家族は、危機に瀕している。最近顕著になってきたのは、晩婚化、非婚化、事実婚、契約婚、中高年離婚、父親不在、家庭内暴力、DV(ドメスティック・バイオレンス)少子化、非行、犯罪の低年齢化、引き籠もり、不登校といった事である。
問題の根底には、家族の空洞化がある。
家庭の崩壊、家族離散などとメディアは書き立てるけれど、そう言う状況を作り出した責任の一端は、当のメディアにもある。戦後社会は、家族制度を目の仇にしてきた。しかも、その根拠は、戦前の封建的大家族制度を基礎としたものである。戦後は、戦前の大家族制度は成り立たなくなり、夫婦を中心とした核家族へと変遷してきたというのに、戦前の封建的家族制度を根拠にして家族・家庭を目の仇にし、崩壊させてきたのである。更に、性の解放を仕掛けることによって家庭の崩壊の拍車をかけた。そして、家庭の崩壊が社会問題化してくると自分達には何ら責任がないかの如き態度をとって責任を家庭に転化してきている。多くの論者が、家族の問題を現象的にしか捉えず、倫理粋な問題を蔑(ないがし)ろにしている。それは、愛の問題を統計の問題にすり替えているのに過ぎない。彼等は、自分の倫理観を明らかにしないことで、自分の道義的責任を免れていると思っているのかも知れないが、しかし、家庭の崩壊に手を貸した責任は免れない。
その典型は、家庭における女性の役割であり、婚姻制度である。多くの女権論者は、家庭内における女性の役割を否定し、蔑(さげす)み、男性社会への同化を促している。更に、婚姻制度まで否定し、家庭を否定することが女性の自立だと主張している。戦前の教育を受け、また、戦前の女性は、愚か者であり、奴隷的生活に甘んじてきたと彼等は主張する。果たしてそれは、真実であろうか。確かに、封建的家父長制度には、欠点が多くある。また、女性の扱いも不当に低かった。しかし、だからといって家族制度そのものを否定する動機にはならない。むしろ、家族制度の民主化こそが本来目指すべき目的である。不当に低く評価されてきたのは、女性だけではない。女性が担ってきた労働そのものが不当に低く評価されてきたのである。しかし、本来、家庭内労働は、労働の原点をなすものである。出産や育児、高齢者の介護は、崇高な労働であり、献身的な精神がなければ成就できない。つまり、愛がなければできない、また、成し遂げられない仕事である。その崇高な仕事に対し、社会が正当な評価をしてこなかった事が今日の社会問題の根底にある。まず、これまで不当に低く評価されてきた家庭内労働を見直し、その地位を確立することから始めるべきなのである。
我々が抱いてる家族像というのは、比較的最近に出来上がったものである。
強くて逞しいパパに優しくて何でも聞いてくれるママ、腕白だけど聞き分けの良い子供達、そして、一家団欒、暖かい家庭、愛に満ちた家族、それらは、戦後テレビの普及と伴に広まった、アメリカの中流家庭をモデルにしたものであるが、それが普遍的な家族の形として急速に定着した。しかし、その背後で、鍵っ子や仕事中毒、家庭崩壊といった陰の部分も静かに進行していったのである。仲の良い親子、夫婦と言う像の裏で、仕事に熱中し家庭を顧みない父親、そして、母子家庭のような環境に取り残されていった母親と子供達の実像が隠されていた。その結果、家庭そのものが虚像化し、幻想となり、空洞化していったのである。そして、家庭が家族を引き留めていく魅力、求心力を失い。家庭の崩壊を加速してきたのである。
我々には、先入観がある。専業主婦は、家庭に拘束されていて、社会的に虐げられている。男は、外で働き。女は、家庭を守る。育児や子供の教育は、母親の責任である。子供は、勉強だけをしていればいい。また、子供は、家族の問題に嘴(くちばし)を入れるべきではない。
しかし、日本では、明治維新以前は、子供の教育は、父親がかなりの部分を担ってきた。また、子供の教育を父親の責任だとしている地方もあった。海女のように、女性の方が主たる労働を女性が担っているケースもある。子供が家庭内で重要な役割を担ったり、重要な仕事を分担していたりもした。我々が今日抱いてるような家族像というのは、普遍的なものではない。
特に、近代に入り家族像というのは、劇的に変化してきた。そして、我々が抱いている典型的家族像というのは、戦後直後のアメリカの中流家庭の理想像に過ぎない。昭和三十年代から四十年代にかけて盛んにアメリカの理想的家族像を描いたテレビドラマが作成され、日本にも放映された。それになって、日本でも盛んにホームドラマが作られた。当時のテレビと映画の決定的違いは、映画が、戦争や恋愛と言った劇的な題材を好んで取り上げたのに対し、テレビドラマが日常的出来事を捉えたことである。この様にして、我々は、具体的な形で家族像を刷り込まれていった。
また、戦前は、産めよ増やせよ政策もあったが、子沢山が多かった。それに対し、戦後は、少子化が進み社会問題にもなっている。この様な考え方は、家族の在り方にも重大な影響を与えている。良い例が、子供に対する教育問題や仕事に対する考え方である。
そして、そこで描かれた家族像は、高度成長期における期待される家族の在り方にも一致していた。そこで、いわゆる猛烈サラリーマンに良妻賢母型の家庭像が作られていたのである。しかし、一方で仕事一途で家庭を顧みず、戦争未亡人ならず、企業戦士未亡人が生まれ、家庭は、母子家庭の様相を呈してきたのである。つまり、母親だけで子供を育てたと言われる所以である。やがて、共稼ぎがはじまると鍵っ子のように家庭の喪失現象が失言する。それらは、やがて来る家庭の空洞化、崩壊の予兆であった。
家族の形が劇的に変化したのは、産業革命によってである。産業革命が進行するにつれて生産部分と消費部分が分離してきた。それは、生産と消費を一体としたそれまでの村落共同体や大家族制度の崩壊を招き、家族の形の劇的な変化を引き起こしたのである。
生産的空間と消費的空間の分離は、職住の分離を引き起こす。職場空間と、住空間・生活空間の分離は、家族の在り方を劇的に変化させる。そして、家族の分裂を引き起こすことになる。
また、生産的空間と消費的空間の分離は、それをつなぐ市場経済の発展を促す。市場経済の発展は、価値観の変化を引き起こし、家族の在り方を根底から変化させることにも成る。この様にし、産業革命は、家族を構造的に変えていくことになる。
日本の家族制度は、氏姓制度から、大家族制度に核家族制度へと変遷してきた。古代の日本においては、氏神を中心にした氏子、つまり、血縁関係を中心とした社会から成り立っていた。中世になると家を中心とした関係に変貌し、そして、大家族制度が確立されるに至る。大家族制度は、家父長を中心としたヒエラルヒーに基づく制度であり、根本的な規範は、封建的な秩序に基づいていた。ただ、大家族制度化では、家庭内労働もそれなりに、組織化され、必要に応じては、その家族が支配する地域社会の秩序や制度、行政にも影響力が及んでいた。(例えば、教育や共同作業、掟や仕来り、冠婚葬祭、入会地等)大家族制度の崩壊によって封建的ヒエラルヒーも崩壊した。反面において、地域コミュニティも崩壊してしまった。問題なのは、新しい家族制度が確立されず、崩壊した地域コミニティが再構築されずに放置されていることである。このことは、地域社会の民主化を著しく阻害している原因となっている。
大家族制度の特徴は、第一に、血縁関係中心であると言う点。第二に、封建的家父長制度。第三に、世襲制度。第四に、長子相続。第五に、出生順位による階級社会。第六に、性別による差別主義。第七に、母系と父系の混在である。
大家族制度の場に働く規範的力は、第一に、孝をベースにした儒教的倫理観。第二に、伝統や慣習、風習に基づく掟。
婚姻は、家と家との関係から成り立つ。売買婚のような形態すらあった。持参金のような制度もつい最近まで続いてた。つまり、婚姻にしても当人同士の意志は、あまり重視されず、家と家との都合が優先された。結婚相手の選択権・決定権は、親が握っていて、酷い時は、結婚式当日まで相手を知らずに結婚したというケースもある。また、生まれるとすぐに許嫁(いいなづけ)を決められてしまうケースすら在った。
それに対して、戦後の家族に対する基本的考え方は、婚姻による契約関係中心。つまり、当人同士の意志が最も優先されるようになった。このことによって、婚姻制度に基づく核家族制度へと変化してきた。この様な、核家族も極めて脆弱な基盤の上に立っていて、いつ崩壊するかも解らない状況にある。
家族の変化が、産業革命のような社会変動の結果引き起こされものだからである。科学的合理主義を自称する者の多くが、現象として現れていることばかりを問題にして、本質を見落としている。彼等にかかると家族の問題も統計的問題に変貌してしまう。統計的に現れた数字によって愛を、語ることがどれだけ不毛なことかを彼等は理解していない。
重要なことは、現象として現れた事の背後にどのような構造や力、原理が働いているかを解明し、更に、そこからどうすべきなのかを明らかにしていくことである。
現代家族の変貌は、人間が主体的な意志によって変革してきたのではなく、生産と消費の分離と言った社会構造の変化によって引き起こされた。この変化を主導するためには、々今後、我々は主体的に関わっていくかが、重要なのである。
その意味では、大家族制度に変わる新たな家族の在り方は、まだ確立されていない。現代は、家族の在り方にとって過渡期なのである。そして、その不安定で流動的な状況が家族内の問題を深刻化しているのである。
特に、女性の在り方は、極めて流動的で不安定である。それは、女性の在り方と言うよりも女性が依って立つ基盤に問題がある。そのこと抜きに女性の問題を語るのは愚かである。
生産と消費が分離し、職住分離が進む過程で大家族制度は、崩壊していった。その中で両性の平等などの意識が高まったが、女性が担ってきた仕事の評価だけが取り残されてしまった。
職住の分離は、住空間、住環境への意識の希薄さを生んでいる。住空間・住環境の整備こそ、住民の最も重要な仕事の一つである。ところが、この最も、重要な責務が住民の手で果たされなくなっている。
政治の最も重要な機能は、消費空間、生活空間の整備である。民主主義において政治の最大の機能は、この住空間、住環境の整備を直接住民の手に委ねるところにあったはずである。ところが、この機能が失われつつある。その背景には、消費空間の衰退がある。住民は、都市計画や住空間の整備には、直接関われずに、住民運動のような形でしか関われない。それが問題なのである。
学校や市役所、公園、ゴミ処理場、警察といった環境整備は、直接、住民が関わらなければならない。その為にも消費経済の確立が必要なのである。そして、その前提となるのが、育児や介護、家事労働の社会的地位の確率なのである。
仕事への復帰といっても男性がかつてになってきた分野、生産的分野、また、消費的分野でも軍隊や警察のような分野のみが認められて、女性が得意とする分野が低い評価しかされていなければ、それは、結局、男性社会への復帰に過ぎない。また、女性が生産的社会で生きていこうとした場合、女であることを止めざるを得ないことになりかねない。
反面において家計の役割は、重要になっている。資産運用の技術は、日進月歩であり、低金利時代の今日、資産運用は、所得に重大な影響を及ぼすようになっている。資産運用の仕方によっては、給与所得を上まわる利益を上げることも可能である。逆に、資産運用の失敗は、転落へと直結している。より高度な知識と技術が要求されている。社会へ出るだけが唯一の選択肢の時代ではないのである。
性的差別を問題にするのならば、男と女の差が男女差別の根源的な問題なのであるから、それを直視することにしか問題の解決はない。男と女の差によって優劣を決めたり、処遇待遇に差を付けるから問題になるのである。また、反対に、男女差をないものにしたり、無視したしても抜本的な解決には成らないのは明らかである。
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