資本の概念は、資本主義の中核的な概念である。資本の概念が確立したことで、資本主義体制が成立したと言っても過言ではない。
資本の概念は、資本主義の核となる部分である。資本主義の核となる概念である資本の概念が会計的概念だと言う事は、資本主義は、会計主義とも言える。
資本には、第一に元という意味がある。第二に、差という意味がある。第三に、信用、第四に、保証、第五に、保険、第六に予備、第七に、準備、第八に、留保、第九に、蓄積、第十に、余剰、第十一に価値、第十二に、所有という意味がある。
そして、これらの意味は、資本の算出根拠、あるいは、前提となる。
元というのは、出資額を意味する。差は、純資産や企業価値をの根拠となる。元という意味は、元金、元本という意味があり、金銭的に固い部分、絶対額をさし、取得原価主義、総額主義に基づいていると見なせる。差とは、非貨幣的あるいは、時価主義という意味もある。つまり、相対的価値、純額主義である。
信用、保証、保険が意味するところは支払い能力を意味する。何に対する支払かというと、投資家、債権者、仕入先、従業員、納税に対する支払保証である。また、信用、保証は、債務の根拠となる。つまり、支払い能力は、借入を裏付ける。
留保や蓄積、余剰は、利益を根拠とする解釈であり、同時に取り分を示唆する。利益が意味するところは成果でもある。
準備、予備、留保は、事業の継続の原資を意味する。
準備とは何に対する準備かというと支払準備であり、清算、更新、年金、退職金と言った長中期的支払や為替の変動、原材料の高騰、景気の悪化と言った非常時、緊急時、臨時などの短期的、一時的な資金に対する準備である。準備に積立金という意味もある。
価値とは、企業価値を意味する。つまり、株の取引価値、株の時価総額、企業の合併、買収、また、清算価値のような価値の算出根拠である。
資本を性格付ける要素の一つが所有権である。経営主体から所有権を抽出し、独立させて所有権者を部外者、即ち、所有権の所在を外部に設定した点にある。この事によって、所有権と経営権が分離し、資本が独立した概念として成立したのである。
資本の概念は、私的所有権と不可分に結びついている。資本の概念が私的所有権と不可分に結びついているという事は、経営の所有者は誰かと言う事を規定することになる。それが資本主義の根本思想を構築する。
資本主義には、株主資本主義、金融資本主義、国家資本主義などがあるが、それは、この経営主体の所有権に関連した思想である。
また、経営主体の所有権と経営権が分離することによって成立した。それが資本と経営の分離を促したのである。資本と経営が分離することによって、継続企業、期間損益の概念が確立された。そして、資本の概念は、期間損益の概念ともリンク(連結)していたのである。
これらの一連の現象から資本市場が派生し、形成されたのである。
そして、この様な資本に対する認識が、資本の意味を資本金、資本(純資産)の部、純資産、株の時価総額、総資本などの解釈の違いになる。
生産手段の所有の在り方が、自由主義、社会主義、共産主義の言った経済体制の違いである。資本主義の特徴の一つは、生産手段の所有権と経営権を分離した点にある。資本というのは、生産手段の所有権を意味する場合もある。
言い換えると資本の在り方が、国家の形態を規定しているとも言える。資本の所有者、そして、資本の在り方や定義の仕方によって資本主義、社会主義、共産主義の定義もより明確になる。
経営者が、生産手段を所有する形態、生産手段を借りる形態、生産手段を委せられる形態がある。
生産手段を委せられるというのは、雇用されることを意味し、予め決められた、あるいは合意した基準によって報酬が支払われる形態を意味する。
つまり、資本の在り方は、雇用の形態をも決めてしまう。この点は以外に見落とされているが、資本の在り方、所有者によって雇用、即ち、分配の手段が確定する事にもなるのである。
純粋の資本主義というのは、使用者と労働者が分離された分配構造に収斂させたる事を目的としている。それが資本家と労働者、資本家と経営との分離にも結びつくのである。この資本家が国家に置き換わった形態が国家資本主義である。そして、国家資本主義の形態は、社会主義や共産主義にも結びついていくのである。
それに対し、自由主義というのは、本来、経済的に自立した個人、つまり、個人事業を基盤として経済体制を指して言うのである。
自由主義が資本主義と共存できるのは、資本主義が未成熟で個人事業が成立する市場においてだけである。必ずしも自由主義と資本主義は同じものではないと言うことを忘れてはならない。
混合経済だと言う事は、家計と財政という資本概念を持たない経済主体と企業という資本概念に基づく経営主体が混在していることからも言える。
つまり、純粋な資本主義というのは、現時点では存在しないのである。
現実の経済は、混合経済がほとんどである。純粋の自由主義経済や社会主義経済、共産主義経済体制というのは、ほとんどみられなくなった。自由主義のメッカであるアメリカでさえ、銀行の国有化が俎上に上がっているくらいである。
経営者に求められるのは、一つは、組織運営者の側面であり、もう一つは、組織設計者の側面である。それは、組織形態の在り方が企業経営の在り方を規制するからである。同様のことは、国家についても言える。
国家の為政者は、国民から委託を受けた、いわば経営者と同じ立場にある。国家の所有権は、主権者にある。そして、国家経済の仕組みを規定することは、国家経済の有り様を決定することに繋がるのである。ただ、企業経営と財政と決定的に違うことは、財政には、資本という概念がないことである。
資本主義にとって資本の概念は、元々基礎となる概念である。しかし、それでありながら、資本の概念は、曖昧である。それが資本主義という概念を曖昧なままにしているのである。
資本主義といい、資本と言いながら、2006年5月1日、会社法の施行以降、会計の世界から資本の部が消えてなくなる。純資産の部と名前が変えられるからである。それ自体、私は、悪い事だとは考えない。
しかし、問題は、キチンとした議論がなされていないのではないのか、これまで、資本としてきた意味はなんなんだったのか、純資産とはどんな意味が含まれているのかについて、何の検証もされないままに、会社法の成立によって、名称をただ変えただけに過ぎないのではないのか、と言う事を私は懸念するのである。
資本とは何か。資本とは、返済する必要のない資金という説明がある。又は、自己資本とも言われる。しかし、これが何を意味しているのかが、不明なのである。
返済する必要のない資金と言うところが、資本の味噌なのである。返済する必要がないというのは、どう言うことを意味しているのか。なぜ、返済する必要のない資金を投資家は、提供するのか。
資本は、株主取り分だと言う解釈もある。では、株主取り分とは何か。しかし、返済する必要がないならば取り分を決め手も仕方がない。
資本は、株式会社の成立動機が、重要な意味を持つ。返済する必要がなかったのではなく。元々は、返済していたのである。株式会社の前身は、当座企業だったのである。
1602年、世界最初の株式会社といわれる「オランダ東インド会社」が、「イギリス東インド会社」の10倍の出資金にあたる訳650万ギルダーの資本を集め発足した。「オランダ東インド会社」が世界最初の株式会社と言われる由縁は、投資家の有限責任を明らかにした点、永続的な海商企業だと言う点である。出資は、10年間固定され、10年後に「一般的清算」が行われ、以後希望者にのみ入退社が許された。(「東インド会社」浅田 實著 講談社現代新書)
「イギリス東インド会社」は、「オランダ東インド会社」に先立つ1601年に6万8373ポンドで発足したが、16050年頃までは、数航海をまとめた「合本企業」であり、その都度、資産を分割する「当座企業」だった。それが、1605年、ピューリタン革命によって成立したクロムウェルの共和制下で「合同合本制」になり、その都度、資本を分割するのではなく、収益分のみを株主に与える「配当」制がとられるようになる。これらの改革の結果、「株式」(シェアー)は、売買が自由な証券となったのである。(「東インド会社」浅田 實著 講談社現代新書)
株式会社の起源は、第一には、冒険商人による当座企業である。第二に、東インド会社のような国家的事業。また、この様な国家的事業以外の私的事業は、身内や志を同じくする者が、資金や資源、労力と言った持てる者を出し合って設立した。第三に、身内や志を同じくする者達が、持てる資源、資金、労力を出し合ったことである。ただ、本家本元のイギリスでは、南海バブルの後遺症のために、長い間、小規模の株式会社の設立は、制限されていた。
株式会社の前身は、当座企業だったのである。それが、第一に、有限責任制度の確立。第二に、継続会社。第三に、期間損益の確立と配当度の確立。第四に、株式売買の自由。第五に近代会計制度の確立と言った要素によって、近代資本主義は確立されたのである。
返す必要のない資金という資本の性格は、株式会社が成立された起源に形成された。つまり、元々、かえす必要のない相手を対象にした資金だったのである。返済される当てのない資金という資本固有の性格は、成立しない。当初は融資ではなく、拠出になってしまうからである。
返される当てのない事業に誰が資金を提供するであろうか。その様な発想は、資本主義が確立される以前には、見あたらない。あるとすれば、所謂(いわゆる)、何等かの慈善事業や宗教団体に対する募金、拠出金、基金のような性格のものである。返済される当てがない資金ではなく、元々は、都度清算してきたのである。それを都度精算する手間を省き、企業を事業を継続することによって資本は成立したのである。故に、資本を自己資本と言い、借入を他人資本と言って区分するのである。当座企業から発展したからこそ、資本は成立できたのである。
株式会社というのは、極めて運命共同体的傾向の強い機関だったのである。それが、会計制度の確立に伴って期間損益の確立、株式の売買の自由などが成立し、はじめて資本主義の土台が出来上がったのである。
この様な共同体的思想が、生活協同組合、農業協同組合のような思想や制度を派生させているのである。
資本は、最初から返済する必要がなかったのではなく。返済する必要がなくなったと考えるべきなのである。そして、返済する必要がなくなったことで、資本主義は確立されたのである。
資本を考える際、減価償却に対する考え方を参考にすると違った見方が出来る。減価償却費というのは、資金流出のない費用という見方があるが、これは間違いである。減価償却費は、資金の流出を伴っている。ただ、その資金流出が期間損益の費用という形で認識されないと言うだけである。つまり、減価償却費の相対勘定、即ち、実際に費用流出を伴う勘定が認識されていないと言うだけである。では、その相対勘定は何かというと、資本勘定と負債勘定である。即ち、減価償却費として処理されている取引は、直接、負債勘定や資本勘定から差し引かれていることを意味する。これが、会計上、資金の動きを見えにくくしているの原因である。
減価償却に対応するのは、長期資金の動きである。つまり、基本は、長期借入金の元本の部分であり、資本である。長期借入金の元本というのは、負債と見なされるが限りなく資本に近い性格を持っている。翻ってみると資本というのは、長期借入金の元本が変質した部分とも言える。この長期借入金が負債の基幹を形成し、負債の性格を規定している。 長期借入金がなぜ、資本化したのかと言うところに鍵がある。借り手側からみると、返済することが出来なくなった負債、あるいは、貸し手側からみると返済されては困る負債が滞留し、資本化したとも言えるのである。金融危機になるとこの負債の曖昧な部分が企業活動に対して負の作用を及ぼす。それが返済圧力である。この返済圧力を回避するためには、長期負債を資本化する必要がある。つまり、元本と金利を分離し、元本の部分は、解散の時、つまり、清算する時に出資者に返済する、それが資本だとも言える。つまり、資本というのは、長期借入金の元本部分が変質したものとも言える。
最初から儲からないと思うことに投資する者はいない。投資するからには、初めは儲かると思っているのである。しかし、儲かるか儲からないかは、はじめてみないとわからない。そこにリスクがある。資本主義は、そのリスクをだけが負うのかによって成り立っている。
創業者利益や投資家利益はリスクに対する配当である。それは、当座企業の流れを汲んでいる原則である。投資というのは、未知数が大きい。いわば賭である。しかし、投資家がいなければ、新規事業は成り立たない。だからこそ、成功報酬も大きいのである。また当然それを期待して投資するのである。商業は、慈善事業とは違う。ただ、資金や資源を拠出しているのと訳が違うのである。
日本人は、その点を理解していない。日本人は、資本主義ある程度確立されてから、資本主義の制度だけを輸入した。それ故に資本市場が形骸的なのである。その為に、金融が強くなった。つまり、返済されることを目的とした融資が盛んなのである。そして、投資を賭け事のように捉える傾向がある。投資とは、本来、志なのである。事業への賭なのである。だから、一か八かなのであり、事業に対する洞察力が重要となるのである。
会計というのは、手段道具に過ぎないのに、会計に支配されている。費用の有り様も然りである。本来は、費用は、事業に必要な資源、資金、労力からなる物なのである。ところが、費用は、あたかも企業にとって負担でしかないような考え方が支配的である。また、費用は、当然の支出である。この支出によって成り立っている企業、家計、社会がある。ただの邪魔者だと思っていたら費用の持つ建設的な要素が見失われてしまう。費用にとって大切なのは、収益との均衡なのである。要はバランスなのである。
事業は、継続しなければならないと言う宿命を負っている。それは、事業には、人的側面があるからである。そのことを経済学者は見ない。儲からない産業は淘汰すればいいといとも簡単に言う。進化論の間違った認識である。投資家に対する責任の上からも淘汰すればいいと言うのは成り立たない。問題は、事業の目的や役割、内容なのである。
収益というのは一定していないという事を忘れているのである。つまり、収益は変動するのである。短期的に調整するのには限界がある費用が沢山ある。
事業は、志である。事業家や投資家が何を志すかである。ただ、金儲けだを目的とした事業は、長続きしない。一時的に栄えたとしても、結局は、求心力を失うからである。資本の問題も行き着くところ志にある。そして、資本の根底にあるのが定款なのである。事業において志が見失われてから久しい。その原因は、経済の根本理念を確立しなければならないはずの経済学が、人間に対する洞察を欠いているからである。
企業が人間集団であることを見落としてはならない。
一口に、資本いっても、いろいろな意味がある。しかも、使い方や使う場所、使う人によって資本という言葉は、全然違った意味になるから厄介なのである。それでいてまったく違うかというと、そうとも言い切れないのである。
確かに、資本という意味と純資産という意味はある。しかし、では、純資産だけを資本というのかというとそれも違う。むしろ、資本を純資産と言い換えなければならなかった事情がそこに隠されている。純資産という意味は、総資産から負債総額を引いたものである。それに対し、資本には、純資産という意味の他に、元手、出資金、内部留保、累積(未処分)利益、株主持ち分、会計上の資本の部、資本金などの意味が加わる。
そして、それぞれの概念が、資本の意味の断面を現している。その為に、一概に資本を定義することが困難なのである。
資本という考え方の根本には、投資という考え方がある。そして、それが当座企業から継続企業となり、資本の分割から配当へと思想を変化させることによって、株主持ち分という思想が派生したのである。それは、利益の累積も意味した。事業に、資金や資源、労力を提供することによって事業を共有するという意味合いであり、清算価値を当てにしているわけではない。むしろ継続企業として、企業の永続性を期待し、共同体の一員である事を前提している。だから、資本には、利益の累積という概念も加味されるのである。また、債権者に対する保障という意味も、投資家の有限責任制度から導き出される。つまり、資本家というのは、企業運命を伴にする同志という考え方が根本にある。だから、提供した資金に関しては、返済を求めないのである。
故に、資本という概念と純資産を安易に重ね合わせるのは危険である。純資産というのは、会社を清算することを前提として成り立つ概念だからである。むろん、本来的な意味で言えば、会計上、資本を純資産と呼ぶ方が単純明快である。しかし、資本の部を純資産としたことで、純資産という概念の中に資本の概念が取り込まれてしまう危険性がでてきたのである。
だいたい、純資産は確定した数字ではない。純資産というのは、創作された、創作する数字なのである。
故に、ここでは、資本と純資本とを分けて考えることにする。
資本、即ち、純資産は、清算価値である。資本は、投資家の取り分でもある。投資家の持ち分というのは、企業を清算した時の投資家の取り分を指して言うのである。つまり、資本というのは、会社を清算した後の残高を指して言うのである。
資本は、利益の累積によって保たれる。損失が重なれば、資本は食い潰され、欠損となる。故に、資本は、利益に連結、リンクされている。
利益は、税と配当、報酬と内部留保(資本)に配分される。故に、利益は、徴税者から見て、所得、即ち、納税原資である。又、株主にとって配当の原資であり、経営者にとっては報酬の原資である。さらに、債権者にとっては、保証金である。しかし、本来は、利益は資本の一部である。
資本は、経営側から見れば出資金、投資家から見れば投資という意味を持つ。それは、株主持ち分をも意味し、投資家にとって配当(分け前)の原資でもある。また、資本は、経営主体の所有権をも意味する。故に、投資家にとって経営主体は、株主、即ち、投資家のものだと言うことになる。
この様な経営主体と投資家の関係を明確にしたのは、株式会社という仕組みである。
それに対し、債権者にとって資本は、過去の利益の蓄積であり、内部留保である。債権者というのは、経営者側から見ると借入先であり、債権者側から見ると融資先である。ただ、債権者は、金、即ち、金融業者のみを指すのではなく。物や労働力の提供者も指す。つまり、取引業者や労働者・従業員も指すのである。
この場合の資本は、純資産を基礎としている。
では、この様な資本の基礎となる純資産は、貨幣的に確定した価値を持つのかというと、何を貨幣的な基準化にするかによって変動する、即ち、曖昧なのである。純資産は、非貨幣性資産なのである。
なぜ、純資産が非貨幣性資産なのかというと、負債は貨幣的に確定していても、総資産の中に、非貨幣性資産や未実現利益が含まれていて貨幣的に確定していないからである。それが問題を難しくしている。
新会社法では、貸借対照表の純資産の部において、資本金、資本剰余金、資本準備金、その他資本剰余金、利益剰余金、利益準備金、任意積立金、繰越利益剰余金、自己株式、評価・換算差額等に区分され計上される。
新会社法も、新会社法の母体となる商法も債権者保護を第一義としている。それに対し、証券取引法は、投資家保護であり、税法は、徴税原資の確保である。そして、これらは全て、利益処分に関わっているのである。つまり、利益はどこに帰属するかの問題であり、それは、利益と資本との関係から導き出されることなのである。
新会社法が施行される以前の商法の考え方は、資本と利益とを明確に区分することを原則としていた。それは、債権者保護の観点から、企業基盤、事業の継続性を支える「資本」の部分と、経営活動を通じて生み出された分配可能部分、すなわち、「利益」の部分を明確に区分することで、債権者の権利を保護することである。
尚かつ、資本は、債権者の権利を担保するために法的に資本や利益を確定しておく必要がある観点から、資本の貨幣的価値を明確に定義しようとしたのである。
商法では、第一に、資本金。第二に、法定準備金。第三に、剰余金と区分し、更に、法定準備金を資本準備金と利益準備金の区分し、資本準備金を株式払い込み剰余金、減資差益、合併差益に区分する。また、剰余金(欠損金)を任意積立金と当期未処分利益に区分する。(「商法と税法の接点」田中久夫著 財経詳報社)
資本の問題は、企業実体とは、何かと言う点に、行き着く。それは、企業の実体的主役、主体とは何かに対する認識を意味する。又、企業の所有権の問題ともなる。それが法人の概念に結びつくのである。それ故に、資本を考える時、法人と言う概念が重要な意味を持つのである。
法人というのは、自然人以外で法的に人格を与えられた組織や事業体である。法的に人格を与えられるとは、自然人と同様の諸権利を有することを意味する。例えば、自然人と同じように、物的所有権や知的所有権を認められる。法人は、法律の規定によってだけ成立する。(広辞苑)
商法と税法では、法人は個人の集合体と見なし、その成果は、最終的に個人な帰属とすると見なす。(資本主理論、法人擬制説)をとる。
株主が有限責任しか負わないことから、債権者を保護する目的から、資本の維持拘束をして、債権者の権利を担保しようとした。その為に、一定額の利益準備金の積立を義務づけしてきたのである。
それに対し、証券取引法の基となる企業会計原則では、投資家保護の観点から、企業をいこの独立した法人、実体と見なし、経営活動の成果は、企業に帰属すると考える。(企業体理論)経営の成果を企業実体に帰属させることによって、法人と投資家とを明確に区分し、責任の所在を明らかにするのである。(「商法と税法の接点」田中久夫著 財経詳報社)
会計原則でも資本と利益の区分を明確にすることを求めているが、それは投資家保護の観点からのものであり、資本と利益を明確にする目的は、資本は、企業を継続していくための原資であるという点にある。
その上で、資本を資本金と剰余金と大きく二つに区分し、剰余金の中を第一に、資本準備金、第二に、利益準備金、第三に、その他の剰余金に区分する。資本準備金と利益準備金の内訳は、商法に準じるが、その他準備金の内訳は、その他の資本の剰余金、任意積立金、当期未処分利益に区分される。(「商法と税法の接点」田中久夫著 財経詳報社)
税法では、資本の額と資本積立金、利益積立金の大きく区分され、資本の額とは、資本の金額又は出資金額とされる。また、資本積立金の内訳は、株式払い込み剰余金、減資差益、合併差益、再評価積立金、その他に区分される。(「商法と税法の接点」田中久夫著 財経詳報社)
ライブドアによるフジテレビの買収劇や、ヘッジファンドによるM&Aが盛んである。企業合併や買収による産業の再編もあちこちで見られる。それらは基本的に資本の論理が背景にある。
株は、時々悪さをする。それがバブル現象を引き起こしたり、業界を混乱させたり、金融不安を引き起こしたりする。その原因は、資本が独自の市場価値を持ち、企業本来の経営実態から乖離したところで取り引きされている。
そして、企業の実態から乖離したところで市場が形成されて、投機の資金を呼び寄せてしまう。そして、資本市場が、賭場、鉄火場と化してしまうことが往々にあるのである。
株には、二つの価値がある。二つの価値とは、キャピタルゲインと配当性向である。この二つの価値は、株の二面性を現す。そして、この二つが、市場価格を形成する。
株価は、投資に対する配当が本来の筋で、配当性向で決まるものである。つまり、株の価値は、企業業績が基礎にして株価は、付随的に決まるのである。しかし、現在の株価は、キャピタルゲインに左右されて決まる。つまり、株の価格が主で企業業績は従の関係になっている。犬が尻尾に振られると言った現象である。
バブル崩壊後、日本は、長い停滞期に入ってしまったように見える。バブル期は株や土地に代表される資産の急騰現象が起こった。それが、バブルが崩壊する急転して、市場が縮小していくことになる。
目の前で起こっている現象に目を奪われ、本質を見失ってはいけない。バブルという現象、つまり、株価の高騰に代表される、資産価値の膨張現象である。しかし、資産価値を膨張というのは貨幣が引き起こしている現象なのである。本来、株価というのは、企業業績に基づいて形成されるものである。しかし、バブルの時は違う。企業の業績とは無縁の所で株価が、形成される。それは、本来の資本市場に働く原則と違う原則によって動かされているのである。
バブル現象は、一見、資産価値の含みを増加させることにより、企業経営には、プラスに働くように思える。しかし、本来資産価値から生じる利益というのは未実現利益である。資産から生じる利益というのは通常の営業活動、経営活動とは、次元を異にする利益である。資産価値が急激に膨張しても、収入があるわけではない、又、借入が減るわけでもない。又、バブルによって膨張する資産は、主として、固定資産であり、流動性の乏しい資産である。見せ掛け上の利益である。しかし、資産の膨張には、思い掛けない、コストやリスクが発生する場合がある。例えば、配当コストや事業継承時に発生する納税コストである。
株価の高騰には、その背後には、過剰流動性、金余り現象がある。つまり、単純に財の需給からだけでは説明が付かない部分があるのである。貨幣、即ち、通貨の動きを理解する必要があるのである。
貨幣価値というのは、財の市場価値、即ち、交換価値を測る尺度に過ぎない。貨幣それ自体が価値を持つわけではない。また、貨幣価値というのは、相対的な尺度である。貨幣価格を決定する要因は、市場に流通する財の総量と同じく市場に流通する通貨の総量の均衡である。つまり、財と通貨の需給によってである。
通貨は、財の価値を測る尺度であるが、財の量に釣り合うだけの通貨が供給されるとは限らない。市場の状況は予測不可能であり、市場の需要に供給が釣り合わないことがある。通貨の供給量が過剰になれば、過剰流動性を引き起こす。流動性が高まっただけでは、問題がない。ただ、資金は、ただ寝かせておくだけでは、価値が劣化する。少なくとも手元に置いておくだけでは金利負担分だけ、価値は劣化することになる。故に、資金は、常に、運用先、投資先を求めている。余剰の資金は、資本市場や金融市場に流入してバブル現象を引き起こすことがある。
この様にして、流入した資金は逃げ足も早い。それが急速にバブルが膨れあがり、急速に萎(しぼ)む原因でもある。特に、資本市場や金融市場、為替市場は、市場心理に大きく左右される。
得になると思えば強気になる、反面、弱気になると、とことん臆病になる。欲得が渦巻く世界なのである。それ故に、危機になると流動性の高い資産に乗り換えるという傾向があるからである。つまり、現金を握って話さなくなるのである。とたんに、資金が市場に出回らなくなる。
この様に、資本には、資本の論理が働く。ただ、この場合の資本の論理というのは、投資という論理ではなく。資本市場の市場の原理である。
以前は、資本というのは、明確なもの、確定したものとして考えられていた。しかし、実は、資本を表す金額というのは、帳簿上の金額に過ぎないのが明らかになってきた。しかも帳簿上に現れる数字には、非貨幣的な要素が多分に含まれているのである。
かつては、商法には、資本には、資本充実の原則、資本不変の原則、資本確定の原則、などの原則があったが、現在は、これらの原則が無効になりつつある。それは、非貨幣資産である純資産を貨幣価値で確定しようとしたことにある。
その為に、商法を改正し、それまでの会社法に一部吸収させることによって新会社法を制定したのであるが、資本の本質そのものを法によって改正することはできない。
資本主義の長所も欠点も資本の在り方に関わっている。資本の在り方を見なし、企業が本来あるべき姿を確立することが、迫られているのである。
2007年のリーマン・ブラザーズの破産に端を発した金融危機に際し、金融機関への資本の注入が実施された。日本のバブル崩壊後の長い経済停滞を脱する際にも、金融機関に資本が注入された。そして、それが、金融機関の国有化に繋がると言う事も懸念されたのである。
また、BISの自己資本規制によって多くの銀行の行動規範は、実際的な拘束を受けている。
近年グローバル化が叫ばれる中で、産業再編が進んでいるが、その中核的手段は、M&A、即ち、資本の動静である。
この様に資本の在り方や資本取引は、国家体制のみならず、世界の経済体制をも決定する大事なのである。
Since 2001.1.6
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