11.なぜ、結婚しなくなったのか


なぜ、結婚するのか。
なぜ結婚をするのか、それは、人生観に基づいている。だとしたら、結婚しないのも人生観に基づいているのである。
なぜ、結婚するのか。それは人生いかに生きるべきかの問題でもある。
そして、結婚をしないのも如何に人生を生きるのかの問題なのである。

結婚は、経済の問題でもある。
愛情は大切である。
しかし、愛情だけで結婚は成り立っているわけではない。
結婚は経済の問題である。
経済の問題だから、愛情の問題でもある。
愛情がなければ、経済は成り立たないからである。

経済は、元々金だけの問題ではない。
しかし、経済は金の問題でもある。
いくら愛があっても生活が成り立たなければ結婚は成り立たない。
愛情を成就し、維持し続ける為には、経済が肝心なのである。
もちろん、結婚は根本に愛がなければ成り立たない。
この辺をしっかりと理解しておかなければ、結婚は成立しないのである。

自分の家庭を築くために結婚をするのである。
それが、結婚の動機である。
一人では生きていけないと決心する事が結婚の動機となるのである。

一人でも生きていると思っているかぎり結婚は成り立たない。
なぜ、結婚しないのか、それは家族を持たなければならないという必然性を感じないからである。
だから、生活の単位が先ず問題となる。

結婚を経済的に成り立たせるためには、生計をどうするかが重要となる。
生計とは、生活の基本単位を意味する。
大切なのは、生計をどこにおくかである。

男と女が結婚をして、生計を一つにしなければならない必然性があるのかの問題である。
結婚問題を愛情の問題だとしているが、経済的に見れば、生計の問題である。
結婚しなくても愛情生活を営む事は可能なのである。

今日の社会は、生計の基本を個人に置いている。
故に、結婚を考える時、なぜ、生計を一つにしなければならないのか。
その問題が明らかにされなれば結婚問題は理解されない。

結婚しない人の多くは、生計を一つにしなければならないという必然性を感じないのである。
生計を一つに統一する必要性は、子育ての問題がある。
女性は、出産育児期間、出産育児に専念しなければならないという事情がある。
逆に言えば、出産育児に手を取られなければ生計を一つにしなければならないという必然性はない。

保育園や育児を整えれば、結婚を促せるかというと逆効果である。

結婚問題は、経済的理由を除けば、愛情問題でしかないのである。
愛情問題というのは、極めて私的で、観念的な事である。
法や制度規制できる事ではない。

まず、生計をどう考えるべきかの問題である。
今日の経済は、生計は所得によって賄われる。
所得は、貨幣経済下では、労働か私的所有権を根拠にして得られる。

現代の経済は、資本主義も、共産主義も、社会主義も労働を基礎としている。
しかも、根本は、賃金労働を基本としている。

所得は、労働と私的所有権から発生する。
所得とは収入である。

つまり、現代社会は、働いて得られる現金収入を元として生活をしていく事を前提として成り立っている。
そして、その現金収入を定収化する事で、経済活動を安定化する事が根本思想である。
故に、賃金労働、即ち、報酬を予め定められた基準に従って計算し、通貨で支給する事を原則としているのである。
ただ、あくまでも一つの方向性として賃金化があるので、現在全ての労働者が賃金労働に統一されているわけではない。

現金収入を得られる期間というのは、限定されている。

人の一生は、養育期、前期勤労期(独身期)、後期(勤労期)、老齢期におおむね大別され。
一つの期は、おおよそ、二十年とすると勤労期間は、おおよそ人生の半分の期間に相当する。つまり、人生の半分は、無収入期間となる。
半分の無収入期間をいかにして現金を調達するかが、経済の根本問題なのである。

働いて現金収入が得られる事が前提となる。
働けなくなり現金収入が得られなくなった者にたいする対策がなければ成立しないのである。働く事が出来なくなった人の収入を保証できなければ棄民政策となる。

生活の根本は、経済単位によって決まる。
現在の経済の最小単位は個人である。これは、思想である。個人主義という思想に基づいているのである。
経済単位に対する思想には、個人以外に、何らかの共同体を単位とする場合がある。
例えば、家族、大家族、何らかの運命共同体等である。運命共同体には、修道院、キブツといった宗教的な共同体等がある。

経済単位というのは思想に基づいている。
経済単位を定めるのは、元来思想の働きなのである。
しかし、本来思想であるべき経済単位は実際には、制度や仕組みによって知らないうちに変えられたりする。
そして、それが一人ひとりの人生や運命を大きく変えてしまう事がある。

例えば、少子高齢か問題である。
少子高齢化が深刻な話題となっている。
それ以上に深刻なのは、未婚の男女が急激に増えている事である。
そして、それが少子高齢化に拍車を掛けている。
少子高齢化と独身者の増加は、卵と鶏どちらが先かの話に似ている。
しかし、いずれにしても少子高齢化と独身者の関係は相互に影響を及ぼし合っている事は確かだ。

独身者が男女ともに増え、結婚しない層が年々増えているのも原因の一つである。

なぜ、今の人は、結婚をしないのか。
一因に、経済単位が考えられる。

経済単位には、財政、経営主体、家計、そして、個人などがある。

経済を構成する局面、局面で経済単位は違ってくる。
社会構造の基礎となる部分を構成する経済単位は国家、財政である。
生産の局面を形成する単位は、経営主体である。
消費の局面を形成する単位は、かつては、家族であったが今は個人に変わりつつある。

消費の場における経済の最小単位は、家族や世帯とする場合と個人とする場合がある。

今の経済単位は個人である。
個人を最小の経済単位とする以前は、家族だった。
家族も個人を単位とする以前は核家族を単位とし、それ以前は、大家族だった。
今は個人である。

家族というのは血縁関係を土台とした共同体である。
家族は、物を主体とした時代では、生産拠点だった。そして、現金収入は補助的手段だったのである。
それが貨幣経済と市場経済が浸透し、物から金へと経済の主役が移っていくのに従って大家族から、核家族、それから大家族へと変遷してきたのである。
そして、現在の消費の最小単位は個人である。

個人が経済の最小単位となると何処が違ってくるのか。

物を中心としていた大家族では、自給自足的体制を備え、家長を中心とした階層階級が存在した。そして、分配は、組織的分配が中心だった。
そして、長子相続を旨とし、相続人以外は、本家を出て別に新しい家族を構える必要があったのである。

個人を単位とした社会では、家長を中心とした階層は成立しない。
一人ひとりが経済的に独立している事が前提となる。それが個人主義の発展を促し、民主主義の下地となってきた。
同時に家族制度の崩壊も促したのである。

これが突き詰められると家族という共同体そのものを否定するようになる。
別に、それは思想的な家族主義を否定しているのではない。
単に実体的に家族を形成しなくなるという事を意味している。
結婚しなくなるのである。

先ず家族を形成する経済的なメリットがなくなる。
男女ともに共同体を形成する事のメリットがなくなってしまうのである。

それが少子高齢化問題の底辺に流れている。
だから、単に女性の社会進出とか、育児問題と短絡的に捉えられない。
大家族制度では女性は、家族に従属する存在だった。
その様な束縛は、経済的に女性が自立できない社会の仕組みがあった事に依る。
女性は社会的弱者だったのである。それが前提である。

男も家に留まるかぎり、古い因習や仕来りに束縛され続けなければならない。
特に総領以外の人間にとって家には自分の居場所がなくなるのである。

結婚すると言う事は基本的に家計を一つにするという事を意味する。

そのために、結婚すると多くのサラリーマンは、小遣い制となる。
言い換えると奥さんから小遣いという所得をもらう身になるのである。
大体月の小遣いは二万から三万円が相場だそうだ。

こうなると月額の収入は激減する。
独身時代、自宅から通勤しているとしたら、給料は全て自分の自由になる。
それが、結婚すると十分の一近くまで激減するのである。

これでは結婚したいという意欲がわかない。
結婚しなくとも当座は、気楽の暮らしを続けて方が良いだろう。
既婚者の結婚生活を見ても必ずしもバラ色というわけではない。
女性も結婚しなければ生活が成り立たないというわけではない。
当面の生活は困らない。
経済的には自立しているのである。

但し今はという但し書きがつくけれど。
これから先の事を考えると気楽と言うばかりは言えない。
そこに焦りはあるのかもしれないが、この温々とした環境からなかなか抜けきらないうちに時間ばかりが立っていってしまうというのが本音なのだろう。

経済の根本は幸せになる事だと思う。
現状に満足しているかぎり、そこそこ幸せであるならば次へと足を踏み出していく事ができないだろう。
歳を取るというのは残酷な事である。
それが身近に感じられてきた時は、大概、手遅れなのです。

経済は、長い目で見なければならない。
しかし、その時その時は、些細な出来事の積み重ねなのです。

現代人は、お金でしか人の一生を測る術を知らないのだ。
親孝行だとか、年寄りをいたわるとか、思いやりとか、愛情なんて一文にもならない。
だから、親孝行なんて何の価値もない事になる。それに変わって、財産とか、所得とか、保険金などが価値を持つ。
独居老人だの、孤独だの、高齢者倒産だの、年寄り相手の詐欺みたいな事が起こる。

貨幣経済が進化すると人は他者に対して冷淡になる。
言い換えると計算高くなるのである。
その計算高さが愛情の問題を上回り、愛情問題が結婚生活から切り離されてしまうのである。

現代人は、愛情という観点から結婚という事を見なくなりつつある。
愛情があっても結婚しないカップルもあれば、愛情がなくても結婚を続ける夫婦もある。
欲望や快楽は金で満たされる。
いずれにしてもその根底にあるのは、生計の問題なのである。
そうなると結婚の本質は失われてしまう。

結婚は愛し合う事が前提で本来成り立つものであり。
人間は、結婚本来のあの方を取り戻さないかぎり、愛情は虚しい事になるのである。
人生は生計なのか、愛情なのか。
豊かさは金銭で測られるものなのか、愛情で測られるものなのか。
実り多い人生を送るために、我々は、自分の意志で選択する必要があるのである。

幸せは金で買えるのであろうか。
何に幸せを感じるのか。
結婚の本質問題は、経済的問題と心の問題を取り違えている事に問題があるのである。

金で欲望や快楽を満たす事はできる。
しかし、ささやかな快楽や欲望のために家族関係を崩壊させるようなリスクを取るのか。
欲望には限りがない。人生には限りがある。
人は自制しなければならない。
それが道徳である。

道徳があるから、人は人として幸せになれるのである。
道徳をなくした者には、やさしさも思いやりも微塵もない。
残忍で冷酷である。
現代経済は利己主義を元としている。しかしそれこそが経済をおかしくしている元凶なのである。
反道徳的である事を奨励し、それが自由主義だと標榜する者がいるが、それは自由の真実を知らぬ者である。
自由は、自制心に基づく。自分の規律を持たぬ者は、自由にはなれない。
金は、人の自立心を危うくする。
金の依って得られる欲望に我を忘れたら、それは金に支配されるのと同じである。
幸せは自立した者でしか実現できない。

結婚は愛し合い、子供を産んで幸せな家庭を築く事にある。
そのために、結婚という制度が生まれたのである。
そして、家族が幸せに暮らすために、お金を儲けるのである。
金儲けのために家庭が崩壊したりしたらそれは本末転倒である。

なぜ結婚しないのか。
それは一人でも生きていけると思っているからである。
愛し合い、家族を持とうという必然性を感じないのである。
単に愛し合うだけならば、生計を一つにする必要はない。
なぜ、生計を一つにしてまで結婚をしなければならないのか。
それは、お金以外の強い動機があるからである。
生まれた時も場所も違う。育ってきた環境も価値観も違う者同士が生計を伴にする。
病める時も貧しい時も伴に助け合い生きていこうと決心するから結婚するのである。
だから、金の問題ではない。されど金の問題なのである。







       

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