人生の勝ち組、負け組という言葉が流行っている。しかし、人生に勝ち負けというのがあるのだろうか。また、あったとしても勝ち負けだけで人生を計ることができるのであろうか。何をもって勝ちとするのか。現代人は、成功か、不成功かを人生の価値基準にしようとする傾向がある。成功者しか幸せになる資格がないとでも言わんばかりである。しかし、では、成功とは何かと聞くと曖昧な答えしか返ってこない。
 競争を絶対視してしまった社会で成功者というと例えば、オリンピックの金メダリストみたいなものである。
 走って。走って。走ることしか眼中になく。気がついたら、友も愛する人も誰もいない人生が有意義だった言えるのか。ギラギラと目を血走らせて、人を押し退けてでも、競争に勝つことしか念頭にない。それで、勝負に勝てたとしても実りある人生だったと胸を張れるであろうか。本当にそれで幸せな生活をおくる事できるのか。人間の幸せは、ごく限られた勝利者だけに与えられるものではないはずである。
 一体人間は、穏やかで、ささやかだが心豊かに一生を望んでいるのか。それとも、刺激的で、物に溢れてはいるが、安らぎのない人生を望んでいるのか。どちらなのであろうか。

 結局、経済は、最後は、生きると言うことなのである。どの様な生き方をしたいかに要約できるのである。

 収入と支出には、非対称性がある。収入にも、支出にも波がある。そして、収入の波と、支出の波は、必ずしも一致していない。収入と支出の波が一定していないが為に、いろいろな問題が生じる。

 生病老死。人生は、谷あり、山ありである。生きていく為の費用も、谷あり山ありである。決して平坦なものではない。

 生活というのは、人間の人生に関わるものである。つまり、短期的な周期ではなく。長期的な周期に基づく。それ故に、世代配分や生活環境、人生設計などが重要な要素となる。
二十代、三十代、四十代では、生活にかかる費用が違うのである。また、独身か、妻帯かと言った環境や条件によっても歴然とした生活費には差がでる。
 しかし、この様なことは、企業収益には、直接的な関係はない。あくまでも、個人の問題、私的問題である。
 この様な世代間の差や環境の差をまったく考慮に入れることができなくなれば、若くて、独身で、非熟練者がコスト的に見て一番最適である。必然的に、若くて、独身で、非熟練工の需要が高まることになる。しかも、結婚せずとも生活に支障がないとなれば、未婚の男女を増やすことになる。結婚する事の意味がない。結婚しなければならないと言う動機付けがなされないのである。
 結婚をしない、しないと言うよりも、結婚を望まない社会環境を先に作り上げてしまったのである。

 元来が、収入は、変動的であるが、支出は固定的である。定収化することによって収入も一定化してきたが、それでも、収入と支出のタイミングは一致していない。

 報酬は、経営主体、収入は家計、所得は、財政と各々が機能する場も違ってくる。賃金は、これらの要素が構造的に組み込まれている。また、設計されなければならない。

 現代社会は、信用制度によって成り立っている。ローンのような借金を組めるのも、一定の収入が見込めるからである。その信用制度を確立するのに、収入、所得の一定化は、重要な役割を果たしている。

 費用の中で一番重要な役割を果たすのは人件費である。経営実績を、ただ、競争力という事だけに特化させるのならば、若年の未熟練者に限り、短期間、働いてくれることが最も効率的である。その為に、企業は、作業の標準化を行い、また、パート、アルバイト、派遣社員に人員体制を移行させているのである。そうしないと生き残れないからである。また、メディアもそれを奨励している観がある。

 人間の身体的能力には、ピークがある。人間の肉体は、成長し続けるわけではない。必ず衰えがやってくる。人間は、生まれた時は、親の世話になり。また、病に倒れ、あるいは、老いたら人の世話にならざるをえない。若い時は、やり直しがきくが、年をとると、やり直しがきかなくなる。

 年齢給のように年齢と共に加算される。この様な給与体系は、社会の慣習や人生計画をもとにして形成される。社会の容認がなければ成立しない。例えば、年功序列のような元が崩れれば成り立たなくなる。社会思想なのである。

 競争だけを重視するならば、若くて未熟練な人間だけをこき使えばいい。現に競争社会では、年功など意味がなくなり、年齢や勤続年数が加味される正社員から、原則、年齢や勤続年数が加算されない派遣社員に雇用が移行する傾向がでている。

 高齢者は、高給取りの割に、能力が低いという事になる。金銭的だけで判断すれば、高齢者に冷淡な社会になる。そして、高齢者を排除しようとするようになる。早期退職制度などその典型である。年をとり、役に立たなくなったら、早く辞めて欲しいである。確かに、効率や生産性から見れば正しいかもしれないが、しかし、その様な社会を我々は望んでいるのかとなると、話は別である。
 高齢化社会の到来と言いながら、高齢者から働く場を奪い取っている。働く場を奪い、生きる場をなくし、生き甲斐すらも取り上げようとしている。お為ごかし、遊んで暮らしてくださいと言いながら、体よく、社会から抹殺しているに過ぎない。役に立たないといって放り出すくらいならば、やりがいのある仕事を用意することの方が、どれ程、喜ばれることか。

 経済の本質は、労働と分配である。競争でも、効率でもない。経済の目的は、効率よく財を分配することであって。闘争や競争が目的なのではない。豊かで安定した生活を送れるようにするのが目的である。
 分配の問題は、分配の基準を何処におくかの問題である。突き詰めれば、必要性か、成果かである。経済の根本は必要性であり、成果だけで判断すべき事ではない。

 ヨーロッパでは、若くて再就職が可能なものから解雇されるような制度がある。何を重視するかの社会的な合意が成り立っている社会かどうかである。

 人は、生きていく為に、いろいろな資金が必要となる。その資金も、毎日の生活に必要な資金以外に、人生の節目、節目にいろいろな出費が嵩むのである。人は、生まれてから死ぬまでの間の出来事の都度、費用が生じる。生まれては、出産資金。そして、教育資金。結婚資金。育児資金。家を建てれば、住宅資金。そして、年老いれば、老後の資金が必要となる。そして、人生の最後には、葬式の資金が必要となる。誠に、地獄の沙汰も金次第である。
 その他に、突発的な費用として、病気や災害に対する備えもしておかなければならない。
 支出から見ると人生も違ったものに見える。三十代、四十代の子育て世代が一番、出費が嵩む。

 結婚をして、育児にかかる費用を考えると、支出を考えると結婚に二の足を踏むのもわからないでもない。老後の面倒を国が見てくれるのならば、何も好き好んで、煩わしい苦労を背負うこともない。男も女も、独身時代を謳歌し続けていたいと考えても不思議はない。少子高齢化対策として、社会福祉を充実するという間は、ある意味で逆効果である。家族という共同体の結束を高めることが、少子高齢化に対する根本的な対策なのである。

 今の日本人の錯覚は、一人でも生きていけると思い込んでいることなのである。だから、引き籠もることができる。引き籠もる以前に餓死してしまう社会では、引き籠もることさえできないのである。つまり、生活がどこまでも保証されているという錯覚である。

 今、日本は、年金問題に揺れている。定年退職後、年金が支払われるまでの生活費が馬鹿にならない。年金が支払われる年齢になっても、年金がもらえるかどうか、ハッキリしない。社会保険庁の対応からすると、最初から年金を払う意志などなかったのではとすら思える。
 団塊の世代は、ローンの支払いが終わって、退職金をもらい、尚かつ、六十で年金が支給される。しかし、これからの世代は、定年退職時には、ローンの支払いが残っていて、尚かつ、退職金を充てても払いきれない上に、年金の支給も六十五を過ぎないとはじまらないという事すら考えられる。ところが、まだまだ甘く考えている。
 再就職のままならずに、借金も残り、尚かつ、年金ももらえないとなれば、生活が破綻するのは目に見えている。しかも、以前のように、子供が親の面倒を見るなどと言う事も期待できない。一体、どうするつもりであろうか。

 誰の世話にもならないで生きていくと若い頃は、強がって見せても、年をとって体が言う事をきかなくなれば、強がってばかりは、言っていられない。

 昔は、老後の保障などどこにもなかった。子供が頼り。だから、親孝行を一番の徳目に据えたのである。子供は、自立すると家に仕送りを入れたものである。年老いた両親の世話をするのは、当たり前であった。大家族制度の下では、苦労も、厭な事も多いが、反面、助け合うこともできた。今のように見捨てられるなどという事はなかった。家族は、運命共同体だったのである。 
 今は、ある程度、国や自治体が見てくれると言うのが建前である。しかし、それとてもいつまで当てにできるかわからない。それに、いくら金があっても、寄る辺ない境遇に置かれれば、金などいくらあっても虚しいだけである。老後の保障ほど当てにならないものはない。金だけが頼りの人生を、我々は、究極的目的としてきたのであろうか。

 サラリーマンは、潰しがきかない。勤めていた会社という後ろ盾あったから、曲がりにも仕事ができたのである。辞めてしまえば、ただの人である。今更、新しい技術を身につけろと言われても若い者には勝てはしない。
 孤児や寡婦は、社会や親族が面倒を見た。だから、社会保障制度がなくても生きていけたのである。それがコミュニティ、共同体社会である。しかし、今は、施設に頼るしかない。
 現代社会は、それを金の問題と割り切っている。しかし、金だけで片づく問題だろうか。本来それは、人と人、人間関係の問題なのである。それを貨幣に象徴させているに過ぎない。象徴している金だけが残り、人間関係が失われれば、それは、虚しいものである。

 夫婦関係を離婚したときの慰謝料にだけ要約されたら、こんな哀しいことはない。慰謝料だけで夫婦関係は全て清算できるのか。愛し合ったことなど無意味なのか。親子も、夫婦も、親友も、金の縁しかないというのか。

 家族は、運命共同体である。否、運命共同体だった。今は、家族と言ってもバラバラである。運命共同体である家庭内には、市場経済も貨幣経済も機能していない。運命共同体である家庭内に市場経済や貨幣経済を持ち込めば、家庭は崩壊する。

 若い頃に稼げるだけ稼いで、後は、悠々自適な生活をと思っても、時代の変遷や環境の変化を考えるとそうとも言っていられなくなる。極端なインフレになれば過去の蓄積などあっという間に消し飛んでしまう。働ける内は、自分の力で生活費くらい稼げないと不安で堪らない。収入が途絶するというのは、絶望的な恐怖を与えるものである。だから、人は、金に固執する。
 
 経済は、基本的には、生活の問題であって、競争の問題ではない。つまり、配分の問題なのである。極端な格差が貧困の問題である。貧困は、配分、相対的な問題であって、絶対的な問題ではない。絶対量の不足は、貧困ではなく、災害である。

 競争ならば、相手の息の根を止めるまで戦う必要はない。しかし、経済では、相手の息の根を止め、あるいは、呑み込み、叩き潰さなければ、争いは終わらない。市場は戦場なのである。

 人件費には、私的な側面と公的な側面があり、また、人件費は、第一に、報償、第二に、収入、第三に所得という性格がある。報酬と所得は、私的な側面であり、所得は、公的な側面といえる。そのうえに、人件費は、消費と生産の両側面がある。
 報酬は、自分の労働に対する評価が根本にあり、収入は、生活をしていく上での必要性が基礎となり、所得とは、社会的な意義が根本となる。
 労働の対価、評価の裏付けとなる実績や成果が、報酬を計算する上での尺度基準となる。それは、基本的にその人の持つ身体的能力や適正、そして、労働の質が変数となる。
 それに対し、生活上の必要性は、年齢、家族構成、物価、人生設計と言った生きていく上での前提条件が計算上の変数となる。
 所得というのは、可処分所得、最低賃金、所得の再分配、社会保障、所得税などを計算する上での基礎となる要素である。

 競争原理主義者は、公正な競争、公正な競争と何かというと公正な競争を言うが、未だかつて公正な競争など実現したためしなど一度もない。市場原理主義者は、規制を緩和し、極力、政府の介入を少なくすれば、公正な競争が実現すると思い込んでいるが、それは、むしろ逆効果である。競争ではなく、生存闘争になってしまう。ルールがあってスポーツは成り立つのであって、ルール、即ち、規制をなくせばそれは、闘争であり、戦争である。

 競争ならば、相手の息の根を止めるまで戦う必要はない。しかし、経済では、相手の息の根を止め、あるいは、呑み込み、叩き潰さなければ、争いは終わらない。市場は戦場なのである。

 生活給というのは、生活を基準にして給与を決める給与体系である。純粋の生活給は、労働は、切り離された要素で給与が決められる。つまり、個人個人の働きは、給与にまったく反映されない。

 我が国では、1946年に、「電産型賃金体系」(「賃金決定の手引き」 笹島芳雄著 日本経済新聞社 日経文庫)が確立するが、電産型賃金体系では、実に、4分の3程が、年齢、家族数、勤続年数に基づいて決められる。

 確かに、全てを生活給にしろというのは、乱暴な話である。しかし、だからといって全てを成果配分にしろと言うのも極端な話である。根本にあるのは、自分達の社会をどの様な社会にするかという基本的な合意である。

 この世の全てを競争の原理に委ねてしまい。効率化の大義に沿って無駄を削ぎ落としてしまえば、社会的弱者は、生き残れなくなるであろう。そして、社会を構成する者は、圧倒的に弱者が大部分を占めているのである。

 現代社会は、効率性や競争力ばかりを追究して、継続性や必要性は、切り捨てられている。利益の意味も、効率性や生産性の結果でしかない。しかし、効率性や競争力に社会性は乏しい。本来、社会は、弱者にこそ恩恵を与える仕組みなのである。そこに社会の意義がある。利益もまた、その社会性を支える概念であるべきなのである。

 要するに、自分達はどの様な社会を望んでいるかが重要なのである。



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