29、失業率




経済状態を表す指標として失業率を重要な指標の一つである。
その割に失業というのは曖昧な概念である。
なぜなら、失業を量的観点からのみ見ていて、失業を質的な側面から見ていないような気がするからである。
つまり、失業と言うけれど、どんな仕事に就いているのかと言う視点を欠いている様に思えるのである。
失業というのは、裏腹に就職という発想がある。就職というのは職に就くという意味であって必ずしも仕事をするという事を意味していない。
つまり、失業というのは、仕事と結びついているとは限らないのである。
働いていても職に就いていなければ失業者と見なされるそうとも受け取れるのである。
職に就くというのも定職に就くと言う事を意味している。定職というのは何らかの組織に属して定収入、即ち、月給取りになると言う事を意味している。
つまりは、月給取りである事が大前提なのである。
月給取り以外は、職に就いているわけではない。つまりは失業者である。
ただ、仕事に就いているかいないかは、自己申告である。個人事業者や職人、農業に従事している者は潜在的に仕事に就いていると見なされるのであろう。
しかし、基本的には、失業は、何らかの組織に属す事を前提として考えられている。

従前は会社なんて存在していなかったから、仕事にあぶれた者を失業者と言ったのだろう。
しかし、仕事にあぶれたら自分で何らかの商売を始めた。然もなければ家の手伝いをさせられた者である。

働かざる者食うべからずである。

この点が重要なのである。現代人は、中学、高校を出たら大学に進学して良い会社に就職をする。それが一般的なコースだと考えている。その一般的なコースを前提として就職を考えている。
つまりは、月給取りになる事が一般的なコースなのである。突き詰めていくと月給取りになれなければ、仕事にありつけない事になる。

月給取りというのは都市化の結果でもある。
都市化されなければ、月給取りというのも生まれなかった。そして、月給取りが総ての社会が現出したのである。
そこに、仕事とは何かという視点が欠けている。仕事というのは、決められた時間に決められた仕事をする以外に考えられない人間が増えているのである。
これでは、学校の延長でしかない。
その通りなのである。学校に行くのと同じように職場に行って決められた事を決められたように、先生に教わりながらやる。教わっていない事は出来ないし、出来ないからやらない。
自分で問題意識を持って技術や知識を習得するなんて言う事は考えもつかない。仕事が出来ないのはチャンと教えてくれない方が悪いのである。

仕事というのは、学校のお勉強の延長線上にある事でしかない。

だから、生きる目的なんて言われても困るのである。そんな事は教科書の何処にも書かれていない。例え書かれていても受験には縁もゆかりもない事なのである。

この様な状況というのは、徒弟制度の崩壊にも繋がる。
以前は、仕事にあぶれた者は、又は、勉強に向かない者は、どこかの綾方に預けてみっちり仕事を仕込んでもらった。手に職を付ければ食いはぐれする事はあるまいという親心である。まあ、口減らしでもあったけれど、それでも、親としてみれば子の適正だの行く末などを真面目に考えてくれた事は確かだ。
その点を今の親は無責任だと言える。
学校さえ出してやれば一応自分の責任は果たせたと思い込んでいる。
それに、学校に子供の全てを預けてしまえば面倒臭くない。

まあ、今時の親なんてそんなものである。
仮に、自分の仕事を継がせるとなれば一生世話を焼かなければならなくなる。
その点学校に任せてしまえば楽が出来る。

その結果失業者が増える。引き籠もりも増える。
自分一人では生きていけない者が増える。自分一人では生きていけないのに、自分一人で生きていると思い込んでいる者が増える。
困った事である。

突き詰めていくと、誰のために、何のために働いているのかも判然としなくなる。
月々決まった給料をもらう事だけのために適当に仕事をしている。
人生の目標は、なんて聞くだけ野暮である。

失業というのは、月給取りと月給取りでない者を明確に分ける事で成立する概念なのである。
中間にある者を排除している。
その結果、個人事業者も職人も月給をもらって月給取りになる。
つまり、組織に属しているか否かが、決定的な事となるのである。

仕事と言っても基本的には変わらない。誰もが違う仕事をしているわけではない。
技術とか、経験とかがものを言うわけではない。

だから、同一労働同一賃金なんて概念が成り立つ。技術とか経験によって仕事に違いがあるなら、こんな事を言ったらどやされる。

職人に向かって誰がやっても同じだなんて怖くて言えない。
そういう徒弟関係がなくなってしまった。だから職人も今では月給取りである。

又、妻とか、母親という仕事もプロの仕事としてし認めていない。
だから、プロの主婦も、プロの母親もいなくなってしまった。

欲望の捌け口は金を払えば手に入れられる。愛は金にならない。
だから、プロではない。
プロであるかないかは、賃金収入があるかないかである。

将来は遊女も正業になるのかもしれない。
そうなったら遊女を馬鹿にするなと叱られるかもしれない。

だから結婚なんて阿呆らしいのである。
そして、結婚をしなくなる。

月給取りになれば定年退職が生じる。どんな人間も一定の年齢になれば、人生をリセットされてしまう。
だとしたら、自分と仕事とは一体ではない。
自己のアイデンティティなど問題にならない。

俺は何のために、誰のために働いているのか。
俺は俺のために働いているのか。
でも仕事は自分のために何にもならない。
だって、仕事をいくら頑張ったとしても一定の年齢が来たら白紙に戻されてしまうのだから。

俺の作った物が、俺の名前が入った物として将来骨董品として扱われる事はない。
だとしたら、俺は何ものなのか。
そういう人生しか用意していないのが現代なのである。

コミュニティの崩壊である。かつては、お互い様と金以外のところで助け合ってきた。
仕事がないと言えば仕事を嫁がいないと言えば嫁をどこかか探してきてくれた。
今は金をやらなければ何もやってくれない。逆に言えば金さえあれば何でも手に入る。
家族だって、愛情だって、仕事だって金さえあれば手に入れる事が出来る。

失業という概念の後ろには、そういう思想が隠されている。






       

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