君に望むのは、自分を見失わないでほしいという事。
聖書にもあるだろ。人は生きるためにパンを食べるのであって、パンを食べるために生きているわけではない。
生きるために大学に行くというのは、わかるけど。大学に行くために生きているというのは、本末転倒だと私は思う。
私が貴光くらいの時は、世の中が騒然としていた。学校は、学園紛争で荒れていた、というより荒廃していた。そして、学級崩壊、家庭崩壊だな。学校以外に目を向ければ、水俣病といった公害、ベトナム戦争、核兵器の拡散、労働争議、東西冷戦、キューバ危機、ビートルズ、フォークゲリラ、ヒッピーやフリーセックス、ドラックといった若者の叛乱と反権威、反体制、反権力、反米、反倫理のオンパレードだな。
個人的にも仲の良かった友達が夏休み中にシンナー遊びして死んだり、その件で校長と大喧嘩したりと多事多難だったな。
自分なりに問題意識をもって将来の事を考えたよ。水俣病の活動家の話を聞きにテントに行ったりしてね。その結果、第一に、次の時代を導ける哲学がない。
第二に、科学や道徳、政治、経済、教育、宗教、経営、会計学、軍事、心理学を横断的に統合、統一する枠組み、哲学がない。
第三に、日本には哲学者がいない。それが日本を世界が一等国として認知しない理由の一つだという事。
次の時代を導ける哲学が生まれない限り、この世界から貧困も飢餓、戦争もなくならない。
マルクス主義や近代経済といった、既存の哲学では、この世界から貧困も戦争もなくならない。第三の経済学が必要だ。
哲学者なき国家は、一等国として認められない。一等国として認められない限り、日本に対する差別はなくならない。白人でない、欧米文化圏以外の文化圏から次代の哲学者が生まれない限り、人種差別はなくならない。
それで高校二年生の時に、哲学者たらんという志を持ったんだ。む哲学者たらんと欲するならば不偏不党でなければならない。あらゆる世俗的権威、権力から超然としていなければならない。
その為には、経済的に自立しなければならない。どの様な勢力からも庇護は受けない。名利名声は求めない。
どの様な迫害、弾圧にも屈しない。
そう覚悟して、まず物理学、数理哲学を極める事から始め、哲学、東洋思想、兵法、政治哲学、社会思想、歴史、神学、会計学、経営学、心理学、経営学と確立してきた。
その過程で、四十年前にフーズフー、それからアメリカ国会議事録などにも掲載をされるようにもなった。
日本の政財界の首脳アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、台湾各国の首脳とも交信できるようになった。
哲学を志す以上は、自分が世の中に認められるなどという事は最初から放棄しているし、望まない。タレントではないからね。
ただ神を信じ、ひたすら自分を貫き通す事に徹する事しかない。己を捨ててかかるという事さ。
常に、皆から蔑まれ、野辺に打ち捨てられ、孤独死している姿を思い浮かべ。為すべき事を成す。それだけだな。
哲学を極めるためには、語学、スポーツ、運転は諦めた。皮肉な事に、捨ててかかった事の多くは、ママや貴光が得意とする分野だよね。まあいいか。それも宿命だな。
名も捨て、地位も求めず、お陰様で自分には学歴も、後ろ盾も、支援者もない。哲学を志す者の宿命だな。
若い頃、激しく、過激な諫言を当時の政界財界の首脳にぶつけた時、笹野さんがあいつは狂ったかと親父に言った時、親父は、あいつは総理大臣だって恐れはしないんだと言ってくれた。「嗚呼、親父は俺を男として認めてくれていたんだと、嬉しかったけど、でも親父、俺は、アメリカ大統領だって恐れはしない。」と言いたかった。
私は日大だった事、大学を途中で中退した事を一度だって愧じた事はない。
私が恥だと思うのは、志を途中で投げ出したり、諦める事。
私にとって大学は、学問を学び、人間を磨くところ。それ以上でもそれ以下でもない。学問を学ぶのは志を遂げる為であって大学なんてどこでもよかった。
事実、日大では、後々、ノーベル賞受賞者を多く輩出した名古屋大学の学部長となり、物理学会の会長となった市川先生に出会えたし、有意義だったと思っている。少なくとも後悔はしていない。ただ不思議なのは日大出身のパパと、ママは、よく結婚する気になったなと思うけれどね。
私にとって大学は、ファーストステップに過ぎない。何を大学で学びたいかが重要なんだ。でも自分が何になりたいか、どんな生き方がしたいかなんて、大学に入ってから考えても遅くはないさ。
貴光は、今、自分が行きたい大学目指して全力を尽くせばそれでいい。何も迷う事はないさ。
だけど必要以上に自分を追い詰める事はないさ。
貴光やママは、どう思っているかわからないけれど。苔の一念。ただひたすら志を追い求めてきたおかげで自分としてはほぼ目的を完遂できるところまできたと自負している。
世界の首脳の中には、それなりに認められつつあると思っている。
でも、認められることがあるとしてもずっと後。自分が死んでからずうっと後だろうね。
仮に認めれるとしても。
2017年8月28日
Copyright(C) 2017.8.28 Keiichirou Koyano