経済の現状

日本経済の現状について

終わりに



経済の仕組みは、非効率な部分があって成り立っている。なぜならば、経済の仕組みは付加価値を生み出す仕組みだからであり。又、生産と分配と報償の均衡の上に成り立っている仕組みだからである。あまりに生産性に偏った、過剰に効率的な仕組みは、不経済なのである。一見、無駄にも見える部分、例えば、研究や開発の部分にこそ経済の本質は隠されている。

生産性というのは、効率性のみを言うのではない。社会全体の生産力を上昇させる事を意味しているのである。効率性のみを偏って追求するとかえって社会全体の生産性の低下を招く事がある。

問題は、制約であり、制約の範囲である。社会の生産財を制約しているのが通貨である。故に、通貨の量は何らかの制約を受ける必要があるのである。

巷間、政治とお金の問題が騒がれている。政治とお金の問題は何も我が国に限った事ではない。中国でも政治とお金の問題は深刻である。政争の具にもなっている。
政治とお金の問題が大切な事ではないとは言わないが、しかし、財政が逼迫している今日、もっと重要な事が山積しているのではないのかと言いたくなる。政治が、結局、政治家個人の金の問題、道徳の問題としてしか語られない、現代の政局にこそより深刻な問題が隠されている。

経済というのは生きる為の活動であり、現実である。その意味では、底辺に流れているのは、政治や経済の変動である。
特に歴史的な出来事をプロットしてみると政治と経済の直接的な関わりが見えてくる。

財政や経済政策は、一つ間違うと貧困や戦争の原因となる。そして、日本だけでなく、世界は、経済が危機的状態にあり、それが原因で争いが絶えない。
表面に現れる争いの原因は経済的原因なのである。だからこそ容易に解決策が見いだせない。それは経済の混本的な構造や仕組みに問題が隠されているからである。

問題の核心は制限にある。そこに思想がある。誰も無制限に何でも許されることを自由だとは思わないだろう。誰もが同一に扱われることを平等とも言わない。

イスラム教と言論の自由の問題が深刻化している。多くの人が神聖視をしている対象を自分は関係ないからと言って愚弄したり、侮蔑していいかというと人各々立場の違いによって意見が分かれている。
ただ、一方的にこれが自由だと相手に押しつけることは、傲慢である。民主主義にも、社会的正義にも反する。自由にせよ、平等にせよ、元来、社会的な概念なのである。

大体、最初から自由と無法というのは違うことである。
自由も平等も権利を意味している。権利というのは恣意的である事を前提としている。

見ず知らずの人間が自分の土地にいきなり入ってきて暴力的に所有権を主張しても,あなたは、相手の言い分を認めないであろう。それを自由だと言われたなら、何を馬鹿なことを言うのだと言う事である。自由というのは、無法を許すわけではない。

制限された空間に、利害の違う複数の人間が生きているという前提なのであろう。人間というのを拡大すれば生きとし生ける者という解釈も成り立つ。いずれにしても自分一人の都合や主張だけを押し通すことは出来ない。そこに社会と如何に折り合いを付けるかが問題となるのである。相手の意志や権利を認めないかぎり自由というのは成り立たない。土地も資源も有限である事が前提である事が前提である。
奪いたいと思えば奪い、殺したいと思えば殺すと言う事を自由だとするのは重大な錯誤である。そんな事は、誰もいない世界ならいいのかもしけないが、その様な世界は何処にもないし、あったとしても生存することは不可能である。人間は社会的な生き物なのである。

限られた空間の中でそれぞれが自分の主張や権利を振りかざせば争いになる。最後には暴力沙汰になる。だから法が必要となる。人と人との関係に法が介在する事になる。それが法治国家である。

法は権力によって守られる。
権力はある種の暴力装置なのである。
だから国も監視される必要があるのである。いろいろな制度や仕組みによって国家の暴力、法の暴力を制約する必要があるのである。それが法の手続きである。

法は手続きによる思想だと言われる由縁である。

年寄りも赤ん坊も若者も同じように働けというのは、平等とは言わない。
人は、皆、違うのである。それは平等という概念の大前提となる。違う人を前提とし,唯一の全体を成立させるためには、唯一なる超越的存在を前提とせざるを得ない。
だから、平等という思想が成り立つ前提として唯一の神を受け入れる必要があった。平等というのは多分に一神教的思想である。

しかし、一度、自由、平等の概念が成立すると宗教的教条は,手続きによって超越される。
何をどの程度制約するかは思想上の問題である。だから、自由も平等も制度では要件定義されるべき事なのである。

人間の是非善悪を超えた所に絶対的存在、超越的存在を認識した時、超越的働きとして法が成立するからである。
神は人を試したりはしない。
多くの人は、神の名の下に神から遠ざかる行為をしているように思える。
なぜなら、彼等は、神の方を向かずに自分の方を向いているからである。
神に背を向けて人に向かって何を解こうというのか。
何が正しくて、何が間違っているかは、人の勝手である。しかし、生きとし生きる物全て、神の名の下に幸せになる権利はある。
神の本性は、愛である。

経済は、最終的には人の生き様に至る。生活臭のない経済は、生活臭のない家が象徴するように経済における最も肝心な部分が欠けている。経済は、人々の生きる為の活動だからである。人のいない経済なんて経済ではない。
現代の経済から人々の生活臭が失われつつある。それは生産の効率性のみが経済だと錯覚しているからである。経済が最も経済らしさを見せるのは、例えば、装飾や芸術のような一見無駄に見える非効率な部分である。そこに人としての主張が現れるからである。
経済というのは、人々の生活を意味するのである。生活臭のない、人々が活き活きと働いていない場所からは経済を感じ取る事は出来ない。機械だけで人のいない空間は、どれほど清潔で効率的でも経済的な空間とは言えない。
現代人は、一番肝心な人間如何に生きるべきかという問いかけを忘れて経済を考えようとしている。それでは、経済の問題を解決する事は出来ない。

人を幸せに出来ないような経済の仕組みはどこか狂っているのである。経済は、人を幸せに、豊かにする事が目的なのであるからである。

経済的事象によって現れる数字から推察するに、神から人が与えられた選択肢は、分かち合い、譲り合うか、奪い合い、争い合う事しかない。分かち合い、譲り合うか、奪い合い、争い合うかは、人が自分達で選ぶしかない,その結果に対しては自らが責任を負えと言われてるのである。

分かち合い譲り合う事が出来なければ、人は際限のない争いを選ぶ事になる。
しかし、争いを選ぶのは人であり、神ではない。
争いを選んだ結果に対して人が報いを得たとしても、神を呪うのは愚かな事である。

神に栄光あれ。



       

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