経済の現状

日本経済の現状について



15 国民経済計算



国民経済計算書は期間損益主義に基づいている。故に、会計と同じ弱点がある。即ち、長期資金の流れと働きを捕捉する事が難しい点である。資金の流れや働きが表に現れてこないからである。表面に現れる会計的事象の背後で現金がどの様に流れ、どの様な働きをしているかを関連づけないと実際の経済の動きを正しく理解する事は出来ないのである。
特に、長期資金の流れと働きを如何に捕捉するかが、国民経済計算書を活用する為の鍵を握っている。

現在経済は貨幣制度を下敷きにして成立している。故に、お金の動きを捕捉できないと経済の仕組みを制御する事は出来ない。その点だけはしっかりと肝に銘じておく必要がある。

国民経済計算書は、複式簿記を土台とした近代会計を基礎として一国の経済状態を計算した計算書である。故に、国民経済計算書は、期間損益主義が基本であり、現金主義ではない。また、付加価値計算が核となっている。国民経済計算書を扱う場合は、この点を前提としておく必要がある。

国民経済計算書は期間損益主義に基づいている。その為に現金の流れを捕捉するのは難しい。ただ、国民経済計算書は単に個別の経済主体の損益を問題としているのではなく、経済全体の動きを捉えることを目的としている。その為に、個別の経済主体の動きだけでなく、個別の経済主体の動きが全体の経済にどの様な影響を与えているを明らかにしようとしている。それが資金の動きだけでなく、現金の動きを示唆、暗示する結果になっているのである。
経済評論家は、個別の経済主体の動きに囚われて全体の動きを見逃しがちである。

国民経済計算書では、個々の経済主体のみではなく、他の経済主体との関わりを重要視する。その為に、企業会計とは違う、固有の視点がある。たとえば、通常利益と見なされる勘定を営業余剰とか、減価償却費を固定資本減耗という表現をする。そして、この概念が後々重要な意味を持つのである。

貨幣経済の仕組みは、お金が流れることによって動いている。お金の働き、お金の入りと出、即ち、入金、出金によって発揮される。入金、出金は、常に二つの主体の間において成立する。二つの主体の間をお金が出入りすることによって貨幣経済の仕組みは動いている。
つまり、貨幣経済の仕組みにおいては、お金の流れる方向、お金の流れる量、そして回転が鍵を握っている。
売り手がいれば買い手がいる。入金する者がいれば出金する者がいる。貸し手がいれば借り手がいる。経済取引は、この様に表裏を為す一対の経済主体が存在しなければ成立しない。この事は、個々の主体の視点にたち、内部的には非対称に見える取引でも、必ず対称となる相手が存在し、全体から見ると総和は必ずゼロになる事が前提なのである。

ある任意の経済主体が一生懸命働いて有利子負債を返済した場合、返済した側の借金は減るかもしれないが、返済された側の資産が増えるとは限らず、逆に、負債が増えてしまうことがあるのである。
借金を返済しても投資先が見つからなければ、金融資産に資金を向けられる。それは金融期市場から見ると負債の増大になる。故に、国民経済計算書では、負債と資産を一括りにして計算するのである。

国民経済計算書では、幾つかの経済主体の取引の全体をゼロ和とする事を原則として設定されている。
例えば市場全体では、経常収支の総和はゼロとなる。
個々の経済主体は損益上、必ずしもゼロ和に設定されているわけではない。しかし、市場全体ではゼロ和に設定されている場合が多い。
即ち、全体が、ゼロ和になるように設定されているため、全体だけを見ても実体は理解できない。総和はゼロに設定されているからである。
故に、問題とされるのは、個々の部分の関係と全体との調和である。

運動は、回転運動を前提とし、周期の幅と偏りによって市場は動かされているのである。
一定の幅と偏りを保たないと市場全体が傾き場合によっては転倒してしまう。かといって一定の幅と偏りがなければ、市場はお金が回らなくなり、停止してしまう。

経済の動きは、部分だけを取り上げても解明は出来ない。全体との調和を考えなけれお金は回らなくなる。

部分的に見れば黒字が増えれば,赤字も増える。
金を儲けた者は、金が余り、金を使った者は、金が不足する関係にある。かといって全員が使わなくなれば、お金が回らなくなる仕組みになっているのである。
お金の過不足が生じるのは、仕組み上の問題であり、個々の部分が悪いからではない。

働きもないのに浪費する者も問題だが、ひたすら働いて収入が沢山あるのに、お金を使わないで溜め込んでいる者も問題なのである。借金ばかりが問題にされるが貸し手にも問題がある。問題は平衡である。
要するにお金が流れなくなっているのである。
お金が流れないで金融機関の中で渦を巻いて滞留している。それが問題なのである。流れないからと言って強引にお金を押し込んだらいつかは破裂してしまう。
血管がつまって血液が流れにくいからと言って大量の血液を流し込んでつまっている者を流し出そうなんてしたら卒倒してしまう。
ただ闇雲に個々の企業は、利益を上げる事のみを考えたり、また、個人で言えば儲けることばかり考えて上手に使う事を覚えなければ資金は循環しなくなるのである。

だから、国民経済計算書で利益のことを営業余剰としている。

個々の部分は、最終的には、フローとストックに分類される。フローは、お金と財の運動と働きを表し、ストックは、お金と財の状態と関係を表している。
収益と費用の量と資産と負債の量は必ずしも一致していない。その差は、時間価値によって生じる。
時間価値は損益と資本となる。損益は、必ずしも利益だとは限らない。損を出す場合もある。ただ、資本は、正の値である事を原則としている。
最終的には資本の比率によって資金と財とを測定し、収入と支出の均衡を測り、投資の妥当性を判断するのである。

会計は、長期的資金と短期資金の流れ働きが財の生産と分配にどの程度、貢献しているかを測る事が目的である。

その為には、幾つかの勘定を一組にし、その一組を他の一組と対応させる事で勘定の働きを測定し、また、勘定と勘定との関係も考慮に入れながら全体の働きを判定するのである。
その働きの基本は、貸し借りと決済と調整である。
何と何を組にして何の組と何の組を対応させるかが問題なのである。
好例が、収益と費用の対応関係が費用対効果を現し、また、資産と負債の対応関係が債権と債務の残高関係を表す。貯蓄と投資の関係は、長期資金のバランスを表している。

国民経済計算書の視点から会計を見直してみると市場経済の有り様が透けて見えてくる。
個々の経済主体にしてみれば利益を上げる事が目的のように見えるかもしれないが、全体から見たら、利益を上げれば良いと言う事にはならない。
本質は、資金の移転なのである。如何に、働きに応じて資金を移転するか、その仕組みにある。
個々の局面を見ると売上を上げ極限まで費用を削減して儲ければ良い事になる。しかし、全体から見るとある主体の売上は、他の主体の費用なのである。この関係を前提として成り立っているのが資本主義経済の本質である。この点を錯覚すると限りなく利益を上げる事は、全体の所得の喪失に結びついていくのである。

例えば、バランス項目のような用語である。それは、会計が単体を意味しているのに対し、国民経済計算は、個々の主体が単体であると伴に部分である事を意味しているからである。

会計の勘定を国民経済計算書の勘定に置き換えてみると例えば、源泉は、貸方に、使途は借方に、相当し、総付加価値は、粗利益に相当する。
売上に相当するのは産出である。仕入れが中間生産物であり、費用となるのが所得の分配と使用勘定になる。減価償却費に相当するのが固定費減耗。営業利益は、営業余剰。固定資産は固定資本。投資が固定資本形成,国富が資本である。

この様な表現がどこから生じるのか、それは近代市場経済の特質を考える上で重要な意義を持っている。
つまり、企業会計が個々の部分を構成する制度単位の経済状態を表しているのに対し、国民経済計算書が全体の経済状態を統合し計算書だからである。

なぜ、個々の部分では売上に相当するのが産出となるのか。それは、個々の部分では売り上げた結果となる事が,全体で見ると社会的に産み出された物と見なされるからである。また、費用となる部分は、分配と使用勘定となるのは、費用の働きをよく示している。
費用こそ、分配の手段なのである。

企業会計が利益の産出を目的としているのに対し、国民経済計算書は、総生産と総所得、総支出の計測を一つの目的としている。この事が持つ意味を考えると市場経済が本来なのを目的としているかが解る。

国民経済計算書では、制度単位を非金融法人、金融機関、一般政府、家計、および対家計非営利団体の五つに設定している。
最終消費者は、家計と一般政府,対家計非営利団体の三つで非金融法人と金融機関は、最終消費先とは見なされていない。

経済の働きを分配にあるとしたら、総付加価値、可処分所得、中でも雇用者所得、そして、最終家計所得の流れが根幹となる。
この様な流れに沿って税のあり方を考える事も重要である。
つまり、税にどの様な効用を求め、又、お金の流れに税制がとのような影響を及ぼすのかを正しく認識していないと市場を適切に制御する事が出来なくなる。

民間企業の収支には、金融機関の収支も含まれる。貸借の業務に携わる金融機関の特殊性であり、他の制度単位とは、表裏の関係にある。つまり、金融機関は、他の制度単位と鏡対称の関係にある。金融機関は他の制度単位に対し表裏の関係にありながら、収支、損益は、民間企業に含んで考えないと調和がとれないのである。
アメリカでは全産業の総利益に占める金融界の割合が、1980年代初頭の10%から、昨年には40%にまで拡大したと言われる。

もう一つの特徴として国民経済計算書は、全体がゼロ和に設定されている点にある。ゼロ和で市場は均衡しているのである。
ゼロ和は、三面等価と相まって国民経済の枠組みを規定している。
この事はゼロ和という事と深い関わりがある。
国民経済計算書においては、等価と言う事が重要になる。

等価という意味には、二つある。一つは同じ行為を違う視点で認識した場合である。もう一つは、計算上同じ値になるという事である。例えば、前者は売りと買い、貸しと借り、収入と支出である。後者は、総生産、総支出、総所得や経常収支と資本収支等である。
どちらにしても等価というのは、ゼロ和が関係している。前者は、主体の違いによって同じ行為が違う事のように認識されている事に依るからどの様に統合するが問題となる。後者は、計算上ゼロ和になるように設定されているという事である。

等価、ゼロ和というのは均衡を意味している。
均衡には、水平的均衡と垂直的均衡がある。水平的均衡とは、主体間の均衡を言う。水平的均衡とは、例えば収支と貸借の均衡のようなことを言う。現金残高をマイナスにする事は出来ない。現金収支は常に均衡していなければならない。故に、現金収支が不均衡な場合は、貸し借りによって補うことになる。つまり、現金が不足している主体は、現金が余剰の処からお金を借りてこなければならない。貸し借りと収入支出は、対称的なことであるから、貸借と収支は常に均衡している。貸借と収支のこの関係を垂直的均衡という。

三面等価という原則からすると財政収支と経常収支、民間収支の全てを黒字にするわけには行かない。仮に、財政収支と経常収支を黒字に設定しようとするならば、民間収支を赤字にせざるを得ない。ただし、気を付けなければならないのは、経常収支は、全ての国を黒字にするわけには行かないと言う点である。当然国家間の調整が計られなければならない。
民間収支は、家計と民間企業からなる。家計収支を赤字にするという事は、民間の借入を増やす事で、これは、家計の実質的可処分所得を減らす事になり、最終章を減退させる。故に、民間企業を赤字にする事であるが、その為に、期間損益主義を採用して期間損益を黒字にすることで調整する必要がある。つまり、財政は、短期的に均衡させ、民間企業は長期的に均衡させるのである。

何と何が等価になるかを明らかにする事で、個々の要素間の関係や全体との関わりが明らかになる。それは何らかの問題が生じた時その原因を解明し、対策を講じるための鍵となる。逆に、何と何が等しいか、又、なぜ等しいかを知らなければ、原因を明らかにしたり、対策を立てる事は出来ない。

ゼロ和というのは、関係性が解りやすく、関数化しやすく出来ている。
ゼロ和は、等価関係によって経済的事象に表裏を付ける。例えば、経常黒字と経常赤字。資本取引と経常取引。国内取引と海外取引。貸しと借り。貸借と収支。この表裏等価の関係が、経済を制御する為の基礎となるのである。
何処と何処、何と何が、等価となり、ゼロ和となるかを見極め関係づける事が経済政策を立てる為の基本となる。

国民経済計算書の数値を多くの人は利用するが、国民経済計算書の仕組みをや構造を活用しようとする者は少ない。




参考 「新しいSNA」中村洋一 著 財団法人 日本統計協会
    「国民経済計算入門」武野秀樹著 有斐閣



       

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