できない事、わからない事、困っている事、失敗やミスは、率直に報告してほしい。
これは別に親切として言っているのではなく。組織的仕事をする上での鉄則だから。
我々の先輩は、特に、軍隊生活をした連中は当然の事。なぜなら、できない事、わからない事、困った事、ミスや失敗を隠されたら部隊が全滅する危機に陥るから。
チームワークでは、人それぞれ偏りがあるのは当たり前。それよりも、できないのに、できると思い込み、わからないのに解ってるとされ、困っているのに、大丈夫とされ、失敗やミスを隠されたら仕事に支障をきたす。だから、できない事は、できない。わからない事は、わからない。困っているときは、困っている。失敗したり、ミスしのに誤魔化したり、隠される方が怖い。本当に怖い。それも、簡単な事、常識的な事でできない事、わからない事を隠される方が困るし、簡単な過失や失敗の方が重大事故を招く。しかも、単純なミス程言い訳が出来なくなる。
我々は、知らなくて当たり前、わからなくて当然、できないと思えと躾けられた。なぜなら、できるかどうかではなく、同じ、情報や技術、知識、価値観を共有する事の方が重要だとされたから。
最も基本的な事、簡単な事こそわかっていない。あるいは、おさらいし、確認する。そこから始める気になってほしい。簡単な事を聞かれたからと言って馬鹿にされたなどと思うとそこからつまずいてしまう。
僕も新しい事を勉強しようとする時は、なるべく、小学校の勉強からおさらいするようにしている。これが出来なくなるとなかなか勉強が進まなくなる。大切なのは問題意識だと思う。
チームの原則は、自己申告。その人がわかっているとした事をわかっているとし、できないとする事をできないとする。何も問題がないと言えば、問題がない事になる。だから、嘘や誤魔化しは致命的になる。チームは信頼が命。信頼できなくなればチームは崩壊する。
だから正直さが求められる。
わかっています。できます。知ってますは禁句。例え、わかっていても、できても、知っていても、チームの皆が確認しなければ、信頼できない。だから、言ってみせ、やってみせ、答えてみせる必要がある。試すわけではない。一緒に仕事をする為にである。
だってどの程度できるかなんてやって見せなければ解らないじゃない。わからない事があれば、学べばいい。任せればいい。ただそれだけ。そこで粋がっても意味がない。
やる事も問題も予め決められていて、定められた結論に導かれる。同じ事を毎日毎年、二十年間も繰り返され、一定に決められた時期、決められた回数、試験をされる。
自分で何を学ぶのか、どうしたらいいのか考える必要はないし、考えてはいけない事になる。疑問を持ったら受験戦争は勝ち抜けない。
教科書は決められているし、時間割さえ決められている。逆に、教科書なければ、時間割がないと何もできなくなる。考えられなくなる。
現実の世の中は、何が問題なのか、どこに、問題があるのかもわからない。
わからなくて当たり前、できなくて当たり前、覚えられなくて当たり前。だから、聞いた事は速やかに確認する。わからなくなったら、恥ずかしがらずに聞く。
我々の先輩、我々も、困ったら聞きてくるだろう、その時、教えればいいというのが基本的なスタンス。ところが、今の教育を受けた子たちは、何も困らないし、わかったつもりになっている。困ったとか、わからないから教えてくださいというのが死ぬほど厭にされてしまっている。だから伝わらないし、教えられない。
だから、何も始まらない。
学校では、教科書に書かれている事以外は、教えない。しかも、客観的事実とされている事以外は教えてはならない事になっている。翻っていえば、学校で教えられている事が客観的事実となる。これは怖い事だけど、誰も怖いと思っていない。
つまり、人生の大前提は出来上がっている事になる。誰も疑らない。怖い、怖い。
昔は、仕事の手順、段取りのつけ方、人との付き合い方などなどは、家庭とか地域コミュニティが躾けていた。だから悪さすると親の顔が見たいと言われた。家の手伝いとか、祭りの準備などで社会生活に必要な事を体験的に教え込まれた。
今は、学校生活が全て、教えられた事を教えられたとおりにある程度できれば、同い年の者は、一律、一斉に進学できる。これからはみ出したものは、世の中に受け入れられなくなる。それが仕組み。補助的には、塾や家庭教師がいるが、彼等が教えるのは、合格の仕方。これが今の教育を象徴している。
仕事の段取りのつけ方やお膳立て、準備など教えてはくれない。学校へ行けばすべての準備は終わっている。習うこと自体に生徒の意志は全く反映されない。それを当然の様に受け止める。
世の中こんな事ありえない。ここから学ばないと。おかしくない。おかしいと思わない。そこをおかしいと思わせない。おかしいと感じさせないように大人は誤魔化し、嘘をつく。
そして、鬱陶しくて、煩わしいと思わせる。最後には何も感じなくなる。
仕事と学校の違いは、双方向だという事。学校の様に一方通行ではない。でも、学校生活が長くなると一方通行の思考しかできなくなる。
予算だって、去年と同じ物を同じように売っていれば、同じ結果か、だんだん悪くなる。
人間には、間違っていても経験を重視する性向がある。だから、同じ間違いを繰り返す。
若い連中は、薄々感づいている。おかしくない。おかしいよと。でも解決の糸口がみつからない。出口のない、答えのわからない問題は、忌避するように仕込まれている。
だから、おかしいよ、おかしくない、このまま行ったらやばくないと気がついても黙っている。
とりあえず、同じことをやっていれば落第はしまいと妙な確信に守られて。
仕事の現場では、記憶力や知識は自慢にならない。要は間違わない事だ叩き込まれた。
指示されたらすぐにわからなくなる。そうしたら、聞きに来るだろう。そこから本格的に仕事を始めるつもりでいたら、いつまでたっても聞きに来ない。だから、いつまでたっても仕事が始まらない。
その内にうやむやになる。しかし、指示した人間は忘れてはいない。
最初からわからないという事、と言うより、最初はわからないという事それが全ての大前提。それを一回聞いてわかったつもり、一回やってできると思い込んでいるのが問題。
人の記憶には限界がある。集中力には周期があり、集中力が持続するのは、記憶力にも限界がある。記憶できる量や記憶を維持できる時間にも限界がある。優秀な人間ほど、記憶がいい反面忘れるのも早い。
だから、最初に完成度を求めるのは愚かな事。まず、お互いがいっている事の確認から入る。
あまりやり過ぎない事。やり過ぎたらわかっていない事や合意していない事までわかっている事に、合意した事になる。問題の本質がわからなくなり。最初の指示や問題点は、消えてしまう。人は、実体のある物に囚われる。だから、最初は不完全で粗っぽい物でいい。粗っぽい物がいい。
自分の言い分、考えを言う前に、まず相手の言っている事を簡単に整理し、確認する。これはディベートの鉄則。相手の言い分、考えを正確に理解しないと賛成も反対もできない。前提の確認は学問の鉄則。
答えは、何かではなくて、何を問題としているかだね。
最初は速度。スピードを重視する。完成度よりね。
相手との信頼関係、距離が縮まったら、徐々に質や密度に重点を移していけばいい。最初から完成度を求める必要はない。大体、求めようがない。最初は何もかも曖昧模糊としていて判然としないんだからね。
ゆとり世代って何なの。何が言いたいの。
大人たちが勝手に自分たちの考え方押し付けていて、それで今更、教育を間違ったはないでしょう。だったら責任とれよ。だったら責任とろうよ。
ゆとり世代だから、厳しさに耐えられないとか、人間関係がうまくいかないとか、廻りが見えてないとか、ひ弱だとか、根気がないとか、意欲ややる気がない。常識がない。根性がない。頼りないとか。礼儀知らずとか。嘘だ。そう思い込ませたいだけでしょ。
ちょっと待ってよ。それって勝手な決めつけじゃあない。
確かに、定着率が悪いとか、根気が悪いとか、やる気がないように見えるけど、それって大人から見てでしょう。
もっと、親身に考えてみようよ。なぜ、簡単に辞めるのかとか、根気がないのかとか。やる気でない様に見えるとしても、その根本的な原因をしっかりとみている。
一番の問題は、子供たち一人ひとりと向き合っていない事じゃあない。
大体、そんなことは、さんざん俺達だって言われてきたし。
ただ、自分たちが歳をとって視点が変わったからじゃないの。要は、自分たちが歳をとったんだよ。
若者たちがやる気をなくすのだって今の大人たちの態度をみたら無理ないんじゃあない。相変わらず、自分たちの言いたいことばかり言って誰も責任をとろうとしていない。
年金だって、税金だって、景気だって一向に良くなっていないし。そのつけ払わされるのは、若者達だからね。こんな無責任なことしていたら若い連中がやる気なくすのも当然でしょ。将来に期待できないもの。もう少しシャッキとしようよ。
自分たちがしっかりしていないで若者にとやかく言える□あると思う。嘘ばっかしじゃあない。しっかりしなければならないのは、大人たちの方さ。
だらしないのはどっちだよ。
若いのだって根性なしばかりではないよ。つまらない仕事ばかりやらせて責任持たせないからやる気にならないだけじゃあないの。今の子だって夢中になれば夜昼かかわらずやるさ。ゲーム見ればわかるじゃない。大人はゲームに偏見持っているだけ。良いとか、悪いとかではなくてゲームが子供たちの生活に入り込んでいる事実は忘れてはならない。かつて我々がテレビを受け入れたようにね。
ゆとり世代だからってどうなのよ。だからどうしたというの。ゆとり世代だから任せられないと言いたいだけでしょ。そんなの年寄りの保身に過ぎないよ。
時代は変わったの。ものすごい勢いで変化しているの。ついていけないのは、年寄りであって。若者じゃあない。
どの時代だって変わらないよ。若者の熱気は。若い時にしかできない事がある。年寄りが若者からチャンスを奪ってはいけないよ。
子供たちだった馬鹿ではないんだよ。あんな言い方をされたら開き直るしかないじゃあない。
無気力になる教育をしていて無気力だと責めるのは筋違いじゃあない。土台、無気力になるような教育をした方が間違っている。
目覚めよ。
猫に小判。豚に真珠と言うけど、猫は小判のために殺し合いはしない。豚は、真珠で仲間を裏切りはしない。だとしたら、人と猫や豚、どちらが本当の価値を知っていると言えるだろうか。
自分の目で見て、自分の耳で聞き、自分の舌で味わい、鼻で嗅ぎ、肌で感じた事を信じる。
どんな人が美味しいと言っても自分が拙いと感じた者は拙い。他人が美味しいといった物を美味しいというのはよそう。だからといって何でもかんでも拙いと言ったら一緒に食事ができなくなる。
どちらも自分が何かに囚われているから。まず、自分を解放し、純なる自分を取り戻そう。自分がない人は、誰にも合わせる事はできない。
自分を信じる事の出来ない人は、誰も信じられない。
自分ない人は、正体もなく逆らっているだけ。
だけど、人の言いなりになって破滅するほど虚しい事はないじゃないか。
自分を生かそうよ。
最初にフグや発酵食品を食べた人もいる。ウニだって、サメだって、蛸だって、イカだって、蜂やイナゴだって、誰かが最初に誰かが食べたんだよ。
それぞれの内に眠っている力を引き出し、秘めた力を発掘し、持てる力を存分に発揮してもらうのが、我らの望むところ。
信頼関係もなく、違いを知らないうちに、結果ばかりを求めれば、ただ、ひたすらに消耗し、互いをすり減らしていくだけ。
今は、力を溜め。原点を確認すべき時。
先ず、相手を互いによく知り、認め、信じあおう。共鳴・共感。そこに原点、根っこがある。
理屈ではない。心で感じる事だ。
忘れないでほしい。
成功した時、その果実を独占したり、我が物にしようとしたら、絆、信頼はもらくも崩れ去る。その時、原点、初心に帰ってほしい。その原点が今。
だから、不確かであいまいな事、最初から虚飾や嘘があったら、立ち帰るところ、よりどころを失う。
栄光を手にした時、苦しくて苦しくて逃げ出したくなった時、失敗し、挫折し、絶望した時、その時、思い出すべきところが原点なのである。
根っ子を大地にしっかり張る時、今がその時。しっかりと根を張れば大岩を割って天に向かって枝葉を伸ばし花を咲かせる事もできる。根が脆弱、あるいは腐ってしまえばどんな巨木も一陣の風で倒される。
だから強く強く信じあうのだ。明日を夢見て。
その為には、素の自分をさらすしかない。最初に嘘や虚飾、虚勢があってはならない。互いの弱いところ。欠点、醜いところを含めて全てを信じあい、認め合う必要があるからだ。
弱いところを偽り、過ちを認めず、隠し事があれば、信頼なんて最初から築けない。なぜなら、弱点を補い合い、過ちを正し、他人に言えないような悩みを解決する為に集ったのだから。
我々は使用人を雇うのではない。同志を募るのだ。
怒れよ。今の若者は怒りを抑えすぎる。
世の中を変革するのは、怒りだ。世の不正に対する怒り。自分を抑圧しようとする者に対する怒り。自分に対する無理解さに対する怒り。不条理に対する怒り。怒りが正しい方向に向けられた時、変革は始まる。
綺麗事と言われてたじろぐな。綺麗事で何が悪い。穢ければいいというのか。甘いと言われたっていいじゃないか。何もしない奴よりましだ。どうせダメだと最初からあきらめるな。俺達なんてと自分達を卑下するな。前を向け。胸を張れ。最初から諦めて拗ねてどうする。
解らないじゃないか。わかってないじゃないか。
今の若者は、なぜ怒らない。皆、うすうす気が付いているじゃないか、大人たちのつけを払わされるのは自分達だと。だったら怒れよ。大人なんてあてにするなよ。未来は自分たちの手で掴み取れ。
今、問題なのは、ゆとり世代ではないよ。しらけ世代だよ。
しらけ世代は、政治や経済の中枢にいる。しらけている場合ではないのに。
次の時代をリードするのは、ゆとり世代だよ。
だから、現実から逃げないでほしい。直視してほしい。
なぜなら、責任を負わされるのは君たちだから。
俺は、しらけ世代の一人だ。だから、腹が立つのだ。できるだけの事は責任をもってやらなければ。
俺は、そう覚悟している。
ゆとり世代をとやかく言えるか。ごまかすな。
今、問題を起しているのは、ゆとり世代ではないよ。しらけ世代だよ。
次の時代をリードするのは、ゆとり世代だと思うよ。
でも、年寄りは絶対に認めないね。
俺だって正直不愉快にもなるさ。
変革を受け入れるという事は、今までの自分たちがやってきた事は間違いだったとか、積み上げてきた者を全否定されるようなものだからね。でも、仕方ないじゃない。腹は立つけどそれを認めなければ、新しい事なんてできやしないよ。
見りゃあわかるよ。去年と同じ事を同じようにやっていれば…。やれ変革だの改革だの言ったところで、表紙を変えただけで何にも変わっちゃいない。
本気でやるなら、若い連中にゼロから任せるしかない。
このまま、じり貧になってどうしようもなくなってから手渡すのではなく。失敗覚悟で全てを任せるしかないでしょう。
ただ、仕事の段取りとか、やり方だけは、素直に聞いてね。この辺は、経験がものを言うから。それに、二、三回通しでやればすぐに身につくよ。
年寄りはことさら難しく言うけどね。基本は誰にでも短期間で覚えられるから。子供でもできるんだから。ただ若いうちに身に着けておかないと後面倒くさいからね。
自分は、材料を持っているけど調理の仕方がわからない。君たちは、材料は持っていないけど、調理の仕方は知っている。互いに持てる物を出し合って成功しようよ。
俺に言わせれば、大学は、入り口であり、始点でなければならないよ。それがいつの間にか出口、終点になってしまっている。
学生時代なんて一番輝いていた時さ。その時の経験や知識を無駄にしないようにね。大学で学んだ事は、全ての始まりじゃあないか。じゃあなければなんであの苦しい受験勉強を耐えてきたのた。大学で学んだことを無駄にしたらそれまでの時間を無為にしてしまう。そんなこと許せないよ。
一緒に発掘しよう。
僕もいろいろと教わりたいし。本当に、楽しみにしているよ。イェ。
お互いの事、何も知らず。信じあいもしていなければ、仕事はできません。
単純な仕事なら別ですけど、自分の生活や人生、運命を共にするような仕事はできません。
何故なら、これから、助け合い、補い合い、競い合って生きていくのですから。競い合うにしても根本に信頼関係がなければ。その為には、お互いをよく理解する事です。できる事、できない事。わかる事。わからない事。全てを受け入れなければ本当の信頼なんてできません。
ルーツも、コンセプトも、コンセンサスも何もない。何もないところからスタートです。
先ずルーツです。自分たちが一番輝いていた時、希望に燃え、自分の生活をスタートしようとした時、そこに、ルーツがあります。その時に抱いた情熱、高揚感を忘れてはなりません。それこそが、全ての始まりなのですから。
だから、腹が立つのです。ゆとり世代は駄目だとか、ゆとり世代は無気力だなんて決めつけるのは。
一人ひとりと向き合うべきなのです。ゆとり世代と言う名の社員は、内にはいません。自分の名前で仕事をさせるのです。自分の名で仕事をするから成功した時も、失敗した時も責任が採れるのです。
だから私は言うのです。まず名を名乗れと。
社会人になったら親父に言われました。まず名前を憶えさせろ。お前の名前なんか皆すぐ忘れる。名前を憶えていてくれるなんて思うな。まず名前を売れと。大企業なんかに勤めたら、社員は、統計でしかない。名前なんかトップが一々覚えていませんよ。相手が俺を知らないなんて嘆くな。名前を覚えさせるための努力をしていない事を嘆けと。
親父たちに教わったのは、学校で教えられた事の正反対。悪名でもいい名前を売って来い。訪問したら、相手が留守でも痕跡を残して来いと。相手に期待するな。期待するなら自分にしろと。
年寄りはね。自分が歳をとった事も認めたくないんだ。いつまでも若いつもりになる。若い連中に負けたくないと思っている。よしなさいというの。年寄りの冷や水だよ。
団塊の世代は、ぶっ壊すだけぶっ壊しておいて、しらけ世代は、三無主義か。誰も責任とっていないじゃあない。それで事あるごとに若者の為、次世代のため。
年金も満額貰い、退職金もタップリもらい。医療費は。タダ同然。税金だって上げずに、給料だって自動的に毎年上がってきた。歳をとれば黙っていても高給がもらえる。なめとんのか。大体、派遣が増えたんだって年寄りが正社員を独占しやるないから退職金の負担が過重になったからじゃあない。
それで、ゆとり世代が悪いと言えるか。もういい加減、誤魔化すのはやめよう。ゆとり世代だって文句言いたくなった時は、皆、現役を引退して、いないんだからね。今、改革しようよ。黙っていたら駄目だよ。諦めたら先がないからね。
年寄りには先がないの。先のある人間に実権を渡すのは当然でしょう。先のない奴はろくなこと考えないし、やらないんだかね。
去年と同じようなものを同じように売って、それでも帳尻が合うなんて思っていること自体、非常識なんだよ。その非常識がまかり通っているのがこの業界。馬鹿にしている。
馬鹿に馬鹿にされることほど腹が立つ事はないからね。毒されない事だ。
何も努力もせずに、その癖、上手くいかなくなると右往左往して、他人のせいにする。舐めているのかっていうの。土台から変えればいい。
お互い、現実を直視しよう。
今、問題なのは、ゆとり世代ではないよ。しらけ世代だよ。
しらけ世代は、政治や経済の中枢にいる。しらけている場合ではないのに。
次の時代をリードするのは、ゆとり世代だよ。
だから、現実から逃げないでほしい。直視してほしい。
なぜなら、責任を負わされるのは君たちだから。
俺は、しらけ世代の一人だ。だから、腹が立つのだ。できるだけの事は責任をもってやらなければ。
俺は、そう覚悟している。
ゆとり世代をとやかく言えるか。ごまかすな。
今、問題を起しているのは、ゆとり世代ではないよ。しらけ世代だよ。
次の時代をリードするのは、ゆとり世代だと思うよ。
でも、年寄りは絶対に認めないね。
俺だって正直不愉快にもなるさ。
変革を受け入れるという事は、今までの自分たちがやってきた事は間違いだったとか、積み上げてきた者を全否定されるようなものだからね。でも、仕方ないじゃない。腹は立つけどそれを認めなければ、新しい事なんてできやしないよ。
見りゃあわかるよ。去年と同じ事を同じようにやっていれば…。やれ変革だの改革だの言ったところで、表紙を変えただけで何にも変わっちゃいない。
本気でやるなら、若い連中にゼロから任せるしかない。
このまま、じり貧になってどうしようもなくなってから手渡すのではなく。失敗覚悟で全てを任せるしかないでしょう。
ただ、仕事の段取りとか、やり方だけは、素直に聞いてね。この辺は、経験がものを言うから。それに、二、三回通しでやればすぐに身につくよ。
年寄りはことさら難しく言うけどね。基本は誰にでも短期間で覚えられるから。子供でもできるんだから。ただ若いうちに身に着けておかないと後面倒くさいからね。
自分は、材料を持っているけど調理の仕方がわからない。君たちは、材料は持っていないけど、調理の仕方は知っている。互いに持てる物を出し合って成功しようよ。
俺に言わせれば、大学は、入り口であり、始点でなければならないよ。それがいつの間にか出口、終点になってしまっている。
学生時代なんて一番輝いていた時さ。その時の経験や知識を無駄にしないようにね。大学で学んだ事は、全ての始まりじゃあないか。じゃあなければなんであの苦しい受験勉強を耐えてきたのた。大学で学んだことを無駄にしたらそれまでの時間を無為にしてしまう。そんなこと許せないよ。
一緒に発掘しよう。
僕もいろいろと教わりたいし。本当に、楽しみにしているよ。イェ。
僕はね。腹が立っているんですよ。なぜ、皆は、腹を立てないんですか。
年よりはね。自分たちの無能、怠慢、無責任から目をそらすために、ゆとり世代を悪し様に罵っているだけですよ。本当に頭にくる。
ゆとり世代、ゆとり世代と言いますがね。彼等を教育したのは、しらけ世代ですよ。彼等の論理は、「何やっても無駄。」「頑張るのは馬鹿馬鹿しい」「情熱を持ったところで結果は同じ。世の中変わらない。」「なるべく難しい話はやめよう」「楽しければいいのさ。厭な事は忘れよう。」だからね。そういって子供たちを指導してきたの。あいつらおかしいよ。でも、おかしいというと言った人間を寄ってたかっておかしいと責めたからね。まともな事言う先生はいなくなった。
大体、一番大変な時、辛い時に投げ出しやがって。言い訳もなし。だって体調が悪かったから仕方ないでしょ。ふざけんな。
少しは、がんばれよっていうの。ゆとり世代ではないよ。問題なのは、責任ある立場にある世代。親の方だよ。
変革、改革といっても掛け声ばかりで、やっている事は、ちっとも変わっていない。やる気あるの。
団塊の世代は、ぶっ壊すだけぶっ壊しておいて、しらけ世代は、三無主義か。誰も責任とっていないじゃあない。それで事あるごとに若者の為、次世代のため。
年金も満額貰い、退職金もタップリもらい。医療費は。タダ同然。税金だって上げずに、給料だって自動的に毎年上がってきた。歳をとれば黙っていても高給がもらえる。なめとんのか。大体、派遣が増えたんだって年寄りが正社員を独占しやるないから退職金の負担が過重になったからじゃあない。
それで、ゆとり世代が悪いと言えるか。もういい加減、誤魔化すのはやめよう。ゆとり世代だって文句言いたくなった時は、皆、現役を引退して、いないんだからね。今、改革しようよ。黙っていたら駄目だよ。諦めたら先がないからね。
年寄りには先がないの。先のある人間に実権を渡すのは当然でしょう。先のない奴はろくなこと考えないし、やらないんだかね。
去年と同じようなものを同じように売って、それでも帳尻が合うなんて思っていること自体、非常識なんだよ。その非常識がまかり通っているのがこの業界。馬鹿にしている。
馬鹿に馬鹿にされることほど腹が立つ事はないからね。毒されない事だ。
何も努力もせずに、その癖、上手くいかなくなると右往左往して、他人のせいにする。舐めているのかっていうの。土台から変えればいい。
お互い、現実を直視しよう。
団塊の世代は、団塊の世代で、反権力、反体制、反権威を標榜してぶっ壊すだけぶっ壊しやがった。誰か言ってただろ、既成政党をぶっ壊すって。そして、ぶっ壊したけど責任とらずに放りだした。
反体制とか、反権力と言ったって高度成長の恩恵を一番被ったのは彼ら。
年金は満額貰え、高額な退職金も、医療費だってただみたいだったし、介護制度も充実され、税金だって低くて、給料も毎年上がった。そのつけを全部ゆとり世代が払わされる。
でも、あいつら未だに反体制だよ。自分たちが体制側に立ったというのに反体制。馬鹿野郎と言うの。
お前ら打倒される側に回ったんだよ。その自覚もない。時々、公園にヘルメット被った年寄りが集会をしている。いい年をしてと思うのだけど、彼等はいまだに、今の若い連中は問題意識が低いという。
次の世代、しらけ世代は、基本的に事なかれ主義、日和見主義。やったって無駄。熱くなるだけ馬鹿を見る。なんでも適当に、穏便に。難しい話はやめようよ。しらけるからさ。楽しければいいんだよ。熱中するだけ馬鹿を見る。何やったって世の中かわらない。努力するなんて阿保らしい。阿保がする事。真面目にやるだけ馬鹿を見る。上手く立ち回ればいいんだよ。要領。要領。適当に、付き合っていればいいのさ。清濁併せ呑むだからね。それが彼等の価値観。日本が停滞するのも無理はない。
本当にやる気をなくさせる事にかけては、天下一品だからね。なるだけ、できたら現実から目をそらしたがるからな。
しらけ世代は、ええからええから、いい加減、適当にしていたからいい加減で適当、中途半端な仕事しかしてこなかったのだ。
例えば、目的や主旨なんて適当に作文しておけばいいと本気で考えている。だから、コンセプトなんてわかるはずがない。
その団塊の世代としらけ世代が、ゆとり世代を教育してきた。
何でゆとり世代が彼等に罵倒される必要があるんだかね。
若い子は、根気がないとか、やる気がないとか、集中力が続かないとか。常識がないとかそんなことないと思いますよ。そう思わせたい。そう暗示にかけている者いるかもしれませんがね。だって、ゲームだとか、SNSとか、自分が興味を持っている事には、どん欲だし、時間を忘れて夢中になる。
大人は、ゲームや漫画、SNSに偏見持っていますからね。
ただ、若い連中は、自分に必要な情報は、自分達、独自にとってきているし、それなりにちゃんと分析もしている。むしろ、その方が凄い。脅威ですよ。
大人が、若者たちの思考についていってないんだと思いますね。でも、若い人は、暗示にかかりやすいと思いますよ。
若い人から見れば無駄な時間は送りたくない、無駄な努力したくないという事なんでしょうけど、どうせわかってもらえないから話しても無駄、わかったところで何もしてくれないなら時間も無駄、だから、何も期待しない。
でも、それでは道開けませんから。
ただ、若者たちの熱気は感じますね。いろいろなところで。
重要なのは、我々大人が勝手に決めつけて、若者の方向いていない事なんでしょうけど。でも、これからの時代は、そんなこと言ってられないですからね。覚悟しておいてください。
だから、専務に直接はなしてよくよくお互いを理解しておく必要がありますね。専務は何でも聞いてくれますし、理解力もある。頭ごなしに決めつけたり、無視したりしませんから。直接アクセスしてください。遠慮しないで。
年寄りには、新しい事を始めたり、変化を受け入れる事によるメリットやモチベーションは、何もない。第一に、新しい事を理解する力も、変革する意欲もない。
年寄りにとって、新しい事や変革は、むしろデメリットの方が大きいし、やりたくない。特に、日和見主義、事勿れ主義の傾向が大きい世代には、厄介なだけ。だから、彼等は、確実に抵抗勢力になる。
年寄りは、若者たちの言っている事は理解できないし、例え、理解したとしても自分達には関係ないと思っている。若者たちは、何を言っても理解してくれないし、わかろうともしてくれないから説得しようとする気も起らなくなる。
年寄りが壁になれば、若手は、絶望し、無気力になる。それこそ三無主義に陥る。だから、事態は改善されずにどんどん悪化する。
年よりはそれでも自分時代は何とかなる。少なくともそう思っている。
問題は、若者たちだ。このまま行ったら、確実に世界から置いてけぼりにされる。それだけならいいが、植民地化、奴隷化が進む。世界や歴史を観ればいい。無気力化されていいはずがない。
だから、可及的速やかに若者たちに実権を移す。是か非かの問題ではない。そうしなければ確実に破滅するからだ。君たちならやればできる。
年配の連中の経験は、無意味だとは言わないが、確実に通用しなくなってきている。問題は、不易、変易、易簡。不変的な部分と変化している部分、それを結び付ける関係を見極める事だが、年寄りはそれを最初から拒否している。
一世代前なら共産主義、唯物史観で、未来が確定していると錯覚し、革命、革命と叫んでいれば様になった。それが団塊の世代やその後の自称知識人の共通認識だったが、ベルリンの壁の崩壊によって脆くも崩れ去った。今では、テロ、過激派と言えば、原理主義者だが我々の時代は、赤色テロ、左翼だった。
日本では、マルクス主義なんて過去の遺物になりつつある。
まだ、社会主義の伝統のある欧米は、それでも、社会主義運動の芽まで失われなかったが、アジアや中東では、左翼運動そのものが変質し、結局、全体主義と無政府主義だけが残った。
しかし、それすら日本の知識人は、認めようとすらしない。若者たちの発想を受け入れようとはしない。
若者たちを過去の亡霊、ドグマ、呪縛から解放しない限り、夜明けは来ない。
何にもとらわれない目で、未来を見通す事さ。良きにつけ、悪しきにつけ、未来は君たちのものだ。先のない者が壁になってはいけない。
今の若者にとって、かつて、大学を吹き荒れた共産主義のドグマが、宗教的原理主義のドグマに置き換わったとしても何の違和感も感じないのだろう。それは共産主義者のある種の本質をついているのかもしれない。ただそれが、若者たちにイデオロギーに対する不毛さ、失望となって、議論する意欲すら失わせてしまったとしたら、それは若者にとって災難しかもたらさない。
共産主義が是か、非か。資本主義が是か、非かを論ずる前に、一見、勝利したかの如くみえる資本主義だってじりじりと破局に向かっている現実を直視すべきなのである。そして、それを回避すべく最大限の努力し、それでもなお、不幸にして最悪の事態に陥ったとしても、若者たちに打開する為の糸口を用意しておく事が、せめてもの我々にできる事であり、使命なのである。
共産主義が駄目、資本主義も駄目だとしたら、第三の道を自分達で切り拓くしかないではないか。共産主義でも資本主義てもない新しい哲学を生み出すしか活路はない。
座して死を待つくらいなら進んで道を切り拓く。
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