結局、肝心な事は、何が、幸せなのであり、何を望んでいるのかである。
 むろん、貧困や飢餓を望んでいるわけではないだろう。しかし、いくら物質的に恵まれていても、不安や恐怖感に苛まれていては、たまらない。私は、王侯貴族の生活が幸せだとは思わない。権力抗争に明け暮れ、一家団欒ももてない生活は、つまらない。愛する家族と健康に楽しく暮らせる方がずっと幸せである。
 結局、人が望むものや幸せは、同じではない。人は、幸せになる権利は、平等に与えられている。だから、同等と平等は、違う。その違いが解らなければ、平等の意味はわからないし、幸せにもなれない。人の幸せを羨んでも、自分は、幸せにはなれないからである。

 経済学が、観念的すぎる事の証拠は、家計に端的に現れている。家族という実体もなく、家計の主たる担い手である主婦の意見も聞かず、生活の現場も知らないで観念だけで家計を定義したところで、何の役にも立たない。

 経済の目的は、生産性や効率性にあるのではない。生活にある。生活を破壊してまで、生産性や効率を追求するのは、経済の本義ではない。
 家族は、一つなのである。それを否定する者は、共同体を破壊しようとする者達である。それは、地域コミニィティや職場をも否定し、破壊することになる。それは、伝統や文化を否定する事である。そして、それは、人々の心や魂をも否定する事である。心や魂を失った時、家族も社会も、人間すら滅んでいくのである。共同体を否定する者。彼等にあるのは、憎しみであり、呪いであり、恨みである。呪詛である。愛でも、心でもない。

 男女同権論者は、ことさらに男を卑下・誹謗・悪く言う傾向がある。この世の悪い所は、全て男性が原因であり、男の攻撃性が諸悪の根元性のように言う。
 男女同権というのは、男と女どちらか優れていて、どちらが劣っているかの問題ではない。性差というのは、歴然としてある。その性差を正しく認知するところから始めるべきなのである。男にも、女にも長所・欠点がある。その長所・欠点を理解し、欠点を補い合い、長所を伸ばすことによって真の平等は実現する。
 出産と育児は、女性にのみ許された崇高に仕事、任務、使命である。それを否定したところに、成り立つ男女同権論というのは、認められない。もし仮に、それが、女性サイドから発しているならば、それは、女性が自らを卑しめる行為である。
 かつて、人種差別反対運動の中でブラック・イズ・ビューティフルという標語があった。それは、それまでの差別反対運動が、結局は、白人同化思想だったというのを反省し、黒人は、黒人として自立しようと言う思想である。その意味で、ウーマン・イズ・ビューティフルというのが、本来の、同権論である。現在の過激な女権論者の多くが男性同化思想の持ち主だと言う事を見抜かなければ、運動の本質が見えてこない。

 あらゆる職場の男女の割合を均等化すべきだという議論がある。それまで、男性の職場と言われてきた仕事にも女性の進出が著しい。それが悪い事ではない。科学技術の発達がそれまで肉体的ハンディによって進出が困難だった職場にも容易に女性が進出できるようにした。科学技術が男女の垣根を低くしたのだ。しかし、それでも、適正の問題は残る。 適正を無視して、割合を無理あり均等にしようと言うのは、摂理に反する。そこまで行くと暴論である。
 あらゆる職場の男女の割合を均等化すれば、平等が実現するというのは、平等の意味を知らない、平等論者の錯覚、幻想である。それは、平等ではなく、大量生産時代の落とし子に過ぎない。大量生産は、生産物を均質・均等に保つことによって成立している。手作りのように一つ一つが微妙に違うものを認めない、許さないのである。平等の真の意味を知らない、自称平等論者は、全てを単一な基準に嵌め込もうとする。人間の質を均質な者に統制しようとする。また、均一な物と前提して論理を構築する。そこに初めから無理がある。人間は、工業製品のようには扱えない。平等を知らない平等論者は、均質にしようとすればするほど人間性が奪われ、不平等が派生することに気が付いていない。厄介なことにこの様な差別や不平等が、平等論や同権論の名の下に行われていることである。それによって、被害を受けるのは、無理矢理男性化させられる女性達なのである。

 現代の改革主義の中には、その本質を転倒し、反人類主義、反文明主義、反社会主義に堕しているものが多く見られる。

 深刻なのは、家庭周りの仕事を切り捨てようとしていることである。家庭周りの仕事を切り捨てることは、消費者としての仕事、生活者としての仕事を切り捨ててしまうことになる。それもこれも、女性が担ってきた仕事を頭から否定し、男性社会に同化して意向とする女権論者に原因がある。

 女性が弱いのではない。女性が弱い立場に立たされてきたのである。それは、女性が主として担ってきた仕事の分野が軽視されてきたことに主因がある。

 PTA、地域コミュニティ、環境保全、消費者運動、この様な分野は、まだまだ未成熟であり、遅れている。遅れていることの原因の一つが、これらが消費や生活を基礎とした仕事だからである。つまり、家庭周りの仕事が、軽視されることによってこれらの仕事も成熟できないでいるのである。出産や育児から解放されたら女性の行き場がないというのは嘘である。女性が担ってきた仕事が社会的に認知されていないから、市場経済が発達した今日では行き場がなくなるだけなのである。
 PTAの役割を強化し、実質的に学校の運営や経営に参画させる。地域コミニティの運営や設計を地域住民に委託し、組織化していく。また、監査を強化する。環境の保全をそこに住む住民達が主体的に行っていく。消費者の立場から市場を監視していく。これらの仕事は主としてボランティア、奉仕活動のように思われてきた。しかし、これらは、れっきとした仕事である。これに高齢者の介護が加われば、いかに重要な問題かが解る。以前は、このほとんどが在宅で為されていた。

 今、求められているのは、供給者サイドに立った視点ではなく。消費者、生活者側に立った視点なのである。それは、主としてこれまで女性達が担ってきた分野なのである。そして、これらが主として女性の犠牲の上に成り立ってきた。女性の犠牲の上に成り立ってきたからこそ、世の中が円滑に廻ってきたのである。女性の社会進出によってこれらの仕事が次々と破綻している。そして、それが公になり、社会問題化しているのである。

 共稼ぎというのは、新しいことではない。共稼ぎは、家族共同体が未分化な頃は、当たり前なことであった。つまり、家庭外労働、生産活動と家庭内労働、消費活動とは、未分化であり一体だったのである。だからこそ、都会生活が主となり、家庭外労働と家庭内労働が分化してくると専業主婦というのは、一種、女性のあこがれだった。しかし、専業主婦の地位が確立されるとその弊害も明らかになってきた。そして、女権論者は、専業主婦を目の仇のようにするのである。しかし、専業主婦を目の仇にしても、本質は何も変わらない。大切なのは、女性の仕事を再評価することである。

 ベビーシッターや家政婦を雇っても仕事に出る価値があると思えば、働くことにも意義がある。しかし、それは、経済的な理由ではない。逆に、自分が働いて得る収入以上の価値が、家事労働には、本来あるかもしれないのである。ところが、女性が社会に進出することイコール女性の地位の向上と錯覚する者が多くいる。しかし、その本質は、男性社会への迎合に過ぎない。相手の土俵にのって相撲を取ることは、自分達を不利にするだけである。大切なのは、自分の仕事にどれだけの価値があるかである。頭から、家事労働を蔑視して、市場内の仕事を過剰に評価するのは、公平ではない。

 家事労働は、生病老死に関わっている。その意味で、家事労働を考えることは、人生の意義を考えることでもある。
 高齢化社会では、ますます家事労働の重要性が増す事はあっても軽くなることはない。それは、家事が、出産・育児・介護・看病という人生における重大な局面において重大な役割を担ってきた証左である。それを抜きにして、家事・家庭内労働を語ることはできない。家事労働が不当に低く評価されてきたのは、それが市場外経済であり、市場的価値によって評価されてこなかった事のみに起因する。家庭内労働そのものの価値、必要性が低いことを意味しているのではない。むしろ、家事労働は、人生の本質でもある。



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