4.貨幣的経済と数学

4-1 貨幣とは

貨幣は決算の手段、道具である。



 貨幣とは、その時点、時点の貨幣単位を表象する物である。
 現金とは、その時点、時点の貨幣価値を表象する値であり、貨幣を組み合わせてよって実現される。

 その物自体が数や値という属性を持っている訳ではない。数や値は、対象を認識した後、必要や目的に応じて任意に付加される属性である。この様な数や値の性格も一様ではなく、二進数、十進数など、或いは、連続数、離散数等、又は、自然数、整数、実数、有理数、無理数等、数の体系によって性格も違ってくる。
 どの様な数値体系に対象を結びつけるかは、対象を取り扱う当事者間の合意によって定まる。
 また、数の体系も一つだけを活用するとは限らず複数の数の体系を組み合わせて使う事もある。
 例えば、値付けである。リンゴ一個、九十円というのは、リンゴという物に一個という数と九十円と言う貨幣単位を付加する事で成り立っている。

 貨幣というのは、数を物化して物である。

 貨幣は、数を物化した物である。
 物化した事で、貨幣は数という属性だけでなく、物としての属性を付加される事となる。貨幣は、物化した事によって物としての属性が獲得されたのと同時に物としての制約も受けるようになる。
 物としての属性には、所有する、持つ、運ぶ、見る、触れる、交換する、配る、貸す、借りる、預ける、預かる、あげる、貯める、蓄える、保管する、渡す、受け取る、譲る、捨てる、廃棄する、隠す、変える等がある。
 物としての属性による制約には、負の値をとれない。小数を表せない、即ち、割り切れない対象は扱えない。また、虚数、無理数を使えない。離散数となる。残高を基本とせざる得ない。有限である。数単体では機能しない等がある。
 そして、数と物との属性が貨幣の働きを規定している。又、貨幣価値の土台となる。

 貨幣は、情報媒体である。貨幣には、アダプターやパケットのような働きがある。情報を圧縮したり解凍したりもする。貨幣というのは一種の暗号のようなものだと考えてもらったもいい。
 貨幣価値は、物が表す量と貨幣が表す値とを掛け合わせる人で異種の財の市場取引を可能とするのである。つまり、物の量と貨幣の値とを掛け合わせることで市場取引が可能な媒体へと短観するのである。そして、市場取引が完結すると物は物の価値と貨幣は貨幣の価値とに仕分けられるのである。

 貨幣は、物の価値と貨幣が表象する数とを結びつける事で成り立っている。物の価値を数値化する事である。数値化する事で、価値の働きを数式として表現する事が可能となる。

 貨幣には、数としての性格と物としての性格がある。近年この物としての性格が、無形の情報へと変質しつつある。しかし、それでも物としての性格を継承した上である。

 貨幣だとする認識は、社会的合意による。社会的合意は、貨幣価値に対する信認に基づく。
貨幣としての認識は物としての形状による。

 貨幣は何を担保しているのかというと金本位制度では金であったが、今日では、基本的に国家の威信を担保しており、国家の威信は、財政を根拠としている。
 貨幣は信任を失うと貨幣としての働きも同時に失われる。

 数というのは元々、選ぶ、分ける、数える、測る、集める、記録する、保存するといった働きを基本に据えて考えるべき事象である。
 そうしないと数本来の働きを理解する事は出来ない。
 経済では、足したり引いたりという計算そのものに働きがあるわけではなく。
 何を、何によって、なぜ足したり引いたりするのかに意味がある。
 物は、基本的に割り切れない。
 お金も割り切れないから余り算が基本となる。

 貨幣価値は、自然数の集合である。

 一般に、数学は、物を計ったり、計算するために発達してきた。しかし、経済では数学の働きそのものが重要となるのである。

 貨幣価値は、認識過程において成立する。

 現在の一万円札を江戸時代に持っていっても印刷紙以上の価値は持たない。ただの紙切れである。江戸時代の小判や豆銀を現代に持ってくると金や銀としての価値に骨董的価値が付加されて評価される。ただ通貨としての価値はない。日本のお金を違う通貨圏の国に持っていっても特殊な場合を除いて一般の日常生活では通用しない。
 貨幣価値というのは、その時代、その地域において付加される事なのである。
 突き詰めると表象貨幣は、働きだけを切り離して個々の物に結びつけているといえる。貨幣経済では貨幣の働きが意味を持つのである。極端な場合、物としての貨幣も必要とされなくなり、貨幣は単なる情報となる事もある。

 経済では相関関係が重要な意味を持つ。経済は、複数の要素が互いに影響し合って経済事象を生み出している。経済事象を予測したり、経済の仕組みを構築するには、要素間の相互作用を知る必要がある。そのためには、相関関係を明らかにする事が前提となるのである。経済の仕組みを知り、経済的事象が起こる法則を明らかにする為には、何が何に対してどの様な働きを及ぼしているのか、或いは相互に影響を及ぼしているのかを知る必要がある。
 経済を構成する要素の関係を明らかにする為には、相関関係を数字に置き換え、方程式化する事が有効な手段である。
 貨幣は、相関関係を数値化する為の手段である。貨幣は、経済的事象を成立する為の要因である。故に、貨幣で重要なのは働きである。

 貨幣は、個々の要素を関係づける働きがある。この働きが貨幣経済を形成していくのである。

 貨幣には双方向の働きがある。故に、貨幣経済は、双方向の働きによって成り立っており、一方向の働きだけを見ていても経済の動きは、明らかにならない。

 お金の信認が失われれば物に還る。

 貨幣価値は、情報の一種である。情報というのは、無形である。無形である情報、貨幣価値を有形にしたのが貨幣である。貨幣は、貨幣価値の数値単位を表す物である。

 貨幣価値は、認識主体と貨幣が指し示す対象と貨幣の三つの要素からなる。この三つの要素は、人・物・金である。

 お金の世界は、虚構である。

 数字や貨幣が指し示す対象が何かは数学的には意味がない。数値や貨幣単位のみが抽象化されるのである。

 数は、数が指し示す対象の属性に対して必ずしも中立的とは言えず。数が指し示す対象によって拘束される場合がある。
 例えば、リンゴが五個と言った場合、数は、リンゴという対象を特定することを意味する。

 それに対して、貨幣価値は、貨幣が指し示す対象に対して中立的である。リンゴ一個二百円、蜜柑一個、百円としたら、リンゴ三個と蜜柑に個合わせていく等と言った演算が可能となる。それが貨幣価値の効用である。

 貨幣の働きは、価値を計って、計算し、交換する事である。この働きを実現するためには、視覚性と操作性が重要となる。つまり、貨幣の基本的要件は、目に見えて操作できる事である。

 貨幣は、貨幣は、貨幣価値の指標である。貨幣が指し示す対象に対して貨幣価値は中立的働きをする。それが貨幣価値の客観性を裏付ける。
 質の違う対象、例えば、物と労働、時間といった対象も貨幣価値に換算することによって演算することが可能となる。それは、貨幣が対象に対して中立的だからである。

 認識の作用反作用は、正の働きと負の働きを生む。
 存在する対象は、実体がある、即ち、実でから正の働きをし、認識によって生まれた事象は、実体がない、即ち、虚であるから負の働きをする。経済的には、実は実質的価値を、虚は、名目的価値を成立させる。
 存在は正で、認識は負である。
 実体のある物は正の働きをするのに対して人間の認識が生み出した事は虚即ち負の働きをする。つまり、貨幣は、負の働きなのである。

 貨幣価値は、取引において成立する。つまり、貨幣価値は、存在の問題ではなく、認識の問題である。
 取引には、市場取引と相対取引がある。

 貨幣は、取引によって貨幣価値を実現する。貨幣価値は、財その物が本来持っている価値ではない。
 即ち、貨幣価値は、相対的価値である。

 貨幣の働きには、第一に、交換の媒介。第二に、貨幣価値の実現。第三に貨幣単位の表象。第四に、支払い手段。第五に、決済手段、第六に貨幣価値の保存の六つがある。

 貨幣価値とは、交換価値を意味する。即ち、貨幣は、貨幣価値を表象し、物と物との交換を促す働きがある。
 貨幣は、対象から貨幣価値を抽出し、数値に置き換えることで測定する働きがある。

 紙幣は、証書である。
 紙幣は、証券の一種である。

 紙幣は、手形や小切手、借用書、金の預り証から発展した物である。金の預り証も手形の一種だと考えると紙幣が変形した物と言える。
 それは、紙幣の働きは、証書や手形の働きを発展させたものともいえる。それは、紙幣が証書や手形の持つ形式的な要件を基本的に備えていることを意味する。

 手形には、約束手形と為替手形がある。
 為替手形には、内国為替と外国為替の二種類がある。

 約束手形とは、一定の期日に名宛人に対し振出人が手形に記載された金額を支払うことを約束した証書のことを言う。
 為替手形とは、一定の期日に第三者である名宛人に対して指図人に対し支払を委託する証書を言う。

 紙幣と手形の共通した性格は、第一に、要式証券性、第二に、文言証券性、第三に、設権証券性、第四に、無因証券性、第五に、呈示証券性、第六に、受戻証券性である。
 逆に、紙幣と手形との違いは、指図証券性である。
 この事は、紙幣と言う貨幣の形態の性格をよく表している。

 貨幣は貨幣単位を表象した物である。
 今日の貨幣単位は、十進法が一般である。しかし、必ずしも貨幣単位は、10進法が基準だったとは限らない。例えば、日本の江戸時代には、四進法が一部使われていたし、イギリスは、1971年まで12進法と20進法が入り交じったものだった。
 貨幣の種類も一種類とは限らない。日本では、東の金使い、西の銀使いと言ったように地域や使用目的、業種などによって貨幣の種類が異なっていたりした。又、それによって貨幣単位にも差があったのである。
 貨幣制度は、この様な雑多の貨幣を統一することによって確立されたのである。しかし、この事実は、貨幣の持つ性格や働きに重大な影響を及ぼしている。その好例が本位制度や中央銀行制度である。

 貨幣が貨幣単位を実現するためには、貨幣には法的拘束力がなければならない。貨幣に法的拘束力が付与されることで、貨幣には、権利と義務が与えられる。それが債権と債務である。
 そして、債権と債務は、貨幣が流れることによって派生する。
 貨幣とは、権利と義務、即ち、債権と債務を派生させる働きがある。債権と債務は、貨幣が流れる方向によって増減する。

 貨幣は、支払い手段であり、決済手段である。支払い手段と決済手段の違いには、時間の概念が絡んでいる。支払い手段とは、即時的、又、直接的な手段と言える。そして、貨幣の物として働きを言う。それに対して、決済手段は、一定期間の時間差をもって清算する行為を言う。つまり、間接的な清算手段と言える。又、必ずしも物ではなく、無形な情報も含む。ただし、広義の決済手段の中には、支払い手段も含まれる。

 貨幣価値は、支払い手段として表現される。支払い手段の道具には、人、物、金がある。

 支払い手段は、財と権利からなる。財は、物と用役からなる。即ち、支払い手段は、用役、物、権利からなる。これを言い替えると用役は人、物は物、権利は貨幣である。即ち、人、物、金を意味する。

 変化には、発散的変化と収束的変化の二種類がある。発散的な変化には、線形的変化(算術級数的変化)と指数的変化(幾何級数的変化)がある。収束的変化は、基本的には、回転運動である。回転運動は、基本的に、循環運動であり、周期的変化である。周期運動は、波動であり、又、上下運動である。

 人や物は、収束的変化である。人の人生は、成長があり、衰退がある。物にもライフサイクルがある。それに対して、お金は、発散的な変化をする。しかも、指数的な変化である。
 この人や物の変化と貨幣価値の変化の差が経済にいろいろな現象を引き起こすのである。

 ハイパーインフレーションを考える場合は、幾何級数的変化、即ち、指数的変化の考え方を導入する必要がある。

 現在の貨幣制度では、最終的支払い手段は、現金である。即ち、貨幣である。ただ、貨幣の質は、歴史的な経緯によって変わってきた。その為に、貨幣価値の働きも変わってきた。

 貨幣が成立することによって経済的な権利、所有権から派生する権利が成立した。
 その権利の根本は、債権と債務である。

 貨幣価値は、所有権と密接に結びついている。と言うより、所有権があって始めて貨幣価値は発行する。
 例えば、土地の所有権を認められていない国では、土地は貨幣価値を持たない。なぜなら、交換、即ち取引の対象となり得ないからである。


貨幣は決済手段である。



 貨幣は決済手段である。決済手段とは、債権と債務を解消するための手段である。貨幣による決済の他の決済手段には、債権と債務を放棄すると言う手段、物や用役によって債権と債務を帳消しにするという手段がある。しかし、貨幣経済では、貨幣による決済が正式な決済手段である。

 中央銀行の役割を語る時、発券銀行とか金融政策が話題となるが、実は、決済機関(決済システム)のセンター機能が最も重要な役割の一つであることを忘れてはならない。
 決済機関としての機能が中央銀行の基盤を成していると言っても過言ではないのである。

 決済には、リスクが伴う。決済は、信用制度の上に成り立っている。決済リスクは、信用制度の問題にも波及するからより深刻なのである。
 決済リスクには、第一に信用リスクがある。第二に、流動性リスクがある。第三に、システミック・リスクがある。第四に、法的リスクがある。第五に、オペレーション・リスクがある。(「決済システムのすべて」中島真志、宿輪純一著 東洋経済新報社)

 貨幣には、価値の保存という働きがある。この働きが名目的価値の根拠となる。即ち、貨幣価値は、表示価値、額面価値から減価しない。表示価値とは、即ち、名目的価値である。この様な名目的価値には時間価値が含まれていない。貨幣価値における時間価値は金利によって付与される。金利は、一定の単位期間を基にして複利で計算される。金利は、名目的価値を基礎として計算される時間価値である。複利であるが故に、金利は幾何学的に変化する。

 貨幣には、法的強制力、法的拘束力がある。それが貨幣の法的根拠にもなる。つまり、貨幣は、証書、権利書である。
 貨幣が、法的強制力、拘束力がないただの紙切れならば、例え、盗まれたとしても大した罪にはならない。貨幣に法的強制力、法的拘束力があるから盗めば大罪になるのである。また、貨幣の効用が生じるのである。
 貨幣に法的強制力があり、法的拘束力があるから、貨幣は、極端な話し殺人を犯してでも手に入れたいという欲望を引き起こすような価値が生じるのである。

 貨幣にある価値の保存という働きは、貧富の格差の前提となる。つまり、財産の継承や既得権益を可能とする。この財産の継承を緩和する目的として相続税がある。ただ、正の資産のみならず、負の資産も貨幣から生じることを忘れてはならない。なぜならば、貨幣の運動は、債権と債務を同時に派生させるからである。

 金利には、正と負の金利がある。通常、マイナス金利はないとされる。
 しかし、金貨が主要貨幣であった時代、即ち、貨幣自体に価値があった時代には、金匠に対して金を預けた者は、保管料を支払っていた。この保管料は、考えてみればマイナス金利の様なものである。
 翻ってみれば、貸出金利は、貨幣のレンタル料のようなものとも言える。

 貨幣は、本来、貨幣の発行、発券機関(中央銀行や政府、民間銀行)の負債である。発券機関は、国家、国民の資産や権利を担保する事によって貨幣を発行する。
 中央銀行券は、中央銀行の負債である。
 国家は、中央銀行に国民の徴税権と国家資産を担保する事によって借入を起こし、金融機関は、それを担保とすることによって中央銀行から現金を引き出し、中央銀行は、金融機関や政府に対する貸付金を担保として国家から負債をして紙幣を発行する。
 つまり、紙幣とは、国家と中央銀行の融通手形のような物である。故に、貨幣とは仕組みである。

 我々は、今日、「お金」というと千円札とか、一万円札を思い浮かべる。この様に、我々が思い浮かべる千円札とか、一万円札は不換紙幣である。しかし、この様な不換紙幣が定着したのは、つい先頃のことである。
 そして、不換紙幣をあたかも所与の存在として受け入れるようになったのは、1971年のニクソンショック以来のことである。それまでの紙幣は兌換紙幣であり、兌換紙幣と不換紙幣とでは、貨幣の本質が違うのである。

 ニクソンショック以前では、金によって貨幣価値は、担保されていた。それが金本位制度である。

 兌換紙幣から不換貨幣への変化は、何を意味すのか。それは、貨幣が、実物的価値の裏付けを失い、貨幣単位を表象する物、言い替えると、単なる数値になったことを意味する。それは、記号化、信号化の前段階であることをも暗示しているのである。貨幣は、やがては、計算器の記憶装置に納められた記号や信号に変質していくであろう。それは、貨幣の数値化を意味する。

 金本位制度の以前は、実物貨幣によって貨幣制度は成り立っていたのである。

 複本位制度や金本位制度時代には、実物貨幣が支払手段として実際に用いられた。つまり、実物貨幣時代では、貨幣は、貨幣としての価値だけではなく。物としての価値を併せ持っていたのである。
 実物的経済体制下では、金貨というのは、実際に決済の手段として用いられていたのである。そして、金の相場が貨幣の価値を上回れば、貨幣は、溶かされて金の地金に替えられたのである。
 物の経済では、貨幣も実物としての価値を問われていた。すなわち、金、銀、銅と言う貨幣の素材が実効力を持っている。

 我々は、一円というと貨幣ではなく、貨幣価値そのものを指して言うが、実物貨幣の時代では、一円という貨幣の持つ価値を指していったのである。
 実物貨幣の時代には、貨幣価値とは、貨幣その物の価値を指してるのである。だからこそ、悪貨は良貨を駆逐すると言う事に実際的な意味があったのである。

 貨幣経済は、貨幣の有り様、特性の影響を受ける。貨幣制度というのは、一律一様な制度ではない。故に、貨幣の種類と貨幣制度の特性を理解することは、貨幣経済の現象を理解する上で不可欠なことである。(「貨幣システムの世界史」黒田明伸著 岩波書店)
 そして、貨幣経済は、一様均一ではなく。貨幣に応じた多様な形態を持った経済だと言う事である。

 黒田明伸氏は、中東、アフリカにおけるマリア・テレジア銀貨の例を引き、少額貨幣と高額貨幣との間に機能的な階層が生じていたと、その著書の中で著している。(「貨幣システムの世界史」黒田明伸著 岩波書店)
 少額貨幣は、主として日曜の取引に使用し、高額貨幣、マリア・テレジア銀貨は、決済用資金として活用されていたとされる。
 今日でも、譲渡性預金は、日本では企業間の決済に用いられている。譲渡性預金を貨幣の一種だと見なすと特定の目的の高額貨幣が現在も存在すると見なす事ができる。つまり、貨幣は必ずしも一律ではなく。目的に応じて独自の形態をとる事が可能であることを示唆している。

 貨幣の有り様は、貨幣の性格にも影響を与える。少額の実物貨幣は、回収が困難だとされる。この点は重要な意味がある。
 貨幣の働きは貨幣が循環することによって発揮される。つまり、発行機関に依って供給された貨幣は、発行機関に環流されることによって効力を発揮される。この点、少額貨幣は、回収されずに、市中に滞留することが考えられる。
 ただ、実物貨幣は、公的機関の負債、債務とはならない。
 その点、紙幣のような表象貨幣は違う。紙幣は、回収されないと公的債務、即ち、公的な負の働きとして作用し続けることになる。それが財政に負担や負荷をかけるのである。

 貨幣には、公的貨幣と私的貨幣がある。公的機関が発行する貨幣を公的貨幣とし。私的機関が発行する貨幣を私的貨幣とする。公的な貨幣にも中央銀行発行の貨幣、政府発行の貨幣、政府公認の貨幣がある。

 貨幣には内部貨幣と外部貨幣がある。内部貨幣と外部貨幣の差は、民間の債務を担保する事と引き替えで発行された貨幣か、公的機関の債務を担保する事と引き替えで発行された貨幣かの違いである。前者を内部貨幣、後者を外部貨幣という。

 内的貨幣と外的貨幣がある。内的貨幣とは、該当の通貨圏内で通用する貨幣であり、外的貨幣とは、当該の通貨圏の外部で通用する貨幣である。例えば、円の通貨圏の内部貨幣は、円であり、ドルは外的貨幣である。ドルの通貨圏では円は、外的通貨であり、ドルは内的通貨である。

表象貨幣と実物貨幣



 貨幣には、表象貨幣と実物貨幣がある。
 今日貨幣は、実物貨幣から表象貨幣へと変化しつつある。実物貨幣から表象貨幣へと変化すると言う事は、物から情報へと変遷している事を意味している。つまり、貨幣は情報化の過程にあると言える。その過程で兌換紙幣が生じ、不換紙幣へと変化してきたと言える。
 情報化する事による利点と弊害を正しく理解していないと貨幣経済の変化に対応することは不可能である。
 貨幣には、計量貨幣と、計数貨幣がある。表象貨幣は基本的に計数貨幣である。実物貨幣には、計量(秤量)貨幣と計数貨幣がある。
 十進法に基づく貨幣と十進法に基づかない貨幣がある。
 実物貨幣には、商品貨幣と非商品貨幣がある。
 表象貨幣には、兌換紙幣と不換紙幣がある。
 また、貨幣には、手交(hand to hand)貨幣と預金貨幣がある。

 実物貨幣の基本は、物だと言うことである。その為に物としての制約を受けることになる。一つは、物だから人を介して流通していく。手交貨幣だと言う事である。二つ目は、量的な制約を受けるという点である。第三は、保存ができる。つまり、貯蔵されるという事である。四番目は、転移、移動が可能だという点である。巨大の石貨の様に事実上移動ができない貨幣もあるが、貨幣が交換の手段だと言う事を考えると移動が可能であることが前提となる。五番目に貨幣の素材によって貨幣の性格が左右される。六番目に、品質が問題とされる。第七に、個々の貨幣が固有の価値を持つという点である。

 実物貨幣を構成する要素には、価値の要素の他に、物の要素がある。価値の要素は、情報という要素と基準(尺度)と言う要素からなる。
 物としての貨幣は、物理的にも、空間的にも、時価的にも制約を受けている。
 つまり、貨幣は、量的な制約を受けていたし、又、物理的制約もあった。貨幣価値は、常に貨幣の過不足の影響を受けていたのである。

 手交貨幣、即ち、手から手へと手渡される貨幣と言う事は、実際に人と人が交換することが可能な範囲にしか貨幣は流通しない。自ずから貨幣が生み出す経済空間には限界が生じる。また、流通する空間に貨幣は制約を受けることになる。
 金融制度の発達は、この様な直接人から人へと手渡さずに済むような手段を発達させた。その結果、貨幣の働きは、物と言う制約から開放され、情報化するに至ったのである。この情報化は、貨幣制度に対して革命的な変化をもたらした。

 物である実物貨幣は、製造にも、流通にも、物理的制約、即ち、量的な制約を受ける。つまり、貨幣の流通量によって貨幣価値が影響を受けやすいと言う特徴が実物貨幣にはある。逆に言うと表象貨幣は、貨幣の量的な制約を受けにくいと言う事にもなる。

 物である貨幣は、何を素材とするかが重要となる。又、物であることによって貯蔵や運搬、流通という要素が貨幣の効用を制約する。
 貨幣は、市場に認知されて始めて効果を発揮するのである。認知とは信用である。

 米のような商品貨幣は、使用価値も重大な要素となる。例えば、米は、飢饉になればいくら価値が上昇したとしても市場に出回らなくなる。

 表象貨幣、即ち、紙幣が主となる以前は、貨幣は、一律一様の物ではなかった。実物貨幣の時代は、貨幣と空間は、相互に深く関わっていた。

 物である実物貨幣は境界線を超えられると言う特性がある。マリア・テレジア銀貨のように発行国以外の地域で機能を発揮していた実物貨幣もある。
 貨幣の品位や有効性を国家が裏付けする必要がなければ、実物貨幣は制度的制約を受けずに広範囲に流通する場合がある。これも実物貨幣が物としての実体を持っているからである。
 逆に言うと、紙幣が、一国家一通貨制度を確立させたと言える。(この場合の紙幣とは、公権力の裏付けがある紙幣を指し、素材が紙だとという事を意味するわけではない。)それは、公権力を背景とした紙幣は制度的な貨幣だからである。

 又、実物貨幣は、必ずしも十進法に統一されているわけではない。十進法に統一されたのは、表象貨幣が浸透してからである。それが貨幣の価値体系の統一を促したのである。

 この様に、貨幣というのは、単一的な世界ではない。

 実物貨幣の主だった時代は、市場が貨幣を選好していたと言える。

 市場は、一様で統一的な場ではない。市場は重層的で複合的な場である。そして、かつて貨幣や貨幣制度は、市場の働きや目的に応じて多様な形態を有していた。
 貨幣の多様さは、市場の暴政を抑制する働きをしていたとも見られる。貨幣の情報化、それに伴う貨幣の統一化は、必ずしも、良い面ばかりを持っているとは限らない。弊害もあるのである。どの様な制度を取り入れるかは別にしても、貨幣制度を導入する際は、利点、弊害を中立的に見て、極力、弊害を取り除くようにすべきなのである。

 この事は、貨幣の働きは単一だとも、一律だとも限らない事を意味する。何等かの目的に依存する貨幣もあるという事である。
 例えば、江戸時代では、商売によって銀貨や金貨を使い分けたとされる。又、銀貨を使う地域と金貨を使う地域が別れていたとも言われる。
 又、特定の商品取引の決済用に使われた貨幣もある。(「貨幣システムの世界史」黒田明伸著 岩波書店)
 この様に貨幣は、目的や空間に制約をうける。

 カジノのチップも貨幣の一種と考えることができる。ガジノのチップは、カジノと言う特定の空間でしか機能しない。しかも、賭博に使用するという特定の目的を持った貨幣である。中には、カジノ内での飲食に使用することが可能なチップもある。
 この様に多くの制約があるために、かえって、カジノのチップは、貨幣の原形をよく現していると言える。

 実物貨幣は、貯蔵がきく。その為に、貨幣が退蔵される場合がある。今日貨幣の働きを循環に依ると見なされているが、実物貨幣の多くは、回収されずに市場に退蔵される場合が多い。
 この様に回収されずに市場に滞留している貨幣が前提となって今日の貨幣経済は成り立っている。

 今日、実物貨幣である硬貨は、紙幣に対して補助貨幣という位置付けである。しかし、かつては、硬貨こそ基本貨幣であり、紙幣は補助貨幣でしかなかった。
 現在では、少額貨幣は、硬貨が、高額貨幣は紙幣というような使い分けがされている。
 この様な現行の硬貨の働きには、実物貨幣としての名残が残されている。また、紙幣の発行権が中央銀行であるのに対し硬貨は、政府発行貨幣である。

 実物貨幣の時代には、貨幣の素材が、金や銀でできているために、金貨や銀貨が一部が削り取ったて粗悪化する事がたびたび社会問題となった。また、違法に削り取られるだけでなく。財政が逼迫すると公に小判の質を落とすようなこともされた。
 所謂、悪貨は、良貨を駆逐すと言われる由縁、ここにある。つまり、良貨と悪貨の別が明瞭にあったのである。
 また、金貨に含まれる金の量の価値が、金貨の指し示す価値より上回れば、金貨は容易に熔解されて地金として取引された。この事は、貨幣の流通量に重大な影響を与えたのである。(「円の誕生」三上隆三著 講談社学術文庫)

 貨幣には、計量貨幣(秤量貨幣)と計数貨幣がある。

 金貨や小判、長銀、豆銀の商品価値、市場価値、その物自体につく値段がある。この様に物の価値があってそれに対して貨幣価値が附加されるのが実物貨幣である。故に、実物貨幣の価値は、相対的で常に不安定である。
 実物貨幣の中で重量に基づく貨幣を秤量貨幣という。

 金本位制度が確立される以前は、複本位制が一般に複本位制が採られていた。

 複本位制度には、両本位制度、跛行本位制度、併行本位制度がある。
 両本位制度というのは、、複本位制度で本位貨幣間の比価を公定している制度である。
 併行本位制度というのは、複本位制度で本位貨幣間の非価を公定しない制度である。
 跛行本位制度というのは、複本位制度において、一方の本位貨幣の自由鋳造を禁じている制度である。例えば、金銀複本位制度下で銀貨の自由鋳造が禁止されていて実質的には、金本位制度になっている場合である。この場合、自由鋳造が認められていない貨幣は、定位。補助貨幣として扱われる。

 又、定位・補助貨幣の存在が重要となる。定位・補助貨幣は、貨幣価値の密度を規定すると同時に、秤量貨幣から計数貨幣への橋渡しをする役割を担っている。

 日本の江戸時代は、金、銀、銅の三貨制度であった。それが幕末期には、金、銀、銅の交換比率の国際市場と国内市場の比率の違いによって金と銅の海外流出を招いたのである。(「円の誕生」三上隆三著 講談社学術文庫)

 金本位制の成立要件は、第一に、金の自由鍛造、第二に、金の自由熔解、第三に、金の自由輸出入、第四に、金の自由兌換、地金と金貨と銀行券が等価関係におかれる。(「黄金の世界史」増田義郎著 講談社学術文庫)

 最初に金や銀、銅という物があり、金や銀、銅が小判や豆銀、銅銭のような物に変わり、その物に一両や一文という価値が付け加えられたのである。
 実物貨幣は、物としての部分と貨幣価値という部分という二つの部分から構成される。
 はじめに物があるというのは、幾何の原点に似ている。そして、それが貨幣経済の始まりをも意味する。

 この様な実物貨幣に対して、表象貨幣は、交換価値を抽出し、物としての貨幣よりも名目、額面が重視される。その為に、物としての属性が削ぎ落とされていく。

 一万円札というのは、一万円という額面が貨幣価値を表象する。一万円札のような貨幣を計数貨幣という。この様な貨幣の価値は、貨幣に表示されている価値が、即ち、貨幣価値を表す。その場合、素材となる物の価値は関係ないことになる。この様な計数価値は、紙幣の価値は市場の信認によって保たれていて貨幣の素材そのものの影響は受けない。ただ、市場の信認を失えば、価値を失う。市場の信認がなくなれば、紙幣はただの紙切れになってしまうのである。

 貨幣には実物貨幣と、表象貨幣があり、表象貨幣は、計数貨幣である。今日我々が日常的に使う「お金」、貨幣は、表象貨幣を指して言う。
 今日、我々が言うところの貨幣、即ち、不兌換紙幣、或いは、コインというのは不思議な存在である。

 実物貨幣制度と表象貨幣制度とは、まったく次元を異にした制度であることを明記しておく必要がある。

 表象貨幣というのは、貨幣価値の割り符みたいな物である。貨幣それ自体は、価値を持たない。価値は、何か他の物と交換される行為に対して価値を持つのである。ある意味で交換価値を純化した物である。

 数の概念は、数単独に成り立つ概念ではなく。自己と対象と関係や認識の操作から派生する構造的概念である。これは言語も同様である。故に、数も言語も操作によって成り立っている体系のである。
 主観的数の観念と対象のもつ形式的属性が結びついた時、数の概念が確立される。

 貨幣は、経済的価値を数字に置換するための手段、道具である。貨幣は、基本的に物を使用する。故に、貨幣は、物としての制約を受ける。表象貨幣は、急速に、情報化、即ち、記号化、電気信号化している。即ち、無形化している。その為に、物としての制約から開放されつつある。しかし、それでも本質的な部分でまだ物としての制約を受けている。

 表象貨幣を構成する要素は、量と数、数字、貨幣である。
 数量は、数と量によって構成されている。
 量とは、長さとか、体積、面積、質量、温度、時間と言った何等かの実体を持つ全体からなる。量は比である。
 数というのは、他と明確に区別できる部分の集合である。数字は、数を表象した記号である。数量は、数字化されることによって演算が可能となる。
 表象貨幣を構成する要素は、各々、固有の制約がある。即ち、量には、量の制約があり、数には、数の制約があり、数字には数字の制約があり、貨幣には貨幣の制約がある。
 量には、一つは、長さや面積、質量、時間といった物理的な制約がある。もう一つの制約は、量は、同じ種類の単位を共有する対象間でしか、演算ができないという事である。例えば、労働量と生産物を足したり引いたりはできないという事である。
 数の制約とは抽象化による制約である。対象を抽象化するために、対象の持つ属性が削がれてしまう。
 数字化による制約は、記号による制約である。記号化されることで、数字によって数が具現化され、固有の属性を持つ事が可能となる事である。
 数字は、際限がない、物理的制約を受けないという事である。理論的に言えば天文学的な価格をつけることも可能である。
 貨幣は、経済的価値を数字に置き換えた物である。数値的価値を物に置き換えることによって交換が可能となった。
 反面、物に置き換えた事で貨幣は、物としての制約を受ける。即ち、貨幣は、物であることによって貨幣が表象する価値は、自然数と言う制約を受けることになる。
 そして、貨幣を基礎とした会計は、結果的に残高計算が基本とならざるをえなくなる。それが複式簿記会計の成立要件となるのである。

 今日、貨幣の個性は、紙幣に印刷された図柄程度の差しか認知されないが、かつては、貨幣の持つ品質や信用度によって貨幣の価値は違った。

 金の預かり票を発行してもそれだけで冨の移転が生じるわけではない。貨幣は、財の動きを促したとしても、それ自体に価値があるわけではない。貨幣は物と交換することの出来る権利を表象した物なのである。

 今日、貨幣の性格は一様だと思われているが、貨幣の性格というのはかつては一様ではなく、多様だったのである。そして、貨幣の有り様によって貨幣の性格は形作られてきた。この事は、貨幣本来の働きや貨幣制度を考える上で、重要な意味を持っている。
 しかも、実物貨幣から表象貨幣へと変化したのは、そんなに遠い過去ではないのである。
 大恐慌やハイパーインフレなどと言った経済現象を考察される際、前提となる貨幣の属性を確認する必要がある。貨幣の有り様が経済現象に対して決定的な役割を果たしていると考えられるからである。

 そして、今日、貨幣は、情報へと変貌を遂げようとしている。

 今日、貨幣の持つ属性が削ぎ落とされ、表象化されることによって貨幣は、貨幣価値を表す情報の一種へと変質しつつある。この変化の持つ意味を正しく理解しないと、今日生起する経済現象を意味を正しく理解することはできないのである。

 貨幣というのは、借用書が変化したものである。つまり、借用書を裏付ける物、借金を保証する物が貨幣価値を保証しているのである。借入の担保は土地であるから、実質的に土地本位制度なのである。


貨幣単位


 単位とは、任意の量である。当初、単位は、今日の様に定められた一定の量ではなく。必要に応じて任意に定められる量である。今日でも、貨幣単位にその名残がある。

 貨幣は、属性を持たない、無次元の数値である。

 単位貨幣は、通貨圏を形成する。通貨圏には境界線があり、その境界線を境にして、内と外とが区分される。
 通貨の交換価値は、通貨間の取引によって決まる。通貨の交換価値とは、貨幣の内的価値と外的価値の両面を構成する。取引には、境界線をまたぐ取引と境界線の内部で完結する取引とがある。内部で完結する取引は、内外の貨幣価値の変動、即ち、為替の変動の影響を原則として受けない。逆に、境界線をまたぐ取引は、為替の変動の影響を妨げない。

 単位貨幣間の濃度は等しい。円とドル、ユーロ、元の濃度は等しい。

 1983年から1987年かけての円高によって日本は深刻な不況に陥った。この時の円高は、当時の日本を不況にしただけでなく、その後のバブルを引き起こす原因にもなったのである。1983年から1987年にかけての円高には、二重の働きがあった。その働きが1890年代のバブルを引き起こす下地を作ったのである。
 第一に、対外の貨幣価値が高まり、購買力が強くなった反面、輸出産業の収益を悪化させた。第二に、円高不況対策として採られた低金利政策によって貨幣の流通量が増加させた。この二点がバブルの伏線となった。
 円高による輸出不振によって多くの産業が本業の収益の悪化し、本業で収益があげられなくなった企業が財テクに走ったことで資産市場、資本市場への資金の流入を加速した。その事がバブルを引き起こした一因と考えられる。
 為替の変動は、重大な経済現象を時として引き起こす。為替問題、即ち、通貨の相対的価値の水準は、経済を考える上で欠かせない重大事である。

 為替の変動の影響を見る場合、第一に、為替の変動によってどの部分が何に対してどの様に変化したかを分析する必要がある。特に、人件費が梃子の働きをするので重要になる。日本の人件費にとって円高は、国内においては、実質的な変化をもたらさない。反面、対外的に見て費用の上昇もたらす。輸入品は、所得に対して相対的な低下するが、輸出品に対しては、費用の増加をもたらす。これらの影響を鑑みながら施策を立てる必要がある。

 貨幣というのは、決済の道具、手段なのである。貨幣は、決済のための道具であり、支払のための準備である。そして、貨幣は、支払準備だからこそ価値を持つ。支払のための準備であるから、支払のための保証が必要である。即ち、貨幣は何を担保としているかである。金を担保としているのが金本位制である。また、不兌換紙幣の発行とは、国家の信用、支払い能力を担保して発行されるのである。国家の信用を裏付けているのが土地と言った国の資産や徴税権、或いは、次の年の収穫等、そして、国が発行する債券、国債である。
 又、通貨圏間の決済は、外貨準備に依って為される。
 金本位のように実物貨幣の場合は、金をもって通貨間の決済に使用する事が可能である。しかし、変動為替制度では金を共通の通貨として使用することができない。その為に、基軸通貨が重要な役割をしている。
 通貨圏の取引に用いられる基軸通貨も貨幣の信用を裏付ける重要な要素である。

 貨幣は、貨幣単体で価値を形成する物ではない。貨幣価値は、取引によって生じる。取引とは、財と貨幣、貨幣と財、財と財、貨幣と貨幣を交換する行為である。
 この様な、財と貨幣、貨幣と財、財と財、貨幣と貨幣から生じる権利や責務、即ち、債権と債務が貨幣価値を構成するである。
 故に、貨幣の流量が問題なのではなく。貨幣が生み出す貨幣価値の総量が問題なのである。貨幣価値を生み出すのは取引である。つまり、取引は媒介する物として貨幣には、重大な役割があるのである。

 貨幣は、財と結びつくことによって量を持つ。貨幣は、財と一体となっる事によって貨幣価値を持つ。
 量は比較によって成立する。故に相対的である。
 貨幣は、貨幣価値を指し示す値であり、財は、交換価値を形成する実体である。即ち、貨幣価値の本質は交換価値であり、貨幣価値とは、交換価値を数値的価値に置換した値である。
 故に、財は量としての次元を持つ。貨幣空間とは、物理的空間に貨幣軸が加えられた空間である。貨幣価値は、物理的量と貨幣単位とを掛け合わせた値である。故に、貨幣は一つの次元を構成する。
 交換価値というのは、主体的価値である。主体は、自己の本性である。主体は自己に宿る。交換価値の本質は、自他の関係より生じる。故に、交換価値は、市場を媒体とするのである。

 貨幣の働きが通用する世界の範囲、即ち、貨幣経済の範囲は、貨幣に換算された対象によって画定される。つまり、お金が全ての世界である。言い換えるとお金に換算されない世界は含まれていない。貨幣に換算するというのは基本的に取引を介することを意味する。

 貨幣制度は、人と物とお金を一対一に結びつける仕組みである。

 一対一の関係は、単位を考える場合、基本となる。
 この一対一の関係というのは、至る所にある。例えば、ワンマン・ワンワークというのは、組織において人と仕事が一対一の関係にあることを意味する。

 貨幣の働きを考察する上で、一対一という関係づけは重要である。貨幣は、この一対一の関係を土台にして、多対一、一対多、多対多の関係を作り出していく。貨幣と対象を一対一に結びつける操作が取引である。

 多対一というのは、性格が違う対象を貨幣単位という一つの基準に統一する操作を言う。

 最近、ワンコインショップができてからもう随分たつ。ワンコインショップとは、百円ショップとも言い、店の総ての商品の値段がワンコイン、即ち、百円に統一されている店を言う。これ多対一の関係の好例である。

 そして、一種類で同じ価格の物を大勢の人が購入する。これが一対多である。

 貨幣は、貨幣単位と対象とを一対一に還元する働きがある。この様な貨幣と対象とを一対一に結びつけるのは、自己という認識主体である。ここに対象と貨幣と自己が、各々一対一に結びつく。元々は、対象を構成する要素は、一つではない。多くの中から自己が選択することによって貨幣価値は成立する。これは多対一の関係から、一対一の関係を作ることになる。一対一によって価格が形成されると次に、価値観の違う主体と対象との関係が生じる。これは,一対多の関係を成立させる。この一対多の関係は、多対多の関係に発展させることが可能である。この関係は組み合わせの問題を派生させる。




貨幣は、交換手段である。


 貨幣価値は、交換という属性を持つ。交換という属性が正と負の働きを生み出す。この関係が理解されてはじめて貨幣経済は関数として確立される。

 貨幣が、有するのは、市場で財と交換する権利である。それが貨幣の本質である。

 よくある錯覚に、貨幣と財とを同一視する事がある。貨幣経済では、財と貨幣は、働きが違う。貨幣が財の働きを持っていた時代もある。しかし、貨幣が財としての価値を失った今日、貨幣と財との働きは分化したのである。
 財の働きは使用価値にあり、貨幣の働きは交換価値にある。

 貨幣は、交換価値を等質の値に変換するための手段、道具である。つまり、媒体である。
 貨幣価値は、交換取引によって実現する。
 貨幣経済では、量を比較して、値を決める場が市場である。故に、市場は一つの機関である。そして、貨幣経済下の市場は貨幣取引によって成り立っている。

 貨幣取引とは、貨幣と財との交換を意味する。

 貨幣は、交換によって効用を発揮する。つまり、お金は使わなければ効用を発揮できないのである。そして、交換と言う事が貨幣の本質的な働きだとしたら、貨幣は、循環することによって効用を発揮する。つまり、貨幣は、市場の隅々にまで浸透していて、尚かつ、循環していることが必要なのである。その為には、一方において所得が保証され、されに、もう一方において市場へ財が絶え間なく供給されている必要がある。所得を保証するのは、雇用であることが原則である。
 景気を良くする対策は、貨幣の量を増やすことよりも、貨幣の回転をよくすることにある。

 貨幣は、交換価値を仲介する媒介変数(パラメーター)である。
 貨幣単位は固定的単位ではなく、変動的単位である。貨幣単位は、量的単位ではなく。操作的単位である。

 財の価値は、前提条件によって変わってくる。価値は、何かを基準として成り立っている。その基準の設定の仕方によって財の価値は違ってくる。

 食事を例にして考えてみよう。食事代として一人あたり五千円は大金かという問題を考えてみよう。それが朝食なのか、昼飯なのか、晩餐なのかで違ってくる。又、何等かの記念日なのか、或いは大切な人を招いての食事なのか。例えばその国の生活水準や物価も為替相場によっても違うだろう。この様に前提によって違ってくる。その根本は、何と比較してと言うところに行き着く。

 数には、一つ二つと数えられる数と、一つの全体があって、その一部分を一として分割する事によって成り立つ数がある。前者は、個としての数であり、後者は比としての数である。貨幣は、本来、後者である。

 数というのは、数えるとか、比較するという操作によって形成される。即ち、数は、操作的な概念である。数は、比較するにせよ、何と比較するか、又、数えるにせよ何によって数えるかが、重要となる。即ち、何を基準とするかである。基準とは単位である。
 その上で、なぜ、比較するのか。何を数えるのかによって比を求めるか、数、即ち、差を求めるかを決めるのである。

 貨幣は、経済的価値を統一するための手段である。

 貨幣制度とは、個々、多様な財を任意な基準によって統一された場に変化するための仕組みである。財の価値が均質に変換されることによって事によって異質の財の間の演算が可能となる。例えば、自動車とホテルのサービスを足したり、引いたりすることが可能となるのである。

 対象から数を抽象化するというのには、何等かの目的がある。なぜならば、数は、操作的な概念だからである。その典型が貨幣である。貨幣は、物的価値を取り除いてしまえば、無次元の量になる。

 貨幣は、財の交換価値を表象化するという目的によって数を抽象化された物である。

 貨幣価値に還元し、企業実績を分析しようとした場合、比率が重要な意味を持つ。それは、貨幣がパラメーターだからである。

 経営を分析する比率には、推移比、構成比、回転率、相関比、同業者比、平均偏差等があり、目的に応じて活用する。

 貨幣は、負としての作用を持つ。財は正としての作用を持つ。

 即ち、貨幣取引は、貨幣の流れる方向とその反対方向に流れる財の二つの流れによって成立している。それは、債権と債務の流れの根源ともなる。

 一つの取引に対して二つの行為を成立されるためには、貨幣に対する志向と財に対する志向が必要である。

 この貨幣に対する志向と財に対する志向は、主体性から発生する。故に自己による。貨幣に対する志向は自己が売り手となることを意味し、財に対する志向は、自己が買い手になることを意味する。
 自己が買い手となれば必ず対極に売り手となる相手が存在することを意味し、自己が売り手となることは、必ず対極に買い手となる相手がいることを意味する。自己を市場に写像する事によって売り手と買い手の関係は客体化される。
 そして、この売り手と買い手の関係は、複式簿記の下地となる。

 現金というのは、貨幣価値を実現した値、或いは、現在的貨幣価値を指し示す物である。


お金の本当の価値とは何だろう。


 金。金。金。
 我々を取り囲む生活はお金を抜きには考えられない。お金に取り囲まれて生活していると言っても過言ではない。しかし、実際の手持ち資金というとそれほど多くはないのである。

 商店には、沢山の商品が溢れている。我々は、買い物に行くと商店の棚に並んでいる商品全てに価格が設定されていてそれだけの価値がある。つまりは、お金と同じ物が並んでいると錯覚に陥りがちである。しかし、実際には、取引が成立しない限り貨幣価値は、生じない。しかも、取引が成立し、現金の受け渡しが終了するとその直後から商品価値、即ち、商品の貨幣価値は劣化しはじめるのである。
 その上、流通性が乏しかったり、すぐに陳腐化する商品、鮮度が重要とされ商品は、貨幣価値その物を喪失してしまうことさえあり得るのである。そうなると貨幣価値とは何なのかという事になる。

 豚に真珠、猫に小判と言うが、猫や、豚は、真珠、小判のために殺し合いをしたりはしない。人間と豚や猫、どちらが真珠や小判の価値を知っていると言えるのであろうか。

 何千万円もする高級時計を盗んでも換金できなければ貨幣的価値は生じない。そして、盗人にとっては、盗人が手にした現金が盗んだ高級時計の価値でしかないのである。
 2006年、4億円はするだろうとされるヘンリー・ムーアの彫像が盗まれ、鋳潰されて22万円で売り払われたという事件が起こった。4億円のヘンリームーアの彫像も盗人にとって価値は、22万円の価値にしかならないのである。

 つまり、貨幣価値を決めるのは貨幣ではないという事である。貨幣の背後に存在する財である。それは、人々のとって必要な物や用役を指しているのである。

 何のために、道を拓き、鉄道を敷き、堤を築き、空港を作り、運河を穿ち、トンネルを明け、水道を通すのか。金のためではない。金は本来の目的ではないのである。それを忘れてはならない。

 経済において何を護るのか。経済によって護るべきものを失うとしたら本末転倒である。金は生きる為に必要なのであり、金のために命を捨てるのは愚かな行為である。

 現代という時代は、貨幣経済を前提とした時代である。だからこそ貨幣の持つ真の意味を正しく理解しておく必要があるのである。

 貨幣というのは、その時点での貨幣価値を表示した物である。現金とは、その時点での貨幣価値を実現した物である。

 なぜ、通貨を無制限に発行できないのかというと経済財が有限だからである。逆に言うと通貨が無制限に発行できないことは、経済という現象は閉じられた空間の現象であり、経済財に限界がある証拠だと言える。

 もう一つ重要なことは、貨幣価値は、指標的な価値であり、表示された数値は指標を象徴した物だと言うことである。つまり、貨幣価値は、従属的な価値だという事である。
 貨幣価値は従属的変数であり、独立変数にはなりえない。その様な貨幣価値は、比を表したものである。

 貨幣は、対象から象徴化された数の上に成り立っている。

 現代社会において貨幣の働きを知るためには、現代社会がどの様な仕組みによって貨幣を生成し、流通、循環させ、回収しているかを明らかにすることである。



財政,家計と企業会計は、制度的に不連続である。


 現代社会制度においては、財政、家計と企業会計との間に制度的な連続性がない。財政と家計は、現金主義に基づき、企業会計は期間損益主義に基づくからである。

 財政と企業会計とは制度的に断絶している。

 なぜ、中央銀行に発券機能を持たせる必要があるのかというと財政制度と企業会計制度には、制度的連続性がないからである。

 貨幣の働きにとって貨幣の生成、流通、回収の仕組みは決定的な役割を果たしている。貨幣の生成とは、貨幣の発行であり、この段階で貨幣は、性格付けられる。そして、流通を担うのは、金融機関であり、回収は政府が分担する。

 この点を考えると貨幣の働きは、中央銀行の財務構造を分析すればある程度解明できる。
 重要なのは、貨幣は、中央銀行にとって資産ではなく、負債だと言う事である。それは国家財政の性格にも影響を及ぼしている。

 また、貨幣の流れは、家計と企業、銀行の決済書の構造を照合すると見えてくる。銀行では、家計や企業から預かる預金は負債なのである。家計、企業から預かった貨幣を資金が不足する企業や家計に貸し付けることによって資金を循環するのが金融の役割である。循環させるための誘因が金利なのである。

 元々、市場価値というのは、市場取引に付随した補助的価値に過ぎない。それは、貨幣の働きをも制約する。貨幣は。補助的手段に過ぎず。貨幣価値は、経済全体を規定するものではない。

 貨幣価値というのは、人間の意識が生みだした価値なのである。

 複式簿記の原則に従えば、貨幣価値は、取引によって生じ、借方、貸方勘定は、常に均衡する。即ち、取引勘定によって生じる貨幣価値の総和は、常に零(zero-sum)なのである。

 期間損益、即ち、複式簿記を基盤とした経済は、必ず、対極の勘定を見なければ判断できない。
 正には負、負には正、陰には陽、陽には陰の勘定が対応している。
 収入には支出が、消費には所得が、債権には債務が、売りには買いが、貸しには借りが、受取には支払が、対応しているのである。

 貨幣の流れには、波がある。貨幣の流れの波は、経済の不安定要素である。その波を整流するのが経済主体である。
 経済主体には、貨幣の流れは、収入と支出として現れる。収入と支出を期間損益に置き換える事によって資金を調節するのが、経済主体の役割である。



資    金


 貨幣は、資源となった時、資金となる。

 資金の流れには、会計上は、投資に関する流れ、金融に関する流れ、日常活動に関する流れの三つの流れがあるとされている。そして、この三つの要素間を資金は出入りする事、即ち、収入と支出、貸しと借りの間を循環する事によって経済の仕組みを動かしている事になっている。そして、この様な資金は、基本的に残高が問題となるのである。
 三つの流れは、経済主体、即ち、政府、家計、企業、海外においても同じように流れているのである。
 そして、資金の流れという観点から経済では、プラスかマイナスかというとらえ方ではなく。貸しか借りか、収入か支出かという観点で計算し、尚且つ、自然数で残高を有無と多寡を計測するのが原則である。

 資金の流れで重要な事象は、流れる方向と流量と速度である。
 多くの人は、貨幣価値を静止した価値、外形的価値から判断しようとする。外形的価値というのは、例えば、決算書に表示された価値である。しかし、貨幣の実際の働きは、取引に関与した時に発揮される。故に、資金の流れをいかに捉え、計測するかが重要となる。

 経済において、静的な要素と動的な要素を分けて捉えることが重視されているのは、決算において損益と、貸借とをなぜ分けたのかを考えると解る。
 つまり、現在の市場経済は、期間収益を基軸とした経済体制だと言え事である。だから、期間費用が重要なのである。期間収益に貢献しない物は、経済行為から除外する思想なのである。そして、その基盤、根拠は、市場取引の実績を素としていることである。故に取得原価主義を原則としている。
 それは、市場取引を介さない取引を経済的な価値の根拠とすると経済的価値とすると恣意性を妨げないからである。

 元々、会計的価値は、計算上に現れた数値である。
 会計上の事象と現実の事象とは、異質な事象であり、必ずしも一致しているとは限らない。事実は、清算してみないと明確に現れないのである。
 期間損益は、あくまでも会計的事実を根拠とするという合意に基づいているのである。

 当座型企業を基本要素とした経済体制から継続型企業を基本要素とした経済体制に変化したときから会計の本質は変わったのである。当然、会計制度を基盤とした市場の質も変わった。そして、期間損益が確立されたのである。

 当座という一回限りの事業を、事業が完結した時点で清算する思想から、継続事業として、基本的には、期間を永続的な長さ、即ち、無限の先まで引き延ばした時点で、損益、貸借関係は積分となり、利益は、微分となった。
 しかも、清算されない限り、事業の実際は、実績と照合されなくなり、期間損益は、純粋に計算上の数値現象、即ち、数学的現象となったのである。

 問題は、その様な会計の関数的関係によって資金の流れがどの様な影響を受け、また、どの様な運動、働きをするかである。

 資金の流れは、収入と支出によって連鎖的に伝わっていく。収入と支出は、表裏をなす作用である。つまり、ある経済主体の支出は、受け手の側の収入となり、また、収入は、出し手の側の支出となる。又、貨幣の流れの逆方向に財は流れる。この運動が貨幣の流れと物流の流れの基本行き関係である。財の価値は、一度、貨幣に換算されるとそれが、貨幣価値の元と見なされる。それが歴史的原価(historical cost)である。

 企業収入は、借入と増資、収益の和であり、支出は、貸出(預金)、投資、費用の和である。家計の収入は、所得と借金であり、支出は、消費と貯蓄、借金の返済、税金である。財政の収入は、税収と事業収入、国債であり、支出は、投資と費用、国債の返済である。

 資金には、短期的な周期で回転する短期資金と長期的周期で回転する長期資金がある。短期的資金は、消費や消耗品などの財を対象として資金であり、長期的資金は、不動産や設備、耐久消費財などを対象とした資金である。
 短期的資金と、長期的資金では、資金の運用から派生する働きに違いがある。一つは、時間的価値である。もう一つは、貨幣価値の質の問題である。消費や消耗品は一時的な価値しかもたないが、不動産や設備、耐久消費財は、持続的な価値を持つことになる。その為に、長期資金の流れは債権と債務を生み出す。必然的に長期資金と短期資金とでは働きに差が生じる。

 この様な資金の流れる方向は、長期資金の働きにも影響する。長期資金は、潜在的経済価値を形成する。長期資金は、マグマのように経済の地底を蠢いている。

 又、短期的資金は、費用として処理されるが、長期的資金は、債権(資産)、債務(負債)に計上された上、利益処分、資本(純資産)によって清算されることになる。

 企業会計では、総資本、総資産の増減によって資金の流れる方向を見極めることができる。総資産、総資本の現象は、資金が返済、回収方向に流れていることを意味し、総資産、総資本が増大していることは、資金が、投資、運用側に流れていることを表している。

 家計では、短期資金は消費として可処分所得から処分され、長期的資金は、固定的支出として処理される。



金融機関の働き


 金融機関は、短期資金を集めて長期的資金に運用する働きがある。

 銀行に対する取り付け騒ぎは、資金の流れ回収側に促す事象です。それは、短期資金の急激な流動化によって長期資金が融解するからである。

 また、収入や支出には波がある。得に、収入には、大きな波があり、しかも、波の形成には、予測が難しい要素、不確実な要素が多く作用する。それに対して、支出は固定的なものが多い。
 収入は不確実なのに、支出は待ったなしに要求される。不確実な収入をある程度固定的なものとし、固定的な支出に対応させようとするのが企業などの経済主体である。

 即ち、企業は、波のある収入を調節して支出を整流する働きがある。
 企業は安売りのためにあるわけではない。

 収入と支出を一定化する操作の過程で期間損益が計算され、費用が確保されるのである。費用は、所得と消費と表裏をなす勘定である。つまり、費用を基準にして収益は計られるのである。その目安が利益である。利益が上がらなくなれば、収益構造を見直す必要がでてくるのである。ただし、それは、単純に費用や人員の削減に結び付ける事を意味するのではない。なぜならば、費用は、社会的観点から見ると所得と費用の源泉だからである。

 所得は、経営主体によって定収化される。それによって安定的な収入が家計は、保証されることになるのである。

 紙幣は、債務、即ち、負債の根源である。元来、紙幣は、公的債務、即ち、借金である。紙幣が供給されるのに従って債務、即ち、負債と担保、即ち、資産は増大する。紙幣が回収されるのに従って負債と資産は減少する。
 紙幣を発行する際に担保するのは、国債である。国債が担保しているのは、将来の税収と事業収益、国有財産である。
 国債が無原則に増大するのは、借金の技術が稚拙だからである。

 投資の側に資金が流れれば、実質的価値が増大するのと同量の名目的価値、即ち、負債が増大する。貨幣価値を増やす手段は、実質的市場に資金を廻すことだが、それ以外に元金を担保して借金をする事でも可能である。実質的市場に資金を回せなくなると金融機関は、名目的な負債を増やすことで貨幣価値の増殖、即ち、収益をあげようとする。

 家計の金融資産は、金融機関の負債であり、金融機関の負債は、企業の負債であり、企業の負債は、他の企業と家計の所得なのである。

 家計の消費は、支出であり、企業の所得、収入となる。家計の貯蓄は、金融機関の負債となる。家計の借入は、金融機関の貸出、投資であり、企業の収入、所得に転化する。

 借入金の返済も、預金も資金の流れから見ると同方向に流れる行為である。ただし、借入金の返済は、強制力を持つが、預金は、選択的だという違いがある。

 消費も、借入も、投資も、資金の支出という点では、資金の流れる方向は同一である。

 収入、支出には、約定に基づく収入と支出、相場(市場取引)に基づく収入と支出がある。

 収益が減少したことで資産を売って借入金の返済に充てることは、回収方向に資金の流れを変えることである。

 緊縮財政を敷いて、規制を緩和するのは、市場を最も収縮させる政策である。なぜならば、収益を悪化させる上に資金を回収側に向ける政策だからである。

 自己資本規制は、資金を回収側に向ける政策である。なぜならば、総資産の規模に一定の枠を設定する施策だからである。この様な施策は、総資産の増大に一定の歯止めを掛けることになる。

 時価会計は、その時点での景気の動向を加速させる作用がある。
 デフレーション下の時価会計は、デフレーションを加速する。


財政と貨幣


 財政は、仕組みである。財政を国家の収支を表したものと錯覚している人が多い。しかし、財政というのは、貨幣を循環させる仕組みである。その意味では、資金を循環させる仕組みが形成されているか、否かが、財政の健全さを維持するための鍵を握っている。
 慢性的な財政赤字が解消できないとしたら、財政の仕組みに何等かの欠陥があるのである。

 財政が貨幣を循環させる仕組みになっていない。それが財政問題の根底にある。財政を現金の収支という断面からしか捉えていないのが原因である。
 なぜ、財政を現金収支という側面でしか捉えていないのかというとそれは、財政が成立した当初に問題があるからである。
 その問題の根本に税制と貨幣制度がある。税制度と貨幣制度が結びついていないことが最大の問題なのである。

 近代的な意味での貨幣制度が確立されていない時代では、貨幣が、交換価値としての本来の機能を持つためには、貨幣その物が実物価値を持つ必要がある。
 その為に、金、銀、銅と言った高価な価値を持つ物が実物貨幣の素材として選ばれたのである。
 ただ、貨幣は、当初、税と結びついていたわけではなく。支払手段の一部として考えられていた。
 納税の手段は、専ら、物や使役による物納が主であった。

 実物貨幣は、実物貨幣が形成された当初、一方的に貨幣を市場に放出、供給し続け、回収を前提としていなかった。
 回収を前提としていない財政の仕組みでは、金、銀と言った実物貨幣の素材となる原材料が底をつけば、貨幣を供給することができなくなり、財政は破綻してしまうのである。

 実物貨幣制度下における権力者の濫費は景気を活性化する要素となる。ただし、貨幣の素材となる金や銀の供給が断たれると財政が破綻する。財政の破綻は、権力の終焉に繋がる可能性が高い。

 また、このような状態では、貨幣は垂れ流し状態になる。
 貨幣が垂れ流しされることで市場に貨幣を浸透させる作用があるが、貨幣制度と財政が一体的な仕組みとしては結びつかない。

 この様、金貨や銀貨、銅貨の垂れ流し状態が続くと、金や銀、銅の所有者が公的な機関から私的機関へと転移してしまう。
 金や銀が底をつくと貨幣によって調達していた物資が滞るようになる。そうなると公的な機関は、貨幣を私的機関から借りるか、税として徴収するようになる。

 私的機関は、期間損益は、収益と費用とを対応させることで、資金が循環する仕組みを構築した。つまり、見返りを前提とした仕組みを作ったのである。

 税には反対給付がない。故に、収益と費用とを結び付けて制御する事ができないのである。即ち、期間損益主義確立採れていないのである。
 その為に、財政は、未だに仕組みとして確立されていないのである。

 又、物は、負の価値を持たない。貸し借りの関係が生じても、記憶か記録に頼らざるを得ない。記録は、特殊な技術を必要としたため、必然的に情報に非対称性が生じることとなる。
 負の価値は、貨幣が流通することによって成立する。つまり、貨幣価値とは、負の価値を意味するのである。その点を理解しないと貨幣の働きを理解することはできない。

 期間損益という観点からすると黒字は良で赤字は悪だとばかりは言いきれない。収益と費用との均衡化に判断すべき事なのである。

 財政不均衡が慢性化するのは、財政が、貨幣の循環を前提として組み立てられていないことによる。
 つまり、税というのは、行政支出を補填する目的に依ってしか組み立てられていないのである。

 血液が全身を循環するように、貨幣は、市場全体を循環していなければ市場は機能しない。血液は全て心臓を経由しなければならないように、財政の仕組みにも心臓部が必要となる。そして、その心臓部は、全ての貨幣が環流されなければならない。貨幣を循環させるためには、財政が貨幣を循環させることを目的として構築されている必要がある。

 貨幣制度が成立する要素の一つは、余剰生産物と余剰労働力の問題がある。
 農耕などによって生産力が増大すると余剰生産物を生み出す。余剰生産力は、裏返すと労働力の過剰を意味する。この余剰の生産物と労働力を解消する必要性が生じるのである。

 余剰労働力を吸収した事業の大きいの部分を占めているのが、軍事と宗教である。そこに、軍事と宗教の果たした経済的役割の秘密が隠されている。
 この事は財政の本質的な部分を暗示している。

 資金が消費の方向に流れるか、投資の方向に流れるかが、重要なのである。
 投資にも、在庫投資、設備投資、建設投資、金融投資、軍事投資がある。在庫投資は、製造業に、設備投資は、機械産業に、建設投資は、建設業に、軍事投資は、軍事産業に資金を環流する。
 気をつけなければならないのは、軍事産業は、拡大再生産のない、自己完結型の閉ざされた産業だという点である。

 収益は、原価と付加価値から成る。
 経済的価値は、付加価値によって形成される。
 付加価値は、人件費と減価償却費、利子、地代、そして、利潤である。付加価値は、費用と利益によって構成されている。
 人件費は、所得を形成し、利子と地代、利益は、時間価値を形成する。
 資産に対する投資は、他経済主体の収益、所得の方向に資金を流す。資産には、償却資産(建物、設備)と非償却資産(土地)がある。償却資産は、費用性資産であり、将来費用に転化する資産であると同時、負債の返済原資となる。
 投資は、資産を形成すると同時に負債を発生させる。一度負債が形成されると負債に対する返済義務が生じる。
 元本(負債)の返済資金にあたる部分は、減価償却費(費用)と税引き後利益(資本)である。
 元本(負債)の返済と金利(費用)で、この部分は、金融機関に環流する。
 非償却資産の返済資金は、費用化されずに、新たな借入の因子となる。この部分は、長く滞留して、貨幣の通貨量に影響する。

 積極財政は、通貨の流通量を増やす反面、財政支出を増加させる。
 緊縮財政は、通貨の流通量を減少させる反面、財政支出を減少させる。

 公共投資は、雇用を創出し、雇用を高める。反面、財政支出を増大させる。又、公共投資に支出された資金も再投資に向けられないで返済に廻されれば、乗数効果は期待できない。単に負債を民間から国家に移転したに過ぎなくなる。

 購買力は貨幣が生み出す力ではない。購買力を生み出すのは、人と財である。それに対し貨幣は、購買力を裏付け、発現させる。

 財政政策は、その時の前提条件、即ち、景気動向や資産の動向を確認し、収入と支出両面に与える影響を考慮に入れて判断すべき事である。増税が収入の増加に繋がるとは限らないし、減税が収入の減少に繋がるとも限らない。

 競争を促進するような規制(規制緩和策)に変更することは、市場取引を活性化させる反面、企業の利益率を低下させる。競争を抑制するような規制(規制強化策)に変更することは、利益率を向上させる反面、市場取引を沈静化する。

 固定費と操業率の関係が産業の性格を考える上で重要になる。初期投資が巨額にのぼる産業は、損益分岐点が高く、勢い、操業率を高めることによって利益を確保しようとする。その為に乱売合算に陥り、自らの収益構造を悪化させて、自滅してしまうことがある。この様な産業は、規制が必要とされるのである。

 金融政策は、通貨の流量を加減する。

 実際に市場に流通している貨幣の量と発行された貨幣の量は必ずしも一致しているとはかぎらない。貨幣が実質的に流通している量と発行された量との比率、及び、貨幣の回転数が貨幣の効率を表している。

 市場が拡大している時は、通貨の流量を増大し、市場が縮小している時は、通貨の流量を減少させるように調整するのが原則である。

 流量を増やして栓を閉めれば破裂する。
 金利を下げ、量的緩和策をして、規制を緩和すれば、過剰流動性が発生する。貨幣の流量を増やして、収益を悪化しすれば、貨幣の圧力が高まって破裂するのである。

 貨幣が不足すると物流に支障、齟齬が生じ不況となる。

 金利の上昇は、企業の収益力を圧迫するが、時間価値を上昇させる。金利の低下は、企業の収益力を向上させるが、時間価値を下降させる。

 経済現象は、人の経済、物の経済、金の経済が複合して起こされる現象である。インフレーションにもインフレーションを引き起こす、要因が、人の経済、物の経済、金の経済、各々にある。

 物の購買力を決めるのは、貨幣ではない。人の消費意欲である。人の消費意欲は、必要性から生じる。人が必要だと思えば、購買力は高まり、必要でないと思えば、購買力は低下する。故に、貨幣の流通利用を増やしただけでは、消費は高まらず、貯蓄ばかりが積み上がってしまう。つまり、根本は人の経済である。

 増税は、基本的に可処分所得を減少し、財政収入を増加させる。減税は、財政収入を減少させ、可処分所得を増加させる。ただし、増税が、即、財政の増加に結びつくとも限らないし、減税か、即、財政の減少に結びつくとは限らない。
 増減税が景気にどの様な作用を及ぼすのかによって財政収支の変化は決まるのである。
 ただ、財政収入は貨幣の回収を意味し、財政支出は、貨幣の放出を意味していることを忘れてはならない。

 税にも現金主義に基づく税や期間損益主義に基づく税、物的経済を基礎とした税、人的経済を税とした税などがあり、各々その働くところが違う。税が作用を及ぼしている部分が重要なのである。

 例えば、法人税、企業の所得税の増税は、長期借入金の原資を返済を圧縮する。その為に、資産の流動化、或いは、借入金を増加させる。

 リース分割払いは、資金から見ると借入金と同じ方向の資金の流れや同じ働き、同じ性格を持つが、損益上、借入金の元本の返済が利益処分と減価償却費から処理されるのに対し、リースや分割払いは、固定的費用となる。当然、納税額にも影響する。

 この様な資金と損益の働きの違いは、経営者の行動規範に微妙に差を生じさせる。利益処分か費用処理かで資金繰りに重要な違いが生じるからである。

 必要な物資が不足すれば物価に上昇圧力かかかる。物が過剰になれば物価には下降圧力が働く。物が不足すれば物の値段が上がるこれは当然の理である。

 物の供給が不足すれば物価は上昇する。

 市場が機能するためには、市場を適度な数の企業が競合している状態に保つことが要求される。

 生産拠点、輸出拠点が特定の地域や企業に集中したり、偏ることは、経済の公正上、望ましくない。

 個々の国家は、経済的に自律している事が要求される。生産に偏ったり、消費に偏ることは好ましくない。その為には、自給できる物資は、極力自給できるようにするのが妥当な政策である。

 輸出可能な物資と輸入しなければならない物資(必要物資)とを明確に区分しておく必要がある。

 経済的に不安定な要素を安定化するのが金融や企業、政府と言った経営主体の役割なのである。

 貨幣自体は、財産たり得ない。なぜならば、貨幣の価値は、金利がつかない限り、時間の経過と伴に減価するからである。
 貨幣は、使用されることによって市場で価値を発揮する。貨幣は、市場に循環していない限り、機能しないのである。
 当に、金は天下の回り物なのである。

 人類は、まだ、貨幣の本当のありがたみを知らない。だから、私利私欲に従って貨幣を独り占めし、手にした貨幣を他人に廻そうとしなくなるのである。そうすると貨幣は、本来の働きをしなくなる。人間が、貨幣によって欲をかけば、欲をかいただけ、貨幣は、人間に報復するのである。貨幣は使うことによって効力を発揮するのである。
 貨幣は、公の道具である。貨幣は、分配のための手段なのである。個人が私し、独り占めできるような性質の物ではない。故に、貨幣には個性が求められないのである。

 所得は、労働の対価として支払われるのが原則なのである。
 問題となるのは、労働の対価として支払われる所得と生活していく上に必要とされ、消費される費用とが均衡しているかどうかなのである。

 所得は、費用であり、実質的価値であるが給与等によって貨幣化される事で名目的価値に転化され収益化される。



価値とは


 貨幣価値と言うが、それでは価値とは何かと言われると判然としていない。判然としていないままに、貨幣価値を是非を論じていることが多い。貨幣価値を問題とするならば、先ず価値という概念の構造を明らかにする必要がある。

 価値は、価値を認識する主体と価値を認識される対象によって構成される。そして、価値を表現するためには、価値を表す象徴が必要となる。価値を表す象徴は、言葉や数字等である。
 貨幣価値においては、貨幣を表す基準が貨幣体系である。

 価値は、自他の認識の差を認めたところから始まる。
 価値とは、差であり、違いであり、変化である。

 貨幣価値で言えば、安価な物より高価な物の方が価値がある。無償な物より、有償な物が価値がある。時間価値で言えば、将来、値が上がる物の方が価値がある。前者は差であり、後者は変化である。不味(まず)い、美味(うま)いは違いである。

 価値とは、位置である。位置とは差である。故に、価値は、差によって生み出される。
 経済的価値には、人的価値、物的価値、貨幣的価値がある。
 人的価値は、労働価値であり、単位労働当たりの所得差として表される。
 物的価値とは、財の持つ物理的差、効用の差であり、数量によって表される。また、質、量、密度として測られる。
 貨幣価値というのは、財の持つ貨幣的位置付けである。貨幣的位置付けは、価格差として表される。貨幣価値は無次元の量である。
 時間価値とは、時間によって作り出される差である。時間価値とは、時間差によって生じる価値である。時間差とは、過去、現在、将来の時点間の差を意味する。時間的価値の差とは、過去価値、現在価値、将来価値の差である。
 時間価値は、金利として表される。

 貨幣の効率を考える上で、貨幣は何に役立っているのかを見落としてはならない。それが貨幣の働きを意味するのである。

 自由主義経済は、人、物、金、時間の四つの次元から成る経済体制である。
 経済的効率は、この四つの次元の均衡上に成り立つ基準である。偏りは非効率を意味する。

 経済効率を測る尺度は、生産性だけにあるわけではない。例えば労働効率である。

 労働効率は、労働意欲の問題である。労働意欲は、労働の価値をいかに評価するかにかかっている。労働の価値の評価は、個人所得に還元される。故に、労働価値は、所得差として表される。

 経済効率の良し悪しはは、人、物、金、時間の四つの次元が偏りなく均衡している状態か、否かによって測られる。

 日本は空港に巨額の投資をすることによって空港の効率を低下させたのである。それは、空港の効用と貨幣価値の効率とが均衡していないからである。

 貨幣価値で重要なのは、貨幣価値の効率である。

 貨幣の効率は、必要最小限のマネタリーベースで最大の効用を引き出すことであり、その為には、マネーサプライとと貨幣の回転数が重要な鍵を握っている。マネタリーベースを最小限に抑える必要があるのは、貨幣の発行量というのは、公的債務の量に相当するからである。故に、貨幣の効率を高めるためには、貨幣の回転数を高めることが肝要となる。

 実物価値が資産を貨幣価値が負債を労働価値が収益を時間価値が費用を形成する。資産と費用は、実体的的価値であり、収益と費用は、名目的価値である。資産と費用、負債と収益を区分するのは、長期、短期の時間の働きの差である。資産と負債、費用と収益は、貨幣の働きを介して相対勘定となり、表裏の関係を形成する。

 金利によって時間的価値は、先導され、実質的価値は、時間価値を軸にして測られる。

 原価主義と時価主義の違いは、原価主義は名目的価値に依拠し、時価は、実質的価値に依拠しているという点である。
 原価は、確定的で負債に連動している。時価は変動的で資金に連動している。時価は、実物市場を反映している。


価値と効用


 価値とは、効用である。効用とは、価値を認識する主体にとっての有用性である。対象となる事象に有用性を認めなければ、対象は無価値となる。

 豚に真珠、猫に小判と豚や猫を馬鹿にするが、それは、人間の価値観である。人間は、金のために人殺しまでするが、豚や猫は、相手を殺してまで手に入れるほどの価値を金に認めないだけである。では、豚や猫と人間、どちらが真の価値を知っているというのであろうか。自分達の価値観を絶対視し、相手を馬鹿にするのは傲慢なだけである。
 有用性は、相対的であり、個人差がある。即ち、価値とは、本来、主観的なものである。
 価値が生じるのは、価値を見出すものにとって対象となる事象が何等かの有用性を持つからである。

 効用、即ち、有用性には、使用価値と交換価値がある。
 使用価値とは、対象となる物や行為の実際の働きから発生する価値である。交換価値とは、対象となる物や行為を交換するときに発生する価値である。
 貨幣は、交換の基準であり、交換の手段、道具である。交換は、貨幣にとって働きでもあり、交換手段でもある。つまり、貨幣価値というのは、価値を測り交換の仲立ちをするという働き、即ち、使用価値と交換手段、即ち、交換価値という二重の意味で交換に関わっているのである。

 貨幣価値に二つの意味がある。一つは、貨幣その物の価値である。もう一つは、貨幣価値の働きによる価値である。なぜならば、貨幣は、価値を表す尺度、基準だからである。

 この様な貨幣価値の持つ二面性から貨幣価値が、貨幣によって表現された価値と対象その物の持つ価値の二つの価値から成り立っていることが明らかになる。

 貨幣その物が持つ価値とは、というのは、言い換えると貨幣の効用である。では貨幣の効用とは何かである。貨幣の効用とは、交換の仲介にある。貨幣は交換手段なのである。

 貨幣の働きが持つ価値とは、貨幣の効用によってもたらされる価値である。貨幣の効用とは、交換によって成立する価値である。

 交換が成立するためには、先ず交換の対象となる物や行為がなければならない。さらに、交換の対象となる物や行為の出し手と受け手がいなければならない。

 問題なのは、物や行為そのものの価値と、出し手が認識している価値、受け手が認識している価値が一体でないという事である。つまり、貨幣価値は、三つの価値が各々独立して存在しているという事を意味する。それを一体化する行為が市場取引なのである。

 貨幣価値とは、象徴的、抽象的価値であり、価値の実体は、物そのものの側にある。故に、貨幣価値は、名目的価値と言われ、実質的価値は、物そのものの側にあることになる。

 例えば、自動車の有用性は、自動車の側にある。自動車の価格に有用性があるのではない。自動車の価格は、自動車の取引、即ち、自動車と貨幣とを交換する際に基準となる指標である。

 経済行為の中で、貨幣が機能するのは、交換を必要としている部分に関してのみなのである。交換を必要としない部分に貨幣が偏ると貨幣が社会全般に万遍なく行き渡らなくなり、貨幣の循環に障害が生じる。

 貨幣の働きは、交換を元として成立している。貨幣価値は、交換価値なのである。
 貨幣価値には、象徴的な要素が含まれる。しかし、その象徴性も交換を前提としなければ成り立たない。
 所有価値とは、所有することによって生じる価値である。しかし、所有という概念それ自体が交換を前提として成り立っている。
 希少価値も、交換価値の一種だと見なせる。なぜならば、希少性も交換を前提としなければ意味がないからである。
 希少と言う事から派生する効用、所有すると言う事から生じる効用も交換を前提として価値を形成するのである。

 貨幣というのは、決済の道具、手段なのである。決済とは、貨幣と財とを交換することによって貨幣価値を実現する事である。この場合の貨幣価値とは、交換を意味する。即ち、貨幣の効用とは交換の媒介にあるのである。この交換という行為を通じて貨幣は、色々の働きを発揮する。つまり、貨幣の働きは、交換によって副次的に発生する作用である。この点を誤解し、交換を前提とせずとも貨幣自体に交換以外の何等かの効能を持たせようとすると貨幣は本来の働きをしなくなる。その好例が、滞貨である。
 貨幣価値の本質は差である。差によって貨幣価値は生じる。故に、貨幣価値には序列が成立する。

 貨幣価値は、数値によって表された体系である。

 貨幣価値は、連続量である。又、貨幣価値は、順序集合である。
 貨幣価値は、数直線として表すことが可能である。
 貨幣価値というのは、自然数からなる一様な数直線に置換できる。
 一物一価を原則とすると物の貨幣価値は、貨幣価値を表す数直線上のいずれかの点によって位置付けられる。
 この様な数としての特性が貨幣価値の性格を形成している。


為替制度


 仮に、円とドルとの価値が等しいとする。この仮定に基づいて、百億円をドルに両替するとする。この取引をドルの側から見ると百億ドルを円に両替する取引となる。円とドルを百億円両替するという事は、百億円と百億ドルを交換する取引をしたことになる。
 また、百億ドルと百億円を両替するためには、ドル側は、百億ドルを円側は、百億円を新たに用意する必要が生じる。そして、用意されたドルは、ドルの通貨圏で、円は、円の通貨圏で使用されることになる。つまり、それだけ通貨量が増加することになる。
 その結果、ドル側には、百億円を手に入れ、円側に百億ドルを手に入れたことになる。百億円は、円の通貨圏内でしか通用しない。そこでドル側は、円の通貨圏で、円を使って財を手に入れることになる。ドルは、円と違い、基軸通貨であるから、国家間の決済にも使用できる特徴がある。しかし、ドルの消費は、ドルの通貨圏の範囲で行われるのが原則である。
 仮に、ドル側は、手に入れた百億円を全て円の通貨圏で商品を買って消化したとする。それに対して、円側は、百億円の内三十億円しか消化しきれなくなったとする。
 そうなると、使い道のない七十億ドルが円側の手元に残されることになる。それが経常黒字の意味である。
 残されたドルは、国家間の両替、決済のための準備資金、即ち、外貨準備の残高となる。また、単にドルを現金で持っていても仕方がないので、手持ちのドルで流動性の高いアメリカ国債を買ったとする。それが資本収支となり、ドルをアメリカに還元する取引となる。
 円側にとって手元に残されたドルは、自国の通貨圏では使い道がないから、ドル側に引き取ってもらうか、第三国に売ろうとすれば、当然安く買いたたかれる。それがドル安、円側から見れば円高を誘うことになる。
 為替というのは極めて構造的なものである。

 現在の為替取引は、物と物の取引でも、物とお金(通貨)の取引でもない。通貨と通貨の取引である。この点が重要なのである。

 ただ、複本位制度や金本位制度のような実物貨幣を基とした時代においては、貨幣は、貨幣としての価値だけに限定されずに、物としての価値も併せ持っていた。故に、為替取引も物と物の交換という側面を持っていたのである。
 金本位制においては、金貨の自由熔解が認められていた。また、国境や通貨圏を越えて貨幣が流通することが可能だったのである。しかし、表象貨幣の場合は、別である。あくまでも、通貨が通用するのは、通貨圏の内部だけであり、一部、両替が可能な場所があると言うだけである。現在のような表象貨幣制度下では、原則、為替取引というのは両替取引に限定されるのである。

 物と通貨の交換取引ならば、影響するのは物と通貨の流れではなく。金と金の流れである。国家間の取引において物と金の流れを集計した指標は、経常収支であるが、金と金の取引を集計した指標は、資本取引である。故に、為替相場に直接的に影響するのは、資本取引である。ただし、その資本取引の背景には、交易、即ち、物の流れが存在する。
 以上のことを鑑みると、為替相場を主導するのは資本取引であり、その相対勘定として経常収支があると見なされる。即ち、為替相場は、資本取引と経常取引が均衡するような方向に変動する。

 為替取引とは、通貨対通貨の交換取引だと言う事である。交換取引と言う事が鍵なのである。
 為替取引というのは、対内的為替取引と対外的為替取引がある。対内的為替取引というのは、同種の通貨間で行われる為替取引であり、対外的為替取引というのは異種の通貨間の交換取引を言う。異種の通貨との為替取引というのは、異種の通貨の両替取引、交換取引、つまり、通貨圏間の為替取引を言う。
 対外的為替取引、即ち、異種の通貨間の交換取引で重要なのは、交換する量の比率である。
 通貨圏間でなぜ、交換する必要があるのかである。基本は、貿易における決済である。為替制度の根本は、決済の仕組みである。その点を忘れてはならない。
 そして、その決済に必要な要素が為替相場を動かす要素でもある。決済に必要な要素というのは、外貨準備、経常収支、資本収支、国債、そして、金利差である。国債は、自国通貨と相手国の通貨を交換するための資金を捻出するための手段でもある。つまり、外貨準備に対応するための自国の通貨の準備である。
 又、国債で重要なのは自国通貨建てか、外貨建てかである。この点も資金の流れる方向に重大作用を及ぼし、為替相場にも関連する。
 交換した要した通貨量、両替した通貨は、国内の物価、財政に重大な影響を及ぼす。この点を充分に考慮して政策は立てられなければならない。
 貨幣の流れる方向は、つまり、国内に向かって資金が流れか、海外に向かって資金が流れるかは、資本収支の過不足によって決まる。
 資金の流れる方向は、貨幣の流通する量に直接的な影響を及ぼす。

 通貨圏間における為替取引の根本は、両替取引である。両替取引というのは、通貨と通貨の交換取引を意味する。通貨圏は、決済という取引によって接続される。国際間の決済の仕組みがあって自由な交易は、はじめて可能となる。
 一つの貨幣制度によって形成された通貨圏内の取引は、制度で定められた交換手段、即ち、通貨しか通用しない。円通貨圏では、円しか通用せず。米ドル通貨圏では米ドルしか通用しない。
 即ち、財の貨幣価値の変換は、交易当事者国間の通貨の交換を仲介して成り立っている。この通貨の交換の仕組みが為替制度なのである。
 故に、両替取引によって両替されされた通貨の総量が交易取引、即ち、経常収支の総量の上限を規制する。

 通貨圏間における為替取引とは、この国際決済に必要な通貨を交換する取引である。
 その意味において、資本取引は、経常取引、交易の貨幣的基盤を設定する取引といえる。この様な資本取引は、金と物との内的取引を前提とた取引である。

 対外的為替取引を考える上で重要となるのは、経常収支+資本収支+外貨準備増減=0という方程式である。これは通貨圏間の交易構造を表す方程式である。
 これは、経常収支+外貨準備増減と資本収支とが均衡しているという意味にもとれる。また、経常収支の裏付けを資本収支と外貨準備がしているともとれる。又、経常収支と資本収支の差が外貨準備になるとも言える。

 経常収支に対応しているのは、資本収支と外貨準備である。資本収支と外貨準備に影響をするのは、外貨建て国債である。外貨建て国債は、外貨準備と財政収支に影響を及ぼす。

 また、外貨準備>0、或いは、前期外貨準備残高+外貨準備増減>0でなければならない。この点が重要である。

 資本取引は、本質は投資である。

 投資が設備投資の様な拡大再生産に結びつく投資ならば、経常収支に結びつくが、ただ、金銭の貸借に止まっている限り、収支の改善にはむかない。

 問題なのは、経常収支と資本収支の中味である。特に、資本取引は、長期資金の働きを規制する取引であるから、その内容が資金の性格を決定付ける。

 資本取引というのは、言い替えると投資取引であり、短期資金を長期資金に振り返る操作である。投資取引というのは、資金の回収を前提とした取引、つまり、負の取引だと言う事である。資金の回収が見込めなければ、交易上の不均衡は拡大する一方で、是正できないことになる。つまり、何等かの実物取引を前提とする必要があることを意味する。
 ただ、金を借りるための取引、或いは、自分の資産を売るだけの取引では、結局、資金を回収する目処、つまり、収益を見込める目処が立たない。つまり、そのままでは、事業資金にはならないのである。何等かの事業に対する投資に転化することによってはじめて資金の回収が可能となる。資本収支の内容によって資金の性格を決定付けるのである。

 現在生起している経済現象に対して、今、要求されるのは、金融ではなく、実業である。実物経済に経済が廻らなければ、歪みは恒常的なものとなり、拡大する一方で是正されない。問題なのは、長期短期の時間構造であり、資金の流れる方向なのである。

 外貨準備というのは、国際取引における決済のための支払準備を意味する。
 金本位というのは、支払準備のために、金を担保する制度を言うのである。
 担保する物は、本来、何でもいいのである。金でも、銀でも、国債でも、土地でも、宝石でも、美術品でも、石油でも、それこそ、特定の国の通貨でも、公式な国際市場において貨幣価値が確定できる物ならば何でもいいのである。
 通貨圏の当事者間の取り決めによって定めればいいのである。

 国際市場の趨勢が単本位制である場合、他の本位制を採用することは、実際的ではない。日本が明治維新に際し、世界の趨勢が、金本位制を採用しつつあるのに、一時、銀本位性を採用しようとして失敗した。
 交易相手国の趨勢が金本位を採用している場合、日本だけが銀本位を採用するわけにはいかない。なぜならば、交易の決済が相互の本位貨幣に基づくからである。
 日本は、東の金遣い、西の銀遣いというように、江戸と大坂で金と銀を使い分けていた時代がある。その場合は、複本位制を採用せざるをえない。

 特定の国の通貨を基軸通貨とし、基軸通貨を外貨準備として認める体制を基軸通貨体制という。
 基軸通貨体制では、基軸通貨には、国際決済における貨幣基準を一元化する機能がある。

 基軸通貨制度には、単一基軸通貨体制、複基軸通貨体制、決済専門の基軸通貨体制がある。

 現在の国際為替体制は、米ドルを基軸通貨とした体制である。その場合は、基軸通貨である米ドルを担保した体制であり、基軸通貨国であるアメリカは、自国の通貨である米ドルを外貨準備として提供することを前提とする。
 必然的に現在の様な体制は、基軸通貨国の経常収支と財政収支に重大な影響を継続的に与え続けることになる。

 米ドルの特異なことは、米ドルは基軸通貨だという点と、石油の国際決済が米ドルで行われているという二点である。

 資本取引においては、金利差が重要な役割を果たしている。金利差は、資金の流れる方向に対して決定的な役割を果たす要素の一つである。
 時間的、空間的金利差は、資金の流れる方向と速度に影響する。時間的というのは、過去、現在、未来の金利差である。時間的金利差は、長期、短期である。又、未来は、予測の域を出ない。空間とは、特に、国の内外の金利差が影響する。


通貨制度と通貨圏の関係


 一つの制度は、一つの領域、圏を形成する。
 一つの通貨制度は、一つの通貨圏を形成する。それは必ずしも行政圏とは重複しない。通貨圏は、通貨制度が作り出す空間であり、行政権は、行政制度が作り出す空間である。

 一つの貨幣制度が一つの通貨圏を形成する。即ち、通貨制度の数だけ通貨圏が存在することになる。そうなると通貨圏と通貨圏とを接続するための仕組みが必要となる。その仕組みが国際為替市場制度である。為替市場は、国際市場と複数の通貨圏からなる。

 貨幣価値は、一つの通貨圏においては、一様である。
 問題は、通貨圏を跨いだ取引である。
 通貨間を跨いだ取引というのは、複数の貨幣制度、貨幣基準が作り出した通貨圏間の変換を前提とした取引だと言う事である。

 重要なのは、一つの物の貨幣価値が一定していないで、数直線上を変動しているという事である。
 この様な変動は、時間や空間の変化によって引き起こされている。そして、変動によって利益は形成されるのである。その媒体となる行為が交換である。

 通貨制度が成立すると通貨の有効範囲が特定され、通貨圏が形成される。通貨圏が形成されると通貨の有効性によって排他的な領域が形成され、内外の別が生じる。
 通貨圏を構成する要素、第一に、通貨制度。第二に、通貨の発行権と発行元。第三に、通貨制度の有効範囲。第四に、行政機関と行政範囲。第五に、決済の仕組み。第六に、市場である。
 これらの要素が複雑憎み合わさって通貨圏を形成してきた。

 通貨を構成する要素の違いによって通貨制度の仕組みに違いが生じる。
 題意に貨幣制度の在り方である。通貨制度の在り方には、第一に、一つの貨幣制度に統一されている。第二に、主となる貨幣制度と補助的貨幣制度がある。第三に、複数の貨幣制度が成立している。

 第二に、貨幣の発行権と発行元である。第一に、貨幣の発行元が一つ場合である。第二に、貨幣の発行元が複数ある場合である。

 第三に、行政機関と貨幣の発行元との関係である。第一に、行政機関と貨幣の発行元が同一な場合と第二に、行政機関と貨幣の発行元が違う場合である。行政機関と貨幣の発行元が違う場合でも行政機関に対して貨幣の発行元が従属している場合と行政機関に対して貨幣の発行元は独立している場合がある。
 又、貨幣の発行元の組織の問題もある。即ち、発行元となる機関、多くは中央銀行が公的機関か私的機関かの問題である。

 第四に、行政圏と通貨圏の関係である。行政圏と通貨圏が一致している場合と一致していない場合がある。
 行政圏と通貨圏が一致していない例は、第一に、複数の国が連合して一つの通貨圏を共有している場合がある。第二に、貨幣の発行元が行政範囲の外にある場合が考えられる。その場合、貨幣制度が他の国の貨幣制度に連結している。貨幣制度が他の国の貨幣制度に従属している場合などがある。

 現在の通貨制度は、一つの貨幣制度によって一つの通貨圏が形成され。一つの貨幣の発行元によって貨幣の通貨量を制御する仕組みが一般的となっている。
 
 この様な通貨体制では、一つの通貨圏は、一つに内的決済制度を持ち、一つの排他的、内的市場を形成する。他の通貨圏とは、外的決済制度によって連結される。この様な外的決済制度が国際為替制度であるる

 この様な通貨体制では市場の状態は、熱力学的関係に似ている。
 市場の内的エネルギーは、通貨の流通量と供給量、市場に流通する財の量と供給量、そして、市場の購買力によって決まる。購買力は、消費者の所得と分布に制約される。
 通貨の供給量は、発行元によって制御される。
 市場に対する財の供給量は、外部から財の供給量がない限り内部の生産量に制約される。外部から財を供給するためには、外貨を準備する必要がある。

 国際市場空間による経済変動は、複数の通貨圏や複数の市場の存在によって引き起こされる。

 通貨圏は、為替市場によって結びついている。為替市場は、通貨間における通貨の変換を行う場である。為替市場では、通貨間の決済は、通貨取引を通じて行われる。通貨取引は、通貨の売買によって成り立っているため、通貨間の相対的価値を変動させる働きがある。

 通貨圏間の通貨水準を調節する仕組みが為替制度である。為替制度は、通貨圏の決済を取り仕切ると同時に、通貨水準や経済状況の変動が通貨圏内部に与える影響を最小限に止めるのが通貨制度の役割の一つである 
為替をいじくり廻すのは感心しない。為替は安定が一番大切である。なぜならば、為替の変動は、経済構造の深部に重大な損傷を与える危険性が高いからである。

 為替制度の問題とは、なぜ、複数の通貨圏が成立したのか。又、なぜ、複数の通貨圏が必要なのか。言い換えると、なぜ、複数の貨幣制度が必要なのかという事が問題なのである。

 複数の通貨圏が存在することの利点と欠点を比較することが肝要なのである。

 それは、なぜ国家が成立し、必要なのかという問題と同質の問題でもある。
 国家の基盤が違うと言う事がある。国家の基盤とは、建国理念の違いと言ってもいい。又、文化や地理的要件の違いもある。文化の違いとは、歴史や伝統、風俗や習慣、宗教等の違いである。地理的要件とは、天然資源の有無や気候の変動、地形的な問題等を言う。
 世界主義、地球主義というのは、文化や建国理念の違いを本質的な違いだと見なさないことによって成り立っている。必然的に世界を一律、統一的制度によって統合しようという思想に繋がる。この様な考え方は、国際共産主義や一神教的な思想を背景にしている場合が多い。
 国家は、国民国家が成立することによって確立された概念である。国民国家は、制度によって一様な力が働く領域、範囲が画定されることによって成立する人的空間である。
 これらの点は、複数の通貨圏が存在する要因ともなる。
 通貨圏の問題とは、文化の問題であり、主権の問題なのである。かつて、共産圏と自由経済圏は、通貨制度においても断絶していた。それが、国際社会の目に見えない壁を築いていたのである。

 通貨圏は、排他的な空間を前提とする。排他的な空間は、内と外との境界線を持ち、境界線の内部では一様な力が働いてくような仕組み、制度が存在する。

 複数の通貨圏や複数の市場が存在することによって物の価値と通貨圏間や市場間の貨幣価値の調整が必要とされる。
 本来物の価値は、同一であるはずである。ただ、通貨圏や市場をまたがることによって交換価値が変化してしまうのである。


基軸通貨と金本位制度


 日本国内で円を使う場合、日本人は、円が何を担保しているかなどと言うことを意識することはない。円の有効性は、日本という国に対する信認に依って保たれているのである。しかし、日本以外の国で円を使用しようとした場合は違う。
 円以外の通貨圏から物を買う時、円の価値を何が保証するのか、円は、何によって担保されているかが重要となるのである。
 金貨であれば、金の価値と貨幣の品位が問題となる。兌換紙幣であれば、紙幣を発行した国がどれだけの金を支払準備として所有しているかが、問題となる。変動相場制であれば、基軸通貨をどれだけ支払準備として所有しているかが重要となるのである。
 為替の問題、ひいては、貨幣性での根幹は、この支払準備、言い換えると決済の仕組みに要約されるのである。

 貨幣は、決済のための道具であり、支払のための準備である。
 そして、貨幣は、支払準備だからこそ価値を持つ。支払のための準備であるから、支払のための保証が必要である。
 即ち、貨幣は何を担保としているかである。金を担保としているのが金本位制である。また、不換紙幣の発行とは、国家の信用、支払い能力を担保して発行されるのである。国家の信用を裏付けているのが土地と言った国の資産や徴税権、そして、国が発行する債券、国債である。

 金本位制度というのは、政府が所有する金を担保に借金をしているのと同じような事である。
 担保するという観点からすると担保する物は何も金とはかぎらない。土地でもいいのである。

 金本位制の成立要件は、第一に、金の自由鍛造、第二に、金の自由熔解、第三に、金の自由輸出入、第四に、金の自由兌換、地金と金貨と銀行券が等価関係におかれる。(「黄金の世界史」増田義郎著 講談社学術文庫)

 金本位制度からすると金が大量に国外に流出すると貨幣の信認が失われる危険性が生じるのである。

 金為替本位制度というのは、本来、金を担保として紙幣を流通させる事によって成り立っている。金はあくまでも支払準備であり、象徴的な量でなければならない。
 通貨圏間の決済は、基軸通貨に基づくことを前提とする事で維持される。
 基軸通貨は、ある程度の金を準備しておくことを暗黙的に前提とされる。
 金の準備高は、国力を象徴することにもなり、基軸通貨の基軸通貨としての裏付けでもある。国家間の力関係が微妙な影響を働かせる。
 その為に、時として覇権争いの道具として金が使われることになる。
 1971年のニクソンショックとは、覇権争いの末にアメリカが、準備金を維持しきれなくなり、アメリカドルと金との交換の停止を宣言したことを言うのである。ニクソンショックによって為替はそれまでの固定相場制から変動相場制へと移行した。

 変動相場制というのは、国家の信用で資金を融通しあっているようなものである。金本位制と変動相場制は、貨幣に対する根本的な思想が違うのである。

 変動為替制度と金本位制の決定的な違いは、決済のための支払準備にある。金本位制度では、支払準備は金である。それに対し、変動為替相場制度では、支払準備は、何等かの国際通貨、基軸通貨である。基軸通貨によって場合、基軸通貨国は、国際市場に自国の通貨を供給し続けなければならなくなる。これは、金本位制度下における行動とは、正反対の行動を基軸通貨国に求めることとなる。

 通貨圏間の決済は、外貨準備に依って為される。通貨圏の取引に用いられる基軸通貨も貨幣の信用を裏付ける重要な要素である。故に、通貨間に於いては、外貨準備が担保される場合がある。

 金本位のように実物貨幣の場合は、金をもって通貨間の決済に使用する事が可能である。しかし、変動相場制度では金を決済に使うことはできない。金の変わりに基軸通貨や国際決済貨幣が用いられるのである。

 基軸通貨国は、お金を輸出して物を輸入する。この事は基軸通貨国にはシニョレッジが発生していることを意味している。そのシニョレッジを国際経済にどの様な還元するかが、基軸通貨国の責務でもある。基軸通貨国がその責務を果たせなくなった時、基軸通貨体制は瓦解する。

 国際通貨制度というのは、複数の自立した通貨制度が存在することが前提となる。通貨制度とというのは、一つの貨幣価値の尺度を基礎として成り立っている。個々、独立した基準をどの様に整合性を持たせるのかの問題である。
 一つの考え方は、任意に一つの貨幣基準を選んで、それを基軸とする仕組みである。又、任意に複数の基準を選んで、その平均に基ずく仕組みである。或いは、決済調整専用の貨幣を用いる仕組み、貨幣その物を一つの基準に統合してしまう仕組み。統一的貨幣を任意に設ける仕組み。二国間で、調節する仕組み等がある。

 為替の対応関係は、一対一、一対多、多対一、多対多の対応関係である。

 為替制度には、基軸通貨制度、通貨ブロック、通貨バスケット制度、決済通貨制度、統一通貨制度、通貨統合等がある。
 統一通貨とは、国内の通貨の別に統一通貨を定め、統一通貨と国内の通過をリンクさせる制度である。

 外部から物を調達する為には、調達する物の価値と同量の価値の物を交換する為に用意しなければならない。物を貨幣に変えても同様である。

 経常収支と資本収支は、表裏の関係にある。

 しかも、経常取引や資本取引は、為替相場、即ち、通貨の価値に直接影響を及ぼす。その点を充分に考慮しないと経常収支や資本収支の働きを理解することは難しい。
 つまり、基軸通貨を国際市場に供給するためには、基軸通貨を他国に両替する必要が生じる。両替と言う事は視点を変えて言うと基軸通貨は他国に売ることを意味する。それは基軸通貨安を誘う要因になるのである。基軸通貨を大量に供給することは、基軸通貨の価値を低下することになり、低下した部分を補うために、更に、市場に基軸通貨を供給しなければならないと言う悪循環に陥る危険性があるのである。
 それが経常収支や資本収支に跳ね返り、基軸通貨国の経済や財政を慢性的に悪化させる事が充分に予測されるのである。

 基軸通貨国は、貿易相手国と対を為す関係にある。基軸通貨国が貿易黒字の場合は、資本を輸出することによって相手国に基軸通貨を供給する必要があり、基軸通貨国が貿易赤字の時は、相手国から資本を輸入して、基軸通貨を回収する必要がある。
 この循環が上手く機能しなくなると基軸通貨国も相手国も苦境に陥ることになる。

 経常赤字が累積すれば基軸通貨の価値の下落に繋がり、外貨準備高の実質価値が縮小するという悪循環に落ち込む。

 留意しなければならないのは、貨幣は、絶対的基準ではなく、相対的基準だという点である。

 貨幣価値は、貨幣価値の信認によって保たれる。貨幣価値の信認は、貨幣価値の品位によるのである。貨幣の限界や制約の存在を認め、前提条件を設定する事で貨幣の品位が保たれるのである。

 複数の通貨圏が存在する。言い換えると複数の貨幣制度が存在する理由の一つは、貨幣価値が相対的基準だという点がある。
 貨幣価値の単位は、一メートルとか、一リットル、一分と言った何等かの物理的実在に基準を於くことができない。
 かつては、金と貨幣価値とを結び付けて貨幣価値の絶対化を計ったが、結局、失敗した。なぜならば、金には、金という物のとして価値があり、貨幣基準とは別の交換価値、実質的価値を持っているために、貨幣価値、名目的価値が二重構造になってしまうからである。金本位とした場合、金の価格の変動の影響を受ける。
 貨幣単位が相対的な量になるのは、経済的価値が、財の生産量や需要量と言った有限で変動する相対的な量を対象としているからである。貨幣価値は、市場に供給される財の量と需要量によって決まる相対的な価値なのである。

 変動相場制度というのは、複数の貨幣制度の均衡によって成り立つ制度だとも言える。一つの絶対的な基準が存在しない以上、複数の基準の相互牽制によって貨幣価値全体の調和を保つ仕組みが変動為替制度なのである。

 国際通貨制度には、本位制度、国際決済通貨制度、単一基軸通貨制度、複数基軸通貨制度、無基軸通貨制度、単一通貨制度などがある。


       

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