1.経済とは何か




 貨幣は人間が作り出した事である。貨幣空間は虚構の世界である。
 人は、お金に踊らされているだけなのである。
 貨幣は、自然に成る物ではない。自然の状態では貨幣は、生まれないのである。貨幣空間では、何らかの人為的が働きがあって価値は生じる。人の力が加わらなければ貨幣価値は成立しないのである。
 貨幣価値は突き詰めて考えると数値情報に過ぎないのである。

 数値は作られた事である。自然界に数値という物があるわけではない。貨幣価値は数値で表された事である。故に貨幣価値で表される経済的価値も作られた事なのである。作られた事は、いくらでも作り替える事ができる。

 この事は大前提である。そして、この前提に立って経済について考えてみよう。

 博打や投機は、ある意味で貨幣の働きの性格の本質を現しているのかもしれない。貨幣の働きが実体から乖離し、数値的な事象、特に、確率統計的な事象に特化してしまうと博打や投機のような事象になってしまう。博打や投機の何処に問題があるのか、それは、博打や投機には、生活実態がないという事である。

 経済の根本は生活である。生活感のない経済というのは、実体のない世界である。言い換えると色のない世界。魂のない世界である。
 魂のない肉体は、ただの骸に過ぎない。醜く朽ち果てていくしかないのである。

 経済の実体は生活にあって金儲けにあるわけではない。金によって貧困層が拡大し、お金の為に生活の成り立たない人々が増えているとしたら、それは本末を転倒している事なのである。昔は、お金がなくても生きていけたのである。

 お金は道具である。お金は手段である。お金は、交換手段である。この点を決して忘れてはならない。
 金儲けは手段になり得ても目的にはなり得ない。
 経済の目的は、生活を豊かにすること以外にないのである。

 そのための手段として生産力を高め、交通を整え、組織を作り、金融制度を築き、市場を作り、分配を円滑にするのである。
 しかし、生産も、交通も、金融制度も、分配も、いずれも手段である。

 現在行われている経済政策の殆どは、対処療法的な事に過ぎない。なぜならば、資本主義経済の仕組みが正しく理解されていないからである。資本主義の前提が理解されていないからである。資本主義は、このまま放置すれば、経済が成り立たなくなり、破綻してしまう。
 資本主義を貨幣的側面からのみ理解しようとしている事に一因がある。お金は使うとなくなるというのは貨幣から見た事で、物という側面からすると貨幣価値がなくなるわけではない。
 元々、貨幣は交換するという行為で成り立っているのである。交換する以上、交換した対象も取引の時点では同価値の貨幣価値を持つ事になる。

 取引というのは、同価値の金と財との交換を前提としている。取引が成立し、物とお金とを交換した時点では、物とお金との価値は、同じでなければならないのである。だから、お金を使ったら価値を失うわけではない。仮に、買い手がつけば、お金を取り戻す事が可能であり、場合によっては、買った時より多くのお金を手に入れる事ができるのである。
 取引がお金の価値を失う事だと言うのは思い込みに過ぎないのである。

 ただ、買った物を消費してしてしまえば買って物を売る事ができなくなる。つまり、消費は価値を費やす行為を言うのである。

 何かを買ったらお金はなくなってしまうのではない。お金以外の物と交換したのに過ぎないのである。ただお金以外の物は、貨幣価値としての明確な指標を持っていないのである。お金と交換する事で、お金以外の物は数値的な価値を持つ事ができるのである。
 それが貨幣の価値を決定する働きである。

 貨幣は、使うとなくなるのではなく。同価値の物と交換されるのである。
 この事を忘れてお金の流ればかりを見ていたら貨幣経済の本質は理解できない。
 お金の流れは常に反対方向の物の流れを伴っている。
 要するに、物と金の価値の総和は常にゼロに均衡するように設定されている。貨幣価値はゼロ和なのである。
 ただ、収支や損益というのは、貨幣という座標に投影する事によって生じる概念なのである。経済的価値の総和はゼロである。

 収支も利益もお金の世界で生じる。お金は使えばなくなるのではなく、お金は使えば、他の物と交換されたのである。その物を消費してしまえば価値はなくなるが、何らかの価値を付け加える事が、価値を増幅する事ができるのである。それが付加価値である。

 商売というのは、むしろ、買った時に失ったお金より、多くのお金を売る時に得ようとする行為だとも言える。

 売る時に買った時より何らかの価値を付け加える事ができたら、買った時より高く売る事ができる。
 買った時より高く売る為の要素は時間と労力である。価値を付け加える事を付加価値という。
 つまり、付加価値の要素は時間と労力なのである。時間と労力が経済の根本要素である。

 「お金」の本質を理解していなければ、貨幣経済の働きを解明する事はできない。

 お金というのは、人間が作り出した事である。
 お金は人間の観念の所産である。それ自体が実体を持っているわけではない。
 お金とは虚構なのである。

 身長や体重、体温、足の大きさ、血圧、血糖値、試験の成績、年収、年齢などの数値情報だけで、その人の人間性の全てを表す事ができるだろうか。成績の偏差値によって全人格まで判断されたらたまらない。経済だって同じである。数値だけで経済の全てを明らかにする事はできない。経済といえど「お金」が全てではないのである。

 手元にまとまった現金があると仮定しよう。
 現金のまま、タンス預金として手元に留めておくか、預ける。投資する。資産に変える。

 現金ではなく資産だった場合はどうか。
 担保にして金を借りて換金した上で運用する。売って換金する。いずれにしても、物である資産を活用しようとしたら一旦換金する必要がある。

 土地や資本といった流動性のない資源を換金する事で流動性を持たせる。言い換えると貨幣価値に換算しないと経済的価値を持たない。
 現代は資産であっても財産ではない。資産は事であるが、財産というのは物である。

 この様に現金化が経済活動の基本的手段となる為に、現金化できる速度を流動性という。換金ができる速度によって流動性は測られる。むろん流動性が一番高いのは現金である。

 所有権は、所有者と所有権の対象となる物や権利を結びつけ、特定した上で貨幣に換算される事で確定する。つまり、この世の総ての価値は、一旦貨幣換算される事によってのみ経済的効能を持てる。又、その事によって総ての事に所有権が確定し、経済的な価値があからさまにされる。それが今日の市場経済なのである。

 相続税の本質を考えると土地や資産というのは、国から借りているのに過ぎないとしか思えない。つまり、一見所有権が確定されているようで実は、所有権が公の機関に掌握されていくのである。先祖代々の土地と言ってもそれが貨幣価値に換算され、税が課せられる事によって手放さざるをえなくなると言う事態が派生するのである。

 現代経済では、換金される事によって経済的価値を持つ事ができる。だから、貨幣が絶対的な力を持つのである。

 そして、現金化されたところで、現金収支によって経済活動は動かされる。入金と出金が経済の原動力となる。そして、現金の残高がなくなると経済活動は持続できなくなる。それが原則、決まりである。

 元々儲けというのは、手元にどれくらいの現金が残っているかが問題だったのである。
 利益とは何かと言う事を間違ってはいけない。利益というのは、指針に過ぎないのである。金銭的な実体があるわけではない。例え赤字になったからと言ってすぐに潰れるわけではないし、逆に、黒字なのに、資金繰りがつかなければ倒産してしまう事もある。お金が続けば、赤字といえども経営を継続する事は可能なのである。

 例えば現金商売の八百屋と掛け売りが主の居酒屋では、同じような収益を上げていて掛け売りを主とした居酒屋の方がずっと立ち行かなくなるリスクは高いのである。
 収益というのは、あくまでも費用対効果を算出する為に想定した値なのである。

 利益は、指標である。利益だけを捉えて、赤字だ黒字だと一喜一憂してもはじまらない。大切なのは、赤字であろうと、黒字であろうと、どの様な状況によって生じたのか、事業計画に沿っているかが問題なのである。その局面だけを捉えて融資するか否かを金融機関が判断していたら景気は傾いてしまう。
 問題は過程であり、状況なのである。

 利益は一意的に導き出される物ではない。会計とか、簿記が解りにくいという人の多くは、会計の数値が定められた論理によって一意的に導き出される事だと思い込んでいる節がある。特に学校で優等生だった人にこのタイプは多い。そういう人は、経営数値をいじくり回す人を見ると何か怪しげな、不正な事をしているのではと勘繰ってしまう傾向がある。
 答えは一つしかないと教え込まれているのである。経営の答えは自分で作り出す事なのである。
 しかし、経営というのは答えが一つだとは限らない。
 利益は動かせない数値ではない。むしろ、作られた数値と言っていい。利益というのは架空の数値なのである。
 元の数字は同じであっても会計制度の基本が変われば利益も違ってくるのである。その好例が、日本とアメリカの会計制度の違いであり、日本では黒字でもアメリカでは赤字という問題が起こり、日本の財務報告書にこれは日本の会計制度に従って作成されたという中期が義務付けられた由縁でもある。また、日本の会計制度と国際会計制度との整合性の問題にも発展するのである。

 特に、利益の問題は、利益の配分にある。
 資本や利益を資金だと錯覚している人がいる。そういう人に限って苦しくなると資本金を取り崩せばいいといいだす。資本金というのは名目勘定であって実質勘定ではない。つまり、何らかの実体を持った資産の価値を表しているわけではない。現金は資産であるが、資本や負債は、現金としての実体を持たないのである。
 もし資金を捻出しなければならないとなると資産を売って現金を作るか、資産を担保にして借金をするしかない。

 資本主義的な考え方に反発する人の中には、利益や内部留保を目の敵にする人がいる。
 彼等からすると利益というのは、余剰な事であり、余剰な部分は利害関係者に総て分配すべき事になるのである。
 その関係者とは、株主、政府、経営者、取引業者などである。しかし、利益は、費用対効果を測定する為の指標である。何らかの実体があるわけではない。
 利益は、第一に、長期借入金の返済原資である事を忘れてはならない。
 長期借入金の返済原資は、他に減価償却費がある。この部分に課税されたら、長期借入金の返済原資がなくなり、資金繰りが窮屈になるのである。一時的に利益が上がったから節税対策と資産を購入したら、後々資金繰りが圧迫され経営が困難になったと聞くのは、この辺の錯覚が原因である。

 利益は決して搾取ではない。
 金儲けが悪いのではない。問題となるのは、金儲けの手段であり、金を儲けた後の事である。要は、どの様にして金を儲け、金をどう分配し、どう使ったかが問題なのである。
 人を騙すようにして、又汚い手段で金を儲ける事や儲かった金を独り占めしたり、博打や遊興にうつつを抜かすから問題なのである。
 お金は使い方に問題がある場合が多いのである。

 利益の持つ意味を理解する為には、長期借入金の返済、納税額、減価償却費、非減価償却費、そして、利益との関係を見る必要がある。だから、損益とキャッシュフロー、税務会計を結び付けて考えなければならない。これは付加価値と結びつけるとより鮮明になる。
 付加価値は、地代、家賃、金利、人件費(所得)、そして、減価償却費と利益からなる。これに対して、キャッシュフローは、長期借入金の返済額と納税額からなるのである。地代家賃は不動産に結びついて長期借入金の返済では、非減価償却費の部分に相当する。減価償却費と人件費、金利は費用である。そして、長期借入金の元本の返済は、減価償却費と税引き後利益が当たられるのである。税引き後利益によって充当されるのは非減価償却費、特に、不動産の部分である。

 人件費は、所得である。人件費というのは、労働の対価である。

 付加価値は、人件費という労働費(所得)、不動産から派生した非減価償却費、そして、減価償却費、金利、利益からなる。そして、これはキャッシュフローに連動しているのである。
 デットクロスというのがある。税は、利益に掛けられる。利益は、収益と費用の差額である。キャッシュフローは、収入から支出を差し引いた額である。費用の要素は、減価償却費であるが、単年度の減価償却費と長期借入金の元本の返済額は一致していない。その結果、初期の利益に対して長期借入金の返済額は過小になり、利益は上がらないが反対に納税額は少なく収めることができる。それが時間がたつに連れて逆転し、償却が終わりながら借入金の返済が終わっていないと、償却が終わった分、利益が過大に計上されていながら、課税額が大きくなって資金繰りが悪くなると言った事象が現実に起こる。

 もう一つ重要なのは、不動産は非償却資産であり、売らないかぎり損益に現れてこない。逆に売れば損益に反映されて課税対象となる。不動産を購入する際にあてがわれた資金は、決算上は、利益から支払われないかぎり、清算されずに残ると言う事である。仮に土地を借入金で賄った場合、その借入金の元本は内部利益を返済に充てないかぎり減らない事になる。

 経済の仕組みにはいろいろな絡繰りがある。絡繰りがあるから利益が上がる。絡繰りを理解していないと勘定合っての銭足らずと言う事が起こるのである。
 これは格言ではなく。現実である。

 経済は収入と支出の問題でもある。
 収入は、変動的であるのに対して、支出は、固定的である。
 そこに問題があるのである。
 収入を、単位期間というフィルターによって整流した結果が収益である。
 この様な収益は、想定に過ぎない。取引を時間軸を加える事によって貸方、借方に分解するのである。
 取引を分解する事によって正の要素と負の要素が派生する。
 経済的事象は、正の要素と負の要素が均衡する事によって成り立っている。正の要素は実体的要素であり、負の要素は名目的要素である。
 正の要素は物的な空間を構成し、負の要素は貨幣的空間を構成する。

 負の要素が生じる事で金融や保険の働きが成立する。
 金融の部分を担うのが主として銀行であり、保険の部分を担うのが主として政府機関である。
 金融機関や政府機関は、お金を使って市場を制御しているのである。
 故に、金融機関や政府機関は負の働きをよく理解しておかないと市場を制御する事ができなくなる。

 収入の波やバラツキを金融によって調整する。その役割の一部を保険が担っているのである。
 社会保険や失業保険の経済的な意義、役割を正しく知る必要がある。
 そのためには収入には波があり、確定的な事ではないという前提がある事を忘れてはならない。

 収入というのは手を加えなければ一定しない。
 収入を左右する要素には、不確定な要素が多いのである。
 去年はよく売れたけど、今年は一つも売れないという自体が往々に起こるのである。
 経営では、変化は常態なのである。
 海洋資源、農業では、大漁貧乏、豊作貧乏と言う事すらある。単純に収穫量が多ければ儲かるとは限らないのである。

 それに対して、支出は生活に基づいているから固定的である部分が大きい。
 そして、支出には一定の周期がある。
 周期は、日々の生活に基づく、時間単位、日単位の事。週間単位の事。月単位の事。年単位の事等の定期的な事象に関わる資金。
 家を建てる資金、結婚する資金、教育に関わる資金、出産育児に関わる資金、介護や老後の資金と言った何らかの冠婚葬祭、人生のイベントに関わる資金。
 災害や事故、病気といった不測の事に関わる資金がある。
 そして、これらは一定の周期、波動を持っている。

 この様な固定的な支出に対して収入は一定していなかったのである。
 物中心の生活では、獲物は限られていたし、常にとれるとは限らなかった。農作物の収穫も季節変動がある上に一定ではない。だから、食料の保存技術が発達したのである。
 物から貨幣へ移行しても収入が基本的に不安定である事に変わりはない。

 この様な収入を安定化する為に会計制度が完備され時間軸を導入する事で期間損益が確立され収益と費用という概念が生まれたのである。又、会計制度が確立される過程で貨幣制度も整備されたのである。
 貨幣も会計も観念的仕組みであって何らかの物理的実体があるわけではない。
 また、不安定に所得を安定させる為に賃金制度、給与制度が確立されたのである。決まった時に決まった収入を受け取れるようにする。それが近代雇用制度である。

 収入というのは所得に限った事ではない。
 収入というのは、言い換えれば、資金の調達である。資金の調達手段には、所得以外に借金がある。
 つまり、資金の調達は何らかの対価として受け取る資金と何らかの物を担保として借り入れる資金の二種類がある事になる。
 これが原則である。

 企業経営では、収入を一定とするという事は、支出に対して所得が不足した時は借金をして、余った時は、返済をするという操作によって単位期間の収入と支出を調和させる事である。

 収入というのは調達した資金の量を言う。支出は、流失した資金の量である。それに対して収益は一定の期間に調達資金および資金を獲得する権利であり。費用は、一定の期間に発揮された資金の働きである。収益と費用の差が利益なのである。この様な利益は、費用対効果を現した指標である。
 それ故に、利益は金融の目安となる。つまり、金融機関にとって一定の利益が保たれている事が貸出の指標となるのである。

 この事によって借金の技術が発達したのである。
 当然、金融制度は、雇用制度にも影響が出るし雇用制度は金融制度にも影響する。この点を抜きに景気の事を議論しても始まらない。
 雇用が不安定になれば必然的に金融も金詰まりを引き起こすのである。

 経営主体、即ち、民間企業というのは、不安定な収入の動きを整流する機関、装置だと思えばいい。
 経営主体が、現金の動きであり収入を単位期間を基礎に費用対効果を測定し、資金の流れを整流する。資金の流れを整流するために時間軸を導入する事で期間損益に還元する行為なのである。そのための指標が利益なのである。
 利益は、意見で、キャッシュフローは事実と言われる由縁である。利益は意見だけれどキャッシュフローでは費用対効果は測定できない。
 費用とは単位期間内における資金の働きを数値化した結果である。

 高度成長時代、日本の企業は、増収増益を続ける事が求められ続けた。
 増収というのは、前年の収益以上の収益を上げる事を意味し、増益というのは、前年の利益を上回る利益を上げ続ける事を意味する。
 しかし、利益というのは、収益と費用の差額に過ぎない。常に収益の伸び率が費用の伸び率を上回り続けという保証はないのである。むしろ、増収増益というのは、経済が拡大局面にある状態に起こる特殊な事象と言っていい。この様な経済は、常に変化、それも成長という一方向の変化を前提としなければ成り立たない。しかし、市場の状況は千差万別であり、産業によっても違うし、政策や制度が変わっても変化する。一律に捉えきれないのである。

 産業の草創期には、いきなり利益が上げられるわけではなく。どちらかというと持ち出しが多い。逆に市場が縮小段階に入ると見た目の収益は悪化する。なぜならば、利益は、収益と費用の均衡の上に成り立っており、費用は、収益に対して先行的で固定的だからである。段階や状況を見ずに結果だけで判断したら、景気は制御する事ができなくなる。

 企業は、賃金労働を通して雇用者の収入を定収化させる。労働者は、企業によって一定の収入を一定期間、定められた時に、受け取る事が可能となるのである。最も重要なのは、企業には、個人の収入を安定化する働きがあるという事である。

 個人的な収入が安定すると長期的な借入が可能となる。即ち、定収入と借金は補完的関係にある。
 この関係が、資本主義経済の根底を支えているのである。
 定収入が借金の技術を向上させたのである。

 借金の技術が確立されると投資が可能となる。
 つまり、長期的な資金の均衡を計画する事が可能となるのである。

 民間投資というのは、資金を生産手段と交換し、生産手段を活用して新たな価値を付加して販売し、支出した資金を回収すると同時に利益を上げる行為を言う。

 投資では、資金の流れと投資した資金をいかに回収するかが重要になる。その根本に費用対効果があり、一定の期間に如何に費用を時系列に沿って如何に按分するかが鍵を握っている。だから事業計画、中でも資金計画が必要となるのである。資金の調達と支出の配分が重要になる。そして、支出の裏付けが収入である。資金の流れは基本的に収支に集約される。

 しかし、資金の性格として支出は確定的なのに対して収入は不確実な要素が多い。要するに収入は当てにならないが支出は待ったなしだという事である。故に、収支を均衡させる為には、如何に収入を安定させられるかにかかっている。そのためには、費用対効果を測定し、支出と収入の均衡を図る必要が出てくるのである。そのために、期間損益主義が確立された。

 資金の区分には、投資用資金と運転資金が二種類がある。投資用資金は、初期費用とも言う。長期資金、固定資金としての性格を持ち。運転資金は、短期資金、変動資金の性格を持つ。

 民間投資は、資金の流れで見ると生産手段に関わる資金を調達し、その資金を返済しつつ、原材料を仕入れて、製品を売り、その売上から費用を差し引き、利益を計上する事なのである。ここで問題なのは、初期に投入する資金と運転に関わる資金をどう区分し、どう帳尻を合わせていくかなのである。

 先ず初期投資にどれくらいの資金が必要となるかが、産業の基礎を性格付ける。初期投資に莫大な資金を必要とする産業は、それだけ、償却に時間がかかり、固定的費用の比率が高くなる。逆に、初期投資がさほどかからない産業は、固定的費用の比率が低くなる。この様に投資にかかる費用が大きい場合、資金の運用が制約を受ける為に、資金が寝かされると表現する。
 この様に償却資産が大きい産業は、償却の仕方によって利益に幅が生じる。償却と借入金の返済が乖離するとキャッシュフローに深刻なダメージを与える事がある。又、税の与える影響も利益とキャッシュフローの関係を理解していないと正確に評価する事はできない。

 損益と収支の関係を制御する為には、単価、単位あたり量、そして、売上個数の関係が重要となる。つまり、価格をどの様に設定するかにかかっている。
 価格の設定は、固定費と変動費の関係から損益分岐点の計算をする事が重要となる。
 気を付けなければならないのは、損益と収支の関係、繋がりを理解しておかないと実際の資金の流れを掌握する事はできない。どちらか一方だけを理解しただけでは限界があるのである。

 公共投資は、収支という側面だけでしか経済的効果を測定できないのである。それが財政の健全化を阻んでいる原因の一つである。

 公共投資では資金の流れと時系列に沿った按分が捉えきれないのである。

 産業の性格を決める要素には、この他に、労働力の問題がある。多くの労働力を必要とする産業も固定費が大きくなる。

 公正な競争が維持されているかどうかは、産業構造を理解しないと判断はつかない。固定費が大きい産業と固定費が小さい産業とでは、同じ基準で費用対効果を測定する事ができないからである。

 初期投資に関わる資金は、負の部分を形成し、損益の基底の部分を形成するのである。負の部分を構成するのは、資本と負債である。
 民間や家計、政府が作りだす負の部分が寄り集まって社会全体の均衡を保っていくのである。

 投資と言っても民間投資と公共投資とでは根本思想も、目的も、性質も違うのである。公共投資は、単なる支出である。
 それは、民間投資が期間損益主義に従っているのに対して、公共投資は現金主義によっている点にある。
 公共投資には付加価値という思想がない。だから支出は、即、消費なのである。つまり、反対給付を前提としていない、対価が考えられないのである。だから、相互作用が生じないのであり、貨幣の環流を促さないのである。つまり、一方通行に流すだけになってしまう。費用対効果が測定できないのである。
 公共投資で一番問題なのは、費用対効果が測定できないという事である。又は、最初から費用対効果を損呈する事を想定していない事である。故に、公共投資には費用という概念が欠如している。公共投資では費用ではなく、単なる支出なのである。公共支出であって費用ではない。費用という概念は支出とは違う。要するに、時間軸即ち単位期間による分類、仕分けという操作がされているのである。公共事業においては、効果という概念もないのである。最も、軍事や治安の効果をどうやって、どの様な基準で測るべきか。それは容易ではない。容易ではないが、経済的な費用対効果を測定できなければ、国防費は、歯止めを失い無制限に増加するのである。
 しかし、税で賄う部分と反対給付によって賄う部分があって然るべきである。
 公共事業には、元々、対価、反対給付という発想がない。対価、反対給付という思想があってはならないと決めつけているようである。だから、財政は歯止めを失って暴走するのである。

 費用や借金は、市場経済の骨格をなす概念であり、費用や借金を排除したら現在の市場経済は成り立たなくなる。

 健全な競争環境を保ちつつ。如何に、安定した国民所得を維持するかが、市場経済の最終的な課題なのである。



       

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