50、価格が全てではない



経済的価値は、価格だけで表現できる事ではない。
価格だけが商品価値を決めるわけではない。
経済的価値を表す指標には、第一に、品質。第二に、性能。第三にデザイン。第四に、アフターサービスとか、メンテナンス。第五に、欲しい時に手に入るとか。第六に、環境に優しい。第七に、仕入条件、支払い条件。第八に、ズバリ、安い、つまり価格等がある。

価格は、物の値段、すなわち、貨幣価値である。
価格は、市場取引によって形成される。価格形成は、利益を核にして決まる。
価格形成は、需要と供給関係によって左右される。価格形成には、競争の原理が強く働く。
何の制約もなければ、費用は限りなく圧縮される。
市場価格にとって費用は負荷でしかないからである。
しかし、費用は、分配を実現する為の手段である事を忘れてはならない。
費用がかからなくなれば分配は機能しなくなるのである。

お金は、使う事で効用を発揮する。お金は使わないと効用を発揮しない。
つまり、支出は悪い事ではない。
ただ、収入に釣り合わない支出が悪いのである。
支出は、費用を形成する。
費用は無駄ではない。過剰な費用が無駄なのである。
適正な費用は、経済にとって必要なの事なのである。

経済の循環は、収入だけで成り立っているわけではない。支出との関係で成り立っているのである。
お金は使わなければ効用を発揮しないのである。
費用は、無駄であり、経費はひたすら削除すべきだというのは間違った考え方である。
費用は、収益との関係から効果を測るべきなのである。
それが費用対効果である。

安売り合戦は、意味のない争いである。
安ければ良いと言う事だけが経済的合理性を表現しているわけではない。
適正な価格を維持できるようにするのが市場の役割である。
だからこそ市場の構造が重要となるのである。
経済的効率は、生産にのみ依拠しているのではない。分配や消費にも依拠している。
分配にも効率性は求められ、消費にも効率性が求められる。
故に、生産と分配と消費が均衡するところに経済的効率性は求められるべきなのである。
その均衡を現すのが価格でなければならない。
生産と消費、需要と供給、労働と分配、フローとストックが均衡するところで価格が形成されるような仕組みを市場に組み込む必要がある。

経済的価値は価格だけで測れる事ではない。
価格以外に経済的効用は、いろいろとある。
価格が前面に出ると他の要素は消えてしまう。
価格に支配されると経済的価値はお金だけでしか測れないと思い込む。

しかし、価格は、副次的な事に過ぎない。
本来経済的価値というのは、生きるために必要な事を意味する。
市場経済、貨幣経済では生きていく為に必要な資源を手に入れるためには、お金が不可欠だと言うだけなのである。
私は、お金を否定しようとは思わない。お金は道具として大事である。
確かに、今の時代、お金は不可欠である。必需品である。
しかし、だからといって経済的価値はお金でしか測れないというのは錯覚である。
お金が全てなのではない。
事実、お金がなくても生きていこうと思えば不可能な事ではない。お金は道具に過ぎない。

賃金も価格の一種だとする。
この様な賃金には、いろいろな働きがある。
第一に、人件費という費用。第二に、報酬としての対価、権利。第三に、生活費としての収入、所得としての働きである。
この三つの働きによって給与の賃金が形成される。
費用としての働き、報酬との働き、収入としての働きが賃金の働きを構成する。

費用は、生産的部分を構成し、収益と対照される。報酬は、労働の対価として成果と対照される。所得は、生活費として消費に対照される。消費の基盤は、その人の家族構成と深く関わっている。
費用は雇用者から見ると支出を意味する。報酬は、労働に対する対価として考えられる。所得は収入であり、家計を構成する。
生活費としての働きは、個人の属性に左右され、物価に影響する。また、生活水準を構成する。
結婚をして子供がいる人と独身の人とでは、所得の働きの性格はまったく違ったものになる。

重要なのは、所得は基本的にお金で支払われる事になったことである。
それによって経済価値が全て貨幣価値に換算されるようになったのである。そのことで、経済は、貨幣的現象だと錯覚されるようになった。

所得は収入であり、収入は、消費と家計投資と貯蓄の原資となる。
消費と投資と貯蓄は経済の骨格を形成する。
所得の究極的目的は、生活にあり。消費をどの様に構成するかにある。

つまり、生活費は生活の基盤に制約され、経済の基盤を作る。
費用は、雇用によって生産の外枠を作る。
報酬としての側面は、権利を構成する。
報酬は、分業を深化させ、個人としての働きを高める。

賃金の働きは多様であり、単なる労務費、人件費として一括りする事はできない。

価格だけに経済的働きを収斂してしまうと価格以外の経済の働きが見えなくなる。

例えば、定年退職の非人間性である。
今日の経済は、非人間的な性格を持っている。
個人主義と言いながら、個人の持つ基本的な権利を否定している。
人としての働き、人としての存在そのものを根底から否定しているのである。
人としての属性は価格という観点からみると、まったく無価値になってしまうからである。
人として如何に生きるべきかなんて費用としての観点からは無意味である。
費用という観点からすれば収益にどれくらい貢献できるかの問題であり。利益を結びつかない支出は無駄として排除されるのである。
雇用者からすれば、どの程度の能力を持っていて、どの様な働きをするかが重要なのである。雇用者が期待した能力、働きをしなければ、働きに見合った報酬に報酬を下げるか、解雇するだけである。
費用と報酬の関係は、費用対効果の問題なのである。報酬に対して求められるのは、成果だけであり、それ以上でもそれ以下でもない。
誰と結婚して、子供を何人産んで、どんな家に住みたいかなんて雇用者側から見ればどうでも良いことなのである。
しかし、収入という観点からすれば決定的なことである。

働きを見なければ定年の問題点を理解する事はできない。その人がどんな働きをしてきたかが重要なのである。その人の働きに応じた処遇こそが求められている。一人ひとりの働きをみずに、ただ、経済的合理性のみを追求するからややこしい事になる。人は人なのである。機械ではない。人の一生を考えてこそ定年の持つ意義が解る。その人が歩んできた軌跡。そして、その人の晩年について何の感慨もなく。ただ機械的にリセットしてしまう。
それこそが定年退職の最も非人間的な側面なのである。

現代の定年に対する認識は、費用としての側面だけしかない。報酬という意味合いもない。なぜなら、一定の年齢に達しても成果さえ出せれば退職させる必要はないのである。
その人がどの程度の能力や経験があるかにかかわらず原則として一定の年齢に達したら退職させるのが定年退職制度である。その人が働けるか否かなどさして重要な要素ではない。

定年退職後の生活なんて何の関係もない。定年後に生活に困窮しようがしまいがそれは自己責任の問題となるのである。そして、定年後は基本的に労働の対価として収入を得る手段は極めて限定的になる。それまでの経験や知識を活用する道は狭いのである。

所得が費用としてしか評価されないと言う事が問題なのである。
つまり、所得は、費用としての側面しか評価されなくなり、その他の要素、能力の成果、社会に対する貢献、又、生活からの必要性といった観点は一顧だにされなくなる。
単に、利益によってのみ所得は、測られる事になる。しかも費用は利益から見たら無駄であり、限りなく削減される対象となるのである。

もう一つ問題なのが所得、収入が個人に還元されることである。個人に還元される事で、所帯とか家族という単位が否定され、その結果、家族が崩壊する。結婚し所帯を持つ意義が薄れるのである。
精神的つながりとか個々の人の夢や希望と言う事、(これは経済的に見て重要な意義がある事だが、)無意味化されてしまっているのである。

収入には、生活費としての側面がある事を見落としてはならない。人は、生活していくために必要な資源を得るために報酬を得るのである。生活費は、消費として経済の底辺を形作る。必要性という観点を所得において無視すれば、所得本来の働きを否定する事になる。人は、必要によって働いて対価として収入を得るのである。そして、消費が物価や需要を形成する事を忘れてはならない。この点を忘れると経済本来の機能を見落とす事になる。

人としての価値は、経済的価値だけで推し量る事はできない。況してや、金銭的価値で人を決めつけるのは邪道である。
人としての価値を高めるために経済はあるのであり、人としての価値を卑しめる事があれば本末転倒である。

人を費用としてしか評価できなくなったら、それは、人としての価値をまったくとして評価できなくなる事を意味する。

人は金を儲ける為に生きているわけではない。金儲けは、生きる為の手段である。生きる為の手段として金儲けは大切なのである。

資金効率だけが経済の指標ではない。経済の根本の働きは分配である。
分配は、所得に還元される。所得は労働の対価として得られるものと金融的手段によって得られるものに大別される。
労働の対価として得られる所得の基本は「人」と「物」の経済であり、金融的手段(代表的なのは、金利や地代)は、「お金」の経済である。
金融的手段の代表的なのは、金利であるが、不動産や設備投資等に基づくお金の働き、例えば、金利、地代、家賃、減価償却費等を言う。資金効率をよくするというだけならば金融的手段も有効である。
しかし、経済効率というのは、資金効率だけでは推し量れない。経済の主たる働きは「お金」を基づく働きではなく、「人」と「物」による働きだからである。
「お金」の働きによって「人」や「物」の働きが阻害されたらそれは本末の転倒である。
人や物は、生産効率という観点からだけ見たら、必ずしも生産効率を上げるとは限らない。
経済には無駄も必要である。なぜならば、経済は、分配を目的としているからである。
分配は、人の所得と支出を基礎として実現する。つまり、雇用が基礎となる。
設備か、雇用かという選択は、「お金」か「人」「物」かの選択でもある。
生産効率というのは、人的投資から設備投資へ移行する事を意味している場合が多い。これは、労働を軽視することに通じている。設備投資への移行は雇用を増やすどころか減らす効果があるからである。
支出には、生産や消費に向けた支出と金融に関連した支出がある。そして、生産や消費に向けられる支出は、所得に反映される。金融に関連した、支出は、費用に反映される。
単に支出を費用という観点からのみ見ると生産の合理化は、経済効率を高めるように見える。しかし、支出の対極に所得がある事を考えると分配という経済の根幹となる働きから見て逆の働きをしている事になる。
問題になるのは、生産や支出に対する支出と金融に対する支出と配分である。
支出に占める金融の割合が増加すると所得に回る資金が減少する。
所得の多くの部分が借金の返済や設備の償却に向けられる事となる。そうなると、労働の対価としての収入より、借金による収入の比重の方が増えてしまう。
人は、所得の範囲で返済できる範囲内で借り入れを起こし、収入の不足分を補っている内は、収支の均衡は保たれるが、一度、収入で賄える範囲を超えて借金をすると、雪だるま式に借金の残高が増えてしまう傾向がある。
それは国家財政の問題だけではないのである。
金融に関連した支出が増えるとその分、個人所得も減少し、市場に流れる資金が減る。





       

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