学校では教えてくれない事は、自分で問題を作る事である。問題を作るとは、問題を見出し、道筋をつける事である。必ずしも問題を設定したからと言って答えに結び付くとは限らない。
本当の問題意識とは、自分で設問をする事である。だから、学校では問題意識を持たせることはできない。
なぜなら、学校では問題はあらかじめ用意、設定されていて、答えは一つと最初から決められているからである。
しかし、社会は、問題を探し、設定する事の方が全てと言っていい。最初から問題が設定されていて、答えが予め決まっていることなど、この世の中には学校以外にない。
誰を好きになり、どんな恋をするのか。その問いは、自分で作るしかない。他人が答えを出してくれるわけでもなく。誰を好きになるかも自分で決めにければならない。問題設定を間違えば自分の人生を台無しにする。最後は責任を取らされる。自分以外の人は、自分の人生の責任をとってはくれない。自分で問題設定が出来なければ、恋など始まらない。
問題設定こそ始まりであり、原点である。自分で問題設定が出来なければ、何も始まらない。問題設定ができないまま歳をとれば、人生はお終いである。しかし、学校は、問題を解くことは教えても、問題設定は教えてはくれない。むしろ、自分で問題を設定する事を妨げる。学校では、先生の言いなりになればいいのである。社会に出たら、それでは、隷属しかない。
だから、問題設定ができないものは鬱になる。鬱になるのは、問題が解けないからではなく。自分が何を問題としているのかがわからないからである。
そして、問題設定は、教える事はできない。自分で学び取るしかない。
学校と会社の決定的な違いは、学校と言うのは、一方通行であるのに対して、会社と言うのは双方向だという事である。先生は、先生であり、学校では絶対的である。問題は、先生が設定してしかも、答えも決まっている。生徒は、ただ与えられた問題を定められた答えに導く事だけを教え込まれる。学校では、先生は絶対であり、教科書は侵す事の出来ない聖典である。しかし、現実の社会は、自分で問題を見つけなければならないし、答えは、一つではないし、しかも予め決められているわけではない。学校の枠組みは、生徒たちのでは変えられない。しかし、会社は、実力が認められればいくらでも変える事が出来るのである。
学校生活が長くなると問題意識が持てなくなる。それは教え方の問題と言うより、環境の問題である。学校と言うところは、与えられた問題を定められた道筋に沿って用意された答えをひたすら導き出す訓練をしているだけなのである。
狭い水槽育てられた魚は、大海に出されても、同じところを回遊する事しかできなくなるという。
要するに、戦後の日本人はすっかり飼いならされてしまった。日本人の自由は家畜の自由に過ぎない。植民地根性にどっぷりつかってしまったのである。だから、主人に決められた事しかできない。
それが限界である。何が自分の限界を作っているか、よくよく考えてみる事である。
指導的立場にある者は、自分の限界を自覚し、熟知しておく必要がある。何よりも自分の限界を受け入れる事である。
責任者と言うのは、解っているから信じる。できるから任せるのではなくて、わからないから信じる。できないから任せるのである。だから、要々(かなめかなめ)を担う者は、自分一人がわかっても意味がない。自分が差配する者すべてに目的や趣旨を理解させる必要がある。自分一人だけがわかっている事はかえって弊害にすらなる。だから、自分さえ分かっていればいいというのは、組織人、責任者としては最悪なのである。組織で求められるのは、チームワークであって、一人仕事ではない。責任者の独りよがりが一番困る。
なぜならば、仕切る者一人だけが理解していて、後誰も協調者がいなければ組織は、組織として機能しなくなるからである。
指示したものがいったことがわかるというのは、組織人としてはわかった事にはならない。指示者の意図をチーム全体にいかにして浸透させ、組織として実現するか、そのやり方がわかってはじめてわかったと言えるのである。
自分の限界の中で歳による限界は、なかなか、受け入れがたい。昨日まで楽々できたことができなくなるのである。自分の衰えは受け入れがたい。特に、指導的立場にある者は、部下より自分の方が劣っている事を認めがたい。それが間違いの本である。それが、年寄りの居場所をなくしているのである。
歳をとるという事は、己の限界、衰えを受け入れるからこそ自分の立ち位置が固まるのである。いつまでもむ過去の幻影に囚われていたら先はなくなってしまう。
自分の限界を認めなければ、保守的になり、頑固になる。投資よりの多くが頑固になるのは、信念があって保守的になるのではなく、限界を認めないから保守的になり、頑固になるのである。相手の問題ではなく、自分の問題である。若い頃よりも歳を取った時の方が自分に負けていく。
自分の衰えを受け入れ、良い意味で自分に負けたことを認めれば、指導的な地位に立つ事も可能となる。
年寄り、ベテランの最大の武器は、経験である。経験があるから最悪の事態にも備えられるし、責任も取れる。なぜならば、長い間には、多くの失敗を積み重ね、恥をかいてきたからである。経験を積むと全体が見えてくる。大局を理解できるようになる。だから、年寄りは、大局から方針を定めるのが得意になる。反対に細かい事が見えなくなる。根気がなくなるのである。細かい事は、若者に任せればいいのである。
歳を取ったら、時を敵に回してはいけない。時の経過には、人は逆らえないのである。歳は、否応なく自分の限界を見せつけ、己の小ささを嘲笑う。自分の限界を認めた時、はじめて時間を味方につける事が出来る。
最初から完成度なんて求めてはいやしない。若者が未熟なのは、承知しているのである。経験不足を理由にして任せないのは、愚劣である。
はじめから完成度の高い人間など育てようがない。育て甲斐もない。若い時は、未熟なくらいでちょうどいい。
若い頃は、失敗を恐れずに経験を積むのである。その為に、年寄り、先達はいる。その時に年寄りの経験や知恵が役に立つ。なるべく若い頃に責任ある仕事をやらせる。それが最大の教育である。そういう環境を整えるのが年寄りの役割である。
野球の監督やコーチは、ベテランが多い。現役を退いた者が本来なる。なぜならは、力が衰えた代わりに経験や知恵がついているからである。自分はできないけれど、知識や経験技術がある。だから、経験不足の若者より年寄り、ベテランの方が向いている。
その代わりに、監督やコーチは、現役の選手と同じ土俵に立たない方がいい。
監督は、自分がバッターボックスに立つ事を考えるべきではない。自分が打席に立てないから監督としての役割を果たす事が出来る。指導者は、自分がホームランを打つ事よりも、大局に立って全体を掌握する事が求められているのである。
なるべく若い頃に責任ある仕事をさせる。若いからこそ責任を持たせるべきなのである。自分がいなければなんて口実は最低である。自分がいなくても回るようにするのが指導者、ベテランの務めである。自分がいなければ、回らない組織は、自分がいなければならないようにしたものの責任である。
未熟なのに責任を持たされると臆病になり、慎重になる。それが人格を薫陶するのである。責任を持たせなければ未熟なものは、無責任、放縦になる。成功しても自信にならない事もあれば、失敗しても自信がつく仕事がある。自分が責任を持つから結果がどうあれ自信に結び付くのである。
経験が不足していると言いながら、いつまでも経験させないのは狡い。未熟だと解っているのに、できない事を強要するのは、卑怯だ。年寄りと言うのは、影働きをして手柄を若者に譲るものだ。それでこそ、若者から尊重されるのである。
若い頃に責任ある仕事をしてこなかった者が、次の世代の成長を妨げるのは、不完全燃焼だからである。歳をとってから責任ある仕事を任されても手遅れである場合が多い。なぜなら、時代は変化しているのに、人は歳と伴に力が衰えるからである。
完全燃焼できなかった者は、悔いがある。悔いが僻みややっかみを生む。性格が悪くなるのである。意固地になる。
俺の若いころはなどと、手柄話をする様になったら終点が見えてくる。他人の手柄話など誰も聴きやしない。若者は、前を見たいのである。過去を振り返ったりはしない。
若い頃に、不完全燃焼だった者は、地位に固執し、偉くなる事しか考えなくなる。地位に固執する者は、若者に責任を持たせようとしない。自分の脅威になる者は、早いうちに芽を摘もうとする。
本来、偉くなる事が目的ではない。地位や役職は、仕事や実績についてくるものである。偉くなる事を目的とする者は、偉くなると目的を見失い、働く意欲もなくなってしまう。高給取りでありながら、何の働きもしない。むしろ、若者の成長を阻むようになる。若者の足を引っ張る様になったらお終いである。そのようなものが蔓延りだしたら組織は衰退する。
これだけ変化が激しい時代は、経験だけでは追いつけなくなる。年下の者からでも必要とあれば教わればいい。孔子は、六十にして耳に順うと言われた。六十になって人の話が素直に聞けるようになったという。この教えには本当に頭が下がる。
人は、一定の年齢に達すると自分の限界が見えてくる。元々の能力に限界があるし、加齢による衰えもある。哀しい事に、歳を取ると、気力も体力も衰える。新しい事を受け入れる意欲も能力も失せてしまう。頭も柔軟性を失い固くなる。何より、瞬発力が衰える。本来の実力にも差があり、いずれにしても、自分の限界を悟らざるを得なくなる。
自分の限界が見えてきたら、それを素直に認め、後進に道を譲り、自分は、相応の役割をして、若手を支援する側に回れば問題はない。それが年寄りの役割である。そうすれば後輩たちも先人先輩たちを立ててくれる。
ところが往々にして自分の衰えや限界を認めずに、隠そうとする。隠そうとするから、自分より優れたものを力ずくで抑えようとしたり、後進者の成長を阻もうとする。そうなると組織にとって弊害になる。組織の癌細胞のような存在になってしまう。
年寄りに何を期待するのか。年寄りは年寄り。理解なんて期待できない。何を待っているのか。待っていても誰も理解してくれない。認めさせるだけである。待っているだけでは歳を取るだけ。チャンスこそ、若い限られた時にしかない。無謀、傲慢と言われても若者は、挑戦すべきなのである。
残念ながら、歳を取ると解らない事、できない事がどんどん増えていく。歳を取るというのは、ある意味で残酷な事で、新しい事を吸収できないだけでなく、若い頃にできた事がどんどんできなくなる。気力も、体力も、記憶力も衰えていく。それが歳を取るという事である。
教わる時は、教わればいいのである。教わる時は、先ず素直に相手の言う事を聞き。言われたとおりにする。最初は見よう見まねで基本を覚える事から始まる。
相手に言われたことを言われたようにする事がどれくらい難しいかを悟ったら進歩である。
自分の限界を痛いほど自覚すれば、相手を受け入れる事が出来るようになる。相手を受け入れる気がない者は、学ぶことができない。
教えたくとも教えられないのである。
故に、昔は、門前で試されたのである。今でも禅宗では、修行に入る前に試される。
チャンスをものにしたければ、自分の土俵の上で相撲を取るように仕向けるべきである。相手の土俵に上がっていたら勝ち目は薄い。
その為には、何が自分は得意なのかを知る事である。相手は、自分の苦手に分野で勝負を仕掛けてくる。まず、自分の特異な分野で自信をつけてから、苦手な分野を克服すべきなのである。
これからの世代の人達が一番学習したのは、テレビゲーム、形態、インターネット、ビデオ、漫画なのである。良し悪しは、別にしてこれらを活かさない手はない。学校の勉強が苦手なのに学校で教えられた事に固執する必要はない。自分が好きで学んだことは、自分の身になっている。いやいや学んだ微分積分よりも、漫画で学んだ歴史や価値観の方が社会に出たら役に立つ。自分を生かそうと思ったらなりふり構わない事である。諦めない事だ。
若い頃は、怖いもの知らず。恐れを知らないで決断をするが、それは無謀である。
経験を積むと恐れを知る。怖れを知ってから決断する事は勇気がいる。
だから、年寄りが責任を持つのである。若者には先がある。先が見えた者こそ、腹を据えるべきなのである。歳をとったら逃げてはいけない。逃げたら先がなくなる。それに、逃げようとするから逃げられなくなるのである。歳をとったら死中に活を見出す。若者を活かすために死んでいけたら本望である。
若者からこそ学ぶことが多い。最大の指導は、若者から学ことである。
己の限界に絶望する事はない。嘆く事もない。諦めなんて卑怯者のする事である。特に、若い頃に自虐的になる事は、人生最大の過ちである。
己の限界を知った時、人は大いなる希望を持つべきなのである。一人ひとりの限界を知った時、人は他人を受け入れ、信頼される事を目標とし、助け合う事を知り、仲間や愛する人を必要とする様になる。そして、限界に挑戦し続ける事を学ぶ。限界があるからこそ希望がある。
だからこそ、歳を取る事は喜びなのである。衰えて知る人の温かさ。人は一人ではない。人は、自分だけのために働くのではない。チームワークの根本は、助け合いであり、友愛である。歳をとり、衰えれば衰えるほど、人の助けを必要とする様になる。自分の衰えを受け入れられない者は、意固地になる。
未熟さを理由に若者からチャンスを奪ってはならない。新しい事に挑戦したり、責任ある仕事をやる抜くためには、気力体力が必要なのである。若者に経験がないと言えばそれまでである。誰にも、初めてがある。初めてを経験がないという理由で遅らせればいつまでたっても経験はできない。そして、時を失うのである。
若者は、果敢に挑戦せよ。時には、無謀と言われても、傲慢と言われても、自分で覚悟を決めろ。認めてくれないと嘆くくらいなら、自分を認めさせるために戦え。
若者は、優しさなんて求めるな。そんなもの他人に、求めたところで自分の為にならない。優しさは、他人に求めるものではなく、自分に求めるものだ。他人に優しくなれ。それがものの哀れである。日本の心。
決断は過酷である。実際に選べるのは一つしかない。決断は、決して断じる事。未練を断尽きる事。自分でこれだと決める事。
だから、人に優しさなんて求めて何も得られない。求めるならば厳しさを求めろ。
厳しさは、自分を向上させ、意識を高揚させる。中途半端な優しさなんて意気地を挫くだけだ。無理解さを嘆くな。未熟さを言い訳にするな。やるべき時にやらない言い訳はどこにもない。はじめは誰でもある。言い訳は自分に向かってしているだけだ。自分を甘くするだけ。経験は、経験を積むしかないのだ。
できるか、できないかを問題とする前に、やるべきか、やらざるべきかを考えろ。やらなければならない事ならば、できるかできないかが問題なのではない。その時、道は開ける。
義を見てせざるは勇なきなり。自分が傷つく事を怖れては人を愛する事はできない。
戦え。もっと猛々しく獰猛になれ。誰も、お前なんて最初から認めてはくれない。だからこそ面白い。愛される事より愛する事を覚えろ。金もない、学歴もない、家柄もないなんて嘆くな。それこそが最大の財産なのだ。
迷惑をかける事を怖れてはいけない。親に迷惑をかけない子も、子に迷惑をかけない親はもいない。上司に迷惑をかけない社員はいないし、社員に迷惑をかけない上司もいない。
だから、お陰様、お互い様、お世話様と挨拶してきた。迷惑をかけるなとは言わない。ただ、自分が皆に迷惑をかけている事を自覚しろ。そして、心で手を合わせればいい。黙って頭を下げろ。すみませんではなくて、ありがとうと…。
教育ってなあに
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教育と志
学ぶべき事
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