46、無作為という思想


現代社会は、無作為という概念を前提として成り立っている部分が多く見受けられる。
しかし、無作為という事を前提としているのが無意識、或いは暗黙の合意である場合が多く。
その為に、無作為というのも一つの思想だと言う事に気がついていない人が多いように思われる。
無作為というのも一つの思想である。
無作為という事を前提として今の世の中かが成り立っているとするならば、無作為とはどの様な事を言うのかを明らかにする必要がある。

いろいろな人の話を聞くと科学的合理精神とか、客観主義的な考え方が基本的な考え方、前提だと思い込んでいることが多い事に気がつく。
そういう人は、科学的とか、客観的と言えば何でも通ると思っている。
逆に、科学的でない、或いは、客観的でない事は迷信だと決めつけている。
しかし、科学も思想の一種である。科学的と言っても思想は思想なのである。科学は絶対というのも単なる思い込みに過ぎない。
科学的、合理精神と言った所で絶対ではない。
第一、科学的合理精神というのは、絶対性を否定した上に成り立っている。科学は相対的なのである。

よくよく考えてみると、科学や民主主義の背景には、無作為という思想が隠されている。
そして、無作為というのも思想の一つとなのである。
気を付けて欲しいのは、無作為というのと無為というのは違うという事である。
更に、ランダムというのも思想の一種だと言える。そう考えると、無作為とか、ランダムをどう解釈するかが、重要となってくる。

科学的前提には、無作為の他に任意と言う事がある。
任意とするのか、無作為とするのかによって論理的前提が随分と違ってくる。

又、何を所与とするのか、仮定とするのかによっても違ってくる。論理は違ってくる。

そして、社会というのは、無策に所与ではなく、任意、仮定による事が多くある。
任意、仮定は、合意に基づく事であり、社会は、基本的に合意に基づいて構築されている。
むしろ人的な世界は、任意、仮定に本ずくのである。

この点が自然の法則と社会の法の違いでもある。
任意、仮定は、主体的、或いは主観の支配下にある。

人間の世界は、あるとか、なるのではなく。基本的にするのである。
元からあるわけではない。

この点は科学も同じである。科学は、人為的行為であり、無作為にできた事でない。
日本人には、無為自然という思想がある。だから、国家や社会、家族も無為自然にできあがった事のように考える傾向がある。

しかし、国家や社会、家族というのには、人間の意志が深く関わっている事を忘れてはならない。
経済も同様である。経済的事象は、自然に成った物ではなく。人間の意志が深く働いているのである。
だからこそ、戦争も貧困も人間の意志、意識が生み出した事なのである。

経済的な災難は天災、自然災害とは違う。人間の意識によって産み出された災難なのである。
その責任を自然や神、点に帰す事はできない。
人間が解決しなければならない事柄なのである。

数も又、人間が創り出した事である。
現代社会は、数によって支配されている。
しかし、数は人間が創り出した事である。

無作為という事を前提とする為に乱数が重宝される。
我々は、無作為とか、大数の法則を何気なく受け入れいるが、無作為という事も大数の法則も成るから成るのであってあくまでも経験則の域を出ていない。

現代社会は、確率的な思想も基礎としている。

確率というのも、一種の信仰のようなことである。
つまり、そうなるからそうなるという事である。
サイコロを振ったら6分の1で割合で同じ目が出ると言う事を前提とするのである。そして、不思議な事にそうなる。否、そうなるという事を信じているから成り立っているのに過ぎない。だから一種の信仰のような事だというのである。
正しいと皆が信じているか正しいとするのである。
それは民主主義にも通じている。

また、民主主義というのは、確率統計的な思想と言っていい。

民主主義は数の論理がある。
多数が正しいという事は、正しいのだろうというのが多数決である。
つまり確からしいという事である。確からしさは、百人中九十九人でも、五十一人でも同じになる。
この様な考えを成り立たせているのは、確率統計という思想を民主主義が根底に抱いているからである。
民主主義を成立させているのは、確率統計という思想である。
だから、民主主義は信用できないと私は言いたいのでない。
数で表されたとしても所詮は思想だと言う事である。
それを絶対の真理とか、原理にしてしまうのはおかしい。
民主主義というのは、平均や一定の標本から全体を類推する事で成り立っているような思想である。
多数を制したからと言って正しいとは言い切れないのである。

民主主義では、知らず知らずのうちに平均や分散、標準が基本になってしまう。
気がついて見ると我々は、一定の幅の中で平均的で標準的な生き方をしている。
その一定の幅からはみ出してしまうと我々の生き方は誤差の部類に振り分けられてしまうのである。

民主主義は、仮説演繹法を下地にしている。仮説演繹法を何処で活用しているかというと、何を善とし、何を真とするかである。善や真を、帰納法的手法に基づいて導く出している。
法的論理に従う。つまり、立法の手続きに従って決められた事を真とし、善とするのである。
重要なのは、前提となる命題であり。最初の一致である。最初の一致とは、建国をした者の最初の全員一致、或いは暗黙の全員一致である。全員一致は、建国の為の組織を設立した時点でそこに参画した者の一致である。そこで、原則となるのが、自由と平等と同志愛なのである。その結果、国民国家は革命によって建国されるのである。革命の本質は、核となる人間の根本的合意に基づくのであり、憲法といえど、全国民の全員一致を前提としたものではなく、最初からその様な合意は成り立たない。その様な合意が成り立たないから、暴力的、革命的手段によって国民国家は、建国されるのである。建国された以後は、法的手続き、法的論理が有効となるのである。
国民国家では、帰納的手段に基づき、手続きに則った多数決の合意によって定められた命題を法とし、法によって真と善とを定義する。この様な善や真は、必然的に相対的善であり、相対的真である。絶対善や絶対真ではない。
つまり、本となる命題は、推測的な事であり、確率統計と同質な事である。
突き詰めると民主主義は確率統計的な思想に基づいているのである。

民主主義を是とするのは、数学的な考え方を是としているという事である。
それは一種の数に対する信仰である。

現在の経済は、確率統計的な思想を背景に持っている。
その好例が価格である。
経済で重要な基準も平均、分散、標準、そして、中央値に頻度などである。
それをいつの間にか自明な前提のように受け止めている。
気を付けなければならないのは、確率統計も思想の上に成り立っているという事を忘れがちだと言う事である。

無作為にしろ、確率統計にしろ、どちらにしても数学的な思想である。

所詮、科学と言った所で信仰や宗教に近いのである。
その点を理解しておかないと科学の真の意味は理解できない。

科学というのも、突き詰めると一種の宗教である。
科学とか数学とかを成り立たせている大本にある存在、それは絶対的存在である。
絶対的存在とは神である。

私が言いたいのは、全ての存在を超越した絶対的存在、それを信じ、その存在に帰依することで、科学も民主主義も経済も成り立っているという事実を受け入れなければ、物事の本質は見えてこない。主観客観と言っても所詮表裏を表しているのに過ぎないのである。

日が沈み。日が昇る。
夜になっても必ず朝が来ると人は信じている。
信じているが故に、生きていける。
当たり前な事が当たり前に起こる。
それこそが、真の奇蹟。神の業なのである。
それを当たり前のように信じ。
信じない者を愚か者だと蔑んでいる。
そして、当たり前でない事を奇蹟だと錯覚している。
しかし、実際は、当たり前だと信じている事が当たり前だと言う確証は何処にもない。
ただ信じる以外にないのである。
科学が進歩する以前は、なぜ、当たり前な事が当たり前に起き、また、当たり前に起きるのかを明らかにしようとしてきたのである。
そこに思想や哲学、宗教の本質がある。
科学は、その詮索を後回しに、取り敢えず起きている事は起きていると認めようと言うところから出発している。
それは当たり前な事を当たり前とする根拠に対する探索を否定したというのではない。
取り敢えず後回しにしたと言う事である。

当たり前な事が当たり前に起こる。
統計的世界とは、その様な世界である。
出来事をその背後にある存在に対する詮索は取り敢えずやめて無条件に事実だとする。
それは、その背後にある何ものかの存在を無条件に受け入れる事を意味している。

だから、意識するしないは別にして、統計は、思想でや信仰を前提としているのである。

神に対する信仰の上に無作為という思想が成り立っているのである。

恐慌も戦争も人間が産み出した災難である。





       

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