23、老後経済について



今現在五十代の人間には、大きな錯覚がある。
彼等は、自分達の父や母と同じように自分達も晩年を迎えられると思い込んでいる事でいるように見える。しかし、それは幻想に過ぎない。
世の中の価値観も、環境も変わってしまったのである。今までのような常識が通用しなくなったのである。
しかも、その世の中の価値や環境を変えてしまったのは他ならない自分達なのである。
自分達で世の中の価値観を変えてしまっていながら今の若い者はと、今更、嘆いてもなんにもならない。
自分達が子供達をその様に育ててしまったのである。今更、後悔してもはじまらない。現実を現実として受け入れる以外にない。
子供達に親孝行とか、親の面倒を見ろと言ったってそれ以前に自分達が彼等に自分達の事はいいから自分の好きなように生きろと言い続けたのである。
彼等は親に躾けられたとおりに親や年寄りを見捨てるだろう。
働けなくなった者は用無しなのである。
彼等を責めたところではじまらない。
自業自得なのである。

NHKのドキュメンタリー番組で高齢倒産した人が、なぜ、こんな事になったのか解らないと呟いていた。

なぜ。

今、自分達の上の世代、つまり、団塊の世代から上の世代の老後に自分達の老後を重ね合わせ、老後について楽観的に考えている。
しかし、それは余りにも短絡的すぎる錯覚なのである。
自分達がその錯覚に気がついた時は、ほぼ手遅れになっている事が想像される。
笑い事では済まされない。現実なのである。
その現実を直視しないかぎり、自分達の未来は悲劇的な事になってしまう。
目を覚まさなければ破滅するだけである。

少子高齢化と言ってもまだまだ実感がない。しかし、少子高齢化は確実に進んでいる。
それが前提である。

その上で、年金は、満額どころか貰えるかどうかも解らない。退職金も然りである。大体、非正規採用の人には、退職金が支給される保証すらない。医療費負担は確実に上がるし、財政破綻をしたら介護制度だって保証されていない。税金も確実に上がると現代とは比較にならないほど負担が増加するのである。
団塊の世代のような悠々自適の老後など望みようがない。それを肌で感じるのは、自分が働けなくなった後の事になるだろう。

この様な社会を前提としてこれからの老後経済は考えなければならない。

これから定年を迎える世代と比べて団塊の世代と言えば、家のローンを支払い終わり、高額の退職金をもらい、充実した医療保険と介護制度に守られ、年金を満額もらえる。まってく定年退職後の前提条件か違うのである。

では団塊の世代以前の世代どうかというと、大家族制度で家族の所得は合算されていた。子供は家に仕送りをしていたのである。つまり、大家族が経済単位だったと言える。
老後の面倒は、一族全体がみる。そこには嫁と姑の悲劇も隠されていた。しかし、それは過去の話である。
これから定年を迎えようとする世代は、子供の世話などあてに出来ない。せいぜい言って施設に入れられるのが関の山である。

つまり、世代によって老後の生活というのはまったく違う世界になるのである。
自分達が勝手に思い描いている世界は、今の恵まれた世代の老後を土台にしているのである。
その点を良く理解しておく必要がある。

気を付けなければならないのは、現在生起している高齢者問題というのは、極めて近代的な問題だと言う事である。過去からの延長線上に考えていたら重大な間違いを犯す事になる。
それが今現在五十代の人間の錯覚だと私は言うのである。これまでの事は参考にすらならないのである。

人口は、経済を考える上で、決定的な要素の一つである。
人口を絡めて経済を考える場合、生産的側面と消費的側面の両面から考える必要がある。
生産に関与できる人口と消費に関与する人口は違うのである。
この違いが経済に与える影響は大きい。
働ける年齢というのは、意外と狭いのである。とくに、サラリーマン時代となった現在、多くの人間が二十歳を過ぎてから働き出し、六十で定年を迎える。八十を一つの基準としてみれば、丁度半分でしかない。しかし、現代平均年齢は、限りなく上がっている上、高齢者人口が増加する傾向にあるから、消費だけを専らにする世代が年々増加し続ける事になるのである。

経済を考える上では、働けるか働けないかは、決定的な要素である。
もっと有り体に言えば、働いてお金を稼げなくなったら人として無価値なのである。

実力社会と言うが、人は一定の年齢を過ぎれば年々力が衰えていくのである。
それを忘れたら実力主義ほど冷酷な思想はない。

貨幣経済は、定量化できる事象だけに価値を見いだす。言い換えると数量化できない事象に価値は見いだせない。例えば、道徳だの、人格だの、神だの、愛情である。

生産的世代が人口に占める割合は、経済の活力を見る上で、重要な要因となる。
働ける世代の比率をどれくらい多くするかは、経済を考える上で鍵を握っているのである。しかし、今日の経済では、勤労世代をどう考えるかは二義的な問題でしかない。せいぜい言って少子高齢化問題の一環でしかない。

しかし、勤労世代、翻って言えば、働くと言う事、労働をどの様に定義するのかが重大な鍵を握っているのである。働く事は、経済の本質に関わる問題なのである。
労働力の源泉は、経済の根底をなす問題である。それは所得をどの様に考えるかの問題でもある。
例えば、女性の問題である。女性の労働をどう考えるかである。従来、女性の労働力の問題は、女性の社会進出の問題と同義語のように使われてきたが、しかし、その背後には、もう一つの問題が隠されている。つまり、従来、女性の労働として賃金労働として考えられていなかった部分である。
従来の女性の仕事をどう評価するか、一つの考え方であるが、亭主がもらう月の小遣いを除いた部分が家内労働に支払われている対価だという考え方も出来る。又、考えようによっては、亭主の稼ぎと同じだけの価値があると考える事も出来る。つまり、一つの所帯を一つの経済単位と捉えるとそういう考え方も可能なのである。

なぜならば、かつては、経済活動の全てを所得で賄っていたわけではないのである。
経済のあり方が、労働のあり方や家族のあり方を規制していたのである。
だから、経済のあり方を抜きにして労働や家族のあり方を語る事は出来ない。

大家族という血縁関係を核とした共同体を基本単位としていた社会では、貨幣による所得だけが経済活動の総てではなく。ある部分は自給自足を建前として足らない部分を金銭収入で補ってきたのである。
家中心で働きに出ても家に仕送りをして、親父は親父で出稼ぎをしてきたのである。
そういう社会では、老人や女性、子供等は、家族が面倒を見てきた。
また、家族の中にも階級のような枠組みがあり、組織化されていた。
近代社会は、その枠組みから脱却する過程で成立した部分を多分に含んでいるのである。

そして、近代化する過程でそれまで家族が担ってきた部分、老人の介護や寡婦の面倒、子供の世話などといった事が国家や社会の仕事に置き換わってきたのである。
この点を無視して、老後経済というのは考えられない。

昔は、昔で、長生きなんて出来ないような環境だったのだから、昔は良かったなんて言う気はサラサラないが。世の中の変遷に遭わせて生き方も、考え方も変えなければ生きていけないのも現実なのである。

これからの時代、誰も助けてくれないし、あてに出来ない。女房子供だって老いて力をなくせば冷たいものである。
手に職があれば別だが、何もなければ、行き先は、介護施設か、孤独死なのである。
選ぶ道はない。今更手遅れである。
年寄りしか住んでいない、町や村が増えている。だから、何も施設に限った事ではないのである。老々介護ではないが、年寄りは年寄りで助け合って生きていくしかない。

家族という経済単位が崩壊し、個としての経済単位に変遷してきたのである。

個としての家計が確立される以前の社会では、賃金労働、特に月給という定収を前提とした社会ではなく。自営業、職人、自作農と言った生産者が基本となる社会であった。この様な社会では定年という事が存在しない。人は働ける内は働いたのである。その代わり、年金も保険もなかったのである。

家族関係が崩壊する以前は、、老後倒産とか、独居老人等は、経済と言うよりも道徳の問題だったのである。

大組織を基盤とし、賃金による定収を基礎とした社会を前提としているのは、資本主義だけでなく、社会主義も共産主義も同じである。ある意味で、資本主義と社会主義、共産主義は、根っ子は同じなのである。つまり、産業革命における大量生産、大量消費型社会、個人主義社会である。

現在の経済では、規模の経済性が働いている。
規模の経済で重要な事は、集中と分散が重要な鍵を握っている。
固定費、変動費と一口に言うが、現在の損益分岐分析で言う固定費、変動費とは、全体から見て固定的、変動的というので、これが単位当たりに変換すると逆転する。
ただ、ここでは、通例に従って全体的に見て一定な費用を固定費とし、変動的な費用を変動費とする。

現代の経済現象を理解するためには、全体的な視点と部分的な視点が必要である。
現代の産業は、組織的生産であるか、大規模、かつ、全体的であるか点が、決定的な意味をしているという事である。
現代の市場では、個としての仕事がなかなか成立しにくい環境にある。それが個人として自立した事業が衰退した原因となっている。
そして、それがサービス業や流通業もその傾向が現れている。

現代の産業は、大規模な設備を前提としているものが多い。その為に多額な設備投資を必要としている。多額の初期投資のために、資本がなければ成り立たなくなっている。資本を特定な個人の出資ではなく、不特定多数による小口の出資を前提として成り立っているのが今日の株式会社である。

初期投資に多額の資金を必要とする為に、初期投資の資金を回収する事が先決になる。その為には、一定量の生産物を販売する事が前提となる。また、収益が固定費を超えると固定費の負担から解放され、追加費用だけが基本的な費用となるため急激に価格が低下する傾向を持つ。

この様な産業は必然的に量販へと傾く。初期投資が大きければ大きいほど生産効率は上がる。又、大量に販売すれば販売するほど単位当たりの固定費は低下する。
それが大量生産、大量販売の伏線になるのである。

この損益の関係を理解していないと現在の経済事象を理解する事は出来ない。
重要なのは、損益分岐点を何処に何によって設定するかである。損益分岐点の問題は、単に利益という点だけでなく、資金という観点からも考察しておく必要がある。多額の利益が上がっているからと言って資金繰りが楽になっているとは限らない。むしろ、深刻な事態に陥っている場合もあるのである。
あくまでも、初期投資の段階では、収益は見込みなのである。
収益は不確実であるが、固定的費用は、確実に発生する。故に、利益を想定していないと投資は出来ないのである。ただ気を付けなければならないのは、固定的費用と言っても即支出だとは限らない点である。

価格は両刃の剣である事を忘れてはならない。売り買いは表裏なのである。売りは収益であると同時に買いは、費用となるのである。収益は所得に還元されると同時に費用にも反映されるのである。費用を削減する事は、全体から見ると所得を減らす事になる。
価格だけの競争、低価格競争は、生産者だけでなく消費者、双方の首を絞める結果を招く怖れがある。

大量生産型社会では、個人事業は太刀打ちできなくなる。個人事業は、初期投資はさほどかからない代わりに、規模の経済は望めない。結局、固定費は、不変的な費用となる。そうなると大量生産、大量販売に基づく費用の低減には価格において太刀打ちできなくなる。

現代の市場では、個としての仕事がなかなか成立しにくい環境にある。それが個人として自立した事業が衰退した原因となっている。
そして、それがサービス業や流通業もその傾向が現れている。

個人として経済的に自立する事が難しい為に、大組織に寄生する事で自分の生活を成り立たせなければならなくなる。
そこから、今日の生き方が制約されるのである。それが月給取りであり、女性の社会進出であり、個人主義的な生き方である。その結果、地域社会に根ざした家庭、地域社会と言ったコミュニティの崩壊が始まり、企業中心の社会形態へと変遷していくのである。

そして定年退職や年金、更に、高齢者問題の伏線となる。
家庭や地域社会には定年退職はなかったのである。だから、高齢者問題は経済の問題と言うより、道徳、心の問題でもあった。

市場は化外の世界にあった。化外は、非道徳的世界。道徳はコミュニティ内部、即ち、家族や地域社会と言ったコミュニティ内部にあったのである。

現代は市場の論理にあらゆる世界が支配され、道徳は失われようとしている。残されているのは金銭取引の世界だけだ。

仕事は、常に、地域社会に密着した事であったのである。ところが、家庭や地域社会と言ったコミュニティが崩壊するとそれに伴って、高齢者問題は、深刻の度合いを増してきている。
なにが地域社会や家庭と言ったコミュニティの果たしてきた役割を担っていくのか。それは企業である。

地域社会のコミュニティが崩壊する過程で成立したのが企業、会社である。
故に、会社はコミュニティとして機能できるかどうかそれが重要となる。会社が市場と化せば、モラルは永遠に失われるのである。

そして、今日の企業は、月給取りによって創られている。
だから月給取りこそが現代社会を象徴しているのである。

月給取りというのは、極めて近代的で特殊な職種である。
しかも、自分達が近代的で特殊だという自覚に乏しい。
まるで、神代の時代から月給取りは居たように錯覚している。
よく侍に例えられるが、侍には定年退職と言う事そのものが存在しない。彼等は、先祖代々君主に使えているのである。比較にはならない。

月給取りというのは、特殊だというのは、彼等は、何らかの特殊な技術とか、知識を持ち合わせているわけではないという人である。退職間際の人間も、結局、学校を卒業したばかりの人間と技能的には大差ない。と言うより劣っていると見なされてしまう事さえある。
だから、定年退職後に潰しがきかない。
腕に技術があるとか、特殊な才能があるというのならば、会社という組織を離れて個人でも事業をやっていく事が出来るが、月給取りは会社という組織を離れたらただの人でしかない。それまで培ってきた地位も、権威も、力も総て失うのである。それが月給取りの宿命である。

月給取りの多くは、学歴も低い職人を馬鹿にしてきたが、定年退職を迎えると定年のない職人や商売人の方が力を発揮する。
月給取りというのは組織を離れてしまえば、何の取り柄もなく。特殊な技術や技能もあるわけではない。役に立たないのである。
脱サラなんて気取ってみても年季のいる仕事は、心を入れ替えないかぎり出来ないのである。腕に技術を覚えさせる時期というのは意外と短く、受験戦争に憂き身を窶している内にチャンスを逃しているのである。
結局、気がついて見たら月給取りにしかなれない状態に追い込まれている。定年退職を迎えたら再就職だってままならない。見栄や外聞も邪魔をする。

定年退職をしたら妻にも見放され離婚するケースさえ増えている。
これからは年金すら貰えるかどうかも解らない。高齢倒産、独居老人、孤独死なんて事にもなりかねないのである。
挙げ句に、オレオレ詐欺のような高齢者を狙った犯罪も増えている。
大切なのは生活力なのである。

月給取りと言うのは有り体に言えばサラリーマンである。

現代人には、サラリーマン社会は極めて特殊な社会なのだという自覚がない。
サラリーマンとは、基本的に月給取りであり、サラリーマン社会とは、月給とのを基礎とした個人主義的社会だと言う事である。
現代社会は、突き詰めていくと最後は一人で生きていくしかなくなるのである。
月給取りという体制が確立されたのは、戦後だと言える。戦後七十年を過ぎた現在、六十になる我々の世代がある意味で、最初のサラリーマン世代と言えるかもしれない。
だから我々が経験するのは歴史上初めての事だらけなのである。
ところが我々の多くは、サラリーマンというのは神代の時代からいるような錯覚に囚われている。

女性の社会進出がよく話題になるが、今の議論は、女性のサラリーマン化を意味しているという事を見落としてはならない。それが本当に女性の地位向上に結びつくか、私は疑問だ。
男女差別の問題はもっともっと根深い気がする。男女差別をなくすためには、男と女の存在にまでさかのぼる必要がある気がする。
女性は社会進出を望むが、母親や家事には定年という事はない。だから、定年退職後に亭主が時間をもてあましているのに、女房族というのは、自活して生きていけるのである。その点を忘れてはならない。

男女差別の問題を言うなら、それまで無償と見せれていた女性の従来の仕事を再評価することが先決なのではないだろうか。

単純に女性がこれまでになってきた仕事を否定したり、卑下するのはいかがな物なのだろうか。それらの仕事が無償だったという点だけである。仕事として価値があるのだから、結局は有償とならざるを得ない。しかし、有償にするととてもとてもそれまでの代償を得るのは大変な事である。

私は、男女間の仕事の格差をなくす事に異論はない。しかし、従来の女性の仕事もそれなりに評価しなければ片手落ちになると言いたいのである。

我々は何のために働いているのか、その点を見落としていやしないだろうか。

現代人は、コミュニティを捨ててきたのである。だから、コミュニティを核とした経済は成り立たなくなってしまったのである。
コミュニティがあれば、自分達の家を自分達で作り、助け合って生きていく事もかのうであるが・・・。今は家族さえあてには出来ない。それが現実なのである。

商店主のような個人事業者や自営業者は、潰しがきく。定年退職もない。しかし、現代っ子の多くは、不安定さを嫌って個人事業者、自営業者にはなりたがらない。職人も同じである。厳しい修行が鬱陶しいのである。
月給取りがなぜ特殊なのかという場、月給取りの生活パターンが学校に酷似しているからである。
自分一人で総ての責任を背負う必要がない。毎日毎日、決まり切った仕事をして一定の期間がたったら、自動的に昇級していく。彼等にとって一番良いのは、お役所勤めなのかもしれない。
要するにリスクを取りたくないのである。その前提は、変わらないという事である。世の中の出来事は不変的だと考えている。だから自分も変わらないし、変わる必要がない。
その延長線上に結婚問題もある。結婚は人生にとって一大変事である。だから結婚しないのである。ただそれだけである。
しかし、世の中は急速に変化している。自分が望むと望まないとに関わらず、世の中は変化し続けているのである。急速に変化をしている世の中と変わらないと思い込んでいる人々、そこに危機の芽は隠されている。

もし、抜本的な解決を図るのならば、コミュニティの再構築の問題までさかのぼる必要がある。つまり、企業中心の考え方では、抜本的な問題の解決には結びつかないのである。

現代人には、一人になると言う事の恐怖心がない。
今のように法や制度が確立され、一人でいても差し迫った危険性を感じない。一人になると言う事に対して何の怖れもいだいていないのである。
真夜中でも女性一人で外を出歩く事が可能な社会では、一人で生きていく事に何の不安もいだかない。しかし、現代社会でも、一度、治安が乱れ、又、騒乱状態になれば、一人で行く事は困難な状態にすぐに陥る。
元気な時は、心理的な意味でも一人で生きていく事に何の不安もいだかない。
それが会社勤めをしていたら尚更である。

国家以外のコミュニティ、家族さえも否定してしまった現代社会では、一人で生きていく以外に選択肢はなくなりつつあるのである。

現代社会では、全てを階級闘争の枠組みの中に押し込め。
対立、闘争、競争を前提として社会を築き上げている。
そこには共鳴共感はない。
会社の奴隷になるな、会社は搾取する手段だと煽り。運動家は組織の拡大に努めてきた。
愛社精神とか、愛国心なんて右翼的だと全否定し、働く者だけしか団結できないと決めつけた。
終身雇用を真っ向から否定してしまったのである。

今は、愛社精神にも定年がある。

しかし、考えてみよう。会社は二十四時間社員を見守っている。
女房子供より、一緒にいる時間は長いのである。
無断で会社を休めば、すぐに連絡をして安否を確認してくれ。
病気をすれば保険の手配をしてくれるし、検査もしてくれる。
事故をすれば真っ先に駆けつけてくれるのも会社である。
しかも生活の糧まで用意してくれる。
それを敵だと決めつけるのは行き過ぎである。敵なのではなく。敵にしてしまっているだけである。
人生の想い出は職場にあり、自己実現は労働の場にこそある。

今のままでは、サラリーマンは、定年退職後は、全てをリセットされてしまう。家族崩壊、独居老人、孤独死、老後倒産、引き籠もりと年老いた企業戦士の疎外孤独は深まっていく事になる。それがサラリーマンの人生の行き着く先なのである。
しかし、今ならまだ自分達の手で変えようと思えば変えられるのである。
大事なのは仕事仲間である。絆である。

過去の呪縛から解放されなければ、道は拓けないのである。
会社の仲間には、使用人も使用者もないのである。仕事仲間なのである。

職場がそれ程人生に深く関わっているのだとしたら、最後まで一緒に生きていける様なホームに変えていくべきなのである。

働く喜びを忘れ、仲間達を斬り捨ててきた結果一人になるのである。それは己が招いた結果である。
経営者や政治家が歳をとっても引退しないのは、一人になる事の怖さを知っているからである。

それは、血縁関係を土台とした家から、信頼関係、契約関係を土台とした家に変えていく事なのである。

働いている仲間達が幸せになるために、会社を民主化すべきなのである。
国家の主権が国民にあるように、会社の主権は働く者達にあるのである。

先日、突然の大雪で閉じ込められ。停電で、オール電化だったため暖もとれず、独居生活をしていた九十八歳の老女が仏壇の前で孤独死したという。痛ましい事である。しかし、他人事ではない。明日は我が身である。

死んだ父が幸不幸は晩年で決まると言っていたが、これからはそれが実感となる時代が来るのである。
つまり、働けなくなり、金を儲けられなくなった時こそ幸不幸が明らかになる。しかし、その時は手遅れなのである。
要は仲間のために働くのではなく、金のために働いてきたのだから、信頼できる仲間がいなくなったとしても仕方がない。

現在、仲間と言う言葉すら死語になりつつある。しかし、これからは、真の仲間がいるかいないかが人生における晩年の幸不幸を決めるのである。
最後は助け合って生きる事の出来る。心を許しあった家族以上の絆で結ばれた仲間を作れるかどうかが幸、不幸を分けてしまうのであろう。

そうなると企業のあり方という事を抜本的に見直す必要が生じる。

自分達の手でホームをつくれるか否かの問題だと思う。
最後まで助け合って生きていける仲間作りそれが人生の鍵を握っているのである。

金儲けが目的となり、生きる事が手段になってしまったから、金を儲ける事が出来なくなったら、生きていく事が出来なくなってしまったのである。

金にモラルがあるわけではない。モラルは金を使う側の人間にこそ求められるべきなのである。
金が悪いと言った所で意味がない。
もう一度、金を使う側の人間がモラルを取り戻さなければならない。

現代人は、ただ生きているという事実以外何一つ認めようとはしない。生きるという事実以外を前提としていない医療であり、教育であり、職場なのである。
人として、男として、女として、親として、子としての生き様なんて何処にも求められていない。
ただ生きる事、生きているという事実、生かす事、そして、生きる為に金を稼ぐ事だけが経済なのである。それ以上でもそれ以下でもない存在が現代人にとって人間なのである。

親や亭主なんて愛すべき対象でも何でもない。単なる生活の手段に過ぎない。
親子の情愛なんて飼い犬に注ぐ愛情よりも劣っているくらいである。
だから、施設が大切なのであり、収入が一番なのである。無償の労働なんて何の価値もない。
ただ生きているという事実、生かしているという現実だけなのである。

老いて何が一番辛いのか。それは、自分が世の中から必要でなくなったと思わされる事である。誰からも振り向いてももらえなくなり、世間から無視される存在になる事である。
そうならないためには、働けるうちは働いてお金を儲け。そして、世の為人の為に働けると言う事を証明し続ける事である。ただ生きているだの人生なんて屈辱でしかない。苦痛でしかない。
人は人なのである。

人は金儲けを目的にして生きているのではない。生きる為に金儲けをするのである。だから、生き生きと生きなければ生き甲斐がない。

ただ金を儲ける事しか知らない金持ちは淫らなだけである。
女性が地位や金儲けのためだけに社会進出をするというのなら無意味である。母親として生きる事の方がどれだけ価値があるか。
私は、専業主婦になれと言っているのではない。働く事の意義、生きる事の意義を明確にしろといっているのである。

生きるとは何か。老いるとは何か。考える事さえ愚かである。
それが現代人である。

生きるとは何か。老いるとは何か。その根本的問いかけを忘れたのが現代社会の根源的な病巣なのである。

若く、やり直しが出来る年齢では、自分一人で生きていける様な錯覚がある。
働けなくなったり、働きたくとも働く場所がなくなった時、人は自分一人では生きていけない事を思い知らされる。
しかし、その時は、手遅れである場合が多い。

人は、結局一人では生きていけないのである。
それを自覚しなければ、人間らしい生き方など模索できない。

自分の働きだけで生きていける時代というのは意外と短いのである。
多くの時代は、他人の世話になる事で生きていけるのである。
人の助けがあって生きていける。

その事を自覚すれば、なぜ、社会が必要なのかも実感できるはずである。
老後経済というのは人間は一人では生きていけないのだという事を前提として成り立っている。

国だって、家族でさえも護ってくれないとなったら、
自分達の力で自分を護っていくしかないのである。

現在、仲間と言う言葉も死語になりつつあるが、これからは、本当に困った時に助けてくれる仲間がどれくらいいるかが、充実した晩年をおくれるかどうか決める。
最後は助け合って生きる事の出来る。心を許しあった家族以上の絆で結ばれた仲間を作れるかどうかが幸、不幸を分けてしまうのであろう。

死んだ父が幸不幸は晩年で決まると言っていたが、これからはそれが実感となる時代が来るのである。





       

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