決して断じる。考えて決めるのではない。断じて考えるのである。なぜなら、考えたら決められない。第一勘を鍛えるのである。好球必打。初太刀こそ決断である。
決断は、経験的に鍛えていくのである。
またぞろ、自主性、自発性、相手の意思を尊重し、主催者の意思を尊重すると言い出した。
その上で一気呵成に決断となければならないと叫んでいる。
自治体や主催者の意志に任せるという。体の言い逃げである。無責任極まりない。
自治体や主催者に任せると言っていながら、自粛を要請するというのは、体の言い逃げである。任せると言いながら、イベントを開催したら、自粛なかった主催者が悪いというのであろう。やる前から言い訳を考えている。それを忖度だというのならば、忖度の意味を曲解している。
追いつめられると唐突に決断する。そのうえで他人のせいにする。
本当に決断できない。決断しなければ、自分の間違いにはならない。自分の責任にならないと勘違いしている。どちらにせよ、責任者は、結果に責任を持たなければならない。
優柔不断と言うか、はっきりしないというか。
一気呵成に、これまでにない、大胆なとか、その時になったら躊躇なくというような意味不明、心構えのような事を繰り返すばかりで何ら具体的な策を示せない。
戦後、日本の学校では、強要、強制は、いけない。指示、命令は、悪い事。服従なんて求めてはいけないと繰り返し教えてきた。この様な国は、日本だけである。指示、命令に従うこと自体が自主性を主体性を損なう行為ではない。大体、強制のない国はないし、組織は、指示、命令によって動いている。罰則のない法は法としての効力を発揮しない。罰則とは、強制である。
コロナウィルス感染防止のために都知事が自粛を要請した。それに対して多くの若者が無視した。その口実として、「自粛と言ったって禁止ではないんでしょ。」「コロナウィルスは、年寄り死ぬかもしれないけど、僕らは大したことないと聞いた。」「大袈裟なんだ。」若者たちが、感染を引き起こしていると言ったら「そんなことはないと思う。早朝、薬屋に言って長い列を作っているのは年寄りですよ」と言う返答である。この様な考え方を育てたのは、学校の先生たちである。
確かに、権力に盲目的に従うのは、危険である。だからこそ、分権制度にしたり、言論の自由によって権力を規制をするのである。しかし、だからと言って指示、命令は悪だとするのは、一種の陰謀としか言えない。我が国の敵が我が国を弱体化する為に仕掛けてくるのはまだ理解できる。それは相手が敵であるからであり、敵の手に乗るのは自分が愚かだからである。しかし、本来味方である国内のしかも、教育に携わる者が、国を否定するような教育をするのは赦しがたい。
コロナウィルスでは、多く国が都市封鎖を行っている。これは、自粛ではない。強制である。都市封鎖した結果をどう判断するか難しい。それは、都市封鎖をしなかった場合の結果は、わからないからである。反対に何もしなくても感染爆発が起きていない都市もある。ただ、カーニバルやイベントによって観戦爆発を起こした都市や国もある。しかし、これは結果である。結果が出る前に断固たる処置をとるのは、勇気がいる。しかし、指導者には、その勇気が求められる。断固たる処置をとった場合、杞憂だという批判は付きまとうし、強制されたという愉快な気持ちだけが残る事がある。しかし、勇気を持って決断するのが政治である。そのような指導者への寛容さを失った国からは、強い指導者は生れない。
我々は、本気で責任を持って解決しようとするなら、決められることから決めていけ。今、決められない事に煩わされているから決められないのだと言われ続けた。最初からできもしない事に囚われていたら決断なんてできない。試合前に、勝つためにどうしたらいいかを考えるのはいいが、試合もする前から負けた時の事を考えたり、やってみない事を言い始めたら何もできなくなる。それははじめから勝てると思っていないのである。
大体、最初から最終的判断なんて求められていない。だから、最初は、方針だけでも決める。方針も定まらなければ、部下は、仕事に着手できないのである。
組織は、細かい決断の積み重ねによって成り立っている。
最終的な結論なんて最初から求められるはずがない。大体、最初から結論が出ているなら苦労はないし、組織はいらない。
結論を出すまでに一定の手間暇がかかるから、組織は必要とされるのである。重要なのは、過程であり、その過程を共有する事で組織は成り立っているのである。
最終的結論は出せなくても、いつごろまでに結論を出さなければならない事は決められる。また、方針も決められる。最初にできるのは、その程度の事である。また、その程度の事も決められなければ、仕事は始まらないのである。
例えは、半年後までに結論を出せばいいという事がわかれば、今何をしなければならないかも見えてくるのである。
大体、どんなに些細な事でも組織的な事は最低三か月を単位に考える必要がある。そして、最初の仕事は目に見えない部分なのである。
建物が、目に見えるような姿になるのは、最終段階である。構想段階では、姿も形も何もない。仕事は姿形もないところから出発するのである。
トップが決断しなければ、仕事に着手できない。決断すれば、撤回も、修正も、変更も、辞める事もできる。それも決断である。
いつまでにどのような結論を出さなければならなのか、何をしなければならないのかがわかれば、早い時期から着手し、準備する事が出来る。
会議で出す結論は、会議を開かなければ解らない。試合の結果は、試合をしてみなければわからない。会議で出す結論や試合の結果を議論する暇があったら、会議の準備や試合の為の練習に集中すべきなのである。やってみなければわからない事はやってみないと解らないのである。その事で頭を悩ますだけ精力の無駄遣いなのである。況や、やる前から責任を問うのは愚かである。責任は、責任者が覚悟するばいいだけである。
それはやりたくないやりたくない、成功したくない成功したくないという仕事をして、始めかに言い訳を考えているような仕事である。
最初は、やらなければならない事か否かを見極める事である。何が何でもやらなければならない事なら、結果を考えずにただひたすら貫徹成就する事を考えるべきなのである。
我々は、遠いことほど決めやすい。近くの事ほど判断が難しくなるとも教えられた。明日の事よりも一年先になりをやるかはわかる。一年後のイベントの日は決められるが、同じ規模のイベントをいきなり明日やれと言われても難しい。予めイベントの概要が決められるから仕事にかかれるのである。
いつまでも、結論を出せずに、方針も出さなければ、組織的な仕事は何も着手できない。そして、どうにもならなくなってから決めようとするから突拍子もない決断をするのである。大きな決断は、小さな決断をそれこそ一つひとつ階段を上る様に積み上げていくのである。十日も放置すれば、階段も壁になる。一か月放置すれば絶壁になってしまう。一つひとつの会談は低くても蓄積したら超えられなくなるのである。
追い詰められ、切羽詰まってから決断しなければならなくなるから、飛躍し、場当たり的になる。人の意見も聞けなくなる。また、極端な意見やリスクの高い策を採用しがちになるのである。決める為の準備が整っていないのである。
指導者は間違える。結果がいい時だけ正しいのであって、結果が悪ければ間違いなのである。私が、歴史からどのような教訓を得たのかと言うと、指導者は間違えるという事である。間違えるというより、是非善悪は、結果から判断される事で、常に、いい結果を導き出せるとは限らない。人は神にはなれない。神が間違いを起こさないのは、神は結果を制しているからである。
人は結果から判断される。人の判断は相対的であり、絶対ではない。故に、人は間違える。指導者もまた人である。故に、指導者は間違える。
しかし、指導者が決断をしなければ、全体は守れない。
不決断は、最大の誤判断である。指導者を臆病にしてはいけない。指導者が間違った判断したり、決断に迷わないように準備するのが側近である。指導者を、後見人や補佐役が安易に批判すべきではない。それは、イエスマンになることを意味しているのではない。自分の意見は、明確に述べ。諫言すべき事は、腹を括ってい諫める。ただ、一旦決定が下ったら、粛々と速やかに、決定に従って行動する。従えない者は、黙って去る。
自分の保身のために、トップを臆病にしたり、迷わせるのは言語道断である。獅子身中の虫である。
指導者は、決断する。断じて行う。そして、後は責任の取り方を覚悟する。結果がよくても、悪くても、責任をとる覚悟をする。成功しても失敗しても出処進退を明らかにする。
細かい事は任せる。現場の事は現場に任せる。ただ、任せるというのは、丸投げすることを言えのではない。任された者も任されたと言って独断先行が許されているわけではない。任されれば、任されただけ、誠心誠意、報告する事が求められる。嘘は許されない。それが任されるという事である。
組織は、決断の連鎖によって動いている。組織の意思決定は組織的になされるのである。
チームのメンバー全員、各々立場で決定すべき事がある。
何を自分の意志も責任で決めなければならないのかを体得しておく必要がある。
監督と選手とでは、自ずと決める時や決める場所、決める事は違うのである。
監督は、指図はするが、自分がバッターボックスに立つわけではないし、守備をするわけではない。監督と選手を兼務する場合がないわけではないが、その場合でも、監督は監督、選手は選手と、頭を切り替え使い分ける事が求められる。この点をはき違えてはいけない。
監督は、多くの事を決定するがそれを実行実現するのは、個々の選手であり、準備するのは、コーチである。監督の決定に従って具体的な仕事、作業に置き換えるのは、個々のコーチであり、選手である。
最近の教育では、指図だけだす指導者の態度を偉そうにしてとか、パワハラとか、横柄だとか、横暴だとか教え、強制、強要は悪だと吹き込む。しかし、強制のない組織はない。組織は、指示、命令で動くのである。指示、命令が一元化され、徹底されなければ、統制も、規律も失われ、組織は解体する。
現場では、即断、即決、即行を求められる場合が多い。いざと言う時に何も決められずに固まってしまう、立ち往生したら大惨事になる。
非常の時は、各々が予め決められたように行動しなければならない。
よく我々は、監督と言うのは試合が始まったら、決める事は少ないと言われた。実際、野球だけでなく、サッカーもラグビーも試合中は監督の出る幕は少ない。
実際に働くのは、現場の人間である。試合が始まってから作戦を立てたり訓練をしても遅いのである。それを泥縄と言う。泥棒を捕まえてから縄を編んでも遅いという諺である。
指導者の意図する処や構想を実現するのは、現場の人間である。故に、指示されたものは、指示した者の真意を取り違えたり、勝手に解釈してはならない。しかし、指示した側の者は、指示された側の人間が自分の真意を正しく理解しているかを確認する事は難しい。
指示した者が、指示された相手が指示された内容をどの程度理解しているかを知りたければ、どうするつもりか、どうしようと思っているのかを聞けばいい。空返事ばかりで、指示内容を理解していない者は、満足に答えられない。はぐらかしたり、抽象的な事しか言えずに具体的な事は何一つ言えない。酷い時は、最初から言い訳をしてくる。
人は、自分が言ったように行動する。いい加減な返事をする者は、いい加減な仕事しかしないし、曖昧な答えをする者は、いつまでも迷っていて最後は自分勝手な解釈をする。最初から言い訳をする者は、最初からやる気がない。まともに返答できない者は、最後までやらない。自分の仕事に責任を持たない。
本当にわかっている者は、わかったふりをしたりはしない。まず具体的に話を詰めて確実に実行できるようにする。
指示した内容の真意は、指示したものにしかわからない。指示された事を忠実に実行しようとすればする程、具体的な話をした詰めてくる物なのである。指示されてながら、確認も質問もしない者は、指示された事の真意を理解しようとしていないのである。
現実の試合中は、決断するのは、選手である。試合が始まってから、何をしていいのか解らない状態にするなの躾けられた。
親父たちは、それまでどんなにリラックスいていても敵襲と言われた主管に臨戦態勢に入る。直前まで、世間話をしたり、遊興にふけっていたり、居眠りをしていてもジャンと金がなったら戦闘態勢をとる。
いざ戦いとなったら迷っている暇はないのである。一種の迷いが命取りとなる事を知っていたからである。
仕事と言うのは、例えば、会議を開くと言われたら、会議が出来るように、トップが間違った判断をしないように準備する事だ。だから、決定されてから仕事は始まるといつも言われ続けた。
そして、その時は、迷わずに決断し、行動に移せと。なりふりかまうなと…。
バッターボックスに立った者は、自分の意志でバットを振るのである。一度もバットを振らずにアウトになるなと言われた。
常に真剣勝負なのである。常在戦場。
組織にとって最も重要なのは、忠誠心である。忠誠心とは、盲目的に従う事を意味しているわけではない。それは、盲目的に従うのは隷属であり、忠誠ではない。隷従するのは、奴隷根性であり、忠誠心ではない。
忠誠心とは、誠を尽くす事である。誠心誠意む、組織、全体に尽くす。たとえむ、組織の人間すべてが反対しても信念を貫く。それが、忠誠心である。
戦後、日本人は、叛逆を美徳だと刷り込まれてきた。陰謀だと言ってもいい。しかし、それを頭から信じ。裏切り、反抗、抵抗、背信、欺き、革命を善だとする思想がはびこった。
従うにしろ、叛逆するにしろ。一番、重要なのは、信じるところ、何を自分が信じるかである。自分を見失った人間は、自分の意志で従う事も逆らう事もできない。されは、単に見せかけの事に過ぎない。
従うにしろ、逆らうにしろ、先ず、己の心根をしっかりと持つ事である。
組織の決まりの基本的な事を確認しておく。
スポーツにルールがあるように、仕事にもルールがある。最低限のルールが判らない者、従はない者が一人でもいたらゲームは成り立たなくなる。ルールを守らない者が出ると統制が利かなくなる。故に、ルールを守らない者は組織の破壊者になる。
野球は、宣言に始まり、宣言で終わる。正式な仕事も宣言に始まり、宣言で終わる。
仕事やその場を仕切る者がいないと正式な仕事は、着手できない。故に、誰が全体を仕切るかを最初に指名する。
通常の、定例業務は、事前に定められた権限や慣例に従えばいいが、新し仕事や非常時は、通例、責任者は決まっていない。
戦国時代、織田信長は、戦ごとに方面指揮官を決め、必要に応じて諸将を配置した。仕切るものがいなければ組織は統制を失い危険な状態になる。
現在の組織は惰性で動いているに過ぎない。危機に瀕したら機能不全に陥る。それが、最大の危機なのである。頑固にならず指示に従え。そうしないと災いは、全社員に及ぶ。
全体を仕切る者がはっきりしてない場合は、代行者、つまり、仮親を立てる。一般に、総務部長あるいは番頭格が代行、つまり、仮親になる。内閣では、官房長官。
序列が低いものに仕切らせようとする場合は、後見人をつける。そうしないと統制が取れなくなる。
責任者がいない打ち合わせは会議として成立しない。なぜならば、責任をもって決定を下せるものがいないし、それを決定されたことを正式に指示するものがいないからである。会議で決定されたことは確実に伝達、実行されなければならない。一つでも実行されないと全作業に影響が及びチームが解体するからである。責任者がいない会議は何も決められない。
誰の指揮下にある者や機関は、統制できない。この様な者は、組織の破壊者となる。
最初の仕事は、仕事のミッション、目的、役割、使命を示して全体を誰に仕切らせるかまで。なぜならば、基本的にやることは総責任者と相談の上に決める事が原則だからである。守備位置や打順は、監督が決める。守備位置や打順を決められていたら監督は何もできない。
総責任者に指名された者は、基本的考え方とどのような組織にしたいかをオーナーと相談し、オーナーに関係部署に指示してもらう。権限の委譲は、関係者の立ち合いの下で正式な手続きに従ってやる。そうしないと、権限を委譲された者の指示に誰も従わない。
仕事が正式に始まるのは、総責任者が関係者の前で最初の指示を出した時。開始宣言と最初の指示、号令がワンセットで仕事はスタートをきる。
故に、方針が示されたら総務部長は、速やかにいつから、どの様に正式に仕事を始めるのかを総責任者に確認をし、必要によっては設定する。正式な指示が出されなければ仕事は、始まらない。故に、責任者の指示に従う従はないは、自由意志。しかも従っても正式な勤務がとして扱われる。その結果一番被害を受けるのは担当者。だから、指示を出すのは自分の部下を守るため。
正式に仕事が始まったら責任者は、当座の作業をざっと洗い出し、仕事分担したうえで作業指示を担当者に出す。最初の指示が出された時点で組織は、起動する。
試合の結果は、試合の前には決められない。
試合の前に、決めらるのは。試合日とか、練習をどうするか、監督を誰にするのか。
現場が決めること本社決めたら現場従えない。
オーナーは打順を決められない。
相手チームの監督は、守備位置を決められない。
初めに方針は決めらても、試合の結果は決められない。
知らない人は従えない。知らされちないものは、練習にも試合にも参加できない。
正式な指示に基づかなければ正式な仕事とはみなされない。
自主性に基づいた仕事は正式な仕事とはみなされない。自主性に基づく仕事は責任が持てない。故に責任の放棄とみなされる。
自主性に基づく仕事は、断れるからである。自主性に基づく仕事は、強要できない。自主性に基づく自主的に辞められる。自主的な仕事は自由意志に基づくからである。
開始宣言をもって正式に試合は始まり。終了宣言をもって正式に試合は終わる。
審判の許可なくして守備位置を離れてはいけない。監督の指示なくして守備を交代してはならない。
試合中は、審判の指示に従はなければならない。
守備位置も打順も自分の意志、自由意志では、決められない。
ルールは、勝手に変えられない。
監督と審判は違う。監督は試合の開始宣言はできない。審判は、選手の守備位置は決められない。そのことが明確なのが自由主義。共産主義は、書記長が監督や審判を兼ねたり、ルールを勝手に変えたりできる。
火の用心という方針が示されたら、火の用心と伝えればいいというのではないの。それは、上を馬鹿にしているか、自分が解っていないのかどちらか。
火の用心という方針が示されたら責任者を決めて火災が起こらないよう対策を立て、実行する。
コロナ対策の方針が示されたら。方針を伝えたら仕事が終わるのではないの。仕事が始まるの。方針に基づいて体制を整え分担して仕事に着手する。方針は、始まりであって終わりではない。
行司は相撲を取らない。審判は、バッターボックスに立たない。
監督は、プレーは、選手に任せる。選手は采配はしない。
監督や選手は相手チームの指導はしない。
審判は、個々のチームの問題に口を挟まない。
高校野球やオリンピックは開会式で正式に始まり。最初の試合の審判の宣言で始まる。プロ野球は、始球式、サッカーは、コイントス。そして、審判の宣言で始まる。
なぜ、九人で野球をするのか、議論したら野球は、始まらない。最初の決定はあっけないもの。ミッションの確認と責任者を決めるだけ。それ以上に着手してはならない。やってもしない試合を反省しても意味がない。
スターターが起動しなければ組織は死ぬ。会社潰れるぞ。正式に仕事を速やかに開始しろ。
非常時なんだ。素直になれ。分からないこと分かったというな。やってないことやったというな。聞かれたことだけを答えろ。はぐらかすな。ごまかすな。
野球をやるという方針が出されたら。誰を監督にするかで指示者の真の意図が理解できる。誰に先発させ、誰を四番するかで監督の真意が伝わる。
だから、指示内容をちょとづつ変えたり我を通すと指示の内容が変わる。最初にどのような指示を出すか、すべては、それにかかっている。
今は、素直に指示に従ってほしい。自分の意見がとおらなっかったり、自分が担当しないからといってふて腐ったり、ちょとづつ変えたり、いったこと違うことされたり、タイミングをずらされる。指示者の真意が伝わらなくなり、統制がとれなくなる。要に、位置する者は自分を殺しても全体の調整をしなければならない。好き嫌いの問題ではない。
今は、生きるか死ぬかの瀬戸際なんだよ。
コロナウィルスが流行しているからといって作文したり、ポスターを作ったりするのは、担当者の仕事。よもやそれを役員。トップにさせる気。それが傲慢なんだ。
メール一つで組織が動かせるなんて思うなよ。組織は、そんな簡単な事では動かないの。組織は、人の集まり。人を動かさない限り、組織は動かない。
コロナウィルスに対して対策を立てよ。と言う方針が出たら、それに基づいて誰を責任者とし、どの様な体制にするのか、正式なスタートをどうするのか。それを設定するのが事務方の仕事。
正式にスタートするのは、ふつう、立ち上げと言って顔合わせ程度でいいが、関係者を集めて宣言をし、仕事に着手する。
そうしないと正式に仕事は始まらない。我々は、先輩たちにとりあえず正式に立ち上げとけよとか、難しく考えずに、簡単に早くやれ。そうしないと正式に仕事が始まらないと教えられてきた。
今は、事務方が怠慢で、難しくして、時間をおいてしまうために、仕事か正式にいつまでも始まらない。仕事のやり方、組織の動かし方を覚えろ。それがマネージャ、支店長、職長、管理職の仕事なの。ただ偉くなっていたら組織の障害になるからな。
百人の人間を一糸乱れず整然と動かすのに何の技術いらないと思っているのか。
最初に決めるのは、方針と責任者、できれば、担当者。次の会議で、基本計画と実施計画を承認を受けたうえで部門長に指示を出す。その次の会議で報告を聞く。
最初は、中核チームを立ち上げる。中核チームメンバーは、責任者がオーナーと相談して決める。オーナーとは、統括をいう。中核チームは、小人数で構成する。原則は、直属の部下を前提だが、問題点が、多岐に渡ったり、専門性があったり、てきにん適任者がいなかった場合は、プロジェクトチームを編成する。
中核メンバーの仕事は、主として調査、企画立案。中核メンバーは、速やかに方針を決める。
方針とは、作業方針。チームメンバーが共同で作業を進めるために共通認識を持たせることが目的。
会議は発表会ではない。責任者が自分で作っただけでは、発令者の意図も自分の意図も伝わらない。作業、仕事を通じて組織に浸透させていく。
方針も、発令者の意図も聞いただけでを理解できないから、作業、仕事じて理解、しんとしていく。だから、指示を出す前に指示の内容を確認する。
会議は、組織を始動したり、終了したり、制御したり、管理したりするための装置、機関だからな。
話をするために集まるのは集会、会議ではない。話をするためでなく。仕事をするために集まれ。
責任者は、担当者を指名し、正式に任命し(口頭でいい)、発令者の意図を文章によって確認し、正式にいつ組織を立ち上げるか決めそれをオーナーに報告し承認を得て、関係部署に発令する。
正式に組織が立ち上がるまでは、事務方、一般に総務が代行する。事務方は、自分がかかをっているかいないかにかかわらず立ち上げまでは、責任をもって準備する。事務方はむしろ、直接関係ないほうが中立、公平な立場に立てるので都合がいい。総務は、直接、関わるかか否かい関わらず全ての事務を統括している。だから、総務なの。
中核チームが起動したら、責任者は、準備チームの立ち上げの準備を事務方と相談して準備する。
チームは、中核チーム、企画チーム、準備チーム、実行チーム、管理チーム。後処理チームのチーム。必要に応じて会計を別途置く。ただし、中核チームと企画チーム、管理チームは、一体で、実行チームと後処理チームも一体にすることができるから、最低、中核、準備、実行の三チームは、設定する必要がある。
一致団結して
今、自分の我や意地で組織を止めたら会社を潰れるぞ。責任を感じろ。戦うべきは自分。解らないことあったら、部下であろうと、年下であろうと、聞け。自部の話を着てくれないというものほど話を聞いていない。聞く一時の恥の。聞かざるは一生の恥とたしなめられてきた。一生、恥をかいていろ。
克己復礼
事務方は、裏方。裏方が働かなければ、組織は動かなくなる。
裏方は、表に出ないけど組織の中枢を担っている。
事務方は、アレンジしてはならない。
事務方は、方針を確認し、責任者からどのように組織を立ち上げるか聴き取りその準備をする。
方針が示されたら総務は、速やかに決定内容を確認し、段取り、手配をする。例えば、近藤が責任者となり、村山を担当者として営業のコロナ対策を立てるという方針が示されたら。総務は、専務にその方針を確認し、近藤と相談の上、どの様なチーム体制でいくかの案を作成し、専務の承認を得て決定する。その決定に基づいて総務は、関係部署に手配すると同時に正式な手続きをする。
基本的に、裏方は、自分の意見を差し控える。但し聞かれた時は、率直に答える。それは、事務方の専横を抑える必要があるから。裏方は、アレンジをしてはならない。事務方が少しでも変えると全体に真意が伝わらなくなり、統制が乱れる。だから、考える必要がない。裏方は裏方に徹する。
決定事項は、即日確認する。なぜならば、忘れるから。
人は、一度聞いただけでは、一日経つと74%忘れるとされる。だから、その場で確認しないと忘れる。特に口頭の指示は、すぐに忘れる。一か月たったら2割しか覚えていない。
即日確認するのと一か月後に確認するのでは、まったく違う。大体次の日に確認するのですら違う。
人は、都合の悪いことは報告しないし、忘れる。
本当に忘れるし、相手が忘れる事も結果的に期待していることになる 。
聞いた聞かないと議論するのは、無駄。やってない事はやってない。言い訳するだけ、時間の無駄。いくら議論したところで、やってないという事実だけが残る。
報告していない事はやってない事。報告を怠ったら言い訳はしない。報告していないでやってありますと主張するのは、最大の非礼。侮辱になる。
言い訳をする前に行動を起こせ。
部下に指示を出す場合、一度箇条書きにして自分も確認しないと自分も忘れる。そして、記録を残す。
複数の人間に出す時は、会議にするか、文書にするか。個別にして出すとちょっとづつ変わって統制がとれなくなる。
また、質疑は、会議でやる。個別に応えると統一がとれなくなる。
方針は、関係部署に周知する。それは、共同作業をする際の大前提となるから。権限の委譲は、影響の及ぶ範囲の人間に事前に周知しておく必要がある。
記憶に頼ってはいけない。人は忘れる。
一度、聞いただけでは、わからない。
一度、聞いただけでは忘れる。
もっと言えば、人の話を聞くのに集中できるのは、三分程度と言われている。
集中力には、リズムがあり集中と弛緩を繰り返す。集中している時間と集中、散漫な時間、集中から弛緩の間が三分の一ずつ繰り返す。集中が持続できるのは、十五分、一つのサイクルが四十五分、限界が九十分と言われている。
また、三つ以上は、普通は覚えられない。七つが限界と言われている。
しかも、覚えるそばから忘れる。
一つの事を始めるとほかのことは忘れる。
動作、作業、声に出す事で記憶はされる。聞いて覚える。書いて覚える。声に出して覚える。確認して覚える。
能力の問題ではなくて、基本動作が出来ていない事が問題。
自分は駄目な人間だと思うのは、楽だけど、その先がない。良い癖をつける事が大切。
必ず確認をする。確認する癖、書く癖をつける。
ひたすら確認、確認。
手に覚えさす。足に覚えさす。
紙に覚えさせる、パソコンに覚えさせる。計画に、覚えさせる。段取りで覚える。形で覚える。
確認すると怒りだす人がいるかもしれないが、それでも、確認する。
確認は、指示された直後が一番いやすい。時間がたてばたつ程、確認しにくくなる。だから、指示された直ぐ直後に確認する癖をつける。レストランでウェートレスは、注文を受けたら直後に確認するように躾けられている。
指示・命令には形式がある。五W一H。いつまで、何を、誰が、どの様に、どこで、なぜ。
最初から完璧な指示ができる人は少ない。
指示は、指示者と受令者が共同して完成する事、一人で悩まない。わからない事があるのは、当たり前。わからない事があったら聞く。
指示する人は指示すると忘れる。だからいきなり聞き直すと怒られる。
世の中では試験をされるわけではなく、間違えなく確実に結果をだす事を求められる。分からないことは聞く。忘れたら確認する。
分かる人に聞く。
確認する事に躊躇してはいけない。確認する事に憶病になってはいけない。
確認する時の礼儀を早く覚える。聞き方を早く覚える。
解らなくて泣きたくなるのは誰も同じ。
一度に記憶できる量と忘れる速度は誰でも同じ
■マジカルナンバー7とエビングハウスの忘却曲線
短期記憶の容量には限度があり、人間が一度に記憶できる個数は7±2個です。これにはあまり個人差がありません。
米国の心理学者ミラーが発見し、「マジカルナンバー7」として知られています。
そして忘れていく速度にもほどんど個人差はありません。
下の表はドイツの心理学者エビングハウスが発見し「エビングハウスの忘却曲線」として知られています。エビングハウスの実験によれば、何かを覚えただけで反復をしないと、わずか20分でそのうちの42%を忘れ、1時間で56%を忘れ、9時間で64%を忘れ、6日後には75%も忘れてしまうが、1週間から先は、1ヶ月たっても忘却はゆっくり進み、20%程度は、なかなか忘れないで長期記憶として残るとされます。
つまり忘却は覚えた直後に最も急速に進み、それを乗り越えたものは長期記憶化するということです。
忘却曲線
忘却曲線とは、「時間の経過」と「記憶の定着率」をグラフで表したものです。
ドイツの心理学者、ヘルマン・エビングハウスによって提唱されたため「エビングハウスの忘却曲線」とも呼ばれています。
エビングハウスは、無意味な音節を被験者に記憶させ、時間と共にどのくらい忘れたかを検証しました。
結果は以下のとおりです。
・20分後には42%を忘れ、58%を覚えている。
・1時間後には56%を忘れ、44%を覚えている。
・1日後には74%を忘れ、26%を覚えている。
・1週間後(7日後)には77%を忘れ、23%を覚えている。
・1ヶ月後(30日後)には79%を忘れ、21%を覚えている。
記憶してから1日経つまでに、なんと74%もの記憶が失われています。
その後は数字の変化が緩やかになっています。
その日に得た記憶はその日のうちにほとんど消え、一部分だけを継続して覚えているのが基本パターンのようです。
しかし、この実験は無意味な音節を用いているため記憶の定着が悪いととれます。
興味を持ってインプットした情報はここまで急激に忘れることはほぼないでしょう。
しかし、興味を持たずに受動的に聞いた話に関しては忘却曲線が参考になるかもしれません。
意外に思われるかもしれませんが、一度に記憶できる量と忘れる速度は誰でも同じなのです。
たくさんの情報を一度に理解しようとして混乱してしまうのは、人間の脳の構造上仕方のないことです。ですが、短期記憶のメカニズムについて少し知るだけで、そんな悩みに対処するのもグッと楽になりますよ。
マジカルナンバーという考え方
マジカルナンバー7という言葉を聞いたことがあるでしょうか? これはアメリカの認知心理学者であるジョージ・ミラーが考案したもので、人間の短期記憶は一度に7±2個のものしか同時に把握、記憶することができないという考え方です。
ミラーはこの記憶の単位を「チャンク」として扱うことを考案しました。例えばアルファベットで「W」「O」「R」「D」という4つの文字を提示すると、4チャンクとして認識されます。しかしこれを「word」というひとつの単語として扱うと1チャンクになります。
人間がひとつの意味、認識のまとまりとして扱うものがチャンクなのです。「Very important word」という並びは3チャンクなので認識するのも記憶するのも簡単ですが、これが同じ17文字の意味のないアルファベットであれば17チャンクにもなってしまい、記憶するのは相当大変になるでしょう。このように、扱うチャンクが7±2個を超えると扱いきれなくなってしまう、というのがミラーの唱えた考えなのです。
ユーザーインターフェースなどの開発においては、このマジカルナンバー7の考えに基づいて「ボタンや機能を7つ程度に絞る」ということが実践されています。例えばAppleのトップページであれば、「Mac」「iPad」「iPhone」「Watch」「TV」「Music」「サポート」と、7つのメニューが表示されています。このように、ある程度以上の規模を持った会社のホームページを訪れてみれば、トップページに並んだメニューは7つ程度まででおおよそ揃っているはずです。
マジカルナンバー4の例
しかし2001年、ミズーリ大学の心理学教授であるネルソン・コーワン氏の研究によって、本当の記憶の限界は4±1個程度であることが明らかになり、近年では新たにマジカルナンバー4やマジカルナンバー3という言葉が浸透し始めているようです。
このマジカルナンバー4の分かりやすい説明には、電話番号の例がよく使われます。一般的に電話番号は10桁や11桁の数字が割り振られていますが、これを連続して表記するとその数字を認識したり、記憶したりすることが難しくなります。そのため、電話番号にハイフンを挿入し、4桁までの塊(チャンク)に分割して記載されることが一般的です。郵便番号や金額の表記に挿入されるハイフンやカンマもまた、同様に認知、記憶を助ける役割を果たしています。
多過ぎる選択肢で迷ったときや、複雑な物事を理解するときなどは、この手法を参考にするとよいでしょう。
チャンク化で情報を整理する
電話番号のハイフンのように、多過ぎる要素をいくつかのグループに分けて把握しやすくすることを「チャンク化」と言います。多過ぎる要素を大雑把に4つ程度までのグループに分類し、それぞれについて考えてやるチャンク化をするだけで、それらを把握したり記憶したりすることがグッと楽になるはず。チャンク化の過程では同時に情報の整理も行うので、物事の概要を把握するには一石二鳥です。
もしくは思い切って、要素を減らす方向で考えるというのもひとつの手です。例えばスマートフォンの機種で悩んでいるなら「売れ筋上位4位までの中から」と絞ってみたり、思い切って「これとこれのどっちかにする」と二者択一に持ち込んでみたりすることで、その後の検討が思いがけずすっきりするかもしれませんよ。
また、たくさんの要素が絡んだ複雑な案件を扱うときには「まずこれとこれとこれとこれだけ考える」というように思考の対象を絞ってしまいましょう。例えば、受注金額・納期・補償・重要度などをまず検討してから、実際の作業にかかる費用や、人員の確保、補償の範囲など、他の要素についても検討を始めることで、思考の混乱を避けることができます。
一度にたくさんのことを扱い、短期記憶の領域をギリギリまで圧迫してしまうと、要素の見落としや致命的なミスを招くことに。そうならないためには、マジカルナンバー4の考え方で、情報を整理しながら正しく把握することが大切です。
プレゼンにも使えるマジカルナンバー4
このマジカルナンバー4の考え方は、自分の思考、記憶術として使えるだけではなく、誰かに何かを伝えたり、プレゼンなど発表をしたりするときにも役立ちます。
話の聞き手も自分と同じ人間ですから、同じ様に短期記憶の容量には限界が存在しています。そのため、多過ぎる要素を一度に並べて説明しても、相手は混乱してしまい、うまく理解することができません。自身が記憶するときと同じように、要点をグループ分けしたり、思い切って絞り込んだりすることで、相手が要点を把握しやすくなるのです。
この際、4±1の下限に合わせて3つに絞るというのが一般的な方法です。最も強調したいポイント3つをしっかりと目立たせ、残りの要素は思い切って削ってしまいます。ポイントを3つに絞るなんて少なすぎるのでは? と思うかもしれませんが、あれもこれもといろんなことを並べるよりも、プレゼンの内容がむしろ伝わりやすいのです。
これはスティーブ・ジョブズがあの有名なiPhoneのプレゼンで利用した方法でもあります。その歴史的なプレゼンは、新製品の特徴を3つのポイントに絞って紹介するところから始まりました。
1. ワイド画面タッチ操作のiPod 2. 革命的携帯電話 3. 画期的ネット通信機器
この3点がこれから世に送り出すiPhoneにとって重要なポイントなのだと、ジョブズはそう判断したのです。
初代iPhoneが搭載した機能は、皆さんがすでに知っているとおり、かなり多岐にわたります。それでも、こうして3つに絞って提示してみた方がその良さが伝わるような気がしませんか?
プレゼンの天才と呼ばれたスティーブ・ジョブズのテクニック、さっそく次回のプレゼンで試してみてはどうでしょう。
*** 人間の短期記憶の容量は、頭の良し悪しとはほとんど関係ないと言われています。 それをどのようにうまく使うかこそが、有能かどうかの分かれ道になるかもしれませんね。
Copyright(C) 2020.3.24 Keiichirou Koyano