経済の現状

宣言はしてみたけれど


緊急事態宣言が出された。
しかし、緊急事態宣言の意味や働きが理解されているかどうか、甚だ疑問だ。それが本当の、危機なのである。

宣言は、宣言である。
例えば、試合の開始宣言は宣言なのである。宣言を出したにお終いなのではなく。始まりなのである。終わりは、これもまた終息宣言である。
要するに緊急体制は、宣言に始まり、宣言に終わる。

ところが、緊急事態宣言が開始宣言なのか、終了宣言なのかが、多くの人わかっていないように見える。
また、仕事は、期間で考える。時点で捉える事はできない。緊急事態宣言を点で捉えても、緊急事態宣言を出した意味は分からない。
緊急事態宣言が出されたら、次に何をするのか、それがあらかじめ想定されていないと、緊急事態宣言は、宣言をしたに過ぎなくなるのである。

最初に出される指示は、基本的に準備せよである。日本が世界から異常だと言われているのは、緊急事態宣言を伝染が蔓延した時に、出すものと錯覚しているからで、それは、戦闘が始まってから戦闘態勢を敷くような事だと侮蔑されている。平和ボケである。緊急事態宣言は、感染の蔓延に備えよという宣言である。そして、実際に準備するのは、各自治体。具体的な指示が出せるのも自治体の首長。
戦闘体制は、戦闘が始まる前に敷くので、戦闘が始まってからでは手遅れである。戦う前から勝負はついているのである。だから、宣戦布告なき戦争は国際法で違法だとされているのである。
スポーツだって用意、ドンなのである。いきなりドンはない。
山本五十六が真珠湾攻撃の際、ギリギリの段階でも撤退命令が出されたら引き揚げると言った時に、一人の将官が矢は弦を放たれた今され引き下がれないと主張したのに対し、百年兵を養うのはこの時の為にある。命令に従えない者は、速やかにこの場からたちされと言った。
非常事態宣言が出されたら、各員、準備せよだからな。準備は、指示を待たずにかかれ。しかし、戦闘は、司令官の命令なくしてはならない。戦闘態勢に入ったら命令の従う。
忘れれてはならない用意・ドン。構え、狙え、撃てである。

くれぐれも忘れてはならない。トップの指示があったら、その準備をするのは、各部門長の仕事だという事を…。料理を作るのは、料理人の仕事、料理をユーザーに作らせたら料理人は、必要でない。
会議日を指定されたら、事務方は、会議の準備にかかる。会議が始まってから会議の準備にかかったらその瞬間に会議は失敗。そういうのを泥縄と言うのである。泥棒を捕まえてから縄を編んでも遅い。会議が開ける状態にするのは、事務方の責任者の仕事である。
トップから指示を出されたら即行動に移れるよう、速やかに準備にかかれ。
即断即行。その為には、全社、戦闘態勢に入れ。

わからなくて当たり前。できなくて当たり前。違っていて当たり前。それが決定的であるかどうかの問題。それに全部が全部わからないわけではないし、できない事もない。違っているわけでもない。解っているところ、できるところ、合致している所から入るのが順序。

チームワークをする時は、素直にならなければならない。
しかし、ほぼ全員が言われた通りの事はできない。言われた事が理解できないからである。発令者の真意が伝わらないからである。
素直に言われた通りやって間違う者もいる。

正しいかどうかが問題なのではなく。理解できない事が問題なのである。伝われない事が問題なのである。

やれと言えばやらない。やるなと言えばやる。
自分の言った通りに動かないという事だけは確かである。

打ち合わせが決まったらそれまでになるかを決める。
それまでに調べておきますよとか、聞いておきますよとか、やっておきますよとか、連絡とっておきますよとか、手続きしておきますよとか、指示しておきますよとか、準備しておきますとか、見てきますとか、段取りしておきますとか、根回ししておきますとか、確認しておきますとか、資料を作っておきますとか、計画立てておきますとか、自分なりの方針を立てておきますとか、部内を纏めておきますとか、最低限でも自分の考えを整理しておきますぐらいは答える。

それを何か拙い事ありますかとか、いけませんかとか、否定的な事を何で考えるのか訳が分からない。
僕らの時はやる気がないと即断され外されたものである。

会議は、話をする為に集まるのではなく。仕事をする為に集まる。何も決められず。指示も出せないなら会議としての様はなさない。

正式な出発点、開始点は一点である。

組織は、指示・命令によって動いているのである。

軍や政府が勝手な行動をとられたら危険だからである。
だから、最初に、責任者と担当者を決め。その上で、権限と責任を明らかにする。

組織と言うのは、システムであり、仕組みなのである。
家電製品はスイッチを入れないと作動しないし、自動車はエンジンをかけないと動かない。
それがわからない人間が増えてきた。
学校ですら、指示、命令は、強権的で、封建的だなどと馬鹿な事を教えている。
強制のない社会はない。掟や法そのものが強制を伴うのであり、それが厭ならば、無法な世界に行くしかない。但し、無法な社会ほど暴力によって支配されている事を忘れてはならない。そういう世界では、力のない者は、隷属するしかない。

仕事の手順と言うか段取りがまったく解らないし、わかろうとしない。
正式の指示なくして組織は動かないといくら説明してもわからない。
最初に権限と責任を明らかにしろ。必ず、報告しろ。
責任者も決めずに仕事をするなと何度言っても…。
自分勝手に仕事を始めるな。トップの主旨を確認しろと口を酸っぱくして言うのですが…。
組織というものが理解出来ていない。六十近くなって道理も通じない。
親父たちが常識が通じないと嘆いていたが、ただ、今はそう言ってられない。
何でもかんでも自主性とか、主体性とか。違う。
筋と言う言葉も死語になっていますから。
国の動きを見ても全てが仲良しクラブ化している。

指示、命令は、始まりであるという点を理解していない人が結構いる。結果が出てから指示・命令を出しても意味がないのである。先がわからない時に指示、命令をするのだから強制権がなければ責任がとれない。しかし、指示、命令を出す以上、発令者には責任を持たなければならない。だから強制権が伴うのである。

指示、命令は、伝令されて初めて効力を発揮する。組織は、正式な命令によって動く。また、正式な命令以外を聞かないようになっている。
言い換えれば、中間に位置する者は、命令が発令されたら、それを次席の者に、速やかに伝えなければならない。

集合し、宣言をする。呼びかけをし、呼応して、返答する。
これを象徴、即ち、形式的に行う事で、正式に組織に認知させる。即ち、挙手動作が大切なのであって形式そのものに象徴的な意味以外はない。

野球では、選手を整列させ、審判が試合開始の宣言をし、選手が定位置に着き、準備ができたのを確認したらプレーボールのコールをする。

選手の自発性で正式な試合が始まるという事はありえない。

麻雀にも将棋にも慣行的に定められた所作があり、その慣例に従う事で、試合は開始する。

試合が始まってから、開始宣言はできない。

始まりの合図があって試合は始まる。始まりの合図が宣言なのである。

組織の開始には、一つの形がある。形とは儀礼である。
開始の基本形は、呼びかけに呼応する。

組織は象徴によって動かされる。

象徴とは、儀式であり、イベントである。

人生の始まりと終わりに冠婚葬祭がある様に、仕事はイベントによって仕切られる。

始礼,終礼は封建的、あるいは強権的行為なのではなく。組織的な行為なのである。

令は、公式、非公式を分ける境目にある。

非常事態宣言と言うのは、宣言であって、始まりであり、終わりではない。
指示・命令と言うのは、一番最初に出されるもので、結果が出てから出されるものではない。要するに、何もわからない、結果が出いない時に出されるから指示・命令なのである。

危機に際し、悲観的に準備し、楽観的に判断しろ。それが楽観的に考えているくせに、いざとなると悲観的になるから決断ができなくなる。

窮地に追い込められれば追い込められるほど、頭がクリアになる様に訓練されてきた。それが最大の教育、躾である。
重い事は軽く決断しろ。平常心である。

方針は、心得や主旨とは違う。
一気呵成に、躊躇なくするというのは、心得。安全を守るというのは、主旨。方針は、目的を定め、日限を決めてそれまでにやる事を示す。
例えば、今週の水曜日(日限)までに準備体制を整え(目的)専務まで報告(やる事)する。つまり、方針は、作業方針であり、仕事に直結していない事は、方針ではない。
方針が承認されたら、速やかに総括責任者を定め、目標を達成する為の作業(やる事)の洗い出しをする。洗い出しが終わったら、総括責任者は、大枠のスケジュールを立て支店長迄報告する。支店長は、総括責任者と大枠スケジュールを総務部長まで報告する。ここまでの作業を一両日中に終わらせる事。支店長は、改めて個々の作業担当者を決め、役割分担をし、作業計画(スケジュール)を立て支店長迄報告する。
やるべき作業は、第一に、会社でやらなければならない仕事と、そうでない仕事の仕訳。
第二に、不要不急の仕事とそうでない仕事の仕訳。
第三に、対面作業を対面せずにできる仕事に切り替えられるかどうか。システム化が可能かどうかの検討。ペーパーレス化ができるかどうか。また、訪問販売が電話販売のような事に切り替えられるかどうか。
以上の三点にまず着手する事とその作業の見通しを立てる事。
迅速さが要求されている。スピードアップと言われた事は確実にやる事。遅れる様なら速やかに上長に報告の事。
今も医療従事者と看護士は、高い使命感を持って命がけで戦っている。我々の気の緩みが彼らの足を引っ張り、ひいては健康や命にかかわる事のないよう。
専務の指示に従って速やかに行動するよう。専務に方向を示されたら、担当責任者が準備する。やるべき事がわかったら、指示待ちをせずに自分から積極的に申し出る。細かい指示は担当責任者が責任をもって出す。確認と報告は忘れるな。




ここで述べているのは、組織を動かすためのテニオハをである。
先輩はよく組織と言うのは、大きな船のようなものだ。多きく回転させるにもゆっくりと大きく回る。自転車の様に簡単には曲がらないと教えられてきた。
組織はシステムなのです。どちらの方向に行くとか、どこを目的にするとかいうのは、船長である専務に任せている。ただ、操船する、組織を動かすのは、それなりの技術がいるという事をわかってほしいだけである。
コロナ対策と言っても単純に手を洗うとか、マスクをすると言った即物的な事だけを指しているわけではない。それよりも、現在、市場は、どんな状態なのか。いざとなったら営業をどう展開するのか。売掛金の回収をどうするのか。悪徳業者の暗躍をどう止めるのか。それこそ、収益の低下にどう対処するのかと言った多岐にわたるし、組織的に仕事をしなければ解決できない。だから、とりあえず体制を整え。どんな状況に陥っても命令一下、専務の命令に迅速に動けるようにしておく事なのである。
だから、組織のテニオハについて言っているだけであるが、この原則が社員に全員に徹底されていなければ会社は、動き出した瞬間に分解してしまう。


作業が眼に見えるような段階は、ほぼ最終段階である。また、表に現れている作の裏には、目につかない裏方の作業がある。組織的作業の八、九割は、目に見えない作業である。目に見えるようになってから正式にスタートしたら手遅れになる。それ以前の仕事が非公式な仕事になってしまうからである。正式な仕事とは、認知されない。
だから、早めに正式に仕事をスタートする。それが仕事の見えるかである。仕事の見えるかと言う事を図を使ったり表にする事のように錯覚している人がいるが、実際は、目に見えない企画や構想などの仕事を表面に出して目に見えるようにする事なのである。

一回指示されたくらいでは理解できない。話をされてもわからない。
だから、先輩にわかったか聞かれたら、「わかりません」と答えた。先輩は、「それでいい。一回聞いたくらいでわかるわけないだろ。やっているうちに追々わかってくるから、とりあえず正式にナスタへとだけはしておけ。」と言われたものである。焦らなくていいと注意された。やらなければ解らない事はわからない。ボールを投げさせてみないとどれくらいの腕かわからない。見かけや、噂だけ手決めつけるな。実際に投げさせて、自分の目で確かめろと言われたものである。



最初の作業は段取り、場合分けから入る。

あの監督は阿保の間抜けのと言えるのは、監督としての仕事ができる状態だという事が前提だからな。逆も、あの監督は名監督だと言われるのは、監督としての仕事をさせてもらえる状態だからな。
支店長が支店長としての仕事を評価されるのは、支店長としての仕事ができる状態でなければね。
試合が始まってからエンドランの練習はできない。バントの練習もできない。ちゃんと練習しておかなければ、監督は、試合でエンドランのサインを出したくても出せない。
忘れるなよ。試合が始まってから練習をしようと思っても手遅れ。連係プレーをしたければ、連係プレーが出来るように事前に練習しておかなければ、サインプレーがしたければ、事前にサインプレーが出来るようにしておかなければ、連係プレーやサインプレーがどうのこうのと言っても始まらないの。
それで監督がどうのこうのと言われてもね。
連係プレーもサインプレーも監督一人ではできない。実際にプレーをする者が体得していなければね。頭の中や文章にしても選手は、監督の思い通りには働かない。支店長1人が合点していても支店は動かない。それで俺の部下は、言う事を聞かないと言っても当たり前でしょとしか言いようがない。

監督として評価してほしければ、監督の仕事をしろ。コーチとして評価してほしければ、コーチの仕事をしろ。審判として評価してほしければ審判の仕事をしろ。マネージャーとして評価してほしければ、マネージャーの仕事をしろ。ボールボーイとして評価されたければボールボーイの仕事をしろ。
支店長として評価してほしければ、支店長の仕事をしろ。
いくら監督がホームランを打っても試合に負けたらだれも評価してくれない。監督がせっせっとボール拾いをしても誰も評価はしてくれない。コーチが監督の仕事をしたら統制は採れなくなる。規律がなくなる。
監督が監督の仕事をしなければ、統制は採れなくなる。
監督が監督の仕事が出来るようにするのが、コーチやマネージャーの仕事。監督の力を発揮させるのが、選手の仕事。それぞれがそれぞれの役割を理解してそれぞれの役割を果たせ。選手が監督のサインを無視したり、見落とししたり、逆らえば、チームの規律は失われる。たとえ、試合に勝ったとしても勝負には負ける。真の勝負は一試合一試合の勝ち負けの外にある。

決定は一つ。そうしないと統一がとれなくなる。ストライクとアウトの判定をする者は一人。選手の交代を決められるのは一人。打つ打たないを決めるのは一人。どんなボールを投げる菓舗決めるのは一人。
だから、予め、誰が決定権を持っているかを明確にする。それがルール。
審判が投げるボールを決める事はできない。打者がストライクかボールかの判定はできない。監督がアウトかセーフかは決められない。自分の役割を理解する。
支店長には、支店長の役割があり、部長には部長の役割がある。
決定権は、一つ。決定できるのは一人。だから、誰が決定権があるのかを確認する。決定権を持っている者が決めないと何も決まらなくなる。




今、世界は、危機的な状態にある。危機は、日本だけでなく、世界的な危機である。
去年の今日と、今年の今日は違う。そして、来年の今日も違う。全く違った世界になる。
これだけは、覚悟しておく事。
私は、何度もこの様な経験をしてきた。祖父母たちは、戦争や関東大震災を経験し、それこそ、焼け野原から今日の日本を築き上げた。
又もその後もニクソンショック、石油危機やバブル崩壊、リーマンショックなどの危機を何とか乗り越えてきた。
そこで学んだ教訓は、二つ。一つは、どんな危機に際しても決断力と行動力失うな。
絶望的な状況でも決断力と行動力を失わなければ、自分を失う事はない。一番怖いのは、危機に際して我を忘れる事だ。
もう一つ大事なのは、逃げるな。逃げないで現実を直視しろと言う事。
自分に投げられたボールは、ボールから目を離さなければ、無意識でも避けられる。ボールから目をそらしたら避けられない。
通り魔から簡単に刺されるのは、相手の動きを見ていないから。相手の動きをよく見ていれば、少なくとも戦う事が出来る。絶対に敵に背を向けない。
危機から目をそらさず、背中を見せない。それが戦争経験のある先輩たちから教えられた事だ。
逃げるな、現実を直視し、決断して、速やかに行動に移せ。臆病になるな。失敗を恐れるな。









       

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