自分が決断しても他の人間にはわからない。組織では、決定権者は、自分の決定したことを関係者に明確に示さなければならない。それが、指示・命令である。指示は、手続きを経て関係者に周知されてはじめてはじめて正式なものになる。口頭で指示。する場合は、正式には、第三者の立会いの下で行う。
決定は、関係者に対して明確に示されなければならない。ただ決定内容を全ての人間に均一に周知すればいいという訳ではない。
決定内容には、機密を要する者もあり、順序もある。故に、指示・命令は、その取扱いと周知範囲を特定しなければならない。
権限移譲は、内外に権限を委譲した事を宣言しないと成立しない。密室のような場所で、誰も立ち会っていない状態で権限を委譲しても関係者に伝わっていなければ、権限を委譲したと組織は認知しない。指示・命令をしても、受令者が認知しなければ、権限は行使できない。
指示。命令は、要件を満たしていなければ発効しない。要件とは、基本的に五W一Hである。
自分では決めたつもりになっても、あるいは、報告したつもりでも、明確に指示されない限り、組織は、正式な決定とはみなさない。
指示と言うのは、報告や希望を聞いただけでは発効しない。自分一人で決めただけでも発効しない。決定は、具体的な作業を指示された時から発効する。
一定期間、具体的な指示がされなければ、正式に決定された事も無効となる。
立ち話程度では組織は、正式に認知しない。話しました。聞きましたでは、管理者は責任を果たしていない。決定とは、冷静でなければならない。審判の判定は、私情を交えてはならない様に組織決定は、客観的であり無情、非情でなければならない。かわいそうと言ってジャッジを歪めてはならない。決定が下されたら、速やかに支持する。
決定は、階段を一段一段昇る様に下す。時々刻々、日に日に決断を積み重ねていけば、確実に目標に向かって前進していく。少しでも怠ると一段一段が高くなり、二日も三日も怠れば壁になる。やがては絶壁の様になって立ちはだかる。
下る事に例えれば、不決断は、深い谷底に飛び降りるようなリスクになり、いずれにしても無謀な決断をしなければならなくなる。
決断とは、飛躍である。一歩一歩の飛躍は小さくても済むが決断を躊躇しているととんでもない飛躍が求められる。そういう状況になると人は予想外の決断をする物である。堅実であるべき決断が博打になる。
野球では、投手は、一球一球確認をする。一球投げるごとに状況が変わるからである。球は、投げてみないと解らない。一球一球、緊張感を持って投げる。プロは、サインの見落としは、許されない。
なのに、一度も確認をせずに仕事をしても、それを恥ずかしいとも思わない。自慢にまでしている。それでは勝てるわけがない。自分を殺してでもチームの勝利に貢献するのがプロである。打ちたいから打ったでは許されない。
試合の状態を正しく認識して自分が採るべき行動をとるのがプロである。
確認を怠るのは、単なる怠慢である。自分の怠慢によってチームが負けたら、仲間に対して言い訳も顔向けもできない。
男は、女と違って決断しなければ親にはなれない。男が親になるのは、自分の意志か、欲望による。だから、男が責任を持つのは、当然。
自分の意志によらず、ただ、欲望に従ってこの親になるから責任がとれなくなる。
男は、責任をもって親になる。
日本男児は、常に、決断が求められた。決めてから考える。考えたら決められない。決めたら覚悟する。覚悟したら責任をとる。
親から三度問われて決められたら、父親が決める。父親が決めた事に無条件で従わされた。
何事も自分で決める。覚悟して決める。決めたら、即実行に移る。そして、最後までやり抜く。無理だと解ったら、速やかに止める。間違いに気が付いたら速やかに改める。止めるのも、改めるのも、決断。ハッキリしないのが一番悪い。
決断せよ。そして、指示しろ。
指示する事に憶病にならない。臆病な指示に、部下は従わない。指示は堂々と出す。
指示する時は、周囲の目を気にせず。照れたりしない。自信をもってする。自信のない態度が部下を懐疑的にしてしまう。自信のない態度だから部下は迷う。
準備する事を億劫がらない。何の準備もせずにその日、その時を迎えるから、場当たりな指示しか出せない。
予め予定、計画を組み、準備してかかるようにする。
言われた事はすぐにやる。最初から言い訳はしない。口答えしない。
部下は、その姿勢を見ている。部下の態度は自分の鏡。天に唾すれば自分に降りかかる。
自分がやってしまうのが一番楽。でも、自分でやっている限り、一人仕事になる。
人は形を見ている。形は、誤魔化せない。いくら口でうまいことを言っても態度が悪ければ相手は納得しない。
いくら綺麗ごとを言っても、不潔な人間を、人は受け入れない。良い話も不誠実では誰も信じない。服装の乱れは、心の乱れとみられた。それが身だしなみである。かなり厳しい反論でも、礼節を違えなければ聞かなければならない。いくら正論を言っても姿勢が悪ければ説得できない。
だから、日頃の行いを慎めと言われ続けた。人は、その人の言葉よりも常日頃の行いを見ているのである。
だから、自分の考えは、行動、即ち、形に現わす。礼に始まり礼で終わる。
形で示す。人々は、自分たちの思いを祭礼として示してきた。父たちは、真面目に、真剣に祭りを取り仕切ってきた。いい加減な気持ちでやれば、いい加減になる。適当にやれば適当になる。今の人間は、信仰心がない。だから、祭りがいい加減になる。何も怖れなくなってモラルがなくなる。
式典は、手を抜かず、真剣にやる。最近、イベントを軽んじている。真面目に取り組んでいない。徐々に適当に手を抜き、面倒くさいといつの間にか取りやめになっていく。それが組織の求心力をなくしているとも気が付かない。これは、イベントを取り仕切る者の責任である。イベントを取り仕切る者は、何よりも組織の統制と規律を重んじるべきなのである。規律、統制、道徳、礼儀は、言葉で言って身につくものではない。
とり仕切る者の品性の問題である。イベントは、真剣にまじめにやろう。皆は見ている。感じている。
入社式も適当にやれば、新入社員の気持ちもいい加減になる。入学式を適当にすれば、勉強も適当になる。卒業式で師と弟子の境をなくせば、先生と生徒の隔てはなくなる。生徒は先生を師として認めなくなる。先生が規律を軽んじれば、正とは無頼になる。それが一番の教え。愛国心も愛社精神も持てない。
質素にするという方針なら、イベントは質素にする。質素にすると言いながら派手な式典をすれば、派手になる。
伝統を重んじるのならば伝統的な式典をする。伝統を重んじると言いながら、新しい事ばかりすれば、かえって伝統は、蔑ろされる。権威を重んじるならば荘厳な式典をする。力を示すなら、出陣式にする。反戦、反戦と言いながら戦いを準備する者たちの言う事は誰も信じたりしない。
いくら民主・民主と言ったところで、独裁者は形に現れる。形は誤魔化せない。
指導者が卑屈になれば、外からの攻撃を招く。敵は弱いとみるからだ。だから、弱味は見せられない。弱弱しく、自信のないイベントをする事は、外部からの攻撃を招く。負け犬と見なされるからである。面倒くさいと手を抜く事は、己の卑屈さを内外に宣伝しているような事である。
猿山のボスは、尻尾を立てる。尻尾も立てられないリーダーは猿以下である。人間のリーダーもリーダーとしての体裁がある。プライドがある。いい加減な態度の上司には部下は従わない。部下の機嫌を幾ら取ったも無駄である。機嫌を取ろうとすればするほど部下の気持ちは離れていく。リーダーは、常に、毅然として決断し、形を示す。
子供は、親の背、後姿を見て育つ。
日本人は、戦争に負けた。戦争に負けて卑屈になった。日本人としての誇りを外に向かって形で示す事が出来なくなった。それこそが精神の敗北なのである。だから、胸を張ろう。無言で胸を張って正々堂々としよう。それが、我々の志すところ。それが我々の意気地。
仕事にけじめをつけるのは、支店長、部門長の重要な仕事である。仕事には、始まりと終わりがある。
仕事は、確認(点検)に始まり、報告に終わる。毎日決まりきった事と朝礼、始業点検を怠ったり、手を抜くと思わぬ災難に遭う。決まりきった行為だから意味がある。
ダラダラと始まって、締まりなく終わると、仕事に責任が持てなくなる。
始まりと終るにけじめをつけるのは、支店長、部門長の重要な責任である。
いつ始まったのかはっきりしない上に、終わったのか、終わっていないのかわからないような仕事には、誰も責任を持つ事が出来ない。
始まりと終わりにけじめがつけられないのは、支店長、部門長がだらしないからであり、怠慢だからである。
仕事は、確認に始まり、報告で終わる。綺麗な形で確認し報告を受ければ、仕事は締まる。
終わりのわからない仕事は、余計な仕事を増やし、いつまで、訳の分からない仕事を続けさせることになる。
それは、職場のモラル、やる気を低下させ、人間関係を悪くさせる。
職場から緊張感が失われるのである。緊張感が失われれば事故や災難を招く。プライドが失われるからである。
始まりと終わりは形である。形を整える事である。きれいな形を保てば、職場の規律は保たれる。職場の規律を乱す者は、形を壊してくる。形が整えば礼となる。そうすれば礼に始まり礼で終わる。
どうでもいい形式と侮るなかれ。綺麗な仕事を作るように心がけろ。始まりと終わりにけじめをつけろ。
形式は、悪い事と吹き込まれているから。イベントや式典をやるのに照れ臭そうにも自信なげにやる者がいる。そんなことをやったら台無しになる。
どんなに些細な事、心を込めて、堂々とやろう。適当でやつっけ仕事は、かえって相手を傷つける。
特に表彰は、真剣にやろう。照れながら、影でこっそり表彰するような行為は、かえって相手を侮辱する事になる。堂々とした形でやろう。
確かに、表彰状や辞令は紙切れである。しかし、正式な形、イベントで、皆の見ている前で堂々と、威厳を込めてやるから意味があるのである。
キッチンとセッティングをせずにやれば価値も半減してしまう。
威儀を正すから心がこもるのである。投げ与えるような事をしたら台無しになる。
我々の時代は、厳しいのが当たり前だったからね。しごき事件なんて頻繁にあったくらいだから。まあ、シゴキなんて言っても若い連中には通用しないだろうけど。
一つ上でも先輩の言う事は絶対だった。敬語を使わなかったら、死ぬ思いを味あわされた。
ちょっとでも、口答えや言い訳をしたらこっぴどい目にあわされもした。何せ、先輩と言うのは、無理変に拳骨と書くんだと教わったくらいだから。
それを徹底的に破壊したのが学園紛争。立教で年二度あった試験を一回に減らし。その後、「何をやっているんだ」と聞いたら、その一回の試験もなくす闘争をしているというから、「阿保かお前ら。」と言ったのを覚えている。
彼等は、反体制、反権力、反権威で徹底的に権力というものを叩き潰そうとした。でも奴らは、独裁者だったけどね。
我々の時代は、まだとことん服従を求められた。指示な従うのが当たり前で、その頃は、指示できるのは、先輩、偉い人で、それは特権だと思われていたから、若い者が指示などしようものなら、ボコボコにされた。その頃に入社した世代が我々の次の世代。理不尽な洗礼を受けた者は、自分の考えで指示する事を極端に怖がる傾向がある。
おもしろいもので厳しい学年の次は、優しくて。優しい学年の次は、厳しい。総じて厳しい先輩の時の方が成績はいい。だから、優しさと厳しさが交互に来る。人は優しさばかりを求めたりせずに厳しさも求めるものだと学んだ。
だから、厳しさとやさしさ双方の弊害を俺は知っている。厳しさにも優しさにも一長一短ある。
今は、優しさばかり。厳しさはどこ行く風。でも、若者たちは、優しさばかりを求めろているわけではない。若者たちが嫌がっているのは、はっきりしない事だ。毅然として指示が出せない事を嫌がっているだけだ。
部下が指示に従わないのを厳しさや優しさに求めても答えは出ない。部下が嫌がっているのは、はっきりと指示しない事なのだから。
優柔不断だったり、はっきり指示しない上司の部下は、独断する癖がついている人がいる。
しかし、独断した場合、責任がとれなくなるから、事前に極力、報告、承認、確認を取り、独断を避けさせるように指導してほしい。
特に、独断する傾向のある部下は、気を付けるように。
明確に指示するのは、上司の責任である。
部下の申し出に度合いするなら、部下の考え通りに指示する。ただ、その場合でも、指示だけは、上司が責任をもってする。部下が報告、確認、承認を求めてくる場合の十中八九は、上司が指示をしていない場合である。部下が求めているのは、指示をしてくれることである。
指示、命令をする事は、強制する事で悪い事の様に学校や一部のマスコミでは教える事があるが、それは悪意に基づく誤解である。
指示、命令は、指示した者、命令した者が責任をとるという意志表示でもある。
命令しない、指示しない者は、責任を取らないと公言しているようなものである。
独断する癖がつくと、指示、命令に従わなくなる。馴れが生じた時に決定的な過ちをした時、糺す事が困難になり、些細な事で、処罰する事になりかねない。信頼関係に修復困難な亀裂を入れる事になる。
反対されてもいいから、事前に承認を得る癖をつけるように。また、部下の意思を常に尊重し、頭ごなしに否定しないように。また、責任をもって指示するように。
組織の原則には基本的にやむおえない時を除いて事後承認はない。一歩間違うと叛逆と見なされる。
指示できない上司の多くは、自分と同世代が多いからわかるのだけど、かつて、強権的、強圧的な上司の元で決済したり、指示する事を頭ごなしに否定された。
黙って言われた事だけすればいい。指示するなんて十年早いみたいなこと言われて、なんでもない事でも自分で判断したり指示する事を否定され続けた世代。人格まで否定されている事があるからね。
だから、極端に自分の考えを主張したり、指示する事を怖がる。
決定する事や指示する事が出来ない、怖いものだから、指示しなければならない立場に立たされるとストレスになり、極端に批判的になったり、懐疑的になる。つまり、決断したり、指示する事を回避しようとする。病的だよ。
こういう上司は、簡単な指示もできなくなる。そういう上司に遭遇した場合は、なんでも相談するように。そういう上司は、常に、ストレスにさらされ、精神的に追い詰められるから十分に気を付けるように。
民主主義な対する日本人の最大の誤解は、民主主義の原則を、話せばわかるとしている事ですね。その上で、会議は、話し合いの場だと思い込んでいる事です。
民主主義は、話してもわからない。会議は決着の場だという事です。つまり、民主主義において、会議は、闘争の場なのです。
だから、密室とか、非公開とか、記録がないなんてことはあり得ない。基本的に匿名はない。
戦いの場なんです。また、僕はかねてから言っているのですが、民主主義は最初の一致、全員一致を核としている。
最初の全員一致とは、権限に対する一致ですね。権限とは、決定権。決定権とは、即ち、誰が、いつ、どこで、どの様にして決めるかに対する取り決めで、契約。
野球をやる時は、参加者全員が野球をやる事、野球のルールと審判の決定に従う事に対する合意、契約がなければならない。後から参加する者は、この最初全員一致に従う事に合意する事で、最初の全員一致は保たれる。国民国家は、形式的にこの最初の合意を前提とする事で成り立っており。そして、その最初の合意を保障するのが国家権力ですね。それが国民国家の大原則ですね。民主主義は、話し合いで成り立っているわけではないんです。
最初に会議のルールを決める。決まらなければ戦う事になる。だから、民主主義の原点は暴力革命なんです。日本は、敗戦によって占領軍に暴力的に民主化されたのです。
それが事実です。その事実を認めないから、説明がやたらと複雑になる。
非暴力主義なんて国民国家の原則にはなりえない。むしろ国民国家は、国家の自立、独立を自力で守れない国の主権は原則認めていない。なぜならば、主権は、自分の力で守る事が大原則ですから。
だから、永世中立を謳うスイスの民兵組織は有名である。
現在軍を持たないとされる国は、バチカン、ハイチ、パナマ、リヒテンシュタインなど限られている。
非暴力は一種の宗教であって国際常識ではない。
国防と言う事を絶対にタブー視してはならないと言いたいのです。
警察がいるから犯罪が起こるわけではありません。医者がいるから病気になるのでも、消防士がいるから火事になるわけでもない。軍隊があるから戦争があると考えるのは短絡的です。
戦前は、統帥権によって、戦後は、憲法によって国防はタブー視されてきました。それが問題なのです。
国防こそ、思想です。国防論こそ国家論の原点なのです。
僕が最初に勉強したのは、戦略です。
何から何を守るのかを明確にする事です。
自分が命がけで何を守るべきなのか。敵がいる事を認める事です。
核兵器云々は、手段です。目的を明確にせず手段を語るのは危険な事です。
敵は何かを見極める事です。敵は、自分は敵でないように、振舞うからです。そして、あたかも敵はいないように、誤魔化し、隠れるからです。今の日本は、欺かれてばかりいます。
敵は、外にばかりいるわけではありません。むしろ身中の敵こそ怖いのです。
まず自分の足元を見つめ。固める事です。自分が何者で、何を何から守らなければならないのか。
今、世界中で起こっている事。そして、歴史は、それを語っています。今戦いの渦中にない国はないのです。
現実を直視しようとしないのは、一番危険な事です。
事実をキチンと見分ける透徹した目を持つ事です。
国民を守るのは、国民国家究極の目的です。
その上で、国民を何から守るのか。それは犯罪と外敵から国民の生命財産、そして、権利を守る事です。
そして、権利を守る事は、国民の義務でもあります。権利と義務は表裏一体の関係があり、権利があれば対極に義務がある。義務は権利であり、裏返せば、権利は義務なのです。
ですから、国家の本質は主権(治安)と独立の維持です。
何から何を守るのか。守るべきものは何か。
その前提は国民とは何かです。守るべき実体を定義するのが憲法です。
守るべき国民を明確にしなければ、何から何を守るのかが明らかにできません。
国家、国民を定義するのが憲法です。
国家予算は建国の理念の基に編成されるものです。政治を目的としているのではない。政治も予算も建国の精神を実現する為の手段にすぎません。
国防を語ることなく、国家を語る事はできません。
非武装と言うのなら、武装を放棄する事で何が守れるかを考えるべきなのです。
先ず、国民として何を守るべきかを明らかにしたうえで、国民として守るべきものをどの様にして守るかを議論すべきなのです。
国防は、外敵や犯罪だけの問題ではありません。国民生活を守る事です。それは、経済からも、津波、地震、洪水、台風と言った災害からも、コロナのような疫病からも、事故からも、国民を守る事です。
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