四十歳でプロサッカーに挑んだ安彦考真は、ジムへ行った時「素晴らしい筋肉ですか、現役のアスリートですか」の一言だったという。その人事を聞いてトイレで大泣きしてその日のうちに辞表を出して挑戦したそうだ。
なぜ、安彦は泣いたのか。それは、まだできると思ったからだと思う。
やれる時にやれなければ、できるうちにやらなければ、ただ年を重ね、気が付いた時は、やりたくてもできなくなる。何もしなければ馬齢を重ねて衰えていく。時と言うのは、残酷なんだよ。若い時に不完全燃焼なものは、一度も完全燃焼する事なく人生を終わる。その時、その時、完全燃焼している者は、常に、若い。マッカーサーが執務室に飾っていた「青春の詩」にも「年を重ねただけで人は老いない。
理想を失う時に初めて老いがくる。歳月は皮膚のしわを増すが情熱を失う時に精神はしぼむ。苦悶や、狐疑、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年月の如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。」とある。
今、本気で自分の力を出しきらなければ、嘘と言い訳だけの人生になるぞ。
苦しい時にいとも簡単に投げ出す。逃げ出す。あの世代を見ればわかるだろう。投げ出す言い訳、逃げ出す口実はいくらでもある。だがやらなければならない事をやらない理由にはならない。為せば成る。なさねばならぬ何事も。
我々は、この国からも、この静岡からも、この会社からも、家族からも、自分からも逃げられない。他国を、他の地域を、他の会社を、他の家族を、他人を羨んだところでなにもならない。他人にはなれないのである。自分の人生には責任を持とう。自分らしく、自分の持てる力を出し切って生きる。それいかない。
だから、今なのだ。
俺たちは、他人が羨むような宝の山の上にいながら自分の給料分も稼いでいない。
予算を立てる時だっていつだって最後には何も変えようとせず、結局、楽して儲けようとしている。
目先の利益ばかりおって、嗚呼、やっぱり駄目だったと自分を慰めてきた。本気で自分を変えようとしてきたか。
結局自分たちの都合をお客様に押し付け、本当にお客様が何を必要としているかを考えてきたか。
自分たちが売りたいものを売ろうとしてきただけではないのか。これは売れるとか、儲かるという物で成功したためしはない。でも、皆がこんなものがあったらいいなとか、必要だけど…。というものこそ、成功の鍵なのだ。
今までのガス屋の感覚では、成功しない。電気屋さんは、電気を売って商売しているわけではない。家電製品を売って商売を成り立たせているのだ。
結局、この業界は、自分たちの努力を怠り、それを価格に転換してきただけだ。だから、価格も高止まりになる。価格を下げるためには、我々がガス価以外のところで利益を上げていくしかないのだ。我々は、先輩たちの遺産を食いつぶしているだけだという事に気が付かなければ、この会社で働く資格などない。
何を甘え続けているんだ。発想の転換をはからないかぎり、我々の未来はない。じり貧になるだけだ。人を減らし、給料を減らしていくしかない。
お前達だけでの問題ではない。今ならできる。今しかできない。年と伴に会社は衰えていく。余力を残している今こそ、大転換の時なのだ。今やらなければ、お前らも会社も老い衰えていくだけだ。
発想を転換できれば、今の何倍もの粗利益を上げ、しかも、業容の拡大もはかれる。そこに我々のチャンスがある。
予算も、守りの予算。今までの考え方に囚われた予算では、発展は見込めない。
不完全燃焼で歳をとり、何も自分にできない事に気が付いた時、やる事と言ったら、若い連中をさも自分たちがいなければならないように騙して、若い連中のチャンスや成長の芽をつぶす事だけだ。そのように年をとった者は、老害に過ぎない。その目安は、四十だよ。四十以上の者は、四十の時に全力を出し切ったか。挑戦していたか。胸に手を当てて考えろ。その時、全力を出して生きてきた者には、次の時代に挑む権利が与えられる。だから、四十二前後に厄年が来るのだ。
四十を過ぎても次の世代に任せられない者には、退場してもらう以外にない。
若い時に責任をもって仕事をやり抜くことを体得しないと、一生、苦労するよ。決断は、理性的にするものではなくて感情でするもの。要は、気合いだね。子供のころよく間違った教え方をされた。それは、よく考えてから決めなさいということ。よくよく、考えたらこれは親の都合だね。子供におねだりさせたときに駄目と言えないから。口実でよく使う。でも、これは、子供の決断力を鈍らせる。親父からは、常に決断を俺は求められた。お菓子などを買ってくれる時に、いつも、何が欲しか決めろと聞かれ。いくつも言うと一つにしろ言われ。その場で決められないと何も買ってくれなっかた。ぐずぐずいっても何も買ってもらえない。
考えるな。考えたら決められなくなるってね。即断即決。結論を持ち越さない。出した結論には、自分が責任をもつ。結論は座学では身につかない。修練である。だから、気力体力があるうちに数多く場数を踏んで度胸をつける。度胸がついたらどんな時でも冷静な判断ができるようになる。年をとると決断力が鈍る。一定の年齢までに度胸をつけていかないと責任もって仕事をやり遂げることはできない。
何が何してなんとやらというばかりで具体的な指示ができなくなる。いざ、決断という段階になると、錯乱しして正常な判断ができなくなる。優柔不断。無責任な、好き勝手なこと言うがいざ、自分が責任をもって決断をしなければならなくなるとなんだかんだ言って逃げ回る。現実に体調も悪くなるから始末が悪い。
若い時に責任をもって判断することから逃げっては駄目。年をとったら簡単な決断もできなくなる。度胸がなければ人の話も聞けなくなる。それでは、人に仕事を任すことまできないし。物を教わることもできない。
決断した後は大体、落ち込むのが普通。なぜなら、決断した後は、失敗したらどうしようとか、間違ってないよねとか、損しないかなとか、否定的な事ばかり考える。決断は感情。だから、決断するときは、いい事ばかり考え、決断した瞬間、醒めて悪い事ばかり考えるようになるから。本当に度胸のある人は、最悪の事態を覚悟して決断するように心掛ける。だから、いざと言う時にじたばたしない。覚悟の上だから。本当の力量は、上手くいかないときに試される。
結局、一気呵成に、躊躇なくやらない。言い訳や、人の同情を買う事ばかり覚える。
若い時は買ってでも苦労をする。逃げては駄目。
決断できるようになったら次に何をすべきか考えられるようになる。
真剣にやらないと仕事は覚えないよ。
我々は、いつも真剣勝負で仕事を叩き込まれてきた、いい加減な気持ちなら放り出された。自分は、真剣ですなんて甘ちょろい考え方なんて通用するような世界ではなっかたよ。ちょっとでも気の緩みを見せたら容赦しなかった。
自分の限界を知り、認め、人の力を借り、相手を受け入れなければ組織は動かなくなる。組織は一人では動かない。自分の限界を認めないどこらか一人で抱え込み、あるいは、自分に言いなりにしようと頑強になるものもいる。それは組織は組織にとって最大の障害となる。
組織を動かすのは自分との戦いである。
言われた事、指示された事は必ず責任をもってやり抜いた。
話の話にしてはならない。必ず、仕事にしろ。何が何してなんとやらでは駄目。
青 春 サミュエル・ウルマン
青春とは人生のある期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。優れた創造力、逞しき意志、炎ゆる情熱、怯懦を却ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心,こう言う様相を青春と言うのだ。
年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いがくる。歳月は皮膚のしわを増すが情熱を失う時に精神はしぼむ。苦悶や、狐疑、不安、恐怖、失望、こう言うものこそ恰も長年月の如く人を老いさせ、精気ある魂をも芥に帰せしめてしまう。
年は七十であろうと十六であろうと、その胸中に抱き得るものは何か。曰く 驚異への愛慕心、空にひらめく星晨、その輝きにも似たる事物や思想に対する欽迎、事に處する剛毅な挑戦、小児の如く求めて止まぬ探求心、人生への歓喜と興味。
人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる
人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる
希望ある限り若く 失望と共に老い朽ちる
大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、そして偉力の霊感を受ける限り人の若さは失われない。
これらの霊感が絶え、悲歎の白雪が人の心の奥までも蔽いつくし、皮肉の厚氷がこれを固くとざすに至ればこの時にこそ人は全くに老いて神の憐れみを乞うる他はなくなる。
青春の詩の訳には、もう一つあって、そこでは、挑戦心を失えば、二十でも老いるとある。忘れるなよ。二十歳で俺以上に年老い、諦めを口にするようでは、既に、八十九十の年寄りと変わらないからな。
青春 サムエル・ウルマン
青春とは人生のある期間ではなく、
心の持ちかたを言う。
薔薇の面差し、紅(くれない)の唇、しなやかな手足ではなく、
たくましい意志、ゆたかな想像力、炎える情熱をさす。
青春とは人生の深い泉の清新さをいう。
青春とは臆病さを退ける勇気、
安きにつく気持を振り捨てる冒険心を意味する。
ときには、二十歳の青年よりも六十歳の人に青春がある。
年を重ねただけで人は老いない。
理想を失うとき初めて老いる。
歳月は皮膚にしわを増すが、熱情を失えば心はしぼむ。
苦悩・恐怖・失望により気力は地に這い精神は芥(あくた)になる。
六十歳であろうとも十六歳であろうと人の胸には、
驚異に魅かれる心、おさな児のような未知への探求心、
人生への興味の歓喜がある。
君にも吾にも見えざる駅逓(えきてい)が心にある。
人から神から美・希望・よろこび・勇気・力の
霊感を受ける限り君は若い。
霊感が絶え、精神が皮肉の雪におおわれ、
悲歎の氷にとざされるとき、
二十歳であろうと人は老いる。
頭(こうべ)を高く上げ希望の波をとらえる限り、
八十歳であろうと人は青春にして已(や)む。
Copyright(C) 2020.8.31 Keiichirou Koyano