今なぜ、民営化なのか。
 民営と官業の違いを比較するとその意味がわかる。
 第一に、官業には、倒産がないという事である。第二に、会計的論理が働かないという事である。第三に、民間は、利潤を追求するのに対し、官業は、利潤の追求を目的としていない。第四に、官業は、市場の外にある。つまり、市場原理が働かない。第五に、経済的に自律していない。

 実物経済から乖離した場合、家計や民間企業は、破産する。しかし、国家は、破産することはないと思いこんでいる節がある。しかし、本当に、そうであろうか。民間企業では、倒産すると、経営者は、厳しくその責任を問われる。個人保証などしていたら、全財産を失うことも、稀ではない。場合によっては、刑事責任を問われることすらある。
 それに対し、官業の場合、利益が出なくとも、仮に、経済的に破綻したとしても、責任を問われることはない。なぜならば、元々、利益を上げる事を目的としていないからという理屈でである。つまり、官業というのは、最初から経済を度外視したところで設立された。だから、経済的に破綻しても、責任は問わない。問わないどころか、高額な退職金をもらって、慰労されたりもする。彼等が職務を全うできなかったのは、たまたま運が悪かったか、能力不足だからである。むしろ、善意でやったのだから、許されるべきだというのが、彼等の論理である。一方で民間は、結果が全てである。結果が悪ければ厳しく糾弾される。しかも、厳しく糾弾するのは、官僚である。官僚のモラルハザードが問われても仕方がない。

 しかも、会計の論理が働かなければ、情報の開示の基準や手続きが確立されていないことを意味する。情報が開示されなければ、内部においても、外部においても、経済性に対する適正な相互牽制が働かない。それは、内部からも、外部からも軌道修正や是正の機能が働かないことを意味する。

 官業は、利潤を追求していない。というより、そう思いこんでいる。だから、財政は、破綻する。利潤を追求していないという事は、経済的な責任を持たないことを意味する。官業にとって、本来、納税者は、雇用主であり、お客様である。しかし、官僚には、この自覚が稀薄だ。だから、納税者は、取り締まる対象にしか移らない。そこに、官僚の奢りと傲慢さがある。しかし、訳もなく取り締まるというのは、暴力に過ぎない。

 財政の問題は、究極、官僚機構の問題に帰す。

 政治家は、古来、経済と政治を切り離して考えてきた。故に、政治の世界に国家運営という発想は、あっても、国家経営という発想はなかった。
 共同体内部には、本来、運営的機能と経営的機能がある。運営的機能が政治的機能であり、経営的機能が経済的機能である。
 従来、官僚は、政治的責任を問われることはあっても、経営責任を問われることがない。この事が、財政問題の規律を失わせる原因となっている。
 それが、予算制度や官僚の倫理をおかしくしてきたのである。

 そのうえ、マスコミの多くは、あたかも、官と民が対立する事が、いいように、思っているようにすら見える。官は、公共の福祉に則り、民は、私腹を肥やすという偏見からである。官も民も本質において別はない。経済効率を追求する事に変わりないはずなのである。ところが、経済効率を追求する事は、道徳に反するという間違った考えに多くのマスコミは、支配されているのである。官と民の不適正な癒着や不正行為は、正されるべきである。しかし、だからといって官と民が敵(かたき)のように対立するのも行き過ぎである。
 政、官、財、労が協調することは悪い事なのか。むしろ、一致協力しなければ解決できない問題も多くあるのである。

 中央集権的な体制が強まると、財政は、官房学なものに変質していく。つまり、財政がもっぱら官僚機構を維持するための経費的な意味合いしか持たず、国民の生活に目が向いていない。それは、官僚機構が巨大化し、それに伴って中央集権的体制が強化された結果である。更に、官房学的な発想は、行政官の御上意識が高じさせ、権力志向が強くする。

 国家理念や国家目的の追求という使命が忘れられている。
 税制度によってフィードバック機能が働かない。自分達のやった仕事の成果が、社会的に、どのような評価を受け、どのように役立っているかのフィードバックが直接的、かつ、具体的に為されていない。予算で決められた事を、決められたとおりに、執行することだけが求められる。不具合や不適合なことが見つかっても自分達の判断で修正することができない。又は、煩雑の手続きによって阻害される。やりたい事、正しいと思った事でも、自分達ではできない。一見多大な権限、権力があるように見えて、実は、無力である。そこから、事なかれ主義や日和見主義が生まれる。
 さらに、労働の成果と報酬とが直結していないため、自分の仕事に対する意欲や責任感がもてない。無気力、無責任体制が増長される。
 与えられた仕事をそつなくこなしていれば、少なくとも、現在の自分の生活は、保証され、老後の生活費も確保される。これでは、誰もすすんで責任をとろうとはしなくなる。そのうえ、労働組合の力が強ければ、事なかれ主義に陥るのは、当然の帰結である。
 なおかつ、身分保障されているとなれば、あえて冒険するのは、愚かな行為である。

 会計的機能を行政機構が持っていない事によって、他の経済主体との関係が確立できないでいる。結果的に、行政機構が市場経済に結びつかない。市場経済に結びつかないことによって利権が生じる。つまり、官業は、利権によって成り立つ、いわば利権経済である。利権は、不正を発生しやすい。
 政治家や官僚は、利権という経済的動機によって行動している癖に、経済的目的を軽視している。そこに不正が入り込む余地が生まれるのである。

 会計の原則は、収益と費用対応、効果対費用という関係から成り立つ。つまり、収入と支出のバランスの上に成り立っている。ところが、官業は、収入と費用、収入と支出が分離している。
 収入をもっぱら税に頼り、支出を政治に任せると、この収支はとれなくなる。選挙に勝たなければ、政治家にはなれない。必然的に、政治家は、自分の選挙区や自分の推薦母体の利益代表となる。そうなると、政治の仕事は、もっぱら、支出に向けられてしまう。
 収入が、税という形で徴収されるために、役人は、自分の労働と報償とを直接的に結びつける動機が欠けており、自分の仕事に対する、疎外感がある。官僚は、報酬は、自分の労働に対する対価という意識が乏しい、当然、自分の仕事に対する責任感が、稀薄になる。
 一方において国家収入と自分の仕事とが結びつかず。支出が自分達が生み出すコストだという自覚がない。また、組織、機構が巨大になると一種の疎外感、つまり、自分の労働を位置付けたり、成果と結びつけるのが難しくなる。収入と支出が、自分の存在や仕事に結びついていないところに問題がある。たとえ、危機に陥っても、危機感が希薄か、たとえあったとしても、無力感の方が勝ってしまう。寄らば大樹の陰、親方日の丸式の考えで、差し迫った危機感が生まれにくいのである。
 これは、国家に限らず、組織が巨大になると同じ現象が発生する。
 財政赤字が、その典型である。多くの官僚は、財政赤字や財政破綻が自分の降りかかってくるという自覚がなく。その責任は、国民か、政治家にあると思っている。

 国家権力の中枢が、非市場型産業に依拠しているという事が重大なのである。そこでは、自給自足的共同体の価値観が支配しているのである。

 財政における公共事業の働きを考える時、該当公共事業が経済に果たす目的と経済の規模が重要な要件である。車のエンジンを決めるのに、一般道路を走る車にジェットエンジンやレーシングカーのエンジンは、不釣り合いであろうし、タンカーに船外機のエンジンをつけるのは、馬鹿げているし、小型ボートにタンカーのエンジンをつけること自体、狂気の沙汰である。公共事業も同様であり、目的や規模を考えないで闇雲に、金をつぎ込んでも自滅するだけである。

 そのもの自身が原因で起こった結果は、そのもの自身へ帰す。又は、還元する。これがフードバック機能である。これが、官僚機構に働かない。フィードバック機能が働くためには、一つの働きを一方向のみの作用として捉えてはならない。人の意識が相対的認識に依存する限り、一元論的な捉え方では、物事の位置づけが不可能だからである。作用反作用の関係で捉えるべきなのである。どうしても、二元論的、多元論的な認識にならざるをえない。故に、会計学的な論理は、二元論である事によって有効なのである。ただし、これは、認識の問題であってそのもの自体の問題ではない。
 そのもの自体が単元的であるか、二元的であるか、多元的であるかが問題なのではない。こちら、つまり、自己の認識が単元的であるか、二元的であるか、多元的であるかの問題なのである。
 組織が自律的であるためには、フィードバック機能が働かなければならない。そうしないと、自己認識ができない。自己認識ができないと、自己制御ができなくなるのである。自己制御ができなければ、自浄作用が働かない。そうすると、軌道修正ができなくなるのである。

 官僚的空間が作り出す場の価値観や人生観が問題になる。金儲けがいけないなんて思いこんでいたら、財政を破綻させても、俺は、私腹を肥やしたわけではないとか、間違ったことをしてないのに、なぜ、責められる必要があるとか、結果は、結果、もらうものは、もらうと行った行動に現れる。結果と責任が結びつかない。自分のやった事と結果が結びつかない、つまりは、フィードバック機能がはたらなくなるのである。

 フィードバック機能が働かないと言うのは、原因と結果が直接当事者に認識できない、結びつけられない状況である。原因と結果の間の過程が長くなればなるほどこのフィードバック機能は、働かなくなる。
 車を運転する時、ブレーキを踏めば、減速、停止。アクセルは、加速。ハンドルは、方向の変更。この様な関係が頭の中に入っている。即、自分の行為が結果に結びついている状況では、環境の変化に対応することができる。
 教育においては、このフィードバック機能が重要な役割をはたす。
 過程が長くなると擬似的なフィードバックで代行しようとする。その典型が試験制度である。しかし、試験は、仮想的な問題を前提として成り立っていることを忘れるべきではない。試験制度が、本来の目的、機能を逸脱すると、それ自体が目的化する。試験が目的化するとかえってフィードバック機能を失わせることになるのである。科挙制度が形骸化したのが好例である。 
 官僚機構でフィードバック機能が働かなくなると、社会的制裁でしか、正せなくなる。それが行きすぎると暴力革命やクーデターを誘発することになる。

 国家は、運命共同体である。このことを忘れてしまうと、根本的な対策が立てられなくなる。
 官僚機構も運命共同体の一種である。軍隊も運命共同体である。
 軍隊が好例である。軍事力の効果は、戦争をしてみなければ解らない。だから、戦争をしてみようというのは、乱暴な話である。

 官僚機構が、一個の経済的に独立した共同体となる事が、重要なのである。


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