55、経済の基軸は収入にある。


資本主義は「お金」中心の経済体制である。



現在の経済学は、経済を貨幣的現象としてしか認識していない。
しかし、経済学は、本来、よりよい生活を如何に実現するかを研究する学問なのである。
なぜならば、経済とは生きるための活動だからである。
貨幣的現象にのみ囚われていたら経済の実態を見失う。

そうは言っても、現代経済は、資本主義経済だけでなく、社会主義経済も「お金」によって動かされている。
人は、「お金」のために働いているのである。なぜならば、生きるために必要な資源は、「お金」でしか手に入らないからである。今の経済は、「お金」が全てだといっても過言ではない。

今の経済では、「お金」があれば大概の物は手に入れる事ができる。「お金」がなければ生きていくために、必要なものすら手に入れる事ができない。
例え、それが借金だとしても、強盗して得たとした「お金」だとしても、汗水たらして稼いだ金だとして「お金」には変わりない。それが「お金」である。どんなに立派な人でも「お金」がなければ生きていけない。よし悪しは別にして、今は、そういう世の中なのである。

かつては、「お金」が全てというわけではなく、「お金」に代わって物によって経済が動かされていた時代があった。また、「お金」と物とが併存していた時代もつい最近まであったのである。
物の経済というのは、共同体経済であり、大家族主義経済などがその典型である。共同体内部では貨幣によらないで資源の分配が行われている。

今の経済体制は、貨幣価値を下地とした体制である。

現在の経済は計算高い経済なのである。
なぜならば、「お金」によって形成される貨幣価値は、数値によってあらわされる価値だからである。物の経済における数値は、量を現す手段であり、価値を現す基準ではなかった。しかし、貨幣価値になると数値は価値を表す手段に変質したのである。故に、貨幣経済は、数に支配された体制となる。
現代経済では、これまで生活ができたのだから、経済が成り立っていたのだからと言う理屈は通用しなくなる。お金の動きによって生産量は同じでもインフレーションになったり、デフレーションになったりするからである。
生活できたというのは、本来は、物の生産と消費に関わる事象だが、市場経済下では、所得が減ったり、物価が急上昇すると生活が維持できなくなったりするからである。また、収益が減ったり、費用が上昇しただけで経営が成り立たなくなるのである。これまでと何も変わっていないのに貨幣価値が変わったからである。
生活に必要な物でも大量生産されると過当競争によって価格が低下し、生産者が、必ずしも恩恵を受けられないと言う事にもなりかねない。
必要性が価値を形成するわけではないのである。必要性はそれほどなくても需要があれば高価なのである。

今は、日常食べるお米やパンより、宝石とか、バック、DVDとか、洋服、ゲーム、自動車等の方が高価なのである。

昔は、飢饉や干ばつによって生活が左右された。逆にいえば、飢饉や干ばつがなければ何とか生活はできたのである。つまり、物の生産が直接生活に影響を及ぼすだけだった。しかし、今は、そういった物の量よりも貨幣価値の変動の方が大きな影響を経済に与えるのである。
農作物をいつもと同じよう、同じだけ作ったのに、生活が急にできなくなったなんて事が起こるのである。

実際の物の生産や消費、或いは、必要性という観点よりも数値化された貨幣価値によって経済は動かされている。そういう意味では市場経済は、計算高い経済である。つまり、市場は、数値によって動かされているといえる。

昔がよかったなんて言わないし、今が良いとも言わない。
ただ、経済を成り立たせている前提が変わったのである。
生活を送るための前提、生きていく上での前提が変わったのである。
その事を理解しないと現在生起している経済現象の意味を明らかにする事はできない。
又、どうやって生きていったら良いのかも解らなくなる。

ただ、経済の本質は、生きるための活動である事を忘れてはならない。

収入と収益は違う


現在、電化製品が電流で動いているように、経済を動かしているのは、「お金」の流れである。

貨幣経済を動かしているのは、収入と蓄え、支出と借金の関係である。

中でも一番要となるのは、収入である。
今の時代は、収入があれば生きていく事ができる。逆に言えば収入がなくなれば生活の基盤が失われるのである。
人は、「お金」さえあれば生きていける。逆にお金がなければ生きていけないのである。つまり、現代社会では、「お金」は水のような存在である。

どんなに業績が悪くてもお金が回っている間は経営は破綻しない。それが大前提である。
この前提は、経済全体にも言える。どんなに景気が悪くてもお金が回っている間は経済は破綻しない。

貨幣経済を実質的に動かしているのは、現金の流れである。
しかし、現金収支だけでは、経済の働きは測れない。現金を供給する為には、現金の働きを構造的に捉える必要がある。そのために、成立したのが期間損益である。

貨幣経済では、収入が基本になる。収入があって次に支出が決まる。
収入より支出が上回れば、不足した部分は、お金を借りてくるか、蓄えを取り崩して補う事になる。
収入が支出を上回れば余剰部分が蓄えとなる。余剰部分は、金融機関を経由して資金不足の経済主体に貸し出される。

収入と収益は違う。収入と収益の差が資本主義経済では重要な働きをしている。
収益というのは、収入が確定している事象を言う。収入が確定していると言っても現金の受け取りが実行されているとは限らない。現金の受け取りが伴わない収益は、貸付金として処理され、収益としてだけでなく、資産勘定に計上される。
収益とは、資金の働きを表し、収入は、資金の動きを表している。この様に一つの取引を二重に記帳する処理の仕方を複式簿記という。
金融的取引は、資金の動きを制御し、損益取引は、資金の働きを制御するから、収入によって資金の動きを制御する事はできても資金の働きを測定、監視する事は難しい。そのために、収益という概念が設定されたのである。

収益は、単位期間内のお金の動きと物の働きの整合性をとるために設定された概念である。つまり、「物」の経済と「お金」の経済の整合性をとるために設定された概念である。

収益と対となる概念は、費用であり。費用は、支出に対応している。そして、収益と費用は、期間損益に集約される。期間損益は、利益と損失からなる。
収入から支出を差し引いた金額は、残高だが、利益(損失)と残高は本質が違う。第一に、残高は、負の値にはならない。

現実に経済を動かし、生活を成り立たせているのは、現金収入である。故に、収益の働きと意義を知るためには、収入と収益の関係を明らかにする必要がある。
収入と収益の関係を明らかにするためには、現金収入の伴わない収益を知る事である。
現金収入を伴わない収益は、未決済収益である。

未決済収益の対極にあるのが、未払い費用である。未払い費用の主たる部分は買掛金と減価償却費である。
ただ注意しなければならないのは、減価償却費は支出と同じではない。未払い支出に対応するのは、長期借入金の元本の返済額である。
未払い費用の働きを理解するためには、減価償却費と非償却資産の現在価値の合計と、長期借入金の元本の返済額を比較対照して相互関係を明らかにする必要がある。

そして、損益が実現していない、すなわち、未実現利益の働きをどう解釈するかが、経済をどうするのかその施策を明らかにする。


収入の働きを制約するのは支出である。


市場経済を支えているのは、収入と支出の均衡である。

経済は、生きるための活動であるであるから経済の実態を理解するためには、生きるために必要なお金の動きを収入と蓄えの合計額と支出の両面から見ていく必要がある。

現実の生活を考えてみると常に、収入と蓄えの合計が支出を上回っている事が前提となる。この前提が守れなくなると経済的に破たんする事になる。

支出の働きを制約するのは収入である。
収入を性格づけるのは、支出である。
収入の働きの有効性は、支出と関係によって判定されるからである。
支出が収入を上回れば、収入は効用を発揮できなくなり、経済的には破綻してしまう。即ち、支出は、収入の範囲内で行われなければならない。これは、収入は支出の範囲を確定する事を意味する。収入と蓄えの合計額は、支出の上限を画定する。
収入には、生産的収入と金融収入がある。

支出には、金融支出、消費的支出の二つがある。金融的支出は貸借取引を介して実行され、消費的支出は、損益(売買)取引を介して実行される。

金融取引は、資金の動きを制御し、損益取引は、資金の働きを制御する。

金融取引が一定の水準に達すると損益取引は、金融取引の制御下に組み込まれる。

経済の動きを解明するためには、金融取引と損益取引の働き、現金収支と期間損益の働きの関係を理解しておく必要がある。

収益という概念に適用するために、消費的支出に対する概念として費用が設定された。収益と同様、現金の支払いを伴わない支出がある。この様な費用は、借入金として処理され費用としてだけでなく負債勘定に計上される。



内部資金と外部資金



投資は、資金調達から始まる。
資金には、内部資金と外部資金がある。
内部資金の原資は、資本(内部留保と含み益)に求められる。内部留保は元金と過去の利益の蓄積、そして、含み益は、名目資産と実質資産の差額を意味する。

初期投資の資金をどこから調達するかが企業構造の基礎となる。

資金を外部から調達をして投資をするというのが原則である。外部から資金を調達すると負債と資本が形成される。外部から調達された資金の性格の本質は借金と変わらない。
現代経済は、私的所有権を認めているようで実際は否定的である。資産を所有するといって対極には、負債があり、純資産には相続時に税金がかけられるようになっている。
資産を相続すると言う事は、同じだけの負債を背負いこむ事を意味している。

投資を前提とした経済は、大量生産、大量消費を前提としなければ成り立たなくなる。

市場では価格が決定的な働きをする。
市場価格は何によって形成されるのか。
市場価格は、需給と原価を基軸として変動する。
即ち、需要と供給と原価が価格を決定する要因となる。

需給は、生産と販売の関係から生まれる。
大量生産は、価格を低下させる。

原価は、固定費と変動費に分類できる。
単価では、変動費は固定的な部分を形成し、固定費は変動的部分を形成する。
変動費は、販売量や生産量によって影響を受けない。それに対して、固定費は生産量に反比例して低下する。
単価を下げようと思えば、大量生産をする事で固定費を下げるしかない。
大量生産を支えているのは、大量販売である。故に、量販しないとコスト高になり、採算がとれなくなる。
その根底にあるのは、操業度の問題である。即ち、固定費と変動費の関係である。
大量生産は、機械化を前提としている。機械化は、設備投資がなければ成り立たない。今日の設備投資は巨額の資金を必要としている。
経済の性格は、労働集約的であるか、設備集約的であるかによって性格に大きな差が出る。
大量生産によって劇的に低下するのは、償却費用である。それに対して、人件費は、生産力に限界があり、費用としては、硬直的である。不動産も費用としては、硬直的であるが、資産価値を形成する。故に、機械化が進んだ企業は、単価にかかる費用を劇的に低下させる事ができる。
大量に生産し、大量に売れば固定費を低減する事ができる。安売りをしてでも販売量、ひいては、生産量を増やそうとする。それが、過剰生産、過当競争を生み出し経済を不安定にするのである。
機械化は、産業の性質を労働集約型から資本集約型へと変質させてしまうのである。
生産手段と負債は、対になって成立している。一方だけ注目していたら現金の働きを測る事はできない。
生産手段は、一定の期間をかけて償却される資産と償却されない資産に分かれる。償却されると言っても簿記上の話で実際に資金の遣り取りがあるわけではない。
この償却というのは、経済上に固定的な部分を形成する。償却資産は費用性資産でもある。
俗に、償却費は現金を伴わない費用という認識があるがこれは重大な間違いである。償却費の背景には、長期借入金の返済が隠されているのである。
収益と費用と利益の関係には、収入と償却費と借入金の返済の関係が隠されている。

資金の過不足を調節するのが金融機関の役割である。
すなわち、余剰な資金を持っている経営主体から資金が不足している経営主体に資金を融通する。それが金融の働きである。


資本主義は、借金経済でもある。



投資経済というのは、反面、借金経済でもある。

借金の量は、預金量の増加と比例する。

今日借りるという意味には二種類ある。
一つは、「お金」を借りる行為である。もう一つは、物を借りる行為である。
リースやレンタルは物を借りる行為である。
お金を借りるのと物を借りるという事にはどのような違いがあるのか。
例を挙げると家賃を払って貸家を借りるのは、物を借りるのである。それに対して「お金」を借りて家を買う事もできる。この場合、家賃に代わって借金に対する返済が始まる。
つまり、「物」を借りるのと「お金」を借りるのとの差は、家賃と借金の返済の性格の違いを意味する。
この違いは、物の経済と「お金」の経済との違いにもなる。物を借りた場合、所有権は得られない代わりに支払えなくなれば物を返せばそれで済む。しかし、「お金」を借りたときは、「お金」を返さない限り破産してしまうのである。しかも、お金の返済は待ったなしに来る。

日本人は借金をしたのである。
そのことの意味を正しく理解していない。借金というのは、お金の前借りであり、お金は返さなければならない。この事の持つ意味がどうも理解されていない。そして、ある時期一斉に借金をしたら市場の金回りは一時的によくなる。それが見かけ上の景気をよくするのである。しかし、借金の返済は、毎月、毎年、継続して実行される。徐々に金回りが悪くなる。要するに、借金をすると一時的に手持ちの資金は潤沢になるから金持ちになったように錯覚する。しかし、実際は、月々の返済がもう片方に発生しているのであり、借金の返済は、厳格に履行される性格の支出なのである。
借金が増える事は、月々の固定的な支出の占める割合を上昇させる事を意味するのである。
これは、家計に限った事ではなく、財政も企業も同じである。

借金が増加すると支出の構造が変質する。即ち、固定的部分が増えてきて支出が硬直化してくるのである。
この様な借金の働きは、資金の働きが測定できないと明らかにできない。知らず知らずのうちに家計や収益を圧迫し、生活を苦しくする。
財政も然り。現在の財政は、現金主義である。現在の財政は、現金収支のみで財政状態を一定に保とうとしているが国債は増加し続けている。それが財政そのものを圧迫して有効な経済政策や金融政策を打てないでいる。

負債が一定の水準を超えたら、経済に対する施策も、金融取引と損益取引を均衡させるように変えなければならない。

収入には、金融収入と生産的収入の二つがある。
借金の増加は、収入の構造も変化させる。借金の増加は、月々の返済額の増加を招く。それは、所得を圧迫し、可処分所得の減少を招く。借金の返済額は、硬直的で景気の変動の影響を受けない。そのために、所得が上昇している時は、可処分所得の上昇を招き、逆に、所得が減少すると可処分所得は減少する。又、インフレーションは、借金の負担を軽減し、デフレーションは、借金の返済の負担を重くする。



収入と支出の性格と構造


経済の働きは収入と支出に還元される。
故に、経済を制御するためには、収入と支出の性格を割り出す必要がある。

支出には、固定的支出と変動的支出がある。
さらに、変動的支出には、周期的支出と臨時的・一時的支出がある。
また、支出の基礎は、物価に連動して変化する。

収入にも現金収入、収益に連動した収入、一定の金額を定期的に支給される収入、働きに応じた収入、成果に応じた収入、必要に応じた収入等がある。

そして、収入と蓄えの額が支出の上限を確定する為、収入の性格は、支出の性格を制約する。
また、生産的収入は、金融的収入を制約する。

支出の上限は、収入に依存する部分が大きく、金融的収入は、生産的収入に制約されるため、生産的収入の性格が生活を根本的な部分で左右している。生産的収入は、雇用と深く結び付いているために、失業率の動向は、経済の根本を揺るがしているのである。

支出は、消費に直接的にかかわっている。つまり、支出の性格は、消費の性格に依存している。
消費の性格には、生きるために必要な消費と自己実現をするために必要な消費がある。
生きるために必要な支出は、衣食住にかかわる支出である。

消費される期間によっても支出の性格は違ってくる。
消費の性格は、収入によって変化する。
生鮮食品のように日常的に消費される物もあれば、サービスのように実体を持たない財もあり、家具のような耐久消費財は長い期間をかけて消費される財もある。

泡銭というように、臨時的で予想外の収入は、固定的支出に使われることは少ない。なぜなら当てにならないからである。また、借金による収入は、以後の可処分所得に影響する。この様に収入の性格は、支出の性格に影響を及ぼしている場合が多い。

経済の質は、収入の平均、分散、幅(ボラティリティ)によって定まる。

収入の中に必要不可欠で一定額、常時、消費される支出がどれくらい占めているか。特に、借金の返済のように一定額、一定期間、支払い続けなければならない支出がどれくらい含まれているかは、生活の質にかかわってくる。

経済を考える上で、住居にかかる支出をどの様に考えるかが一つの鍵となる。
家賃、住宅ローンの月々の返済額が、収入に占める割合がどの程度になるかは、可処分所得を考える上で重要な点である。
住居に関わる支出は、固定的な支出となる。また、住居に関わる支出は、必需的支出であり、なおかつ、一定、固定的支出である。又、長期的資金を形成する。

住宅の支出を考える上で重要となるのは、物を借りるか、金を借りるかである。賃貸として家を借りる場合と、お金を借りて家を買う場合の違いである。ここに経済に対する根本的な認識の違いがある。

つまり、アパートを借りて家賃を払うというのは、物を借りることで、物の制約を受けても資金に拘束されることはない。それに対して、住宅ローンを組んで家を買うと言う事は、「お金」を借りて物の所有権を得ることで、物を自由にすることができても、「お金」に拘束されることになる。
貨幣経済の本旨は、後者即ち、「お金」を借りて月々の返済をさせる事にある。ところが、借入金の返済は名目的な支出であるから「お金」の循環が悪くなると途端に借り手の収支は、生活を圧迫する。
又、一定期間、一定の金額を固定的に支出することが予め仕込まれていると言う事は、収入の性格や構造にも影響をする。つまり、支出の鏡として一定期間、一定の最低額を固定的に収入することが裏付けられていなければ成り立たなくなる。これが物を借りることとの決定的な差である。賃貸住宅に住む者は、名目的経済と実質的経済の整合性がなくなれば、実態に合わせて家を借り換えれば良いからである。
同時に、借入金による収入は、金融機関に対する定期的な返済資金の流れを構成し、ストックとなる。



収支の平準化



収入は、売り上げを基としている。売り上げは、一定していない、不安定な性格を持っている。それに対して支出は固定的な部分が占める割合が大きく、収入が一定しないと生活は安定しない。
生活は、経済の基盤である。

収入は不安定なのに、支出は、固定的だと生活は常に安定しない。
そこに収支を平準化したいという動機が潜んでいる。

借金も、収益、費用、利益、減価償却費、月給も、収支の平準化をしたいという動機に基づいて形成されたことである。

経営主体の収支を安定させるために、期間損益が編み出され、家計収入を安定させるために、賃金制度が考案された。
一定期間、一定収入を支払われることが経営主体によって保証されることで私的借入金の技術が確立された。

雇用形態の変化は、経済に直接的な影響を及ぼすのである。

経営主体の重要な働きの一つに、収支の平準化がある。
経営主体は、収入と支出を整流する働きがある。
その働きが、費用対効果としてあらわされ、期間損益として測定されるのである。

金融的支出が収入に占める割合が高くなると収入を一定化する必要性が出てくる。それが収入の平準化の必要性を高め、賃金労働を浸透させる契機となる。賃金の平準化は、住宅ローンの浸透などを通じて借金の技術を向上させた。また、借金の返済額と家賃との関係が景気に重大な影響を与えるようになる。

末端の経済単位は、家計である。
家計は、消費単位でもある。
消費単位である家計の収入は、経済の最終的規模を確定する。

そして、家計の収入が平準化されることによって経済は安定するといえる。
家計の収入を平準化する手段は、定収化、賃金化、正社員化である。
つまり、一定期間、一定収入、常雇を保障される事によって長期借入金や生産計画等が担保される。
それが経済の根底にある信用制度を堅牢なものにするのである。

今日の経済の不安定化の原因は、この信用制度が揺らいだことにある。



市場の構造化


市場の正常に働かせるためには、いくつかの条件が整っていなければならない。
一つは、市場の参加者の手持ち資金。次に、市場参加者の欲求を満たすのに必要な財の量。そして、両者が合意できる価格の三つである。市場競争を行わせるのが目的であるように錯覚している者がいるが、市場は、あくまでも分配を実現するための場なのである。市場は、市場取引を通じて財の生産と分配を制御することを目的とした場なのである。

市場は、財の分配を実現する処である。
分配は、市場取引によって実現していく。
市場取引に参加する者、(基本的には、生産者と消費者であるが)市場を通して自分が生産したものと生きていくために必要な財とを交換していく。交換を通じて分配を実現するのが市場である。

市場は、収入と支出を調節する場である。
市場には、市場取引を通じて収入と支出を均衡させる働きがある。

この様な市場には、目的に応じて市場規模と構造がある。
市場は、一人では成立しない。

市場は成熟してくると過飽和な状態に陥る。それは、成長市場と市場の性格が変わることを意味する。
成長市場と成熟市場とを同列で語ることはできない。
市場の構造が違うのである。

市場が成熟してきたら市場規模に対して適正な経営主体の数が維持できるように市場構造を整える必要がある。

競争が市場の主目的ではない。競争は、市場の働きを有効にするための手段である。
過当競争を放置すれば市場は効率を失い。独占・寡占状態へと向かう。
日本の市場に野球チームがどれくらいあれば適切な競争が働くかが重要なのである。
競争は、絶対ではないし、かといって失くしてもいいという訳ではない。
一チームでは野球はできないし、二チームでは、競争の法則は働かない。かといって百チームもあったら経済的に成り立たないであろう。適正な数を維持することが経済的なのである。

市場経済が有効に機能するためには、一定の収入が満遍なく行渡っている必要がある。
必要な資源を手に入れるためには、それを手に入れるだけの収入が保障されていなければならないからである。
市場経済では、収入が保障されていることが前提となる。

生産収入と消費支出の構造は、産業構造や市場構造を制約する。
生産の在り方は、資産構造の基礎となる。資産構造は、価格構造の土台となる。
資産構造と収益構造、費用構造が組み合わさって損益分岐構造を形成する。

価格は、経済を調節するための指標である。ただ低価格がいいというのではない。
価格は、経済が成り立つように調整されるべきなのである。
そのために、競争の法則を働かせるのも一つの手段である。
しかし、競争は絶対的原理ではない。
市場の目的、状況、段階などを勘案しながら、適正な価格が形成されるように市場は規制されるべきなのである。

規制緩和が叫ばれ規制はことごとく悪いように短絡的に決めつける学者がいるが、規制そのものが悪いと決めつけるのはいささか乱暴すぎる。
市場の目的や状況、段階に照合して不適切な規制があり、そのような規制は、改善すべきだというのならばまだ理解できる。しかし、規制そのものは悪であり、すべてを撤廃せよというのはアナアキーである。

意味もなく市場を混乱に陥れるだけである。

現代の市場は、過飽和な状態である。



競争原理主義者は、競争を万能薬のように考えて、何が何でも競争をさせようと試みる。
しかし、どんな状況でも競争をさせればいいというのは短絡的である。
成長期と成熟期の市場を一律に語る事はできない。
成長期と成熟期では、市場は性格を変えるのである。

現代の市場は、過剰供給、過飽和が常態化している。
過剰供給、過飽和な状態で競争を促せば、価格は限界を超えて低下し、必要な利益を維持する事が困難になる。
適正な利益を維持できなければ、雇用を維持することもできなくなる。
ところが過剰供給、過飽和な状態に市場をしておけば物質的な面で経済は破綻することがない。
その結果、原価を割り込むような過当競争に市場は陥り、企業は適正な費用を賄うことができなくなっているのである。
この様な状況が景気を停滞させる一因となっている。

人の経済と物の経済は、「お金」を介して表裏の関係にある。
費用は、物やサービスを介して人件費へと最終的に還元される。
つまり、費用は人件費の塊でもある。

市場は成熟するにしたがって量から質への転換を計らないと景気を維持することはできない。

市場が成立し、拡大、成長期に入る段階では、負債も蓄えも少ない。
市場が成熟してくると負債や貯蓄の残高が累積してくる。
それが一定の水準を超えると負債や貯蓄、設備が過剰になる。

これは大量生産型経済の宿命でもある。

経済の働きは、お金の循環によって財を分配する事である。

経済の循環には、「物」の循環と「お金」の循環がある。
経済には、「お金」の蓄えと流通の均衡があり。「物」の蓄えと流通の均衡がある。

蓄えは、本来、「物」であろうと「お金」であろうと過不足を補うことが本来の働きである。
つまり、「物の蓄え」も「金の蓄え」も蓄えは、循環を補助するのが役割である。
そういった蓄えの働きを基として金融機関は成立したのである。
しかし、設備投資が一巡すると市場は過飽和な状態に陥り、投資の余地が縮小する。
その一方で新規の投資先が減少することによって貯蓄の残高が金融機関に累積する。
市場が過飽和な状態では、新規の設備投資をしても資金を回収する目処が立たなくなるからである。

市場が成熟してくると支出構造が変化してくる。
それまで物質的投資に向けられてきた資金が金融投資に向けられるようになる。
その結果、支出の方向が金融に向かう事になる。

負債と貯蓄が過剰になると「お金」の流れを圧迫するようになり、「物」の流れを悪くする。
物の市場に流れるべき資金が金融市場に向かうことで、収入と支出の均衡を崩してしまうからである。
所得に占める可処分所得の割合が低下し、収入の中で自分の裁量で支払える支出の範囲が狭くなるからである。

自動車産業は、自分の工場の労働者を消費者にしたことで発展した。つまり、生産した財を月々の所得の範囲内に圧縮するさせる事で、生産財の捌け口を確保してきたのである。
この様な仕組みが機能している間は、大量生産型産業はうまく機能することができたのである。
市場の変化は、労働者一人一人の収入と支出に反映される。借入金に対する返済額の支出にしめる割合が高くなると物への支出は、市場から締め出されてしまう。
その結果、物の市場に「お金」が回らなくなるのである。それが過剰負債、過剰貯蓄となるのである。
そして、過剰負債は、過剰投資を生み、過剰設備となる。過剰投資は、市場を過飽和な状態にし収益を圧迫してしまう。経済の量から質への転換を阻むのである。

バブル崩壊後の景気の低迷を招いたのは、過剰負債、過剰設備に加えて過剰雇用だと言われた。
過剰雇用は、過剰負債、過剰設備と表裏の関係にある。



終わりに



経済の最終的目的は、分配である。生産ではない。生産は分配の前提である。この点も明確にしておく必要がある。だからこそ貨幣に囚われてしまうと経済の実態が見えなくなるのである。貨幣は、手段であって目的ではない。
貨幣は、財の生産、分配するための手段である。
経済の目的は、生産された財を必要とする人に対し分配する事にある。
お金を儲ける事は目的ではない。利益を上げる事も目的なのではない。
人々が必要としている財を必要なだけ生産し、必要としている人に必要なだけ分配する事が目的なのである。

今は、「お金」中心の経済の時代である。しかし、経済の本質は「お金」ではない。
人は、生きるために「お金」を必要としているのであって、「お金」のために生きているわけではない。
お金の儲かる仕事が尊いのではなくて、世の中に必要としている仕事が尊いのである。
世の中に害をになる仕事が成り立って、世の中に役に立つ、有益な仕事が成り立たなくなるとしたらそのような社会は、社会構造が歪んでいるのである。

お金中心の世の中だからこそ、経済の本質を忘れてはならないのである。
お金本来の役割を忘れてしまえば守銭奴のようにお金の奴隷になるものが現れたり、金儲けのためなら何をしてもいいと手段を選ばない者が現れたりもする。

経済の本質は生きるための活動である。
何のために、誰のために生きているのかを忘れたら経済の本質は失われてしまうのである。








市場


       

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