経済の現状

日本経済の現状について

13 収益力を改善する。




付加価値の総量を変化させるのは、収益と投資である。なぜなら、収益と投資は、生産と支出を変化させるからである。

総所得を改善する為には、儲ける事以外にない。儲ける為には、収益力を改善する必要がある。
儲けるとは、付加価値を上げる事である。総所得は、付加価値を言うのである。会計は、付加価値を測定し、維持する為の仕組みだとも言える。ところが、現代社会の指導者は、見受ける事は搾取であり、悪だという思い込みの囚われていて、何でもかんでも安くすればいい、その為には競争させればいいと決めつけている。
それが景気を改善できない最大の原因である。
物価や給料が上がったからと言って経済が活性化するわけではない。経済を活性化するのは経済活動である。生産、労働、消費、投資、取引等と言った経済活動が活性化しないかぎり経済は活性化しない。物価や所得は、経済活動の結果であって原因ではない。

収益を考える場合、長期的資金の動きを絡めて考える必要がある。一見利益が上がっているように見えても資金繰りがつかなくなり、破綻する例は、珍しくないのである。
例えば、家計でも定職に就いている時は、ローンの支払いは、表立たないが、失業して定収入が途絶えると途端に深刻な問題として浮上する。この様にローンのような長期的に一定額を支払い続ける様な、しかも、直接的な消費に結びつかない支払は、潜在的な脅威として存在している事を忘れてはならない。収入の持つ働きは、この潜在的な圧力を抜きに考える事は出来ない。

多くの有識者には、民間企業は儲かっていて現金や預金を内部留保に貯め込んでいるという錯覚がある。現金預金を内部留保に貯め込んでいるというのならば、なぜ、税法上の欠損企業が7割以上もあるのか。多くの民間企業は、過去の含み益を取り崩して何とか凌いでいるのに過ぎないのである。
儲かっているのならば、人件費を上げろ、投資をしろというのに答える事が出来るが、納税の結果が示すように7割以上の企業が赤字なのであり、その多くを占めるのは中小零細企業なのである。儲けがないのに、人件費を無理にしたり、投資を無理強いをすれば、欠損企業を増やすだけである。やりたくないのではなく、できないのである。
粗利益、即ち、付加価値を改善しないかぎり、所得は増えない。
要するに、人件費も利益も付加価値の範囲内での分配の問題なのである。付加価値が変わらなければ人件費を増やせば利益が圧迫されと言う構図なのである。
だから、収益を改善しないかぎり実質的な総所得は改善されない。

総所得とは、付加価値を言う。付加価値は、会計で言えば粗利益である。
会計は、付加価値を計算し、公正な分配を実現し、維持する為の仕組み、技術だと言える。一定の粗利益が確保できないと、所得や費用を支出する事が出来る。

今日の市場の状況を招いた要因には、地価の下落による要因以外に、もう一つ重大な働きをした要因が、無原則な過当競争の奨励である。
断っておくが競争が悪いと言っているのではない市場を動かす手段の一つとした競争は重要な役割を果たしている。だからといって競争を万能絶対の法則とすることが悪いと行っているのである。
競争は、生産性を上げ、効率性を高めることによって成長や改革を促進する働きがあるが、収益性や安定性を犠牲にする働きがある事を忘れてはならない。
特に、危険なのは、規制緩和を錦の御旗として何でもかんでも規制をなくせば経済は上手くいくという発想である。規制緩和と規制撤廃は同義語ではない。むしろ背反している要素すらある。
時流に合わなくなった規制は撤廃、緩和、改善すべきである。だからといって全ての規制は悪いとするのは、極論である。肝心なのは、どの様な市場にするかであって規制をなくしたら市場そのものが成り立たなくなる事を忘れてはならない。
無原則な過当競争は、結局,際限のない価格競争に陥る。価格競争というと聞こえがいいが、要するに安売り合戦である。安ければいいという事になる。安売り合戦が極まれば共倒れしてしまう。そして、誰も生き残れなくなる。
際限のない価格競争では勝ち残れる者は限られてくるのである。その結果、寡占、独占状態を招く事になる。つまり競争を否定することになり、市場を荒廃させる。
大切なのは、どの様な市場を維持するかであって規制を緩和するのも、規制を強化するのも,環境や状況に基づいた相対的な事であって絶対的な事ではない。況んや規制緩和と規制撤廃とを同じ事と取り違えて規制が悪い規制が悪いと大合唱するのは重大な錯誤である。大切なのは、規制の是々非々ではなく、その前提となる社会や市場に対する対するビジョンである。どんな社会にするのか、何の構想も展望もないままに、ただ規制をなくしてしまえと言うのは乱暴な話である。
今の多くの日本の企業は、利益を上げられない体質になっているのである。

間違ってはいけない。問題は、20年以上も総所得が増えずに滞留している事である。税というのは誤魔化しがきかない。その税制上売上に相当するのが営業収入である。その営業収入も1989年に140兆円を超えてから20年以上横ばいである。(図13-1)生産効率が悪いとか、物がなくて、或いは、値段が高くて何も買えないというのではない。
社会全体の所得が増えも減りもしないと言う事が原因なのである。

会計では、赤字幅というのはあまり問題とされないが赤字幅も重要な意味を持っている。(図13-2)

注目すべき点は、申告所得が、1998年に、2兆6千億円マイナスしている事である。(図13-3)

ちなみに、90年から5兆円前後で横ばいだった貸し倒れ引当金が98年25兆円、99年19兆円、2000年18兆円、01年12兆円と突出しており。98年は、申告所得が-2兆6千億円、調査所得-1兆9千億円とマイナスした年でもある。バブルの清算が98年に本格的に始まったのが読み取れる。98年、欠損会社の赤字総額が33兆円にのぼる。
また、土地の譲渡税は、1985年に13百億円、86年35百億円、87年20百億円、94年17百億円と94年まで20百億円前後を保っていたが95年、10百億円、97年3百億円、98年26億円、2000年には、74百万円と急速に減少した。税を見ているとバブルの痕跡があからさまになるのである。

バブル崩壊後、経費削減、人件費の変動費化、過剰設備の整理、総資本の圧縮、無借金経営等に懸命に取り組んできた。しかし、それは全て総所得を圧縮させる。その結果、総生産、総支出、総所得の停滞を招いた。
合成の誤謬なのである。個々の企業にとって正しい事でも社会全体の効用から見ると困る事なのである。だからといって個々の企業の判断を咎めるわけにはいかない。個々の企業は企業で生き残りが掛かっているのである。つまり、仕組みの問題なのである。仕組みを変えるしかないのである。(図13-4)
よく誤解されるのが減価償却費や内部留保というのは、資本に還元され蓄積されているという捉えられる事である。故に、不況になると株主や人件費に還元しろなど問われるが、減価償却費や内部留保は、過去の負債の精算に使われる場合が多く、現金が残っているわけではない。
長期資金の流れを捉えないとこの辺の事情は明らかにならない。

見落としてはならないのは、プラザ合意後一貫して総資本回転率は、落ちているという点である。バブル期においても総資産回転率は落ちており、リーマンショックがあった2008年の翌年には、1回転を割ってしまっている。(図13-5)
それだけ、プラザ合意後、資本効率は低下しているのである。プラザ合意後の円高の影響を未だに引きずっているとも言える。そして、この事がバブルの伏線として働いている。(図13-6)

総所得が増えないという事は、全体の取り分が変わらないのだから、誰かが、或いはどこかの要素が増えれば、他の誰かなり、要素が減らされるという事を意味する。
総所得が変わらないのに、固定的な支出が増えれば、自由になる金は減る。
取り分にも偏りが生じる。単純な競争ではなく、生きるか死ぬかの戦いになる。
必然的な格差も広がる。伸び率、成長率ではなく、占有率に変質するからである。

何が所得を決めるのか。所得を決めるのは、通貨の流量である。通貨の流量は、通貨の量と回転数によって導き出される。

通貨の流量を決めるのは現金収支である。

支出が所得を上回れば、不足分は借りる事となる。お金の過不足は、貸し借りによって調整される。
一回の所得で支払う事が出来ない額ならば、返済は長期に亘る。つまり、長期的資金の流れを形作る。この様な行為を投資という。
一回、ないし一定期間内で完済されるような借入は、短期のお金の働きを形成する。

通貨の量は、貸借によって回転数は、売買によって決まる。

貸借は、長周期のお金の働きを売買は、短周期のお金の働きを形成する。

所得を改善するのは、通貨の流量と回転数である。
通貨の流量と言っても通貨の発行量を言うわけではない。要は使える金がどれくらいあるかが問題なのである。

所得は、お金の循環によって作られる。
収益を改善する為には、物と金の均衡のとれた循環を創り出し維持する事である。
所得を改善する為には金回りをよくする事である。
逆に言えば要するに現在の日本は金回りが悪いのである。

経済を動かしているのはお金の流れである。
このお金の流れが、所得、生産、支出の働きの均衡をとっている。

総所得を変動させる因子は、所得、生産、支出である。これらの三つの因子は、どれかの因子に原因が特定されているわけではなく、相互の働きによっている。
重要なのは、所得、生産、支出の働きの均衡がとれている事である。

問題の背後には、実物的価値と名目的価値の乖離が隠されている。
実物的価値とは物に基づく価値であり、名目的価値とはお金による価値である。

お金をがあるから、お金を使うわけではない。欲しい物、買いたい物や生きていく上に必要な物が、買わなければ生きていけない物があるから買うのである。つまりは、購買動機の原点は、欲求と必要性である。故に、欲求と必要性が貨幣価値の根源である。
お金を増やしたり、給料を上げれば,所得が改善するわけではない。
欲求や必要性を満たす為に必要な生産手段が対極になければ所得は改善されない。つまり、生産と消費が均衡する事によってお金は効用を発揮する。消費は需要に転化し、生産は供給に転化される。需要と供給の均衡をとるのが価格である。
お金中心の物の見方だけでは経済の本質は見えてこない。

貨幣経済を制御しようとした場合、重要となるのは均衡である。分配も均衡が重要である。
極端に一律にしてしまうと、お金は動かなくなる。しかし、格差が広がれば、社会は分裂する。一定の幅の中に差が収まるように調節するような仕組みでないと市場にお金が均質に回らなくなる。

個々の経済主体で見ると収益を上げて,費用を下げる事である。しかし、経済全体から見ると必ずしも良いとは言えない。費用を削減する事は、全体の所得を低下させてしまうからである。合成の誤謬である。

全体の所得が伸びなかったり、縮小してしまうのは、個々の産業の問題と言うより我が国全体の構造的問題が隠されている。
バブルの発生と崩壊によって、経済構造が歪んでしまい、時間価値が喪失しまった事に一因があるのである。
時間価値がなくなれば、お金を循環する為の推進力を失う。

貨幣が循環しなくなれば、格差が広がり、市場そのものを維持する事が難しくなる。

お金の流れにも順逆がある。お金が実物市場の側に向かって流れるのが順で回収の側に流れるのが逆である。
今、問題なのは、お金の流れが逆流している事である。

総所得を向上させるためには、お金の流れる方向を順方向に変える事である。

問題を解く鍵は所得の健全化にある。所得の健全化を図らないで帳尻ばかりを合わせようとする政策をとるかぎり、経済は、安定しない。

家計や一般政府は、最終消費が主である。
生産に結びつかない消費は、所得を生まない。
お金の循環や付加価値を生み出さないからである。付加価値を生み出すのは、非金融法人との収益と設備投資である。収益は、費用を通して短期的資金の循環と付加価値を生み出す。投資は、金融を介する事で長期的資金を長期的資金の循環を形成する。
故に、民間企業の収益力と投資力の回復に努めないと総所得は改善しない。(図13-7)

無原則な過当競争は、収益力を低下させるだけである。
何が何でも規制を取っ払ってしまえと言うのは乱暴な話である。

これまでれ歴代の政権は、利益を上げる事は悪い事として企業の収益を削ぐ政策をとってきた。それは、社会主義、あるいは、全体主義的な思想に基づき、企業は、資本家の手先、或いは道具だという偏見があったからである。企業を悪者にしてきた。
しかし、民間企業は、市場経済の要である。むろん、企業と市場の民主化や情報の開示、透明化は必要である。しかし、企業そのものを否定するのは自由経済を否定する事でもある。重要なのは、適正な価格、適正な利益である。適正な価格、適正な利潤は、投資した資金を回収し、かつ、適正な人件費を確保維持する事である。
まず、企業や市場,利益は、悪だという思想を改める必要がある。

競争が全てだと競争に過剰に期待するのも、競争は、悪だと競争を否定するのも極端である。大体、競争と規制緩和とは同じ次元の問題ではない。
規制のない競争はないし、規制は必ずしも競争を否定しているわけではない。
ただ、公正な競争を阻害する規制があるという事である。それは、規制のあり方の問題であって規制を否定する事ではない。
故に、規制緩和という意味が理解できない。規制緩和というのは、その前提が問題なのであり、前提を無視して規制緩和を論じる事自体矛盾している。最近の論者の中には、規制緩和ありき的な論者が多すぎる。中には、闇雲に規制は悪だと決めつけている識者もいるから始末が悪い。

規制を簡素で解りやすいものにしろというのは理解できるし、私も賛成である。時代に適合しなくなった規制を廃止するのも大いに奨励する。しかし、だからと言って規制そのものを否定する事は明らかに行きすぎである。

過去の歴史は、酷い過当競争、乱売合戦があり、共倒れを防ぐために不当な提携や合同、そして、最終的には独占、寡占に陥る事を示している。それを防ぐ意味で独占禁止法が定められた。
独占禁止法の精神は、市場の規律にある。しかし、市場原理主義者は競争を絶対視する事で市場の規律を破壊しようとしている。
無法な競争はないのである。規制があるからこそ、公正な競争は成り立っている。
問題は、規制のありようであり、規制を否定する事ではない。
ルールのないスポーツはないのである。
ルールを否定する事は、法を否定する事でもある。
つまり、市場原理主義者というのは経済的無政府主義者である。

成長のみを前提とした経済政策は改めるべき時が来た。成長だけが全てではない。成熟した市場では、成長に依存しなくても生活の質を向上させる事は可能であるし、また、可能としなければならない。
又、為替の変動の影響も同一に扱う事は出来ない。
市場を一律にとらえるのではなく。産業の置かれた状況や成長段階に合わせてきめ細やかな政策をとるべきなのである。
問題は、成長の量ではなく、質である。健全な成長が歪んでしまったために、全体の所得が伸び悩んでいるのである。

総所得もただ増えれば良いというわけではない。
横ばいでも質が伴えばいいのである。問題は内容である。

鍵は、如何に総所得を改善するかである。鍵を握るのは、民間企業の収益力と投資力である。
その為には、何が総所得に影響を及ぼしているかを明らかにする必要がある。

生産に結びつかない消費は総所得を改善しない。なぜならば、生産に結びつかない消費は資金の循環や付加価値の増加に結びつかないからである。
故に、総所得を改善するのは、第一次所得である。

拡大再生産に繋がらないような投資は、経済の循環運動を起こさない。
所得に結びつくのは、第一次所得である。

第一次所得の基礎となるのは、雇用者報酬である。
つまり、総所得をよくする為には、企業の収益力を改善する必要があるのである。

民間企業には、金融部門と非金融部門とがある。金融部分は直接的に生産に関わっているわけではない。金融部門の収益が上がっても生産性が向上するわけではない。

著名な経済学者が物作りの経済から、金融を中心とした経済の仕組みにへ移行すべきだというような発言をしていた。しかし、それは錯覚である。
経済の実体は、人と物にある。お金は、所詮、お金である。人間が創り出した虚構に過ぎない。
お金の重要性は、お金の本質を前提としなければ理解できない。
お金は、経済を動かすための重要な手段である。お金を否定したら現代の経済の仕組みは成り立たない。
しかし、お金は手段であって目的ではない。
経済の根本は、如何に、人類にとって有益な資源を創造し、それを公平かつ円滑に分配するかにある。

物作りを否定したら経済は成り立たなくなる。



図13-1

国税庁

図13-2

国税庁

図13-3

国税庁

図13-4-1

国税庁
図13-4-2

国税庁
図13-4-3

国税庁

図13-5
  

法人企業統計

図13-6
  
法人企業統計 財務省
図13-7


企業法人統計 財務省
図13-8


企業法人統計 財務省




       

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