1.経済数学

1-3 零の発見

色即是空、空即是色


 ゼロには、虚、無、空、始、基の意味がある。

 始まりは、一か、ゼロか。全てか、無か。

 ゼロは始まりである。ゼロは、空集合である。ゼロは無である。ゼロは桁を作る。ゼロは分岐点である。ゼロは原点である。ゼロは均衡点である。ゼロは、等しさを表す。

 ゼロ乗は一となる。始まりをゼロから一に変換する。

 0は、足した時に数の値を変えない。故に、加法の単位元となる。また、一は、かけた時にかけられた数の値を変えない。故に、乗法の単位元となる。(「数と計算のはなし(代数編)」武藤 徹著 日本評論社)

 数の基本原則として数は、ゼロで割る事はできない。

 零という概念の根底には、無と空。存在、非存在。有限、無限の問題が隠されている。
 全てか無か。空とは何か。存在するのか、しないのか。果てしがあるのか、ないのか。それら一切合切を、零の概念は、内包している。

 0には二つの役割がある。数としての0と空位としての0だ。
 数としての0とは、無を意味するのか、虚を意味するのか。

 空位の0は、位取り記数法では不可欠な要件であり、この0が見出されたことは、画期的な出来事である。

 実数の範囲内において複数の数を掛けて答が0ならば、かけた数のいずれかが0。(「数学再入門」京極一樹著 じっぴコンパクト新書)

 読み書き算盤というように、数学は、本来、実用の学である。数学というと難解で解りにくい学問の一種に思われがちだが、現代人は、自覚しているか、否かは、別にしても実際は、日常会話と同じくらいに数字を使っている。
 ところが、実用の学としての数学は、とかく忘れられがちである。そして、入学試験で出されるよう高等数学ばかりが数学として脚光を浴びる。しかも、その数学は、受験勉強によって相当に歪められたしろものである。その結果、数学嫌いを大量に生み出すことになるのである。

 実用の学としては、四則の演算で充分である。また、充分に四則の演算ができれば、数学を楽しむことができる。数学の本質というのは、従来、馬鹿にされてきた四則の演算にあると言っても過言ではない。

 数字がなければ我々の生活は、どれ程、不便であるか、考えてみれば解る。大体、経済も成り立たないし、時間も解らない。

 それに数学というのは、楽しいものである。その証拠に、巷間、広く行われるクイズやパズルるの類は、数字や計算が頻繁に使われている。
 それなのに、数学がきらいだと思い込んでいる人は大勢いる。それは、数学を倦厭させてしまうような環境を教育や数学に携わる人間が作り上げてしまっているからである。

 先ず、正しく四則の演算の意味を理解することである。そして、それが実際は難しいのである。
 自分達が当たり前だと受け止めていることの根本にある本質を理解する、また、理解させることほど難しいことはない。
 一歩間違えると馬鹿にされていると思われるし、馬鹿にされていると思い込んでしまう。しかし、一見、簡単に見える事象ほど、難解なものなのである。そして、本質的なのである。

 割りきれるか、割り切れないかが重要な問題なのである。

 経済は、実際の事物から切り離して考えることが難しい。それが、抽象を旨とする純粋数学との違いである。故に、経済的な数学というのは生々しい数字である。数字の背景に生々しい現実が隠されているからである。だから、割り切れるか、割り切れないかが本質的な問題である場合が多い。

 例えば、分け前の問題である。公平に獲物や収穫物を分配する場合、問題になるのは割り切れるか、どうかである。それが現実の問題である。そして、割り切れなければどうするのか、それが経済における数学の問題なのである。その場合でも、割り切れない部分をどう処分するかの問題であり、数学の問題と言うよりも人間の生々しい欲求の問題だったのである。つまり、計算の問題と言うより、人間の本性の問題なのである。それは現代でも変わらない。同じカンジョウでも、勘定の問題はなく、感情の問題なのである。

 数学というのは、共同生活を営むようになり、ものを分配したり、蓄えたりする必要性から生じたと考えられる。つまり、数の概念は、社会的活動が成立したことに付随して生じた。

 経済に関わる数学というのは、現実の要請に基づいて形成されている。
 例えば、保険や借金、税金、計画、調査、予算と言った事柄に対する必要性から生じたのである。
 現代人は、数学を現実の問題と切り離して考える傾向があるが、実際の数学は、現実の生活と切り離せない関係にある。そして、当初、数学は、現実の問題を解決する目的で考えられてきたのである。その視点は現代社会でも重要である。
 役に立たない数字というのは、古来、あまり重要視されてこなかったのである。現実の生活では、高度な数学の技術よりも数学を活用する目的が重要なのである。その点を見落とすと数学に対する認識にも偏向が生じてしまう。

 高等数学が悪いというのではない。数学に対する偏りが生じる事が問題なのである。その偏りが数学の教育や研究にも歪みを生み出している。数学をもっと身近に捉えられる工夫が必要なのである。

 商業数学という、どちらかというと算術、計算術である。算盤がその典型である。算数は、純粋に技術の問題だった。故に、和算は、学芸でしかなかったのである。

 それ故に、商業数学は、原則的に加算主義、残高主義である。そして、商業主義は、当初は現金主義だったのである。

 現金主義から遊離したのは、利益という抽象概念が確立された後のことである。つまり、利益は、期間損益主義に基づく概念だからである。

 わり算の考え方には、小数、分数、余剰の三つがある。経済の考え方は基本的に余剰である。

 ただ、時間や測量技術は、その性格上、高度な数学を必要とした。時間は天体の運行を測量技術は図形を基としていたからである。そして、いずれも、その根底は連続量である。そして、この連続量の中に割り切れない部分が生じたのである。
 それは、数学が要請したのではなく。目的が要請したのである。数学はその目的と切り離して考えることのできない学問である。

 時は金なりという諺(ことわざ)がある。
 時は連続量であり、金は、分離量である。

 数そのものは意識が創作した、抽象的な概念であり、必ずしも物理的な対象と結びついているとは限らない。この様な抽象的な概念である数(かず)で重要なのは、順番、即ち、位置である。ピュタゴラスの音階が良い例である。

 数による計算が成り立つためには、数(かず)と数の指し示す位置とが結びついている必要がある。即ち、数を全体にどう位置付けるかの問題である。その為には、数を単位量との関係を確定する必要がある。それは、数と単位量との関係によって数を順序づける事である。数を単位量と結び付け位置付けられると数の演算が可能となるのである。それが数量である。
 数に順序を付けると言う事は、数に大小、高低の差を付けることを意味し、それが数の位置を意味するのである。即ち、数の意味は比によって与えられる。
 数に順序付けると言う事は、数の概念に掛け算の要素が内包されていることを意味する。

 数と量との掛け算が経済数学上の乗数の基本である。例えば、単価×数量の解が売上、時間×速度の解が距離と言った事象である。
 量の持つ性格によって数量の性格も決まる。数量には、長さや時間、質量などの種類がある。

 加減は、同種の量をに対する演算であるが、乗除は新しい量を作り出す力がある。(「数学入門」(上・下)遠山 啓著 岩波新書)

 量的変化は質的変化を伴う。



0と空



 0には、始点という働き以外に無とか、空という働きがある。

 空には、無とか、虚という意味もある。
 無とは、何も存在しない状態を意味するのか、何も存在しない空間を意味するのかで若干意味が違ってくる。
 又、虚というのは、空疎、何の働きも力も存在しない状態を意味する。

 元を何も含まない集合を空集合という。

 何もないとは何を意味するのか。何も存在しない。何も動きがない。何の働きもない。 空間とは、器のような存在か、ある一定の範囲を指すのか。
 動きを指すのか、状態を指すことなのか。その前提をどう定義するかによって後の展開が違ってくる。それは自明な事象ではなく。任意な事象である。

 無や空というのは、存在の問題でもある。
 即ち、0は存在の状態を表す象徴でもある。

 故に、0の概念は、存在に関する概念でもある。

 0は、任意な概念である。
 0は、存在を表す概念なのか。それとも状態を概念なのか。それを決めるのは、0をどの様に定義するかにかかっている。

 空の概念の一つに空集合がある。

 空という働きが成立するためには、空間という概念が前提とされる。

 空間には、空っぽの場所という意味がある。ここで言う場所には、所与の場所と任意に設定された場所がある。

 経済や国家と言った社会的空間は、人為的空間である。即ち、任意な空間である。それが自然科学が扱う空間と社会科学が扱う空間との決定的な違いである。自然科学で扱う空間は任意な空間だとしても自然科学が扱う対象は所与の現象や事象である。それに対して、社会科学が扱う対象は任意な対象である。

 又、空間には、器という意味もある。ある限られた場所という意味である。
 この限られたという意味に無限の概念が加わると空間の概念は、別の次元に発展する。限られたという条件と無限という概念は、矛盾しているように見えるが、限られたというのは前提条件を意味し、無限というのは、結果を意味する。空間は、設定上生じるのであり、無限はその結果から生じるのである。
 ただいずれにしても空間を設定するためには、何等かの制約条件が設定される必要がある。

 例えば、人のいない野球場、何も盛られていない食器、空室、或いは誰も住んでいない全て空室のアパート、無言というような場所や状態を空間という。

 空間というと物理的な空間を思い浮かべるが、概念上の空間というのは、必ずしも物理的空間に限定されているわけではない。

 数学的に言えば、複数の座標軸によって作られた場所である。
 この様な場所は構造的である場合がある。つまり、構造的な空間と構造的でない空間が想定される。
 また、何も存在しないが、何等かの一様な力が働いている空間もある。この様な空間を場という。

 この様な場の一つに言語空間がある。日本語を話す人が無言でいるという場合、日本語の文法や論理構造の存在を前提としている。この様に何等かの法則や規則を前提として成り立っている空間もある。それが場である。この場合は、日本語の場である。

 会計空間は、場である。市場は、場である。経済空間は、場である。法治国家は場である。これらの場は人為的場である。つまり、人間によって作られた場である。

 例えば、野球は、ルールが働く場を人的に設定することによって成立する。その場を離れると野球のルールは適用されなくなる。この様に社会的な場は、人為的に作られた場である。
 国家は、その国の法律、即ち、国法が適用される範囲内でのみ成立する。故に、国家は人為的場である。

 この様な空間や場に本来その空間や場を構成する元や要素が存在しない状態を想定することが可能である。それが空である。

 この概念は、空集合に繋がる。

 つまり、元や要素を持たない集合体である。それが空集合であり、0の意味でもある。

 基準には、絶対的基準と相対的基準がある。相対的基準には、物理的基準と操作的基準がある。
 例えば、温度である。絶対零度と相対的零度がある。絶対零度は、負の温度を前提としていない。温度は全て正の値である。
 更に暑いとか寒いと言った体感的基準があり、それから一度上げてとか下げてという操作がある。ただ、この場合にも原則的にはマイナスという概念は生じない。
 マイナスという概念、負という概念は、ある一定の基準点を超えた時に生じる概念である。
 しかし、現金収支は残高を変える事はない。借金というのは現金収支とは別次元の問題であり、借金が負の点を形成するとは限らないのである。借金が形成するのは負の空間である。現金収支の延長線上で借金を捉える事はできないのである。借金は借金である。借金は独自の空間を形成するのである。

 物理的基準は、外的基準でもある。操作的基準は内的基準でもある。
 物理的基準は、ある一点からある一点まで、或いは、何々に対してと言った何らかの要素間を比較する事によって成立する。
 相対的基準は、基準点以外の単位要素だけで次元を持つ。逆に言えば、次元数足す一の要素を持つ。
 経済で言えば、貨幣単位(単価)、一人、一個、一時間(単位時間)、単位量(単位重量、単位長さ、単位幅等)等が構成要素となる。

 操作的基準は、主観、意識、感覚によって設定される。

 操作的基準は、操作、取引、手続きによって決める原点を設定する。例えば、コイントスで先攻後攻を決めるとか、サイコロによる親決めするような事である。
 経済は、取引によって基準が決められる。そして、物と金との交換によって物理的空間と貨幣的空間において逆方向の流れを生じる。物の空間は性の価値を「お金」の空間は負の価値を形成する。「お金」の空間では、「お金」は物としての属性を持たない。

 経済的指標は足して零になる点を原点としている場合が多い。その場合、基本的に足して零になる関係になる。そして、足して零になる関係は経済的基準を表している。
 又、足して零になる値は、負を意味している。
 貨幣的空間が成立した瞬間に負の空間も成立する。



ゼロは位取りの思想である。


 ゼロ・一。ゼロ・一。
 オン・オフ。点・滅。
 明・暗。
 入・出。入・出。
 全か、無か。有りや無しや。
 是か、非か。
 正か、負か。
 善か、悪か。
 真か、偽か。
 美か、醜か。
 黒か、白か。
 陰か、陽か。
 賛成か、反対か。
 肯定か、否定か。
 色即是空。空即是色。
 生きるか、死ぬか。
 二進法は、全ての始まりである。

 生と死の間にある空間。
 零と一の間にある深い闇。
 人の一生は、生と死の間にある。 
 始まりは、零にも見えるし、一にも見える。
 創造と破壊は、視点を変えれば表裏一体を為す。
 零と一との狭間には、有限と無限の境がある。
 極限とは何か。

 0の概念は、ヨーロッパで生まれたわけではない。0の概念は、インドで生まれ、アラビアを経由してヨーロッパに伝わったとされている。
 0の概念をヨーロッパ人が取り入れたのは、比較的新しいと考えられている。0の概念がヨーロッパに伝えられたのは、1202年、ピサのレオナルドの「算板の書」を嚆矢とすると言われている。しかし、インド-アラビア数字が定着するのは16世紀になってからである。(「数学史入門」佐々木力著 ちくま学芸文庫)

 ちなみに我が国で算用数字が一般に使用され始めたのは、ペリー来航後であり、複式簿記が登用されたのは、明治維新後である。(「数学史入門」佐々木力著 ちくま学芸文庫)

 0の概念が取り入られることで、十進法と位取りが経済に取り入れられた。これは経済の歴史において画期的な出来事であった。
 そして、現在、二進法によって大きな変革が起こされようとしている。

 複式簿記に基づく近代会計制度の発展と近代数学の発展の歴史とを重ね合わせてみると0の発見や十進法の確立が近代会計制度に与えた影響が仄見えてくる。

 今日の貨幣価値は、一つの通貨圏内においては一様である。そして、十進法が基準である。かつて、貨幣価値は一様ではなく。十進法でもなかった。貨幣価値の基準や単位、尺度も複数存在していた。
 貨幣価値が一様で、十進法を基準とすることで現在の貨幣制度は成り立っている。
 貨幣価値が、一様で十進法になることで、貨幣経済は数学として確立されたのである。ところが、それが未だに認知されていない。それが貨幣制度を不安定な仕組みにしているのである。

 二進法で使われる数字は、0と1。三進法で使われる数字は、0と1と3。五進法では、0と1と2と3と4。十進法では0と1と2と3と4と5と6と7と8と9からなる。そして、この数列の中において、0の位置と0の果たす役割は特別なのである。

 ゼロによって桁は変わる。
 桁が替われば次元が替わる。
 量的変化は、質的変化をもたらす。

 計算で重要になるのは、位取りである。位取りには、零の概念が重要な役割を果たす。

 欧米において近代数学が確立された背景には、零の概念の確立がある。
 数(かず)と数字は違う。数の計算だけならば、計算器があれば零はいらない。ただ数字による計算をするならば、零が必要になる。零という概念がアラビア数字の上に現れ。算盤という計算器が発達している日本では、零の概念は生まれなかった理由である。

 零というのは、足しても引いても元の数に変化はない。どんな数に零を掛けても零になる。零を零以外のどんな数で割っても零である。どんな数でも零で割ることはできない。零は数である。(「数と図形が好きになる」釣 浩康著 PHP)

 経済で重要となるのは、残高である。残高というのは余りである。故に、経済では、割り切れない部分を余りとして捉え、蓄えることができる物は、残高として処理した。そして、この残高主義は、所謂、純粋数学とは違った分野を形成してきたのである。

 それは、物の収入と支出という考えに結びついていく。入りと出である。加算と減算が基本となる。そして、元があることが前提となるのである。元手、されに足して引いて余りは幾つである。これが、経済計算の基本である。

 零は、始まりを意味し、終わりをも意味する。零に始まり、零に終わる。 零は、無一物、存在そのものを意味するものでもある。
 零と一は、物事の始点を意味する。ただし、零を始点とするか、一を始点とするかによって物事に対する認識に違いがでる。零は、絶対的な認識を前提とし、一は相対的な認識を前提とする。

 良い例が、建物の地上階を一階とするか、地上階、即ち、零階にするのかの違いである。これは認識の違いと言うより思想的、文化的な違いが隠されている。
 認識は、相対的な行為である。絶対的認識というのは、前提としてある。なぜならば、認識は識別という過程を経ることで意識されるからである。絶対的認識は意識されない、故に直観的な行為である。故に、零という概念を確立し、普遍化するのに、人類は相当の時間を掛けた。つまり、零には、絶対という意味が隠されているのである。その為に、零は、宗教的、或いは、神秘的な意味を持たされたりもする。
 人間は、物事の始まりを一つの全体として捉える傾向がある。その場合は、始点は一である。しかし、全体を識別するために分割し、最初の部分を一とした場合、全体の一と部分の一とを区分する必要が生じる。これは数であれば位取りに繋がる。そこで零の概念が必要となるのである。
 つまり、零には、原初、始源という意味があり、最初の一と区分されるのである。
 そして、零は点とも区分される。点は実在する広がりという意味であり、零は、空や無という意味があるからである。



ゼロは、原点であり、基準点、即ち、均衡点である。


 ゼロの概念にはいろいろな意味がある。

 0の意味が重要になる。0には、無とか、虚という意味以外に境界線や基点、始点という意味がある。
 この境界線とか、基点、始点という意味は、経済において重要な意味があり、とりわけ負の数の意味や表現の仕方に重要な影響を与えている。

 温度で言う零度には、絶対零度という意味と相対的零度の二つがある。いずれも零の意味を表している。

 また、温度を測る基準には、摂氏と華氏がある。
 摂氏0度というのは、水が液体から固体へと変化する温度、氷点を0としたのである。
 摂氏とは、一気圧の状態で、水が液体から固体へと変化する温度を0度から沸点を100度に設定したとも言えるのである。

 この様に、0には、分岐点、境界点と言う意味がある。
 そして、この意味は、経済において重要な意味を持つ。つまり、負の概念の基礎となり、前提となるからである。

 0の概念が確立されると負という概念が成立する。0を中心として負が成立し、負が成立することで正が成立する。その正と負の中心に0がある。正と負は次元でもある。つのり、0は、正と負を分かつところ、即ち、0には境、境界という意味が生じる。

 損益の境界を基準として、分散と均衡、ゼロ和を前提としている。それが期間損益主義である。

 無から有は生じない。0の向こうに何があるのか。つまり、0は生と死の境という意味がある。故に、0は、宗教的、文化的な意味があるのである。
 地上階を一階とするか、0階とするか、それは地上を一とするか、それとも0とするかの違いである。それは地上の下に何を想定するかの違いなのである。
 全ての時間の始まりを零とするのならば、時間の始まりの以前に何があったのか。何が存在とするのか。それは思想であり、哲学である。科学の立ち入れない世界なのである。

 又、0は、差引、0の意味でもある。即ち、0というのは、均衡しているという意味でもある。均衡しているというのは、ある一定の状態に安定しているという意味である。均衡と言う事は、対称という意味がある。
 つまり、0には、等しいところと言う意味がある。

 偏差の総和は、ゼロである。
 確率の総和は、一である。
 この違いの意味は何なのか。それが重要な意味を持つ。

 偏差の総和はゼロである。この事は、ゼロサムの根底となる。
 経済を動かす原動力は揺らぎである。故に、振幅が重要となるのである。

 現金収支の総和は0になる。だからこそ、期間損益に置き換える必要があるのである。

 会計上の取引は、原則的にゼロサムになる。

 経済事象には、全体でゼロサムになる事象とゼロサムにならない事象がある。ゼロサムになる事象とゼロサムにならない事象を区別することが鍵を握っている。

 ゼロは始まり、つまり、始点という意味がある。
 ゼロは、始点という意味の他に、原点という意味がある。
 ゼロには任意の基準点という意味がある。
 また、ゼロには、無や空という意味もある。ゼロには、中心という意味もある。ゼロには、均衡点という意味もある。

 0の概念は、どの様な数を前提とするかのよって微妙な違いが生じる。
 例えば、連続数を前提とするか、離散数を前提とするかによって、ゼロの意味は違ってくる。
 又、自然数を前提とするか、整数を前提とするか、実数を前提とするかでも違いが生じる。

 ゼロを無とすると始まりを無とするか、それとも有とするかによって違いが生じる。例えば、預金口座を開設する際、ゼロ口座を実務的に認識できないために、一円でも入金する必要があると言ったことである。これは、貨幣単位が自然数であることに一因がある。
 始まりを0とするか、一とするかは、数の概念に基づくのである。

 0は、方向の始まりを意味する。方向には、正の方向、負の方向がある。つまり、負とは、正の方向の逆方向という意味がある。

 ゼロには、原点という意味がある。
 原点というのは、原点への回帰というように始源、つまり、発祥点という意味がある。

 原点というのは、位置における起点という意味である。即ち、零は起点という意味がある。起点というのは広がりの根源という意味がある。即ち、次元を作る点という意味である。原点を起点として二次元や三次元が成立する。

 ゼロから一、一からゼロに至る過程に数の重大な秘密が隠されている。そして、それは無限と極限に至る過程でもあるのである。

 時間にも、空間にも、組織にも、一からゼロに至る過程がある。
 人生にも、ゼロから一に至る過程がある。何を起点とするのか、例えば、歳を数えで数えるのか、満として数えるのか。生まれた時は、一歳なのか。ゼロ歳なのか。ゼロという歳があるのか。地上は一階なのか、ゼロ階なのか。一とゼロとの間に空間はあるのか。そこに一つの次元が隠されている。そして、それが極限なのである。

 ゼロは、場所の概念を数学に持ち込んだのである。場所の概念が数学に組み込まれると空(から)の概念が確立される。空は無ではない。一を始まりとするか、ゼロを始まりとするか。ゼロは、数と量との分岐点である。

 0や無限は、宗教的、哲学的、思想的概念である。特に、0は、宗教的、思想的、哲学的な意味での境界線を確定する概念である。

 物事の始源、生と死、時の始まりと終わり、その先に何があるのか。0は、虚無との境なのか、それとも、違う世界、次元との境界線なのか。それは、宗教的、哲学的、思想的な領域の問題なのである。

 個人所得、企業収益、財政収支、物価の均衡が保たれて始めて健全な経済発展と言える。なぜ、健全な経済成長と言わずに、健全な経済発展というのかというと経済成長が常に健全な経済発展とは言えないからである。


0の概念が確立されると負の概念が成立する


 0の概念が確立されると負の概念が成立する。

 マイナスがあれはプラスが生じる。負があれば正がある。
 零には、プラスとマイナス、正と負の関係を生み出す働きがある。

 負の概念は、なかなか受け入れられなかった。負の概念は、ゼロの概念と密接な関係がある。
 ゼロの概念が確立された事によって負の概念の成立したとも言える。

 負とは、当初、負債を意味していた。これは重要な事である。
 負は、ゼロを超えると逆方向の働きをする事を意味する概念でもある。

 此岸と彼岸。その間に虚無の境界線がある。境
 界線はゼロ、無である。ゼロは空である。
 ゼロとは、生と死を分かつ間にある無である。
 正と負。それは表裏を意味する。
 生と死の狭間に無がある。

 会計上における負の事象は、事の空間における事象であり、名目的価値を表している。
 正の空間は、物の空間における事象であり、実物的価値を表している。
 そして、負の世界は、正の世界を反映した空間である。つまり、正の空間の裏側に負の空間があり、正の空間の事象と相互作用をしている。

 当初、負はたりない事をも意味し、引き算の結果、差からも生じた。これは負の働きを知る意味で重要な鍵を握っている。

 赤字も黒字も差から生じる。
 利益は収益と費用の差であり。収支残高は、収入と支出の差である。
 収支残高は、負を含まない。正の自然数である。それに対して、損益は、負の概念を含む整数である。ただし、負の表記はされない。正の位置と負の位置によって表現される。それが複式簿記である。
 赤字が是とか、黒字が非というのではなく。
 赤字や黒字を生み出す原因や構造なのである。
 いずれにしても、問題は、経済空間の歪みによって生じる。

 我々は、負の数というのを日常、深く考えることなく使っている。なぜなら、深く考えたら、計算が出来なくなるからである。しかし、負の数というのは、実は、考えればきりがないくらい含蓄のある数なのである。
 なぜ、マイナス×マイナスは、プラスになるのか。マイナス÷マイナスもプラスとなるのか。これは決め事なのである。その点をよく理解し、前提とする必要がある。
 負の数の概念が受け容れられ、定着したのは、思いの外、数学の歴史の中では新しいことである。

 0とは、無である。空でもある。その0より小さい数があることをなかなか認めがたかったという事がある。

 大体、会計の世界では、未だに、負の数というのは、受け容れられていない。その為に、会計における減算処理は、加算的減算、則ち、減算したい場合は、反対側の勘定、借方勘定なら貸方側に、貸方勘定なら借方に加算することによって処理する。つまり、会計は加算主義なのである。故に、会計は、総額主義になり、純額は、原則的に行わない。
 例えば、我々は、一年間に食べるお米の総量など余り意識したことはない。我々が意識するとしたら一日に食べるお米の量とか、一回に炊くお米の量、或いは、一回に食べるお米の量である。それが、単位の概念の素にある。
 しかし、会計は、総量である。年初からそれまでに仕入れたお米の量、総てを量を表記し、反対側に、消費したお米の量の総てを表記するのである。
 その為に、単位が埋没する危険性がある。
 又、通貨の働きも見えなくなる可能性がある。その為に、キャッシュフローを別に表記する必要が生じたのである。

 時間も、貨幣価値も変数だといえる。貨幣価値は、時間と伴に変化する。故に、貨幣価値は、時間の関数だと言える。

 貨幣価値において現在という時間が重要な意味を持つ。現在とは今である。経済では、今実現している貨幣価値が重要な働きをする。それが現金である。

 数学では、座標もグラフも重要な役割を果たしている。

 負の概念は、数直線と深く関わっている。

 負の数は、数の概念に位置と方向を持ち込んだ。位置と方向が確立するためには、数の順序が重要になる。

 数字では、位置と順番が重要な意味を持つ。この様な点を鑑みると数は、直線的な性格を持っているといえる。

 負の数は、0と原点と座標軸があって成り立つ。そして、負の概念は、これら三つの概念と深く関わり合っているのである。そして、この三つの概念と深く関わることで負の概念は確立されたのである。

 先ず実数の概念が成立し、次ぎに実数から数直線が生じ、座標とグラフとなり、それから変数が成立した。変数は、関数の概念の前提となる。

 点の動きと軌跡が変数になる。

 今という時間の連続が描く軌跡を突き詰めると数直線の概念が見えてくる。この様な数直線の概念を本に実数の概念は形成されたとも考えられる。

 この様に実数の数直線上を動く数、変動する数を変数という。つまり、変数とは、静止した点ではない。静止した点ではないが故に、変数は連続していると言えるのである。

 この様な数直線は緻密である。つまり、数と数との間に隙間がない。それが極限であり、極限であるから、連続していると言えるのである。

 今という時間は、絶え間なく前進している。今という時間は、動くように実数は、「動点」と言える。そして、同様に今という時間と伴に貨幣価値も動いているのである。

 負の数は、二つの考え方によって導入される。(「数学再入門」京極一樹著 じっぴコンパクト新書)
 一つは、0を基点とすると正に対して逆方向に位置する数と言う考え方である。
 もう一つは、足して0になる数である。

 負の数というのは、仮想の数である。つまり、想像上、観念上の数である。負の数は、基準が定められることによって成立する仮想の数と言える。その基準点が0なのである。故に、負の概念は、0の概念が確立されないと成立しない。0の概念が確立したのは、比較的近年である。この事からも解るように、負の概念は、比較的新しい概念、若い概念である。
 どこを0点、即ち、基点とするかによって正と負が決まる。

 正と負のある仮想の空間では、「足して0になる数」というのは、「向きが反対の働きや位置」には、負号(-)をつけると言う約束になります。
 5と足して0になる数が「マイナス5」(-5)、10と足して0になる数が「マイナス10」(-10)となるのである。
 そして、「負の数を差し引き事=正の数を加えること」と定義されます。
 「マイナス1の2乗は1」となるのです。(「数学再入門」京極一樹著 じっぴコンパクト新書)

 この二つの考え方は、経済においても重要な意味を持つ。
 どこを0とするか、つまり、基点とするか、又は、基点となる水準とするかによって正と負の数が生じるのである。
 この事は、経済においては、ゼロサムと言う関係の基となる。また、0ベースという考え方の基ともなるのである。

 物理学的世界では、負の数に対応する具体的な物が存在する。
 例えば、負の力(逆向きの力)。負のポテンシャル。負の位置、速度、加速度。(逆向きの位置、速度、加速度)等である。

 それに対して、経済学において、基本となるのは、貨幣価値である。貨幣価値は、自然数の集合であり、基本的に負の数は存在しない。
 負の数が存在しない変わりに、複式簿記を基礎とした空間では負の位置が存在する。

 貨幣的空間において負の位置にある値とは、正の位置にある値の反対方向に働くと言う事である。
 負の値は、必ず、対極に同量の正の値と組みで設定される値だと言う事である。
 負の値は、正の値と足して0になる値だと言う事である。
 そして、負の値は、仮想、即ち、名目的値だと言う事である。
 そして、貨幣は、負の位置で働いている値である。

 そのため、貨幣価値では、絶対値、即ち、量として表される。
 不換紙幣の本質は、負の位置で働いている数値である。

 重要なことは、貨幣的空間は、人間の観念が生み出した仮想的空間であり、数値的空間だと言う事である。

 物理学的空間と経済的空間の決定的な差は、所与の空間か人工的空間かである。物理学空間におけるスケールが所与のものであるとしたら経済的空間におけるスケールは、任意なものなのである。

 物理学的な値が決まった値ならならば、経済的な値は、決められた値なのである。

 故に、経済では、足して0になる関係、かけると0になる関係が重要となる。

 複式簿記においては、取引の処理を記入する上で貸方と借方の一が決められている。
 つまり、複式簿記というのは、基本的に借方と貸方の照合なのである。そして、貸方と借方の総和は、常に一致していなければならない借方が実物勘定で、貸方が名目勘定である。借方が正の位置で貸方が負の位置である。

 物と金には、正と負の違いがある。
 元々、負の概念は、負債に由来している。信用貨幣は造り出すのは、負の空間である。
 紙幣の前身は、借用証書だという事が何よりもその証拠である。

 政府が直接、実物貨幣を発行しただけでは、貨幣は、政府の借金にならないのである。
 また、紙幣は返済を前提とするから回転する。返済義務のない紙幣は、負の空間を作れないのである。その意味で、政府が直接発行する紙幣は、返済義務を負わないが故に、負の空間を作れないのである。
 政府発行の紙幣は、回収を前提としていないから双方向の働きを発揮させない。
 貨幣は、返済を前提とした借金の延長線上にある事によって負の働きを作り出したのである。その負の働きによって貨幣経済は動かされているのである。言い換えれる貨幣の負の働きが、市場経済を動かす原動力なのである。

 実物貨幣は、交換の手段道具に過ぎない。金貨などの実物紙幣は、金貨そのものに価値がある。それ故に、実物貨幣は、交換価値を表象する働きしかなかった。それに対して、信用貨幣は、貨幣そのものに価値がない故に、負の空間を作り出したのである。
 信用貨幣である紙幣が成立する事によって独立した空間である信用空間、貨幣空間が作られる。
 信用貨幣とは、物的な裏付けのない、言い換えれば、必要としない貨幣である。
 故に、信用貨幣は絶対的な価値を持たない相対的な貨幣である。信用貨幣は、それ自体が価値を持っているのではなく、貨幣が指し示す対象があって価値が生じる。つまり、働きに価値があるのである。紙幣それ自体は、ありふれた印刷物に過ぎない。紙幣の本質は、価値にあるのではなく働きにあるのである。その本質を理解しないと絶対額に目を奪われて働きを忘れてしまう事となる。

 負の経済とは、借金を前提とした経済である。則ち、投資先行型の経済である。又、梃子の原理、レバレッジをきかせた経済である。
 負の経済が確立される以前の経済は、貯めてから買うという経済が原則であった。投資先行型経済は、借金をして投資を先行することが可能な経済である。その為に、巨額な投資が可能となる。
 又、借金が可能となる以前は、金ではなく。物を借りることなよって成り立っていた。例えば、住居は、一部の資産家が長屋を建て庶民は、それを間借りするという具合にである。この様な物の経済を生の経済とすると負の経済は陰画のような経済と言える。
 投資が先行することで、需要を喚起される。反面、常に、収入の一部が借金の返済に向けられるようになる。つまり、可処分所得が制約されるようになる。同時に、定収入が得られなくなると負の経済は破綻する。
 つまり、収益の概念と負債の概念は表裏の関係にある。

 負の経済は金融制度の発展を促し、金融制度の発展は、負の経済の拡大を促す。

 負の経済が、確立されるためには、定収入が確保されなければならない。ある一定期間、定収入が保証されることで、返済計画、資金計画が立てる事が可能となる。つまり、定収と借金は表裏の関係にある。
 負債の根拠は担保力であり、資源は資産にある。負債の元本の返済資源は、利益にある。利益は、収益と費用の差額である。

 表に現れる経済現象の裏側では、負の経済の働きが隠されている。
 市場経済では、借入金の水準、収益の水準、資産の水準、費用の水準の均衡が鍵となる。水準は相対的なものであり、個々の要素を他の要素と比較することで意味を持つ。例えば、負債と収益、収益と費用、資産と負債、資産と収益の関係が水準の妥当性を決めるのである。
 経営の結果は、負債、収益、資産、費用の上下運動して現れる。この上下運動が一定の周期で繰り返されれば、経営は安定し、将来を予測することが可能である。しかし、負債、収益、資産、費用の上限運動が不規則で、周期が定まらない運動になると経営は混乱するのである。景気も同様である。
 重要なのは、周期、幅、均衡である。
 故に、経済事象を考察する際は、負債、収益、資産、費用の均衡を確認することから始める必要がある。

 負の経済下での運動は、どの経済主体も基本は同じである。しかし、表現の仕方が違う。:経営主体とは、家計、企業、政府、海外である。家計の負債は、他の部門の資産であり、政府の資産は、他の部門の負債である。故に、個々の経済主体の相互の負債、収益、費用、資産の均衡が重要なのである。

 負債の働き、負債の負担には、元本の返済と金利の二つがある。
 負債の負担の内、元本の返済は、表には現れない。表に現れるのは、費用として計上される金利である。ところが、金融危機が表面化すると水面下にある元本の返済を強要されるのである。そして、これが金融危機や不況を深刻化させる最大の原因となるのである。
 元本の返済と金利の負担をなくしたのが資本である。しかし、これでは、資本家には何の得もない。元々、資本家は、経営者に資本を預けたのである。つまり、資本も、本来は借金の一つである。その点を見落としてはならない。資本にも負担はある。それが配当である。

 また、経済は、純粋数学を基礎として成り立っている。故に、素数は重要な働きをしていると思われる。その働きを解明していく必要がある。



ゼロサムと言う事


 全てかゼロか。

 全体は一で、総和は0。

 ゼロサムというのは、損失と利得の総和がゼロになる関係を言う。
 ゼロサムとは、総和がゼロとなる関係である。
 例えば、偏差の総和はゼロになる。この事の持つ意味をよく考えてみよう。
 ゼロサムゲームとは、参加者の得失点の総和がゼロになるゲームである。
 麻雀、競馬、ポーカーと言った賭博や外国為替取引等はゼロサムゲームに相当する。株式相場は、非ゼロサムゲームである。
 ゼロサムゲームの根底にあるのは、儲ける者がいれば必ず損する者が出る仕組みである。つまり、ゼロサムを基本とするところでは、ウィンウィンの関係は成り立たないのである。
 経済、特に、市場経済では、ゼロサムを基本としている場が多く存在していることに注意する必要がある。

 ゼロサムは、保存則を意味する。
 例えば、経済取引の総量はゼロサムになる。すなわち、取引で生じる価値の総和はゼロである。問題なのは、取引によって生じる貨幣価値の量の振幅である。貨幣価値の量の振幅は、通貨量を現すからである。

 経済を構成する個々の財の経済的価値は、全てかゼロの間にある。例えば、個人が所有する土地の価値は、全ての私有地の総額とゼロとの間にある。

 ゼロサムになる組み合わせと関係を見ると経済の構造が見えてくる。
 例えば、経常収支の総和はゼロである。

 経常収支の赤字国の赤字を減らすという事は、イコール、黒字国の黒字を減らすことを意味する。それを前提として対策を立てなければが実効力はない。
 経常収支は、国家間の不均衡を貨幣価値に置き換えた値である。
 隣国に失業者の群が存在することがいかに国防上危険なことかを考える必要がある。国家間の不均衡が存在する限り、国家間の紛争の種は尽きない。

 会計空間では、ゼロサムによって均衡している。そのゼロサムは同時に貨幣の働きに作用反作用の関係を生み出す要因でもある。
 また、ゼロサムは、平均、分散、標準偏差を均衡させ中心極限定理を有効にしている。
 会計空間に於いて通貨の流れには、二つの働きがある。一つは、通貨の流れの反対方向に財の流れを起こす事である。今一つは、同量の債権と債務を派生する働きである。
通貨の流れは、同量の債権と債務を派生させ、その均衡の圧力が貨幣に作用反作用の働きを生み出す。この債権と債務は、貨幣価値に振幅をもたらす。この振幅によって経済は動かされる。
 債権、債務は会計上のストックを形成し、財と貨幣の流れはフローを形成する。
ストックとフローの関係が景気の動向を定める。
 この作用反作用の働きによって景気は一定の幅で振幅し、収束するのである。作用反作用の働きがないと景気は、一方的な方向に拡散し、収束できなくなる。
 ゼロサムというのは、ゼロを基点として均衡している状態を意味しているのである。この様なゼロ点に向かっては、求心力と遠心力が働いている。

 平和を守るという事は、基本的に経済の問題なのである。

 貨幣価値は、自然数の集合であり、経済主体の状態は、貨幣価値によって表現される。故に、経済の実態は、自然数の総和と経済主体、あるいは、経済主体を構成する要素の組み合わせの数によって表される。

 ゼロサム関係が成り立つという事は、表裏の関係にある国や経済主体があることを意味する。

 経常黒字の国があれば、経常赤字の国がある。自国通貨が上昇する国があれば下がる国がある。資本収支が赤字の国があれば黒字国がある。それがゼロサムである。
 つまり、プロ野球の勝敗表のようなもので、個々のチームには、勝率や星取があっても全てを足すと勝ち負けは均衡、即ち零になるのである。
 又、この様な勝ち負けを前提とした仕組み、勝負事は、一人、或いは、一組ではできない、成り立たないのである。かといって二人、二組でも続かない。かといって無制限にしたら、全体として決着がつかない。
 適正な数のチームがあって始めて全体も部分も均衡する。それが、市場経済なのである。

 経済を考える場合、均衡という言葉が鍵となる。

 経済の話は、基本的に、全てを黒字にすることではなく。何を、或いは、どこを黒字にし、逆に、何を、或いはどこを赤字にするかの問題なのである。
 それを黒字は善で、赤字は悪だなんて言い出したら収拾がつかなくなる。大切なのは均衡なのである。

 ゼロサムになる要素は、均衡が重要となる。つまり、何が正で、何が負となるかが問題なのである。例えば、経常収支が黒字ならば、資本収支は赤字になる。また、経常収支が黒字な国がある時は、経常収支が赤字の国がある。問題は、赤字幅、黒字幅であり、それも相対的、つまり、何に比較してという事が問題となるのである。そして、期間である。

 景気を左右するのは、フローとストックの均衡、釣り合いである。一企業では、創業期は、ストックが不足するため借入によって流動性、フローの供給が増える。逆に企業が発展、成長すると、ストックが過剰になり、返済圧力によってフローの供給が相対的に抑制される。社会全体では、経済成長の初期の段階では、社会的ストックが蓄積されていないために、充分な資金を得られない。しかし、経済が成熟するに従ってストックが蓄積され、かえってそれが負担となってフローを圧迫する。

 バランスシートのバランスという意味には、均衡や平衡という意味以外に残高という意味がある。この均衡と残高が会計においては重要な意味を持つのである。そして、会計を土台とした経済においても重要な意味がある。

 現在の市場経済は、生産と支出と分配の三つの側面から捉えることが出来る。三つの側面から捉えることができると言うことは、要素から構成されるとも言える。

 生産、支出、分配の中で強いて何が根幹かというとそれは、分配である。その分配を要として貨幣価値はある。故に、現在の市場経済では、貨幣価値が、絶対的な力を持つのである。

 経済の根幹は、分配にある。経済の根幹が分配にあるのに、現代の経済は、生産に重点を置いている。そこに問題がある。

 負債や資本は、資産連動し、資産は、負債や資本に連動している。資産は、変動的で、負債や資本は、固定的である。負債や資本の働きは、資産価値に左右され、資産価値は、負債や資本との関係によって評価される。資産の働きは、収益、或いは、との比較によって測られる。分配は、費用、或いは、支出によって実現する。費用や支払に充てられる資金は、収入、借入、投資によって賄われる。費用、或いは、支出の原資は、支払い能力によって裏付けられる。

 労働と所得と分配は、同列に捉えることが出来る。
 労働は所得に還元されることによって財の分配の前提が整う。貨幣が万遍なく人々に間に行き渡ることによって貨幣経済は成立する。貨幣は、所得として人々に配分される。所得がない者には、財は、分配されない。故に、いかに万遍なく所得を行き渡らせるかが、市場経済の根本となる。

 ところが、現代の市場経済は、生産に中心を置いている。その為に、所得の配分が円滑に行われないのである。その結果、経済が機能不全に陥るのである。

 景気は、サイクル、循環によって決まる。循環には正の循環と負の循環がある。

 負を陰、正を陽に置き換えると景気の循環は、陰陽の形の相関関係に表すことができる。

 足らない処があるから余るところが生じるのである。過不足があることが悪いのではない。過不足があるから、資金は循環する。大切なのは、過不足の均衡である。
 資金が余っているところから、足らないところに資金を融通する。それが金融や財政の役割である。
 資金が足らない国に、資金が余っている国から投資できれば、資金は循環するのである。ところがそれが簡単にはできない。資金が余っている国に資金が集まり、資金が足らない国にはなかなか資金が廻っていかない。
 だから経済は、破綻するのである。

 今日のヨーロッパで言えば資金が足らないギリシアに国際的な事業団が余剰資金を持つ国から資金を調達して、何等かの社会投資をすればいいのである。ところが、国家間の利害が絡むとなかなか上手く事が運ばないの。それは、黒字が善で赤字は悪だみたいな一方的な決めつけによって経済の実態とかけ離れた議論が横行しているからである。赤字か黒字化が問題なのではなく、各々がそれぞれの働きをしっかりとしているかが重要なのである。

 最近、空気が読めないと言ってその場の雰囲気に支配されにくい者を排除する悪い傾向がある。
 世の中を改革しようとした者の多くが、規制の秩序を否定し、規則や組織、ルール、規制、形式は、自由を阻害する事象だと錯覚し、排除してきた。しかし、それは、結果的に自由をも否定する事である。
 古くて時代に適合しなくなった規則やルール、規制を変えることは、大切だが、かといって全ての規則やルール、規制をなくせと言うのは飛躍しすぎている。
 規律やルール、つまり規制があるからこそ自由は成り立つのである。
 法を守ることで、個人の権利を保障しようと言うのが法治主義であり。法治主義に則ることで、自由は保証されている。法がなくなれば結局、特定の勢力か個人の力によってしか社会の秩序は保てなくなる。それは人治主義であり、結局、独裁への道を拓くのである。

 賭け事は悪いと言うが、経済的行為には、賭はつきものである。
 商業から投機的な要素を取り去ったら、市場の活力は失われる。賭け事や投機が悪いと言うよりも常軌を逸した行動が問題なのである。しかし、それは、賭け事だけの問題ではない。問題なのは欲である。しかし、欲は否定的な要素ばかりではない。欲は活力の源なのである。現代は、エネルギー、上手く活用したから発展した。欲を否定したら、現代は成り立たない。陽は欲を野放図にするから問題なのである。欲を制御するのは、仕組みであり装置である。欲を制御できるような仕組みや装置を構築することが肝腎なのである。

 全体をゼロサムとして、正と負の値が同じで正だけが利益を得られると仮定すると、必ず、損をする者が現れる。利益を独占するとは、自分以外の人間を犠牲にすることを意味する。その様な行為を善として認めれば、助け合いを基調とした人間関係など成り立つはずがない。そこに現代社会の病巣がある。競争は市場の原理と言うが、競争だけを善とする発想は、社会の荒廃を招いてしまう。
 賭博が時として悪徳とされるのは、賭博によって莫大な利益が得られることだけを問題としているからではない。莫大な利益を得る者がいる他方で、莫大な損失を被る者が現れるからである。自分が幸福になるため、必ず、不幸な者が生じるという関係こそが賭博行為を禁じる動機なのである。
 儲ける者がいる反面で損をする者がいる。それが当然なのだとされ、損をする者は愚か者なのだとされたら、善悪の基準が損得の基準に置き換えられてしまうのは時間の問題である。

 負の部分を受け容れ、負には、負なりの利益が得られるような工夫がされないと、市場経済というのは成り立たないのである。勝者がいれば、必ず、敗者が生まれ、しかも、敗者の方が圧倒的に多い上に、敗者が必ず悲惨な状況におかれたら、敗者は何か悪い事をして懲罰を受けているかの如く錯覚をしてしまう。
 もし、経済に負の部分が重要な働きをしていたら、負の部分は、損するだけでなく、負の部分として何等かの得する働きやものがなければならないからである。

 金儲けに纏わる胡散臭さというのは、貨幣の匿名性に起因するところが大である。貨幣が匿名であるという事は、その貨幣の出所が問われないことにもなる。一度、手に入れた貨幣は、その出所を追跡することが困難なのである。だからこそ記録が重要となる。さもないと貨幣を手に入れる手段が問われなくなるからである。そこに簿記の効能がある。

 貨幣価値は、取引によって生み出される価値である。全ての私有地の貨幣価値は、過去の取引を前提として導き出される。取引実績のない土地は、仮想的取引を前提として貨幣価値を導き出す。

 貨幣的空間は、人為的、且つ、有限なのである。全てか無か。一かゼロかの間にあるのが貨幣的空間なのである。
 全てか無か。一か、ゼロか、それが始まりである。

 この様にして設定される貨幣価値の総和は有限である。つまり、ある限界を持った全体がある。つまり、0と全体の間に全ての貨幣価値が指し示す実体は、収まるのである。
 ただ、数は、無限である。故に、貨幣価値の上限は、無限に拡散する可能性がある。
 人間が利用可能な土地の面積は有限である。しかし、地価は、無限に拡散する可能性がある。故に、貨幣の流通量を制御する事によって地価の高騰を抑制する必要があるのである。

 運動は、空間の歪みによって起こされる。
 均衡を0とするならば、空間の歪みによって引き起こされた状態がゼロサムなのである。
 ゼロサムというのは、0を基準として、0において均衡するという意味である。
 そのことから、0は中心としての意味や平均としての域を持つ。

 中心は任意の設定される点であり、設定する条件によって、内心、外心、重心といった違いが生じる。つまり、中心というのは何等かの一定の距離の基点となる点という意味なのである。
 例えば、日本の経済の中心は、東京だと言った場合、何を基準としていっているのかによって内心にも、外心にも、重心にもなりうる。例えば、交通の基点、要点という意味での中心という意味もある。交通でも、道路の起点という捉え方もあるし、鉄道の起点、航路の起点、空路の起点という見方もできる。また、時間距離の基準として考えることもできる。

 中心の概念で重要な概念の一つに、対称性がある。設定した中心が対称性を持っているか、持っていないかによって中心の働きに違いが生じるからである。ただ、中心という概念は、一般に何等かの対称性を前提として任意に設定される点である。

 貨幣経済上、貨幣の働きは、ゼロサムを原則とするから可逆的変化である。
 物と人の経済現象は、不可逆的変化である。生産から消費の流れは、一方通行、即ち、不可逆な流れである。また、労働過程も不可逆である。
 それに対して、貨幣の流れは可逆的な流れである。

 西洋のゲームのルールの多くは、加算主義的なルール、つまり、プラス思考のルールであり、東洋のゲームの多くは、陰陽思考なルール、つまり、プラスマイナスゼロのルールだと言われる。
 その好例が、コンクラクト・ブリッジと麻雀である。(「数学はこんなに面白い」岡部恒治著 日経ビジネス人文庫)
 ブリッジは、点数を加算して一定の点数に先に至った者が勝ちというゲームであり、麻雀は、予め持ち点を決めておき、振り込んだ者が振り込んだ相手に点数を渡すことが決まり(ルール)である。基準を決めてその基準を中心にした遣り取りによって勝負が決まるのである。つまり、陰茎的なゼロサムゲームである。
 複式簿記というのは、この加算主義と陰陽主義を見事に融合して構成されている。それが近代市場経済の根幹をなしているのである。
 今日の市場経済は、複式簿記を基盤とした論理の上に成り立っている。故に、市場の原則は、加算主義であり、ゼロサムなのである。

 所得の分配は、ブリッジのような加算型なやり方よりも麻雀のようなゼロサム型のやり方の法が適していると思われる。なぜならば、分配のための資源には限りがあるからである。人類の持ち点である資源は有限なのである。
 重要なのは、所得のバラツキを明らかにすることである。バラツキとは、分散を意味する。即ち、分散を知る事は、分配を知るための基本なのである。

 市場経済における貨幣価値は、取引によって生じる。つまり、取引が無の状態から貨幣価値を生じさせるのである。
 市場取引というのは、貨幣経済では、貨幣と物との交換を意味する。物と貨幣を交換し、物は、最終的に消費される。それに対して、貨幣は、又、違う物と交換をされ、貨幣価値を実現する。この様にその時点、時点での貨幣価値を実現する物を現金というのである。その為に、現金は貨幣と同義に使われることが多い。
 貨幣価値は、貨幣と物と交換を繰り返すことによって実現し、また、普及する。そして、実現された貨幣価値は、その取引を成立させた物と時点における取引によって貨幣価値を確定する。それが原価である。

 貨幣の流れが消費を生み、資産を形成し、投資となる。或いは、物流、物の流れをつくり。また、権利や債務の基となるのである。取引が、物と貨幣の交換を仲立ちし、貨幣の働きを触発し、財の効用を実現するのである。
 その結果、物の働きが実物価値を貨幣の働きが名目的価値を形成するのである。

 貨幣を、回転、転がすことで貨幣価値は、増殖していくのである。この回転運動が貨幣の基本的運動である。

 この様に、貨幣価値というのは、仮想的価値なのである。何等かの実体があるわけではない。貨幣価値というのは、取引の痕跡なのである。そして、交換価値を数値的に表したのが貨幣価値である。

 多くの人は、財務諸表に表示された貨幣価値、金額は、同等の価値の現金が隠されているかの如く錯覚するが、財務諸表に記載されている数値というのは、あくまでも、見かけ上の数値であり、実際に企業が所持している現金は、現金勘定に計上されている残高に過ぎないのである。企業というのは、以外に手持ち資金を所持していないのである。この点を理解しないと企業が倒産する原因を解明することができない。お金が廻らないと企業というのは維持できないのである。それが資金繰りの重要性である。

 この様に貨幣価値は、取引を前提として設定されるのである。つまり、取引が成立していない所には貨幣価値はないのである。

 取引に値しない原野には貨幣価値はない。また、空気には、貨幣価値がない。ただ酸素ボンベに詰められた酸素は、取引されることによって貨幣価値が生じる。

 貨幣価値は、貨幣が流通する軌跡として生じる。そして、貨幣が交換される都度、物と貨幣の交換という形で、貨幣の二方向の働きが、成立するのである。言い替えると物の効用と貨幣の効用の二つの働きが成立するのである。

 損益の境界を基準として、分散と均衡、ゼロ和を前提としている。それが期間損益主義である。

 取引は、貨幣(お金)と物(財、即ち、物や用役、権利等)の交換を前提として成立する。即ち、取引が成立した時点における貨幣価値の総和は均衡、0になる。取引上の貨幣価値はゼロサムなのである。つまり、取引上の清算は、その時点時点で終了し、結果的には貨幣と物の移動だけになるのである。しかし、その取引から派生する権利、債権、債務関係は、取引後の貨幣の流れる方向に作用するのである。債権は、投資の方向に債務は回収の方向に貨幣の流れを引き付ける働きがある。

 貸し借りは、貨幣の供給と回収を担い、売り買いは、分配を実現する。貸し借りは、物や用益、権利の交換と移動を実現し、売り買いは、債権と債務を生じさせる。

 長期資金は、資産と負債、そして資本を形成し、短期資金は、費用と収益を形成する。資産は、債権、負債と資本は、債務を成立させる。又、費用は、消費を収益は所得を構成する。

 市場経済では、取引によって同量の債権と債務が生じるように設定するのである。必然的に取引を基礎とした仕組みはゼロサムになるのである。それが現在の市場経済の原則である。そして、そこで働く0の効用や意味が重要となるのである。それが会計の考え方である。

 故に、経済における0の概念においては、ゼロサムという事が重要である。
 貨幣の基準は、ゼロサムが一つの基準となる。つまり、総和が0になると言う指標が沢山ある。
 特に、会計においては、0が起点であり、終点にもなる。
 会計の基盤となる複式簿記では、借方と貸方の総和は0である。また、簿記の根本である個々の取引の総和は0である。総資産と総資本も和は0になる。
 また、経常収支+資本収支+外貨準備増減の和も0になる。

 ゼロサムは、鏡像関係をも意味する。作用反作用の関係をも意味する。

 鏡像関係というのは、ある境界線を境にして相対称な関係や働きが成立することである。例えば、ある物を買う行為は、必ず売るという行為があって成立する。その場合、売る物と売値、買う物と買値は同値である。この様な関係を鏡像関係という。そして、この様な関係は、一つの働きに対して反対方向に同量の働きを生じさせることでもある。その様な働きの関係を作用反作用という。

 取引というのは、相手がいて成り立つ。そして、取引によって生じる価値は、同価である。売買取引で言えば、売り手と買い手とは、同じ価値の物と金を交換しているのに過ぎない。貸借取引で、同じ価値の債権と債務が交換されていることを意味する。つまり、プラス、マイナス、ゼロである。取引上では、足し引きゼロである。あるのは、プラスか、マイナスである。
 貿易取引では、買い手と売り手があり、取引総和はゼロである。黒字国が生じれば、赤字国も生じる。その総和はゼロである。その総和がゼロだとすれば、黒字が是か非か、赤字が是か非かを論じても意味がない。どの国が赤字を担い、どの国が黒字を担うかの問題である。そして、それぞれの国にどの様な得失が生じるかである。その上で、個々の国の得失に応じた施策を内外で共同して検討することなのである。

 全ての国を黒字にすることも、逆に全ての国を赤字にすることも不可能だという事である。

 大前提は、第一に、全ての部門を正とすることも、全ての部門を負とすることもできないと言う事、第二に、全ての国を黒字にすることも、全ての国を赤字にすることもできない。第三に、正と負は、空間的に均衡しているという事である。

 ゼロサムを原則とする式を列挙すると、先ず、債権の総和=債務の総和である。
 次ぎに、経常赤字の総和=経常黒字の総和。
 貿易黒字の総和=貿易赤字の総和。
 経常収支=資本収支。総生産(生産)=総所得(分配)=総支出(支出)。
 国内生産+輸入=消費+投資+政府支出+輸出。
 経常収支=民間部門の貯蓄投資差額+財政収支。
 総資産=総資本(総負債+資本)。
 借方(総資産+費用)=貸方(総負債+資本+収益)等がある。

 ゼロサムの多くは、ゼロサムになると言うよりも、ゼロサムにする。或いは、ゼロサムになるような仕組みに設定するのである。
 それは、あたかも麻雀のように初期設定によって決まるのである。

 経済というのは、貨幣、即ち、金だけで成り立っているわけではない。物質的問題や人的な問題もある。つまりは、経済空間には、貨幣空間だけでなく、物的空間や人的空間もあるのである。
 現代人は、経済問題を貨幣的現象としてのみ捉えがちだが、実際は、人的現象、物的現象という側面の方が強いのである。
 なぜならば、経済とは生きる為の活動を意味する。つまり、人が主体なのである。必然的に人的な現象こそ中心になる。そして、人は、金を食べて生きているわけではないのである。金は着ることも、住むこともできない。つまり、金というのは、必要な物や用役を調達するための手段にすぎないのである。
 手段である金は本来目的には成らない。目的となるのは、人間らしく生きることである。そして、人間らしく生きる為に、必要な資源、即ち、物資や用役を手に入れることなのである。
 金儲けはあくまでも従属的な行為である。それなのに、現代の経済学者の多くは、金利とか、通貨の供給量、財政と言った金銭的問題ばかりを取り上げて人や物の経済を蔑ろにし、従属的な取り扱いしかしていない。だから、経済の実体が見えてこないのである。
 そして、忘れてはならないのは、人的要素や物的要素は、ゼロサムではないという事である。
 貨幣というのは、従属的な手段であると同時に、貨幣空間というのは、人工的空間だと言う事である。
 つまり、ゼロサム的均衡は、人為的に作られた仮想の空間の出来事であり、実体的空間は別の原則が働いているという事である。
 人の働き、物の働きに応じてこそ貨幣の働きは真価を発揮できることを念頭に置いておく必要がある。



0の経済的意味


 0は、経済において特別な意味がある。

 ゼロは、境界線を画定する。
 経済的リスクを考えた時、ゼロは、デッドライン、ボーダーラインを画定し、経済では、ゼロを超えると異次元の状態になる。
 故に、経済上の数値は、ゼロを含む自然数が基本となるのである。
 そして、残高計算が経済の根本を形成する。

 経済的にゼロ点を超えると負債となる。負の概念は、借金を意味していたのである。
 そして、それが損失へと変じる。
 損失は不足である。
 そして、ゼロを超えると、本来は、破産、破綻を意味する。つまり、死線を越えたのである。
 ゼロを超えると経済的には総てが無になる。それが原則なのである。

 ゼロを超えた数を想定できたのは、期間損益によってである。
 ゼロを超える数を想定した時から、経済の本質関わる。
 そして、経済がより数学的な概念に変質したのである。
 しかし、期間損益も根底は自然数である。

 経済的な0の働きを考える場合、経済的な0の位置と順序が重要になる。0をどう位置付け、0をどう順序付けるかである。
 また、0と負の関係も重要となる。

 経済における0の働きには、0本来の意味である無や空、基準点という意味がある。しかし、経済における0の働きには、0本来の意味以外にゼロサムという意味がある。
 0は、正と負の境界線である。
 また、0には、開始と言う意味がある。
 そして、お終い、終了、完結、則ち、清算、決済という意味がある。
 また、リセット、つまり、再開、やり直しという意味がある。
 二進法で言えば、0には、ONとOFFの、OFFの意味がある。

 0は、四則の演算の埒外にある数である。
 四則の演算の本は、「分配の法則」「交換の法則」「結合の法則」である。
 0は、他の数と「分配の法則」「交換の法則」「結合の法則」の働きに違いがある。この事は経済的に重要な意味がある。
 0以外の数は、その数とその数自体の数を足せば違う数になる。例えば1+1は2になる。それに対して、0足す0は0である。
 ある数に0を足してもその数の値は変わらない。ゼロは大きくなったり、小さくなることを拒む。

 経済的な0には、無という意味がある。
 経済的な0には、空という意味がある。
 経済的な0には、基準点と言う意味がある。

 0は、無を体現する。

 0は、経済的に無価値なのか、そうでないのかは、0を設定するときの前提にある。0が一定の水準を表す場合は、0は必ずしも無価値になるとは限らない。その典型が課税対象の問題である。

 経済的な0の意味には、空(から)の状態、あるいは、空(から)の状態にすると言う意味がある。空(から)の状態というのは、無ではない。

 経済的基準には指標という意味がある。0指標とは何を意味するのか、経済において重要な役割を持つことがある。特に、負の働きとの関係において基準としての0が意味するところは大きい。

 損益上の0と収支上の0とは、働きが違う。収支上の0は、お終いを意味する場合がある。

 無借金経営とは、どの様な状態を指すのか。借金0を意味するのか。その意味するところで、経済的な意味も変わる。

 0ベース予算とは、何を基準とした予算制度なのか。それは予算の本質に関わる問題でもある。0は、比にならない。

 ゼロサムとは均衡を意味する。全ての経済現象は、均衡している。
 それは、貨幣の性格によってゼロサムなる仕組みが経済現象の前提となるからである。
 つまり、ゼロサムは、貨幣経済の構造の前提となる。

 経済において何を原点とするのか。それを決めるのが経済における0の働きの一つである。
 ただし、経済的価値は、自然数の集合である。故に、負の働きをどの様に表現するかが、経済の仕組みにおいて重要な意味を持つのである。
 そして、負の働きをする媒体が貨幣なのである。

 0は、正と負とを隔てる数でもある。

 0を始まりとするか、一を始まりとするか、経済においては、重要な意味を持つ。

 ビルの地上階を0階とするか、一階とするのかは、0を始まりとするのか、一を始まりとするのか、言い替えると階数を量と捉えるか、数と捉えるかの違いである。

 同様に、年齢を数えで数えるか、満で数えるかによって年齢に差が生じる。それによって成人年齢、進学年齢と言った人生の区切りに影響がでる。

 00年を世紀の始まりとするか、01年を世紀の始まりとするか、基数性と序数性の問題である。

 定規は、0を始まりとしている。1ではない。

 地理上の基準点は、0点でもある。0は始まりを意味する。

 経済的には、0は始まりという意味だけでなく。0は、終わりという意味がある。

 0は、全てを無に帰す働きがある。貨幣経済では、始まりは0であり、故に、原則として終わりも0にする。
 0をかければ全ての価値は無になる。

 世界は一つ。経済的空間で、世界を一つに調和させているのがゼロサム関係である。
 つまり、一はゼロに通じているである。

 経済は、均衡しようとする力と不均衡との間を揺れ動く時に発生されるエネルギーによって作動する。
 現代人は、短期的な均衡、部分的ばかりに目を奪われて長期的均衡、全体的均衡を見落とす傾向がある。しかし、短期的な不均衡をどう長期的な均衡によって調節するかが、経済施策であり。短期的均衡、部分的均衡ばかりを問題にすると経済は、長期的均衡、全体的均衡がとれなくなり、経済は正常に機能しなくなる。

 経常収支(民間部門、公共部門、海外部門)と資本収支(民間部門、公共部門、海外部門)支払準備残高(民間部門、公共部門、海外部門)は垂直的均衡の関係にある。それに対し、経常収支の総和、資本収支の総和、貿易収支の総和等は水平的均衡の関係にある。経済主体間の総和も水平的に均衡する。

 経常収支と資本収支、支払準備残高は、全体でも経済主体内でもゼロサムである。
 経常収支、資本収支、支払準備は水平的にもゼロサムである。
 故に、全体的にもゼロ和である。
 貨幣現象は、短期的にゼロ和であれば、長期的にもゼロサムになる。
 垂直的にゼロ和というのは、経済主体の範囲内でゼロサムである事を意味する。
 水平的にゼロ和というのは、経済主体間を集計した総和がゼロである事を意味する。
 経済主体には、公的部門、民間部門、海外部門がある。
 更に民間部門は、家計と企業がある。
 公的部門は、財政収支と公的機関の貸し借りを言う。
 通貨の発行は、公的機関の借りを意味する。

 市場の貨幣的規模を決めるのは、通貨の供給量と回転数である。

 財政は、投資と国家の収支、貸借からなる。単年度の収支は、財政の貸借に蓄積される。
 財政が黒字になれば、国債は減る。国債が減れば、民間、或いは、海外の負債は増える。
 民間の負債が増える事は、民間の消費と投資に影響する。
 民間の家計部門の負債が同じならば、民間企業の負債は増える。民間企業の負債は、金融市場と資本市場に反映される。
 財政収支は、通貨の増減に直接的に結びついている。公共投資が減れば、国の借金が減る代わりに、通貨の流量は減る。問題は、通貨の供給量と回収量の下限の問題である。

 海外への負債は、海外の資本市場に影響する。
 国家間にも貸し借り関係が生じる。
 貸し手は借り手があって成り立ち、借り手は貸し手があって成り立つ。
 問題は、限度と振れ幅である。それが貨幣の量を決める。
 国外への資金の流出は、海外に借りを作っているような事である。

 黒字国は、赤字国があって成り立っている。
 赤字国は、黒字国を支えている。
 国際的均衡は、国際的投資と国家間の貸借、通貨の総枠の問題である。
 基軸通貨によるのか、決済制度によるのかによっても世界経済の有り様は変わる。

 民間の資金は、所得という形で供給される。所得は、生産手段に対する対価として支払われる。民間の支出には、消費と投資がある。民間で資金が余れば、貯蓄し、不足すれば借金をする。貯蓄と負債は、短期的に見てもゼロサムであり、長期的に見てもゼロサムである。貯蓄と負債、そして、投資は蓄積する。

 ゼロサムを物で言えば、生産と消費と在庫の関係はゼロサムである。
 故に、過剰生産は、消費と在庫を増やす。
 問題は、密度であり、量は質によって調整すべきなのである。
 生産も消費も量は質によって調整すべきなのである。

 物と金は違う。
 余剰なお金は累積する。
 余剰な物は、全てが累積されるわけではない。

 市場取引は、過剰なところから不足しているところへ資源(人、物、金)を配分する事を目的として成り立っている。
 経済の役割は、必要な資源を、必要なだけ、必要なところへ配分する事である。

 現代の経済は、結果だけが問題とされる。しかし、経済で重要なのは、動機であり必要性である。ただ作ってしまったから消費するというのでは、乱開発や資源の浪費は防げないのである。環境問題や資源問題が深刻化している今、必要な資源を必要なだけ消費できる仕組みが求められている。

 経済全体の調和は物質的な経済によって実現される。
 生産と雇用、消費、生産手段とをどう調和させるかが問題なのである。貨幣は、生産手段の一種に過ぎないのであり、全てではない。
 物の動向によって市場の規制を緩和したり強化し、また、経済主体間を競争させ、或いは、連携させるのである。また、国際投資、公共投資、民間投資を適切に促すのである。そして、経済の制御を実現するのは、市場の仕組みである。

 国際投資は、断じて戦争ではない。

 世界は一つなのである。



ゼロの圧力


 自由主義経済の根幹は、均衡と対称性にある。
 市場経済の文法である複式簿記は、ゼロサムが基本である。つまり、総和は常にゼロに保たれるように設定されている。それがゼロの圧力の源泉である。
 ゼロには、ゼロ点でも、ゼロ線でも、ゼロ面でも均衡を保とうとする力が働く。また、対称性を生み出す働きがある。

 ゼロ点やゼロ線が設定されるとゼロに収縮していこうという働きやゼロを中心として振幅する働きが見られたりする。それがゼロの圧力である。

 ゼロ、即ち、均衡に向かって収斂しようとする力が働く。それがゼロの圧力である。
 また、だからゼロの持つ意味が重要なのである。

 分散した数字を均衡へと回帰させる力には、ゼロか、一かに収束していこうとする働きがある。
 ゼロか、一か。
 無か、有か。
 何処に向かって収束するのか。それは前提によって決まる。

 その意味で、複式簿義の構造が借方、貸方、つまり、貸し借りを基本としていることは、含蓄があることなのである。

 複式簿記を文法とする市場では、利益は、放置するとゼロに向かって収束していく。なぜならば、会計の基礎となる複式簿記は、ゼロサムを基調とするからである。

 ゼロサムの事象では、ゼロは、基準点を意味する。
 市場経済では、基準点をゼロサムを基本にして任意に設定されている。
 市場経済は、取引を前提として成り立っているからである。また、市場経済は、金の流れと物の流れがあり、金の流れと物の流れは、逆方向に流れているからである。
 ゼロサムによる経済的な基準は、平均点をも意味する。即ち、ゼロサムを基準にすることは基準点を中心に対称な事象を意味し、基準を対称にして同量の価値が派生するからである。
 基準点と平均点が一致するのは、正規分布である。経済に於いて正規分布の働きが重要なのは、平均と基準の概念が重なるからである。
 また、それは、市場経済における事象の多くは、基準を中心に対称になる事を意味する。

 ゼロサム現象には、ゼロに向かって回帰しようとする働きがある。
 この働きが力の根源となる。
 ゼロサム現象が顕著なのが経済である。
 故に、経済では回帰現象か重要な意味を持っている。

 回帰現象においては、最短距離の概念が重要な意味を持つ。
 問題は、どこに向かって収斂しようとしているかである。

 経済主体間の貸し借りは、ゼロである。
 また、経常収支と資本収支の和もゼロになる。また、市場全体の経常収支、資本収支、貿易収支の総和もゼロである。

 この様な関係が成立する自由経済の原則は、黒字があれば、同量の赤字があることである。
 故に、黒字は正常で赤字は異常と決めつけることは間違いだという事になる。問題になるのは、黒字や赤字を生み出す仕組みとその機能である。黒字と赤字が硬直的であり、黒字の部分も赤字の部分も継続的に黒字であり、赤字だという事である。そして、これは構造的問題なのである。

 故に、赤字か黒字かが問題なのではない。

 何が赤字、何が黒字か。そして、それは時間的に均衡するのか。また、振幅の幅は適正化が問題となるのである。

 例えば、経常収支が赤字の場合、資本収支が黒字なければならないし、経常収支、財政収支、家計収支、民間収支の総和がゼロだという事は、赤字の経済主体と黒字の経済主体が混在していることを意味するのである。
 全ての経済主体を黒字にする事はできないのである。黒字が是で赤字が否というのではなく、黒字主体と赤字主体の役割、及び、推移が問題なのである。

 赤字や黒字にどの様な性格があり、働きがあるかが問題なのである。
 赤字や黒字の時間的な変化はどういう性格のものか。
 赤字や黒字が慢性的なものなのか。
 赤字や黒字を補完しているものは何か。
 赤字と黒字の相互の働きは何か。
 赤字主体と黒字主体の役割は何かである。
 任意の赤字主体、或いは、黒字主体が、他の赤字主体や黒字主体にどの様な影響を与えるかである。
 即ち、黒字や赤字を作る仕組みは、何かといった事が、鍵を握っているのである。

 均衡と対称という現象は、表面に現れた現象の背後に逆方向の力が、働いていると考えなければならない。黒字には赤字が働いているのであり、黒字の働きだけを見ても赤字、即ち、逆方向の働きを見ないと本当の役割を理解する事ができないのである。
 利益は、赤字主体と黒字主体の存在に依って生じる。故に、均衡への圧力は、利益を限りなくゼロに近づけようとする働きを生み出す。

 自由主義は多様性を内包することで成り立っている。自由経済は、多様性を前提とする事で成り立ている。

 価格競争は、商品の質を均質化する。

 大量生産、大量消費は、商品を単一化、標準化させる働きがある。
 それは、大量生産や大量消費は生産や消費を平均化するからである。
 個人の欲求を一律、一元、一様なものとするか、多種多様なものとするかによって経済の仕組みに対する考え方、原則が違ってくる。
 自由市場は、本来、成熟する過程で、多様化する事を、前提としなければならない。
 個人の欲求を一律、一元、一様なものとするのは、全体主義、統制主義である。
 自由経済における豊かさは多様性にある。
 なぜなら、価値の単一か、標準化は選択肢の幅を狭め、貧困なものにするからである。
 そして、価値の単一化、標準化は、経済的価値のバラツキや格差をなくす。その結果、経済価値は均衡に向かいかぎりなくゼロに近づくのである。それは、経済の活力を奪う事である。

 市場の健全さを保つためには、如何に、均衡と対称を壊すかが重要となる。

 その結果、無原則な価格競争は、利益をゼロに収斂していく。

 利益を生み出すのは、市場の仕組み、構造である。市場の構造 は、規制によって形作られる。規制が市場のあり方を決める。故に、規制緩和が全てなのではない。適正な規制こそが求められているのである。

 利益を維持するためには、価格競争以外の施策をとるような仕組みにする必要があるのである。競争は、価格だけにあるわけではない。
 その場合、競争の前提、競争の条件を同一化する必要がある。そうしないと公正な競争は実現しない。

 実質的な経済は、物の生産と消費、そして、通貨の流通量によって成り立っている。物価は、実質的経済価値である。生産と消費は所得に基づいて実現する。生産は、所得の生み出す労働によって成り立っているからである。また、消費は収入の範囲内で賄われる。収入を構成する要素、所得、借入、預金の取り崩しの中で生産的なのは、所得だけだからである。生産は、消費と在庫、輸入から成り立つ。生産より、消費が上回れば、他国から輸入らざるを得なくなる。逆に、生産が過剰になれば、過剰な部分は、在庫か輸出する事になる。輸出入が経常損益の元となる。

 経常収支は実質的産業により、所得収支は、消費的(金融を含むサービス)産業による。
 この事は、物と金、実質と名目、生産的局面と消費的局面の関係を暗示している。

 経済現象は、物の経済と金の経済、人の経済によって生じる。人、物、金が調和すれば経済は安定し、不均衡になれば、経済は不安定になるのである。

 ゼロには、虚、無、空、始、基の意味がある。

 ゼロは始まりである。ゼロは、空集合である。ゼロは無である。ゼロは桁を作る。ゼロは分岐点である。ゼロは原点である。ゼロは均衡点である。ゼロは、等しさを表す。

 ゼロは始まり、つまり、始点という意味がある。
 ゼロは、始点という意味の他に、原点という意味がある。
 ゼロには任意の基準点という意味がある。
 また、ゼロには、無や空という意味もある。
 ゼロには、中心という意味もある。
 ゼロには、均衡点という意味もある。

 0は何でも呑み込んでしまう。0をかければ何でも0に帰すのである。

 0と∞(無限)は対極にある。自然数は、0に始まり∞(無限)に至る。貨幣価値は自然数の集合である。故に、貨幣価値は、0と無限のあいだにある。また、貨幣価値は、有限である。故に、範囲が重要となるのである。

 貨幣価値は自然数の集合である。自然数の集合は、0から無限へと繋がる。
 故に、貨幣価値は、常に、無限の脅威に曝されている。

 今という時間が連続して時間は形成される。今という時間は、0を極限として無限である。今は、絶え間なく変化している。故に、時間は変化を表すのである。

 貸借は静、損益は動。
 静は位置を表し、動は変化を表す。

 0と無限は、よく似ている。0に何をかけても0である。無限に何をかけても無限である。数を0で割れば無限となり、無限で割れば0となる。どんな数に0を足しても数は変わらない。無限大に数を足しても無限大である。(「異端の数ゼロ」 チャールズ・サイフェ著 林 大著 早川文庫)

 0を分母とする分数は、無限量になる。(「異端の数ゼロ」 チャールズ・サイフェ著 林 大著 早川文庫)

 実数では、0と無限と極限は一体になって働く場合がある。

 リセットというのには、全てを最初の状態に戻し、再開、やり直しするという二つの意味がある。
 つまり、0は、再生を意味する。やり直しを意味する。

 神は、唯一の存在なのか。それとも、神は、0なのか。
 神は、0であり、一であり、∞である。
 今この瞬間が、永遠に結びつく空間に神は、存在する。
 0と無限が極限によって一体となった時、神は現れる。
 過去から未来、生から死、静から動、自己の内の世界から外界へと繋がる直線が交叉する点に神は宿るのである。
 死を0とするならば、生の極限において時間は無限へと誘(いざな)う。
 無限の時は永遠である。瞬間も又無限である。故に、一瞬一瞬は、永遠へと昇華される。それが今という時間である。

 般若心経は、対象を認識し意識を形成する過程を表している。

 照見五蘊皆空 (しょうけんごーうんかいくう)
 度一切苦厄 (どーいっさいくーやく)

 五蘊とは、色、受、想、行、識、つまり、対象を認識する手段を言う。
 これらは、全て最初は空である。つまり、分別はない。

 対象の存在は、絶対であり、認識は相対的である。
 対象は、無分別であるが、意識は、分別より生じる。

 対象は、空であるが、意識には、色がある。
 意識によって対象は区別されるが、対象そのものは本来区別はない。

 色不異空 (しきふーいーくう)
 空不異色 (くうふーいーしき)
 色即是空 (しきそくぜーくう)
 空即是色 (くうそくぜーしき)
 受想行識 (じゅーそうぎょうしき)
 亦復如是 (やくぷーにょーぜー)

 意識されたら、対象は、空ではない。
 諸々の現象が含まれる。しかし、全体は、分かつ事ができない。
 部分を構成する個々の事象には、働きがあるが、全体の働きの総和は零になる。
 全体には、一という実体はないが、全体を一とすると一としての実体が生じる。
 一を一とするのは、自己の意識である。

 数は無意味である。数に意味はない。
 なぜ、野球は九人でなければならないのか。
 それを考えても意味はない。
 意味づけしたとしてもそれは後付けである。

 是諸法空相 (ぜーしょーほうくうそう)
 不生不滅 (ふーしょうふーめつ)
 不垢不浄 (ふーくーふーじょう)
 不増不減 (ふーぞうふーげん)
 是故空中無色 (ぜーこーくうちゅうむーしき)
 無受想行識 (むーじゅーそうぎょうしき)
 無眼耳鼻舌身意 (むーげんにーびーぜっしんにー)
 無色声香味触法 (むーしきしょうこうみーそくほう)
 無眼界乃至無意識界 (むーげんかいないしーむーいーしきかい)
 無無明 (むーむーみょう)
 亦無無明尽 (やくむーむーみょうじん)
 乃至無老死 (ないしーむーろうしー)
 亦無老死尽 (やくむーろうしーじん)
 無苦集滅道 (むーくーしゅうめつどう)
 無智亦無得 (むーちーやくむーとく)
 以無所得故 (いーむーしょーとくこー)
 菩提薩垂 (ぼーだいさったー)
 依般若波羅蜜多故 (えーはんにゃーはーらーみーたーこー)
 心無罫礙 (しんむーけーげー)
 無罫礙故 (むーけーげーこー)
 無有恐怖 (むーうーくーふー)
 遠離一切顛倒夢想 (おんりーいっさいてんどうーむーそう)
 究竟涅槃 (くーきょうねーはん)

 市場における貨幣価値の総和は、常に零である。
 総和は増えも減りもしない。
 どれほど資産価値が高騰しようと、総和は零になる。
 清潔な物も、汚れている物も世の中にはない。
 清潔とするのも、汚いとするのも自分である。
 この世に貴賤の別はないのである。
 貴賤の別を生み出すのは自分である。
 一という存在はなく、一は一として識別される。

 三世諸仏 (さんぜーしょーぶつ)

 依般若波羅蜜多故 (えーはんにゃーはーらーみーたーこー)
 得阿耨多羅三藐三菩提 (とくあーのくたーらーさんみゃくさんぼーだい)
 故知般若波羅蜜多 (こーちーはんにゃーはーらーみーたー)
 是大神呪 (ぜーだいしんしゅー)
 是大明呪 (ぜーだいみょうしゅー)
 是無上呪 (ぜーむーじょうしゅー)
 是無等等呪 (ぜーむーとうどうしゅー)
 能除一切苦 (のうじょういっさいくー)
 真実不虚 (しんじつふーこー)

 ゼロと一との関係。
 ゼロは一に変じる。一はゼロに通じる。
 ゼロと一との関係は微妙。
 ゼロは、視点を変えると一にもなるし、一も視点を変えるとゼロに変じる。
 一階は、0階にもなり、0階は一階にも転じる。
 一をゼロと見るか、ゼロを一とみるかは、経済に重要な意味を持たせる。
 連続量か、離散数か。それは0か一かの差としても具現化する。
 ゼロは空なのか、点なのか。
 点は一なのか。
 点の実体は、無なのか、空なのか。
 点は、見方によっては無限にも広がる。
 点は、見方によっては普遍でもある。

 全知全能は、無知無能に通じる。
 色即是空。空即是色。


参考 「異端の数ゼロ」 チャールズ・サイフェ著 林 大著 早川文庫




       

このホームページはリンク・フリーです
ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2009.12.20 Keiichirou Koyano