25、密   度



我々は、国力を問題とする時、国土、国の広さに目が行きがちである。しかし、国力を決めるのは、国の広さだけとは限らない。人口や資源、地理的な要件等、要素が国力を国力を左右する条件は、国の広さ以外に沢山ある。むしろ、人間が生きる事の出来る地域というのは意外と限られているのである。
国力に対しては、人口は、重要な要素である。人口を問題とする時も、我々は、都市化が進んだ現代を基準として考えがちだが、都市化というのは、かなり人口という観点からするとかなり歪んだ状態である。つまり、人口を考える場合、量や密度、分散や偏りと言う事を十分に考慮に入れる必要がある。

地図帳で見るとアメリカやロシア、中国と比べて、日本は、本当に小さな島国に過ぎない。それを人口という観点からすると過去日本は世界ランキングで十以内に位置する国だったのである。
1950の段階では、中国、インド、アメリカ合衆国、ロシア連邦に次ぐ五位であったし、その時点で日本人の人口数は、八千二百万人ロシア連邦が一億三百万人、アメリカ合衆国が一億五千八百万人、中国が五億五千七百万人と日本人が考える程差があるわけではない。今の日本人からすれば圧倒的な力の差がある相手に挑んだ無謀な戦争という風に見えるが、当時の軍人からしてみれば、精神力で何とか倒せる相手くらいにしか考えていなかったのではないかとさえ思える。
日本人は、日本を小国だと過小評価するきらいがあるが、人口数から見ると歴史的に見て十位以内に入る大国だったのである。
国連の予測では、2013年現在十位の日本も2050年には、十六位、2100年には、二十九位になると予測されている。この様な人口の減少が国力に対してどの様な影響をもたらすのかを考えなければならない。

第二次世界大戦の死亡者数がソビエトが二千万人、ドイツ九百七十万人、ポーランド六百三万人、フランス五十二万人、イタリア四十万人、アメリカ三十三万人、イギリス三十二万人、日本、三百十万人、中国が約一千万人。
そして、スターリン時代に政治的理由で虐殺された者が二千万人、中国では、大飢饉の期間になくなったのは四千五百万人。
こういう数字をキチンと把握していないと今起こっている事柄の本質も見えてこない。
是々非々は別にしても現在の国際情勢や戦争の原因などを考える上では、この手の数字をしっかりと把握しておく必要がある。

我々はともするとヨーロッパの主要国間の覇権争いに見えるが、実際はドイツとソビエトの死闘であったのである。
そして、当時、ソビエトの人口は、一億人程度とすると一人の独裁者によって人口の四割が虐殺された事になる。(「数字は武器になる」野口悠紀雄著 新潮社)

単純に国の広さからだけでは国力を理解する事は出来ない。
人口だけでも、密度や分散、平均、偏り等を複合的に捉えないと理解できない。

経済的事象のような社会事象は、密度が重要なのである。
密度には、物理的な側面と統計的な側面がある。
物理的な側面は、質と量という働きであり、統計的な側面は平均と分散という側面である。
統計というのは、基本的に計測的な事として考えられているが、それだけでなく、直接的な働きとしても今後は考えていくべきなのである。

密度は、質と量から測られる。

量だけでは密度は測れないのである。
また、密度は、分散度合いによって決まる。
つまり、偏りを考慮に入れないと密度の問題は理解できない。

全体の密度は均質であるとは限らない。
むしろ、純度が高く、均質、均一な全体という物の方が希である。
全体には何らかの偏り、偏在がある。
つまり、全体は、粗の部分と密な部分が混在して存在する事になる。
密度には濃淡がある。粗の部分は薄く、密な部分は、濃く厚くなるのである。
特に、経済では、この濃淡、偏り、偏在が重要な働きをしている。

故に、全体を制御するためには、中心を何処に定めるかが重要な課題となる。

全体に対して何処に中心があるかが、鍵を握る事になる。
同じ事でも要素によって濃淡やバラツキに差が生じる場合もある。
濃淡やバラツキ度合いが集合の性格を決める。
例えば、人口の問題でも性別や年齢によって分布に差が生じる事がある。

全体にも部分にも濃淡、密度の差があり、その差によって物事は動かされている。
故に、全体や部分の中心が大切となるのである。
中心を知るために平均がある。

平均は、対象となる物の中心や代表を知る事に目的がある。
故に、全ての成分の値を全部足して個数で割ると言うだけでなく、個々の成分に重みを付けて平均する加重平均や空間の歪みに合わせて平均する相乗平均と言った概念が生じるのである。
この点を理解していないと平均の意味は理解できない。

全体の均衡を保つためには、如何に偏りによる弊害をなくし、適度に分散させるかが大切になる。
集中と分散の均衡が鍵を握るのである。
気を付けなければならないのは、集中が是か否か、分散が是か否かを問題としているのではないという事である。
いずれも合目的的な手段であって前提となる目的や状況に応じて講じられる対策の一つだと言う事である。

ここで了解しておくべき事は、全体の密度は、均質、均一である場合が多く、中心を何処に定めるかによって全体のバランスの安定性に違いが出ると言う事である。それによって制御の仕方や度合いに違いが出る。

貨幣価値は、数の集合として表現される。
集合を構成する個々の要素は、元とか成分と呼ばれる。
成分を表す数は、必ずしも一つだと限らない。むしろ、幾つかの数が組み合わさって構成される場合がある。
この様な数の組み合わせは、成分に一定の構造をもたらしている。

例えば、人を成分とする集合の場合、集合を構成する人に関する数値には、身長、体重、年齢等を表した数値がある。更に集合を特定し条件を特定すると、所得や試験の成績なども数の集合となる。
その他に、集合を構成する人の数、即ち、成分の数とか、順序が定められている場合は、順序による数などがある。

この様に全体を構成する成分が幾つかの数の組み合わせである場合、ベクトルが形成される。
ベクトルは、方向と量を創作する。

個別の要素は幾つかの数の集合と言える。
個人も一人と言うだけでなく、身長、体重、年齢、誕生日、所得、家族の数
質的なデータとしては性別、血液型、出身地、資格等がある。

貨幣価値は、物と貨幣との積として表される。

物には、質的な側面と量的な側面がある。
貨幣価値は質と量の積として表現される。

集合を構成する数には、量的変数と質的変数がある。
質的変数とは、数の形で表現できない変数を個々の分類に従ってな数値に置き換えるものをいう。
是を1、否を0というように二者択一的な変数を二値変数という。

最初から物そのものに貨幣価値があるわけではない。又、貨幣に貨幣価値があるわけではない。物と貨幣が一対になる事で、貨幣価値は成立する。貨幣と財とは一対になって貨幣価値を構成するのである。物は、量的な要素を、金は数的要素を担い、貨幣価値は、量と数の積として表現される。

引き算は足し算の、割り算は掛け算の延長線上にある。
比率は、掛け算を源としている。

物事には幅がある。
その幅を積み重ねると濃淡が出る。
更に積み重ねると平均化される。

バラツキは、平均からの距離によって測られる。
平均からの距離は正規分布になる事が多い。
正規分布とは普通の分布という意味である。(「統計が最強の学問である。(実践編)」)
平均の働きで一番重要なのは、この分散の中心にあるという点である。

平均を知るのか、平均にするのか。
それは、その数値を認識した者の考えによって決まる。
つまり、思想である。

現実の社会において数学の役割は、現状把握し、予測を立て、背後にある関係を知る事である。

関係の基本は、比例関係であり、中でも正比例、反比例である。
どんな複雑な動きでも比例関係にまで還元できたら方向性や力の度合いが見えてくる。
それがベクトル空間であり、線型関係である。

物と物との関係は、比によって現れる。比は差を元とする。
平均の本質は、割合と同質である。(「統計が最強の学問である。(実践編)」)

量的拡大は、質的変化を伴う。
質的な変化は、部分的な偏りが生じる事によって起こる。
偏りには水平的偏りと垂直的偏りがある。
垂直的偏りは階層という形で現れる。
水平的偏りは分散という形で現れる。

変化は、偏りによって生じる。変化を引き起こすエネルギーは偏りや歪みによって生じる。
偏りや歪みが生じるとそれを均衡させようという力が働く。

質的な変化を伴わない量的拡大は、ただ単なる膨張に過ぎない。密度を粗にするだけである。
量的な拡大は、全体に対し、部分的な歪みを生み出す。
部分のバラツキが大きくなると平均化しようとする力が働く。
平均は、単なる指標という意味だけでなく。目標となる平衡点でもある。

バラツキは、平均に収斂し、その結果、全体は、平均化の方向に向かう。
エントロピーの増加は、均衡点に収斂させようという働きの元となる。

賃金が低いところに仕事は流れる。仕事を増えれば、賃金は上昇する。賃金が上昇すれば、賃金は平均化する事になる。賃金水準を低い処に抑えようとしたら、力尽くで格差を維持しなければならなくなる。

全体が拡大し、数の量が多くなる。数が多くなると均一化、画一化が進み、平均が問題となる。それは数の集合の中心が重要となるからである。

経済が成長し、所得が増えたとしても市場の拡大が量的な面ばかりに偏っていたら、市場は飽和状態になり、やがては縮小する。
要するに量的な拡大では、市場は、価値を創造できなくなり、粗の状態に陥るのである。
市場規模は、有限なのである。
市場が過飽和な状態に陥ったら、新たな価値は、質的な側面から生まれるのであって、量的な側面からは生じない。
同じ牛肉でも、部位や牛の種類、品質などによって差を付ける事で価値を生じさせるのである。

量的拡大は質の細分化を招く。
例えば、食糧を配給に頼る社会では、肉は、肉であり、質的な差は、左程問題にされない。しかし、所得が増えると人々は、嗜好や所得の差によって肉に質的な区分や等級を付けるようになる。それに伴って価格にも差が生じ、価格の働きにも違ってくる。

共産主義国のように全てを一律同等に扱うと言っても人の嗜好それぞれに差があり、又、身体的な個性や環境的、地域的な差がある以上、分配に差が生じるのは避けようがない。平等ということ自体不平等なのである。

問題は、物の配分と所得の配分に整合性がとれるか否かである。

ある閉ざされた自給自足の社会で生活に必要な物資をどの様に分配するかを考えてみよう。
生活に必要な資源がある程度分配されることが保証されていたら支配者や特定の人間が、多少、他人より余分にとっても左程問題ならないだろう。しかし、分配の偏りが拡大し、一部の人間が生きていくのに支障が出たり、その反面で余剰な物が腐敗したら不満が表面化し争いが始まる。また、収穫物が激減して社会の人間が生存していく事が困難な状態になった時も争いが生じる。その他に争いの本になるのは繁殖の問題だけであろう。
つまり、経済の本質は分配にあるのである。そして、分配は、物の需給と所得の密度の問題に還元される。
人間の住む世界で生きていく為の資源は有限なのである。有限だから分配が最大の問題となるのである。
資源が有限であれば全体は、制約される。故に、分配は比率の問題となる。

生産物に質的な違いがあるように、所得にも質的な差がある。所得の質の差は、労働の質の差による。
単純に労働の成果、成果に対する報償を時間で割り切ることは出来ない。
労働は量だけでは測れないからである。

所得や収益においては、分散が重要である。
物の生産量の拡大に伴う質的な変化に従って所得や収益の密度も変化させる必要がある。

この生産物と所得の密度の調和によって経済は正常に機能するのである。
密度は、豊かさに関わっている。

質と量との関係は密度に還元される。
つまり、高品質な物は高価格となり、量は希少となる。
それに対して品質が低い物は、低価格となり、量は大量に生産される。
そして、高品質から高品質に、高価格から高品質に分布することによって市場の密度は保たれ、経済は循環するのである。

時計が好例である。時計は、おまけやワンコインと言われる廉価な物から家一軒に相当するくらいの高価な物までランクが分かれ、それぞれのランクで生産手段や技能が違ってくる。それが混在することで時計の市場は、機能しているのである。

経済で重要なのは密度である。
経済を構成する要素の塊の性格を知るためには、塊を構成する要素の密度、即ち、質と量、そして、平均とバラツキを明らかにする必要がある。

平均値というのは、代表点があるという事を意味している。一つの事象を塊として捉え、何らかの点と一対一に対応しているのではないことを示唆している。平均値というのはこの点が重要なのである。平均値の背後には、何らかの塊、集合が隠されているのである。塊の均衡点、重心が平均値であなのである。平均値がなぜ重要なのかの要因もこの点にある。

この塊は、幅を持っている考えても良い。つまり、一対一という対応が一点対一点という意味から一つの事象対一つの事象というように変化したのである。

平均値は、測定値に含まれる誤差を最小二乗法に基づいて最も小さくすると考えられる推定値でもある。
それは、測定値に現れる結果ではなく、その背後に何らかの真の値が隠されているという考えに基づいている。
その真の値が正規分布を構成していると考えるのである。

平均値の働きで重要なのは、バラツキの法則性である。表面に現れた数値だけでは、バラツキの法則性は明らかにならないが、平均値をとることで、バラツキの法則性が現れてくるのである。それが正規分布である。

根本にあるのは中心極限定理である。逆に考えれば、均衡点が最初に設定され、その均衡点に対する距離に依って経済的働きを制御しているのが複式簿記なのである。つまり、複式簿記では、予め均衡点が設定されていてそれを集計する形で経済効果を測定しているのである。それがゼロ和である。

平均値によって経済行為を分類することによって取引の結果の分散を正規分布にするというのが複式簿記である。

分散が重要なのである。そして、分配を測る基準が平均なのである。

市場は、人の要素の塊、物の要素の塊、金の要素の塊が結び合って形成されると考えられる。
そして、人、物、金の密度、平均と分散、質と量の不均衡によって経済は乱れると考えられるからである。
人、物、金を調和させる事によって市場を制御するのが経済政策の目的である。
その場合、人、物、金の密度が問題となるのである。
密度を考える場合、分散と平均が重要となる。

平均というのは、経済を構成する塊の重心を意味する。

平均の出し方は、重心の出し方と共通している。

経済事象の統一性を保つためには、人的要素の密度と物的要素の密度、貨幣的要素の密度の重心を遭わせる必要がある。

貨幣経済は、定量化できる事象だけに価値を見いだす。言い換えると数量化できない事象に価値は見いだせない。例えば、道徳だの、人格だの、神だの、愛情である。
しかし、経済的価値は量だけで測る事は出来ない。なぜなら、その物自体の価値を決めるのは質だからである。
故に、密度が重要になるのである。

経済的事象は、人的要素の集合、物的要素の集合、貨幣的要素の集合が組み合わさる事で形成される。
個々の集合が、すかすかで粗の状態になると経済的作用の力が発揮されなくなる場合がある。
例えば、人口である。人口問題では、散らばり具合が重要な意味を持つ。
人口の年齢の散らばり具合、地域的散らばり具合、所得の散らばり具合、性別の散らばり具合が経済の働きにどの様な影響を及ぼすか。また、年代の人口の散らばり具合がどの様に変化していくのか。それが経済を考えていく上では、重要な意味を持つのである。

自由放任主義と自由主義とは似て非なる事である。放任主義というのは、根本に法を求めない。自由は、法を前提として成り立っている。自由というのは、野放図に、個人の欲求に全てを任せきるという事を、意味しているのではない。

水は高い所から、低い所へと流れる。
通貨は、必要性を求めて人口が粗の処から密の処に流れる性質がある。
人口が過密な部分が生じるとお金は、粗の部分から密な部分へと流れる。

人口について言えば、量的拡大を野放図にして手を拱いていると部分的な偏りを生じさせる。
その好例が都市化である。
人口は、都市に流入し、放置すれば、一極集中の体制が形成される。それは全体の均衡を危うくする。
お金が上手く回らなくなり、市場の効率を低下させるからである。
貨幣価値は、通貨の回転に依存している。通貨の回転は、中心に近づけば近づく程、早くなる。
それは中心付近の貨幣効用を高める結果を招く。それが、人々を中心に呼び込む事になるのである。
それが都市化である。
都市は消費拠点であり、生産拠点ではない。
消費と生産の均衡が崩れやすくなるのである。

統計的な分析、定量的な意味での平均は、定性的な意味では割合と通じる。
この事は平均という意味の本質を現してもいる。

均一的状況では変化は起きない。
複数の要素が一定の割合で分散している状況が運動を維持させる働きがある。

物を均一に分散しても平等とは限らない。
取得を均一にしても平等が実現するわけではない。
なぜなら、人それぞれ、個性が違い、置かれている環境や状況も違う上、これらの状況は一定ではなく、変化しているからである。
早い話、人は成長している。人は、成長し、成熟し、やがて衰えていくのである。その変化を前提としている。

変化に合わせて人の働きも、物の働きも、金の働きも変化し続ける必要があるのである。
故に密度が重要であり、密度変化が経済事象の鍵を握っているのである。

密度が保てなくて、極端な偏りがあったり、階層があたり、分裂していたりすると経済の効率は著しく落ちる。
明確な境界線もないままに社会が分裂、分離した状態が一番危険なのである。

格差だけが問題なのではない、密度も重要なのである。

極端な格差は社会を分裂させてしまう。
極端な格差は貧者だを戦闘的にするわけではない。富者も又攻撃的になる。
争いを生むのは極端な偏りである。
争いや対立は、社会を分裂させ、極端な場合は、破綻させてしまう。

分散の集合の分布は、正規分布に近づく。
分散とは、平均値との距離を意味する。
つまり、平均値を中心として分散の度合いと量が経済状態を左右している。

平均値は、測定値に含まれる誤差を最小二乗法に基づいて最も小さくすると考えられる推定値でもある。
それは、観測地に現れる結果ではなく、その背後に何らかの真の値が隠されているという考えに基づいている。
その真の値が正規分布を構成していると考えるのである。

分散も貸借も売買もゼロ和である。なぜゼロ和になるかというと初期設定や前提においてゼロ和になるように設定されているからである。
なぜ最小二乗法のような手段がとられたか。それは分散は、ゼロ和だからである。
分散が、なぜ、ゼロ和なのか。それは、平均からの距離を総て足した値だからである。
この事が経済では重要な働きを持つのである。そして、正規分布の持つ意味も重要になる。それは無限に足していくと真の分布なる。その真の分布を前提としているからである。
その場合、平均値を分散の中心とか、重心という意味で考えるべきなのである。

分散、貸借、売買、収支はゼロ和であるのは、深い意味がある。
即ち、平均と分散の対称性(シンメトリー)の根拠となるのである。
複式簿記は、この平均と分散を前提として成り立っているとも考えられる。
正規分布というのは、普通のありふれた分散という意味である。
この一般的、ありふれた分散が普遍的な事象を秘めているという事である。
正規分布は、普遍性や無限、一般という概念を秘めているのである。
この正規分布という思想は、プラトンのイデアに近い。

これまで統計的事象というのは現状を測定する目的で使われてきたが、これからは、現状を制御する目的でも使われるべきなのである。

マスコミは、円安、石油安と盛んに煽るが何に対して安いと言っているのか判然としていない。
日本のマスコミが円安、円安と叫ぶのには根拠がない。ただ、ドルに対する円の価値の傾向を指して円安と言っているのに過ぎない。

石油安というのも、同様であり、石油のドルの対する価格を問題としているのである。
石油価格がいくら下がって同時に円の価格が下がったのでは、実質的には円の価値と石油の価値が相殺されて大差ないという事なもなりかねない。
石油と為替を別々の事として考えていても埒が明かないのである。

何に対して円は安いのかは、石油だけではに限った事ではない。
物価に対しても比べる必要があるし、所得に対しても同様である。
我々は、報道機関が流す情報を鵜呑みにしていると物事の本質がつかめなくなる。
物価が上昇していると言っても中には下落している商品もあるし、一律に同じ動きをしているわけではない。
ある局面だけを捉えて敷衍化してしまうと全体像が見えなくなる危険性もあるし、逆の可能性も否定できない。

そうなると物価というのも多面的に見る必要がある。物価の中心を何処に置くかの問題であり、平均の問題になるのである。
だから、平均と分散の計算の仕方が問題となるのである。

経済状態を比較する事は難しい。
例えば、物価を比較すると言っても何の価格の変化を物価というかが問題なのである。
一個のマンゴーが他国の労働者の年収と比較して同等の貨幣価値を持つとしたらそれを豊というか、貧しいというかは、価値観の問題であり、思想的問題である。現実の問題ではない。
だから、平等という思想に直結しているのである。

実体的な経済価値を知るためには、複数の要素の変動を総合してその平均を知る必要がある。
好例が、通貨バスケットと平均である。通貨の価値を考える場合、特定の通貨との関係だけで捉えても意味がないという事である。

故に、平均と分散が重要であり、平均と分散は平等に通じる概念なのである。

何に対して何が等しくて、それらを平均したら所得と見合っているかどうか、そういったことを一つ一つ検証しなければ平等とは何かは理解できない。
例えば、地価が安くてただ同然の家賃で生活している人と一般の労働者の年収、最貧国の労働者から見たら生涯賃金にも相当するような家賃で都会の一等地で生活する人とどちらが豊かなのか。それは価値観の問題である。例え、所得が低くても庭付きの家で質素に暮らす事を豊かだと感じるものにとって都会生活は貧しく見栄るんもしれない。
家族料理に価値を見いだす人から見れば、豪華でも毎日が外食では味気ない生活、不幸だと考えるかもしれない。
田舎のネズミと都会のネズミの話があるが、何を豊かとするかの基準は所得だけでは測れないのである。
幾つかの集合が複合される事であり、だから分散と平均が重要な指標となるのである。
平均は平等へ繋がる思想である。それは平等の概念に直結しているのである。

数の体系は、目的に応じて加工して使うべきなのである。設定と前提が重要になる。そして、その設定と前提にこそ平等に対する意味が隠されているのである。
根本にあるのは、どの様な生活に価値を見いだすかであり、何を前提とするかによって平均の持つ意味も平等の意味も変わってくるのである。
実体は生活にある。

取引が成立した時点で価値は均衡している。即ち、ゼロである。
ゼロから始まりゼロに終わる。

等号は、正と負の働きを逆転する働きがある。
等号は、均衡点であり、即ち、ゼロであり、境界点をも意味する。

市場はカジノに似ている。客は、カジノに現金を預けて、同額のチップをカジノから借りる。借りたチップをゲームに投資して儲かったら、チップを返して現金を受け取るのである。預けた金と受け取った金の差額が利益になる。実物市場との差は、カジノには実体が伴わないことである。
賭けるのも、原則的に数に関わる事象に対してである。
カジノの取引は空疎なのである。人々は、実体のない取引に踊らされている。「お金」だけの世界は空なのである。

空に始まり、空に終わる。
貨幣が生み出す場は、空なのである。
貨幣が生み出す場が空だからこそ負の力を必要としているのである。

貨幣経済を動かしているのは、振幅なのである。

猫に小判、豚に真珠と人は猫や豚は価値を知らないとあざ笑うが、猫や豚は、小判や真珠のために仲間を殺したりはしない。
ならば、人と猫や豚、いずれが真の価値を知っていると言えるのだろうか。








       

このホームページはリンク・フリーです
ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2014.12.16 Keiichirou Koyano