経済の現状

歳をとるとは


人は、一定の年齢に達すると自分の限界が見えてくる。元々の能力に限界があるし、加齢による衰えもある。哀しい事に、歳を取ると、気力も体力も衰える。新しい事を受け入れる意欲も能力も失せてしまう。頭も柔軟性を失い固くなる。何より、瞬発力が衰える。本来の実力にも差があり、いずれにしても、自分の限界を悟らざるを得なくなる。
自分の限界が見えてきたら、それを素直に認め、後進に道を譲り、自分は、相応の役割をして、若手を支援する側に回れば問題はない。それが年寄りの役割である。そうすれば後輩たちも先人先輩たちを立ててくれる。
ところが往々にして自分の衰えや限界を認めずに、隠そうとする。隠そうとするから、自分より優れたものを力ずくで抑えようとしたり、後進者の成長を阻もうとする。そうなると組織にとって弊害になる。組織の癌細胞のような存在になってしまう。

残念ながら、歳を取ると解らない事、できない事がどんどん増えていく。歳を取るというのは、ある意味で残酷な事で、新しい事を吸収できなくなる、成長が止まるだけでなく。若い頃にできた事がどんどんできなくなる。気力も、体力も、記憶力も衰えていく。それが歳を取るという事である。

自分の限界を認めなければ、保守的になり、頑固になる。それは、信念があって保守的になるのではなく、限界を認めないから保守的になり、頑固になるのである。相手の問題ではなく、自分の問題である。若い頃よりも歳を取った時の方が自分に負けていく。

年寄りに何を期待するのか。年寄りは年寄り。理解なんて期待できない。何を待っているのか。待っていても誰も理解してくれない。認めさせるだけである。待っているだけでは歳を取るだけ。チャンスこそ、若い限られた時にしかない。無謀、傲慢と言われても若者は、挑戦すべきなのである。

年寄り、ベテランの最大の武器は、経験である。経験があるから最悪の事態にも備えられるし、責任も取れる。なぜならば、長い間には、多くの失敗を積み重ね、恥をかいてきたからである。歳を取ったら、時を敵に回してはいけない。時の経過には、人は逆らえないのである。歳は、否応なく自分の限界を見せつけ、己の小ささを嘲笑う。自分の限界を認めた時、はじめて時間を味方につける事が出来る。

若者は、優しさなんて求めるな。そんなもの他人に、求めたところで自分の為にならない。優しさは、他人に求めるものではなく、自分に求めるものだ。他人に優しくなれ。それがものの哀れである。日本の心。
決断は過酷である。実際に選べるのは一つしかない。決断は、決して断じる事。未練を断尽きる事。自分でこれだと決める事。
だから、人に優しさなんて求めて何も得られない。求めるならば厳しさを求めろ。
厳しさは、自分を向上させ、意識を高揚させる。中途半端な優しさなんて意気地を挫くだけだ。無理解さを嘆くな。未熟さを言い訳にするな。やるべき時にやらない言い訳はどこにもない。はじめは誰でもある。言い訳は自分に向かってしているだけだ。自分を甘くするだけ。経験は、経験を積むしかないのだ。
できるか、できないかを問題とする前に、やるべきか、やらざるべきかを考えろ。やらなければならない事ならば、できるかできないかが問題なのではない。その時、道は開ける。
義を見てせざるは勇なきなり。自分が傷つく事を怖れては人を愛する事はできない。
戦え。もっと猛々しく獰猛になれ。誰も、お前なんて最初から認めてはくれない。だからこそ面白い。愛される事より愛する事を覚えろ。金もない、学歴もない、家柄もないなんて嘆くな。それこそが最大の財産なのだ。
迷惑をかける事を怖れてはいけない。親に迷惑をかけない子も、子に迷惑をかけない親はもいない。上司に迷惑をかけない社員はいないし、社員に迷惑をかけない上司もいない。
だから、お陰様、お互い様、お世話様と挨拶してきた。迷惑をかけるなとは言わない。ただ、自分が皆に迷惑をかけている事を自覚しろ。そして、心で手を合わせればいい。黙って頭を下げろ。すみませんではなくて、ありがとうと…。

若い頃は、怖いもの知らず。恐れを知らないで決断をするが、それは無謀である。
経験を積むと恐れを知る。怖れを知ってから決断する事は勇気がいる。
だから、年寄りが責任を持つのである。若者には先がある。先が見えた者こそ、腹を据えるべきなのである。歳をとったら逃げてはいけない。逃げたら先がなくなる。それに、逃げようとするから逃げられなくなるのである。歳をとったら死中に活を見出す。若者を活かすために死んでいけたら本望である。

若者からこそ学ぶことが多い。最大の指導は、若者から学ことである。
己の限界に絶望する事はない。嘆く事もない。諦めなんて卑怯者のする事である。特に、若い頃に自虐的になる事は、人生最大の過ちである。
己の限界を知った時、人は大いなる希望を持つべきなのである。一人ひとりの限界を知った時、人は他人を受け入れ、信頼される事を目標とし、助け合う事を知り、仲間や愛する人を必要とする様になる。そして、限界に挑戦し続ける事を学ぶ。限界があるからこそ希望がある。
だからこそ、歳を取る事は喜びなのである。衰えて知る人の温かさ。人は一人ではない。人は、自分だけのために働くのではない。チームワークの根本は、助け合いであり、友愛である。歳をとり、衰えれば衰えるほど、人の助けを必要とする様になる。自分の衰えを受け入れられない者は、意固地になる。
未熟さを理由に若者からチャンスを奪ってはならない。新しい事に挑戦したり、責任ある仕事をやる抜くためには、気力体力が必要なのである。若者に経験がないと言えばそれまでである。誰にも、初めてがある。初めてを経験がないという理由で遅らせればいつまでたっても経験はできない。そして、時を失うのである。
若者は、果敢に挑戦せよ。時には、無謀と言われても、傲慢と言われても、自分で覚悟を決めろ。認めてくれないと嘆くくらいなら、自分を認めさせるために戦え。

教わる時は、教わればいいのである。教わる時は、先ず素直に相手の言う事を聞き。言われたとおりにする。最初は見よう見まねで基本を覚える事から始まる。
相手に言われたことを言われたようにする事がどれくらい難しいかを悟ったら進歩である。
自分の限界を痛いほど自覚すれば、相手を受け入れる事が出来るようになる。相手を受け入れる気がない者は、学ぶことができない。
教えたくとも教えられないのである。
故に、昔は、門前で試されたのである。今でも禅宗では、修行に入る前に試される。

学校では教えてくれない事は、自分で問題を作る事である。問題を作るとは、問題を見出し、道筋をつける事である。必ずしも問題を設定したからと言って答えに結び付くとは限らない。
本当の問題意識とは、自分で設問をする事である。だから、学校では問題意識を持たせることはできない。
なぜなら、学校では問題はあらかじめ用意、設定されていて、答えは一つと最初から決められているからである。
しかし、社会は、問題を探し、設定する事の方が全てと言っていい。最初から問題が設定されていて、答えが予め決まっていることなど、この世の中には学校以外にない。
誰を好きになり、どんな恋をするのか。その問いは、自分で作るしかない。他人が答えを出してくれるわけでもなく。誰を好きになるかも自分で決めにければならない。問題設定を間違えば自分の人生を台無しにする。最後は責任を取らされる。自分以外の人は、自分の人生の責任をとってはくれない。自分で問題設定が出来なければ、恋など始まらない。
問題設定こそ始まりであり、原点である。自分で問題設定が出来なければ、何も始まらない。問題設定ができないまま歳をとれば、人生はお終いである。しかし、学校は、問題を解くことは教えても、問題設定は教えてはくれない。むしろ、自分で問題を設定する事を妨げる。学校では、先生の言いなりになればいいのである。社会に出たら、それでは、隷属しかない。
だから、問題設定ができないものは鬱になる。鬱になるのは、問題が解けないからではなく。自分が何を問題としているのかがわからないからである。
そして、問題設定は、教える事はできない。自分で学び取るしかない。
組織の中では、自分勝手な行動は慎め。一人の身勝手な行動は、チーム全体を危うくる。
チームは一人ではない。一人は全員を守る為に、全体は、一人を守るの為に働く。
サッカーでボールに群がり団子状態になったら勝負にならない。常に、選手には、一定のフォーメーションを守ることが求められる。それが組織である。少しでもサッカーをかじった者にとって自明な事だ。自明な事だが訓練されていない者には守れない。
野球は、ボールの飛んでいく方向とは逆の方向に走る者がいなければ守備はできない。皆がみんな、ボールの飛んでいく方向に向かって走ったら守ることはできない。
勝ちたければ勝てるように行動しろ。

責任者と言うのは、解っているから信じる。できるから任せるのではなくて、わからないから信じる。できないから任せるのである。
要々(かなめかなめ)を担う者は、自分一人がわかっても意味がない。自分が一緒に仕事をする仲間すべてに目的や趣旨を理解させる必要がある。自分一人だけがわかっている事はかえって弊害にすらなる。だから、自分さえ分かっていればいいというのは、組織人、責任者としては最悪なのである。組織で求められるのは、チームワークであって、一人仕事ではない。責任者の独りよがりが一番困る。
なぜならば、リーダー、一人だけが理解していても、分担して仕事をするチームが誰も理解していなければ組織は、働かない。
指示された事わかるというのは、チームのメンバー全員がそれぞれ自分が何をしなければならないのかを理解した時にわかったというのであり。言っている言葉の意味が分かったからと言って組織人としてはわかった事にはならない。投手には、投手の仕事があり。捕手には捕手の仕事がある。マネージャーにはマネージャー、コーチにはコーチの仕事がある。指示者の意図を、チーム全体にいかにして浸透させ、組織として実現するか、そのやり方を全員が理解した時、はじめてわかったと言えるのである。

外野席から好きかったなことを言うの一番愚劣、卑怯だと、いつも、叱られたものだ。今の日本の指導者には、当事者意識が欠如している人が増えている気がする。
自分の国、自分の会社は自分たちで守る以外誰も助けてくれない。誰も守ろうとしない国は守りきれるものではない。自分たちの国は、自分たちで守る。会社も同じだ。仲間以外を頼るな。そして、決して仲間を裏切るな。団結だけが自分を守る。団結は、信頼と絆に支えられている。
決断すれば、必ず、反対意見がでる。要は、従えるか従えないかの問題であってトップの決断に従えないというのなら、命をかけ、首をかけ、諫言すべきなのである。それができのならば黙って去る以外にない。それが志。
最初からできるできないを議論するのではなくて、やるべきか、やらざるべきかを議論すべきなのである。最初からできるできないのを議論したら、できない事、やらない理由を考える。失敗を恐れていては何もできない。
やらなければならないと思ったら、断固としてこれを実行しろ。何もしないうちに諦めてはならない。戦え。
何が必要なのかが先で、やらなければならないと決まってから可能性を追求すべきなだ。一見無理と分かったとしても、人としてやらなければならない事からは、逃げられないのである。逃げたらお終いである。最後まで踏みとどまって可能性を追求する。それが仲間だ。やらなければならないのならば、できるできないを議論したところで始まらない。それ以前にやらなければならないのである。何が何でもやらなければならないと覚悟した時、現実を直視する事が出来るようになる。その時、道は開ける。
非常の時は、非常の時の覚悟、考えがある。国や会社が自分に何をしてくれるかを求めるべきではなく。国や会社に対し自分は何ができるかを考えるべき時なのです。それが指導者の務めだと覚悟する。
人にはそれぞれの役割がある。ただ、人生の傍観者だけにはなるな。

人は、相手が無理解な事に腹を立てるが、自分以上にしている事も不愉快な、厄介な存在なんです。
自分を相手より偉く見せようと虚勢をはる。それが歳をとるとともに酷くなる。

人に最初から完成度など求めたところで意味はない。大体、完成度の高い人間は、指導者の言う事を聞かないから、育てようもないし、育て甲斐もない。指導するのならば未熟なくらいがいい。

指示をしたら指示をした相手に自分の指示が伝わったかどうかを確認する。
指示の真意が伝わったかどうかは、相手が、どうしようとしているのかを聞けばわかる。解りましたなんて言う返答を信じるな。やってみなければわからない事は、やらなければ解らないのだ。
最初から間違った行動をすれば、正しい結果は得られない。はじめの内だから過ちを正す事が出来る。
だから、何をしようとしているかを聞けば相手がどれだけ自分の言っているかがわかる。行動は嘘を付けない。どうするかを質問したら、相手は、そこで応えたように行動する。また、行動しなければ、組織の一員としては問題である。なぜならば、他のメンバーやリーダーに嘘をついた事になるからである。
だから、聞かれた者は、自分が答えたように行動するのが鉄則である。
答えられない者は、基本的にやらないし、やりたくてもできない。いい加減な答えをする物は、いい加減な仕事をするし、曖昧な答えをする者は、細かい詰めを誤り、些細なミスを起こしやすい。自分が決める事を確認しない者は、独断に陥る。無責任な答え方をする者は、基本的に無責任である。指示の主旨を理解する者は、確実に自分の責任、任務を果たせるように質問をしてくる。わかりましたと言いながら、何も質問しようとしない者、実行も実現できるように話を詰めない者は、本質的にわかっていないのである。
成功したければ成功するために必要な事を明らかにし、成功できるように準備し、確実に実行しろ。

報告は、自分の為にする。報告していない事は、やっていない事。報告していなければやっていないと叱られても弁解できない。報告しなければ面積できない。報告しなければ次の指示を受けられない。だから、よくする者は、言われなくても報告する。求められる前に報告する。
解らない事は聞け。知ったかぶりはするな。忘れたら確認をしろ。確認は、何度してもいい。確認は、形で覚えろ。ここは学校ではない。カンニングをしても、教科書を見ても、辞書を調べても確実に満点をとればいい。試験されているのではない。確実にやり遂げる事が求められているのだ。自分の過ちは、仲間全体の過ちになる。自分が信用を無くせば、会社全体が信用を無くす。個人的な恥など意味がない。恥はかいて知れ。知らない事は知らない。わからない事はわからない。それがどうした。素の自分を大切にしろ。自分は自分ではしかない。自分を愛せない者に、他人を思いやることなどできない。劣等感なんて私情に過ぎない。自信を持て。
克己復礼。


       

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