組織もシステムの一種だということ忘れてはならない。
システムである組織は、指示を正式に認識しないと起動しない。組織に指示を認させるためには、手続きや段取り、儀式といった形がある。言葉だけでは組織は正式な指示とは認識しない。
権限の委譲は、行使されてはじめて発効する。権限が委譲されても一定期間行使されないと失効する。故に、権限が委譲されたら速やかに簡単な指示を出して権限を発効させておく。
簡単な指示とは、誰でも理解されて反対の余地のないこと。例えば、指示の内容を確認して報告するとか、いつ初回のうち合わせをするとか。部下の予定を確認するとか、部下の考えをまとめさせるとか、なんでもないこと。とにかく権限を発効させ、関係者に知らしめ、認知させる。
組織は人で作られたシステム。
スイッチを入れる前にゲームを始めることはできない。組織は、正式にスタートを切らないと何も始まらない。最初は、スイッチを入れるだけでいい。組織をスタンバイ状態にする必要がある。
組織は人の集まりだから組織の操作は、象徴的な行為によってなされる。これがイベント。基本的イベントには、開始と、終了、そして、結合がある。
組織はシステムであるから、コマンド(指示)がなければ起動しない。
システムはコマンドで動く。組織は指示で動く。
システムには前処理、初期設定が必要。組織にも前処理、初期設定が必要。
システムであるから、初期設定がされてなければ正常に作動しない。また、事前にプログラミングされている必要が
ある。
初期設定は、プレイヤーがしなければならない。
システムはルール、マニュアルに従ってうごく。組織は、規則によって動く。
ゲームは、情報が入力されないと空の状態。リセットされると初期化される。組織も正式に情報が入力されないと空である。
情報の入力はプレイヤーがしなければならない。
システムには終了操作がされないと終わらない。記録しないで終了すると、過去の実績は保存されない。
保存されないと継続されない。保存を忘れると仕事は中断される。
システムの操作にも順番がある。順番を間違う、ブレーキがかかり、緊急停止し、ロックされる。強引に動かそうとすれば壊れてしまう。組織も同じ。組織の仕事にも順番がある。順番を間違うと組織は動かなくなる。ロックを解除するのに相当の労力を必要とする。強引に動かそうとすれば、組織は壊れてしまう。わが社も組織の運用を知らない者が強引に動かしためにあちこち壊れている。その修復からかからなければならない。
また、システムに筋があるように、組織にも筋がある。やってはならない者が、プレーすればゲームが違うものになる。組織も筋のとらないことを許すと統制がとれなくなり。乱れる。
仕事にけじめをつけるのは、支店長、部門長の重要な仕事である。仕事には、始まりと終わりがある。
仕事は、確認(点検)に始まり、報告に終わる。毎日決まりきった事と朝礼、始業点検を怠ったり、手を抜くと思わぬ災難に遭う。決まりきった行為だから意味がある。
ダラダラと始まって、締まりなく終わると、仕事に責任が持てなくなる。
始まりと終るにけじめをつけるのは、支店長、部門長の重要な責任である。
いつ始まったのかはっきりしない上に、終わったのか、終わっていないのかわからないような仕事には、誰も責任を持つ事が出来ない。
始まりと終わりにけじめがつけられないのは、支店長、部門長がだらしないからであり、怠慢だからである。
仕事は、確認に始まり、報告で終わる。綺麗な形で確認し報告を受ければ、仕事は締まる。
終わりのわからない仕事は、余計な仕事を増やし、いつまで、訳の分からない仕事を続けさせることになる。
それは、職場のモラル、やる気を低下させ、人間関係を悪くさせる。不潔になる。
職場から緊張感が失われるのである。緊張感が失われれば事故や災難を招く。プライドが失われるからである。
始まりと終わりは形である。形を整える事である。きれいな形を保てば、職場の規律は保たれる。職場の規律を乱す者は、形を壊してくる。形が整えば礼となる。そうすれば礼に始まり礼で終わる。
どうでもいい形式と侮るなかれ。綺麗な仕事を作るように心がけろ。始まりと終わりにけじめをつけろ。
形式は、悪い事と吹き込まれているから。イベントや式典をやるのに照れ臭そうにも自信なげにやる者がいる。そんなことをやったら台無しになる。
どんなに些細な事、心を込めて、堂々とやろう。適当でやつっけ仕事は、かえって相手を傷つける。
特に表彰は、真剣にやろう。照れながら、影でこっそり表彰するような行為は、かえって相手を侮辱する事になる。堂々とした形でやろう。
確かに、表彰状や辞令は紙切れである。しかし、正式な形、イベントで、皆の見ている前で堂々と、威厳を込めてやるから意味があるのである。
キッチンとセッティングをせずにやれば価値も半減してしまう。
威儀を正すから心がこもるのである。投げ与えるような事をしたら台無しになる。
組織には形がある。チームスポーツである野球には、守備位置、打順と言う形がある。組織の形は、言葉では表見しきれない。組織には、同時並行作業があるからである。だから形で覚える。それぞれの位置によって動きが違うからである。全体の形が見えないと自分がどうしていいかわからなくなる。
投手の動き、捕手の動き、外野の動き、内野の動き、走者の動きを形で覚える。
守備位置によって動きは違う。全員がボールが飛んだ方向に向かって走ればいいという訳ではない。
陣形によっても選手の動きは違ってくる。選手全員が自分の役割を正しく理解していないとチームワークはできない。自分勝手行動は許されないのである。試合中は、選手だけでなく、監督もコーチも試合に集中する。
サッカーなら、攻撃の形、防御の形を覚える。
形を覚えたら、修得したら、次に自分たちで形を作っていく。
自分たちの形を作るためには、チーム全員が同じ戦型を共有する。チームが変われば戦型も変わる。
心を一つする事でチームは一体となる。
民主主義は形による思想なのである。理屈による思想ではない。だから式典や、制度、法、手続きを重んじる。形を重んじるから、思想信条の自由が保たれる。
だから、民主主義国は、イベントが重要な意味を持つ。
民主主義の根本は、話してもわかり合えないです。だから議会のルールが重要になる。決め方をルール化したのです。ここにも形がある。
民主主義を理屈で理解するのは難しい。ただ、形で理解する以外にありません。
組織には形がある。チームスポーツである野球には、守備位置、打順と言う形がある。この形は、言葉では表見しきれない。だから形で覚える。それぞれの位置によって動きが違うからである。全体の形が見えないと自分がどうしていいかわからなくなる。
投手の動き、捕手の動き、外野の動き、内野の動き、走者の動きを形で覚える。
守備位置によって動きは違う。全員がボールが飛んだ方向に向かって走ればいいという訳ではない。
陣形によっても選手の動きは違ってくる。選手全員が自分の役割を正しく理解していないとチームワークはできない。自分勝手行動は許されないのである。試合中は、選手だけでなく、監督もコーチも試合に集中する。
サッカーなら、攻撃の形、防御の形を覚える。
形を覚えたら、修得したら、次に自分たちで形を作っていく。
自分たちの形を作るためには、チーム全員が同じ戦型を共有する。チームが変われば戦型も変わる。
心を一つする事でチームは一体となる。
形そのものに意味があるわけではない。形に魂を吹き込むのは人です。人が堕落すれば組織は邪悪な魂を持つ。だからこそ民主主義問われるのは、精神なのです。
人は形を見ている。形は、誤魔化せない。いくら口でうまいことを言っても態度が悪ければ相手は納得しない。
いくら綺麗ごとを言っても、不潔な人間を、人は受け入れない。良い話も不誠実では誰も信じない。服装の乱れは、心の乱れとみられた。それが身だしなみである。かなり厳しい反論でも、礼節を違えなければ聞かなければならない。いくら正論を言っても姿勢が悪ければ説得できない。
だから、日頃の行いを慎めと言われ続けた。人は、その人の言葉よりも常日頃の行いを見ているのである。
だから、自分の考えは、行動、即ち、形に現わす。礼に始まり礼で終わる。
形で示す。人々は、自分たちの思いを祭礼として示してきた。父たちは、真面目に、真剣に祭りを取り仕切ってきた。いい加減な気持ちでやれば、いい加減になる。適当にやれば適当になる。今の人間は、信仰心がない。だから、祭りがいい加減になる。何も怖れなくなってモラルがなくなる。
式典は、手を抜かず、真剣にやる。最近、イベントを軽んじている。真面目に取り組んでいない。徐々に適当に手を抜き、面倒くさいといつの間にか取りやめになっていく。それが組織の求心力をなくしているとも気が付かない。これは、イベントを取り仕切る者の責任である。イベントを取り仕切る者は、何よりも組織の統制と規律を重んじるべきなのである。規律、統制、道徳、礼儀は、言葉で言って身につくものではない。
とり仕切る者の品性の問題である。イベントは、真剣にまじめにやろう。皆は見ている。感じている。
入社式も適当にやれば、新入社員の気持ちもいい加減になる。入学式を適当にすれば、勉強も適当になる。卒業式で師と弟子の境をなくせば、先生と生徒の隔てはなくなる。生徒は先生を師として認めなくなる。先生が規律を軽んじれば、正とは無頼になる。それが一番の教え。愛国心も愛社精神も持てない。
質素にするという方針なら、イベントは質素にする。質素にすると言いながら派手な式典をすれば、派手になる。
伝統を重んじるのならば伝統的な式典をする。伝統を重んじると言いながら、新しい事ばかりすれば、かえって伝統は、蔑ろされる。権威を重んじるならば荘厳な式典をする。力を示すなら、出陣式にする。反戦、反戦と言いながら戦いを準備する者たちの言う事は誰も信じたりしない。
いくら民主・民主と言ったところで、独裁者は形に現れる。形は誤魔化せない。
指導者が卑屈になれば、外からの攻撃を招く。敵は弱いとみるからだ。だから、弱味は見せられない。弱弱しく、自信のないイベントをする事は、外部からの攻撃を招く。負け犬と見なされるからである。面倒くさいと手を抜く事は、己の卑屈さを内外に宣伝しているような事である。
猿山のボスは、尻尾を立てる。尻尾も立てられないリーダーは猿以下である。人間のリーダーもリーダーとしての体裁がある。プライドがある。いい加減な態度の上司には部下は従わない。部下の機嫌を幾ら取ったも無駄である。機嫌を取ろうとすればするほど部下の気持ちは離れていく。リーダーは、常に、毅然として決断し、形を示す。
子供は、親の背、後姿を見て育つ。
日本人は、戦争に負けた。戦争に負けて卑屈になった。日本人としての誇りを外に向かって形で示す事が出来なくなった。それこそが精神の敗北なのである。だから、胸を張ろう。無言で胸を張って正々堂々としよう。それが、我々の志すところ。それが我々の意気地。
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