52、経済とボランティア



日本人は、ボランティアという言葉を錯覚している。
ボランティアというのは社会奉仕活動で、基本的には、無償労働である。

しかし、ボランティアを生業にする事はできない。

営利事業と慈善事業とは違い、営利事業は、金儲け、利益を追求する事を目的とし、慈善事業は、非営利事業であり、利益を目的としては、或いは、利益を追求してはいけないと誤解している人がいる。
この考え方は、公共事業と私的事業との区分にも現れる。公益事業体は、公共の複利を追求するから利益を追求する事は許されないという考え方である。
つまり、公益事業は、公益に基づいて為されるのに対して民間事業は、私利私欲ら基づいているという決めつけである。

非営利事業と営利事業とを区分する事は難しい。というよりも不可能である。
生業として成り立っている事業は、犯罪を除いて本来社会が必要としている事である。
生業として成り立っていているという事は社会が必要としている事業なのである。
もともとどんな仕事でも、世の為人のためになるから成り立っているのであり、慈善事業だけが世の為人のために働いているわけではない。

経済の仕組みの目的は、生産された資源を分配することにある。
分配の仕組みには、市場によるものと組織的なものがある。
市場は、お金さえあれば、誰でも参加できる。基本的に自由である。
それに対して組織的な分配は、統制的、恣意的である。ボランティアというのは、組織的分配を基本としている。
その分、主催者の思想が反映されるのである。
単に慈善的だから正しいというのではない。主催者の思想が問題なのである。

公益事業や慈善事業と営利事業との違いは、労働の反対給付として成り立たない部分があるから単純に営利と結びつかないと言うだけである。
だからといって慈善事業に携わる人間は、生活が成り立たなくても良いというわけにはいかない。働いている人の生活が成り立たなければ、所詮事業としては成り立たないのである。

ボランティアに携わる人にも生活がある。
生活感のない経済活動は成り立たない。なぜなら、経済は生きるための活動だからである。
人は霞を食べて生きていく事はできない。
これ間の日本は、父祖の残してくれた蓄えがあったから安心してボランティア活動に性を出せたのである。
しかし、生活に困窮してきたらそんな事言っていられなくなる。
油断しているとボランティアするどころか、ボランティアされる側に回るのである。

慈善事業に携わる者には、清貧という思想がある。だから金儲けだの、お金を卑しく見る傾向がある。それは公益事業に携わる者にも共通した者がある。
しかし、働いている者の生活が成り立たなくなれば生活が荒むのも成行である。大体慈善事業と言ってもあくどい連中がつけ込む隙はある。むしろ慈善事業だから詐欺師、ペテン師にも利用されやすいと言える。

典型的なのが介護事業である。介護はボランティアによる仕事では成り立たない。適正な収入が保証されない限り経済的に破綻する事は目に見えている。

ボランティアは、所詮、ボランティアでなのである。地震や津波、戦災の被害者はボランティアにすがっていつまでも生きていくわけにはいかない。彼等に一番必要なのは、自分達の力で自立した生活が営めるようにする事なのである。同情だの援助だのではなく仕事が必要なのである。その点を見落とすとボランティアの果たすべき意味を理解する事はできない。
世の中に必要な仕事は、生計が成り立つようにしなければならない。それこそが社会の役割なのである。

営利事業から社会的使命感が失われる事も問題なのである。営利事業だと言っても元々社会使命がある。社会的な使命があるから事業として成り立っているのである。
金儲け主義に陥って自分達の仕事の社会的使命を忘れたらそれこそ本末転倒である。
望まれてやる仕事だから、相応の収益を見込めるのである。
やれ競争だ、やれ規制緩和だ、やれ経済的合理性だ、やれ効率だと叫んでいる内に企業として果たすべき役割を見失っているのではないのか。
経済の本質は、結婚して、家を建て、子を産み、育て、親の面倒を見る。家族を養い、病み、そして、老い。やがて死を迎える。その生きる営みこそ経済なのである。人を幸せにする事のできない経済は、どこか病み、その仕組みはどこかに欠陥がある。

故に、営利事業と慈善事業、営利事業と公益事業とをわけて考える事の方が難しいし、それが経済の整合性を失わせているのである。
民営化問題の背後には、公益事業だから利益を上げなくて良いのだという考え方、優越感が見え隠れしている。

無償奉仕の崇高さを否定しない。しかし、無償奉仕は、背景に宗教的使命感がある事を忘れてはならない。
無償奉仕は、信仰に基づいているのである。
純然たる経済的動機ではない。
ボランティア精神は、公共への奉仕という動機に基づくのである。それはそれで尊重すべき事である。
ただ、それを経済一般の行為だとするのは、全ての人々に宗教的禁欲生活を強いることになる。
それは経済とは別の次元で評価すべき事なのである。

仕事を選ぼうとした時の基準に役に立つか、たたないかと、儲かるか儲からないかがある。
今の人は、儲からないと経済的に成り立たないことから、儲かれば何をやっても正しい。
儲かると言う事だけ考えれば犯罪行為だっていい。犯罪行為こそ金儲けの近道でもある。
そして、世の中に役に立つかたたないかの基準は、経済的価値から抹殺された感がある。
世の中を測り尺度として儲かりさえすれば良いとする。
更にエスカレートして儲かりさえすれば何をやっても正しいんだ。
しかし、経済の本当の尺度は儲かるか儲からないかではなく。
世の中が本当に必要しているか否かである。
だからこそ世の中に必要な事は儲からなければならないのである。
だから、役に立つかたたないかが本来儲かるか儲からないかの基準にならなければならないのである。
必要な事が経済的に成り立たなくなった時、経済は破綻するのである。
儲かるか、儲からないかが核になって経済的価値が形成されるようだから、世の中の価値は転倒してしまうのである。





       

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