3、物理的経済と数学

3-3 物流に関して

経済の実体は物流にある


 江戸前寿司というのは、江戸前で捕れた、つまり、今で言う東京湾で捕れた魚を使った寿司の事を言う。取り立ての新鮮な魚を使うから美味しいのである。今では近海で捕れた魚は高くて一般庶民にはなかなか食べられない。江戸時代には、遠洋漁業なんてとても考えられなかった。しかし、今日では、近海物より遠洋物の方がずっと格安である。この問題には、物流革命が深く関わっている。

 ただ、物流革命と言うだけではすまされない問題がある。文化の問題である。野菜や魚ならば、食文化の問題である。そして、それは、人間の生き方、つまりは経済の在り方に関わる問題でもある。

 近海物が高くなった理由の一つは、資源の問題がある。漁業技術が発達した結果、近海の魚を取り尽くしてしまったのである。今では、マグロなんて遠く地球の裏側までいかなければ捕れなくなってしまった。

 又、消費者も口が奢ってしまい、高級な食材を買い漁るようになった。そして、飽食の時代とまで言われるようになった。今の庶民の食卓は、かつての王侯貴族と見間違うほどの贅沢さである。

 小泉八雲が日本の若者に白米をご馳走したら、涙を流して喜んだが、お代わりをしなかったという。ここで贅沢を覚えれば、今の生活に我慢できなくなると言うのが理由だったそうだ。
 今日の日本人は、美味しい物を食べるためならば自分の魂まで売りかねない。金のために魂を売るのと変わらない。

 足らざるは貧なり。満ち足りることを知らないことが貧しいのである。あさましい限りである。現代人は、貪欲である。資本主義が欲望の思想だと言われる由縁である。

 欲の本質は物にたいする執着心ある。金に対する良くは、物に対する欲が転じたものである。

 なぜ、地球の裏側でとれたような魚に依存しなければならないのか。遠い国で採れた野菜の方が経済的だと思われているのか。

 放置すれば、日本の農業は成り立たなくなる。日本は、食糧自給率が極端に低いのである。

 物の価値と貨幣価値との関わり方をよくよく考え直さなければならない。ただ、物の価値と貨幣価値を市場取引に任せきって良い物なのかどうなのか。それは文化の問題なのである。

 現代は、飽食の時代と言われ、消費を美徳とする。しかし、これは文化なのである。かつて、日本人は、質実剛健を旨とし、節約、倹約を美徳としていたのである。

 国家にとって必要な事業が成り立たなくなることは、深刻な問題である。しかも、雇用が確保されないとなれば直されである。
 ただ生産性だけが問題なのではない。生産性から見て一見無意味、無駄に思える仕事でもそれが国民にやりがいのある仕事を提供しているとしたら、それは、無意味でも無駄でもない。良い例は、芸術である。芸術とは、ある意味で無駄だからこそ成り立つ仕事なのである。文化は、無駄なところにこそ育つのである。それを必要とするかしないかは、その国の人間の文化の程度に依存するのである。

 閉ざされた社会では均衡のとれた生産が重視される。それが自給自足社会の鉄則である。
 それに対して、開かれた社会では、交通や交易が重視される。
 閉ざされた社会では、その社会の生産力によって社会の規模は、規制されている。それは野生動物のテリトリーと同様である。閉ざされた社会では天候や災害と言った自然の変動に多大な影響を受ける。
 飢饉の影響は、局地的なものが多く。交易や交通の便が発達していれば防げるものが多かったと言われる。
 それに対して、開かれた社会では、交通の便や交易によって社会の許容力は拡大する。変化への対応力も増す。
 同時に、社会の生産力に偏りが生じ、生活に必要な物資を自給自足する事が難しくなる。そして、社会的分業が深まり。他の社会を支配しようとする動機が生じる。それが近代社会の戦争や侵略の動機となる。
 交易や交通の発達は、社会の許容力を高めるが、同時に争いも持ってくるのである。

 経済では、自国で必要な物資をいかに確保するかが、本来、最重要課題なのである。通貨問題も国際市場で自国の通貨がどれ程通用するのかが鍵となる。
 貿易も自国で自国民が必要な物資が全て調達できる国とそうでない国とでは前提が違う。そこに国力の差がある。
 アメリカは、自国にとって必要な物資の多くを自国内で調達できる。そこが日本とは違うのである。その上での貿易収支の赤字である。

 生産地と消費地は一体だった。生産と消費が分離する過程で生産の場と消費の場が分割される。生産の場は、職場として独立し、消費の場は家庭として独立する。同時に分業が深化していく。生産地と消費地の分離、及び、分業は、物流の発達とともに、より広範囲にわたるようになる。それに伴って貨幣経済が発達した。
 生産地と消費地が一体の時は、生産量と保存量の総計によって消費量の上限が制約された。物流の発達は、この制約を緩和したのである。

 企業は、生産主体であると、同時に、中継機関である。それに対して、家計は消費主体である。企業は、財を生産すると同時に、生産主体と消費主体とを中継する機関である。

 企業は、財を生産することによって商品を市場に供給し、又、雇用を創出することによって労働の対価として所得を貨幣という形で消費主体に分配する。
 この企業が機能不全に陥れば、物も金も最終消費者に渡らなくなる。即ち、分配機能が働かなくなるのである。
 企業が物や貨幣の中継機能を果たせなくなっているのが問題なのである。

 何でもかんでも収益を改善するような施策を大企業優先という者達は、革命思想に被れた人間であり、体制を覆す目的だけで施策を批判しているのである。
 収益を改善するための施策は、大企業にのみ恩恵を施すわけではない。

 実際に経済現象を左右するのは物流である。貨幣現象は、その結果に過ぎない。むろん、貨幣的現象によって物流が左右されることはある。しかし、その場合でも、貨幣的現象が問題なのではなく。物の生産や物流に影響が出ることが問題なのである。

 経済の本体は、物量である。貨幣の流れは、経済の影に過ぎない。
 貨幣は、貨幣価値を数値で表した物である。貨幣価値が指し示すところに実体はある。その実体というのは、物や用役である。
 家という言葉は、家という実体を抽象したものである。家という実体は、一軒、一軒違う。だから、家という言葉から思い浮かぶ実体は、人それぞれ違う。その言葉が指し示す家そのものを見れば、その実体を認識する事はできる。
 言葉よりも、図形や写真の方がより実体を正確に伝えることができる。
 数字も同様である。数字で表現するよりも図形やグラフによった方が実体をより正確に伝達することが可能な場合がある。数字、数値だけが全てではない。
 貨幣も数字や言葉と同じ性格がある。貨幣価値は、自然数の集合である。貨幣価値は、経済的実体から価値を抽出した物である。貨幣価値に経済的な実体があるわけではない。貨幣は、経済的指標に過ぎない。
 貨幣というのは、対象から貨幣価値を抽象化した物だと言うことを忘れてはならない。貨幣が全てではなく。貨幣は、貨幣価値を構成する部分であり、どちらかと言えば従属的部分だと言う事である。貨幣は、交換手段であり、使用者と交換する対象に主体がある。貨幣価値の実体は、貨幣を使用する側と貨幣が指し示す側にあるのである。
 経済を成立させている実体は、人であり、物なのである。

 この様な物流は、市場の範囲と規模を画定する。

物流は経済の在り方を左右する。


 戦場カメラマンの澤田教一は、歩いていけるところにアンコールワットがありながら、そこにいけない無限の距離があるのがたまらなかったという。そして、彼はその距離を乗り越えようとして、殺されてしまった。享年、34歳。

 近くて遠い国というのがある。韓国にとって隣国の北朝鮮は、近くて遠い国である。隣国にありながら自由に行き来ができない所、それは、近くて遠いところである。

 時として、世界には目に見えない壁が築かれてしまうことがある。その壁によって人と人との間に目に見えない距離が築かれてしまうことがあるのである。

 距離というのは、何も、物理的な距離のみを言うのではない。測定可能な何等かの隔たりがあればそれを距離という。

 経済的距離には、時間距離というのがある。つまり、移動するのにかかる時間を基準とした距離である。
 又、費用距離というのもある。移動するのにかかる費用を基準として距離である。
 情報距離は、情報が伝達されるのに要する時間を基準とした距離である。

 経済的距離は、経済に重大な影響を与えている。
 新幹線で、東京疫から静岡まで一時間弱で行ける。東京都内でも東京駅から一時間以上かかるところはいくらでもある。この様な場所は、東京都内といえど時間距離の観点では、東京駅を起点としてみると静岡より遠いのである。逆に費用距離で見るとグーンと近くなる。
 この様な差は、経済に決定的な影響を及ぼす。

 この様な経済的距離は、物流に対して決定的な働きをしている。そして、経済的距離によって市場は、測られるのである。

 物流は、経済の在り方を大きく変えてしまう。物流によって経済の在り方が変わると言う事は、経済にとって地理的要因が決定的な働きをしていることの証である。沿海部と内陸部では、経済の状態は大きく違う。
 東西問題と南北問題は経済の性格が地理的要件によって大きく違うことを象徴している。

 恐慌や飢饉の原因は、物不足と物流である。単に、株価の乱高下の次元で終われば、経済的混乱は、収束に向かう。しかし、それが物価に跳ね返り、物の生産や物流に影響を与えるようになると事態は深刻になる。

 なぜ、物流が大切かというと財は生産しただけでは、狭い範囲に働きがかぎられてしまうのである。生産された財は、消費者に供給されることによってその機能を発揮することが可能となる。そして、財を供給するための流れが物流なのである。経済の本流は物の流れにあるといえる。

 お金が流れなくなることが問題なのではない。物や人が流れなくなることが問題なのである。お金が流れなくなることで、物や人が流れなくなることが問題なのである。

 飢饉の時、お金は役に立たないのである。無人島に流されたら、お金は役に立たないのである。経済の実相は、人や物にあるのであってお金にあるわけではない。人や物の流れを生み出すという事においてお金は大切なのである。

 産業革命と言うが、産業革命を支えたのは、物流革命であり、交通革命、通信革命である。物量革命があったからこそ、市場の急速な拡大が成り立ったのである。

 人間にとって死活問題は、飢えと渇きである。食料や水がなければ人間は生きていけないのである。お金だけで人間は生きていけるわけではない。
 経済は、生きる為の活動である。生活である。その意味において、経済の実相は、実生活にある。経済の実体は、人と物の動きにある。

 現在の社会は、一所で生活に必要な物資を全て賄えるわけではない。生きていく為に必要な物を市場から貨幣を使って調達しなければ、生活は成り立たないのである。自給自足の生活を望んでも国家がそれを許してはくれない。所有権を認めると言う事は、全国民に所有権の存在を認めさせることになるのである。そして、権利は義務の裏返しに成立する力であるから、所有権には必然的に義務も生じるのである。

 この所有権の概念が物流には重大な役割を果たしている。

 物が、余ったところから、物が不足しているところに物を流すのが経済本来の働きでなければならない。それは、物が不足しているところに貨幣を先に供給し、物が余っているところに貨幣の流れを向けるようにすればいいことを意味している。
 しかし、金余り現象や富の偏在は、時に逆の働き、操作を促してしまう。物が不足している時や場所から貨幣を回収し、物が余っている時や場所に貨幣を供給してしまう。これでは貨幣は逆流し、或いは、流れなくなる。
 重要なことは、貨幣が本来の機能を果たせなくなった時、貨幣経済は、破綻すると言う事である。
 物の流れが経済の表の流れであり、貨幣の流れは、経済の裏にあって物の流れを促していなければならないのである。

 貨幣制度というのは、物や人の流れを作り出すための媒体、手段、道具として貨幣を用いるのである。

 貨幣の働きの本質は交換である。物と物、物と労働とを交換するために、貨幣がある。

 実物貨幣には、貨幣としての働きと物としての働きがある。それが、時として貨幣の働きを惑わしてきたのである。

 金本位制度下におけるインフレーションの原因は、貨幣価値が下がったことだけが原因なのではなく。金が不足して金の価値が上がったことも一因だと考えられる。


先ず資金を供給し、そして、物流を起こす。


 先ず資金を流す。この点が肝心なのである。資本主義では、先ずお金がなければ何にもできない。何もできない仕組みになっているのである。そして、最初にお金を供給する為に必要な事象は投資と雇用なのである。

 貨幣を先行的に市場に供給することで、潜在的需要を喚起するのである。ただ、市場が充分に貨幣を吸収しきれないと過剰流動性が生じ、インフレーションを誘発することがある。

 貨幣を供給した結果は、所得として現れる。即ち、貨幣を供給する手段は、所得を得る手段なのである。所得を得る手段は、労働が基本である。即ち、雇用である。

 ただ単に人気取りのための福利厚生というだけでなく、物流に及ぼす影響を良く考慮した上で所得の再分配の仕組みを構築するべきなのである。
 物流は、所得から消費へと流れる経路をいい。その所得の在り方と貨幣が流れる経路が物の流れる方向や量に、そして生産に、決定的な影響を及ぼすからである。

 物が不足している時や場所に、雇用が効果的に創出されれば、経済は、円滑に回転するのである。
 ところが、物が不足している時や場所ほど仕事が必要なのに、物が不足している時や場所ほど仕事がないのである。
 逆に物が溢れている所ほど、仕事があり、お金も余っているのである。その為に、放っておくと物不足の所から、資金や仕事を吸収し、物が溢れている所へと仕事やお金を供給するようになる。
 しかし、元々、物が溢れている時や場所は、物市場も資金市場が飽和状態に陥っているのであるから、無理をして物や資金を消化せざるをえない。その様な現象が経済のカジノ化であり、経済がカジノ化するとバブル現象が起こる。それが何かのキッカケで弾けると物もお金も廻らなくなり、最悪の場合、経済を土台から破壊してしまうことになる。経済が土台から破壊されると革命や戦争が準備される。

 経済は、物を生産し、生産された物を分配し、消費することによって成り立っている。故に、物量が滞り、或いは停止すれば忽ち経済は、破綻するのである。その典型が、飢饉である。

 所得の再分配は、単に公正を実現すると言うだけでなく。消費構造の偏りを是正することでもある。所得に偏りがあると物の流れにも偏りが生じ、最悪、物の流れが停滞するからである。しかし、必要以上に所得の再配分をすれば、労働意欲を減退させたり、財政を悪化させるという障害が発生する恐れがある。

 生産の効率と分配の効率と消費の効率は、基準が違う。それは、生産が目指すところと分配が目指すところ、消費が目指すところが違うからである。目指すところが違えば、必然的に基盤も違ってくる。それは、物流にも影響をもたらす。
 生鮮食料が好例である。農産物には、収穫に季節変動がある。又嗜好品であるから、分配は、一律にはできない。その上、消費は生活水準やライフスタイルに左右される。

 生産と消費の間にあって生産と消費との間の歪みを是正するのか労働市場なのである。

 経済の実態的基盤は物の流れである。物の流れを生み出し、且つ、促すのが貨幣の働きである。
 物の流れを交換によって実現する働きが取引であり、その取引を仲介するのが貨幣の働きである。
 貨幣の流れの逆の方向に物は流れる。この点を忘れてはならない。

物の流れの反対方向に貨幣は流れる。


 物流は、反対方向の貨幣の流れによって起こる。物の流れと貨幣の流れは対称的な流れである。

 市場や貨幣制度を基盤とした自由主義経済では、貨幣が流れることによって資源は流れる。

 なぜ、貨幣の流れる量が重要なのかというとそれは、物の流れる量に相当するからである。

 実際に流れている資金の量と表面に計上されている貨幣価値の総量とは一致しているわけではない。
 また、会計上、表面に現れている貨幣価値は、必ずしも物のその時点での価値を現しているわけではない。
 取引が成立した時点での貨幣価値を現しているのである。

 会計上現れる価値は、物の価値を現しているわけではない。会計上物の価値として表記されるのは原価である。会計資料が作成された現在での価値を表しているわけではない。
 しかし、時価価値というのは、常に流動的であり、時価を基礎にすることは、恣意的な判断が混入しやすくすることになる。実現していない価値を実現したかのように振る舞う事は、実際の貨幣の流れ、又は、実際に流れた貨幣の流れから貨幣価値を乖離させることになる。時価価値を採用する場合は、この点を充分に留意する必要がある。
 物の価値は、物そのものにあるのである。

 経済的取引には、内部取引と外部取引がある。
 経済主体の働きは、入力と出力、及び、内部処理によって測られる。入力と出力として現れるのが、外部取引であり、内部処理として現れるのが外部取引である。

 貨幣は、交換手段である。

 貨幣が仲介する取引は外部取引である。内部取引における貨幣の流れは、仮想的な流れである。

 内部取引は、内部に対して対称であり、外部取引は、外部に対して対称である。そして、内部取引と外部取引は常に会計上均衡している。

 外部取引と内部取引は鏡像対称関係にある。
 即ち、外部取引相手の売りは内部取引の買いであり、外部取引相手の買いは内部取引では売上である。外部相手の支払は、内部では受取であり、外部相手の受取は内部で支払である。

 物流で重要なのは、時間的、物理的、費用的距離である。

 物流の運動量は、質量と速度の積によって求められる。質量とは、経済的な意味で言えば、単価×数量である。
 物流の速度は、距離と時間の関数である。
 距離とは経済的距離であり、単位距離あたりの物流費用、或いは、単位時間あたりの物流費用を言う。

 経済的距離とは、物の物理的空間による経済的格差を言う。
 経済的距離による効率は、家を建てるための資財を運搬するための手段と経路で最短なものは何かと言ったことである。
 そこで、問題となるのは、一回に運べる量と速度はと言った要件である。

 そして、それが、経済的環境を形成するための経済的条件の決定的な要件となる。

 物は消費されることによって清算される。即ち、経済的価値は、生産されてから消費されるまでの間に生じる。

 位置と働きと関係が状態を形成する。

 水が高きから低きに流れるの同様、生産拠点は製造費用、特に、人件費が高いところから低いところへ流れる。又、消費者は、価格が高い方から低い方へと流れる。
 反対に、物は、物の価格が低いところから高いところへと流れる。

 物を動かす力を生み出すのは、差である。運動とは変化である。物流を引き起こすのは、物の貨幣的価値、経済的価値の格差、即ち、価格差である。

 価格差は、量的拡大に伴って質的な変化をもたらす。

 所得格差が所得が拡がると商品の品質は、細分化され、貨幣単位の濃度は濃くなる。
 所得格差が小さく限られている場合は、商品は均一な物になりやすい。それに対して、所得格差が広がると商品にも格差が生じる。その商品格差がブランドや銘柄を生み出す本となる。

 一つの均衡した状態から違う次元の均衡した状態へ移行する、又は、移行させる事を遷移という。

 この様な貨幣や物の流れが経済環境を形成していくのである。
 物や貨幣が作り出す経済量は、物的運動量や人的運動量、貨幣的運動量によって構成される。

 物的運動量は、生産量や物流量であり、人的運動量は、労働量であり、貨幣的運動量は、貨幣量である。

国家は、経済単位の一つである。


 政治制度によって一つの法的空間が形成される。政治的空間は、一つの経済的空間でもある。なぜならば、法が政治や経済の制度を制約するからである。そして、政治的、経済的空間は、一つの体系的制度に依って成り立つからである。国家が一つの経済圏を成立させている。
 一つの経済圏を成立させている個人の単位は、国民である。個人は、消費者であると同時に、労働者である。

 経済制度の単位は、国家である。一つの経済圏の範囲は、国境によって画定されている。
 市場は、市場経済を前提としている経済体制を構成する経済の仕組みの部品、要素の一つである。

 個々の市場は、市場を成立させる条件を極力統一化することが前提となる。その為に必要なのは、前提の標準化である。

 スポーツの世界を見れば解る。スポーツが成り立つためには、前提となる条件が同じでなければならない。
 競争は、人と車を競わせてはならない。一人対百人の格闘技は成り立たない。ロボットや戦車と人は戦わせてはない。虎や、ライオンと無防備な人は戦わせてはならない。武装した人間と無防備な人間を戦わせてはならない。この様な行為は、虐殺というのである。
 片一方が人力なのにもう一方が機械を使えば公正な競争など最初から成り立たないのである。ところが経済では、往々にしてその様な行為がまかり通っている。しかも、公正という名の下にである。
 少なくともルールがあることが前提である。ルールをなくせと言うのは、公正云々という以前に野蛮である。文明的ではない。

 大企業は、資金的に有利と言うだけでなく。会計的に有利なのである。
 大企業は、会計的に優遇されているというのではなく。会計的に優位な立場に立てるという事なのである。第一には、償却資産の問題である。会計上、処理の仕方の選択肢が多いと言えるのである。
 大量生産をすれば原価が安くなると言うだけなのである。大量生産をするのは、原価を抑えることが目的であってどれくらい売れるかが前提となっているわけではない。大量に生産をして原価を安くし、後は、売りさばくだけなのである。つまり、会計的要請によって大量生産をしているのである。その結果大量に廉価なものが市場に出回り、それが、市場価格を決定したら、以後、その価格が正当な価格とされてしまう。仮に、採算点以下の量しか売れれなくとも価格だけは残るのである。
 結局、不当な価格での廉売は、採算性を度外視した市場構造に市場を変えてしまう。事情を知らないメディアは、不当な廉売業者のみをもてはやす。その結果に対しては、無責任なのである。要するに安ければいいのである。しかもそれを経済的な論理ではなく。道徳観にすり替えてしまう。

 経済学者は実務が解らないから経済の実体を理解できない。会計が解らない経済学者が景気を語るのは、喜劇を通り越して悲劇的ですらある。
 なぜ、経済学が実業の世界に取り入れられないのか。それは、現代の経済学が実業の世界では役に立つ代物ではないからである。

 市場経済は、生活、即ち、生きていく為に必要な物資は、市場から調達する事で成り立っている。
 市場経済下において国民が必要な物資を市場から調達する手段は、交換である。その交換に必要な媒体が貨幣である。
 この様な、市場経済が成り立つためには、交換手段である貨幣が全ての国民に行き渡っている必要がある。

 交換手段である貨幣は、消費者である個人に所得として分配される。所得は、何等かの価値を持つ対象の代償として支払われる。

 経済の実体は、物や用役にある。貨幣にあるわけではない。生きていく為に、必要なのは、物や用役であってお金ではない。つまり、経済の実体は、物や用役にある。そして、経済の目的は、財の生産、調達と分配なのである。利益を上げることではない。
 利益は、経済の目的を達成するための指標に過ぎない。

 利益の妥当性は、所得に求められる。所得の妥当性は、所得の最小値、最大値、生活水準に最低条件と最高条件の範囲から求められる。所得は、金であり、生活水準は物である。そして、それを決めるのは人である。

 生きていく為に最低水準の必需品がいる。例えば、食べ物であり、衣服であり、住居である。それらは全て物である。

 調達できる資源は有限である。それに対し、分配を仲介する貨幣単位は、無次元の量であり、自然数の無限集合である。故に、物によって範囲を画定する必要があるのである。そこに物的経済の働きがある。

 生存のために必要な物資の最低必要量を国民にいかに分配するのかが、経済第一の目的である。次ぎに、人間的な生活をするための必要量を確保し、分配することである。そして、国民国家の目的は、自己実現に必要な量の確保と分配にある。

 経済というのは、人口、資源、食料による制約を受けている。中国には、6000万人の壁があったといわれる。(「貝と羊の中国人」加藤徹著 新潮新書)
 人口は、調達できる食料、資源の養える範囲に、抑制される。この点は、現在も変わりない。ただ、どこから食料や資源を調達するかは、交通機関の発達によって大きく変わってきた。物流の在り方の変化が、経済の在り方を根本的に変えたのである。
 しかし、それでも地球的規模で考えると食糧や資源と人口との関係の基礎は変わっていない。
 そして、食料や資源が人口を養うのに、ある程度豊かな生活水準を保つことが可能な量か、それとも生きていくのにギリギリの量かによって経済の有り様も違ってくるのである。

 銀行員のモラルハザードが問題となっている。しかし、モラルハザードを問題とせざるをえないことが、問題なのである。指導的な立場にある者のモラルが保てずに、モラルを問わなければならない社会が問題なのである。モラルこそ内面の問題であり、神の領域にある問題なのである。人間がモラルを問う時、それは自らの堕落を認めた時か、認めざるを得ない時なのである。

 経済で重要なのは、生きていく為に必要な物をいかに確保し、それをどう分配するかである。金に目が眩むとこの肝心な事が目に見えなくなる。そして、自分では処理しきれないほどの物を自分だけで独占しようとするようになるのである。それは、経済の本質が人と物であることを忘れてしまうからである。




       

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