自由主義は、絶えず快楽主義と刹那主義、功利主義の脅威にさらされている。快楽主義も刹那主義も功利主義も自己中心思想を装っているからである。しかし、快楽主義にも刹那主義にも自分以外、つまり、他はない。間接的認識対象である自己にとって、重要なのは他との関係である。他との関係がない快楽主義や刹那主義は、自由主義の対極にある考え方である。
自由主義の根源は、自己であり、自我ではない。自由の本質は意志であり、我欲ではない。
自由は、自分一人で実現できるものではない。もともと自由主義というのは、個人の内面と外的世界の変革を通して調和ある自己と平和に社会を築くことにある。内的現実と外的現実の調和こそ自由の実現である。だから、自由で最も大切な要件の一つは、他の存在であり、他との関係なのである。他者への働きによって自己の変革をする。それが、自由主義者の生き方である。
独裁者は、自由ではない。なぜならば、独裁者は、自己を喪失しているからである。独裁者は、他を認めないことによって自己を見失っているからだ。
自由にするというのは、勝手気儘にするという意味ではない。
自由にするというのは、自分の思い通り、思うままにする事である。自由にするためには、自分の内面の思いが大切なのだ。つまり、自分の思いとは何か、その思いの根源はどこにあるのかである。その思いの根源は、その思いの対象になければならない。それは、その対象への働きかけは、自己の内面の思いが反映されたものであると同時に、その働きかけが、自己の内面の思いに反映されるからである。
それに対し、勝手気儘な行動には、他者の思いが反映されていない。故に、勝手気儘な行為は、自由とは無縁な姿勢であり、対極にある行動である。
他者、特に、自己の思いが向けられる相手に対する思いやりや愛情がなければ、自由は成り立たない。故に、自由主義の本質は愛である。
生理的な欲望や欲求に従い、相手や周囲の感情や意志を無視して、自分のやりたい事をやりたいように、勝手気儘にやる事を、自由とは言わない。むしろ、それは肉体や感情の奴隷である。欲望のはけ口にしか愛する人が見えない人間に自由を口にする資格はない。
欲望や妄想を、そのまま行動に置き換えてしまう。そして、それが、思い通りに行かないと他人の性にする。自分の肉体だって思い通りにならないというのに、他人が思い通りにならないと、腹を立てても仕方がない。内面の欲望には限りがないが、外部の物質には、物理的な限界がある。有限なものに無限の要求をすれば、最初から、答えは見えている。それは、自由というのではなく無謀というのだ。自制心を失えば、欲望に歯止めがなくなり、欲望を暴走させる。それは、自己を見失うこと、つまり、自己喪失である。やりたいことをやりたいように、欲望の赴くままに行動することは、自由の対極にあることである。故に、快楽主義は、自由主義の対極にある思想である。
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