1.経済数学

1-11 線形代数

一本の直線


 一に点、二に、線、三に、面。
 二次元は平方、三次元は、立体、四次元は、時空間。
 三角形は、図形における最小単位。

 一本の直線。それは数と数との基本的関係を表している。

 数式で最も肝心なのは、数と数の関係、対応を表す事で、その最も根源的な関係が直線的関係、即ち線形的関係である。
 微分も最終的には、直線的関係に還元し、個々の局面の相を求めることなのである。

 線形というのは、比例を意味する。
 比例は、直線として表現される。
 何が何に比例をするのか、それは、未来を予測する上で重要な要素である。
 因果関係、相関関係の基でもある。
 だから線形という事が重要となるのである。
 正比例、反比例は、一本の直線となる。

 比例を表す数式は直線を描く。
 この様な直線は、変数と定数を表している。
 変数は、独立変数と従属変数からなる。
 しかし、これとて相対的である。

 集合の要素を直線に集約して全体の性格や傾向を明らかにするのが線型である。
 線型は、比例を表す。
 比例的に現れる関係とは、何かが何かに反応している。
 何かが何かに比例して大きくなるとか、小さくなる、濃くなるとか、薄くなる、強くなる、弱くなると言う関係を線型関係という。
 他に、高くなる、低くなる、熱くなる、冷たくなる、深くなる、浅くなる、厚くなる、薄くなるなどがある。

 一という線分。一という長さ。一という大きさ。一という全体。一という部分。
 古代ギリシア人は、数を線分で表現していた。そこから、分数が生じたのだ。そして、無理数も見いだされた。

 古代ギリシア人は、線分によって演算も証明した。それが今日の数学の源となったのである。

 つまり、線分を活用して足し算をしたり、引き算をしたり、掛け算をしたり、割り算をしたのである。そこから、分数や小数、そして、有理数や無理数が派生したのである。

 更に、近代に入ると線分を組み合わせて数式と図形とを結びつける試みがされたのである。それが座標軸である。
 デカルトは、二本の直線を組み合わせて座標を考案したのである。
 この事によって位置と運動と関係が図形と数式とが関連づけられたのである。

 数の体系を点の集合として認識する考え方と連続した直線として認識する考え方がある。数を点の集合とするのか、連続した直線とするのかは、対象の問題ではなく、認識者側の問題である。

 光を波動としてみるか、粒子としてみるかに似ている。

 数を点の集合と認識するか、直線としてみるかは、連続、不連続、或いは、有限、無限の問題を喚起する。

 しかし、数を連続した線としてみるか、不連続な点の集合として見るかは、相対的問題である。どちらか一方の見方が絶対というのではない。
 目的や前提によって予め任意に定めておけばいいのである。それは絶対的真理ではない。

 現代人は、数を離散数、即ち、デジタル数として認識し、連続数、アナログ数として認識しなくなりつつある。

 しかし、数学の原点においては、数える数としてのみではなく、測る数として認識する仕方もあったのである。特にギリシア人は、図形によって数学を構築してきた。それが幾何学である。
 また、近代数学もデカルトが座標によって図形と方程式とを結びつける事に端を発している。


点・線・面


 幾何の原点の数のとらえ方は、数学を点と、線と面を定義する事から始まる。
 始めに三つの対象がある。一つの対象を点とし、もう一つの対象を線とし、もう一つの対象を面とする。

 最初に点がある。点は線になり、面を構成する。面は組み合わさって体積になる。変化が加わって時空間が構成される。

 最初は、点である。それが、一本の直線となり。二つの直線が一点で交わって交点をなる。複数の直線が集まって範囲と領域を作る。それが空間であり、次元である。

 一本の閉ざされた線分は距離を表す。距離を延長したものを線とする。

 線は、点の集合とする見方と、連続したものとしてみる見方がある。
 そして、一という単位は、任意の線分を一とする事によって成立する。任意の線分とは、任意の長さ、或いは、任意の距離と言い換える事もできる。

 経済においては、距離が重要な意味を持つ場合がある。

 距離とは何か。一般には、空間的隔たりをいう。遠い近いを測る尺度して距離は用いられる。
 最近、飛行機ができて東京と九州の距離は近くなってきたといった場合、時間距離を表している。この場合、移動する時間が短縮された事を意味する。このような距離観を時間距離という。
 また、旅行をする時は、二点間の直線距離というより道に沿った距離を指す場合もある。
 このような距離を定義するためには、まず、点の集合を想定する。この場合の点とは、集合を構成する要素を指している。初等幾何学的な意味の点ではない。何らかの形で明確に規定してあればいいのである。
 たとえば、解析学でいえば関数も点になるし、確率論では、事象も点になる。要するに、「あるもの」と考えればいい。(「現代数学入門」遠山啓著 ちくま学芸文庫)
 この二点の間の隔たりが距離である。

 距離とは、任意な点という要素の集合が設定され、その点の中の二点の間に何らかの値、(たとえば、負でない実数)によって距離が定義されると距離空間が成立する。この場合の距離は、空間的な距離である。
 気をつけなければならないのは、数値によって表現される距離とは、絶対値、すなわち、負の値を除いた値だという点である。この点は、経済的距離も同様である。

 ゴムの上に描かれた図形を考えてみた場合、ゴムを変形すると距離はゴムの形によって伸び縮みする。しかし、図形の基本、構成、構造に変化はない。つまり、距離は変わっても、基本や構成、構造は変わらない事象があるという事を示している。このような事象は、経済的事象に多く見られる。故に、経済においては、経済的距離と構成、構造の関係が重要になるのである。

 距離には、空間的な距離、物質的な距離、時間的な距離、機能的(能力的)な距離、論理的(手続き的)距離、経済的距離等がある。

 乗り物の性能によって、たとえば、東京から九州へ行くのに、飛行機で行くか、歩いて行くかで距離に違いが生じる。このような距離を機能的距離というのである。

 始め、数は、点であった。点である数に、順番が生じた。0の概念が確立されるに従って、順番は、順序となり。数は、連続して直線になった。
 数に順序が結び付けることによって数に位置が生じる。位置と位置とを繋ぎ合わせることによって数は連続したものになる。

 数の位置と順序が定まれば、量を計算できるようになる。
 一定の量は単位となる。
 一定の量の数をまとめると位取りが可能となる。
 位取りが出来れば、桁が決まる。
 桁が決まれば、数は体系となる。

 位置と0の概念が結びつき、0が基点として確立される事によって負の概念が成立する。それが経済である。

 位置が定まれば、方向が生じる。数と方向が結びついた概念がベクトルである。

 数に方向性を持たせるのがベクトルであり、数に方向性を持たせることによって数の働きや運動を数学的に表現する事が可能となり、同時に位置を陰に作用させることも可能となった。

 仕事や変化、運動、流れ、働き、時間で大切なのは方向である。なぜならば方向は、働きや関係の本だからである。

 方向は、方針を産む。

 通貨の働きは、通貨の流れる方向と量によって定まる。故に、通貨の流れは、ベクトルである。また、通貨の流れの内積と外積が重要になる。

 財務諸表に表れる数値は、現金流れによって描かれた軌跡による残像である。本来の経済的作用は、現金の働きにある。現金の働きを測定するために、現金の流れの働きを数値化した計算書が貸借対照表であり、損益計算書なのである。そして、貸借は、対照表であり、損益は、計算書なのである。対照表と計算書の違いは、貸借が一時点の状態を比較対照した表であり、損益は、一定期間の働きを計算した計算書だという事を意味している。この点を理解しないと財務諸表の働きを理解することはできない。

 数学は、元来、経済行為の一種なのである。それが自然科学に活用されることによって飛躍的に進歩した。その為に、数学は、経済から独立し、また、数学の基礎が経済学から失われてきたのである。

 負の数も借金が本となって成立したと言われている。負の数は、借入金を想定することで成り立ったと考えられているのである。(「数学入門」小島寛之著 ちくま新書)
 ただ、今日で言う、負の概念は、0と数直線、座標の概念が確立された後に成立した。
負というのは、足して0になる数である。簿記的な発想では、負の数は足して0になる数を対極に設定することによって成り立っている。それが複式簿記の基礎となる。
 つまり、借入金を負債とし、その対極に借入金の値に見合う資産を設定することで複式簿記は均衡するのである。
 資産を借入金の延長線上におき、それを均衡させることで、負の数に裏付けを持たせているのである。
 ただ、マイナスという概念が確立されていないために、「+」「-」という記号で表現するのではなく、借方、貸方という位置付けによって表現したのである。
 負の数は、逆方向に正の数を設定することによってスカラー量、即ち、絶対値となる。それが複式簿記を成立させた概念の一つである。
 この事から、正負の計算は、数直線上における方向算である事が明らかになる。
 会計現象は、0を起点とすることから0において均衡する。複式簿記を基盤として経済体制では、ゼロサム関係が鍵を握っているのである。

 なぜ、ゼロサムになるのか。それは、数学も貨幣価値も認識の問題だからである。数学の本質は認識上の問題である。

 この事から経済では、何と何とを同一視するかによって経済の枠組みが形成されていることを意味する。

 点は、0であり、線は数直線である。
 正と負の概念は、0と数直線、座標の概念が確立された後に成立した。
 正と負は、0を基点とし、一方の方向にある数を正とし、その逆方向にある数をマイナスとする。負というのは、足して0になる数である。0を基点とすることで数に位置が生じ、方向性が成立する。
 正負の計算は、数直線上における方向算である。(「数学入門」小島寛之著 ちくま新書)

 関数は、座標空間上の数、又は、点を他の数、又は、点に結び付ける仕組みである。
 数と数、点と点を結び付ける働きには、原因と結果、単位の変換、時間の作用などがある。
 関数によると図形は、不定方程式の解の集合と見なす事が出来る。(「数学入門」小島寛之著 ちくま新書)

 距離や位置が経済にとって重要な意味を持つように,面積も経済にとって重要な意味を持つ。故に、積分が、経済に関わっていくのである。

 経済にとって図形は特別な意味がある。
 なぜならば、貨幣経済の本質は、数学であり、数学本来の対象は図形だからである。数値は仮想的な値であるから、数値だけで経済を捉えようとすると経済は仮想的領域に留まってしまう。経済に実態を与えるのは、実物であり、図形である。故に、座標軸、座標平面、座標空間、不定方程式は、経済の問題を解く上で重要な役割をしている。

数学は世の中の必要性から生まれた


 数学は、世の中に役に立たない。
 無用の用などと馬鹿げた事を言う者がいる。
 数学は元々必要性から生まれたのである。

 数学には、大雑把な所と繊細で厳密な側面がある。
 また、実用的な部分と非実用的な部分がある。
それは、数学は、手段であって、本来、数学は、合目的的な事なのである。
 数は抽象であり、数が指し示す対象によって数の性格も違ってくるのである。

 数学を数字の取扱方としてしか、教えなかったら、後々、数学というのは、生きていく為に何の役にも立たないと思い込むのは、不思議な事ではない。

 包丁の研ぎ方ばかりを教えて料理の仕方を教えなければ、包丁は凶器でしかない。

 数学とは何も非日常的で、特別な事象ばかりを扱っているわけではない。
 ごく一般的で日常的な事象の中にこそ数学の本質は隠されている。

 例えば、週末にバーベキューパティーを開くと仮定する。パティーに呼ぶ人数は、三十八人だとする。内訳は、男性が二十人、女性が、十八人、その内、子供が五人居るとする。人数分の料理を用意しなければならないが、大人と子供の分量は違う。飲み物も、子供はお酒が飲めない。お酒の飲めない人が三人居る。費用は、大人数で割り勘にするつもりだが、お金は当日回収する。それまでは幹事の借りとする。

 これらの事は全て数学的事象である。

 大人と子供、男と女、又、料理のメニューや材料の組み合わせや人数と料理と価格の積と言った方程式の問題となる。

 この様な点を考えると経済数学の根本は、数論、集合、順列、組み合わせ、確率、統計等であり、数学を代数、幾何、微分積分等だと思い込ませるのは間違いである。

 数の性格は、大人や子供、男性と女性と言ったその時点において数が指し示す対象によって制約されるのである。
また、全体の数の要素は、全体に対する認識や設定によって変わる。

 パティーのような大規模な事でなくとも今晩のおかずはどうしようかと考える事だって数学的事象なのである。

 今日、数学は生活と同化してしまっているのである。

 人口、高齢者、家の着工件数、所得と言った数の性格は、数が指し示す対象によって決まる。
対象というのは何らかの全体を持っている。全体を構成する要素の数は、全体のとらえ方、認識の仕方によって決まる。

 一般に、数というのは、唯一の存在であり、絶対的な事だという錯覚がある。また、数学というのは、厳密であって解答は一つしかないという思い込みがある。今の学校教育でその錯誤が強化される傾向がある。しかし、数というのは、抽象的な事で、手段であり道具である。抽象的で、手段、道具である数は、その基となる対象、目的、扱い方や処理の仕方で、いくらでも姿形を変え、性質にも違いが生じる。故に、自然数、整数、実数等の差が生じたのである。
我々が数値を扱う時は、前提条件や目的を確認すべきなのである。

経済とは数学である

 経済とは、数学である。数学と言っても純粋数学という意味ではなく。
 数の持つ本来の働きに基づいて成立しているという意味で数学だというのである。
 経済は数によって成り立っている。それは貨幣によってより顕著になった。
 しかし、貨幣経済が確立される以前から経済は数によって形成されてきたのである。

 例えば、獲物の数とか、収穫量、家畜の数といった数に始まり。分け前を与える数とか、子供や大人の数。土地の大きさ、木の高さ、物の重さ、相手との距離というように数は発展していったのである。
 突き詰めてみると経済は数の論理によって支配されている。

 物心がついて最初に教えられるのは数の数え方である。
 言葉は、自然に生活の中で覚えるが、数の数え方は教えられないと覚えない。
 数というのは、それだけ人工的な概念なのである。

 体重、身長、財布の中身、今日食べた食事のカロリー、体温、血圧、脈拍、血糖値。好きな人の電話番号。
 血圧の正常値を超えたら食事に注意をしなければならない。
 数字は生活に直結している。数字には、本来、温もりがあるのである。
 売上、粗利益、数量、単価、売上高。利益率に占有率、損益分岐点、労働分配率。何処を見て投資先を決めるか。これらは総て数値情報である。数値情報は、時には自分の運命をも左右する。
 そして、経済は生活であり、足し算引き算ができければ現代社会では生きていけない。

 子供がお使いに行っておつりを間違わないように。大人が釣り銭を誤魔化すようになったらお終いだ。歳をとっておつりの計算ができなくなったら一人で生きていく事は難しい。簡単な計算と言うけどそれが大事なのである。

 経済的数値は任意に定義されることによってその働きを発揮することができる。経済的数値の性格や働きは、数が定義された際、設定される前提によって変わる。
 人は、対象を数の概念と結びつけて識別し、数えたり、足したり引いたりという操作を無意識にしているが、これは高度な知的行為なのである。

 又、数は、普遍的な意味を持つ。つまり、数は万国共通の概念である。だからこそ、言葉が通じなくても経済的交流は可能なのである。この点も意外と見落とされている。
 市場が国境を越えて形成できるのもこの数の持つ普遍性による。

 会計は、数学的体系である。数学的体系だからこそ万国共通に使えるのである。日常話したり書いたりする事に使用する言語はそういうわけにはいかない。故に、通訳が必要となる。数値を土台とした科学や会計は、万国共通なのは、数の普遍性という性格に依る。

 そして、今日、複式簿記、近代会計を基礎とした経済では、市場規模とか、価値の総量、通貨の流通量、回転数、速度と言った全体的数や一人あたりの所得、消費量と言った何らかの単位に基づく数、固定費と変動費、貨幣価値は自然数、複利か単利かと言った数の性格による分類が重要のを役割や意味を持つようになってきたのである。
 更に、集合や統計、確率と言った数の根本的性格、それに基づく平均値や中央値、偏差と言った数の持つ特性が経済の根本を形作るようになってきている。
 その様な意味において経済は数学だといえるのである。

 数学的性格は、産業毎に違う。その違いを前提として産業毎の性格に応じた経済政策が立てられないと経済政策の実効力は発揮されない。

 又更に、現実の経済では、暗号や素数が重大な働きをするようになってきた。
 情報産業や通信産業が新たな数学を生性発展させているのである。
 経済では、アルファベットも数字的な機能を加えられることさえある。
 二進法や論理も数学的に扱われている。
 この様に経済は数学の新たな分野を切り開いているのである。

 経済は数を認識し、表現する事が求められる。

数の性格

 数は本来、数が指し示す対象の性格に依って性格付けられる。
 数は数だけでは成立しない事なのである。
 純粋数学は、数の持つ性格だけを抽出する事によって成り立っている。
 しかし、数は、数とその指し示す対象とが一対になって始めてその働きを発揮するのである。
 その意味で経済はより数学本来の姿をしていると言える。

 かつては、数は、数が指し示す対象と不離不可分な関係にあった。その事を示す好例が日本語の助数詞である。
 船は、一艘二艘と数えられ、人は、一人、二人と数えられる。家は一軒二軒と数えられる。動物は、牛や馬のように一頭、二頭と数えられる動物もいれば犬や猫のように一匹に引きと数える動物もいる。ウサギは一羽二羽と数える。
 この様に数は、数が指し示す対象の性格に依って使い分けられていたのである。
 この事で重要なのは、助数詞は、単位の元でもあるという事である。

 経済的数値には次のような特徴がある。
 第一に、経済的数値は集合を本としている。第二に、経済的数値は数列化できる。第三に、経済的数値の数列は直線的に捉えることが可能である。第四に経済的数値は、次元を形成する事ができる。第五に、一様だとは限らない。第六に、経済的数値には、密度がある。第七に、時間と物質的数値は連続量を基とし、人と金は、離散数を基としている。第八に、時間と物は、実数を基礎とし、人と金は自然数を基礎としている。

 例えば、生鮮食品には、賞味期間があり、その賞味期間によっていろいろな数値的属性が付加される。
 人生には限りがある。生まれて、学校に通い、結婚をして、死ぬ。人生には、いろいろな時間や数値による制約がある。それが数の属性を決めるのである。人生には長さがあり、その折々に生きる為の出来事があるのである。

 経済的数値は、集合を基としている。
 経済的数値は金額として表現される場合が多いが、金額、即ち、貨幣価値、価格は、何らかの実体、物や用役といった財の集合と貨幣単位が結びつくことで成り立っている。貨幣価値は、金額だけで成り立っているのではない。
 そして、何らかの財と貨幣単位が結びつくことで、経済価値の属性が形成されるのである。

 数が指し示す対象と数とを切り離して数そのものの性格や論理を探求するのが純粋数学である。
 必然的に経済的な数学と純粋数学とは、性格的に違いが生じる。
 だからといって数学は経済に必要としないとするのは早計である。
 むしろ、経済こそ数学を形作ってきたのである。

 経済的数値は、一様だとは限らない。我々は、数というと等間隔に並ぶ或いは分散する数を想定しがちであるが、経済的数値は必ずしも等間隔に並んでいるとは限らない。
 将来はどうなるか解らないが、現在、物と時間は実数として表現することが可能だが、人と物は、自然数としてしか表現できない。

 真に経済は数学なのである。

 今日、足し算、引き算、掛け算、割り算といった四則の演算ができないと日常生活にも事欠くようになってきたのである。
 ただ、だからと言って高等数学のような高度な数学を理解しないと経済は成り立たないというわけではない。

 経済にとって数学は、より身近な存在なのである。それ故に、数学として経済を意識することが少ないのかもしれない。

 最近、大学入試で数学が教科から外されたと聞く。
 それは経済に対する間違った認識に基づいていると思われる。

 経済的価値は数値によって表されるのである。

 我々は、日常、数を何気なく使っている。数の性格や数の意味を改めて考えて使っているわけではない。
 例えば、貨幣価値は自然数であり、ゼロ以下の貨幣価値はないとか、貨幣単位は離散数だと言う事がどの様な意味があるといった事をあまり考えた事はない。
 しかし、数にも性格があり、その性格に依って経済事象は、変化する。
 数の性格が経済の有り様を決めるのである。

 数と言っても人の数と物の数とは違う性格がある。お金の価値も又違う。
 その数が指し示す対象によって数の性格も違ってくる。
 経済の数学は、数が指し示す対象と不可分な関係にある。
 それが数の本来の性格でもある。

 不変的数もあれば、変動する数もある。
 無限な数もあれば、有限な数もある。
 連続的な数もあれば、離散的数もある。

 時間には、不可逆的な働きがある。
 生鮮食品は、時間と伴に価値が低下する。それを如何に数学的に表現するか。
 設備や建物は使用頻度や時間によって劣化する。
 地価には五つの貨幣価値があると言われる。
 株の値段は相場によって決まる。
 所得の決め方は一様ではない。
 所得は時間の関数と言える。
 金利には、複利と単利がある。
 費用には固定費と変動費がある。
 利益は、収益と利益の差である。
 費用は、構成比が重要となる。
 収益は価格と数量の積である。
 この様に経済と数学は不離不可分の関係にある。一体だと言っても過言ではない。

 企業経営も財政状態も家計も、今日、総て数値によって判断される。
 数の持つ意味、数の背後にある働きを理解しないと経済現象を解明することはできない。

 経済現象は、自然現象ではなく、人工的事象である。
 必然的に取り扱われる数学も異質になる。

 我々は、経済を考える上で数学的に何が鍵を握っているのかを明確にしていない。
 それは、経済とは何で、経済の仕組みが、何を目的としているかを、明らかにしていないからである。

 経済の働きで重要なのは、分配と交換である。
 そのために、人間が生きていく為に必要な資源は、何で、どれだけ必要なのか。
 必要な財を生産するためには、どの様な設備と
 そして、それを必要とする者の人数と一人あたりの最低必要量を明らかにし、どれくらいの通貨を何によって分配するかを数学的に明らかにする必要がある。
 その意味で経済学は数学なのである。

 発明と発見の違いである。発明というのは、人間の創造力が基本にある。つまり、創作なのである。それに対して発見というのは、観察や調査によって今ある現象を解明することである。
 典型的なのは、貨幣である。貨幣というのは、人間が生み出した事であって自然に成る物ではない。
 発見は基本的に帰納法を基礎とするが、発明は家庭に基づく演繹的な事である。

 貨幣価値は人間が創作した事なのである。

 貨幣の働きは、価値を測って、計算し、交換する事である。この働きを実現するためには、視覚性と操作性が重要となる。つまり、貨幣の基本的要件は、目に見えて操作できる事である。
 忘れてはならないのは、貨幣は、測るという機能と計算するという機能を持っているという点である。それが貨幣を数値化するのである。言い換えると貨幣における数値という部分は測るという機能によって形成されたのである。

 お金の信認が失われれば物に還る。

 経済は、数学を基礎とした事象である。しかし、だからといって数学を過信したり、絶対視する事は危険である。
 なぜならば、数学として表される経済的事象は、数学的空間に実体を写像した事柄に過ぎないからである。経済の実体は数値にあるわけではなく。数値の根底にある実体にあるのである。
 その典型が土地と地価の関係である。
 土地活用と地価の動きは必ずしも連動しているわけではなく、投機的な資金の動きが実体経済から乖離し、本来の土地活用と懸け離れたところで地価が形成される事が間々あるのである。それが、経済の本質を見失わせ、経済を破綻させる原因にもなる。貨幣経済は虚構である事を忘れてはならない。

 人がお金を操るのが本筋であり、お金に人が操られたら、人としての主体を失ってしまう。
 貨幣価値はあると思えばあるのであり、ないと思えばないのである。

数と方程式



 方程式は形式である。形式は、不易である。

 代数に騙されている。数式に目を奪われてその背後にある実体が見えなくなっている。

 いくら論理的な筋道が正しくても前提がち間違ってら正しい事は出ない。
 逆に論理的筋道が矛盾していなければ、前提が間違ったら、間違ったとおり答えが出るのである。
 故に、前提を確認する事を怠ったら正しい答えなど求めようがないのである。

 数は認識の問題であり、了解可能性の問題である。
 これは大前提である。
 根本合意であって神の意志ではない。
 だから、科学や数学は民主主義に通じるのである。

 特に、経済では、数そのものが単体で機能しているわけではない。
 数は、数が指し示す何らかの対象と組み合わさる事で機能を発揮する。
 数の本質は、抽象であり、働きであり、情報であり、性格である。

 数は、働きが重要なのである。
 数は、手段であり、道具であるから、表に現れたれ結果、事象に依ってではではなく、働きによって評価されるべきなのである。
 この事は特に貨幣価値を考える上で重要となる。

 貨幣は数である。故に、貨幣は貨幣単体では成立しない。

 百円と言っても百円という実体があるわけではない。
 百円という価値は物と物との関係、物と人との関係で決まる。
 百円という実体はない。
 実体のない価値を実体がないままに、目に見えるようにしたのが貨幣である。
 故に、貨幣に求められるのは働きだけである。
 お金はあるだけでは効用を発揮しない。使う事、即ち、なくなる事で効用を発揮する。

 数学というと純粋数学だけを数学だと思っている人が多い。
 しかし、数学本来の姿から見ると焦点がずれている。
 それは多分に学校教育の影響によると考えられる。
 数学というのは、元々、家畜の数を数えるとか、土地の面積を計算すると言った事に活用され、発達してきたのである。
 だから、数学には、物を特定の要素や性質によって選別するという働きがある。
 これは数の性格を考える上で重要な意味がある。
 ところが数学を習った人達の多くは、この数の重要な性格を見落としている。
 そして、数を数の背後にある集合や対象という物を見ないで足したり、引いたりの計算をしている。
 その為に、経済と数学の基本的な関係が理解されないでいるのである。

 経済の基本的な働きは、選ぶ、数える、分ける、集める、測る、記録する、保存するである。
 そして、交換、結合、分配である。

 数を数えるという行為は、共通の要素や性格を持つ対象を選ぶという働きを隠し持っている。
 即ち、数は、同じ要素や性格を持つ事象の集合の存在を前提として成り立っていることを意味している。
 数には、選ぶ、分ける、数える、集める、測る(比較する)、記録する、保存すると言う働きがある。
 この働きは、貨幣価値にも受け継がれている。
 そして、この数の働きは、経済的行為の根底を形成している。

 一般的事象から特別な事象に、特別な事象から一般的な事象に変化する手段の一つが数学である。
 貨幣価値というのは、経済的価値を量化すると同時に、一般化する手段でもある。
 一般化する事で数学的処理を可能とするのである。

 数には、目的に応じて選ぶ数、数える数、分ける数、集める数、測る数、記録する数、保存する数の別がある。
 目的によって数の性格も変化する。
 数の不思議さがある。
 逆に言えば、目的に応じて数を選ぶ必要もある。
 その目的に応じて演算もされるのである。
 数というのは計算する事だけが目的なのではない。

 例えば、比率を表す分数は、分数の形に働きは表れる。
 分母分子に何を取るのか、置くのかによって現れる指標も変わる。
 数学で重要なのは、視覚性と操作である。
 視覚性と操作性があるから、複数の人間が問題を共有化できるのである。

 又、数えるための数としては、専ら、自然数が用いられる事が多い。測る数としては、整数や実数が用いられる。

 数学で重要な要素の一つは、形である。
 故に数学は美学でもある。

 変化とは時間の関数である。
 関数とは、任意の変数に対応して定まる値あるいはその対応を表す式の事である。
 貨幣的経済的事象は、関数である。

 経済では、差と率が重要な働きをしている。経済では、変化と分配が基本となるからである。差と率を見る場合、何を基数とするかが鍵を握っている。


足し算


 足すという演算は、共通の要素や性格を持つ対象を集めるという演算である。
 それに対してかけるというのは、異種の量を組み合わせる演算であり、次元を形成するための演算である。
 引き算というのは、数の状況や状態、位置を表した演算である。
 割り算は、単位に還元するための演算である。

 足すという計算は、同じ性質や要素を持つ対象を集めるという要素が隠されている。

 足すという行為は、基本的に何らかの共通項を前提として行われる。足すためには、何らかの共通した要素や性格、働きによって対象を定義する必要があるのである。
 そして、貨幣価値というのは、あらゆる対象を一旦貨幣価値に還元する事によって四則の演算を可能としているのである。

 足し算引き算がゼロを基としているのに対して、割り算、掛け算は一を基としている。

 ゼロと一は経済では特別な意味がある。

 対称というのは、特定の操作をした時、変化しない性質や形状をその操作に対してその性質や形状をいう。
 経済ではこの対称性が至る所で働いている。
 それはゼロに対して対称という性格が働いているからである。
 経済事象の多くがゼロ和を前提として成り立っている。
 第一に、市場取引は基本的ゼロ和である。
 第二に、複式簿記もゼロ和を前提として成り立っている。
 このゼロ和というのは、足してゼロになる点を基準としている事を意味し、基準点を中心にして回転すると元の像と重なる事を意味している。
 何らかの働きに対して不変的な要素を含むと言う事が対称の意味である。

 かけるというのは、異種の量を組み合わせる事で次元をつくるという働きがある。つまり、掛け算は、次元を形成する。
 長さと長さを掛け合わせると面積となる。即ち次元を変える。
 長さと長さと言う同種の量を掛け合わせても次元は変わる。

 引き算は、負の数を前提としている。
 負の数は、足してゼロになる値が隠されている。
 この様な関係を反数という。

 負の数というのは、状態、状況、位置を表している。
 経済的な意味での負の数は、経済における負の状態、負の状況、負の位置を示している。
 負と言う事を否定的に捉えるべきではない。
 負というのは、ゼロの水準を押し上げているのである。
 従来の経済は残高を基本としてゼロを設定していたが、負を設定する事によってゼロの基準を均衡の原点としたのである。
 それが期間損益である。
 負とは、反数を足すとゼロになる値でもある。つまり、ゼロとは均衡点を意味するのである。そして、均衡点によって対称的になるのが貨幣経済なのである。

 ゼロと負の関係は、摂氏、華氏と絶対零度の関係によく現れている。
 摂氏、華氏の零度が損益の基準のような事ならば、絶対零度は現金収支の基準のような事である。
 経済的基準点が温度と違うのは、経済の負の数はそれ自体に負の働きがある点である。
 経済における基準点は指標でもある。


割り算


 数学的な数の始まりは割り算にある。
 自然科学で用いられる数や数学の元は割り算にあると言える。無理数も、有理数も、分数も、小数も割り算によって生まれた。
 数は、自然科学に用いる目的以前に、経済的な働き、政治的な目的のために用いられてきた。
 ただ純粋数学は、物理的対象を基礎として発達した。そのために、経済的な働きの数学は、あまり意識されることなく、不当に低い扱いをされてきた。今日数学というと、主として自然科学を基にしたものを指して言う。しかし、数学は、経済的な働きを持つ数学も重要な役割を果てしている。

 割るというのは、単位一当たりの量を割り出す計算である。
 割ると分母となる対象にの単位当たりに対する値が導き出される。
 単位当たりとは、一当たりである。
 分母が人ならば一人当たり、自動車の台数ならば、自動車一台当たりが導き出される。
 そして、割り算は比率を意味する。
 一を全体としたら全体に占める割合となる。

 経済的事象では、割る目的によって結果が意味を持ってくるのである。
 だからこそ、なぜ割るのかが、経済では重要になる。
 そして、それこそが数学本来のあり方の一端を示している。

 目的は必要性からである。
 本来、数学は必要があるから学ぶのである。必要があるから生まれたのである。
 その点を勘違いてはならない。
 子供達も計算は必要なのである。
 お小遣いで物を買ったり、スポーツをしたり、ゲームをしたりする時、計算は必要とされる。
 そういう時は、子供達は嬉々として計算をしているのである。

 数学が役に立たないのではなく。数学を役立てようとしていないのである。
 だから、子供達が数学嫌いになるのである。

 足し算引き算は、反数という概念が隠されており、掛け算、割り算には逆数という関係が隠されている。
 負とは足してゼロになる値である。
 ゼロだけがゼロ自身の反数である。

貨幣は、数を実体化したもの。

 貨幣というのは、数を物化して物である。

 貨幣は、数を物化した物である。
 物化した事で、貨幣は数という属性だけでなく、物としての属性を付加される事となる。貨幣は、物化した事によって物としての属性が獲得されたのと同時に物としての制約も受けるようになる。
 物としての属性には、所有する、持つ、運ぶ、見る、触れる、交換する、配る、貸す、借りる、預ける、預かる、あげる、貯める、蓄える、保管する、渡す、受け取る、譲る、廃棄する、捨てる、隠す、変える等がある。
 物としての属性による制約には、負の値をとれない。小数を表せない、即ち、割り切れない物は扱えない。また、虚数、無理数を使えない。離散数となる。残高を基本とせざる得ない。有限である。数単体では機能しないという事等がある。
 そして、数と物との属性が貨幣の働きを規定している。又、貨幣価値の土台となる。

 貨幣は、物の価値と貨幣が表象する数とを結びつける事で成り立っている。物の価値を数値化する事である。数値化する事で、価値の働きを数式として表現する事が可能となる。

 数というのは元々、選ぶ、分ける、数える、測る、集める、記録する、保存するといった働きを基本に据えて考えるべき事象である。
 そうしないと数本来の働きを理解する事は出来ない。
 経済では、足したり引いたりという計算そのものに働きがあるわけではなく。
 何を、何によって、なぜ足したり引いたりするのかに意味がある。
 物は、基本的に割り切れない。
 お金も割り切れないから余り算が基本となる。

 量化する事は、質的な性格を際立たせる効果がある。人口を年齢で区分するとそれぞれの世代の違いが際立つ。表に現れた貨幣価値だけで物事を判断しようとすると経済の持つ質的側面を見落とす事になる。

 自然数というのは、数える事を目的として発達した。

 自然数を基礎とするから、経済の数学は、余り残であり、取捨切り捨てをどうするかが、重要となる。
 経済の解は一点に集約するとは限らない。経済的解は、一定の幅や範囲、空間を形成する事もある。

 貨幣は、自然数の集合であるから、貨幣の正確には、ペアノの公理が活用できる。

 経済で重要となるのは、数論と集合、線形代数、指数、数列、順列、組み合わせ、統計、確率等である。

 数は、数えるという働きから測るという働きへ、そして、今日では働きそのものへと重点を移してきた。
 今日の経済では、数の働きが重要な意味を持ってきている。

 数は、働きによって定数、変数、未知数に区分される。

 更に、数には、その性格から連続数、離散数の別がある。
 離散数は、数えるという働きに基づき、連続数には測るという働きに基づく。

 貨幣というのは、自然数を基礎としている。
 貨幣は自然数を基礎としているから、貨幣は、自然数の持つ性格が前提となる。
 例えば、自然数である貨幣は離散数の性格を持つ。
 この点を理解しないと数学を経済に活用しようとした時の障害になる。

 貨幣は数である。故に、貨幣は貨幣単体では成立しない。
 貨幣価値は、貨幣の指し示す数値と対象の持つ物としての量との積で表される。

 貨幣は数であり、物は量である。貨幣価値は、貨幣の指し示す数値と物の持つ量との積である。
 貨幣価値は、貨幣の持つ離散数の性格と物の持つ連続数の性格を併せ持っている。
 また、貨幣価値は、金と物を掛け合わせる事で金の軸と物の軸からなる二次元の空間を形成している。

 貨幣は、数を物化した物である。

 貨幣の重要な働きの一つが価値の一元化がある。対象の量に貨幣を掛け合わせる事で貨幣価値を設定し、貨幣価値に換算する事で経済量の四則の演算を可能としたのである。
 自動車の量と労働の量とを比較できるのは、自動車の価値と労働の価値を貨幣価値に換算するからである。
 貨幣価値に自動車の価値と労働の価値を換算するから自動車の価値と労働の価値を足したり引いたりする事が可能になるのである。

 ただし、貨幣価値に換算するためには、対象を量化する必要がある。それが貨幣経済の前提である。
 例えば、労働を量化するための操作が貨幣価値を構成するための前提となる。

 市場経済が成立するためには、貨幣が市場に浸透している事が前提となる。

 市場と賭場とは類似点が多い。賭場が成立するためには、予め、参加者にコインやチップが配られている必要がある。コインやチップは、数値的指標である。市場も貨幣が参加者に事前に配分されている必要がある。問題はその配分の仕方と配分の仕組みである。配分の仕方と仕組みによって経済体制は決まる。

 市場と賭場の違いは、市場では物と金との交換によって取引は成り立っているが、賭場では、権利と金との遣り取りでなり立っているという事である。

 経済では不変量が重要となる。不変量というのは変わらない数という意味ではない。基礎となる絶対量であり、全体量である。
 全体を一としたら、一が不変量である。この様な不変量は、表面に現れると相対量に変化する。
 貨幣で表現される量は、絶対量ではなく、相対量である。
 全体を一とした場合、絶対量そのものの意味はなくなる。
 全体とは総てであり、総ては一に集約されるからである。

 経済とは、物を生産し、配分する手段であり、市場経済という仕組みが計画経済という仕組みに勝っていたと言うだけなのである。
 しかし、その市場経済も経済の仕組みそり練りに対する理解がなければ、破綻する運命にある。



相関関係



 経済では相関関係が重要な意味を持つ。経済は、複数の要素が互いに影響し合って経済事象を生み出している。経済事象を予測したり、経済の仕組みを構築するには、要素間の相互作用を知る必要がある。そのためには、相関関係を明らかにする事が前提となるのである。経済の仕組みを知り、経済的事象が起こる法則を明らかにする為には、何が何に対してどの様な働きを及ぼしているのか、或いは相互に影響を及ぼしているのかを知る必要がある。

 経済的事象は、複数の要素が互いに働きを及ぼしながら、複雑に絡み合って構成されている。
 この様な複数の要素間に働いている作用を明らかにし、それが経済現象にどの様な働きをして、全体をどの様に変化させるかを予測しないと経済現象を制御する事はできない。
 経済的事象を構成する個々の要素の働きも一律一様ではなく、強くなったり弱くなったり、或いは周期的な働きをしたり、一方向の働きをしたりと変化しているのが一般的である。特に変化は時間の関数であるから、時間と伴に働きの性格も変わっているのが一般的である。

 統計や確率は、何も確実には証明できないのである。この点は、経済的事象において顕著に表れる。
 確かに、工場で物を生産する時は、かなりの精度で生産高や品質管理はできる。また、交通機関の運用も然りである。しかし、売上の予測や景気の動向は憶測、推測の域を出ないのである。

 経済的事象では、確かな事から不確かな事象を如何に予測し、予定を立て、また、制御していくかが、一番の問題なのである。
 例えば、紙幣の発行高、残高が物価にどの様な影響を与えるかというようにである。
 そのために、経済的事象を数値化する必要があるのである。その為の手段が貨幣である。

 一定の働きをする要素、何らかの要素の変化に比例して変化する要素、段階的に変化する要素、何かの誘因をきっかけにして急激に変化する要素、算術級数的な変化をする要素や幾何級数的な変化をする要素等、変化にもいろいろな種類がある。
 変化や働きを一律に考えていたら経済の動きを理解する事はできない。
 大恐慌や不況は、いろいろな要素が複雑に絡み合い、経済が制御不能になる事によって引き起こされるのである。
 経済を制御する為には、経済を構成する個々の要素がどの様な状況や前提によってどの様な動きや働きをするかを予め理解しておく必要があるのである。

 経済を構成する要素の関係を明らかにする為には、相関関係を数字に置き換え、方程式化する事が有効な手段である。

 相関関係を数値化する為には、直交座標が有効である。
 直交座標を作る為には、座標軸を設定する必要がある。

 一般に、数学は、物を計ったり、計算するために発達してきた。しかし、経済では数学の働きそのものが重要となるのである。
 例えば多変量解析である。多変量解析は、人事考課をはじめ多面的に評価に使える。
 今日の経済は、数学的な働きを基本にして成り立っている。

 数は、連続した対象と不連続な値から構成される。
 連続した対象は、図形化され、不連続な値は任意に設定された基準に基づく。

 貨幣は、貨幣としての働きがあって成立する。
 貨幣の働きを成立する要素は、対象と貨幣、対象を所有する人と貨幣を所有する人の存在である。
 貨幣は、値を象徴する物、或いは、情報である。
 この様に貨幣の本質は値であり、貨幣を成立させるのは、対象と値を象徴する物、或いは情報である。突き詰めると貨幣価値は対象と値によって構成されているのである。
 そして、貨幣価値を構成するのは人、物、金である。

 自由市場は貨幣経済を基礎として成り立っている。
 貨幣制度は、値の集合を体系化した事である。
 貨幣制度は、不連続な値の体系である。
 貨幣経済は、貨幣を基本的手段として成り立っている。
 貨幣は、交換手段である。
 交換手段である貨幣は、相対的基準である。
 相対的基準を的とした成り立っている貨幣価値は、比較対照によって成り立っている。
 故に、経済的事象の分析は比較を基本とする。経済的事象を解明する為には、要素間の働きを比較する事が有効である。

 経済的運動は数値の変化として表される。
 変化は時間の関数である。
 運動は変化である。
 故に、経済的運動は、時間の関数である。

 相関関係では、時間が陰に作用しているか、陽に作用しているかが、重要な鍵を握っている。
 時間が陽に作用している運動は、推移として現れる。
 時間が陽に作用する経済的運動は、基本的に上下動として表される。
 要素間の働きを知る為にも座標軸は重要な役割をする。
 経済的事上において今日、その座標軸の一辺をを構成するのが貨幣単位である。

 経済的関係は、一律一様に定まる事ではない。
 経済を構成する複数の要因の相互作用によって経済的事象は現れる。

 貨幣は、相関関係を数値化する為の手段である。貨幣は、経済的事象を成立する為の要因である。故に、貨幣で重要なのは働きである。

 貨幣経済における相関関係というのは数値的関係である。

 貨幣は、個々の要素を関係づける働きがある。この働きが貨幣経済を形成していくのである。

 経済において、人、物、金の相互関係、即ち、相互の働きが重要になる。

 貨幣には双方向の働きがある。故に、貨幣経済は、双方向の働きによって成り立っており、一方向の働きだけを見ていても経済の動きは、明らかにならない。

 貨幣は、経済を構成する他の要素と結びつく事によってその効用を発揮する事が可能となる。貨幣は、貨幣単体では効用を発揮する事ができないのである。又、貨幣の効用は、要素間を関係づける事によって成立する。これらの貨幣の働きの性格は、貨幣の働きを単方向の働きではなく、双方向の作用にする。

 貨幣は、経済的要素と結びつく事によって成り立っている。この事は、貨幣的事象は相関関係の上に成り立っている事を意味している。
 経済を構成する要素は単一な事ではない。多くの要素が複雑に関係して経済的事象を構成している。

 相関関係は単に正比例する事ばかりではない。
 相関関係を図表化した場合、直線的に表されるとは限らない。

 相関関係というと、即、因果関係に結びつけて考える傾向があるが、相関関係、即、因果関係というわけではない。
 相関関係と因果関係は、同じ関係ではない。因果関係は、相関関係の一種ではあるが同じ事ではない。

 相関関係と因果関係は、次元が違う。相関関係の一種が因果関係なのである。しかし、相関関係にあるから因果関係にあるというわけではない。相関関係は、因果関係に対して十分条件ではあっても必要条件ではない。

 経済的事象を理解する上では、即、因果関係に結びつけて考えるのではなく。何がどの様な影響を与えているのかを先ず明らかにする事が大切である。
 因果関係ばかりに捕らわれると相互関係を形成している働きを見落としてしまう危険性があるからである。
 なぜと言う事は、大切だが、経済的関係においては、重要な要素でも、なぜと言う事がハッキリしない人もある。
 肝心な事は、経済の状態を制御する事であって因果関係を知るのもその目的によってである。
 なぜ、株価が暴落したかよりも、何に関連して株価は、どの様に変動をしたのかを明らかにした方が適切な対処ができるのならば、何が株価に影響したのかを明らかにする事を優先すべきなのである。

 いきなり、因果関係のような事に結論づけるのではなく。先ず、複数の要因が何らかの相関関係を示すかどうかを検証する必要がある。
 この様な相関関係を検証する為には図表が重要な役割を果たす。

アリゴリズムと経済




 現代社会は、アルゴリズムがあふれていると言っても過言ではない。
 自分でも気がつかないうちにアルゴリズムを使っている例がたびたびある。例えば、電気製品の取扱説明書やマニュアルである。また、料理のレシピや音譜旅行の行程表や事業の計画書、建築の建設計画書、会計手続き、事務手続き、コンピューターのプログラム等もアルゴリズムの一種だと考えていい。
 こう考えると現代社会は、アルゴリズムによって成り立っている言ってもいいくらいである。

 我々の日常生活を観察してみると一人一人が何らかのアルゴリズムを持ち、それに従って生活している。それが経済の基を作っているのである。
 例えば、朝起きて、食事をして、顔を洗って、歯を磨いて、服を着替える。しかし、全員が全員同じ順序で生活しているわけではない。朝、食事をしない者もいるだろうし、先に着替える者もいるかもしれない。しかし、こういったアルゴリズムが経済の根底を形成している事を忘れてはならない。
 このようなアルゴリズムを決定するのは、文化であり、宗教である。そこに文化や宗教と経済との接点や関わりがある。そして、それが経済の底辺を形作っているのである。

 アルゴリズムは、単位の問題、順序の問題、接続の問題、選択肢の問題、処理の問題の五つの問題に要約できる。そして、これらの五つが、アルゴリズムの構造を形成する。
 単位の問題は、基準のなる一つの全体をどの程度に区分するかの問題である。
 順番とは、どのような基準によって、どのように並べるかの問題である。
 接続の問題とは、どこに、どのように、いつ接続するかである。
 選択肢の問題は、選択肢がいくつあって、誰が、何によって選択をするのかの問題である。
 処理の問題は、何を、どのようにするのかの問題である。

 何事にも順序と筋がある。
 最近の世の中には、筋の通らない事や順番が間違ってる事が増えている。それは、礼儀や作法が廃れているからである。それが、人間関係をおかしくしている。
 礼儀作法を封建的だといって、ただ、排除するのは、間違いである。礼儀作法は、社会を形成する思想を象徴しているのである。封建思想には、封建思想の礼儀作法があり、民主主義には、民主主義の礼儀作法が、自由主義には、自由主義の礼儀作法がある。礼儀作法を否定するのは、アナアキーな思想の現れである。
 民主主義や自由主義は、制度主義、法治主義に則っている。つまり、民主主義も自由主義も形式を土台とする事によって成り立っている。故に、礼儀作法を最も重んじる思想の一つである。
 礼儀作法を否定するのは、人治主義の現れである。故に、無法者こそ礼儀作法を否定するのである。
 筋や順番自体に意味があるわけではない。筋や順番は、表面に現れる事象ではなく、表面の下にあって表面に現れている現象を引き起こしている法や仕組みに関わる事象だからである。だから、表面に現れている事象ばかり見ていたら問題の本質が見えてこないのである。問題を解決するためには、揉め事の背後にある。筋道や順番を明らかにする必要があるのである。
 特に、数学や経済では順序と筋が大切なのである。

 筋や順番は、礼儀や作法として社会に受け継がれている。それは、歴史や伝統によって洗練されているのである。このことを理解しないと礼儀、作法、歴史、伝統のもつ働きを理解する事はできない。
 冠婚葬祭に関わる礼儀、作法は、ある種の象徴であり、論理でもある。

 話には、順序がある。順序に従った位置がある。話には、文脈があるのである。ただ、言葉を羅列しても相手に話の意味は伝わらない。言葉を文法に従って言葉の位置を決め、順序よく並べて始めて話は相手に伝わるのである。

 この様な文法に従った順序をアルゴリズムという。
 話には、筋がある。筋が通らなければ、相手に自分が伝えたい真意は伝わらない。物事を筋立てて始めて、自分の真意は相手に伝わるのである。その筋立てがアルゴリズムである。

 アルゴリズムというのは、数学では、計算手順を言う。

 アルゴリズムとは、任意に与えられた目的によって一定の回答を導き出すための手順をいう。
 手順は、任意に予め定められて処理の順序である。
 予め定められた操作手順をアルゴリズムという。

 アルゴリズムでは、順序、順番が重要な働きをしている。
 順序づけられる事で、大小、多少、長短、高低、早い遅い、濃淡、遠近等の識別できる様になる。

 アルゴリズムには、始まりと終わり(停止点)がある。
 アルゴリズムには、正当性の問題がある。正当性とは、処理の順序は、正当でなければならないという決まりである。

 最初が何事でも肝心である。アルゴリズムでは、始点、すなわち、設定条件が重要な働きをしている。

 アルゴリズムは、論理的に有限である事を前提とする。論理構造において、始点、すなわち、始まりもなく、終点、すなわち、終わりもない論理は、アルゴリズムには含まれない。
 前提条件が曖昧で、結論が明確でない話は、論理ではない。日本人は、何が始まり、どのような結論になったかも確かめずに延々と議論をし続ける事が好きである。その結果、決定が先送りになったり、既成事実が積み重ねられ、責任の所在が不明確になったりする。このような議論は論理的とは言わない。アルゴリズムがないのである。
 システムの上では、アルゴリズムの始点は入力であり、終点は、出力である。

 アルゴリズムは、データとデータ処理から構成される。
 データには、型がある。データ型には、自然数型、整数型、実数型、文字型、文字列型、論理型等がある。
 経済で最も重大なのは、自然数型である。

 経済や景気、会計の変化は、数列として現れる。経済や景気、会計の数列を構成する数の構造が重要となる。
 数列の性格は、数列を構成する数の順番と隣接する数字の差によって形作られる。

 情報は、数に限った事ではない。ただし、貨幣経済は、情報を貨幣価値という数値に置き換え、価値の表現を統一する事によって成り立っている。
 情報の世界の本には、本来、実体的な空間や事象が前提としてある。経済と情報との関係を知る上ではこの点が重要となる。
 貨幣経済では、数値だけが踊っている場合があるが、経済活動の本質を知るためには、数値の背後にある実体を明らかにする必要がある。

 データには、構造がある。データの構造には、配列、リスト、スタック、キュー、ツリーなどの構造がある。

 同じ型のデータが連続して配置されたものが配列である。(「アルゴリズムのキホン」杉浦 賢著 ソフトバンク クリエイティブ株式会社)
 配列は、同じデータ型でなければならない。逆に言えば、配列は、データを同じ型に統一する。データは、配列によって同じ型に統一される。データは、配列によって共通の型を抽出される。
 会計的アルゴリズムは、自然数型に還元される。

 配列は、数の構造をよく表している。

 アルゴリズムでいう変数とは、情報の入れ物をいう。情報を入れておく場所、空間を変数とする。
 変数というと、数値と結びつけて考えがちであるが、必ずしも数値でなければならないというわけではない。
 情報は、数値だけに限定されているわけではない。文字や象徴をも含まれる。
 変数名は、一意、ユニークでなくてはならない。

 アルゴリズムでは、変数を情報を入れる箱のような物だと考える。変数は、情報を入れ物に代入する行為によって成立する。このような考え方は、変数の成り立ちの本質を現している。

 意思決定や手続き、コンピューターのアルゴリズムの基本制御構造には、第一に、順次構造、第二に、選択的構造、第三に、反復構造の三つがある。(「図解でかんたんアルゴリズム」杉浦賢著 サイエンス・アイ新書)

 順次構造というのは、任意に予め定められた一定の順番に物事を処理したり、命題を並べる事を意味する。
 第二の選択的構造とは、分岐構造とも言い、一定の条件によって処理の仕方を選択する構造を言う。第三の反復的構造とは、一連の処理を反復的に行う構造である。この三つの構造を組み合わせる事で、コンピュータープログラムのアルゴリズムは構成される。

 文字式は、アルゴリズムである。
 文字式には、第一に、事象を一般化、普遍化、抽象化する働きと、第二に、一旦、対象を文字式に設定すると予め定められた手順で機械的に操作し、一定の解を得る働きの二つの働きがある。(「数学入門」小島寛之著 ちくま新書)

 この二点によって文字式は、法則や原理を定める為の有力な手段となる。

 数学の問題を解く場合、個々の問題を文字式に分解する。数式を解く為には、過程、流れがある。その過程、流れの順序に沿って数式を並べる。後は、個々の数式、一対一に対応させながら機械的に問題を解いていくのである。この様な流れを手順という。そして、数学は、直線的な繋がりを前提としている。
 アルゴリズムは、計算手順だけに活用されるわけではない。操作手順や作業手順にも活用することが可能である。
 個々の操作や作業は、は、必ずしも直列的に繋がっているとは、限らない。並列的な繋がりもある。その為に、分業が生じ、組織が派生するのである。

 スポーツにも、会議や、式典にも、礼儀作法にも、機械の操作にもアルゴリズムはある。例えば、車の運転にもアルゴリズムはある。

 経済現象の根底には、アルゴリズムが隠されている。

 経済の基本は、再帰的計算である。時に、会計の仕組み、会計の基礎となる複式簿記の仕組みは再帰的計算を基にしている。
 再帰的計算というのは、順次構造に基づく計算を意味する。

 会計制度を基礎とした市場経済では、会計制度によって定められたアルゴリズムに従って流れていく。故に、会計処理のアルゴリズムを解明する事が経済を制御する上で不可欠な要素となる。

 会計処理には、順序が重要な意味を持つ。事務には手続がある。事務とは管理である。手続は管理の手段である。手続には順番がある。
 作業には、順番がある。作業を順番通りに並べたのが工程である。時間によって並べたのが日程である。これらはアルゴリズムと言える。

 簿記は、仕訳、記入、転記、締め、集計、試算表、決済仕訳、精算表、貸借対照表と損益計算書の作成、納税申告書の作成という順序で処理される。
 この簿記の一巡はアルゴリズムと言える。
 この簿記の一巡によって会計処理は意味を持つことが出来るのである。

 この簿記の一巡に沿って業務処理の流れがある。業務処理もアルゴリズムである。業務や簿記の流れを土台として計算システムが構築される。計算システムのプログラムもアルゴリズムによって構築される。アルゴリズムは仕事の基盤なのである。
 例えば、会議にもアルゴリズムがある。そして、国民国家においては、会議のアルゴリズムがその国の建国思想となるのである。いくら、国家理念として民主主義を謳ったとしても、会議のアルゴリズムが非民主的な手続ならば、その国は民主主義国と定義することは出来ない。民主主義とは手続によって表される思想なのである。

 アルゴリズムで重要なのは、形式であって、実体ではない。
 故に、時として、アルゴリズムは、実体から乖離してしまう。
 その結果、法や、手続、組織、会計、経済の制度が、社会や経済の実体から乖離してしまうような事態が往々にして発生するのである。
 礼儀や作法、事務手続きが形骸化するのである。
 しかし、だからといって事務手続きや組織、礼儀作法を総て否定するのは短絡的である。

 これからのアルゴリズムの課題は、形による論理展開である。

 数学の成績が悪い者に多く見られる例だが、解ったというところで止まってしまい。最後まで問題を解かないことである。ここに数学に対する誤解がある。数学というのは、論理手続きが大切なのである。つまり、筋道を通すことである。
 数学というのは、他の学問と違った部分がある。即ち、解ったと思っても、それを解く、或いは、証明するのに、何年も、何十年も、極端な場合、何百年も掛かってしまう問題があるという点である。数学に対する最大の誤解は、数学という学問は完結しているという誤解である。数学は完結しているどころか、まだまだ発展の底にある。というより、数学は、人間によって創造された学問だといても過言ではないのである。今尚、新しい数学の分野は、生成発展しているのである。
 数学は、解ったと思った時から始まるのである。



基本は比例式にある


 線形関係というのは、因果関係、相関関係が明瞭な関係である。故に、重要な意味を持つ。
 つまり、原因と結果が直接的に結びついているのが線形関係である。この様な関係は、原因がわかれば、自動的に結果が求められる。
 線形関係を基本にすれば世の中の出来事の多くは説明がつくだと多くの人は考えている。
 原因と結果は、動機と行為に置き換えることもできる。動機が解れば、行為も解る。だから、犯罪は、動機が重要になる。
 しかし、気を付けなければならないのは、相関関係は、即、因果関係だと断定する事はできないという点である。
 時間的に前後し、強い相関関係がある結果が出ると惻隠が関係だと決めつけてしまう傾向があるが、それは短絡的な事である。
 因果関係があるかどうかは、実験や継続的な観察を続ける事で、検証する必要があるのである。

 ただ、いずれにしても相関関係は、一定のグラフとして表現する事が可能である。

 代数というのは、記号を用いて数学の計算を方程式にする方法である。

 代数というのは、既知数と未知数からなる関数である。線形代数とは、「線形」、即ち、一次式、直線的と言う意味と「代数」、即ち、既知数とと未知数からなる方程式という二つの意味からなる。つまり、線形代数とは、連立一次方程式を指す。
 既知数を定数とし、未知数を変数とする。

 変化する数を変数という。即ち、変数とは、変化を数の集合によって表現した全体である。

 関数とは、一定の規則によって任意の数式や事象を変換する操作を言う。

 関数とは、二つの変数間において一方の値が決まればもう片方の変数の値も定まる関係である。例えば、Xに特定の値を入れたらYの値が決まる関係である。一方の変数を独立変数と言い、もう片方の変数を従属変数という。ただし、どちらを独立変数とし、どちらを従属変数とするかは、任意である。

 関数で定められた関係は確定的関係である。

 関数の合成とは、複数の関数を結び付けることである。
 複数の関数を合成することによって経済現象を表現することが可能となる。
 経済現象のみならず複数の関数を合成する事は、自然現象や社会現象を有効な手段である。
 経済現象を表す関数の合成には手順が重要な意味を持つ場合がある。

 関数の合成は、経済を理解する上で欠かせない事である。
 例えば、為替の変動を景気の変動に変換する際などに、重要な役割を果たしている。

 関数にも四則の演算が成り立つ。

 結合、交換、分配は、経済における基本操作である。
 結合の法則、交換の法則、分配の法則は、経済現象を理解する上で不可欠な要素である。

 事象というのは、一つの全体と、幾つかの部分から成る。一つの全体を固定的な部分と変動的部分の二つに分割した場合、変動的な部分が一定の法則によって運動している事象が想定される。その様な事象は、何等かの方程式として表現することが可能である。
 変動する部分が線形的、即ち、一次的な変数である場合を線形的という。その様な事象を扱うのが、線形代数である。

 数には、一つ二つと数えられる数と、一つの全体を単位とし、更に、その一部分を一として分割する事によって成り立つ数がある。前者は、個としての数であり、後者は比としての量である。

 この様な数には、数としての性質と、量としての性質がある。そして、経済において重要な働きをするのは量的側面である。故に、量の働きを知るためには、比率が重要となる。

 変化や運動は、一次式に還元される事によって解を得る。一次式に還元する手段が、微分であり、因数分解である。
 経済の変化や運動を予測する上で、一次式は重要な役割を果たしている。

 一次関数は、比例式に定数を足した文字式である。

 ある数量の変化に伴って別の数量が変化することを、ある数量とそれに伴って変化数量は比例関係にあるする。比例関係にある二つの数量は、相互に依存関係にあるという。(「算数再入門」中山 理著 中公新書)
 比例関係を文字式にした等式が比例式である。

 経済的事象の根本は、比例式である。
 例えば、貨幣価値は、単価×数量=貨幣価値、単価×時間=貨幣価値と言う比例関数によって求められる。
 この場合、単価は、定数であり、数量は、変数である。
 また、単価と貨幣価値は、自然数であり、数量は実数である。
 故に、経済の根本的事象の多くは、線形関係にある。

 また、経済の基本的計算は、余り算である。

 比例式は既知数部分と未知数部分から成る。既知数は定数でもあり、未知数は変数でもある。

 座標平面において基本となるのは、比例式である。比例式は、座標平面上においては、0を通る直線として表現される。
 比例式は、線形代数の本となる。

 一次関数とは、比例式を移動したものである。

 線形とは、直線を意味する。つまり、線形とは直線的な関係を意味する。
 直線的な問題を代数的は表現すると、二つの数、或いは、量の積を含む方程式となる。
 この二つの数直線が直角に交差することによって座標平面は構築される。負の数は、逆方向に正の数を設定することによってスカラー量、即ち、絶対値となる。

 一つの数直線は、一つの価値基準を示す。二つの価値基準は、各々、別の基準を意味する。独立の基準が交差して一つの座標平面を構成する。

 恒等式とは、式の中の文字にどんな値を代入しても成り立つ等式である。
 恒等式とは、「すべて」の数を代入しても成り立つ等式であり、方程式とは、「ある」数を代入すると成り立つ等式である。この点をよく見極めておく必要がある。
 方程式とは、恒等式でない等式である。つまり、未知数を含む等式で特定の値を未知数に代入した時にのみ、成り立つ等式である。その未知数を方程式を根(解)とするのである。根の全てを求めることを方程式を解くとする。

 等式を考える上で重要なのは、次の二点である。次の二点は、経済や会計の原理を考える上でも重要となる。
 第一に、等式の両辺に対し、同じ数を加えたり、引いたりしても等号は成り立つ。
 第二に、等号の両辺に対し、同じ数を掛けたり、割ったりしても等号は成り立つ。ただし、割るときは、0でない数で割る。(「新体系 中学数学の教科書 上」芳沢光雄著 講談社 ブルーバックス)
 この二つ点は、方程式を変形する上で重要な概念となる。
 方程式の変形の中で移項、即ち、左辺にあるものを右辺に移して符号を取り替える操作の基礎となる概念である。同時に、会計学における借方、貸方の働きの根底をなす概念でもある。
 つまり、会計は、自然数に基礎として成り立っている。つまり、原則として負の符号が存在しない。負の符号の変わりに位置によって残高の働きを示すのである。
 その前提は、この等式の関係である。

 会計上の数値には、物の単位としての数と貨幣単位としての数がある。

 会計上の取引とは、一方に物の集合があって、もう一方に貨幣価値の集合があるとし、その上で、物と貨幣とを交換する過程で物と貨幣価値とを一対一に結び付ける行為を言うのである。

 会計上の取引は関数とすることが可能である。

 貨幣価値の集合は、自然数の集合である。
 貨幣価値は濃度が問題となる。
 物の単位は、連続数である。
 貨幣単位は、離散数である。

 経済的事象においては、余りが重要な役割を果たしている。
 故に、会計的事象は、多元的一次方程式の連立方程式に近似することが可能である。そして、最終的には、比例式に近似される。

 会計は、曲線を直線、即ち、比例式に近似することを目的としている。
 会計は、比例式に近似されることで、経済状態を一般に表すことが可能となる。

 方程式の基本は、連立一次方程式である。特に、経済や会計の基本は、連立一次方程式である。一次方程式は、最も簡単な等式と思われている。しかし、簡単な式だからこそ、現実においては、最も効果を発揮するのである。
 学問の世界には、より複雑で難解なものを好む傾向があるが、実利的社会においては、簡潔明瞭、単純明快なものの方が効用があるのである。

 高次元の方程式は、比例式を組み合わせることで形成される。
 高次元の連立方程式は行列に発展させることが可能である。
 経済的事象は、行列に展開することが可能である。
 行列の基礎は、比例式である。

 線形とは、一次方程式である。一次方程式とは、正比例関係を表した方程式である。
 一次方程式が表しているのは、正比例関係である。
 故に、線形代数とは、量を多次元化した結果成立する正比例関係を構造化し、操作する数学である。(「数学と算数の遠近法」瀬山士郎著 ハヤカワ文庫)

 比例式は、相似形の原理の基となる。

 線形的構造上の対象は、二つの性格を持つ。二つの性格とは、第一に、平行性、第二に、同一線上の比である。
 平行性とは、同一線上で交わらない量という意味にも使える。平行関係とは、同一線上に交わらない関係を言う。なにも平行性というのは、図形的な意味合いに限定されるわけではない。
 例えば、時間と距離は、同一線上では交わらない。また、数量と価格も同一線上では交わらない。この様な関係を一次独立という。

 この様な線形構造は、ベクトル空間を形成する。




経済は、線形的な体系である。



 経済の多くは図形化した方が理解できる。

 経済は多次元である。だからこそ線形関係が重要になるのである。線形関係とは二変数間の関係である。

 現代の経済では、因果関係よりも相関関係の方が重視されている。
 経済現象の場合、何が原因で、何が結果が明らかでない場合があるからである。
 また、物を必要とするから作るのか、物が作られたから使われるのか明らかではない。
 人は、時間的に早く現れた事象を原因と考えたがるが、必ずしも早く現れたからと言って原因だとは限らない。
 問題なのは、相互の関係の方である。

 相関関係や因果関係が明らかな関係は線形的現象である。

 二つの変数の関係には、相関関係と因果関関係、独立関係がある。
相関関係というのは、二つの変数の間に何らかの関係が認められるものを言う。因果関係というのは、二つの変数が原因と結果によって結びついた関係を言う。独立関係というのは、二つの変数が独立した動きをする場合を言う。
 独立関係の中には、同期(吻合)関係がある。つまり、相互に独立した関係でありながら、同時に、或いは同じ周期で変化する変数を言う。この様な変数は、相関関係がないのに、あたかも相関関係があるような振る舞いをする。それが疑似相関関係である。
 相関関係を広義でとらえて因果関係を相関関係の一つとして考えると、相関関係には、因果関係、同調関係、適応関係等がある。
 適応関係というのは、二つの変数の根拠となる主体が環境や状況に適合させようとする動きをする事である。
 適応関係には、順応関係、反動関係、同化関係、調節関係、増幅関係、抑制関係がある。順応というのは、主たる要素が従たる要素の変化に合わせていこうとする関係である。反動というのは、主たる要素に対して反対の動きをする事である。同化というのは、主たる要素が従たる要素と一体化していこうとする関係である。調節というのは、主たる要素が従たる要素に対して調節していこうとする関係である。増幅というのは、主たる要素が従たる要素の動きに対して増幅していこうとする関係である。抑制というのは、主たる要素が従たる要素の動きに対して抑制していこうとする関係である。
 相関関係は、前提や環境によって変化する場合がある。前提や関係が変化する事で、相関関係にあった二つの変数が独立関係に変化したり、また、逆の場合もある。
 特に、人為的関係においては、この傾向が強い。

 経済の基本は、以外とシンプルで、残入出残である。つまり、事前の残量、入量、出量、爾後の残量である。貨幣価値で言えば、残高、入金、出金、残高である。そして、残量、残高は常にゼロを含む正の自然数でなければならない。
 経済的価値は、基本的に負にならない。
 借方、貸方は常に対称になる。つまり、平均はゼロである。
 そして、標準偏差は一になる。
 平均がゼロで標準偏差が一の世界。
 この事は、母集団を取引の総量とすれば、統計に通じる。

 経済の基本は、以外とシンプルで、残入出残である。つまり、事前の残量、入量、出量、爾後の残量である。貨幣価値で言えば、残高、入金、出金、残高である。そして、残量、残高は常にゼロを含む正の自然数でなければならない。
 経済的価値は、基本的に負にならない。
 借方、貸方は常に対称になる。つまり、平均はゼロである。
 そして、標準偏差は一になる。
 平均がゼロで標準偏差が一の世界。
 この事は、母集団を取引の総量とすれば、統計に通じる。

 単位が次元を形成する。故に、単位が変われば次元も変わる。
 例えば、分量と個数とでは、次元が違う。ただ、一個、何グラムというように個々の単位が結び付けられている場合は別である。

 第一に、二つの座標軸が交わらない関係は変化しない。第二に、同じ座標軸上の比の値は変化しない。第三に、座標軸の長さは変化する。と言う三つを前提とした変換をアフィン変換という。
 二つ以上の座標軸によって構成される空間における変換を多次元変換という。

 経済量で言えば、リンゴの数は変わらない。同じ貨幣単位、例えば、円やドルの貨幣価値の比は変わらない。ドルに対して円の、言い換えると円に対するドルの価値は変動する。という事を前提としてリンゴ一個の値段を円からドルに、或いは、ドルから円に変換するような操作もアフィン変換である。

 方程式によって表された現象の解を求める為には、一旦、一次方程式まで次元を下げる事は有効な手段である。
 次元を下げるとは、微分的操作を意味する。

 微分、及び、積分の概念は、経済において重要な概念である。
 なぜならば、経済は、変化の動向と総量を基礎とした現象だからである。

 接線と面積の関係は、言い替えると変化と総量の関係である。そして、微分と積分の関係でもある。微分は速度を表し、積分は総量を表す。

 例えば、商品の単価の変動幅や変動率は、線形的なものであり、一定期間の為替の変動による売上の総量は面積によって測られる。つまり、変動幅や変動率は、微分的であり、売上の総量は積分的なのである。

 局所的な性質とは、ある時点の近い時点での性質を近似した性質である。例えば、ある時点での物価の方向が上昇傾向にあるか、下降傾向にあるかと言った性質である。この様な性格を局所的性質という。

 それに対して大局的性質も景気の動向はインフレーションか、デフレーションかと言った特定の一時点だけでは判断できないような性質である。

 局所近似一次関数の直線は関数のグラフの接線となる。

 経済を動かす原動力は、ある種の揺らぎであり、故に、振幅が重要になるのである。
 故に、経済では、平均値よりも変化率の分散と要素間の相関関係が重要なのである。だから、変化率の標準偏差を意味するボラティリティが鍵を握っているのである。

 経済では、線形関係が重要になる。
 経済的変化は、長期的に見ると指数的な変化になる。指数的変化だと短期間の変化や動きが掴めなくなる。分配は、短期的な判断に基づいて為される。故に、単位期間を設定して短期間の経済の変化を捉えようとしたのが期間損益である。この関係は、微分、積分の関係でも捉えることが出来る。しかし、簡便に捉えようとしたら線形的関係に置き換えた方が効率的である。
 経済で言う線形代数では、連立方程式を解くことが重要になる。
 線形関係では、解よりも方程式や方程式の構造をどの様に設定するのかの法が重要である場合がある。

 恒等式とは、含まれている文字にどんな値を代入しても等号で結ばれた左右の数式の値が等しい事が成り立つ式を言う。
 方程式とは、ある値に対して成り立つと等式である。

 二次関数も因数分解によって一次関数の積として認識する事も出来る。
 又、この連立方程式の延長線上に、行列、行列式が現れてくる。行列、行列式の構造は、その背後に経済や市場の構造があり、行列、行列式は、その構造を象徴的に表している。

 因数分解とは、一つの整式、即ち、分数式でない有理数式が複数以上の整式の積として表される場合を因数と言い、元の整式を、二つ以上の整式の積に分解することを因数分解という。又、式の他に素数の積として表す場合を含めると素因数分解という。因数を一つの整式にすることを因数を開くという。
 ここで重要なのは、一次式、即ち、線形式に置き換えることが重要な意味を持つ。
 一次式は、解を導き出すための最終的な方程式である。

 また、経済における連立式の最適解は、必ずしも値でなければならないと言うわけではなく。一定の域によって現れることもある。
 それは経済に対する解答は、一意的に決まるとは限らず、また、一つに限定できるとは限らないからである。

 因数分解は、線形関係への還元を意味する。経済は基本的に線形関係を組み合わせた式だといえる。
 その典型が量×単価=貨幣価値である。経済的価値は、量と単価の組みあわせなのである。つまり、今日の経済には量的側面と貨幣的側面がある。

 経済の連立方程式を解く時、定数と変数と単位との関係が重要になる。
 何を定数とするか、変数とするかは、予め定まっているように思える。しかし、何を基礎とするかによって定数か変数かは変わってくる。例えば、損益上、固定費は定数であり、変動費は、変数だが、単価に占める割合から見ると変動費が定数となり、固定費が変数となる。
 独立変数か従属変数かは本来任意に設定する。目的に応じて、あるいは、視点によって何を独立変数とするか、従属変数とするかは決めればいいのである。
 何を独立変数にし、何を従属変数にするのかは、思想的な問題でもある。なぜならば、それによって経済に対する見方にも違いが生じるからである。
 例えば、生産と消費、供給と需要である。生産や供給を独立変数とするか、従属変数とするかによって経済に対する見方が違ってくる。

 連立方程式を解くための前提となる恒等式が重要となる。

 一般に経済の基本となる方程式は、全体量=基準量×個数
 あるいは、総量=単位量×数量によって表現される。

 基本となる方程式は、個数=全体量÷基準量(包含量)。
 また、基準量=全体量÷個数として表現できる(等分除)。

 更に、包含量を発展させると比率
 即ち、比率=全体量÷基準量と言う式が導き出される。
 又、等分量から一当たり量=全体量÷比率とすることが出来る。
 一当たりは単位当たりとすることも可能である。


会計と行列と行列式


 会計や簿記は、行列として表現することが可能である。この事は、会計や簿記が行列の構造や性格を持っていることを意味する。これは,会計や複式簿記を基盤とした市場の現象を考える上で、重要なことである。

 現実の経済において、結局、重要になってくるのは、ベクトルが問題なのである。
 貸借対照表や損益計算書のように単純に一時点の状態を示すだけでなく、個々の要素の方向性と力を表すことが重要なのである。
 特に、景気の動向や会計を状況を分析する際、名目と実質の差によるベクトルの関数をどう立てるかが鍵となる。
 何が未知数で、何が既知数かを見極めることが肝腎なのである。
 有り体に言えば、何が解っていて、何が解っていないかである。

 表面に現れた数値だけでは、経営や経済の実態を把握することは出来ない。その背後にある事態に迫る必要がある。実態を把握するためには、数値を導き出した恒等式や方程式が重要となる。恒等式や方程式を構成する個々の要素がどの様な意味を持ち、どの様な働きをしているかを知る必要があるのである。
 経済や経営の指標は、方程式が重要な意味を持つ。分数では分母と分子の関係である。
 例えば、経営状態を分析する場合、
 売上高-費用=利益
 売上高÷従業員数=一人当たり売上高。
 売上数量÷従業員数=一人当たり売上数量。
 売上利益÷従業員数=一人当たり売上利益。
 利益を上げるためには、売上高を上げる努力をするのか、一人当たりの売上利益を上げるような工夫をすべきなのか。又、費用を則減すべきなのか。

 又掛け算も重要となる。

 数量×単価=売上高。
 売上を上げるためには、単価を上げるのか、数量を増やすことを考えるべきなのか。

 単価×利益率=単位利益
 単位利益×回転数=期間利益
 つまり、期間利益に作用するのは、利益率と回転数である。
 利益を上げるためには、利益率を上げるか売上個数を上げるかである。
 また、損益を考える上で、重要となるのは損益分岐点であり、固定費と変動費の関係、そして、限界利益が重要となる。
 大量生産を前提とすると利益を手っ取り早く確保しようとすると利益率を落として回転数を高めればいいことになる。

 利益が上がらない理由は、売上数量が減っているのか、費用が上昇しているのか。それを明らかにしないと有効な対策は立てられないのである。
 そして、実体を知るためには、個々の数値の方向性と力を知る必要があるのである。

 経済にとって正規行列は特別な意味を持つ。
 正規行列を考える前に、正規化の意味を明らかにする必要がある。
 正規化というのは「標準化」と言う意味がある。標準化をする目的は、最適化にある。(「今すぐ仕事に使える数学」内山力著PHPビジネス新書)
 正規とは、normalからきている。normalは、正規という意味以外に、標準とか、規定されたという意味と正常とか、平均、正常、状態という意味がある。
 ここで重要なのは、平均とか、正常とかと言う意味である。正規化とは、標準という意味以外に、平均化とか、常態化という意味が含まれているのである。

 正規行列は、単位行列である。単位行列は、平均、基準、原点、変換の働きを持たせることが可能である。

 単位行列を想定する場合、一の意味することが重要となる。
 指数の始点、基準点とするか、即ち、一とするか。それによって表された対象の様相も変わってくる。

 冨や利益とは余剰が生み出す。この様な余剰な価値は金利や利益、地代と言った付加価値によって形成される。
 お互いに、不足した物を必要なだけ生産、或いは交換している間は格差は生じない。この様な社会では、利益も、金利も、地代も生じない。それが原始共産主義的な社会である。
 余剰な生産物は、過剰な生産物である。
 余剰な生産物は、余剰な価値の素となる。そして、余剰な生産物にとって重要な要素は保存が出来るか、どうかである。

 借金を頭から悪いと決め付けず、その借金が発生した状況とその借金の働きを見極めることが重要なのである。場合によっては、返せない、あるいは、返す必要のない、返してはならない借金もあるのです。問題は水準であり、負債だけでなく、資産や収益、費用、そして資本との関係と働きが重要となるのである。

 所得と支出は、連動している。
 所得の中味は、収入と借入と貯蓄の取り崩しである。自己調達資金は、収入と貯蓄の取り崩しから求められる。
 借入は、外部からの調達資金である。
 どの様にすれば、可処分所得を増やすことが出来るか。

 生産と所得と支出は一体なものであり、どれ一つ欠けても成り立たない。例えば、生産のない所得や支出は成り立たないのである。
 社会保障に支払われる費用の多くは、生産性のない費用だと言う事を忘れてはならない。失業手当を増やすことよりも雇用を増やすことが大切なのである。断っておくが、これは、善悪の問題ではなく。経済の問題だという事である。
 生産は働きによってもたらされる。働きのない所得や支出が問題なのである。
 何が経済に貢献していたかを考えるべきなのである。交際費は無駄遣いだからと言った短絡的な発想では、景気は良くならない。又、必要な費用を削れば、必ず闇経済が拡大するのである。
 所得の移転と付加価値の創造は別物なのである。

 ある意味で非効率な産業ほど雇用を創出できる。その意味では非効率だけれども経済性のある産業の育成が雇用には重要になる。この場合の経済性とは、収益力等を言う。非効率だけれども経済性のある産業というのは、機械化や合理化が出来ない、あるいは、出来ない部分を含む産業である。

: 市場経済では、生産と分配、消費の均衡が重要になるのである。
 生産の効率性ばかりを追求し、ひたすらに利益を追求し、費用を削減すると結果的に所得(分配)が圧縮され、消費が減退する。それは必然的に生産を抑制する働きになるのである。それを突き詰めてしまうと、仕事が溶けてなくなってしまうのである。なぜならば、費用こそ仕事の礎だからである。仕事がなくなれば、雇用は喪失してしまうのである。

 生活水準や所得の水準が均質にならなければ、公正な競争など成り立たない。生活水準も、所得水準やバラツキも、労働条件も違い国同士が同じ条件で競争しようとするから、収益は圧縮され、利益も失われるのである。
 また、全てを統一、均一にしようと言うのが間違いなのである。何が同じで、何が違うのかかが問題なのである。その結果、仕事が溶けてなくなってしまう。

 合理化、合理化と人の仕事を奪うことばかり考えていればかりいればいいというわけではないのである。大切なのは、生産と所得、消費の均衡なのである。

 技術革新のみに比重を置くと景気は安定しない。技術革新には、多くの場合、一過性と余剰、流行と言う性格がある。つまり、波があるし、嗜好性の問題なのである。
 ただ収益力のみに経済の基本をおくと生産と所得の均衡が忘れられる。つまり、生産性は高まっても、所得は減少するといったことが生じるのである。その結果、消費も縮小する。

 重要なのは、生産と労働に伴う所得と消費の相関関係である。均衡である。

 リゾート開発をし、観光産業にてこ入れをした。しかし、そのことごとくが失敗した。観光産業やサービス労働の様に生産性が伴わない労働には限界がある。

 リゾートのような産業で効果を上げているのは、ギャンブルである。
 ギャンブルとギャンブル以外のリゾート産業との違いとは、ギャンブルの特徴は、お金が双方向に動くと言う事である。しかし、ギャンブルで国富が増えるかというとそれは甚だ疑問である。

 いずれにしても、生産性を伴わない労働は、対価としての物的な反対給付が期待できないのである。この点は公共サービスにも言える。経済では、双方向の働きが求められるのである。

 更に、労働生産性と貧富の格差は相関関係があると考えられる。

 税政や税制を考える際、忘れてはならないのは、税の働きである。なぜ、税金が必要なのか。税金は何に使われるのか。税金の働きは何か。これらの疑問点に対する解答を先ず明確にすべきなのである。
 その上で、なぜ財源が問題となるのか。これらの問題を考える場合、税を絶対額だけで捉えてはならない。
 なぜならば、増税は分配の問題である。


経済空間は、多次元的空間である。




 市場を大きな器に見立てると有限な人物金から成る人工的な仕掛けと言える。この人工的な仕組みの働きは、生産と分配である。
 その意味では、市場経済は、雇用と生産と通貨の量の連立方程式の解と言える。

 資産、負債、資本、収益、費用の規模は、現金収支によって決まる。期間損益と言っても根本は、現金の流れなのである。
 つまり、経済現象を分析する上で基礎となるのは、マネタリーベースである。

 連立方程式の前提となる恒等式においては、0の意味することが鍵となる。

 経済的に見て0は何を意味するのか。つまり、何と何が均衡しているのかが重要な鍵を握っている。それは、何がゼロサムの現象かでもある。

 前提となる恒等式には、例えば、
 資本収支=経常収支
 国内総生産=国内総所得=国内総支出
 国内総所得=雇用者所得+営業余剰
         +間接税-補助金+固定資本減耗
 国内総支出=民間最終消費支出+国内総固定資本形成
         +在庫品増加+政府最終消費支出+海外経常余剰
        =民間最終消費支出+国内総固定資本形成
         +在庫品増加+政府最終消費支出+輸出-輸入
        =民間支出+投資+政府支出+純輸出
 国内総生産=最終生産物-中間生産物の合計
 国民総生産=民間消費+民間貯蓄+租税
        =民間消費+民間投資+政府支出+経常収支
 民間貯蓄-民間投資=(政府支出-政府収入)+経常収支
   (民間貯蓄超過)     (財政赤字)
 政府収入=税収+税外収入
 歳入=税収+税外収入+公債
 経常収支=財政収支(歳入-歳出)+民間収支(貯蓄-投資)
 などである。

 購買力は通貨価値の拠り所となる。購買力は、物価と所得によって導き出される関数である。購買力平価は、所得に規制されている。購買力の上限は、所得に規制されるからである。購買力は、消費力の本となるから、消費は所得に制約される。

 生産の量は、物を表し、所得の量は、人を表し、貨幣の供給量は、金を表す。
 
 貨幣価値を形成できるのは、現金の流れだけである。物々交換からは、貨幣価値は生じない。故に重要なのは、貨幣の供給量、マネタリーベースである。マネタリーベースが貨幣価値の基礎となるのである。

 量的な変化は、質的な変化を起こす。それが相転移である。

 市場が成熟し、物の生産量や人の所得は、一定の水準に落ち着くのに、なぜ、マネタリーベースは拡大し続けるのか。それが問題なのである。
 市場が成熟し、経済の成長が巡航状態になれば通貨の供給量も落ち着かなければならないはずである。つまり、市場の拡大が抑制されているのに、通貨の供給が幾何級数的に増加し続ければ、通貨の流通量は慢性的に過剰になる。
 この様な状態が続けば、貨幣価値は質的な変化を引き起こす。
 最終的には、市場は制御不能な状態に陥る危険性がある。

 イノベーションだけが経済の原動力ではない。

 市場では、競争力が価格にのみ特化する傾向がある。競争力が価格に特化してしまうと価格以外の競争力が失われてしまう。
 例えば、品質とか、サービスは、標準化され、競争力を失ってしまう。

 公共投資が経済に与える影響で重要なのは、キャッシュフロー、即ち、現金の流れである。第一に、公共投資が実行された場合、その資金は、先ず、投資先の経営主体の収益に流れていく。同時に、投資先は、設備投資を行うがその場合は、金融機関から融資を受ける。それが初期投資である。収益に流された資金は、一つは費用となって消費されると同時に償却費として金融機関に返済される。つまり、資金の流れには、消費への流れと返済への流れの二つの流れが生じているのである。

 貨幣経済下における経済現象では、資金の流れる方向と経路が重要な働きをすることになる。つまり、貨幣の働きは、ベクトルの問題なのである。

 経済の働きを解明するためには、初期投資と借入金、返済、償却、利益、金利、運転資金、収益の動きと関係が鍵となる。
 つまり、キャッシュフロー、つまり資金の流れを明らかにすることなのである。
 社会全体で見れば、金融機関の預貸率の推移が重要な意味がある。

 貨幣には、二種類ある。一つは、政府発行の貨幣であり、もう一つは、中央銀行発行の紙幣である。
 通貨を政府が直接発行すると負の操作が出来ない。

 負債や資本に対応しない資産、埋没した資産は、損益に関係しない。現金主義では、土地を活用して利益をあげたが地代は、埋没していた。例えば、現金主義を基礎とした時代では、手持ちの土地に上に家作を建てて他人に貸した場合、表面に出るのは、家賃だけであり、地代は埋没している。期間損益主義では、家賃は、損益上に地代は貸借上に表される。
 損益というのは、負の勘定の存在が前提となる。

 期間損益は、単位期間や経済単位を設定することによって直線的関係、即ち、比例関係に置き換えることで成り立っている。

 通貨圏とか、市場と言った経済単位には、内と外の基準がある。経済単位は、貨幣制度や会計制度、経済制度と言った制度的には、閉ざされていて、物流という点では開かれている。また、所得や物価も内部から見て固定的か、変動的かは、外部から見ると逆の動きや働きをする。例えば、円高は、内部から見ると輸入品の国内価格は値下げに繋がるが、輸出国から見ると輸出価格は変わらない、逆に、輸出品の国内価格は変わらないが、輸出国から見ると値上げになる。人件費は、海外と比較して、割高になるが、国内では変わらない。その為に、下げ圧力となる。

 GDPは、収入と支出の両面、更にその上に生産という側面からも見なければならない。この三つの要素が均衡することが重要なのである。

 経済的価値には、名目的価値と実質的価値、あるいは、実物価値がある。
 名目的価値とは、取引が成立した時点における貨幣価値を言い。実質価値、あるいは、実物価値とは、その時点における財の取引相場の貨幣価値を言う。実物価値には、物価上昇に伴う時間価値が加わる。故に、実質価値に換算する場合は、その時点、その時点での物価を考慮して換算する必要がある。また、地域や季節によっても物価の水準や構造には変動や差がある。この点も考慮する必要がある。
 名目価値に時間価値を加えるのは金利である。ただ、名目的価値自体の中には、金利は含まれていない。

 名目的価値というのは、金銭的な意味での貨幣価値である。それに対して実質的価値というのは、物の価値だと言える。
 取引には、金銭と財との交換を意味する。つまり、取引は、貨幣の流れと財、言い替えると物の流れの二つの流れを前提として成り立っている。取引における金銭的な側面から派生するのが、名目的価値である。それに対して、物的側面から派生するのが実質的、あるいは実物価値である。そして、名目的価値は、交換価値を基に成り立ち、実質価値は、使用価値を基に成り立つ。使用価値というのは、実利的意味であり、交換に実利的価値があれば、交換価値も使用価値に含まれるが、その場合は、使用価値が前提となる。
 貨幣は、交換にしか実質的な価値がない。故に、貨幣の価値は、交換価値に特化することが可能なのである。

 単位が次元を形成する。故に、単位が変われば次元も変わる。
 物理的単位が変われば次元も変わる。分量と個数とでは、次元が違う。ただ、一個、何グラムというように個々の単位が結び付けられている場合は別である。その場合は、分量と個数とが一体となって単位を形成しているとみなされる。
 例えば、リンゴ一個とリンゴ一グラムでは単位が違う。ジュース一瓶と重さや体積が結び付けられている様な場合を除いて個数の単位と重さの単位は違う。故に次元も違う。
 貨幣単位が変われば次元が変わるのである。故に、通貨圏が変われば、次元を変換する必要が生じる。貨幣単位の次元を変換する仕組みが為替制度である。

 経済空間は、直線的関係が交じり合って構成される。多次元的空間である。

 会計制度では、勘定科目の数だけ次元が生じる。

 問題は為替である。貨幣単位が変われば次元が変わるのである。次元の違う量をいかに変換するかが為替の問題なのである。

 また、市場取引における貨幣単位は内包量であるから、市場取引においては、密度が重要な要素となる。
 経済的価値においては、密度、濃度が重要となる。即ち、経済単位の構成は、質、量、密度からなっているのである。

 線形というのは、比例関係である。
 市場取引における、貨幣単位は、即ち、単価は、内包量である。貨幣単位は、比率によって成り立っている。貨幣は、貨幣経済の基盤である。故に、貨幣経済は線形的経済なのである。

 多くの事象は、数列として表される。数列というのは、数の順序集合である。そして、数列の並びには、規則性のある並び方と規則性のない並び方がある。経済的事象の多くは、規則性がないか、あっても認識できない数列が多い。しかし、その中にも規則性のある数列があり、規則性のある数列が、予測や計画の基礎となっている事がある。
 例えば、経済的変化は、時系列的数列として表現され、会計情報は、勘定の数列として表現される。
 この様な数列は、位置と運動と関係を数値的に表している。
 この様な数列を解析することによって背後にある法則や実体を明らかにしようというのが線形代数の目的の一つといえる。

 規則性のある数列は、主に、時系列の数列に見られる。時系列数列の多くは、等比数列であり、複利的、指数的な数列である。
 約定によって予め条件が設定されている勘定は、必然的に、時系列的に規則的な数列となる。その様な勘定は、金融費用が代表的であり、地代、家賃、人件費、減価償却費などがそれに準じる。
 相場によって決まる勘定は、不規則な数列となる。例えば、原材料や管理費などである。

 現実の事象を一次方程式に還元する操作を微分的操作という。逆の操作を積分的操作という。つまり、貨幣経済を基礎的状態に置き換える操作を微分的操作と言い。線形的状態から現実の事象に変換する操作を積分的操作という。
 そう言う観点から見ると会計操作は、微分的操作といえる。

 現実の経済は、絶え間なく変化している。変化は、時間の関数である。故に、経済的事象は、貨幣的事象に時間軸が加えられた事象である。
 時間価値は、複利的に、変化する二次方程式的な事象、即ち、加速度的事象である。故に、経済的事象の根本は、二次元的な事象である。そうなると、経済的事象を線形的に扱うことができない。

 その為に、経済的事象を一定の時点における断面と一定の時点間の変化して分解することによって経済的事象を分析する考え方が期間損益である。即ち、期間損益は、微分的な解析に基づいて計上される。

 物のために生かされているのではない。金のために動かされるのではない。
 人を生かすために、物があり、物を動かす為に金があるのである。

 経済は、人を幸せにする為の活動であり、物や金のためにあるわけではない。

 市場取引を勝負事のように勘違いしている者がいる。市場取引では、得をする者がいれば、必ず損をする者がいるというのは成立しない。なぜならば、損得はゼロサムではないからである。実物市場の市場取引というのは、物と貨幣の交換を基本としている。つまり、双方向の取引である。市場取引は博打ではない。実需、即ち、必要性を前提として成立しているのである。また、消費を基本としている。
 例外なのは、金融取引である。貨幣と貨幣との取引は、基本的にゼロサムであるから、得する者がいれば損をする者もいるという構図が成り立つのである。金融取引は消費を前提として成り立っているわけではないからである。
 市場取引は、実物市場では投資を前提とし、金融市場では投機を前提としているのである。

 数は、対象から乖離し、数自体で機能することが出来る。その良い例が貨幣である。貨幣は、本来、物と物との交換を仲介する物である。ところが、貨幣には、貨幣と交換する取引がある。この貨幣と貨幣の交換によって成立する取引には実体が伴わない。この様な貨幣の取引は、貨幣の持つ時間的価値や空間的価値によって発生する。この様な価値は、付加価値である。

 経済成長を続けているとしてもそれは物価の上昇率と所得の上昇率を比較してみないと実質的なことは解らない。だからこそ、経済では、実質的な事象と名目的事象を引き比べることが大切になるのである。



会計は線形的である。



 資産家と資本家、事業家は、違う。資産家は、物の経済の支配者であり、資本家は、金の経済の支配者である。そして、人の経済の支配者が、今は、事業家であり、昔は、君主や領主である。
 資産家というのは、土地や設備と言った生産手段を所有することによって経済を支配する者であり、資本家というのは、金や株と言った貨幣に纏わる権利にって経済を支配する者をいい、人に依って経済を支配する者を、今は事業家と言い、以前は、君主、或いは、領主と言った。

 貨幣経済体制における経済空間は、人、物、金、及び、時間の座標軸から構成する事ができる。

 貨幣価値は、貨幣と物や人、時間の一次式の方程式に置き換えることで形成される。

 経済的価値は、単価と物理的数量、或いは、時間の量の積である。物的数量は、物的経済、物的空間に基づく数量である。それに対し、時間の量は、人的経済、人的空間に基づく数量である。

 人、物、金の独立した座標軸を形成する。各々独立した軸が交叉することによって経済空間は形作られる。この三つの座標軸によって構成される空間に時間軸が加わることによって経済は時空間を成立させる。経済は、時間の関数である。
 即ち、経済空間は、人的、物的、貨幣的、時間的座標軸が組み合わさって形成される。ベクトル空間だと言える。

 更に、人的、物的、貨幣的要素は、各々、独自の空間を形成している。
 例えば、人件費を例にとれば、基本給や手当と言った給与体系と評価基準、作業量などが独立した線形空間を形作り。物的要素は、原材料の組み合わせなどが独立した線形空間を形成している。

 それらは、最終的に貨幣空間、会計空間に写像され、一つの体系に纏められる。

 貨幣というのは、経済的価値を統一するための手段である。貨幣制度とは、財を統一された価値基準に変換する仕組みである。財は、統一された基準によって貨幣価値に変換されることによって演算が可能となる。

 貨幣的事象というのは、目に見えない無形の事象である。経済は、本来、数値的な事象ではない。経済的事象を、貨幣経済は、貨幣を媒介として数値化する事によって成り立っている。経済は、アナログの存在であるが、貨幣によってデジタル化される事で貨幣経済は、成立するのである。

 近代数学の基礎となった西洋数学は、コンパスと定規で数学的問題を解こうとした。つまり、何等かの物理的実体を数学の根底としていたのである。

 この様な数学は、本来、有形な物理的実体との結びつきが強かった。しかし、経済的数学が扱う対象は、無形な物である。その為に、経済的な数学は、本来の在り方を見失う危険性を常に孕んでいる。

 例えば、貨幣価値が経済本来の価値を見失わせることである。我々は、家族を養うために、金を稼ぐのであり、金を稼ぐために家族があるわけではない。人々を生活を維持するために、企業(経営主体)があるのであり、利益を追求することのみのために、企業があるわけではない。
 何のために、市場の仕組みがあるのか、その目的が見失われ、単に、会計的利益のみを絶対視してしまうと会計本来の機能が見失われてしまう。

 経済の貨幣的価値は、単価×数量に収斂する。要するに、単価、及び、数量の確定の仕方、手段が問題なのである。
 単価の決め方には、定価、約定により予め決めておくやり方と相場によってその場、その時点で決済する手段とがある。

 価格は、単純に需給によってばかり決まるとは限らない。
 巨額の設備投資がかかる産業では、投資した資金を回収するために時間がかかる。又、収益と収入、費用と支出との間に時間的なズレが生じる場合がある。

 割賦販売や予約販売、掛け売上のように、売上にもいろいろな構造がある。しかし、売上勘定を見ただけでは、売上の構造は、明らかにならない。売上の構造を明らかにする為には、相手勘定の資産や費用を見てみなければ明らかにできない。即ち、収益構造とは費用構造なのである。

 この様な多様な構造を持つ経済や会計の動きを明らかにするのが線形代数である。

 時間的価値は、労働量に基づいて計算される値である。
 物的価値も物の価値と労働に分解できる。故に、経済的価値は、時間的価値に換算することができる。結局、経済的価値は、時間的価値といえるのである。

 時間的価値は、労働以外でも金利や地代などによって生じる。

 時間的変化を認識するためには、位置と運動の双方から取りかかる(アプローチする)必要がある。位置と運動から、働きや関係を明らかにするのである。働きとは、対象自体が持つ力であり、関係とは、対象自体が持つ力が他の対象に与える影響である。
 故に、時間的変化を解析するにあたり、通常は、構造の断面と構造に推移から類推する。
 その典型が期間損益である。期間損益では、時間が陽に作用している損益計算と陰に作用する貸借関係の二面から経営の実体を解析する。

 変化は、時間の関数であり。時間が関わる運動を基本は、回転運動、即ち、周期的、指数的運動である。つまり、直線的な運動、線形的な運動は少ない。
 しかし、指数的変化は、構造的な揺らぎが大きく解析することが困難である。故に、曲線的運動を直線的運動、即ち、線形的な運動に置き換えることによって解析をするのである。

 経済的現象は、回転運動と比率が基本である。即ち、回転と比率の積として表現することができる。回転は、時間の関数である。回転と比率の積は、複利的な関係である。即ち、経済的現象は、直線的と言うよりも指数曲線的現象である。指数曲線的な現象を直線的な現象として捉えるのは困難である。その為に、回転数を制御して一次的な事象に変換する必要がある。それが期間損益である。

 指数的現象を線形的な現象に置き換えることによって演算が容易になる。その為に手段の一つとして時間が重要な役割を果たしている。

 貨幣価値と貨幣とは違う。貨幣は、貨幣価値の因子となる単位である。貨幣価値は、貨幣の動きと財の動きの相互作用の結果として表れる。貨幣と財のこの様な動きを仲介するのが取引である。
 貨幣の働きは、無次元な自然数の量、それに対して、取引の結果は、一方向の量ではなく多次元的な働きの値として認識すべきなのである。取引は、市場の内的作用と市場の外の作用の均衡の上に成り立っている。
 つまり、内的均衡と外的均衡の上に貨幣価値は形成されるのである。
 例えば、支出は、一方で収入を形成するという事を忘れてはならない。デフレーションによって物の貨幣価値が下落することは、一方で、企業収益を圧迫し、収入を減らす作用がある。何でもかんでも安ければ良いというマスコミの報道は、一面的しか現象を見ていない証拠なのである。
 会計制度を基盤とした市場経済では、経済現象は、資産、負債、資本、収益、費用の増減運動として表れる。
 資産、負債、資本、収益、費用の増減運動と収益と支出との関係均衡させるのが、市場の仕組みや会計制度なのである。
 そして、その仕組みが正しく働いているかせるのが企業や家計、財政なのである。企業は単に利益を追求することのみを目的としているわけではない。利益は指標に過ぎないのである。

 貨幣価値、時間的に関して幾何級数的(指数的)な変化を前提とする。貨幣価値は幾何級数的に上昇をする。幾何級数的な変化、加速度的な変化であり、ある時点を越えると爆発的に増大する。
 この爆発的な変化が、市場の混乱や停滞を招く原因なのである。貨幣価値の爆発的な増大は、インフレーションの原因となり、それを抑制しようとすることは、デフレーションの原因となる。
 物の増加の速度と所得の増加の速度、そして、貨幣の供給の速度が不均衡になると景気は混乱することになる。

 デフレーションは、物価の下落、即ち、貨幣価値が上昇する現象であり、市場の収縮、所得の減少、収益の減少、税収の減少、資産価値の圧縮、生産の減少、雇用の削減、投資の減退等と言う事象を伴う。名目的価値が変わらないのに実質的価値が下がるのがデフレーションである。負債の負担が重くなる。

 デフレーションの怖さは、単に、名目的価値と実質的価値を乖離させるだけに止まらず、名目的価値の絶対額、即ち、負債の絶対額を増幅することにもある。つまり、デフレーションは、負債を相対額でも絶対額でも増幅する。それは、ハイパーインフレを引き起こす潜在的要因とも成る。

 給料は下がっているのに、ローンの返済負担は変わらない。給料が下がるどころか最悪の場合、失業する危険性すらある。給料が減ったり、失業すると借金が返せなくなり、借り換え、借り増しによって借金の額を膨らませる結果になる。
 これは個人でも、企業でも、公共機関でも、同じである。

 インフレーションは、反対に、物価の上昇、即ち、貨幣価値の下落する現象である。デフレーションとは反対に市場の拡大、所得の増加、収益の増加、税収の増加、資産価値の上昇、生産の拡大、雇用の拡大、投資の促進、景気の過熱等と言った事象を伴う。名目的価値に対して実質価値が上昇するのがインフレーションである。過剰投資や過剰消費、人手不足、乱開発を招きやすい。

 インフレーションは、物価の上昇を加速し、貨幣価値を発散させてしまう。

 インフレーション現象やデフレーション現象を見ても解るように物価と貨幣価値とは、背反関係にある。

 市場経済は、適度なインフレーションを前提として経済体制である。

 だからといってインフレーションが是でデフレーションが非と単純に決め付けることは出来ない。中でも長い目で見たインフレーションは、負の蓄積を生み出すと伴に、貨幣価値の幾何級数的な上昇を前提としているという事である。
 経済は、本来、インフレーションとデフレーションの間を揺れ動くものなのである。

 経済事象を是非善悪のような絶対的価値観で捉えるのは危険である。

 力に対する認識は、一定方向に働きとしてのみ注目していたら力や働きを制御する事は出来ない。双方向の力、働きを想定することによって力や働きを制御する事が出来る。だからこそコスト意識が重要となるのである。

 天下りの問題は、労働と対価の不整合にある。天下りが悪いというのは、能力も実績もない者がいきなり上に来て、何の働きもないのに高給を取ることに問題があるのである。この労働と対価の不整合の問題は、官僚機構について廻る問題である。これは、官僚組織がフィードバック機能を持たないことに原因がある。

 労働に対する評価も市場取引も最終的には、人の判断に依る。経済体制を形作る根本は人対人の関係なのである。人と人との間に、機械や何等かの基準が介在したとしても最終的には、人の主観に依らなければ、組織は、組織としての実体を失う。つまり、生きたフィードバックが働かなくなるのである。そのフィードバックが利かなくなる事によって官僚組織は、抑制がなくなり、無原則に増殖、拡大するのである。コスト意識の喪失である。費用を絶対額として捉えていたらその効果を測定することは出来ない。況や、人件費を一律に捉えたら経済的効果は現れない。

 現金が廻れば、経営は継続できるのならば、現金収支さえ把握しておけばいいではないか、なぜ、期間利益を計算する必要があるのか。黒字は良くて、赤字は悪だという認識があり、赤字になると資金の供給が止められるという意識が経営者のどこかに働く。
 赤字があるからコスト意識が芽生えるのである。現金主義では、支払が出来なくなったら即お終いである。経営の継続は出来ない。利益は、赤字でも資金が廻っていれば継続は可能である。
 又、過剰利益は、かえって負の働きをする。だから、過剰な損失だけでなく、利益も問題なのである。
 黒字は善で、赤字が悪みたいな考え方が間違いなのである。黒字であろうと、赤字であろうと、先ず、その額と幅(率)、そして、その原因、及び期間と言った内容の問題なのである。

 重要なのは、資産、負債、資本、収益、費用の均衡である。資産、負債、資本、収益、費用の均衡が破れるから市場は暴走するのである。資産、負債、資本、収益、費用の均衡を保っているのが資金の流れの働きである。

 資産、負債、資本、収益、費用を構成する貨幣価値は、どの様な方程式によって導き出されたのかである。
 そして、連立方程式をいかに解くかが重要となる。その為には、何が共通の変数で、何を定数として認識するかが鍵となるのである。つまり、何が等しくて、何が何と連動していて、何を求めるかである。その為には、時間と貨幣価値の関係が重要となるのである。

 内的均衡や外的均衡を貫く一定の水準や原則を見出し、その水準や原則が維持できるような市場の仕組みを構築することである。

 線形というのは、要するに直線的関係を言う。つまり、直線的関係に置き換え、還元する事を線形化するというのである。
 経済には、直線的関係が随所に見られる。随所に見られるだけでなく、直線的関係は、経済の基本的関係だと言っていい。直線的関係というのは、比例関係である。

 売上は、単価×数量で求められる。人件費は、労働時間×人数で表される。この関係が経済の色々な局面に現れる。この様な関係が直線的な関係なのである。

 線形的構造上の対象は、平行性と同一線上の比という二つの性格を持つ。平行性というのは、図形的な意味合いに限定されるわけではない。
 平行性とは、同一線上で交わらない量という意味にも使える。平行関係とは、同一線上に交わらない関係を言う。
 例えば、労働量と時間量は、同一線上では交わらない。また、価格と数量とも同一線上では交わらない。この様な関係を一次独立という。
 経済的価値も同一線上にあれば四則の演算が可能となる。
 貨幣基準に則って貨幣価値へ変換する事によって一元的に管理する仕組みが会計制度である。故に会計制度は線形的制度である。

 貨幣経済は、直線的関係によって成り立っている。では、直線的関係とは、何か。直線的関係とは、一次方程式として表せる関係である。

 単位は、数に意味を持たせる。単位というのは、名札みたいな性格を持つ。貨幣価値を総額で表されると貨幣価値の背後にある定性的な部分が見失われる危険性がある。
 例えば、単位の値を構成する要素が立方なのか、平方なのか、重量なのか、形状なのか、時間なのかによって単位の背後にある対象の性格付けがされる。
 逆に言うと、貨幣は、対象と結びつくと対象の特性を打ち消し、貨幣価値に一元化する働きがある。その場合にも単位は重要な働きをしている。

 経済の貨幣的な事象は、単価と数量の積として表される。貨幣経済の経済的価値は、貨幣単位と数量の積として現される。
 即ち、経済的事象の基本は一次式として表現することが可能なのである。

 例えば、価格は、単価×数量によって表せる関係であり、労働量は、作業員数×作業時間、地価は、広さ×単位価格、売上は価格×数量によって表せる。
 この様に経済価値は、一次方程式によって表すことができる。
 この様な一次方程式によって表される直線関係を線形という。そして、貨幣経済の基礎は線形的関係であり、故に、貨幣経済は線形的な経済だと言える。

 貨幣経済体制では、経済的価値は、一般に線形関係が成立する。線形関係に還元することによって成立しているのが会計制度である。

 貨幣経済は、直線的関係に還元することができる。会計もベクトル空間を形成する。
 例えば、貨幣価値の座標軸と数量の座標軸によって価格をベクトル表示することが可能である。また、位置付けも可能である。
 つまり、会計現象は、量と方向に分解する事が可能なのである。

 会計は、行列として表すことができる。行列は、行と列の関係によって成り立っている。また、行と列との関係に分解することができる。故に、会計は行と列との関係によって表すことができ。又、会計は、行と列との関係に分解できる。
 この事は、会計を考える上で、重要な意味を持っている。

 会計における方程式の根本は一次式である。つまり、取引関係を正比例関係に還元することである。会計は行列である。
 一変数の関数について微分すると言う事は、一次化すると言う事である。その基礎は正比例関数である。多変数の関数について微分すると言う事は線形代数が基礎となる。線形代数とは、多次元の正比例関係を言う。(「ベクトル解析」森 毅著 ちくま学芸文庫)

 微分は、変化の瞬間を一次関数化することである。積分は、一定の区間の量を測ることである。故に、貸借は微分的であり、損益は、積分的である。
 区間には、閉区間と開区間と半開区間がある。

 会計は、資産、負債、資本、収益、費用の連立方程式である。利益は、その連立方程式の解である。資産、負債、資本、収益、費用を構成する貨幣価値は、どの様な方程式によって導き出されたのかによって利益は導き出されるのである。
 会計では、連立方程式をいかに解くかが重要となる。その為には、何が共通の変数で、何を定数として認識するかが鍵となるのである。つまり、何が等しくて、何が何と連動していて、何を求めるかである。
 また、時間と貨幣価値の関係が重要となるのである。時間は、基本的に指数関数である。それを単位期間を設定する事によって一次式に変換するのである。損益は、単位期間における瞬間速度とも言える。
 貸借は位置を損益は速度を表しているとも言える。つまり、貸借は、積分的な関数であり、損益は微分的な関数だとも言える。
 また、貸借は、指数的で、損益は一次的だとも言えるのである。

 会計を紐解くと先ず目に付くのは、見慣れた一次方程式である。
 即ち、単価×数量=売上だとか、一時間当たり賃金×作業時間=支払賃金、一人当たり賃金×人数=人件費、元本×利息=金利と言った一次式である。
 これは、速度×時間=距離とか、密度×体積=質量、縦×横=面積、単位×数=量と言った物理学的方程式と同じ方程式である。
 一次式が作り出すのは正比例関係であり、面積等である。この様な一次式は、デカルト以来代数幾何の基盤となっている。方程式が描く図形が重要な意味を持つ。
 そして、複数の一次方程式が集計されることによって決算書は作成される。
 故に、会計の本質は行列であり、線形代数である。

 会計は、多変数の同次一次関数である。

 近代数学には二つの流れがある。二つの流れとは、一つは、数学には、数を数えたり、足したり引いたりすることから発展した代数と今一つは、コンパスと定規によって構築された幾何がある。測る数学と数える数学が組み合わさって近代数学は、確立された。今日、デジタル化から測る技術から発達した幾何学、後退したように見えるが、近代数学の根底を幾何学が成していることには変わりがない。そして、測る技術こそ近代経済を基礎を作ってきたのである。

 経済における測る技術は会計であるが、手段としての会計はあっても経済を測るための理論は確立されていない。それが市場経済、貨幣経済、ひいては自由経済を混乱させる原因となっているのである。

 会計は、典型的な線形関数であり、一次変換が会計の基本である。

 簿記は、行列式によって表すことが可能であり、勘定科目の数だけ次元がある。即ち、簿記空間は多元的空間である。

 注意しなければならないのは、貨幣的空間と会計的空間は異次元の空間だと言う事である。
 貨幣的空間とは、貨幣が作り出す空間を言うが、会計的空間は、貨幣のみならず、人的空間、物的空間が複合されて作られる空間なのである。

 貨幣的空間で重要なのは、貨幣の流れる方向、即ちベクトルである。故に、貨幣的空間は、線形的空間なのである。

近代国民国家は論理的国家である。



 会計空間においては、一次元的空間と論理式、アルゴリズムが重要になる。
 経済主体とお金との関係は、基本的に入金と出金と残高なのである。資金は残高がなくならないように調整することが鍵になる。
 この様な動きは、必然的に一次元的な運動となる。

 資金の流動性は、密度と流量によって定まる。資金の流れの密度は、回転率から求められる。資金の流れの密度で重要なのは、臨界密度である。

 問題は資金の流れである。資金の流れをどの様に捕捉し、又、制御するかが経済を制御する鍵を握っているのである。

 インフレーションやデフレーションは、時間価値が働く事によって起こる現象である。言い替えると、時間的価値が働かないとインフレーションもデフレーションも起こらない。この様に、時間的価値が重要な働きをするが、ただ、根本あるのは資源の過不足である事も忘れてはならない。
 値上がりすると予測するか、値下がりすると予測するかが重要な鍵を握っている。値上がりや値下がりの根本は、物の過不足、需給にある。それを見落とすと通貨の動きの意味も理解できなくなる。

 会計や景気の局面を分析する場合、経済のおかれている局面が収束的構造か、発散的構造かが重要となる。発散的構造か、収束的構造かは、その時点おける損益と貸借の状況、関係によって決まる。
 経済主体は、資金の調達と投資を繰り返している。それを現金の動きから見ると現金勘定の発散と収束を繰り返していることになる。それは社会全体で見ると貨幣の供給の発散と収束の繰り返しである。

 経済主体というのは、貨幣が流れることで動く仕組みである。貨幣が流れなくなれば、経済主体は動かなくなる。つまり、破綻するのである。故に、現金残高を常に正にするように調節しなければならない。現金残高が不足しないように、絶えず経済主体は、現金の調達と運用を図っていく必要があるのである。金を儲けることが経済主体の目的ではない。上手く、資金を廻してその力で物の分配や流通を促すことが経済主体本来の目的なのである。
 その為に経済主体の現金残高が正を保てるように監視する仕組みが会計なのである。

 経済主体は、流動資産に現金を一旦貯め、それがなくならないようにしながら資産や費用に変換していく過程で収益をあげていくのである。

 現金残高が正を保つように経営活動を監視するためには、入金と出金の動きを正確に捉える必要がある。その為には、収入口と支出口が鍵を握っている。つまり、お金の入口と出口が重要なのである。
 入力と出力が鍵を握っているのであるから、入口と出口が問題となる。
 資金の入口と出口が解れば、その次ぎに大切になるのが、資金の流れの経路、型を掴むことである。どこから入ってどこへ出ていくのかが解れば資金の流れの概要がつかめるからである。
 この事から収益と総資本と利益の割合と変化、及び、費用と総資産の割合と変化が重大になる。
 要するに、どこから資金を調達し、どこへ流すのか、即ち、分配するかの問題なのである。
 そして、単位期間内に営業活動を通じて調達し、消費される部分を期間損益に反映し、将来の収入と消費に備える資金を貸借の部分に仕仕分けるのが期間損益である。
 故に、損益の部分は、資金の流動部分を貸借の部分は、資金の供給部分を表す。即ち、損益によってフローが、そして、貸借によってストックの部分が形成される。
 資金の流れを分析する際には一次元的な捉え方が、仕分ける時には、論理式が威力を発揮する。
 一次元的世界とは、一車線の道路のような世界である。つまり、渋滞学的世界なのである。(「クルマの渋滞、アリの行列」西成活裕著 技術評論社)

 輸出を視点を変えてみれば、財を円で売って、ドルで買うということであり。その為に、円を買ってドルを売る事でもある。逆に、輸入は、財を円で買って、ドルで売ることを意味し、その為に、円を売ってドルを買うのである。
 日米で日本が経常黒字を大続ければ、ドルが蓄積されていく。
 ドルや円の相場は、円とドルの需給によって決まる。円とドルの需給は、本来は、経常収支によって左右されるのである。
 しかし、単純に、日本の経常黒字が続けば、円が一方的に上昇するというわけではない。経常収支は、為替相場を決定するための重要な要素ではあるが、経常収支だけで為替相場が決まるわけではない。
 問題は、為替相場や経常収支が国内の物価や財政にどの様な影響を与えるかである。それを予測するためには、資金の流れる量と経路をしっかりと把握することなのである。そして、資金の動向を知るためには、資金の流量と速度、密度が重要な要素となる。

 金本位制度において金の争奪戦を繰り返す事は、愚の骨頂である。金の争奪戦が結果的に金本位制度を破綻させたのである。金は、通貨圏間の決済の手段なのである。いくら金を溜め込んだところで、金を決済に使えなければ宝の持ち腐れになってしまうのである。交易は相手国があって成り立っている。どちらか一方だけが優位に立とうとしたら、交易は成り立たなくなる。互角であってこそ交易は有益なのである。

 経済上での方程式では、答え、即ち、結果も大事だが、方程式の構造、構成がより重要な意味を持つ場合が多い。

 つまり、経済は、方程式を解いた結果よりも、その結果を導き出す仕組みや構成、方程式が指し示す原因が重要だからである。

 その典型が利益である。利益を導き出す方程式である。
 利益を導き出す方程式は、収益-利益、以外に、前期期末資本残高-当期期末資本残高から導き出す方程式がある。

 会計上の事故というのは、自動車事故とは違い、物理的な事故ではなく、観念上の事故である。観念上の事故とは、何等かの物理的な現象が現れるのではなく、あくまでも想定上の事故である。例えば、倒産と言ってもそれは、何等かの物理的損害があるわけではない。その証拠に、公共事業は、多額の赤字を出しても破綻したりはしない。

 しかし、それが問題なのである。何をしても経済的に破綻せずに、許されてしまえば、経済目的の意味が失われ、経済の仕組みが正常に機能しなくなってしまう。
 逆に、利益が、実体を失い観念的なものに堕してしまえば、利益追求のみが至上命令となり、利益のために、雇用や適正な価格の維持と言う事が忘れ去られてしまう。利益があげ利さえすれば何をやってもかまわないと言う風潮に支配される。
 例えば、人々に貢献するための公共事業が、利権化して、社会的負担を大きくしたり、人々の幸福を実現するための福利施設が疎外や孤独の原因になると言って事象である。
 また、本来、人々を啓蒙するための手段だった映画やテレビ、出版物が、道徳的退廃を増長させたり、人々を苦役から開放するはずの技術革新が、雇用を奪うというような事象が起こる。
 利益の持つ意味や役割が失われると利益を追求することの目的が見失われてしまうのである。
 何のために利益をあげる必要があるのかが判然としなくなることが重大な原因の一つなのである。

 利益は、最適な状況を作り出し、維持するための指標に過ぎない。問題は、利益を生み出す体系にあるのである。

 時間を一定の長さで区切り、一定期間を単位化することによって指数的変化を線形的な変化に置き換えることができる。
 その好例が、会計である。即ち、単位期間に区切り事によって期間損益を線形的に計算するのが会計である。

 会計で重要なのは、回転と比率である。会計は、単位期間に区切られ事によって、線形化される。つまり、回転を単一化することで、線形的事象に置き換えるのである。

 会計では、時間が陽に作用する場合は、回転、周期が重要となり、陰に作用する場合は、比率が重要となる。

 対象を解析する際、重要となるのは、時間が陰に作用しているか、陽に作用しているかである。時間が陽に作用している場合は、対象の運動の解明を目的としている場合であり、陰に作用している場合は、対象の構造の解明を目的としている場合である。

 論理式の判定基準は、真偽である。善悪でも美醜でもない。それが論理式の限界でもあり、また、本質でもある。
 論理式においては、何が正しくて、何が悪いか、または、何がきれいで何が醜いかは、判定されないのである。

 真か偽かは、認識上の基準に基づいている。善か、悪かは、倫理上の基準である。美か醜かは、形式の問題である。

 真か、偽は、一定の前提の上に成り立つ所与の基準である。所与の基準とする事によって数学的論理の前提となり得るのである。真か偽かは、一つの体系を前提として成り立っている。所与であるか否かは、存在了解を前提としている。
 対象となる物の存在を相互に了解する事によって成り立つ。その最も典型的なのは、神の存在である。神の存在を相互に了解できれば、神の存在は所与の存在になるが、存在を了解できなければ、任意の存在になる。
 真か偽かを判定する最終的基準は、存在了解である。

 存在了解は、存在が可能な空間、「可能世界」を前提として成立する。例えば、雨の存在を了解するためには、雨が降る事の可能な世界を前提としている。雨が降る事が可能な空間を「可能世界」という。

 善とは、自己善をいう。善悪の基準は、主観的な体系、すなわち、価値観、倫理観によって形成される。何が正しくて、何が間違っているかは、個人の問題である。善悪には、客観的基準はない。故に、法源となる正義は、社会契約によって成立するのである。故に、善悪は、所与の基準ではなく、任意の基準である。

 美しいか、醜いかは、形による。形は、美醜の基準である。形とは、何も、視覚的な物ばかりではなく、五感によって形成される。つまり、視覚を含む、聴覚、味覚、触覚、嗅覚の五つの感覚によって形成される。

 美醜は、個々人の感性や感情に直結しており、行動を触発する。人は、感情によって決断する。美醜は、最も人間くさい基準である。

 論理式の前提は、善でもなく、悪でもなく、美でも、醜でもない。真か偽である。そこに論理式の可能性と限界がある。

 論理の前提は、真か偽かである。何を真とし、何を偽とするかを検証するのが意味論であり、論理の手順、段取りの正当性を検証するのが、構文論である。
 いずれにせよ、了解可能性を前提として成り立っている。つまり、意味論にせよ、構文論にせよ、その正当性は、任意な前提に基づく。検証、不要、証明を必要としていない命題、無定義語を前提としている。それは、存在了解が前提であることを意味している。

 何が、真であり、何が、偽であるかは、前提となる空間、世界に依存しているのである。それが「可能世界」である。
 可能世界とは、何が可能なのかに依る世界、何を可能とする空間かによって形成される世界空間である。何を可能とするかは、何を了解するかに基づいている。つまり、了解可能性の問題である。

 例えば、設備投資をしたらどの程度の売り上げが期待できるか、あるいは、ある製造設備が生産することが可能な生産量は、どの程度の売り上げが実現可能か、製造することの可能という意味において「可能世界」である。また、津波や地震が起こる確率が少しでもあれば、それも津波や地震が起こりうるという認識において「可能世界」である。

 真とは、当事者が、真とするから真なのであり、それを了解できるか否かの問題なのである。論理とはそういうものである。
 手順、手続きにせよ、予め定めておいて、その定められた規則を正当とするのである。
 それは法体系も同様であり、一定の手続きによって制定された法を正しいとしているのである。その前提は、暗黙の全員一致である。了解ができない場合は、法そのものを認めないことになる。無法者とは、法を成り立たせている論理、すなわち、何を正義とするのか、また、どのような手続きによって制定された法なのか、その前提そのものを認めない者を指して言うのである。
 だから、国民国家は、法治国家であり、契約と合意を前提として成り立っているのである。

 「可能世界」とは、所与の空間ではなく。任意に創造された空間なのである。法と自然の法則とは違う。法によって作られた空間、国家は、合意と契約を前提として作られた人工的空間なのである。そして、経済も同じである。貨幣は、自然界には存在しないのである。貨幣価値は、了解可能性の上に成り立っている。了解可能性が失われれば、紙幣は、単なる紙切れに堕してしまうのである。
 法治国家は、法が定められることによってどのような行為が許されて、どのような行為が許されないか、言い換えると、どのような行為が可能なのかを法を定めることによって明らかにした社会である。このような空間を「可能世界」というのである。
 現代の日本社会では、他人が所有する物を無断で使用したり、奪えば、法的に罰せられることに法で定められている。他人の畑から、野菜を採れば、それは泥棒である。しかし、原始時代では元来所有の意識もなかったのである。だから、他人の土地と自分の土地の区分も曖昧だった。動物でいえば、テリトリーは、自分の力で維持しなければならなかったのである。自分より、強い者が現れれば、テリトリーどころか自分の妻子だって奪われてしまうことすらあった。
 逆に、市場が法的に保証されることで、貨幣取引が可能となった。貨幣がない時代には、貨幣取引はできなかった、言い換えると貨幣取引の可能性がなかったのである。貨幣は、貨幣の効用が社会的に了解されていることを前提として成り立っているのである。
 何が、その世界で正しいとされているか、また、正しくないとされているかによって何が可能なのかが明らかになる。それが前提となって社会も経済も成り立っているのである。

 近代民主主義は、キリスト教的神、一神論的神、絶対神を前提として成り立っている。すなわち、神との契約、神との合意を前提として成り立っている。人対人の関係よって成立した契約を前提としたものではない。それ故に、人知を超越した法が成り立つのである。神を前提としなければ、法源そのものが相対的なものになって万人の上にあって生殺与奪を決める法は成立し得ない。人間関係の根底にある利害関係を超越しうるが故に、法はその正当性を保てるのである。さもなくば、法は人を裁く根拠とはなり得ない。
 近代社会を可能ならしめたのは、キリスト教的神の存在だといえる。この点を理解しないと近代民主主義を成立させている前提を明らかにする事はできない。

 近代法治国家は、論理的国家である。

 論理的手続きとは、予め定められた順番に従って命題を処理していく仕組みを言うのである。それが順次構造である。何が正しくて、何が正しくないかは、命題が予め定められた順番に従って処理されたかどうかによって判定されるのである。

 会計も論理的な体系を持っている。


数学と美意識


 数学は美学である。数学は美しい。

 金勘定ほど退屈なものはない。なぜならば、金勘定では、美しさを感じないからである。
 数学で大切なのは、美意識である。
 金勘定の尺度は、貨幣価値である。
 貨幣価値は、数列である。
 数学が美意識によって支えられるとしたら、数列にも美しさがある。

 自然界には、美を感じさせる数列が数多く隠されている。

 例えば、フィボナッチの数列である。

 フィボナッチ数列というのは、レオナルド・ダ・ピサが1202年に発行した「算盤の書」に載っている不思議な数列である。(数学再入門京極一樹著 じっぴコンパクト新書)
 「一つがいの兎は産まれて一ヶ月で親になり、二ヶ月目から毎月一つがいずつの兎を産むとすると一つがいの兎は何匹になるか」これを0ヶ月目、一ヶ月目、二ヶ月目、三ヶ月目と並べて作るのがフィボナッチ数列である。
 この数列は、意外に、いろいろなところに見出されるのである。
 フィボナッチ数列は、細胞分裂をシュミレーションしたものとして見ることが出来る。また、取引をシュミレーションしたものとして見ることも出来る。

 しかも、フィボナッチの数列は、黄金比にも結びついている。
 黄金比は、内分比AB:BCと外分比AC:BCが等しい場合のABに対するACの比をいう。
 黄金比は、名刺、煙草の箱、トランプ、新書、クレジットカードなどの縦横の比率に使われている。この様な比率は、古来、最も美しい比率として「黄金比」とか「神の比」と言われてきた。

 そして、自然界の中には、多くのフィボナッチの数列や黄金比が隠されている。
 松ぼっくりや木の葉や枝の成長の仕方にもフィボナッチ数列は隠されているのである。

 経済の世界にもフィボナッチ数列は見られる。経済活動が作り出す数列も見方を変えると美しい数列が沢山ある。お金の作り出す世界は、無味乾燥なものだと思いこんでいるからこそ、経済に美意識が持てないのである。

 黄金比は、自然界だけでなく、人工的な空間に、例えば、芸術や建築にも、多く取り入れられてさえいる。

 そうなると黄金比と言った比率やフィボナッチ数列と言った数列が重要になる。

 貨幣価値による数列に多くの人は美意識を感じない。だから、金勘定は、退屈なのである。なぜ、貨幣価値によって形成される数列に美意識を感じないと言うのかというと、数列の背後にある実体が見えないからである。

 経済を醜く見せているのは、人間の欲望である。経済自体が醜いのではない。経済とは、生きる為の活動である。生きることが醜いと言うことはない。ただ、自分が生きるために、他を顧みようとしなくなるから醜くなるのである。

 決算書にもきれいな決算と汚い決算がある。きれいな決算というのは、均衡を重んじて単純明快な決算書である。それに対して、色々な操作をして複雑怪奇にしてしまっている決算書は醜い。

 貨幣価値が作り出す数列に美しさを感じないのは、経済を卑しむ風潮があるからである。

 経済は、悪い事ではない。儲けることも悪いことではない。ただ、他者を犠牲にしてでも自分の欲望を満たそうとするから醜くなるのである。儲ける事ばかり考えて愛する人を忘れるから醜くなるのである。
 人の為に自分を活かすことは美しいことですらある。
 複式簿記には、独特の美しさがある。それは均衡の美である。

 世の中が儲ける事は悪い事だとしている限り、市場の仕組みも会計の構造も儲かるような仕組みにも構造にもならない。
 確かに、暴利を貪ることは許されない。しかし、暴利を抑制するにしても儲かるような仕組みにしておかなければならない。なぜならば、暴利を許さないのも儲かるような市場の仕組みや会計の構造なのである。

 経済現象は、目に見えない現象である。故に、美意識が持てないとも言える。しかし、目に見えなくとも一種の均衡が会計制度にはある。この均衡が保てなくなった時、景気は乱れるのである。

 国家や企業が、継続を前提とするようになって、財政や会計は、無限数列となった。

 無限級数によって任意の関数を表すためには、その級数は収束する必要がある。(「数列と級数のはなし」鷹尾洋保著 日科技連)

 経営や財政は、経済では、どの水準に収束させるかが重要となる。その為には、経済を構成する数列の方程式が収束するかどうかが鍵を握っているのである。

 また、時間が一定の価値を附加し続けることを前提とするならば、調和数列が経済の在り方の鍵を握る。

 いずれにしても、経済現象で重要なのは、比率であり、分数数列である。

 市場を構成する個々の要素は、線形的な式によって表される。個々の部分は、線形的だが、全体は、非線形的な要素を多く含む。

 経済の個々の部分を表す典型的な方程式は、収益や費用を表す方程式である。収益や費用は、単価×数量と言う方程式によって表される。これは、対象の貨幣単位に数量をかけたものである。
 貨幣は、離散数で数量は連続数である。

 市場を成立させるのは取引である。ゆえに、個々の部分を表す方程式は、取引を表す方程式だとも言える。

 貨幣価値は、分離量として表される。それによって現物の単位は数量、即ち、連続量として表される。分離量は、分散数列を構成し、連続量は、連続数列を構成する。




       

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