1.経済数学

1-4 最大、最小

最大の一と最小の一



 最初の一とは、全体の一であり、二番目の一とは、最小単位の一である。即ち、最大の一と最小の一が定まることから数は、始まる。

 一は、最大という意味と最小という意味の二つを併せ持つ。一は、全体を意味すると同時に、部分をも意味するからである。そして、一は、単位でもある。

 最大か、最小かは、内か外かを画する。

 一によって二が生じ、二によって三が生じる。それが数の始まりである。数は、物と結び付けられることによって実体を持つ。

 一対一とは、一と一である。

 量には、主体的な量と客観的な量、そして指標的な量がある。主体的な量は、認識主体が一とする量である。それに対し、客観的な量、物的量とは、一となる量である。そして、指標的な量とは、仲介的量であり、一を指し示す量である。単位とは指標的な量である。

 統計的範囲は、最大値と最小値によって定まる。範囲は、単位の基礎となる。

 単位は合意に基づく数量である。単位が成立する為には、単位を決め、単位を認める主体と単位となる対象、単位を示す印が必要となる。

 単位とは、ある対象の全体を一とし、その部分の一つを一とすることによって成立する。全体の一と部分の一との比によって単位は、成り立っているのである。単位が定まると二が生じる。二が定まると三が生じる。この様にして数は認識されるのである。

 故に、単位は比が基である。そして、比の基でもある。単位は、故に基準となるのである。つまり、単位は比較できる物ならば何でもいいのである。それが単位である。つまり、単位とは、基(もと)なのである。

 ある一定の長さがあれば、単位は成立する。それが足の長さでも、指の長さでも、歩幅でも、棒でも単位になりうる。紐の長さでもいいのである。ただ歩幅は一定しているとは言い難い。それでも原始的な社会であれば大マカでも長さや距離、即ち、位置がある程度、解れば単位として成り立ってきた。それがフィートという言葉に残っている。
 長さを計算するために、一度決めた単位を何度も変更することすらあったのである。例えば、紐の全長を一つの単位とし、それを二つに負った長さを又単位とすると言った具合である。
 つまり、単位とは基準となる量なのである。絶対的な量を指しているわけではない。

 即ち、単位とは、任意な量であり、公式に博く認められた単位とは、社会的合意に基づく量なのである。つまり、公式に博く認められた単位というのは、社会的な数値なのである。所与の量ではない。ただし、一度社会的な合意が成立すると固定量として社会的前提が成立するのである。

 単位というと我々は、物理的単位を思い浮かべる。しかし、本来単位というのは決まったものではなく。物を測るための基準に過ぎない。かつては、物理量もその時点時点で決めていたのである。
 物理的単位が定まったのは、それほど遠くない時代である。貨幣単位に至っては、未だに何等かの物理的実体があるわけではない。十進法に収まったのも最近のことである。

 一つの何等かの全体を対象とした場合、その対象の範囲を特定する必要がある。そこで重要になるのは、最大値と最小値である。最大値と最小値で一番大きいのは、無限大と無限小である。しかし、現実の問題、特に、経済では、基本的に有限な事象を対象とする。故に、最大値と最小値が問題となるのである。つまり、対象の規模である。つまり、最大値と最小値は、限界と境界線を意味するのである。

 人の一生には限りがある。人の欲望には、限りがない。限りある人生を限りない欲望に委ねてしまえば、人は目標を定めることができなく。まず、生きられる範囲の中で人は自分の目標を定めなければならない。人生の目標が、自分の立ち位置を決めるのである。

 最初から無限という概念があったわけではない。人は、自分が認識できる範囲で対象を識別する。最初は、割り切れる範囲で対象を識別し、単位を定めようとした。しかし、現実には割り切れない範囲があるのである。
 割り切れない範囲ができた時、世界は開放され、無限の広がりを見せるのである。

 貨幣価値は、一本の数直線として現れる。貨幣価値は、自然数の順序集合である。自然数は無限集合である。貨幣価値は、抑制がなければ無限に拡大する。貨幣価値を抑制するのは、物的集合と人的集合である。

 物質的、人的資源は、有限集合である。貨幣価値と、物的集合、人的集合が一対一に結びつくことによって貨幣価値の集合は抑制される。

 即ち、貨幣価値の総量の限界、境界線は物的要素、人的要素によって確定される。それは、必要性の最小値と可能性の最大値である。必要な資源は、最小限確保されなければならない。欲望には際限がないが、供給可能な資源の量には限りがある。
 いずれも主観的な基準である。故に、客観的基準は設定しにくく、取引という行為を通じて裁定するのである。

数と構造



 数には、固有の働きがある。数は、固有の働きを象徴していると言える。

 倍数、約数というのは等分という概念と関係している。
 単位、即ち、一は、掛けても相手を変えない数。
 ゼロは、掛けてた相手をゼロにしてしまう数。
 負とは、足して零になる数。借金と関係している。
 全てを水に流す。同じ値を足せば零を作るのが負の数字。

 順序や間隔、組み合わせ等が、数の働き形成する。それが数の構造である。
 そして、それは、差や比として表される。

 経済やスポーツは、数学的構造を持っている。
 そして、この数の構造が数の働きの源となるのである。

 例えば、野球が好例である。
 スポーツには基礎となる数字がある。
 野球で言えば、九であり、三の倍数である。
 野球は、九、即ち、三の倍数という数が基数になった構造を持っている。即ち、選手の数が九人。この選手の数に合わせて守備位置九、打順九、定まる。
 守備位置の内訳は、投手一、捕手一、内野手四、外野三である。

 試合の構成は、九回、三つのアウト、三振とこれも三を基数としている。その上で、二の倍数、四が加わる。即ち、裏表、四つのボール、四つのベースである。
 これらの数字が組み合わさって野球というゲームを成り立たせているのである。
 三角と四角が野球の空間を形作っている。

 又、仕事の段取りをする時は計算ができなければならない。
 仕事の段取り、年と月と週と日と時間と作業を巧みに組み合わせていって予定や計画は構築されていく。
 年は、更に、半期、四半期に区分する事もある。
 これに会議、打ち合わせのようなイベントによって骨組みを作っていく。

 ゼロは、掛けてた相手をゼロにしてしまう数。
 リズムとなる基本的な作業。旋律奏でる基本計画。血肉となる詳細計画。
 それに組織を組み合わせることで仕事を形作られていく。
 計画とは、建築のような事である。

 音楽も又、数学。
 旋律にリズムに和音。
 これこそが数の構造である。
 音の組みあわせは、数の組みあわせ。
 周波数も数で表せる。
 周波数が音程を決め。
 数の組みあわせが音楽を奏でる。

 並列的に進む事と直列的に進行する事。
 周期的な事、非周期的な事。
 同期する事、非同期な事。
 対称的な事、非対称な事。
 相関関係のある事、因果関係のある事。
 順序のある事と順序に関係ない事。
 後先のある事、ない事。
 終わりがある事ない事。
 始まりがある事、ない事。
 収束する事、発散する事。
 そして、数えられる事と数えられない事。
 質と量と密度。
 この様な要素が数の構造を形作る。
 計画の大枠は幾つに区切るか。
 単位となる数の塊は幾つか。
 つまり、二進数か、三進数、十進数か。
 これらは、数学的に分類できる。

 どうやって始めて、どうやって終わるか、それは定義の問題。

 何が上限で何が下限か、それは経済の規模を決める。
 何を上限とし、何を下限とするか。
 上限と下限を制約するのが最大値と最小値である。
 何が、どうやって上限を決め、何がどうやって下限を決めるか。
 市場が決めるようにするのか。
 それは経済の問題であり、政治の問題である。
 最大値と最小値は、経済の生産量と消費量を確定する。
 生きる為に必要な資源の最小値は何処にあるのか。
 生産可能な最大値はどこか。
 それを貨幣価値に換算したらどうなるのか。
 それが経済の動向を決める。
 足し算と掛け算、そして、引き算、割り算。最大値と最小値を制約する。

 範囲と数の構造が経済では重要である。

 上限と下限の間は、範囲の問題である。
 そして、比率は数の構造を意味している。

 有権者の数はどの様に決まるのか。
 何によって確定し、測定するのか。
 当選の条件は数学的に妥当か。
 選挙の手続きは論理的か。
 手続きの論理は妥当か。
 有効投票者の上限と下限をどの様に測定し、確定するのか。
 投票率は、どの様に決まるのか。
 選挙が成立する条件を決める数は・・・。
 その数は、誰が、どの様に決めるのか。

 投票の格差はどうのように決めるのか。
 一人の政治家は、何人の意見を代表しているのか。
 中選挙区制度と小選挙区選挙制度の違いは、数の上でどうなのか。

 比例選挙は数学的な問題。
 公平か、否かは数学的に決まる。

 選挙の基礎は、集合と統計的手段である。

 問題は何が最大値であり、何が最小値か、それをどの様に決めるのかが問題なのである。

 選挙は数。
 民主主義は数学である。

 打率、打点、ホームラン数は、選手の実績、実力を表している。

 市場では、シェアが力を発揮する。独占、寡占は、市場の機能を低下させてしまう。
 経済で重要なのは、成長率や上昇率である。
 利益構造は、粗利益率、営業利益率などできまる。
 生産性は、固定費と変動費の比率が決定的な意味を持つ。
 労働分配率や回転率は、経済主体の働きや効率を表している。
 価格は、生産に関わる費用と利益、需要と供給の均衡を促す。
 数と数との相互牽制、相互作用によってスポーツも経済も進行する。
 その結果、経済では、財の生産と分配が実現するのである。

 経営は数学で管理し、数学で成り立つ。

 会計は、残高の集合である。
 決算書は、基本的に残高計算書である。
 残高とは有り高である。
 残高、零以下の数を含まない。
 残高とは、零を含む自然数を意味する。
 残高の集合には、一となる集合がある。
 一は、掛けた相手を変えない集合である。
 残高の集合には、残高を零に戻す集合が含まれる。
 零は、掛けた相手を零に戻す数である。
 零は、初期の状態に変換する数を意味する。
 残高は、基本的に零以下の数値、即ち、負の数を含まない自然数の集合である。
 つまり、足しても、引いても、掛けても、その答えは自然数の集合でなければならない。
 負の数というのは足して零になる数である。
 実質勘定に足して零になる勘定が名目勘定である。
 残高は、負の数字を含まないが、負の働きをするのが、名目勘定である。
 残高は、実質勘定が正の勘定であり、名目勘定が負の勘定である。つまり、名目勘定は、実質勘定に対して足して零になる勘定なのである。
 残高は加算主義であり、直接、出金を残高から引くわけではない。
 実質勘定と名目勘定の差から資本を導く出すのが、決算書である。
 残高は、交換の法則、結合の法則、分配の法則が成り立つ。

 ゼロは、掛けてた相手をゼロにしてしまう数。
 負は足して零になる数。
 一は掛けた相手を変えない数。

 仕事にも正の仕事と負の仕事がある。負の仕事とは、足して零になる仕事である。
 正の仕事とは、直接生産に関わる仕事であり、負の仕事というのは、例えば、商業とか金融とかは負の仕事である。弁護士や会計士も負の仕事である。
 それ自体だけでは成り立たずに、何らかの外的資源がなければ成り立たないのである。
 それが負の仕事である。

 経済と近代スポーツは数学である。
 経済とスポーツは、数学によって成り立っている。

 医学も数学。
 体温を測って、脈拍を数えて、血圧を調べ、血糖値に、尿酸値を測定する。
 血液検査に尿検査。
 出てきた数値を組み合わせて病気を診断する。
 正常値は、平均値は、基準値は幾つ。
 ここでも上限、下限。最大値、最小値、平均値が重要となる。
 肝心なのは幅である。
 年齢や性別といった関連した要素との数値的関係はどうか。
 病気は数値に表れる。グラフに表れる。
 これが現代医学とそれまでの医学との決定的違いであり、東洋医学と西洋医学の違いでもある。
 しかし、東洋医学にも数学的な要素はある。ただその表現の仕方、扱い方が違うのである。
 医学も又、数学によって発展し、管理されている。

 計算する事だけが数学ではない。
 計算できなければ数学は成り立たない。



最小で、最大な存在


 現代経済規模は、爆発的に拡大している。しかし、経済規模には限りがある。そして、その境界線を確定するのは、物的経済と人的経済である。なぜならば、貨幣には際限がないからである。つまり、物的経済や人的経済は、その存在内部に抑制するための仕組みがあるのに対し、貨幣的規模を抑制するものがないからである。
 資源は、有限であり、人間は、生存できる範囲に限りがある。しかし、貨幣価値は、生産しようと思えば限りなく生産することが可能なのである。だからこそ、貨幣経済の規模を特定する必要があるのである。

 何も生産しなくとも、働かなくても、お金を生み出すことはできる。そして、厄介なことに、市場に物が供給されている限りにおいて、「お金」さえあれば、市場から必要な物は手に入れることができるのである。

 最近、実際は、生産的なことは、何もしていないのに、何等かの物を生産している、或いは、投資をしているように見せ掛けて資金を集め、集めて資金を巧みに操ることで人を騙し続ける詐欺事件が見られるようになった。この様な事件は、「お金」さえあれば、とりあえずは事業が成り立つことを証明している。その典型が、所謂、「ネズミ講」である。しかし、金融というのは、本質的に、抑制力に乏しい性格がある。それは、規模を抑制する要素が貨幣自体にはないからである。貨幣経済を抑制するのは、物的、人的経済、そして、人間の理性と社会の仕組みである。

 経済的価値は、物の供給と人の必要性(需要)によって決まる。貨幣価値は、経済的価値の指標の一つに過ぎないのである。

 現代では、景気対策として潜在需要の掘り起こしとして公共事業が行われる。公共事業をしさえすれば景気が良くなるように錯覚している人達もいる。
 潜在的需要というのは、必要性から生じるのであり、資金量によって生み出されるものではない。ただ、潜在需要が蓄えられても貨幣が行き渡っていなければ、潜在需要を引き出す手段がないのである。
 いくら金があっても欲しい物がなければ財布の紐はゆるまないのである。ただ単なるばらまきたい策では、借金が増えるばかりである。

 物も、人も、有限なのである。有限な存在なのである。貨幣価値だけが無限の広がりを持つ。限りある資源を無限の価値に置き換えてしまえば、資源は、無制限に浪費されてしまう。人間は、その危険性に気がつくべきなのである。
 貨幣の量が問題なのではない。最初から実体のない物に、実体があるかの如く錯覚するから問題となるのである。貨幣は、資源を分配するための指標に過ぎない。有限の資源を無限の秤で測ろうとするから際限がなるのである。
 人間が活用できる資源には限りがあり、人間の欲望には限りがない。それが問題なのである。それを、人間が、自覚できないことが問題なのである。

 生きる為に最低必要な資源は何か。人間が活用できる資源はどれくらいあるのか。そこに最大と最小の範囲がある。最大と最小は、限界である。

 一人の人間が生きていく為には、世界中の土地を必要とはしていない。生きていく為に必要な食料はどれくらいなのだろうか。それを測る基準、単位は何にすべきなのか。一人の男が必要とする女は、一人で充分なはずだ。だとすれば、一組の男女を基準に家族制度を考えれば、設計すればいいのか。それは思想の問題である。
 人間は一人では生きていけない。ならば、最低必要とする人の数はどれ程なのであろうか。最大と最小は、表裏を成す数値である。そして、それは境界線を示す数字でもある。

 現代企業は、利益の最大化を目的とするという。利益を最大化を目的とする根拠は何か。なぜ、利益の最大化を計らなければならないのか。それが肝心である。

 利益には正もあれば負もある。即ち、絶対的な数値ではない。近代資本主義というのは利益の最大化を計ることに目的を置いているといっていい。しかし、利益の最大化と言っても利益をもたらす物の基準は曖昧である。それが資本主義最大の弱点である。自分達が目的としている事象の本質が見極められていないのである。

 利益というのは、思想である。利益は、現金と言った実体があるわけではない。
 収入というのは、現金を受け取ることである。現金という実体がある。しかし、売上は、売ったという認識による。強いて言えば、認識を示す証書があるだけである。利益によって企業の経営実績を測るのであるから、つまり、利益は、任意な尺度であり、ある意味で相対的な単位である。
 では利益によって何を測るのか、それが、本来の問題なのである。ところが、現代の会計は、利益を目的化してしまい。利益本来の尺度としての意味を見失ってしまっている。利益をあげることを唯一の目的であるかの如く錯覚し、利益によって何を測ろうとしているのかを忘れているのである。

 利益の最大化が計られる一方で、利益の最小化も測られる。それが現代の自由主義経済である。余剰の利益は認められないのである。一定の利益を超えれば税として社会に還元される。利益は、資本家と金融機関と社会と経営者に還元される。資本主義体制とは、そう言う仕組みなのである。
 利益を最大化しようとする力と利益を最小化しようとする働きの均衡の上に市場は成り立っているのである。この均衡が崩れると市場は荒廃する。



全体と部分


 分析とは、全体を要素や部分に分解し、個々の部分の性質や量を明らかにし、全貌を再構築する行為である。つまり、全体を部分に分解することを前提とする。それが対象を理解することに繋がるのである。大切なのは全体と部分の関係である。どちらか一方だけで成り立っているのではない。全体と部分の相関関係によって成立するのが単位である。
 利益は、取引の総和によって生み出される指標である。利益だけを目的としても得られるものではないのである。利益の背後にある企業全体の社会的働き、機能が重要となるのである。

 経済的価値は、幾つかの制約の上に成り立っている。経済的価値は、制約がなければ価値は成立しない。制約によって経済的価値は成り立っているとも言える。第一に、資源には限界があるのである。経済的価値は、単純な価値ではない。貨幣を絶対的なものとして捉えたら経済は見えてこない。
 全ての土地を所有することは、全ての土地を所有していないのと同じ結果をもたらす。

 経済的資源は、有限なのである。経済的資源には、時間も含まれる。一人の人間に与えられた時間も有限なのである。
 限りある資源をいかに有効に活用し、如何にして、最大限の効用を引き出せるか。それが経済の課題である。
 最大限の効用を引き出すためには、いかに、資源を公正、公平に、効率よく分配するかが鍵となる。分配するための一つの手段が貨幣なのである。

 経済的場、経済的空間は、閉ざされた空間である。即ち、有限な空間である。資源にも、人の一生にも限りがある。活用できる範囲というのは、予め限られているのである。限られていることを知る事が、認識の始まりである。

 経済現象は、閉ざされた空間内部での出来事なのである。

 認識された現象は、限られた空間での出来事だから、相対的現象なのである。つまり、比が基本にある。限られた空間というのは、認識に限界があることを意味する。存在に限界があるわけではない。存在の限界は不可知な領域にある。
 経済的現象は、限られた空間の出来事であるから、相対的な現象である。経済的価値は、相対的価値であり、示される数値も相対的な数値である。絶対的な数値ではない。
 経済的資源は有限であるから、経済の対象となる経済的資源には、最小限と、最大限がある。
 経済的資源には、元来、負の資源というのは存在しない。

 経済的資源には、限界がある。無限ではない。それが前提条件である。しかし、貨幣は、数値的価値である。数字は、無制限に設定できる。即ち、物理的な限界を持たない貨幣、不兌換紙幣のような貨幣は際限がない。規律がなくなれば抑制することが困難になる性格を不兌換紙幣は持っている。

 有限な資源を際限のない貨幣を仲介して分配する。それが資源分配の歪みや偏りを生み出す。

 人間が必要な資源にも、人間が生み出す資源にも限りがある。ところが、それを分配する道具である貨幣には際限がない。

 いくらでも金は作れるのである。しかし、金の使い道には、限りがある。金を分配する手段にも限りがある。必然的に余剰の貨幣価値が生み出される。余剰の貨幣価値が社会に偏りを生み出すのである。一日の食事を手に入れる金すらない貧しい人々がいる一方で、一生使い切れない金を持つ者がいる。住む人のいない家が余っているというのに、住む家がない人々で街が溢れている。
 この様な現象は、貨幣の振る舞いによって引き起こされているのである。つまり、最小と最大がかみ合っていないのである。

 貨幣の役割は、取引の仲介をすることである。貨幣は、物と物とを交換するための手段、道具である。貨幣は、交換価値を表象した指標である。
 貨幣が有効に機能する為には、資源を必要とする人々に万遍なく、資源を手に入れるために必要な貨幣が手渡されていなければならない。
 そして、貨幣は、使用されることによって効能を発揮する。貨幣価値は、取引によって生じる価値なのである。
 貨幣が効用を発揮するためには、貨幣が社会全体に行き渡り、循環し続けていることが前提となる。
 この様な、貨幣は、偏りや停滞を一番嫌うのである。

 有り余った金は、資源の価格を高騰させ、経済に偏りや停滞を引き起こす。それがインフレーションである。

 市場に流通する貨幣の量が変化しても、その時点に市場に流通している資源の量が、直接、変化するわけではない。ただ、価格が変化するのである。そして、価格が変化することによって資源の配分に変化が起こり、やがては、生産や消費の量を変化させるのである。

 貨幣価値は、取引によって生じる価値である。取引を成り立たせているのは、第一に、買い手と売り手の存在、第二に、資源の存在、第三に貨幣である。そして、これらに時間と場所の差が関わることによって貨幣価値は生じる。

経済には限界がある。


 市場取引には限界点がある。買い手の限界、売り手の限界がある。必要とする資源には限りがあり、資源にも限界がある。
 満腹してしまえば、食欲が減退し、食料を必要としなくなる。生産にも限界がある。獲りすぎれば獲物はいなくなる。お金だけが際限なく作り出される。
 それが経済の周期を生み出す。
 取引に限界があるのに、際限なく貨幣は市場に供給され続ける。貨幣の供給を制御する仕組みがないからである。
 物が売れなくなるのは、人々が物を必要としなくなったからである。お金がないからではない。しかも、限界点は前触れもなく訪れ、その直前まで需要は旺盛なのである。人々が、物を必要としなくなっても、物の生産は続けられ、貨幣は供給され続ける。その為に、物の価格は下落する。物の価値と貨幣の価値のいずれか、或いは、双方が下落するからである。それがデフレーションである。

 景気が良いといっても、持続する保証はない。次の瞬間に、突然、物が売れなくなると言う現象が度々起こるのである。
 最も需要が高まったところが、限界点なのである。俗に言う天井である。天井をつくと、多くの商品は、急速に需要が減退する。

 あれ程、お腹が空いたと騒いでいたのに、満腹になった途端、何も食べなくなる。それが経済である。それでも食べさせようとするのが以上なのである。

 大量生産、大量消費というのは、常に、余剰の資源を抱えている。それが深刻に事態を引き起こしているのである。

 住む家は、一つあればいい。二つ、三つを必要としていない。それを必要としているのは、消費者ではなく。売り手なのである。なぜならば、売らなければ資金が廻らなくなるからである。

 住む家が行き渡れば、急速に、家の需要は減退する。それなのに、需要があるかの如く見えるのは、需要を必要としている者が需要があるかの如く見せ掛けているからである。

 余剰な貨幣は、その捌け口を求めて、仮想的取引を生み出す性格がある。なぜならば、現代の資産は、正と負の資産からなるからである。正の資産が減退しても負の資産は、増殖し続ける。負の資産の増殖を抑制しない限り、正の資産と負の資産との間に生じた差を実物市場だけでは補えなくなる。その為に、貨幣市場によって仮想の取引を作り出して、実物市場に不足する部分を補おうとする。

 金融商品は、その最たる例である。金融そのものには正の実体はない。金融を商品化することによって負の資産を正の資産に置き換えるのである。しかし、金融商品そのものに実体があるわけではない。あるのは権利という信用だけである。金融市場は、本来、実物市場を補完する市場である。余剰の資金を資金が不足する主体に循環するのが役割である。金融市場が歪み以上に膨張すれば、実物市場に流れる資金が停滞する結果を招く。実物市場に金が流れなくなれば金融市場は破綻する宿命にあるのである。

 戦争や災害によって現代の経済は、活性化する。それは、復興需要が発生するからである。だからといって、戦争や災害を望むのはおかしな話である。戦争や災害が必要だとする仕組みは、どこか狂っている。

 食べた物を吐き出させても、作った物を食べさせようとするような経済は、異常な経済なのである。人間の生理的な部分まで否定するのは、人間性が欠如している証に過ぎない。

 明らかに限界を超えているのである。自らの限界を知らぬ者は、破滅するしかない。腹も身の内である。いくら美味しいからと言って偏った食事ばかりを摂っていたら体を壊すのは目に見えている。食べ過ぎは、不健全の極みである。現代の社会は、当に餓鬼道である。それを進化というのならば、進化は堕落以外の何ものでもない。

 野生の動物は、必要な物を必要なだけ獲る。不必要に狩りをするのは、残忍な行為である。野生の鷹は、食べ過ぎると絶食すると聞いた。ただ必要もなく、自分達の趣向だけで不必要な食事をするのは人間だけである。それは人間の業と言ってもいい。

 貨幣は、経済単位を表す指標である。経済空間は閉ざされた有限な空間である。即ち、貨幣は、比率を示しているのである。比は、差を生み出す。それが経済的位置である。差が拡大すると比に偏りが生じる。偏りが拡大すると貨幣は経済単位としての効力を減退し、やがては効力を失ってしまう。

 差がなければ、経済効率を最大限に引き出すことはできない。しかし、格差を最小限に留めないと経済の効能を消失してしまう。この最小と最大をどの様に設定するかが、政治の役割なのである。

 貨幣単位というのは、きわめて特異な単位である。
 貨幣単位は、量によって定められた単位ではなく。操作によって定まる単位である。故に、単位は、量的なものではなく、操作的なものであり、量によって規定された単位ではなく、操作を規定することによって成立する単位である。

 この様な貨幣単位は、一定の値を持たず、個々の取引という行為を通じて定まる相対的単位である。

 不兌換紙幣を基盤とした貨幣制度における貨幣単位は、取引、即ち、交換という操作によって定まる値である。貨幣単位自体が何等かの物理的実体を持っているわけではない。貨幣単位は、何等かの量に基づく対象によっているわけでもない。

 今日の貨幣単位は、操作によって定まる単位であるから、基準となる物質的対象や実体を持たず、市場取引を根拠とした単位である。

 操作的単位である貨幣単位は、構造的な単位である。
 今日の貨幣制度では、複数の単位貨幣が並立している。ここの貨幣単位は、各々独立した貨幣制度を基盤として成り立っている。故に、貨幣単位の数と同じだけの貨幣制度が存在する。つまり、貨幣単位と貨幣制度とは、一対一の関係にある。貨幣制度は、独立した貨幣空間を形成する。
 貨幣単位は、単位貨幣間の取引、及び、財との取引を通じて操作的に定まる。この場合の操作とは、交換と手続によって構成されている。故に、貨幣単位は、貨幣と貨幣、貨幣と財との交換によって設定される構造的単位である。

 例えば、ドルや円、元は、独自の貨幣単位を持つ。ドルや円、元は、独立した貨幣制度によって固有の通貨圏を形成している。単位貨幣の価値は、ドルと円、円と元、元とドルの取引によって定まる。通貨間の取引は、国内の経済状態、及び、海外との交易、外貨準備高等によって定まる。つまり、ドルや円、元は、市場取引によって定まる経済的単位である。

 金本位制度下の貨幣は、金という実体に貨幣価値は、結び付けられていた。しかし、その場合、金が持つ財としての価値、即ち、貨幣価値以外の要素によって貨幣価値が振り回されることになる。また、市場の急速な拡大や市場環境の急激な変化に通貨の供給量を制御できなくなる場合が生じる。本来、貨幣価値は、その働きから見て市場の規模に連動する値でなければならない。

 つまり、貨幣価値というのは、量ではなく、比に基づく単位なのである。

 故に、取引が成立する前提条件、市場空間の規模、通貨の量に併せて貨幣単位という尺度は、伸び縮みするのである。

 即ち、貨幣単位とは、操作的、相対的、構造的な単位である。


最大多数の最大幸福


 国民国家が確立されるに随って最大多数の最大幸福を実現するのが近代経済の目的となった。
 数の論理、多数決の原理などの根底に、この最大多数の最大幸福の実現の思想がある。
 しかし、そこで言う最大とは、何を基準とし、又、幸福とは何を意味するのかが、判然としない。そこに危うさがある。

 経済では、最大値や最小値ではなく、最適を求めるべきなのである。そして、最適値の中に、最大値や最小値が含まれる場合があるのである。

 純粋数学では、最大値と最小値を問題とするが、経済数学で重要とされるのは最適値である。
 例えば、利益で言えば、最適利益が問題なのであり、利益の極大値や極小値が問題なのではない。

 何でもかんでも安ければ善いというのはおかしい。市場原理主義者の中には、利益や費用の極小値を善とする風潮がある。又、逆に、利益の極大値を求めるのも利益の持つ意義からして無意味である。問題は、利益の持つ働きから適正値を求めるべきなのである。価格と費用の適正値を算出することである。その為の手段として取引があり、市場があるのである。

 また効率性を例にすると、多くの人は、効率性の基準を正確に理解していない様に見える。理解していないと言うよりも明確に定義していないとも言える。

 効率性や生産性を明確に定義しないで、やたらと数値を振り回す者がいる。そして、数値を振り回すことで、自分は数学的だと見せ掛けている。しかし、それは見せかけである。本当に数値で重要なのは、前提条件であり、言葉の定義なのである。効率性を問題とするならば、先ず、何に対してどの様なことを効率的というのかを事前に明らかに捨て置く必要がある。それが演繹的態度である。効率性とは、合目的的な概念である。故に、効率性は目的に応じて要件定義されるべき概念なのである。

 経済性とか、生産性とか、効率とか言うが、何を以て経済性や生産性、効率を測るのかが明らかにされていない。つまり、経済性を計るための目的すら曖昧なのである。要するに最初に結論ありきで、数字を自分の説を通すために都合よく利用している場合が多い。そこで振り回される数字は、虚仮威しの数字である。本来の根拠の地盤が軟弱なのである。

 生産性や効率性を計る指標には、最大の利益、最大の売上、最大の占有率、最大の生産、最大の成長、最大の雇用など多種多様なものがある。その中で何の指標に重きを置くのか。或いは、どの様な指標を組み合わせるのか。それによって効率性や生産性の意味や値は、随分と違ってくる。

 効率性を定義するにあたって重要なのは、効率性の基準を最大値に置くのか、最小値に置くのか、最適値に置くのかである。
 結果が出てから、効率性の基準を最大値に置いたり、最小値に置いたり、最適値に置いたのでは、最初から意味がない。強引な人は、あたかも、効率性の基準は最初から決まって多寡の如く振る舞う。そして、数値を使用していることを以て科学的と自称する。しかし、その様な態度は非科学的な態度の最たるものである。
 多くの場合、効率性の基準を暗黙に最大値や最小値に置いている。

 不況に陥ると企業は効率性を追求して人員を削減する。それは、費用の最小値を追求した結果である。つまり、その場合の効率性は、費用の最小値の追求を意味する。次ぎに好景気になると生産力の増強を計る。その場合の効率性とは、生産の最大値の追求を意味する。
 経営者は投資家に対して経営の効率化を約束する。その場合の効率性は、利益の最大化を意味する。
 この様に、効率というのは、何等かの値の最大化か、或いは最小化を意味している場合が多い。しかし、費用、生産、利益のいずれかを最大化しようとすれば、他の要素が規制になることが多い。つまり、効率化というのは、自明な基準ではないのである。各々が自分の都合で使い分けているのに過ぎない。

 本来、効率性というのは、最適値を意味する値であるべきなのである。最適値というのは複数の要素が複合されることによって得られる値である。だから、効率性は、関数なのである。そして、それが経済なのである。
 特に、重要な要素は、分配である。多くの企業経営者や為政者は分配の効率性を言わない。分配の最適値は、市場に委せておけば自然に定まると最初から決め付けているのである。だから、経営者や為政者は、生産に必要な数学を重視しても、分配に必要な数学を確立しようとしないのである。



回転と波動



 回転運動は、基本的運動の一形態である。回転運動は、波動道の元でもある。
 回転運動は、三角関数によって表現することができる。

 数学というのは、測ったり、数えたりというところから発展してきた技術だとも言える。そこ点を敷衍して考えれば、推測や、推定、予測という役割も数学の重要な働きの一つといえると思う。

 そのようにものを推し量るという観点からすると三角形というのは重要な意味を持つ。
 三角というのは、本来、物差し(メジャー)では測れない対象を測るために有効な道具と言える。
 例えば、高い木の高さとか、遠い山の高さ、川幅、遠くの船までの距離と言った直接、物差しでは測れない距離を測定するのに三角形を使うと測れる。

 故に、三角というのは、対象の位置や運動を考察する上での基本的図形の一つである。

 三角形というのは、三つの点と三つの辺からなる。三つの辺とは、三つ距離を意味する。
 距離は、何も、物理的距離だけを指す訳ではない。時間的距離でも良いし、価格的距離でも良い。ここに経済的な意味で言う三角形が生じる。

 角度と二辺の長さ、それは距離と方向を表している。それが三角を基本とした関係を形成する。

 物理的空間だけでなく、観念的空間でも三角形は有効である。その好例がクラスターである。クラスターで重要なのは、ポイントと観念的な意味の距離である。

 座標軸を基礎とすると水平方向の距離と垂直方向の角度が重要になる。

 経済で三角形を活用した分析の一つに損益分岐点分析がある。

 損益分岐点からは、垂直方向の働きと水平方向の働き、そして角度が損益に重要な意味を持つことが解る。

 三角関数は、三角形の関係,三角関係を基礎としている。
 三角関係とは、対象を観察し、又、測定する上での基本的な位置関係を構成する。即ち、二点の距離を測定する場合、視点を対象の外に置いて測定することを意味する。そのとき、重要な役割を果たしているのが価値の相似である。

 相似という概念は、複数の対象において幾つかの条件が一致すれば、それらの対象は,同型だとする概念である。これは、基本的に図形に対する概念であるが、図形以外の問題,方程式などにも応用することができる。

 三角関数は、三角形の角度と二辺の比からなる。

 又、三角は、円と関係する。三角形と円との関係によって三角関数は、波動と結びつけることが可能となる。

 回転運動は波動に変換できる。そして、回転運動を波動に変換する過程で三角は威力を発揮する。

 座標平面上、円運動は、三角関数によって表現される。
 円運動は、波動を表現している。波動は、現象の基本的運動の一つである。経済現象の幾つかに、波があることはよく知られている。
 しかし、その波の実体や波を起こす仕組みや働きについてはまだ解明されていない事象が多い。

 良い例が、経営である。経営は、回転を基本として考えられる。例えば回転率というのは、総資本回転率とか、在庫回転率というように資源や資金の回転を一つの基準として経営の状態を分析する。

 貨幣経済は循環運動を基本としている。

 三角関数は、回転運動をも解析している。故に、経済現象を分析する手段として三角関数は有効である。

 経済現象を分析する上でフーリエ変換は、有効である。ただ、フーリエ変換をどの様に経済現象に適合させていくかはこれからの課題である。



回転運動における最大値、最小値



 今の経済は、競争、競争と言うばかりで制御を考えていない。
 競争も制御手段の一つである。

 利益は、経営主体の営業活動と経営主体が置かれている市場環境によってもたらされる。経営努力と市場環境が両立することによって利益は出るのである。どちらか一方がかけても利益は計上されない。経営努力だけでは、利益が計上できない場合もあるのである。

 景気には波がある事がよく知られている。しかし、その波が何に起因し、どのような周期、法則によるのかという事が解明されていない。その事が、景気を制御する事を難しくしている。先を見通し、予測をしたり、展望をたてる事が難しいからである。
 景気の波が何によっひきおこされ、どのような動きをするのか。それを解明する事が計器を制御するためには、不可欠な事なのである。そのためには、景気の変動を引き起こす経済の仕組みや構造を解き明かす事が不可欠な要件となる。
 経済事象の根本原理は、回転運動である。それは、通貨が循環によって効用を発揮している事に起因する。お金は、市場を循環する事で効用を発揮するのである。現金は、一方通行の流れによって機能するのではない。市場を循環するのである。
 循環というのならば、循環経路が重要になる。一度、供給された貨幣は、また、元のところへ戻る。それが循環運動の原則なのである。だから、資金は、回収される事を前提として成り立っているのである。

 現在の経済の仕組みは、通貨の流通によって分配と交換を促し、それによって生産財を分配している。

 市場を制御する為には、お金がどこに流れ、どのような働き、作用をしているかを知る必要がある。
 言い換えるとお金が流れる事によって何が、どのように動くかを明らかにする事である。

 例えば、経営主体では、負債、資本、収益のいずれかの形態で調達された資金は、いったん、金融資産に蓄えられた後、現金の流れに沿って資産、費用に振り分けられる。

 お金が流通に従ってそれぞれの局面において主体を設定し、各々の働きを果たす事によって経済の仕組みは成り立っている。
 個々の主体はそれぞれが果たす役割や局面によって形態に違いが生じる。消費の局面の主体は、家計であり、生産の局面の主体は、企業であり、公的局面の主体は、財政であり、分配の局面の主体は個人である。

 経常収支が赤字になった場合、経常収支だけを見るのではなく、経常収支が赤字になった結果、どこの部分の主体が黒字化したか、また、どの国が黒字化したか同時に明らかにしなければ、経常収支が赤字になった事による働きや影響を解明する事はできない。

 重大な事は、個々の局面の主体が一つの通貨を媒体とした情報系の上に位置づけられている事である。

 共産主義や官僚主義が機能しなくなるのは、フィートバック機能が働かないからである。また、労働と生産、所得とが関連づけられていない事にもよる。つまり、双方向に働く一体の情報系をなしていないのである。

 規制緩和が流行で、何でもかんでも規制を緩和すればいいと思い込んでいる風潮がある。

 どこの規制を緩和し、どこの規制を強化するかが重要なのである。緩めるといったら、全ての規制を緩め、締めるといったら全ての規制を締めるというのは、馬鹿の一つ覚えである。況んや、規制を緩和するという事を規制をなくす事だと思い込んでいる者は、言語道断である。それは、法治主義を否定する事を意味している。
 規制を緩和したり、産業を再編成する際、その成否は、雇用をどこで確保するかを配慮する事が鍵を握っている。

 貨幣制度は循環系を構成しなければならない。貨幣経済は、循環系の上に成り立つ数学である。

 このことは、政府が紙幣を発行して一方的に市場に供給するだけでは、貨幣は効用を発揮しないという事を意味している。発行されて通貨は、回収されなければならないのである。つまり、貨幣の流れは循環を前提としており、そのために、景気は、回転運動を前提としているという事である。

 もう一つ、市場経済で重要なのは、連鎖である。市場経済は、循環運動と連鎖反応によって成り立っている。

 お金の働きは資金が回転する事で発揮される。お金を回すためには、借金と費用が必要なのである。この点を見落としてただ、借金やお金を使う事を罪悪視したら、景気はよくならないのである。
 公共事業は、見返りを求めるべきではないという考えが支配的である。しかし、これは間違いである。お金というのは、基本的に双方向の働きをしている。見返りを期待するからこそ、お金は循環するのである。反対給付がなければ、お金も物も流れなくなるのである。
 だからこそ今までの歴史では、公から民へと財が流出するばかりなのである。そして、結局財政破綻して政権が崩壊する結果を招いてきた。
 公共事業は見返りを求めてはならないという誤った認識があるから公から民に一方的な資金の流出が止まらないのである。
 今日の経済は、見返りがあって、また、見返りによって成り立っている。見返りを求める事そのものを否定したら経済は、成り立たない。なぜならば、経済は、双方向の働きによって成り立っており、一方向の働きによって成り立っているわけではないからである。それを裏付けているのが貨幣の循環運動である。流れはどこかで繋がっていなければならない。
 問題なのは、見返りの量が適正であるかどうかである。過大でも、過小でも経済は機能しなくなる。
 
 企業会計と公会計の決定的な違いは、企業は、利益を目的とした会計であるのに対して、公会計は、利益を前提とした会計ではないという点である。ある意味で、公会計は、利益を度外視した会計である。
 利益を度外視しているから、損益計算ができない。損益計算ができないという事は、費用を分析できない事を意味する。
 意味もなく利益を罪悪視した結果、費用対効果の測定ができないのである。利益の持つ意義を正しく理解していないからである。

 会計の仕組みは、企業経営の行動規範の土台となる。ある意味で、経済倫理、モラルの本となるのである。利益を否定することは、利益に基づく倫理観を否定することにもなる。それでは、期間損益による行動規範が根付かない。
 民間経営者が企業の経営を破綻させた場合、経営者の人格や道徳まで問われ個人財産を没収されるのに、公共事業が破綻しても経営者は責任を問われるどころか、同情されたり、高額の退職金、慰労金まで払われたりする。この差は、経営に対する価値観の差に起因するのである。

 経済が硬直的になり、円滑に機能しなくなるのは、個人の働きと所得、すなわち、報酬が乖離するからである。
 その点でいえば、階級制度も共産主義も同じである。どちらも個人の働きや能力とは関係ないところで、所得や報酬が定められている。そのために、労働意欲が失われたのである。
 経済は認識である。人は、自分の働きが評価される事で、自分を認識する。自分が認識できなければ、自分の存在意義が見いだせないのである。
 経済は、常に、双方向の働きを前提として成り立っている。だから、複式簿記が成立し、期間損益主義が形成されたのである。単式簿記や現金主義は、一方向の流れしか表現できなかったのである。

 この世にある物は、全て借り物だという思想がある。この肉体ですら、神から借りた物であり、最後には、神に返さなければならない。最終的に人間が所有できる物は何もないというのである。現代社会の根底には、この様な思想が隠されているように思われる。
 典型的なのは、共産主義や社会主義である。だいたい、共産主義や社会主義は、基本的には、所有権を認めない。資本主義も例外ではない。、この考え方が基盤になっているとも考えられる。その意味では、共産主義も社会主義も資本主義も同根の思想だといえる。
 個人が所有できる物は何もない。個人は、あくまでも、国家から、消費するまで、物を借りている。だから、最終的には、消費するか、国家に返却をする。
 生産手段の中で設備は、最終的には、費用に還元されて償却される。償却されない生産手段、代表的なのは、土地であるが、それも、相続の時点で税金として段階的に回収する。つまり、所有というのは、あくまでも建前に過ぎないのである。
 一時的に物を借りる権利を得るために使用するのが貨幣だという考え方である。そこに借金の役割がある。そして、貨幣の根源は、借用証書や預かり証なのである。
 最終的に人間は何物も所有できない。この世の全ての物は、借り物に過ぎないというのは、思想である。しかし、それが、制度として定着するとそれは社会を形成する上での大前提となって人々の意識からは消え去っていく。

 注意なければならないのは、経済も、数学も、貨幣も認識の上に成り立っているという事である。経済の問題は認識の問題なのである。

 期間損益主義は、貸借と損益から構成される。貸借は、貨幣の長期的な働きによって形成され、損益は、貨幣の短期的な働きを表している。
 見方を変えると貸借は、資金の調達と運用、すなわち、市場に対する資金の供給量を示し、損益は、資金の効用、すなわち、流通量を表しているといえる。
 市場全体における貸借の総量は、資金の供給量を表し、損益は、単位期間あたりの資金の流通量を表す。
 貸借は基礎数であり、損益は、資金の回転数を表す。回転数は、回転期間に置き換える事が可能である。
 費用は、実績を表し、収益は原資を意味する。費用と収益の関係は、費用は過去の実体を表し、収益は、将来の状態を示している。費用より、収益が大きい、すなわち、利益が計上されている時は、経済は拡大しているが、費用より収益が小さい時は、経済は縮小していると考えられる。

 つまり、貸借(総資産、総資本)の増減は、貨幣の流れる方向を表し、損益の増減は、市場の伸縮を表している。

 貸し借りは、社会全体では、ゼロサムとなる。需要なのは、赤字にするか、黒字にするかではなく。どの経済主体を赤字にし、どの経済主体を黒字にして、社会全体の均衡を保つかにある。そのためには、いかにして累積債務を解消するかが、課題なのである。

 収益や資産は良くて、負債や費用は悪いと短絡的に片付けたら、経済全体の均衡は保てなくなる。重要なのは、収益、資産、負債、費用の働きである。
 貸しは、借り。借りは貸し。収益は、費用。費用は収益。資産は負債。負債は資産なのである。取引の過程で生じる時間差が、利益や資本の本なのである。

 資金の流れを決めるのは、資産の水準と負債の水準の見合いである。資金の流れる方向を加減するためには、資産価値の水準と累積債務をどのようにして調整するのかにかかっている。累積債務は利益によって調節される。利益が上がれば、累積債務は減少し、利益が上がらなければ、累積債務は上昇する。利益は、費用の拡大と収益との見合いで決まる。
 債務と費用は、必要だから存在するのである。債務と費用を無駄だと決めつけてひたすらに削減する事ばかりを考えたら、お金が回らなくなるのである。
 資金循環で重要なのは、流量と回転数、方向である。

 景気が悪化して、個々の企業の収益力が落ちた時に、収益の悪化を理由にして金融機関が金融機関から見ての長期貸付金、借り手側から見れば長期借入金を回収しようとすると最悪の事態を引き起こす。
 まず収益力の向上を計り、その上で、資産水準をどの程度に落ち着かせるかを考えるべきなのである。

 本来は、全ては皆違うという事を前提としている。ところが、数というのは、その違いを削ぎ落とす事によって成り立っている。個々の要素が持つ、違いを削ぎ落とすと数だけが残る。数値とはそういう物なのである。そして、数は、認識上の必要性から成立した。その数を素として貨幣は成り立っている。この点を忘れてはならない。

 産業や個人を同じ物として一律に規制するのは、重大な過ちである。この世にある物は、基本的に違うのである。違う物から共通の要素を抽出し、それを象徴させる事によって言葉や文字、数というのは成り立っている。ただ、根本は違うのである。同じ人間はいない。同じ人間はいない事を前提にして、人間とは何かを識別しているのである。

 規制というのは、一律にかけるものではない。規制を緩和して、競争を促した方がいい、産業もあれば、競争を抑制すべき産業もある。
 何でもかんでも、競争をさせればいいというわけではない。
 成熟した産業や償却資産が大きい産業を、無理矢理、競争させれば、雇用が喪失され、尚且つ、市場の寡占、独占が促進されてしまう。
 だいたい過激にな競争主義者の意見を聞いていると、規制緩和というが、実際は、規制は悪だとしているようにすら聞こえる。

 経済は、循環的な運動である。故に、経済の運動を分析する際、三角関数が重要な役割を果たすのである。




極小、極大は無限に繋がる


 極大極小という発想は、無限という思想に結びつく。無限に拡大していく宇宙と無限に収束していく空間。極大は、無限への拡大へと繋がり、極小は、無限への収束を暗示している。
 しかし、現実に我々が接している世界は有限である。経済が扱う対象は有限な物である。有限だから、経済の対象となりうるのである。
 そして、数と量も有限であるから意味を持ってくるのである。

 科学が無限を追究するならば、技術は限界を追求する。では何の限界を追求するのかである。

 我々が一般に経済データで目にするのは、意味もなく、脈絡もなく、不規則な数の塊である。
 だから平均したり、ばらつきを見たり、面積を測ったり、バラバラに分解したりする。それが確率や統計になったり、微分積分の発想の基となる。

 経済で重要なのは、貨幣が流れる量や方向と、景気の動向とか、また、単位あたりの働き等である。また、商品の売り上げも無数の商品を集計した物になる。このようなことは、微分や積分に適していることになる。
 ある意味で経済は、流体力学的な現象である。

 数の塊には、形がある。例えば、固定費は長方形に近い形になるし、変動費は三角形や台形に近い形になる。その形が経済では重要な意味を持つのである。

 多くの人は、物価を平均値でとらえる。例えば物価上昇率が好例である。
 しかし、物価は、一律に上昇するわけでもなく、下がるわけではない。物価を構成する商品は、全てが同一の動きをするわけではない。また、地域的にも違う。物価は、その地域地域固有の条件や地理的特性、生活様式、生活水準によって違うのである。

 物価が作り出す形が景気に影響を及ぼすのである。

 所得も一律ではない。数の塊である。その数の塊をどう分析し、再統合するのか。その手段の一つに微分と積分がある。

 線形というのは、変化を直線的に捉える方法である。変化の軌跡を直線に置き換えることで、変化を引き起こしている力や働きを一定の方向と線分に表現することが可能となる。

 経済には、波がある。その波の頂点や谷間をどのように予測するかが、経済政策の鍵を握っている。

 微分は分析、積分は、総合だといえる。
 経済や景気、会計の変化は、数列として現れる。経済や景気、会計の数列を構成する数の構造が重要となる。
 数列の性格は、数列を構成する数の順番と隣接する数字の差によって形作られる。
 数の和は積分となり、差は微分となる。

 景気の転換点の極限値はゼロである。

 肝心なことは、何も解っていないのである。
 結果が出てから、投資をするわけではない。結果は、投資をしてみなければわからないのである。
 買った土地や株が値上がりすることが事前にわかっていれば、儲かることは事前に解っている。しかし、事前には、土地も株も値上がりするかどうかは事前には解っていないのである。
 経済数学に要求されるのは、不明瞭で、不確かな未来を予測する事なのである。

 経済数学は、本来世俗的なものである。真理を探究すると言うよりも、実用を追い求める。人の生活に役に立つことが優先されるのである。
 かつては、実用性のない学問は疎んじられてきた。現代は逆である。学問というのは、本来、無用な物であり、実用を追い求めるのは、邪道だというのである。
 どちらもおかしな話だ。実用ばかりを追い求めていたら、学問としての深みはなくなるであろうし、実用を軽んじたら学問の用をなさないであろう。どちらも大切なのである。
 経済数学は、人々の生活実態に根ざしている。有限の資源の活用が根底にある。だから、本来、世俗的で生々しい数学なのである。科学と言うより、技術を重んじる数学である。実用を軽んじる社会の風潮に相俟って今や風前の灯火である。経済学を学ぶ者の多くが数学の基本すら学ばなくていい時代になりつつある。嘆かわしい事態である。

 経済性という言葉もあるが、現代の経済性からは、節約や倹約という思想が失せている。それは、経済的財の有限性を無視しているからである。現代社会で言う、経済性とは、大量生産、大量消費の代名詞に過ぎない。経済は、限界の上に成り立つ数学なのである。

 ところが現代人は、資源を無限だと錯覚している。それは、経済を学ぶ者が、経済上の数学を理解していないからである。

 効率を追求すればするほど、国も民も貧しくなる場合がある。それは、何を基準にして効率性を追求したかに関わるからである。

 効率性は、生産性ばかりではない。分配の効率、消費の効率もあるのである。生産の効率性ばかりを追求すればいいというわけではない。効率を計らなければならない要素には、生産だけでなく、分配や消費の効率もある。
 例えば、所得である。所得には、費用という局面、報酬という局面、生活費という局面がある。そして、それぞれの要素の働きの方向は、必ずしも一定方向を向いているわけではない。
 所得における費用という側面は、収益と結びついてて生産に関係している。報酬は、労働と結びついて分配と関連づけられる。生活費は、支出と通じて消費に転化される。

 消費の効率化は、生活に関わる問題でもある。消費の効率というのは、物の使い方で決まる。この場合の経済性とは、節約であり、倹約である。
 生産と消費は、需要と供給、収入と支出の問題でもある。要するに、なるべく無駄遣いをしないことなのである。このような効率性は、使い捨てや大量消費、飽食とは正反対の考え方である。
 消費という観点から経済性を考えると、倹約、節約が重要となる。すなわち、消費の効率からみると、いかに、少ない資源を効率よく使用するかという事にある。今流行のエコである。省エネ、省資源、リサイクル、環境問題等が大切になる。
 いい物を長く、品質の問題になる。多少高くても品質のいい物を選ぶようになる。食事でいえば、無添加で、有機栽培で健康に良い物が尊ばれることになる。
 いい物を長く大切に使うという事が、消費の効率を高めることになるからである。そうなると、高品質、高価格でも成り立つことになる。
 単純に安ければいい、早けれぱいいというのではなく、一人一人の好みやセンスが重視されることになる。使い捨ては必ずしも消費の効率を高めることにはならない。
 大量消費は、大量生産の効率を高める事に対する要求による。必ずしも消費の効率を良くする目的ではない。消費の効率を高めるためには、むしろ、多品種少量生産の方が、資源や環境保全という観点から見ると消費の効率を高めることになる。

 景気や収入、企業収益には、波がある。その波のピーク、頂点は、状況判断の上での分岐点となる。極端な話、波の頂点を境にして、それまで是とされてきた事が非とされ、非とされてきた事が、是とされる事がある。故に、その波の頂点をいかに予測し、見極めるかが、家計や財政、企業経営をしていく上での要諦となる。それが意思決定をしていく上での最重要課題となる。

 好例が、株価の動きである。株価の天井と見るか、底と見るかによって判断は、真逆になる。株価の動きを見極める事ができないで、相場に手を出せば、大損をすることになる。

 波の頂点は、数学的には、極大値、極小値として表現することが可能である。
 波の頂点を見極めるためには、極大値、極小値を生み出す仕組みを明らかにする必要がある。

 収入と収益は、違う。収入というのは、現金の受け入れをいう。支出は、現金の支払いをいう。それに対して、収益というのは、何らかの財を提供することに対する対価を指していう。そして、一定期間における経済活動を、収益を基にして評価する思想を期間損益主義というのである。
 企業経営は、損益主義を基にしてなされる。なぜ、期間損益主義に基づくのかというと、基礎となる資金の源、すなわち、負債と資本と経営活動の基となる資金、すなわち、期間収益を区分し、負債と資本水準と期間の収益の基となる費用の効用を収益を土台にして測るためである。その指標が利益である。
 利益が上がっている場合は、収益と費用の効果が均衡していることを意味し、損失が出ている時は、収益と費用の均衡が崩れていることを意味する。収益と費用の均衡が崩れると負債と資本の合計、すなわち、総資本が増大することになる。
 利益は、指標である。利益が上がらず、損失が出るのは良くないが、過剰に利益を上げるのもいいことではない。重要なのは、均衡なのである。

 過剰な利益を計上したからといって次期の収益の直接的に貢献するわけではない。利益の余剰の部分は、主として利益処分、すなわち、配当、役員報酬、そして税金に向けられるからである。長期借入金の元本の返済に向けられるのは微々たるものであり、尚且つ、正式には財務諸表には、計上されないのである。そして、役員報酬も配当も税金も資金が外部に流出することを意味する。
 また、資産や費用の削減には結びつかない。故に、利益をいくら計上しても、負債と資本の比率に影響を与えても、次期の増益には結びつかないのである。
 利益は、あくまでも指標なのであり、目的ではない。空前の利益を上げたからといって次期の保証はないのであり、逆に、過剰な利益は、次期の利益を下げる圧力となりかねないのである。

 財政や家計の問題点は、利益を否定的にとらえていることである。それ故に、公共機関や家計と市場とは、制度的に断絶が生じるのである。

 期間損益主義において基礎となるのは、収益である。
 この点を錯覚してはならない。負債と資本は、基底となる部分だという事である。
 期間損益を見る上でのキーワードは、償却と再投資、負債、資本である。
 負債、資本、収益によって調達された現金は、一旦、金融資産に蓄えられ、そこから支払いに向けられる。資金の支払いによって資産と費用が形成される。
 負債や資本というのは、債務を形成し、資産は、債権を形成する。
 債権は、債務の裏付けとなる物である。資金の長期的働きを示している。注意しなければならないのは、債権と債務は非対称な動きをするという事である。そして、債権と債務のバランスによって資金の流れる方向が決まるという事である。
 企業経営で基礎となるのは、あくまでも収益である。
 資産は、金融資産、償却資産、非償却資産からなる。
 多くの人は、負債と借金とを混同し、借金は、返さなければならないという先入観に囚われている。しかし、期間損益では、負債は必ずしも返済を前提としているとは限らない。その証拠に、金融機関の収益は金利を基としているのであり、元本を基としているわけではない。また、企業の側では、費用は金利を指すのであり、元本の返済は、費用として計上されない。この点が。現金主義との決定的な差である。
 この事は、期間損益上、負債は、必ずしも返済を前提としているわけではないことを意味する。それは、資本の有り様に現れている。資本は負債と同じ債務の一種である。しかし、資本は、返済を前提としていない。配当と金利の働きの本質は、同じである。金利も配当も時間価値を形成する因子である。
 時間価値は、通貨の流通量を制御する。金利や配当の効用は時間価値にあるのである。
 ただ、配当は利益を基礎としているのに対して、金利は、元本を基礎としているのである。元が入り口にあるか、出口にあるかの差である。極論とすると負債も資本も返済する義務はがあるが、返済しなければならない資金ではないという事である。元手なのである。
 金融機関にしてみると借金を返された金利の元を失うことになる。要は、借金の水準を一定に保ちながら、費用に見合った収益を上げ続けているのが最適なのである。
 重要なことは、負債や資本の名目的価値を一定の水準に保つことである。そのために、利益を上げる必要があるのである。利益が失われると負債が増加する。そのように、企業損益のみならず財政も、家計も、期間損益は設定すべきである。
 ある意味で期間損益、その基となる会計や簿記の仕組みは、負債や資本の水準を一定に保つための仕組みだともいえる。借金は、単純になくせばいいというものではないのである。借金も資本も元手という働きがあるのである。借金は返済しなければならないというのは、現金主義に基づく思想である。資本主義社会では、財政も家計も企業も期間損益主義に基づくべきであり、問題となるのは、負債が制御できなくなり、累増してしまうような仕組み(構造)なのである。
 償却資産は、費用として計上されるのは償却資産は、再投資を前提としているからである。償却費を設定するのは、費用対効果を釣り合わせるためである。
 非償却資産の返済原資は、利益を上げることによって蓄積するか、資産価値の上昇によって補うことになる。
 問題は、費用に見合った収益を国も企業も家計も上げられるかなのである。その構造に変化があった時、収益が上げられるような方策をとるべきなのに資金の回収を急げば、経済構造は土台から崩壊してしまうのである。

 適正な収益は、適正な費用を元とする必要がある。収益は、一方で価格の集合である。つまり、適正な収益とは、適正な価格を維持することを意味する。
 適正な収益を維持することの意義は、適正な費用を確保することになる。費用は、最終的には、個人所得に還元される。個人所得は、消費の源泉である。価格と所得が均衡した時、市場は、有効に機能するのである。価格の均衡が崩れたり、所得の変更が生じると経済は、暴走するのである。

 価格は、物価を形成する。物価とは、物の価格の平均値である。しかし、価格は、一律に上昇するわけでもなく、下がるわけではない。価格は、個々の商品固有の値である。物価を構成する価格は、全てが同一の動きをするわけではない。また、地域的にも違う。価格は、市場取引によって定まる値である。市場取引は、市場の置かれている前提、すなわち、状況や環境によって違うのである。市場価格は、時々刻々変化し続けている。
 物価を形成するのは、状況や環境だけでなく、価値観や風俗習慣といった市場を構成する文化的要素、社会的下地、基盤によっても違ってくる。物価は、その地域地域固有の条件や地理的特性、生活様式、生活水準、宗教によっても違うのである。

 経済的基盤、社会的基盤が収入に波を起こす。この波を平準化する役割、整流機関が金融機関である。金融機関は、長期的な観点に立って資金の流れを整流する必要がある。

 現金主義の最大の問題点は、投資と費用、そして、負債、資本と収益の区分が判然としていない。それを補完する形で期間損益主義が発達してきたのである。現金主義に則る財政と家計は、未だに、投資と費用、そして、負債、資本と収益の区分が曖昧なままなのである。その結果、資金の長期的働きと短期的働きによる効果の測定が難しく、対処の仕方が明らかにできない。
 負の経済では、負の制御が鍵を握っている。負債の水準をどの程度に保つかが、財政、家計、企業、交易において重要な意味を持つのである。
 そして、負の制御において決定的な働きをするのが時間である。
 問題なのは、投資と費用、そして、負債、資本と収益との間にある境界である。その境界に属しているのが、償却費であり、長期負債元本の返済なのである。
 負の経済では、負債は、貨幣の供給量の目安である。要は、負債を一定の水準に保てるか否かの問題なのである。

 市場は、拡大と収縮を繰り返して貨幣を市場全体に循環させている。
 市場の拡大期には、収益は、上昇し、収益の上昇は、費用に対する上昇圧力となる。市場の収縮は、収益の低下を招き、収益の低下は、費用に対して下方圧力となる。
 市場の拡大や収縮といった運動は、需要と供給を通じて生産と消費と所得に還元される。そして、それが収入や支出によって経済を構成する主体、すなわち、個人、家計、企業、財政にフィードバックされるのである。それによって市場や景気は制御される。

 共産主義や官僚制度は、このフィードバックが機能しないために、生産と消費と所得が結びつけられない為に、一つの仕組みとして機能しないのである。そのために、貨幣制度を制御できない。

 例えば、軍事や警察、消防の費用対効果を測定するのは、難しい。それは、軍事力や警察力というのは、反対給付が期待できないし、その結果、需要と供給の関係が築きにくいからである。その点、まだ教育の費用対効果の測定の方がやりやすい。

 防波堤や治水といった防災に対する投資は、その投資と経済的効果の関係を検証することは困難である。百年に一度といわれる津波や地震の被害を想定することは難しい。しかし、その百年に一度の素以外が起こると壊滅的な被害を被ることになるのである。

 しかし、軍事力や警察力、防災ほど、合理化や機械化によって著しく効果が違う分野はない。
 軍事や警察、防災の費用対効果の測定ができなくて、予算へのフィードバックがされずに、軍事費や警察費、防災費は、抑制がきかなくなり、暴走することが多々あるのである。その結果、軍事費によって国の財政が破綻し、国が滅びるなどという本末転倒の現象が起こるのである。

 故に、軍事や警察、防災は、何を上限とし、何を下限とするのかの明確な国の指針が求められるのである。
 しかし、その数値は、相対的な数値であり、構造的なものでなければ、実体に適合しなくなる。故に、利益の概念が重要となるのである。何をもって利益とするかである。

 景気変動を左右する圧力の核となるのは、個人所得の水準である。
 つまり、個人所得が、国際市場の水準に比べて下回っているか、あるいは、個人所得が、上昇すれば市場は拡大し、個人所得が国際市場の水準に対して上回っているか、あるいは、個人所得が減少すれば市場は縮小するからである。

 市場に働く、上昇圧力と下方圧力によって景気の周期運動、回転運動は形成されていく。
 極限値とは、上昇圧力と下方圧力の均衡した点を示しているのである。




       

このホームページはリンク・フリーです
ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2009.12.20 Keiichirou Koyano