日本人は、最初に株式会社、それも、上場会社、公開会社ありき的な発想がある。しかし、日本の株式会社の大多数は、非公開企業であり、イギリスでも、プライベートカンパニーが主力である。株式公開会社というのは、一つの思想である。

 投資家や後援者、篤志家のような者がいなければ、皆、事業をはじめる時は、貧しい。だから、かつては、親族や仲間が資金を出し合ったのである。それが、資本の始まりである。また、一族や郷土の有能な人間を皆で助けて、その成果を一族に還元してもらうという発想が濃厚にあった。大家族主義であるが、その思想は、資本主義には濃厚にある。特に、人的資本主義の中には、その傾向がある。一族、郎党、眷属を養うという発想である。だから、成功した暁には、儲けを皆に分け合ったし、事業は、資金を出し合った者の物だという意識が高かった。それが資本主義の始まりの要因の一つでもある。
 つまり、資本とは、極めて運命共同体的要素の強う概念だったのである。

 日本には、古くから家業という言葉がある。欧米においても世襲的に職業を引き継いでいくという風潮はつい最近まで当然のように行われてきたのである。職業が、今日のように、労働という様に商品化されるようになったのは、労働市場が確立されて以後のことである。それ以前は、共同体内部の分業の一つだったのである。

 この様に見ると資本主義というのは、思想である。そして、資本というのをどの様に見るのか、資産というものをどう認識するのかによって物的資本主義、人的資本主義、貨幣的資本主義に別れる。

 経営主体には、人的側面と、物的側面、貨幣的側面がある。資本にも、人的資本、物的資本、貨幣的資本がある。資本主義という場合の資本、貨幣的資本、即ち、資金を指して言う場合がある。そして、人的、物的、貨幣的な要素の何に中心を置くかによって経営主体の有り様も変わってくる。
 例えて言えば、人を中心とした経営主体は、一種の共同体であり、事業が成り立たなくなっても、組織を温存しようとする。大家族制度から発展した経営主体などが該当する。この様な人的資本主義は、プライベートカンパニー、私的企業のルーツ、源である。それに対し、物を中心とした経営主体は、中心となる物的資産が機能を失えば解散する。つまり、事業や仕事を中心に考える。これは、産業革命の担い手であった、鉄道や電力会社の源である。資金を中心に考える経営主体は、資金的資本を増殖させることを優先される。この貨幣的資本主義は、金融資本主義の源であり、現在は、この貨幣的資本主義が主流となっている。つまり、現在の資本主義は、資金的資本を中核とした思想だといえる。

 株式会社を成立させる要素は、「イギリス東インド会社」と「オランダ東インド会社」によるところが大きい。
 「イギリス東インド会社」は、「オランダ東インド会社」に先立つ1601年に6万8373ポンドで発足したが、16050年頃までは、数航海をまとめた「合本企業」であり、その都度、資産を分割する「当座企業」だった。それが、1605年、ピューリタン革命によって成立したクロムウェルの共和制下で「合同合本制」になり、その都度、資本を分割するのではなく、収益分のみを株主に与える「配当」制がとられるようになる。これらの改革の結果、「株式」(シェアー)は、売買が自由な証券となったのである。発足は、イギリスの東インド会社の方が早いのに、オランダの東インド会社の方が世界最初の株式会社だと言われるのは、イギリスの東インド会社は、当座企業だったからである。そして、「オランダ東インド会社」の有限責任制度が加わって株式会社の要素が確立される。(「東インド会社」浅田 實著 講談社現代新書)
 
 資本市場は、第一に、この様な株式会社の起源による部分が大きい。次ぎに考えられるのが、近代会計制度の影響である。また、三番目に重要なのは、国債からはじまる債権制度の成立である。そして、第四に、貨幣制度である。また、第五に産業革命による資金需要である。

 この様な起源を持つ株式会社は、第一に、冒険商人的性格、第二に、公的性格や国家事業的性格を持つ。

 一般に資本主義というのは、貨幣的資本を資本とする思想である。この様な資本主義は、必然的に会計的資本主義とならざるをえない。しかし、現実には、人的資本主義や物的資本主義的考え方が失われたわけではなく。折に触れては、議論の対象となっている。

 近代資本主義は、情報の開示を前提としている。それは、資本主義が会計制度を規範としているからである。会計というのは、手段道具に過ぎない。ところが最近は、経済や企業行動が会計に支配されている。それは、道具や手段と目的が転倒していることを意味する。本末転倒である。企業本来の目的は何かが、最も重要視されなければならない。企業目的があってはじめて会計は成り立つのである。企業目的とは継続である。

 企業経営は、継続しなければならないと言う宿命を負っている。それは、事業には、人的側面があるからである。そのことを経済学者は見ない。儲からない産業は淘汰すればいいといとも簡単に言う。進化論の間違った認識である。企業は、働いている者がいるのである。現代の経済学に一番かけているのは、人間に対する洞察力である。人間は、功利的合理精神で行動しているのではない。功利的合理精神で行動する者がいたとしても極めて例外的な人間で、しかも、経済的に成功することは難しい。
 収益というのは一定していないという事を忘れているのである。つまり、収益は変動するのである。企業は、環境に合わせて変貌する必要がある。変動に適合させている最大の要因は、人間関係なのである。環境の厳しいのは、常のことである。厳しいというだけで事業が破綻するのではない。事業が破綻するのは、組織がバラパラになるからである。企業が置かれた厳しい環境を乗り越える原動力は、内部の人間の団結力、結束力なのである。求心力を失えば組織は瓦解する。

 本来、資本主義というのは、人的資本主義、物的資本主義、貨幣的資本主義があっても良い。むしろ、過去においては、主流でもあった。しかし、現在は、貨幣的資本主義をのみ資本主義としている。以後、ただ、資本主義という場合は、貨幣的資本主義を指して言うこととする。

 資本主義というのは、基本的に株式会社形式を前提として成り立っている。つまり、資本と経営が明確に分離された体制である。資本と経営が明確に分離されるとは、資本家と経営者が別人格でなければならない。現在の経済体制は、資本と経営がかならずも明確に分離されているわけではない。資本と経営が明確に分離されている事業体と未分化な事業体が混在しているのが現状である。その意味では、現在の経済体制は、修正資本主義、又は、プレ資本主義、前資本主義といえる体制であり、純粋の資本主義体制とは言えない。

 この事は、現行の会計制度や税制にも影響を及ぼし、会計制度や税制を多重構造にしている。また、経済制度全体も多重構造にしている。典型は、日本の商法・会社法、証券取締法、税法が及ぼす会計制度の多重制である。

 資本主義は、本来、公開制を原則としている。特に、情報の開示は、大前提である。情報の開示が無くて、資本主義は成り立たないとも言える。それは、資本の公共性、公開制にも繋がる。資本を公共の物とし、広く公開することによって資本主義は成立する。それが株式の自由譲渡である。

 これらのことから、資本主義が成立するためには、第一に、資本と経営の分離、第二に、情報の公開、第三に、株主の有限責任、第四に、企業体の法人格化、第五に、株式の自由譲渡が前提となるのである。それを実現したのが、株式会社であり。本来、株式会社は、前期の要件を満たした物でなければならない。
 そして、この様な要件を実現し、保障するのが市場経済、貨幣経済、近代会計制度である。

 資本と経営の分離は、必ずしも資本家階級の形成を意味しているわけではなく、投資家と経営主体の分離を意味する。最近では、機関投資家の活躍が活発になってきたが、この例からもわかるように、投資家は、必ずしも個人とは限らず、機関、それも、公益機関や公共機関、国家なども含まれるのである。又、個人投資家も株の配当だけで生活している人は限られており、広く対象に投資機会が解放されていることが資本主義における大前提となっているのである。

 つまり、資本主義体制も経営主体を私的なものと見なさず、公的なものとしている思想なのである。この点に関し、資本主義対する見方にはかなりの誤謬が見受けられる。

 株式を公開している企業は、その意味で、資本主義を体現していると言える。それに対し、株式を公開していない企業が現在でも多くあり、それらの企業は、所謂資本主義とは、違う思想に基づいた機関だと言える。その辺の誤解、錯覚が資本主義をして、資本主義を曖昧な物にしている原因である。

 また、株式を公開しない企業は、基本的に情報を利害関係者以外に公開する必要がない。故に、情報の開示は前提とはならない。又、事実上、株式の自由譲渡もされていない。この事は、株式を公開していない企業は、資本主義の要件を満たしておらず、資本主義に相反する存在であることを意味する。又、株式を公開していない企業は、公的な機関としてはみなされず。私的な機関といえる。

 俗に言う、資本家階級というのは、資本の私物化によって生じる。資本の私物化は、資本と経営の癒着と資本の世襲化による。この様な企業は、株式を公開していないから、情報を開示する必要がなく、必然的に秘密主義的な存在となる。同族企業や財閥というのがそれに該当する。それ故に、資本主義体制では、同族会社や財閥に厳しい規制を賭けるのが常である。
 逆説的に聞こえるかもしれないが、資本主義は、資本家に厳しいのである。

 厳格な資本主義は、コーポラティズム(法人支配主義)に発展する要素を持っている。唯物的資本主義、即ち、人的な要素を除いたところに成立する資本主義体制は、企業はただの機関となる。物的資本主義にとって企業は、機関に過ぎない。共同体的な要素をはぎ取ったものである。属人的要素は、余計なものであり、企業に不必要な負担をもたらすものである。企業というのは、一定期間、所得を保障する機関に過ぎない。効率的に言えば、成果に対してだけ賃金を支払えばいいのである。実際、市場原理を突き詰めると賃金から属人的な要素は削ぎ落とした方が合理的であり、また、レイオフによって人件費を調節するのが、経費節減の手段として、最も手っ取り早く合理的なのである。

 物的な資本主義にとって非公開企業が存在するのは、資本主義体制の不備よるものである。非公開企業の存在そのものに対し否定的である。
 近年、M&Aや企業の敵対的買収、乗っ取りなど企業の社会性や雇用の創出といった本来の目的とかけ離れたところで株取引からえる利益のみを目的とした資本取引が活発になった。その為に、企業は、自衛的処置として余分に支出、労力を費やされることとなる。この様なことが非公開企業の存在理由の一つとなっている。
 しかし、物的資本主義にとって、非効率な企業は自然淘汰されるのが必然的帰結であり、それを阻害する非公開企業の存在は弊害でしかない。

 この様な物的資本主義者、自由主義者は、経済を生産性でしか評価しない。しかし、経済の本質は、分配にある。同じ、効率性でも生産性という観点から捉えるのと分配という観点から捉えるのとではまったく違ったものになる。経済は、効率性を追求すればするほど衰退する場合もあることを忘れてはならない。千人で一億円の利益を上げることと、百人で一億円の利益を上げることではどちらが効率的かは、何を効率的とするかによって違ってくるのである。

 問題は、資本の論理だけで、経営主体を統括して良いのかであり、また、統括することが可能かの問題なのである。資本の論理が経営主体の実体や本来の機能とかけ離れたところで、賭博的目的の手段として使われるようであるならば、資本主義そのものを否定的にとらえられても仕方がないといえる。

 つまり、資本を誰が掌握するかの問題であり、本質は、それは経営主体、即ち、企業は、誰のものなのかという問題に帰結する。そして、それは、企業観、即ち、思想なのである。現代の資本主義に対する思想の根本にあるのは、アメリカの思想である。しかし、アメリカの思想は、かなり、個性的なものである。ところが戦後日本人は、アメリカ的な思想を普遍的な思想と取り違えている。だから、日本の資本主義は、教条的なのである。これは、社会主義についても言える。旧ソビエトの社会主義観、共産主義観は、かなり、個性的なものである。日本の学者は、それを普遍的な原理、科学的社会主義と受け止めた。だから、教条的になり、また、ソビエトという体制の崩壊と共に形骸化し、衰退したのである。

 アメリカは、元々反体制主義者、反権力、反権威主義者が建国した国である。それ故に、反権力的な傾向を根本的に持っている。反権力の矛先は、産業資本や金融資本にも向けられる。それが反カルテルであり、独占禁止であり、自由競争なのである。しかし、これらは、思想であることを念頭に置く必要がある。つまり、経済的動機よりも政治的、思想的動機に基づくのである。反中絶と根本的には同じである。だから、是々非々は、国民的議論の上で、選挙によって決着を付けるべき問題なのである。それが国民国家なのである。マスメディアも自分達は、中立だなんて愚劣、卑劣なことを言わずに、自分の立場、思想を明らかにした上で報道すべき事柄なのである。

 事業は、志である。事業家や投資家が何を志すかである。ただ、金儲けだを目的とした事業は、長続きしない。一時的に栄えたとしても、結局は、求心力を失うからである。資本の問題も行き着くところ志にある。そして、資本の根底にあるのが定款なのである。事業において志が見失われてから久しい。その原因は、経済の根本理念を確立しなければならないはずの経済学が、人間に対する洞察を欠いているからである。
 企業が人間集団であることを見落としてはならない。人間こそが最大の資本だという者がいる。また、人材という言葉もよく聞く。しかし、今日の資本主義は、人間性という者を削ぎ落としたところに成り立っている。人間と人間との繋がりを効率性という名の下に削ぎ落としたところに成立しているのが今日の資本主義である。
 しかし、本来の資本主義というのは、助け合いや博愛精神を土台にしている。そして、投資というのは、有能な人間のチャレンジ精神にかけるという意味合いが強い。日本人のように、儲けるためと言う動機だけではない。だからこそ、投資した資金が回収できなくとも諦めがつくのである。そこが博打とは違うところである。

 一方において、栄養の過剰摂取による肥満で苦しむ人間がいるのに、他方で、栄養不足で死んでいく子供達がいる。食料が過剰で廃棄する国があれば、食糧不足で飢餓に苦しむ国がある。アフリカの二ジュールでは、2008年現在、国民一人あたりの年収が約二万円だというのに、日本では、一個、三万円などと言う法外な値段で取り引きされるマンゴーがある。
 資金が不足している倒れかかっている中小企業があれば、度外れた浪費を楽しんでいる連中もいる。自堕落な生活が退廃的というのではない。自堕落な生活を許している経済の歪みが、退嬰なのである。明らかに分配の仕組みがおかしいのである。
 現在の資本主義は、何もかもが過剰なのである。余剰なのである。特に、金が余っている。その過剰な金が、投機に廻る。投機的な資金は、実物資金を吸い上げてしまう。結局、不必要なところに金が廻り、必要なところには金が不足する。本来は、資金が不足しているところへ、資金が余っているところから資金を融通するのが金融の役割なのに、資金が不足しているところから資金を吸い上げて、資金の余っているところに資金を廻す。逆回転を始めているのである。それによって格差がますます拡大している。
 拡大、進化、発展という変化しているところにしか経済的価値が創造されないからである。本来、成熟は、一つの極みである。しかし、資本主義において極みは、衰退なのである。
 サブプライム問題も考えてみればおかしい。家を必要としている者から、家を取り上げて、そして、そのことによって金融不安を引き起こしているのである。

 皆が正しいと言い、そうしなければならないということが為されずに、誰もが悪いと思い、そうしてはならないということが為されている。欲望のおもむくままに、エゴを追求する。それを是とするのが資本主義だというのならば、資本主義は、人類の運命を巻き添えにして滅び去っていくであろう。
 誰もがおかしいと思うことは、おかしいのである。資本主義は、変化に適合する仕組みを持たないかぎり、早晩破綻する運命にあるといえる。

 上場企業、大企業を優遇する政策は、中小企業を淘汰し、企業を大規模化しようという発想が根底にある。しかし、中小企業よりも大企業の方が生産性が高いというのは幻想である。大規模化は、効率性が高いというのは、先入観に過ぎない。
 日本は、他の先進国に比べて中小企業が多いというのも先入観である。1993年時点でアメリカの全雇用企業数に占める雇用者数500人未満の中小企業比率は、99.7%に昇ると見られる。そのうち、雇用者数100人未満の企業が98.8%を占める。また、イギリスでは、雇用者数250人未満の中小企業が国内企業総数の99.9%を占めている。(「日本の中小企業」鹿野嘉昭著 東洋経済新報社)
 大企業というのは、一般に中小企業よりも効率的で合理的だと思われている。しかし、企業や組織を大規模する事は、即、産業や企業の効率化に結びつくであろうか。
 企業の生産性が話題に上るとよく大企業病が問題となる。大企業病というのは、企業が大規模化するのに伴って、意志の疎通が悪くなり、責任の所在が曖昧になると、同時に、横並びの人事によって組織の活力が削がれることを言う。また、官僚組織の非効率性が問題にもなる。つまり、組織の大規模化は、必ずしも、経済や産業の効率化には結びつかないという事である。換えって、非効率になる場合もある。
 中小企業を淘汰するというのは、経済の効率化というよりも、国家が、産業を管理、統括しやすくするためと言った方が妥当である。この様な思想は、コーポラティズムといえないこともない。

 物的資本主義、貨幣的資本主義とは、突き詰めてみると、賃金労働者と資本家に二分化してしまう発想である。それは、所有と経営の明確に分離するという思想からきている。所有者と経営者を明確に区別し、更に言えば、資本家と労働者とは分離する。つまり、支配者と被支配者とを分離すると、同時に、支配者を隔離することである。株主資本主義とは、この様な二元的体制を意味する。人的な一体感はない。そして、企業を機関化してしまうことである。企業は、所得を得るために、労働を提供するだけの場であり、それ以外の人間関係は切り捨ててしまう。唯物的資本主義である。
 しかし、組織は人間の集まりであり、その一人一人に人生があることを忘れてはならない。経済にせよ、企業にせよ、特定の人間の幸せや欲望を実現する仕組みではなく、その組織に関わる人々全員の幸せを実現する事を目的とした仕組みである。だからこそ、顧客の満足度や経営者の理念、労働者の権利が重要になる。企業の成績は、その為の目安に過ぎない。いくら、企業が高業績を上げても、顧客を騙し、働く者から搾取していたら何の意味も、意義もないのである。国民を不幸にする国家と同じである。

 そして、組織というのは、多かれ少なかれ、人的な要素、つまり、共同体的要素を持っているという事である。人間的な要素を、失ってしまったら、組織は存在意義を失うのである。

 今要求されているのは、人間としての温もりのある資本主義である。それは、共同体主義に基づく者である。かつて、日本人は、義理人情を重んじた。また、愛社精神や愛国心を大切にした。
 戦後、自称知識階級と言われる人種は、これらの考え方を封建的、軍国的と頭から否定してしまった。
 しかし、軍国主義的と言うが、戦前、自分達の目的を達成するために、愛国心を体制側が利用しただけである。盲目的に軍部が言う愛国心を鵜呑みにした者が悪いのであり、愛国心そのものが悪いわけではない。フランスでは、愛国心を言うのは、社会主義的傾向が高い勢力であり、日本人が考えるように、民族主義者や全体主義者と言うわけではない。むしろ民族主義者は反国家的な立場をとることすらある。愛国心そのものが問題なのではなく。真の愛国心は、何かが問題なのである。
 資本主義は、その人類の目的や崇高な理想があって始めてその効果を現す。人類の理想がなくなれば、魂のない肉体のような者である。それは、骸にすぎない。それが物的資本主義であり、貨幣的資本主義である。物的資本主義も貨幣的資本主義も魂があって成り立つのである。
 資本主義の魂とは、人類共通の目的であり、理想である。福利である。

 現代の資本主義は、本来の事業に対する志を忘れ、カジノ資本主義的になってしまった。投資ではなく。投機化してしまったのである。つまり、本来金を儲けるのは、手段だったのが、金を儲けることそのものが目的化してしまったのである。
 その結果、何事にも金が先行するようになってしまった。金、金、金である。資本も金であるような錯覚すらある。人間関係も金でしか維持できない。金の切れ目が縁の切れ目である。
 資本は、本来資源(リソース)である。それは、幸福を実現するための資源である。経済は、人々を幸せにするための手段である。しかし、経済は、人々を幸せにしてきたであろうか。ならば、人間、人類にとって幸せとは何か。不断に問い掛ける必要があるのである。


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