経済の現状

日本経済の現状について

10 高齢化が意味する事は・・・。


我が国では、少子高齢化が、深刻な問題となっている。
しかし、人口の減少というのは、それ程悪い事ばかりなのであろうか。
一頃前は、逆に人口爆発が問題だとされた。その為に、中国では、一人っ子政策がとられた。
人口爆発が問題となったのは、戦争による人口の急激な減少があり、産めよ増やせよと言う政策がとられたからである。
この様に、人口問題というのは、その時その時の時代背景によって変わってきたのである。一概に、少子高齢化が悪いとか、人口爆発は問題だというような事ではない。
要するに、人口の増加にも減少にも問題があり、個々の状況にどう適合していくかの問題なのである。
状況の変化に合わせて社会のあり方を変えていかないと手遅れになり、問題が深刻化するのである。

人口構成の変化は、経済予測と違い、かなりの精度で事前に予測できる事である。
金銭が絡んだ経済問題の前提となる事は、不確定な要素が多いが、物や人の問題には,前提となる事の多くが確定的な事が含まれているからである。予測がつくことだから対策も立てやすいはずである。

2005年、日本の総人口は、12,777万人。前年に比べると2万人の減である。第二次世界大戦後始めて総人口が減少した。そして、これは人口の減少の始まりを意味する。2005年以降、人口は減り続ける事が予測されている。

94年に人口は、1990年に1億2400万人。2008年に1億2800万人とピークを迎えてそれから若干減ってはいる。しかし、まだまだ一人当たりの所得に大きな影響を与えるほどの変化ではない。
要するに、所得は,人口が変化していないのに20年間変わっていなのである。ただ高齢化が進み人口構成は大きく変わってきている。それが所得にどの様な影響を与えているかそれが問題なのである。

何が、高齢化問題なのか。それを見誤ると適切な対策は打てない。高齢化問題の本質は、労働年齢にある。
労働年齢というのは、働ける年齢である。
現代社会は、労働年齢を客観的基準で決めつけようとしている。しかし、本来、労働年齢というのは、主観的な事である。かつては、多くの人は、死ぬまで働いたのである。しかし、今日では、定年制度が一般に定着し、主婦も、子育てが終わり、伴侶が定年を迎えると定年になるようなものである。更に家事の外注化が主婦の定年に拍車をかける。
家事を外注化すれば、主婦も一般の賃金労働者と変わりなくなる。そうなると労働も画一的になる。
それを先導しているのが企業である。現代企業は、人間の生き様まで規制している。
労働年齢が制約されている為に、多くの人は働きたくても働けなくなるのである。
つまり、労働年齢がきわめて画一的で限定的であり、それが社会の硬直化を招いているのである。
かつて、職人や農民は、60過ぎても、70すぎても働けるうちは働いた。また働けたのである。
家族は、共同体であり、世代を超えて一つの経済単位を構成していた。生産は、賃金労働だけでなく、所得は一つの家族で合算されていた。現代社会は所得は個人に帰属する為、所帯という発想は消えてしまったのである。
大家族の中では、子供、青年、壮年、老人というのは、それぞれの居場所が決まっていた。現代社会は、家族を解体してしまったのである。そのために、家族の経済的役割は失われた。
家計の基礎となる部分は、壮年の夫婦が担っていたから年金は、小遣い銭程度で良かったのである。
しかし、今日では年金の主なる働きは生計である。そうなると高齢者倒産という事態も起こるのである。

また、介護も世話も外注化されてしまった。そうなると親の世話は道徳の問題ではなく、お金や制度、施設の問題、純粋に経済の問題にすり替わってしまうのである。

高齢化の問題は、いかに生きるかの問題であって経済の問題だけでは解決できない。

企業社会には、定年がある。高齢者問題の中で故意か、偶然か、意外とこの点が見落とされがちである。
今の日本の社会は、給与所得と定年を前提として成り立っている。故に、年金制度や介護制度が重要になるのである。年金制度と介護制度なくしては、老後の生活が成り立たないからである。
今の日本人が当然の如く前提としている給与所得や定年という制度は、歴史的に見るとまだまだ確立されて日が浅い、特異な制度だと言う事を現代人は見落としている。
我々が子供の頃は、自営業者や個人事業者の方が多かったし、(図10-1)農業の比重も大きかった。自営業者や個人事業者は、経済的に自立している事が前提であり、農家も含めて年金とか介護と行った行政に依存せずに、家族が面倒を見る事が前提であったのである。故に、高齢者問題と行ってもどちらかというと家族間、家族制度の問題であって行政が主役になったのは近年である。家族間の問題というと基本的には道徳の問題でもある。それが行政の問題になるにつれて制度や設備の問題にすり替わってきたのである。そして、それが財政に重くのし掛かる事になる。
高齢者問題以前に家族の崩壊が隠されているのである。その点を抜きにして高齢者問題の本質的な解決は見いだせない。高齢者問題の根底にあるのは人生観の問題だからである。
定年の問題はその典型である。定年というのは、それまでの人生を清算してしまうからである。
家族の問題である時代では、定年は一部の問題でしかなかった。定年は、人生の終点ではなく、通過点に過ぎなかったからである。定年後にも農業とか家業とかそれなりの仕事が用意されていたが、現代社会では、定年後の再就職は難しいし、出来たとしてもそれだけで自立した生活を営むのは難しい。だから、一方的に財政負担になってしまうのである。生産性がないのである。
つまり、多くの人は、定年退職後には、生産手段を失ってしまうのである。
収入の手段を断たれ、一方的に国家決定に服さなければならなくなる。国家に依存しなければ生計が立てられなくなる仕組みになりつつあるのである。
高齢化社会で問題なのは、単に高齢者が増えると言う事ではない。自分の働きによって収入が確保できない人達が増えると言う事である。つまり、消費力が増えて生産力が低下するのである。

こうなると高齢者問題というのは、人間の生き様や価値観の問題を根底に抱いている事がわかる。

本来、人の問題が中心なのだから思想的な要素が強いはずである。
つまり、生き様の問題である。生病老死の問題なのである。
ところが、現代少子高齢化の対策には思想や哲学が欠如している。
ただ施設や制度を作る為のお金や年金の財源と言ったお金の言葉かのしか問題としていない。
家族の問題とか、倫理観の問題とか、社会のあり方と言った基本的な考え方に対する議論はいっこうにされていない。だから解決の糸口さえ見つからないでいる。
高齢化問題の根本には、人間如何に生きるかといって人生哲学が確立されている事が前提なのである。
ところが何処を探しても哲学がない。だから、何処まで行っても不毛なのである。
設備や制度をいくら整備しても年寄りが幸せになれるわけではない。立派な設備を作れば作るほど虚しく、又、いくら金を掛けても足らなくなるのである。仏作って魂を入れずである。
高齢化問題とは、晩年を如何に有意義に生きられるかの問題であってお金や設備は二の次の問題なのである。
老いて生かされる環境でなく、老いを生きる環境とはどの様に作り上げるかの問題なのである。
それは生き甲斐とは何か、自己実現とは何か、仕事とは何か、人間の尊厳とは何かに関わる問題なのである。
年寄りを邪物扱いし、ただ隔離し、介護の対象としてしか見ないのでは本末転倒であり、経済的負担が増すばかりになる。その点に対する理解が掛けている。政治家は年寄りが多いというのに。
若者だけが社会を構成しているわけではない。年寄りだって,否、老い先短いからこそ世の為人の為に役に立ちたいと思う高齢者は沢山いるのである。彼等の力を如何に引き出していくかが、本来の高齢者対策である。

高齢化問題で深刻なのは、生産的な業務に従事する人間を減らしてしまう事である。生産的な業務を担う人口が増えない中、所得の総量を増やそうとしたらより高い生産力が求められることになる。
不況時に補助金を支出することは、補助金を受ける側にとっては、資金繰りを楽にすることはできても収益には結びつかない。それは、費用と結びつけることもできないことを意味する。
費用は、費用対効果という形で収益と結びつけられることによって成立している。人件費は費用であり、費用計上されなければ所得は増えない。

しかも、生産的活動に関わらずに分配だけを受け取る者が増えれば、総生産は低下する。だからこそ、市場のあり方を根本的に見直すことが必要なのである。
補助金を増やしたところで経済的効用が増えるわけではない。経済的効用は、付加価値と結びつくことで発揮される。

貨幣の働きは双方向の働きによって発揮される。その人その人の働きと関わりなくお金を提供しても社会的効用は増加しない。だから総所得は増えないのである。
効用のない単方向の働きでは、貨幣は循環しない。だから、単に年金や保険を支払うだけでは、国の借金が増えるだけなのである。問題は、何によって、どのような手段で所得を得るかである。
高齢になると働いて所得を得るという道が永遠に閉ざされてしまう。

権利と義務は表裏をなしている。

老いの恐怖というのは、経済的な意味で言うと、支出が増えているのに、収入の道が閉ざされることにある。自力で収入を増やせないとなるとそれまでの蓄えを取り崩していくしかない。借金をしても返す当てなどないからである。後は何らかの補助を当てにするしかない。実は、それが経済に深刻な影響を与えている。また、国家経済の最終的な状態をも暗示している。国家も老いるのである。

借金をしたって「お金」がなくなるわけではない。返済する義務が増えるだけだ。「お金」は、むしろ借金をした直後は潤沢ある。しかし、それを返済し始めると収入を圧迫し始めるのである。そして、収入が途絶えたとたん重くのしかかる。
それでも借金に見合う資産があれば、あるいは、収入があれば、何とか切り抜けられる。問題は、資産も収入も失った時である。それが老いである。
資産価値は時間と伴に目減りしていく。働けなくなれば収入は得られなくなる。そうなると年金だけしか頼りにならなくなる。年金だけでは不足したら、破綻するしかない。
それこそが老いの恐怖なのである。

老いの恐怖とは、自分の働きによって収入が得られない。

日本は本当に豊かになったといえるであろうか。借金ばかり増やしても本当に豊かになったとはいえない。問題は、借金を何に活用したかである。再生産につながらない限り、豊かさに持続できないのである。ただ「お金」を使っただけでは浪費に過ぎない。
蓄えを取り崩していくだけでは、いつか使い尽くしてしまう。自分の働きで収入がえられなくなるという恐怖は、実際にそう言う状況に置かれない限り解らない。しかし、そういう状況に置かれた時は、ほとんどの場合手遅れなのである。

日本の経済で顕著に見られるのは、実質賃金の下落と雇用形態の変化である。
又、労働分配率は、収益が悪化を反映してバブル期よりも上昇している。
財政の問題点は、税と公共投資、行政サービスが対価、反対給付の関係で結びついていない事である。したがって、財政行為はゼロ和ではない。つまり、収入と支出の関係に対称性が成り立たない。その為に費用対効果の関係が設定されていないのである。

税制や年金制度は、対価と反対給付とが結びついた仕組みになっていない。だから、入金は入金、出金は出金、別々の機構で動いている。故に、費用対効果を測る事も、収益から費用を,費用から収益を相互に制御する事が出来ない。入金と出金を結びつける仕組みがないのである。
入金を計る論理と出金を決める論理とが結びついていないのである。
故に、一度不均衡になると是正する事が難しくなる。

所得の再配分は、補助的手段に過ぎない。所得の基本は、収益構造にある。
所得の再配分には、対価と反対給付の関係が成り立たないからである。
つまり、生産と消費が関連づけられていない。
又、所得の再配分を財政にのみ頼っていたら、人口構成の変化に対応しきれなくなるのは時間の問題である。

高齢化社会になった場合、働けなくなって年金や補助金の給付のみを受ける高齢者が増加する可能性が高い。
高齢者が保有する資産は、生産性が乏しい。
この様に問題にどう取り組むかが高齢社会においては不可避なことなのである。

少子高齢化によって勤労所得者が減少しているとなると生産性が低下すると同時に格差や偏りが生じる事になる。しかも、勤労所得者の取り分が少なくなれば、社会の成長力は落ちていく。

よく高付加価値の仕事へ移行させる事で経済のさらなる発展を期待すべきだという議論がある。その背景には、単純肉体労働を蔑視する風潮が隠されている。
又、高齢者の切り捨てがある。高齢になってから、新しい仕事を見いだせという事自体が酷なのである。
しかし、本来、手に職を付けた者は、高齢になっても仕事が出来たものである。
匠と言われる職人の多くは、死ぬ直前までいい仕事ができたものである。
匠と言われる人々は高学歴に者ばかりではない。
むしろ愚直で不器用な生き方しかできない者が多い。
そういう者にも生きていく場を与えるのが,真の経済の仕組みである。
仕事を単に効率という量的な側面ばかりで見るから、質的な部分を見落とすのである。
生きていく為に必要なのは、むしろ質的な側面である。
それはお金だけでは測りきれない事である。

生き甲斐という観点からも高齢者が働ける環境を作り上げる事が肝心なのである。

経済を活性化するのは、競争だけだと錯覚している経済学者が多くいるようである。経済を活性化する手段は、競争に限ったことではない。ある種の状況下では、競争が経済を活性化するというのは認める。しかし、全てではない。
市場は神ではないし、競争は万能ではない。経済的な事は、何もかも、市場に任せれば解決するというのは、勘違いである。競争も価格といったデジタルな数値、量だけで競うべき手はない。
質的な面で競い合うことも必要なのである。とくに、属人的である労働には、質的な差が生じやすいことを忘れてはならない。機械のいいとところは、均一均質な商品を大量に作り出すことであるが、人の働きは、一人ひとり違いがあり、それが機械とは違う意味でいいのである。

労働には、量だけではなく、質の問題がある。
古い仕事は衰退したなら、仕事にあぶれた人間は、新しい仕事に移せば良いというのは、労働の実体を知らない机上の空論である。仕事は,人生である。仕事というのは人生そのものなのである。この仕事は駄目だから、あっちの仕事へと短絡的に考える事は出来ない。
仕事には向き不向きがあるのである。全ての人を高付加価値の仕事へと考えるのは、学者の考えそうな事である。
熟練を必要とする仕事もあるが、それは逆に、熟練者を活かす仕事でなければならない事も意味する。
仕事とは、人生そのものであり、自己実現でもあるのである。
長い間修業をして身につけた技術を容易く捨てる事は出来ないのである。
また、そう言った熟練した技術を伝承する必要もあるのである。
何でもかんでも新しい仕事が優れていると決めつけるのは思い上がり以外の何ものでもない。
又、新しい技術にしても長い間の研究開発の末に実ものである。そう言った地道な努力や背景を見ないで、新しい高付加価値の仕事に転移すれば良いというのは、非現実的な事である。

経済問題を語る時、ヒット商品や技術革新といった事ばかりに脚光が当てられる傾向があるが、それは成長を前提にしか経済を考えられない証拠である。

市場を構成しているのは、成長の過程にある産業ばかりではない。成熟した産業もあるのである。
成長ばかりを前提として経済の仕組みをとらえていたら経済の安定は得られない。

経済を下支えしているのは、革新的、或いは、成長産業よりも伝統的産業、俗に、コモディティ産業と言われる産業である。
伝統的産業こそ、雇用を下支えしてきたのである。
世の中の大多数の人間は平凡なのである。
ごく限られた少数の天才やエリートばかりに照準を合わせた経済ほど非人間的な経済はない。
むしろ、社会の裾野を形成する凡人にこそ経済を活性化するための潜在的能力が秘められているのである。

自動車も新車ばかりが良いのではない、クラッシックカーにも、改造車にも、付加価値がある。人がそれぞれ好みや性格が違うように成熟した経済というのは、個性的で多様であるべきなのである。
お金の儲け方や生産ばかりでなく。お金の使い方や消費にも経済はあるのである。

人口の減少以上に年齢構成が問題なのである。相対的に高齢者の比率が上昇する。それによって労働の質に変化が生じるのである。それが高齢化問題である。

人口構成の問題は、世代に基づく階層、所得の平均と分散である。つまり、統計的な事象である。統計的に分析できる事が多い。

格差をなくす為には、平均ばかりに注目していても上手くいかない。
単に平均だけを見ても経済的実体を把握できるわけではないからである。
格差や効率を考えた場合、実際は分散を知らなければならない。
そして適正な分散が格差の拡散を抑制する事が出来るのである。
その為には、正規分布に近づくような仕組みを構築する事である。

労働の質は、経験、技術、知識、能力、専門性、継続性など多彩な要素が絡み合って決まる。
仕事に対する価値観も多様なのである。一律に時間かける単価で割りきれる事ではない。

労働を考える時、密度も、重要な要素なのである。
料理ならば、味やサービス等が問題であり、商品ならばデザインや性能等が価格を決める重要な要素である。
そう言った質的な面からも価格は決められるべきなのである。
労働の価値、評価も同様である。労働は自己実現の手段でもある。
労働から人間性を奪ってしまう事は、人としての価値をも否定する事である。
量的側面からのみ人の活動を測ろうとする事は、非人間的な行為である。
ただ労働を量だけで測り、又、評価するのは野蛮な事である。

農業や個人事業、個人商店の衰退は、年金制度や介護制度が破綻した時の受け皿をなくす。
何よりも道徳や文化の荒廃が懸念される。
街や地域から人々の生活の息吹を奪い取ってしまうからである。(図10-2)

現代社会は、若者には優しいが、年寄りには冷淡である。残酷ですらある。
若者に生き甲斐や経済があるように、年寄りにも、生き甲斐や経済がある。
年寄りだって世の為人の為に働きたいのである。
年寄りは世話ばかりかかる厄介者ではない。
明治維新のような大きな転換期では、若者が主役になるその陰で多くの年寄りが働いているのである。
彼等の多くは、若者を生かす為にに自分は表に立たないようにして働いている。
だから歴史の表舞台にはなかなか現れてこない。現れた者は邪魔者である場合が多い。
しかし、工芸の世界でも教育の世界でも年寄りは年相応の働きをしている者である。

神は、生きとし生きる者全てに幸せになる権利を与えている。
年寄りだって幸せになる権利はある。
働く権利もあるのである。
匠の世界には多くの高齢者がいる。

経済とは、生きる為の活動を言うのである。
経済とは、生病老死に集約できる。
人の一生を金で買う事は出来ない。
生きる事の真実は、経済行為の背後にある。大切なのは如何に生きるかである。
老いたからといって適当に金を与え、施設に飼い殺しにする事を真の福祉とは言わない。
老いてもまだ活き活きと生きる権利はあるのである。
人生を働きながら楽しむ事は可能なのである。



図 10-1

事業所・企業統計調査 総務省

図10-2


事業所・企業統計調査



       

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