個人主義・自由主義・民主主義
 自由人は、多分にドンキホーテ的である。自分の思いに忠実になろうとして、理想を追い求める。強い意志と精神力によって自分を抑え。目的の為にあらゆる辛苦に耐える。人の噂や風評、思惑に惑わされず。孤高にして、高潔。孤独に耐え。誇り高く。世の不正を憎み。信心深く。愛する者のために戦う。たとえ、他人から見て狂っているように、見えたとしても、たとえ、人がなんと言おうとも断固として自分の信念を貫く。自由人とは、そういう者なのである。

 自由か、しからずんば、死か。
 それは、死を望むことであってはならない。死を覚悟することなのだ。
 安易な功名心にかられ、軽率な行為をする事ではない。
 自分の行動には、責任を持たなければならない。

 自由というのは、自分が何を望んでいるかによって決まるのだ。翻って言えば、何も望まない人間に自由はない。

 自由の原点は、自己なのである。思い通りという言葉から解るように、自由の根源は、自分の思いである。自分の意志なのである。自分の欲望や感情ではない。そこに多くの人の勘違いがある。やりたい事を、やりたいようにやるというのが、自由なのではない。根本的には、重要なのは、意志の問題であり。外部の障害の問題ではない。どんな障害があっても、自分の意志が優先されるべきなのである。

 自由主義精神は、スポーツマンシップに通じる。自由主義者が、重んじる徳目は、チームへの忠誠心、愛する者への献身、遵法、公正、勇気と誇り、不撓不屈、独立不羈、高潔そして、法である。本来の自由主義者が重んじるのは、名誉であり、誇りである。名誉や誇りは、美徳や善に直結した感情である。

 人間は、信じる者と愛する者を知ることによって自由になれる。信じる事、愛する事の根源は、自分だからである。信じる事、愛する事によってこの世に自己を実現し、自由になる。信じる事、愛する事によって自由になれるのである。
 侍の生き様は、自由人に通じる。自らの信念、愛する者のために命をかける。それが、自由な人間の生き様である。だからこそ、愛する者に自由人は、忠実になろうとするのである。それは、自分の欲望に忠実たらんというのではない。忠誠という言葉は、自由を愛する者にこそふさわしい。

 逃げない。楽を求めない。誘惑に負けない。信念に基づく。人頼りをしない。出処進退を明らかにする。それが、自由精神である。なぜなら、自由の根源は、自己だからである。

 自由人は、えてして、一匹狼、協調性のない離れ駒みたいに見られるが、自由人が重んじるのは、意志である。盲目的服従を嫌うのである。自分の意志に反する事を強要されれば、絶対的に服従しないが、自ら望めば、強い忠誠心を示す。自分が信じる者、愛する者のためなら命をかけて守る。それが自由人である。

 自由主義とは、自己の行動を通して、意識と社会を変革しつづける事である。決して、御身大事と消極的に、また、迎合的に生きることではない。
 自由人が忠誠を誓うというのは、無条件な服従、隷属を意味するのではない。あくまでも、自己実現のために忠誠を誓うのである。自分の愛を自分の夢や理想をこの世に実現するために忠誠を誓うのである。その根本は、正しきを助けんが為である。

 自由人は、浩然の気を養わなければならない。相手の名誉を傷つけたならば、相手の立場がいかに弱くとも相手を怖れ、相手がどのような立場、強者であろうとも不正を見つけたならば、たった一人になろうともそれを正す。それは、自ら望んで孤高となるのではなく。自らの信念や愛に忠実になろうとして結果的に孤高になるのである。否、孤高に耐えるのである。自由とは、時として、一人、正義を貫かなければならなくなる。それは、吾、一人だからである。

 自由人は、瞑想し。自由を夢見。そして、ただ一人、敢然と行動をする。

 自由恋愛という言葉がある。それを、欲望や快楽の解放とする者がいる。しかし、それは快楽主義であって自由恋愛ではない。自由恋愛というのは、恋愛という行為を通して自由を実現することである。故に、自由恋愛の本質は、愛である。行為や行動を重んじるが故に、自由恋愛には、強い自制心が要求される。恋愛に対する誠実で真摯な態度がなければ自由恋愛は、成就できない。そのかわり、愛に対しては、率直で素直な表現が要求される。それは、道徳と言うより、美学である。金や暴力で相手を思い通りにするのは、自由とは、正反対の行為である。また、自慰のような行為も、自分一人の思いこみも自由恋愛の対極にある。相手に対する強い自制と直情的な行動、この一見矛盾した行動を通じて自由を実現する。それが、自由恋愛論者である。
 このことからも解るように、自由というのは、愛なのである。

 もともと自由恋愛とは、自由な恋愛が保証されていない社会を想定しないと理解できない。かつて、我々の両親の時代は、結婚相手を決めるのは、親であって、自分の意志は反映されなかった。ひどい話、結婚式ではじめて相手を見たというケースすらある。それに対し当事者の意志を尊重しようと言うのが自由恋愛の基本精神である。当事者間の意志を尊重しようと言うのだから当然、ルールがなければならない。なぜなら、利害関係者は、結婚する当人だけに限定されているわけではないからである。法的に見ても、両家の親兄弟、親戚に何らかの利害関係が派生するからである。この様に自由を尊重しようとすればルールが派生するのである。問題は、そのルールの性格である。ルールが意志に背く時、それを正さなければならなくなるのである。
 この点から見ても自由精神は、遵法精神に通じている。

 自由主義は、騎士道精神、武士道に通じる。体を鍛え、心を鍛える事によって自由になる。心身の鍛練こそが自由への道である。武士道で言う自由とは、心技体、知徳体が一体となった状態である。その心境に達するために修行をするのである。近代スポーツが勝利や栄誉、報酬を目的とするのとは違う。武士道の目的は、あくまでも内心の自由を獲得することにある。武士道は、修行なのである。だから、修行者は、自由主義者なのである。武道を神聖なものと見なし、肉体を鍛錬することによって自由な境地に達することを目的とするのである。
 
 人が、自由を実現した時、神は、出現する。故に、人を自由にする国は、神の国である。それが、自由な天地である。


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