我々の社会からどんどんと人間的な繋がりが失われつつある。近所づきあいなど
死語になりつつある。職場からも仕事以外の人間関係がなくなっている。付き合いという言葉すら聞かれなくなってきた。一緒に食事をしたり、ワイワイガヤガヤ話をすることもなくなった。目の前にいる相手との会話ですらメールである。一緒の職場で働く者が、どんな考えで、どんな生き方をしているか、お互いに無関心であり、それに慣れきっている。隣人が死んでいても、何日も気がつかない。友人が困っていても関係ない。祭りや季節の変化にも無頓着である。これらは、かつては、病気の一つとして捉えられた。少なくとも「オイ大丈夫か」と声をかけたものである。
子供の頃の記憶は、隣近所の人間が何かと言えば集まって祭りの話や世間話をしていた事や、困った時には、助け合ったことだ。町内の子供の世話を町内の人間がするのは当たり前であった。何かあれば寄り合いで集まって決めたし、「泥棒!」と叫べば即座に土地の若い衆が飛び出した。つまりは、落語にでてくるような、義理と人情の世界だったのである。そう言えば、落語も現実感を失って廃れてきた。
人間的な繋がりを基礎として形成される社会、それが共同体である。その共同体を土台とした社会理念、経済理念が社会主義である。つまり、社会主義と共同体主義は、根底の所で繋がっている。
我々の住む世界は、共同体なのか、それとも、無機質な集合体、システム、仕組みに過ぎないのか。我々はどの様な社会を望んでいるのか。それを忘れたところで、経済について議論してもはじまらない。無意味である。企業は、機関か、共同体なのか。現代社会は、共同体性を喪失し、唯物主義的に機関化している。つまり、人間性を失いつつある。そして、急速に仮想空間が人間の社会の隅々まで浸透しようとしている。
家族主義経営というものがかつては、日本でも息づいていた。しかし、近代、それは、なぜか封建的大家族主義に結び付けられて、頭から否定されてしまった。家族的経営の否定は、家族の否定でもある。
経済の目的、効果の一つは、生き甲斐ややりがいの創出である。かつて、母親達は、子供達の喜ぶ姿、幸せにすることに生き甲斐を感じていた。現代の女性は、外で働くことばかり目を向けて子供を育てることに生き甲斐を感じなくなってきた。また、社会全体も家内労働を頭から否定する傾向がある。家庭は、共同体の原点である。家庭の否定は、共同体の否定なのである。共同体の外で得る報酬は、金銭でしかない。子供達の幸せや家族、知人、隣人の喜ぶ姿は、貨幣では測れない。だから、不経済だとするのは、明らかに錯覚である。経済は、貨幣に換算できるものだけを指しているわけではない。働く喜び、自分が社会に貢献する喜びにこそ経済の本質がある。そして、その社会という響きの中には、共同体という意味が含まれていたのである。
家族の否定が少子化であって結果である。家庭の崩壊を招いていて、少子化対策もない。育児、出産、家事というものは、片手間でできるような仕事ではない。だからこそ手厚く保護されてきたのである。出産、育児、家事に生き甲斐を観じられない仕組みを作くり、更にそれを強化する政策をとれば逆効果を招くだけである。根源にあるのは、家族という共同体の否定なのである。
共同体の理念というのは、古くからある。と言うよりも、近代以前の社会においては、共同体の方が一般的であった。近代以前と言う意味を厳密に言えば、貨幣経済や市場経済が確立する以前といえる。日本では、明治維新以前である。明治維新以前の日本には、国家という概念すらまだ確立されていなかった。国家という概念以前に、家、つまり、家という血縁による共同体を中心とした、即ち、徳川家とか、天皇家と言った概念の方が強かった。
経済には、人的側面、物的側面、貨幣的(会計的)側面の三つの側面がある。経済は、貨幣的な次元に全てを還元できるような一次元・単次元的対象ではない。
今、経済の問題を認識する際、一番問題なのは、経済の人的側面が欠落していることである。つまり、経済が唯物的対象になっていることである。しかも、近年は、物的側面も脱落し、貨幣的側面だけで経済を認識しようとしている。それが諸悪の根源だとも言える。最も人間的営みである、経済から人間性が失われてしまったのである。
また、経済は、生産のみで成り立っているわけではない。消費経済も考えなければならない。生産と消費は経済の両輪でもある。だとしたら、生産性を問題とするのならば、消費性も問題にすべきなのである。何が、効率的な消費かである。消費志向も重要である。
私は、唯物主義か、唯心主義かと言った議論は意味がないと思っている。人間の社会も経済もそんな単次元な存在ではないと考えているからである。
何でもかんでも、合理化する事が経済的かというと必ずしも、そうとは言い切れない。経済的か否かの基準は、経済の機能、目的から判断することであり、経済を労働と分配という観点から捉えると仕事をなくすことが経済的だと言い切れないからである。
いくら近代的で清潔だからと言って、我々は、工場や倉庫のような世界に生きたいと思うであろうか。SF小説や映画に出てくる世界やファッションは、あらゆる無駄を削ぎ落としてしまったような世界だが、私は、それは、発想の貧困に由来していると思う。人間の未来は、人間性を全て削ぎ落としたような世界であることを祈る。
何事も前提が重要なのである。経済も、何を、前提として組み立てているかが問題なのである。その前提とは、目的であり、条件である。現代の経済は、その前提を、間違っている。つまり、前提を生産性や効率のみに求め、その条件を市場価値、価格だけで判断しようといている。貨幣情報は、一つの目安に過ぎない。絶対的な条件ではなく。相対的条件である。
それは、経済を価格面、金銭面からだけ見て、判断しているからである。経済的合理性というのは、価格面だけから判断すべき事ではない。むしろ、それは危険なことである。価格というのは、ある種の結果である。しかし、経済の本質的機能は、プロセス、過程にある。つまり、労働過程と分配過程である。労働の必要性は、生産効率からのみ判断できる事柄ではない。機械化が及ぼす影響は、単に、経費削減にとどまらないのである。いかに、効率よく、万遍なく、社会の隅々まで生活に必要な者を分配するかも経済機能の重要な要素の一つである。
流通や分配にかかる費用は不経済だから削減する事が経済的だというのは、会計的に見てである。会計的見方は、労働と分配という観点から社会的コスト、例えば、失業対策や雇用保険と言う事、さらに、治安維持といった社会負担を考えると、むしろ、不経済で、非効率でもありうる。
空いた時間を有効な作業に振り向けるから経済的なのであり、それが雇用の減退を招くのならば、社会全体から見て経済的とは限らない。「部分最適、全体不適合」「合成の誤謬」である。
経済的であるか、否かは、削減された時間や費用が人々の生活に活かされたこそ言えるのであり、ただ労働時間や費用を削減したからと言って経済的だというのは短絡的に過ぎる。
共同体内部で自家製の物をたくさん製造していた。その様な自家製の財が、なぜ、経済的に見合わなくなったのか。自家製の消費財は、市場価値がないからである。市場経済に経済が支配されたとき、共同体的要素が経済から奪われていった。それが家族や地域コミュニティの崩壊へと繋がっている。
共同体の従来の意味は、土地を共有し、地縁、血縁と言った何等かの人間関係で結ばれた集団を指して言うが、ここでは、非貨幣的人間関係によって形成された集団と共同体を定義する。つまり、金銭関係を離れた集団である。
又、共同体というのは、非貨幣的人間関係を前提とした集団であることから、非市場経済体制でもある。
多くの人達は、錯覚しているが、共産主義も、社会主義も目新しい思想ではない。むしろ、古典的な思想である。見方によっては、資本主義よりも古い、資本主義が発達する以前の思想とも言える。そして、その根底にあるのが共同体主義である。つまり、市場も貨幣も発達する以前は、共同体的社会が基本だったのである。要するに一番古い経済体制は、共同体なのである。
共産主義も社会主義も共同体の上に成り立っている思想である。つまり、共同体の有り様が決定的な要素の一つなのである。
貨幣経済や市場経済では、私的所有権を前提としている。逆に言うと私的所有権は、貨幣経済や市場経済によって成立しているともいえる。私的所有権と貨幣経済、市場経済と結びついているという事は、非貨幣経済、非市場経済である共同体は、所有権の共有と言う事が前提となる。
一般に共同体は、財産の共有を前提とする。共同体内部では、私有財産を認めずに、財産を共有を原則とする。典型は家族である。戦前の日本では、大家族主義がとられていた。大家族主義においては、生産手段は、何等かの形で共有されている事が前提となる。その為に、大家族主義と核家族主義の違いは、家計を共有する家族の範囲によって決まる。
逆に言うと、財産と家計の共有の範囲によって共同体の規模は画定される。それが国家レベルまで拡大したのが、共産主義である。故に、共産主義は、大家族主義に通じる要素を持っている。
又、共同体主義は、集団主義、極端な平等主義的な傾向を持ち、又、全体主義に、容易に変質しやすい。
市場の原理は、競争の原理である。それに対して共同体の論理は、協調の原理である。、むろん市場の原理も競争一辺倒ではない。また、共同体の原理も協調一辺倒ではない。しかし、市場というのは、外部作用であるから、どちらかと言えば対立的、敵対的関係になるのに対し、共同体というのは内部関係であるから、協調的、団結的作用となる。つまり、共同体というのは、本質的に互助的集団なのである。
組織には、多かれ少なかれ、非貨幣的部分、即ち、共同体的部分がある。問題は、物理的に、又、精神的にどこまで共同体化しうるかの問題である。それは、一つは、情報の伝達範囲と速度の問題である。今一つは、条件の均質化の度合いである。情報空間と物理的空間の限界範囲に依拠している。基本的には、意志の疎通の可能な範囲である。情報的空間、物理的空間が大きすぎれば、条件の均一化が困難になり、狭すぎれば、共同体して機能しなくなる。
共同体主義というのは、この共同体を社会の基本単位として経済を再構築しようと言う思想である。これを国家レベルまで拡大しようと言うのが、共産主義である。しかし、国家レベルまで共同体を拡大することには、現時点では、物理的にも、精神的にも無理があることが証明された。それは、制度的限界でもある。
共同体には、第一に、生活の場を共有する共同体(共同体)第二に、生産手段を共有する共同体、第三に、生産手段と生活の場の双方を共有する共同体がある。そして、共同体は、一般に、何等かの運命を共有する運命共同体である。
生活共同体の要素が強まると、平等性が重んじられるようになる。ただ、それを国家レベルにまで敷延化しようと言うのには、物理的な意味、情報的な意味で無理がある。つまり、個人差や地理的な差が拡大して、均一な分配が維持できなくなるからである。
市場経済下では、家計を一つの単位として捉える。つまり、一つの共同体には、一つの家計を前提とする。夫婦関係であっても夫婦別会計の場合は、2単位と見なすのである。この様に共同体は、基本的に一つの会計、即ち、一つ財布を共有し、中核としている集団と見なす事ができる。
貨幣経済や市場経済が確立することによって、労働も商品化される。つまり、労働は、市場では商品価値でしか測られなくなったのである。市場価値とは、即ち、貨幣価値である。そうなると、商品価値のない物は、価値がなくなる。非貨幣的労働は無価値な労働になってしまう。しかし、共同体内部は、基本的に非貨幣経済である。
それは、親子間の貸し借りに端的に現れる。親子間の愛だの貸借関係をどうとらえるか、一般常識では、同一会計である。しかし、税制においては、条件付きではあるが別会計と見なされる。つまり、税制では、最小単位を世帯とするからである。
世間一般では、家族は、一個の社会単位と見なしている。ただ、税制に象徴される貨幣経済は、着実にこの共同体内部にも浸透しつつある。
最初に、侵略されたのが、婚姻関係である。婚姻によって形成される共同体を否定するのが、現代的風潮、流行、進歩だとする考え方が、支配的に成りつつある。特に、自称、インテリ、知識人階層においてである。
しかし、それでも共同体を一つの経済的単位だと見なす事は、完全に否定されたわけではない。つまり、共同体とは、非貨幣的社会においては、基本的人間関係なのである。
資本主義体制下における株式会社は、厳密な意味で、共同体とは言えない。つまり、会社の従業員のために、会社組織が機能しているわけではないからである。会社と会社の従業員との関係は、単なる雇用関係にしか過ぎない。
会社というのは、金銭関係、即ち、貨幣的な人間関係の上でしか成り立たない。つまり、雇用関係でしかないのである。雇い主と使用人の関係でしかない。金が全てでしかないのである。逆に言えば金の切れ目が縁の切れ目である。しかし、共同体というのは全人格的に関わってくる関係によって成り立っている。
非貨幣的な労働は、共同体の内的労働である。つまり、家内労働である。家事、育児、教育、介護などの仕事である。これらの仕事は、金銭的な価値では計れない労働とされてきた。しかし、貨幣経済の浸透により、家内労働の外部化、外注化が進んでいる。
家事労働を構成する主要な要素は、掃除、洗濯、料理であるが、真っ先に外注化されたのが、料理である。その次ぎに、外注化されたのが、教育と洗濯である。
なぜ、家内労働が外注化されるようになったのか。それは、貨幣経済の浸透により、非貨幣労働の社会的価値が低下したからである。必然的に家内労働の従事者の社会的地位も低下した。それが男尊女卑思想と結びつけられて、共同体そのものの否定へと結びついているのである。しかし、人間関係の本質的な部分の多くは、非貨幣的な関係である。この様に、家内労働の外注化は、共同体内部の人間関係を外在化し、断ち切ってしまう。人間は本質的に、一人では生きていけない。社会的動物なのである。
本来的に経済的集団は、共同体なのである。経営主体も、本来は、共同体であるべきなのである。
非貨幣的人間関係、それは、金銭関係に現れない関係である。つまり、雇用関係を離れた人間関係である。人間社会においては、その二つが必要なのである。つまり、貨幣的人間関係と非貨幣的人間関係は、本来、表裏をなす相互補完的人間関係であり、背反的人間関係ではない。
では、共同体にはどの様なものがあるのか。金銭関係を離れたという意味では、例えば、航海を共にする期間の船乗り達も共同体である。航海の最中は、生活も運命も共にし、航海が終われば、それぞれの分け前をもらって解散する。それも、一種の共同体である。
修道院や騎士団も共同体である。修道院や騎士団は、目的を共有して、その目的のために、私有財産を全て拠出し、全ての生活を共同で行う。典型的な運命共同体である。
修道院や騎士団ほどではないが、教会も共同体である。また、仏教における僧院も共同体の一種といえる。
また、軍隊も共同体である。古来、軍は、戦闘を目的とした一個の共同体であった。特に、中国の解放軍やゲリラ部隊、外人部隊のように独立した軍は、共同体的色彩が強い。軍法や独自の掟を持って統制をとっている場合もある。工兵や軍医と言った機能を持ってもいる。また、軍は、本来生産手段を持っていないが、先に挙げた解放軍のように、何等かの生産手段を持っている場合すらある。
かつては、村落共同体が社会の中心であった時代もある。村落共同体というのは、共有財産を保有し、また、共有の利益を持つことによって成り立っている村落である。読んで字の如く、これも共同体の一種である。
かつて、職人集団も運命共同体だった。遊牧民は、典型的な共同体である。学校の原形は、僧院や修道院である。現代のイスラム教やラマ教の教団は、一つの共同体と見なされる。その観点から見れば学校も一つの共同体といえる。
地域コミュニティは、原初的な共同体の形態と見なせる。
会社もある種の共同体であるともいえる。ただ、今日、会社から共同体的な要素、非貨幣的要素が抜け落ちようとしている。又、企業を構成する従業員の主体的経営の支配下におくことによって共同体化しようとする思想は、古くからある。家族主義的経営は、その表れの一つでもある。又、生産手段を共有化することによって経営主体を共同体化しようと言うより先鋭的な思想もある。
結婚相手を捜したり、揉め事があった場合は、調停したり、病気や怪我、災害のような困ったことがあれば、助け合い、一致協力して問題に対処するのが、本来の組織のあるべき姿である。むろんそれが行きすぎてしまえば、私的生活の侵害にもなる。しかし、人間が社会的動物である以上社会コミニュティとの関わりは避けて通れないのである。
それならば、共同体をより拓かれた民主的な集団にした上で、共同体を中心とした社会を築こうというのが、共同体主義である。
最近、助け合いの精神というのが忘れかけられている。しかし、共同体の精神というのは、助け合いである。互助である。そこには、濃厚、濃密な人間関係があったのである。共同体が崩壊し始めてから、人間関係が希薄になりつつある。夫婦、親子、兄弟でもただの同居人に過ぎなくなりつつある。
そして、それが、数々の問題を引き起こしているのである。そうなると共同体の問題は、人間性の問題に還元される。人間としての在り方、他人とどう関わり合っていくのかになる。確かに、濃厚な人間関係は、いろいろな制約を生み出す。そこから、礼儀や作法も生まれる。そう言ったしがらみを鬱陶しく感じるのも無理からぬ事である。しかし、一方において、人間は、一人で生きていけないのも確かである。だから、世間と上手く折り合いを付ける必要があるのだ。結局義理と人情なのである。つまり、社会の秩序や掟と個人の感情を調和することなのである。そこにこそ、共同体本来の在り方があり。民主主義が国民という人間の集団に根ざす以上、人間関係は避けて通ることができないのである。
成功とは何か。成功者とは、どの様な人間を指すのか。それがその社会の尺度であり。経済の目標でもあるのである。金が全てだと金の亡者のような者を本当に人生の勝利者だと言えるのであろうか。競争、競争、競争で、何でもかんでも競争に勝った者だけが、勝者であり、成功者だと思い込んでいるのではないのか。しかし、競争に勝つために、大切なものを切り捨て、家族や人間性すら失ってしまったら、それを本当の成功と言えるであろうか。
以前には、成功を表す言葉に、ストイック、禁欲的な響きがあった。成功者は、ある種の境地に達した者を意味している。それは、厳しい修行や鍛錬によって到達する世界を指していた。そう言った修行者は、共同体を作って、生活をした。
清貧という言葉がある。清く、正しく、美しくという言葉もある。それらは、敗残者に向けられた言葉ではない。
無防備で、剥き出しの欲望を、これ程、あからさまにした時代はあるまい。性欲が強く、ただ、人を性欲の対象としか見ず。ありとあらゆる欲望に身を委ね、感情の赴くままに自分勝手に生きる。そんな、欲望の権化みたいな人間を褒めそやす。かつ奨励する。そんな時代、かつてなかった。 むしろ、禁欲を重んじ、修練によって自らの心身を鍛え上げる修行者こそが世の尊敬を集めていたのである。そして、彼等こそが成功者であり、世の手本、人生の勝利者だったのである。
中国にも竹林の七賢のような存在がいた。多くの人は、晴耕雨読の生活に憧れ。聖者、賢者と言われる人々の中には、世俗的な生活の一切を捨て世捨て人のような生活をおくったのである。何もない生活の中で自らを鍛えたのである。その様な人々を受け容れ、尊敬できるだけの地力が我々の祖先にはあった。
負け惜しみではなく。成功者というのは、金持ちや富裕者、権力者を指して言っているのではない。何事にも囚われず。自由で、おおらかな生き方をした者たちこそが真の成功者とも言える。何をもって成功というのかは、それは、主観的問題なのである。
金がいくらあっても何かに追われ続ける毎日、権力を握っても何ものかに怯え続ける毎日、それを成功と言えるのであろうか。貧しくとも平和で、心豊かに暮らせる者を貧しいから失敗者だと言えるのであろうか。
無能で役立たずの人間だからと言って切り捨てていったら、世の中は成り立たなくなる。付加価値、付加価値と言うが付加価値を生み出せない人間は、人並みの人間としても認められないのか。何等かの障害のある者は、この世に不要な人間というのか。字が読めないから、微分積分がわからないから、この世に存在する価値もないというのか。
弱く、欠点だらけの人間だからこそ、助け合って生きていかなければならない。そして、それこそが経済の問題なのである。経済学は、決して効率性や、経済性の問題だけに限定された学ではない。
共同体の問題は、人々が貨幣価値や市場価値が成立する以前の関係にまで立ち返らせる。それが経済の根本なのである。経済の本質は、助け合いの精神なのである。
人生の目的は、生きることであって、金を儲けることにあるわけではない。生き生きと生きよ。その時、大切のは、仲間である。その仲間こそが共同体の原点なのである。
我々の生活の基盤は、何等かの共同体だと言う事を忘れてはならない。共同体というのは、家族であり、親戚であり、社会であり、仲間であり、会社であり、学校であり、国家である。その共同体を否定したら生活は成り立たない。そのことをどこかで捨ててしまったことに現代社会の病理が潜んでいる。
家族も、親戚も、社会も、会社も単なる無機質な機関に過ぎなくなってしまった。そこでは、誰もが自分のことしか考えられない。他人を思いやるゆとりがない。相手が傷つこうと、相手の気持ちや感情を斟酌する余裕がない。
それが、社会福祉だと錯覚している。家庭や仲間を否定し、ただ、与えられた時間内のビジネスとしてしか人の世話を考えられない。それでは、時間の切り売りでしかない。幼い子は、社会全体で育て。年老いたら、家族がみんなで世話をする。そういった、全人格的な人間関係が薄れてきたのである。その根底には、家事労働や家庭の蔑視がある。家族制度の崩壊がある。
家族も契約でしかない。また、契約に基づく人間関係でしかない。契約で決められて事以上の人間関係は築けないのである。
しかし、人間の生活の根本は、本来、共同体なのである。利害を超えた信頼関係なのである。お互いが利害関係を超えたところでいざという時、困った時に、助け合える関係。それが土台にあるから、利害関係が築ける。信頼関係が成り立たないところには、土台、どんな人間関係も築けないのである。そのことを忘れたことが現代人の不幸の始まりなのである。
昔は、親も同然、子も同然と、地域の差配や大家、会社の経営者、旦那、家長が、最後には、面倒を見たのである。その最後の砦手ある共同体が崩壊しようとしている。
人間の営み、そして、情念。人の世は、人と人の繋がりである。その人と人との繋がりが失われつつある。人間は、一人では生きていけない。多くの人の支えがあってこそ生きていくことができる。それが絆である。それが共同体なのである。
絆や縁を大切にしよう。それが、共同体なのだ。我々は、生身の人間である。物ではない。血の通った存在である。そして、社会は、そう言った人間の集まりなのである。だからこそ愛憎が渦巻くのである。信じ合い、助け合い、分かち合いながら生きていかなければならない。それが人間の生業(なりわい)なのである。だからこそ、利害を超えた人間関係を底辺に持つ必要があるのである。人間としての感情を失えば、社会は根本から崩れ去ってしまう。
愛がどうのこうのという歌が流行っているが、愛をどこかに置き忘れてしまったのが現代社会の病巣なのである。
愛という言葉はあっても愛の実体が失われてしまっている。これ程、空疎なことはないではないか。
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