いている。この求心力と遠心力が作用反作用の要因であり、振動を起こす原因でもある。

 債権と債務の関係が通過の流量を制約するよって、ストックとフローの関係が景気の動向を定めるのである。

 ストックは、資金の供給量、流量を制御し、フローは、資金の循環と生産財の流れを司る。
 ストックは生産手段に依拠し、フローは生産と消費を調節する。

 フローとストックの関係が経済の動向を定める。

 市場経済の基盤は、ストックとフローによって形成される。ストックは貸し借りを基に、フローは売買を基に形成される。
 ストックとフローは、実質的価値と名目的価値に反映される。
 実質的価値と名目的価値の関係は、第一に、実質的価値と名目的価値が均衡している場合、第二に、実質的価値が名目的価値を上回っている場合、第三に、実施的価値が名目的価値を下回っている場合の三つの場合、局面が想定される。そして、この関係によって市場の基礎的環境は、作られる。
 実質的価値と名目的価値の水準の格差がある限界を超えると格差は、発散してしまう。即ち、名目的価値と実質的価値は相互の牽制力を失って一方方向に暴走してしまうのである。こうなると市場を制御する事が困難になる。

 実質的価値は、フローとストックの不均衡が原因で毀損することがある。
 景気は、フローとストックの比率に大きく影響される。ストックは、通貨の流量を規制し、フローは、物価の水準に影響する。

 実質的価値が大きく毀損すると名目的価値との乖離が大きくなり負の遺産によって市場全体に負の圧力がかかり景気が下振れするようになる。それが恒常的になるとデフレーション現象として現れる。

 現預金と借入金は、貸借関係、正と負の関係にある。

 資金がストックされる事は、資金効率が、悪くなる事を意味する。俗に、資金が寝ると表現される。
 社会が経済的に階層化されると貧富の格差が拡大する。富裕階級は、資金をストックするようになる。そのために資金効率が著しく低下する。
 階層化すると資金の運用に偏りが生じ、資金効率が低下するのである。

 経済が階層化されると流通する通貨の階層化される。これもまた資金の効率を悪くする原因となる。

 企業経営では、収益が費用を上回り利益を計上していても収入を支出が上回っている状態では、負債は増加する。資金が、調達できなければ経営は行き詰まり倒産する。


負の経済



 零と一。
 零は始点を意味し、一は単位を意味する。
 ゼロは掛けた相手を空しく、一は掛けた相手を変えない。
 負は足して零になる数。
 経済では負債を意味する。
 この様な、負の数は、原点、始点、基点が定まることで成立する。
 取引では取引毎に始点が設定され、債権と債務が派生している。
 即ち、取引が成立した時点では、交換した物や金は、等価である事が前提とされる。
 足して零になる関係である。
 つまり、取引が成立した時点で正の価値と負の価値が同量派生することを意味している。
 取引は、同一性によって成り立つ。
 同一性は等号に置き換える事が可能である。
 それがゼロ和の持つ意味である。

 等号によって正と負が生じる。
 等号に結ばれた正と負の勘定は、足して零になる勘定である。
 正は、+、負は-。
 正は、左、負は右。
 正は、借方、負は貸方。
 正は、実質勘定、負は名目勘定。
 正は債権、負は債務。
 正は、生産物や資産、負は、金融と収益。
 金融と収益は収入と支出を構成する。

 取引によって生じた負の値は、手続きによってのみ変化するのに対して、正の値を市場取引によって変化する。
 正の値と負の値の変化の差から経済的価値が生じる。

 収入は支出の上限を画定する。収入とは、視点を変えると資金の調達である。
 故に、収入は、資金の調達手段によって制約を受ける。
 資金の調達手段は、生産手段と金融手段、資本的手段に基づく。
 資金の流通量は支出と資金の回転によって決まる。
 収入は負に基づき、支出は負を正に転化する。

 支出には時間が関係する。支出と時間が掛け合わさる事で長期負債が成立する。
 長期負債は、固定的支出となる。

 収入は最大値を求められ、支出は最小値を求められる。
 拡大と抑制、両極への働きが経済効率を高める。

 経済の作用の本質は分配であり、原則は、正と負の均衡である。
 正の均衡の基礎は、費用と資産の比率によって形成される。
 負の均衡の基礎は、負債と収益の比率によって形成される。

 負と正の働きは、利益に反映し、利益は、資本に蓄積される。

 費用と負債が連動し、収益と資産が連動する。
 資本と利益が連動している。
 費用の増加が負債の増加に結びつく場合がある。
 費用は、所得に転換される。所得は収益の根拠となる。
 所得の上昇は、物価と費用の上昇を招く。
 所得の上昇は、費用を押し上げ、費用の削減圧力となる。
 費用の削減は、所得の低下に結びつく。

 現金残高は、利益に連動している。
 現金収支の残高を、常に、一定、かつ、正の値に保つ。

 現金は、公的負債によって供給される。
 故に、現金を供給すると社会全体の負債の水準は上昇する。
 即ち、社会全体の負債水準が上昇すると資金の流量が増加する。
 資金の流量が上昇すると資産、収益、費用の水準が資産水準、収益水準、費用水準の順で順次、上昇する。
 収益の上昇は、生産力を高める。生産力が高くなると生産物の供給が過剰になる。
 市場が成熟してくると市場は、飽和状態となり、収益の上昇にブレーキがかかる。
 収益の上昇が停滞は、費用と負債の比率を高める。結果的に、費用と負債の比率が上昇し、収益と資産の比率が下降する。
 収益と資産価値が低下すると結果に資金の調達能力が低下する。

 社会全体の金利負担は、個々の企業の金利の水準を本とするだけでなく。
 社会全体の負債の総和の水準を基としている。
 故に、部分的影響だけでなく、全体的影響も勘案する必要がある。

 労働には、正の労働と、負の労働がある。
 正は、生産的労働、負は、非生産的労働である。
 非生産的労働には、金融労働と消費的労働がある。

 黒字を生み出すのは、正の労働であり、赤字を補填のは負の労働である。
 現金収支は、正と負の労働の均衡によって安定する。
 故に、経済全体は、現金の動きと損益の動きを調和させる事によって完結する。

 経常収支を考えた場合、一定期間で黒字と赤字を振幅する運動と見るのか、短期的に均衡する運動としてみるのか、直線的に蓄積する運動と見るのかでとるべき施策は変わる。その点を見極めないで黒字が是か、否かを論じるのは愚かである。

 貨幣は、負の空間、マイナスの空間を作り出す。

 負の勘定を制御しているのが金融機関、金融システム、決済システムである。

 金融機関は、借金によって成り立っている。金融機関の事を金貸しとか、高利貸しと考える人がいるのは、金融機関が借金で成り立っている事の裏付けである。金融機関は預金と言う概念は、金融制度が確立する過程で形成された事で、金貸し業から金融業は、始まったと言える。つまり、金融の源は、借金なのである。
 何かというと金融機関は、悪者にされ、裏で経済を牛耳っているように見なされるのは、借金は、悪い事だという考え方がある事に影響されている。
 金融業には、高利貸しという印象がつきまとっているのである。しかし、借金がある事で貨幣制度、信用制度、金融制度は成り立っている事を忘れるべきではない。

 貨幣制度の発展は、信用制度の発展と表裏を為している。信用制度が確立される事によって為替制度や資本、そして、金銭の貸借などが成立する。

 そして、資本が形成される事によって金融制度が形成される。資本は、資金が集積する事によって形成されるのである。

 銀行は高利貸しではない。ただ担保を取って金を貸すことが仕事なのではない。負の勘定を制御して産業や事業を育成し、市場を正常に機能させることが仕事なのである。目先の利益に拘泥し、大局を見失ったら金融は国を滅ぼす。

 相続税や固定資産税のことを考えると、資産を所有するというのは、裏に、負の経済の影響を受けているという事を意味する。
 つまり、資産は、一定期間、所有しているのは、国から預かっている物というように認識していた方が無難なのである。

 つまり、資産は、それが成立した時点で、足下に負の世界が同時に成立するという事を忘れてはならないのである


負の働き


 正の勘定が是で負の勘定が否だというのではない。正の働きと負の働きが問題であり、常に、正と負を均衡し、解消する事を前提とした仕組みなのか。それとも正と負が累積する事を前提とした体制なのかが重要なのである。つまり、負債の蓄積が問題なのではなく、通過の流量を調節する仕組みにするのか。常に、正と負の割合を一定に保つ仕組みにするのかの問題なのである。それは純粋に技術的問題である。技術的問題だからこそ解決手段を見いだす事が可能なのである。

 貨幣経済を成り立たせているのは負の勘定であり、負の勘定、即ち、借金を肯定的に捉えないと負の勘定を制御する事ができなくなる。負の勘定を否定的に考えるのではなく、肯定的に考え、積極的に活用する事で負の勘定を制御すべきなのである。
 そのために考案されたのが複式簿記である。複式簿記を土台とした期間損益主義、会計制度である。

 負の勘定を考える上で、負の勘定の持つ性格を明らかにする必要がある。負の勘定の性格を考える上で正と負が一定の期間で清算されるか、それとも一方的に積み上がるのかが、重要になる。正と負は、一定の対称性を持つ。また、正と負の関係は、時間と密接に結びついている。つまり、短期的に均衡、清算される勘定なのか。長期的に均衡、清算される勘定なのかそれによっても違いができる。

 負の勘定の中には、正の働きが消滅しても負の働きは残存する場合がある。この残存した負の勘定の処理を間違うと経済は制御不能の状態に陥る。
 又、負の勘定は、梃子の原理によって正の価値を増幅したり、圧縮したりする。
 負はそれ自体で固有の空間を作り出すことができる。

 貨幣経済では、物の価値と金の価値が相互に独立した座標軸をもち。それが組み合わされる事によって会計的空間を構成している。その会計的空間の基礎にして市場の動きは制御されている。

 正の価値は、消費されるのに対して負の価値は集積するという性格がある。
 金利によって形成される時間的価値は、負の価値によって複利的に増殖する性格を持つため、負の価値が一定の限界を超えると幾何級数的に増幅する。
 財政を考える場合、この性格が災いする事がある。
 正の価値と負の価値の均衡が保たれずに負の価値が一方的に累積すると経済は停滞する。
 経済的価値は、正の価値単独で成り立っているのではなく。その対極にある負の価値との均衡によって成り立っている。

 負の価値と正の価値の釣り合いがとれなくなると名目的価値と実質的価値が分離し、フローとストックか不均衡になり、物価の急激な変動を引き起こす事になる。

 負の働きは、蓄積されると独自の空間を生み出し、負が持つ属性であり金利や借入金の返済と言った固有のやりとりを生み出す。

 経済的価値の上下運動によって経済の正と負のエネルギーを回転運動に転換することで物流を起こし、市場の交換を通して資源を分配する。それが市場経済である。
 問題となるのは、直線運動を回転運動、循環運動、周期運動に変換できなくなることである。直線運動を回転運動に変換できなくなると負の連鎖が始まる。

 貨幣の循環を引き起こす仕組みの一つがゼロ和関係である。ゼロ和関係によって作り出される正と負の関係が回転運動の原動力になる。

 現代の経済は、直線運動を回転運動に変換できないが故に、負の連鎖を起こしているのが最大の問題なのである。

 負の連鎖を引き起こすのは、現金収支と期間損益との間にある不整合である。
 そして、その不整合を引き起こすのは、償却、配当、役員報酬、納税資金、現金の流出、借入金の返済、利益、費用といった現金収支と期間損益との間にある認識の違いである。

 負の連鎖は、期間損益と現金収支の不整合によってももたらされる。

 投資は、基本的に先行している。投資は、負の勘定を伴う。

 償却が終わると利益は、過大になってくる。
 しかし、それは現金収支と直接結びついていない。償却が終わっていながら借入金の返済が残っていると納税額と借入金の返済額を合算した値が現金収入を上回る場合が出てくる。
 過剰な利益を上げていながら、現金不足という事態に陥るのである。現金収支と期間損益の不整合によって起こる資金不足の分岐点をデッドクロスという。

 一方的にエネルギーが蓄積され、市場を歪め、富の偏在を促してしまっている。それによって公正な分配ができなくなり、物流が阻害されている。
 又、生産と消費を結びつけることができなくなる。それは生産手段と生産力の結びつきを断ってしまう。

 資産価値の下落によって資金の調達能力が低下し、資金不足に陥り、負債が増加し、資金が流出し、内部資金か減少する。内部の資金が枯渇することによって再投資の原資を失う。
 
 過大な利益がでいるのに資金不足に陥る。最悪は黒字倒産をしてしまう。
 これは企業に限ったことではなくて国家財政も同じである。企業だって国家だって現金が回ることによって成り立っている。
 利益があっても資金が回らなくなれば経済的に行き詰まるのである。

 先物取引というのは、貨幣経済の特徴をよく表している。
 先物取引というのは本来リスクヘッジを目的とした取引である。基本的にゼロ和である。
 現物と将来の価格との差を均衡させる手段が目的である。つまり現在と未来との間にある経済的歪みを現在と今との価格を等価値にすることで是正する取引である。
 この様に市場的歪み、時間的歪みが利益を生むのである。

 人は、金の奴隷になると言うより、借金に囚われるのである。資産と借金は表裏を為すのである。借金がなければ、金に追い回されることはないのである。借金だからこそ人は金に使わされてしまうのである。


名目的価値と実質的価値



 会計も「お金」も虚構である。「お金」の本質は、物としての実体ではなく、働きである。
 財政赤字が一千兆円あると言っても実際に現物としているお金の量は、一千兆円もあるわけではない。つまり、現物であるお金の何十倍ものお金が働いているのである。

 資産価値には、物としての価値と取引によって貨幣に換算された時の価値がある。
 物としての価値は実質的価値を形成し、取引によって貨幣に換算された時の価値は名目的価値を形成する。そして、表面上は、実質的価値と名目的価値は均衡している事になっている。会計上、帳簿では、債務があってもそれと同量の債権がある事が前提となって成り立っている。

 名目的価値は数式的変化をするのに対して、実質価値は確率的変化をする事が前提となる。

 それは名目的価値は、環境や状況の変化に対応する必要がないからであり、実質的価値は、環境や状況の影響を受けているからである。

 名目的価値は一定の規則を持った自然数の数列として現れる。この様な名目的価値は、数式によって予め計算する事が可能である。この様な名目的価値には、金利や資金計画などの時系列的数列が上げられる。
 この様な名目的価値に対して実質的価値は、不規則、不確実な変化として現れる。

 利益は、期間損益主義おいて、また、会計上、経営活動を測る中心的指標である。
 利益は、実質的価値と名目的価値から生じる歪みによって生み出される。実質的価値と名目的価値の間に生じる歪みの原因には、時間差、物理的距離、生産性等がある。

 収益、売り上げは、お金を集計として名目的な価値を構成し、費用は、物としての価値、実物的な価値を集計した値である。物としての価値である費用を売り上げによって調達した資金が上回れば利益となって資本に組み込まれていく。逆に、売り上げが費用を下回れば、資本を毀損する。資本は、物として価値の裏付けがあって成り立っている。つまり、名目的価値だけでは、実体を伴っていないと見なすのである。それによって名目的価値を制約することによって信用制度を保障しているのである。

 お金は、本来、お金、単体で成り立っているわけではない。お金が指し示す対象があって実体を持つ。お金だけでは、名目的価値しかもてないのである。お金は、交換を媒介する事によって効力を持つのである。

 貨幣というのは交換価値を特化した物だという点である。貨幣を有効にするためには、交換と言う事象を分離独立させて機能させる必要がある。その場が市場であり、行為が市場取引である。
 ジョン・ローが「貨幣の価値は財と交換される事ではなく、財の交換を媒介する事に於いて現れる」と言ったのはこの点を言う。(「金融vs国家」倉都康行著 ちくま新書)

 そして、今日、貨幣は、物としての実体もうしない。表象、情報、信号へと変質しつつある。

 お金が流れる事で、資産と負債が成立した時、資産と負債は均衡している。しかし、資産の内、物と設備は時間の経過と共に減価し、不動産価値は、相場によって変動し、お金の価値は、名目的価値を保つのである。
 債権と債務の関係と実質価値と名目的価値は非対称な動きをする。

 実質勘定と名目勘定の対称性を前提としているのに、実際は、非対称に陥る。
 それが拡大することが、経済を低迷させる原因となっている。

 実質勘定と名目勘定との相関性が薄れると経済は、制御が難しくなる。故に、経済の制御は、実質勘定と名目勘定をいかにして連携していくかにかかっている。

 名目的価値と実質的価値の相関関係によって景気動向の傾向が定まる。即ち、名目的価値が実質的価値の下限となるのか、上限となるのかによって市場に正(ポジィティブ)な圧力がかかるか負(ネガティブ)な圧力がかかるかの違いが生じるのである。それによって負債の負荷がかかる方向に違いが生じる。

 名目的価値と実質的価値の相関関係は、市場の基礎的要件を定める。

 名目的価値と実質的価値の関係は、市場が縮小均衡に向かうのか、それとも拡大均衡に向かうのかを定める。市場が拡大均衡に向かっている時は、名目的価値は、実質的価値の下限となり、資産価値は膨張し、負債は、相対的に圧縮されるのに対し、市場が縮小している時は、名目的価値は、実質的価値の上限となり、資産価値は縮小し、負債は、相対的に膨張する。
 利益の働きは、市場に働く力の傾向によって質的な違いが生じる。

 この様に自分達の都合に合わせて基準を選べたり、また、状況に合わせて基準を変更する事が可能だとしたら公正な競争など最初から成り立たないのである。
 それでなくとも国家間には、所得格差、労働条件の差、物価の違いといった根本的な問題があり。また、前提となる条件もプロとアマチュアほど技能が違った者同士や機械と人間が同一条件で争ったりといった事があり、とても、公正な競争が成り立っているとは言えないのである。


貨幣システム



 多くの人は、貨幣経済の役割、目的を誤解している。貨幣経済は、金を儲ける事が目的なのではない。人間が、人間らしい生活を実現し、更に自己実現をするために必要な資源の生産を促し、生産された財を公正に分配することが目的なのである。
 その目的を果たすためには、何らかの基準に基づいて貨幣を予め全ての国民に分配しておく必要がある。そのための仕組みが貨幣経済の仕組みなのである。その仕組みの一つが市場である。

 貨幣経済というのは、ギャンブルに似ている。胴元がチップをプレイヤーに配分するところからゲームは始まり、チップがなくなればゲームオーバーとなる。そして、プレイヤーは基本的にチップを借り、必要に応じて物と交換するのである。
 最初、プレイヤーは、チップを胴元から借りることになる。謂わば、中央銀行は胴元のような存在なのである。そして、貨幣の本質は借金が元となっている。この事は、貨幣経済の本質を象徴している。
 最終的に経済が成り立たなくなるのは、デフォルト、支払い不能に陥る事であり、それは残高が枯渇する事を意味する。

 プレイヤーにチップを予め渡しておかなければゲームは始まらないように、貨幣を消費者に予め渡しておかないと貨幣経済は成り立たない。如何に、どの様にして貨幣を消費者に配分するかが、貨幣経済の根本なのである。

 プレイヤーは、賭け事に参加するためには、予め胴元からチップを借りてお金を賭け事に掛け儲かった時に儲かった中から返す。
 商売というのは、金を借りて、買って、売って、利益を上げて返す。この繰り返しである。取引は貸し借り、売り買い、受け払いが基本であり、貸し借り、売り買いが会計上の取引を意味し、受払は、物品や現金の流れを意味する。

 お金をどの様にして、何を基準、根拠にして国民に満遍なく配分するかが、経済の根本的問題となる。
 基本的に根拠とされるのは、生産手段の能力と成果である。
 貨幣経済は、総ての経済的価値を貨幣価値に換算される事によって成立する。貨幣が貨幣としての働きのみに特定されずに、物の価値を持っていると貨幣経済は、不十分なものとなる。

 そして、生産手段と配布されたお金の量と、財に対する欲求の人々の度合いが経済の状況を決めるのである。

 物と金には、正と負の違いがある。物が表なら、お金は裏である。
 元々、負の概念は、負債に由来している。信用貨幣は造り出すのは、負の空間である。
 紙幣の前身は、借用証書だという事が何よりもその証拠である。

 一般に投資というのは先行投資なのである。即ち、最初に投資、つまり、出資、支出がある。元手にしろ借入にしろ、その根本は、貸し借りである。貸し手が自分であれば、元手になり、他人であれば借入になる。また、返済条件を予め決めておかなければ資本であるが、貸し借りという行為を下敷きにしている事に変わりはない。
 投資とは、最初に出資した資金を回収する過程を言うのである。資金を回収できなければ投資は失敗したことになる。
 投資とは、長期間かけて投入した資金を回収する事を意味する。

 貨幣経済は、最初に負の働きがあって正の働きは機能するのである。

 紙幣は、中央銀行、或いは、政府の借金を基にして発行される。

 政府が直接、実物貨幣を発行しただけでは、貨幣は、政府の借金にならないのである。
 また、紙幣は返済を前提とするから回転する。返済義務のない紙幣は、負の空間を作れないのである。その意味で、政府が直接発行する紙幣は、返済義務を負わないが故に、負の空間を作れないのである。
 政府発行の紙幣は、回収を前提としていないから双方向の働きを発揮させない。
 貨幣は、返済を前提とした借金の延長線上にある事によって負の働きを作り出したのである。その負の働きによって貨幣経済は動かされているのである。言い換えれる貨幣の負の働きが、市場経済を動かす原動力なのである。

 政府の借金、民間(個人、企業)、国民の借金の借金の働きや性格は違う。
 政府の借金の裏側には、通貨の供給という働きが隠されている。
 政府の借金は貸し手が誰かが重要となる。
 国民の借金は、交易に影響する。
 企業の借金は、生産手段、ストックの実質的裏付けかある。
 個人の借金は、定収によって保証されている。
 政府の借金、国民の借金、民間(個人、企業)の借金の働きや性格は違う。
 そして、その貸し借りの総和はゼロなのである。

 経済環境の根底には、政府と民間(個人、企業)と海外との間の貸し借りの関係があるのである。債務と債権が形骸化して累積的に債権と債務の残高が上昇すると予測できない事態が起こりやすくなる。また、資金の流動性が低下し、決済のための資金が不足する事態を招く怖れもある。それが問題なのである。

 政府や中央銀行等の公的機関が、お金を市場に供給し、その上で、民間企業、家計、政府が金を出し入れする事によって結びつき、お金と物とを循環させる。お金を循環させる事によって経済の仕組みを動かしている。それが自由主義経済である。自由経済体制とは、金を循環させる事によって経済主体を結びつけ、生産財を分配する仕組みである。
 お金と物とは別々の独立した市場を形成している。そして、金融機関だけが、金を循環させるという特別な役割をしている。
 表の家計、民間企業、政府が実物によって成り立っているのに対して、金融機関は金だけで成り立っている産業である。そして、実物市場が表の市場とすれば、金融市場は裏の市場である。物の市場と金の市場を重層的に介する事によって物の経済とお金の経済は、表裏の関係にあるのである。
 市場に働いているのは場の法である。法と法則の違いは、法は合意に基づいて人為的に設定された規則なのに対して、法則は、所与の一定の規則を持った働きである。

 場の働きは、財を介して関連づけられている。


貨幣の働き



 貨幣価値は、所有権と密接に結びついている。と言うより、所有権があって始めて貨幣価値は発行する。
 例えば、土地の所有権を認められていない国では、土地は貨幣価値を持たない。なぜなら、交換、即ち取引の対象となり得ないからである。
 貨幣は、所有権、特に私的所有権と結びつく事によって始めて効用を発揮する事が可能となる。そして、貨幣の基本的働きは、交換であり、分配の手段である。

 現代経済は、市場経済と貨幣経済を基礎としている。

 貨幣の働きは、貨幣取引を通じて発揮される。
 貨幣取引は、貨幣の流れを生み出すのである。
 そして、その貨幣の流れが貨幣の働きを引き起こす。
 貨幣取引というのは、方向が逆の二つの作用によって構成される。

 貨幣取引というのは、同価値の対象を交換する行為を言う。
 交換というのは、それぞれが所有する対象を相互に受け渡しする行為を言う。その場合、財の所有権の転移を伴う取引を売買という。
 財の所有権の転移を伴わない行為を貸し借りという。

 取引による貨幣の所有権の転移を完結させる行為を決済という。

 直接的な物々交換では、価値を同一化する事は難しい。そこに貨幣の働きが生じる。
 取引を通じて貨幣は、価値の尺度としての働きが形成されるのである。

 ここでいう対象とは、物、用益、権利、集合と言った何らかの実体を持つ存在物を言う。

 市場取引は、同値同価値の対象の交換を前提としている。
 貨幣取引は、貨幣の交換を媒介にして成立する。
 貨幣の流れの反対方向に流れる財の流れを起こすか、垂直方向に貨幣の流れた量と同量の債権、債務の働きを作る。

 今日の貨幣制度と金本位制度時代の貨幣制度とは本質が違う。今日の貨幣制度では、貨幣が貨幣としての固有の価値を持っているわけではない。
 今日の貨幣制度の特徴は、貨幣が独自の空間を形成している点にある。
 貨幣空間が成立するためには、第一に、一つの通貨体系によって統一されていなければならない。一つの通貨体制は一つの通貨圏を形成すると言える。
 第二に、信用貨幣が基軸通貨であり、貨幣の働きが特化されている。
 第三に、中央銀行、或いは、中央銀行の機能を持つ一つの機関が存在し、通貨の発行権が統一的に管理されているという事。
 第四に、国債の発行手続きが確立されており、国債の引受機関が存在する事。
 第五に、通貨を循環させる機構、決済制度が整っている事である。
 第六に、金融市場が確立されている。
 第七に、税が金納である。
 第八に、複式簿記を基礎とした会計制度が確立されている。
 貨幣空間か確立されていれば経済的負の空間が形成され、その対極に物の空間、正の空間が形成される。経済的な負の空間と正の空間が形成される事によって物と金のが独立した運動をし、双方向の作用が確立される。
 貨幣空間が形成されると、貨幣が形成する空間と物が形成する空間とが分離され、独立した空間を形成する。
 独立した空間が形成されると物と貨幣とは、別々の基準によって測られる事になる。お金と物とは同じ単位では計測されなくなるのである。そうする事で貨幣は貨幣の働きに特化されるのである。

 貨幣価値は、所有権と密接に結びついている。と言うより、所有権があって始めて貨幣価値は発行する。
 例えば、土地の所有権を認められていない国では、土地は貨幣価値を持たない。なぜなら、交換、即ち取引の対象となり得ないからである。
 貨幣価値と所有権が不離不可分な関係にあるのは、交換という行為に直接的に結びついているからである。

 貨幣経済は、交換価値に貨幣という実体を持たせることによって貨幣価値を数値化し、流通させることを可能とした経済体制である。
 貨幣経済は、交換価値に貨幣という実体を持たせる事によって物の流れに対して反対方向に流れる貨幣の流れを作る出したのである。
 そして、貨幣の流れによって物の流れを促す働きを成立させたのである。この事が貨幣経済の根本的活力である。
 一度貨幣経済が成立すると経済は、貨幣によって表現され計られることになる。
 貨幣は象徴である。

 数には、任意の性格で対象を集合化するという性格がある。この性格は、逆に、任意の性格に依って対象を等しくすると言う働きもある。
 また、特定の性質や要素を抽出し、その性格に依って対象を類型化するという働きが数にはあり、数の性格を基礎とする貨幣にもこの性格は継承されている。
 この作用は、貨幣を考える上で重要な働きとなる。
 即ち、貨幣の本質は自然数であり、自然数は、負のない離散数という性格に則って対象を類型化し、一旦、貨幣価値に換算した上、異質な対象を貨幣価値によって演算する事を可能にするという働きがある。
 これが貨幣の働きで最も重要な要素である。

 貨幣価値は、数と値からなっている。この関係は、経済の根本的性格を表している。
 例えば、コインやお札の数と合計額の関係はお札の数と合計額という値からなっている。そして、金種と数、金額は、単位と構成の組みあわせを表している。
 また、金額は、物の数量と単価という値を掛け合わせる事によって決まる。

 貨幣経済を有効に機能させるためには、貨幣価値の働きを知る必要がある。
 貨幣の働きは貨幣の属性に依存しているからである。
 貨幣価値の働きを知るためには、貨幣の属性を明らかにする必要がある。
 貨幣は、第一に価値を表す数値情報である。
 第二に、貨幣価値は、自然数、離散数である。
 第三に、対象の貨幣価値を確定する。
 第四に、貨幣価値の単位を実体化する。
 第五に、物質化することが可能である。
 第六に交換が可能である。
 第七に、所有することができる。
 第八に、移動、運搬することが可能である。
 第九に、保存することができる。退蔵することが可能である。
 第十に、基準を統一する事によって価値を一元化し、異質な物の演算を可能とする。
 第十一に、任意の機関が、製造、発行することが可能である。
 第十二に、貨幣は、任意の単位によって独立した体系を構築することが可能とする。
 第十三に取引のための手段、道具である。
 第十四に、物や用益の流通を促す働きがある。
 第十五に、売り買い、貸し借りのための手段である。
 第十六に、労働を評価する手段になる。
 第十七に、貨幣は、信用制度の基づく権利、証憑である。
 第十八に、人造物である。

 集合を構成する要素は、その働きが重要であり、働きの方向も重要となる。

 貨幣経済は、貨幣価値の集合として見なすことができる。

 集合というのは、何らかの前提や条件に基づいて集められた点や数と言える。点や数の根底には、何らかの素材がある。と言うよりも集合を構成する点や数は、何らかの対象を象徴している。
 そして、集合を構成している点や数には、何らかの偏りや特性がある。
 一見、平らに見える数の集合にも凸凹がある。しかも、その凸凹には特性や偏りがある。集合を構成する点や数、即ち、要素は、現実の事象を反映したものである。

 財は、貨幣価値に換算される事によって価値の基準が統一され演算が可能となる。例えば、サービスと商品を足したり、時間と労働量と人数を掛け合わせるなどという計算が可能となる。

 貨幣価値は、数値化される事で物としての属性が削ぎ落とされてしまう。
 例えば、一万円の料理も、お酒も、音楽会の切符も、機械も、一万円という価格によって統一的に表現されその内容は消し去られてしまう。
 例えば、料理の味、形とか、機械の働きとか形状、材質、音楽の感動といった事柄は全て剥ぎ取られてしまうのである。その上で全ての経済的価値が貨幣価値によって一元化されてしまう。
 又、遺産を相続した場合、住んでいる家に相続税がかかり、土地を売らなければ相続税が支払えなくなったり、また、遺産の分与ができなくなるのは、住居用という土地の属性が失われるからである。

貨幣は、情報である


 貨幣は情報である。
 貨幣は、数値情報を実体化した物である。
 貨幣や貨幣価値は、物としての属性を剥ぎ取ると単なる数値情報に過ぎなくなる。
 この様な貨幣や貨幣価値の特性は、ギャンブルに端的に表れる。つまり、ギャンブルは数の組み合わせを選んで数値情報に還元される事象だと言えるのである。ギャンブルは貨幣取引を純化した事象とも言える。

 今日、貨幣は、ますます、貨幣の持つ情報という特性が抽出化され、その結果、無形化し、信号や記号へと変質しつつある。

 我々は、貨幣を日常所与の物として受け止めている。しかし、貨幣は自然に成る物でもなく、ある物でもなく。人為的に作られた物である事が前提である。
 この様な物として貨幣が現在、情報に変質しつつある。有形な物としての貨幣から無形な情報としての貨幣への変質は、より貨幣の特性を浮き彫りにしてくる。貨幣は、情報化することによって物理的制約から解放される。この事は、貨幣の性格を大きく変えることに繋がる。一番重要な変化は、貨幣は有限な物から無限な情報へと変化することである。
 貨幣の物から情報への変化に対応するためには、貨幣と、貨幣ではない物との境界線をハッキリさせなければならない。
 貨幣と貨幣でない物との境界線を画定する為には、貨幣を貨幣とたらしめている根源的な要素は何かが重要となってくるのである。

 貨幣価値を成り立たせている前提は何か。貨幣価値は、何に対してどの様な働きをしているのか。貨幣価値を生み出す事象は何か。貨幣価値は、何によって、どの様に確証され、保証されているのか。誰がどの様に貨幣価値を確定しているのか。貨幣が物から情報へと変貌する結果どの様な問題が起こるかを明らかにするためには、これら事を一つ一つ検証していく必要があるのである。

 先ず貨幣価値を成立させている前提は、所有権の確立と交換という行為である。
 貨幣は交換手段である。貨幣を交換手段として行使するために貨幣の属性は形成されるのである。
 例えば、貨幣を交換手段として行使するため価格が形成される。そして、交換という行為が成立する前提は所有権が確立されていなければならない。所有権が確立されているから交換という行為が成り立つ。
 そうなると物としての貨幣が情報として変質した場合、情報としての貨幣の所有権をどの様に認知し、信認し、保証するのかが問題となる。認知し、信認し、保証するためには、所有権の転移、匿名性、移動をどの様に保証するかが重要となる。

 貨幣を成り立たせている前提条件は、私的所有権の確立にある事を見落としてはならない。しかも、所有権が転移する事が可能でなければならないという点である。

 貨幣の重要な性格の中に匿名性がある。それは、所有権の転移という事とあわせて考える必要がある。貨幣そのものは、個性はないのである。貨幣は単なる指標に過ぎない。財や物のように個別な価値はないのである。
 又、貨幣は物理的に移動できる事を前提としている。物から情報への変質は、この匿名性と転移性、移動性が重要な意味を持つ。

 次に貨幣の働きである。

 貨幣は、何らかの根拠を前提として成り立っていることである。つまり、この前提となる根拠がなければ貨幣は貨幣としての根拠がないという事になる。
 貨幣価値とはどの様な前提によって成立しているのか。つまり、貨幣を貨幣たらしめている前提とは何かである。

 第一に、貨幣として認知する事が前提となる。第二に、貨幣は、合意によって成立する。貨幣価値は合意がなければ成立しない。自分一人が貨幣だと認知しただけでは、貨幣は貨幣としての効力を発揮しない。取引相手も貨幣だと合意した時点で、貨幣は効力を発揮する。
 日本で他国の貨幣を貨幣として使用できないのは、他国の紙幣を自国の貨幣として認知していない。合意していないからである。
 物として貨幣ならば、実体化する事ができる。しかし、情報としての貨幣は、記号や信号に置き換わる事になる。これらの記号や信号としての貨幣を外に表すのは、記録であり、記録媒体であり、暗号だと言う事になる。
 第三に、貨幣としての信認が必要である。偽札も本物としての信認があるうちは貨幣として通用しているが、一度、偽札として見破られ、信任を失えば、貨幣としての効力を失う。そうなると無形の情報である貨幣をどの様に信認するかが、問題となる。
 現在の通貨、即ち、コインや紙幣は、表象貨幣である。表象貨幣は、国家と発券銀行との取引によって手続きによって信認している。この原初の手続きが貸借を生み出し、金融を成立させている。
 貨幣は物としての価値から貨幣が表象する数値の現在的な交換価値によって確定する。現在的価値を確定するのは市場取引である。市場取引とは、通貨と財との交換を前提としているが、通貨の受払と財の受け渡しに若干の時間的な差が生じる場合がある。つまり、取引は、貨幣の受払の部分と財の受け渡しの部分二つの行為から構成されている。そして、貨幣は、財との交換を通じて、取引が成立した時点における財の貨幣価値を指し示しているのである。
 つまり、貨幣は、市場取引を媒介する指標に過ぎないのである。必要以上に貨幣の働きを過大評価すると貨幣の働きを見誤る事になるので注意が必要である。
 決済とは、貨幣の支払いによって取引が完了したことを言う。
 又、貨幣の持つ価値をどの様に検証するのかも重要な課題となる。物としての貨幣は、当初、貨幣自体が物として持つ価値を根拠としていた。しかし、表象化した貨幣は、物の価値から乖離し独自の価値を形成するようになる。
 物の価値から乖離した貨幣は、何によって貨幣価値を確定する事となるのか。それを明らかにするためには貨幣価値を成り立たせている要素を知る必要がある。

 では、貨幣価値は、どの様な要素によって成り立っているのか。
 第一に、貨幣価値、数値によって表現されることから、貨幣価値は、数値体系であることが前提となる。第二に、貨幣は、交換の手段である。第三に、貨幣価値は、分配の手段である。第四に、貨幣価値は、市場取引によって都度確定する相対的価値である。
 これらの要件を満たすのは現金である。貨幣価値は現金価値に還元される。

 日本人は日常生活の中において他国の通貨を貨幣として認識して使用しているわけではない。反面、カードやコンピューターに入力された情報を貨幣として認知して使用している。
 では何を根拠として我々は、貨幣を貨幣として識別しているのか。それは、物としての属性から離れてしまったら、物の持つ属性を価値の根拠にする事はできない。
 物としての属性以外に事象に貨幣価値の根拠をおかざるを得ない。一つは、貨幣が指し示すところの財の価値である。しかし、それでは、貨幣価値は普遍性を持てない。物と貨幣との交換、取引という働きを通じて貨幣価値を都度確定するのである。つまり、貨幣価値は市場取引を通じて普遍化されるのである。そうなると貨幣価値を表象しているのは現金と言う事になる。つまり、現金取引を貨幣価値は根拠としているのである。

 預金や株を通貨と同等物のように見なす人がいるが、最終的に何に還元されるかによって通貨であるかないかは判定されるのであってその意味で預金や株は現金価値に還元されないと効力を発揮しないから根本は現金価値である。

 通貨として信認とされるのは、基本的に現金を根拠としているか否かである。つまり、何らかの行為によって現金を授受したという事を第三者に信認された場合、貨幣の持つ働きを行使する権利を得るのである。貨幣が貨幣として機能する前提は第三者による認証が必要となる。そして、貨幣が物から情報へと変質するための前提なのである。
 例えば、預金は現金の集合として承認されるのである。

 現金価値は、何を根拠として成り立っているかというとそれは市場取引という事象である。
 以前は金や銀といった物を担保する事によって貨幣価値は成り立っていたが、表象貨幣に変質してからは物から離れて事を根拠とすることになった。事というのは、市場取引である。市場取引は決済に基づいている。決済は現金の支払いを基本とする。つまり、現金の受払を根拠として貨幣価値は成り立っているのである。
 取引は、一回一回が独立した事象である。この事は、物という連続数から一回一回の事による離散数へと貨幣価値を変質したのである。
 何が貨幣価値を生み出し、その価値を担保するのか。それは現金を媒体とした市場取引という事とその情報を担保する事で貨幣価値は成立する。市場取引は、信用制度によって成り立っている。
 信用制度が貨幣価値を生み出し、貨幣価値を保証しているのである。
 故に、信用制度の信任が失われれば貨幣価値は崩壊する。

 現金取引を根拠とすることで、貨幣は、現金の流通量および供給量に制約を受ける。流通量は、供給量と速度の積として表される。

 現金とは、その時点における貨幣価値を指し示す物である。
 財は、貨幣との交換取引によって貨幣価値が確定する。それまではただの物やサービスなのである。

 物から情報へと貨幣が変化した場合、負の貨幣、負の貨幣勘定が成立するかである。
 負の貨幣というのは、借金を意味しているわけではない。
 負としての働きをする貨幣という意味である。負の貨幣が担保するのは、例えば、ローンの与信限度枠や未実現損益のような部分である。その様な負の貨幣や負の貨幣勘定が成立した場合、経済は又違った局面、位相を見せてる事になるであろう。この点は、財政赤字と深く関わっていると思われる。

 情報技術が発展するのに従ってコードが重要な役割を担うようになってきた。
 コードの起源は貨幣だとも言える。そして、それは、貨幣の本質的な性質をも暗示している。
 コードには意味のあるコードと意味のないコードがある。しかし、コードというのは、本来意味のない符号を指す場合が多い。意味のあるコードというのは、意味のないコードに意味を後で関連づける、結びつけられたものと解釈する事ができる。つまり、原始的なコードは無意味な符号、符丁、記号、数、表彰の集合だと言える。
 コードとは、任意の対象、又は、事象を指し示す記号や数、表象だと定義する。
 数はコードの一種だと言える。その延長で貨幣もコードの一種だと言える。

 コードというのは、何らかの名称だと言える。名称によって形成される価値であるから、貨幣を本として表される貨幣価値は、名目的価値だと言える。それに対して、何らかの実体、事象を本として形成される貨幣価値を実質的価値とするのである。

 データには、四種類の尺度がある。第一が名義尺度。第二に、順序尺度、第三に、間隔尺度、第四に、比尺度である。この尺度の基準は、数の性格を表すと同時に経済にも重要な意味を持っている。
名義というのは、数以外の表象、外形的区分を言う。
 順序尺度から位置が生じ、間隔尺度から単位が成立する。比尺度から配分が成立する。比尺度はゼロの概念を前提として成立している。
 これらの四つの尺度は、数の持つ性格に依って形成されている。即ち、第一の性格は、他と区分される事によって数は成立するという事を表している。第二に、数には順序があるという事を示している。第三には、数は、間隔の有無、幅によって性格が規制される事を意味している。即ち、量的な事象か、数的な事象か。連続体か、不連続体かが定まる。第四に、数は零の有無と位置によって性格が異なっている事を表している。そして、この四つの性格に依って数の体系は形作られている。(「ビックデータに踊らされないための統計データ使いこなし術」(株)マクロミル 上田雅夫著 宝島社)

 突き詰めてみると貨幣というのは、単なる数値情報に過ぎない。つまり、貨幣の働きは、交換のための尺度という働き以外ないのである。貨幣そのものが何らかの価値を持っているというのではない。尺度なのである。
 しかも何らかの物的基準があるのではなく、交換という事象によって決まる相対的な尺度なのである。
 だからこそ、数学的な働きが重要となるのである。

お金の流れ


 貨幣価値というのは幻覚である。
 相対的な価値である。
 絶対的な価値ではない。
 貨幣価値そのものがあるわけではない。

 貨幣は食べられない。貨幣によって飢えを凌ぐことはできない。
 貨幣を着ることはできない。無理をすれば貨幣で服を作ることはできるが、それは貨幣本来の働きではない。

 一億円の土地があるわけではない。その時点で一億円と交換できる土地があると言うだけである。一億円の土地というのは幻覚である。
 貨幣というのはそれ自体で成り立っているわけではない。貨幣は尺度である。貨幣は貨幣が指し示す対象があって成り立っているのである。貨幣は影である。

 映画や小説で黄金郷の話が出てくる。
 しかし、黄金があれば豊かになれるというのは、幻想である。
 最初から黄金に価値があるわけではない。
 黄金に人間が交換価値を見いだしたから価値が生じたのである。
 なぜならば、黄金があるから豊かなのではない。
 黄金は象徴なのである。黄金と交換する物がなければ人間は、豊かにはなれない。
 江戸時代、飢饉の時に大量の小判を持っていながら餓死した商人がいたという。
 いくら大金を持っていても食料を売ってくれる者がいなければ生きていけないのである。
 猫に小判と言うけれど、猫は、小判に価値を見いださない。いくら黄金が沢山あったとしても猫には、魚一匹の価値もないのである。
 猫は、小判のために殺し合いはしない。ならば人と猫どちらが黄金の真の価値を知っていると言えるであろうか。
 黄金郷が存在してもそこに住む猫にとって石ころほどの価値も、黄金は、猫にとって価値がないのである。
 黄金に目がくらむ者にとって黄金は命より大切に思えるかもしれない。しかし、それは幻覚なのである。
 同様に貨幣は幻覚である。
 人の生活にこそ真実は隠されている。

 人生夢幻の如くと言うが、お金の価値も幻なのである。
 その幻に囚われて人生を台無しにすることは無意味なことである。

 名目的価値である貨幣価値は、あると言えばあるし、ないと言えばない。要するに、貨幣は、情報の伝達手段の一種であって実体を持たないのである。

 お金は、天下の回り物。お金は社会を循環することで機能を発揮する。

 資金の流れを作り出しているのは、取引であり、取引の根本は交換である。交換は、差によって生じる。故に、資金の流れを作り出しているのは差である。差には、金利差や時間差、価格差などがある。

 貨幣の働きは、取引によって実現する。

 貨幣価値は、相対的な値であり、取引によって確定する。

 通常の取引を構成する要素は、第一に、貸し借り、売買等の形態、第二に、取引の対象、第三に、買い手と売り手、第四に、価格、第五に、量、第六に、日時、第七に、物と金との交換手段、支払手段、第八に、物の受払の手段からなる。

 しかし、金融工学の発達に従って物の受払のない取引が生じた。それが金融取引である。金融取引は、物を介在した取引ではない。金銭上に限った取引である。そこが従来の取引と決定的に違うところである。
 故に、金融取引は、会計上、簿外で処理される事が多い。ここに金融工学の特殊性がある。
 金融取引の実体を知るためには、取引の持つ働きを知る必要がある。

 取引を構成する要素か即ち、経済の構造を形作る。
 例えば、取引の形態には、貸し借りと売り買いの二種類がある。また、取引には売り手と買い手、貸し手と借り手がいなければ成立しない。
 この様な構造が経済の対称性を生み出す要因となるのである。

 市場経済は、経済現象の対称性と均衡によって保たれている。その対称性と均衡は取引によって作り出されている。

 取引が経済的対称性を作り出しているのである。取引には、物と金を交換する事を通じて経済的価値をゼロ和に設定し、経済的価値を対象化する働きがある。
 取引には、「お金」と「資源」、「資源」と「お金」の二段階で完結する。
 一つの取引に於いて成立する。物と金の交換、金と物の交換という取引二重性によってゼロ和と作用反作用の関係が生じる。そして、その取引の二重性が債権と債務の関係を形成する。それが貨幣経済の均衡の源なのである。

 貨幣に作用反作用の働きを生み出すのは、ゼロ和関係である。

 貨幣の働きは取引によって成立する。取引は、基本的にゼロ和である。
 取引のゼロ和関係によって派生する貨幣の働きが貨幣の働きに作用反作用の関係を作り出す。この貨幣のゼロ和関係は、債権と債務の関係も派生する。即ち、貸借という形態を取った時に、貨幣の流れは、貨幣の流れた量と同量の債権と債務を発生するのである。

 実物貨幣は、交換の手段道具に過ぎない。金貨などの実物紙幣は、金貨そのものに価値がある。それ故に、実物貨幣は、交換価値を表象する働きしかなかった。それに対して、信用貨幣は、貨幣そのものに価値がない故に、負の空間を作り出したのである。
 信用貨幣である紙幣が成立する事によって独立した空間である信用空間、貨幣空間が作られる。
 信用貨幣とは、物的な裏付けのない、言い換えれば、必要としない貨幣である。
 故に、信用貨幣は絶対的な価値を持たない相対的な貨幣である。信用貨幣は、それ自体が価値を持っているのではなく、貨幣が指し示す対象があって価値が生じる。つまり、働きに価値があるのである。紙幣それ自体は、ありふれた印刷物に過ぎない。紙幣の本質は、価値にあるのではなく働きにあるのである。その本質を理解しないと絶対額に目を奪われて働きを忘れてしまう事となる。

 借金は、資金調達の手段であり、また、資金を市場に供給するための手段でもある。
 借金を兎角、世の中は、悪者にするが、借金が悪いのではない。借金を制御できないことが悪いのである。現代経済は、借金がなければ成り立たないのである。問題は、借金の働きや構造、構成比率である。そして、借金の性格をよく知ることなのである。

 経済を成り立たせているのは、人の欲求と物の生産量、そして、市場に出回っている「お金」の量である。
 借金が悪いと言うが、貨幣経済は、借金があって成り立っている。借金を頭から否定したら経済は成り立たなくなるのである。
 故に、借金で問題となるのは、借金の是非や多寡の問題なのではなく、借金の水準である。借金の水準の適否は、生活水準、物価水準、所得水準から求められる。
 国債や企業、家計で問題になるのは、借金の多寡ではなく。借金が累積し、返せなくなる水準をどう見極めるかなのである。
 そして、この水準は、家計と企業と政府、そして海外との貸し借り、売り買いによって定まるのである。

 資金の流れの基底を作るのは、借金と収入である。或いは、借金と所得の組みあわせである。
 つまり、収入と借金によって資金は調達され、支出と貸出によって資金を供出、運用されるのである。
 収入は、フローの始点にあり、借入は、ストックの始点にある。収入は、対極に支出があり、借入は、対極に貸出がある。つまり、誰かの収入は、その誰か以外の主体の支払を意味する。誰かの借入は、その誰が以外の主体の貸出を意味する。この様に、取引は対称的な行為である。
 個々の取引を構成する要素は、売り買い、貸し借りであるが、売り買い、貸し借りは基本的に対称している。故に、取引の総和はゼロ、即ち、取引を集計した値は、ゼロ和になる様に設定されているのである。


営業、投資、財務



 貨幣経済を形成するのは、お金の流れである。
 故に、資金の流れと働きが重要となる。

 お金というのは、現金および現金同等物をいう。
 現金というのは、その時点における貨幣価値を指し示す基準、単位となる物である。貨幣価値の基準、単位は、数値として表現される。

 貨幣経済は、お金で回っている。重要なのはお金の流れと働きである。
 突き詰めてみると貨幣経済の問題とは、いつ、何処で、誰が、なぜ、どれくらい資金を必要としているかなのである。そして、必要な資金をどの様に調達、或いは、供給するかなのである。

 資金の流れには、営業に関わる流れと生産手段に関わる流れ。金融活動に関わる流れの三つの流れがある。
 そして、それぞれの流れは、それぞれが独自の働きを形成する。営業というのは、営利を目的とした活動である。

 営業とは営みである。仕事である。故に、民間企業だけにあるのではなく。公共事業や家計にもある。要するに、営業とは仕事なのである。

 この事は、経済現象全般を鳥瞰した場合も同様である。ただ、公共事業は営利ではなく、公共の福利を目的とした活動になる。

 経済は、生産手段に上に日々の営みがあり、又、底辺で金銭の過不足を補う働きが働いているという構図が成り立つのである。

 純粋に貨幣経済、資金の流れという観点から営業を考えた場合、営業の働きは、交換と価値の裁定、分配と言う事になる。つまり、貨幣の働きは、交換を通じて価値を確定し、生産や物流を促すし、財を分配する事にある。
 お金というのは、交換と価値を裁定するための手段に過ぎない。つまり、財は財その物の使用価値によって成立するが、貨幣は交換する対象がなければ成立してない。又、貨幣価値は、貨幣が指し示す対象と貨幣、そして、その対象の価値を認識し、欲している者が存在しないと成り立たないのである。

 営業活動に関わる資金の流れ、生産手段に関わる資金の流れ、金融活動に関わる資金の流れ。
 営業活動は、生産や販売と言った営利を目的とした直接的な経済活動を言う。それに対して、生産手段とは、生産手段に対する投資活動を指し、金融活動とは、資金の過不足を補う活動であり、資金の流通や供給を司る活動であり。投資活動も金融活動も間接的な経済活動である。
 そして、営業活動に関わる資金の流れは損益を形成し、生産手段に関わる資金の流れは投資、金融活動に関わる活動は、財務、そして、投資と財務は貸借を形成する。

 お金には営業活動を促す効用がある。営業活動というのは営利を目的としている活動であるが、営利を目的とするというのは名目的な事で、実際は、財を生産し、分配する事が目的である。
 金儲けだけでは、目的は成立しない。金儲けは目的にならないのである。金儲け以前に、何をして金を儲けるかを明らかにする必要がある。
 経営計画は、資金計画だけでは成り立たない。資金計画の基となる事業計画が必要なのである。事業を興す社会的意義、目的は、事業計画のこそあるのである。
 利益とは、単純に利潤という意味だけでなく。社会的効用という意味も含まれている。犯罪によって得た物を利益とは言わないのである。
 故に、公益事業も利益を指標とすれば営利活動をしている事になる。そして、利益を一つの指標としなければ、公益事業の効用を測定する事はできないのである。その結果、赤字は慢性化される。

 金融活動というのは手段となり得ても目的にはなり得ない。資金計画は、事業計画があって成り立つ。資金計画だけで成り立つ事はできない。

 この三つの資金の流れは、現代経済の三つの階層を表している。そして、それぞれの階層にはそれぞれの働きがあるのである。
 働きと、動きと、供給および回収の三つが場を形成しているのである。

 営業に関わる資金の流れ、即ち、損益に相当する部分の資金の流れが働き、即ち、フローの部分を構成し、投資と金融に関わる資金の流れがストック、貸借の部分、貨幣、信用の創造の部分を構成している。
 電気製品で言えば、営業に関わる資金の流れの部分が働きを受け持ち、投資の部分が装置、通電を受け持ち、金融の部分が電気の創造を起電の部分を担当している。

 現在の経済を考える上で、経済の基盤を構成するのは産業ではなく市場である。だからこそ、生産の効率性以前に市場の効率性が求められているのである。

 株式というのは、本来、小口の資金を集めるための手段である。小口の資金を集める手段には預金の他に株がある。

 宗教の強みというのは小口の現金を徴収する口実を持っているという事である。塵も積もれば山となるで、多くの信者がいれば、莫大な固定的収入を維持することが可能となる。しかも日本ではこの資金は無税である。この事が宗教にとって本当に良い事なのかは、疑問であるが宗教団体が経済的に安定し、豊かになるのは、小口の資金を集める口実がある事が一因である事は確かである。この点は政治団体も同様である。
 そのために、宗教や政治が商売に変質してしまうことがままある。金によって手段が目的化する典型である。

 預金、株は、資金を集める為の手段である。
 貸付金というのは、預金や株の対極、裏側にある。つまり、預金、資本、貸付金、借入金というのは一体の事である。それに金利や株の配当が加わるのである。

 資本主義というのは、不特定多数から資金を集める事によって成立した。不特定多数から資金を徴収し、出資に応じて債権と債務に何らかの差を付ける事で資本主義は成り立っているのである。

 現在の経済を考える上で、経済の基盤を構成するのは産業ではなく市場である。だからこそ、生産の効率性以前に市場の効率性が求められているのである。
 いくら商品を生産してもそれを販売する市場がなければ、産業は成り立たないのである。逆に物の供給が不足しても市場それ自体は成立する。そして、市場が商品の生産を促し構図があって産業は成り立つのである。

 財の供給があって市場が形成されるという思想がある。つまり、財がなければ市場は成立しないという事である。その考えに一理あるとしても、それは新興市場に対して有効なのであり、基礎となる市場が存在しないと新興市場も成長しない。
 逆に、産業がなくても市場は成立する場合すらある。市場経済は、市場が根底にあってこそ成り立つのである。


自由主義経済は、収入と支出を基盤としている。



 自由主義経済は、市場経済、貨幣制度の上に成り立っている。
 この様な自由主義経済は、収入と支出を基盤としている。
 収入と支出は、現金収支に基づく概念である。

 貨幣経済の基づく市場経済では、市場を拡大するか、縮小するかを決めるのは、収入と支出の関係である。市場全体の支出が収入を上回っている状況で市場は拡大し、経済は成長し、支出が収入を下回るようになると市場は縮小に向かい、経済は停滞するようになる。
 市場が拡大をする為には、支出が消費を上回る必要がある。そうなると、収支は赤字になり資金が足りなくなる。足りない資金はどこからか借りてくる必要がある。借りるとは負債を意味する。負債の発生に基づいて金融が成立する。
 収支が赤字になれば資金の調達に不足が生じる。それを補うためには、資金を借りてこなければならないが、その為には、収支が赤字では説明がつかない。そこで収益と費用という思想が生まれたのである。つまり、損益は、貸し借りの根拠となる。この点を理解しておかないと金融の働きは理解できない。

 収入と支出に差が生じるのは、収入と支出の構造的な違いによる。収入は売り買い、貸し借りによって成立する。それに対して支出は、消費と投資と貯蓄と納税からなる。
 収入と支出は等しいわけではない。実質的な支出に回されるのは、消費と投資である。そして、収入は、総てが消費や投資に回されるわけではない。消費や投資に回されない部分は、貯蓄や税になる。
 消費や投資は、民間の金融行為によって過不足を調整する。
 通貨は、政府と発券機関の貸借によって発行され、投資によって供給され、税によって回収される。納税は、通貨の供給と回収に関わる。
 又税は所得の再分配によって資金の効率を高める働きがある。
 消費や投資によって資金は、市場を循環し、貸し借りによって通貨の供給量は調節される。
 又、消費が滞る事で、市場全体の収入が低下し、納税額が減少し、民間投資の減少を公共投資で補う事で、財政を圧迫する。
 そして、余剰の貯蓄は、市場に還元されずに金融機関に滞留し、資金効率を低下させる。

 つまり、経済を安定する鍵は消費と投資構造にあり、消費と投資を構造にあわせた経済体制を如何に敷くかにある。

 尚、消費と投資の違いは、単位会計期間に効用が費やされると見なされる財と単位期間を超えて効用が残存すると見なされる財の違いである。

 交易というのは、余剰の資源と不足の資源の存在による。
 自国内で全ての資源が過不足なく生産されるならば交易は必要とされない。それが自給自足体制である。しかし、今日自給自足体制をしている国はない。つまり、何らかの過不足が存在していることを前提として国際経済は成り立っている。
 資源の余剰と不足は、差として表現される。経済では、総量と過不足の差、即ち、総額が純額かが重要な指標となる。過不足は、必要性、或いは、需要が決める。必要性と重要とは必ずしも一致していない。最低限の必要性は満たさないと経済は成り立たなくなる。

 この様な資源の過不足を調節しているのが、経済政策であり、中でも通貨政策である。経済政策で重要となるのは、どの様な資源を必要とし、どの様な資源を余らせるかである。

 キャシュフローと会計とを橋渡ししているのは試算表である。それ故に、試算表が会計を読み解く鍵を握っている。
 決算というのは、試算表を決算仕訳によって加工する事で成り立っている。つまり、現在の会計制度の本質は決算仕訳に現れている。

 現代の会計制度で問題となるのは、現金主義による取引の中には、期間損益主義に基づく計算書には現れない部分があるという事である。例えば、借入金の返済である。逆に、減価償却費のように現金の裏付けのない収益や費用が存在するという事である。更に問題となるのは、税制上そのどちらにも属さない勘定が存在する。
 借入金の返済は、決算書には表されないのに対して、減価償却費は現金の裏付けのない費用である。又、一部の費用は税制上、損金と見なされていない。
 この歪みが場合によって資金繰りを危うくする事さえある。黒字倒産がその好例である。
 ただ、この違いによって市場経済は成り立っていることも現実である。
 自由主義経済は、現金の動きと損益の働きを理解しないとわからない。
 問題となるのは、為政者がこの違いを正しく理解していない事である。現金の動きと損益の働きを理解しなければ経済の仕組みを作る事も運用する事もできない。

 収入、支出と収益、費用とは意味が違う。収入と支出は貨幣の動きを意味し、収益と費用は、働きを意味する。故に、収入と支出は、一つの動きを表しているのに対して収益と費用は、働きによって勘定科目が細分化されている。
 費用は、段階や働きによって名称を変えるが、最終的には人件費に還元される。費用は物的要素から人的要素に変換される過程で生じる働きである。言い換えると、費用は人件費の塊でもある。

 支出は、過去から現在に至る収入の範囲内で成立する。収入も支出も自然数で表現されなければならないからである。
 故に、収入が自由主義経済の核となる。ところが、収入は、不確実、不規則、不定期な事象である。

 貨幣制度が確立する以前は、貨幣的概念である収入ではなく、収穫という物的概念を基としていた。最も原始的な収穫は、狩猟による獲物や採取である。
 この様な獲物や採取は当初は保存もできず、極めて不安定、不確実な物であった。それが、遊牧や農耕、そして、保存技術の進歩によって安定化してきたのである。
 それでも物としての特性から切り離すことはできなかった。最終的に貨幣を仲介する事によって収穫を収入に置き換える事によって年間を通じて一定の資源を確保することが可能となったのである。
 それでも市場取引に依ってばかりいたら収入は安定しない。
 収入を安定化するのは、企業や家計、公的機関といった経済主体である。企業や家計、公的機関は、組織化されることによって賃金という形で不規則な収入を定収化する。そのための仕組みが会計制度であり、期間損益である。

 損益は認識の問題であり、収支は事実である。

 取引には、資金の働きには、正の流れと負の流れがある。正の流れは、物と人に対する流れであり、支出を形成する。負の流れとは、お金の流れであり、収入を形成する。正は支出から始まり、負は、収入から始まる。つまり、貨幣経済では、資金を何らかの形で調達する必要があるのである。

 最初に我々は、借入金や投資によって資金を外部から調達し、それを長期に亘って計画的に返済する。その調達した資金によって生産手段を購入してその生産手段が生み出す価値によって収益を得てそれを返済原資とするのである。しかし、返済額と返済原資とは直接的に結びついておらず。減価償却費と利益を介して結びつけられている。

 借入金の返済額は減価償却費と、税引き後利益と対応し、尚且つ常に現金残高をゼロ以上に保ち続ける事が要求される。

 我々は、資金の動きを考える時、借金を否定的なものとして捉え、負の側面だけを表現する傾向がある。借入金をすると、その借入と返済ばかりが資金計画として表現される。しかし、資産の購入と資産の働き、減価償却費を対応させて評価しなければ、借入金の真の働きは理解できない。
 なぜならば、借り入れで得た資金は正の働きをする資産や設備が生み出す価値によって評価されるべき事だからである。だからこそ、収益と負債は、現金収支では、対立した概念としてではなく、同じ扱いを受けるのである。
 借入は、債務という負の働きだけでなく、資金を調達する手段とし、その調達した資金によって何らかの生産手段に投資する行為を反面に持っているのです。
 借入による資金の調達は、対極に資産の購入、支出があり、借入金には、元本の返済と金利の支払い、資産の購入には減価償却と利益があって負債と資産、双方の働きが相互に対応するのである。この両面を見ないと経済の働きは理解できない。

 現金は、正と負の勘定の間を揺れ動き波打つように流れる。
 基本的に現金の流れは循環運動である。
 又、生産にも周期がある。特に、食料生産には環境に基づく周期がある。
 又、支出にも固定的な部分と不確実な部分とで成り立っている上は、住宅投資や教育投資のように大きな支出を伴う事象は不定期であり、予測不可能な部分を多く含んでいる。
 また、物や貨幣、需給によって市場は、収縮運動を繰り返す。つまり、市場環境は一定ではない。
 故、に現金や物の流れは不安定になる。
 この現金や物の流れを整える働きをするのが経済主体である。言うなれば、会計や期間損益に基づくは、経営主体は、整流機関のような仕組みである。
 企業のような機関を仲介する過程で収入は、収益に化し、定収入化する。

 収入に対して支出の多くは、固定的である。支出は消費に直結している。特に、食料や水のように生存に必要な資源は欠かす事はできない。収入の安定化の要請は、支出の固定的性格に依る。貨幣は、資源の過不足を調整する働きがある。定収入化は、市場経済の前提となる。

 また、定収入が長期借入金の原資を保証する。
 即ち、定収入化によって将来の収入を担保して借金をする事が可能となるのである。定収入が保証されることで計画的な借入金が可能となるのである。定収入化が保証される社会にあって負の経済は、確立される。

所得の水準と負の水準の均衡によって経済は成り立っている。

 名目的勘定である負債は、社会に累積する性格がある。
 負の勘定は、集積すると市場の資金を寝かせ、流動性を悪化させる。流動性の悪化は、景気を滞留させる。

 経済の底辺は、所得の水準と借入金の水準によって形成される。そして、所得の水準と借入金の水準が市場の基調を形作っていく。

 問題は、所得の水準が負の水準を常に上回っているとは限らない点にある。

 社会全体の所得の水準が負の水準を常に下回っている様な状態は、社会を富裕階級と貧困階級に分裂させてしまう。
 そうなると、富む者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなる。
 必然的に経済の成長は止まる。

 現代の経済は、数学である。現代の経済は会計である。現代の経済は、科学である。
しかし、現代の経済学において、会計を基礎としているのは、一部の分野に限られている。又、数学も確率統計に偏りすぎている。
 現代経済が貨幣制度を基礎とし、貨幣価値が数値的価値である以上、現代経済を基礎数学と切り離して考える事はできない。
 経済学が数学や会計学とかけ離れたところにある限り、経済学は科学的にはなり得ない。なぜならば、現代の経済にとって数学や会計は前提となっているからである。


支出は裏返すと収入になる



 収入は、支出でもある。

 収入とは何か。所得は、第一に、人件費、即ち、費用である。第二に、所得、即ち、分配である。第三に、生活費、即ち、消費である。

 企業の目的は、第一に、投資をして、費用に見合う利益を上げる事。第二に、社会に有益な財を市場に供給する事。第三に、従業員を養う事、即ち、雇用の三点である。
 この三点は、費用、分配、生活に対応している。
 同様に家計は、第一に、労働力を提供し、第二に、成果の配分を得る事。第三に、家族を養う事である。
 公共は、第一に資金を市場に供給する事。第二に、税を徴収して公共の福利に対する投資をする事。第三に失業対策である。

 経済というのは、人、物、金の三つの要素から成っている。そして、この三つの要素は、個々独立した働きをしている。
 例えば、生産手段である費用は、常に合理化の対称であり、一律一定の方が良い。人件費は固定費なのである。
 それに対して所得は高ければ高いほど良い。又、結果や成果に直結しておいた方が評価もしやすい。
 生活費は、消費に直結していて物価に反映する。
 この様に三つの要素は個々独立した性格を持っている上に相反した働きをする場合がある。
 所得は、生活水準に直結している。生活費というのは、可処分所得の範囲内で収められる。故に、消費活動は、総所得、或いは、総可処分所得の範囲内で行われることになる。

 例えば、年収と結婚には相関関係があることが知られている。
 一定の年収以上がないと結婚率が低い。
 また、正規雇用と非正規雇用でも結婚に影響が出ている。
 結婚と関係する要素は、必然的に住宅計画にも関係してくる。
 重要なことは、正規雇用と非正規雇用の決定的さは、正規雇用は借金に対し有利にはたくのに対して非正規雇用は不利に働き。そのことが負債構造を薄く不安定にする事である。借金ができない社会は貨幣の流通と蓄積が円滑に働くなり、景気を不活性化する。
 市場経済というのは、貨幣、即ち、負の部分の裏付けがあって成り立っている。

 経済の実質、実体、正の働きは、物と人にある。金は経済の影、負の働きである。物の経済の基本は生産と消費であり、人の経済の基本は生産手段と分配にある。労働は、生産手段の一種である。

 実体的な物や人は、正の勘定の素となる。名目的な貨幣は、負の勘定の素となる。
 正と負の働きが市場を形成し、通貨の流通を促し。通貨の流れによって市場は機能し、物流を促して分配を実現する。
 貨幣経済は、正と負の働きによって動かされているのである。負の働きを生み出すのは貨幣である。

 実体的取引は、財の売買によって実現し、清算される。貨幣、物の交換を仲介する事で物の流れを促す。
 生産的働きは、貨幣を生産手段と交換に分配する。それによって社会的生産を促し、又、生産量を調整する。

 経済では答えよりも数式の方が重要な意味を持っている。経済上数式として表されるのは、経済の構造を指し示しているからである。
 数式では、分母と分子の関係が重要な意味を持つ。


市場を動かす力



 市場は経済的場である。
 市場とは場である。場とは、一定の力に満たされた空間を言う。
 では市場に満たされた力とは何か。
 それは、物やお金を動かす力、即ち、欲望である。
 欲望とは、生きていこうとする欲求、更に、子孫を残そうという欲求である。
 欲望には、物欲、食欲、性欲、権力欲、名誉欲等がある。
 ただ、市場を動かす力は欲望である。

 欲望は、人を破滅させる力にもなる。
 人は、欲望によって動かされる。
 欲望は人を向上させる力にもなるが、欲望を制御できなくなると人は自制心を失い暴走する。
 欲望を抑制できないと人間は破滅する。
 この人間の欲望を活用しているのが市場である。

 市場は人間の欲望が渦巻く場である。
 欲望は差を生み出す。

 なぜなら、欲望は自己実現の帰結だからである。
 人は、自己実現をしようとして欲をかく。

 市場、経済を動かすのは、基本的には差である。
 差には、時間的差と距離差、量的差がある。
 期間損益は、時間価値を生み出す事によって成り立っている。
 即ち、如何に生み出させるかによって市場は成り立っているのである。
 即ち、期間損益は、単位期間に区切る事で時間的不均衡を生み出し、その不均衡を原動力として市場を動かす仕組みなのである。

 この様な差を生み出すのは、尺度である。
 尺度はゼロを基点として設定される。

 貸し借り、売り買いは、ゼロ和である。
 支出と貯蓄は収入に対してゼロ均衡である。
 現金収支は、経済の本質の働きを実現する。即ち、生産、分配、消費を直接制御するのは現金収支である。

 現金収支によって生じた差は、貸し借りで補う。
 貸し借りの元は、預金と借金である。
 貸し借りは、通貨のフローとストックを制御する。

 取引は、ゼロ和である。
 故に、放置すれば市場取引によって生じる経済的価値の総和は、ゼロに収束する。
 ゼロになれば一となる。つまり一で均衡する。それが独占市場である。

 適度な差は、人を成長させ発展させる。しかし、その差によって人は災いを招く。


経済の原動力は差である。



 経済を実際に動かしているのは差である。
 分配は、差を比に変換することによって成り立っている。
 故に、貨幣価値は差によって測られ、比によって分けられる。
 これが原則である。

 経済を動かしているのは差である。故に、経済の働きを測る値も差によって求められる。
 利益も収益と費用の差である。現金収支も収入と支出の差である。資本も又差によって導き出される。
 ただ、経済的な差によって導き出される値は、自然数でなければならない。

 経済では、マイナスの数は想定されていなかった。故に、残高主義なのである。
 負が成り立つのは、決算の時だけである。

 なぜ、決算の時に負の概念が成り立つのかというと、経済的価値は、ゼロを設定する事に依って均衡を保っているからである。
 マイナスというのは均衡を前提として設定されている。
 プラスとマイナスの均衡がとれていなければ貨幣経済は成り立たないからである。
 そこに貨幣の働きの本質が隠されている。
 お金は正の世界と負の世界を仲立ちしているのである。
 正の価値、負の価値いずれが善でいずれが悪だと言うのではなく。
 均衡こそが貨幣価値の本質なのである。

 貨幣空間は差を比に変換することで成り立っている。
 つまり、貨幣空間とは基本的に閉じた空間であり、一つの全体と部分からなり、部分が専有する比率がその人の取り分を規制するのである。
 この貨幣空間と物の空間を結びつけているのが人であり、人は、生産主体であると同時に消費主体でもある。つまり、生産手段の担い手であると同時に消費者である。この個人の働きを理解しないと貨幣経済の本質は理解できない。
 現在の自由主義経済は、複式簿記を土台にした会計制度の上に成り立っている。

 差を付けることが悪いのではない。差を付ける根拠が問題なのである。

 差は前提である。差がない事を前提とすると格差や差別を是正する手段を講じる事がかえってできなくなる。
 差は、肉体的な差や物理的な差、能力差は、先天的前提としてある。差が問題なのではない。不当な差が固定し、それによって自分の可能性が限定的になっているのが問題なのである。
 人間、一人一人に違いがある事は誰にでも理解できる。人間は、一人一人に個性があり、一人一人違うという前提に立つべきなのである。その前提抜きに平等も公平も語れない。大体、年齢による違いは否定しようがない。差を認めなければ、真の平等は語れない。
 絶対と相対が補完的概念であるように、平等と差別も補完的概念である。
 問題なのは、差がある事ではなく、納得のいかない理由で差別待遇される事なのである。正当な理由があれば、差は受け入れるしかない。
 差が問題なのではない。問題なのは、格差が一方的に拡大し、それを是正できない事なのである。
 ここの主体間の格差の拡大は、全体の配分から見ると極端な偏りを生み出す。社会全体の生産効率を低下させるのである。

 差が問題となるのはそれが絶対的基準だからではなく、差の拡大が全体占める割合を変化させるからである全体に占める割合に影響を与える事によって分配の深刻な偏りを生んでしまうのである。しかも、差の拡大は幾何級数的に拡大する。
 初年度、一対二の割合だったのが、次年度は一対四に、三年度は、一対十六にと言うようにである。
 この様な格差を市場は拡大と収縮を周期的に繰り返す事によって是正している。この働きが単一的な機構、独占的機構では働かないのである。
 そして、市場の拡大運動と収縮運動を引き起こしているのが資金と物の循環運動なのである。

 経済的循環のない社会は、格差を是正する手段に欠く。それが問題なのである。

 統制的分配では経済的循環が起こりにくい。分配の仕組みとしては、組織的な配分は、規模に限界があるのである。組織的配分は部分としては機能しえても一つの全体を構成するのには適していない。なぜならば、組織的分配は、格差を前提としても循環を前提としていないからである。
 そのため格差が拡大し、拡大する事によって固定化して階級が生じる。
 階級が生じる事で成果配分に偏りが生じる。偏りは、生産性を著しく低下させる。

 そのために、政治権力が強権を持って抑圧しなければ社会の仕組みを保つ事ができなくなる。この様な体制は、生産物が下層階級の生存を脅かすほどに拡大した時、内部から崩壊するか、外部に向かって侵略的になるかである。
 革命、クーデターか戦争か。いずれにしても暴力手段に訴えるしか解決の手段がなくなる。


経済を停滞させるのは極端な格差である



 金、金、金、金の世の中だ。経済は、所詮、金の問題だと言うが、本当に金、金、金が経済の問題なのであろうか。お金の流れというのは、経済の実態を映す影である。つまり、金は影に過ぎない。経済の実態は、人と物にある。
 経済というのは、生きる為に必要な活動を言うと定義した。
 では、貨幣経済では何が、生きていく為に必要かというとお金である。
 貨幣経済下では、お金がなければ生きていく為に必要な資源を手に入れる事ができないからである。
 故に、貨幣経済では、お金を手に入れる事が一番最初に求められる。つまり、何よりもお金が必要となる。
 そのために、お金を手に入れるために、必要な事を創造する事さえある。お金を手に入れる手段は、生産手段による。個人が固有の生産手段とは、労働か権利である。故に、雇用が持つとも最初に求められるのである。失業すると何らかの利権がない者は、お金を自分の力で調達する事ができなくなるからである。
 いずれにしても生きていく為には、お金が必要となる。
 それが、貨幣経済なのである。この貨幣経済の有様が、物と金との関係を時に転倒させてしまう事がある。
 本来は、生きていく為に必要な資源は、食べ物や着物、建物と言った物である。ところが、貨幣経済では先立つものとして「お金」がなければならない。
 故に、貨幣経済では、金を手に入れるために必要な事、金儲けに必要な事が経済を生み出すのである。そのために、経済とは金儲けの手段だと錯覚しがちである。
 そして、一番大切なのはお金であって他の物は、お金に従属している様に錯覚してしまうのである。
 しかし、それは錯誤である。経済は生きていく為に必要な活動なのだという前提を忘れたら、経済の本質を見誤る事になる。
 経済は、お金が総てなのではない。経済の本質は、生きていく為に必要な事なのである。

 経済が停滞する原因の一つは極端な格差の存在である。極端に貧しい国にはえてして極端な金持ちがいるものである。要するに金が回っていないのである。金が回っていないから偏りが生じ、経済状態を悪くしているのである。
 反対に総ての所得を平均化、均一化してもお金は回らなくなる。個人にも、環境にも違いがある。その違いを前提として平等は成り立っている。違いを認めなければ平等は成り立たないのである。

 物理学において、物自体の運動にのみ囚われるのではなく。その背後にある空間や場の歪みによって物の運動が引き起こされていると捉えることも可能である。そして、その物の運動と空間や場の歪みを映像として捉え、それを方程式に置き換えられる様になる必要がある。
 この事は、経済現象も同じである。空間や場の歪みが通貨の流れにどの様な作用を及ぼすのかによって景気の動向を予測する必要がある。

 経済は、交換によって社会性を帯び、そして、分配によって完結する。

 貨幣の供給は、需要を喚起する。又、貨幣の流れが、生産手段と結びつく事によって経済行為を連鎖させる。

 現金出納を記録する手段である単式簿記は一定方向の「お金」の流れ、即ち、出納しか測定、記録できない。また、税の物納は、反対給付のない物の一定方向の流れでしかない。物の流れと金の流れの関係を表すためには、複式簿記によらなければならない。
 複式簿記の仕組みは、金の流れと物の流れの双方を関連付ける事によって成り立っている。
 反対給付のないお金の流れは、お布施のようなもので空疎な行為である。
 複式簿記では、物の流れと金の流れは、均衡していることを前提としている。物の流れが作り出す価値を実質的価値とし、お金の流れが作り出す価値を名目的価値とする。
 そして、物の流れと金の流れは市場取引によって結びつけられている。
 市場取引を介さず、公的な機関が一方的に資金を供給しても垂れ流し状態に陥り、物とお金の循環運動は生じない。

 なぜ、統制経済や計画経済、全体主義国が破綻し、自由主義国が破綻しないのか。
 統制主義経済が破綻して、市場経済が破綻しないのか。
 その謎の背後に、経済を動かしている法則が隠されている。それは単に思想と言うだけでなく、実利的な意味もあるのである。
 政治体制も経済体制も、双方向の働きがあるから均衡するのである。双方向の働きによって体制に「お金」や人の循環運動を引き起こし、その循環運動によって体制を維持しているのが自由主義体制である。
 一方向の働きだけでは、政治も経済も、力の均衡は保たれない。
 故に、一方向の働きでは、体制は、均衡が保てずに、分裂してしまう。

 経済的循環は、貨幣的手段を通じて市場を介さないと機能しない。

 資金の循環が一つの経済圏を作る。資金の循環は、分配の仕組みの中で形成される。資金が循環しないと経済圏は形成されない。

 市場や貨幣によらない分配は、直接的手段を基本としている。
 直接的手段に基づく分配としては、今日では組織的な分配がある。
 この様な組織的な分配は、単純に一方通行の流れとなり、お金の環流を引き起こさない。

 それに対して統制経済や計画経済は、双方向の働きがないから一定方向の流れしか作り出せない。統制経済や計画経済、全体主義的体制は、一方向的な働きしか働かない。そのために、経済の運動が、周期的運動や循環運動、回転運動にならない。

 又、自由市場を介さない統制的経済だと資金の流れは幾つかの流れに分流する。資金が幾つかの流れに分流するとそれぞれの流れに沿って経済圏が形成され、社会が階層化する。 それは階級分裂や階級闘争の原因となる。

 統制経済や全体主義体制は、体制自体に資金を循環させるための仕組みが不備か、不完全なものである為に、単体では物やお金の循環運動を安定的に制御する事ができなくなる。
 経済を成り立たせている原則によっても経済の有り様は違ってくる。

 生産と消費は非対称であり、その事も計画経済や統制経済の成立を困難にしている。


経済は分配の仕組みである。



 分配の手段には、組織的分配と市場的分配がある。

 統制経済というのは、組織的な分配を主とした体制である。

 組織的分配は直接的分配であり、貨幣的手段を用いない場合もある。その場合、直接生産者から生産物を収奪する。
 近代国民国家が成立する以前は、組織的分配を根本とした体制である。故に、市場も産業も拡大しなかったのである。

 組織的な分配というのは、一定方向で、恣意的な分配手段である。
 又、生産に直接関わる直接部分と組織を管理する間接部門の割合が組織の規模によって違う。
 管理部門の比率は、組織の拡大に従って大きくなる傾向がある。
 それは、組織の拡大によって管理に対する階層が増えるからである。
 これらは、情報技術の進歩によって緩和される傾向にあるが、それでも、組織の肥大化は、管理部門の肥大化にもなる事には変わりない。
 組織的な分配には限界があり、一定の限界を超えると急速に不経済な体制になる。

 結局、物納の時代では、領主と農奴的関係しか生まれない。
 土地のような生産手段と直接結びついていなければ成り立たないからである。そういう社会では貨幣は補助的手段にしかなり得ない。
 領主と農奴という関係は、支配者と被支配者という関係を言う。

 税の物納は、一方的な収奪である。なぜならば、交換性がないからである。
 それに対して金納には、交換性がある。交換を前提とした場合は、双方向の働きを生じる。それが貨幣固有の働きを成立させるのである。
 初期の紙幣は、強奪に近い部分がある。しかし、少なくとも証文である。ある時払いの催促なしの借用書のような物である。しかし、紙幣が市場に出回ると物流を仲介するようになる。発行元の政府に信用がなくても仲介業者が信用を肩代わりしている内は、相応の価値が認められている。貨幣制度は信用によって成り立っているのである。
 税が物や用役によって支払われていた時代の社会はいたって単純にできている。社会的分業に限界があるからである。
 貨幣経済は、社会的分業を推し進める働きがある。

 物を中心とした時代では、象徴的価値を中心とした世界であって、他の価値と言ってもせいぜい使用価値であった。交換という働きによって成立した交換価値は貨幣が成立し、確立する過程で形成されていったものと思われる。
 物中心の時代とは、物々交換、租税の物納時代を言う。物の時代では、価値とは、物その物の持つ価値を言ったのである。

 金納の働きによって費用という概念も形成されていく。それが近代市場経済の成立を促したのである。

 物納の時代は、生産量をそのものから税率は決められた。金納になる事によって価値は、即物的価値から離れ、交換という働きから測れるようになった。そこから費用という概念も派生するのである。
 物納時代では、税は、分配と言うよりも権力による収奪である。経済的意味でも分配という働きの基づく概念は確立されていないからである。
 収益、費用、利益というのは、会計的概念である。即ち、貨幣的概念であり、貨幣から派生した働きに基づく概念である。

 現金は、貨幣の流れによる物の動きしか捉えられない。物と金の動きによる人に対する働きを表す事ができなかったのである。

 経済は、分配である。分配の仕組みには、市場と組織がある。組織的な分配は配給である。

 自由主義体制というのは、「お金」を循環させることによって分配構造が分裂し、階層化を防ぐことによって成り立っている。市場は、お金を循環を促す事によって生産手段と生産財とを結びつけ生産と消費を制御する仕組みの部分なのである。

 この様な貨幣の働きは、都市化を促す。

 統制経済は、単体では貨幣の環流を起こせない癖に、閉鎖的で、自己完結的、秘密主義的になりやすい。単体では、貨幣の環流が起こせない癖にと言うより、起こせないが故に、閉鎖的で、自己完結型、秘密主義的にならざるを得ない。これこそ自己矛盾なのである。

 統制的な仕組みは、それ自体では、経済的循環を発生させる機能がない。統制的仕組みの典型は官僚機構である。故に、官僚機構は、民間を必要とするのである。
 経済的価値は基本的に相対的価値である。それに対して統制的機構は絶対的基準を基礎としている。しかも絶対的基準から生じる矛盾を調整する仕組みが組み込まれていない。

 故に、現在の統制経済や計画経済、全体主義体制は、循環運動をしている媒体に依存しないとそれ自体では、体制を保てず、求心力を失って分裂していく危険性がある。物資や資金の循環が維持されずに一方方向に流れ、それが経済に歪みや偏りを引き起こす危険性があるからである。歪みや偏りを放置すると社会は分裂し、階層化する。
 全体主義的国家では、生産手段に格差が生じ、分配が偏りがちになり、社会全体に資金が環流するのではなく、部分的に分流して、階層的な資金の流れを生じ易くなる。そのために、全体主義的社会主義国は、階級分裂し、階級闘争が生じやすい。

 貧しい国に限って極端な金持ちがいたりするのは、経済の本質が分配の仕組みにある事を如実に物語っている。貧富の差は、分配の歪みが原因なのである。
貧富の格差というのは、相対的な事であって絶対的な事ではない。
 「お金」は、分配のための手段であり、どの様に、何に基づいてお金を予め配分するかが、経済のあり方を規定しているのである。
 個々の局面におけるお金の働きだけを見ていたら貨幣価値の真の意味を理解する事はできない。お金は、個々の取引によって効力を発揮するがその前提は、所得が何によって形成されるかにある。そして、所得は「お金」を循環させる過程で一定の役割を果たしているのである。所得は、生産手段を提供した対価であり、社会的生産に対する取り分であり、社会的生産に依拠していなければ適正な働きができない。
 極端に貧富の格差が広がれば、金持ちは何でも思い通りに手に入れる事ができるのに対して貧者は、生きていく為に必要な資源すら手に入れる事ができなくなる。そのとき、社会の仕組みは機能しなくなるのである。

 たとえば、地方都市を例にして考えてみよう。五十万人の人口の都市で一人、或いは特定の数家族が所得の半分、或いは、土地の半分、資源の半分を独占していると仮定しよう。その様な社会は、極めて資金効率が悪い事が歴然としている。通貨というのは、分配のための手段なのである。一定の範囲内に分散を留めるべきなのである。だからこそ平均と分散が重要な指標となるのである。


現代の市場は、
現金主義と期間損益主義が混在している。



 なぜ、現金収支だけでは駄目なのか、なぜ、損益計算が必要か。この点に貨幣経済の本質が隠されている。
 貨幣経済は、貨幣の働きによって動いている仕組みである。貨幣の働きと動きとは別である。しかし、貨幣の働きは貨幣の動きによって引き起こされている。故に、貨幣経済では、貨幣の働きと貨幣の動きの双方を明らかにする必要があるのである。

 期間損益は、認識の問題であり、現金収支は事実の問題である。
 期間損益では、いつ、経済行為が発生したか、実現したかが問題なのである。

 貨幣には、働きと動きがある。働きを表したのが期間損益であり、動きを表したのが現金収支である。どちらも重要なのである。なぜ、期間損益と現金収支とに違いがあるのか、それは、働きと動きが必ずしも一致していないからである。例えば、物品の授受とお金の決済とは必ずしも時間的に一致しているわけではない。商品やサービスを受けても、即、お金が支払われるとは限らないし、逆に、お金を支払ったからと言って即、商品やサービスを受けられるとも限らない。つまり、期間損益と現金収支、認識と事実との間にある時間差が関係している。この時間差が負債や収益、費用、利益、資本に関係してくるのである。つまり、収入と収益、支出と費用との間には、認識と事実のズレが隠されているのである。

 貨幣の働きを表現したのが損益であり、貨幣の流れを表現したのがキャッシュフローである。
 現金収支は残高が問題である。収支は、出入りが問題なのであり、残高だけ見たら、現金の動きだけがわかって働きがわからない。逆に、損益は、現金の働きはわかっても動きがわからない。
 貨幣は資金の過不足を補うように変動する。貨幣が余剰にあるところから貨幣が不足しているところへと貨幣が流れる事によって経済活動は均衡するのである。これが大前提である。貨幣の過不足を調整するように貨幣が動くような仕組みでないと貨幣経済は円滑に機能しない。
 資金が不足した場合、資金不足を解消する手段は売り買い、貸し借りという二つの手段があり、各々性格が違う。
 貨幣経済というのは、売り買い、貸し借りの働きの違いによって起こる貨幣の動きに基づいて変動する。では貨幣の動きによって起こる貨幣の働きとはどの様なものなのか。

 経済主体を実際に動かして「お金」の入りと出ある。しかし、「お金」の入りと出だけでは、なぜ、何のために「お金」の動きがあったかが、判明しない。又、経済的現象は、「お金」の入りと出と同時に発揮されるとは限らない。
 「お金」の入りと出と「お金」の効力が発揮するまでには、時間的な差がある。

 現金主義と期間損益の違いによって生じる収支と損益の違いの原因には、第一に、収入はなくても収益となる事。第二に、収入はあるが、収益とはならない事。第三に、支出はないが費用となる事。第四に、支出はあるが費用とならない事。第五に、収益によらない収入。第六に、費用とならない支出である。
 収益以外の収入には借入金や出資があり、負債や資本を形成する。費用以外の支出は、投資等があり、資産を形成する。

 現金収支を期間損益に切り替える事によって収益性負債、貨幣性資産、貨幣性負債、費用性資産、未実現損益といった概念が成立する。収益性負債とは、将来収益となる負債を意味する。貨幣性資産とは、貨幣そのものか将来貨幣となる資産を意味する。
 この様な概念は、現金主義と期間損益主義の間にある時間差が原因となって形成される。
 貨幣性負債とは、将来貨幣で払うべき負債を意味する。費用性資産とは、将来費用となる資産を意味する。未実現損益というのは、含み益や含み損を意味する。
 現金主義と期間損益の違いを生み出す原因は、未実現損益を除くと貨幣、収益、負債、資産、費用の組み合わせなのである。つまり、収益、負債、資産、費用、そして、貨幣が機関損益主義に基づく経済の根幹を形成している要素である。

 現金主義というのは、現金の動きを基本とした考え方である。
 基本的に言うと先ず元手があったそれに入金と出金を加算、減算し、残高を維持する。元手というのは手持ち残高を言うのである。つまり、元手残高から入金を足し、出金を引いて残高を出す。これだけである。金の動きだけで経済的事象を認識するのが現金主義である。
 ただ、経済には、物の動きがある。また、物としての貨幣の動きもある。それが資産である。
 この物の動きの働きを加味して二次元的記録するのが複式簿記であり、期間損益主義である。そこで決定的な働きをするのが時間の働きである。

 「お金」の効用は、貸し借りと売り買いによって発揮される。「お金」は、貸し借りによって供給され、回収される。貨幣の効用は、売り買いによって発揮される。
 貨幣の仕組みの基礎は貸し借りによって生じる。つまり、負の部分が基礎にあって貨幣制度は成り立っている。

 経済主体間の接点が取引である。取引のあり方は経済主体間の関係を表している。
 売掛金や受取手形は、買掛金、支払手形は、物の貸し借りを意味する。つまり、金銭の授受に先行して経済行為が発生、実現している事を意味している。ただし、会計上はこれも金銭的貸し借りとして計上される。

 「お金」の出入りを基礎とした考え方が現金主義であり、貸し借り、売り買いを基礎とした考え方が期間損益主義である。
 現金主義と期間損益主義には時間が重要な働きをしている。

 もう一つ大事なのは、負の概念であり、負の概念の根本にあるゼロ和の概念である。

 ゼロ和と価格差が金融工学の根本である。
 金融工学というのは、鞘取りと裁定取引を基礎としている。裁定取引は、売りと買いを当時に行う取引である。

 経済現象では、経済的均衡点をゼロ和だと見なす。その均衡点に対して正と負の関係が生じる。それが期間損益では利益と損失を構成する。

 期間損益で、収益と費用の関係も一種の裁定取引と見る事ができるのである。
 費用の周期は、収益の周期に一期遅れて変化する。上昇期には利益になるが、下降期には、損失となる。つまり、利益が善で損失が悪だというのではなく。利益と損失が均衡するかが問題なのである。

 これを現金の動きから見ると投資活動に関するキャシュフローは、初期には、支出の側に流れ。財務活動に関するキャシュフローは、借入金や資本調達の関係から収入の側に流れる。そして、営業キャシュフローは、その時の状況によって収入側にも支出側にも流れる。

 この期間損益と現金収支の関係から経済現象は測定されるのが現在の市場主義である。

 現在の市場経済の問題点は、現金主義と期間損益主義が混在している点にある。例えば、収入と収益の違い、支出と費用の違い、現金残高と利益の違い、借金と負債の違いなどが経済の歪みを引き起こしているのである。更に、税法との違い、即ち、収入、収益と益金の違い、支出、費用と損益の違い、現金残高、利益と課税対象との違いによって生じる経済の歪みを正しく理解しておく必要がある。その上で経済政策や税制を組み立てないと深刻な問題を引き起こしておきながら原因が特定できなくなる危険性が生じる。

 市場経済の基本的な規範は、第一に、現金の残高の範囲内に支出を収める。
 第二に、収入の最大化を計る。
 第三に、支出の最小化を計る。
 第四に、現金残高を規定する要素は、償却、借金の返済、金利、納税額。そして、収入と支出、利益、費用の関係である。
 第五に、借金を固定資産の範囲内に収める。
 第六に、償却と金利は費用に還元される。
 第七に、借入金の返済額、納税額は支出に反映される。
 この様に基本的に現金の流れが経済主体を規制している。
 しかし、経済効果を測定する基準は、収益、費用、利益という複式簿記の原理に期間損益の概念に基づいている。


費用とは何か



 費用と支出は違う。費用というのは費やした効用である。支出は、決済のために支払われた資金である。
 支出には、消費支出と非消費支出がある。非消費支出には、貯蓄と納税などがある。
 支出は、消費に総てが回されるわけではない。消費は支出の一部である。

 支出は、基本的に消費と貯蓄に振り分けられる。
 費用と支出は総ての点において一致しているわけではない。
 費用とは、支出の中で生産に寄与した部分を言う。

 家計や財政は、期間損益ではない。そのために、家計や財政は、貨幣と時間との関係や貨幣の時間的働きが計測できないのである。

 費用と支出の違いには時間が関係している。
 費用は、費用が発生したと認識された時点において計上されるのに対して支出は現金の支払いが実行された時点で計上される。
 この時間差によって資金繰りと利益に重大な影響が出る。場合によっては利益が出ているのに資金繰りがつかないという事態も発生する。

 基本的に現在の経済を動かしているのは「お金」の流れである。
 ただ、「お金」の出入りだけで「お金」の効能は明らかにならない。そこで、一定期間で「お金」の効能を測定するために設定されたのが損益である。

 物の流れには、反対方向の金の流れがある。この点が重要なのである。問題はこの貨幣価値と物の価値の均衡にある。

 消費とは、価値を費やす行為である。投資は、生産手段に資金を投入する事。或いは、生産手段に対する支出である。貨幣の働きという点では、投資も基本的には消費と同様、価値を費やす行為である。投資と消費とを区別するのは期間、即ち、時間軸の問題である。働きは基本的に同じである。

 貯蓄というのは、視点を変えると金融機関への貸付であり、金融機関の負債である。この様に、貸し借りというのは表裏の関係にあり、貯蓄と負債というのは、同じ働きをしていると見なすことができる。

 財の効用を費消する時間、期間に基づいて費用と資産は区分される。
 更に資産は、金融資産と固定資産、固定資産は、財の効用が減価すると見なされる資産と、財の効用が減価しないその時その時の相場によって決定される資産とに区分される。

 費用には、相対費用逓減の法則、機会費用逓減の法則、限界生産力逓減の法則がある。

 肝心なのは、費用を賄えるような収益、家計を賄えるような所得を維持、確保する事である。収入は必ずしも一定していないのに対して、支出の多くは固定的である。ゆえに、収入と支出を平準化して現金の残高が不足しないように調整する必要がある生じる。そのための指標が利益なのである。故に、赤字になったからと言って経営や生活が、即、成り立たなくなるというわけではない。

 費用は、生産手段でもある。収入は労働の対価でもある。
 費用というのは、生産手段と言える。所得は、分配手段。生活費は生活手段である。
 分配手段は、消費と貯蓄と税に区分される。そして、分配から投資が生まれ、分配から投資に転換される過程で貸借関係が生じて長期的資金の流れの枠組みを作る。投資には、経済主体に応じて公共投資と民間投資があり。民間投資には、企業投資と家計投資がある。
 さらに、消費が短期的流れを形作る。社会のストックとフロー、即ち、長期的資金と短期的資金の比率が景気の動向を左右する。
 生活手段によって個々の財の価格が定まり、個々の財の価格の変化が社会構造を変動させる。
 この様に、生産と分配と消費の動きが景気を形作るのである。即ち、生産は、収入の上限を決め、所得は、収入の分散を定め、消費は収入の下限を規制する。生産、所得、生活の相互作用によって景気の動向は形作られていくのである。

 費用は、人件費の塊だと言える。費用を削減する事は、総所得を削減する事を意味し、消費の後退を招く。この作用反作用の関係が、経済を制御しているのである。
 反対給付のない生産手段は経済的効用を測定する手段を持たない。公共事業が経済的合理性を持たない原因がそこにある。

 費用を決める要素は市場における競争力であり、一定一率であるか。
 可能ならば逓減する事が求められる。費用を決めるの基準は費用対効果に求められるからである。
 所得は、能力に応じたものである事が本質である。
 そのために、所得は、その人の能力や実績の限界に応じて決まる。
 スポーツ選手は、二十代から三十代でピークに達する。
 生活費は、家計費でもある。生活費は、その人その人の家族構成やライフサイクルに沿って形成される。生活費としての収入の基準は、必要性だからである。

 費用である人件費は常に市場の競争に晒されている。所得は、能力の限界に制約を受けている。消費は、所得の範囲内に限定される。
 所得は、必要性から導き出されるものではない。費用は、市場の需給の関係から求められ、生活費は、消費に基づく必要性から求められる。

 費用は、単に需要と供給、競争によって定まると決めつけられない。
 費用は人件費の塊であり、平均や分散が問題なのである。平均は、水準を意味し、分散は格差や貧困の問題でもある。
 費用で問題となるのは、絶対額ではない。比率である。即ち、全体と部分の関係である。

 費用は、単に、競争や需給だけで定まる事ではない。費用の持つ働き、働きから生じる社会的必要性から定まるような仕組みが前提とされるのである。
 公共投資を考察する上ではこの点が重要になる。公共投資の費用対効果とその経済性、即ち、経済に及ぼす影響である。
 人は、生産者であると同時に、消費者である。それは生産と消費は人を介して結びつけられている事を言う。市場は価格を通して生産と消費とを結びつける仕組みである。人と市場の関係が経済の要なのである。ただ安ければいいという発想はこの絡繰りが見えていない証拠である。

 一方で費用は価格に反映し、価格は、物価に反映する。もう一方で費用は所得に反映し、所得は購買力に反映する。購買力は物価に影響する。費用の増加は、価格の上昇を招き、価格の上昇は、物価を押し上げる。又、価格の上昇は費用を押し上げ、所得を上昇させる。この様な圧力は市場全体に物価の上昇圧力をもたらす。
 反対に、逆の流れは、市場全体に下降圧力をもたらす。そして、これらの変化の根底にある空間は、複利的空間である。これらの要素の働きは場に働く力の方向性を形成する。要素間の変化の速度によって場に働く力は規制され、市場は常に均衡を求めている。

 経済が正常に機能させる為に問題となるのは、平均と分散である。
 平均は水準を表す。物価水準、生活水準、所得水準、そして、その水準と物価の分散、所得の分散が経済環境を形成していく。

 費用は、景気の下降圧力となり、分散は、均衡圧力となり、生活費は、景気の上昇圧力となる。
 この三つの均衡点が景気の動向を規制する。

 エネルギー問題、環境問題の解決は、徹底した省エネにあると私は、考える。そして、それは技術の問題と言うより経済の問題であり、その延長線上にある政治の問題である。
 省エネや再生エネルギーの問題で障害となっているのは、費用の問題である。原子力問題も同様である。
エネルギー問題とって費用対効果が問題なのである。
 では費用とは何かが重要となる。なぜ、費用があわないのか。費用があわなければ、何もできないのか。
 その一番端的な例は軍事費である。なぜ軍事費は莫大な費用がかかるのに、費用対効果が問題とならないのか。
 時には、軍事費が国家財政を破綻させるほどの巨額になるというのにである。軍事費は神聖不可侵項目である。国防予算は利権の塊である。しかも国防の中には、防災は含まれない。
 宇宙開発や核開発、海洋開発だって軍事が先行している。軍事ならば予算が確保されるからである。
 又、道路や橋に天井知らずの予算が計上される。
 それに対して、エネルギー対策費用や環境対策費用は、常に、費用対効果だけが取り上げられる。それが、エネルギーや環境問題は、経済の問題だという事であり。そして、政治の問題なのである。
 軍事費と同じだけの金額をかけても良いとなると環境問題やエネルギー問題も話が違ってくる。問題は何にどれだけの費用がかかるかである。ところが現在の財政は、そういう視点に立てない。たてたとしても原子力のような特定の分野に限定されている。

 兵隊への賃金が国債や紙幣の素となる。故に力尽くで流通させた部分がある。力尽くで流通させたとしても貨幣としての働きはする。この事は含蓄がある。
 軍事費というのは、軍事の技術開発というのは、費用対効果を考慮しないでいい分野の一つである。公共投資は拡大再生産の本である事象が有効である。軍事費は、拡大再生産には平常時には結びつかない。軍事費が拡大再生産に直接結びつくのは戦争である。
 戦争は、経済の発展を引き起こす契機になる例が歴史上多く見受けられる。しかし、戦争に伴う破壊を前提するのは邪道である。戦争は本質的に拡大再生産には結びつかない。
 鉄道の発展が好例であるように公共投資は、次世代への投資、拡大再生産に結びつくものであるべきなのである。


買う、借りるは自由主義経済の本質である。



 経済の基本は、入りと出にある。つまり、経済主体に対して人、物、金がどれくらいの量がどの様に、どこからに入り、何処へ出て行ったかによって経済の状態は決まるのである。

 市場取引は、売りと買い、貸しと借りの二つの行為からなる。
 金銭的に見ると借りと売りはお金を得る行為であり、貸しと買いは、金を出す行為である。物から見ると売りは物を出す行為であり、買いは物を得る行為である。

 貨幣を流通させる働きは、貸し借り、売り買いである。貨幣の流通を促す働きがあるのが金利である。
 貸し借りは権利を生み出し、売り買いは物流を生み出す。
 貸しと借り、売りと買いは、一組で成立する。即ち、視点、立場を変えれば、借りは貸しであり、売りは買いである。
 貸し借りと売り買いは、表裏の関係を為している。そして、これは、基本的に入りと出を意味している。つまり、資金の流れは残、入、出、残である。

 経済とは、生きる為の活動を言う。つまり、基本は、生きる為に必要な資源、食料や水、衣服、住居などを調達し、それを消費する事を言う。
 生きる為の活動なのだから、動物にだって経済はある。経済は、人間だけに限った事象ではない。
 人間は、社会的動物である。故に、生きる為に必要な資源を集団で行い、それを、皆で分かち合う。それらをひっくるめた活動を経済という。
 具体的に言えば、基本に、生産と消費がある。次、生産した物を如何に消費者に分配するか。即ち、分配がある。つまり、経済の基本は、生産と消費と分配である。
 生産や消費は、生産した時点や消費した時点では社会的効用を発揮していない。故に、経済の現場は主として分配の場にある。
 生産した財を市場を通じて消費者に分配する。それが市場経済である。
 その手段として貨幣を用いるのが貨幣経済で、市場経済と貨幣経済は、別物ではあるが、同時に相互補完的関係でもある。
 貨幣経済とは、生産し、或いは調達した資源を分配する際、仲介手段として貨幣を用いる経済を言う。
 生産と消費は、非対称である。生産された物、全てが消費されるわけではなく。消費に必要な物全てが生産されるとは限らない。生産と消費との間には過不足が生じる。生産と消費との間にある過不足を市場取引という間接的手段によって調節する仕組みが、市場である。
 市場取引は、売り買い、貸し借りを通じて経済行為を対称化する働きがある。

 経済的価値というのは、取引が成立して時点における経済的効果である。
 取引の本質は、売り買い、貸し借りであるならば、売り買い、貸し借りによる経済的効果が経済的価値を決める事になる。売り買いと貸し借りという二種類の取引を前提とするならば、売り買いによって生じる価値と貸し借りによって生じる価値の二種類がある事になる。

 例えば、土地の経済的価値で言うならば、第一に、土地を売り買いすることによって生じる経済的効果と、土地を貸し借りすることによって生じる経済的効果である。つまり、
第一に、土地の売り買いによって成立する地価と、第二に、土地の貸し借りよって生じる収益力である。
 地価というのは、土地を売買が成立したときの貨幣価値である。土地の収益力というのは、土地を活用した際、獲得される収益を言う。

 賃貸住宅が良いか、持ち家が良いかと言う問題は、住宅問題の本質に関わっている。そして、我々は、賃貸住宅を貸し借りで捉え、持ち家を売買として捉えるがちである。
 しかし、賃貸住宅と持ち家というのは、表裏の関係にあり、物の貸し借り、売買と「お金」の貸し借り、清算の関係に関わっている。
 この様に貨幣経済では、物と「お金」が表裏の関係にある。
 賃貸住宅というのは、物件を貸し借りするという事であり、持ち家というのは、金銭を貸し借りするという場合が隠されている事を見落としがちである。
 賃貸住宅と持ち家は、清算と所有権の問題である。賃貸住宅というのは、必要に応じてその時点その時点で使用した分、或いは、消費した分が清算される形式である。

 買うか借りるか。これは自由主義経済の本質的質問である。
 ただ、買うにしても、大抵の場合、借金をする事になる。つまりは負の勘定をどうするのかが肝心だという事を意味している。
 住宅投資が好例である。自分の所得に見合う範囲で賃貸住宅がいいか、それとも持ち家がいいかを判断する。
 先ず、月々の支払が問題となる。家をローンで買えば、一定期間支払続ける事が可能かどうか。ローンを支払い終わった後はどうなるのか。
 その間、住宅の修繕費はどれくらいかかるのか。それに対して同じ間取りで、条件が同じ賃貸住宅の家賃の相場はどれくらいなのか。地価の動向はどうか。
 かつては、所得も右肩上がり、地価も高騰していた。だから、無理をしてでも持ち家にした方が良かった。それが土地神話を生んだのである。
 しかし、バブルが崩壊すると真反対の事象が起こっている。つまりは、正と負の水準が景気を左右しているのである。
 借金をして家を買った場合、失業をして収入がなくなったら、失業しないまでも収入が減っただけで生活は破綻してしまうのである。
 これは今日の自由主義経済の本質でもある。だから、社会全体の所得の水準と借入金の水準が問題となるのである。所得の水準と借金の水準、そして所得の分散と借金の分散は、経済の動向に決定的な働きをしている。

 持ち家が良いか、賃貸住宅が良いか、迷うものである。人には所有欲がある。所有というのは、権利である。しかし、家を所有するという事で必ずしも経済的に合理的だとは限らない。

 土地の経済性、経済的効果を計るためには、賃貸住宅と持ち家の経済的効果を比較する必要がある。
 賃貸住宅と持ち家の経済的を比較するためには、賃貸住宅と持ち家に対する支出と経済的効果について考察する必要がある。
 賃貸住宅と持ち家に関わる支出は、基本的に一月を単位としている。即ち、第一に比較しなければならないのは、一月に支払われる金額、即ち、賃貸住宅ならば一月の家賃であり、持ち家ならば、借入金に対する一月の返済額である。
 もう一つは、一定期間の家賃の支出総額と持ち家を購入した時の価格と借り入り金を返済し終わった時の残存価値の比較である。

 持ち家かいいか、賃貸がいいかは、その時その時の経済情勢によって微妙な違いがある。
 地価が、将来継続的な上昇すると思われる場合、即ち、インフレの場合は、持ち家は、土地を取得した時の借入金の負担が将来に亘って低下する上に土地を売った場合の利益が見込まれる。また担保力の上昇も期待できる。逆に地価が長期に亘って下がる傾向にある場合は、借入金の負担が増大し、更に土地を売った時に多額の損失が発生する危険性がある。
 その上で、金利の動向と収入の動向との比較、税の影響等によって賃貸住宅と持ち家の有利不利が判定される。
また長期的視点に立つと、土地を取得した場合は、資金が長期に亘って寝ることになる。
 逆に、賃貸住宅では、その時々の経済状況や周囲の環境に応じて支出を変更することが可能だという利点がある。
 このような支出から見た損得勘定と収入から見た損得勘定を噛み合わせて考えるのが経済である。
 高度成長からバブルが破裂するまでは、地価も所得も右肩上がりに上昇すると信じられてきた。それが土地神話を発生させ、バブル崩壊後の多大な不良債権を蓄積した要因でもある。

 貸し借りは、貨幣の供給と回収を担い、売り買いは、分配を実現する。貸し借りは、債権と債務を生じさせ、売り買いは、物や用益、権利の交換と移動を実現する。

 貨幣経済が機能するためには、消費者に予め貨幣が配分されている必要がある。貨幣の本質は交換手段であり、数値情報である。
 貨幣の配分は、生産手段に対する対価か、貸出による。
 主たる生産手段は、労働である。生産手段は労働以外に土地や機械設備、資本などがある。
 貨幣の配分は所得によって為される。所得は、主として生産手段に対する対価である。所得は分配のための手段である。
 生産と消費は、非対称であるため、分配が効率的に行われないと財やお金の配分に偏りが生じる。その偏りを是正する為には、所得を適正に配分する必要がある。
 貨幣の特性の一つに貨幣の持つ数値情報は、保存できるという点がある。そのために、市場で権利を行使した余りを貯金する事ができる。
 市場取引では、物と金は過剰な分、余り、余剰が生じる。物の余りを在庫になり、お金の余りは貯金となる。この余剰な資金がストックを形成する。余剰な資金は、投資となって資金が不足している部分を補う。投資は、資金の貸し借りを通じて為される。投資は、第一段階として資金の調達、第二段階として生産設備と資金との交換の二段階によって実現する。


付加価値について



 百万円という価値が自然界にあるわけではない。百万円という価値を生み出したのは、人である。経済は、人間が生み出した事である。経済は、生きる事である。経済学は、認識の問題である。
 猫や豚は、経済を考えていないと人は言う。猫に小判、豚に真珠と言って猫も豚も経済的価値が解らないと猫や豚を人は小判や真珠のために同類と争ったり、殺したりはしない。 ならば、小判や真珠の真の経済的価値を知っているのは、人であろうか、それとも、猫や豚であろうか。

 付加価値というのは、経済にとって重要な意味を持っている。しかし、一頃、付加価値と言う言葉が意味もなく広まって、何でもかんでも付加価値がなければと多くの人が言い出した事がある。
 あの時、多くの人が、付加価値、付加価値と事ある毎に言っていたが、その大部分の人は、付加価値の意味をわかっていたとはとても思えない。
 付加価値、付加価値と何かにつけて言う人の多くは、付加価値というのを何か特殊な知識や技術、技能を指していると思い込んでいる節がある。そして、付加価値ある仕事というのを特殊な仕事や特別な仕事だと錯覚していた。

 しかし、付加価値のある仕事というのは、特別な仕事を指して言うのではない。何らかの資源に人為的な価値を付け加えて事象である。例えば地代、家賃、金利も付加価値である。

 ただ付加価値の中で一番重要なのは労働である。
 また、便所掃除をすれば、便所にだって付加価値を付けることはできる。
 木を削って箸を作っても木に付加価値は付けられる。
 要するに、付加価値というのは、人間が汗水垂らして働いたところに生じる。
 SE、デザイナーのような仕事だけが付加価値をもたらすわけではない。

 どんな先進国だって三割の人間は、読み書きもろくすっぽできない人間だ。そういう人間に正職を与えて真っ当な生活を送らせるのが、実業家の仕事であり、政治の仕事でもある。
 世の中は、コンピューター技術者や特殊技能者だけで成り立っているわけではないのである。何の取り柄もない大多数の人々の暮らし向きをどうするのか。彼等の仕事を如何に確保するかが経済の重要な課題の一つなのである。

 大体、単調な単純反復繰り返し的な肉体労働を特殊な技能を持つ人間にできるであろうか。又、できたとしても彼等にやらせる事が経済的であろうか。
 プロスポーツは、スタープレイヤーだけで成り立っているわけではない。
 プロにもなれない多くのスポーツファンがいてプロスポーツは成り立っているのである。そして、その全体を理解することが経済学の仕事なのである。

 金になる仕事ばかりを尊ぶから経済が成り立たなくなるのである。経済の本質は、より多くの人に、より豊かな人生を実現することにあり。経済学は、どうしたら多くの人により豊かな生活を暮らせるようにできるかを考える事なのである。
 その点を見落としたら、経済の意義も経済学の目的も失われてしまう。


資本は蓄えから生じる



 資本は蓄えから生じる。
 貨幣は、保存ができる。貨幣の保存性は、貨幣その物の名目的価値を保存する。名目的価値が保存できるという事は、名目的価値を蓄えることができる。それが貯蓄、貯金である。この様な蓄えが可能となると蓄えから貸し借りが派生する。貸し借りは、債権と債務を成立させ、投資行為が可能となる。

 本来、名目的価値は実質的価値に裏付けられる事によって成り立っている。しかし、名目的価値の働きだけを抽出したのが資金であり、資金を集積したのが資本である。

 物としての価値と貨幣に換算された価値が乖離し、お金が資金化する事によってお金自体が価値を持ち始めた事で資本が形成された。
 つまり、お金の働きだけを特化してそれを集積する事で資金化する事によって資本は形成される。
 また、お金を資金化する事は、物としての価値と取引によって生じる貨幣価値を分離する事を可能とする。物としての価値と取引によって生じる貨幣価値を分離する事によってそれまで個々の物自体が固有に持つ交換価値を一般化し、標準化する事が可能となったのである。

 資本の機能を有効にする事象が投資である。投資をするためには、資本が必要であり、そのためには、資金を集積しなければならない。

 資本というのは、貨幣主義である。資本は、会計的概念である。
 そして、資本は、金が生み出した概念である。
 ただ、資本金というとお金が実際にあるように錯覚している人がいるが、資本というのはお金そのものを言うのではない。
 お金が生み出した働きを言うのである。
 資本主義は、拝金主義ではない。
 資本は、お金が生み出した働きによって成立したと言うだけである。

 資本は、生産手段を裏付ける貨幣の働きである。
 蓄えの大局にあるのが借金である。
 貯蓄と借金は表裏の関係にある。
 ある意味で一体なのである。
 資本と負債は、類似的な働きをする。

 今日の経済活動は根底に負の空間が潜んでいるのである。

 あるようでない、ないようであるのが借金である。
 人からお金を借りなければ借金はないと思いがちである。
 しかし、親の財産を相続する段になるといろいろと国や社会に借金をしている事を思い知らされる。
 人は知らないうちにいろいろなところで借金をさせられているのである。
 結局、親の資産は、国からの借り物であり、国の借金は知らす知らずのうちに自分達の負担になってくる。
 資本も借金の一種だとも言える。
 なぜなら、資本は貨幣的概念であり、貨幣の基は国の借金なのであるから。

 資本主義社会は、借金で成り立っているのである。


生産と消費



 今日の、貨幣経済は市場経済によって機能している。
 市場経済は、市場を通じて財の分配をする仕組みによって成り立っている。市場は、生産手段と生産を結び付ける事によって、また、交換手段と消費を結びつける事によっても成り立っている。
 生産手段と生産を結びつけているのは対価、或いは、報酬である。
 交換手段と消費を結びつけているのは、所得である。交換手段は生産手段による結果に対して配分される事を前提としている。市場は、この様な結びつきによって需要と供給を制御し、生産と消費を調節する仕組みである。
 交換手段の一つが貨幣なのである。

 経済政策を考える場合、生産者側に基盤にして考えるか、消費者を基盤にして考えるかによって根本的思想が違ってくる。
 現代の経済は、生産者側に偏っている。そのために、消費者の必要性や効率性が軽視される傾向にある。大量生産、大量消費は生産側から見た効率である。しかし、消費者の欲求は、多種多様である。
 生産効率ばかりを追求すると生産過剰、供給過剰に陥る危険性がある。生産過剰、供給過剰は、乱開発や資源の浪費に結びつきやすい。ひいては、それは、環境保護や資源保護に逆行する。また、生産効率ばかりを追求すると雇用にも影響が出る。
 市場は成熟するに従って量から質への転換を計る必要がある。
 そのためには、経済が成熟するに従って市場は、生産と消費に対してより中立的、或いは、消費者よりに重点を移していく必要がある。

 個人は、消費者でもあり、生産者でもある。
 個人は、消費者でもあると同時に生産者でもある。
 全ての個人は、消費者であるが、全ての個人が生産者であるのではない。生産者であるのは、個人全体の中の一部である。
 生産と消費は非対称である。
 また、消費にも生産にも量的、質的な個人差がある。また、嗜好にも好き嫌いに個人差がある。能力にも適不適、向き不向きがある。

 消費と生産は、需要と供給に反映され、市場取引によって価格に転化される。
 消費と生産が非対称であるから需要と供給も非対称である。
 取引には、価格に転化する事によって貨幣価値を統一し、経済行為に対称性を持たせる働きがある。

 ゼロ和による作用反作用の関係によって成り立っている貨幣経済では、平均や分散が特別の意味を持っている。
 そして、平均や分散が意味を持つという事は、中心極限定理や正規分布が重要だという事を示唆している。

 経済は、分配である。生産財を如何に分配するかが経済の核心である。生産財の平均と所得の分布が重要な意味を持つ。それが貧富の差となって現れるのである。生きていく為に必要な資源を確保できる取り分を所得によって賄えるのか、また、国民全員が生きていく為の資源総量の平均値を確保できているのか。一人あたりの消費量と所得の関係こそ経済では重要な意味を持っているのである。


償却と借入金の返済



 期間損益の働きを理解する上で重要なのは、減価償却費と借入金の返済額の比較である。ただし、注意すべき点は、単期だけでなく、減価償却の方程式と借入金の資金計画に基づいた比較、そして、税の働きとの比較によらなければ実際の資金効率は図れないことを忘れてはならない。

 金融機関や商社では、有利子負債を減価償却費と税引き後利益で割った値を支払能力の簡易な指標として使われている。これが何を意味しているのかというと元本の返済期間と元本の返済原資である。そして、この点が融資基準や取引の実質的基準とされているのである。
 これは、一つは、固定資産の費用化する部分と利益処分の一部が有利子負債の返済原資である事を意味している。

 含み益を前提とした経済というのは、基本的に市場の拡大を前提としている。長期借入金の元本の返済は、収益の上昇によって賄い、新規投資や設備後進は、資産価値の上昇分を担保として行う。これらが上手く回転しているうちは、良いが、一度逆回転するとその途端に破綻してしまう。含み益が含み損、不良債権へと変質してしまうのである。しかも、簿価が低い物件は、売ると今度は過大な利益が生じ、過大な税を納めなければななくなる。
 キャッシュフローと利益、税との関係の均衡がとれなくなると景気全般に重大な構造的障害を生じさせる事になる。

 金利と元本と減価償却によって利益と現金収支の間に重大な乖離が生じる。税の算出は期間損益を基本とするために、慢性的な資金不足の要因となり、黒字倒産を引き起こす事がある。それが累積すると周期的な不況を引き起こす要因にもなる。

 金利と元本返済の組みあわせによっては、キャッシュフローと費用の関係が利益と収支の関係を不均衡にする。
 そして、資金流出が利益を大幅に上回り、黒字倒産や借入金の増大を招く。
 この様な事によって経済に対する影響は、不動産価格が上昇している場合は、含み資産が拡大して資金調達がしやすくなり、新規投資や更新投資が活発になる。逆に姶動産価格が下降している時は、一気に景気は冷え込んでしまう。

 経済を考えていく上で、重要なのは、目先の経済の動きに目を奪われるのではなく。経済の実際の働きを正しく知ることである。そして、何が経済を動かしているのかその要因を認識した上で、どの様にその要因に働きかけていくかが鍵なのである。

 経済主体に対する入金は、所得と借入金の和である。出金は、消費に対する対価と投資、及び余剰である。投資は生産手段、余剰は、貯蓄と見なす事もできる。借入金と生産手段と貯蓄はストックを形成する。
 経済主体は金回りによって動く仕組みである。金回りとは、資金の調達力によって制約される。最終的な鍵を握っているのは支払能力であり、現金残高が枯渇し支払能力がなくなると経済主体は経済的に破綻する。
 支払能力は、資金の調達力に依存している。借金であろうと、投資であろうと、収益によろうと資金が調達できるうちは経営主体は、破綻しない。故、経済主体の経済力は資金の調達力によって定まる。
 この点は、企業も家計も政府も同じであるが、唯一今日の政府の違いは、支払手段である紙幣を発行する権能を持っていることである。また、紙幣の基本的な性格は、政府の借用証書だという事である。
 資金の調達力は、必要性と信用による。資金の調達能力は相対的価値であり、絶対額が問題なのではない。
 収益や所得を見る場合、個々の経済主体は絶対額に囚われがちであるが、社会全体からすると構成比率や推移が重要となるのである。
個々の経済主体に於いては、どの様な構成で入金され、どの様な構成で支出されたのか。
 また、市場全体では、総資本に占める負債の比率の推移はどの様に変化しているか。総資産と総資本の実質的関係、比率はどう推移しているかなどである。
 貸借上の総資産は、実質的価値を総資本は、名目的価値を形成する。実質的価値は、その時点、時点の相場を表し、名目的価値は過去の残債を表している。
 費用は、付加価値の構成を表している。収益、市場からの資金の調達力を意味する。
 総資産と総資本の働きは、比率によってみなければ解らない。総資産は、現在の市場を反映し、総資本は過去の市場を基としている。総資産のと総資本の比率の動向は、市場の動向を反映している。資金の調達力は、総資産と総資本、費用と収益の関係に現れる。関係は、推移と比率から推測される。
 総資産と総資本の関係は、主として長期的資金の流れ、ストックによる資金の調達力を表す。社会全体の総和では、資金の流れる方向を決定づける働きがある。
 総資産を総資本が上回れば、債務超過となって資金の調達が困難となる。
 利益は収益から費用を引いた値として表現される。収益は、現在の市場の状態を表し、費用は、前年の市場の状態を反映する。故に、利益は、市場全体の状態、市場が拡大しているか、市場が縮小しているかを表す指標として認識できる。
 景気を安定させるためには、為政者は、借入金の元本を調節することによって収益や資産を変動し、経済主体や市場の状態を制御する必要があるのである。
 複式簿記は、借方と貸方があり。借方には総資産の残高と費用が、貸方には、総資本の残高と収益が記載される。そして、資金の流れは、貸方から借方に流れる場合は、市場に資金を供給する働きがあり、借方から貸方に流れる場合は、資金を回収する働きがある。 例えば、借入金の元本の返済は、借方から貸方への資金の流れであるから資金の回収を意味する。
 資金の流れる量と方向によって市場の働きに違いが生じる。故に、総資産や総資本、収益と費用の関係を調節することによって市場を制御する必要がある。それが経済政策である。
 総資産と総資本、費用と収益の関係を調節するのは、個々の経済主体と市場の仕組みを操作することである。
 そして、資金を流すか流さないかの判断は、貸借の状態と基本的に損益のあり方に基づいている。貸借のあり方とは、総資産と総資本のバランスにより、損益は利益と損失からなる。言い換えると収益と費用のバランスである。
 総資産、総資本を圧縮するためには、借入金の元本を返済する必要がある。
 借入金の元本は、減価償却費によって賄う。
 また、非減価償却資産の元本の返済は、増資か利益処分によって賄うべきところであるが、問題が二つある。
 第一は、減価償却費として計上される値と借入金の返済額は、基本的に一致しないという事。第二に、税制上の課税所得と会計上の利益が一致していないという事である。原則的に、会計も税制も借入金の元本の返済は、何処にも計上しない。
また、利益を元本の返済の原資として認識していないし、損益上の費用としても認識していないのである。この点を考慮しないと経済主体は、事実上、借金、即ち、負債を制御できなくなる。今のように借金を悪として、正式に認知しなければ、いずれは、借金は制御する事ができなくなる。 それは借金に基づく産業である金融機関の居場所を奪うことにもなるのである。
 収益が悪化しても資産価値が拡大している時は、未実現利益を担保にして追加の融資を受けることができる。問題は、市場が縮小している時に資産価値が下落した場合である。経済主体は資金を調達するための裏付けを失って破綻する。
 この様な経済主体の動きに対してどう対処していくかが政策の要点である。また、税制度の役割でもある。ところが往々に政策や税制度が景気の変動に逆行し、状態を悪化をかえって促してしまう事がある。
 例えばバブル崩壊直後に、資産価値を急激に圧縮するような政策をとり、バブル崩壊によって収益力が低下している企業の資金調達力を更に悪くしてしまうといったと言った事例である。

 政策的に、資金を補助しても収益に反映されないと利益に影響を与えることはできない。なぜならば利益に反映されなければ企業評価、企業の信用力に結びつかないからである。


利益は、現金収支からではなく。
損益から派生した概念である。



 現金残高と利益とは違う。
 現金残高は、資金収支の概念であり、利益は期間損益の概念である。

 現金主義に基づく財政や家計には、利益という概念はない。

 現金収支と利益とでは計上する目的も働きも違う。
 その点を明確に理解し使う分ける必要がある。

 基本的に現在の経済主体を動かす原動力は現金である。故に、現金が底をついたら経済主体は機能しなくなる。
 それは、家計でも、企業でも、政府でも基本的に変わらない。現金がつきれば破産したと見なされるのである。破産すると経済的主体は奪われる。
 総資本は、債務残高を集計した値である。純資産、資本とは、株主取り分の残高で債務の一種である。言い換えればある時払いの催促なしの借金のようなものである。
 総資産というのは、債権の残高を集計した値であり。資産とは基本的に、生産財を意味する。
 基本的に会計上、債権、債務というのは残高をいい、ストックを形成する。

 損益では、複式簿記の文法にに基づいて経営実態を表現し、評価する。複式簿記とは、生産手段と投資資金の根拠、一定期間内の費用対効果を関連づけて経営実績を立体的に評価する手法である。

 故に、実際の経営主体の実態を明らかにするためには、収入と支出、収益と費用の関係が重要となる。その上で残高と利益の関係を見る必要がある。
 債権、債務、収益、費用の関係で重要となるのは差と比率である。
 利益は、一つの目安に過ぎない。ところが現在は、利益を絶対視し、更に善悪の基準に当てはめようとすらしている。そこに重大な錯誤がある。
 利益は、一定期間の収益と費用、債務残高と債権残高の差から導き出される指標である。

 資産である生産手段に依って生産された財を売ることで計上されるのが収益である。収益の本質は売り上げである。
 収益は、生産財を売って得た現金と債権である。
 費用というのは、収益を得るために費やされた効用である。故に、費用の目的は収益を上げる事にある。
 収益と費用は、決済の手段を言い、フローを形成する。

 利益と所得は違う。

 現代社会には余剰利益や借金を罪悪視する風潮がある。しかし、余剰利益や借金には自由経済の根幹をなす働きがある事を忘れてはならない。

 繰越金や内部留保は、悪であるとするから税に苦しめられ。
 借金は、悪であるとするから借金に苦しめられる。

 利益の働きの意味を正しく理解しておく必要がある。
 借金の働きの意味を正しく知っておく必要がある。

 借入金の返済の原資は、償却費と利益の和にある。余剰利益は、繰越金となって資本に組み込まれる。基本的に、借入金の返済額は、簿記上では計上されない。税引き後利益から充当される。利益処分上は計上されずに簿外で処理される。故に、余剰利益を否定すれば借入金の返済原資を失うことになる。
 余剰利益を課税対象としているかぎり、企業は慢性的な資金不足に陥る。それが企業の正常な働きを阻害するのである。つまり、一部の負債は、返せない性格のものなのである。
 法人税と所得税とはその性格が違うのである。税制を考える場合はこの点を留意しておく必要がある。

 現在の税制は、利益の効用を相殺するように設定されている。ただ、この様な設定をする場合は、利益の正しい働きを理解しておく必要がある。利益は、搾取ではない。指標である。しかも、利益から税と役員賞与と配当が支払われているのである。
 それでありながら、利益を長期借入金の返済に充当する事は禁じられている。そのために、経営主体は慢性的な資金不足に陥っているのである。


利益は、結果であって目的ではない



 利益は、一つの指標であって目的ではない。利益は、経営状態を測る指標の一つである。
 重要なのは、赤字か黒字かとか、絶対額ではなく。利益が表している経営状態である。問題となるのは、経営を取り囲む経済状態や市場環境、又、内部の収益構造、投資や開発がどう利益に反映しているかである。
 ところが、いつの間にか増収増益が義務付けられ、又、株価を上げるための手段に利用されるようになってしまった。
 又、徴税当局は、課税対象として見なし、利益そのものを否定するような税制まで現れるようになった。それは、利益を、余剰利得として罪悪視する傾向を反映した事とも言える。
 その証左に公益事業は利益に相当する繰越金を容認しない事にも見られる。しかし、その一方で公益事業の財政は慢性的に赤字になりやすく、継続することが困難である事も判明してきた。
 中には、公益事業は営利事業ではないのだから赤字は、税金で補えば良いのだという風潮まで生み出している。
 経営状態の指標である利益は多ければ多いほど良いというのではないし、赤字だから、即、悪いというわけではない。経営状態を表した指標であり、赤字だとしてもその原因が明らかであり、一過性のものであれば、赤字、即、経営破綻というわけではない。
 逆に、黒字だからといって過大な税を徴収されたり、掛け売りのような資金的裏付けのない売り上げが増えれば、資金繰りを悪化させ、場合によっては、経営破綻してしまうことさえある。
 経営を成り立たせているのは、現金収支である事を忘れてはならない。

 利益は、結果であって目的ではないのである。
 肝心なのは、安定した収入を継続的に得られるかどうかである。それを知るためには、先ず収益と所得の内容を見るべきなのである。
 収入と所得は、経営主体に対してお金が入力される事を意味する。

 通貨の流れは、現金収支として現れ。また、通貨の働きは、会計上、収益や所得、利益として表される。収益や所得は、経営主体や個人が一定期間に受け取ったか、或いは、受け取る権利を持つ量を言う。利益は、通貨の働きの目安である。
 経済的に破綻するのは、現金残高が不足する事による。赤字か黒字かは、通貨の働き、過不足の目安であって絶対的な基準ではない。

 企業は、継続する事が一つの大前提である。
 期間損益における赤字や黒字は目安である。企業の成否を決めるのは、資金収支である。
 企業は、貸借、及び、ストックとフローの均衡の上に成り立っている。企業が継続可能か否かの判定基準が損益均衡である。
 企業経営が成り立たなくなるまで競争を煽るのは愚策である。
 生産と生産手段が関係づけられていないと経済は有効に機能しない。例えば労働と分配が関係づけられていない経済の仕組みは制御する事ができない。

 資金の流れには、投資に関する流れ、金融に関する流れ、日常活動に関する流れの三つの流れがあり、収入と支出、貸しと借りの間を循環している。そして、資金は、基本的に残高が問題となるのである。
 資金の流れという観点から経済では、プラスかマイナスかというとらえ方ではなく。貸しか借りか、収入か支出かという観点で計算し、尚且つ、自然数で残高を有無と多寡を計測するのが原則である。

 投資は物の効能を形成し、財務は金の価値を構成し、日々の活動は、人の効用を構成する。これら人、物、金の働きを結びつけるのは、経済主体間のお金の交換、個々の経済主体から見るとお金の出入り、出納である。

 投資は物の効能を形成し、財務は金の価値を構成し、日々の活動は、人の効用を構成する。これら人、物、金の働きを結びつけるのは、経済主体間のお金の交換、個々の経済主体から見るとお金の出入り、出納である。

 投資は債権の元となり、財務は、債務の元となる。債権と債務の状態は、日々の活動によって定まる。債権と債務の関係によって資金の流量は規制される。また、資金の流量によって債権や債務の状態は定まる。

 ゼロ和を基調とした市場経済には、垂直的均衡と水平的均衡がある。水平的均衡は階層的になっている。
 経常収支と資本収支は垂直的均衡の関係にある。それに対し、経常収支の総和、資本収支の総和、貿易収支の総和等は水平的均衡の関係にある。経済主体間の総和も水平的に均衡する。
 そして、貿易・サービス収支の総和と所得収支の総和、経常移転収支の総和は、経常収支を階層的に形成する。


世界は、一つ



 世界は一つ。経済的空間で、世界を一つに調和させているのがゼロサム関係である。
 つまり、一はゼロに通じているである。

 経済は、均衡しようとする力と不均衡との間を揺れ動くときに発生されるエネルギーによって作動する。
 現代人は、短期的な均衡ばかりに目を奪われて長期的均衡を見落とす傾向がある。しかし、短期的な不均衡をどう長期的な均衡によって調節するかが、経済施策であり。短期的均衡、部分的均衡ばかりを問題にすると経済は、長期的均衡、全体的均衡がとれなくなり、経済は正常に機能しなくなる。

 経常収支と資本収支、支払準備残高は、ゼロ和である。
 経常収支、資本収支、支払準備は水平的にもゼロ和である。
 故に、全体的にもゼロ和である。
 貨幣現象は、短期的にゼロ和であれば、長期的にもゼロ和になる。
 垂直的にゼロ和というのは、経済主体の範囲内でゼロ和である事を意味する。
 水平的にゼロ和というのは、経済主体間を集計した総和がゼロである事を意味する。
 経済主体には、公的部門、民間部門、海外部門がある。
 更に民間部門は、家計と企業がある。
 公的部門は、財政収支と公的機関の貸し借りを言う。
 通貨の発行は、公的機関の借りを意味する。

 市場の貨幣的規模を決めるのは、通貨の供給量と回転数である。

 金融政策を実行しようとする際、また、実行した時、金利とか金融緩和政策が資金の供給量や流れにどの様な影響をどの部分に与えるかを見極める必要がある。

 財政は、投資と国家の収支、貸借からなる。単年度の収支は、財政の貸借に蓄積される。
 財政が黒字になれば、国債は減る。国債が減れば、民間、或いは、海外の負債は増える。
 民間の負債が増える事は、民間の消費と投資に影響する。
 民間の家計部門の負債が同じならば、民間企業の負債は増える。民間企業の負債は、金融市場と資本市場に反映される。
 財政収支は、通貨の増減に直接的に結びついている。公共投資が減れば、国の借金が減る代わりに、通貨の流量は減る。問題は、通貨の供給量と回収量の下限の問題である。

 海外への負債は、海外の資本市場に影響する。
 国家間にも貸し借り関係が生じる。
 貸し手は借り手があって成り立ち、借り手は貸し手があって成り立つ。
 問題は、限度と振れ幅である。それが貨幣の量を決める。
 国外への資金の流出は、海外に借りを作っているような事である。

 黒字国は、赤字国があって成り立っている。
 赤字国は、黒字国を支えている。
 国際的均衡は、国際的投資と国家間の貸借、通貨の総枠の問題である。
 基軸通貨によるのか、決済制度によるのかによっても世界経済の有り様は変わる。

 民間の資金は、所得という形で供給される。所得は、生産手段に対する対価として支払われる。民間の支出には、消費と投資がある。民間で資金が余れば、貯蓄し、不足すれば借金をする。貯蓄と負債は、短期的に見てもゼロ和であり、長期的に見てもゼロ和である。貯蓄と負債、そして、投資は蓄積する。

 反対給付、生産手段に対する対価のない所得は、お布施のようなものであり、取り分ではない。故に、経済的動機が希薄になる。
公共事業が破綻する原因は生産手段、即ち、労働や設備と報酬とが直接的に結びついていない事にある。そのために、生産手段の経済的価値と生産財の経済的価値が直接的に結びついていないのである。それ故に、原因と結果の因果関係が希薄であり、経済的な関連性が築けないのである。
 例えば、労働という生産手段とその結果としての報酬が直接結びつく事によって経済の統一性が保てるのである。

 ゼロ和を、物で言えば、生産と消費と在庫の関係はゼロ和である。
 故に、過剰生産は、消費と在庫を増やす。
 問題は、密度であり、量は質によって調整すべきなのである。
 生産も消費も量は質によって調整すべきなのである。

 物と金は違う。
 余剰なお金は累積する。
 余剰な物は、全てが累積されるわけではない。生鮮食料などは、すぐに腐ってしまうし、服装や家電製品などには流行廃りがあり、すぐに、陳腐してしまう。

 経済全体の調和は物質的な経済によって実現される。
 生産と雇用、消費、生産手段とをどう調和させるかが問題なのである。貨幣は、生産手段の一種に過ぎないのであり、全てではない。
 物の動向によって市場の規制を緩和したり強化し、また、経済主体間を競争させ、或いは、連携させるのである。また、国際投資、公共投資、民間投資を適切に促すのである。 そして、経済の制御を実現するのは、市場の仕組みである。

 国際投資は断じて戦争ではない。戦争にしてはならない。

 戦争の原因は、経済が主である。戦争の目的は、生産手段の争奪にある。故に、戦争に正義はない。あるのは勝敗である。その証拠に戦後賠償は、勝者が敗者に要求する物であって、敗者は勝者に何も要求できない。賠償というのは戦利品を言い換えているのに過ぎない。
 欲しい物を奪い取る。それが、戦争の本質である。奪われたくなければ戦うしかない。それが戦争である。
 主たる生産手段は労働力と土地である。故に、領土と支配が戦争の主目的となるのである。
 重要なのは自国の独立自尊であって相手国の独立を尊重できなくなり国民が戦いを望めば戦争は防げない。根底にあるのは国民感情である。平和を望むのならば根本の経済の問題を解決する事である。問題は、生産手段と生産物と分配をどう結びつけるかである。

 市場経済は、本来互恵的関係の上に成り立っている。自給自足を基本とした経済では、互恵的関係は生じない。
 生産は、互恵的関係では生産者は消費者を必要とし、消費者は生産者を必要としている。この様な互恵的関係の上に成り立っている社会で何らかの理由で一方が突然、他方の了解なしに関係を断つ切れば、双方の経済が成り立たなくなる。それが生きる為に必要な資源だとすると暴力的手段に訴えて資源を奪い取ろうとする。それが戦争である。
 消費者は生産者を必要とし、生産者は消費者を必要とする。貸し手は借り手を必要とし、貸しては借り手を必要とする。市場経済は、双方向の働きを前提とし、互恵的関係の上に成り立っている事を忘れてはならない。消費者生産者、どちらかが一方的に優位にあるというわけではない。ただ、その市場の環境によって力関係が揺れ動いていると言うだけなのである。
 故に、健全に経済は平和の上に成り立っているのである。

 戦争は、経済的問題が政治的問題に発展した上に起こる。戦争の根本には、経済的問題が隠されている。

 経済や政治の仕組みが上手く機能しなくなると、人間は、暴力的手段に訴えて問題を解決しようと計る。それが戦争である。

 自由経済は自由交易を前提としているように思われがちである。しかし、基本的に国内の資源で国民の需要を賄える国ならば、交易を前提とする必要はない。
 貨幣を循環させるのは、売り買い、貸し借りといった取引行為であり、また、取引行為の過程で生じる雇用だからである。
 何が何でも輸出が輸入を上回らなければならないというのではない。問題は決済の仕組みと資源の過不足の調整なのである。この点を理解しないと自由市場の機能を理解する事はできない。資源の過不足を決済システムが解消できなくなると暴力的な手段で解決しようする。それが戦争である。戦争の原因は、表面に現れる政治的、又は、外交的問題よりも経済的原因である場合の方が多いし、決定的な原因も経済的原因である事が多い。

 戦争とは何か。人はなぜ命を賭けて戦うのか。それは、生きる為である。これは一見、逆説めいて聞こえる。生きる為に命をかける。しかし、命をかけるのに値するのは、生きる事ぐらいしかない。人は、生きようとして生きられないと悟った時、必死になって戦いを挑むのである。
 人は生きんが為に、命を賭けて戦うのである。
 そして、経済とは、生きる為の活動である。故に、戦争は、経済の延長線上にある。経済の究極的な形こそ戦争なのである。翻って言えば、戦争をなくそうと思ったら、経済を円滑に機能させる事を考えるべきなのである

 世界は一つなのである。

 現代の経済は、結果だけが問題とされる。しかし、経済で重要なのは、動機であり必要性である。ただ作ってしまったから消費するというのでは、乱開発や資源の浪費は防げないのである。環境問題や資源問題が深刻化している今、必要な資源を必要なだけ消費できる仕組みが求められている。

 ゼロ和現象では、個々の経済主体単体が赤字か黒字かだけが問題なのではない。ゼロ和という事は、黒字の経済主体がある事は、他方に赤字の経済主体がある事を意味するからであり。赤字の経済主体がある事は、他方に黒字の経済主体がある事を意味するからである。ゼロ和という事は、全体の総和は常にゼロである事を意味し、何処にどの様な影響が現れるのかが解らないと赤字黒字の是非は語れない。
 故に、赤字が是か否かの議論をすべきなのではなく。赤字、黒字を引き起こしている要因、仕組みとその背後に流れている資金の働きを知る事なのである。

 経常収支が赤字であるという事は資本収支は黒字になる。つまり物を輸入するために不足した金は借りなければならない。故に、金不足を問題にする以前に、金を調達するための信用力を問題とするべきなのである。

 消費不足と過剰生産の歪みが経常収支の不均衡になる。そして、それが恒常的になると債務が累増し、是正しようのない不均衡になってしまう。

 貨幣経済で経済を動かすのは貨幣の循環運動。即ち、回転運動と波動である。
 故に、経済運動で重要となるのは、振幅と周期である。経済は、正と負、利益と損失の間を揺れ動いているのである。
 そして、一定の周期で経済主体間で正と負、黒字と赤字が入れ替わらないと一方的にストックは一方的に累積していくのである。
 経済の運動は、黒字が是か赤字が否という問題ではない。周期と振幅の問題である。
 経常赤字国の問題を解決するためには、経常黒字国との連携がなければできない。なぜならば、経常収支の総和はゼロ和なのである。

 赤字国の問題は、黒字国の問題でもあるのである。

 期間損益に於いて、損益を勝負事のように、赤字は負けで、黒字は勝ちのように判断するのは危険な事である。更にこれに競争が絡むと経済をあたかもマネーゲームのように捉える傾向が出てくる。しかし、経済の本質は、生産財の分配にある。この点を忘れると金だけが全てになってしまう。

 会計上の価値は仮想的価値である。
 また、金銭取引は、名目的価値を形成する。物の価値が帳簿上の価値と必ずしも一致していないのに対し、名目的価値は、帳簿上の価値と原則的に一致している。名目的価値は、キャッシュフローを反映する。
 生産手段には、減価償却資産と非減価償却資産がある。減価償却資産というのは、一定期間で予め決められた基準で価値が失われていく物を言う。それに対して非減価償却資産は、価値が相場によって決まる資産を言う。ただし、この操作は帳簿上の操作であり、実質価値を言うのではない。実質価値は、市場取引によって定まる価値である。


所得、収入、支出、収益、費用



 支出は、最終的には全て所得に還元される。支出の対極にあるのが所得であり、支出の有り様が所得の有り様にどの様な変化を与えるか。所得の有り様が支出の有り様に動繁栄されるかが、経済の動向を定めるのである。
 だからこそ、支出や所得の構成比が重要な意味を持つのである。

 所得は、収入であり、支出でもある。また、期間損益では、収益であり、費用である。
 資源である労働力が多様であり、欲求も多様であれば、一律に所得を規制する事はできない。
 なぜならば第一に、能力にも適不適、向き不向きがあり。その結果、労働力の成果に量的、質的な個人差が生じるからであり。
 第二に、嗜好にも好き嫌いに個人差があり、個人の生活環境にも個人差があり、その為に、消費を一律にする事ができない。支出を一律に規制する事ができないため結果的に収入を一律にする事ができない。
 その結果、所得を一律にする事は適正ではないのである。

 個人の資源は、労働力である。
 労働力にも質的、量的な差がある。
 人は、労働力という資源を売って所得を得る。

 この様な貨幣は分業を促す働きがある。
 又、貨幣は、非生産的労働を拡大する。
 非生産的労働は都市を形成し拡大する働きがある。
 都市は、商業のような非生産的労働によって形成されるからである。
 即ち、貨幣は都市化を促進する。

 家計は、所得と支出の有り様で決まる。
 支出は、消費と貯蓄に分配される。
 また、自分で自由に使える実質的所得は可処分所得である。可処分所得は手取り収入でもある。
 この可処分所得から借入金の返済額や地代家賃等の固定的支出を差し引いた部分が生活費に回される。
 家計支出の基本的構造は、古典的な衣食住に加えて光熱費(ガス、水道、電気)、通信費、交通費が固定的、必需的支出を構成する。
 この様な必需的支出、固定的支出が景気の底辺を構成する。
 景気の上層部は、贅沢品のような必需品以外によって構成される。
 むろん、食事や衣服のように必需品でありながら贅沢品の一部を構成するような支出もある。
 いずれにしても固定的支出は、借入金の対極をなし景気の底支えをする。

 所得、収入の有り様は、経済構造の骨格に影響する。
 安定して定収が保障されている社会では、必然的な長期的な借入を可能とする。
 つまり、借金が可能になることによって安定的な金融仕組みを構築することが可能となるのである。

 景気が不安定になり、雇用が不安定化すると実物市場に資金が流れにくくなり、投機的な資金の動きが活発になる傾向がある。
雇用の問題は、失業率だけではない。雇用の形態も重要な要素である。
 派遣や臨時雇いのように一定期間雇用が保障されていないような雇用形態が一般になると長期的借入が難しくなる。それは、金融の仕組みを著しく阻害することになるのである。

 金勘定で言うところの総資産、総資本、費用、収益を物の観点から言うと、生産手段と原材料と労働力、雑費を生産財に変換する事によって調達したお金を利益に変える事だと言える。そして、ここで肝心な人は、労働力として現れる。労働力は費用化される事によって分配される。

 為替の変動、例えば、円高は輸出産業に不離で、輸入業者には有利に働くと短絡的に言うが、物事はそれ程単純ではない。輸出業者だって原材料の多くを輸入に頼っている産業もあるのである。
 為替の変動に左右されない部分、即ち、生産手段が占める割合と時間差を見ないと単純に有利不利は語れないのである。
 問題は、為替の変動に左右されない生産手段の部分である。中でも人件費、即ち、一定水準に所得と雇用を如何に維持するかの問題なのである。

 所得には、質と量の違いがある。労働力にも質と量の違いがある。生産財にも質と量の違いがある。

 労働は、所得に直結している。所得は、生産財の分配に関わる。労働の質的違いがあり、労働は一律に語れないのである。そのために、所得も均一にする事が困難のである。労働の成果と実績に応じて所得を決めざるをえない。
 重要なのは、所得の平均と分散、労働の平均と分散、生産財の平均と分散をどう調和させて公平な分配を実現するかである。

 労働には、生産的労働と非生産的労働がある。生産的労働とは、直接的に生産に従事する労働であり、非生産労働とは、生産に、直接的には関わらない労働を言う。
 生産的労働で代表的なのは、農業や漁業、工業であり。非生産的労働の代表的なのは、金融業や芸能、スポーツなどである。また、事務職や管理職なども非生産的労働と言える。
 最近は、非生産的労働の重要性が高まっている。
 なぜならば、経済的不均衡の原因が生産手段や資源の偏在によるからである。
 結局、分配の根本は、生産手段によって得られた成果にあり、労働の質は、生産手段によるからである。
 生産手段がお金であれば、非生産的労働になり、生産手段が工場設備であれば、生産的労働になる。
 何を生産手段とするかによって労働の質は変化し、また、労働に対する評価も変わるのである。
 非生産的労働が重視されるのは、人口の分布と生産手段や資源の分布が一致していない事による。
 そのために、生産的労働に中する事ができない人が生じるのである。その様な地域の人間は、どうしても非生産的労働に頼らざるを得なくなる。
 それによって産業構造や経済構造に変化が現れるからである。

 労働には、生産的労働と非生産的労働がある。生産的労働とは、直接的に生産に従事する労働であり、非生産労働とは、生産に、直接的には関わらない労働を言う。
 生産的労働で代表的なのは、農業や漁業、工業であり。非生産的労働の代表的なのは、金融業や芸能、スポーツなどである。また、事務職や管理職なども非生産的労働と言える。最近は、非生産的労働の重要性が高まっている。

 重要な事は、生産手段、中でも労働の対価として所得が支払われ、それが個人や家族の取り分を確定しているという事である。この取り分によって生産財の配分が決まる。そのことで生産の制御と消費の制御が双方向に働くようになるのである。

 所得は、収入であり、支出でもある。また、期間損益では、収益であり、費用である。
 資源である労働力が多様であり、欲求も多様であれば、一律に所得を規制する事はできない。
 なぜならば第一に、能力にも適不適、向き不向きがあり。その結果、労働力の成果に量的、質的な個人差が生じるからであり。
 第二に、嗜好にも好き嫌いに個人差があり、個人の生活環境にも個人差があり、その為に、消費を一律にする事ができない。
 支出を一律する事ができないため結果的に収入を一律にする事ができない。その結果、所得を一律にする事は適正ではないのである。

 貨幣や市場という間接的手段を介さず直接的な手段によって資源の分配を行った場合、資金の全体的な環流は起こらない。

 労働力という資源を貨幣や市場という間接的手段を介さず直接的な手段によって分配する事は、人とお金の環流が起きにくい。
 人的、金銭的環流がなければ、社会は、停滞し、自浄能力を失う。社会は階層化し、社会変革は暴力的手段によらなければならなくなる。

 だからこそ所得が貨幣経済の核心なのである。

 所得とは、分配の権利、市場で財と交換する権利を意味する。
 所得差を金持ちと貧乏人の差として考えがちであるが、金持ちか貧乏かは、部分的な問題であり、局面である。経済の動向を判断する場合は、全体的な問題としても捉える必要がある。
 また、金持ちであるか、貧乏であるかは結果であって根本的には、その結果の原因やその結果を導き出す仕組みに問題がある。

 貨幣経済の有り様は、所得の総量と水準、所得の偏り、分散によって決まる。所得の総量は、経済の規模を規定する。所得の水準は、個々の地域や国の生活水準を表す。所得の分散や偏りは、分配の効率を表している。ただし、所得の問題の本質は、水準ではなく。取り分の問題である事を忘れてはならない。個々の経済主体間の比率が重要なのである。

 所得が取りざたされる時、所得の水準や平均が話題となる傾向がある。
 しかし、所得の問題は、本来、取り分、配分の問題であって水準の問題ではない。経済は、生産財の分配の問題なのである。
 故に、実際に問題となるのは、平均ではなく、分散である。

 むろん、水準や平均が重要でないと言っているわけではない。所得の働きは、平均値より、分散の方が社会にとって決定的な働きをしていると言っているのである。
 所得の水準は、その国が調達できる資源の水準を表している。それが平均の持つ意味の重要性である。それに対して、分散は、調達した資源の取り分を表している。
 所得の水準、平均値が低くてもバラツキの幅が大きければ、極端な資産家がいてもおかしくないのである。だかにこそ、平均値だけでは経済情勢は理解できないのである。

 所得の水準や平均が問題とされるのは、インフレーションやデフレーションが通貨の流量によって左右されるからである。しかし、それは貨幣の振る舞いであって経済の本来の働きは、生産財の分配にある。貨幣の動きが経済本来の役割を混乱させるが故である。
 実物は、有限であり、上限がある。貨幣価値は無限である。
 生産に於いて無駄を省くと言う意味では、何が必要とされているのかが明確にされる必要がある。本来、何に、何が、どうして必要なのかが価値を決めるのである。つまり、必要性が価値の根底になければならない。

 所得は、消費に繋がる。問題は、金の使い道、使い方なのである。支出は、経済のあり方と動向を左右する。消費の有り様は産 業の有り様を決める。

 消費にも質と量がある。


租税から税金への変化



 税制は、現代貨幣経済に対して決定的な役割を果たしている。今日、貨幣制度の根本手段である紙幣は、財政が生み出したようなものである。その財政は、歳出と歳入の均衡によって保たれている。そして、主たる歳入を構成するのが各種の税である。

 我々は、生まれた時から税金を納める事が当然であるかのように思い込まされている。つまり、税金は、所与の事柄なのである。
納税は必然としてそれを大前提で考えるように躾けられている。
 ではなぜ、税金を納める必要があるのか。本来、税を考える場合、その点を明らかにしないと論点は定まらないのである。そして、なぜ税金は必要なのか答えは、その裏腹に何に税金は使われているのか、或いは、本来何に税金は使われるべきなのかの問題が隠されているのである。
 税がなぜ必要かである。
 それを理解するためには、物納と金納の働きの違いを理解する必要がある。
 税金という言葉が示すように、我々、税はお金で納める者と思い込んでいる。しかし、税をお金で納めるようになったのは、明治時代以降である。それ以前は物納が主である。
では、物納と金納の何処が違うのか。そこに貨幣制度の重要な要素が隠されている。

 国民国家に於いて税は義務である。しかし、国民国家が成立する以前は、税は、権力者に奪い取られる物、搾取の手段だったのである。そして、税は、権力者の権力や富を守るために使われた。
 それが、国民国家が成立した以後は、税制の有り様は、税が国民の義務とされた時から税の本質は変質したのである。
 この点を正しく理解して置かないと税の持つ働きを正しく理解する事はできない。また、税を根底とした貨幣制度の意味も理解できない。
 税は、権力に強制的に奪い取られる物から、国民の義務として拠出する物に変わったのである。最初は、税は必ずしも「お金」で納めていたわけではない。物や労役で納める事もあった。故に、初期の段階では税は租税と言った。お金で納める事が定着する事で、税金というようになるのである。
 納税を金納、つまり、「お金」でする事で、経済の仕組みを根本から変えてしまったのである。税を「お金」で納める事、税金になった事で、単に、国家の仕事に対する対価と言うだけでなく。貨幣を循環させ、通貨の量を制御するための重要な手段、仕組みの一つとなったのである。そこから、税制度のあり方というのを捉えなければ、税の制度は設計できない。

 今の税制度は、歴史的な経緯によって形成されており、必ずしも個々の税の働きを計算されて築き上げられたとはいえない。

 税制は、財政を実現する為の仕組みの一部である。財政は、宮廷官房をその始まりとする。つまり、財政は、君主の生活をまかない、人民を支配するための道具手段だったのである。民衆は、財政は民衆の生産した物を搾取するための手段だという思いが未だにぬぐい去れないでいる。それ故に、民衆は税金は安ければ安いほど良いと言う思いがある。また、税を絶対額で捉えようとする。
 しかし、今日、税の多くは比率で表現される。そして、人頭税のように額で表される税の評判は極めて悪い。
 それではなぜ、今日、税は額ではなく、率で表されるようになったのであろうか。
 この事は、税の変質の本質が何処にあるのかも示唆している。つまり、税というのは、何らかの基本があって、その基本に対する比率、割合を基礎としているという事である。その基本は何か、何にすべきなのか、それは税の本質に関わる問題である。
 ある任意の全体があって、そして、その全体を構成する一部分が税だという事である。その全体の働きと部分の働きが重要となるのである。そして、この様なとらえ方の背景にあるのが、分配である。税は、分配の一種である。

 かつては、税は、絶対額が重要だったのである。それが現在では、比率が重要なのである。この様な変化は何が原因で引き起こされたのか。そこが問題なのである。

 物に課税するというのは、収穫物に課税する事を意味する。収穫に課税するというのは、収入に課税するというのとは重大な意味が違う。収穫に課税するというのは、生産物を課税対象としているのに対し、収入に課税するというのは、生産手段に課税する事を意味する。生産物というのは、例えば、お米のような物を指す。それに対して、生産手段というのは労働であり、又、土地や設備などである。収入、所得は労働に対する対価や地代、家賃等である。
 又、貨幣が浸透する事で、経済価値が物の価値だけでなく、権利や所有といった抽象的概念にまで広がったのである。
 収穫物というのは、成果、即ち、結果を対象としている。それに対して生産手段というのは、原因を課税対象としているのである。
 生産手段を対象とする事によって経済の対象は、物から解放され、経済全般の活動や働きを課税対象とする事が可能となった。この事は、経済活動全般を一旦換金化する事を前提として成り立っている。
 経済活動全般を換金化する事によって、金納は、経済活動全般を貨幣価値によって網羅する事になった。経済活動全般を網羅するという事は、有形の物の関わる事象だけでなく、無形の権利や労働、サービス等も経済の対象として認識する事が可能となる事を意味する。この事によって経済の事象として認識する範囲が飛躍的に拡大したのである。
 税が経済行為全般を網羅していない時には、自家消費部分や自給自足的な部分が含まれていたのである。税が経済活動全域を捕捉するようになると自給自足的な部分や自家消費的部分も許されなくなった。
 それまでは、課税対象として認識できる事象は、特定の物や行為に限られていた。
 それが、分配という働きを経済の核とする事を可能としたのである。
 また、租税から税金に変わった事で、税を測る基準が絶対量から相対数に相対数に変質したのである。つまり、一人一人の生産高ではなく。
 経済上、社会全体の総生産量が問題となるようになったのである。それは大量生産、大規模産業成立の伏線ともなる。
 だから、経済の基準が絶対額から相対比率へと比重が移ったのである。

 税の発生は、権力者の財政を担う必要から派生した。税は、当初、第一に、国王とその親族、一族の生活を賄うための資源。第二に、人民を支配するための資源。第三に、外的から自分達の領土を守るための資源の三つの要素に基づいて何らかの基準によって徴収された。
 この様な税は、支配階級と被支配階級が存在する事によって生じる。つまり、税は、支配階級が、被支配階級を支配するための手段だったのである。
 支配階級社会と被支配階級社会が分裂した国家において、税は、支配階級と被支配階級とを結びつける役割をしていた。そして、税によって支配階級は、被支配階級から資源を吸い上げていたのである。故に、被支配階級から見れば税は効率的な支配階級が搾取するための仕組み、手段でしかなかった。貨幣制度は、この関係を破壊する働きもあったのである。貨幣が環流する事で支配、被支配の関係が維持できなくなるからである。
 通貨は、循環する事で一つの経済圏を形成する。
 初期の租税は、物納であった。物納である場合は、信用制度を基礎とする必要はない。単純に必要な物資や用益を徴集して自分達が自分達のために消費すればいいのである。 現代では信用貨幣であり、信用の裏付けさえとれれば税に依存する必要はない。また、公共機関自体が収益事業をしても税に依存する必要はない。なのに、なぜ、税に依存する必要があるのか。その原因は、貨幣の働きにある。その点を理解しないと税制のあり方を規定することはできない。 それは今日の経済の仕組みが分配を基礎としていて税制度も分配のための仕組みの一部だからである。

 また、物納は、一定方向の流れでしかなく。物納は、物と金を結びる事ができないし、そのために、物と金の循環運動を起こさない。

 つまり、税は、その使用目的だけでなく。分配という目的が加わったのである。更に、通貨を循環させるという目的も加わったのである。

 物納というのは、収穫物や生産物、使役を市場を通さずに、直接、生産者が納めるのに対し、金納というのは、市場を一旦通して換金した上で納める事になる。この事によって直接生産に携わっていない物からも税を徴収する事が可能となる。
 また、市場を経済の基盤に据える事にもなる。市場経済が確立される事によって商業も勃興する事となる。
 それは、市民階級の形成にも影響するのである。
 それまで土地のような生産手段に縛られていた個人を生産手段から切り離し、自立できるようにも促す事となる。主たる生産手段であった土地と労働力の繋がりを断ち、労働者を土地から解放したのである。それは、農業や漁業と言った第一次産業から製造業、工業といった二次産業や商業と言った第三次産業へと産業形態を移行させる契機にもなったのである。
 税の金納は、貨幣経済と市場経済を不利不可分に結びつけ、社会の基盤に浸透させる効果がある。また、国民に均等に税を課す事にも繋がる。均等に税を課す事は、社会を構成する単位を家族から個人へと変化させた。この事が重要なのである。

 物納から金納への変化は、絶対額から比率へと変化させる事になる。また、貨幣を介する事によって特定の資源に偏っていた産業構造を多様な構造へと変化させたのである。それが近代産業国家への土台となったのである。この様な前提によって産業革命の下地は作られていったのである。

 近代貨幣制度が確立されてからの税制度とそれ以前の税制度では機能が違う。その点を理解しておかないと今日の財政の働きを理解する事はできない。
 近代的貨幣制度が確立される以前は、税は、宮廷と兵隊を養うための費用として徴収されていたのである。そこで重要視されたのは絶対額である。そのために、税で不足する部分を補うために国債が発行されたのである。
 今日の財政制度は、貨幣を市場に供給し、それを循環させるという働きが基礎にある。その一翼を担っているが税制度である。だから税を徴収する必要があるのである。そのために、重視されなければならないのは比率である。つまり、民間と財政、海外との均衡が重要となるのである。投資と、所得と消費の均衡でもある。
 物納の段階では、税と国債、貨幣制度とは必ずしも結びついているわけではない。税と国債、貨幣制度は財政を統一的に管理しようとする過程で結びついていくのである。


税の問題点



 企業会計では、長期借入金の元本の返済額、減価償却、利益、税、キャッシュフローの関係が重要となる。この事は、経済の根本に関わる問題でもある。

 企業会計と財政、家計の間に制度的整合性はない。企業会計は、期間損益主義に基づき、財政と家計は現金主義に基づいている。問題なのは、資金の流れと損益の間に時間的なズレが生じている事である。

 更に問題を難しくしているのが、税制が彼等の資金の流れや損益とはまったく違う原則によって形成されている事にある。

 現代の税制度は、期間損益主義、現金主義、実物主義が混在している。その点を前提として考える必要があるのである。

 財政収支というのは、通貨の供給と回収の結果である。供給した通貨を総て回収できれば財政収支は均衡する。
 しかし、税によって供給した通貨を総て回収するという事は不可能であり、そんな事をしたら貨幣制度自体が破綻する。
 通貨は、取引によって循環する。取引は、売買と貸借である。税によって捕捉できる範囲は、売買による部分である。貸借による部分は未実現の部分であるため課税対象には適さない上、売買取引だけでは通貨は環流しない。なぜならば、信用貨幣はその性格上貸借によって市場に供給され、回収されるからである。
 売買取引だけでは、通貨は、市場を環流しない。物流は、一定方向な資金の流れしか作り出さないからである。貸借取引が通貨の供給と回収をする事で、市場に資金の環流を引き起こすのである。
 市場に供給した通貨を総て回収したら通貨は環流しなくなる。それが貸借取引である。通貨を市場に流通させ続けようとしたら、総ての通貨を税収によって回収する事はできない。そんな事をすれば一時的にせよ、市場から通貨が消滅してしまうからである。市場に恒常的に通貨を流し続ける為には、市場に直接結びついて資金の供給と回収をする必要がある。
 そのためには、税収だけに頼らず、市場から直接資金を回収する手段、即ち、政府も営利を目的とした事業を一部取り入れるべきなのである。
 一定の周期による通貨の供給と回収によって通過の流量を制御する仕組みが大切になる。 つまり、一定の周期で通貨の供給と回収を繰り返す仕組みを導入すべきなのである。
 一定の周期で供給と回収を繰り返す仕組みを導入するためには、単年度の均衡を前提とせず、長期的均衡を前提とすべきなのである。
 専売や独占は、通貨の循環を妨げ、富の偏在を引き起こす。富の偏在は、通貨の滞留の原因となる。反対給付のない事業は、通貨の供給と回収という機能を果たせないのである。それは貸借取引と売買取引が関連しないからである。

 大前提は、中小企業の大部分は、未上場企業だという事である。
 非上場企業の場合、決算が赤字だと金融機関から融資を受けられなくなる。
 金利は費用計上されるが、長期借入金の元本の返済は、費用計上されずに、簿外で処理されている。
 資産を現金化しないかぎり、資産の持つ含み益や含む損は簿外で処理される。
 結局、事業を動かしているのは資金であり、資金の流出を最小限に留める事が経営をより安定化する仕組みになっている。

 資産を活用する為には、資産を換金し流動化する必要がある。

 この様な前提に基づいて現在の企業経営と経済の構造を明らかにする。
 先ず第一に言えるのは、経営者は、利益を平準化したいという動機がある。

 収益は未知数である上に、波がある。つまり、収益は不確実であるのに対して、費用は確実に出ていく。その上、利益に対しては税金がかけられ、配当も要求される。また、損失を出すと株価も下がって資金調達が難しくなり、最悪の場合事業の継続が危うくなる。

 資産を現金化すると利益に対して税金がかけられる上に価値が確定してしまう。そして資産は清算されてしまう。
 長期借入金の元本は費用計上されず簿外にある。金利は費用として計上される。
 利益配分は、税と配当と役員賞与によって構成されていて、元本の返済の原資は計上されない。
 長期借入金の返済原資は、税引き後利益と減価償却費の和である。故に、資産の中でも大きな部分を占める不動産の債務は残される。そのために、不動産は投機の対象とされる事がある。
 減価償却費の中には、不動産の償却は含まれていない。不動産の価値は、相場によって定まる。
 資産は、取得原価主義を基本としている。故に、時価と簿価との差が含み益、含み損として簿外に存在する。資産は、担保として資金の実質的調達原資となる。
 資産を売って換金すると経営者は資産を換金しないで資金を調達したいという動機付けがされている。
 資産を担保とした借入によってつなぎの資金を調達する。つまり、資産価値が上昇している事を前提とし、収益に基ずく資金と金融機関からの借入の資金によって事業は運営されている。これが大前提。

 重要なのは、金利+元本の返済と関係である。例えば、元利均等返済の場合、最初、金利負担が大きいために金利が利益を圧迫するが、段々に元本の返済額と金利との比率が逆転し、利益を過大に出すようになる。それに対して、支出は均一であるために、税引き前の支出に影響はない。問題なのは、利益に対して課税されているために、償却と返済が進む事によって利益が過大に計上されるようになり、税負担が過剰になる事である。

 一般に償却が終わると莫大な利益を上げられるようになる。しかし、それが必ずしも現金の残高を増やす事に繋がるとは限らない。元本の返済が表面に現れないからである。また、法人税などは、課税対象額が利益を基として計算されている事にもよる。そのために、利益が増加する事によって資金繰りがつかなくなり借金が膨れあがる事さえあるのである。その様な状況や構造を理解した上で税制度は設計されなければならない。

 今日の税制の一番の問題は、税制の仕組みと期間損益の仕組み、実際の資金の流れとの間に不整合なところがある事である。

 特に、利益に対して課税する仕組み担っている税制度を設計する場合は、利益と現金収支との関係を正しく理解していないと、勘定合っての銭足らず。最悪の場合、黒字倒産を引き起こしかねない。利益があっても現金があるとは限らないのである。

 経済状態によって利益の持つ働きに違いが出てくる。即ち、デフレーション下における利益の働きとインフレーション下の利益の働きには質的な差が生じる。それが税金の働きにも質的な差を生じさせる場合がある。


世界は多様である。



 大量生産、大量消費は、商品を単一化、標準化させる働きがある。即ち、大量生産や大量消費は、商品を平均化するのである。
 大量生産、大量消費には、平均化することで個々の製品の持つ個性を相殺する働きがある。
 そして、この点が大量生産、大量消費の欠点なのである。
 個人の欲求を一元一様のものとするか、多種多様なものとするかによって経済に対する考え方は決まる。大量生産主義も共産主義も方向性は共通している。即ち、大量生産主義も共産主義も生活の均一化の方向に向かっているのである。

 人間の欲求は、一律一様ではない。それが大前提である。生活の均一化は、人間性に背いている。故に、経済の自律性に背いているのである。
 豊かさとは、多様さにある。市場の成熟は、多種多様化させる事である。

 個々の部分を比べる場合は、差が重要となり、全体の働きを調べる時は、比率が重要となる。

 全体的な均衡と部分的な均衡は必ずしも一体ではない。
 自由経済では、部分的不均衡が全体的均衡の前提でもある。
 部分的不均衡をどう全体的に調和させていくか、それが自由主義経済の要諦である。

 世界は、多様である。世の中も多様である。経済も又、多様である。
 世界や経済を統一できるのは神のみである。人は神にはなれない。
 故に、一人の人間が世界を支配するような仕組みを考えるのは神への冒涜である。
 世界の基礎となる仕組みは、多様性を前提に構築されるべきなのである。


市場に絶対的原理は存在しない。
それは神への冒涜である。



 市場は人為的な空間である。自然空間のように放置すればなるようになる空間ではない。
 この事は、市場の原理を考える上で充分留意しておかなければならない点である。

 市場によって生起する事象による責任は、人にあるのであって神にあるわけではない。
 市場は人が作り出した事なのである。

 市場は、多くの小さな市場が集まって全体の場を構成している。市場は一見雑然としているように見えるが、よく観察すると何らかの法則が働いている。
 数には、対象を特定の性格に依って分類する働きがある。特定の性格に依って分類された対象の集合が類である。
 貨幣も数に基ずく指標である。貨幣は、必然的に特定の性格によって財を分類する性質がある。
 市場は取引によって成り立っている。取引は、物が生産され消費されるまでの個々の段階や産業固有の性格に依って違いが生じる。
 個々の市場は、この様な取引の形態の違いによって構造や特性、働きに差が生じるのである。
 市場、経済の仕組みは合目的的な仕組みであり、人工的な仕組みである。
 市場や経済の仕組みは、自然に成る仕組みではない。
 競争は、経済や市場の目的を実現するための手段の一種であり、原理のような法則ではない。経済の目的を実現する手段には、提携や連携、協定等、競争を抑制する手段もあるのである。
 収益力を保ちながら、競わせるべき処を競わせる。それが原則である。ただ競わせるだけでは、収益力は保てなくなり、結果的に寡占独占状態を招くのである。

 現代社会では、あたかも競争する事が目的であり、原理であるような考え方が蔓延している。しかし、競争は手段に過ぎない。競争が全てではない。

 競争が悪いと言っているのではない。また、競争は不必要だと言いたいのでもない。
 競争は、市場を機能させる手段の一つであって何らかの原理のような法則ではないと言いたいのである。競争は万能薬ではない。
 無秩序な競争は市場をかえって荒廃させ、無原則な競争は寡占・独占を招く。
 法に基づく競争であれば、市場競争は不可欠である。

 競争は市場が拡大する局面に於いては有効だが、成熟、或いは、縮小している局面では、市場を荒廃させてしまう危険性がある。

 なぜ、競争が必要なのか。それは経済行為が相対的な認識の上に成り立っているからである。

 貨幣経済下での経済的価値は、貨幣価値によって計られる。
 貨幣価値は、交換価値である。交換価値は、それ単体では成り立たない価値である。
 即ち、交換の手段である貨幣よって形成される貨幣価値は相対的価値である。
 貨幣価値を基礎とする経済的価値は相対的価値である。貨幣価値を構成する数字も、本来、相対的な事象である。

 経済的財は、単体では経済的価値を成立できない。
 経済的価値は相対的価値だからである。経済的価値を構成するためには、比較対照する対象が前提となる。
 財とその他の対象を比較対照する手段の一つが競争である。

 また、自己は間接的認識対象だという事、そして、認識は相対的になされる。
 これら点は、競争の作用の根拠にもなる。外界に対する働きかけを通じて、自分を知り、その上で、自分が何をすべきかを明らかにする。この外界への働きと内部への働きが作用反作用の関係をもたらす。
 外界との働きと内面との働きの調和を保つために、競争は、有効な手段の一つである。
 市場は、競争を通じて外部の欲求と内部の個々の部分の働きを調整し、適正な経済構造を形成するのである。
 そのために、市場には常に経済的価値を上昇させようという圧力と下降圧力が働いている。
 この様な競争には、経済的な目的がある。目的に沿った制約が必要なのである。無原則、無規則な競争はかえって弊害となり、寡占独占の原因となる。
 何度でも言うが、競争は万能でも原理でもない。一つの重要な手段である。また、絶対的手段、唯一の手段ではなく、競争に変わる手段もあるのである。目的に応じて手段は選ばれなければならない。競争は合目的的手段なのである。
 主体は認識主体であると同時に間接的認識対象である。この関係は、個人のみならず個々の企業にも当てはまる。つまり、企業は競争を通して自分の生み出す価値を、はじめて、計算できるようになるのである。
 競争は、作用反作用を促進し、絶対的基準を相対化するのである。自分を相対化する事で価値を知る事ができるのである。その手段の一つが競争であり、競争によって市場の働きが形成される。

 間接的認識対象だからこそ、競争が有効なのである。
 主体である存在は、認識が相対的があるが故に、競争によって自己の実体を知ることができる。自己の実体を正しく認識するためには、競争が有効なのである。
 自己を外部に働きかけ、その働きかけを自己の内部に取り込む。外部への働きかけによって外部も糾すし、内部も改善する。それが競争本来の機能である。それ故に競争は有効なのである。

 自己を外部に投影し、それによって自己を知るという関係は、作用反作用の関係を生み出す。つまり、外部への働きかけによって内部の働きを牽制するのである。

 作用反作用は、存在の問題ではなく、認識の問題である。
 そして、この様な作用反作用が資金の循環によってもたらされる。又、資金の循環を促進する。
 また、競争による相互牽制作用によって生産や仕事、組織の効率化が更に促進される。

 個々の企業を効率化し、また、自浄し、発展するためには、自己を正しく認識する必要がある。自己を正しく認識する為にに競争は有効な手段なのである。

 競争を成立させるためには、前提がある。前提の一つが規制、ルール、そして仕組みである。規制、ルールのない争いは、競争とは言わない。闘争である。規制をなくせと叫ぶ者は、市場から競争をなくせと言っているのに等しい。競争はルールがあるから成り立つのである。
 仕組みとは構成である。

 消費には、一定の周期がある。その周期も日に三度の食事といった一日を基本とするもの、一週間を基本とするもの、一ヶ月を基本とするもの、一年を基本とするもの、一生を基本とするものと言うように消費の対象によって周期にも違いが生じる。そして、消費の周期は支出にも一定の周期をもたらし、それが景気の変動に一定のリズムを作る。

 消費の有り様が産業の有り様を決まるようにすべきなのである。しかし、競争だけに経済を委ねると必需品も消耗品ほど過当競争に陥り、市場は縮小均衡へと向かい産業としては衰退していく。必需品、消耗品を担う産業の多くは、成熟産業なのである。

 市場を誘導するのは、むしろインセンティブであり。利益がある方向に産業は、発展しようとする働きがある。
 良い例が、エネルギー政策である。環境問題を解決するためには、徹底した省エネルギーが必要である。しかし、省エネルギーを推進する事は、エネルギー業界にとって必ずしも利益に繋がらない。そのためには、省エネルギーが何らかの利益になるような施策を講じる必要があるのである。

 必需品、即ち、衣食住、光熱費、通信費、交通費を担う産業の多くは、社会のインフラストラクチャー、下部構造を構成し、コモディティ産業化、汎用産業化していく。
 必需品の多くは、初期投資が大きく、変動費の幅が小さくなる傾向がある。そのために固定費の負担が大きく、負債が累積する傾向がある。
 損益分岐点は、産業の収益、損益状況を決定づける重要な要素である。損益構造を無視して経済政策は成り立たない。全ての産業を一律に規制しようとするのは、乱暴である。況や、全ての規制を撤廃しろというのは、乱暴どころか無謀な事である。
 競わせるべき処は競わせて、協調すべき処は規制すべきなのである。

 国家社会が、個々の産業に何を期待しているのか。そして、国際分業をどの様にして成り立たせるのか。それは、それぞれの国家が国家の置かれている位置や状況に合わせて選択すべき事である。そして、世界的に見てそれが公正な分配を実現する為の仕組みとなるようにしていくのが外交や政治の取るべき道なのである。

 先ず自分達がどの様な国や社会を望み。そして、自分達が望んでいる社会や国にするためにはどうしたらいいのかを明らかにする事が先決なのである。

 その上で、一体、何処で何を競わせるのか。価格なのか。品質なのか。機能なのか。デザインなのか。性能なのか。サービスなのかが重要なのであり、それは商品の性格に依っても異なってくるのである。

 何が何でも競争をさせれば何でも解決できるというのは一種の信仰である。競争は手段であり、手段である競争は合目的的な行為である。故に、競わせるのならば、その目的を明らかにしなければならない。
 無原則に争わせるのは、競争ではなくて闘争である。
 目的に応じて、何をどの様に競わせるかを予め定めておく必要がある。
 何でもかんでも競争させろと言うのは乱暴な話である。
 前提となる条件が商品によっても違っているのである。
 公正な競争というならば前提となる条件や環境を統一すべきであるが、未だかつて公正な競争が成り立ったためしはない。第一、労働条件や賃金格差を統一するためには、政治的に統合されていなければならない。
 労働条件以外に、生産手段の所有権の問題がある。また、技術格差、資金力の違い、地理的条件の差等がある。

 貨幣や市場という間接的手段を介さず直接的な手段によって資源の分配を行った場合、資金の全体的な環流は起こらない。
 労働力という資源を貨幣や市場という間接的手段を介さず直接的な手段によって分配する事は、個人とお金の環流が起きにくい。社会変革は暴力的手段による事になる。


終わりに




 経済や市場の目的や手段を決めるのは政治の力である。故に、政治家は、経済的に中立的立場にあらなければならないのである。

 経済を政治的に利用する事は得策ではない。
 なぜならば、経済的破綻は、戦争や飢餓などの予期せぬ結果を招く危険性があるからである。

 現在行われている経済政策の殆どは、対処療法的な事に過ぎない。なぜならば、資本主義経済の仕組みが正しく理解されていないからである。資本主義の前提が理解されていないからである。資本主義は、このまま放置すれば、経済が成り立たなくなり、破綻してしまう。
 資本主義を貨幣的側面からのみ理解しようとしている事に一因がある。お金は使うとなくなるというのは貨幣から見た事で、物という側面からすると貨幣価値がなくなるわけではない。
 元々、貨幣は交換するという行為で成り立っているのである。お金を使うと言うからと言ってお金が作りだ価値まで失われるわけではない。

 博打や投機は、ある意味で貨幣の働きの性格の本質を現しているのかもしれない。貨幣の働きが実体から乖離し、数値的な事象、特に、確率統計的な事象に特化してしまうと博打や投機のような事象になってしまう。博打や投機の何処に問題があるのか、それは、博打や投機には、生活実態がないという事である。

 資本とは何か、利益とは何か。その事を明らかにしない、或いはできないままに、単なる貨幣的事象として資本や利益を捉えている。そして、利益や資本を何の為に形成するのかを理解していない。
 資本主義も、民主主義も、本質は、観念ではなく仕組みにある。そして、民主主義の仕組みも資本主義の仕組みも人々を幸せにする事を目的として設計されてなければならない。金儲けは幸せにする為の手段に過ぎない。それが、資本主義の目的が金儲けにすり替わった瞬間、人々を幸せにするという本来の目的が失われ、数の論理に支配されるのである。

 貨幣とは、虚構なのである。貨幣は、人々を幸せにする為の道具に過ぎない。
 人は、借金や費用を忌み嫌うけれど、人間性は、むしろ、借金や費用に現れるのである。
 費用は人件費の固まりであり、所得と表裏をなしているのである。又、借金は、紙幣の根拠である。
 費用と借金がなければ資本主義は成り立たないし、費用と借金の働きが資本主義の根底を形成しているのである。

 経済が本来の目的を喪失し、それに代わって政治権力が経済に深く関わるようになると軍拡競争の陥り、軍事費に歯止めがきかなくなる危険性がある。
 軍事費の占める比率が高まると経済体制に不当な歪みが生じる。
 なぜならば、軍事費は非生産的支出だという事である。
 軍事費は拡大再生産には繋がらない。
 過去の歴史を見ても国債の発行は、軍事目的である場合が多い事を見ても解るように軍事費というのは財政に過度な負担をかける。
 財政を破綻させる原因でもある。
 政治と経済は、互いに独立した関係を保つような仕組みにすべきなのである。

 経済的事象は、予測すべき事なのか、予定すべき事なのか。多くの人は、経済的事象は予定すべき事であるが、予定するどころか、予測もできない事だと決めつけている。しかし、予定できないのは、予定しようとしないからである。
 経済を自然現象の一種と同等の扱いをして、或いはそれ以下の扱いをして予測すらできないとしていないだろうか。予測できないとするために、生産も消費も制御できず、資源の浪費が止まらないのではないのか。また、乱開発によって自然環境が破壊されているのではないのか。戦争がなくせないでいるのではないのか。経済は、人工的な仕組みの上に成り立っている。人間が作り出した物なのである。
 人間が作り出した機械は、少なくとも、一つ一つ部分は制御している。例えば飛行機や鉄道は予定通り、運行する事は可能である。自動車は道路状況に左右されはするが、制御不能なわけではない。飛行機や鉄道を予定通り運用するためには、何らかの決まりが必要である。何の決まりも作らずに、競争で道路を走らせたらたちまち渋滞するに決まっている。それを以て予測不可能だというのは、単に自分の無能をさらけ出しているのに過ぎない。経済を予定通りに運用しようとすれば、予定通りに経済が動く仕組みを作る必要があるのである。

 忘れてはならないのは、この世にある物は、総て神からの借り物だという事である。
 自分の肉体ですら、自分の自由にはならない。
 最後には総て神にお返ししなければならない。
 自由になる物があるとしたら、それは自分の魂だけである。
 その自分の魂の自由を物欲によって奪われてしまったら生きる事の意義すら失ってしまう。
 経済の本質とは、この点に総てが凝縮しているのである。
 財産や富を築く事が経済の目的ではない。況んや人生の目的にはなり得ない。
 人生の目的は、魂を解放し、自由に生きる事なのである。
 そのためにこそ経済は意義があるのである。
 それが自由主義の本質である。

 今の経済や科学は哲学がない。
 今の哲学には、経済や科学がない。それ故に社会全体としての整合性が失われているのである。
 経済や科学に哲学がないのは、または、哲学に経済や科学がないのは、神が不在だからである。

 私は凡人です。私は、神になろうなんて思わない。聖人になろうとも思わない。超人や英雄、君主になろうとも思わない。天才になりたくてもなれないし、有名人になりたいとも思わない。
 不必要に金を儲けたいとも思わない。ただ人である事を極めようと思う。金を儲けても人生を狂わせたらつまらない。金のために生きるような生き方はしたくない。
 地位や名誉を守るために自分を見失うような生き方をしたいとも思わない。
 金の奴隷や亡者にはなりたくない。友や仲間を大切にしたい。友や仲間を裏切ってまで出世したいとは思わない。
 人を欺いたり、騙したりするような生き方は金輪際いやだ。人を信じ、助け合って生きていきたい。
 世の為人の為に役立つ生き方がしたい。人を妬んだり、やっかんだりするような生き方はしたくない。
 家族と憎しみ合い、いがみ合うような人生は送りたくない。愛する人に優しい生き方がしたい。浮気を自慢するような生き方はしたくない。愛する人を守っていきたい。愛欲に溺れて家族を捨てるなんて愚かな事だ。
 自分に愚直なほど正直に、誠実な生き方をしたい。
 当たり前な事だから、当たり前に大切に守っていきたいのだ。当たり前でない生き方なんて望まない。
 だから、神と共に生きていきたい。
 自分より優れた人の話を聞き。仕事をしては、共に泣き、笑い、分かち合う。仕事が上手くいった時、抱き合って喜び合い。
 悲しい事に出会ったら、肩を叩いて慰め合う。私は、信じ合い、助け合える人と人の関係が作りたいだけなのです。
 そして、最後までその関係を守りたい。
 高級な老人ホームで一人孤独な死を迎えるくらいなら、貧しくとも信じ合える家族や友に最期を看取られたい。
 平凡な人間、普通の人間でありたい。何の取り柄もなく、平凡な人間であるからこそ、信仰を遂げる事ができるのだと信じます。そして、名もなき平凡な人達こそ神を出現させる事ができるのだと思います。
 それが神の偉大さの証です。
 それが自由主義であり、民主主義の根源です。

 人は、パンのために生きているのではない。生きる為にパンを食べるのである。
 金儲けの為に、金を儲けるのではない。金儲けは、手段であっても目的にはなり得ない。 金儲けの目的は、人々を幸せにすることにある。金儲けのために、家族の幸せを犠牲にするのは本末転倒であり、愚かなことである。
 誠実に生き、幸せになろうとした時、経済は始まるのである。経済は決して金儲けの事ではない。
 歴史は、事実にはなりえても真実にはなり得ない。
 事実は、認識の問題であるが、真実は、存在の問題である。
 事実は、あると言えばあるし、ないと言えばない。
 真実は人は助け合って、或いは、助け合わなければ、解決できない深刻な問題が山積されているという事である。
 つまり、経済は人々が助け合う事を前提としている。人々が助け合って生きていく事を模索する事が経済学の目的なのである。資源や生産物を独占する術を学ぶ事を経済学と言うのではない。
 助け合って生きていく事。分かち合って生きていく事。それが経済である。
 それが神の意志である。真実にこそ神の意志が隠されている。
 史実に囚われて真実から目をそらすのは愚かである。
 人が滅んだとしてもそれは神故ではない。人の愚かさ故である。
 神は、救いを求めぬ者を救いはしない。なぜならば、救いを求めぬ者を救いようがないからである。
 人類を滅ぼす者がいるとしたら神を信じぬ者であろう。



       

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